2006年4月アーカイブ

2006年04月25日(火)
萬晩報通信員 成田 好三
 かなり以前は、選挙(政治)に最も影響を与えるメディアは新聞でした。佐藤栄作元首相が退任にあたって新聞記者を退席させ、TVカメラの前で会見したことは、その象徴的な出来事でした。

 近ごろは新聞に代わってTVが主役になりました。そして、TV内の主役も代わってきました。ニュースからニュースショー、そして最近はワイドショーが主 役に躍り出てきました。昨年9月の自民党が圧勝した衆院選は、「ホリエモン」フィーバーや「刺客」騒動など、まさにワイドショーが最も影響を与えた選挙に なりました。

 民主党公認候補が1000票弱の僅差で自民党公認候補を下した衆院千葉7区補選(4月23日投開票)で、最も印象的なTV映像は何だったでしょうか。自 民党・民主党の候補者ではありませんでした。最も印象的な映像は、告示日における自民党の小泉純一郎総裁(首相)と民主党の小沢一郎代表の街頭演説でし た。

 告示日の街頭演説で、小泉氏と小沢氏は極めて対照的なパフォーマンスを見せました。小泉氏は人の集まりやすい繁華街で演説しました。選挙で小泉氏が演説すれば、黙っていても人が集まります。

 一方の小沢氏は、あえて(意図的に)人の集まりにくい場所を選びました。田舎のどうといった特徴のない場所で、少数の人の前で「みかん箱」(正確にいうとビールケースか農業用のコンテナ箱だったでしょう)の上に乗って演説しました。

 新聞は、こうした「情緒的」な情景をもはや克明には模写しなくなりました。当事者が意図的に設定した状況にのせられないためです。しかし、TVにはどう しても映像が必要になります。TVはニュース枠でも、ニュースショー枠でも、そしてワイドショー枠でも頻繁に小泉氏と小沢氏の街頭演説の映像を流しまし た。

 ニュース枠、ニュースショー枠、ワイドショー枠と、映像が繰り返される頻度は拡大します。しかし、政治側からの「偏向」批判を受けて、扱う時間はほぼ公 平になりました。しかし、よりインパクトのある映像はどちらだったでしょうか。その答えは明らかです。小泉氏の街頭演説に多くの人が集まるのは、もはや当 たり前です。「ニュース性」はありません。

 しかしです。小沢氏が人の集まらない場所で「みかん箱」の上に乗って街頭演説したことは、「サプライズ」です。田中角栄元首相の直系で「こわもて」政治家と評価される小沢氏が「みかん箱」の上に乗ること自体がニュースになります。

 TVが時間枠や扱い方で公平を期したとしても、小沢氏の「みかん箱」はTVにとっては大きなインパクトになりました。TV制作者側のサプライズは無意識のうちにも映像に反映されていきました。

 TVが、小沢氏と小泉氏の映像を繰り返し流さなかったとしたら、2人の演説の影響力には大きな差がでてきます。動員力が明らかに違うからです。しかし、 TV映像の影響力は現場の動員力とは基本的に関係ありません。どちらの演説がよりインパクトがあり、よりニュース性があるかで、影響力の違いがでてきま す。

 TVのワイドショーは、耐震偽造問題では圧倒的に民主党の味方になりました。メール問題ではまったく逆の立場になりました。国会の本会議で民主党の前原誠司元代表が小泉首相からポンと肩を叩かれる映像は決定的でした。

 TV、特にワイドショーが、対立する政治勢力のどちら側により多くのインパクトのある情報と「好感度」のベクトルを示すかで、選挙の結果が大きく左右さ れる時代になりました。小沢氏の「みかん箱」は、そのことを端的に示す現象になったといえるでしょう。(2006年4月25日記)

 成田さんにメールは mailto:narinari_yoshi@yahoo.co.jp
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2006年04月23日(日)
Nakano Associates 中野 有
 ワシントンのブルッキングス研究所が今月始めにブッシュ政権の経済政策に挑戦する「ハミルトンプロジェクト」を発表した。ブルッキングス研究所で開催されたそのシンポジウムは、期待と好奇心と緊張感の空気で満ち溢れていた。

 このプロジェクトは、ハーバード大学やプリンストン大学を主席で卒業した実務者を始め産官学の約30人の叡智を結集し、実践向きに設計されたものであ る。ブルッキングス研究所のピーター・オーザックのコーディネートにより、ロバート・ルービン元財務長官、若手黒人のカリスマ的な存在感を示すバラック・ オバマ上院議員が基調講演を行った。今週号のエコノミスト誌の表紙には、次期大統領選に影響を与える人物としてオバマ氏が入っている。

 米国の経済政策の未来像を把握する意味でハミルトンプロジェクトを知る必要があると思う。シンポジウムで学んだエッセンスを説明したく思う。以下のエッ センスからは、それ程、新しいビジョンは見られないと思う。でも、現政権の経済戦略とは明らかに違い、民主党の考えらしく中間層や弱者への教育や勤労の機 会の増大を通じた米国の経済成長戦略が練られているところに魅力を感じる。このシンプルな経済戦略が、米国の実務を経験した最高の頭脳集団で考案されたと 思うと今後、米国内で浸透していく可能性はあると考えられる。

 同時に米国の孤立主義への動きが指摘されているが、米国国内の投資に主軸を置くこのプロジェクトの意味する所は、無益な世界への干渉をできる限り排除 し、国内に投資することにより米国を活性化させる政策を垣間見ることができる。また、日本の野党が自民党に対抗する経済戦略としてハミルトンプロジェクト は活用できると思われる。余談だが、日本では高橋是清プロジェクトの方が良いかと思う。

 プロジェクト名は、米国の初代財務長官のアレクサンダー・ハミルトンに由来している。西インド諸島で育ったハミルトンは独学で貧困を克服しワシントン大 統領の右腕として米国の財政政策、金融システム、商業主義の基礎を築き、10ドル紙幣にも載っている。ハミルトンは、伝統的な米国の価値観を代弁する人物 であり、ブルッキングス研究所が21世紀の今日、米国の経済政策の原点に戻り経済成長戦略を策定するにあたり、ハミルトンを礎にしたところに不思議と新鮮 味を感じる。

 米国の価値観は、教育と勤勉を通じ豊かな人生の機会を提供してくれるところにある。しかし、今日、価値観を見出す投資がなされているのであろうか。今、 求められているのは、長期的な繁栄と成長に向けた明確な経済政策であり、空論や政策上の主義を述べるのでなく成功の証となる実践や経験の新機軸となる理想 の経済成長戦略である。

 米国が抱える問題

 1.世界の5%の人口を占める米国が20%の世界経済を担っているにも拘らず世界の繁栄に向けた未来志向的な政治的な意思が見られない。

 1.財政不均衡、最大の財政赤字(GDPの2.5%, 3000億ドル)、今後10年で5兆億ドルに達すると予測される。

 1.慢性的な財政赤字、低い貯蓄率、外資の依存は、米国の生活水準を低下させる。

 1.中国、インドをはじめとするグローバル経済の影響力に対し米国の革新的な科学技術の分野への大幅な投資なしでは米国の国際競争力が低下する。

 これらの問題に対処する経済成長戦略としてハミルトンプロジェクトの3つの基本原則
 1・ 大多数の国民が経済成長の恩恵を受けることができる経済政策
 1947-1973年の中間層の年間平均の経済成長は、2・8%であった。1973年以降、生産成長率は、2・7%にもかかわらず中間層の年間平均所得の上昇は1%であった。高額所得層に不均衡に分配されるシステムを是正する必要がある。

 2・ 経済保障と経済成長の両立
 経済成長は経済保障を増大させると同時に、経済保障は、経済成長を実現させために必要である。教育、健康保険、トレーニング等への適度な財政支援は、国民に経済的な刺激・動機を提供する意味で重要である。

 3・ 効率的な政府は経済成長を促進させる
 市場経済は経済成長の礎である。しかし、民間セクターの投資が拡充されない分野への政府の効率的な投資は重要である。

 ハミルトンプロジェクトの4つの機軸

 1・教育分野への投資と仕事の機会の提供
 米国経済の成長は、人的資源に依存している。政府の試算によると、米国の民間の建物等の資産は13兆ドルであるが、人的資源は48兆ドルとなる。幅広い層へ教育の機会が提供されることにより競争力のある分野への潜在的な労働力を生み出す。

 2.イノベーションとインフラ整備
科学技術の発展を目指すインフラ整備は、経済発展の機軸である。スイスの研究機関(IMD International)の発表によると、世界のトップ50の科学技術研究機関の内38が米国の研究機関が占めている。しかし、米国の科学技術の影響 力が低下傾向にある。4年以内に、中国人のエンジニアの博士の人数が米国を追い抜くと予測されている。科学技術の分野への本格的な投資・社会資本整備が必 要である。

 3・貯蓄と社会保険
 米国の貯蓄率は急激に低下している。その一因は、健康保険のコストが影響している。
 4.効率的な政府
 民間経済と効率的な政府の相互補完的な統合的な協調が経済成長を維持させる。

 今日、米国はグローバル経済の指導者として様々な挑戦を受けている。今、次世代に向けた幅広い層が経済成長の恩恵を享受できる先行投資が期待されている。

 中野さんにメール nakanoassociate@yahoo.co.jp
2006年04月22日(土)
萬晩報主宰 伴 武澄
 竹島海洋調査をめぐる日韓協議はきょう、日本側が海洋調査を中止し、韓国側も国際会議で韓国地名を提案しないという双方の譲歩で合意しました。本当によかったという印象です。日韓間がこれほど緊張したのはかつてなかったことだと思います。

 かつてマレーシアのマハティール首相は「ルック・イースト政策」を打ち出しました。工業化に成功した日本と韓国に学べと国民を励ましました。アジアのそ の模範生同士がなぜ、対立し憎しみ合うのか。そんな思いがマハティール前首相の胸中にもあるでしょう。

 日本はアジアの国々に先だって工業化に励みそれなりに豊かな社会を築きました。韓国もまた続いて先進国の仲間入りをしました。アジア・アフリカの国々でOECD入りを果たしたのは日本と韓国だけです。

 日韓の間には歴史を含めて解決しなければならない問題が数多く残ります。その多くはいずれ解決しなければならない問題です。放置しておいていいということではありません。

ただ2006年という今日、問題の一つひとつを蔵の中から白日の下にさらして、あえて国と国の問題とすることで多くの火種を抱える必然性があるのでしょうか。

 アジアの二つの大国が巨大なエネルギーをぶつかり合わせる予兆がここ数年台頭していました。われわれがここでお互いがぶつかり合って、エネルギーを消耗させるにはあまりにも大きな損失とはならないでしょうか。

 日韓にいま、必要なのは対立ではありません。
 日韓にいま、必要なのは憎しみでもありません。
 日韓に暴力を持ち込むことなどは考えられないことです。

 われわれに必要なのは先祖伝来から伝えられた叡智であります。
 われわれは仏教を通じて慈悲という言葉も共有しています。
 キリスト教徒が多い韓国では愛という概念も受容されていると思います。

 世界には貧困や政情不安に悩む国々が多く残されています。
 国家形成の途上の国々も少なくありません。
 多くの民族を国境の中に抱え言語の意思疎通を欠くことはそんなに珍しいことではありません。

 われわれに求められているのはお互いに叡智を出し合って、そうした国々の国づくりに少しでも役立つことです。国家のエネルギーを対立の場で消耗するのは あまりにもったいないことです。日韓のエネルギーは、他の国の利益となる協力の場で燃焼尽くされなければなりません。

 日韓の対立がいますぐになくなるとは考えられません。
 日韓のわだかまりが明日なくなるわけでもないでしょう。
 しかし、日本の多くの人々が韓国を嫌っているわけではありません。
韓国の多くの人々もまた日本との関係をあえて悪くしたいと考えているとも思えません。

 そう20世紀末まで、世界で一番高い建物だったクアラルンプールのペトロナス・タワーは日本と韓国の建設会社が一つずつ建設しました。ペトロナスの日本のタワーは空中廊下で仲良く手をつなぎあっています。
2006年04月20日(木)
萬晩報通信員 成田 好三
  登録名・SHINJOこと新庄剛志(北海道日本ハムファイターズ)ほど完ぺきでかつ鮮やかな引退宣言には、これまでお目にかかったことはありません。これ からもないでしょう。新庄だけにしか出来得ない最高のパフォーマンスでした。誰もが予測しなかった引退宣言を、誰もが想定しなかったステージで行ったので すから、見事というしかありません。

 勝手に公衆の面前で引退宣言をすることなど、プロ選手としては本来許されることではありません。スター選手ならなおさらです。所属する球団やリーグ、そ れにプロ野球全体に不利益をもたらすからです。プロ野球を代表するスター選手の引退は、興行面で大きな痛手になるからです。

 しかし、新庄の引退宣言は、そんな「常識」を吹き飛ばしてしまいました。開幕からまだ1カ月もたっていない4月下旬に引退宣言をしても、新庄は今シーズンいっぱいの現役続行を併せて宣言しました。

 これは、今シーズンの日本ハムの試合はすべて、新庄の「引退試合」になることを意味しています。来シーズンは見ることの出来ない新庄のプレー、そして卓 越したパフォーマンスを見るために、日本ハム主催、相手球団主催にかかわらず、新庄の出場する試合には、これまで以上のファンが詰め掛けることになりま す。

 歌舞伎の「襲名公演」ならぬ、新庄の「引退試合」がこれからロングランで続くことになります。これは、日本ハムだけではなく、パ・リーグ、プロ野球全体に大きな興行的利益をもたらすことになります。

 それにしても、新庄の引退宣言は見事というしかありません。事前に何ももらさずに、4月18日、東京ドームでのオリックス・ブルーウェイブとの公式戦終 了後のお立ち台(ヒーローインタビュー)で、1万2560人の観衆(公式発表)とTVカメラの前で宣言したのですから、誰も止めようがありません。

 新庄はこうしたステージでの引退宣言をかなり前から準備していたようです。朝日新聞はスポーツ面で、お立ち台での新庄の言葉全部を記事にしていましたが、事前に周到に準備していたとしか考えられない内容でした。ハプニング的な発言ではけしてありません。

 新庄は、もっと早い時期に、しかも本拠地の札幌ドームで引退宣言をしたかったのでしょう。しかし、開幕直後からの不振でその機会を得ませんでした。

 しかし、とうとうその機会がやってきました。日本ハムは新庄の満塁本塁打を含む2本塁打などで快勝しました。球場は札幌ドームではありませんでしたが、 日本ハムが本拠地としていた、いまでも準フランチャイズにしている東京ドームでした。新庄は、この機会しかないと確信したのでしょう。

 日本ハムは大社啓二オーナーが試合後、「球団、日本ハムグループ全員の総意として、全力で新庄選手の慰留に最大限の努力をいたします」とのコメントを出 しました。しかし、新庄が引退宣言を撤回することはあり得ないでしょう。直接、新庄の声を聞いた1万2560人のファンを裏切ることになるからです。

 新庄にとって最も大事にすべきものは、ファンに愛された「SHINJO」というブランドです。野球選手、阪神タイガースやMLB選手としての新庄ではありません。そうでなければ、東京から北海道・札幌に本拠地をを移した日本ハムに移籍先を決めたはずはありません。

 新庄は、4月末の引退宣言によって、日本ハムに猶予期間を与えたことになります。札幌に本拠地を移した日本ハムにとっては、新庄抜きの興行は考えられな いことでした。シーズン末になってからの引退宣言では、来シーズンの「ポスト新庄」の準備は間に合わなくなるかもしれません。しかし、この時期の引退宣言 によって、日本ハムは十二分の猶予期間を与えられたことになります。それを生かすも殺すも日本ハムの対応次第ですが―。

 現在のプロ野球においてほとんど唯一、スーパースターと呼べる存在は新庄しかいません。プロ野球ファンを呼べるスターは数多くいます。しかし、野球のルールさえ知らない人たちを球場に呼べる選手は新庄しかいないでしょう。

 プロスポーツはマニアや熱心なファンだけでは成り立ちません。もっと広い層の支持が必要になります。新庄の引退宣言は、新庄のいないプロ野球にどうした ら野球のルールさえ知らないおばあさんやおばさんを呼べるのかという、大きな宿題を残したといえるでしょう。(2006年4月20日記)

 成田さんにメールは mailto:narinari_yoshi@yahoo.co.jp
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2006年04月19日(水)
萬晩報主宰 伴 武澄
 16日の日曜日、伊勢街道を一人歩いた。東海道からの分かれ目となる四日市市の日永追分から鈴鹿市神戸(かんべ)を経て白子までの約15キロである。旧道の半分は農村部であるが、残りの半分はくねくねと往事をしのばせる古い家並みがいまも残る。

 日永追分は今も国道の分岐点だが、鳥居が桜の木に囲まれてそびえ、「左いせ参宮道」とある道標は江戸時代のまま。

 道幅はほぼ2間。乗用車がすれ違うには少々困難が伴うが、それほど交通量はない。歩く空間としては狭くも広くもない。神社や寺院が驚くほど多いのはさず がに街道沿いの特徴でもあろうが、今の時代、人間の通行はほとんどない。

 供は地図と十返舎一九の『東海道中膝栗毛」。旧街道にはレストランや喫茶店のたぐいは皆無だから、おにぎりと水筒も必携品。というわけで冗談を交わしな がらの珍道中は望むべくもないが、江戸時代の人たちはずいぶんと歩いたものだと関心させられる。
 
 歩きながら気付いたのは、日本の農村部の豊かさだ。もちろん門を構えた庄屋風の大きな屋敷も残るが、多くの農家がみな立派なのだ。広い敷地に200平米 はあろうかという平屋がうち続き、どの家にも3台の乗用車が鎮座する。メルセデスやBMW,国産高級車にスポーツカー、なんでもござれだ。

 大都市と地方の経済格差が広がっているなどというのは大都会の貧しい住環境に住む学者や評論家のたわごとだとしか思えない。そんな風景がどこまでも続 く。企業の生産や賃金だけで豊かさを比べられるのか、そんな思いがしている。100年後の歴史に「21世紀になって日本の大都市と地方の経済格差が広がっ た」と書かれるのかと思うと少々やるせない。

 某業界紙にNHK「道中でござる」のコメンテーターとして江戸事情を語っていた石川英輔さんが「ゼロと10万の間」としておもしろい連載をしていたのを思い出した。昨年5月号は「人類は豊かさに耐えられるか」だった。

 江戸時代の日本の家には物がなかったから「独り者ならいわゆる九尺二間つまり2・7メートル×3・6メートルの裏長屋でも狭くない」「長屋の自分の部屋は寝室であり、風呂は湯屋へ行くし、居間は湯屋の二階か髪結い床だ」と喝破する。

 そう、筆者が勤務する狭い津支局の"応接室"は隣の喫茶店「桐」。客が来れば、すぐさま"応接室"に御案内し、顔なじみのママが"ご接待"に尽くしてくれるのだ。

 食べ物に関しては行商人がひんぱんに長屋までやってくるから女房どもは日用品を買いに行く必要がなかったという。「腐りやすい食品でも、江戸は大坂では 行商人が鮮魚を仕入れては売り歩き、売り切れればまた仕入れに行くというふうにして、足でもって鮮度を維持してくれたから、差し当たり食べる量しか買う必 要はないし、冷蔵庫などなくても困らなかった」のだそうだ。

 物が豊富にあれば、豊かなのか、考えさせられる。そういえば、子どものころはご用聞きという制度があった。電話もインターネットもない時代、商売人が家まで来てくれていた。もちろん子どもがお使いで一っ走りすれば、八百屋も魚屋も近所にあった。

 石川さんのコラムで目からうろこだったのは、江戸時代=飢饉の連続という固定概念を頭から否定してくれたことだった。

「平地面積が日本の10倍近くあるフランスでは、1790年代の大革命のとき、わずか2300万人の人口しか養えなかったのに対して、当時の日本には 3100万人という当時の世界では中国に次ぐ大人口が生活していた。江戸時代初期の1600年当時には推定1200-1300万人しかいなかったのが、 1720年ごろには2・5倍にも増えていたから、江戸時代の稲作農業の生産力はヨーロッパとは比べものにならないほど大きかった」のそうだ。

 その日本で「歴史上最悪だった天明の飢饉では、餓死者が約50万人、もっとも多かったのが南部藩で6万5000人が犠牲になったことになっている」が、 飢饉の度に大幅に人口が減っていたのでは江戸時代の人口増大は到底説明できないとしている。

「この数字は藩から幕府に提出した報告書でも寺院の記録でも一致しているが、近年になって見つかった『藩日誌』という藩の内部資料によると、この期間の人 口の増減は普通の年と大差ないことが分かった」「どうやら、藩が幕府に過大な報告をしたらしいが、こうなると、50万人の餓死者という数字も怪しいもの で、実際ははるかに少なかったのではないだろうか」と推定している。

 公式文書の残す記録はけっこう恐い。現在はそれにメディアという存在があるからもっと恐ろしい。文書類の氾濫である。後世の史家はこうした文書を根拠に新たな歴史を書きつづることになるからだ。

 そんなことを考えているうちに白子の集落に入った。江戸時代、筆者が歩いた細い道を年間30万人もの人が歩いていたのだそうだ。1日1000人弱が飲んだり食ったりしたのだから、大した賑わいだったのだろう。
2006年04月16日(日)
Nakano Associates 中野 有
 すべての偉大な、生命ある思想は本質的に単純なものである。これが数千年に亙る思想史の結論である。ビジョンというのは未来の像である。しかもそれはただ遠くに見られる未来でなく、行為的直観において見られる瞬間である。これは、60年以上前の三木清の言葉である。

 イラクの問題は複雑である。複雑であるがゆえにイラクへの平和へのビジョンを単純に考えてみたい。命題は、イラク人(シーア派、スンニ派、クルド人)の 共通の利益の合致点は何であるかである。それは、平和と安定、生活水準の向上であろう。

 命題の前提として、現在のイラクが抱える特徴を戦時中という特殊な立場で考えてみたい。

 1.戦争の比較

 イラン・イラク戦争(1980-1988年)の戦死者は、イランとイラクの双方で100万人であり、化学兵器の使用がなされた。これと比較するとイラク 戦争の戦死者は、イラク国民3-4万人、米兵2300人)である。悲観的な情報が主流であるが、イライラ戦争の悲惨さと比べると、イラク国民は平和への道 を諦める情況でない。イラクでの選挙を経てイラクのシーア派とイランの結びつきが強くなったが、イライラ戦争の惨状をみると簡単にしこりはとれないと思 う。

 2・イラクの石油

 イラクの悲劇は、米国をはじめ世界の石油利権の企みに端を発している。次の数字からも如何にイラクは、石油資源で豊かな国で、他国に干渉されやすい国で あるか理解できる。イラクの石油埋蔵量は1120億バーレル。サウジアラビア、イランについで世界第3位である。ピーク時は日量350万バーレル、現在の 生産能力は250万バーレル、実際200万バーレルの生産が可能である。2002年には1バーレル20ドルの石油価格が、3年で3倍以上に上昇した。日量 200万バーレル、1バーレル60ドルで計算すると、毎日130億円以上の石油収入が入る。年間4兆円の石油収入となる。イラクの歳入の95%を石油収入 が占めている。

 石油価格のピークのサイクルを1974年の第一次と今回の第二次を比較した場合、次の特徴が見出される。70年代の第一次は、中東の不安定要因による石 油供給の問題で、オイルショックが発生した。今回の第二次は、イラク戦争やテロの戦争による供給側の不安定要因のみならず中国、インド等のグローバル経済 の成長が石油価格の急激な上昇を引き起こしている。しかし、今回は70年代に見られたようなパニックの状況を今のところ回避できているのは、世界経済の拡 大による。イラン・イラク戦争が始まった80年が石油価格のピークであり、現在の価値で計算すると1バーレル90ドルとなる。多くの専門家は、今回の石油 上昇のトレンドは、継続すると考えている。

 3.社会的要因

 イラクの人口は約2200万人。シーア派6割強、スンニ派3割強である。アラブ人8割弱、クルド人2割弱である。人口構成は子供の割合が非常に高く、 15歳以下が60%を占めている。20歳以下の人口は7割を超えると推測できる。労働人口は、440万人。失業率は5-7割だと推測される。他のアラブ諸 国と比べ教育水準は高い。

 平和へのビジョン

 イラク戦争のために米国は、1日当たり200億円の戦費を浪費している。この金額が戦争による資金でなく、イラク国民一人ひとりに支給されればどのよう な効果をもたらすだろうか。奇しくも、イラクは毎日米軍の戦費と同じぐらいの石油収入がある。単純に日量200-250万バーレルの石油生産と石油価格の 高騰による1バーレル70ドルと計算すると、戦争のための資金とイラクの地下から湧き出る収入が一致する。

 第二次世界大戦後のマーシャルプランは、インフラ整備を中心にヨーロッパの国の復旧に資金が賄われた。イラクにマーシャルプランが必要との考えがある。 国の復興のためには大規模なインフラ整備が必要である。しかし、インフラ整備より急を要するのは、イラクの人々の生活水準向上のための資金でなかろうか。

 こんな大胆なビジョンを提示したい。未だ国家が中心となり大規模なマイクロファイナンスが実践されたことがないと思う。外部の干渉や経済支援を受けなく とも、イラクは、石油価格上昇の恩恵を受け、毎日150-200億円の石油収入、年間に換算すると約4-6兆円の歳入を確保できる。この歳入を20歳以上 のイラク人に、支給した場合、一人当たり100万円となる。この3年間の戦争の賠償、そして今後2年間の運転資金を考慮すれば、一人当たり500万円とな る。また、20歳以下のイラク人には、教育費、知的インフラの資金として十分な資金を提供する。これはベストのシナリオであるが、この3割でも支給されれ ば、20歳以上は、200万円近くのマイクロファイナンスの資金が生み出されることとなる。

 シーア派、スンニ派、クルド人のトライアングルの関係における共通の利益の合致点は、生活水準を向上させるための資金であり、教育であり、投資である。 国が大型インフラとして資金を分配するのでなく、70年代後半からずっと戦争や専制政治の犠牲に耐えてきたイラク国民に対し、マイクロファイナンスとして 返済する必要のない資金を供給することにより、予測をはるかに超える経済の乗数効果を生み出し、大きなイラクの発展につながると考えられる。イラク人が仲 間をつどいアソシエーツとして共同で投資事業を進めることも可能となろう。

 ワシントンで開催された中東セミナーで、アラブの発表者は、アラブ人は欧米が思っている以上に個人主義であり自由も民主主義の価値も理解している。しか し、国や中東地域が不確実性の高い情勢においては、どうしても強いリーダーが求められる。悲しいかなそのリーダーが専制政治を行わなければいけないところ に悲劇があると述べていた。

 民主主義は押し付けるものではなく、個人が自由に働き勉強する機会を得ることから民主主義は生まれる。そこに民主主義の魅力がある。中国やインド世界経 済の拡大の影響で、石油価格の上昇は継続するだろう。イラクは、今、平和へのターニングポイントに直面している。我々ができることは、夢と理想のある行為 的直観によるビジョンをイラク国民に提示することであろう。

 個人に戦争など"よからぬ行為"以外の機会とインセンティブを与えることこそが、国の「復興」への一番の近道になるかと思われる。大型援助はいつでもで きるが、もともとポテンシャルのあるイラク国民にきっかけを与える、国家レベルのマイクロファイナンスの試行は意義深く考えられる。

 ニューアメリカン財団の外交政策のセミナーで、以上のような考えを述べた。尊敬するコーディネーターのスティーブ・クレモンスさんから全くその通りである。http://newamerica.net/

 このような考えを以前、ニューヨークタイムズで発表したとの答えが返ってきた。こんな単純なビジョンが平和のきっかけになるのではないだろうか。

 中野さんにメール nakanoassociate@yahoo.co.jp


 川崎音頭に、伊勢の山田とうたひしは、和名抄の陽田(ようだ)といへるより出たるにや。此町十二郷あり、人家九千軒ばかり、商賈甍をならべ、各々質素の 荘厳濃(こまやか)にして、神都の風俗おのづから備り、柔和悉鎭(にうわしつちん)の光景(ありさま)は、余国に異なり、参宮の旅人たえ間なく、繁昌さら にいふばかりなし。弥次郎兵衛喜多八は、かの上方ものと打つれ、此入口にいたると、両側家ごとに御師の名をかきつけ、用立(ようたし)所といへる看板竹葦 (ちくい)のごとく、こゝに袴はをりひつかけたる侍、何人となく馳せちがひて、往来旅人の御師(おし)にいたるを迎ふと見へて、一人の侍弥次郎兵衛にちか づき、
おしの手代「モシあなたがたはいづれへ、おこしでござりますな」
 弥次「しれた事、太神宮さまへまいりやす」
 手代「イヤ太夫はどれへ」
 弥次「太夫は、竹本義太夫殿さ」
 手代「ハア義太夫と申すは、どこもとじゃいな」
 弥次「その義太夫というはな、大坂にては道頓堀」
 北八「京は四条、お江戸はふきや町かしにおゐて、永らく御評判にあづかりましたる」
 手代「かたはものは、おまい方であつたかいな」
 北八「たはごとをぬかすとひつぱたくぞ」
 手代「ゑらいあごじやな、ハヽヽヽヽ」
 上方「ちと休んでいこかいな」
 北八「こゝらはきたねへ所だ。みな御師の雪陣と見へて用立所とかいてある」
 弥次「おきやアがれ。ハヽヽヽヽ」
ト三人ともあるちゃ屋にはいり、しばらくやすむ。此内向ふより上方どうしや大ぜい、そろひのなり、女まじりにこへはり上ゲ
 うた「ござれ夜みせは順慶町の、通り筋からソレひやうたん町を、ヤアとこさアよいとさア、チヽヽヽヽチンチン、すけんぞめきは阿波坐の烏、ソリヤサ、か わいかわいもヤアレかうしさき、ヤアとこさ、ヨウいとなア、ありやゝこりやゝ、コノなんでもせ。チヽヽン、チヽヽン、チンチンチンチン」
ト此ひとむれ通り過たるあとから、太々講とみへて、廿人斗いづれも御師よりむかひの駕にうちのり来るが、おしの手代さきにたちて
    「サアサアサア、これじやこれじや。まづどなたさまも是で御休足なさりませ」
トかごはのこらずちゃ屋のかどにおろす。此だいだいこうは江戸とみへて、いづれも小そでぐるみに、みじかいおたちをきめた手やい、めいめいかごを出て、ざしきに通る。此内一人のおとこ、弥次郎を見つけて
    「イヤこれはどふだ、弥次どの弥次どのきさまも参宮か」
トこへかけられて、弥次郎びつくりし見れば、町内の米屋太郎兵へなり。ゑどをたつ時此米やのはらひをせず、立たる事なれば、何となく弥次郎しよげかへりて
    「ハア太郎兵衛さまか。よくお出かけなさいました。しかし爰(ここ)であなたにお目にかゝつてはめんぼくない」
 太郎「ナニサナニサ。わしも仲間の太々講で、そのくせ講親といふものだから、據(よんどころ)なく出かけましたが、よい所であつた。旅へ出ては、とかくづうくに(同国)がなつかしい。おくへ来て一ツぱいやらつし」
 弥次「ありがたふございやす」
 太郎「つれはだれだ。ハヽアまんざらしらぬ顔でもない。ナントきさまたち、さいわいのことだ。太々講おがまぬか、それも飛入といやアちつと斗、金が出る から、不躾ながら、わしらが供になると、一文も入らず、しこたまちそうになつて、おがまれるといふものだからどふだろう」
 弥次「それは願つてもない、有がたい事でございやす。しかし、それが出来やせうかね」
 太郎「ハテわしが講親だもの、どふでもなる。マア何にしろおくへ来さつし」
 弥次「ハイさようなら、モシ上方の、ちとこゝに待てくなせへ」
 つれの上方もの「よいわいの、いてござんせ」
 太郎「サアサアひたりともきさつし、きさつし」
ト 此太郎兵へにいざなはれ、弥次郎も北八も。わらじをとつておくへ行くと、上方ものはひとり、みせさきに酒などのみてまつてあるうち、おくはだいだいこうの 事なれば、御師よりのちそうにて、さいつおさへつ大さはぎのさいちう。又おもてにひとむれのかご、十四五てうばかり、これはかみがたのだいだいこうと見へ て、おしの手代さきにたちて
 かご「ホウよいよい、ゑつこらさつさ、ゑつこらさつさ」
トこれもおなじく此ちゃ屋にはいる。
 おしの手代「サアサア御案内御案内」
 ちゃ屋のおんな「おはやうござります。おくへおとをりなさんせいな」
ト 此内みなみな、かごよりおりておくへとをると、すぐにさけさかなをもち出し、だいだいこう、二くみの大さはぎ、ざしきのしやれ、いろいろあれども、あまり くだくだしければりやくす。やがておくのさかもりおはりて、サアおたちといふと、二くみのだいだいこうがいつしよになり、どさくさして、おくよりいづる と、ゑどぐみの御師の手代、いちはなだちておくより出
    「サアサアお駕の衆これへこれへ。どなたもサアおめしなされませ」
トあつちこつちをかけまはり、かごにのせる。此うち又上がたぐみのおしの手代もおなじくかけまはりて
    「こちらのかごはこれへこれへ」
トよこづけにして、みなみなをのせる。米やの太郎兵へなまゑひとなり、弥次郎が手をとり
 太郎「コウ弥次公。きさまおれがかごにのつていかねへか」
 弥次「イヤどんだことをおつしやる」
 太郎「ハテわしは、これからあるくはなぐさみだ。きさましやれにのつていかつし」
 弥次「さやうなら、ヘヽヽヽヽ。こりやきめうきめう」
ト かごにのれば、サアおたちじやと、両方のかごが、いちどきにかきあげ、こんざつして、弥次郎がのりたるかごの人そく、とんだまぬけと見えて、上方ぐみのか ごの中へまぎれこみたるにきもつかず、さつさとかいてゆく。かゝるどさくさまぎれに人もそれとこゝろつかねばだんだんといそぎゆくほどに、山田のまん中す じかいといへる所にて、江戸がたの一くみは内宮のおしなるゆえ、左りのかたへわかれ行。上方ぐみは、外宮のおしにて、此ところより、右のかたへわかれ、田 丸かいどうの、岡本太夫のかたにつく。門前のほうき目、もり砂に水うちきよめ、げんくはんになく打まはして、ちそうのやくやく、はをりはかまに出向へば、 こうぢうみなみな、かごをおりて、げんくはんより打とをる。このとき弥次郎兵へも、かごかきのそゝうにて、上方ぐみの中へまぎれこみ、こゝにきたれど、十 四五てうもあるかご、どれがどれやらわからず、弥次郎かごを出て、おなじくざしきに打通り、そこらをうろうろ見まはせども、みなしらぬかほばかりなれば
 弥次「ハテがてんのいかぬ。モシモシ米屋の太郎兵衛さまは、どれにお出なさいます」
 そばにいた男「なんじやいな。太郎兵へさんとは、こちやしらんわいな。そしておまいは、ねから見ん顔じやが、誰さんじやいな」
 弥次「ハイわつちは、ソレ太郎兵へさんの、町内のものじやが、ハテどふかちがつたような。北八はどふしたしらん」
トむしやうに、うろうろ、きよろきよろと、まごつきあるけば、みなみなきもをつぶし、たがいにそでをひきあふて、にもつなどかたよせ、さゝやきあふうち、此講の内二三人立向ひて
    「コレコレこなさんは、見なれぬ人じやが、だれじやいな」
 弥次「ハイハイ」
 こう中「ハテこなわろは、何をきよろきよろさんすぞいな。誰じやといふのに」
 弥次「イヤわつちは、米屋の太郎兵衛さんにおめにかゝればわかりやす」
 こう中「ハテそないな人は、こちの講のうちにはないもせぬもの、なんじややらきみたのわるい人じやわいな」
 御師の手代「ハアこな人は、あなたがたのおつれではござりませんかいな」
 こう中「さよじやわいな」
 手代「イヤそれはどしたもんじや。とつとゝ出ていかんせ。ゑらいへげたれじやな」
 こう中「道中じらであろぞいな。ほり出してやらんせ。あたけたいな」
 弥次「ヱゝそんなに、いいなさるなこたアねへ。ほり出すとはなんのこつた。とほうもねへ」
 こう中「ハゝアおまいのものいひは、おゑどじやな。それでよめたわいの。いんまのさき、お江戸の太々講と、ひと所でおちあふたが、其時おまいの乗(のら)んした駕が、こちらの中へまぎれこんで、ござんしたのじやな」
 弥次「なるほどさやう。そんならわつちのゆく御師どのは、どこでございやすな」
 手代「ナニおまいのいく所をたれがしろぞいな」
 こう中「めんめんのゆく御師どのを、しらんといふことがあろかいな。コリヤわりさまは、わざとこちのなかまへずりこんで、太々講をくひたをししよふでな」
 こう中みなみな「ヱゝけたいなやつじや。のうてんどやいてこまそかい」
 弥次「イヤ、わるくしやれらア、手めへたちのだいゝ講、丸ッきり喰倒した所が、たかゞしれてある。あんまりやすくしやアがるな。江戸ッ子だハ。おれひとりで、太ゝ講うつて見でよふ」
トどつさりすはればおしの手代きもをつぶして
    「ナニ、おまいが、おひとりでかいな。こりやでけたでけた。みんごとおまいが」
 弥次「しれたことや。多少にやアよるめへ。これでたのみます」
トうちがへのぜに二百文、かみにつゝみ出せば、おしの手代二度びつくり
    「ハゝゝゝ、太々講は、やすうて金拾五両も出さんせんけりや、でけへんわいな」
 弥次「ナニ是ではなりやせんか」
 手代「さよじやさよじや」
 弥次「太々講がならずば、是で、蜜柑こうでもたのみます」(太々=だいだいのしやれ)
 こう中「ハゝゝゝ、べつかこうにさんせ。ハゝゝゝ」
 手代「イヤおどけたおかたじや。ハアよめた、おまいのいく所は、慥(たしか)に内宮の山荘太夫どのじやわいなの。さつきの手代が、あこのじやほどに、是から妙見町をすぐに、古市のさきへいて尋ねさんせ」
 弥次「ハアそふか。コリヤ有がてへ。ほんにおやかましうございやした」
 こう中みなみな「ゑらいあほうじや。ハゝゝゝゝ」
ト手を打わらふ。弥次郎はらたてどもせんかたなく、しほしほとこの所をたちいづるとて

 鉢植のだいだいこうにあらぬ 共ちうにぶらりとなりしまちがひ

 それより弥次郎兵へは、もとの筋違(すじかひ)に出、妙見町をさして行道すがら、北八はいかゞせしや、米屋太郎兵へと打つれて御師の方へ行しか、但しは上方ものと、妙見町に泊りしかと、おもひわびつ、おもひわびつ、たどり行ほどに、廣小路にいたると
 此所のやどや「もしおとまりかいな、やどをとつてかんせ」
 弥次「コレ妙見町といふは、まだよつぽどございやすかね」
 やどやのおんな「イヱいんま少し此さきじやわいな」
 弥次「ソノ妙見町に、アナノ何屋といつた、道づれの上方ものが泊るといつたは、アヽそれよ」
トいろいろにかんがへても、藤屋といふを、わすれてさつぱり思ひ出さず
    「ハテ口へ出るようふな。何でも棚からぶらさがつてゐるよふな名であつた。モシモシ妙見町に、ぶらさがつてゐる宿屋はございやせんか」
 そこにいた人「ナニぶらさがつてゐるやどやは、こちやしらんわいの、そないことをいふては、しりやせんがな」
 弥次「なるほど、こゝらでたずねてはしれめへ。もちつとさきへいつてたづねやせう」
トそれよりこゝをすぎて、いそぎたどり行ほどに、こゝに万金丹のかんばん、みやうけん町山原七右衛門といへるを見て、さてこそこゝが妙見町ならんとおもひ、わうらいの人をよびとめて
 弥次「モシこゝらに、なんでもぶらさがつてゐるような名のうちは。ございやせんかね」
 わうらいの人ふしぎそふに「なんじやいな。ぶらさがつてゐる内とは、何屋じやいな」
 弥次「やどやさ」
 わうらい「その家名わいな」
 弥次「家名をわすれたからのことさ」
 わうらい「イヤそれいふてかんせにやアしれぬくひわいの。何じやろと、ぶらさがつたうちといふは。ハゝアむこのかどに、人のたつておる内へいてとふて見やんせ。あこは去年首くゝりがあつて、ぶらさがつたうちじやさかい」
 弥次「イヤそんなものゝ、ぶらさがつたのじやアございやせん」
 わうらい「ハテまあいてとふていかんせ。あこも宿屋じやあろわい」
 弥次「ハイさやうなら」
トはしり行うち、かの家かどに、たつてゐた人もどこへか、いつてしまい、さつぱりしれなくなり、まごまごして、あるうちのまへにたちて
 弥次「モシモシ。ちとものがたづねたうございやす。去年、首をおくゝりなさつたは、あなたでございやすか」
 このうちのていしゆ、ゐあはせきもをつぶし、とんで出
    「イヤわしや、首をつつたことはないがな」
 弥次「そんなら、どこでございやす」
 ていしゆ「こゝらにくびつつた内はしらんがな。此二三軒さきに、棚からおちたぼたもちくふて、咽をつめて死だうちがあるが、もしそれじやないかいな」
 弥次「いかさまなア。なんでも棚からぶらさがつたよふなうちであつた」
ト又二三げんさきへゆき、あるうちのかどにて
    「モシ棚からおちたうちは、おめへじやアございやせんか」
トとんだことをいふ、此うちの女ぼうとみへて
    「イヽヱナ、わたしがうちはもとから爰(ここ)で、ついしかたなへあげておいてことはおいませんわいな」
 弥次「ハア外にはござりやせんか」
 女ぼう「ソリヤおまい、きゝちがひじやあろぞいな。山からおちた内じやおませんかいな。それじやと相の山の、与太郎の小屋が、此間の風で、谷へふきおとされたといふことでおますがな。大かたそれじやああろいな」
 弥次「イヤそれでもねへが、コリヤアこまつたもんだ。何だかかだか、さつぱりわからなくなつて、もともこもうしなつたよふだ。わつちもさつきから、たづねあぐんで、もふもふがつかりとくたびれやした。どふぞ一ぷくのまして下さりやせ」
ト此みせさきにこしをかける。ていしゆのどくそふに、たばこぼんをさげて、おくより立出
   「サア一ぷくあがらんせ。いつたいおまいは、どこを尋ねさんすのじやいな。参宮じやあろが。おひとりか、但しは、おつれでもあますかいな」
 弥次「さやうさ。道連ともに三人の所、わつちのそのつれにはぐれて、こんなこまつたこたアございやせん」
 てい「イヤそのおふたりのおつれは、おひとりはお江戸らしいが、今おひとりは、京のお人で、目のうへに、此くらひな、痰瘤(たんこぶ)のあるおかたじやおませんかいな」
 弥次「さやうさやう」
てい「それじやとこちの内に、おとまりなされたさかい、すぐにおまいさまのおむかひを出しましたわいな」
弥次「そりやほんとうにか。ヤレヤレうれしや。そしておめへの所は、何屋といひやす」
ていしゆ「アレ御らんななされ、掛札に藤屋とかいておますがな」
弥次「ホンニそれそれ。たなからぶらさがつたよふだとおもつたが、その藤やよ。そふしてつれのやつらは、どこにゐやす」
ていしゆ「ソレおくへ、おつれさまがお出だといふてかんせ」
ト此こへをきくよりおくから出る道づれのかみがたものとんで来
    「コリヤよふごんした。さだめてそこらうち、尋さんしたであろ。こちもゑらう、たづねまふたこつちやないわいの。マアマアおくへ」
 弥次「これはおせはになりやす」
ト すぐにおくへ行。上方ものと北八は、ゑどぐみの太々講について、御師の方へ行しが、弥次郎へ見へざるゆへ、しらぬ人ばかりにて、手もちなく、いろいろきゝ 合せてもわからず、せんかたなくその御師の方を出、たづねたくもあてどなく、かねてみやうけん町の、ふじやへとまいらんといひたることもせうちの事なれ ば、大かたたずねてくるであろふと、さてこそ、この所にとまりてまちうけしなり。弥次郎はだいだい講のかごが、まちがひたる、いちぶしゞうをものがたり、 大わらいとなりける、北八はかみゆひをよびにやり、ひげをそりていたりけるが
    「まあまあおたげへに、別条なくてめでたいめでたい」
 弥次「イヤもふ、とんだ目にあつたといふはおれが事よ。時に、かみゆひさん。そのあとでわつちもひとつ、やらかしてくんなせへ」
 北八「おめへマア湯にひいつてきなせへ」
ト弥次郎はゆにいりにゆく。北八ひげをそりかゝりて
「ときに髪結さん。おいらがかみは、ぐつとねをつめて、いつてくんな。なんだかこつちのほうの髪は、たぼが出て、髷(わげ)がおつにながくて、とんだきの きかねへあたまつきだ。そして女の髪も、ごうせへに大きくいつて、なんのことはねへ、筑摩の鍋かぶりといふものだ」
 かみゆひ「そのかはりおなごは、とつとゑらいきれいでおましよがな」
 北八「きれいはいゝが、たつて小便するにはあやまる」
 かみゆひ「イヤおゑどの女中も、おつきなくちをあかんして、あくびさんすには、ねからいろけがさめるがな」
 北八「それでも、女郎は又江戸のことだ、ゑどはいきはりがあるからおもしろい。こつちのは、誰がいつてもおなじことで、ねつからふるといふことがねへから、信仰がうすいやふだ」
 かみゆひ「イヤこちのほうでは、おまえのよふなかたがいかんしても、ふらんさかい、それでゑいじやおませんかいな」
 北八「きさまおれをやすくいふな。コレほんのこつたが」
 かみゆひ「ヲツトあをのかんすと切ますがな」
 北八「イヤきらなくてもごうせへにいてへかみそりだ」
 かみゆひ「いたいはづじやわいな。このかみそりは、いつやら研だまゝじやさかい」
 北八「ヱヽめつそうな。なぜ、剃るたびごとに研ねへの」
 かみゆひ「イヤそないにとぐと、かみそりがへるさかい。ハテ人さんのつむりのいたいのは、こちや三年もこらへるがな」
 北八「どふりこそ。いたくていたくて、一本ヅヽぬくよふだ」
 かみゆひ「なんぼいたいとてたかで命にさはることはないがな」
 北八「ヱヽそりやしれた事よ。もふもふさかやきは、いゝかげんにしてくんな」
 かみゆひ「おまいさかぞりはおきらいかな」
 北八「ヱヽ其剃刀で、逆剃にやられてたまるものか。あたまの皮がむけるだろう。もふそこはいゝから、ぐつと髪をつめていつてくんな」
 かみゆひ「ハイハイ。コリヤヱらいふけじや。このふけのとれることがおますがな」
 北八「どふするととれる」
 かみゆひ「ぼんさまにならんすとゑいがな」
 北八「ヱヽいめへましいことをいふ」
 かみゆひ「ねはこないでよふおますかいな」
 北八「イヤイヤもつとひつつめてくんな。とかくこつちのほうへくると、髪はへたくそだ。ねをかたくつめていふことをしらねへ。不器用な」
 かみゆひ「さよなら、これでどふでおます」
ト此かみゆひ、これみたかといふほど、ぐつとねをつめると、さかやきに三ツほど、ひだができて、目はうへのほうへひきつるくらひに、かたくひつつめられ、北八かみのけがぬけるほどいたけれ共、まけをしみにて、かほをしかめながら
    「これでよしよし。アヽいゝ心もちだ」
 かみゆひ「ナントそれで、よござりましよがな」
 北八「あんまりよすぎてくびがまわらぬよふだ」
ト此内弥次郎ゆよりあがりくる。
 かみゆひ「サアあなた、髪なされませんかいな」
 弥次「イヤどふか湯に入たら、ぞくぞくして、風でもひいたよふだ。わつちはマアあしたのことにしやせう」
 かみゆひ「さよなら御きげんよふ」
ト出行。此うち女、膳をもちいでめいめいへなをす。上方ものは先刻より、ねころびいたりしが、おきなをりて
    「ドレ飯くをかいな」
 女「今日はしけで、お肴がなにもおわせんわいな」
 弥次「是は御ちそう。サア北八どふだ」
 北八「弥次さん。わつちが箸はどこにある」
 弥次「ヱヽ此男は。ソレ膳についてあらア」
 北八「とつてくんな。どふもうつむくことがならねへ」
 弥次「なぜならねへ。ヲヤヲヤ手めへの顔はどふした。目がひきつつて、狐つきを見るよふだぜ」
 北八「あんまり髪ゆひめが、ごうぎにねをつめていやアがつて、アイタヽヽヽヽヽ、くびをいごかすたびに、めりめりとかみの毛がぬけるよふだ」
 上方もの「ソレおまい、お汁がこぼれるわいの。アレお飯のうへに、お汁わんをおかんすさかい。アレこぼれたわいの。コリヤもふとつとやくたいじや」
 北八「弥次さん。どふぞふいてくんな」
 弥次「いめへましいおとこだ。そしてマアうつむかされぬほどに、なぜそんなに、かたくいわせた。もふちつとゆるくすればいゝのに。手めへ大かた、かみゆひをいぢめたろふから」
 上方もの「そじやさかい、そないなめにあはんしたのじやろぞいな」
 北八「イヤもふ、ものをいふさへ、あたまにひゞけてならぬ。弥次さんどふぞ、この難義を、たすかるしよふはあるまいか」
 弥次「ドレおれがちつとゆるくしてやろう」
ト髪のねをもつていやといふほどぐつとひつたてる
 北八「アイタヽヽヽヽ、どふするどふする」
 弥次「これでよかろう」
 北八「アヽちつと、くびがまわつて来た。アヽどんだめにあはしやアがつた」

 あなどりしむくひは罸があたりまへ ゆだんのならぬいせのかみゆひ

 みづから斯よみて打笑ひツヽ、支度仕廻、はや膳もひけたるに、いづれも打くつろぎて、はなしの序(ついで)に
 京の男「ナントこよひ、これから古市へいこかいな」
    「まだ宮めぐりもせぬさきに、もつてへねへよふだが、まゝのかは、やらかしやせう」
 京の人「いて見やんせ。わしやあこで、年々すてたかねが、千や弐千のこつちやないさかい、なんぼなとわしがうけこみじや。サアはやういかんせんかいな」
 弥次「ヱヽそんならおれも、髪月代すればよかつた」
 京「御亭(ごて)さん御亭さん。ちよと来ておくれんかいな」
 このやどのていしゆ「ハイハイ御用でおますかいな」
 京「おゑどのお客が、これから山へのぼろといな」
妙見町のつうげんに古市へゆくを山へのぼるといふ
 ていしゆ「よござりましよ。おともしてまいりましよ」
 京「アノ牛車樓か、千束亭(ちづかてい)に、しよじやないかいな」
 北八「たいこの間とやらは、何屋にありやす」
 ていしゆ「たいこじやおません。鼓の間の事かいな。ソリヤ千束やでおますがな」
 京「そのちづかやがよござりましよ」
ト みなみなしたくするうち、はや日もくれて時分はよしと、ていしゆをあんないとして三人とも、出かけ行ほどに、此妙見町のうへは、すぐに古市にて、倡家軒を ならべ、ひきたつるいせおんどの三みせんいさましく、うかれうかれて、ちづかやといへるにいたれば、女供みなみなはしり出
   「よふござんした。すぐにお二階へ」
ふぢやのていしゆ
   「おつれ申てもよいかいな。サア御案内いたしましよ」
トていしゆをさきにおのおの二かいへ上り座につくと
 京「ときに弥次さん。こうしよじやないかいな。おまいがたを、お江戸でゑらいおつきな店の、番頭衆にしよじやないかいな」
 ふぢや「そないことがよござりましよ」
 京「しかし、訛(なま)らんしてはあかんわいの、上店(かみだな)といふもんじやさかい。京談でやらんせにや、工合がわるかろが、どふじやいな」
 弥次「そんな事は、もつてこいだ。すつぱりと、わつちがかみがたでやらかしやしやう。コレコレおなごしゆおなごしゆ。ちよと、きておくれんかいの。わしやなんじややら、とつともふはや、ゑらふ咽がかわくさかい、ちやひとつ、もて来ておくれんか」
 女「ハイハイ」
 弥次「ナント京談、ゑらいかゑらいか。へヽちくしやうめが」
 京「イヤきよといもんじや。でけたでけた」
ト此内女酒さかなをもち出すゝめる。ふぢやはじめてだんだんにまはすと、京の人引うけて
    「コレお仲居、おやまさんはどふじやいな。コノおかたはな、お江戸のゑらいお店のばんとうさんじやさかい、なんじやあろと、おやまさんをありたけ 出さんせ。お気にいると、百日も二百日も御逗留で、おかねの入事はねからはから、とんとおかまひないおかたじや」
 ふぢや「さよじやわいな。私が去年、おゑどへさんじた時、お店のまへを通りましたが、なるほどゑらい御大家じや。あなたの御支配なさるほうは、両替店と見へましたが、これもおつきなお見世でおますわいの」
 弥次「ナニサ格別ゑらい見世ではないわいの。間口がやつと三拾三間あつて、佛の数が三万三千三百三十三ぐらしじやさかい、ゑらい賑かなこといな」
 ふぢや「京の店は、たしか六条数珠やまちであつた」
 弥次「サイノわたしがとゝさんかゝさんは、さぞやあんじてゐさんすじやあろに、こないにおやまばかり買ふて、とつともふ、ゑらいやくたいじや、ゑらいやくたいじや」
 女「これいし、みなお出んかいな」
トよびたつるこへに四五人たち出
    「どなさんもよふござんした」
 弥次「ハヽアどれもゑらい出来じやな」
 京「ばんとうさん。盃をちとあつちやへさゝんせ」
 弥次「アイもし、ひとつあげふかい」
トその中でいちばんうつくしやつへさしてにこにこしてゐる
 北八「おいらは太鼓の間が見たいが、どふだ」
 京「また、たいこの間といわんす。つゞみの間じやわいな」
 女「つゞみの間には、これもお江戸のお客さんがたが、子どもしゆよせて、おどらせてじや。アレきかんせ」
ト此内おくのつゞみの間にておどりがはじまると見へて、さみせんのおときこへる
チテチレ、チテチレ、チヽヽヽヽ、トテチレトテチレ
いせおんどうた
    「すゞ風や、ちりもはらふて木がくれの、池にうかべる月の顔、けわひはさとのいろいろに、ヨイヨイヨイヨイよいやさア」
 京「イヤアおくで踊をはじめおつたそふじや。こちもコリヤおもしろなつてきた。ちと、おつきなもんでやろわいな」
 弥次「そふさ。とんだおつにうかれて来た。もふ京談も何も面倒になつた。ヨイヨイヨイヨイよいやさア」
 京「イヨイヨトテチレトテチレ」
 又おくのうた「めだつうきなもおもしろき、やはらぐうや三みせんに、足もしどろに立かへり、またもこよひのやくそくは、ヨイヨイヨイヨイよいやさ。トテチレトテチレ」
 京「コリヤゑらひゑらひ。時にと、下拙の私めが相方のおやまさんは、コレおまい、名はなんといふぞいの。なんじやお弁。ありがたいの。誰あろう勢刕古 市、千づかやのお弁女郎といふ、美しいかわゆらしい、女の弁才天女様は、忝(かたじけ)なくも尊くも。京都千本通、中立売ひよいと上ル所、辺栗屋与太九郎 さまの相方じや。ちとねき(側)よらんせんかいの」
ト手をとり引よせる。此京の人は酒にゑふと、何でもていねいにくどくいふことがくせにて、だんだんくだをまきかける。弥次郎ははじめに、わがさかづきをさしたるおやまゆへ、じぶんのあいかたとおもひゐたりしに、京のおとこ、わがあいかたのよふにいふゆへ、やつきとして
 弥次「コレ京の客、ソリヤわしがあいかたのおやまさんじや」
 京「イヤ何いはんすぞいの。コレ女中のお仲居、おまい名は何といふてじや」
 女「ハイきんといふわいな」
 京「ソレソレ勢州古市、ちづかやの仲ゐ、おきん女郎に、京都千本通、中立うりひよいと上ル所、辺栗や与太九郎が、先刻内々ひきあふておいた、アノ美しい可愛らしい、弁才天女のおべん女郎といふおやまさんは、則京都千本通中立売」
 弥次「ヱヽやかましい。千本も百本もいるものかへ。何でもからしよてつぺんに、おれがさかづきをさしておいた」
ト いふは、ゑどにては、じょろうのざしきになをると、すぐにさかづきをさして、あいかたをさだむれ共、このへんにては、さようの事はなく、たゞないないにて ちや屋の女ぼう、あるひは女などにさゝやきて、あれはたれ、これはたれと、あいかたをきはめておくゆへ、京の人せんこく、中ゐへわたりて、此中にていつ ち、上しろものを、じぶんの相方とさだめ、のこりを弥次郎、きた八と、おのれがさりやくして、きはめておきしゆへ、弥次郎はそのことをいつこうしらず、ゑ どのかくにて、さかづきをさしたるおやまを、わが相方とおもひゐたりしゆへ、さてこそこのいさくさおこりたり、なかゐ弥次郎をなぐさめて
    「これいし、アノおやまさんはな、此人さんの相方、おまいさんは、こちの嶋田髷さんじやわいな」
 弥次「ばかアいふな。此中でアノおやまが目についたから、それでおれが、盃をさしたにちがいはない。そこでわしがおやまかいな」
 京「ハテわるいがてんじやわいの。こなさんは、アノ江戸はどこじやいな」
 弥次「ゑどは神田の八丁堀、とちめんやの弥次郎兵衛さまといつちやア、ちとひねくつた奴さまだア」
 京「そのおゑどの神田八丁ぼり、とちめんやの弥次郎兵衛どのといふ、ひねくつたやつこさまが、京都千本通、中立うりひよいと上ル所、辺栗や与太九郎があいかたのおやま、勢州古市ちづかやの」
 弥次「ヱヽ何をぬかしやアがる。へんぐりの与太九郎もあきれらア」
 京「イヤこゝなおゑど神田八丁ぼり、とちめんやの弥次郎兵衛どの、京都千本通、中立売上ル所、辺栗や与太九郎を、京都千本通、中立うり上ル所、辺栗や与 太九郎殿といへばまだしも、それを、京都千本通、中立うり上ル所、辺栗や与太九郎とよびすてにさんしたの。そこでもつてからに、京都千本通、中立うり」
 弥次「ヱヽやかましい。よくしやべるやらうだ」
 北八「おらアそんなことより、太鼓の間が見てへ。たいこの間はどこだどこだ」
 女「たいこの間とはなんじやいし。つゞみの間のことかいな」
 北八「ヲヽそのつゞみつゞみ」
 京「イヤつゞみじやあろが、なんじやろが、此辺栗や与太九郎が、相方じやわいの」
 弥次「コレわるくしやれるな。何でもつゞみの間はおれがのだ。わるい敵役じやアねへが、いやでもおふでも抱てねる」
 ふぢや「ハヽヽヽヽ、あのひろい、つゞみの間をかいな」
 弥次「ヲヽひろくてもせまくても、頓着はねへ。おれがものだ」
 京「イヤイヤイヤイヤ、そりやさゝんわい」
 弥次「ナニさゝんことがあるものか。誰が何といつても、京都千本通中立うり、とちめんや弥次郎兵衛さまが相方だハ」
 京「イワ此おゑど神田八丁堀あがる所、へんぐりや与太九郎の買ふたのじや」
 北八「ハヽヽヽ、おめへがたは何をいふやら、どつちがどふだか、さつぱりわからなくなつた」
 女「そして此おかたは、京のおかたじやといわんしたに、ものいひが、いつの間にやらおゑどじやわいな」
 弥次「べらぼうめ、このいそがしいに、京談がつかつてゐられるものか」
 女「あんまりおまいさんがたがいさかふてじやさかい、ソレ見さんせ、おやまさんがたは、みなにげていかんしたわいな」
 弥次「いめへましい。もふけへるべい」
 女「マアよふおますがな」
 ふぢや「モシこうしよかいな。これから、柏屋の松の間をおめにかけふわいな。たゞし麻吉にお供しよかいな」
 弥次「いやだいやだ。おらアぜひけへるけへる」
 ふぢや「ハテよござります」
 弥次「イヤとめやアがるな。いめへましい」
トすつと立てかへろうとする。仲ゐども立かゝりて、いろいろあいさつし、とめてもとまらず、ふりはなし出かけるところへ、あいかたのおやま初江立出
    「これいし。なんじやいし」
 弥次「とめるな。よせへよせへ」
 初江「おまいさんばかり、そないになア、かへるかへるといわんすがな。わしがお気にいらんのかいし」
 弥次「イヤそふでもねへが、こゝをはなせはなせ」
 初江「わしやいやいし」
ト又かけ出しそふにするを引とらへむりむたいにはをりをぬがせる
 弥次「イヤ羽折をどふする。よこせよこせ」
トいひながら、又かみいれたばこ入をとられる
 弥次「コレサおらアけへるけへる」
 初江「じやうのこわい人さんじや」
トいひながらおびをぐつとひきほどき、きものをぬがせよふとする。弥次郎は、あかじみたる、ゑつちうふんどしをしめてゐたりしゆへ、はだかにされてはたまらぬと、大きにへきゑきし、きものを両手におさへて
 弥次「コレコレ、もふかんにんしてくれ」
 初江「そじやさかい、こゝにゐさんすか」
 弥次「ゐるともゐるとも」
 仲ゐ「はつ江さんもふ堪忍してやらんせ」
 ふじや「サアサアよござります。これへこれへ」
ト弥次郎が手をとりもとの所に引すへる
 北八「ハヽヽヽヽ、おもしろへおもしろへ。弥次さん斯(かう)もあろうふか」

 むくつけき客もこよひはもてるなり 名はふる市のおやまなれども

 此一首に、みなみなわらいを催し、藤屋の亭主、仲居どもが、そこら取かたづけて、それぞれに座敷を儲け、酔倒れたる上方ものを引立て案内するに、北八も倶に出行ば、あとに弥次郎兵衛ひとり残りたるに
 女「サアサアおまいさんもちとあちらへ
ト いひながら立て行。此弥次郎いたつて見へものにて、かのにしめたるごときふんどししめたるが、ことの外きにかかり、ひよつと見付られたら、はぢのかきあげ ならんと、ふところのうちにて、そつとはづし、れんじのまどより、にはのかたへほうり出し、あとさきを見まわし、人の見ざるにあんどして、仲ゐのあとに引 そひゆく

 かくて夜も更わたるに、おくの間の、川さきおんどもおのづからしづまり、旅客のいびきの声喧(かまびす)く、鐘の音もはや七ツひゞきて、鶏の声万戸にうたひ、夜もしらみかゝる。あかり窓の障子におどろき、起あがりて目をこすりながら
 京の人「サアサアどふじやどふじやいなおきさんせ。もふいのわいの」
 北八「弥次さん。日が出たア、けへらねへか」
ト両人弥次郎がねている所へ来りおこす。弥次郎おきて
    「ヤレヤレぐつとひとねいりにやらかした」
 おやま「これいし、けふもゐさんせ」
 弥次「とほうもねへ。けへるけへる」
トみなみなしたくして出かける。おやまどもおくりてらう下に出、一人のおやまれんじのまどより、にはのかたをのぞき
    「これいしこれいし。アレ見さんせ。庭の松に、いもじがかゝつてあるわいなア」
 弥次郎のあいかた女郎はつ江「のいてかんせ。ほんにいやいな。誰じやいな」
 弥次「ハヽアこいつはおかしい。羽衣の松じやアねへ。ふんどしかけの松もめづらしい」
 北八「弥次さん、おめへのじやアねへか」
 はつえ「ほんにそれいし。あのさんのまはしじやないかいな」
ト弥次郎がかほを見てわらふ。弥次郎は宵に、れんじよりすてたるふんどし、にはのまつのえだにひつかゝりて、ぶらさがりゐるを、おかしくおもひながら、さすが、それともいわれずへいきにて
    「ナニとほうもねへ。あんなきたねへふんどしを、ナニおいらがするものか」
 はつえ「そじやてゝナ。ゆふべわしや、このおきやくさんの、きりものをぬがすとてなアよふ見たが、あないな色の、まはしじやつたわいな」
 京「ヲヽそふじやあろぞい」
 弥次「ばかアいわつせへ。おらア木綿ふんどじはきらひだ。いつでも羽二重をしめてゐる」
 はつえ「ヲホヽヽヽヽ、うそやの。あれじやいし」
 北八「いかさま、おいらも見おぼへがある。たしかにあれだろう。それが嘘なら弥次さん、おめへ今はだかになつて見せなせへ。今朝ア宿入のやつこさまで、ふつてゐるにちげへはねへ」
 はつえ「そふじやいし、ヲホヽヽヽヽ。これいし、久すけどん、そのまはしはおきやくさんのじや。とてくだんせ」
トにはに、そうぢをしてゐる男をよびかけ、さしづすると、此男竹ぼうきのさきにて、かのふんどしをつつかけてとり、れんじのまへゝぐつとさしいだし
    「さあれば、ひんどしをまいらそふ。ソレとらんせ。どふじやいな」
 はつえ「ヲヽくさ」
 北八「ハヽヽヽヽ、弥次さん、手を出しなせへ」
 弥次「ヱヽなさけないことをいふ。おれがのじやアねへといふに」
 北八「そんならおめへのを、まくつて見せなせへ」
ト弥次郎がおびをときにかゝれば、ふりはなして、そのまゝにげ出して行
 みなみな「ヲホヽヽヽヽワハヽヽヽヽ」
ト大笑しておくり出る。三人とも此所を立出ると
 弥次「ヱヽいめへましい。北八めがおれに赤恥を、かゝしやアがつた」
 北八「松に、ふんどしのぶらさがつたもめづらしい」

 ふんどしをわすれてかへる浅間嶽 万金たまをふる市の町

 かくて、妙見町に立かへりたるに、其日のそらのけしき、いと長閑なれば、いそぎ内外のみやめぐりせばやと、支度あらましにして立出るに、行ほどなく今戻 りし古市のあがりくちに、はや見せいだして、めいめい小屋に、引たつる、いにしへのお杉おたまが、おもかげをうつせし女の、二上りてうし
    「ベンベラベンベラチヤンテンチヤンテンチヤンテン」
トむせうに引たつるうたのしやうがは何ともわからず、往来の旅人此女のかほにぜにをなげつくるを、それぞれに顔をふりよける
 弥次「あつちらのしんぞう(新造)がゑくぼへ、ぶつつけてやろう」
ト銭二三文なげると、ちやつとよけてあたらず
    「ベンベラベンベラ」
 北八「ドレおれが、あてゝ見せやう、ハアこれはしたり」
 京「なんとして、おまいがたが、どないにほりつけさんしても、てき(敵)らがさすもんじやないわいの」
 弥次「こんどは見なせへ。ハアこれはいな」
 北八「ヲヤヲヤさしぐるみやらかしたな。それでもあたらぬ。コリヤしよふがある。あんまりつらがにくい」
トちいさな石ころをひろいて、なげつくると、かの女、ばちにてちよいとうけ、なげかへせば、弥次郎のかほへぴつしやり
 弥次「アイタヽヽヽヽ」
 北八「ハヽヽヽヽ、こいつは大わらひだ」
 弥次「アヽいてへいてへ」

 とんだめにあいの山とやうちつけし 石かへしらる事ぞおかしき

 かくて爰(ここ)を打すぎ、中の地蔵町にいたる。左りのかたに本誓寺といふ勝景の地あり。また寒風といへる名所もあり。五知の如来、中河原、さまざまし るすに遑(いとま)なし。夫より牛谷坂道にかゝれば、女乞食共、けはひかざりたるが、往来に銭を乞ふ。又十一二三の女子ども、紙にてはりたる笠のいろどれ るをかぶりて
    「やてかんせ、おゑどさんじやないかいな。さきな嶋さん、はな色さん、ほかぶりさん、やてかんせ。ほうらんせ」
 弥次「やかましい。つくなつくな」
 こつじき「アノいわんすこといな。おゑどさんじや。ちやとくだんせ」
 北八「ヱヽひつぱるな。ソレまくぞまくぞ」
トよいかげんに、ばらばらとぜにをほうり、出せば、こつじきどもめいめいひろひて
    「よくくだんしたや」
トひとりひとり礼をいふ。このさきに又、七八才ばかりのおとこの子、白きはちまきをして、そでなしばおりにたちつけなどをはきたるが、手にさいはい、あふぎなどをもちおどる、うしろに、あみがさきたる男、さゝらをすりすり
    「ヤレふれふれ、いすゞ川、ふれふれちはやふる、神のおにはのあさ清め、するやさゝらの、ゑいさらさら、ゑいさらさ、ソレてんちうじや。やてかんせ、やてかんせ」
 北八「ソリヤやてかんすぞ。しかも四もん銭だ」
 乞食「四文ぜになら、つりを三文くだんせ」
 弥次「こいつむしのいゝことをいふ。時にこの橋はうぢはしといふのか」
 京「さよじや。アレ見さんせ。網でぜにをよふうけてじや」
 北八「ドレドレ」
トはしの上よりのぞきみれば、竹のさきにあみをつけて、りよ人の、なげせんをうけとめる
 京「弥次さん。小せんがあらば、ちくとかさんせ」
ト弥次郎がぜにをかりて、さつさつとほふりなげる。下にはみなうけとめる
 京「ゑろうふおもしろいな。よふうけくさる。もちつとほつてこそかい。コレきた八さん。おまえもつとかさんせ。ソレ又ほるぞほるぞ。ハヽヽヽヽ、ゑらいゑらい」
 弥次「コレ京のお人。おめへ人のぜにばかりとつてなげる。ちとおめへの銭をもなげなせへ」
 京「よいわな。おまいがたの銭じやてゝ、わしがぜにじやてゝ、かはりやせんわいの」
 弥次「それだとつて、あんまりあたじけねへ」
 京「ナニわしが此まい、参宮したときわな、きかんせ、ゑらいあほじやあつたわいな。こゝで銭五貫か、拾〆ほつたわいの。あんまりつらのにくいほど、よふ けおるさかい、何じやろと、こんどは網やぶつてこまそと、ふところに丁銀が一まいあつたを、ツイとほつてこましたら、やつぱり網でうけくさつたさかい、コ リヤどふじやいな、丁銀ほつたら網がやぶりよかとおもふたに、ねからたわいじや。どしてあみに、とまりくらつたしらんといふたりや、下におるやつめが、ソ リヤとまるはづじやとぬかしくさる。なぜじやといふと、ハテ網の目に、かねとまるじやと、ゑらふわしを、へこましくさつたわいの、ハヽヽヽヽ。サアサアい こわいな、いこわいな」

 なげ銭をあみにうけつゝおうらいの 人をちやにする宇治ばしのもと

 是より内宮、一のとりゐより、四ツ足の御門、さるがしらの御門をうちすぎ、御本社にぬかづきたてまつる。是天照皇太神にて、神代よりの神鏡神劔をとつて、鎮座したもふところなりと

 日にましてひかりてりそふ宮ばしら ふきいれたもふ伊勢の神かぜ

 ここにあさ日のみや、豊の宮よりはじめて、河供屋ふるどのみや、高の宮、土のみや、其外末社、ことごとくしるすにいとまなし。風のみやへかゝる道に、みもすそ川といふ有

 引ずりていく代かあとをたれたもふ 御衣裳(みもすそ)川のながれひさしき

 すべて宮めぐりのうちは、自然と感涙肝にめいじて、ありがたさに、まじめとなりて、しやれもなく、むだもいはねば、しばらくのうちは順拜おはりて、もと の道に立いで、頓(やが)て妙見町にかへり、こゝにてかの上がたものと別れ、弥次郎北八両人のみ、藤屋を昼だちとして外宮へまいる。
 是れすなはち豊受太神宮なり。天神七代のはじめ國常立(くにとこたち)の尊と申せし御神なり。神璽の宮、宝劔のみや、其外あまたの末社をおがみめぐり て、天の岩戸にのぼりたるに、弥次郎兵衛いかゞしけん、しきりに腹痛てなやみけるゆへ、そうそうに此所をおりたち、傍に休みて丸薬など用ひ、とかくするに 絶がたければ、いそぎ廣小路にいたり、宿をからんとそこ爰を見回すうち、あるやどやの亭主
    「モシモシおとまりじやおませんかいな」
 北八「アイつれのものが、少し虫がかぶるそふだから、宿をおたのみ申やす」
 ていしゆ「サアおはいりなさんせ。ソレおなべ、おくへおともせんかいやい」
 女「よふおつきでおます」
 北八「サア弥次さん、あがんなせへ」
 弥次「アイタヽヽヽヽヽ」
 北八「ヱヽきたねへかほをする。おめへコリヤアなんぞの罸(ばち)があたつたのだ」
 弥次「ナニサ罸をくつたおぼへはねへ。大かたけさの飯があたつたのだろう」
 ていしゆ「おまんまもあがりつけなさらんと、あたることがおましよわいな」
 北八「アヽコリヤいくぢのねへこつた。サアサアおくへおくへ」
 弥次「アイタヽヽヽヽ」
ト北八にかいほうせられ、ざしきにとふる。ていしゆもにもつをはこび
    「さぞ御なんぎでおましよ。おくすりでもあがりましたか。さいわいわたくし所の妻が、今月臨月でおますがな。きのふからちとすぐれませんので、いんま医者さまをよびにさんじたが、あなたも見ておもらひなさんせんかいな」
 弥次「それはどふぞ、おたのみ申やす」
 ていしゆ「かしこまりました」
トかつ手へたつてゆく。弥次郎はしきりにくるしがるよふすに
 北八「どふだ、ゆでも茶でも酒でものみたくなねへか」
 弥次「ばかアいふな。アイタヽヽヽヽ、むしやうに腹がごろごろなる。北八雪陣はどこに有ル。たずねてくりや」
 北八「おめへどこにおいた。袂でもねへか」
 弥次「あほうつくせ。ナニせつちんがたもとにあるもんだ。どこにあるか、見てくりやといふことよ」
 北八「ハアそふか。ドレ見てやろう。あつたあつた。アレ縁側のさきにおちてある」
 弥次「まだぬかしやアがる。アイタヽヽヽヽ」
トやうやうのことに立あがり、用たしにゆく。此うちやどの女、かつてより出
    「ハイお医者様がおいでたわいな」
 北八「サアサアこれへこれへ」
ト此内近所のいしやの弟子と見へて、こげちやのもめんもん付にくろちりめんのかたのひけたるはをりを、ひつかけたるぼうさま
    「ヱヘンヱヘン。これはふ順な天気あいでござる。ドレおみやくを」
ト北八のそばへすはり北八がみやくを見よふとする
 北八「イヤ私ではござりませぬ」
 いしや「ハテ達者な人の脈から見くらべねば、病人のみやくがわからんわいの。先きさまお見せなされ」
ト北八がみやくをとりしばらくかんがへ
    「ハヽアなるほど、きさまはなんともないよふじや」
 北八「さやうでござります」
 いしや「お食はどふじや」
 北八「ハイけさほど、めしを三ぜん、汁を三ばい、たべました」
 いしや「そふであろ、そふであろ。平は大かた、一ツぱいじやあろ。かへてはまいるまい」
 北八「さやうでござります」
 いしや「そふじやあろ、そふじやあろ。此脈体では、どこもなんともないよふじや」
 北八「さやうでござります」
 いしや「ナントよふ、あたりましたろう。およそ医は意なりと申て、脈体をもつて、勘考いたす所が第一でござる。きづかいない。もはやおいとまいたそふ」
 北八「モシモシ、病人を御ろうじて下さりませ」
 いしや「ほんにそふじやあつた。わしはかわつた癖で、とかく病家へまいつても、病人のみやくを見ることを、どふもわすれてならんわいの。しかし見ずともしれたことじやが、ついでに見てしんじよ。病人はどれにござる」
 北八「ハイ只今雪陣へまいつております。コレコレ弥次さん、おいしやさまがござつた。はやく出なせへ出なせへ」
ト大きなこへをすれば弥次郎せつちんの中から
    「イヤまだ出られぬ。おいしやさま、どふぞこれへお出くださりませ」
 北八「ヱヽめつそふな。おいしやさまがそこへいかれるものか。無躾なことをいふ」
 弥次「そんな今出る今出る」
トやうやうせつちんより出れば、いしやしかつべらしく弥次郎のみやくをみて
    「ハヽきこうは、コリヤ血のみちじやわいの。とかく臨月などにはおこるものじや」
 弥次「イヤわたくし孕(はらん)だおぼへはござりませぬ」
 いしや「ナニ懐胎(くはいたい)でない。ハテめんよふな。イヤコリヤわしが師匠がわるい。廣小路の伊賀越屋からよびにおこしたが、あこの病人は、産月じ やさかい、大かたちのみちがおこつたのじやろ。そのつもりで、くすりもるがよいと、おしへておこしたが、そりやきこうのことではなかつたわいの」
 北八「さようでござりましよ。血のみちはこゝの内儀のことでござりませう。この男は、それではござりませぬ」
 いしや「さよじや、コリヤわしがまちがいじやわいの。しかし、なんならきさまも、それにしておかんすと、薬もるにもいつしよにして、めんどふになふてよいがな」
 北「なるほど、コリヤおいしやさまのおつしやるとをり、弥次さん、おめへも血の道にしておくたいゝね」
 弥次「とんだことをいふ。男にちの道があつてたまるものか」
 いしや「イヤイヤ外の病気もおもしろかろ。何もわしがけいこのためじや。いつたいきさまは、何病ひじや」
 弥次「わたくしは先刻から、むしがかぶつてなりませぬ」
 いしや「大かたソリヤ腹のうちでかぶるじやあろ」
 弥次「ハイおつしやるとをり、腹のそとではござりませぬ」
 いしや「そふじやあろ。コレコレ女中、供のものにくすりばこおこせといふてくだんせ」
 女「ハイハイかしこまりました。イヤもし、おともの人は見へませんわいな」
 いしや「見へんはづじや。つれてこんさかい。くすりばこは、わしがもてきたわいな」
トさげてきたふろしきづゝみをひらき、くすりばこを取出す
 女「ヲヽおかし。あなたは竹の匕(さじ)で、煮豆もるよふにしてじやわいな」
 北八「ハアきこへた。藪医者さまだから、そこで竹のさじを、おつかいなさると見へた。そしてあなたのおくすりぶくろには、繪がかいてござりますが、どふいたしたことでござりますね」
 いしや「イヤおたづねでめんぼくないが、生得手習をいたしたことがないさかい」
 北八「ハヽアあなた無宿じやな」
 いしや「さようさよう。かいもく字がよめぬ、むしくじやさかい、それでかように、薬の名をゑにかいておきますじやて」
 北八「これはおもしろい。さやうなら、その道成寺のゑは、なんでござります」
 いしや「コレハ桂枝(けいし)じやて」
 北八「ゑんまさまは、大かた大黄(だいわう)でござりませうが、コノ犬が火にあたつておるのは」
 いしや「陳皮(ちんぴ)陳皮」
 北八「コノ産婦のそばに小便してゐるのは」
 いしや「しれたこと、山梔子(さんしし)」
 北八「印判に毛のはへたは」
 いしや「半夏(はんげ)」
 北八「おにが屁をひつておるのは」
 いしや「それは枳殻(きこく)」
 北八「ハヽヽヽヽ、おもしろひ、おもしろひ。時にお薬は」
 いしや「せんじやうつねのごとし、せふがはひとへぎおいれなさい」
 北八「わさびではわるふござりますか」
 弥次「ばかアいふな。これはありがたうござります」
ト此内なにやら、かつてのかた、にはわにさはがしく、人のあしおととんとんひゞき、ていしゆのこへとして
    「コリヤコリヤ、おなべやいやい。とりあげばゞどのへ人をやれ。ソレ久助はゆをわかせ。はやめはあるか。はやうはやう」
トさはぎたつうち、こなたには、又弥次郎が、しきりにはらいたみ出して
    「アイタヽヽヽヽ」
 北八「弥次さん、どふしたどふした」
 いしや「コリヤたまらんたまらん。病人のそばにはおられぬ」
トそうそうにげ出してかへると、かつてのかたには、ヤレとりあげばあさまのお出と、下女のおなべがうろたへて、ばゞあの手をとり、これへこれへと弥次郎が、ふとんかぶりてねてゐるところへつれてくると、とりあげばゞ
    「これはしたり、ねてゐさんしてはならんわいの。サアサアおきさんせおきさんせ」
ト弥次郎をひきづりおこせばかほをしかめて
    「アイタヽヽヽヽ」
 ばゞ「しんぼうさんせ。コレそこな人、菰(こも)はどふじやいな」
 弥次「アイタアイタ」
 ばゞ「そこじやそこじや」
トこのばゞもうろたへたうへ、いつたい目がすこしうとく、うちのさんぷとまちがへ、弥次郎がこしをひつたて、ひつたて
    「サアサアみな来さんせんかいな。コレコレこゝへ来て、だれぞこしをだいてくだんせ。さあさあはやうはやう」
トせきたつにぞ、きた八はあきれかへりて、おかしく、こりやどふしおるしらんと、とぼけたかほで、弥次郎がこしをだいてひつたつれば
 弥次「コリヤ北八どふする。アヽいてへいてへ」
 ばゞ「そないな気のよはいことではならんわいな。ぐつといけまんせぐつといけまんせ」
 弥次「こゝでいけんでたまるものか。雪陣へ行てへ。はなしたはなした」
 ばゞ「こうかへいてはならんわいの」
 弥次「それでも、こゝでいけむと、こゝへ出る」
 ばゞ「出るから、いけまんせといふじやわいの。ソレウヽンウヽヽヽン、ソレウヽンウヽヽヽン、そりやこそ、もうあたまが出かけた出かけた」
 弥次「アイタヽヽヽヽ、そりや、子ではねへ。それをそんなに、ひつぱらしやんな。アヽコレいてへいてへ」
トもがくをかまわずばゞはぐつとひつぱれば、弥次郎はらをた
    「ヱヽ此ばゞあめ」
トよこつつらをはりとばす。ばゞあきれて
    「この血ちがひは」
トむしやぶりつく。かゝるさはぎのさいちう、かつてのかたには、はや女ぼうのあんざんと見へて、あか子のなくこへする
    「おぎやアおぎやアおぎやアおぎやア」
 ばゞ「そりやこそ生れた。イヤこゝじやない。どこじゃいな、どこじやないな」
トうろたへまわるうち、弥次郎も、しきりにいたみ、せつちんへはしりこむ。ていしゆはかつてよりとんで来り
    「コレコレばあさま、さつきにからたづねておるに、もふ生れたわいの。はやうはやう」
トばゞをひつたてつれ行ば、かつてのかたには、ざゞんざのこへ
    「めでたいめでたい。三國の玉のやふな、おとこの子が生れた」
トよろこびのこへともに、ていしゆにこにこして立出
    「コレハおきやくさま。おやかましうござりませう。先わたくし妻も安産しました」
トいふうち弥次郎もせつちんより出
    「さてさてめでたい。わしも今、せつちんで、おもいれあんざんしたらば、わすれたよふに、心よくなりました」
 ていしゆ「それは、あなたもおめでたい」
 北八「おたげへに、めでたいめでたい」
トこれよりよろこびの酒くみかはして、とりあげばゞのまちがひやらなにやらかや、はなしあひて大わらひとなりける。めでたしめでたし。


2006年04月10日(月)
Nakano Associates 中野有
 発表された理由

 4月7日に米国は、ハマス(パレスチナ自治政府)への援助を凍結すると発表。理由は、テロ組織であるハマスから、援助のための3つの条件(イスラエルの 承認、暴力の放棄、過去の平和合意を遵守)を満たす回答が得られなかったことによる。EUも同様にハマスへの経済制裁を発表しており、ハマスはこの結果を 深刻に捉えるべきであるとライス長官は述べている。
 
 米国は予定されていた410Million USDのインフラプロジェクトを一時的に凍結し、105Million USDの人道支援プロジェクト(食糧、衛生、教育、市民社会活動)を、国連機関やNGOを通じた暫定的な援助として継続する。EUは1993年のオスロ合 意以来、パレスチナへの最大の援助国であり、EUの昨年のパレスチナへの援助は600Million USD。EUも人道的援助は継続する。イスラエルも50million USDの援助を凍結する。EU,米国、イスラエルが同時にハマスへの経済制裁を決定した。

 経済制裁の影響

パレスチナ政府の支出の半分は、欧米、日本、サウジアラビア、イスラエル等の援助に依存している。少なくとも毎月150Million USDの援助が必要とされ、職員への給与の支払いに影響が出ている。

 ハマスをバイパスし前政権のファタ党のアバス議長のラインへの援助も考えられたが、援助凍結が発表されたことにより、ハマスのライバルであるアバス議長 は、民主主義の選択を行ったパレスチナ人を罰するべきでないとの考えを示している。

 経済制裁によるハマス離れの兆候は現れておらず、むしろパレスチナに反米色が増すとの見方も出ている。ハマスが勝利した理由は、イスラエルへの強硬姿勢 のみならず前政権の汚職等やイラン等のイスラム過激派の資金が回ったものであり、ハマスへの経済制裁は、イランやロシアの影響力を増すと予測される。ハマ スは欧米イスラエルから孤立するも、政治的な妥協を拒絶することにより、反米勢力の資金の流入により内部の求心力が増す可能性もある。

 イスラエルは欧米の経済制裁に波長を合わせるように4月7日に2回にわたりガザ地区への空爆を決行した。

 イスラエルの政治勢力

 今回の選挙でカディマ党(28議席)が労働党(20議席)、年金党(7議席)、メレツ党(4議席)、アラブ・イスラエル党など(10議席)と連立し 120議席の過半数を確保した。右派のリクード党が38議席から11議席に勢力を縮小させた。

 イスラエルの国民の主流は、入植地からの一方的な撤退を支持する一方、イスラエルの右派は、パレスチナの右派政権の台頭によりイスラエルの譲歩に対する パレスチナの何の見返りも保証されないことから強硬姿勢が復活する動きも出ている。

 本質的・現実的理由

 以上述べたように発表された理由や道義的理由で、表層的な動向は読み取れるが本質的・現実的な理由を考慮すると事態は複雑化する。

 イスラエルとパレスチナの動向は、アラブ全体の縮図である。米国の保守派、軍需産業複合体は、パレスチナの不安定要因はイランに起因していると考えてい る。ハマスへの経済制裁が機能しない可能性はイランの資金流入である。その関連からか、イランへの軍事制裁の可能性が本日(4月9日)のワシントンポスト の一面で報道されている。1981年のイスラエル空軍によるバグダッド近郊のオシラク核疑惑施設への空爆を例にあげ、イランの核施設への空爆による先制攻 撃の可能性を示唆している。このタイミングでイランへの空爆が報道される背景には、イランのパレスチナへの資金の流れを牽制する意味も含まれていると考え られる。

 米国のユダヤ人の多数は、中道で経済的にリベラルなカディマ党に近いと考えられる。しかし、米国のユダヤ系の右派は、イスラエルの右派と協調し、ブッ シュ政権にハマスの経済制裁とイランへの軍事制裁を強行に勧める圧力をかけている。イランによるイラクへの干渉、イラン・イラクのシーア派政権を弱体化さ せる目的で、イランの核施設への空爆は、イランによるイラクへの干渉の報復として軍事作戦上マイナスに作用しないと考えられる。イランへの空爆を決行した 場合、イラクの米軍がどのような報復を受けるかまで分析されている。

 イランやパレスチナの背後にあるロシアの戦略は、エネルギー安全保障の名目で石油・天然ガスの価格の上昇とOPECに並ぶ資源カルテルの設立である。ロ シアは、ハマスの支援に答えてハマスとの関係を強化しても、それを無視しハマスが完全に孤立しジハドの過激派が強行姿勢に出て、中東が混沌としても、石油 価格の上昇という観点で、ロシアの外交・安保のWIN-WINを確保できる。米軍がイランへ空爆することで、石油価格の上昇と資源カルテルを設立する意味 でロシアが恩恵を受ける構図となる。

 欧米の矛盾はそこにある。最善のシナリオは、米国内部の保守派と軍需産業複合体、イスラエルの右派の台頭を牽制するためにハマスへの人道的な援助を具体 的に進め、ハマスがイスラエルの3つの条件に対し政治的妥協を認めるための戦略にでることが重要と考えられる。

 日本のポジションとしては、天安門事件の時、欧米が北京に経済制裁を実施するも日本は独自で北京を支援したように、パレスチナの人道援助の中に水道等の 経済社会インフラプロジェクトも導入し、援助をマルチとバイの両方で行うことを戦略思考として考慮すべきであろう。

 大量破壊兵器の脅威のみならずその事の重大さを考慮した場合、先制攻撃の具体的な定義も大切であるが、予防外交がさらに重要である。日本の国際貢献の役 割は、時として欧米が見失いがちな分野への援助を行うことにあろう。表層的な外交・安保の情況に流されず確固たる開発戦略や予防外交が必要となろう。

 本日のワシントンポストでキッシンジャー元国務長官は、パワーの象徴は、領土争いでなく技術力だと述べている。これはイスラエル・パレスチナの新思考の意味を含んでいるように思われる。

 中野さんにメール nakanoassociate@yahoo.co.jp
2006年04月09日(日)
萬晩報通信員 成田 好三
 小泉純一郎という人は、本当にすごい人ですね。何とも絶妙なタイミングでの普天間移設(米海兵隊普天間飛行場のキャンプ・シュラブ沿岸部移設)合意でした。この合意によっって、民主党代表選一辺倒だったメディアの関心を、半分近くは政府・自民党に引き戻したからです。

 普天間移設合意と民主党代表選の日程が偶然重なったのなら、小泉首相の強運は神がかり的です。意図的な日程を重ねたのなら、天才的な軍師というしかないでしょう。

 政治生命を賭けて民主党代表選に出馬した小沢一郎氏は、普天間移設合意の一報を聞いて、小泉氏の恐ろしさを心底から感じたのではないでしょうか。

 4月7日。政治メディアの関心は民主党代表選に集中していました。小沢氏と菅直人氏とが争い、小沢氏が圧勝した代表選は、夕方には決着しました。この時点で民主党と小沢氏はこの夜のTVニュースと翌日の新聞は代表選の話題で「独占」できると考えたでしょう。

 しかし、夜になって状況は一変しました。額賀福志郎防衛庁長官とキャンプ・シュワブのある沖縄・名護市の島袋吉和市長が防衛庁内で会談しました。この会談で額賀氏は滑走路を2本整備するという「隠しだま」を提示し、合意に達しました。

 この突然の合意によって、メディアの扱いは大きく変化しました。当初予定通りの、民主党一辺倒の扱いでは済まなくなってしまいました。民主党代表選に割 り当てられる予定だったスペース(新聞)と時間(TV)の半分近くは普天間移設合意に割り当てなければならなくなりました。

 この扱いの変化は、メディアにとっては当然の対応です。小沢氏が民主党代表に選出されるという大ニュースがあっても、普天間移設合意が無視したり小さな扱いでは済まない問題であることは明らかだったからです。

 しかしです。滑走路を2本整備するという、普天間移設の隠しだまはいつ、誰が用意したものでしょうか。メディアも虚をつかれたようで、そんな疑問には何も答えてくれません。

 対抗勢力が圧倒的に関心を集めるテーマがピークに達する時点で、まったく別でありかつ関心を集めるテーマをぶつける。小泉氏の得意中の得意とする手法です。今回の民主党代表選と普天間移設合意も、結果としてはそうなりました。

 普天間移設合意で2本の滑走路を整備すること、その提案をいつ出すかということを最終的に判断できるのは額賀氏ではなく、小泉氏だけだということは明らかです。

 小泉氏の政治家としての時間は、田中角栄的支配を打破することに費やされてきました。田中角栄の秘蔵っ子であった小沢氏が政治家として最後の勝負に出た 民主党代表選に、小泉氏はとっておきの隠しだまをぶつけてきたのではないでしょうか。(2006年4月8日記)

 成田さんにメールは mailto:narinari_yoshi@ybb.ne.jp
 スポーツコラム・オフサイド http://blogs.yahoo.co.jp/columnoffside
2006年04月07日(金)
Nakano Associates 中野 有
 ワシントンの満開の桜を観賞しながら葵のコラムを書いている。

 ジェファーソンメモリアルの周辺に広がる桜は、94年前に尾崎行雄東京市長がワシントン市に寄贈されたものである。太平洋を挟み戦争も発生したが、今も ポトマック川の近くの桜は、日米の友好と親善の証としてワシントンの名所となっている。

 春の陽気に誘われ花見に高じる人々の表情は、実に健やかである。世界中の外交官が集まるワシントンにおいて、日本の桜は、外交の駆け引きや戦略を超越し た次元で、平和の一翼を担っている。ワシントンには桜外交が存在する。

 米ドルの一ドル紙幣に描かれるワシの右脚には、平和を象徴するオリーブの木、左脚には軍事を意味する矢が示されている。日本への原爆投下を決定したト ルーマン大統領の意思により、ワシの視線がオリーブの木の方向に変えられたという話を聞いた。

 エルサレムに樹齢2千年といわれる巨大なオリーブの木がある。ユーラシアの西の果てアフリカへの接点に位置するイスラエル、そのエルサレムの丘のほんの 1キロ四方の狭い地域に、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の一神教が集中し共存している。この丘に立つと、神聖な気分に浸る。西方の地中海と東方の死海 との間にそびえ立つエルサレムの地勢が、宇宙観を呼び起こすのだろう。現場を体験すると乾燥した地に生えるオリーブの木が平和の象徴に例えられる意味が閃 いてくる。

 ユーラシア大陸の東の果てには、山紫水明の日本がある。この日本の四季折々の自然が織り成すマジックは、世界でも稀なる美そのものである。20年以上か け好奇心に任せ世界を観て、その土地土地で生活してきたが、日本の自然の雅ほど、心と体を躍らせるものはない。

 京都に帰った時、いつも早朝に訪れる上賀茂神社の空気は澄みきっている。神話の世界となるが3500年前の古の日本人が、京都盆地の加茂川の上流にこの 神社を築いた。先人の自然に根ざした直感(直観)が、山紫水明の地に生える双葉葵を神社の神紋としたのである。古より朝廷とつながる賀茂社の双葉葵を参考 に、徳川家康が三つ葉葵を家紋として崇めたことは興味深い。

 一昔前には、百人一首に登場する上賀茂神社に流れる「ならの小川」の辺りには双葉葵が絨毯をしきつめたようにみずみずしい自然を蓄えていたという。産業 社会の発展と共に身近にあった双葉葵がほとんど見られなくなった。地球温暖化が自然を切り離しているのであろうか。現代人が古代の人間が備えていた自然の 雅に感じ入る行為的直感(直観)をどこかに忘れてしまったのであろうか。

 思想家、寶田時雄さんは、冬の賀茂社を訪れ、地に伏す双葉葵に思いを込められた。「下座鳥瞰」で地球環境の変化や社会の動向をじっと観ているのが葵であ り、現代人がなかなか理解できない偉大なるメッセージが葵には宿っているとの達観を示された。

 ワシントンで開催されるシンポジウムや会議では、地球環境問題のメッカとして京都が語られる。古から愛されてきた葵は、地球環境の変化に敏感であり、繊 細のゆえに姿を消しつつある。人為的でない自然が伝える外交は、国家の垣根を越え、地球益として世界中の人々が共有できる業である。ハート型をした葵の 葉、そのものが平和へのメッセージを秘めている。

 ワシントンの桜、エルサレムのオリーブの木と並び、京都の葵は、世界平和のため、とりわけ地球環境のための大切な役割があるように思われる。2年後に は、G8サミットが日本で開催される。葵を通じた日本の外交がきらめくことを願うと同時に、絶滅する可能性のある葵が再びみずみずしい山紫水明の美をひき たててくれることが望まれる。

 中野さんにメール nakanoassociate@yahoo.co.jp
2006年04月02日(日)
ギターボーカリスト 兵頭ニーナ
「今日はスフミからお客さんが来るからご馳走つくらなくちゃ・・・。一緒にバズロバ(市場)に買い物に行こう」とヴィカは朝からはりきっていた。

 スフミは黒海沿岸にある町でヴィカの故郷だ。ソヴィエト時代の要人の保養地のひとつで、風光明媚とか気候温暖で椰子のような木が茂ってるとか、チョール ナヤモーレ(黒海)で泳ぎ遊んだ話とか日本に居る頃からよくリューバ母さんからも聞いていた。現在、日本の相撲界で活躍している「黒海関」もスフミの出身 で、私がグルジアにいる間にぜひとも訪れて見たいと思っているところのひとつだ。

「遠来の客」は二人だそうだが駅前バズロバでいつものように山のように買い物をして4時ごろアパートに戻ってみると、もうお客様は到着していた。

 急いで台所に立ちヴィカ、リューバ母さん,私の三人でパーティの準備にとりかかったら何てこった! こんな日にかぎって間もなく断水してしまった。

 肉、魚、ザリガニなどを冷蔵庫におさめ、なす術もなくケーキとくだものをテーブルに並べ、今日のためにバチャーナ社長の工場から買ってあったワインを開けてすぐにパーティは始まった。

 二人とも学校の先生だそうでパスポートの重要な手続きのためにスフミからクタイシまで3時間、クタイシからトビリシまで3時間とバスを乗り継いでやって来たのだ。

 さぞかしお疲れであろうと思われたが、仕事を終えてやってきたマナーナやレナも加わり10人近い女ばかりのパーティは盛り上がってきた。
みんなスフミ出身、つまり同郷という事だ。しかし現在グルジアのパスポートを所持するものは、たとえ故郷であろうとスフミには立ち入りを許されない。

 たとえばレナはスフミに家があり母親がいるが、夫がグルジア人なので向こうで一緒に暮らしたくてもできない。何とも悲しいことだ。

 私だけ蚊帳の外であまり話にも入れずギターを取り出して唄い出だしたら、お腹ポッコリの先生が私のそばに来て「今日はとっても疲れたの。もっともっと歌って」と次から次と歌をせがんでじっくりと聞いていた。

 10時頃やっと水が出たので、せっかくだからとざりがにを茹でて出した。ワインとケーキとくだものとざりがにという何とも変な取り合わせになってしまったが、断水とあらばいた仕方ない。ワインはすでに9本も空いていた。

 いったいパーティはいつまで続くのかわからないので、12時すぎにはこっそりと自分のベッドに戻った。それからすぐにお腹ぽっこり先生も隣のベッドにき て寝始めたがあまりのいびきの凄まじさで眠れず彼女を覗き込んだら、わーすごい!すごい!タイトスカートのまま見事に大の字である。思わずリューバ母さん と顔を見合わせくすくす笑ってしまった。

 夜中の2時、ヴィカはもう少し年配の先生を誘ってバーニャ(温泉)に出かけ朝方帰って来た。相変わらずすごい体力だと感心する。翌朝、二人の先生はけっ こう早い起床でリューバ母さんが朝食の用意をしてたら、お腹ポッコリ先生がウイスキーのボトルをさして「これ何?飲んでもいいかしら」とコップにどくど くっと注いでいっきに飲み干した。

 ひえー!並みの男よりすごい!と驚いていたら、呆れたことに「初めて飲んだけど結構おいしいね」とまたまた自分で注いでお変わりした。もう私は言葉もなかった。

 そそくさと二人が帰った後、リューバ母さんに「どんな友達なんですか?」と聞いたら「一度も面識はないし友達と言うほどの関係でもない」とあっさりいった。では何故あれほどまでに歓待するのだろう????

 同郷のよしみということで友達の友達を伝ってきた人でさえ思いっきり歓迎するこのやり方は、いわゆるグルジアンホスピタリティーというやつなのだろう。 兄弟や親戚だったりしたらいったいどれほど歓迎されるのか・・・全く恐ろしい限りだ。

 そういえば私がトビリシにやって来た日、夜中の4時(朝と言うべきか?)に無事到着を祝って乾杯!いい加減酔っ払ったところに、朝方駆けつけたヴィカの 友人があってビックリしたのを思いだした。私が寝た後も二人は昼近くまで飲んでたらしい。とにかく飲みはじめるとみんな長~いからね。

 ここにホームステイしてから何度パーティがあったか知れないが、もう今では慣れたもので自分の体力にあわせてどの辺で逃げ出すかよくよく考えることにしている。でないと命が幾つあっても足りない。

 ニーナにメール mailto:nina2173@v7.com

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