2005年11月アーカイブ

          2005年11月30日(水) 萬晩報主宰 伴 武澄 

 日銀の量的緩和策の継続をめぐって日銀と政府・自民党のさや当てを演じている。前者が「消費者物価指数がプラスに転じたら解除したい」と主張しているのに対して、後者は「時期が早い」と牽制する。

 財務省の本音は「景気論」ではなく、「金利が上がると国債の消化に不都合が生じる」ということだろう。

 量的緩和は、2000年8月に日銀がゼロ金利を解除した後、景気が失速したことを契機に翌年3月に導入された。ゼロ金利解除といっても金利を3%、4%にしたのではない。0.25%にしたにすぎない。

 金利上昇が景気の足を引っ張るということは誰でも分かっている。だが、そもそもゼロ金利などというものは前代未聞の対策。マクロ経済から見て0.25%だって信じられないくらいの超々低金利。

 そのゼロ金利でも景気が浮揚しなかった窮余の策として生まれたのが量的緩和である。お金をじゃぶじゃぶにするとどうして景気を後押しするのかが分かりにくかった。分かりにくいはずである。

 そもそも当時はお金の借り手がいなかった。大手企業は過去の借金体質を改善するのに汲々としていたし、金を借りたがった中小企業に銀行は金を貸さなかった。貸さないどころか貸しはがしをしていた。じゃぶじゃぶにして、どういう効果を生むのだろうというのが大方の疑問ではなかっただろうか。

 量的緩和は単なるアナウンス効果でしかなかった、つまり「日銀だって景気のことを考えていますよ」ということを内外に声高に知らしめただけのことである。

 ■国債の大量発行を可能にした量的緩和

 ところがこの量的緩和はゼロ金利と相俟って財務省にとっては願ってもない福音だった。売り出した国債が市場を通じてどんどん日銀に吸収されるのだからたまらない。福音どころか"狙い"だったといってもいい。大量に発行され
る国債は金利上昇の心配なしにどんどんと日銀の金庫に吸い込まれていったのである。

 財務省にとっても最大の悪夢は金利の上昇である。700兆円の国債の金利が1%上がると単純計算で7兆円の財政負担となる。5%にでもなると35兆円。40数兆円しかない税収の8割が国債の利払いで消えたのでは財政は完全に破たんする。誰にでもわかる話だ。じゃぶじゃぶのお陰でそれが起きなかった。ありがたい話なのだ。

 しかし、金利が上がると財政は本当に困るのだろうか。1400兆円といわれる個人資産は5%で70兆円の金利を生む。その20%の14兆円が源泉徴収で税金として国庫に入る。差し引き56兆円の経済効果は生半可でない。なにしろ日本のGDPは500兆円。そこに50兆円規模が循環する消費が加わったらどうなるか。それにまた消費税もかかるから財政にとってそれこそ大きな福音となるはずである。

 ■解消に近づきつつある内外価格差

 90年代後半以降、日本経済が陥ったのはデフレの落とし穴であった。それは事実であろう。しかし、そもそも論からいえば、1985年のプラザ合意以降進んだ円高による国内価格の是正と考えれば仕方のないことかもしれない。

 90年代前半に円高差益の還元が声高に叫ばれたが、消費者にはほとんど差益は還元されなかった。直ちに還元されていれば、90年代後半以降のデフレはなかったかもしれない。時期がずれてじわじわと消費者価格に逆転化されていったと考えれば分かりやすい。

 もう少し考えを深めれば、15年間、物価が上がらなかったことになる。これはこれでありがたい話なのだ。半面、国際的には"デフレ"だといいながらも年間数%の物価上昇があった。

 15年を振り返ってみると、物価がほとんど上がらなかった日本と普通に上がった海外という構図が浮かび上がる。ここでようやく内外価格差が解消しようとしているのである。
2005年11月23日(水)
萬晩報主宰 伴 武澄
 数日前、津市内のいきつけの喫茶店で「榧太郎生」という砂糖菓子を食べさせてもらった。「かやたろお」と読む。カヤの実のお菓子は初めてである。少しだけ渋味があるがなんとも上品な味だった。

 喫茶店のママさんにこの砂糖菓子の由来を聞いた。

「この時期になるといつも買ってきてくれるお客さまがいるの。これを読んでご覧なさい」

 差し出された薄茶色の小さな紙片には「私だけの特産品」と題して次のように書かれていた。

 私が嫁いで来た家はもと造り酒屋で、裏庭に樹齢三百五十年と言われる榧の木があって、秋のかかりの九月中頃になるとよく熟した実が落ち始めます。

 姑は、毎年その実でお菓子を作りながら、「このお菓子は、杜氏さんや蔵人さんのおやつに出していたもんや」と、懐かしそうに酒造りをしていた頃の話を聞かせてくれたものです。

 あれから幾度かの秋が巡って、その姑もこの世を去ってしまったけれど、榧の木だけは、昔のままで秋になると今もいっぱい実をつけます。
 そんな姑の思い出から蘇ったお菓子『榧太郎生』。

 熟れた実を一粒ずつ大切に拾い集めてから、縁皮むき、木灰さわし、水洗い、天日干し、殻割り、渋取り、炭火炒り、......と、おおよそ二カ月余りもかかって 磨き上げた榧の実にさらに純白の砂糖の衣を着せて、もう一度炭火で乾かしあげたのがこの『榧太郎生』です。

 ぽた! と榧の実の落ちる音で目を覚まし、秋の訪れを感じるとともに、姑の背中を思い出しながら作っている「私だけの特産品」です。

 一から十まで手作りの『榧太郎生』をじっくりご賞味ください。久子。

 もうこれを呼んだだけで久子という女性に会いたくなり、きょう、三重県一志郡美杉村太郎生の丸八商店を訪ねた。店に入ったとたんに奥から出て来た女性を見て、きっとこの人が久子さんだろうと思った。

 美杉村には申し訳ないが、山奥ではめったに出会えるような人ではない。美人というのではない。情感が体一杯に弾けだしている。ほとんど数日前から思い描いていたそのままの人物がそこにいた。

 久子さんは裏庭まで連れて行ってくれて、「これがその榧です」と案内してくれた。「太郎生の傾斜地の家の近くには必ず榧の木が生えています。根っこが しっかり大地をつかんでいるので災害から家を守ってくれるのです。その昔、この村が貧しかった時、飢饉の年にはこの榧の実が飢えをしのぐ役割を果たしたと も言われています」。まだ落ちていた榧の実をいくつかポケットの押し込んで店に戻った。

 久子さんの店のメモ帳には県内外からの『榧太郎生』ファンの名簿がぎっしり詰まっている。

 もう一人、日本の一隅を照らす女性と出会えて、なんともいい晩秋の一日だった。久子さんありがとう。
2005年11月20日(日)
萬晩報主宰 伴 武澄
 会田雄次氏の『アーロン収容所』では"アジア人家畜論"が続く。

「はじめてイギリス兵に接したころ、私たちはなんという尊大傲慢な人種だろうとおどろいた。なぜこのようにむりに威張らなければならないのかと思ったのだ が、それは間違いであった。かれらはむりに威張っているのではない。東洋人に対するかれらの絶対的な優越感は、まったく自然なもので、努力しているのでは ない。女兵士が私たちをつかうとき、足やあごで指図するのも、タバコをあたえるときに床に投げるのも、まったく自然な、ほんとうに空気を吸うようななだら かなやり方なのである」

「私はそういうイギリス兵の態度にはげしい抵抗を感じたが、兵隊の中には極度に反発を感じるものと、まったく平気なものとの二つがあったようである。もっ とも私自身はそのうちあまり気にならなくなった。だがおそろしいことに、そのときはビルマ人やインド人と同じように、イギリス人はなにか別種の、特別の支 配者であるような気分の支配する世界にとけこんでいたのである。そうなってから腹が立つのは、そういう気分になっている自分に気が付いたときだけだったよ うに思われる」

 会田氏によれば、イギリス人は、ヨーロッパでの牧羊者が羊の大群をひきいていく特殊な感覚と技術をもっていると同じように、いつの間にかアジア人を家畜 として手なずけているというのだ。日本人には決してできない特技を長い間の植民地支配で身に着けてしまったというわけである。

 だからイギリス兵は決してアジア人や日本人捕虜を殴ったりはしなかった。日本兵のように"凶暴"でないが、その代わり人間扱いしなかっただけのことなのである。

 高校生だった筆者は「なるほどこういう見方があったのか」と頭を殴られたようなショックを受けた。南アフリカの白人たちが黒人を「キャファー」と呼んで いた意味がようやく分かったような気がした。アラビア語で異教徒という意味のキャファーは「相いれない」という意味でもあるのだろう。

 当時の筆者にとって、問題は「そのように飼いならされた」アジア人たちであった。白人には決してかなわないとあきらめてきたその卑屈な根性である。「なんで支配を許したのか」「なぜ戦わないのか」。そんな苛立ちがあった。

 いま中国経済が隆々として脅威論すら出てくるようになっているが、たった15年前までは「貧困」こそがアジアの枕ことばだった。1960年代のアジアは アフリカ同様にもっと貧しく卑屈で、先進国経済のお荷物だった。だから「がんばらないとアジア人は永遠に白人たちに支配され続けられることになる」という 危機感があった。

 国際情勢は冷戦構造の真っただ中で、アメリカを中心とする自由主義陣営がソ連や中国などの社会主義陣営と真っ向から対峙していた。だから多くの日本の知 識人は心情的に社会主義に肩入れしていて、階級闘争によって貧富の格差や差別がなくなるのだと主張していた。

 当時の筆者にはなじめない議論ばかりが横行していた。世界には階級による対立より深刻な人種差別が厳として存在するのだと考えていたのに、誰も耳を貸す ものはいなかった。『アーロン収容所』は筆者の心を癒やす数少ない書物であった。
2005年11月19日(土)
萬晩報主宰 伴 武澄
 1967年5月、日本に帰ってきて読んだ本がある。会田雄次『アーロン収容所』(中公新書)である。京都大学教授がそのむかし学徒動員でビルマ戦線に投入され、戦後ラングーン(現ヤンゴン)のアーロン収容所に収容された時の経験を書いたものである。

 この本はまだ中公新書で87版を重ねている名著である。

 会田雄次氏はアーロン収容所での屈辱的な体験として「女兵舎の掃除」でイギリス人のアジア蔑視の実態を憤慨しながら書いている。当時の西洋人はアジアの人々を「人間」として扱っていなかった。南アフリカでの体験からさもありなんと考えた。

 人権だとか民主主義だとかは西洋での約束事でアジアやアフリカではまるで関係ない事柄なのだということを改めて知らされたのである。

 『アーロン収容所』を読んでいない人にために「女兵舎の掃除」のくだりを転載してみたい。

「英兵兵舎の掃除というのはいちばんイヤな作業である。もっとも烈しい屈辱感をあたえられるのは、こういう作業のときだからである。.........その日は英軍の 女兵舎の掃除であった。看護婦だとかPX関係の女兵士のいるカマボコ兵舎は、別に垣をめぐらせた一棟をしめている。ひどく程度の悪い女たちが揃っているの で、ここの仕事は鬼門中の鬼門なのだが、割当だから何とも仕方がない」

「まずバケツと雑巾、ホウキ、チリトリなど一式を両手にぶらさげ女兵舎に入る。私たちが英軍兵舎に入るときは、たとえ便所であろうとノックの必要はない。 これが第一いけない。私たちは英軍兵舎の掃除にノックの必要なしといわれたときはどういうことかわからず、日本兵はそこまで信頼されているのかとうぬぼれ た」

「その日、私は部屋に入り掃除をしようとしておどろいた。一人の女が全裸で鏡の前に立って髪をすいていたからである。ドアの音にうしろをふりむいたが、日 本兵であることを知るとそのまま何事もなかったようにまた髪をくしけずりはじめた。部屋には二、三の女がいて、寝台に横になりながら『ライフ』か何かを読 んでいる。なんの変化もおこらない、私はそのまま部屋を掃除し、床をふいた。裸の女は髪をすき終わると下着をつけ、そのまま寝台に横になってタバコを吸い はじめた」

「入ってきたのがもし白人だったら、女たちはかなきり声をあげ大変な騒ぎになったことと思われる。しかし日本人だったので、彼女たちはまったくその存在を無視していたのである」

「このような経験は私だけではなかった。すこし前のこと、六中隊のN兵長の経験である。本職は建具屋で、ちょっとした修繕ならなんでもやってのけるその腕 前は便利この上ない存在だった。.........。気の毒に、この律義な、こわれたものがあると気になってしょうがない。この職人談は、頼まれたものはもちろん、頼 まれないでも勝手に直さないと気がすまないのである。相手によって適当にサボるという芸当は、かれの性分に合わないのだ」

「ところがある日、このN兵長がカンカンに怒って帰ってきた。洗濯していたら、女が自分のズロースをぬいで、これも洗えといってきたのだそうだ」

「ハダカできやがって、ポイとほって行きよるのや」
「ハダカって、まっぱだか。うまいことやりよったな」
「タオルか何かまいてよってがまる見えや。けど、そんなことはどうでもよい。犬にわたすみたいにムッとだまってほりこみやがって、しかもズロースや」
「そいで洗うたのか」
「洗ったるもんか。はしでつまんで水につけて、そのまま干しといたわ。阿呆があとでタバコくれよった」

 N兵長には下着を洗わせることなどどうでもよかった。問題はその態度だった。「彼女たちからすれば、植民地人や有色人はあきらかに人間ではなかったので ある。それは家畜にひとしいものだから、それに対し人間に対するような間隔を持つ必要なないのだ、そうとしか思えない」

 今から数えると60年前の話だが、筆者が初めて『アーロン収容所』を読んだのは40年近く前だから、戦後まだ20年近くしか経っていない。南アフリカでの人種差別の経験がまだ生々しかった時だから衝撃的だった。

Wの衝撃

user-pic
0
2005年11月13日(日)
萬晩報通信員 園田義明
 ■北朝鮮の鉱物資源に群がる米中韓

 今年7月、1年1カ月もの間中断していた北朝鮮の核問題をめぐる第4回6カ国協議が再開され、現在は第5回6カ国協議の休会中となっている。

 拉致問題解決に向けた期待も高まるが、悲しくも国際政治の冷酷な現実がある。ヨミウリ・ウィークリーの2005年7月31日号の『「北」の鉱物資源狙う 米・中・韓』と題する記事の中で、2003年から北朝鮮問題の班長(アジア大洋州北東アジア課)を務め、今年3月末に同省を退職したばかり原田武夫が、 「北朝鮮がレアメタル(希少金属)の国というのは米国ウォール・ストリートの常識だ」とした上で、「米国が資源外交を展開しているのは確かであり、この鉱 物資源をめぐる米中韓と北朝鮮当局との"裏取引"が成立したことが7月の協議再開に結び付いたのではないか」との見解を述べている。

 これを裏付けるように今年5月に韓国政府系機関の大韓鉱業振興公社が北朝鮮最大の鉄鉱石鉱山の開発に中国と共同で乗り出すことが明らかとなる。

 さらに7月に第10回南北経済協力推進委員会が発表した12項目からなる合意文には、韓国側のコメ50万トンを借款の形で支援する見返りに、北朝鮮の地下資源の開発・投資を韓国側に保証し、実質的な共同開発を進めることも含まれている。

 米国の狙いを知るためには時間を遡ればいい。1999年2月に行われた北朝鮮の地下核施設疑惑をめぐる米朝高官協議で、米側が提示した制裁緩和措置であ る。この措置には在米資産の凍結解除、経済制裁の一部緩和と並んで、亜鉛、金、タングステンなどの鉱山開発や農業分野で投資を希望する企業へのライセンス の発行などが柱となっていた。

 特にタングステンにはドロドロとした日本をも巻き込む歴史的な因縁がある。実は北朝鮮はこのタングステンの潜在的埋蔵国として知られている。
 
 ■1950年のタングステン危機と「W計画」

 1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発、そのわずか2,3ヶ月で戦争に要する物資の国内備蓄量が危機的な状況になった。これがタングステン危機の始まりである。トルーマン政権は国家緊急事態を宣言し、タングステンの入手に奔走することになる。

 スウェーデン語で重い石の意味を指すタングステンは、貫通力を高めるための弾芯として1940年代半ばから戦車砲や戦闘機の機関砲などに使われてきた。 1949年までの米国は、時には日本軍の目をかすめながら、蒋介石の友人であるK・C・リー率いるワーチャン貿易を通じてタングステンを入手してきたが、 中国共産党の勝利によって中国の輸出先は米国からソ連へと変わる。米国は新たな供給国として韓国を選び、ソウル南東にある上東鉱山に触手を伸ばすが、朝鮮 戦争勃発直後にこの鉱山が北朝鮮軍の手に落ちたためにタングステン危機が起こったのである。

 このタングステン危機の短期的な解決策として国防総省が目を付けたのが日本であった。

「陸軍のダミー会社であった昭和通商に頼まれて、昭和15年、16年の2回にわたって、当時の金で70ー80万円に相当するヘロインをヤミ価格で買い入れた。このヘロインは後に中国大陸に運ばれて南シナでタングステンと物々交換された。」

 これは、1945年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘束され、48年12月に岸信介、笹川良一らとともに巣鴨拘置所を出所した児玉誉士夫の47年7月21日及び23日の調書内容である。

 児玉は、陸軍主導で1939年に三井物産、三菱商事、大倉商事の3社の出資によって設立された昭和通商や海軍管轄の児玉機関上海事務所を通じて、戦時中 にタングステンやダイヤモンド、プラチナなどを調達し、終戦直後には闇市で売りさばき、その売上の一部が自由党の設立資金にまわされていた。

 この児玉調書からタングステン・ルートの情報をつかんだ国防総省と米中央情報局(CIA)によってタングステンの元素記号Wを取った「W計画」が開始さ れる。このW計画には戦前の米駐日大使ジョゼフ・グルーの部下だったユージーン・ドーマンを中心とするドーマン機関人脈やCIAの前身のOSS(米戦略 局)のケイ・スガハラなどが関与した。そして、児玉と協力しながら中国本土に隠されていた500トンのタングステンを市価の6割で国防総省に売却した。こ の代金と利益について、米ニューヨーク・タイムズ紙は、53年の選挙資金として日本の保守政治家に渡されたと伝えている。

 彼らは、理想主義のニューディール派が取り仕切る日本の民主化路線を激しく非難し、日本の再建には天皇制が精神的支柱として必須であり、財閥解体を即刻やめるべきだとする「逆コース戦略」を押し進めた。

 結果としてこの戦略が成功し、経済大国としての今日の日本につながるが、この背景にあったのは、冷戦時代の到来を象徴する朝鮮戦争勃発そのものであり、ジョージ・ケナンのソ連封じ込め政策によって日本がアジアの反共防波堤として位置付けられたためである。

 なお、このW計画は氷山の一角に過ぎず、CIAによる対日秘密資金工作は、冷戦が激化していく50年代初めから60年代まで広範に行われ、数百万ドルが保守政党へ、55年の保守合同以後は自民党に集中的に供与されていた。

 かつての旧ソ連が主導する各国共産党の国際組織コミンテルンを彷彿させるが、当時ソ連や中国のH2機関も日本共産党や社会党を通じた対日工作を行っており、これに対抗する狙いもあったものと思われる。

 ■タングステンから劣化ウラン弾へ

 タングステンに話を戻そう。現在の米国は弾芯に何を使っているのだろう?

 米国はタングステンから新たな弾芯へと切り替えるために、1950年代から軍事利用を目的とした実験を開始する。そして、その特性から戦車や装甲車に撃 ち込むと、分厚い装甲を突き破り、車中を焼き尽くす威力を見出す。1978年頃にはこの新弾芯の生産・配備に入るが、これは戦車を主力とする北朝鮮の機甲 旅団の韓国侵略のシナリオに対応するのが主な理由だったと言われている。

 この新弾芯が大量に実戦使用されたのは1991年の湾岸戦争である。以後、95年のボスニア紛争、99年のコソボ紛争、2001年のアフガニスタン攻撃、そして03年のイラク戦争でも使われる。

 これが劣化ウラン弾誕生の裏側である。劣化ウランは、タングステンと比べて「核のごみ」という性質上、極めて低コストである。そして、何よりもタングス テンの資源埋蔵量の約4割が中国に偏在していることから、米国の潜在敵国である中国への依存を避けたいとの戦略的理由がある(W鉱石の埋蔵量参照)。

 劣化ウランには放射能、金属的毒性から人体、環境への深刻な影響があることは、「湾岸戦争症候群」のデータから、米国こそが熟知している。従って、米軍 産複合体も劣化ウランから再びタングステンへという世界的な潮流に逆らいながら、使用し続けるリスクも当然計算に入れていることだろう。

 中国は最新のイラクデータなどを活用しながら、世界の左派勢力を巻き込んだ劣化ウラン弾使用禁止の一大キャンペーンを行いつつ、北朝鮮を丸飲みすることでタングステンを手中に収め、米国を牽制しながら石油・天然ガス交渉に乗り出すのであろう。

 これに対して米国は劣化ウラン弾への非難の声を黙殺し、朝鮮半島の再民主化を大義名分にレジーム・チェンジ(体制変更)に向けた対北朝鮮工作を行いながら、新たなW計画を発動するのである。

 ■「新たなW計画」の実行部隊

 先月10月25日から2日間の日程でアメリカン・エンタープライズ公共政策研究所(AEI)主催の「日米同盟の変遷 防衛協力と統合の深化に向けて」と題するシンポジウムがキャピトル東急ホテルで行われた。

 ここに前原誠司やプロテスタントの石破茂らとともに登場したのがニコラス・エバースタットと安倍晋三である。ここに更なる因縁も見出せる。

 以前にも紹介したように、米軍産複合体の権化とも言うべきフェルディナンド・エバースタットという人物がいた。フェルディナンドは終戦直後の1945年 9月にエバースタット・レポートを作成、戦争動員の迅速化と兵器開発の中枢としての国防総省、国家安全保障会議(NSC)、CIAの創設を提案した。つま り、この3機関の生みの親でもある。

 W計画をきっかけにフェルディナンドが生み出したCIAを中心に、ドーマン機関人脈に児玉、岸、笹川などの巣鴨組が加わり、日本の裏と表を陰に陽に支配 していくシステムが完成する。同時にこの人脈はブッシュ家をも巻き込みながら、勝共を合言葉に文鮮明率いる統一教会などとともに世界反共連盟(WACL) に結集、グローバルな反共ネットワークが出来上がる。今やこの反共ネットワークが原理主義的な宗教組織に匹敵する存在になっていることが、日本の保守系オ ピニオン誌の一部から読みとれる。 

 このフェルディナンドの孫こそが、『北朝鮮最期の日』の筆者であり、AEIの客員研究員を勤めるニコラス・エバースタットである。

 そして、官房長官に就任した安倍晋三は、巣鴨組の岸信介の孫である。この二人が、冷戦終結の今も日米のネオコンやキリスト教右派を器用に操りながら、世代を越えて対北・対中強硬派人脈の中核として海洋勢力強硬派を構成する。

 彼らが目指す民主化とは、米中衝突に備えてタングステンを米国に送り届ける北朝鮮の豪腕フィクサーを育て上げることかもしれない。しかし、後にロッキード事件でバッサリ切り捨てられた児玉誉士夫の生涯から、彼らの恐ろしさが見えてくる。
 
 彼らと足並みを揃えるかのように、石原慎太郎・東京都知事は今月3日にワシントンの戦略国際問題研究所(CSIS)で講演し、米中間で紛争が起こった場 合に「中国にとって一番目障りな日米安保をたたくために、もし核を落とすなら沖縄、あるいは東京を狙うだろう」と指摘した上で、「市民社会を持つ米国は戦 争で生命の価値観に無神経な中国には勝てない。中国に対抗する手段は経済による封じ込めだ」と主張し、インドやロシアと連携を強化するよう提言している。

 一方でプロテスタントを中心とする海洋勢力強硬派の反共ネットワークとは距離を置きながらも、その動向を注視する集団が大陸勢力の中心に存在する。反共 の本家本元として、神なき共産主義に宗教の自由を迫るカトリックの総本山、ヴァチカンである。吉田茂の孫として英米の海洋勢力本流人脈を受け継ぎながら も、カトリックとして大陸勢力につながる麻生太郎外務大臣誕生は、海洋勢力と大陸勢力とがぶつかる地の波乱の幕開けを暗示しているかのようだ。

 かつて、この二つの勢力に翻弄され、挫折したのが靖国神社にA級戦犯として祀られている松岡洋右である。日独伊三国同盟にソ連を加えた四国協商で米英に 対抗するという野望から、スターリンに対して「政治的、社会的」ならぬ「道徳的共産主義」にまで踏み込んで、「日本には、道徳的共産主義がある。日ソでア ングロサクソンの影響力をアジアから排除しよう」と懸命に訴えたことがある。この神なき共産主義への接近がヴァチカンをも刺激し、二つの勢力に加えユダヤ 勢力をも結集させ、日本は太平洋戦争へと追い込まれていくのである。

 この歴史の教訓から、「敵」と「敵の敵」を冷静に見極めながら、「敵」への安易な接近や小泉首相や石原都知事のように表立って敵を刺激する行為は当面控 えるべきであろう。むしろ、水面下で「敵の敵」を奮い立たせる工作に知恵を絞ればいい。さもなくば、石原都知事の語る核の惨劇が現実になる。あるいは、中 国全土に劣化ウラン弾の雨が降り注ぐことになるのだろうか。
 
(本稿は、増田俊男氏が編集主幹を務める月刊『力の意志』2005年10月号掲載の「北のタングステンをめぐるWの衝撃」に加筆修正を加えたものである。 なお松岡洋右の物語は、まもなく再開する予定のビッグ・リンカー・シリーズにて取り上げてみたい。)

●参考グラフ
W鉱石の埋蔵量(出典:ITIA、タングステン・モリブデン工業会HPより)
http://www.jtmia.com/J/J_statistic1.htm

●主要参考文献

「ジャパニーズ・コネクション 海運王K・スガハラ外伝」
ハワード・B・ションバーガー/著 (文芸春秋)

「阿片と大砲 陸軍昭和通商の七年」
山本常雄/著(PMC出版)

「インサイド・ザ・リーグ 世界をおおうテロ・ネットワーク」
ジョン・リー・アンダーソン、スコット・アンダーソン/共著(社会思想社)

CIA Spent Millions to Support Japanese Right in 50's and 60's
New York Times, October 9, 1994

Shintaro Ishihara, governor of Tokyo spoke at CSIS on "Japan's Future Potential."
http://www.csis.org/index.php?option=com_csis_press&task
=view&id=1462


  園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp
2005年11月09日(水)
中澤英雄(東京大学教授・ドイツ文学)
 筆者は先に、アインシュタインと日本の関係に関する考察を「萬晩報」に2回にわたって書かせていただいた。

アルベルト・アインシュタインと日本
http://www.yorozubp.com/0502/050228.htm
アインシュタインと日本 Part 2
http://www.yorozubp.com/0506/050626.htm

 その中で、巷間に流布しているいわゆる【アインシュタインの予言】なる文章は、アインシュタインのものではなく、虚構であることを指摘した。その根拠は――

(1)どこにも確固たる典拠がない。
(2)内容がアインシュタインの思想と矛盾する。

という2点であった。

 この文章がアインシュタインのもの「でない」ということは確実ではあったが、それでは、これがいったい何「である」のか、ということは、2本の論文では 解明していなかった。しかし、実は「Part 2」を書いているときに、この文章の正体が判明しつつあった。そのことは、「この【言葉】の背後には、明治以降のきわめて興味深い日本精神史の問題が潜ん でいることも見えてきた」という「Part 2」の最後の文章にほのめかされている。

 機会があって、「Part 2」以後の研究も含めて、「アインシュタインと日本」という論文を、『致知』という雑誌( http://www.chichi.co.jp/ )の2005年11月号に掲載することになった。ここでは、その論文のうち、「萬晩報」ではまだ未紹介の部分を簡単に紹介しよう。

 ■【予言】の起源

 【アインシュタインの予言】の元となったのは、田中智学の『日本とは如何なる国ぞ』(昭和三年)という本にある次の文章である。

『どうも日本という国は、古い国だと聞いたから、これには何か立派な原因があるだろうと思って、これまで訪ねて来た日本の学者や政客等に就いてそれを訊ね ても、誰も話してくれない、私の国にはお話し申す様な史実はありませんとばかりで、謙遜ではあろうが、あまりに要領を得ないので、心ひそかに遺憾におもっ て居たところ、今日うけたまわって始めて宿年の疑いを解いた、

そんな立派な歴史があればこそ東洋の君子国として、世界に比類のない、皇統連綿萬世一系の一大事蹟が保たれて居るのである、世界の中にどこか一ヶ所ぐら い、爾(そ)ういう国がなくてはならぬ、というわけは、今に世界の将来は、段々開けるだけ開け、揉むだけ揉んだ最後が、必ず争いに疲れて、きっと世界的平 和を要求する時が来るに相違ない、そういう場合に仮りに世界各国が聚って其方法を議するとして、それには一つの世界的盟主をあげようとなったとする、扨 (さ)ていかなる国を推して「世界の盟主」とするかとなると、武力や金力では、足元から争いが伴う、そういう時に一番無難にすべてが心服するのは、この世 の中で一番古い貴い家ということになる、あらゆる国々の歴史に超越した古さと貴さを有(も)ったものが、だれも争い得ない世界的長者ということになる、そ ういうものが此の世の中に一つなければ世界の紛乱は永久に治めるよすががない、果たして今日本の史実を聞いて、天は人類のためにこういう国を造って置いた ものだということを確め得た』

【田中】世界の中にどこか一ヶ所ぐらい、爾(そ)ういう国がなくてはならぬ
【予言】私はこのような尊い国が、世界に一カ所位なくてはならないと考えていた。

【田中】というわけは、今に世界の将来は、段々開けるだけ開け、揉むだけ揉んだ最後が、必ず争いに疲れて、きっと世界的平和を要求する時が来るに相違ない
【予言】なぜならば世界の未来は進むだけ進み、その間幾度か戦いは繰り返されて、最後には戦いに疲れる時がくる。

【田中】天は人類のためにこういう国を造って置いたものだということを確め得た
【予言】吾々は神に感謝する、吾々に日本という尊い国を、作って置いてくれたことを

 これ以上いちいち田中智学と【予言】の文の比較は行なわないが、【予言】が田中智学の文章を要約・整形して作られていることは明白である。

 田中智学(一八六一~一九三九)は、日蓮主義の宗教家、国柱会の創設者、戦前の日本国体思想に多大の影響を与えた思想家である。「八紘一宇」という言葉は、彼が日本書紀の「八紘為宇」という語句を使って造語したものである。

 ■シュタインからアインシュタインへ――二つの仮説

 田中智学が紹介しているこの言葉の語り主は、一九世紀ドイツの国法学者で、明治憲法の起草にも影響を与えたローレンツ・フォン・シュタインである。明治 の元勲の一人である海江田信義が、一八八七年にウィーンのシュタインのもとで憲法に関する講義を受けたとき、シュタインが海江田にこう語った、と田中智学 は書いている。

 もうおわかりであろう、【シュタインの言葉】がいつの間にか【アインシュタインの言葉】にすり替わってしまったのである。

 それでは、【シュタインの言葉】がなぜ【アインシュタインの言葉】に変じたのだろうか。それには二つの仮説が考えられる。

 (一)ある創作者が、上の文章を利用して、【アインシュタインの言葉】を創作した。彼はなぜアインシュタインの名を騙ったのか? 今日では、ローレン ツ・フォン・シュタインと言われても、どういう人物か知っている人はあまり多くはない。【シュタインの予言】ではインパクトがないのである。あくまでも天 才物理学者アインシュタインが言ってこそ、ありがたみが出てくる。金子務氏によると、世界中で日本ほどアインシュタインの人気が高い国はないそうである。 創作者は、名前の類似性を利用して、シュタインをアインシュタインにすり替えた。

 (二)元来、【アインシュタインの言葉】には特定の創作者はいなかった。【シュタインの言葉】として知られていたものが、名前の類似性から、ある時点か ら【アインシュタインの言葉】として誤解されて流通し始め、人から人へと引用されていくうちに、文言が変えられていった。

 現在のところ、筆者は(一)(二)のいずれの説を採るべきか決めかねているが、【アインシュタインの言葉】には、「世界の文化はアジアに始まって、アジ アに帰る。それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない」という、【シュタインの言葉】にはまったく対応文が存在しない文があるので、やはりある時点 でこの文章を挿入した特定の人物がいたことは否定できない。

 ■最後平和の使命

 次に疑問になるのは、田中智学が伝える【シュタインの言葉】は、本当にシュタインが語った言葉なのだろうか、という問題である。

 実は、海江田信義がシュタインのもとで受けた講義の筆記は、『須多因氏講義』として一八八九年に宮内省から刊行された。その後、いろいろな版が出たが、 今日では『明治文化全集』(日本評論社)の第一巻「憲政篇」に収録されている。今回、『須多因氏講義』を読んでみたが、そこには、日本(あるいは天皇)が 「世界の盟主」となって世界平和が樹立されるであろう、というような【(アイン)シュタインの言葉】に見られる「予言」はどこにも見出されなかった。シュ タインの思想と田中智学が伝える【シュタインの言葉】は、かなり異なっているのである。

 実は「世界の盟主」論は、田中智学自身の思想にほかならなかった。彼は、『日本とは如何なる国ぞ』より以前の『天壌無窮』(大正四年)という著書で、シュタインに言及することなく、こう書いている。

 「世界の将来には、一度は必ず世界をあげての大戦乱が来り、各国ともに其にこりこりして、真の平和を要求する様になる時が来て幕が開(あ)く、その時こ そ、かねがね此平和の為に建てられてある日本は、勢い「最後平和の使命」を以て登場して、世界渇仰の下に、這(この)始末を着けてやらねばならぬ役回りと なる」

 世界各国が自国の利益を追求して抗争しているかぎり、世界はいずれ大戦乱に見舞われる。世界が混乱の極みに達したときに、日本(の天皇)を中心にして世 界平和が樹立される。世界統一(八紘一宇)、世界平和の実現こそ、神国にして法華経国である日本に生まれた日本人の果たすべき天業(天命)である――これ は、神武天皇の建国神話と、「前代未聞の大闘諍(だいとうじょう)一閻浮提(いちえんぶだい)に起るべし」(『撰時抄』)という日蓮の予言とを結びつけ た、田中智学独自の予言なのであり、それを彼は時々シュタインの名を利用して語ったのであった。

 田中智学によれば、世界は本来、道義的に統一されるべきなのであるが、この「最後平和の使命」は、現実的にはやはり「大武力」なしには達成されない、と彼は考えた。こういうところから、彼は今日では一般的に、軍国主義の先導者としてきわめて否定的に評価されている。

 田中智学は日米開戦の二年前に他界するが、彼の思想は、彼の弟子・石原莞爾の『最終戦争論』へと受け継がれた。軍人である石原は、師の思想に軍事学的な 精緻化を加味し、世界最終戦争は、これまで存在しなかった恐るべき新兵器――石原は「殺人光線」を予想した――を用いて、東洋の盟主・日本と欧米のチャン ピオン・アメリカの間で戦われ、天皇を戴いた王道国家・日本の覇道国家・アメリカに対する勝利に終わり、統一世界が実現することになる、と予測したのであ るが、その予測の結末がどうなったかは、日本人すべてが知っている。

――【アインシュタインの予言】として知られている言葉は元来、アインシュタインのものでもシュタインのものでもなかった。国体思想家・田中智学に由来するものであった。

 ただしそこには、大戦争のあとに日本が世界平和のために重要な使命を果たすであろう、という思想が含まれていた。それは、国土を焼き尽くされ、戦地と本 土で多くの肉親を失い、広島・長崎には原爆を投下され、骨の髄まで戦争の悲惨さを体験し、心の底から平和を希求した戦後の日本人の心に強く訴えかけたに違 いない。それが、愛国心の鼓舞とアインシュタインの名声ともあいまって、この「予言」を人口に膾炙させた秘密なのであろう。田中智学の「予言」は、彼の予 想とはまったく異なった文脈で日本人の心をとらえたのである。

 今年は奇しくもアインシュタイン没後五〇周年、終戦六〇周年、広島・長崎被爆六〇周年の節目の年でもある。この時にあたり、日本人はいかにして「最後平 和の使命」を達成すべきかをもう一度考えてみるべきであろう。それが「大武力」によってなされるのでないことだけは、たしかである。

※『致知』に発表した論文全体は、以下にpdfファイルとしてアップしてあります。
http://deutsch.c.u-tokyo.ac.jp/~nakazawa/others/chichi.pdf

 中澤先生にメール mailto:naka@boz.c.u-tokyo.ac.jp

このアーカイブについて

このページには、2005年11月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2005年10月です。

次のアーカイブは2005年12月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

月別 アーカイブ

ウェブページ