2006年9月アーカイブ

2006年09月30日(日)
萬晩報主宰 伴 武澄
 安倍新首相誕生の前日の25日、午前10時から自民党新総裁が中川秀直氏を幹事長とする党三役人事を決定した。ほぼ予想通りの布陣で国民の関心が新政権の閣僚人事に移ったちょうどその時、新内閣に呼応するかのような事件が中国で起きた。

 ■上海ナンバーワン解任の意味

 江沢民前総書記の流れをくむ上海のナンバーワン陳良宇上海市書記が解任されたとする一報が昼すぎ、香港の衛星テレビのニュースで流れた。一時間後には国営新華社通信がそのニュースを追認した。

「おー中国が動き始めた」。このニュースに接した直感である。胡錦濤が2003年に総書記に就任してからも中国の実権は江沢民にあった。国家と党の軍事委 員会主席という実権を離さなかったからである。一昨年9月、党の軍事委員会主席に就任して、ようやく党・政府・軍の権力の全てを事実上掌握した。それでも 党内や全国には江沢民人脈が張り巡らされていて、なかなか胡錦濤の独自色を出すことが出来なかった。

 25日報道された陳良宇上海市書記の解任劇は、不正融資絡に絡んだものだった。しかし、誰もが真っ先に考えたのは「総書記3年目にして胡錦濤が江沢民派 排除に動き出した」ということではなかっただろうか。胡錦濤総書記にとって、大きな政治的賭けとなることであろうことは容易に想像できる。実質的な権力闘 争がすでに中国で始まっているかもしれないのである。

 中国の過去の政権交代が平和裏に行われたことはなかった。江沢民は天安門事件の惨劇を背景に権力の座についたことは記憶に新しい。毛沢東はかつて「革命 は銃口から生まれる」と言ってはばからなかった。1960年代前半に劉少奇ら実権を奪われると、紅衛兵を組織して文化大革命を起こした。毛沢東が76年9 月に死去すると今度は江青ら四人組が電撃逮捕され、鄧小平復活の糸口が生まれたのだった。

 鄧小平復活後も政権は常に左派から巻き返しの危機にさらされた。天安門事件だって左派の李鵬グループによる趙紫陽ら改革開放派追い落としだった可能性が高いといわれている。そういう意味で江沢民から胡錦濤への政権交代が平和裏に終わるはずがなかったのだ。

 ■安倍新首相へのメッセージ

 大切なことは胡錦濤による大きな政治的賭けが安倍政権誕生の日に併せて始まったということである。安倍新政権はこの重大なメッセージを真摯に受け止める べきである。安倍新首相はことあるごとに命をかけると言っているが、平和な日本では構造改革をやりすぎて命が狙われるわけではない。ところが13億人の共 産国家ではそうはいかない。一族郎党すべてが政治的に抹殺される可能性だってあるのだ。同じ政治的賭けという表現であっても危険度は雲泥の差がある。

 だから、安倍新首相には安易に国家の威信をかけてほしくないのだ。「お互いの努力」という面では、中国はすでに国内の反日勢力の一掃に乗り出したのだ。 中国の反日勢力の牙城である江沢民派が復権すれば、日中関係はさらに泥沼化するかもしれない。

 ■権力闘争の序章ともなる中国での"市民"の示威活動

 陳良宇は浙江省寧波市生まれ、解放軍の建設部門の学院を出て、上海の国営企業の幹部となった。江沢民が上海市長から中央に抜てきされ、一気に中国のトッ プに就任するのに合わせるかのように上海市政府内で頭角を現し、市長、党市委員会書記に登り詰めた。江沢民時代の寵児の一人である。

 党内政治局委員の序列は十数番目。その上に黄菊常務委員ら江沢民派とされる党幹部が10人近くいる。筆者は、昨年、中国で起きた大規模な反日デモの背景 に現政権に対する不満が渦巻いていたのではないだろうかと考えた。昨年4月11日に「中国で流布する反日メールの内容」というコラムで書いた。
http://www.yorozubp.com/0504/050411.htm

 表面的には中国政府は反日デモを容認したように見えたが、中国政府はその後の反日運動はかなりの程度、封殺しているように思える。天安門事件をみるまで もなく、政権内の権力闘争が"市民"の示威行動に表れるのは中国ではごく自然の動きなのだ。

 小泉首相の靖国参拝はそうした中国での"市民"が示威行動に出る格好の理由付けとなった。いわば江沢民派の反胡錦濤活動を後押しした形となった。日本が 「毅然とした姿勢」を示すことが胡錦濤総書記の政権基盤を揺るがしていたのだから、皮肉である。
2006年09月29日(金)
 (財)人間自然科学研究所理事長 小松昭夫
 はじめに

 先進国と言われる米国、西欧、日本は、文明の違いにより、勝敗、健康、環境の価値観の順位に相違があり、相互理解が難しい。さらに、現在は次の3つの危機が複雑に絡まり、展望が開けない現状になっている。
  1. 「対立」 (1)世代間の対立(2)地域間の対立(3)国家間の対立
  2. 「恐怖」 (1)核兵器拡散(2)化学・微生物兵器の開発(3)地球規模の不信感蔓延
  3. 「人口問題と資源」 (1)発展途上国の人口爆発(2)資源エネルギーの高騰(3)先進国の少子高齢化
  特に北東アジアには、日本が深く関わった、激動の歴史の中から生まれた韓国・北朝鮮分断国家が存在する。戦後60年経っても解決の見通しがつかず、最近特 に緊張が高まっている。このような状況を打開するには、生命の起源、人類の特性、人間の定義という根源的なところから見直すしかない。東洋・西洋文明の融 合から生まれた日本は、敗戦国にも関わらず、戦後、産業基盤を確立、豊かな生活をしてきた。日本が世界に先駆け、韓国、北朝鮮とともに、大国である米国、 中国、ロシアの理解を得て、ソフトパワーで、平和への潮流を生み出す時に来ている。

 西欧では二つの大戦から生まれた怨念を、和合に変えるべく、当事国による共同歴史調査研究が行われ、書籍、映像とともに多くの「戦争と平和記念館」が建 設された。インターネットの発達と、国家間を跨ぐ大旅行時代を迎え、これらの記念館は、歴史教育基地として大きな影響を及ぼしている。

 このような状況下、日本の対戦国だった国では、巨額の資金を投じて、たくさんの記念館が、愛国歴史教育基地として作られてきた。日本では、近・現代史を 総合的に考察した施設は造られず、また教育もほとんど行われてこなかった。このままでは歴史認識の差は開くばかりであり、このような状況で備忘策を労し、 表面を取り繕っても本質的な解決にはならない。本質的な議論ができる人材の生まれる環境の整備からはじめるしかない。

 1、 恒久平和への一歩

 A)平和のシンボル・タワーの建設

 首相の靖国神社参拝が政治問題化している最中、島根県で「竹島の日」が制定された。これが北朝鮮にも影響し、北東アジアの緊張が一気に高まり、日米の ハードパワー(軍事力)が急速に増強されたが、ソフトパワー(調和力)の充実も急ぐべきである。

 日本の島根県と鳥取県にまたがる中海・宍道湖圏には、戦争末期、海軍航空隊本土決戦基地があり、7000名が配置されていた。中国山脈を隔てた広島に人 類最初の原子爆弾が投下され、敗戦が早まり、この地は戦災を免れ、たくさんの命が救われた。また、この地には古代、平和的に日本を作った証として建立され た出雲大社があり、「縁結び・和譲」という伝説が伝わっている。これは、「与え合うことから尊敬と平和を生み出すこと」という意味である。また、2013 年には出雲大社で遷宮が計画されており、同年、全国の神社を総括する伊勢神宮の遷宮も計画されている。

 これにあわせ、この地で平和シンボル・タワー構想を呼びかけている。これは古代の出雲大社神殿の高さ48mとし、日本との戦争で亡くなった国内外の2300万人とも言われる方々をその中にすべて記録する計画である。

 B)世界写真・映像 戦争と平和記念館

 写真と映像で世界の「戦争と平和記念館」を同じ場所で総合的に学ぶことができれば、戦争と平和に対して大局、具体的な思考が生まれる環境が整う。

 ユーラシア大陸、朝鮮半島の対岸であるこの地で、定期的に各界の平和会議を開催することにより、北東アジアから平和への流れを生み出すことができる。世 界の記念館を写真と映像で観覧できる施設は、世界に先例が無く、想像を超える効果が生まれる可能性が高い。ブロードバンドの普及によって、世界の記念館の 展示内容の変化を即座に見ることもでき、また、入場者の反応も共有することができる。

「世界写真・映像 戦争と平和記念館」は、各地の記念館を訪問するきっかけと、記念館同士の縁結びとなり、平和への自立的な動きが期待できる。世界の人々 が定期的にこの記念館に集まり、ブロードバンドを使って未来志向で議論を重ねる中から、恒久平和への動きが始まる。

 このプロセスを世界に広報することは、メディアにとって重要な役割である。また、スポンサーにとっても、社会有用企業として認められる良い機会を提供することになる。

 C)平和碑林公園

 ここに日本が戦火を交えた土地から樹木を移植、現地の人たちと共同作業で平和公園を作る。プロジェクトに貢献した人を後世に伝えるため、経歴や写真など を2000年の耐久性がある陶版画に記録、これを石碑にはめ込んだ碑林を造り、建設・運営資金調達を促進する。

 2、環境問題への取り組み

 最初の生命といわれるシアノバクテリア(藍藻・酸素を放出する独立栄養生物)は、太陽エネルギーと水・硫化水素・窒素・微量元素から生まれ、次に酸素を 利用する従属微生物が誕生、生命の連鎖と進化が始まったと考えられている。微生物の中には、有害な重金属、ダイオキシンでも無害化するものもいる。

 中海・宍道湖圏は豊富な微生物群が育ちやすい温暖湿潤地帯で、地表は豊富な火山表土に覆われている。しかし、この地域は、近年、酸性雨により生態系が壊 され、松林も全滅、また、中海・宍道湖の富栄養化により魚貝類大量死も毎年のように起きている。

 これらのことから、ここは微生物を活用した先進的な自然農法、栽培漁業、下水道処理施設の先端技術開発と技術者の養成にもっとも相応しい地域といえる。

 3、健康問題への取り組み

 人類は食べ物と環境により、限りなく悪魔にも近づき、神にも近づく生命体である。戦後、化学肥料、農薬、食糧の商品化、そして近年の酸性雨によって農地 と湖沼が疲弊し、免疫力の高い食糧の生産ができなくなった。先進的な微生物技術を活かし、大地・魚場を蘇生化、主食として最も優れた玄米食に適した米、免 疫力の高い野菜、果物、魚貝類を生産する。この原料を使って高機能発酵食品・栄養補助食品の製造もできる。

 おわりに人類は他の生命体と違い、生まれてから進化する生命体である。依存から自立、そして相互依存段階へすみやかに人類を進化させるために中国の古典は非常に大きな役割を果たすと考えられる。

 当研究所では北京オリンピックまでに日中英韓の4カ国語で中国北京の学苑出版社にお願いして「中国古典名言集」を出版することにとなっている。さらに西 欧で発達した哲学、演繹法、帰納法、弁証法、及び21世紀の生命科学を加えることによって新しい知の体系を北東アジアで作り出すことが恒久平和への入り口 になると確信している。

 理不尽なことの多い社会で、道理を追求するうちに、ヒラメキが起き、仮説が組みたつ。老子の言葉が今、光を放つ。「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」

(この原稿は9月24日~25日、中国の南京市で開かれた2006年南京国際平和フォーラムで行った講演の原稿を元に萬晩報に寄稿されたものです)

 小松さんにメール webmaster@green.hns.gr.jp
2006年09月27日(火)
萬晩報通信員 園田 義明
 ■近衛上奏文のターゲット

 木戸幸一の実弟・小六の長女正子は1939(昭和14)年に都留重人と結婚する。戦後日本を代表する経済学者として一橋大学学長や朝日新聞論説顧問を歴 任した都留は、戦前のハーバード大学でE・ハーバート・ノーマンと深い親交を結び、二人はマルクス主義者としての時間を共有していた。

 長野県軽井沢でカナダ・メソジスト教会の派遣宣教師の息子として生まれたカナダ人外交官ノーマンは、戦後連合国軍総司令部(GHQ)の対敵諜報部 (CIS)の調査分析課長として政治指導者や政治犯の情報収集を行い、最初の仕事が米国外交官ジョン・エマーソンとともに行った府中刑務所からの志賀義雄 や徳田球一ら16名の共産党幹部の釈放、次に行ったのが近衛文麿と木戸幸一に関する意見書の作成であった。

 この意見書は近衛と比べて木戸には寛大だった。工藤美代子はノーマンと都留が合作した作文が近衛を貶めたと主張する。またノーマンが近衛を憎んだ最大の 理由が「近衛上奏文」とマッカーサーと会見した際の「軍閥や国家主義勢力を助長し、その理論的裏付けをなした者は、実はマルキストである」とする近衛発言 にあったと書いている。

 敗色濃厚の終戦年2月14日の近衛上奏文には、日本の敗戦は必至としながら、「最も憂ふべきは、敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命」にあ るとし、「コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向」を「皮相安易なる見方」と指摘しながら、「軍部内一味の者の革新論の狙ひは、必ずしも共産革 命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり。所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)は、意識的 に共産革命に迄引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なし」と書かれている。

 ここで工藤美代子は重大な見落としをしているので指摘しておきたい。この近衛上奏文にある「これを取巻く一部官僚」とは、明らかに木戸と「特別の信頼関係」にあった岸信介をも指していた。またその上、木戸本人を指していた可能性すらある。

 ■革新勢力を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり

 岸信介が満州国総務庁次長として満州国という実験場で実行に移した「満州産業開発5か年計画」を描いたのは宮崎正義である。金沢の下級武士の家系に生ま れた宮崎は、ペテルブルグ大学留学中にロシア革命前夜に遭遇し、満鉄きってのロシア・スペシャリストとなる。宮崎は世界恐慌の最中にあって驚異的な成功を 収めたソ連の経済五カ年計画に着目、関東軍参謀の石原莞爾や戦後国鉄総裁として新幹線建設に尽力した十河信二らと経済調査会を発足させ、ソ連の経済五カ年 計画を取り入れた日本独自の官僚統制経済システムを企画立案した。
 
 岸と星野直樹は鮎川義介の協力を得て満州重工業開発を設立し、鮎川はここで官僚統制経済システムに修正を加える。末端の下請け産業の底上げを目的とした系列システムを統合させることで、より重層的なシステムに作り替えたのである。

 満州国から帰国した岸は阿部・米内・近衛内閣のもとで商工次官を勤め、革新官僚の活動拠点になっていた企画院や陸軍「革新派」と連携しながら革新勢力を形成、満州産業開発5か年計画に端を発する戦時統制経済を日本に持ち込もうとした。

 しかし、岸は阪急東宝グループの創業者として知られる自由主義経済人であった小林一三商工大臣と対立、企画院事件も重なり、小林は岸に対して「お前はア カ(共産主義者)だ」と辞任を迫った。このことは岸本人も『岸信介の回想』(文藝春秋)の中で触れている。この時、岸解任を決めたのが近衛文麿だった。こ れを機に過激な統制強化に反発する国会や財界は「革新官僚はみなアカだ」と非難し、岸もアカと見なされるようになった。(『岸信介の回想』の他に『「日本 株式会社」を創った男』小林英夫・小学館、『岸信介』原彬久・岩波新書参照)

 そもそも統制という言葉が法律語として初めて登場するのは、満州産業開発5か年計画以前の1931(昭和6)年4月に公布された「重要産業統制法」であ る。これを立法起案したのがドイツのナツィオナリジィールンク(国家統制化)運動を学んで帰国した農総務省時代の若き岸だった。その実施にあたったのが岸 とその上司、木戸であったことも『岸信介の回想』で岸本人が語っている。木戸と岸の特別な信頼関係は農総務省時代の上司と部下の関係によって培われた。

 また木戸と近衛は京都帝国大学時代からの学友であり、岸を中心とする革新勢力の期待を一身に担ったのが、近衛であり、木戸である。近衛と木戸は原田熊雄 (西園寺公望の秘書)とともに「宮中革新派」を形成し、宮中内部の権力を掌握すべく、軍部や右翼と手を握りながら牧野伸顕を支えた関屋貞三郎宮内次官を辞 任に追いやり、この関屋辞任工作により薩摩系宮中グループから主導権を奪い取ったのである。

 尾崎秀実をもブレーンとして重用していた近衛が、その上奏文で自身の「過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亙り交友を有せし不肖」を「反省」しているのもこのためだ。

 従って、工藤美代子が主張するノーマン・都留策略説はいささか公平さに欠いている。先に仕掛けたのは近衛である。近衛上奏文こそが木戸や岸ら長州系宮中 グループへの裏切り行為を意味した。内情をよく知る近衛と原田は長州系宮中グループから薩摩系宮中グループに寝返ったのである。また同時に、近衛上奏文は 木戸や岸をも「アカ」とするレッテル貼りが行われていた可能性すらある。

 ■天皇のインナー・サークルとしての宮中内の対立構図

 それでは、誰がそのレッテルを貼ったのか。
 
 近衛上奏文は近衛文麿と吉田茂率いるヨハンセン・グループ(吉田反戦グループ)の合作である。ヨハンセン・グループこそが薩摩系宮中グループである。そ の中心には牧野伸顕(薩摩藩士大久保利通の二男、吉田の岳父)、樺山愛輔(海軍大将・樺山資紀の長男)に吉田茂を加えた3名がいた。

 この近衛上奏文は悲しいほどに非力ながらもヨハンセン・グループ最大の成果となった。しかもここで行われたレッテル貼りには、戦後を睨んだしたたかな戦略が読みとれる。そして、陸軍とともに長州系宮中グループもこの時点で敗北が確定した。

 そもそも長州の山県有朋の権力が宮中某重大事件で失墜した直後の1921(大正10)年に薩摩の牧野が宮内大臣に就任、1925(大正14)年に内大臣 となった。しかし5・15事件の影響から牧野の身を案じた牧野の女婿・吉田の意見もあって1935(昭和10)年に辞任する。木戸は1940(昭和15) 年に内大臣に就任、牧野に代わって宮中政治を牛耳った。宮中某重大事件については諸説あるが、関屋辞任工作に見られるように宮中側近の座をめぐって長州と 薩摩は熾烈な権力争いを行っていたのである。

 このヨハンセン・グループには二・二六事件で予備役へ追いやられた陸軍皇道派の真崎甚三郎と小畑敏四郎も関与している。皇道派主導の二・二六事件で吉田 の岳父であった牧野も狙われたことを考えれば、吉田と陸軍皇道派の協力関係は奇妙に見えるが、吉田らは東条率いる陸軍統制派に陸軍皇道派をぶつけるために 手を組んでいた。また彼らを結びつけたのは「反ソ・反共」であり、日本が赤化することへの強い危惧を共有していたからだ。

 陸軍省防諜課によって監視されていた吉田は、1945(昭和20)年4月15日、「近衛上奏文」に関連する容疑で憲兵隊によって逮捕される。この逮捕は ヨハンセン・グループの反戦信任状(『吉田茂とその時代』ジョン・ダワー)となり、戦後において極めて有利な経歴となった。

 この反戦信任状の威力は、木戸(終身禁固刑)や岸(巣鴨拘置所収監)に対してヨハンセン・グループに関与した約20名の内、誰ひとりとしてA級戦犯起訴されていないことからもわかる。唯一の例外になり得た近衛も自ら死を選ぶことによって免れた。

 また、有罪判決を受けた25名のA級戦犯の内訳を見ると、陸軍軍人が15名に対して海軍軍人が2名、さらに極刑となると東郷、板垣、武藤ら陸軍軍人が6名に対し、海軍軍人は一人もいない。長州の陸軍、薩摩の海軍の棲み分けと反戦信任状の威力を思い知ることになる。

  園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp
2006年09月23日(土)
萬晩報通信員 園田 義明
 ■序文

 本稿は戦前の天皇のインナー・サークルとしての宮中グループに焦点をあてながら、昭和平成史を読み解くことを目的としている。宮中グループは宮中側近グ ループなどとも呼ばれ、これまで定義としてあいまいさを残してきた。本稿では宮中グループを宮中側近にいた政・官・軍を含めたエリート集団と位置付け、こ れまで一括りに論じられることが多かったこのグループを牧野伸顕中心の「薩摩系宮中グループ」と木戸幸一中心の「長州系宮中グループ」に切り離し、対比し ている点を特徴としている。

 薩摩系宮中グループは皇室との関係においては貞明皇后、秩父宮夫妻、高松宮との結びつきが強く、昭和天皇の母君である貞明皇后のインナー・サークルとも 言える。また、彼らは英米のエスタブリッシュメントと戦前から深く結び付き、親英米派として国際協調を重視した自由主義者であり、英米から穏健派と呼ばれ た勢力である。このため皇室と英米有力者との仲介者として宮中外交を支えた。英米との接触の中で宗教的感化を受けてクリスチャン人脈を多く抱えていたこと も特徴としてあげられる。その歴史的な背景はザビエル来航450周年を記念して建立された「ザビエルと薩摩人の像」(鹿児島市ザビエル公園)が象徴してい る。

 これに対して長州系宮中グループは昭和天皇のインナー・サークルとして昭和の戦争を主導した勢力である。岸信介や松岡洋右を仲介者に陸軍統制派と手を握 りながら戦時体制を築いた。単独主導主義的な強硬派と見なされることも多いが、アジアの開放を掲げた理想主義者としての側面もある。戦前から靖国神社が彼 らの拠り所となってきたことは、靖国神社にある長州出身の近代日本陸軍の創設者・大村益次郎の銅像が見事に物語っている。

 かつては「薩の海軍、長の陸軍」という言葉もあった。地政学的に見れば前者は海洋勢力、後者は大陸勢力となるだろう、また、明治期に医学を教えたドイツ 人医師・エルヴィン・ベルツは、日本人を薩摩型と長州型に分類し、それらが異なる二系統の先住民に由来するとしながら、薩摩型はマレーなどの東南アジアか ら、長州型は「満州」や朝鮮半島などの東アジア北部から移住した先住民の血を色濃く残していると考えていたことも興味深い(『DNAから見た日本人 』斉藤成也・筑摩書房)。前者は縄文人、後者は弥生人の特徴を残しているのだろうか。大陸からの渡来人によって縄文人が日本列島の南北周縁に分散したと考 えることもできるだろう。

 本稿では明治維新の内乱の過程で賊軍の汚名を着せられた武士階級の出身者やその子孫が数多く登場する。薩長藩閥によって立身出世が阻まれながらも、佐幕 派は賊軍の汚名を晴らすべく、ある者は語学力を身につける過程でクリスチャンとなって薩摩系宮中グループに接近し、ある者は軍部を率いて長州系宮中グルー プと手を握り、またある者は共産主義に傾斜していった。特に陸軍の悲劇は、勝てば官軍の東京裁判で再び汚名を着せられたことだろう。しかし、勝てば官軍は 世の常であり、その最たる例が靖国神社の原点にあることを再びここで取り上げる。

 日本の敗北は長州系宮中グループの敗北も意味した。薩摩系宮中グループは戦時下において悲しいほどに非力であったが、戦後、英米から選ばれし穏健派エ リート集団として勝ち残ることになる。薩長の明暗を分けたのは情報力の差である。これは未来永劫語り継ぐべき重要な教訓である。

 戦後、薩摩系宮中グループの流れを受け継いだ吉田茂は、元祖「反ソ・反共」として、「経済優先、日米安保重視、軽武装、改憲先延ばし」の吉田ドクトリンを掲げて保守本流を築いていった。この吉田はカトリックとして本流らしい最期を迎えた。

 この吉田一派をポツダム体制派と見なし、反吉田旋風を巻き起こしながら、見事に復活したのが長州系宮中グループを受け継いだ岸信介である。岸も賊軍の汚 名を晴らすかのように国際政治の舞台に復帰する。元祖「反ソ・反共」に対抗して、統一教会などと「勝共」を掲げたが、所詮保守傍流に追いやられた。
 
 平成の時代になって「政治優先、対米自立、再軍備、自主憲法制定」を柱とする岸ドクトリンのたすき掛けリレーが小泉純一郎によって再スタートする。そし て今、第一走者の小泉純一郎から第二走者の安倍晋三へと受け継がれた。安倍の背後にはさらに強力な第三の男も控えている。この3名すべてが岸及び岸の同志 につながる家系である。

 なお、本稿には日本国憲法における象徴天皇制及び戦争放棄に大きな影響を与えた新渡戸稲造とそのクエーカー人脈が再度登場する。さらに、歴史に埋もれた ままになっている敬虔なクエーカー外交官も取り上げる。従って、「ビッグ・リンカー達の宴2」シリーズの続編としても位置付けたい。

 岸の血を引き継ぐ長州8人目の安倍晋三首相からこの物語を始めたい。

 ■長州8人目の首相に向けられた二つの遺言

 長州8人目の首相が誕生する。1885(明治18)年の内閣制度発足以来、長州は初代伊藤博文、山県有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一、岸信介、佐藤栄 作(岸信介の実弟)の7名の歴代首相を生み出してきた。8人目の安倍晋三にとって岸信介は祖父、佐藤栄作は大叔父にあたる。

 この7名に戦前の満州国の実力者として「二キ三スケ」と呼ばれた5人の人物を加えることで、安倍の長州人脈がより一層理解できる。二キは東条英機と星野 直樹、三スケとは岸、松岡洋右、それに日産コンツェルンの創設者である鮎川義介を指す。岸、松岡、鮎川の三スケはともに長州出身の縁戚トライアングルと なっていた。

 この岸の血を引き継ぐ安倍晋三の『美しい国へ』(文春新書)の発売日は7月20日、この日の朝に届けられた日本経済新聞に安倍晋三と縁戚関係にある松岡 洋右の名前が登場、日本中が騒然となった。(『美しい国へ』の発売日から5日後、購入するために誤って「美しい国」で検索したところ、統一教会と国際勝共 連合の会長を務めた久保木修己の遺稿集『美しい国 日本の使命』(世界日報社)が飛び出てくる。ここに「美しい国」の向かう先が暗示されているのだろう か。)

 この日本経済新聞に掲載された昭和天皇が当時の富田朝彦宮内庁長官に語ったとされる富田メモの信憑性をめぐって様々な議論が巻き起こっているが、 1944年7月16日付東条英機名文書で、靖国神社合祀基準を戦役勤務に直接起因して死亡した軍人・軍属に限ると通達していたこと(8月5日付共同通信) を考えれば、昭和天皇の不快感がA級戦犯ではなく、東条の示したルールを無視して勝手に合資を決めた旧厚生省や靖国神社に向けられていたとの見方も浮かび 上がる。

 とはいえ、昭和天皇独白録の中で松岡洋右を「おそらくはヒトラーに買収でもされたのではないかと思われる」と厳しく批判していることから、昭和天皇は松岡と白鳥敏夫元駐イタリア大使が推進した日独伊三国同盟締結を戦略的な失敗だったと見ていたことを否定するのは難しい。
 
 組むべき相手を間違えてはならないとの昭和天皇の思いが遺言同様の重みを持ってずしりと伝わってくる。

 そして8月1日、旧日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)最後の頭取であった西村正雄が急死した。西村は故安倍晋太郎の異父弟で、安倍にとっては叔父にあたる。

 この西村は『論座』7月号に「次の総理に何を望むか-経世済民の政治とアジア外交の再生を」とする論文を書いている。名指しこそ避けているものの明らかに安倍に向けられたものであり、ここでもまた松岡の名前が登場する。

『民主主義が陥りやすい欠点は、ポピュリズム政治である。特にテレビが発達した小選挙区制度の下では、その傾向が強くなりがちである。テレビに頻繁に出 て、若くて格好良い政治家が人気を博する。また、中国の反日デモなどを機に「強い日本」を煽るナシャナリスティックな政治家がもて囃される傾向がある。こ のような偏狭なナショナリズムを抑えるのが政治家に課せられた大きな使命である。戦前、松岡洋右外相の国際連盟脱退、日独伊三国同盟締結を当時のマスコミ が歓迎し国民もこれを支持した結果、無謀な戦争に突入したが、最近似た傾向が出ていることは憂慮される。』

 森田実によれば、死の直前、西村は安倍に宛てた手紙の中で「ここ(『論座』7月号)に書いてある内容は、君に対する直言であり、故安倍晋太郎が生きてい れば恐らく同意見と思うので良く読むように」と伝え、更に次期総理は時期尚早、小泉亜流は絶対不可、竹中等市場原理主義者や偏狭なナショナリストと絶縁 し、もっと経験を積むようにと言い込んだとのことである。

 この西村の手紙は週刊現代の『安倍晋三「空虚なプリンス」の血脈』シリーズでも取り上げられている。靖国神社が運営する戦史博物館「遊就館」の存在が米国との関係悪化につながるとしながら、「国家を誤らせる偏狭なナショナリストと一線を画すべき」と重ねて書いている。

 テレビに頻繁に登場し、演説には大勢の女性が押し寄せ、偏狭なナショナリズムを抑えるどころか先頭に立って「強い日本」を煽り、『美しい国へ』で闘う姿勢を示した。

 おそらく西村は安倍の親代わりとして、その行く末を松岡に重ね合わせていたのかもしれない。この西村もまた安倍に対して組むべき相手を間違えてはならないと警告していたのである。

 まずは今まさに誕生した長州8人目の首相と偏狭なナショナリズムの接点となっていると思われる「長州の護国神社のような存在」としての靖国神社から歴史を振り返ろう。

 ■靖国における官軍と賊軍

 1869(明治2)年、明治維新時の戊辰戦争で亡くなった官軍兵士を祀るために靖国神社の前身である東京招魂社が創建、これに尽力したのが長州の大村益 次郎、1872(明治5)年に社殿(本殿)が完成し、正遷宮祭が執行された時の祭主は長州の山県有朋であった。1879(明治12)年に別格官幣社と列格 されて靖国神社に改称、以後敗戦まで陸軍省と海軍省と内務省が管轄官庁となった。

 山県は「日本陸軍の父」と言われた大村の意志を継ぎ、参謀本部を権力基盤に、長州の陸軍、薩摩の海軍という棲み分けを謀りながら、「陸軍のローマ法王」 として陸軍の前期ほぼ50年を長州閥で実質支配した。またその派閥網を掌握しながら軍のみならず政界にも君臨、内閣製造者にして内閣倒壊者として桂、寺 内、田中政権を生みだしていく。

 この山県の権力も1921(大正10)年の宮中某重大事件で失墜、その翌年に死去し、以後長州閥全盛時代が崩壊していくかのように見えた。しかし、実際 には政・官・軍・財へと人材が配置され、現在まで脈々と引き継がれてきた。その象徴となった地が戦前の満州国であり、ここで革新官僚を代表したのが安倍の 祖父、岸信介である。

 岸は関東軍参謀の秋永月三らの画策により、商工省工務局長から満州国に転出、満州国総務庁次長として「満州産業開発5か年計画」を実行に移し、満州を官僚統制経済システムの壮大な実験場にしながら、東条英機に接近していくことになる。

 一方で官軍兵士を祀るための靖国神社には、朝敵であった会津白虎隊同様、南部藩士も庄内藩士も祀られていない。東条英機の父東条英教は南部藩士、陸大を 最優秀の成績で卒業しながらも長州閥によって昇進が阻まれ、予備役中将として軍人の生涯を終える。東条の長州への恨みにも似た感情の背景には父の受けた仕 打ちがあった。東条は永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次などとともに陸軍に蔓延る長州閥打倒、国家総力戦体制、統帥権の確立を目指して立ち上がる。

 昭和の戦争の出発点は1931(昭和6)年の満州事変。その首謀者は石原莞爾と板垣征四郎とされる。石原の父は庄内藩士、板垣の父は東条と同じ南部藩士 である。彼らは「賊軍」の汚名を晴らすべく軍閥を形成しながら昭和の戦争を主導し、戦後南部藩士の息子二人は絞首刑となった。

 満州の地で長州と反長州が「二キ三スケ」として結合し、親密な関係を築いていく。一時ではあるが確かに「官軍」と「賊軍」の立場が入れ替わっていた。二 人を結びつけたのは岸の関与したアヘン密売によるカネの力であったとする説が今なお語り継がれている。しかし、岸と東条の関係も長くは続かなかった。

 東条の引きもあって東条内閣の商工大臣となった岸も、劣勢への対応策として商工省が廃止、軍需省が新設された際に軍需次官(兼国務相)に降格されたこと から東条との関係が悪化、サイパン島陥落(1944年7月)によって戦争継続を不可能と判断した岸と本土決戦覚悟で戦争継続を目論む東条との対立が決定的 となり、岸の辞任騒動に発展、これをきっかけに東条内閣は総辞職に追い込まれる。

 ■長州系宮中グループの中心人物

 この時、岸信介の背後から「反東条・倒閣」を指示していたとされる黒幕が木戸幸一内大臣である。

 木戸の父・来原孝正は長州閥の巨頭・木戸孝允(桂小五郎)の実妹・治子と吉田松陰の親友としても知られる長州藩士・来原良蔵の長男として生まれ、後に木 戸家を継いで木戸孝正となった。この孝正と長州ファイブの山尾庸三の娘・寿栄子の間に生まれたのが幸一であり、その妻・鶴子は日露戦争の英雄、児玉源太郎 陸軍大将の娘である。長州エスタブリッシュメントの血を受け継いだ木戸こそが長州系宮中グループの中心にいた。

 近衛内閣総辞職後、木戸は天皇の側近中の側近としての立場を利用しながら、皇族内閣に反対し、対米強硬派である東条を強く推した。昭和天皇への忠勤ぶり が目立つ東条を昭和天皇の意思が直接伝えられる首相に起用することで戦争回避に道が開ける。この木戸の甘い判断は、皮肉にも自らが岸を使って東条内閣を崩 壊させるという結末を生んだ。

 戦時中、木戸は「宮中の壁」となって重臣らの声を昭和天皇に届けようとしなかった。戦後木戸の残した日記は戦後連合国軍総司令部(GHQ)が戦犯容疑者の被告選定に活用されたが、この木戸日記は軍人被告らに対して不利に働き、陸軍軍人からは蛇蝎のごとく嫌われた。

 敗戦時の国務長官にして玉音放送の際の内閣情報局総裁を務めた下村宏(下村海南)は、戦後間もない昭和25年5月に出した『終戦秘史』で、当時の宮中グループについて次のように書いている。

「私はまず近衛(文麿)、木戸という一線が牧野(伸顕)、湯浅(倉平)、鈴木(貫太郎)の一線に取って代わったということを指摘したい。近衛、木戸が軍を 迎合せぬまでも軍と手を握った。軍の方から彼等をオトリにつかったという事実は否定できない。そこに近衛、木戸を引き立てた老境に入りし西園寺(公望)公 にも責任の一端がある。」と指摘し、さらにこう続ける。

「木戸内府としての欠点は、この重大危機に当り、衆智をあつめて熟慮断行しなかったことである。歴代の内府にくらべて政府へ口ばしを入れすぎた。ことに人 事の差出口が多く、相当長州閥のにおいも鼻についたことである。しかも牧野内府時代にくらべ、陛下への周囲のみぞを深くしたことである。さらに国家存亡の 渡頭に立ち内府の重責に在り、しかも確乎たる信念を立つるあたわず、信念有るもまたこれを堅持するあたわず、東条内閣の策立を容認したことである。」

 軍の方が木戸らをオトリに使ったのだろうか。むしろ、戦後の境遇を考えれば、木戸と長州閥のにおいがする岸らが軍をオトリに使ったようにも見える。東条らは木戸によって担がれ、踊らされ、ぶつけられ、最後にバッサリ切り捨てられたとの見方もできる。

 その理由として、岸は巣鴨拘置所で行われた国際検察局(IPS)の尋問で、木戸との「特別の信頼関係」に触れつつ、東条内閣総辞職に果たした役割を特に強調しているからだ。「反東条・倒閣」を自己正当化のために最大限にアピールしていたのである。

 この木戸周辺の策略によって近衛文麿が自殺に追い込まれたとする工藤美代子の『われ巣鴨に出頭せず』(日本経済新聞社)が注目されている。

  園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp

2006年09月22日(金)
萬晩報主宰 伴 武澄
 ■わくわく感が乏しい安倍総裁誕生

 自民党総裁選で9月20日、安倍晋三総裁が誕生した。メディアは大騒ぎしたが、既定路線で新味がない。それどころか小泉純一郎政権が誕生した時のような国民的高まりに欠ける一日だった。

 若さを強調しての出馬だったが、演説は空虚で訴えるものがない。どうしてこの政治家がそんなに人気があるのか不思議で仕方ない。政治家は国民を鼓舞する 言葉が不可欠だと思ってきたが、わくわくさせるような期待感が今後、この政治家から生まれるとは思えない。拉致問題で北朝鮮に対して強硬姿勢を"貫いた" ことになっているが、負けるはずのない相手に強硬姿勢を示したところで偉くも何ともない。僕はそう思っている。

 せっかく総裁に当選したばかりなのに、みそくそにいってはかわいそうなので、安倍新総裁の政策で一つだけ注目している点を上げたい。

 教育改革の中で述べているバウチャー制度である。これはひょっとしたらおもしろい結果を生むかもしれないのである。津々浦々に特徴ある寺子屋が復活するかもしれないのだ。

 ■ミネソタ生まれのチャーター校

 そもそもこの制度は1990年代のアメリカで生まれたチャーター・スクールという概念の一部なのである。ミネソタ州の市民団体が提唱し、1992年、同 州のセントポールで初めてのチャーター校が生まれ、2005年時点で全米40州3600校にチャーター校が運営されているという。これらのチャーター校に 通う児童生徒は全米の3・3%の及ぶというから侮れない。

 チャーター校は、画一的な公教育の弊害から脱却することを目的に、いわば教育の民営化を図ろうとするものだった。地域の先生やPTAらが自分たちがつく りたい学校を考え、教育委員会などの公的機関に認められるとその学校に生徒数に応じた公的資金が投入される制度。地域の人々と公的機関との契約で成り立っ ていて、契約期間内に目的を達しないチャーター校は「廃止」される。

 目的はいろいろあって、理科系教育に徹する学校、芸術中心の学校、不登校児を集めた学校など千差万別である。江戸時代の寺子屋を復活してもいい。ようは 教育の理念の多様化を住民に委ねるということだが、白人だけの学校が生まれたり、地域の教育格差が生まれるなど批判もあるし、廃校になるなど多くの失敗例 もある。

 地域の教育を民間に委ねるというこの制度は、もちろん地域住民による手作りの学校もあるし、まるごと教育企業に丸投げされる場合もある。アメリカ最大手 のエジソン・スクールは100校以上を運営し、7万人の生徒を抱えるという。日本の公文もアメリカでチャーター校の一部を請負っているらしい。
 
 民営化は学校全体の運営だけではない。バウチャー制度は一人当たりの教育費を計算し、私学に通う児童生徒に対して、それ相応の公的負担を行うというものである。

 チャーター校もバウチャー制度も公立校からみると、その分、予算が減額になる。教育水準を上げたり、教育環境を改善する努力を怠るとさらに生徒が減少す るという危機に迫られる。そもそもが競争原理を導入することで公立校のレベルアップを図るのが狙いだった。目的は教育全体のレベルアップだから、公だとか 民にこだわらない。最近の議論はほとんど調べていないが、ここらがアメリカ的である。

 ■教育は本当に義務なのか

 古い話だが、2000年12月5日に「私学より授業料が高い公立小中学校」というコラムを書いたことがある。
 http://www.yorozubp.com/0012/001205.htm

 日本の小中学校の公的負担が一人当たり80万円以上になっている実情を紹介したのだが、国と地方がつぎ込んでいる教育費が巨額なわりに、そのお金がどのように効率的に使われているかはほとんどブラックボックスの中なのである。

 もし公立校が民営化されたら、今以上に結果責任を問われることになり、お金の使い方もより透明化されるのではないかと思う。

 1998年3月1日には「豊かな北海道に義務教育は似合わない」というコラムも書いた。これは「北海道独立論」シリーズの一部として読んでほしかった。
 http://www.yorozubp.com/9803/980301.htm

 子弟教育はもともと私学から始まっていたが、列強の時代に富国強兵という国家要請の下に義務教育などという制度が生まれた。平和で豊かな時代に何も強制 しなくともみんな勉強するだろうという発想である。公教育を否定したのではなく、「義務」という概念に引っかかりを感じたのである。

 さて日本にチャーター校やバウチャー制度などが導入されるとどうなるか。ひょっとしたら津々浦々の塾が公教育を壊滅に追い込んでしまうかもしれない。そ んな不安もあるが、公教育のレベル向上が求められている時代にアメリカですでに定着しているチャーター・スクールについて功罪を含めて考える必要もあるの ではないかと思っている。
2006年09月09日(土)
萬晩報主宰 伴 武澄
 結婚して大阪に移り住んだ小学校時代の同級生の息子が書いた小説『鴨川ホルモー』(産業編集センター)が4月に、ボイルドエッグズ新人賞を受賞したことを偶然知って、その『鴨川ホルモー』を読んだ。津市在住だったころのことである。

 ホルモーは20センチほどの背丈の鬼たちのことである。普通の人には見えない存在だが、鬼語を解するようになると見えてくる。京都の東西南北の大学、京 都大、京産大、立命館大、龍谷大のサークルの学生が秘密の儀式の後に鬼語を習得し、鬼たちを自在に操って戦わせる。『鴨川ホルモー』はそんな物語である。

 あまりに荒唐無稽ではあるが、物語の展開につい引き込まれてしまう面白さがある。

 伊勢の地に長くいると、とはいっても2年半足らずだが、神々のことを考えざるを得ない。そんな気が僕の回りにまとわり付いている。伊勢がというより、僕が生まれ育った環境やその後に身に着いた資質がそうさせるといった方が正しいのかもしれない。

 最近『鬼』(高平鳴海ら共著、新紀元社)という本を読んだ。日本にはたくさんの鬼がいる。だから「鬼々」という表現があってもいいが、不思議なことに神 々はあっても「鬼々」という表現は使わない。そこらが鬼に対して多少差別的である。もっとも母音で始まる音節は重ねて発音しにくい。鬼々と言わないのはそ んな発音上の事情があるのかもしれない。

 とまれ日本の鬼を解説した『鬼』という本には酒呑童子や大嶽丸などの鬼はあっても「ホルモー」などという鬼は登場しない。万城目の創造物なのだろうと思 うが、日本の歴史はまだ十分に解明されているとはいえないので、カタカナでしか表記しえない鬼たちがまだ多くいたとしても不思議でない。

 西洋のサタンは神の対極にいる。仏教では地獄の閻魔さまがいる。日本の鬼たちはどうもそんな邪悪な雰囲気にはない。『鬼』とな何か。神々に寄り添う存在 とでもいえばよいのだろうか。だから日本には神さまが八百万存在するように鬼たちも大勢存在する。ホルモーには出て来ないが、この鬼たちは戦いでエネル ギーを発散する。そうしないと人間社会に悪さをするかもしれないのだ。

 葵祭の夜、ホルモーは自分たちを理解してくれる人物を捜し出して、"仲間"に引き入れる。物語のホルモーたちは主人がいないとこの世に現れることができ ないからである。しかし、主人公の安倍君を含めて鬼語のサークルに入ってしまった学生たちはホルモーのご主人さまであるのに、秘密を共有することで結果的 にホルモーたちに奉仕する役割を担わされるに違いないのだ。

 平安時代、陰陽道はれっきとした朝廷の仕事だった。陰陽師、安倍晴明はその役人だった。物の本によると、多くの陰陽師たちはそれぞれに式神と呼ばれる鬼 たちを「手下」として使っていたらしい。主人の命令に従って相手を呪ったり、主人を守ったり変幻自在の働きをしたという。

 万城目は、普段は見えない存在として「隠」がなまって鬼となったという。神もまた見えない特別のものなのだとしたら鬼がいたっておかしくない。伊勢神宮 には天照大神の和魂(にぎたま)を祀る正宮と荒魂(あらみたま)を祀る社の二つの社が存在する。ホルモーが本当に存在するのだとしたら恐いけれど楽しい。

 物語のオチは主人公の安倍君が安倍晴明の遠い子孫であることをほのめかしているところであるが、自民党総裁選では同じ姓の安倍晋三氏が時期総裁つまり、 日本の首相になることが決まっている。阿部ではなく、安倍なのである。

 安倍晋三氏は、平安時代に東北に勢力を張った安倍一族の末裔である。前九年の役で戦死した安倍貞任の弟、宗任は捕らわれて、伊予国に流罪となった。宗任 の三男、季任が肥前の松浦党の配下に入り、さらに子孫が長門に移ったという。朝廷に仕えた安倍一族とは血縁にない。

 京都の朝廷にとって東北の雄の安倍一族は一時、「まつらわぬ者」の一族としてやはり「鬼」ととらえられていたはずである。日本はこれから"鬼"の子孫を首相として戴くことになる。
2006年09月06日(水)
ギターボーカリスト 兵頭ニーナ
  カフェの左右50mぐらいのカフカゼ通りは食品店、パン屋、雑貨屋、ブティック、両替や等など様々な店舗が並び、その上レモン売り、コーヒー売り、チー ズ、漬物、花、野菜、きのこ売り等の露店が多く、とてもにぎやかで1日中人通りが絶えない。ちと下町風かな?でも通りの向こう側は何故か店もぱらぱら露店 は一軒も無い。

 カフェがオープンしてしばらく、入り口左でわずかな野菜や果物を売っているテムリにこの辺りの店舗を貸しているズーラが「お前はカフェにじゃまだ。場所を変われ!」とオーナー面して怒鳴りつけた。

 店の食材は殆どバズロバでまとめ買いをしているがたまに何か足りない時、テムリからパッと買えるので重宝している私は「ズーラさん、彼の野菜は店でも 買っていてとても便利なのよ。困るわ」と助け舟を入れた。以来、たまにカフェで食事をしたり水やトイレを借りに来るようになったテムリは1年前まで右隣り の店舗で八百屋さんを営業していたが採算があわず、やむなく外に出たのだと言っていた。

 通りには幾人かのおもらいさんもいる。年金では生活出来ない老齢者と身体が不自由な人、それからプロのグループ。これは赤ちゃんを抱いて座っているのと 人にすがってお金をもらうように教育された子供達とがいる。不思議な事にぐるぐる巻きにされて長時間抱かれている赤ちゃんが一度でも泣いたり起きたりして いるのを見たことがない。おもらいさんはトビリシ中にたくさんいるけれどみんな同じ、まるで息をしてる人形みたいだ。もしかして薬でも飲まされているの か?とこの頃疑うようになった。

 私が勝手に「通りのダンサー」と名づけた男がいる。30才くらいかしら?スリムで美男子、フラメンコダンスにぴったりの風貌で一方から走って来る車に向 かって2、3秒程パフォーマンスダンス、すかさず右手にもっている懐紙のようなものを運転席の窓に向かってさっと出す。特に女性ドライバーを狙っているら しく信号前で止まってさえいれば50%以上の確立でお金がもらえているようだ。いつもここを車で通る彼のファンは黙っていてもお金をくれる時もある。

 最初知らなかったが、テムリの話では彼は耳が不自由だそうだ。それでお金がもらえない時は奇声を上げて怒ったふりをする。休み時間いつも彼を観察してい たら目と目で何故か友達になった。時々カフェが暇な日は「彼のほうが確立がいいね」等と冗談がでる。

 そういえばまだ暑くてカフェにはハエが多い。タムリコに相談したら何とも懐かしい!天井から吊るす黒いハエ取り紙とハエたたきを買ってきた。いつの間に かすっかりハエ取り名人になった私に「サムライ」とあだ名が付いた。なんで?

 ある日突然カフェに数人の男がやってきてキッチンのガス栓を頑丈に止めてしまった。何て事だ!ガスが無かったらカフェの営業もできやしない。

 いったいどうした事かとガス検査員(というらしい)に説明を受けたら大家のズーラがガス泥棒したらしい。ヴィカに怒鳴られたズーラは早速、請求された分 銀行に振込みに行き3時間後にガス栓が開けられ一件落着したが、彼には大きな罰金も課せられるらしい。ガス泥棒なんて珍しい事じゃあないと後で聞いてまた またびっくり。しかしどうやってガスを盗むのかどうしても理解できない。

 時どき店先に立ってるマンジュをつかまえて「あんた何処からきたの?グルジア語は話せるの?ここでグルジア語を話せなくてどうするの?どれどれ教えてあ げるから・・・」と小さな親切大きなお世話なおばあさんがいたりしてなかなか楽しいカフカゼ通りでした。

 ニーナにメール mailto:nina2173@v7.com

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