2005年12月アーカイブ

2005年12月29日(木)
萬晩報主宰 伴 武澄
  永塚利一『久保田豊』(電気情報社、1966年)と日本経済新聞社『私の履歴書』の久保田豊を読んでいる。戦前、北部朝鮮を舞台にとてつもないスケールの 電源開発を行った人物である。戦後は日本工営という建設コンサルタント会社を設立し、日本の海外ODAのプロジェクトファインディング分野を切り開いた。

 当時の新興財閥である日本窒素の野口遵の資力をバックにしたとはいえ、昭和3年から同15年にかけて赴戦江など鴨緑江の3本の支流にダムを築き、流れと は逆の方向の日本海岸に水を落として73万キロワットという巨大な発電所を建設した。

 並行して鴨緑江の本流にも6個のダムを建設して400万キロワットの発電規模の電源開発計画を実施に移した。計画は完成の日を迎えることなく終戦となる が、鴨緑江の水豊ダムの70万キロワット発電所は完成し、いまも北朝鮮と中国東北地方に送電している。

 この計画の壮大さは昭和15年の日本国内の水力発電規模が280万キロワットであったことと比較しても理解できる。アメリカのルーズベルトがテネシー川 流域を開発した有名なTVA計画の発電規模はケンタッキーダムを含め9つのダムで110万キロワットであるから、水豊ダムは当時としては世界最大であっ た。70年を経た現在でも度肝を抜かれるような土木工事だった。発電機ひとつとってもすごかった。1機10万キロワットを7機並べた。10万キロワットは もちろん最大だった。東芝はこの発電機のために製造工場を新設するほど大掛かりなプロジェクトだったのだ。

 水力発電の建設には建設現場への鉄道や道路の敷設も必要だったし、山中であるからトンネルの掘削も必要となった。なによりも発電した電力を消費する産業 が不可欠だった。日本窒素の野口遵は興南の地に朝鮮窒素肥料会社を設立し、硫安のほかグリセリンやカセイソーダの製造を始め、その後、アルミニウム、マグ ネシウム、カーバイド、火薬その他あらゆる化学製品をつくる一大総合化学工場に発展した。

 TVAはアメリカという国家が威信をかけた事業だったのに対して、久保田の展開した事業は一個人の発想からスタート、民間の資金と技術で成し遂げたとい う点でも特筆すべきである。にもかかわらず、われわれは久保田の名前はおろか水豊ダムのことすら知らされていない。

 せっかく2冊の本を読んだので個人の備忘録として久保田が北部朝鮮でつくった水豊ダムの概要を記しておきたい。

 水豊ダム 鴨緑江の河口の新義州から80キロ地点。川幅900メートルに106.4 メートルの重力式コンクリートダム。湛水面積は琵琶湖のほぼ半分の345平方キロメートル。昭和12年着工、同18年すべての工事を完成。総工費5億円。 続いて義州と雲峰にそれぞれ20万、50万キロワット級の水力発電所建設に着手したが、完成を待たずに終戦となり、巨大なプロジェクトは半ばで中断され た。
2005年12月28日(水)
長野県南相木村診療所長 色平(いろひら)哲郎
来年8月に迫った長野県知事選挙を前に、「白バラ会」なる市民団体が候補者5人を公募し、絞り込みの選考に入ったという。

また、連合長野も、元市長など5人を選考委員にすえて候補者を選考する準備に入った。

いずれも反田中を鮮明にしている団体だ。

もっとも、田中知事が出馬するかどうか、決めていないうちに、手の内を見せるのは、不利だと思っているのだろうか、、、

反田中の自民党や、連合長野に乗っかっている民主党は、水面下では動いているようだが、未だその正体を見せていない。

田中県政が発足して5年半。様々な改革が国に先駆けて行われてきた。この改革は、自民党の武部幹事長や公明党の神崎代表も高く評価しているのだが、なぜか、長野県内ではそれが認められていない。

ひとつには、県議会で多数派を占める反田中勢力と中立を装いながら反田中のキャンペーンを張るマスメディアが、田中県政の目指している改革の理念と真実を長野県民の視線から外しているところにある。

とまれ、「反田中」を叫ぶ県議、市町村長を含めて、多くの長野県民が、田中の理想、理念は理解できるとしている。
にも関わらず、単にその手法が理解できないこと、或いは、自分の意に沿わないことをもって反田中になっている。

つまり、田中嫌いなのだ。
田中のやることが我慢できないのだ。
田中の成果を認めたくないのだ。
そして、数を頼んで田中のやることを阻止する。
まるで、駄々っ子と同じだ。
そこには、田中に歯向かう姿はあるが、県民には向いていない。
不幸なのは、置き去りにされている県民だ。

田中は、「地方から国を変える」ことを旗印にしている。
そして、中央の政党幹部もが評価する改革をしてきた。
しかし、県議や市町村長を含めて反田中の県民は、「国に先駆けて改革を進めてはいけない」と言っているようだ。
国が改革の方向を示してからでもいい、とも言っているようだ。
逆に言えば、前県政時代のような上意下達の県政を望んでいるようだ。
或いは、自分たちの思い通りの県政を進める知事を望んでいるようだ。
つまり、手綱が御しやすい知事を望んでいるようだ。

しかし、多くの長野県民は、5年半前そうした県政を批判し、田中を選出したのではないか。
田中に前県政の垢を落とすとともに長野県の改革を託したのではないか。

田中が出馬するかどうかは分からない。しかし、改革は止まらない、、、また、いま、地方からの改革を頓挫させてはいけないのだ。

とすれば、「白バラ会」であろうが、連合長野であろうが、自民党であろうが、民主党であろうが、田中を超える者を長野県の知事候補者にしなければいけなくなるはずなのだが、、、

反田中の人たちは、御しやすい知事像と田中康夫以上に改革を進める知事とでは相い矛盾する、という自己撞着に陥っていることに気が付いているのだろうか。

(05年12月27日、一長野県民より発信いたします 転送転載歓迎 ご感想、ご指摘をお寄せくださいますよう)

 色平さんにメール mailto:DZR06160@nifty.ne.jp
2005年12月26日(月)
Nakano Associates 中野 有
 サダム・フセインの将来はどうなるのか。

 イラクの選挙がスムーズに終わり、ワシントンでいくつかのイラク情勢に関するシンポジウムが開催された。Center for American Progress主催のシンポジウムには、イラクで選挙をモニターした専門家が発表を行った。タイムリーなテーマだけに会場は活気に満ちライブのテレビカメラも何台も入っていた。

http://www.americanprogress.org/site/apps/nl/
content3.asp?c=biJRJ8OVF&b=593305&ct=1732469


 戦争中のアメリカでこんな質問をしたら反感をくらうことは分かっていたがどうしても質問したくなった。それはサダム・フセインの将来についてである。フ セインという人物を擁護するつもりは毛頭ない。でも、フセインがイラク法廷で語る様子は、様になっている。と思うのは私だけであろうか。

 80年初頭、イラン・イラク戦争のバグダッドで駐在した。社会に出たばかりで、世間・世界が分からぬ時期であったが、テレビで毎日のようにフセインの雄 姿をみた。当時のバグダッドは戦争中とは思えないほど、チグリス川のほとりには楽しそうなアベックの姿も見られレストランでも自由にお酒も飲むことができ た。

 そのイラクの自由は、アメリカの協力があって成り立っていたと思う。イラン革命(1979)が起こりホメイニ師の対立軸としてアメリカとフセインの利益 は合致した。アメリカはフセインを利用し、フセインはアメリカを利用した。イラン・イラク戦争中は、イランのホメイニが悪でフセインは善のイメージがあっ た。

 イラン・イラク戦争(1980-1988)がどちらが勝利することなく終わった。アメリカの中東政策にも変化が見られ、フセインの独裁色が強くなりイラ クのクウェート侵攻(1990)と湾岸戦争の多国籍軍の勝利(1991)、1998年の英米を中心に「砂漠の狐」作戦によりイラクへの空爆、そして国連を 中心にイラクへの経済制裁が強化された。

 とりわけ、9.11同時多発テロ後、フセインはアメリカの標的になり千日前にアメリカの先制攻撃でイラク戦争が始まった。開戦後しばらくしてブッシュ大 統領の勝利宣言がなされた。しかし、開戦時にフセインが予告したようにイラクの抵抗勢力がアメリカに多大な被害を及ぼした。

 ブッシュ大統領は日本の戦後の統治・復興の成功例とイラクの今後を結びつけたスピーチを頻繁に行う。アメリカのデモクラシーは、軍事政権から国民を解放し平和を構築するとの考えである。

 アメリカの主張は正しくもあるが、その前提条件を見落としてはいけないと考えられる。例えば、日本が無条件降伏を受け入れたのは、ヒロシマ・ナガサキへ の原爆の投下、ソビエトの参戦のみならず、アメリカが天皇制の維持を認めたからだと思う。日本国憲法の1条から8条には天皇のことが記されていることか ら、アメリカが如何に日本の国体を守るという当時の日本の主導者の意思を反映させたかが伝わってくる。

 イラクのスンニ派にとってフセインは、日本の敗戦時の天皇の位置づけまでいかなくともヒーローである。少なくともシーア派との対立においてスンニ派の主 流はそのように考えていると思う。従って、アメリカという世界の軍事覇権国家が本気で戦ってもイラクの抵抗勢力が衰えない(なかった)のはスンニ派を中心 としたイラクの国体、すなわちフセインへの対応の不手際であるように考えられる。

 前置きが長くなったが、シンポジウムでは以下の質問を行った。

 フセインの将来について。

 スンニ派の抵抗勢力を緩和させる方策として、4つが考えられないか。
  1. ブッシュ大統領が認めたようにアメリカはIntelligent Failureによりイラクへの先制攻撃を行った。フセインは大量破壊兵器を保持していなかった。
  2. イラン・イラク戦争では、アメリカはフセインを支援し、フセインはそれを実践した。
  3. イ ラク戦の開戦時、アメリカはシーア派、スンニ派、クルド、無宗教が統合された民主国家の構築を望んだ。しかし、イランで強硬なシーア派の大統領が誕生し た。イラクの主流であるシーア派とイランのシーア派が結びつくことにより不安定要因が増す。フセインのバース党は、イラクの少数派であるスンニ派が主流で もイラクをうまくまとめたという視点から、皮肉にもアメリカが構築しようとしたイラクの統合に近いように考えられないか。
  4. 日本が無条件降伏を認めた背景には、天皇制の維持があった。フセインを政治活動ができぬ条件を前提に、スンニ派の暴動勢力を緩和させることを目的にフセインを利用できないか。
 この質問についての専門家の答えはシンプルであった。あなたの考えは間違っている。コメントできないというものであった。

 しかし、シンポジウム終了後、横に座っていた女性が、Hiroshima Nagasaki 60と書かれた赤のゴムのブレスレットをくれた。そして、アメリカ人の老紳士からあなたはユニークな考えは考慮に値すると声をかけられた。

 サダム・フセインという人物は、良かれ悪かれ歴史の残ると思う。

 中野さんにメールは mailto:tomokontomoko@msn.com
2005年12月23日(金)
萬晩報主宰 伴 武澄
 来年1月15日に国際平和協会主催で「アジアの意思ぱーと2」として「八田與一と久保田豊-先人に学ぶ」というシンポジウムを開くことになった。スピーカーとして金沢市議の山野之義さんとアメリカン大学フェローの中野有さんを予定している。

 八田與一は台南の嘉南に烏山頭ダムを建設し不毛の地とされた嘉南平野を広大な穀倉地帯に変えた人物。命日の5月8日にはいまも故人を偲んで地元民による 墓前祭が行われている。李登輝前総統は日本精神の代表的人物として言及しており、台湾の教科書にも偉人として紹介されている。山野さんは八田與一が生まれ 育った金沢で精力的に顕彰活動を続けている。

 久保田豊は朝鮮と満州の境を流れる鴨緑江に当時としては世界最大規模の水豊ダムを建設。70万コロワットという巨大な水力発電はいまもなお中朝両国に送 電され、産業インフラとして不可欠な設備となっている。中野さんはその久保田豊が戦後つくった日本工営のシンクタンクに所属し、スケールの大きな発想力に 感動し、北東アジア開発のグランドデザインでたびたび紹介している。

 調べていくと二人には共通の人生の師がいたことが分かった。土佐佐川に生まれた広井勇。札幌農学校の二期生で、興味深いことにその同期に内村鑑三と新渡戸稲造がいた。農学校出身のクリスチャン三羽がらすである。

 新渡戸は太平洋の架け橋たらんと大志を抱き、英語で『武士道』を書いた。後に台湾総督府民政部で台湾経済の振興に心を砕き、国際連盟の事務局次長を務め た。内村は萬朝報主筆の一人として日露戦争で反戦の論陣を張り、自ら発行した「東京独立雑誌」を通じて明治後期の多くの進歩的若者の思想的支柱となった。 広井は明治日本の土木界の礎として欧米からの近代土木の導入に当たり、八田與一や久保田豊ら有能な土木技師を世に送り込んだ。

 いまの日本で土木といえば、無駄な公共事業や行政と業者の癒着といったマイナスのイメージがあるが、本来の土木はそうではない。経世済民の一環として国土を災害から守ったり、灌漑や発電によって農業や産業の振興をもたらすはずのものだった。

 アジアの土木技術者として生き、いまもなお多くの人々に恵をもたらしている二人の先人を通してアジアの共感について考えたいと思います。関心のある読者は下記でお申し込み下さい。まだ少々参加枠があります。

 アジアの意思ぱーと2 http://www.jaip.org/thinkasia0601.htm
2005年12月21日(水)
シリコンバレー在住 八木 博
 シリコンバレーに来てから、9年目になった。前回、萬晩報に書かせてもらったのが2000年であるから、ずいぶんと空いてしまった。浦島太郎の、竜宮城の話としてお読みいただければと思う。

 私がシリコンバレーに住み始めたのは、1997年、ちょうどSmart Valley公社がシリコンバレー活性化のプロジェクトを成功裏に終わらせようとした頃からである。1998-2001のはじめまでは、丸の内に逆単身赴 任をしていたので、シリコンバレーのバブルの実態そのものはあまり見ていない。時折、シリコンバレーに戻ると、道路が混んでいるのにイライラしたことぐら いが私のバブルの実感である。

 2000年のバブルを過ぎて、2003年一杯でバブル清算を行って、再び本来の、起業家たちが動き始めるタイミングとなった。私も2カ月ほど前からシリコンバレーのビジネスに関する Blogを書き始めた。
http://imanetinc.cocolog-nifty.com/atomsvca/

 ご興味のある方は、覗いていただければと思う。 私個人はこの10年間で、2001年に大企業をやめ、ワンマン会社の米国拠点で仕事をして、今年の4月 からは自営業ということになった。それぞれでいろいろ学ばせてもらったと思うが、シリコンバレーでは"生かして何ぼ?"の世界なので、生きている情報をお 伝えしたい。今回は、ネットワークがすべてと言われるシリコンバレーの中で、日本人ネットワークについて、私の知る限りで、変遷と現状を書いてみたい。

 2000年以前のネットワーク

 2000年以前には、シリコンバレーに日本の金融機関も、駐在員を派遣していた。もちろん、製造業、とりわけ情報通信関連の大手企業は数百人単位での駐在員を派遣していたが。金融機関の中には、日本でもあまり知られていない、地方銀行も来ていた。

 駐在員に役割を聞くと、曖昧な答えしか返ってこなかった。接待と体面を作ることが主たる目的で、投資や調査は役割ではなかった。土日は接待ゴルフ、平日の勤務時間中にゴルフの練習をして、その成果をWebに載せていた銀行員も出る始末であった。

 製造業の駐在は、案件探しや提携作業をするのが、本来の目的ではあるのだが、日本の本社や、研究所の「自社技術」志向が強すぎて、良い案件や、面白い技 術もなかなか日本に取り次げない状況が続いた。駐在員で、その枠にはまらない人たちは、シリコンバレーに残る手ずるのある人たちが会社を辞めて、残り始め た。90年代から、それが始まっている。

 ネットワークはというと、ゴルフ親睦会を除けば、異業種交流での情報交換が中心であった。代表的な団体である、Silicon Valley Multimedia Forumというのは、当時のNTTからの駐在員が中心になって1994年に発足して、現在も活動を続けている。
 http://www.svmf.org

を参照されたい。当時は、駐在員と現地の日本人との交流は多くは無かった。また、駐在員同士の交流も、飲み会ないしゴルフづきあいが中心で、仕事とプライベートそして、企業間の線引きが明確であった。

 2000年以降のネットワーク

 2000年以降のネットワークには、これらの動きが大きく変化してくる。一つは、日本の大手企業、とりわけ金融関係の駐在員の日本への引き上げである。現在、金融関係でシリコンバレーに駐在している人は、ほとんどいない。日本人でも、現地で採用された人が働いている。

 その反面、派遣された大手企業から飛び出て、シリコンバレーに残る人たちも、蓄積してある程度の人数になってきた。そんなことから、シリコンバレーの、日本人ネットワークが、動き始めることになる。

 まず、スタートしたのがシリコンバレーのエンジニアと起業家たちの集まりとなった。エンジニアの集まりでは、Japanese Technical Professionals Association(http://www.jtpa.org) が技術者10,000人、シリコンバレー移住計画を掲げて動き出した。ボランティアでの活動であるが、若い人たちが将来のキャリアを考える上で、シリコン バレーで仕事をしている日本人と、直接コンタクトできることで、日本からのツアーも年間数回ずつ行われ若い人たちに人気が高い。

 それとほぼ同時に、シリコンバレーの日本人起業家たちが、これから起業する人たちを応援する集まりを作った。Silicon Valley Japanese Entrepreneur Network(http://www.svjen.org)である。これは、シリコンバレーで起業しようとする人たちを応援するもので、起業経験者たちが、具体的な相談に乗ってくれる。 それから、バイオの人たちの集まりということでは、Japan Bio Community(http://www.j-bio.org)という集まりも活動を始めた。

 この中の出会いで、シリコンバレー発の新しいバイオベンチャーも生まれている。とてもいい動きだと思う。これらは、NPOとして米国での認定を受けて活 動し、それぞれが、ほぼ毎月イベントを行っている。私自身は、時間があればどの集まりにも顔を出しているが、JBCとSVMFを中心に活動している。

 現在私自身は、日本の大学経営の将来のために、米国の大学経営の調査などをはじめようと思っているが、なかなか日本の中で、本当に大学の経営を学ばなけ ればと思っている学校が多くないことがわかってきた。しかし、いくつかの大学は本気で改革を考えていて、シリコンバレーをはじめとする、情報拠点を作る動 きが出てきているのは喜ばしい。いつまでたっても、世界に通用できる大学は日本からは出てこないのではないかと心配しつつも、私が重要だと思うことは、取 り組んでゆきたいと思っている。

 ネットワークを支える、組織

 シリコンバレーでは、これらのネットワークを取り巻く団体も、積極的に協力してくれている。JETROのサンフランシスコは、San Joseにシリコンバレーで起業するためのIncubation施設を持ち、Start Upの会社の支援をしたり、各団体の会議場所を提供したり、積極的に協力をしている。また、法政大学はシリコンバレーに研究所を持ち、日本に向けて、TV 会議方式の授業を送信している。

 この設備が空いているときには、上記ボランティア団体の利用も支援してもらえるので、今年はすでに何回か、日本とシリコンバレーのインタラクティブな中 継が行われている。2000年以前と比べると企業間、個人間の壁が低くなり、交流範囲が大きく広がっている。JETROも独立採算が要求され、今までのや り方を、既存の組織には無い方向で発展させることで、知恵を絞っている。

 シリコンバレーのネットワークの特色

 昨年、NewsWeek日本版の取材に協力して、日本からシリコンバレーで活躍している日本人を紹介した。編集者が世界中の日本人の取材を終えて、最後にシリコンバレーに来た。

 私が紹介した中の5名ほどとインタビューして彼女が言った。シリコンバレーほど、独立志向の強い日本人たちが集まっている場所は世界のほかの場所では見 たことが無いのと、ネットワークが浸透していて、お互いを良く知っている、いうことを言った。 私自身の経験からも、同意できる シリコンバレーは外から も見えるネットワークが存在しているのである。NewsWeek日本版の記事は2004年5月19日号である。

 他国のネットワークとの比較

 他のアジア諸国のネットワークに比べると、日本人ネットワークはおとなしい。私の見るところ、中国は、血縁プラスビジネス志向、インドはビジネス志向、韓国はビジネスプラス血縁という感じである。

 今後、日本人ネットワークが情報発信だけでなく具体的なビジネス成果を生み出すためには、資金やインフラとしての応援できる体制が重要になると思ってい る。このような試みは、いろいろな蓄積を残すことになる。これらの活動で生み出されるものは、今後の日本にとっても、重要な無形資源、優秀な人財として伝 わってゆくであろうことを考えると、とても楽しい。

 八木さんにメール mailto:hyagi@infosnvl.com
2005年12月13日(火)
萬晩報主宰 伴 武澄
 川喜田半泥子(1878-1963)という陶工が津にいた。土をこねて焼くことを生業としていた訳ではないから、正確にいうと陶工ではない。土をこねる芸術家だ。

 それでも半泥子という名は茶をたしなむ人なら誰でも知っている。今では値の付かない作品もあるというのに、半泥子は作品をひとつも売ったことがない。自 分の茶会で使うのが目的で、あとは誰彼となくあげてしまうのだった。もらった人の多くは価値がわからなかったから、多くの作品がそのまま農家の押入れで死 蔵しているかもしれない。

 作風といえば大胆の一言。おおらかでのびやか。そしてこだわりがない。そういうことなのだ。師匠はいない。「志野」あり「美濃」あり「備前」ありで思いに任せて土をこねた。

 それもそのはずだ。津のあたりにはよい粘土がないから全国から粘土を取り寄せた。戦前は朝鮮半島の土も多くこねた。朝鮮の土は主に全羅南道務安郡望雲半 島の荷苗里(ハビヨリ)のものだった。南宋の戦乱を避けた中国の陶工たちが多く避難した土地柄らしい。青磁づくりはすでに廃れていたが、半泥子は壊れかけ ていた窯を再興させたという。

 大阪の「かぼちゃ」の仲間に誘われて二度ほど備前を訪れ、ろくろを回してから今まで以上に茶わんに愛着を持つようになった。それまでも関心がなかったわ けではない。京都に住んでいたとき、「楽」茶わんの窯元の茶会で「300年前のノンコウの作」(ノンコウ=三代目楽吉左衛門・道入)といわれて震えながら 茶をたしなんだこともあった。

 半泥子の茶わんはまだ見るだけである。津市内の石水博物館に足を向ければ、無造作にに並んでいる半泥子の作品をいつでもみることができる。何度か通うう ちに好みも出来るというものだ。半泥子の作品には陶芸の専門家にありがちな銘は一切ない。出来上がった時の季節や気持ち。出会った人物への思い。そういっ た気分として名付けられるのだから素人にも分かりやすい。

「おらが秋」などは名前からして気に入った。志野焼きで大振りの茶わんだ。「あぢさい」というのは薄青の釉薬が薄くかかった作品だ。これは大胆というより上品な部類に入る。「昔なじみ」という銘に到ってはいう言葉がない。

 備前の先生は失敗作を捨てようとすると「せっかく作り始めたのだから完成させましょう」とやさしく指導してくれる。半泥子も同じ気持ちでろくろを回して いた。半泥子には失敗作というものがなかったという。つくったものはすべてが「作品」と考えたからである。割れた陶磁器を修復する「金継ぎ」という技法が 日本にはある。半泥子は焼き上がった作品に割れがあるとすべてを神戸の金継ぎ職人に出した。おかげでこの職人は金継ぎで生業がたったという逸話まである。

 朝鮮の土を使ったり割れた茶わんをすべて金継ぎに出したりと半泥子という人はよほど金に余裕があったに違いないと思うだろう。そう半泥子の本名は16代 目川喜田久太夫といった。川喜田商店といえば、江戸大伝馬町では大手の部類に入る木綿問屋だった。明治以降は地元三重県の百五銀行のオーナーとなり、いま も三重財界の中核を担う一族である。

 ふつう芸術家は王様や財力あるパトロンに見いだされて世に出ることが多い。だがパトロン自らが芸術家になった例は洋の東西を問わずほとんどいない。宋の 時代、文人画を描いた徽宗が有名だが、絵画や書は文人としての教養の範疇だった。古今東西、ろくろを回すことなどは職人の仕事だったはず。銀行のオーナー が仕事の傍らろくろを回して喜んでいたのだから風景として異景だったに違いない。

 一般に芸術家は芸を売るから芸術家なのであって、どんなにいい作品をつくっても生業としなければ芸術家と呼ばれない。ここらは不思議なことだと思ってい る。世上、半泥子は陶工ではないから「趣味人」などと呼んでいるが、茶わんづくりに異常までの情熱をかたむけた半泥子に限っていえば失礼になる。半泥子の その芸はやはり秀でていたのだから芸術家としか呼びようがない。

 半面、半泥子の趣味は「もてなし」にあったのだろうと考えている。お客さまを家に呼ぶとき、家や庭をきれいにして、おいしいごちそうを出すのはどこの家でも当たり前。半泥子の美意識では、茶会のもてなしが高じて茶わんまで自分でこねる必要があったのだ。

 半泥子が茶会を開くときは、三重自慢のうなぎを自ら七輪で焼いたともいわれる。茶室の生け花はもとより掛け軸も自筆の書や絵画を墨で描いた。客が満足し喜ぶことが半泥子の喜びだった。茶わんだけでない。最近そんな半泥子が大好きになっている。

 津市郊外の半泥子の窯跡である広永陶苑にある泥仏堂には自作の半泥仏が祀られている。その扉の裏側に「把和遊 喊阿厳」と書いてある。何と読むか。

 How are you. Come again.
2005年12月10日(土)
Nakano Associates代表 中野 有
京都や青森で滞在し、ワシントンに戻ってきた。青森の地酒とさかなは実に美味しかった。

そして今朝、雪化粧のワシントンの街を歩きながら、すれ違うアメリカ人を眺めながら、改めてアメリカ人と日本人の体型の違いを感じた。肉食の白人や黒人と、野菜や魚が主食の日本人は、体型のみならず考え方も違う。比較により、日本人としての自覚が生まれる。

好奇心の趣くまま、かってきままに世界を観てきた「国際フリーター」にとって、子供ごころに感じた京都の上賀茂神社の空気が世界と比較しても最も心地良 い。その上賀茂神社に、かつては葵の草が絨毯のように茂っていたという。今は、地球環境の変化で葵を見かけることはほとんどない。葵がなくなったのは、地 球環境の変化のみならず、日本人の生活の変化により、東洋的な草に愛着を覚える感性を失ったのかもしれない。もののあわれを感じとる感性が枯れているよう 思われる。いかにも東洋的で日本的な葵は、上賀茂神社の神紋でもあり、また徳川家の家紋でもある。この草を復活させることの大切さを感じた。その思いを込 めて萬晩報で訴えた。

10月10日の萬晩報「地球環境と葵」

http://www.yorozubp.com/0510/051010.htm

このコラムは9月に上賀茂神社の神官とお話をしながら考えたものである。そして先日。ワシントンに戻る朝、上賀茂神社の神官とお会いした。葵のプロジェクトが、芽生えてきたとのことをお聞きした。

この葵の復活のプロジェクトは、何百年単位で続くと感じる。
妙にハッピーになる。萬晩報のネットワークを通じ、
葵の大切さを共有したく思う。
そして葵の多年生の草を家で育てていただきたく思う。

以下は、上賀茂神社の冊子で紹介された文である。

双葉葵「ふたばあおい」。
ウマノスズクサ科の多年草。
山中の木陰に生え、茎は地をはい先端に二葉をつけます。
葉はほぼハート形。
五月頃、葉間に淡紅紫色の花を一個つけます。
京都上賀茂神社の神紋とされ
古くから多くの人々に親しまれています。
かつて神社のあたり一面に
緑色の絨毯を敷き詰めたように
広がっていたこの植物も
近年の環境の変化により
今は極わずかが裏山にあるだけです。
環境に敏感なこの植物の減少を
環境破壊に対するひとつの警笛と
わたちたち上賀茂神社は考えています。
この神社で双葉葵を見ていただくことが
皆様の身の回りの環境を考えられる
きっかけになればと考えています。

 中野さんにメールは mailto:tomokontomoko@msn.com
2005年12月09日(金)
長野県南相木村診療所長 色平(いろひら)哲郎
 医師や看護師の海外流出で比の私立病院の約60%が閉鎖に追い込まれてしまった――。

 22日、マニラ市内で開かれた比私立病院協会(PHAP)の年次総会で、アントニオ・チャン会長が悲痛な報告を行った。チャン会長によると、2000年 には国内に1700あった私立病院が01年には900、05年には700まで減少した。今月中だけでも廃業した私立病院は12を数えるという。

 開業している病院でも、海外流出により医師、看護師、助産師などが不足しており、介護士を養成して使うことでしのいでいる状況だという。チャン会長は 「特に地方に住む人たちの健康状況に懸念を覚える」と語り、自身の経営するビコール地方マスバテ州の病院では医師が50床に一人しかいないと告白した。

 また、人材不足への対策として、厚生省に私立病院向けの「医療従事者雇用センター」の設立を求めた。比国内での病院勤務医、看護師の月給が1万 2000~1万8000ペソ(1ペソは約2円)であるのに対し、英国などヨーロッパでは10万~25万ペソに達するという。(先日入手した「マニラ新聞」 05年11月23日付け記事より)

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 問題を直視せよ ~医師の海外流出問題~

 加速する医療従事者の海外流出をどう解決するのか。この課題へのサントトマス労働雇用長官の対応は「問題に目をつぶる」ことらしい。医療従事者連盟のエベサテ事務局長やガルベス元厚生長官が深刻な人材流出に対し相次いで危機感を表明した。

 しかし、サントトマス長官は彼らの指摘を根拠のないものだと退けた。医師歴25年の男性外科医は40人の同窓生のうち三分の一以上が海外移住したと語った。女性産婦人科医も1998年に共に卒業した300人の婦人科専攻生のうち半数以上海外で働いていると明かした。

 しかし、同長官にとってはこのような事実も問題ではないようだ。一体どんな事態に陥れば彼女は深刻に考えるようになるのだろうか。フィリピン大学のデー タによると、2001~04年までに3000人の医師が看護師として働くために国外に出た。WHO(世界保健機関)が算出した人口1万人当たりの理想的な 医師数と比のそれを比較すると医師の数は2分の1以下である。

 もしこの厳然たるデータを同長官が問題視しないのなら、このような事態がわが国の医療システムに与えている影響を考えるべきだ。私立病院協会によると、過去5年間で人材の海外流出で1000の私立病院が閉鎖され、現在運営されている病院は700にすぎない。

 同長官は、すべての事実に抵抗し、問題を直視することを回避している。彼女が重視しているのは、国の優秀な人材が失われることでなく、海外就労者のドル 建て送金だけなのだ。国が生き抜くためには海外からの送金に依存することが重要で、国民が医療従事者の不足によって命を落とすことは問題ではないよう だ。(11月24日付けフィリピン・インクワイアラー紙論説より翻訳)

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2005年12月08日(木)
元中国公使 伴 正一
 三権分立も、もう実施されて一〇〇年以上になり、言葉としてはすっかり定着している。裁判所と検察庁を混同する人も少なくなってきた。

 だが一皮むくと、制度上の建前と、ホンネに当たる実務とが、こんなにかけ離れていていいのかと思うくらい疑問だらけだ。

 【国会】

 1.国会は、憲法に謳われているように国権の最高機関だろうか。早い話、天下の権と言って衆、参両院議長を思い浮かべる人がいるだろうか。

 2.国会は立法府だという。本当にそうだろうか。気をつけて見れば見るほど、国会の立法権がすっぽり空洞化しているように思えるのだが、それは私の幻覚だろうか。      
 3.内閣総理大臣の指名では、いかにも国会が内閣の上にあるかに見える。だが、これとて、二大政党体制ともなれば、昭和初期の〝大命降下〝がそうであったように、選挙結果の認証行為化する。

 4.国会議員になることが政治を志す者の登龍門であり、国会で年期を積むこ とがその大成につながることは、国民にとっても常識化している。

 だが、大成とされるのが大臣であったり、更に内閣総理大臣であったり、であるなら、立法府に対する行政府の優位は、言わず語らずのうちに浮彫りになるではないか。

 そもそも議会制度はイギリスで、有名なマグナカルタのあと、貴族僧侶が州市の代表者を加えて国事を議した(一二六五年)のがその始まりだとされている。

 ただそれは王権に取って代るものではなく、無軌道な王権の発動を抑えるため、新規課税など一定の権力行使を彼らの同意にかからしめたのであって、持っていたのは同意権、国家統治の上では脇役だったのである。

 またイギリスでは伝統的に裁判所の権威が高く、その判例法が、古くから議会立法の上にあったことは紛れもない事実である。

 名著「法の精神」でフランスの啓蒙思想家だったモンテスキューは、一八世紀のイギリスの政治制度を紹介し、国家権力が分立しているとしてこれを絶賛した。

 以来、三権分立説は広まって行って、デモクラシーには欠かせない公理のようになるのだが、そもそも発想の発端では、イギリス政治制度の実際をかなり誤認していたといわれ、この点、立法と行政の癒着に関連し、私の興味を引いてやまないのである。

 【裁判所】

 紛争が、今でも現に戦争を誘発している国際社会を見ていると、国の内の紛争が平和裡に片づいていくことの有難さ、またその縁の下の力持ちとして裁判所の果している役割の重さが、改めて実感される。

 そして裁判所が、権力やカネでどうにもならない存在として民事、刑事に亘る裁判の公正を守り続け得たのは、司法権が独立していたことに負うところ大である。

 しかし、だからといって、あたかも司法が、三分の一の比重で国家権力を分かち持っているように考えるのは誤りだ。そんな感覚で物を見ていたのでは、統治権全体の姿をバランスよく把えることは不可能になる。

 これは、日本の裁判官の廉潔さが、官僚中、群鶏の一鶴であるという私の持論と並んで、司法修習で実際判決の下起案までさせて貰っていた頃から、長い間にでき上がってきた私の司法観である。

 裁判の公正に対する国民の信頼が揺ぎないものであることは、〝治まる御代〝のシンボルとして、高い比重で把えなくてはならないが、それだけの重要性を考慮に入れても、裁判所は、国家統治全体の上では、国会と並んで左右の脇役に据えるべきだと思う。

 こうして始めて、思い違いの起こりやすいデモクラシー思想の中でも特に分かりにくい統治権の部分が、日本人にグッと分かりやすいものになる。

 最高裁判所長官の座はやはり、国民が直感で把えているように国の最高権力者、最高責任者の座ではない。

 【行政府】

 既に述べたように、そして誰もがそう思っているように、最高権力の座は内閣総理大臣である。

 また、すべての実際権力は、行政という形で、内閣の責任の下に行使されている。

 天皇がおられて影が薄くなっている観は否めないが、実権の上では、

    日本国は内閣(総理大臣)これを統治す。

と言って、それほど間違いではない。確かにその権限の大きさは、在りし日の王権を髣髴(ほうふつ)させるものがある。

 文治機構の定員だけでも、率いる官僚一九〇万。この数は、国会四千人や裁判所二万五千人とは比較を絶する数だし、それと別に総理は、武装兵力二〇万人の〝大元帥〝でもある。

 行政が、多様化した国民生活のあらゆる分野に亘ることから一政党の面目がかかる重要法案は別にして立法プロセスの主要部分は、各省庁担当部局の手で行われている。

 そのプロセスの中には、発案、起案、多くの場合の大蔵協議、連日、深夜に及ぶ法制局審査、夜討ち朝駈けも稀ではない関係議員へのアタック、状況次第では更に、その行先を追いかけての各党実力者の説得などがある。

 私自身、海外移住事業団法で〝青年将校〝呼ばわりされたことがあるが、官僚がよく「この法律はボクが作ったんだよ」と言う、その気持ちは痛いほど分かる。

 紙数も残り少なくなったので先を急ぐと、国会の立法権が、同意権(拒否権と見立ててもいい)を残して行政に移っている現実は、一層のこと、思い切って追認してはどうだろう。立法権を完全無けつな一体と考えるのをやめて

    法律の制定には国会の承認を要する

 くらいの、おとなしい条項を置くことにしてしまったらどうなのだろう。

 議員立法強化の論はよく耳にするが、まともにそれをやろうとしたら、国会自らが今の各省庁なみの専門スタッフ(国会官僚)を揃えて常置するくらいの体制整備が不可欠だ。

 そんなムダなことが、三権分立にその実あらしめる目的だけのためにどうして必要なのだ。

 三権分立が時とともに形を変えて行く。それでどこが悪いのだろう。

 伴正一遺稿集 http://www.yorozubp.com/shoichiban/
2005年12月07日(水)
元中国公使 伴 正一
  簡潔な表現では満足のいかないヨーロッパ人と、抽象概念を何階建てにも積み上げられると頭がおかしくなる日本人とが、大体はデモクラシーを共有できそうな ときに、論理構成まで同じように揃えなくてはならない理由がどこにあるのか。それぞれがすんなり分かる論旨を用いて、なくてすませるような混乱を起こさせ ないようにする方が遥かに賢明ではないか。

 いくら国民に、公民としての自覚が育ってきても、国の運営に心を向ける時間の余裕は非常に限られるから、少しでも事柄を分かり易くしておく配慮が格別重要なのだ。多々益々弁ず、百家争鳴もよしとするのは、ずっと先ならともかく、今の段階の日本ではとても頂けない。

 さきに、政治思想で日本人は欧米に半分も追いついていないかも知れないと述べたが、それは頭のよしあしではなくて、物を考えていく段取りの違いが、日本人の理解を手間取らせているのだと思う。

 この点で、私の身近にあったこんな話をつけ加えておこう。

 鎌倉時代に日本で生れ、室町の頃にあらかた消えた職(しき)という言葉があるが、これを除いて日本には、「権利」に当たる法律用語が存在しなかった。

 戦後、大学に学んで、しかも法学部の法律学科にいて、一番考えあぐんだのは、民法の分かりにくさがどこから来ているのだろう、ということだった。そして辿りついた結論は、その第一章第一節「私権ノ享有」に始まって全編が権利で綴られているからだ、ということだった。

 別の例だが、親の務め、と言えば一遍で理解できるのに、子供の権利で説き起すと説明に骨が折れる。いくら説明してもしっくり来ないのが日本人のアタマではないだろうか。

 そんな具合で、債権だとか賃借権くらいが〝やっとこさ〝の平均的日本人に、主権などという概念を持ち込むのは残酷物語というものだ。いくら頭で分かったとしてもよく納得がいくというものではないだろう。

 それに追い討ちをかけるように、〝三権分立〝があったわけだから、文明開化で勉強はしたが、面倒くさくなって、碌に噛みもしないまま呑み込んでしまったとしてもムリはない。丸暗記というヤツである。

 そんなわけで日本人には、都合のいいときは「民主主義」を振り廻しもするが、その潜在意識では十把一からげ、優れた直感力で、「どうせ建前論さ」と高をくくってきている様子が見える。

 ホンネ部での〝お上〝は厳存しているのである。

 わがままな王様が臣下のすることが一々気に入らなくてわめき散らすように、政治家という政治家をこき下しているかと思えば、業界という業界のメンタリ ティーは「泣く子と地頭には勝てぬ」である。法的根拠もない主務官庁の行政指導に唯々諾々と従っているではないか。これでどこが民主主義なのだ。威張って いるのは、建前だけ、それも日本人の今の意識で実益に関係のない部分だけだ。

 伴正一遺稿集 http://www.yorozubp.com/shoichiban/
2005年12月06日(火)
元中国公使 伴 正一
  改憲議論が盛んだ。さきに自民党が独自の新憲法草案を発表したが、議論は軍隊の保持を禁止した9条と前文のあり方にばかり向かっている。せっかくの改憲の チャンスに恵まれているのだ。本来ならば、今一度、民主主義とはなにか、統治とは何かという国家の本質に関わる問題を国民的論議の俎上に上げなくてはなら ないはずだと思っている。2005年も押し迫るこの時、しばらく憲法論議を紙上で展開したい。皮切りは亡き父が残した季刊冊子『魁け討論 春夏秋冬』「日 本新秩序6」(94年春季号)から日本の統治にかかわる部分を転載し、問題提起したい。
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 「天は人の上に人を作らず」と言ったのは福沢諭吉である。

 今の日本人ならすらすら読んで何の抵抗も感じないだろうが、少し格好をつけ過ぎてはいないか。聞こえはいいが読み方によっては、リーダーシップ、更には国家権力の存在そのものを否定するようにもとられかねない。

 このことばに耳慣れている普通の日本人は「そんなバカな」と思うだろうが、それでいて結構、この言葉の暗示にかかっているフシがあるから恐ろしいのだ。

 デモクラシーを民主主義と訳したことも、同じような暗示を与えた。民が主(あるじ)だというなら、主の上に権力があったらおかしいからである。同じことが「主権在民」についても言える。

 そんな言葉の遊戯とかかわりなく、どんなデモクラシーの国にも、国家権力は厳然としてある。

 国民が選んだ大統領や首相の権力は強大で、立憲君主のそれにひけを取らない。

 権力の行使を分掌する役人の数だって、王制でなくなったという理由だけで減るわけのものではない。

 税務署はどっちの場合だって、恐いものである。

 それはそうだろう。もともと国家というものは権力機構だと、定義からしてなっている。

 そしてデモクラシー思想もまた、当然のことながら国の統治に権力の不可欠なことを公理として認め、それを基軸に思想が展開されているのである。

 だが恐ろしいのは、この肝腎かなめのところで、さきほど言ったような暗示にかかることである。この暗示から抜け切らないでいると、デモクラシーそのものが別のものに見え、変な観念論が割り込んできて建設的なディベートが〝電波障碍〝を受ける。

 問題は日本の戦後デモクラシーに、この致命的な症状なきや、だ。

 大正デモクラシーという言葉がある。皇室を憚(はばか)ってのことだろうか、大正民主主義とは言わなかった。

 今になってみると、デモクラシーをこんな式にそのまま使っておいた方が賢明ではなかったかという気がしてくる。

 そうしておいて、当時の日本では微妙なところだったと思うが、デモクラシー制度の下で、君主に代って国家権力を行使するのは〝有権者何千万人〝ではなくて、何千万が選ぶ民選首長であることを明確にしてさえおけば、思い違いも混乱も起こりようがなかった。

 どうしても訳語が欲しければ、「民本主義」で鳴らした吉野作造に断わって、吉野が違った意味で使ったこの言葉をデモクラシーの訳語に貰い受けておけばよかった。

 こういう思想上の膳立てがもしできていたら、占領軍がやってきてデモクラシーが鼓吹されたとき、日本人は、国の営みの公理を見失わないで、政治の現実と噛み合った思想内容でデモクラシーを理解したであろう。

 この所論には、それこそデモクラシーを誤り伝えるものだという反論もあろう。

 その通りかも知れない。デモクラシーの原義を私が、勝手に仕立て直そうとしているのだと言われれば、それを認めてもいい。

 だがその場合でも私は、こう考える。

 デモクラシー思想を、西洋人が組み上げた論理構成のまま採り入れるのか、理由づけみたいなところは日本人の頭に入りやすいように仕立て直し、大体の趣旨 は同じでも、思想としては別物に仕上った、日本生れのデモクラシーにして制度化するかは、日本人の好みで決めればいいことだ。

 国を経営していく上での根幹的な制度を作るに当たって、直輸入を正当とする理由はない。

 あれだけ儒教を尊崇しながらも、易世革命の部分を先祖たちは採らなかった。それでどこが悪かっただろうか。

 放伐を正しいものとする理論構成が日本では不必要だったし、天命という思想上のキー・ワードも、個人が奮起するときの、気持ちの整理用に格下げされてしまった。

 そういうことでいいのではないか。

 伴正一遺稿集 http://www.yorozubp.com/shoichiban/
2005年12月01日(木)
Nakano Associates代表 中野 有
  ワシントンのナショナルプレスクラブで開催されたメディアのシンポジウムに参加した。ニューヨークタイムズ、CNN、地方のメディアの話はなかなか面白 かった。発表者が、「メディアは、3つしか伝えない。それは、真実、うわさ、うそである」と表現した。この当たり前の言葉をきっかけにメディアを考察する 必要があると感じた。

 報道がどこまで真実を伝えるかは疑問である。その時代背景、国益の観点、イデオロギー、宗教、経済パワー等、メディアに接するそれぞれの立場や視点の相違により真実が変化してくる。真実は一つであっても、真実は曖昧になる。

 メディアが意識的に真実にオブラートを包むことも出来る。米軍がバグダッドに侵攻した時、イラク人がサダム・フセインの銅像を引きおろすシーンを覚えて いる読者も多いと思われる。シンポジウムでFOXとCNNのビデオを見せながら専門家がそのシーンを解説した。FOXテレビはクローズアップで熱狂するイ ラク国民を描いた。そのシーンを見る限りイラク国民が米軍の侵攻と共に勝利に酔いしれているように伝わってくる。一方、CNNは全く同じシーンをロング ショットで映した。そこにはがらがらの広場の中に何十人の熱狂するイラク人がいるだけであった。ロングショットでこのシーンを見ない限り視聴者は、真実を 見失ってしまう。

 これは一例であるが技術の進歩により映像を操作することは可能なのである。一昔前には「写真はうそをつかない」と言われたが、現在では合成写真で写真はいくらでもうそを伝えることができるのである。

 真実を知るベストの方法は、この眼で現場を観察することである。メディアは、それぞれのメディアの眼で現場を観察する。そこには主観が入って当たり前で ある。保守的、進歩的、比較的バランスのとれたメディアが存在している中、多角的視点に立脚し、偏らない見方、即ち本質を観察する「こつ」を考察すること が重要である。

 その「コツ」とは。第一に、同じ報道でも4つの理由が存在する。メディアが発表する理由は、発表された理由である。その他に現実的理由、本質的理由、道 義的理由がある。外交・安全保障の視点では、現実的理由は、その時々の状況により変化する国民の一般的な考えである。本質的理由とは、国の中枢や戦略家が 練ったビジョンである。道義的理由とは、人類が共通する道徳観である。国の中枢がメディアを利用することがある。それは本質的理由をベールに包み込むため に発表された理由などを通じ煙に巻く戦略である。イラク戦を振り返ってみた場合、米軍によるイラク侵攻の発表された理由は、「イラクの大量破壊兵器の保 有」であるので、これは米国の中東の民主化、市場経済化、石油の利権等の本質的理由を隠すための口実であったと考えられる。

 第2は、物質的、精神的に真実を追究するかの見方。西洋的な視点では、弱肉強食のハードパワーで性悪説に則り、軍事的、経済的に真実を追究しようとする 行為。東洋的には、精神面を通じた真実を探求する見方。物質的、精神的にバランスがとれた見方により真実を追究することが大切である。これは、「協調の理 想」としてのメディアであろう。

 第3は、マスコミが無視するところに真実が存在する。また多くの人々が一方に偏っている時に別の方向に真実があることもある。日米のメディアでよくある ことだが、ある殺人事件が異常な程、クローズアップされ終日マスコミを賑わすことがある。その背景には、政府の中枢が真実を隠したいと意図するときに意図 的にある事件を通じ本質を隠すことも可能となる。人が本当に身の潔白や真実を伝えたいと思う時、マスコミや周辺がいくら反対しても真実を完結しようとす る。そのような一貫した姿勢の中に真実があるように思える。

 北朝鮮問題の一例をとってみた場合、日米のメディアは、10年前から一貫して北朝鮮はベールに包まれて理解できない国だと述べている。10年前と比較 し、北朝鮮との対話や交流が進み、サテライトなどの最新の技術を通じ、北朝鮮の動向を把握することが可能な状況において、今だに北朝鮮をベールに包む政策 は、意図的に行われていると思われてならない。

 結論として、メディアを観察するに重要なことは、メディアの報道や分析をグローバルかつ右や左の視点に左右されることなく多角的に判断することが重要で ある。そのためには、感性を豊かに知的直観や現場主義に根ざすことが大切であると考えられる。

 中野さんにメールは mailto:tomokontomoko@msn.com

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