2006年3月アーカイブ

2006年03月31日(金)
Nakano Associates 中野 有
  米国の外交・安全保障戦略の動向をイラク戦争の教訓と中東情勢、インド政策、対ロシアエネルギー安保の視点から考察したく思う。キャピタルヒルの上下院の 公聴会、ブルッキングス研究所、ヘリテージ財団、アメリカンエンタープライズ研究所、ウィルソンセンター、外交評議会等のシンポジウムやセミナーに出席し まとめたものである。

 日米関係は良好であるが、日本の周辺諸国との関係は悪化している。ブッシュ政権の2期目の政策は、単独行動を控え、同盟国や多国間協調を重視する方向に ある。日本が外交・安保の分野で国際貢献を行いやすくするのが米国の政策である。その意味でも日本の対中政策を考察する上で、米国の中東、インド、ロシア の政策を参考にする必要がある。

 【安全保障戦略】

 米国防総省と国務省がそれぞれ4年毎の国防計画見直しと安全保障戦略を発表した。両者に共通するのは、軍事と外交を包括した統合戦略を強調したこと、そ して国際テロ等の脅威は、米国一国の脅威でなく世界全体の脅威であるから米国の覇権主義のトーンを下げ、多国間主義への重要性を強調したことにある。

 その背景には、3年を経過したイラク戦争の反省、とりわけ米国民の財政負担への懐疑と米国が孤立主義に向かう懸念がある。それを回避する最善の方法とし て、多国間主義への回帰であるように考えられる。(伝統的には米国は孤立主義・モンロー主義である)。

 クリントン政権の中枢で構成されるブルッキングス研究所が開催した安全保障戦略の分析のシンポジウムにおいて、クリントン政権の安全保障戦略でも先制攻 撃を取り入れており、2002年のブッシュ政権が前面に出した先制攻撃との違いは、単独主義と多国間主義であったことから、2006年の安全保障戦略は、 イラク戦争の失敗の教訓を経てクリントン政権の戦略に回帰しただけだと皮肉を述べていた。

 【イラク戦争の教訓と中東情勢】

 ブッシュ大統領がイラク戦争を楽観論を用い説明してもブッシュ批判に歯止めがかからない状況にある。オルブライト元国務省長官は、3月24日のファイナ ンシャルタイムズのコラムで、ブッシュ政権が世界の専制政治の政権の転覆を試みることはファンタジーに過ぎず、希望的な政策を主張するのでなく現実的に中 東で行われているポーカーに如何に勝利する戦略を練ることが重要であるかを述べていた。

 イラク、イラン、北朝鮮の「悪の枢軸」が核を含む大量破壊兵器を保有しているかどうかのポーカーフェイスにより冷徹な国際情勢が回転し、回転している。 フセイン大統領が大量破壊兵器をポーカーフェースを行った理由は、イスラエルの攻撃を警戒したからとの見方がある。

 イラクは1981年の夏にイスラエル空軍によるイラクの核疑惑施設の先制攻撃を受けている。10年後の湾岸戦争の多国籍軍の勝利はイスラエルの先制攻撃 に起因するとの見方もあり、実際、ブッシュ大統領の3年前のバクダッドへの先制攻撃は、イスラエルの成功例を考慮したと考えられている。イラン・イラク戦 争時のサダムフセインは、親米であった。にも拘らずイスラエルはイラクを攻撃したと考えると、現在のイランはホメイイニ師以上に反米であり反イスラエルで あり、加えて核問題で世界の反感を浴びている。イスラエルのイランへの先制攻撃の可能性はゼロではなく、それを回避するための外交が進められているとの考 えもある。

 米国が民主化を全面的に出しイラクで3回の選挙が実施された結果、イランに近く反米的な政権が誕生した。また、パレスチナでテロ組織であるハマスが選挙 で勝ち、レバノンではヒズボラ、エジプトのイスラムブラザーズ等のイスラム原理主義は、イランが資金源となっている。イスラム原理主義とテロ組織が石油価 格の上昇という恩恵を受けている状況下で、米国が唱える民主主義が実施されても結果は逆効果になるケースが連続している。

 イラク戦争が3年を経過し、内乱の様相が濃くなってきた。イランとイラクが結びつくことによりシーア派の勢力が増し、スンニ派が大勢を占めるアラブ諸国 の勢力図が変わりつつある。非常に大胆に中東をアラブとイスラエルの対立構造で洞察した場合、イラク戦争の混沌、イランの台頭等は、中東を分断するとの趣 旨では、イスラエルの戦略思考が生かされていると考えられないだろうか。

 【対インド政策】

 中国の富国強兵政策を建設的関与政策で封じ込めるために米・日・豪の3カ国の連携強化が確認された。中ロが接近する中、とりわけ米国がインドへの異常なロマンスを求める理由が見えてくる。
  1. インド市場。中国を抜き人口世界1となる。潜在的な経済発展の可能性は世界一。
  2. 世界最大の民主国家インドと世界で最もリッチで古い民主国家米国との調和。
  3. 中国への抑止力として活用、米印の協力は、中露印の関係に米国が優位。
  4. 英語圏であり科学技術のレベルが高い、米国のインド人は金持ちが多く、インドコミュニティーが米印の経済的深化を推進。
  5. 世界2番目のイスラム国家。ガンジーのノンバイオレンスをインドは貫いており、イスラム教の鏡でもある、国際テロや中東諸国との調整にインドは役に立つ。
  6. インドはNPTに入ってないが、NPTがスタートする以前から核の技術力があった。そこで例外が認められ、米国はインドに核技術を提供することになった。
 【対ロシアエネルギー戦略】

 米国は、ソビエト解体後のロシアと15年間良好な関係を維持してきた。とりわけ、9・11以降は、国際テロへの協力を通じ戦略的パートナーとして関係が更に緊密となった。

 しかし、プーチン政権の2期目からロシアの中央集権的なナショナリズムの高揚が多くの分野で問題を引き起こしつつある。現在のロシアはかつてのロシアで はない。ロシアは間違った方向に動いている。米国は、特定分野に限定した明確な対ロシア戦略を描く必要がある。

 ロシアが強くなった背景

 経済 7%の経済成長、石油輸出は、5年間で50%の上昇、鉱物資源輸出は2年間で 60%の上昇、天然ガスの輸出は世界1、石油の輸出は世界第2、エネルギー輸出を武器に経済成長を達成、90年代全体のロシアへの直接投資が200億ドル だったのが、昨年1年間で160億ドル。昨年のロシアの株式市場は世界1-2の成長を記録した。中産階級の生活水準の伸びが著しい。

 政治 ソビエト崩壊後のショック療法をはじめとする米国の自由民主化、市場経済導入に 対し、ロシア経済の安定と発展に伴い、外国からの干渉に対する修正が急速に起きている。プーチン大統領の経済政策の成功への評価が高く、ロシアが推進する 中央集権的な権威構造の確立を通じた強いロシアを望む層が強い。

 ロシアの歴史を観れば権力集中型で発展してきた社会であり、米国の民主主義、市場化を通じた政治、経済への介入は、ポスト冷戦の短期間に過ぎず、その修正が発生することは当然の動きだとの見方も可能である。

 外交・安全保障 資源外交や世界的なエネルギーの安全保障の観点から、OPECに準ずるロシア主導のエネルギーカルテルを構築。
 セント・ピーターズブルクで開催されるG8サミットの議長国としてエネルギー安保を優位に進める。
 エネルギー輸出を国家戦略の位置付けにあり、ロシアのエネルギー関連の企業は市場メカニズムでなく政府主導でコントロールされている。
 エネルギー価格が上昇することにより利益につながるロシア外交を行っている。
 中央アジアにおける利益は中国と結びつき、米国との摩擦が懸念される。
 中ロの軍事的協力、ロシアから中国への武器輸出、ハマスへの支援、イランの核問題、北など中東への介入は、米国の戦略と隔たりがある。
 北東アジアにおける地政学的構成が、米中中心の均衡型からロシアの経済・政治的な安定からロシアのエネルギー外交による影響力の強化で、中ロの強化が増している。

 米ロの共通利益の合致点

 ・対テロ戦略
 ・大量破壊兵器
 ・核非拡散
 ・環境分野の協力 72年のニクソン政権、94年のクリントン政権の
  時に話し合われた環境分野の協力を確認
 ・米ロの不必要な競合を避ける
 ・ロシアのWTOの加盟などロシアの多国間協調を支援
 ・エネルギーの効率化、中東依存を避ける

 具体的に米国は何をすべきか

  1. ロシアのイランへの核支援、IAEA、国連等のイランへの経済制裁を通じたロシアの外交、パレスチナ問題等をリトマス試験紙にかける。米国の利益に適わぬ場合は、ロシアへの封じ込めを考慮する。
  2. ロシアは民主化の動きに逆行しており、G8としてのロシアを疑問視し、G7はロシアの民主化、ヨーロッパの分断を引き起こすロシアの周辺諸国へのエネルギー外交を通じた戦略を封じ込める必要がある。ロシア民主化への圧力が必要。
  3. 石油が需給のバランスで機能するような市場経済の健全化に向けたエネルギー戦略をロシアに示す。エネルギーの供給の中東偏重から分散化させる意味でロシアのエネルギー戦略と利益が合致する。ロシアに埋蔵されている天然ガスの効率化により地球環境問題の解決につながる。
  4. ロシアのナショナリズムが強くなる情勢において、ロシアの利益につながるWTO加盟など、多国間のフレームワークの中にロシアを導く戦略を練る必要がある。
  5. 中国との関係においてもロシア、インドと協調する必要があり、不必要な競合を避けながらも、米ロの共通利益における集中的な戦略的な行動をエンルギー安保の中から生み出す。

     中野さんにメール nakanoassociate@yahoo.co.jp
2006年03月23日(木)
ギターボーカリスト 兵頭ニーナ
 トビリシに行ったら1年ぐらい居るかも知れない、もしかして運転する機会もあるかも知れない、と思ってわざわざ国際運転免許証も用意して来たけれど残念ながら今のところ一度も運転していない。

 オートマチックギアーじゃないとか右ハンドルから左ハンドルになって慣れてないとか理由は色々あるが、何よりトビリシを走る車の運転があまりに荒いのが一番怖い。それに加えて道路の整備がかなり悪いというのもある。

 ブッシュ大統領のトビリシ訪問に合わせて空港から市内への道路や主要道路はかなりきれいになったけれど、全市に行き渡るにはまだまだ膨大な時間がかかりそうだ。

 運転する人は道路の穴ぽこを避ける為に右往左往して、場合によっては中央線も越えざるを得ないのも度々だ。というか広い道路の中央線そのものがなかなか 見づらいし、変更車線もそんなのあったっけ?と記憶にもない。見たところ片側三車線ぐらいかと思ってたらニ車線だったり四車線が三車線であったりもする。

 それから狭いからとかいった理由に限らず市内はやたらに一方通行が多く道を知らない運転手は堂堂巡りをする事になる。知っていても 時に行き過ぎたりす ると大胆にも50m~100mぐらいバックして遠回りを避けたりする。これも乗ってるほうはドキドキしてしまう。

 市内中心の一部には古い石畳の六車線一方通行というのもあってラッシュアワーには一方に向かってどどどーっと凄まじい走りになる。

 また場所によってはみんな平然と進入禁止の標識を無視してどんどん入って行くし、正しく走ってる側も殆ど何も言わず道を譲ったりしてる。みんな同じことをしてるからなのだろう。

 よくぶつからないものだと感心するが、実は事故のニュースは多いのかも知れない。(グルジア語がわからないだけ・・・・・)

 それから大抵は工事のせいだけど予告無し、表示なしに走り方が変更されるのもよくある。

 いつだったかアパート前の一方通行の道路を渡ろうとしていつものように右だけ見て「よし!」と足を踏み出したとたん、左から走ってきた車に危うく轢かれそうになり心臓が止まるかと思うほど驚いた。

 なんで?いったいどうしたの?私が悪いの?と考えるが未だによくわからない。多分工事か何かあったのだろう。

 信号前の停止線も殆ど無いから青で歩行者が渡ろうとしても車は好きなだけ前に前にと来るので、歩く側が一台一台に気を配らないといけない。時にはブッと かクラクションで脅かされてしまう。「こっちが青だよ!」とどなってやりたい。見るところ青は進め、黄色はできれば進め、赤はとりあえず止まれ、と言った 具合で横の信号の黄色をみながらどんどん前に進んで行くので危ないことこの上ない。

 さてこれでは歩行者の権利はいったいどうなるのか?とお思いでしょうがまあこれもびっくり!いつでもどこでもかまわず横断するのです。

 細い通りなら私だってやるけど、車の往来の激しい広い道路でも全く気にせず、まず真中まで何とか行き着きそれからまた車を見ながらあとの半分を渡るって 訳。一応メイン通りには適度な感覚で地下道があるんですけどね。中央で立ってる両傍を車がびゅんびゅん行くのはなかなかスリル満点・・・というかやっぱり かなり危険です。

 トビリシ中、人と車がとても多くてこんな事は日常茶飯事だけど、初めて見た時はすっかり仰天していた私も今では同じ事をしているから困ったものです。そ れで運転側になると大道路であろうとどこであろうと常に歩行者がいると考えながら走らなければ一日に何人殺すことになるか・・・。考えるだに恐ろしい。

 そんなこんなでまあ、ここでの運転はあきらめることにした。

 ところで駐車のことですが道路のいたる所、混みそうな場所にはオレンジ色のたれをかけたパーキングマンがいて車の出し入れのヘルプをしてくれる。出る時 に20テトリ(13円ぐらい)払えばいいだけで安くて安全でとても助かる。そうでない場所でも道の両側びっしりに車を止めたり、歩道にすっかりあがったり 中庭に入ったり、私の知る限り走るとき同様とても自由にしてるように見える。チャウチャワゼ通りやルスタヴェリ通りの一部は歩道が二車線分ぐらいあるので 車が止まっていてもあまり気にならないと言うのものもなかなかうれしいとは思いませんか?

 ニーナにメール mailto:nina2173@v7.com
2006年03月22日(水)
萬晩報通信員 成田 好三
 ある競技が、国際的にメジャーな競技であると認知されるためには、ひとつの絶対的条件があります。その競技の発祥国であり本家を任じる強豪国が、大きな国際大会で他国に敗れることです。

 サッカーやラグビーで、発祥国である英国がいつまでたっても圧倒的な強豪国であり続け、他国がどうしても国際大会で勝てないとしたらどうなったでしょう か。どうしても勝てないとしたら、本家以外の国ではその競技に対するモチベーションが高まったでしょうか。何とかすれば勝てると考えるからこそ、人間は努 力と訓練を続け、創意工夫をするものです。

 努力と訓練や創意工夫が無駄なことだと分かれば、サッカーの藩図が欧州から南米に広がり、アジアやアフリカまで拡大することはなかったでしょう。ラグ ビーでもフランスや南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランドといった、本家を脅かす強豪国は生まれなかったに違いありません。

 この絶対的条件は、日本も経験したことがあります。1964年の東京五輪で正式競技に採用された柔道です。柔道の発祥国であり、本家を任じた日本は全階 級制覇を当然の目標としていました。しかし、この当然の目標は無差別級で神永昭夫がアントン・ヘーシンク(オランダ)に敗れてため達成できませんでした。

 当時の日本人は、神永の敗北に大きなショックを受けました。敗れた神永にとっては、辛い日々が続いたことでしょう。しかしです。柔道がその後、五輪の正 式競技として存続し、欧州を中心として大きな人気と多くの競技人口を抱えていることを考えれば、東京五輪での神永の敗北こそ、その第一歩になったといえま す。

 仮に、東京五輪で日本が全階級を制覇し、欧州から柔道のヒーローが誕生しなかったとしたら、国際競技スポーツとしての柔道は、その後違った道を歩むことになったのではないでしょうか。

 国を代表するチームが集まり野球の世界一をを決めようという、第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)は、まずは成功しました。決勝で、日本がキューバを破って優勝したからではありません。

 その理由は、大会を主催し、各国代表を招待したMLB(メジャーリーグ・ベースボール)が当初思い描いたような、「MLBのMLBによるMLBのための」大会にはならなかったからです。

 米国代表に有利な大会日程や大会規定――米国は1次、2次リーグとも中南米の強豪国とは対戦しない――に加えて、米国の勝利に絡む試合で「誤審」を繰り 返したインチキ審判の加勢もあって、米国が優勝したとしたら、この大会はまさにまじめに取り上げる価値がないほどのしらけた大会になったでしょう。

 大会の意義、つまり本格的な野球の国際化は、米国の2次リーグ敗退という意外な結果によって達せられたといえます。

 MLBの当初の狙いはおそらくこうでした。2次リーグを突破した上で、準決勝で格下の日本か韓国を破り、決勝で中南米の強豪国・ドミニカか一時は米国政 府が入国を拒否した敵国・キューバをたたきのめし、野球の本家である米国の圧倒的強さを世界に示す。それに加えて、各国別に分かれたMLBの選手の優秀さ を見せつけることでした。

 ところがです。米国は早々と2次リーグで敗退してしまったあげく、決勝に残った国の選手には、MLBの選手は2人しかいなくなりました。キューバ代表はMLBの選手どころかプロ選手でもありません。MLBの選手は日本のイチローと大塚晶則だけになりました。

 MLBの当初の目論見はことごとく崩れたのです。しかし、結果はWBCにとって幸いしました。

 準決勝進出を決めた時点で、韓国政府は韓国代表選手の兵役免除を決定しました。五輪やサッカーW杯並みの扱いをしたのです。このことは、韓国政府がWBCを五輪、サッカーW杯と同格の大会と位置づけたことになります。

 日本では、準決勝の韓国戦の視聴率が平均で36パーセント台、瞬間では50パーセントを超えました。大会開幕当初の少し冷めた雰囲気は、韓国との3度にわたる真剣勝負、米国有利の「誤審」を繰り返すインチキ審判への嫌悪感によりヒートアップした結果です。
 
 野球人気の低迷する中で、36パーセント台の視聴率を記録したことには、大きな意味が隠されています。野球も、もはや国内のリーグ戦だけに封じ込められた「鎖国スポーツ」であり続けることはできないということです。

 日本のプロ野球界は、WBCに関しては極めて消極的な態度を取ってきました。大会参加もぎりぎりの段階で決断しました。しかし、国内リーグの野球人気が 低迷する中で、準決勝での韓国戦で記録した視聴率は、驚異的な数字です。プロ野球界はもはやこの数字から目をそらすことはできません。

 2012年のロンドン五輪で、野球が採用されなかったことを考えれば、プロ野球界もサッカーのような「A代表」を組織して国際大会に臨むというシステムを取り入れざるを得なくなったのです。

 野球の発展のためには、サッカーやバレーボールなど他の競技と同様に、国際大会に出場し、そこで勝つことが必要な時代になったのです。日本のプロ野球も、WBCかそれと同格の国際大会に出場しなければ、人気を保持できない時代になったということです。

 東アジアの2つの野球大国――WBCでの対戦成績を見れば、もはや韓国を格下だと見下すわけにはいきません――がWBCに本気に取り組んだことは、野球 の国際化にとつては極めて重要な意味をもつことになります。北米・中南米と東アジアの国々が対等の関係で 競争することによって、野球の将来が大きく変わる可能性がでてきます。

 第1回WBCは主催者であるMLBの思惑が崩れ、米国が2次リーグで敗退したことによって、野球の国際大会としての価値が大きく高まったといえるでしょう。(2006年3月21日記)

 成田さんにメールは mailto:narinari_yoshi@ybb.ne.jp
 スポーツコラム・オフサイド http://blogs.yahoo.co.jp/columnoffside

2006年03月21日(火)
萬晩報主宰 伴 武澄
  8年前の1998年3月に「生きていたSGマークという亡霊」というコラムを書いたことがある。PL法(製造物責任法)が生まれて3年も経っているのにま だ通産省認定のSGマーク製品が存在しているだけでなく、対象商品を増やしているのはけしからんという内容のコラムだった。「PL法の施行により、消費者 は製品事故に対して直接メーカーを訴えられるようになり、政府の庇護はもはや必要ない」と喝破したつもりだった。

 中古家電製品が4月から流通できなくなるという「PSE法」の導入騒動でそのコラムを思い出し、PSE法もまた経産省の策謀ではないかと考えた。

 SGマークはsafty goodsの略。通産大臣の承認事項だったものが、2000年からは検査機関である財団法人製品安全協会の独自の安全基準となっている。この点ではいくら か進歩があったのだろうが、PSE騒動では、安全を国が守るという旧来の発想に逆行したのではないかと考え始めている。

 安心、安全という概念は21世紀の政治の新たなキーワードとなった。大地震への不安や大津波といった自然災害だけでなく、JR西日本の列車事故、マン ションの耐震基準問題など身近に国民の安心、安全を揺るがす事件事故が相次いでいる。金融機関の破たんもまた国民生活を不安にさせる原因ともなっていた。

 人間が安心、安全で暮らせる環境は当然ながら国民が望むものではあるが、国や自治体はどこまで市民の安心、安全に対して責任があるのか。どこまでコストをかけたらいいのかという点では国民的合意があるとは思えない。

 住んでいるマンションに対して「震度5の地震で崩壊の危険がある」といわれたら誰だってぞっとする。民間が建てるマンションやビルに対してある程度の耐 震基準を設けるのは当然と思うかもしれない。高額商品であるだけに一度建てたらなかなか建て直しなどできるものではないからなおさらである。

 しかし、小泉内閣が目指すものは自己責任だったのではないか。何から何まで国や自治体に依存する高コスト社会を改善しようとするのが自己責任だったはず だ。都市計画や防災といった公的なものならいざしらず、個々の家電製品の安全性にまでいちいち国家の責任は問われないのではないかと思う。

 電気用品安全法(PSE法)などというものが2001年4月1日に施行されていたことは筆者も知らなかった。「漏電・火災・感電などの事故防止と 粗悪品を排除してきちんとした電源部品で運用管理する」という目的で制定された。いわば家電製品の「車検」のようなものである。車検のように2年ごとの検査はないが、PSEマークのない家電製品は出荷できないのである。

 笑ってしまうのは、この法律が規制するのは「電源コード「ヒューズ」「ソケット」「スイッチ」「変圧器」「電熱器」の類が安全であるかどうかという点である。決して家電製品の品質保証ではないのである。

 考えれば考えるほどPSE法は時代錯誤の法律である。

 メディア業界にいてこの法律の施行を覚えていないのは何とも情けない話であるが、家電業界がこの法律の導入にどれほど抵抗したのだろうか。これも記憶に ない。家電製品が火を噴くなど不安を持つ消費者がいま時どれほどあろうか。日本の家電製品への信頼性は世界一であることは誰もが求めるところであろう。そ の日本の家電製品を官僚が「検査」して「合格」のシールを貼るなどということはほとんどパロディーである。

 仮にどうしても「検査」したいというのであれば、経産省自らが検査すればいい。外郭団体に検査を委託するなら、SGマークのように「任意」の安全基準に するべきであろう。ちなみに車検は民間車検場もないことはないが、国交省が車検場を各県に設けている。

 PSE法の認定機関は経産省の外郭団体である財団法人電気安全環境研究所(JET)である。1997年にJETと改称した。元々は1963年に設立され た財団法人日本電気協会電気用品試験所としてスタートした。通産省工業技術院の電気試験所から安全試験の業務が移管された。電気用品取締法に基づく指定試 験機関だった。

 まだ日本の家電製品は安かろう悪かろうの時代を脱し切れていなかった。ということで同電気用品試験所の試験に合格した製品に〒マークが表示された。その後、この〒マークは政府の許可が必要な「甲種 」と企業が安全性を自己確認すればいい「乙種 」に分けられ、1995年にはほとんどの家電製品が「乙種」になり、乙種マークも廃止となったという経緯があった。(代わりにSマークが登場したが任意の制度)

 PSE法がいかがわしいのは、この法律が導入される際の説明として「さまざまな経緯をたどりながら、平成13年4月の法改正で、規制の哲学も事前規制か ら事後規制に変わり、法律の名称も「電気用品取締法」から「電気用品安全法」に改称された」としながら、再び「甲種」と「乙種」マークの義務づけを復活さ せたことだ。甲種は◇の中にPSE,乙種は○の中にPSFの文字が表示されている。

 現在、PSE法は「4月から中古家電製品が店舗販売できなくなる」と問題が矮小化されている。そもそも過去の日本の家電製品には「電気用品取締法」に基 づいた「甲種」「乙種」マークが付いているのである。家にある家電製品の裏をご覧になるといい。乙種であっても一応、国家の認証を経ているのである。その 過去の認証を否定するような法律はどう考えてもおかしい。

 マンションやビルの建築基準は年を経るごとにハードルが高くなっているが、古い基準のマンションやビルの販売を禁止する法律はない。いかがわしいPSE法は即刻廃止すべきだ。
2006年03月13日(月)
Nakano Associates 中野 有
 人生は短いが、書籍は多い。良書に巡り会うのは幸運である。そして、感動した本の著者から直接お話を聞くことにより人生が豊かになる。

 国務省出身のヤングさんから、1945年の春と夏の日米の外交が描かれた『敗戦―一九四五年春と夏』(光人社、2005年9月)という本を薦められた。 著者は、海軍大尉として敗戦の現場を体験された左近允尚敏さんである。

 この本の問いかけは、「日本はなぜ負けるべくして負けた戦争を始めなければならなかったのか」である。とりわけ、原爆投下の標的の選定の章が興味深い。 左近允さんは、現場体験と時を経て公開された情報を基に歴史の証人として、「敗戦」の中に歴史の事実を語られている。

 貴重な情報や見識をこの本から学ぶことができた。冒頭に述べたように良書に出会えば、著者に会いたくなるものだ。ヤングさんを通じ、左近允さんとお会いすることになった。

 1月の大雪の日に逗子でお目にかかった左近允さんは、80歳とは思えないほどダンヒルのパイプが様になる粋な老紳士であった。喫茶店で数時間過ごしただ けでは、話が尽きず、横須賀に移動し、ディナーを交え、戦争・敗戦の日本の苦悩の空気を学ばさせてもらった。時が経つのを忘れる程、戦争の内幕の話を聞く のに熱中した。駆逐艦の航海長として二度の沈没を経験され、米軍機の激しい攻撃を受けられ、海に投げ出された話など・・・死の一歩前の心情には、紙面では 味わえぬ高揚と臨場感があった。

 戦闘の現場にいる時に与えられた仕事があればそれほど恐怖を感じない。一発で死ぬことはそれほど怖くなかったが怪我の方が怖かった。戦争に行くときに決 して自分は死なないと感じる。これらは左近允さから聞いた話であるが、自分が戦争に直面したときもこのような感覚に陥るのだなあと考えさせられた。

 10年もすれば戦争を経験された人の年齢が90歳を超える。戦争の虚しさという免疫を伝えるためにも、日本を守ってくれた先輩から戦争の現実を教えてもらうことが如何に大切であるか。

 原爆投下の標的は、広島、長崎、小倉、新潟、京都であったとの知識はあったが、『敗戦』を読むまでは京都が原爆投下の標的の第一にあがっていたのを知ら なかった。そして、当時、陸軍長官であったヘンリー・スティムソンが京都への投下をくい止めたことも知らなかった。戦前、スティムソンは京都に滞在された ことがあるらしい。京都でどんな経験をされたのであろうか。これらの事実は日本人として知らなければいけないことだと思う。

 以下、左近允さんの「敗戦」の第8章―マンハッタンプロジェクトの標的の選定(ページ163-166)の一部を引用する。 
空 軍士官3人と科学者5人から成る標的委員会は、1945年5月2日にワシントンで会合し、日本の国民と政府に最大の奇襲的効果を与えて継戦意欲を失わせる ような標的であること、重要な司令部、大規模な部隊、あるいは軍事産業のセンターが存在する軍事的な標的であること、原爆を搭載したB-29が到達できる こと、目視による投下が必要なこと、予想される爆発力と被害の程度、一回の攻撃に三目標が必要なこと、などを前提として検討し、四都市を選定した。小倉、 広島、新潟、京都である。

 標的委員会は5月28日の第三会合で三標的をあげた。京都、長崎、新潟の順であり、照準点は市街地の中心地となった。しかしこのリストを見たスティムソ ンは、京都は歴史的な都市であり、日本人の宗教の中心地であると強く反対した。

 彼が三日後の臨時委員会でも、グローブスはなお強く京都を主張、アーノルドも支持したので、スティムソンは新旧の首都を標的リストから外すようトルーマ ンに要請し了解を得た。それでもアーノルドとグローブスはまだ京都を断念しなかったのである。

 アーノルドはさらに京都を押し、どうしてもだめなら長崎をと言った。スティムソンはもう一度トルーマンと会い、ようやく京都を外すことが最終的に決まって、広島、小倉、新潟、長崎となった。
 歴史には「もし」はないが、この時期にスティムソンが陸軍長官でなければ、日本に最も強烈な打撃を与えるためにも京都の市街地に原爆投下という可能性は 大いにあった。スティムソンは、7人の大統領に仕え、フーバー政権で国務長官、ルーズベルト、トルーマン政権で陸軍大臣を歴任し、原爆投下から5年後に 83歳で亡くなっている。

 京都を救ったスティムソンという人物がいなかったら日本の文化の核が抹殺されたかもしれないのである。広島、長崎の犠牲者、遺族の方に申し訳ないが京都 を救ったスティムソンに恩返しをすべきである。京都、日本はもっとスティムソンを知るべきである。そして、日本、いや京都は、スティムソンの家族や縁のあ る人を京都に招待し、スティムソンの功績を再考すべきであろう。

 左近允さんとの会話を通じ、萬晩報の主筆の伴さんの父上、伴正一さんが左近允さんの海軍の同期だと知り、外務省の伴さんの勤務地サンフランシスコまで行 かれるほどの友人であることを聞いた。萬晩報のコラムが縁で国務省のヤングさんが薦められた良書を通じ著者の左近允さんとお会いした。京都を救ったスティ ムソンを知り、偶然にも外交・安保のシンクタンクであるスティムソンセンターが、ワシントンの家から5分の所にあることに気がついた。萬晩報の魅力は考え やビジョンをインターネットを通じ一瞬で何万人にお伝えすることのみならず、不思議な縁でサムシングが連鎖しているように思われてならない。

 中野さんにメール nakanoassociate@yahoo.co.jp
2006年03月05日(日)
萬晩報主宰 伴 武澄
 紀州・賀田の宿の二階から久々に荘厳な朝焼けを見た。早起きはするものだ。刻々と変化する東の空に季節感はないが、やはり春の息吹を感じさせるものがあった。というより、紀伊半島の南端はそもそも暖かいのだ。

 ■神武東征の上陸地

 朝食後に隣の漁港から遊漁船に乗って湾の先にある楯ケ崎を海から眺めた。神武天皇が大和の地に向かう時、上陸したとされる地点でもある。高いところでは 160メートルにも及ぶ柱状節理の大絶壁が延々壁として続き、風景は人を拒絶する感がある。

 九州から瀬戸内海を通って、紀伊半島に上陸するにはもっともっと簡単な海浜がありそうだ。にもかかわらずこの地が上陸地とされたのは、多くの困難を乗り 越えて大和入りしたという艱難辛苦の物語が必要だったからに違いない。それにしても地の果てである。

 ■飛鳥神社

 賀田は尾鷲のさらに20キロほど先にある小さな漁港だ。湾は深く入り込んでいる。飛鳥をアスカを読ませる古い神社がある。幹の回りが11・5メートルもある樹齢1000年以上という大きなクスノキが自生しているから飛鳥神社はそれ以上の古さがあるはずだ。

 神武天皇の上陸地点の近くになぜ飛鳥という地名があるのか、前の晩、議論になった。ひょっとしたら大和の飛鳥の由来は・・・などということになったが、 後でインターネットで調べてみたら「三重ところどころ」というサイトで飛鳥神社の由来について説明があった。

「中世以来、和歌山県新宮市熊野地にある阿須賀神社の神領地で、江戸時代は紀州(和歌山)徳川家の支配をうけ御蔵領(本藩領)といわれ、北山組に属してい ました。いつごろから飛鳥の地名になったかは不明ですが、飛鳥神社からとったものと考えられます」

 それにしても、飛鳥神社の近くに「飛鳥」という地名があって、「明治43年の神社合祀令までは、飛鳥に三つの飛鳥神社(大又、小阪、神山(こうのやま))があった」というのだからまだなぞが解決されたわけではない。

 ちなみに大和の現在の「明日香村」は昭和の大合併まで飛鳥村と表記した。アスカという発音は外来語だそうだが、中国の秦の時代、不老不死の霊薬を求めた 徐福が上陸したとされる波田須(はだす)は楯ケ崎から西の半島をはさんだところにある。

 ■発想の逆転

 話は変わるが、紀勢本線の賀田駅ができたのは昭和34年だった。それまで賀田は文字通り、陸の孤島で唯一の交通機関は船だった。そう考えると身もふたも ない。汽車も自動車もなかった時代、船そのものが物流の中心だったから、賀田は海の幹線の中継基地だったと考える方が正しいのだろう。

 発想を逆転させると見える風景が変わるかもしれない。戦後の日本は海を忘れてしまった。生活や交通の手段だった河川や湖の役割を忘れてしまっただけなのである。

 昭和30年代まで、名古屋空港から鳥羽湾を経由して大阪の八尾空港に跳ぶ航空路があったという話を聞いたことがある。鳥羽に空港などはなかった。飛行艇が飛んでいたのである。あーそうだったのかと合点した。

 若い層には飛行艇といってもピンと来ないかもしれないが、いまでも自衛隊などで多く活躍している。いまでも新明和工業という会社が水陸飛行艇を製造して いる。主に洋上救難用であるが、同社は、国内初の「大型輸送機」として輸出を視野に営業活動を行っているそうだ。

 多大な空港建設費用を考えれば、日本の地域間航空輸送手段として飛行艇を復活できないか。飛行場がない小笠原に高速艇の就航計画が断念されたという ニュースを昨年目にしたが、そもそも緊急時には飛行艇が飛んでいるのだ。週に1便でも飛ばすことができないのか。1万4000トンの客船より飛行艇の方が 運行コストはずっと安いと思うのだが。

 紀伊半島のひなびた漁村での思いは、神武天皇から飛行艇に飛躍してしまった。
2006年03月04日(土)
ギターボーカリスト 兵頭ニーナ
 先日お会いした豆腐作りをするギーヴィーと朝10時アパートの前で待ち合わせた。彼の工場で一緒に本格的な豆腐を作ってみるという事であった。実のところ私は全く経験が無くレシピのメモだけが頼りだ。

 マルシュートゥカ(乗合マイクロバス)でサブロタロー区マルジャーニで降りた。店にはもうマルハーズがいていつでも始められるよう準備が整い私にもエプ ロンを貸してくれた。中国製のしっかりした機械を前に日本語とグルジア語のレシピを見ながら豆腐作りが始まったがすぐにつまづいた。

 一晩つけてあった豆をミキサーにかけてつぶし・・・まではよかったのだけど目の前のレシピを無視して分量お構いなしに水をいれてしまったので沸騰後、塩化マグネシウムをいれても分離してしまったのだ。

 レシピの紙を見せて説明したらえいやっ!とばかりにもう一度火にかけ塩化マグネシウムを足した。でも失敗した。できればめんどうな過程をなるべくはぶいてはやく作りたいようである。

 あ~あ、私はがっかりしてキッチンを出て少し休むことにした。するとしばらくして1回目よりずっとましな固めの木綿豆腐を作ってきてどうだろうか?と聞 いてきた。味見をすると自然な甘味がありとてもおいしい。私が作った訳じゃないけどうれしくなった。こし布のきめが粗かったのでレシピ通りにもう少しきめ の細かい布で最初と最後に二回こしたらもっと素晴らしい豆腐ができるだろう。

 あとは日本の豆腐やさんで見かけたように「水を流しっぱなしにして良くさらす」とよくよく伝えた。すごいすごい!もうすぐトビリシで、できたての豆腐が 毎日食べられるかも知れない。油揚げや厚揚げもできたら料理のレパートリーもふえてグルジアの人に食べてもらうことができるだろう。

 彼らが豆腐用の機械で豆からチーズを作るきっかけになったのは、グルジア正教会にあった。敬虔な信者はその教えに従うと一年の半分ぐらいは肉魚、チーズ を食べないのだそうだ。そこでグルジア特有の塩気の強い硬いチーズ「ブリンザ」を豆から作ると結構需要があるのだ。

「国民のパン」と言っても過言ではないハチャプリ(チーズ入りパン)にこれを使っても言われなければ豆とは気がつかないだろう。「畑の肉」という健康食品 だからベジタリアンや減量中の人にもいいと思う。ただし豆チーズは塩気が強いので豆腐のほうがずっと健康的だ。

 トウフは日本語でどう書くのかと問われ「とうふ」「豆腐」の2種類を書いたら一生懸命練習して上手に「とうふ」と書いていた。

 ギーヴィーは若いときサハリンにいたそうでそこを去る時、北海道のどこかに寄港したと話してくれた。両親の反対が無かったらいまでもサハリンに住んでいただろうとなつかしそうに目を細めた。

 ニーナにメール mailto:nina2173@v7.com
2006年03月03日(金)
萬晩報主宰 伴 武澄
 三重県の青山高原の風力発電が8基増設され、すでにある24基と併せて32基、出力はほぼ倍増して3万4000キロワットとなった。風の強い北海道や津軽海峡を除くと国内最大クラスだということだ。日本もようやく風力発電が認知されてきたという感慨があった。

 しかし、世界はそのずっと先をもっともっと速いスピードで走っていることを知って驚いた。世界風力発電協議会(GWEC)は、2005年12月時点での世界の風力発電事情を発表している。
http://www.gwec.net/

 それによると、ドイツの風力発電能力はすでに1842万キロワット、スペイン1002キロワット、アメリカ914万キロワットである。日本は123万キ ロワット。かろうじて世界第9位を維持しているが、世界のトップレベルの10分の1以下でしかない。来年以降トップ10位以下に落ちることは間違いない。

 問題は新設のスピードである。昨年1年で新設された風力発電能力は大型原発10基分に相当する1176万キロワットである。アメリカは243万キロワッ トを新設、2位のドイツは180万、次いでスペイン176万、インド143万。日本はたった29万。その差をどんどん広げられている。

 原発1基はほぼ100万キロワットだから、ドイツは原発18基分の風力発電能力を持ち、ここ数年、年に2基ずつに相当するペースで能力を増やしているということだからすさまじい。

 GWECによると、EUは2010年までにに7800万キロワットに増やす計画で、2020年には1億8000万キロワットになるとの見通しを立ててい る。日本の原子力や火力を加えたずべての発電能力は2億キロワットであることからみて、EUの意欲は大変なものであると考えていい。

 アメリカも2010年に674万キロワット、2020年には1億キロワットの計画を持つという。日本は2010年で300万キロワットでしかない。

 日本だけ風が吹かないのだろうか。いなそうではない。ことあるごとに神風に祈ったのはわが日本だったのではないか。石油などエネルギー資源を持たない日本であるからこそ風力発電にもっともっと力をいれなければならない。

 世界的風力発電ブームで発電コストも随分と下がってきている。GWECの推計では1キロワット当たり約13万円でしかないのだ。原発を1300億円でつくれますか?

世界の風力発電能力(2005年末)

国名 発電能力
ドイツ 1842 万kw
スペイン 1002 万kw
アメリカ 914 万kw
インド 443 万kw
デンマーク 312 万kw
イタリア 171 万kw
イギリス 135 万kw
中国 126 万kw
日本 123 万kw
10 オランダ 121 万kw

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