2007年2月アーカイブ

 1月4日、北國新聞の「北國銀がATM完全無料化」という記事を47NEWSの主要ニュースに掲載した。大手銀行の首脳がこの記事を読んだら多分、腰を抜かすほど驚いたに違いない。残念なことにそうはならなかった。

 今日は北日本新聞が「ATM手数料 無料拡大 北陸の信金」という記事を掲載した。福井と石川県の信金は休日と時間外の利用手数料を無料化し、それが富山にも広がりそうだという内容だった。

 そうか。ATM無料化は福井県の信金から始まったのだと合点した。世の中の流れはATM無料化である。北國銀行に記事を主要に据えたのは間違いではなかったのだ。これが東京の大手銀行から始まるのではなく、北陸の信金から始まったことに大きな意味がある。そう思った。

 しかもニュースの発信源が金沢や富山なのである。こういう記事こそ47が求めているニュースなのだという思いはスタッフ全員のものである。「地域のことは地域にまかせて」と言うは易しだが、現実にこれまで地方紙のニュースは県境を越えることはなかなかなかったのである。

 隣の編集人がディスプレイを見ながら突然「チーフ、ヨイトマケってどういう意味か知っていますっか」と大阪弁でつぶやいた。本人は何をしていたか というと、勤務時間中にユーチューブを検索中で、僕が目をやると、やがて中村美律子 が歌う「ヨイトマケの唄」の熱唱が聞こえてきた。美輪明宏のデビュー曲は知っていたが、他の人が歌う「ヨイトマケ」を聞くのは初めてだった。中村美 律 子の「ヨイトマケ」もなかなか心にしみる。


大阪弁の独り言は続く。「えー歌でんなー」を繰り返し、やがて歌詞を口ずさみ始めた。
「おぅ、土方って表現は新聞では使えないんだよな」
「ハイ、放送禁止用語です」
「えー歌でしょ」
「そうだな」と生返事をして、僕はタバコ部屋にしけこんだ。
一服して戻るとディスプレイではまだ中村美 律 子が同じ歌を歌っていた。とにかく「ヨイトマケ」は長いのだ。
大阪弁の編集人は「ヨイトマケ」に酔いしれていて、「ヨイトマケ」の意味については何も言わなくなっていた。


 一夜明けて、大阪弁の編集人はまだ「ヨイトマケ」にこだわっていた。
「どうでもいいことですけど、ヨイトマケの意味が分かりました」
「建設現場での掛け声なんです。家を建てるときにぶっとい柱みたいなもんを滑車に吊り下げて土を固めるのみたことあるでしょ。あれをやるときに土方たちがうたうんです」
「一種の木やり歌やな」
「そうでんがな。ヨイトマケはしっかり巻けちゅうことでしょ。その掛け声が作業名になり、さらにその作業をする人をもヨイトマケと呼ぶようになったんです。だからヨイトマケは土方っちゅう意味です」


 それがどうしたと言われては元も子もないが、「なぜだ」を追究する姿勢が記者には欠かせない。何でも自明の理として受け入れるのならば記者は要らない。 47NEWS編集部では日々、こんな会話が交わされている。言葉の意味を追究する大阪弁の編集者のもうひとつの姿は「大学院生」。このほどめでたく「博士 課程進学」が決まった。47NEWSの知的レベルは侮れないっちゅうことだ。 (紫竹庵人)

 神奈川新聞によると、国交省は2007年度から、東京湾の海上輸送ネットワーク化するため、水上タクシーなどの運行実験をするそうだ。

 日本は海に囲まれた国土である。かつて大坂も江戸も掘割が縦横に掘られて海から川へ、川から海へと船による輸送ネットワークが発達していた。近代 になって鉄道やトラック輸送が船に取って代わられ、水上輸送という概念を失いつつある。国交省がようやく東京湾の海上輸送に着目したことに注目したい。

 その昔、高松支局に勤務していた時、瀬戸大橋の建設が始まっていた。当時の運輸省は架橋によって生業を失う本四間のフェリー業者に補償金を支給す る交渉をしていた。本四間のフェリーは廃業になるのかと思っていたが、そうはならなかった。いまでも多くの業者が本四間の重要な輸送業務を担っている。

 その後、本四架橋は3ルートが完成したが、それぞれのルート間には距離があり、小回りの効くフェリーにはかなわない。運賃も橋よりも安いこともある。フェリーがなくならない理由のひとつである。

 バブル時、東京湾横断道路の建設が始まった。1兆円という巨額の資金をつぎ込んだ割りに役割を十分に果たしているとはいえない。交通量が少ないの なら無料にすればいいとさえ思っている。事業主体が公団だったとはいえ、国丸抱えだからどうせ税金で建設費を賄わなければならない。無料にすれば、少なく とも市民の利便には資することができる。

 この横断道路の建設が決まった時。馬鹿なことだと考えた。東京湾の対岸と高速フェリーで結べば房総半島の南部が通勤圏となり、地価高騰を抑制する 効果もあろうと思った。補助金を出したっていい。1兆円あれば、年間100億円を100年続けることができる。多くの利用者がフェリーを利用するようにな れば、そのうち補助金だっていらなくなる。

 共同通信のビルのすぐ近くに日の出桟橋がある。伊豆七島への航路の出発点である。房総半島からのフェリーが日の出桟橋に発着するようになれば、ぜひ房総に引っ越したい。そんな日が来るか来ないか。 <紫竹庵人)

 水上タクシー運航実験へ 東京湾岸のネットワーク化  2007年02月07日 13:36 【神奈川新聞】
2007年02月26日(月)
ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口坦
 私は自分が文科系であったせいか、技術がビジネスだけでなく、文化とか社会とかいったものと関係していることを知ると少しうれしくなる。例えば、ハイブリッドカーがそうで、この技術に対するドイツでの評価は日本とかなり異なる。

 ■「環境」ルネサンス

 ドイツ前政権で消費者保護・農業担当大臣をつとめたレナーテ・キュナスト現連邦議員(緑の党)は、最近、排出ガスの大きい自動車ばかり製造する自国の自 動車メーカーを批判して「みなさん、トヨタのハイブリッドカーを買おう」と発言して、同国人の反発をかった。ドイツでは毎年「環境にやさしいカーベストテ ン」が発表される。常連は日本車で、ルノーやプジョーのフランス車が顔をみせ、昨年ひさしぶりにワーゲンの小型車が登場。

 欧州連合では道路交通が二酸化炭素排出全体の20%を占め、またその半分以上に相当する12%分は乗用車が出す。1990年から2004年までの間に欧州連合は温室効果ガス排出を5%下げることができたのに、道路交通のほうはその排出量を26%も増大させた。

 このような傾向にブレーキをかけるために、EUは今年に入って2012年までに新車の1走行キロ・排出二酸化炭素を120グラム以下に規制しようとし た。この排出量は1リットルで二〇キロ走らなければ達成できないので、高速性を売り物にするベンツ、BMW、ポルシェといった独企業に不利になる。そこで ドイツは挙国一致で抵抗し、規制を130グラムまでゆるめさせることに成功し、第一ラウンドは自動車ロビーの判定勝ち。

 キュナスト議員の挑発的発言だけでない。今年度初頭に西南ドイツの大学都市チュービンゲンの市長に就任したボリス・パルマーさんはハイブリッドカーのト ヨタ・プリウスを公用車に選んで話題をよんだ。ドイツの市長さんのなかにまねする人がでている。またドイツ政府閣僚の公用車の炭酸ガス排出量リストが公表 されるなどして、どの大臣が二酸化炭素を大量に排出するか一目瞭然になった。

 ドイツの環境派がこのようなに攻勢に転じているのは、自国の強力な自動車ロビーに対抗するためである。私にはおもしろい思われるのは、長年緑の党の政治 家と話すたびに誰もが「環境」に対する関心が低いことを嘆いてばかりいたのが、この数ヶ月で世論の雰囲気がすっかり変わったことである。これにはいろいろ な原因があるだろうが、最大の要因は、異常に長い秋の後冬をとびこして春になってしまったことで、この結果地球温暖化が多くの人々に現実として感じられる ようになったからである。

 ■渋滞から生まれた技術

 このように欧州の環境派から絶賛されるハイブリッドカーであるが、ドイツでは今まであまり有名でなかった。アンケートによると知っているドライバーは4人に1人といわれる。またこの技術に対するドイツの自動車業界関係者、特に技術者の評価は昔から日本と異なる。

 日本のハイブリッドカーについて聞いたドイツ人が連想するのは日本の渋滞である。見渡す限り自動車ばかりの風景は彼らに映画やテレビニュースでお馴染み である。ガソリンエンジンと電気モーターの組み合わせのハイブリッドがその威力を発揮するのは低速での発進と停車を繰り返すこのような渋滞である。

 ドイツの町は自動車で走っているといつか町から出てしまい、その後隣の町に到着するまで畑や野原や森を延々と走らなければならない。このような国では低 速で発進・停車を繰り返す状況は日本とくらべてはるかに少ない。このような自国の状況に慣れているドイツ人の眼には、日本の都市の渋滞は、一定空間内での 自動車の数が超過して自動車に乗る意味が失われることになる。これは、政治サイドが自動車の市内乗り入れを制限するなどして解決するべきことであり、技術 的な問題と認められないのではないのか。

 ハイブリッドが胡散臭く思われるのは、この技術が、本当は別の手段で(例えば政治的に)解決されるべき問題を技術的に解決してみせようとする点にある。 これは技術万能主義であり、飽和した自動車市場で人工的に需要をうみだし、大衆の「マイカー願望」をネタに商売することにつながらないだろうか。とする と、ハイブリッドカーとは、このような目的のために、二つの既知の技術、ガソリンエンジンと電気モーターを組み合わせた付け焼刃にすぎないことになる。

 現在自動車業界で技術的な解決に値する真の問題は、水素燃料を実用化することである。こう考える人にとってハイブリッド技術とは化石燃料時代の人工的延 命以外の何ものでもない。今回、ドイツの技術関係者が緑の党キュナスト議員の「トヨタ賛歌」に反発したのはこのような理由からと思われる。

 ■ディーゼルカー

 我が家の近くに踏み切りがある。日本と異なり延々と閉まったままである。あくとそれまで待っていた自動車が走り出す。あるときから、踏み切りを渡りなが ら、すき焼きの、それも牛肉の脂身が鍋で溶けるときの匂いがすることに気がつく。近くにすき焼きをたべている家などないので、気のせいだと思われた。最近 妻の説明で疑問が氷解。我が町にディーゼル車にナタネ油をつかっている人がいて、私の郷愁をさそったすき焼きの匂いはそのようなディーゼルエンジンに由来 するという。

 この事情は、バイオガソリンが今後どのように展開するかわからないが、ディーゼルが(化石燃料時代の延命に役立つのでなく)エンジン環境運動の先頭に立 つ可能性をしめす。こうであるのは、欧州市場でディーゼルを搭載した乗用車が普及しているからだ。私の知るかぎり、昔から普及していて、ディーゼルはガソ リンエンジンとくらべて性能が落ちるとされたが、燃料の重油が安いことから経済的と見なされていた。

 日本でのディーゼルのイメージは排出される硫黄酸化物のために「公害車」扱いされているといわれる。またこのように日欧でイメージが異なるのは、日本へ 来る中東原油に硫黄分がたくさん含まれているのに対して、欧州に供給される北海油田の原油には硫黄分があまり含まれていないことと関係があるかもしれな い。

 1990年代に入ってディーゼルエンジンを改良することによって燃費をよくするだけでなく望ましくない排出物を大幅にへらすことができるようになる。例 えば、昨年の「環境にやさしいカーベストテン」に登場したワーゲンの小型車はディーゼルカーで、燃費もハイブリッドカーとあまり変わらない。現在欧州に は、新車乗用車に占めるディーゼルの割りあいが7割をこえる国も稀でない。

 このようなディーゼルの在り方こそ、(すでにふれた道路事情の相違とともに、)ドイツの自動車メーカーがハイブリッドに熱心にならなかった理由である。 というのは、彼らは、ガソリン代が気になる所得層の人々は高価なハイブリッドカーより燃費が改善されたディーゼルのほうを選択すると見ているからである。

 ■ドイツの運転文化

 ここまでドイツの自動車業界や技術者がどのようにハイブリッドカーを見ているかについてしるした。自国メーカーのしていることを違った視点から見ることも、ときには必要と思われるからである。

 それではハイブリッドカーに乗っている普通のドイツ人ドライバーはどう思っているのか。そう思った途端私は困ってしまった。というのは私の周囲でハイブ リッドカーに乗っている人がいないからである。でもやっと見つけることができて電話で話を聞く。その女性はミュンヘンの町から40キロ離れたところで暮ら していて、女優をしていてテレビドラマにも顔をだす。

 彼女は国道やアウトーバーンを走ることが多いドイツの平均的ドライバーで、一年前からトヨタ・プリウスに乗っていて、ハイブリッドカー絶賛者になった。 それは燃費がいいだけの話ではなく、彼女はドライバーとしての自分の人格が変わったと語る。というのは、運手中(ディスプレーを見ることで)燃費にセンシ ブルになり、自分が以前に攻撃的な運転をしていたことがよくわかったそうである。

 彼女の感想から、ドイツの自動車メーカーは、日本とはかなり異なる運転文化にのっとって今まで事業展開してきたことがわかる。この運転文化は高速運転を 最重要視して、町中でも時速60、70キロで走ることを当然とする。ドイツ人が速やかに前進しないと苛々するのも、この考え方の反映で、すぐ追い越したが り、よくいえばスポーティーな、悪くいえば「攻撃的」運転になる。だからこそ日本と異なって、オートマチックが普及しないで、そのようなクルマの乗ってい る人は障害者と思われるかもしれない。時速無制限のアウトーバーンはこの文化の象徴である。

 このような環境無視の「攻撃的」運転文化にあぐらをかいたまま、高速・高級車を開発してきたのがベンツ、BMW,ポルシャといったドイツメーカーであ る。昔は大衆車を製造していたメーカー(フォルクスワーゲン)も高級化路線を迎合して、経済的・社会的なクルマに力を入れなくなってしまったのではないの か。また冷戦終了後に極端な貧富の差が生まれた都市でBMWの7シリーズがどこよりもよく売れるとか、電気や水道も機能しなくなった国で独高級車販売の ショールームが開設されたといった良からぬ話を耳にする。こんな環境意識の欠如したマフィア相手のビジネスは自慢できることでない。

 ドイツの自動車業界のハイブリッド批判に耳を傾ける点があるが、彼らの論拠はこの運転文化から生まれ、またそれに対して批判的でない。日本の渋滞道路で 生まれたハイブリッド技術が、このようなドイツメーカーに反省を迫るとすれば、私にとってこれほど小気味好いことはない。

 美濃口さんにメールは Tan.Minoguchi@munich.netsurf.de
2007年02月18日(日)
萬晩報主宰 伴 武澄
「江戸時代、日本にあった種痘」にはたくさんのメールをいただいた。不確かな知識をもとに驚きだけでコラムを書いたのだが、いただいたメールによって江戸末期の日本の医学について多くを学ばせてもらったことに感謝したい。

 ■注射の起源は1856年

 まずは注射について、松永さんから教えてもらった。注射の起源について、世界大百科事典(ネットで百科@nifty)の「注射」の項を書いた「佐藤祥之」「杉原 正泰」両氏によれば注射の歴史は以下のようなことなのだそうだ。

 従来,注射器を発明したのはフランスのプラバCharles Gabriel Pravaz(1791‐1853) とされ、注射器はその名を冠してプラバッツ注射器と呼ばれてきた。しかしプラバは実験動物の脈管内にものを入れただけで、器具も皮下注射器ではなかったよ うである。実際に初めて注射を行ったのは 1853年イギリスのウッドAlexander Wood (1817‐87) とするのが通説のようである。その後、J.スコーダはジギタリスやサリチル酸などの皮下注射法を開発し、 80 年代には静脈注射も行われるようになった。この背景には、消毒、滅菌法の確立があり、薬剤を無菌化できるようになったことがある。しかし,注射が治療法の 一つとして、普通に行われるようになったのは 20 世紀に入ってからで、秦佐八郎らによるサルバルサンの発明が契機になったといわれる。

 ウィキペデイアなどで調べてみると、確かにPravazという人が注射の原型を発明したことは確かだった。かん腸器にヒントを得たようである。それにし ても注射が医療に使われたのが梅毒治療で、日本人が関与していたとなれば萬(よろず)としては看過できない。

 注射の発祥をきっかけにネット検索を続けた結果、その近代医学の歴史がたかだか100年程度しかないことも分かった。明治時代、日本にも多くの世界的医学者が輩出したのもそんなに不思議でないような気がした。

 ■種痘法を伝えた独立禅師

 種痘の中国からの伝来については、馬場さんから多くを学んだ。メールにいただいた禅文化研究所編「隠元禅師逸話選」(平成11年4月12日発行「法孫編」)の「独立性易」を全文記載したい。

 中国杭州に生まれた独立性易(どくりゅう しょうえき)禅師(1596~1672)は、明国が 滅び清国となった戦乱に際し、東航し長崎に上陸した。承応2年(1653)、57歳の時である。そして、翌年来朝した隠元禅師の法が盛んなのを見て、その もとに投じて出家し、隠元禅師が将軍家綱に拝謁するために江戸へ赴いた時にも随行した。

 独立は、俗名を載曼公といい、若い頃から医術を学んでいた。ある県の地方官をつとめていた時、天然痘にかかって多くの人々が亡くなっていくのを見て、 「何とか救ってやれないものか」と、非常に心を痛めた。そして、いろいろと工夫を重ね、ついに一種の種痘法を発明した。天然痘のかさぶたを粉末にして、そ れを鼻孔に吹き入れるという方法である。効き目が非常によかったので、曼公は多くの人々にこの方法を施した。中国では、この載曼公を種痘の始祖としてい る。日本に渡来し、黄檗の僧侶となってからも、病人を見るごとに薬を施し、「人を済(すく)うのは菩薩の本行なり」と、よく治療した。そして、この種痘法 は日本にも伝えられ、肥前の五島あたりには、その方法を伝える医師が多かったという。


 ■種痘は注射ではなかった

 西宮市に住む義弟の北垣さんは、「医師の掲示板サイト」で種痘について質問をしてくれて、いくつか参考になるメールをもらったと報告してくれた。佐賀藩 から始まった日本の種痘は次のような困難を乗り越えて行われたということだ。

「手許に本がないのですが。江戸時代の種痘は注射で行なうものではありません。種痘用の小さい刃で皮膚を傷つけ、そこに痘苗を植えるやり方で行なっていた と思います。広める時も大変で、痘苗は乾燥や日光で不活化してしまうため、痘苗を植えた子供から次の子供に接種するための痘苗を取り、それをまた別の子供 に植え・・・、と言うことを延 々と続けて行かなければなりませんでした。」

「冷蔵庫も冷凍施設もなかった時代ですから、種痘を広めると言うのは、大変な労力、努力が必要だった様です。違う地域に種痘を持って行く時も、種痘苗を継 代維持するために痘瘡罹病歴の無い子供をも何人もつれて行ったとか。恐らく日本で一番お詳しいのは順天堂大学の酒井シヅ先生であると思われます。」

「また故・吉村昭氏の「雪の花」と言う本も種痘黎明期を描いた小説です。当時の先人達の苦労の上に、天然痘の撲滅と言う輝かしい医学、医療上の結果が得られています。」

「私の知る限りでは、種痘を広めたのは、秋月藩の緒方春朔だと思います。緒方春朔は寛延元年(1748)、久留米藩士瓦林家に生まれ、医家緒方元斎の養子 となります。医を志して長崎に遊学、吉雄耕牛に医学を学びました。そこで、中国清の勅纂による「醫宗金鑑」の第60巻にある種痘に注目し、日夜研究に没頭 しました。」

「天明年間、父祖の地秋月に移り、住民の医療に尽くし、時の藩主黒田長舒に認められ藩医となりました。寛政2年(1790)2月14日、上秋月村(福岡県 甘木市)大庄屋天野 甚左衛門の2児に、鼻旱苗法による種痘を成功させました。これはエドワード・ジェンナーの牛痘種痘法成功より6年早い時期です。緒方春朔のえらいところ は、この種痘を広めるために自分のみの秘伝とせずに他の医師にも公開し、また種痘という概念を医師のみならず庶民にも理解させるため、寛成5年 (1793)「種痘必順辨」を和文で著しました。さらに、寛成8年(1796)には、「種痘緊轄」ならびに「種痘證治録」を著しています。富田英壽先生の お作りになられたサイトが詳しく、かつ判りやすいです。」
http://www.ogata-shunsaku.com/index.html

「明治開化期に日本が韓国の釜山で行った医療の記録に鼻で嗅ぐ方式の予防法の事が出ています。日本の医師は危険なのでこれを止めさせ、日本式の種痘を広め たようです。このサイトの「釜山における初めての近代医療」のところに書いてあります。」
http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/060/resi019.html

【種痘法の導入】
1796年 ジェンナー(英)牛痘利用の種痘法発見
1847年 佐賀藩主が侍医から牛痘法を聞き、藩医に牛痘苗とり寄せを指示
1848年 オランダ商館医官が痘漿を持参、摂取不成功。藩医は瘡蓋を提案
1849年 瘡蓋が入荷、藩医は息子に接種して成功、藩主も子息に、全国へ波及
1858年 蘭学者の拠出金で神田お玉が池に種痘所、江戸にも種痘普及
1860年 幕府が種痘の効果を認め、官立の種痘所に。後の東大医学部の前身
1861年 種痘所が西洋医学所に改称、1863年医学所に、西洋医学を認知。漢方医vs西洋医の洋医の拠点に、漢方の凋落、洋方の台頭に役割
1858年 蘭学者の拠出金で神田お玉が池に種痘所、江戸にも種痘普及。

「このあたりの話は手塚治虫さんが自らの曾祖父、曾々祖父の手塚良庵・良仙をモデルに描いた「陽だまりの樹」に詳しい描写が出てきます。幕末から維新にお ける肥前佐賀鍋島藩の、近代医学史上の足跡は多大なるものです。幕府から、長崎の警護を任されていましたので多くの外国の情報を得て、それらへの危機感と 同時に、その時代の藩の中で唯一目覚めて、早くから西洋・蘭学の重要性を認識し、実学に励んだようです。近代医学史上にも、多くの先達を輩出していま す。」

「日本で初めて牛種痘に成功したとされるのが、佐賀藩の藩医・楢林宗建で、我が息子に接種しています。1849年、同時期に藩主直正公の嗣子に種痘が為されています。これに よって、全国に公に広まったとされています。」
http://www.koseikan.jp/syutou.html

「肥前出身で、将軍の侍医となり医官最高の奥御医師であった、伊東玄朴は、神田に(お玉が池種痘所)を開所し、これが発展的に幕府西洋医学所となり、後の 東京帝國大学医学部 の前身です。同じく当時、オランダ医学やイギリス医学にほぼ傾きかけていた流れに強力に反対して、明治政府にドイツ医学を採用決定させたのも、肥前出身の 相良知安で す。彼は、後に医学 開業試験の提言を行い、これが医師国家試験のルーツです。」
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/020621c.html
http://www.osaka-minami-med.or.jp/ijisi/ijishi01.html
2007年02月12日(月)
萬晩報主宰 伴 武澄
 江戸時代の日本の医学が侮り難いものだったことを示す記録が佐賀県伊万里市の旧家から見つかった。記録は1854年(嘉永7)、種痘が未実施だった村の子どもたち5人に種痘を接種し、数年で150人に接種したというものである。5日の佐賀新聞に掲載されていた。

 接種がどういう方法で行われたかは記事からは読みとれないが、"予防接種"が行われていたことはちょっとした驚きだった。

 誰もが不思議に思うのは江戸時代に果たして注射なるものがあったのかということである。日本の注射がどんなものであったのか実はイメージがわかない、現 在のようなものなのか、あるいはまったく違う形を形をしていていたのかも分からないが、記事によれば「接種」ということになっているから注射でなかったか もしれない。

 イギリスのジェンナーが子どもに種痘の実験をしたのは1796年のことだった。教科書で習った時、子どもに注射をしているジェンナーの絵が添えられていた記憶がある。

 ジェンナーの実験が正式に発表されたのは2年後の話だから、その約50年後に日本では普通に種痘が行われていたことになる。鎖国時代とはいえ、佐賀藩は相当に速いスピードで西洋医学を受け入れていたことになる。

 佐賀藩の種痘とは別に、お隣の久留米藩では中国から伝来した"種痘"を実施していた。天然痘の瘡蓋(かさぶた)を粉にしたものを鼻薬のように処方したと される。この方式の種痘を行ったのは藩医の緒方春朔だった。1789年(寛政元年)のことだからジェンナーよりも7年早かったことになる。ちなみに杉田玄 白らが『解体新書』を刊行したのは1774年(安永3年)だった。

 また紀州藩の華岡青洲が妻を実験台にして麻酔薬を完成させ、母の乳がん手術を行ったのは1804年(文化元年)だった。これは世界に先駆けた麻酔手術だった。

 江戸時代の記録をきっかけにいろいろ調べたことを書いたが、注射の起源は分からなかった。医学部で学んでいる長男に頼んで先生に聞いてもらったが「江戸 時代に注射があったとは思えない」といった程度で分からない。知っている方がおられたらぜひ教えてほしい。

 【訂正】2月11日付「穴あきダムを嗤う」で「大雨の時に穴を閉める」と書きましたが、本当は洪水の時も閉めないそうです。国交省の方から指摘がありました。お詫びして訂正します。
2007年02月11日(日)
萬晩報主宰 伴 武澄
 長野県は、県内を流れる浅川のダムの設計計画を中止した田中康夫前知事の政策を転換し、穴あきダム建設を決定した。いわゆる治水利水のうち利水をやめて治水に特化するというのだ。

 そもそも読者の多くには穴あきダムのイメージが湧かないのではないかと思う。ダムを水を貯めるための施設なのに、穴が空いていたら意味がない。ダムの下 の部分に可動式の穴が空いていて、普段は空いているが大雨の時に閉めて洪水を防ぐというのだが、そんなものダムというのかという疑問もある。

 筆者は一般論として脱ダム賛成派だ。ダムは公共事業のかたまりである。小さいダムでも何百億円の金がかかる。大きなダムだと数千億円は軽くかかる。昭和 30年代につくられた全国ダムマップをもとに粛々とダムをつくり続けてきたのがこれまでのダム行政であると聞いたこともある。防災という観点もあっただろ うが、どちらかといえば農業用水だとか工業用水、発電といった利水に重点が置かれてきたという印象も持っている。その場合、水の需要は常に右肩上がりの経 済を前提としていた。

 その右肩上がりの前提が崩れて久しい。一方でダム建設による環境破壊問題も浮上してきた。ダム建設は開発か環境かを問う国民的関心事となった。

 明治以降、多くのダム建設は治山治水面で多大な貢献をしてきた。そのことを否定するものではまったくない。ただ20年に一度の災害を防ぐ防災が50年と なり、いまや100年に一度の確率に耐えうる建造物をつくろうとしている。もし100年に一度に耐えられる国土ができたら今度は200年に一度の災害に耐 えうる国土づくりに励むのだろうか。

 そこまで人間は自然を支配しなければならないのか。あるいはできるのか。分からないことが多いが、防災コストが倍々ゲームになることだけは確かであろ う。防災は大切である。環境も大切である。問題は日本という経済がどこまでその負担に耐えられるのかということではないだろうか。

 長野県の財政は財政再建団体への転落ぎりぎりにある。田中前知事が公共事業費を抑制してきた背景にはそうした逼迫した財政事情があった。新しい村井知事 は7日、前年度比2・6%増となる8462億円の2007年度予算案を決めた。浅川ダムの建設は08年度からの予定だが、浅川ダム建設に着手する財政的余 裕は長野県にはたしてあるのだろうか。

 一部の道府県を除いて財政は依然として厳しい。景気回復があろうがなかろうが、過去の大盤振る舞いのつけは今後多くの自治体で支払っていかなければなら ない。小泉前首相がそれまでの首相と違っていたのは、景気対策をほとんどやらなかったことである。国民に我慢を強いたのである。にもかかわらず絶大な支持 率を維持した。国交省と一部の業者を喜ばす行政は長続きしないのだ。

 戦前の信濃毎日新聞に桐生悠々という名コラムニストがいた。「東京空襲大演習を嗤う」というコラムを書いて陸軍からにらまれ、長野を去らざるを得なかっ た。桐生悠々ほどの勇気もないが、あえて「穴あきダムを嗤う」というタイトルをつけた。

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