2006年6月アーカイブ

2006年06月28日(水)
ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口 坦
 ■コステルマノ軍人墓地

 次の外交紛争は、犠牲者や被害者の感情を傷つける可能性があれば、死者の尊厳の尊重という原則が制限される例である。

 北イタリア・ヴェローナ近郊のコステルマノ村に1967年に造成されたドイツの軍人墓地がある。ガルダ湖を眺望する丘陵にあるこの墓地に約二万二千名の 兵士が埋葬されていて、その墓石には戦没兵士の名前と所属と階級が、また墓地の入り口の追悼施設にある金属製碑板「栄誉の書」に埋葬兵士全員の名前がそれ ぞれ刻み込まれている。昔からドイツの「国民哀悼日」の式典がコステルマノ軍人墓地で催されて、ミラノ駐在独総領事が追悼のあいさつをし、イタリア人関係 者も参加することが伝統になっていた。

 1988年にイタリア人歴史学者編集の本が出版されたことがきっかけになって、この軍人墓地に無名とはいえない人物が埋葬されていることが判明し、この 結果独伊間の外交問題に発展した。それは、ナチSS親衛隊員のクリスティアン・ヴィルト、フランツ・ライヒライトナー、ゴットフリート・シュヴァルツの三 名である。ヴィルトはドイツ国内の障害者等を安楽死させる計画の実行者であり、大量殺人ためのガス利用の発案者といわれている。絶滅収容所でベウジェツ、 ソビブル、トレブリンカの所長をつとめ排気ガスによる大量殺人を指揮し、ここで170万から190万人のユダヤ人が殺されたとされる。

 その後彼はトリエステ近郊の強制収容所所長になり、4千人のユダヤ人とイタリア人パルチザンを虐殺した。他の二人も(ライヒライトナーはソビブル絶滅収 容所の副所長として、またシュヴァルツはベウジェツ絶滅収容所で副所長として)それぞれホロコースト実行にかかわっただけでなく、1943年からは「裏切 り者」・イタリア人の拷問や、復讐のための非戦闘員銃殺の責任者であった。

 三人とも戦時下死ななかったら、ニュールンベルク継続裁判でユダヤ人虐殺のために「人道に対する罪」(C項目)で、また北イタリアでの行為で「通常の戦 争犯罪」(B項目)で確実に死刑に処されたといわれる。このような人々のお墓が自国領土にあることが判明してイタリア人が複雑な気持になったの当然であ る。

 1988年彼らのお墓がコステルマノ軍人墓地にあることがわかると、マンフレート・シュタインキューラー独総領事(当時)は自分がその年の国民哀悼日に そこへ赴いて式典に参加することが「良心に反する」と表明し、ドイツ側にこの三人の名前を墓石ならびに「栄誉の書」から消すことだけでなく、三人の遺骨を 掘り出してドイツに改葬することを要求した。元パルチザン・イタリア人の団体(ANPI)が怒っただけでなく、総領事というドイツの外交官までもがこのよ うな要求を出したこともあって、その前年まで「国民哀悼日」の式典に出席していたイタリア人関係者(近隣の町の市長や公務員や軍人)も出席を拒んだ。

 その後独伊間で水面下の交渉があって、1992/93年にドイツ側は、1)金属製碑板「栄誉の書」の三人の名前(、ヴィルト、ライヒライトナー、シュ ヴァルツ)を削って消し、2)墓石の刻み込まれた三人の所属と階級表示を消して名前だけにして、3)この軍人墓地が戦没者追悼のためであることを内容とす る碑板をつくるという措置をとって、その結果また以前と同じようにイタリア人関係者も「国民哀悼日」の式典に出席するようになった。

 死者の尊厳の尊重という原則のみにしたがえば、別に1)、2)の措置をとる必要がないことになる。とはいっても、例えば家族をトレブリンカ絶滅収容所で 失ったユダヤ人にも、またトリエステ近郊のサン・サバ収容所でナカマを殺されて自分も拷問された元パルチザンのイタリア人にも、「クリスティアン・ヴィル トSS親衛隊少佐」を眼にしたら感情が傷つくのではないのだろうか。この事情を配慮して、死者の生前の活動を犠牲者に想起させる要素を消す措置がとられ た。更に、ドイツ側に追悼以外の別の意図がないことを今一度強調する3)の措置がとられたことになる。

 私はドイツ側でこの種の問題を担当する人と話す機会をもったが、ここでとられた措置によって、彼の見解では、死者の尊厳と被害者の感情のどちらをも尊重 することができたことになる。実際地元のイタリアも満足しているので彼がそう判断していいように思われる。またドイツの軍人墓地は至るところで似た問題を 抱えているので、今後問題が発生したら似たような方式で解決ははかるつもりであると彼は語った。

 それでは、この独伊間の解決案を靖国神社に適用したらどうなるであろうか。中国外相だけでなく、多くの日本人も、日本の政治家の靖国神社参拝が「中国人 民と、侵略戦争により損害を受けたその他国の人民の感情を傷つける」と述べている。また日本にも「A級戦犯」の分祀を求める声は跡を絶たない。

 それに対して、私たちは、すでに述べたが、次のような立場をとることができる。靖国神社も欧米の戦没兵士追悼文化と同じように反業績主義の立場をとり、 そこに合祀されるのは「侵略戦争を発動し指揮した」という生前の業績のためではなく「戦没兵士と同然の扱い」をされたからで、こうして「A級戦犯」はそこ にいない以上、存在しないものを除くことも論理的に不可能である。それだけではない。死者の名前を取り除くことは死者の尊厳の尊重という文明社会の原則に 反する。

 私たちは以上のように主張することができるが、そうしない。どんな原則も別の重大な理由があれば制限されるべきであるという立場をとる。中国をはじめそ の他の近隣諸国の国民感情を傷つけてはいけないというのもそのような重大な理由になり、隣国の国民感情を傷つけないために私たちにできることがあればする べきである。ドイツ側は当時このように考えて碑板「栄誉の書」の三人の親衛隊員の名前を消した。日本も似たようなことをしてもいいはずである。

 ところが、そう思った瞬間に私たちのほうは途方にくれてしまうのではないのだろうか。というのは、名前を消すとは見えていた名前を見えなくすることであ るが、周知のように霊璽簿(合祀名簿)に記入された名前ははじめから見えない。ということは、すでに問題が解決されているともいえるし、見えていないもの を(これ以上)見えなくすることは余計なことである。そんな余計なことは、死者の尊厳の尊重という重要な原則を制限するべき重大な理由になりえない。
    
 ■私たちはどうしたらのいいのか

 戦没兵士追悼と関連した紛争をここに紹介したが、最後の例からわかるように外交問題の「靖国問題」は、本当に実体のある問題とはいえない。というのは、 戦没兵士の名前を隠すという靖国神社の反顕彰的性格のために問題が解決されているからである。とすると、多くの人々は本物の靖国神社についてでなく、自分 の頭の中にあるファントム(亡霊)のような存在の「靖国神社」に賛成したり、反対したり、身勝手な期待をしたり、怒ったりしているとしか思えない。

 大江健三郎をインタビューして「日本の戦争犯罪人が(靖国神社に)葬られている」と思っているドイツ人記者や、また「ドイツの政治家のヒットラー追悼」 にたとえる李中国外相の頭の中にあるものもそのようなファントムの「靖国神社」である。彼らが問題とする「靖国神社」の特徴は本当の靖国神社でなく、愛知 県にあって日本国民大多数が知らない7人の「A級戦犯」のお墓「殉国七士廟」にあてはまる。

 ここに書いた戦没兵士追悼文化についてよく知らない人でも、靖国神社と「殉国七士廟」がまったく異なったものであると直感的に思うのではないのか。誰か 外国人が四国のほうが九州より大きいといえば、面積を数字でいえなくても、「それは間違いです」というしかない。靖国もこれと似て本当は靖国参拝に反対・ 賛成以前の問題ではないのか。

 ところがそうならないとしたら、話が「靖国問題」となった途端、靖国神社と「殉国七士廟」の違いが消えて、本当の靖国神社はファントム「靖国神社」に変 わってしまうからである。こうであるのは、今まで何度も繰り返したが、私たちの意識に根を降ろした「右か左かの踏み絵風」構造のお陰で「右か左か」となれ ば、靖国神社も「殉国七士廟」も右方向にあって同じになるからである。このような私たちのファントム「靖国神社」が国際社会で踏襲されて生まれたのが実体 のない「靖国問題」である。

 戦後60年以上も経過し、その間戦没兵士を政治的立場の表明手段、すなわち「紙と棒切れ」と見なして、彼らの追悼など独自の問題として重視しなかった私 たちが今さら「国立戦没者追悼施設」をつくりたいというのは奇妙な話である。突然こんな願望を抱くのは、靖国神社と「殉国七士廟」の相違を国際社会に対し て説明するのが面倒になったからではないのか。

 一年一度決まった日に国民が自国戦没兵士追悼をするのは、ドイツを含めてどこの国でもしていることである。靖国神社がここまで国際社会で誤解されて隣国 と外交問題になったことも、また日本がきちんと説明しようとしないことも、残念なことである。他人の誤解をただすことができないのは自分で自分のことがよ くわかっていないからでもある。これは(、靖国神社に限らないが、)国際社会の中で本当に自国を理解してもらう必要性を私たちが感じていないからでもあ る。日本人にとって国際社会とは自国が活躍する舞台・国威発揚の場に過ぎないのかもしれない。

 今まで靖国に参拝した首相は戦没者追悼がその目的であると表明し、また外務省も同じ見解を発表するが、内外のメディア関係者からは無視される。靖国神社 は、「ナチ指導者のお墓」に似たもの、「殉国七士廟」であり、その結果参拝が軍国主義肯定と誤解される。この現状を変えるためになにかできるはずである。 ドイツはイタリア・コステルマノ軍人墓地での紛争で「戦没者追悼のため」を強調する碑板をあらたにつくったが、靖国神社の前にも類似した碑板を設置するな どして国際社会に対して「戦没追悼施設である」こと明記するべきである。境内に全世界の戦死者や戦争で亡くなった人の霊が祀られている鎮霊社がある。本殿 に参拝した首相がこの鎮霊社にも参拝すると、軍国主義の肯定でないことを表現することができる。他にもできることは山ほどあるはずだ。

 次に靖国参拝ほど他国の戦没兵士追悼儀式とくらべて軍事的要素が欠如しているものはない。自国の首相の参拝が日本の軍国主義化につながるという論拠ほど 私に理解しにくいものはない。国民軍誕生とともにはじまった戦没兵士追悼文化は、すでに述べたように、終わりつつある。反対することによって、私たちはか えって靖国神社に対して戦前とは別の新しい関係を築ことができなかった。

 日本がどこの国より平和主義的であるべきだと思って反対しているのであろうが、このような考え方も国威発揚の一種である。ドイツを訪れた日本人のなかに ベルリンのブランデンブルク門の近くにホロコースト記念碑が建てられたことに感動し、自国首相の靖国参拝を恥ずかしく思う人が少なくない。私は、ドイツに 自国戦没兵士追悼に反対する人々がいなかったからこそホロコースト記念碑ができたと主張する気は毛頭ない。とはいっても二つのことがまったく無関係であっ たとはいえないかもしれない。

 ホロコースト記念碑の発案者はテレビ・ジャーナリストのレア・ロッシュさんである。自己顕示欲が強い彼女を嫌う人は多いが、実行力のあるこの女性がいな かったらこんな記念碑はできなかったといわれる。1988年彼女は番組作成のためにホロコースト研究者といっしょにイスラエルのヤド・バッシェムを訪れ る。そこでドイツには軍人墓地や「戦士の碑」が多数あるのに死んだユダヤ人にはお墓ひとつないことに気がつき、追悼施設をつくろうと思い立ったという。そ の後紆余曲折して2005年にホロコースト記念碑が完成して、今やベルリン観光名所の一つになった。

右か左かの踏み絵風(1)-「靖国問題」とはなにか
右か左かの踏み絵風(2)-「靖国問題」とはなにか
右か左かの踏み絵風(3)-「靖国問題」とはなにか
右か左かの踏み絵風(4)-「靖国問題」とはなにか

2006年06月28日(水)
ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口 坦
 ■終わりつつある文化

 日本には、誰もが「わだかまり」なく訪問できる国立戦没者追悼施設をつくろうとする人々がいる。とすると靖国神社は対して「わだかまり」があることになる。その点でドイツ国民はどうなのだろうか。

 戦没兵士追悼はドイツでも1945年まで戦争を美化したり戦死を顕彰したりするに役立っていた。特に第三帝国下、それまで戦没兵士を追悼する日であった 「国民哀悼日」は「英雄追悼日」と改名されて、ナチ突撃隊を筆頭にナチ大衆動員組織が大活躍した。このような歴史を考えると日本人と同じように「わだかま り」を感じてもいいことになるが、彼らはそうならなかった。

 まず戦没者追悼に関して1945年以降は西独と東独とでは事情が異なる。西側の住民は、ハーケンクロイツをはずし「英雄追悼日」をやめたかもしれない が、同じ施設で昔とあまり変わらない追悼儀式を続けている。参考までにいうと、クリスマスのほぼ6週間前の日曜日が「国民哀悼日」で、この日に全国の市町 村の「戦士の碑」の前で市長、町のお歴々が追悼の辞を述べ、教会の神父がお説教をした後、市長が台座に花輪を供える。ボンが首都のときは北墓地の、ベルリ ン遷都後は「ノイエバッへ」の「中央追悼所」で大統領等が兵士の運ぶ花輪を供え、議会で式典が催される。

 反対に東独では、ソ連軍戦没者追悼施設はあっても、自国戦没兵士追悼が禁じられていた。1945年までに建てられた「戦士の碑」や軍人墓地などの追悼施 設は破壊されたり野ざらしにされたりしたままであった。それでも住民の間には自国戦没者追悼の要望があって、挑発的にならないようなかたちでその教区出身 戦没者氏名の碑板をかける教会があったといわれる。東西ドイツ統一後、旧東独の約70%の市町村が「戦士の碑」を修復したり、またあらたに追悼施設をつ くったりして西側とおなじようになった。

 この事情からも、またすでにふれたように1945年以降も軍人墓地を熱心につくり管理していることからもわかるように、ドイツ国民には昔とおなじように 戦没兵士を追悼することに「わだかまり」などない。そうであるのは、日本のような「右か左かの踏み絵風」がなくて、戦没者追悼と戦争の政治的・歴史的評価 の問題を切り離して考えているからである。
 
 ドイツで戦没兵士追悼文化が盛んだったのは第一世界大戦後で、当時無数の「戦士の碑」が建てられた。第二次大戦後は1950年代の後半がピークでその後 社会的関心は低くなるばかりである。大多数の国民は自国が軍人墓地をつくっていることも維持していることも知らない。「国民哀悼日」には、市長・市会議員 など主催者と消防団員など協力者の数が普通の出席者(その大多数は戦没者遺族)の2倍とか3倍とかいわれている。このような関心の低さは、この戦没兵士追 悼文化が今や終わりつつあるからである。

 徴兵制の導入と国民軍の誕生がこの文化のはじまりであったが、徴兵制が廃止された国も多いし(ドイツのように)あってもその性格が変わった。次に重要な 要因はこの文化が、墓参りが盛んだった19世紀に生まれたことで、今や死生観が変わり、私たちは死そのものをあまり考えないですませようとする。次は戦争 の性格が変わったこと。昔の戦争では兵士が戦場へ行き、残りの国民が安全な「銃後」にいたので、皆が感謝して兵士を特別待遇で追悼した。第二次大戦は国家 総力戦の全面戦争で、戦闘員と非戦闘員の区別がなくなってしまった。これは兵士が「銃後の無辜の民」を守ることができなかったことであり、この結果欧州で は戦没兵士追悼の意味が希薄になった。

 最後に挙げた要因である戦争の性格の変化は、援護法などの戦後立法の中で「戦死」の定義を拡大させた。こうして軍に所属しない死者までが軍人墓地に埋葬 されたり「戦士の碑」の碑板に刻み込まれたりするようになるなど、「戦没兵士扱い」の枠が大きくなったことが第二次世界大戦後の特徴である。いうまでもな く日本の「A級戦犯」の合祀もこのような戦争の性格が変化し「戦死」の意味が広くなった結果である。

 日本で「A級戦犯」合祀をスキャンダル視する人がいれば、それはいろいろな事例を知らないからである。A、B,Cの順番に罪が軽くなり、だから「A級戦 犯」が極悪人というのは日本人の思い込みである。ホロコーストを重視する国際社会にとって重要なのは「人道に対する罪」のC項目のほうである。ニュールン ベルク裁判で死刑に処された人の遺族もドイツで援護法に基づいて給付を申請できる以上、それを必要とする遺族が申請しても不思議でない。次に誰が申請した かは、プライバシーとして役所側に守秘義務があるために公表されない。ということはもらっている人の名前がわかるのは偶然からである。

 知られている例を挙げる。A,B,C等のすべての項目で有罪とされて処刑された国防軍作戦部長のアルフレート・ヨーデル大将の遺族にも、(戦時下暗殺さ れたためにニュールンベルク裁判の被告にこそならなかったが、)SS親衛隊でヒムラーに次ぐNo.2でヨーロッパ・ユダヤ人の移送と殺害について分担と連 携を討議したヴァンゼー会議主催者、ラインハルト・ハイドリヒ国家保安部長の未亡人にも給付された。ということは、責任を負うべき人々の多くが法的に「戦 没兵士扱い」されていたことになる。彼らの名前が「戦士の碑」の碑板の刻み込まれるまでに至らなかったのは、それが町の真ん中や教会の前など誰もが見るこ とができたからである。

 「戦没兵士扱い」の枠が拡大されたことは、ドイツの「国民哀悼日」での追悼対象が兵士に限定されなくなったことにも反映する。「戦士の碑」の碑文が戦後 新たにする機会があると「戦争と暴力支配の犠牲者に」が標準になったのも、このように戦争の性格が変化したことの反映である。また靖国神社境内に建てられ た「全世界の戦死者や戦争で亡くなられた御霊が祀られている」鎮霊社も似た例である。

 でもこのような傾向は国民軍に参加して戦場で死んだ「我が同胞の追悼」というこの文化の本来の性格から遠ざかることであり、ドイツ社会から戦争世代が退 場するにつれてこの傾向に拍車がかかる。昨年「国民哀悼日」にある町ではアジアのツナミの犠牲者まで追悼されてしまって、私が知る戦中世代の一人があきれ ていた。

 ある文化も、その歴史的・社会的成立条件がなくなれば、じょじょにその輪郭を失い消滅していく。本当は似たような条件下にありながら、そうならないで、 過剰な関心が寄せられる国があれば、いうまでもなく、多くの人たちが反対したり賛成したりすることで人工呼吸にはげんでいるからである。靖国神社につい て、私たちはまずこの異常さに気がついてから議論をはじめるべきである。

 ■宗教との関係

 ここまで読まれた読者の中には、日本の靖国神社は死んだ兵士の名前を残すというような生易しい話ではなく「英霊として、神として祀っている」ので欧米の 戦没者追悼施設とくらべることなどできないと思われる人がいるかもしれない。確かにドイツの戦没者追悼施設では死んだ兵士を「神」とよばないが、これは一 神教のキリスト教文化圏にあるためである。

 例えばミュンヘンにある「戦士の碑」の壁には「彼ら(=戦没兵士)は復活する」とある。内側の壁にはミュンヘン市の「英雄的息子」という表現がある。と いうことは、死んだ兵士が生物学的に死んだ後も別の存在で生き、完全にお役ご免とされずに「英雄」として賞賛され続けていることになる。死後もお役ご免に ならない点で、ミュンヘン市の「英雄」も靖国の英霊もたいして違わない。

 確かにドイツのほうで「招魂」とか「慰霊」とかいった話を聞かない。そうであるのは、キリスト教徒は不慮の死を遂げた人が祟ると考えていないからで、上記の「彼ら(戦没兵士)が復活する」の「復活」はキリスト教的な意味でつかわれている。

 それでは、国民国家での戦没兵士追悼文化と宗教との関係をどのように理解したらいいのだろうか。すでにこの風習の根底に「同等の人間の仲間関係」という 「国民(=ネーション)」の考えがあると述べた。でもこの考えだけでは、死者儀礼に重要な生者と死者の関係は規定されずに空白のままである。この空白を埋 めるために、土着の宗教的要素が取り入れられていることになる。

 例えば、マリア崇拝が強いカトリックの南ドイツでは「戦士の碑」にイエスを抱く聖母マリアのピエタ像が多くなる。これも土着宗教的要素が生者と死者の関 係の表現に利用されている例である。靖国神社も、すでに述べたよう、「国民」という考えがその根底にあるが、生者と死者の関係を規定する部分に日本の土着 的宗教要素(神道や祖先崇拝など)が借用されているとみなすことができる。

 次に、「戦士の碑」が聖母マリアのピエタ像であったり、教会の敷地内に、ときにはその建物の中にあったりすることもある。また国民哀悼日の行事ではどこ でもかならず神父が話し、お祈りが伴う。儀式にも、それが実施される空間にも、キリスト教的要素が濃厚に残っているが、それでも参加している人々は自分た ちが追悼式に参加していると思っていても、宗教的活動をしているという意識はないといわれる。

 追悼と宗教の関係は単純でない。例えば、米同時多発テロの後、欧州の住人はどこの国でも犠牲者追悼のために数分間いっさいに活動を止めて黙想した。また その後、毎年ニューヨークで開催される追悼式では犠牲者の名前が読み上げられる。黙想も、また死者の名前を読み上げることも本来キリスト教の礼拝儀式の一 要素である。だからといって地下鉄の中で黙想した人々の多くが、また追悼式の参加者の大多数が、宗教的活動をしているとは考えていない。

 もちろんどちらの場合も、敬虔なキリスト教徒がその場にいて宗教的活動意識を抱くことがあっても、それはその人の個人の問題である。ということは、世俗 化が進展している、日本を含めて多くの先進国の社会では、宗教的活動は空間や組織から離れた個人の内面の問題になっている。またこのように考えることに よって人々は宗教紛争を克服できて、異なった宗派に属する人々が同じ職場で働くことができるようになった。

 政治家の靖国参拝を「宗教的活動」とする判断が裁判所で下されて議論をよんでいる。この法的判断は、この21世紀初頭の宗教と追悼の複雑な関係、また宗 教の在り方を本当に考慮した上で下されたものだろうか。ドイツには教会系の病院もたくさんあるが、そこで働く医者は医療行為でなく「宗教的活動」をしてい るのだろうか。でも教会へは日曜日ミサのために行く人もいるし、また観光見物で行く人も、追悼で行く人もいる。ケルンの大寺院から出て来た日本人観光客を 見て「宗教的活動」をしたと思うのは勘違いである。

 日本は正月元旦に神社に参拝した人が、しばらくして親族に不幸があるとお寺さんのお世話になるという具合に「分業」に似たものが成立している。ドイツで は旧教(カトリック)で結婚し葬式は新教(プロテスタント)でやることは改宗しないかぎり不可能である。このような欧州から見ると、日本は宗教におおらか な国という印象がある。判決を読んでいないのでもちろん失礼な言動は慎むべきかもしれないが、政治家の靖国参拝を「宗教的活動」とする司法判断で、日本社 会が突然宗教戦争直後の17世紀の欧州や現在宗教的対立を抱えるレバノンのような国なったような気がする。

 ■ビットブルク事件

 戦没者追悼に関連した外交問題はめったにない。そうであるのは生者の争いに死者を巻き込むべきでないとする考えが強いからである。とはいってもないことはないのであって、今からしるすビットブルク事件は有名な例である。

 ビットブルクはフランス国境に近いNATO・米軍が駐留する町であった。戦争終結50周年の1985年5月5日にコール独首相はレーガン米大統領といっ しょに米軍と縁の深いこの町の軍人墓地を訪れて花輪を供えようと思った。ところが、この墓地に埋葬されている約二千名のドイツ兵士のなかに48名の武装親 衛隊員(SS)が含まれていることが指摘されて、ドイツでもまた米国でもこのサミット・お墓参りに反対する人が出て大騒ぎになる。

 コール首相とその側近が不注意にもなぜこんな軍人墓地を選んだかというと、戦後西ドイツ社会に流布した武装親衛隊のイメージと無関係でない。武装親衛隊 はニュールンベルク裁判で「犯罪組織」として認定されたが、戦後の西ドイツの人々はナチによる迫害や弾圧の責任者のSS親衛隊とは別のもので、「犯罪組 織」として認定されなかった国防軍、普通の軍隊に準ずるものと見なした。実際武装親衛隊員は戦時下軍隊といっしょに戦闘に従事し、戦後創設された連邦軍に も採用されている。

 1970年代の終わり頃からホロコーストというテーマを発見していた欧米世論は、戦争終了40周年の儀式にドイツの政治家から「犯行国民」の代表者とし てふるまうことを求めていた。準備段階でレーガン大統領のダッハウ強制収容所跡の訪問が取り沙汰されていたのも、そのような雰囲気の反映である。ところが (コール首相の記憶によると)米大統領のほうがそれを望まず軍人墓地訪問に変更された。こちらになると、米独が普通の戦争し、その後40年間平和だったと いうだけの話になってしまう。この計画に多数の人々が反対しているうちに武装親衛隊員のお墓の話がでてきて、けっきょくビットブルクの軍人墓地だけでな く、その前の午前中にベルゲンベルゼンの強制収容所跡にも訪れることによって一種の妥協が成立する。

 とはいっても、これはドイツでホロコーストを議論のテーマにする潮流が本格化したことになる。戦後武装親衛隊の互助組織があって、与野党にとって他のロ ビー団体とあまり違うものでなかったのに、この頃から接触が避けられるようになる。また武装親衛隊は普通の親衛隊と区別されなくなり、現在ビットブルク事 件が言及されると「武装親衛隊」の「武装」が忘れられる。またそれ以降軍人墓地をつくる場合には墓石に軍隊内の所属と階級を記さないことが標準になる。

 戦没兵士追悼というテーマには、次のことが重要である。ビットブルク軍人墓地訪問に反対する人は武装親衛隊員が埋葬されていることをその理由に挙げる。 これは、コール首相を弁護する保守派の考えでは、一般兵士と武装親衛隊員とに分けることであり、死者の尊厳の尊重という文明社会の原則に反することであ る。ということは、武装親衛隊員が埋葬されていることを理由に反対するのは、死者を政治的目的に利用してはばからないことになる。このような保守派の論拠 に対して、反対派は、コール首相こそ米独の反共軍事同盟を強調することによってドイツの加害国として記憶をないがしろにして、責任逃れをしようとする「政 治ショー」を企画した。これこそ死者を自分の政治的立場に利用することだと批判した。

 日本の靖国神社を考える上に重要な点は、この紛争で相対立している双方が文明社会の価値とされる死者の尊厳の尊重を認めた上で、死者を政治に利用しては いけないといっていることである。両者の見解が一致しないのはコールの「政治ショー」の評価についてである。次に、当時の議論で自明であるために誰もいわ ないことは、米独首脳の墓参りに反対した人々は、ドイツ首相が戦没者の追悼のために軍人墓地を訪れることには反対していないことになる。というのは、当時 の「中央追悼所」はボンの北墓地にあって、歴代の首相が「国民哀悼日」にはよくここを訪れた。この北墓地にも17名の武装親衛隊員が埋葬されているが、だ からといってこのビットブルク事件の前にも後にも問題にされていないからである。

 次に死者の尊厳を尊重するとか、埋葬された兵士を「犯罪組織」に属するかどうか区別してはいけないとか、また死者は邪魔されないで「永眠」する権利があ るとか、いった考え方は重要な原則と見なされている。これはすでにふれた1871年のフランクフルト平和条約16条からはじまって(第一次大戦後の)ベル サイユ平和条約225条と226条aや多数の国際条約にある軍人墓地など戦没者追悼と関連する条項の根底にある考え方である。事実、ハーグ陸戦規定を違反 した敵兵(戦争犯罪者)の墓を壊すことが許されたら、これらの条約を締結する意味がなくなる。

 ここで日本に靖国神社にもどると、参拝反対も納得できない人々が「日本では死者に鞭うつようなことはしない」とか、また「日本では死んだら誰もが仏さま になる」とかいうが、このような見解は、語彙が異なるかもしれないが、日本だけの話でなく国際社会の基準である。欧米には死者の尊厳の尊重を文明と野蛮を 境界線と見なす人までいる。

 ということは、日本の政治家が追悼を目的に靖国に参拝するなら、「A級戦犯」の合祀を理由に挙げて反対することなどできないことになる。というのは、死 者を区別することはこの死者の尊厳の尊重という原則に反するからである。ところが、(ビットブルクについての議論からわかるように、)この原則が適用でき ない場合がある。それは、参拝を追悼のためでなく、コール首相がビットブルクで意図したような政治ショーにしたり、またなんらかのかたちで政治的に利用し たりしている場合である。

 ところが、小泉首相は参拝するたびに追悼がその目的であったことを繰り返し強調する。とすると、参拝に反対するためには、この日本の政治家が追悼のため でなく、なんらかの政治的意図から参拝することを証明しなければいけない。ところが、この厄介な証明義務も感じないですませることができるのは「右か左か の踏み絵風」があるからである。
(つづく)

右か左かの踏み絵風(1)-「靖国問題」とはなにか
右か左かの踏み絵風(2)-「靖国問題」とはなにか
右か左かの踏み絵風(3)-「靖国問題」とはなにか
右か左かの踏み絵風(4)-「靖国問題」とはなにか

2006年06月28日(水)
ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口 坦
 ■靖国神社との共通点

 ここで日本に眼を向ける。まず欧米諸国に見られる軍人墓地をつくる習慣は日本では発達しなかった。確かに日本にも陸軍墓地や海軍墓地があるが、その性格 はあくまでも陸軍(海軍)関係者の墓地であり、欧米にある軍人墓地と異なる。死んだ兵士の追悼と関連して日本で重要であるのは靖国神社である。これは、死 体と関係がない「セノタフ(空っぽのお墓)」で、その点でドイツの「戦士の碑」と同じである。但しドイツのように市町村分散型でなく靖国神社に一極集中 し、また名前を石に刻み込まずに紙に書いているが、でもどちらも国家のために死んだ兵士の名前を半永久的に残そうとする本質部分で共通する。

 欧米の戦没者追悼文化は「戦士の碑」という記念碑(セノタフ)からはじまって、その後お墓作りに発展した。日本ではそのような発展をたどらずに靖国神社 のままにとどまったのは、日本の死者儀礼の在り方、特に昔から「埋め墓」と「参り墓」に分けて追悼に関して死体に重きを置かなかったことと関係があると思 われる。私たちは自国戦没兵士が野晒しになっていることをいいとは思わないが、欧米人とくらべて、それを苦にする度合いがはるかに低い。死体に対する彼ら の考え方は火葬することが多い私たちとは異なり、(改葬現場でのドイツ人の作業を見たらわかるが、)遺体全体を可能な限り残そうとする態度に反映する。
  
 戦没兵士追悼文化は戦争遂行の精神的インフラ整備・戦意高揚もその目的であるが、この点で靖国神社とドイツの「戦士の碑」も共通する。あるドイツの歴史 家の表現を借りれば、「国のために死んだ人に感謝するだけでなく、この戦没者を同時代人がうやまい、後世が模範とするように」仕向ける顕彰が重要な機能の 一つである。負けたいと思って戦争する国などない以上、これもあたりまえの話である。

 ドイツをはじめ西欧諸国の戦没兵士追悼文化の根底にどんな思想があるのだろうか。昔ヨーロッパ社会では傭兵時代の兵士は軽蔑されていて、まともな市民が 同席したがらなかった。それが国民軍になり普通の市民が兵士になったために、それ以前に考えられなかった特別待遇をあたえる習慣が生まれる。これは兵士の 社会的地位の上昇であり、兵士である普通の国民(すなわち市民)が国家の主人公になり、主権在民型の「国民国家」に近づいていくことの反映である。

 次に、国民国家のイデオロギーのネーション(=国民主義)という考え方について、ベネディクト・アンダーソンは「想像の共同体」の中で「国民は一つの共 同体として想像される。というのは、国民の中にたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、いつも同等の人間の仲間関係として心の中でイメージされ ているからだ」と書いているが、戦没兵士追悼文化はこのような考え方の表現である。

 日本人の多くは欧米の軍人墓地を外国映画で見たことがあるのではないのか。例えばスピルバーグ監督の「プライベート・ライアン」は無数の白い十字架の墓 石が緑の芝生に立ち並ぶノルマンディーの米軍人墓地の場面からはじまる。軍人墓地のスタイルは国によって異なるが、それでも共通する原則がある。それはど の兵士も、死んだという理由だけで、戦功という業績や氏素性と関係なく、同じかたちで同じ大きさの墓石をもらうが、これは、アンダーソンが書いたように、 国民が「同等の人間の仲間関係」にあると想像されているからである。

 この原則は、墓石や「戦士の碑」の碑板に刻み込まれた名前にも適用されて、どの名前も同じ大きさで(たいていは)碑板に没年順に名前が刻み込まれてい て、戦功のあった兵士の氏名が優先的に強調されることはない。故郷の「戦士の碑」の碑板と異なって、戦場に近い軍人墓地の墓石のほうには名前だけでなく所 属と階級が表示されていることがあるが、それは所属と階級は軍隊生活で名前の一部と見なされているからである。重要なことは(所属や階級と無関係に)どの 死んだ兵士にも「同等の人間の仲間関係」の原則に則して同一の墓石があたえられる点にある。

 ここで靖国神社に話を移すと、「霊璽簿」とよばれる合祀名簿に入る条件は本来兵士として戦場で死んだことだけであり、戦功(生前の業績)や素性は無関係 である。また戦功があったからといってその戦死者の氏名が特別に大きな字で書かれているわけではない。こう考えると、「同等の人間同士の仲間関係」の表現 という重要な考えが日本の靖国神社にも見られることになる。そうであるのは、19世紀の後半に近代国家への道を歩みはじめた日本も、ネーション(=国民主 義)という考え方を共有し、「現実には不平等と搾取があったにせよ」、国民国家への道を歩んでいたからと思われる。 

 参考までにつけくわえると、ドイツにはソ連軍の軍人墓地や戦没者追悼施設があるが、軍隊内の階級も戦功も、重要視されて、戦死者のなかで一番高位の将校 と功績のあった「ソビエトの英雄」が一番目立つ場所に位置するなど特別扱いされている。これは、この国が国民国家というタイプでなく、(アンダーソンの意 味での)ネーションについての考え方からほど遠い国家であったことをしめす。

 もともと軍隊とは強制的な性格があるもので、お墓がつくられることも、また「戦士の碑」の碑板に名前が刻み込まれることも遺族の承諾なしで実施される。 日本では合祀取り消しを求めて裁判をおこす人がたくさんいる。ドイツでは(私の知るかぎり、一度だけ)1950年代にロシア戦線から帰還しない息子を待つ 母親が「戦士の碑」の碑板に戦死者の傍らに「行方不明者」として息子の名前が刻み込まれていることを怒って取り消しを求める裁判を起こした。彼女は下級審 から上級審まで全敗する。「足抜き」が不可能なのは靖国神社だけでない。

 ■国際社会での「靖国神社」

 戦後「右か左かの踏み絵風」が続いたかもしれないが、それはあくまでも国内だけの話で、大きな争点ではなかった。ところが今や靖国は世界的知名度を獲得 した。(日本にいると見えにくいかもしれないが、)こうなった原因の一つは、欧米主導の国際社会が1970年代の後半からホロコーストというテーマを発見 して、第二次世界大戦という「過去」について議論することが流行になったからである。そうなったのはいろいろな要因が重なったからと説明される。

 第一の要因は、ベトナム戦争の精神的後遺症を患う米国社会にとって、第二次大戦という自国が成し遂げた「偉大なる人類解放事業」を思い出すことが癒しに なったこと。第二次大戦に従軍した世代が「もっとも偉大なる世代」とおだてられるようになったのもこのためである。次の要因は、米国歴史学者のピーター・ ノビックによると、宗教離れからアイデンティティーを失いつつあったユダヤ系米国人にとって、ホロコーストが旧約聖書に代わって「ユダヤ民族共同体」の絆 は強める機能をもつようになったことである。こうして米国がした戦争の正義を証明するホロコーストが重要なテーマになっただけでなく、それを「万物の尺 度」とする奇妙な「ホロコースト史観」が人々の頭の中を支配するようになる。その結果、米国に敵対する独裁者がヒットラーに譬えられるようになっただけで なく、米主要都市にホロコースト博物館が設立された。現在米国の大学にホロコースト研究ポストが千ぐらいはあるといわれる。

 欧州では1970年代後半「鉄のカーテン」の向こう側の現実の社会主義に幻滅していた左翼的知識人にとってもホロコーストは「渡りに船」のテーマであっ た。それまで未来にユートピアの実現をめざしていた彼らは、このテーマのお陰で時間軸の向きを逆さまにして過去にユートピアの実現を夢見ることができるよ うになる。現実には死んだヒットラーと今さら戦うことなどできないので、ホロコーストの歴史から学ぼうとしない無反省人間を見つけて糾弾することになる。
 
 靖国神社についての対立が日本国内でも先鋭化し、また外交問題にまで発展したのは、国際社会のこのような潮流に応じてホロコーストに似た議論を東アジア にも求めるようになったからである。この結果、戦後日本の国内だけの話であった「右か左かの踏み絵風」が国境をこえて、国際社会では靖国の話とホロコース トの議論とダブるようになった。

 昨秋、あるドイツの新聞が大江健三郎にインタビューをした。その中で彼は次のように日本の首相の靖国参拝を批判する。

《彼(小泉首相)は、中国の住民に対する日本人が犯した残虐行為について謝罪するが、しばらくして(日本の戦争犯罪人が葬られている)靖国神社を訪れる。 このようなちゃらんぽらんな態度で、彼は、何らかのかたちで、とても日本的な行動様式をしめしている》(9月12日付け「ベルリナー・ツァイトゥング」)

 私に興味深く思われたのはノーベル賞作家の発言でなく、「(日本の戦争犯罪者が葬られている)」という靖国神社についての補完的説明のほうである。これ はカッコの中に入っているので、大江の発言ではなく、インタビューしたドイツ人記者が補完したものである。ナチ指導者のなかでお墓があるのは、1987年 ベルリン・シュパンダウ監獄で自殺したルドルフ・ヘスであるが、命日の8月17日にたくさんのスキンヘッドのネオナチが追悼デモをしようとして騒ぎにな る。カッコの中の補足的説明で、本来ホロコーストと似た議論を東アジアに求めていたこともてつだって、靖国神社がナチ指導者のお墓に似たものになる。また こう考えないと、靖国参拝のスキャンダラスな性格が誰にも理解できない。そうであるのは、ドイツをはじめ欧米諸国では(日本にあるような「右か左かの踏み 絵風」式のタブーがないために、)政治家が戦没兵士追悼施設を訪れることが特別な事件でないからである。

 ナチ指導者のお墓に似たものは国際社会に定着した靖国神社のイメージである。ドイツの首相がナチの指導者ルドルフ・ヘスのお墓参りしたら、この行為はナ チ思想を信奉していることの表明と見なされる。その意味では、独首相が自分の部屋にナチのシンボルのハーケンクロイツを飾るのと似た行為で政治的信条の告 白になる。これと似たように、日本の首相の靖国参拝も政治的信条の告白、軍国主義肯定の表明と見なされる。

 李中国外相が昨年11月15日韓国・釜山で、また今年の3月7日に人民大会堂の記者会見で小泉首相の靖国神社参拝を「ドイツの政治家のヒットラー追悼」に喩えたのは、国際社会でこのようなイメージが形成されているからである。3月7日のほうの発言を以下引用する。

《中国と日本の政治関係が困難に直面している原因は、日本の一部の指導者が今もなお侵略戦争を発動し指揮したA級戦犯への参拝を堅持していることだ。日本 指導者は、中国人民と、侵略戦争により損害を受けたその他国の人民の感情を傷つけることをするべきではない、、、あるドイツの政府関係者は、私につぎのよ うなことを言った。ドイツ人も、日本の指導者が、なぜこのような愚かで、不道徳なことをするのか理解できない。ドイツの人達の話によれば、第二次世界大戦 後、ドイツの指導者には、ヒトラー、あるいは、ナチズムを崇拝する人はいない。》(CRI日本語版3月8日)
 
 国際社会でこの記事を読んだ人は、靖国がナチ指導者のお墓に似たものと思っている以上中国外相に同感して、日本の首相の靖国参拝を「愚かで、不道徳」で 「(隣国・国民の)感情を傷つける」行為と思う。日本には「参拝に反対している中韓の二カ国だけ」と強がる人がいるが、国際社会の多数派から支持されてい るから中韓が抗議していると考えるべきである。

 ■ほんとうにそうなのか

 自国の首相の靖国参拝に対する国際社会のこのような反応に対して、「どこの国もしている戦没者の慰霊を、日本がなぜしてはいけないのか」とか、「死者に ムチ打たないのが日本の伝統だ」とかいっても、これは的外れである。これらが反論になるためには、国際社会で靖国神社が(どこの国にもあるような)戦没兵 士追悼施設と思われていなければいけない。ところが、すでに述べたように、そうでなく、ナチ指導者のお墓に似たものと思われている。「内政不干渉」も国内 で人権侵害を繰り返す独裁者がいうセリフで、事態を悪くするばかりである。

 CRI日本語版からすでに引用した李中国外相の発言の中には、「日本の一部の指導者が今もなお侵略戦争を発動し指揮したA級戦犯への参拝を堅持している ことだ」という箇所がある。ほんとうにそうなのか。この中国の政治家は、欧米諸国や日本などで発達した戦没兵士の追悼文化について無知であるためにこんな ことをいうのではないのか。

 この文化の重要な特徴は、すでに述べたように、反業績主義であり、戦死したという理由だけで生前の業績と無関係にその兵士のためにお墓をつくったり、名 前を「戦士の碑」の碑板に刻み込んだり、また靖国神社の場合は紙に書いたりした。ということは、「A級戦犯」が合祀されたのは、この中国の政治家が誤解し ているように、「侵略戦争を発動し指揮した」という生前の業績のためでない。彼らが戦場で死んでいないのに靖国に入ることができたのは法的に戦没兵士と同 然の扱いをされたからである。(後で述べるが、似た例はドイツにもある。)こうして「A級戦犯」が合祀されて死んだ兵士に変わった以上、靖国神社には「A 級戦犯」は存在しない。日本の首相が靖国に参拝しても、存在していないものを崇拝の対象にできないことになる。
 
 靖国参拝に賛成する日本人の多くがこのように考えないのは、「右か左かの踏み絵風」で靖国参拝を政治的立場の表現手段(=政治デモする人の「紙と棒切 れ」)と見なして、戦没兵士追悼のことを独自の問題として考えなくなっているからである。だから、彼らは「A級戦犯」の分祀や代替追悼施設を考える。

 また靖国神社関係者のあいだには、「A級戦犯」合祀を彼らの生前の業績(=東京裁判の被告)と関係づける人たちがいる。それは、彼らが「右か左かの踏み 絵風」の影響されて、反業績主義という靖国の戦没兵士追悼文化の性格を見失い、乃木神社と靖国神社、あるいは(愛知県に「殉国七士廟」という7人のA級戦 犯のお墓があるが、)この「殉国七士廟」と靖国神社との区別もできなくなったことになる。

 日本の靖国参拝・反対派はこの神社が戦争を賛美して戦死を顕彰したことを指摘する。すでに述べたように、この性格は靖国神社だけでなく欧米諸国の戦没兵士追悼施設と共通する。ところが、施設だけを見て比較すると靖国神社ほど顕彰の機能が乏しいものはない。

 顕彰が戦死という善行を広く世間に知らせることなら、町や村の広場や教会の敷地内にあるドイツの追悼施設・「戦士の碑」のほうがその目的に適っている。 というのは、広場や教会は人が集まるところであり、できるだけ多くの人が碑板に刻み込まれた兵士の名前を見ることができる。反対に靖国のほうは一般訪問者 が霊璽簿奉安殿に立ち入って戦没者氏名を見ることもできない。ということは、靖国神社ほど、顕彰という機能を自分から否定する戦没者追悼施設はないのでは ないのか。「月の裏」のように近づくことも見ることもできない場所にしまい込まれていることは広く世間に知らせるという目的には役立たない。

 中国外相は、すでに引用したように「(日本指導者の参拝が)中国人民と、侵略戦争により損害を受けたその他国の人民の感情を傷つける」と述べた。中国人 が戦時下日本軍から受けた被害を怒るのは理解できる。(すでにふれた)息子に生きて帰って欲しいと願うドイツの母親が「戦士の碑」の碑板で息子が戦死者同 然の扱い受けたまま町の人々の視線に晒されていることに怒ることも多くの人が理解できる。「参拝が中国人民の感情を傷つける」というのは、どこまで現実の 靖国神社と関係があるのだろうか。「右か左かの踏み絵風」にもとづいた参拝の意味づけにしたがって怒っているだけではないのか。

 (おそらく中国外相を含めて)国際社会の多くの人々は、靖国神社を「A級戦犯」の名前が石に刻み込まれた「殉国七士廟」のような施設であると想像して、 そこに日本の首相が参拝することを無神経と見なしている。だからこそ、「A級戦犯」を含めて合祀された戦没兵士の名前を見ることができないと説明される と、狐につままれたような顔をする人が少なくない。靖国の反顕彰的性格については、後でドイツ戦没兵士追悼に関連する国際紛争を論じるときにもう一度ふれ る。(つづく)

右か左かの踏み絵風(1)-「靖国問題」とはなにか
右か左かの踏み絵風(2)-「靖国問題」とはなにか
右か左かの踏み絵風(3)-「靖国問題」とはなにか
右か左かの踏み絵風(4)-「靖国問題」とはなにか
2006年06月28日(水)
ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口 坦
 私は、自分が長年外国で暮らしているためかもしれないが、日本での靖国神社についての議論の在り方に違和感をおぼえる。問題でもないことを「問題」にしているように思えてしかたがない。

 ■暗黙のコンセンサス

 日本から送ってもらった坪内祐三著「靖国」(新潮文庫)の後書きの中で作家の野坂昭如が「靖国神社については、戦後語れば、どうしても右か左かの踏み絵 風となり勝ちだが、ぼくは、祖母のお陰で、この幣を免れている」と書いている。「右か左かの踏み絵風」とは言い得て妙で、私は笑ってしまった。これは戦後 日本社会の暗黙のコンセンサスで、靖国を参拝する人は戦前の軍国主義の肯定する右翼で愛国者あり、それに反対することは左翼・革新で平和主義者と見なされ ることである。

 これが暗黙のコンセンサスであるのは、この「右か左かの踏み絵風」の有効性がおたがいに対立している右と左のどちらからも承認されているからである。そ の証拠に、頭の中に私利私欲しかない政治家も靖国に参拝しただけで自分をコワモテのする右で「愛国者」であると思うことができる。また参拝して「軍国主義 賛美者」扱いされたとして怒って名誉毀損で訴えようとする政治家がいないのは、人に後ろ指をさされてもしかたがないことをしたと自分でも思っているためで はないのか。逆に、参拝に反対する人たちのほうも革新で平和のために貢献していると思うことができる。このように「右か左かの踏み絵風」のお陰で誰もが安 直に政治的アイデンティティーを確保できることがこの暗黙のコンセンサスが半世紀以上も長続きしている理由である。

 参拝してその理由をきかれた政治家は「戦争犠牲者の方々すべてに謹んで哀悼の意を捧げた」とか「御霊の前で平和への誓いを新たにしてまいりました」とか こたえる。メディアはこの発言を嘘だともいわないでひたすら無視する。そうであるのも、「右か左かの踏み絵」でなくだから「右か左かの踏み絵風」であり、 あいまいなままにしておく構造がその特徴だからである。

 ある日本の新聞は「靖国神社は軍国主義のシンボルだった。いまの日本の首相が戦没者を弔う場所でない」と靖国参拝に反対した。でもシンボルというコトバ は便利であるが、ここでどのような意味でつかわれているのだろうか。例えばハーケンクロイツはナチのシンボルである。これを表示することはドイツをはじめ 多くの欧米諸国で刑法上禁じられている。そうであるのは「ネオナチ団体」がナチ思想を信奉していることをしめすためにこのシンボルをもちいているからであ る。(この場合は、このシンボルが「踏み絵風」でなく「踏み絵」として機能していることになる。)

 それでは、日本で参拝に反対する人々は、ハーケンクロイツと同じ意味で靖国神社を軍国主義のシンボルだと見なしているのだろうか。もしそうだとした ら、(後で述べるが、国際社会のほうはそう考えているのだが、)参拝する政治家だけでなく、毎年参拝する六百万人の日本人にも「いまの日本国民が戦没者を 弔う場所でない」と反対するべきである。というのは、彼らの参拝が軍国主義肯定になり、これこそ本当は反対に値する。

 ところが反対しない。例えば「いまの日本の首相が戦没者を弔う場所でない」と参拝に反対した新聞は別の機会に「私たちは、一般の国民が戦争で亡くなった 兵士を弔うために靖国に参る気持ちは理解できると繰り返し指摘してきた」と書く。ということは、日本で靖国に反対する人々は靖国神社がハーケンクロイツと 同じ意味で「軍国主義のシンボル」だと見なしていないことになる。

 そうであるのなら、今度は別の疑問がうまれる。一般の国民が戦没者追悼のために靖国に参拝していいのなら、彼らから選ばれた政治家が同じことをするのに 反対できないのではないのか。どうして首相の「亡くなった兵士を弔うために靖国に参る気持ちは理解できない」のだろうか。このことは、日本での議論に馴染 んでいる人に気にならないかもしれないが、ダブルスタンダードである。というのは、一般の国民と為政者とに分けて、前者を(重要でない)大衆と見なして大 目に見ているのに対して、後者にきびしい尺度を適用しているからである。この民主主義的とはお世辞にもいえないダブルスタンダードのほころびを見ないです ますために、「公的参拝」と「私的参拝」とに分けて「政教分離」を持ち出すのではないのだろうか。

 ■ほんとうの問題

 「右か左かの踏み絵風」によると、「靖国問題」とは右のほうから見たら愛国心のない参拝反対者がいることであり、反対に左の革新派にとっては自国が過去 にした戦争に対する反省の乏しい同国人がいることである。敵か味方かの党派的対立を半世紀以上も続けると、これも人間的なことであるが、自分の所属する陣 営に都合の悪いことは見ないようにする習慣が定着する。(すでにふれた一般国民と為政者に分けるダブルスタンダードもその例である。)その結果「右か左 か」だけの話になり、それ以外の立場は頭の中に入って来なくなる。もし靖国問題があるとすれば、それは構造化した「右か左かの踏み絵風」がもたらすこの種 の集団的思考停止である。

 例えば誰かに靖国参拝反対理由を尋ねる。もどってくる回答の全部ではなくても、その大部分はこの神社が戦前の軍国主義の片棒をかついだという話である。 でもどうしてこの過去の事実の指摘が現在の靖国参拝の反対論拠になるのであろうか。過去が過ぎ去って間もなかった戦争直後なら理解できる。ところが、半世 紀以上も経過し、戦争体験者がいなくなりつつある現在、本当は現在の日本についての話が出発点にならなければいけないのではないのか。戦後の経済的繁栄を 享受してきた人々が神妙な顔をして軍国主義と戦争がまるで昨日のことであるかのように語るのは空々しい。

 軍国主義の特徴は、外交問題解決に軍事力を優先し、また国内で職業軍人が尊敬されている社会である。どう考えても、戦後の日本ほど軍国主義から遠い国は ない。地中から発掘された古代ギリシアの刀剣は(たとえ歯がこぼれていなくても)現代の戦争で武器として使用されないで、博物館の展示物になる。似たよう な事情から、戦前の靖国神社を成立させていた制度的また社会的条件がなくなったら、靖国神社のほうも戦前と同じままであり続けることなど不可能になるので はないのか。その結果、この神社は、ほんとうは郷土文化保存協会と同じような存在になって、1945年まで続けた戦没兵士の追悼行事を続けているだけの団 体になった。このような眼で靖国神社を見ることができないのは私たちの頭の中に「右か左かの踏み絵風」がどっかり根を降ろしてしまっているからである。

 これに関連して、靖国神社関係者が政治的に右方向に強くふれることを難じる人が少なくない。でも戦没兵士追悼関係者は、グローバル化の先頭に立って多国 籍企業で働いている人ではない以上、どこの国でも国家を強調して(右か左かとなると)右寄りで、これもどこか当然である。次は日本固有の事情で、彼らが 「右か左かの踏み絵」構造で「右の烙印」が押され続けてきたからである。また靖国神社を参拝した政治家は遊就館を見学して共鳴したといっているのではない ことを考慮するべきである。

 「右か左かの踏み絵風」とは政治的立場をしめすための材料として靖国を利用することである。私たちは紙に政治スローガンを書いて棒切れにくっつけてデモ をするが、靖国神社はこのときの紙と棒切れと同じである。紙も棒切れも用が立てばよいと思っているが、靖国神社も似たようなもので、私たちは戦没者の追悼 ということを口にしても、これを本当は独自の重要な問題と見なしていない。反対派にも賛成派にも死者を自分の政治的目的に利用しているという意識もろくろ くない。戦没兵士追悼についてほんとうは無知で無関心である。この点はこれ見よがしに靖国神社に参拝する政治家も同じことである。

 次にここでいう政治的立場とは(金利を上げるべきかという問題と異なり)日本がした戦争の評価と結びついたものである。戦没者追悼をそれだけで重視され るべき独自の問題と思わないために、私たちは二つの件、靖国参拝による戦没者追悼と戦争の評価を切り離して考えることができないし、頭の中の構造がそう なっていることにも気がつかない。だからこそ「右か左かの踏み絵風」で、右の「靖国賛成=軍国主義肯定」か、それとも左の「靖国反対=軍国主義反対」のど ちらかしか頭に浮かんでこない。ということは、それ以外の立場、例えば「靖国に賛成し軍国主義に反対」という立場が成立できないことになる。

 後で述べるように、ドイツは戦後も1945年以前と同じ施設をつかって昔と同じような戦没兵士追悼行事を続けている。だからといって、そのことを戦争の 肯定と見なす人はいない。そうであるのは、二つのこと、戦没者追悼と戦争評価を切り離して考えることができるからである。これができないことこそ問題で、 皮肉なことだが、参拝に反対することはかえって戦前と同じような靖国神社の保存のための運動をしていることにならないか。というのは、外国からの批判を内 政干渉と感じているうちに国民の大多数が反発を覚えて靖国参拝に反対しなくなる。そのときに世論には、残念なことだが、「右か左かの踏み絵風」のお陰で右 の立場しか残されていないからである。

 ■戦没兵士追悼文化
 
 靖国神社の議論で私に残念に思われることは、参拝反対者も賛成者も、他の国にもある類似した現象とくらべてみようとしない点である。ここまで外交問題に なった以上、これはおかしいことである。また比較しないと自分のしていることが理解できないこともあるのではないのか。今からドイツの戦没兵士追悼の習慣 についてごく簡単に述べるが、細かい点で異なるかもしれないが、他の西欧諸国に共通する。

 フランス革命以降、徴兵制度が導入されて国民軍が創設された欧米諸国で一般兵士を対象にする新しいタイプの死者儀礼がはじまった。それ以前どこの国でも 権力をもつ君主や功績ある将軍を特別待遇して後世の記憶にとどめようとして記念碑やお墓をつくることがあった。ところが、この新タイプの追悼文化の特徴 は、氏素性や戦功(生前の業績)とまったく関係なく、戦場で死んだどの兵士にも(君主や将軍と)同じような特別待遇をあたえて、記念碑や個人墓(軍人墓 地)をつくる習慣である。

 記念碑のほうはおおげさにも「戦士の碑」とよばれる。プロイセン国王に寄進されて1792年フランクフルトに建てられた「戦士の碑」がドイツではこの新 タイプの追悼文化の最初の例とされている。というのはその碑板に戦死者全員の名前が刻み込まれているからである。また対ナポレオン「解放戦争」の最中の 1813年5月プロイセン国王・フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が戦没兵士の故郷の教会にその氏名を碑板に残すように命令した。これも死んだ兵士の名前を 残そうとする習慣がひろまるきっかけとされている。

 その後戦争が繰り返されるうちに、戦没兵士の名前のついた碑板が世俗化とともに教会の外に出て、石像と組み合わされて、台座に碑文、例えば「1914年 から1918年、また1939年から1945年までの間に(戦没した)我が町の英雄のために感謝の念を込めて」といった文句が刻み込まれようになる。「戦 士の碑」は教会とならんでどんな小さな町や村へ行ってもよく眼にするもので、現在ドイツに10万以上あるといわれる。その大多数は第一次大戦後に建てられ たもので、第二次大戦の戦没兵士氏名の碑板がそこに取り付けられている。

 次は軍人墓地のほうである。フランスの歴史家フィリップ・アリエスやその他の人々が書いているように、19世紀前半までは戦場で死んだ士官は近くの教会 で埋葬されたりお墓がつくられたりしたが、一般兵士のほうはその死体が一箇所に集められて死んだ家畜同然に地面に埋められるだけだった。ところが兵士とし て召集される市民の地位が上昇するにつれて個々の戦没兵士にも(普通に死んだ人と同じように)お墓をつくるべきという声が強まる。これは、墓石に死亡者の 名前が刻み込まれ、その下に死体が埋葬されている個人墓である。

 そのために死体の身元確認が必要になるが、その目的のために認識票(兵士が携帯する鑑札)が導入されたのは1870・71年の普仏戦争のときからであ る。その数年前に戦傷兵救済のためにアンリ・デュナンの赤十字が生まれている。戦場に負傷して倒れている兵士の救済も、また死んで倒れている兵士にお墓を つくることも、ハーグ陸戦条約と同じように「戦争の人道化」のこころみであった。この「戦争の人道化」は憲法九条の「戦争の違法化」の陰に隠れて戦後の日 本人に縁遠くなった考え方である。そのために私たちに理解しにくいかもしれないが、平和主義から戦没兵士追悼にも反対する立場は欧米では理解されにくい。 これは、国際赤十字の廃止を求める平和主義者が倒錯的と感じられるのと同じ理屈である。

 普仏戦争の後に締結されたフランクフルト平和条約の16条は両国に兵士の墓作りと管理に関して相互協力を義務づけている。その後欧州諸国がむすぶ平和条約ではこの事項は欠かすことができなくなる。

 欧州で、どの戦没兵士にも個人墓をつくことが一般的習慣になるのは第一次世界大戦のときからである。これは驚くほど面倒な作業だ。戦闘中で仮にほうむら れたり、そうされないで自然に埋まったりした兵士の遺骨(、現場の作業者の表現によると「220本の骨」)を掘り出しては身元を確認して、正規の墓地に移 して埋葬しなければいけない。パリの凱旋門の下をはじめ欧州の幾つかの町に「無名戦士の墓」がある。ここでいう「無名」とは、このような個人墓をつくろう としたが、すさまじい塹壕戦で認識票もその他のてがかりも失われて身元が確認できなかったという意味である。ときどき誤解する人がいるので強調すると、気 前のよい国家が名もなき(重要でないが哀れな)兵士にお墓をつくってやったという意味ではない。あくまでも個人墓をつくる兵士追悼文化を前提にした上での 「無名」である。

 第二次大戦後も、1945年までのドイツの継承国である西ドイツは西側の隣国と軍人墓地協定を締結してあたらしく死んだ兵士のために軍人墓地をつくった だけでなく、普仏戦争と第一次大戦の軍人墓地の手入れと管理を続けている。これは普通の人のお墓と異なり戦没兵士の墓は国家によって永遠に維持されること になっているためである。

 1990年冷戦が終了すると、今度は統一ドイツがロシアなどの旧東欧諸国と軍人墓地協定を結んで、それ以来軍人墓地をつくる作業を続けている。現在まで にロシアだけでも百以上の軍人墓地が建設されたが、旧ソ連に200万の死体埋まっているといわれる。それらの遺骨を掘り出して身元を確認し、(予定され た)軍人墓地に移して、正式に埋葬しなければいけない。考えただけでも気の遠くなるような作業である。
(つづく)

「戦士の碑」、認識票、軍人墓地、「無名戦士の墓」、「国民哀悼日」の写真は
http://www.geocities.jp/tanminoguchi/photos.htm

右か左かの踏み絵風(1)-「靖国問題」とはなにか
右か左かの踏み絵風(2)-「靖国問題」とはなにか
右か左かの踏み絵風(3)-「靖国問題」とはなにか
右か左かの踏み絵風(4)-「靖国問題」とはなにか
2006年06月26日(月)
Nakano Associates 中野 有
 テポドン2の発射兆候は、対北朝鮮外交を活発化させている。ミサイル発射の影響と平和へのシナリオを考察したく思う。

 大国は得てしてステータスクオ(現状維持)を選択するものである。中国は富国強兵策に特化できる。ロシアは、中ロの連携で、冷戦はまだ終わっていないと いうプーチン大統領の信念を貫くことができる。適度な緊張関係は、米国・日本・韓国の結束にマイナスにならないと考えられる。そこで冷戦構造の残存と勢力 均衡型が維持されてきた。

 米国・中国・ロシアの大国は、ステータスクオのメリットを利用しているのであり、それが逆効果・非生産的であるとの兆候が見え始めたときに対北朝鮮外交が刷新されると考えられる。

 ■米国内の対立

 6月22日のワシントンポストで、クリントン政権のペリー国防長官とカーター副長官は、北朝鮮がミサイルを発射する前に先制攻撃を行うべきとの主張を 行った。アラスカとカリフォルニアの空軍基地に配置されている11基の迎撃用ミサイルがテポドンを打ち落とす保障はなく、抑止のために先制攻撃が必要との 見方である。

 それに対し、チェイニー副大統領は、先制攻撃が及ぼすマイナス面を指摘し、外交圧力で発射を断念させることを優先するとの見解を示した。また、ペンタゴ ンは、北朝鮮をけん制する狙いもあり迎撃は可能とのシグナルを送った。

 キャピタルヒルでは、ブッシュ政権の対北朝鮮政策の失策が北朝鮮の瀬戸際外交を増長させているとの見方もあり、議会の圧力によりブッシュ政権の対北朝鮮政策が修正される可能性もある。

 ■ミサイル発射脅威を契機として想定される動き
  • ミサイル防衛の強化とペンタゴンの予算の増大
  • 日米同盟の強化
  • 韓国の宥和政策の修正、米韓同盟の強化
  • 有事に強いドル
  • イラク・イラン問題に並び北朝鮮問題がG8で協議される
 ■北朝鮮がミサイル実験を行った場合
  • 1999年の米朝合意のミサイルモラトリアム、2002年の日朝平壌宣言、2005年の六カ国協議共同声明の違反により直ちに北朝鮮制裁が発動される
  • 国連安保理が経済制裁の強力な措置を行うことが予測される
  • 膠着状態にある6カ国協議が強制的に再開されステータスクオの状況が変化する
  • 六カ国協議と国連の連携で北朝鮮の孤立化が進む
  • 経済制裁・軍事制裁によるハードランディングの圧力がかかる
  • 紛争予防のための信頼醸成措置が示される
 ■北朝鮮の戦略思考

 これは筆者の個人的見解であるが、北朝鮮は東西ドイツ統一の成功例を南北の統一に活用する戦略を持っていると考える。西ドイツの負担により東西ドイツは 統一された。そして時を経て東ドイツ出身のメルケル首相がトップになった。見方によってはドイツの統一で利益を得たのは東ドイツだとの考え方も成り立つ。 韓国や国際社会の資金で南北統一が実現され、時を経て北朝鮮出身者がトップに君臨するケースもあるとすると、これこそ北朝鮮が考えるベストの戦略思考であ ろう。

 南北統一のためには紆余曲折の道のりがあり、その分岐点において戦略思考をタイミングよく実践する必要がある。米国の関心を引き、直接対話を行うと同時 に国際社会の妥協を引き出すためには、瀬戸際外交が機能すると北朝鮮は考えている。また、現実的にステータスクオの状況が継続されることで、米、中、露の 利益に適うと同時に北朝鮮の核・ミサイル開発が進む。韓国の見方は微妙であるが北朝鮮が核を開発することにより統一後には、核保有国になるとの欲もあると 考えられる。

 ■紛争回避のシナリオ

 筆者はここ数年、経済協力によるソフトランディング、経済・軍事制裁によるハードランディング、ステータスクオ、核兵器を保有する朝鮮半島の4つのシナ リオを唱えてきた。特に、クリントン政権のペリー国防長官が先制攻撃の必要性を提唱したことに対し、ブッシュ政権は外交努力、換言するとステータスクオを 維持しようとしたことから米国の対北朝鮮政策にステータスクオが前提となっていることが読み取れる。

 ステータスクオの現状では、日本が訴える拉致問題解決は難航してきた。見方によっては、北朝鮮のテポドンの脅威は、ステータスクオの打開に結びつき、日本にとってプラスに活用できると考えられる。

 筆者は、萬晩報で何回も孟子の性善説を前提に経済協力によるソフトランディングの重要性と、その具体策として北東アジアグランドデザイン(日本経済評論 社2002年出版)を唱えてきた。萬晩報の伴主筆も北東アジアグランドデザインの執筆メンバーである。

 ソフトランディングを実現するためには、孫子の兵法にある戦略即ち戦わずして勝つ技術的・戦略的に優位な立場が必要となる。

 安全保障には理想も大切であるがそれ以上に現実的、そして最悪のシナリオに対応する戦略が必要である。この見方は、性善説と性悪説の両方を駆使する考え 方である。北朝鮮は核兵器を開発しており、長距離弾道ミサイルの実験を行おうとしている。単純に考えて、将来、北朝鮮のミサイル攻撃を受ける確立が一番高 いのは日本である。その確立は、限りなく低いだろうと希望するがゼロでない。中長期的には、核兵器を保有する軍事大国であり、経済大国である中国と緊張が 高まることが予測される。平和を構築するためには、文化交流、経済協力のソフトパワーと、勢力を均衡させるハードパワーが必要である。

 そのハードパワーを充実させるためには、イージス艦や地上配置型防衛システムでは充分ではなく、宇宙空間における防衛システムの充実が期待される。この 分野を日米の叡智を結集し、アジアにおいて日本がトップの座を確保することにより紛争回避につながると考えられる。

 ワシントンのシンクタンクで開催された「生物・化学兵器のテロリズム」のセミナーに出席し以下の問題提起に驚いた。

 歴史的に生物・化学兵器使用は、B.C.500年に始まり、14世紀、18世紀、第一次・第二次世界大戦、イラクのクルド族、東京のサリン事件と使用さ れてきた。このように考えると現在、国際テロ組織やならずもの国家は、生物・化学兵器使用は可能であるというのが当然の見方である。にもかかわらず自爆テ ロは頻繁に発生しても生物・化学兵器使用のテロは発生していない。

 現在の外交・安全保障のパワーゲームでイランや北朝鮮の核兵器の開発やミサイルの問題ばかりに焦点が合わされ、それに対応するための軍事費の増強がなさ れている。そこで、もっと大切なことは小規模の生物・化学兵器の最大の脅威を抑止することであると考えられる。

 北朝鮮やイランが核兵器を使用すれば、その国は予測をはるかに超える報復を受けることは確実であり、そこで抑止力が機能する。しかし、ある国が強烈な経 済封鎖と軍事的圧力を仕掛けられた場合、十分予測されるのは、国家でなく国際テロ組織を通じた小規模の生物・化学兵器による報復であろう考えられる。

 それを対処するためには、文化・経済交流のソフトパワー拡充が不可欠である。加えて宇宙防衛産業を通じた科学技術の充実は外交・安保の抑止力として重要 となる。今、日本はテポドン発射脅威を契機にソフトパワーとハードパワーを通じた日本の平和のための戦略を考察する時に直面している。

 中野さんにメール nakanoassociate@yahoo.co.jp
2006年06月23日(金)
萬晩報通信員 成田 好三
 人間は何ともぜいたくであきっぽい生きものです。1度目は大きな驚きをもって迎え入れたイベントも、2度目、3度目となると、あきがきてしまいます。イベントの鮮度が次第に失われてしまうからです。

 昨シーズンに続いて2度目の開催となったプロ野球の交流戦が6月20日、全日程を終了しました。パ・リーグのロッテが2シーズン連続で優勝しましたが、大きな盛り上がりはありませんでした。

 新聞やTVなどメディアが注目したのは交流戦の試合そのものではなく、今シーズン限りでの引退を表明した新庄剛志(日本ハム)の球場でのパフォーマンスでした。今シーズンの交流戦は、ドイツW杯の陰にひっそりと咲いていた花がしぼむように、静かに終わってしまいました。

 この時期、メディアの最大かつ唯一の関心事はW杯でした。いや、W杯ではなくオーストライアに逆転負けし、クロアチアとようやく引き分け、ブラジルに大敗して1次リーグで敗退したサッカー日本代表の試合と、代表メンバー、それにジーコ監督の動向でした。

 今シーズンの交流戦はW杯と同時期の開催になったのだから、メディアの関心、つまりは国民の関心がW杯一色になっても仕方がない。プロ野球関係者はそう考えていたのでしょうか。

 しかし、彼らが本当にそう考えていたとしたら、彼らは極めて重要な時期と場面で、重大な責任放棄をしたことになります。今シーズンの交流戦は、2シーズン目の工夫というものがまったくありませんでした。

 冒頭で触れたように、人間は何ともぜいたくであきっぽい生きものです。1年目には興奮をもって迎えられた交流戦も、2年目には交流戦の開催自体が当たり 前ものとして受け止められてしまいます。そこに、W杯という巨大イベントが重なれば、興味が薄れてしまうことは、当然のことだといえます。

 今シーズンの交流戦を見ていて、ある種の違和感をおぼえました。ファンが交流戦を望んだのは、「交流戦だけを見たいから」ではなく、「交流戦も見たい」だったはずです。しかし、この時期、ファンは交流戦だけを見せられました。

 1か月以上も交流戦だけを見せられると、あきてしまいます。同じリーグ同士のカードも見たくなります。しかし、そんな当たり前のファンの望みは、交流戦が終わるまでは、お預けになってしまいました。

 プロ野球関係者の中には、交流戦をオールスター戦前後に「2分割」で開催すべきだと主張する人もいるようです。しかし、筆者はこの考えには組みしませ ん。オールスター戦後に交流戦を開催したのでは、ペナントレースの本来の目的であるリーグの優勝争いがかすんでしまうからです。

 そこで、今回はこのコラムで、筆者の交流戦改革プランを提案してみます。名づけて、交流戦「混ぜご飯」方式です。あまりよく混ぜない混ぜご飯は、白いご 飯も調味料やだしで味付けたご飯も、それにさまざまな具の味も楽しめます。この方式を採用しますと、ペナントレースは3つの段階を踏むことになります。

 第1段階。3月末か4月初めの開幕から5月の連休までは、セ・パ両リーグともリーグ内の球団とだけ試合をします。この段階では球団もファンもリーグ内の位置取りが確認できます。

 第2段階。5月の連休あけからオールスター戦前までは、同一リーグでのカードと交流戦のカードを交互に開催します。この段階ではファンは交流戦だけでは なく、交流戦も楽しむことができます。球団にとっても、昨シーズンの中日や今シーズンの読売のような、交流戦による極度の戦績の落ち込みを回避できる可能 性が大きくなります。

 第3段階。オールスター戦後は同一リーク内だけのカードに戻します。これによって、第3段階はリーグの優勝争いに焦点をより絞ることができます。第2段 階で交流戦と同一リーグ内のカードが消化できないのであれば、オールスター戦の開催時期を遅らせればいいだけのことです。それによって第3段階は、より短 期決戦型のリーグ優勝争いが展開されることになります。

 スポンサーの意向や日程調整など難しいことはあるでしょうが、ファンが望んだのは「交流戦だけ」を見たいのではなく、「交流戦も」見たいということだったことは確かです。プロ野球関係者は交流戦のあり方について再考すべきです。(2006年6月23日記)

 成田さんにメールは mailto:narinari_yoshi@yahoo.co.jp
 スポーツコラム・オフサイド http://blogs.yahoo.co.jp/columnoffside
2006年06月19日(月)
長野県南相木村国保直営診療所長 色平(いろひら)哲郎
「人間の安全保障」について考えてみたい。

 この考え方は、日常的に食べ物は十分あるか、病気になっても治療を受けられるか、仕事はあるか、犯罪に巻き込まれないか、住居はあるか、思想や宗教の自 由は守られているか......など「人間の生にとってかけがえのない中枢部分」を守って、すべての人の自由と可能性の実現をめざす、というものだ。

 現代のニッポンは、物はあふれて豊かで、こんな考え方は遠い国の話と感じる人もいるかもしれない。しかし、世界一の長寿国でありながら、自殺率も世界で 一、二、年間3万人以上の人が自ら命を断っている。都会の繁華街で夜毎、膨大な残飯が出る一方でホームレスの人たちがゴミ箱を唯一の「命綱」として、その 日、その日の生をつないでいる。親が子を殺し、子が親を殺す。保険料が払えず、保険証を交付されないために治療が受けられず、死んでゆく人もいる......。

「しあわせ」って何だろう。

 人間の安全保障の概念によれば、人間の生活を脅かす要因は「欠乏」と「恐怖」なのだという。貧困や飢え、教育や保健医療サービスが受けられないのは「欠 乏」になる。戦争やテロ、人権侵害による弾圧、感染症の蔓延、環境破壊、経済危機、災害などは大きく「恐怖」にくくられる。

 もちろん、両者は影響しあっており、欠乏が恐怖を高め、恐怖から欠乏が生じる。単純には分けられないのだが、どうも現代ニッポンは、物質的に充たされて いるなかで、得体の知れない「恐怖」が煽られ、不安を呼び、その不安がまた新たな恐怖を生む「負のスパイラル」に入りつつあるような気がしてならない。

 たとえば今国会での成立が見送られた「共謀罪創設法案」も、そのひとつ。共謀罪論議の発端は、2000年11月に国連総会で「国際的な組織犯罪の防止に 関する国際連合条約(国連国際組織犯罪条約)」が採択され、日本も署名したことにある。これを受けて日本でも国内法の整備をしなくてはならない、というこ とで「共謀罪」という罪を創設しようと、同法案が提出された。

 共謀罪とは、要するに犯罪的行為を実行していなくても、誰かと「やってやろうぜ」と相談したり、「よっしゃ。やってやろう」と合意したりするだけで犯罪と決めつけられること。

 現在の刑法では、殺人や強盗などの重大犯罪については「予備行為」を例外的に処罰する規定はある。ところが、共謀罪は、さらに踏み込んで、予備行為以前の「相談」にまで処罰範囲を広げようとするものだ。

 しかも、その対象になる犯罪が600ちかくにものぼる。そのなかには「万引き」や「傷害」、「組織的な威力業務妨害(マンション建設反対の抗議行動な ど)」から「不同意堕胎罪」や「偽りや不正行為による市町村民税の免脱罪」といった、どう考えても、国際的犯罪条約とは関係のなさそうなものまで含まれて いる。

 仮に「偽りの――免脱罪」があれば、ノルマ達成のために行われた社会保険庁の保険料の不正免除なども、入るのか......?

 しかも、共謀グループの一員であった者が、その共謀内容を官憲に報せれば罪を逃れられるというのだ。

 これは「密告」「チクリ」を大々的に奨励するものである。戦前の悪法「治安維持法」がゾンビのように復活する。いくらなんでも、これは酷いと民主党も 「修正案」を出したところ、自民党は何がなんでも成立させようと「丸のみする」と回答。

「えっ」と驚いた民主党、さすがに「信じられない」と審議拒否。辛うじて今国会での成立は見送られた。しかし、先はまだ見えない。

 政府与党の一連の動きは、テロや国際犯罪への対応を理由に恐怖を拡大再生産しようとしているようにしか思えない。民主党とのドタバタ劇で本質が見えにく くなったが、そもそも共謀罪がなければ「国際組織犯罪条約」を批准できないという自民党の根拠も、怪しくなっている。

「日本が採択したこの条約や国連作成の立法ガイドの英文原文には批准に共謀罪が必要だとは書いていない」との意見が英文解釈の専門家の間から次々と出されているのだ。

 6月15日付けの「東京新聞」は、「米ニューヨーク州の弁護士資格も持っている喜田村洋一弁護士は、これまで共謀罪創設の是非にまつわる議論に加わって こなかったが、つい最近、A4判用紙で約十センチもの厚さがある国連条約と立法ガイドの原文(英文)を二日がかりで読破してみた結果、共謀罪が条約批准の 条件ではないことに気付いたという」と報じた。

 翻訳解釈上の要旨は割愛するが、「喜田村弁護士らの指摘通りなら既に組織犯罪処罰法を持っている日本は、わざわざ共謀罪や参加罪を創設しなくても条約が 批准できるのに、できないと思いこんで共謀罪創設法案を審議し続けてきたことになってしまうとの声も出ている」と同紙は記す。

 恐怖を拡大し、煽るためにもしも本質を捻じ曲げていたとしたら......。これこそコワイ。

 似たようなことが「構造偽装事件」でもいえる、との指摘は、友人でノンフィクション作家の山岡淳一郎氏。

「構造計算プログラムを悪用して鉄筋量を減らした行為は、糾弾されて然るべき。ただし、実態的にその建物の耐震強度がどうなのかは、構造計算だけでは分からない」

「そもそも構造計算の方式は四種類もあり、コンピュータソフトの構造計算プログラムは大臣認定を受けているもので100種類以上ある。構造学者の話では、 どの計算方法でどのプログラムを使うか、どのように数値を入力するかで、震度5強で倒れるとされ、住民退去の根拠となった『保有耐力0.5』を挟んで上に なったり、下になったりする」

「つまり同じ建物でも計算方式やプログラムの選び方次第で、退去か居住継続か異なる」

「いったい、耐震強度の基準とは何か。本質にかかわる議論がされず、国は罰則強化や確認申請のテコ入れだけを行おうとしている。不安だけが撒き散らされる」

 共謀罪も耐震偽装も人間の思想信条や居住という「生にとってかけがえのない中枢部分」にかかわる。そこが恐怖の標的にされている。誰が、いったい何のために......。
2006年06月18日(日)
萬晩報主宰 伴 武澄
 伊勢にやってきて2年半となったが、来月この地を去ることになった。多くの人にどこがよかってですかと聞かれる。自然でいえば、伊勢神宮の杜と熊野古道の風景となる。人間がつくったものでいえば菰野(こもの)町のパラミタ美術館の存在が圧倒的だった。

 パラミタはジャスコ生みの親である岡田卓也氏のお姉さん、小嶋千鶴子さんが私財でつくった美術館である。陶器収集が趣味で40年間に集めた作品を中心に年に4回ほどテーマごとの展示を続けている。

 パラミタのすごさはいくつもある。圧巻は常設展となっている故池田満寿夫の「般若心経シリーズ」だ。池田満寿夫といえば、西洋風の版画というイメージが 強かったが、晩年、焼き物に没頭してアジアへの回帰を果たした。般若心経の一字一字を刻み込んだ陶器や金色に焼き込んだ仏頭などの作品群が全体で一つのイ メージを沸き立たせる。

 訪れた多くの人は、展示室の入口に立った瞬間にまず「なんだこれは」という強い衝撃に立ちすくむだろう。僕は思わず「こりゃ曼荼羅だ」と思った。

 館員に聞くと「小嶋さんがひらめいて時々配置換えをする」のだそうだ。一つひとつの作品をていねいに展示して見終わったときに全体でイメージを抱かせる のがこれまでの美術館の展示だったとすると、この「般若心経シリーズ」は作品群を見渡したその瞬間にひとつのイメージをひらめかせる空間となっている。

 亡くなった池田満寿夫さんがこの展示をみたら、「いやはやまいった」とうなるに違いない。「般若心経シリーズ」は当然、作品群として制作されたはずであ る。だが、暖かい色調の照明の下で何百にもおよぶ焼き物が一つの空間でこうも息づくとは考えなかっただろう。

 美術家への評価は多くあるだろう。鑑識眼などという言葉もあるが、あまり好きでない。本物かどうかを見分ける能力などというものはどうもあやしい。長年その世界で飯を食っていればそんなものだれにでも身に着くだろう。

 心を動かすものが芸術なのだとすると、自然に勝るものはない。人間が造形する美の世界では、その評価はどうも個々の作品の価値で終わってしまうきらいがある。群盲象をなぜるの感がある。

 般若心経は世界で一番短いお経で、仏陀の教えを凝縮した世界であるとされる。僕は最後まで読んだことはない。たとえ読んだとしても意味が分かるまで数年の年月を要するだろう。

 仏教でいえば、お寺の伽藍配置や、堂内の仏像や壁画はそれぞれに仏の世界として表現されたものなのだろうと思っている。もしそうだとするとパラミタ美術館は小嶋千鶴子さんが一人で生み出した仏の世界となる。

 パラミタは般若心経の「波羅蜜多」をカタカナで表したものなのだそうだ。小嶋さんに昨年お会いしたとき90歳だった。
2006年06月03日(土)
萬晩報主宰 伴 武澄
 5月6日、一日神領民となって伊勢神宮でお木曳き行事に参加した。

 昨年6月、木曽山中で切り出した神木を伊勢神宮まで運び入れて以来、7年後の式年遷宮に使う神木が次々と伊勢市に集まっている。125の社と鳥居すべて を建て替えるのに全部で1万本のヒノキが必要とされるから膨大な量だ。

 かつてこのお木曳きは江戸時代には神宮周辺の神領民たちの役務だったが、いまや20年に一度の祭となっている。今年と来年の5、6月、町内会ごとに奉曳 団を組織して、お木曳きを競い合う。神さまを祀る神聖な神木を神社内に曳き入れる行事は神領民たる伊勢市民の特権となったが、前々回の遷宮から市民以外で も参加できるようになった。一日神領民という。

 神宮には天照大神を祀る内宮と豊受大神を祀る外宮とがある。外宮のお木曳きは「陸曳き」(おかびき)といって、3本の太いヒノキをお木曳き車に乗せ、宮川の河川敷から約2キロの道を曳く。

 筆者が参加したのは、二俣町奉曳団のお木曳き。180メートルの長さ2本の綱に約300人の曳き手が集まった。お木曳き車の上には入れ代わり青年が立 ち、声を張り上げて伝統の木遣り音頭をうたう。曳き手は音頭に併せて、「エンヤー、エンヤー」と掛け声をかける。曳き手の気が高まると、真っ白い綱がぐる ぐると回り始め、2本の綱の曳き手が綱ごとぶつかり合う。これを「練り」という。

 お木曳き車は2キロの道のりを4時間もかけて曳くことになるから、歩みは遅い。理由は50メートルごとに練りが入るからだ。かなり危険を伴うが、どうや らこの練りがエネルギーの発散になるらしい。20年に一度しか体験できないから、曳き手の気合はそれこそ十分だ。

 最後、お木曳き車は「エンヤー曳き」といって外宮手前の交差点からカーブを曲がって一気に境内に引き入れられ、お木曳きは終わる。

 7月になると内宮の「川曳き」が始まる、五十鈴川の流れを遡って内宮に納められる。お木曳きは来年も行われる。自分が曳いた神木が遷宮造営に使われ、20年間、人々の信仰の対象になるのだと考えると気持ちが高まる。

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