2007年3月アーカイブ

さざ浪や志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな


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 千載集では読み人知らずとされているが、平清盛の末弟、薩摩守忠度が作者。平家物語の「忠度都落」はあまりに有名。

 忠度は一ノ谷の戦いに向う途上、藤原俊成宅に立ち寄り自らの歌集を委ね、「勅撰和歌集を編纂する際に一つでいいから載せてほしい」と嘆願した。

 忠度は父忠盛が熊野別当の娘に産ませた子で18歳まで熊野で過ごした。鄙で育ったのに文才があった。平安時代の末期は宮廷を中心に熊野信 仰がもっとも盛んで、舎人や采女に熊野の人が多かったはず。忠度はそんな采女の一人を母としたから熊野で過ごしたとしても教養という面で都人に劣ることは なかったと思われる。

 志賀とどういうかかわりがあったか知らないが、「ながら」は「長等」にかけたもの。熊野検校を三井寺の長吏が兼任していたため、後白河法王、平家、熊野、三井寺の連想から辞世に大津、長等山の桜をうたったのだろうと想像している。

 大津は天智天皇が即位した地。日本書紀によれば、景行、成務、仲哀の三代の天皇も高穴穂宮に都した。筆者の初任地でもあり思い出深く、比叡の稜線が琵琶 湖に落ち込む眺めを日々楽しんだ。春、桜の季節は朝もやが湖面をうっすらと覆い、やがてさざなみがにぶくきらめく。なんとも気だるく長閑な時が流れる。

 松尾芭蕉はしばし庵を結んで「行く春を近江の人を惜しみけり」とひねった。近江の春は実にいい時間が流れる。忠度もそんな春を楽しんだに違いない。(平成の花咲爺)

古への奈良の都の八重桜 きょう九重に匂ほえるかな


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 歌の意味の解説は不要であろう。藤原道長が権勢を誇った時代。一条天皇の元へ奈良から八重桜が届いた。そこに居合わせた伊勢大輔に「その花を題にて歌よめ」と請われて詠み、「万人感動、宮中鼓動」(袋草子)したと伝えられている。

 平安京の遷都(794年)からすでに200年を経ているから「古へ」なのだが、旧都への郷愁がまだ人々の間にあったのだろう。当時は「奈良の八重桜」と いえば興福寺の東円堂の前の桜と相場が決まっていた。見たことがなくともあのうわさに聞いた「八重桜」のことかと宮廷人は「よき古へ」への思いを一にした に違いない。

 この話とは別に、「沙石集」という本に興味深い話が載っているそうだ。『櫻史』(山田孝雄)によれば、興福寺の東円堂の八重桜がきれいだと聞いたある后 が「掘って持って来い」と興福寺の別当に命じた。それを見つけた「大衆の某』が「后の命令だからといってこれほどの名木を献上してよいものか。もののあわ れを解さないことおびただしい」と別当に食って掛かり、人々を集めて阻止させた。命を張って名木の移植に反対した人々が奈良にいることを知ったこの后はま た「奈良にはなかなか風雅を愛する人々がいる」といって感嘆したのだそうだ。

 伊勢大輔は藤原彰子(上東門院)に仕えた。大中臣輔親(おおなかとみのすけちか)の子で、父輔親が伊勢神宮の祭主・神祇大輔(じんぎたいふ)だったことからこの名で呼ばれるのだそうだ。(平成の花咲爺)

願はくは花の下にて春死なん  その如月の望月のころ


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 百人一首では「嘆けとて月やはものを思はする かこち顔なるわが涙かな」の歌で知られ、坊主めくりでおなじみの西行法師である。

 まだ桜の開花を待っている時期に吉野のことを書くのははばかれる。しかし、桜の名所として吉野ほど著名なところはない。全山が桜におおわれ、すそ野から千本桜まで時間を追って咲き乱れるのである。

 西行はその吉野に3年間、庵を結んでいた時にこの歌をうたったとされる。桜をこよなく愛した歌人の一人で、桜花爛漫の時期に死にたいと願った。この歌は 60歳ごろの作とされるが、不思議なことに73歳の如月(2月)望月(15日)の翌日、最期の隠遁地、南河内の弘川寺でなくなった。


 史上最も桜を愛した歌人のひとりでもあった。出家する前の俗名は佐藤 義清(さとう・のりきよ)。鳥羽院の北面の武士として仕えていたが、ならぬ恋がゆえに出家、和歌を携えて全国を行脚した。たぶん旅を文学に高めた最初の日本人だったのだろうと思う。

 紀貫之の『土佐日記』があるといわれれば、そうだが貫之は土佐国への赴任の途上を日記にしたためただけ。西行の歩いた距離とは桁が違う。在原業平の『伊 勢日記』は自身が本当に吾妻まで旅したか疑わしいのだ。連歌の宗祇や俳句の芭蕉も旅を生活にした点で、西行の生き方をまねたのだろう。

 我輩も旅を枕に風雅に生きたいが、西行の真似はできそうにない。(平成の花咲爺)

もろともにあはれと思へ山桜 花よりほかに知る人もなし


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 時代は平安後期、場所は大峯山。大自然と対峙する日々、まだ春は浅く寒さもあったろう。単身、修行中に出会った山桜にいとおしさを感じ、一本の山桜に語りかけた。

「山桜よ、私がそなたを愛しく思うのと一緒に、そなたも私を思っておくれ。今の私にはそなたよりほかには、私を知っているものもないのだから。」

 作者は行尊(ぎょうそん。1055~1135)。並みの修験僧ではない。三条天皇のひ孫で、父親は源基平。そう、源氏の姓は清和天皇以外にも多くの天皇 を祖にいただく。行尊は幼くして父を亡くし、園城寺(三井寺)で出家。大峯、葛城、熊野などの各地で修験道の修行に励み、晩年に園城寺の長吏そして天台座 主にまで上り詰めた。平安時代の天台の高僧のイメージは定まらないが、行尊のイメージは極限まで自己を追い詰める苦行僧である。そんな行尊が修行の合間に 山桜に語りかける口調はなんともやさしげだ。

 当時、熊野本宮、那智大社、速玉大社の熊野信仰があったが、まだ修験道者を中心の信仰で一般人の立ち寄る場所ではなかった。その修験道の世界に白河上皇 を連れて行ったのが、行尊の師だった増誉である。増誉は熊野案内の先達(せんだつ、道案内人)を務め、その功績により、熊野をつかさどるトップ役である検 校(けんぎょう)となった。

 増誉が上皇の先達を勤めたのは一回かぎりで、その役割は二代目検校となった行尊に引き継がれた。庶民による熊野詣が盛んになったのは鎌倉から室町期にか けてで、「アリの熊野詣」といわれるほど貴賎を問わず大勢の人々が熊野に押し寄せることになった。この熊野詣ブームの先鞭をつけたのがまさに行尊だった。 覚えておいてほしい名前である。(平成の花咲爺)

花さそふ嵐の庭の雪ならで
    ふりゆくものは我が身なりけり
 小倉百人一首でおなじみの一首。作者、入道前太政大臣は藤原公経のこと。鎌倉時代前期の公家である。頼朝の妹の娘を妻としたことから、幕府と親しく、外孫にあたる藤原頼経を実朝の後の将軍後継者とした。


 10年前、京都に住んでいたころ、金閣寺(鹿苑寺)は足利義満が北山にあった西園寺の跡地に建築されたと聞いたことがある。西園寺って寺名だったのだと いうことを始めて知った。平安時代はほとんどの貴族が藤原姓を名乗っていた。お互いを呼ぶ時に住まいの名で呼び合い、やがてそれが苗字のようになった。近 衛や九条、三条らの姓(かばね)も藤原である。

 幕府方の権威を楯に太政大臣にまで昇りつめ、権勢をほしいままにした公経は晩年、仏門に入って入道となり、西園寺を建立して住まいし、西園寺を名乗るようになったといわれる。

 いまの金閣寺のあたりは北山のすそ野である。西大路の北詰の西側だから、平安京の区画を外れ、鄙びていたに違いない。たぶん、その広大な庭園に桜の木を たくさん植えて楽しんだのだろう。しかし、その公経も老いには勝てなかった。「ふりゆく」は「降る」に「古(ふ)り」を重ねたもので、降りしきる花嵐に老 いゆくわが身を嘆いたのである。(平成の花咲爺)

青丹によし奈良の都のさく花の にほふが如く今盛りなりけり

 先週の気象庁の桜の開花予想で今年の開花は例年以上に早くなるとされた。
「このままでは3月中旬にも花が咲いて4月までもたないかもしれない」

 そんな不安の声も聞かれた。旧暦でいえば、桜の季節は三月弥生である。桜は四月というイメージが定着したのは新暦になってからのはずだ。 それにしても日本列島が桜、桜と騒がしくなったのはいつからなのか。ソメイヨシノという現在の桜の代表的品種が開発されたのが江戸期だとされているから、 たぶん江戸時代になってのことだろう。

 そもそも万葉集で「花」といえば梅のことだったようで、桜より梅をうたった歌の方が圧倒的に多いのだそうだ。そんななかで奈良の満開の桜をうたった代表 作が「青丹よし」である。作者は小野老(おののおい)。朝廷の役人で大宰府に赴任、歓迎会で奈良の都を思い出してうたった。神亀五年(728年)のころと されるから、聖武天皇が即位間もないころ。興福寺はあったが、東大寺はまだ建立されていない。

「青丹よし」は奈良の枕詞だが、青は緑に通じ、丹は朱色のこと。壮麗な都の建築物を想像させるが、どれほど奈良の地が整備されていたか分からない。

 今や奈良盆地は見る影もなく俗化されているが、それでも二月堂から眼下に広がる緑と東大寺の堂宇の眺めは悪くない。緑の中に朱塗りの宮殿と堂宇が点在する風景こそが筆者にとっての「青丹によし」なのだ(平成の花咲爺)

世の中にたえてさくらのなかりせば はるの心はのどけからまし


 47NEWSとして「桜だより」を始めようとした時、「桜は日本人の心だ」といったら、反論があった。「そうか。この時期に心が浮き立たない日本人もいるのだ」と考えさせられた。

 さはさりながら、「桜だより」の編集者はその心浮き立つ日本人の一人。この時期にせっかく「桜だより」を始めるのだから、桜について学びながら併せて「桜のうんちく」を書きたくなった。桜といえば思い立つのは日本人のうたごころである。

 桜といえば西行や本居宣長が有名であるが、この浮き立つ日本人の心を和歌に託したのは、ご存知、平安のプレーボーイとして浮名をはせた在原業平である。 六歌仙の一人で伊勢物語の主人公兼作者といわれている。平安初期の歌人であるから1100年以上も前に日本人-当時はそんな概念があったかどうか分からな いが-の心を読み、ずっと日本人の心をとらえてきたのだからすごいことではないか。

『伊勢物語』を一度でも読んだ方は、この物語がなぜ「伊勢」と呼ばれるのか疑問に思ったはずだ。読み出しても一向に伊勢にまつわる話は出てこない。そのうち伊勢斎宮の恬子内親王との禁じられた恋の物語が出てきてようやく納得する。

 斎宮は伊勢の神さまにささげられた皇女。天武朝に始まったとされ南北朝の時代に終わった。一生を神さまに尽くす身であるから恋などをしてはならない。ま して男の方から恋するなど大胆にもほどがある。業平にかかわらずこの時代の宮廷人たちは恋に自由だった。桜が咲き舞い散るこの季節は恋心ももっとも盛ん だったのだろう。うらやましく勝手に想像している。(平成の花咲爺)

さざ浪や志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな


 千載集では読み人知らずとされているが、平清盛の末弟、薩摩守忠度が作者。平家物語の「忠度都落」はあまりに有名。

 忠度は一ノ谷の戦いに向う途上、藤原俊成宅に立ち寄り自らの歌集を委ね、「勅撰和歌集を編纂する際に一つでいいから載せてほしい」と嘆願した。

 忠度は父忠盛が熊野別当の娘に産ませた子で18歳まで熊野で過ごした。鄙で育ったのに文才があった。平安時代の末期は宮廷を中心に熊野信 仰がもっとも盛んで、舎人や采女に熊野の人が多かったはず。忠度はそんな采女の一人を母としたから熊野で過ごしたとしても教養という面で都人に劣ることは なかったと思われる。

 志賀とどういうかかわりがあったか知らないが、「ながら」は「長等」にかけたもの。熊野検校を三井寺の長吏が兼任していたため、後白河法王、平家、熊野、三井寺の連想から辞世に大津、長等山の桜をうたったのだろうと想像している。

 大津は天智天皇が即位した地。日本書紀によれば、景行、成務、仲哀の三代の天皇も高穴穂宮に都した。筆者の初任地でもあり思い出深く、比叡の稜線が琵琶 湖に落ち込む眺めを日々楽しんだ。春、桜の季節は朝もやが湖面をうっすらと覆い、やがてさざなみがにぶくきらめく。なんとも気だるく長閑な時が流れる。

 松尾芭蕉はしばし庵を結んで「行く春を近江の人を惜しみけり」とひねった。近江の春は実にいい時間が流れる。忠度もそんな春を楽しんだに違いない。(平成の花咲爺)

2007年03月29日(木)
Nakano Associates シンクタンカー 中野 有
  アル・ゴア元副大統領が、キャピタルヒルの上院、下院の両方で地球環境問題に関する証言を行なった。公聴会の会場は、長蛇の行列と異常な熱気に包まれ、 「キョウト」という地球環境のキーワードが頻繁に発せられたと聞いた。ゴア氏の人気は、オスカー賞を受賞した「不都合な真実」の影響のみならず、7年前の 大統領選でブッシュ大統領に負けた後の地球益を求める行動への尊敬と次期大統領選への期待にあるように考えられる。

 地球環境のために、具体的にどんな活動が可能だろうかと考えていた時に、チェコの大統領の講演から実に大切な地球環境のための身近なヒントを得ることができた。

 これはチェコのクラウス大統領がワシントンのシンクタンク(CATO)で講演された時のひとコマである。

 日本は森林と澄みきった湧き水に恵まれた実に美しい国であると、来日された時の感想を述べられた。たぶん日本人が一人もいない会場で、安倍総理が喜ばれ るフレーズだろうと思いながら、またワシントンでわざわざ遠い日本のことを話されるとは、相当、日本をお気に召されたのだろうと耳を傾けていた。

 続いて、九州で温泉に入って感動された話をされ、その後、フランス産のミネラルウォーターが出てきたのには驚いたと。こんなに水資源に恵まれている日本 人がはるばるフランスから輸送されてきたミネラルウォーターを飲んでいることが、輸送費、エネルギーの消費を考えると、これこそ環境破壊だという話であっ た 。会場は、この話に湧いた。

 単純に物流を考えただけでも、フランスから、ヨーロッパ大陸、大西洋、喜望峰、インド洋、太平洋とはるばる日本に入ってくるミネラルウォーターの付加価 値は非常に高くなる。生産、販売を加えると、如何に無駄なコストとエネルギーを費やしているのであろうか。世界で最も水資源に恵まれた日本の新鮮な水を飲 まずに、フランスのブランドに惹かれ新鮮とは言えない水を飲み、それを地球環境問題と意識しなかったことに問題があるように思う。

 地球環境問題のキーワードは、地球温暖化、砂漠化、酸性雨、オゾン層の破壊、熱帯雨林の破壊、生物多様性の減少などが浮かぶ。そして、地球環境問題の解 決には、化石燃料から太陽熱、風力、エタノールなど代替エネルギーへの転換、ハイブレッドなど技術革新、クールビズなど服装の改革、国家や企業の二酸化炭 素削減の努力、個人による電気の節約などが考えられる。

チェコ大統領のミネラルウォーターの指摘は、意外と地球環境問題を考慮する上の死角になっていたように思う。身近にあるものを有効に活用する。これこそ地球に優しい活動だろうと思う。

 地球環境問題を複雑に考えるより、実にシンプルに日本の新鮮な水を飲み、地元の畑や山でできた旬の野菜や果物を食べ、田んぼでできたお米を食べ、川や海 で獲れた新鮮な魚を食べる。この先人が行なってきたことを忠実に守ることが、地球環境問題にとって最も賢明な生活習慣だと考えられる。

 京都議定書の「キョウト」という英語は、ワシントンで頻繁に語られている。キョウト、イコール、地球環境問題にも繋がる。1月にスイスで開催されたダボ ス会議でも地球環境問題が大いに語られた。アル・ゴア氏もオスカー賞を獲得した。加えて、ノーベル平和賞への期待も高まっている。ドイツで開催される今年 の先進国首脳サミットは、地球環境問題が重要議題である。このような流れの中で、来年のサミットは日本の番である。国際舞台で 難しいことを語るより、今、日本が地球に伝えるべきメッセージは、先人が教えてくれた地元で出来た季節のものを自然の恵みとして感謝して頂くということだ ろう。

なかの たもつ (ワシントンと京都を拠点とするシンクタンカー、専門は北東アジア研究、国連職員、米国立イースト・ウエスト・センター、ブルッキングス研究所などに勤務)

 中野さんにメール nakanoassociate@yahoo.co.jp
2007年03月28日(水)
Nakano Associates シンクタンカー 中野 有
  来年の主要国首脳会議(サミット)は、日本で開催される。誘致合戦に伴う日本の報道、とりわけ京都府の山田知事の「関西誘致は厳しい状況になっている」と のコメントに接し、コラムを発信したくなった。筆者が京都出身だから京都や関西サミットの誘致に期待するという、そんな小さな問題でなく、世界のため に日本が、そして京都が今日ほど地球世界に明確なメッセージを伝える機会がないと考えるからである。

 先日、アル・ゴア元副大統領がキャピタルヒルの上院と下院の公聴会で地球環境問題についての証言を行なった。ゴア氏がオスカー賞を受賞した事、ノーベル 平和賞への有力候補、そして次期大統領への期待感からキャピタルヒルは、大変な熱気に包まれた。ゴア氏は、公聴会にて「キョウト」という今や地球環境問 題のキーワードを何回も発したのである。ブッシュ大統領も頻繁に使う「キョウト」という響きは今や、歴史文化の京都のみならず、地球環境問題の「キョウ ト」という世界が共有するインパクトのある響きになっている。

 1975年にフランスのジスカール・デスタン大統領の音頭でパリ郊外のランブリエ城にて最初のG7サミットが開催された。毎年、フランス、アメリカ、イ ギリス、ドイツ、日本、イタリア、カナダの順で西側主要国の首脳が、経済問題のみならずグローバルな問題を討議している。1998年よりロシアが入りG8 サミットとなった。

 今年のドイツのサミットに続き、来年の34回目のサミットは、日本で開催される。日本では東京で3回、沖縄で1回開催されている。来年のサミットに向 け、サミットの経済効果などの期待から日本各地で誘致合戦が激しくなっている。現在、関西、横浜、新潟、瀬戸内海、北海道が有力候補地として挙げられてい る。治安の問題などを考慮すると北海道の洞爺湖サミットが有力との報道もなされている。

 このような最近の報道に接し、筆者は、如何に京都でサミットを開催することが重要であるかを問うてみたく思う。

 1.地球環境問題の京都

 今年のドイツでのサミットの主要議題は、気候変動対策、すなわち地球環境問題である。まるで、来年に向けた京都サミットへのメッセージである。前述した ようにブッシュ大統領もゴア元副大統領も地球環境問題のメッカとして京都を捉えている。

 2.京都が持つ文化のソフトパワー

 G8サミットで日本は唯一のアジアの代表国である。中国は、上海協力機構などを通じ、経済面のみならず外交、安全保障の面でも米国に並ぶ主要国になりつ つある。ゴールドマンサックスやドイツ銀行によるとBRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)の経済力は数年後には、西側に並び、約 20年後にはBRICsの経済力は、西側の倍になるとの信じられない予測がなされている。韓国は、国連事務総長の地位を確保し、国連の多国間外交の舞台で 力を発揮している。

 相対的に西側の経済、外交、軍事パワーが弱くなり、中国、ロシア、インドの旧共産国、社会主義国の勢力が増強される中、日本の非軍事、すなわち文化のソ フトパワーが重要な役割を担うと考えられる。日本はG8の唯一のアジアの代表としてアジアの意思を地球世界に伝達すべきであり、その適役が京都であ ると考察する。

 第1回のパリのランブイエ城で開催されたサミットでは、首脳たちが暖炉を囲み議論を行なった。京都の祇園や先斗町で舞妓さんを入れ、世界の首脳が京都盆 地のしなやかなソフトパワーが醸し出される雰囲気の中で、地球環境問題のみならず国際テロ、核兵器等の問題が議論されることで日本の 外交力が発揮できると考えられる。

 3.日本をアピールする

 先日、ワシントンのウッドロー・ウィルソンセンターにて冷戦の終焉に関しレーガン、ゴルバチョフ、中国の視点でのシンポジウムが開催された。米国はソビ エトに勝利し、冷戦が終わったが、日本は百年以上前にロシアのバルティック艦隊を破っているのである。その後、日本を中心とする大東亜共栄圏の構築 に動いたが、2度の原爆の洗礼を受け、平和国家になった。冷戦中は米ソの双方で5万発の核兵器が製造されたが、広島と長崎の悲惨な経験が生かされ奇跡的に 核戦争が回避されてきた。終戦直前に米国が原爆の標的委員会を設立し、数回の会合を経て最終的に京都への原爆投下が決定された。しかし、京都を良く知るグ レー大使やスティムソン陸軍長官が、トルーマン大統領 に進言し、京都は原爆投下から免れたという歴史的経緯がある。

 京都を救った人物 ヘンリー・スティムソン
 http://www.yorozubp.com/0603/060313.htm 

 広島と長崎は原爆の犠牲になり申し訳ないのだが、原爆投下から救われた京都は、京都の持つ平和のソフトパワーを世界に発信する使命を有しているように考えられる。

 中国の経済、外交、安全保障のパワーを通じたアジア、そして世界の中心的存在、そして韓国の国連外交の成果を鑑みると、日本のソフトパワーを十分に発揮 できる可能性が高い京都は、来年のG8サミットの開催地として最も相応しいと考察される。横浜、新潟、北海道、瀬戸内とそれぞれ魅力的な候補地が挙 がっているが、今ほど日本が国益のみならず地球益のために貢献するに京都がG8サミット開催に相応しいと思われることはないと考察する。

 なかの たもつ (ワシントンと京都を拠点とするシンクタンカー、専門は北東アジア研究、国連職員、米国立イースト・ウエスト・センター、ブルッキングス研究所などに勤務)
 中野有 web site http://mews.halfmoon.jp/nakano/
 中野さんにメール nakanoassociate@yahoo.co.jp

 三月の週末、中年男三人が山形・上山温泉で遊んだ。行く先の山形県は決まっていたが、格安パックの申し込みが遅れ、山形県では「かみのやま温泉」のあずま屋しか残っていなかった。そんな場当たり的な旅もけっこう楽しかった。

 上山市は城下町とはいえ、江戸時代は三万石足らずの山間の藩。町には温泉以外に見るべきものはない。江戸時代の初期、大徳寺の沢庵和尚が住んだという 「春雨庵」があるのみ。歴史に詳しいとはいえない三人の湯浴み客は二日目、その春雨庵を訪れ、茶室で中年の女主人にお茶をたててもらいながら、沢庵和尚の うんちくを聞くこととなった。

 古風な茶室にはいくつもの門をくぐらないと入れない。二人は障子を開けて茶室に入ったが、前夜、宿で浴衣の特大を注文した巨漢は頭をぶつけながら無理やりにじり口から入ろうとした。「頭が高い」のである。

 大徳寺といえば茶道を通じて戦国時代に権勢を誇った京都の名刹。僧侶は朝廷から紫衣の着用を許されてきたのに、徳川政権は「まかりならぬ」という禁中並 公家諸法度を出した。それに反発したのが沢庵和尚らだった。「紫衣事件」というらしい。結果、沢庵和尚は土岐頼行が藩主だった出羽国上山に流された。

 文字にすれば、それがどうしたとなるが、狭い茶室で拝聴する日本の歴史は含蓄に富む。三人は「ほほー」とうなずくばかりだった。

 話は明智光秀にまで及んだ。
「本能寺の変の直前に愛宕神社で開いた歌会で光秀がうたった『時は今、雨が下しる五月哉』という歌をご存知ですか」
「.........」
「時は土岐に通じます。実は光秀は岐阜の土岐氏の出でした。雨は天(あめ)です。土岐である光秀が天下を取ると暗にうたったのだと後世いわれるようになったのです」
「.........」
「光秀は天下取りには失敗しましたが、本能寺の変がなければ秀吉の天下も家康の全国平定もなかった。そういう意味で徳川は土岐氏を大切にします。沢庵和尚がこの地に配流されたのは土岐氏に預けておけば間違いないということだったのでしょう」


 まだ二十二歳だった上山藩主の土岐頼行は流されてきた沢庵和尚を大切にし、藩政の助言を得て領民に慕われる名君となった。三年後、徳川秀忠が世を去り、 沢庵和尚は放免となった。幕府は放免としただけではない。やがて沢庵和尚の名声を聞いた三代将軍家光は江戸に呼んで召し抱えた。

 上山で領民に伝えた冬の保存食としての大根の漬け物を家光に献上したところ「これはうまい」と喜び、「タクアン漬け」と呼ぶことになったそうだ。名付け 親は家光である。沢庵和尚の郷里の出石(兵庫県)では「たくわえ漬け」と呼んでいたそうだ。もちろん異説もあろうが、これは松平の血をひく女主人の話であ る。

 沢庵和尚が配流とならなかったら、家光に召し抱えられることもなかっただろうし、タクアンの名も人口に膾炙されることもなかったと考えればおもしろい。

 茶席が終わるころ春雨が小ぶりの雨にかわり、三人は傘を広げて庵を辞した。
 誰かが「あー、僕も配流されてみたい」とつぶやいた。
 徳島賢人は「春の雨、禅師の庵のお薄かな」と一句詠んだ。
 巨漢はただ満足そうだった。
 春雨の中での一期一会だった。

 (紫竹庵人)

2007年03月22日(木)
京都葵の会世話人 吉田和弘
  私の生まれ育った処は、加茂川の上流あたり、三方を山に囲まれた風光明媚な土地です。子供の頃にはいたる所に田畑も見られ、農閑期には畑でボール遊びや凧 揚げ、雪が降ると鎌倉を作った覚えも有ります。夏になると加茂川や上賀茂神社〔賀茂別雷神社〕へも母に連れられよく行きました。神社の境内の「ならの小 川」と呼ばれる辺りでは5、6歳位まで水遊びをしていた記憶が在り、母も風情が有ったものだと今に成って感謝しています。

 今も朝早く目が覚めると、加茂川から上賀茂神社へと散歩に出かけます、境内では早朝より神職さま達が国旗を掲揚され、清掃やご奉仕に励まれるのを拝見し本殿から順々に参ります、そしてならの小川では覆いかぶさる様な木々からは「気」をいただきます。

 上賀茂神社では毎朝、1300年以上絶える事無く、五穀豊穣、世界平和のご祈祷がされていると聞きます。「風そよぐ ならの小川の夕暮れは みそぎぞ 夏のしるしなりける」。今も境内ではその昔あった夏の日を思い浮かべ、当時と変わらぬ時を感じる事が出来ます。

 私は縁あって15年程前より二葉葵を育てて来ました。春先には冬の間眠っていた葵がいっきに新芽を出し始め、驚くような力強さでハート型の葉が開いてきます。春には葉の下に隠れるようにピンク色の釣鐘型の花を咲かせます。この喜びは言葉では言い表せない程です。

 2005年秋に上賀茂神社の田中安比呂宮司様と出会い、神社の歴史、神様が降りられた「岩倉」と言う名の岩のお話、桂の小枝に葵を幾重にも編み合わせた 蔓を奉り神様をお迎えしたお話等沢山のお話をうかがいました、その中で葵は、「あふひ」と書かれ「神様に出会える日」と聞きました。葵は昔、神社周辺でも ごく普通に生えていた植物だったのが今では、中々自生しにくく成って来ていると聞き私達の手で50年、100年先を思い森や緑を復活する事が出来ればと考 えるように成りました。

 明治神宮では建設当初、100年先の境内の環境を考え植樹されたと聞きます。アメリカのワシントンでは100年前に贈られた日本からの桜が町のいたるところで咲くと聞きます。

 叶うなら私達の手で上賀茂神社の二葉葵が、日本中の家庭や職場、学校、団体、地域へと、平和と自然の恵みの大切さのメッセージとして広めて行きたいと考 えます。そして世界中の人々にも思いを届けられれば私達の子孫の時代には、世界中が平和で、山蒼く、水清らかで、心豊かな人々で溢れるように成っている事 と願ってこの運動を創めました。どうかご理解を頂きご協力下されば幸いと考えます。

 二葉葵の里親と株分けのお願い

 京都の葵祭〔賀茂祭〕は1500年の歴史のある日本三勅祭の一つです。祭事にはアオイとカツラのかずら〔蔓〕を装って祭儀を行なったのが始まりと聞きます。

 例年5月15日に総勢500名の祭列の巡行が5時間程掛けて、御所―下鴨神社―上賀茂神社へと歩く厳かな祭りです。この時期に神社へ行くと立派な幾重にも編まれた蔓が奉納されているのを拝見出来ます。

 祭りには約7500株の葵が使われると聞きますが、昔は、京都市内の至るところで普通に葵が自生していたものが近年、北区 左京区の市街地でも見かける ことが出来なくなって来ました、これは住宅環境の変化や地球温暖化が、永い年月を生き延びた二葉葵の育つ環境を奪ってしまったのではと考えます。

 私は二葉葵が好きで長年育てて居ましたので、この春より「二葉葵の里親と株分け」について上賀茂神社〔賀茂別雷神社〕の田中安比呂宮司さまとご相談し、心ある方々にご協力戴き上賀茂神社の〔葵の森〕の復活の手助けができればと考え、提案させていただきました。

 二葉葵を育てていただける方が在れば、ご紹介下さい。個人、職場、学校、団体等ご理解いただける方ならどなたでもご参加下さい。

 春から秋の間に葵を1株分けて預かっていただきます〔直径25-30センチの鉢に移して下さい〕、翌年の春から初夏にかけて株は増えていますのでその幾 らかを神社に奉納いただき、残りの株の幾らかをご友人や心有る方々に1株お預け下さい。又その方も同じ要領で、翌年幾らかを神社に納め又ご友人等にも預け て下さい、直接神社に伺えない方はご紹介者に返していただき神社へ納めていただきますと、次々と葵の森の復活が進み、葵の輪、和が世界中に広がると考えま す。どうかご賛同いただきご協力をお願い致します。

 葵の森の復活には、都市や緑の整備、土や水、空気の美化、地球温暖化の防止等、色々の問題が山積みされていると考えます。痛ましい事件、事故が多く起こ る今、手を繋ぎ会う事で少しでも平和な世界が戻ると信じてこの「京都葵の会」を創りました。どなたでも参加いただけますのでどうぞ宜しくお願い致します。

 吉田さんにメール green72@hera.eonet.ne.jp
2007年03月21日(水)
萬晩報主宰 伴 武澄
 1.奇瑞自動車が2位

 1月の中国自動車販売で業界をわかせたのは、中国独自ブランドの奇瑞汽車が3万7207台と上海GMに次いで2位になったことである。中国の自動車販売 はずっと海外勢が上位を占めていて、独自開発車は海外勢の後塵を拝していた。旧正月前の駆け込み需要とはいえ、外資ばかりの自動車産業の中で"純国産車" が上位に食い込んだことは中国自動車市場が新たな発展段階に達したことの証であるのかもしれない。

 奇瑞は1997年、安徽省と蕪湖市政府の出資によって設立された新しい企業。外資に依存しない自動車づくりを目指している。100以上あるとされる中国自動車メーカーの中で早くから低価格帯の乗用車で一定の存在感を示していた。

 ただ独自ブランドとはいってもエンジンは三菱製を搭載、デザイン面でも「QQ」「東方之子」(イースター)がGM大宇車と酷似しているなど内外からの批 判も少なくない。GMからはデザイン盗用があると提訴されるなど経営姿勢も問われている。それにしても一昨年まで欄外、昨年7位だった奇瑞の躍進は目覚ま しいものがあり、大衆車「QQ]をクライスラーに供給するといった提携話も浮上している。

 もう一つのニュースは2006年の中国の自動車販売が日本を抜いて世界第二位の自動車市場に浮上したことである。

 2006年の生産、販売はそれぞれ727万台(30%増)、721万台(25%増)。うち乗用車は523万台(33%増)、517万台(30%増)だっ た。生産台数では日本が1100万台を上回っておりまだ差があるが、中国の生産台数はこのところ毎年30%前後の伸びを示しているため、このまま推移すれ ば数年内に生産台数でも世界2位の座を確保するのは間違いない。

 05年の販売は576万台で、日本の585万台に届かなかったが、06年日本の販売台数が約2%減の573万台だったから、一気に日本の1.3倍の販売市場にのし上がったことになる。700万台という水準はドイツとフランスの合計とほぼ同じ。

 中国の自動車産業はいまだに外資依存であることは確かだが、いずれアメリカを追い抜くことは間違いない。一部では2020年に1500万台という見通し も出ているが、この見通しはかなり過小評価的数値でしかない。いまは合弁という形で経営しているがいずれ民族資本化する時代もやってこよう。世界の大手 メーカーは今後、中国の産業政策に大いに振り回されることになりそうだ。

 2.中国の伝統的自動車産業

 中国の自動車産業は1956年、ソ連の支援で長春に立ち上げた第一汽車製造廠が先駆け、「解放」という名のトラックをつくり、やがて党幹部用の「紅旗」 が誕生した。上海汽車はソ連の中型セダンボルガをモデルにした「上海」を製造した。多くの都市で自動車が製造されたため、車名には「北京ジープ」など都市 名がつけられた。78年の改革開放まではほとんどモデルチェンジもなく、トラックを中心に年間10万台程度の生産が続いていた。

 改革開放前後の市場は大手は第一汽車、上海汽車、東風汽車(バス)、北京汽車(ジープ)の4社のほぼ寡占状態だった。日本との経済交流が始まり、幹部用の乗用車はクラウンとセドリックばかりとなった。市民の足としてタクシーさえ使われなかった時代である。

 80年代にはいると、外資導入のため外国人を迎える必要があり、自動車の需要が格段に広がった。ポンコツの上海に乗せるわけにはいかなかった。外国のお 客さまが市内を観光するのに大量のタクシーも必要となった。そんな時代に、1983年、AGMは北京でジープ生産を始め、ダイハツ(天津)とフォルクス ワーゲン(上海)が中国で自動車生産を開始した。主にタクシー向けの需要だった。幹部は相変わらずクラウンとセドリックを愛用していた。

 フォルクスワーゲンが上海に進出したのは1986年。アメリカにあった工場が地球を一周して日本の裏庭にやってきたとも、日産で製造していたサンタナの 中古ラインともいわれた。ダイハツは1000ccのシャレードという車を淡々とノックダウン製造していた。その後、シトロエン(武漢)やプジョー(広州) といったフランス勢も中国進出を果たした。

 3.三大三小二微政策

 94年7月に公布した自動車工業産業政策は中国の自動車産業を確立するため、外資に本格依存することを決めた。江沢民政権はGMやトヨタなど日米のトッ プ企業を排除して、ヨーロッパのメーカーに協力を仰ぐことになった。「大」は上海汽車、第一汽車とそれぞれに合弁を持っていたフォルクスワーゲンと東風汽 車-シトロエンという組み合わせ。「小」は北京ジープとAMC,広州-プジョー、天津汽車-ダイハツ。「微」は軽自動車で長安鈴木、貴州航天-富士重工。 日欧米の大手メーカーが血眼になって進出を競ったが、結果的に見ると既存の合弁会社を大中小の三段階に棲み分けさせただけだった。

 中国の経済政策はあるようでない。ないようであるのである。せっかく「三大三小二微」という棲み分けを決めたにもかかわらず、98年にはGMの中国進出 が認められた。江沢民総書記とクリントン前大統領の蜜月時代である。一方でプジョーが広州から撤退したため、ホンダが参入する余地が生まれた。

 トヨタは90年代前半から中国進出に意欲を示していたが、80年代後半に「中国にモータリゼーション時代がくるとは考えられない」という意味のことを 言って中国側の逆鱗に触れたが、ついにダイハツの提携先だった天津汽車との合弁にこぎ着けた。三大三小二微政策はもはや風前のともしび。中国自動車産業は いつの間にか全面的門戸開放が始まった。

 4.マイカーブーム

 2002年、中国の自動車生産は商用車を中心に300万台の大台に乗せた。しかし乗用車のタクシーに需要が限られていたため、ようやく100万台に達す る水準にとどまっていた。その乗用車が、その後の4年で5倍の500万台を超えたのだからすさまじい勢いと言わざるを得ない。誰も想像しえなかった中国の マイカーブームに火が付いたのである。トヨタ、日産、ホンダ、さらには韓国の現代も相次いで本格参入し、中国市場は世界の自動車メーカーが殺到する主戦場 となっている。

 中国における自動車販売の急拡大はまさに中国経済が消費部門に火が付いた証拠でもある。それまで静観していた民族資本が胎動してきた時期と重なる。現 在、中国には100社を超える自動車メーカーがある。主力は先に紹介した奇瑞汽車と吉利汽車(杭州市)。このところ相次いで新車をラインアップ、すでに途 上国市場に輸出も開始している。奇瑞の尹同耀董事長は1月23日、「中東、東欧、南米に組立工場を建設する方針」を明らかにした。2月1日、フィアットと 合弁の検討に入ったとも報道されている。

 中国の自動車企業は鼻息が荒い。今年に入って、第一汽車が身売り話が出ているクライスラーを買収するのではないかといううわさで持ちきりである。イギリ スのMGローバーは2005年、すでに南京自動車に買収されており、あながち単なる風評ともいえない。中国第一汽車集団を民間企業と思ってはならない。な にしろ国営企業であるから資金は潤沢である。
2007年03月19日(月)
Nakano Associates シンクタンカー 中野 有
  ゴールドマンサックスとドイツ銀行によると、2010年に、ブラジル、ロシア、インド、中国(頭文字をとりBRICs)の経済力がG7と並び、2025年 にはG7の倍になるとの信じられない予測がなされている。戦後、西側を中心に国際秩序が成り立ってきたが、この体制が崩壊しつつある。

 では、新国際秩序とは、どのような形態を意味するのであろうか。様々な要因があろうが、その中心は中国であり、中国の外交政策の変化が冷戦崩壊にも大きく影響したとの興味深い主張がある。

 冷戦の勝利を導いた勢力に関する分析が、ワシントンのシンクタンクであるウッドーロー・ウィルソンセンターのシンポジウムで討論された。レーガン、ゴルバチョフ、中国の3つの視点で発表がなされた。

 第一、米国の外交戦略が冷戦の勝利を導いたという見方

 レーガンは概して3つの戦略を巧みに駆使した。1)米国の軍事力、経済力が「悪の帝国」ソビエトに勝利するというハードパワーの理論、2)ソビエトとの 信頼醸成の構築とデタントによる核・ミサイルの軍縮交渉、3)ゴルバチョフとの個人の信頼関係を重要視する。

 第二、ソビエトの内部崩壊

 ゴルバチョフがソビエト共産主義体制への国民のフラストレーションをペレストロイカ(改革)、グラスノチス(情報公開)で具現化した。ゴルバチョフが冷 戦崩壊の立役者であるとの見方。これは余談だが、1991年夏のクーデターがなければ、現在のプーチンの存在はなかったとの見方もある。

 第三、中国の巧みな戦略

 これはコーネル大学のチェン・ジャン教授の見解である。70年代初頭のキッシンジャーと周恩来の北京での対談を経て、資本主義VS共産主義というイデオ ロギーの対立が変化し、中国は、次第に第三の道への転換、すなわち社会主義体制を維持した市場経済システムの導入が、開放政策を指揮する鄧小平により具体 化されるのである。ソビエトの勢力を米中の協力で封じ込め、中国の世界市場への参画という米中の利益の一致が、冷戦終焉に大きく影響したとの考察である。 加えて、ベルリンの壁崩壊5ヶ月前の天安門事件にて、中国の若者が戦車の前で抵抗する映像は、東欧の民主化を加速化させたとの主張である。

 今まで冷戦の勝利は、レーガンの外交戦略にあると思っていたが、キッシンジャーと周恩来の巧みな米中戦略がソビエト崩壊へと導いたとの見方も説得力があると考えられる。
 周恩来は、フランスと日本(法政大学、明治大学)で勉強し、アフリカへも8回歴訪している。現在の中国のアフリカ諸国への関与、そして国連や上海協力機 構を通じた多国間外交は、周恩来のプリンシプルが貫かれているように思われる。台湾の国連常任理事国の地位を北京に持ってきた外交交渉は、キッシンジャー と周恩来の勢力均衡型リアリズムの成果である。

 冒頭で、ブラジル、ロシア、インド、中国のBRICsの経済力がG7と数年の内に並ぶと述べたが、中国、ロシア、中央アジア諸国(カザフ、キリギス、タ ジキ)で構成される上海協力機構(SCO)には、インド、イラン、パキスタン、モンゴルもオブザーバーとして入っており、まさにこの上海協力機構の勢力が G7に対抗する勢力になると予測される。
 中国を中心とる上海協力機構の公用語は、中国語、ロシア語であり、宗教的には、イスラム教の色彩も強い。ロシア、中央アジアそしてイランの協力体制でエ ネルギーの安全保障が構築され、1兆ドルの外貨を保有する中国の金融力と製造力、そしてハイテクのインドの技術力が結びつくことにより大きな経済圏が形成 される。G7と上海協力機構が新しい新国際秩序を構築するのであろうか。

 中国が冷戦の終焉に関し大きな影響力を及ぼしたという見方が正しければ、そのシナリオを描いたキッシンジャーと周恩来の戦略を再考する必要がある。ま た、それと同じように21世紀の今日も米中の接近が新国際秩序構築の推進力となると考察される。日本は、米中の巧みな外交戦略を読み、日本、米国、中国の トライアングル関係の中で、新国際秩序の構築に影響力のある外交、経済戦略構想を描く必要があると考察する。

 参考文献 Deniel W, Drezner, The New New World Order, Foreign Affairs March-May 2007

 中野さんにメール nakanoassociate@yahoo.co.jp
2007年03月17日(日)
萬晩報主宰 伴 武澄

「葵の葉って実際にみたことありますか」

 そんな疑問からワシントン在住のシンクタンカー、中野有さんと上賀茂神社を訪ねたは昨年の正月。権禰宜の村松晃男さんらと葵の復活について話し込ん だ。日本最古の祭りである葵祭や徳川の紋章などを通じて、葵の存在を知らない日本人はいない。にもかかわらず「葵」を実際に見た日本人はほとんどいない。 日本の象徴のような「植物」が現在の日本人に知られていないのはなぜか。

 村松さんの話によれば、その昔、加茂川上流一帯は湿地でフタバアオイが一面に群生していた。上 賀茂神社の歴史も葵とは切っても切れない。葵祭は平安京遷都後、まもなく始まった。天皇家や貴族らが京都御所から下鴨神社を経て上賀茂神社にお参りするき らびやかな行列は鄙だった山城の人々にとって大いに 目の保養になったに違いない。

 現在の観光客の多くは気づいていないかもしれないが、当時から行列の牛車には必ず、上賀茂神社のシンボルだったフタバアオイのつるを飾ることに なっている。そのフタバアオイが神社一帯から姿を消して長い年月が経っている。現在、葵祭に使うフタバアオイは神社の北に控える神山の中腹でかろうじて採 取される。つまり京都の人でさえフタバアオイの姿を目にしなくなって久しい。このままいくと中腹でさえフタバアオイがとれなくなるかもしれないというの だ。

 そんな話を聞いていて、中野さんが「それは大変なことです。フタバアオイを復活させましょう」と問いかけたのが葵プロジェクトの始まりとなった。上賀茂神社は京都市教育委員会や近隣の学校に声をかけて、フタバアオイ育成に乗り出した。

 中野さんの話によれば、京都は地球温暖化防止の京都議定書を通じて世界的に「環境」のキーワードになっている。ワシントンでも京都を話題にすれば 必ず、環境問題に話が発展するということなのだ。加えて、原爆投下で京都を外すことに尽力したヘンリー・スチムソン陸軍長官の話もされ、「葵を平和の葉と して世界に売り込むことはできないか」という問題提起があった。

 中野さんは京都市出身。上賀茂神社近くで生まれ育った。アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカで仕事をし、日々、国際情勢のコラムを執筆してい る。そんな中野さんがようやく平和のシンボルとして見出したのが、生まれ育った上賀茂のフタバアオイなのだ。いい話だと思いませんか。

 ちなみにフタバアオイの生育はけっこう難しく、昨年春にいただいた鉢植えを枯らしてしまった経験がある。ことしはぜひ大きく育て、友だちに分けて あげるようにしたい。葵プロジェクトは上賀茂一帯にフタバアオイを繁らせ、さらに日本全国に広げる運動である。みなさんも葵プロジェクトに参加しません か。


 15日、京都新聞に「葵の森」復活へフタバアオイを移植 上賀茂小の児童ら」の記事が掲載された。「おー、ついに始まったか」という感慨があった。

 http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007031500027&genre=F1&area=K1A

2007年03月12日(月)
Nakano Associates シンクタンカー 中野 有
  外交、安全保障の分析は、現状分析に終始したものがほとんどである。しかし、国際社会が期待しているのは、現状分析のみならず、歴史の潮流を掴み現状を分 析し、未来に向けた明確な平和のためのビジョンである。膠着した現状を打開し、当事国、地域のみならず、外交交渉に関わるすべての国が恩恵を享受できる新 構想でなければ、国際社会のコンセンサスは得られないと考察される。

 ワシントンにある民主党系のシンクタンク、Center for American Progressで開催された"The history and future of nuclear weapons"というセミナーに出席した。講演者のジョセフ・シリンシオン氏の構想は、イランの核問題に関し現状分析を超えた将来へのシナリオが明確に 示されている意味において、新鮮な視点を感じ取ることができた。この構想からイラン問題への解決に向けたヒントが読み取れるので、セミナーの概要を踏まえ イラン情勢を考察したく思う。

 ブッシュ政権は過去6年間、一貫してイランの核開発に立ち向かってきた。しかし、ブッシュ政権のイランとの直接交渉を回避してきた戦略が、結果的には、 イランの核保有への野心を高揚させているのみならず、イランの核開発を推進させる構図になっている。イランの核疑惑施設への軍事攻撃も現実味を帯びている 状況の中、バグダッドで米国がイラン、シリアと同席し、国連常任理事国、EUの参加のもとでイラク国際会議が開催された。作業部会も行なわれることになり 建設的な会議だったとの報道がなされている。

 ブッシュ政権の最近の外交政策は、北朝鮮やイランへの対話路線に変化している。その背景には、チェイニー副大統領の側近のスキャンダルなどでチェイニー 副大統領の求心力が低下したこと、それに伴いライス国務長官の実利的な関与政策と、それを支えるゲーツ国防長官の柔軟な軍事政策が勢力を高めてきたとの観 測がなされている。

 ブッシュ政権の支持率は30%、そして残す任期20ヶ月で、どのような有効な米国の外交政策の選択肢があるのであろうか。イランの核問題に関する米国の 外交政策として、次の5つのシナリオが考えられる。現状維持、軍事関与なしで政権を変える、イランの核施設への軍事攻撃、大局的交渉(grand bargain)、封じ込め建設的関与戦略(contain and engagement strategy)である。

 この5つのいずれの選択肢でも、イランの核への野心を挫くことができる保証はないが、最も説得力があるのは封じ込め建設的関与戦略であると考えられる

 第一、現状維持 ベトナム戦争や現在のイラク戦争の教訓から、米国が分断された状況の 中での現状維持政策は、不安定要因を増し、好まざる結果を招くと考えられる。ブッシュ政権は、イランへの直接交渉を回避し、国連安保理を通じた交渉に委ね てきた。この政策では、イランの核開発と核開発の断念との費用対効果を転換させることは期待できない。

 第二、体制変換 イランの反体制派や改革主義者に協力し、イラン内部への干渉を強化す ることで保守強硬派の勢力を緩和させる。イランは急激な人口増加により、若年層の割合が高く、民主主義や実利主義への潜在性は高い。しかし、仮に強硬派、 実利主義派、改革派の対立の中、現体制の変換が達成されても、イランが核兵器の野心を放棄する保証はない。加えて、米国の干渉は、裏目に出て反米勢力が増 す可能性もある。

 第三、イランの核施設への攻撃 ペルシャ湾に配置された空母からの軍事攻撃が仮に成功 しても、その影響並びにその後の対策は未知数である。イラン空軍の攻撃を受けることはないが、イラクにおいイランが支援するシーア派の地上軍による米軍へ の攻撃、イランの国際テロ組織を通じた報復が予測される。イランの核施設が破壊されても、イランのエンジニアが持つ専門技術は継承される。軍事的攻撃が逆 効果となり、イランの核開発を加速される可能性もある。ホルムズ海峡の封鎖などで、石油価格が一時的に100ドルを越えることも考えられ世界経済に与える 影響は深刻である。

 第四、大局的交渉(grand bargain) 大局的交渉は、New American Foundation(ワシントンのリベラルなシンクタンク)のフュリン・レベット氏により提唱されている。核問題に関する外交的解決のためには、ワシン トンとテヘランの効果的な和解を前提とする米国・イラン関係の再構築が重要である。具体的には、米国によるイランへの安全保障の保証を前提にイランが核開 発を放棄するとの交渉である。
 
 米国のイランへの経済制裁の解除、イランとの外交樹立、イランの世界貿易機構への加盟、海外投資の振興などが必要となる。イランは、核開発の放棄のみな らずテロ組織への支援を辞め、人権問題などを解決する必要がある。現在、ブッシュ大統領とアフマディネジャド大統領が、このような極端なイメージチェンジ を行なうとは考えられない。

 政治的意志が働き大局的交渉戦略が実現されるまでには、相当な時間が必要である。1972年にニクソン大統領とキッシンジャー国務長官が、中国と秘密裏 に技術移転や核不拡散を含む交渉を行なった。交渉は成功したように見えるが、1992年まで中国は核不拡散条約(NPT)に加盟しなかったことからも大局 的交渉のマイナス面はある。

 第五、封じ込め建設的関与戦略(contain and engage) 膠着状態を 打開するためには、強制だけではだめで、また刺激策だけではイランの行動に決定的な影響を及ぼすことはできない。大局的交渉と比較し、封じ込め建設的関与 政策は、国際社会との協調による効果的な封じ込め政策と、経済、政治、安全保障の刺激策としての建設的関与を交錯させた交渉を進めることにある。

 イランの核問題の交渉において、4つの方法がある。
 1. イランの核開発を永久に中止させる。
 2. 厳密な監視の下で、イラン国内の一部の核濃縮を認める。
 3. イランが参加する多国間の核濃縮施設を作る。
 4. 国際的監視の下でイランへ核燃料を供給する。

 特に、IAEAの管轄で、核燃料の貯蔵銀行を作る。核燃料の平和利用は、二酸化炭素排出量を制御する意味で地球環境にプラスに作用するエネルギーであ る。厳格な国際的監視の下で核燃料の効果的な使用により、石油、天然ガスの化石燃料の依存度を低下させることが可能となる。世界第二の資産家であるウォー レン・バフェット氏は、核燃料の貯蔵銀行の構築に約50億円の寄付を行なった。米国は、この分野への支援を拡大する予定である。

 イランは石油精製施設の老朽化もあり、国内使用のガソリンの30%を輸入している。イランの石油輸出が減少傾向にあり、2015年にはゼロになるとの予測もある。その意味でも、交渉の切り札として、国際監視の下での核燃料の供給は効果的だと考えられる。

 封じ込め建設的関与政策を成功させるためには、EU,ロシア、中国並びに国際社会のWin-Winの妥協点を見出すと同時に、イランが納得する和解への 具体的なシナリオが必要となる。イランの核問題を外交的交渉で成功させることにより、核のドミノ現象を回避できると同時に新たなエネルギーの安全保障を構 築することが可能となる。イランへの核疑惑施設への攻撃を回避するためにも封じ込め建設的関与政策の実践が期待される。

 中野さんにメール nakanoassociate@yahoo.co.jp
2007年03月08日(木)
ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口坦
  アメリカ人にはドイツ映画が芸術的で敬遠される。映画館に来てもらわないと駄目で、だから私は米国のいろいろな町でそうでないことを訴えた」と語ったの は、最近アカデミー賞・外国語映画賞を受賞したドイツ映画「善き人のためのソナタ(邦題)」のフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督である。 たしかに受賞映画はスリラー仕立てで、また3人の男性を魅了する美しい女性が登場するメロドラマである。

 ■二つの物語 

 日本でのこの映画の宣伝文句の中に「冷戦下の東ベルリン。壁の向こうで何が起こっていたのか。ようやく明かされた監視国家の真実」とあるが、「ようやく 明かされた」は少し誇張である。というのは、冷戦下共産主義国家には秘密警察があって監視国家だったことや、特に東独にはシュタージ(国家保安省)という 優秀な監視組織があったことは誰もが知っていた。冷戦時代東ドイツを訪れる日本人にはよくその存在が感じられた。

 映画の主人公は、東独の監視組織・シュタージのヴィースラー大尉である。彼は劇作家ドライマンの住居内の会話を盗聴するように命じられる。体制べったり のこの作家が監視されるのは政治的理由からではない。彼は女優のクリスタと同棲しているが、彼女と性的関係をもつようになった権力者のヘンプ大臣が横恋慕 から劇作家の反体制活動の証拠を見つけさせてライバルを排除してこの美しい女優を独占したいからである。

 映画のドイツ語タイトルは「他人の生活」である。ここで「他人」とはヴィースラー大尉に監視されるドライマンとクリスタである。映画は簡単にいってしま うと二つの物語からできている。監視される劇作家と女優の同棲生活が監視者に「他人の生活」でなくなり、その結果彼は介入し、窮地に陥った二人を助ける。 この人助けの話が第一の物語である。第二の物語は東西ドイツ統一後の話で、第一の物語の後日談である。監視されていたことも、またそのために助けられてい たことも知らなかった劇作家ドライマンがそのこと知り、この助けてくれた人にお礼する話である。

 第一の物語からはじめると、ヴィースラー大尉は、権力を恐れる女優のクリスタに酒場で話しかけてヘンプ大臣の性的関係の強要に屈しないように勇気づけ る。また彼は、劇作家ドライマンが、(当時東独にあるタイプライターはすべてシュタージに把握されていたので)西ドイツのシュピーゲル誌から提供されたタ イプライターで体制批判的な評論を書いて発表するのを阻止しないどころか、報告の中で嘘までついてかばう。挙句の果てには、彼は証拠隠滅することによって 窮地に陥ったクリスタとドライマンの二人を助けようとする。

 ■納得できない点

 この映画を見て「どうして筋金入りのシュタージ男が変貌してクリスタとドライマンの二人にやさしくなったのか、今ひとつ納得しにくかった」という人は少 なくない。日本でこの映画をみた友人もそういったし、ドイツでもそう感じた人がいる。

 ヴィースラー大尉は、経験豊富で有能であるだけでなく、眼に見えない戦線」で「社会主義の敵」に対して戦わなければいけないと確信する人物として描かれ ている。映画の冒頭での国家保安省の後進を前に尋問のしかたについて彼がする講義や、劇場ではじめてドライマンを見たときの彼の反応からそのようイメージ が観客に植えつけられる。

 友人の演出家・イェルスカが自殺した知らせを受けた劇作家のドライマンは彼からプレゼントされた「善き人のためのソナタ」をピアノで弾く。この演奏を屋 根裏で盗聴するヴィースラーの頬を一滴の涙が流れる。でも筋金入りのシュタージ男がこのソナタを聞いたことで変わったとは考えにくい。その前にヴィース ラー大尉が変化していたために、そのように反応したと考えるほうが自然である。主人公の内面的変化を理解するためには、ソナタのメロディー以上に、題名 や、楽譜をプレゼントした演出家の人物像、また時代背景、登場人物の発言といったいろいろなことを考慮するべきことを映画は期待しているのではないのだろ うか。

 反体制派の演出家イェルスカには10年近くも仕事が来ない。彼は西側へ逃げれば演出家として活動できるのにそうしない。それは彼が社会主義を正しいと 思っているからである。ドライマンの誕生パーティーで彼が誰とも口をきかずに読んでいたのは黄色い表紙のブレヒト詩集である。ドライマンの住居に忍び込ん だヴィースラー大尉が失敬して自宅で読むのもこのブレヒト詩集である。東独ではいろいろな詩人が読まれていたのにどうしてブレヒトなのだろうか。

 社会主義のために東ドイツから出て行こうとせずに自殺した演出家、彼がくれたソナタの題名にある「善き人」、そしてブレヒトとを並べたら、彼の戯曲「セ チュアンの善人」を連想する人が少ないかもしれない。1939年から40年にかけて書かれたこの戯曲の中でブレヒトは、「善き人」であれと説教をすること の無意味をしめし、「善人」であることを不可能にする社会(=資本主義)の変革しかないことを暗示しているといわれる。この変革が実現して倫理が体制に置 き換えられるようになった社会で、今度善悪が問題になったらブレヒトに回帰して、考え直すしかない。その結果、例えばヴィースラー大尉が善悪についての立 場を変更しても不思議でない。

 ブレヒトを持ち出さないでも、ヴィースラー大尉の変貌がある程度まで理解できる。忘れてしまった人がたくさんいるかもしれないが、マルクス主義は20世 紀長いあいだ人類解放の思想とみなされて、「善き人」の理想を体現していた。ヴィースラー大尉は筋金入り共産主義者だったからこそ、「善き人」であること 不可能にする東独体制を裏切ってクリスタとドライマンを助けようとした。ベルリンの壁があく前後、私は東独で多数の反体制市民運動家と接する機会をもった が、彼らの大多数は映画の中の演出家イェルスカに似た社会主義者であった。

 統一ドイツで流布している解釈では、東独国民が西ドイツのデパートで買い物したいために東独体制が崩壊したことになっている。でもこれは、資本主義体制の強さを強調する西独「戦勝国史観」である。でも本当にそうだったのだろうか。

 1989年11月9日23時30分、ボルンホルマー通りの東西ベルリンの検問所で国境警備員とシュタージ関係者が群がる東ベルリン市民に対してゲートを あけた。彼らが威嚇のための発砲をしないでそうしたのは、ヴィースラー大尉に似て自国民を「社会主義の敵」と思うことができなくなっていたからである。と すると、ベルリンの壁の崩壊をもたらしたのは、体制側にいてどちらかというと社会主義の理想を追うほうの人々が体制を支えなくなったからである。このよう に考えると、「善き人のためのソナタ」は今まで強く意識されなかった歴史の側面に関心を向けさせる映画ということになる

 ■人間的視線

 ここまでは第一の物語である。その後日談・第二の物語では、盗聴されていたことも知らなかった劇作家のドライマンが統一後シュタージの自分についての調 書を読み、それまで知らなかったことをいろいろ知る。愛人クリスタは大臣ヘンプの密告でシュタージに逮捕されて「非公式協力者」にされていて、シュピーゲ ル誌掲載記事の作者の正体も、タイプライターの隠し場所も自白してしまっていた。ところが、当時家宅捜査したシュタージはタイプライターを見つけることが できなかった。それはなぜか。

 ドライマンは、調書の最終頁に指についた赤インクの跡を見て、それがシュピーゲル誌から提供されたタイプライターの赤リボンから来たと直感する。という のは、当時タイプライターを隠し場所から出し入れすると赤インクが彼の指について用紙を赤く染めたからである。とすると、調書作成者・シュタージ監視員の HGW XX/7こそ、タイプライターを別の場所に移し証拠をなくして彼を救った人間になる。ドライマンは「善き人のためのソナタ」という小説を書き 「HGW XX/7に感謝を込めて捧げる」という献辞をしるす。ある日、本屋の前を通りかかった元シュタージ監視員のヴィースラーが「自分のための本」で あることを知る。これが、お礼するという二番目の物語で、ラストシーンが感動的である。

 ヴィースラー大尉は劇作家ドライマンの盗聴・監視の後、地下室で西側から来た手紙をあける作業にまわされる。これは、上司の文化部長グルービッツ中佐か ら疑いをかけられて降格させられたからだ。統一後は、彼は宣伝物を郵便受けに投げ込む仕事をしている。これは郵便配達よりも収入も低い仕事である。それで は、映画の中でどうしてヴィースラーは統一後の社会の下積みとして描かれているのであろうか。これは映画が発信しようとするメッセージと無関係でない。

 映画の前半にグルービッツ文化部長とヴィースラー大尉がシュタージ・従業員食堂で交わす会話がそれについて考えるヒントを提供してくれるかもしれない。 ちなみに二人は同期の間柄で、教育期間中ヴィースラーのほうがよい成績であったが、グルービッツのほうが出世し、現在では上司と部下の関係にある。

 大臣の横恋慕のために劇作家を監視しなければならなくなったことに不満なヴィースラーが「私たちがシュタージに入ったときに『党の盾と剣』になると宣誓 したの憶えているか」と尋ねる。それに対して、グルービッツは「でも党とは党員以外のなにものでもない。党員が大きい影響力をもてばもつほどいい」とこた える。この考え方に立ったら、党の政治目標などどうでもよく、また入党することは影響力を行使するためで、党とは権力を行使するだけの利益集団になる。で もこれは東独だけのことでない。

 統一後のドイツ社会で上昇気流に乗ったのはグルービッツ・タイプの人たちで、ヴィースラーのような人々は底辺に沈んだままであることが多かった。今まで注目されなかったこのような人々に人間的な視線を向けたことも、この映画の重要な功績である。
2007年03月07日(水)
Nakano Associates シンクタンカー 中野 有
  今年は、宇宙開発50周年にあたる。1957年10月にソビエトは、世界初の衛星打ち上げに成功した。60年代に入りケネディー政権は、宇宙の分野でソビ エトに挑戦するためにアポロ計画を始動させた。ケネディーの平和戦略の核は、国家の威厳をかけた科学技術の発展、とりわけ宇宙開発であった。冷戦末期に は、米ソで核の抑止力のみならず、衛星攻撃兵器の競争が激化した。

 1月12日に中国は、自国の衛星を破壊する衛星攻撃兵器実験を行なった。これは約20年ぶりの実験であった。この実験に対する米国の反応を読み解くことにより、米国の安全保障戦略の将来像を観察できると考える。

 先月、ワシントンのシンクタンク(戦略国際問題研究所CSIS)で開催された中国の衛星攻撃兵器のセミナーに出席し、いくつかのインテリジェンスのヒントを得ることができた。

 第1、 中国の宇宙開発に警笛を鳴らすと同時に米国の宇宙戦略の再構築を行なう。約1割上昇の宇宙分野の防衛予算が提示された。
 第2、 チェイニー副大統領の訪日で安倍総理と、中国の軍事力増強と宇宙攻撃兵器に関する話し合いが行なわれた。また、チェイニー副大統領は、シドニーでも、この問題を強調した。
 第3、 昨年7月4日の北朝鮮のミサイル実験は、米国の独立記念日に行なわれた。10月の北朝鮮の核実験は、安倍総理が訪中から訪韓への途中で行なわれた。米国の 防衛予算発表の前に中国の宇宙攻撃兵器の実験が行なわれた。この3つの動きを見ると、北朝鮮や中国による、日米同盟への挑戦と見ることができるが、その後 の米国の反応は、北朝鮮への制裁を強化する流れに逆行する北朝鮮への宥和政策に変化している。

 これら一連の動きを観察すると、宇宙という分野で、米中が連鎖反応的に競合することは、米国の国益に適っていると考えられる。むしろ米国は、中国の宇宙 開発を歓迎しているように思われる。何故なら米国の基幹産業である軍需産業の発展が、米国経済の成長にとって不可欠であるからである。戦争、技術革新、通 貨の供給量、資源の供給量により、景気変動が起こるとのコンドラチェフの仮説が正しければ、宇宙分野におけるイノベーションは明らかに米国のプラスに機能 する。

 ワシントンのシンクタンクのコミュニティーで学習したことは、平和のために軍事力を増強する必要があると考えている政治家、政府の高官、専門家が大多数 であることである。日本では軍拡は戦争を誘引するとの視点が主流であると思うが、米国のリアリズムやプラグマティズムはその逆も真であると考えているよう である。

 冷戦に勝利した米国は、本来なら軍事予算が減少するはずであった。しかし、9.11同時多発テロという特殊事情があったにせよ、米国の軍事費は世界で突 出しているどころか上昇傾向にある。イラク戦争、軍人の年金、核開発を入れると、米国の軍事予算は日本の国家予算に匹敵する約80兆円である。


 この肥大化した軍需産業を維持し、正当な理由で米国民の血税から軍事予算を獲得するためには、仮想敵国が必要と考えられないだろうか。この米国の軍事費 上昇の悪のサイクルを宇宙開発に向けることにより、米国の無益な地域紛争への干渉を防ぐことが可能になると考えられる。宇宙開発を通じ、イラク等への必要 以上の軍事的干渉のガスを抜くことになろう。

 中国の宇宙開発は米国の利益に適っているとの仮説が正しければ、中国の外交安全保障戦略はかなりしたたかである。同様に、北朝鮮の戦略も中国と米国の心理を巧妙に分析しているように考えられる。

 ケネディーが主張したように科学技術並びに宇宙開発は、国家の威厳のみならず人類の発展にとって重要である。日々の生活に密着しているカーナビは、 GPS(衛星航法システム)による衛星技術の賜物である。米国の宇宙戦略、EUを中心とするガリレオシステム、中国の北斗プロジェクト等と競合し、また宇 宙の平和利用の分野で統合することにより、宇宙のフィールドでのイノベーションが拡充する。

 中国の衛星攻撃兵器実験のインパクトは、予測を遥かに超える重要なシグナルを含んでいると考えられる。チェイニー副大統領が、日本とオーストラリアで宇 宙攻撃兵器を例に中国脅威論を強調した。ライス国務長官がベルリンからブッシュ大統領と直接電話で話し、副大統領などをバイパスし、北朝鮮への宥和政策を 示した。チェイニー副大統領とライス長官の外交政策における温度差が、懸念されている。この状況の中、両者に共通し、また上院も下院も推進するであろう米 国の国家戦略は、宇宙の分野における軍需産業の拡張であろう。

 米国がイラクの中東会議でイランとシリアと同席したり、北朝鮮への歩みよりが起こりつつある背景には、中国の衛星攻撃兵器実験をきっかけに宇宙を舞台にした軍事競争時代の到来というシナリオがあるのではないだろうか。

 六者協議やミサイル防衛構想の影に隠れているが、今後、宇宙の分野への開発が東アジアの安全保障に大きな影響を与えると考察される。北朝鮮のミサイルや 核を抑止するために、ミサイル防衛や核開発を念頭に置くよりも、宇宙開発を通じて日本の安全保障を強化する戦略が求められる。日米同盟の基軸に宇宙開発戦 略を科学
技術の発展のために据えるべきだと考えられる。

 北朝鮮のミサイルや核を抑止するベストの防衛戦略は、宇宙空間における日米の新宇宙構想であろう。日本は、核を有する中国と対等に議論し調和するために は、日米の最強の科学技術戦略的統合が不可欠であろう。よって宇宙開発構想は平和構想と一体であると考察する。
2007年03月05日(月)
Nakano Associates 中野 有
  ニューヨークタイムズ、2月26日の読者投稿欄のイラン国連代表部の広報担当官の意見が目に留まった。時には社説やコラムより切羽詰った訴えを投稿欄から 読み取ることができる。「米国は大量破壊兵器の保有を口実にイラクに先制攻撃を仕掛けた同じ間違いをイランでも行なおうとしている。米国のイラク戦争の失 策を相殺するためにイランをスケープゴードにしている。それを欧米のメディアが増長して伝えている」。

 欧米のメディアが伝える、米国のイラン核疑惑施設攻撃の確率は30%、イスラエルの攻撃の可能性は30%である。米国とイスラエルの利益が一致すれば、 攻撃の確率はさらに高くなる。ワシントンのシンクタンクの議論から、イランへの攻撃を回避する勢力はどこに存在しているかと考えさせられる。約1年前にシ ンクタンクのセミナーで、イランへの攻撃の可能性を質問した時の専門家の反応は、イラク問題が優先され可能性はかなり低いとのことであった。しかし、最近 のセミナーでは、多くの専門家がイランの空爆の可能性を議論している。

 ワーストケースシナリオを想定するならば、イランへの攻撃で被害を受ける国より恩恵を受ける国が多いと思われる。

 第1、米国は、イラクへの地上軍投入で失敗したことを、最新鋭の空軍の威力で相殺できる。イラク問題をイランの核問題にシフトさせることで、ホワイトハ ウスとキャピタルヒルの対立を煙に巻くことができる。ブッシュ政権の不信を払拭し、大統領選に向け共和党の巻き返しが期待できる。既にペルシャ湾に2隻の 空母が配置されイランへの軍事的圧力が仕掛けられている。

 第2、米国のイラク戦争の失策で恩恵を受けているロシア、中国、北朝鮮、イスラエルは、新たなる恩恵を受ける事ができる。ロシアはエネルギー価格の上昇 と、天然ガスのカルテル構築に役立つ。米国のイラン攻撃がなくなれば石油価格が10-15%下がると言われている。中国は、米国の外交の真空を巧みに利用 し、アフリカ、中央アジア、中南米への資源外交を継続できる。北朝鮮は、米国がイラク戦争、イラン問題で躓くことで、ミサイル発射、核実験を通じた軍備強 化の時間稼ぎが可能となる。イスラエルは、スンニ派とシーア派の分断を通じたイスラムの力を削ぐことができる。1981年のイスラエル空軍によるイラクの 核疑惑施設への攻撃の成功を再現できると同時に、イスラエルの中東における核の支配を継続できる。

 第3、サダム・フセインの最後のメッセージは、ペルシャ(イラン)のシーア派によるイラク占領に対するイラク人の団結であった。シーア派により処刑され たサダム・フセインは、スンニ派を主流とするアラブ諸国から同情と共に英雄として崇められた。アラブの敵は、ペルシャだとの敵対心がイランに向けられてい る。中東の中核であるサウジアラビア、エジプトなどは、米軍のイラン空爆を傍観する可能性が高い。

 第4、イランが国連安保理決議に反し、ウラン濃縮活動を継続している。経済制裁の強化を経て、軍事制裁のオプションが模索される。

 第5、イラン国内の不安定要因。昨年12月の地方選で見られたようにアハマディネジャド大統領の支持基盤は弱体化している。事実上、最高指導者ハメネイ師は、大統領を解任できる立場にある。

 第6、イランはヘズボラ、ハマスをはじめ国際テロを支援しており、イランの体制の変化が、国際テロの問題解決に直結すると考えられる。

 第7、IAEAによるとイランの核開発に少なくとも3年、恐らく5-10年必要である。しかし、一発触発の状況が意図的に作られているように映る。

 イランがスケープゴートにされても、国際社会の反応が鈍いように思う。しかし、ニューヨークタイムズのトーマス・フリードマンも指摘するように、イラン は、女性の参政権や学生の就職状況など中東で最も自由な国の一つである。また、30歳以下が3分の2を占めるイランの社会は、西側の価値観を理解する潜在 力が高い。

 イラク研究グループが示すイランとシリアとの建設的、直接的対話を避けてきたブッシュ政権であるが、3月10日に開催される中東諸国会議でイランとシリ アと同席する。敵対する国と対話する時は、ブッシュ政権に有利な条件がイラン側から提示された場合か、ブッシュ政権は敵対国との対話なしでは、やっていけ ないという状況に陥っているかのどちらかであろう。

 中東はイラク戦争の複雑化、イランの核問題、パレスチナーイスラエル問題、スンニ派とシーア派の対立など、近年で最も不確実性が高い地政学的状態であろ う。このような危機的状態から抜け出すためには、中東問題を包括的に考察しながら地域協力、安全保障のフレームワーク、経済刺激策、国際支援策の具体的な 青写真を描くことが重要である。イランの石油とホルムズ海峡の石油ルートに頼る日本は、米国やイスラエルによるイランの核疑惑施設への攻撃を回避する外交 的努力を強化すべきであろう。

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 27日未明、仙台市のマンションから中2男子が飛び降り死亡した。前日、医者でインフルエンザを診断されてタ ミフルを処方されたという。先週も愛知県蒲生市でも同じような事故があった。タミフルを飲んで衝動的にマンションから飛び降りたり、道路に飛び出したりす る異常行動はここ数年頻発している。 

 タミフルが原因かどうか因果関係ははっきりしないが、異常行動の裏にタミフル服用があるのだったら、これは人ごとではない。気味が悪すぎる。インフルエ ンザでタミフルを処方されたら飲まないほうがいい。「薬害タミフル脳症被害者の会」は「因果関係が証明されていなくても、医師は投与の際に何らかの注意喚 起をしてほしい。親は服用した子どもから目を離さないでほしい」と訴えている。

 タミフルには多くの疑問がある。まず、アメリカ食品医薬品局(FDA)が「服用後に死亡したのは世界で71人もいる」と発表しているのに、世界的に使用 を禁止する動きがないことである。そもそもタミフルが注目されたのは鳥インフルエンザの出現からである。鳥インフルエンザの出現もエボラ出血熱と同様に突 然だった。さらに世界保健機構(WHO)が「新型インフルエンザの流行で世界で1億5000万人が死亡する可能性がある」と警告し、タミフルの効用が世界 的に認められたことが追い討ちをかけた。

 これに前後して、各国がタミフルの備蓄の乗り出した。アメリカは71億ドル、日本は2500万人分の備蓄を目指している。5人に1人が新型インフルエン ザにかかることを想定しているのだから大変な数字だ。だれがこれほどの備蓄を必要だと判断したのかも分からないまま、各国は新型インフルエンザ感染の恐怖 から"唯々諾々"と備蓄にのめり込んでいるのが実態ではなかろうかと思っている。

  タミフルの効用については「感染」から48時間以内の服用といわれている。しかし最新の鳥インフルエンザウイルスの場合、潜伏期間が3-4日とされ る。発病した時点で服用の意味が相当程度薄れるという報告も眼にする。それが本当だったら、効き目の少ない"特効薬"を各国が懸命に備蓄する姿はほとんど 漫才のように映る。

 そして極めつけはタミフルの開発者がアメリカのギリアド・サイエンシズというバイオの会社で、ラムズフェルド前国防長官が以前にその会社の会長を務めて いたという事実である。正確にいうと製造販売はスイスのロッシュで、ギリアド社がライセンスをロッシュに譲渡した経緯があるらしい。ブッシュ政権をリード し、アメリカをアフガン、イラク戦争に仕向けた張本人がタミフル・ブームによるギリアド社株の上昇で懐を肥やしたという事実も免れない。

 タミフルってなんなのさ。筆者はずっと思い続けている。  (紫竹庵人)

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