2005年10月アーカイブ

2005年10月22日(土)
萬晩報主宰 伴 武澄
 8月17日に書き始めた「アイ・アム・ノット・チャイニーズ」の続編がやめられない。いつまで続くか分かりませんが、また40年前の思いを書き続けることにしました。

 南アフリカに長くいると精神がおかしくなる。そう思い、筆者と姉はプレトリアでの生活を2年と決めて、1967年に帰国した。

 高校3年の姉と高校1年の筆者に父親は真っすぐ日本に帰ることを許さなかった。できる限りアフリカの地を見られるような日程を組んでくれた。18歳と 16歳の姉弟が立ち寄ったのはソールスベリー、ザンビア、エンテベ、ナイロビ、アジスアベバ、カイロ、バグダッド、テヘラン、ニューデリー、香港、台北 だった。今から考えれば、豪勢な旅だ。

 当時の航空会社は次の乗り換え便がその日の内にない場合、1泊の費用を負担するというシステムがあったおかげでほとんどホテル代がいらなかった。という より父はそういう便をわざわざ選んで日程を組んでくれていたのだった。

 まずは北隣りのローデシア(現ジンバブエ)の首都ソールスベリーに立ち寄った。プレトリア同様、ジャカランダの美しい町であるが、いまやそんな国が存在していたことさえ忘れ去られている。

 ヤン・スマッツ空港で体験した最後の人種差別は、ソールスベリー行きの飛行機でもあった。二人の搭乗は一番最後で、しかも座席は機体の最後尾の席が用意されていた。

 ローデシアはその昔、南部アフリカを開拓したイギリス人、セシル・ローズにちなんで名付けられた。ローデシアも南アと同様に温暖な土地で白人が多く入植 していた。その白人たちは自らの利権を守るために決起、代表イアン・スミスは1965年11月、首相となって一方的に独立を宣言した。つまり第二のアパル トヘイト国が誕生したのだ。

 驚いたのは当時、南アには400万人の白人がいてその4倍の黒人を支配していたのだが、ローデシアではたった20万人の白人が20倍の黒人を支配するこ ととなったことだった。当時のアフリカ統一機構(OAU)ははげしくローデシアの動きを非難したが、たった20万人の白人政権に世界はなすすべを知らな かった。

 この国は南ア以外に承認されることなく15年で消滅して、黒人国家ジンバブエが誕生するのだが、宗主国のイギリスは武力を行使してまで独立を阻止しな かったし、アメリカはベトナムで社会主義陣営と対峙していて南部アフリカで起きた出来事に関心は薄かった。一方的独立に対して世界各国は経済制裁をしたも のの、南アを通じて物資はいくらでもローデシアに流れたから、スミス政権は強気だった。

 15歳の筆者は「イギリスはなんて腰抜けなのだ」と思った。困ったのは、西隣のザンビアだった。世界有数の銅鉱山を抱えていたが、輸出のための鉄道が ローデシアを通っていたから国難となった。OAUの一員として人種差別国の誕生を認めるわけにはいかないが、鉄道という生命線をその人種差別国に握られる ことになった。

 戦後アジア・アフリカ諸国は相次いで植民地支配から脱却した。中国の周恩来、インドのネルー、インドネシアのスカルノ、ガーナのエンクルマ、エジプトの ナセルはそうした国々の輝ける指導者たちだった。1955年、インドネシアのバンドンにアジア・アフリカ会議(AA会議)を開いた時は絶頂期を迎えてい た。

 しかし60年代に入ると、彼らの指導力にも陰りが見え始めた。政治的独立は必ずしも経済的自立を意味しなかった。独立後に国民が求めたのは「食べる」と いうことだった。多くの国では貧困が政治不安をもたらした。アメリカとソ連による東西対立はそうしたアジア・アフリカの政治不安を増幅させた。

 やはり、アジア・アフリカは自立できないのか。40年前、そんな思いが思春期の筆者を悩ませた。(続)
2005年10月17日(月)
長野県南相木村国保直営診療所長 色平哲郎(いろひらてつろう)
「近 代国家」とは、封建社会が崩れた後の「領土・国民・主権」を確立した中央集権的な国家とひとまず定義できるだろう。日本は、明治維新によって幕藩体制が打 ち壊され、近代国家として歩み始めた。と、ともに医療の仕組みも「欧州モデル」の導入によって先進諸国に「追いつき、追い越せ」と整備された。第二次世界 大戦の敗北によって、さまざまな分野で米国発の「民主化」が図られたとはいえ、「領土・国民・主権」を備えた中央集権的な近代国家の枠組は、いまも基本的 に変わっていない。

この資本主義経済を柱とする近代国家は、法に基づいて制度を「均質化・均一化」する特徴を持つ。政治・行政機構が一国を支配するためには均一化された共通の仕組みが不可欠なのだ。

日本国中どこへ行っても「円」が通用し、保険証一枚あれば誰でもいつでも医療機関にかかれる「国民皆保険制度」が成り立っているのも、その証であろう。

ところが、均一化された仕組みを前提とする社会では、その仕組み自体が「高度化」の名において手段から目的へと本末転倒しがちになる傾向もある。その最た るものが「資格」の世界である。資格を取ることが目的となり、ひとたび試験に合格すれば既得権をかちえたかの錯覚に陥る人が少なくない。資格とは、通行手 形のようなもので、その関所を越えてから何を行うかが近代の課題であり、その先に目指すべきゴールがあったはずだ。

われわれ医師は、1948年に制定された「医師法」によって、免許・試験・業務などを細かく規定されている。医師資格がなければ、患者さんを診療できな い。専門的な医学知識がなければ患者さんの生命を危険にさらす。医師資格は、求められてしかるべきである。誰もが、そう思うし、医師資格を否定する気は毛 頭ない。が、あえていえば、資格の関門を突破したあとの「振る舞い」にこそ、医療の本質が現れるのである。

敗戦前、信州の山奥に「ドイツ語が読めない」医者がいた。地元の警察署長は「慶応大学出身」と自称する、その医者がニセモノだと突き止め、ある日、鉄道駅 に警官を緊急配備。身柄を拘束すべく、水も漏らさぬ態勢を敷く。署長はニセ医者逮捕に自信満々だった。

だが......、ニセ医者は非常線をかいくぐって姿を消した。

佐久総合病院名誉院長・若月俊一氏は鶴見俊輔氏との座談「社会とは何だろうか」(晶文社)のなかで、医者が逃亡できた理由を次のように語っている。

「村の人がこっそり助けたんですね。なぜかというと、とってもいい医者だったらしいんです。いままで村に来た医者のなかでいちばんよかったと村人は言っていたという。」

「まず第一に、腰が軽くて、よく往診に来てくれる。そして実際によく治ったというんですよ。その前にいた医者なんか、博士号はあるんだけど腰が重くて来て くれない。一日に七人以上の患者はぜったいに診ない、それ以上診ると乱診になるという理屈なんです。いばってばかりいて、しかもお金にはきたなかった。」

「それに比べれば、あの医者はほんとうに親切だった。それだから、そこの青年団も婦人会も、あの医者をもういっぺん呼びなおすわけにはいかないかと言った んですね。でも、ニセ医者ですからね(笑)。前にいた博士医者は、その博士号の上にあぐらをかいていた。ニセ医者のほうは、一所懸命に努力した。......こう なるとどっちがほんとうの医者かわからなくなる」

おそらくニセ医者は、自分が免許を持っていないという永遠の負い目から少しでも本物に近づこうとたゆまぬ努力をしたのだろう。村人の目線に立ち、村人の満 足を引き出すにはどうすればいいかを考えた。その結果、あれこれ勉強もし、身を粉にして診療に取り組み、「名医」と信頼されるまでになった。ニセ医者の立 脚点は、資格ではない。人間として医療にいかに携わるかであったろう。

じつは、この人間が人間として人間のお世話をするという行為は、近代医療が確立される遥か昔から人々が行ってきたこと。つまり医療の原点だ。それは、資格 の有無で詐欺かどうかを問う近代の基準点とは必ずしも合致しない。原点といっても、針で突いたような点ではない。原点のほうが、近代の価値基準よりも広 く、大きいのである。

国際的に重要性が叫ばれている「プライマリー・ヘルス・ケア」とは、この原点における医療行為を指す。第三世界の劣悪な医療環境下では、医師資格など持っ ていない医学生や保健師、看護師たちも限られたマンパワーを生かすために診療行為に携わるケースがある。そこで問われるのは資格の有無ではなく、人間とし て人間のお世話をどのように行うかという実効力なのだ。当然、病気を予防するための保健・衛生も含まれる。

「プライマリー・ヘルス・ケア」とは、身近な一般医による「プライマリー・ケア」(初期治療)とは異なって、プライマリー・ケア以前の予防措置を含む広大な領域に根を張っている。

そして、現代日本の高度化する医療現場においてもまた「プライマリー・ヘルス・ケア」の発想が求められているのである。前述の座談会で若月氏は、こう語っている。

「予診のなかにすべてがあると言ってもいいと思うのです。ところがいまの若い医者が大学の医局から来ますとね、予診なんかバカにする。(中略)ほんとうは 予診がいちばんだいじなんで、その人の訴えを聞くことから、いろんなその人に特有な病状や、それを引き起こした生活条件などを知ることができるんですから ね。」

「たとえば、父ちゃんが出稼ぎに出ていて、母ちゃんが『半年後家』の暮らしをしているなら、その母ちゃんの高血圧にはイライラからくる精神的なものが多い に違いない。そうすれば、血圧降下剤には神経をしずめるものをおもに使ったほうがよい(略)」

近代は、人間に多くのものをもたらした。一方で失ったものも少なくない。せめて、原点だけは常に見定めておきたいものだ。

 色平さんにメール mailto:DZR06160@nifty.ne.jp

地球環境と葵

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2005年10月10日(月)
アメリカン大学 客員研究員 中野 有
 ワシントンで京都という言葉が頻繁に登場する。地球環境問題を問いかける京都議定書を支持しなかったブッシュ政権と米国南部を襲った巨大ハリケーンの予想外の被害は関係ないとしても、米国民は地球環境問題の重要性に目覚めたようである。

 ジョージタウンを子犬(プードル)を連れて歩いているとよく声をかけられる。子犬に話しかけられるのだが、「どこから来たの」の返事に京都からという と、かなりの確率で地球環境問題に行き着く。今や京都のイメージは、地球環境問題と日本文化である。

 その故郷、京都に帰った時、毎朝、上賀茂神社と下賀茂神社に行き、神社の清清しさに触れ、自然と調和するのが楽しみである。アフリカに4年、ヨーロッパ に5年、アメリカに4年住み世界を観てきたが、この自然の雅は、世界にないと感じる。子供のときに感じた賀茂社の空気を今も同じように感じる。あの懐かし い空間が世界でも稀なる自然でその環境で育ったことをうれしく思う。

 賀茂神社で藤原家隆が詠んだ「風そよぐ ならの小川の夕暮れは みそぎそ夏のしるしなりける」。このならの小川のせせらぎに触れながら、ふと昔は、葵が 茂っていたのだろうと想像してみた。絶滅しかけたホタルやメダカを守り増やす活動が盛んなように賀茂社の神紋の葵の草が、清い川に映えるプロジェクトが生 まれれば素晴らしい。いかにも東洋的な京都を象徴する葵が地球環境問題のメッセージとして重要な意味を持っているような予感がしてならない。

 徳川将軍のシンボルである三つ葉葵は、賀茂神社の神紋であるフタバ葵に由来する。葵はワサビ科の植物で美しい川辺に群生する。みずみずしい生命力の象徴が葵であり、賀茂社や徳川家のご紋になったのも自然環境に関係している。

 下賀茂神社は崇神天皇、二千年以上前に神社の端垣の修造が行われたのとの記録が残っている。上賀茂神社は、678年、天武天皇の御代に社殿の基が造営さ れた雷の神である。毎朝、千年以上もかかさず五穀豊穣、世界平和のお祈りがされているとの説明を、神殿で聞いた。今年4月から、神殿でのご祈祷に一般も3 千円で参加できる。約3時間かけ神官から説明を受けたのだが、本当に勉強になった。まだ一般に知られてないようで、3人だけの参加となった。読者の皆様が 京都に行かれる機会があれば、是非、上賀茂神社の朝のご祈祷に参加されることをお勧めする。

 11月にブッシュ大統領が京都を訪れる。アメリカはハリケーンで前代未聞の被害を被った。今年は自然災害の中り年である。天地風雨の自然の神がある京都 にブッシュ大統領が訪れることによりアメリカの厄除けになることを切に願う。そして京都のイメージが地球環境問題の基軸となり、ブッシュ大統領が地球環境 問題に真剣に取り組むことを希望する。

 加えて、葵が身近に見られるようなすがすがしい自然環境が復活するようなプロジェクトが始まれば素晴らしいと考える。大政奉還は、天皇と徳川の両者が主 役であり、そのシナリオを描いたのが坂本竜馬であった。天皇家も徳川家も大切にした葵には、日本のみならず世界に伝えるだけの重要なメッセージが秘められ ているような気がしてならない。こんな話を、萬伴報の伴さんと竜馬ゆかりの地、京都の清水の明保野亭で行った。

 中野さんにメールは mailto:tomokontomoko@msn.com

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