2005年9月アーカイブ

2005年09月28日(水)
萬晩報主宰 伴 武澄
 マハトマ・ガンジーがインドに目覚めたのは南アフリカだった。約100年前、新進気鋭の弁護士として赴任した。赴任したとたんに体験したのが強烈な人種差別の洗礼だった。

 ナタール州の州都ダーバンからヨハネスブルグに向かうため、ガンジーは列車の切符を購入した。弁護士であるから当然のように一等席を予約した。まもなく やってきた列車の車掌にインド人が一等席に座っていることをなじられた。ただちに二等車に移るように言われ、抗議すると車掌はもよりの駅でガンジーを列車 から突き落とした。

 この時の屈辱体験がガンジーをして後に反英闘争に走らせたきっかけとなる。それまでのガンジーは、イギリスによるインド支配に対して、慣れっこになって いたのかもしれない。南アでのガンジーはイギリスの弁護士資格を持ったれっきとしたイギリス国王の臣民であるはずだった。臣民であるガンジーが南ア人に差 別されるいわれはなかった。そのイギリス国王の臣民が南アの列車から突き落とされて初めて自分のインド人としての立場を知るのである。

 山下幸雄著『アフリカのガンジー(若き日のガンジー)』(雄渾社、1968)にそのあたりの事情が詳しく書かれているのだが、どうしても理解できなかったのは、ガンジーの「同じイギリス王を戴く臣民である」という意識だった。

 筆者の南アでの体験からすれば、南アにはホワイトとノンホワイトしかいなかった。申し訳ないが、日本人よりも色の黒いガンジーが「あちら側の人間」でいられるはずがない。偉そうな話だが、当時の筆者はすでに「ガンジーの限界」を感じていた。

 ともあれ10年前までの南アフリカという国にはアパルトヘイト(人種隔離)が厳然としていた。戦後、植民地は次々と独立し、民族自決がようやく実現したように見えるが、欧米社会は引き続き、南アの人獣差別社会を容認し続けたのである。

 実は1960年代初頭のアメリカでも制度としての人種差別が存在していた。白人と黒人の学校は別々だったし、バスなどの公共交通機関もそれぞれ違う乗り 物だった州が少なくなかった。「ドライビング・ミス・デイジー」という映画をみた方も少なくないと思う。主人公の老女デイジーと、初老のベテラン黒人運転 手ホークとの友情を描いたものだが、映画の背景にはアメリカ南部で人種差別が日常化していた生活が描かれている。

 戦後の国際社会は民族自決だとか民主主義という理念をそこそこ共有しているが、戦前の国際社会はまさに弱肉強食である。日本が満州国を設立して国際連盟が日本を批判したがそれだけだったし、ナチス・ドイツがチェコのズデーデンを併合してもイギリスは兵を挙げなかった。

 それはそうだろう。イギリスはインドだけでなく東アフリカから南アまで、そしてマレー半島とボルネオ島の来た半分を領有していた。石油の宝庫である中東 もまた完全にイギリスの支配下にあった。アメリカはフィリピンを支配下に置き、西インド諸島で覇権を握っていたのである。すべて武力による領有または支配 だった。

 第二次大戦の最中、アメリカのルーズベルトとイギリスのチャーチル首相は戦後の民族自決をうたった大西洋憲章に署名したが、その席上、チャーチル首相は「それでもインドはイギリスのものである」と述べたようにイギリスは戦後もインドを放棄するつもりはなかった。

 そんな状況下でガンジーは無抵抗運動を繰り返していたが、第二次大戦が始まった時、インド国民会議派の多くのリーダーたちは「いまこそインドが立ち上が るべきである」と反英闘争の開始を促した。しかしガンジーは「イギリスが困っている時に反英闘争は起こせない」といって腰を上げなかった。ガンジーのそん な深層心理が不思議でならなかった。(続)
2005年09月22日(木)
萬晩報主宰 伴 武澄
 ダイエーの中内功さんが19日亡くなった。遅ればせながら評伝を書きたいと思う。

 筆者が知っている中内さんは90年代の価格破壊の中にあった。1985年のプラザ合意以降、日本の円がどんどん高くなり日本から世界への輸出が難しく なっていった。一方で、輸入品の価格は一向に下がらなかった。円高がもたらすはずの消費者への恩恵がない。政策的な円高が求めていたはずの構造改革が進ん でいなかったということだ。

 中内さんはこのことに怒った。ダイエーは価格を50%下げるといった。スーパーの売り上げは毎月落ち込んだ。量は増えてもその先から末端価格が下がるか ら売り上げが増えるはずがない。売上高が落ち込むことは企業にとって利益を生み出しにくくすることだ。当時すでにダイエーは困っていたのだろうが、意に介 していないようにみえた。中内さんは毎月、流通クラブにやってきてわれわれと昼食をともにしながら語った。

「消費者物価が下がれば、国民の生活レベルは上がるのだ」。そう繰り返した。右肩上がりの経済しか念頭になかった当時の新聞記者たちにどれほど思いが伝わったかどうか、分からないが「ダイエーが率先して日本の価格体系を破壊する」という意気込みが伝わっていた。

 価格破壊の思いは流通業界に共通していたから、マスコミは流通業界のリーダーたちを新しい時代の担い手として持ち上げた。ビールや化粧品の格安店が区々 に出現してメーカーの価格拘束と闘っていた。1989年の消費税の導入では流通業界が反対勢力の先鋒を担っていたから彼らはそのままマスコミでの登壇が続 いた。

 その中で生まれたのは「西友消費者物価」だった。流通業界が政府の消費者物価にかみついたのだ。「政府の調査では毎月同じ店で同じ商品の価格を調査して いるが、消費者はもはや百貨店でスーツは買わない。アオキとか青山で買うでしょ。消費者が購入している物価は半分に落ちているのに政府統計にはそのことが 反映されていない」。

 われわれは中内さんたちの主張が正しいと思った。「だったらどこかで物価指数を計算してよ。みんな掲載するから」というわれわれの要求を当時西友の専務だった坂本春生さんが受けた。東京商工会議所ビルのエレベーター前で決まった。流通業界のスピード感が心地よかった。

 なにしろ1993年の夏には自民党支配が崩壊し細川内閣が成立していたから、世の中は何かが変わるという期待感に充ち満ちていた。

 コンビニで弁当を売り始めたのはセブン―イレブンなのかローソンなのか忘れたが、中内さんとの月一回の会食はいつもローソン弁当だった。コンビニ弁当の存在を宣伝したかったのかもしれない。

 それまで弁当は家でつくるもので「買う」ものではなかった。その結果、外食ではない「中昼」という概念が生まれた。外食産業が低価格メニューを相次いで 導入するのはこの「コンビニ弁当」への対抗策だったことを忘れてはならない。付け加えればダイエー系のフォルクスというステーキハウスでは1000円を切 るステーキランチも売り出した。

 ダイエーの価格破壊の究極は、ベルギー企業と提携して128円という缶ビール「ベルゲンブロイ」を輸入販売したことだった。1993年のことである。 350ミリリットル入り缶ビールが225円だった。ビール各社は「80数円のビール税を払うと赤字のはずだ」と開き直ったが、低価格ビールを生み出す契機 はダイエーの128円ビールにあったのだと今でも思っている。この「ベルゲンブロイ」はその後ビール各社が売り出した発泡酒に押されて存在感をなくした が、価格破壊の象徴として一時代を画した。

 日本ではいまだに構造改革が選挙の争点となっている。プラザ合意から数えると20年になろうとしている。いかに抵抗勢力が強いかが分かる。価格体系から 給与体系にいたるまで日本は1ドル=100円時代に生きるための体質改善を余儀なくされていたのだが、いまだにその重要性が十二分に認識されていない。そ れはきっと日本経済における「官」の領域が大きすぎることに由来するのだとずっと思っている。

 なにしろ20年前といえば、筆者が共同通信本社の経済部記者としてデビューした年である。プラザ合意の意味も分からぬままに始まった経済記者が現場取材 の年齢を終えて、デスクとなり、さらに整理マン、管理職としての支局長になる長ーい年月を経ていることを思えば、なんとも情けない気分にさせられる。

 その昔、中内さんはかの松下幸之助時代の松下電器産業と全面戦争をしたことがある。ダイエーの安値販売に松下が「出荷停止」で報復、中内さんは逆に松下 製品を店頭から排除した。そのころの中内さんは「たかがスーパーの店主」だったが、大松下と渡り合うその姿勢には「任?道」に通ずるものがあった。

 常に消費者側にいようとする姿勢は阪神大地震でも現れた。村山首相が「自衛隊の派遣には知事の要請が必要」とまごまごしている最中に、中内さんはその日 のうちにヘリコプターで多くの食料品と救援物資を運んでいた。また東京-高知を運航していたフェリー「サンフラワー」は真っ先にダイエーにチャーターされ て、救難物資を運ぶとともに神戸沖の船上救援拠点として活躍した。

 当時、農水省を担当していた筆者らは、大震災の午後、農水省が発表した炊き出しに怒り心頭に達していた。地震発生から12時間ほど経っていた時点で「お にぎり500個」というなんとも現実離れした"支援策"を打ち出したのだった。「中内さんが首相だったら」。当時の記者クラブの誰もが思ったことだった。

 その後、ダイエーは2兆6000億円という巨大な借入金が経営の重荷となり、中内さんはダイエーのすべてを失うことになる。成功者の人生の必ず功罪が問われるが、中内さんが日本の消費者に残したものはまだまだ大きく輝いている。合掌。
2005年09月20日(火)
ギターボーカリスト 兵頭ニーナ
  今日は1週間程前に申請したビザ延長の許可がおりる日。レラに付き添ってもらって車で外務省に向かった。地図ではさほど遠く見えななかったが、道路が広い 割には一方通行が多いので、ぐるぐる回り道してタツミンダホテル1階にある外務省に着いた。中に入ると正面は横に長~いカウンターになっていて、ほとんど の人が一番奥の窓口に向かってどどどっと詰めかけていた。並ぶということを知らないみたいだ。

 そうなるとなるべく人をかき分け、前に進み大きな声で受付嬢の視線をこちらに向かせさっさと用件を伝えてしまったほうが勝ち!と言った具合だ。何しろレ ラは178センチという長身に中ヒールを履いてるから迫力抜群。私の手を引いてたったと前に進んでも誰も文句を言わない。

 不思議だ。日本だったら回りから非難を浴びてとてもこんなことは出来ないだろう。

 カウンターで名前を告げて待っても書類をはなかなか出てこない。レラが「もう書類はとっくに出来てるでしょう。忙しいんだから早くして!」と何度も大きな声で請求するので、私の方が少し恥ずかしくなった。

 やっとのことで小さな紙きれ2枚を受け取ったが、今度はグルジア銀行に行って支払いが必要なのだと言う。エムザリの車に戻り、少しばかり坂道を降りていく。

 銀行でも人がいっぱいだった。さすがにここではセキュリティーがうるさく、お行儀良く長い行列が出来ていた。30分ほど待って、小さな部屋に入りコンピューターのキーをたたいている若い女性に先ほどの紙を渡したら、愛想も無く「これでは駄目だ」と突っ返してきた。

 レラはかんかんに怒ってグルジア語でまくしたてたが、一向に埒があかない。すったもんだの末「もう一度外務省に行ってくるから!」と私を椅子に座らせ、レラが飛び出て行った。

 彼女のがつがつと床に響く靴の音が怒りをあらわにしていた。

 することも無く、ふと目の前のコンピューターを見ると富士通と書いてあってほうっと思った。この部屋では手続きを終え支払いを済ませて外に出て行った人 数分、次の人が入ってくるシステムになってるらしいが、そのうち一人出ると2人3人と入り込み6畳くらいの部屋がたちまちいっぱいになった。

 気が付いたコンピューター嬢が一人づつですからね(たぶん??)と言ってにらみつけるがさっぱり効果がない。たまりかねてドアのところに行って数人追い出した。しばらくするとまた同じことになる。ほとんど幼稚園生を見てるようで可笑しくて笑いそうになった。

 やっとのことでレラが戻って来て、列を外してかっかと歩いてきた。何人かの人が文句を言ってるらしいが、「うるさい!」と大きな声でどやしつけ中に入ってきた。30ドル払って領収書をもらい、再び外務省に戻りようやくパスポートを受け取ることができた。

 やれやれである。レラには本当に有難う。しかし何ともめんどうなシステムに腹がたつ。独立はしたもののまだまだソヴィエト時代の体制が残っているよう だ。若いサーカシュヴェリ大統領はアメリカで勉強したと聞くが、ここ数年の間にロシア兵が撤退、アメリカ兵と入れ替わるらしい。できれば最新のアメリカの 各システムも出来うる限り早く導入してごく普通のライフラインを確立、国民のストレスを無くして欲しい。

 当たり前のようにお知らせも無く、半日水も無く電気も無い生活というのはどうにもがまんならない。このグルジア一番の都会トビリシにあってこれだから田舎のほうの不便さは想像にあまりある。国民は我慢強いのかあきらめてるのか。やっぱりあきらめのほうが多いんだろうね。

 でもあきらめないで。私のグルジアがんばれ! 

 ニーナにメール mailto:nina2173@v7.com
2005年09月19日(月)
萬晩報主宰 伴 武澄
  総選挙から一週間がたった。民主党の代表選挙はほとんど関心がなかった。大敗した政党の代表の責任論と去就はともかく。立て直し役の選出が連日新聞の一面 トップを飾るなんて笑止ものだ。それこそ静かに時間をかけて行うべき作業で、フラッシュライトを浴びるような立場にはないはずだ。前原誠司氏という若い世 代が新しい代表に選ばれたことはめでたいことだが、勘違いをしてもらっては困る。

 解党的出直しとして新しい民主党の代表を選ぶのだったら、議論を闘わせた上で、前回同様に党員・サポーターによる代表選びをするべきだった。特別国会に 党の代表が必要なら、適当な人を代表代行にして、首班指名も自由投票ですんだはずだ。どうころんだって民主党から首相が生まれるはずはないし、郵政民営化 法案の審議で与野党が真っ向から対決することもないのだから、当面は代行で十分だ。泥縄式に両院議員総会で代表選びをしたことは国民的政党の意に反する行 為だったと思う。

 仲間うちで、総選挙での民主党の敗因を議論するなかで「そもそも民主党の党員って聞いたことある?」という疑問に突き当たった。調べてみると前回、岡田 さんが選ばれた代表選挙当時の党員はたった3万人しかいなかったそうだ。

 今回の自民党のように造反すべき組織すらなかったというのが残念ながら、民主党の現在の地方組織ではないかと思う。

 民主党は烏合の衆であることはことあるごとに指摘されてきた。なんとはなしにムードが先行して「二大政党」の片方の雄のような気持ちにさせられていた が、よく考えると党員が3万人ではどうにもならない。労働組合への依存から脱却したら実は何もなくなるかもしれないほど基盤が脆弱なのだ。

 日本共産党だって党員が40万人いて、全国支部が2万4000もあるのだそうだ。機関誌「アカハタ」は日曜版を含めると173万部なのだそうだ。共産党 並みとはいわないが、国民政党としてずかしくない党員と地方組織の整備が急務だと思うのだが、どうだろうだろうか。そう日刊の機関紙の発行も不可欠かもし れない。

 解党的出直しを余儀なくされている民主党にいま必要なのは風に吹き飛ばされないような全国組織の確立なのだ。そう思えて仕方ない。民主党には労組からの 上納金があるかとどうかは知らないが、日常の党の運営費ぐらいは党費なり機関誌の購読料から賄えないと国民的政党とはいえない。

 一方で自民党の地滑り的大勝により郵政民営化は国是となってしまった。"国民投票"で決まったのだから、もはや衆・参両院の議論は不要であろう。粛々と 衆・参本会議だけで決着させたらいい。犯人とトリックが分かってしまった推理小説をもう一度読むバカはいない。やったふりの委員会審議のやりとりは国民と しても聞きたくないだろう。

 それにしても郵政民営化反対を唱えて無所属で立候補し当選した議員さんたちに問いたい。「あなたたちに投票したのは小泉さんが嫌いかもしくは郵政民営化 に反対する人たちでしょう。どういう顔で首班指名で小泉さんに投票できるのですか」。せめて次の選挙までは自らの主張を貫かないと投票してくれた有権者を 裏切ることになる。
2005年09月14日(水)
萬晩報主宰 伴 武澄
  与党の自民・公明で327議席。総選挙の結果はだれもが驚くものだったに違いない。小泉自民党に風が吹いたことは確かだが、小選挙区制というものは争点次 第でどちらかに大きくなびくのだということを知らされた。自民党執行部は決してこの結果を喜んでいるはずはない。ポスト小泉の選挙で逆のことが起きても不 思議はないということに不安を抱いているはずだ。

 今回の総選挙の争点は「郵政民営化」だった。何と言っても衆院を解散した小泉さんが「国会で否決された民営化法案の是非を国民に問いたい」と論戦を挑んでいるのに、岡田さんは「争点は年金と子育てだ」と言った。この時点ですでにボタンの掛け違いがあった。

 小泉さんは春先から熱を帯びていた国会での郵政民営化の論戦を"場外"である選挙という場に持ち込んだ。これについての議論はあるものの、選挙が戦いで ある以上、同じ"土俵"で闘わざるを得ない。だのに違う土俵を書いて「戦場はここだ」と言っても勝負にならない。有権者から「岡田さんは論戦を避けた」と いう印象を受けても仕方ない。取り巻きを含めて岡田民主党の敗因はずべてそこにある。そう思う。

 小泉さんの勝因は何度も言うが、自民党の一番ダーティーな部分を切ったことだ。まだ完全に切ったとは言い切れないが、少なくとも政党としての既得権益の相当部分を断ち切ったことは確かだ。これからの仕事は最後の砦である官僚の既得権益をどう切り崩すかだ。

 既得権益という立場では、これまで官僚と自民党は二人三脚的だった。持ちつ持たれつの関係にあった。予算と情報を共有することによってお互いがお互いを 必要としていた。官僚はいつだって自民党の族議員に配慮して予算を編成、その余慶としてちゃっかり天下りポストをつくるするなど自らの退職後の収入源を確 保してきた。

 これまで以上に予算を含めて首相官邸が行政の指導権を握ることになる。後ろ盾を失った官僚はこれからどう行動するのか。ポスト総選挙の見せ場は見ものである。

 実は小泉さんの役割は「自民党をぶっ壊す」ことにあったのだと思う。この人にぶっ壊した後のことを期待してはいけない。明治維新もそうだったが、幕府を ぶっ壊す役割と明治政府をつくる役割は自ずと違っていたのである。同じ人に両方の役割と求めてはならない。新しいシステムを生み出すエネルギー以上に古い ものをぶっ壊すことほど難しいものはないのである。

 当選議員の一覧をみていて感じたことだが、自民党も民主党も当選3回までの議員がほぼ3分の2に近くなっている。いつの間にか、衆院議員のメンツが入れ替わっているのである。不安がないわけではないが、選挙を面白くしている一つの要因なのだろうと思う。
 きっともう一回総選挙をすれば日本でも40歳台の総理が誕生する素地が生まれるかもしれない。そう期待したい。自らの老後を考えない世代が政治をリードしなければ日本は生まれ変われない。
2005年09月10日(土)
萬晩報主宰 伴 武澄
 小泉自民党への支持を打ち出した萬晩報に対して「マスコミは平等でなければならない」とのおしかりメールを何通かもらった。萬晩報はそもそも個人が運営するサイトでマスコミではないことをまずもって言いたい。問題はマスコミである。

 なぜアメリカの新聞のように支持政党を鮮明に打ち出さないのかという疑問が昔からあった。たとえば今回の選挙で朝日が岡田民主党を支持し、読売が小泉自 民党を支持するという構図が生まれれば、紙面は応援合戦となるから俄然盛り上がる。有権者にとっても争点がより分かりやすくなる。

 選挙がおもしろくなることに不満の読者も少なくないと思う。昨年の参院選で「萬晩報始まって以来のつまらない選挙だ」というコラムを書いた時も「つまら ないとは何事か」という叱責をもらったが、選挙がおもしろいのは役者(候補者)がそろっていて、争点が際立っている証拠でもある。さらにいえば応援団が盛 り上がることである。

 日本の選挙が概しておもしろくなかったのは、まず役者が悪かったことである。ポスターを眺めても投票したい人物がいなかった。各党の主張も外交から景気 にいたるまで耳障りのいいことばかりが総花式に並んでいて政党や候補者の名前を入れ替えてもほとんど見分けが付かないほど違いがなかった。

 今回の総選挙がおもしろいのは、小泉自民党と岡田民主党というリーダーが全面に出てほとんど首相公選の様相を呈していること。加えて「郵政民営化」とい う争点が明確であるからである。野党からは「郵政民営化一本やりでいいのか」という批判もないこともないが、当初「年金と子育て」を争点としようとした岡 田民主党も半分は「郵政民営化」の土俵に登らざるをえなくなっている。

 この明確な対立軸に大手新聞がそれぞれの陣営の応援団としてのっかれば、さらに盛り上がり、新聞の売り上げも倍増したはずなのだと思っている。

 大手新聞が旗幟を鮮明にしない理由がいくつかある。まずは多くの新聞社が綱領で「不偏不党」をうたっているからである。片方の政策を応援できないとなる と、「○○ではあるが、一方で××でもある」という読者からすればどちらが正しいのか分からない記事が乱立することになる。

 参院で郵政民営化法案の採決があった前後の毎日新聞と日本経済新聞は一面に郵政民営化を支持する"論説"を掲載した。おー日本のメディアもようやく旗幟 を鮮明にする時代に突入したかという思いにふけったが、解散が決まり、選挙戦に入ると毎日も日経も是々非々の紙面に戻り残念な思いをしている。

 郵政民営化はまだ改革の入口に過ぎない。星野仙一氏も阪神に残るという意思表示をした。野球と同様、盛り上がりには役者が不可欠で応援団も必要なのである。
2005年09月08日(木)
中澤英雄(東京大学教授・ドイツ文学)
 筆者はこの度、『カフカとキルケゴール』という著書を出版した。

 カフカは20世紀の初めに執筆したドイツ語系ユダヤ人作家である。生前は無名であったが、第二次世界大戦後、その作品世界がナチス体制の到来を予告して いるとか、生の不条理面を強調する実存主義の風潮に合致するとかの理由で、一躍その名が知られるようになった。『変身』、『審判』、『城』などの作品が有 名である。現在では一時ほどの流行はないが、戦後の文学や思想で、彼の影響を直接的・間接的に受けていないものはない、とさえ言えるほどである。

 キルケゴールは19世紀半ばのデンマークで活躍したキリスト教思想家である。キルケゴールは、世界と歴史を法則の視点から俯瞰するヘーゲル哲学に反抗し、個人の主体的決断を重視した。彼は実存主義哲学の始祖とされている。

 カフカはキルケゴールの著作を熱心に読み、手紙やノートの中で様々なコメントを残している。だが、それらはきわめて難解で、何を意味しているのか、専門 の学者でもこれまでよくわからなかった。拙著は、それらを解読する試みである。この本の内容については、以下のホームページで紹介したので、ご関心の向き はご覧いただきたい。
http://deutsch.c.u-tokyo.ac.jp/~nakazawa/books/kierkegaard/

 拙著は「オンブック」という形態で出版された。「オンブック」はすでに数冊発売されているが、拙著は学術書としては最初の「オンブック」である。

 「オンブック」というのは、インターネットを利用した、いわゆるオンデマンド出版の一種で、デジタルメディア研究所代表の橘川幸夫氏の考案による「発行 者が無料で出版事業を行えるフリーパブリッシング」のシステムである。詳しくはオンブック社のサイト http://www.onbook.jp/ をご覧になっていただきたい。以下では、この「オンブック」という出版形態について紹介してみたい。

 周知のように、インターネットは、これまでテレビや新聞社や出版社というマスメディアに独占されていた言論の世界を個人にも開放した。ホームページ、 メールマガジン、ブログなどといったツールは、金も知名度もなく、これまでは情報の受信者にとどまっていた個人が、ごく少ない経費で情報を発信できる手段 を提供した。もちろん、現在でもマスメディアの力は、インターネットに依拠する個人よりもはるかに強大であるが、個人はそれにアリの一穴をうがつことはで きるのである。

 ただし、このような電子的な情報発信がどれほど盛んになっても、今後も当分の間、「本」という情報形態が消滅することはないだろう。筆者は人文系の学問 の世界に身を置くが、情報源の大部分は今でも本と雑誌論文である。情報受信者の立場としては、分量の多いまとまった文字情報をモニターの画面で読むこと は、かなりつらい。本は、はるかに目にやさしい。また、手軽に携行し、簡単に線を引いたり、書き込みをしたりできるのも、本の利点である。ただし、辞書や 事典などの、検索によって利用する情報は、電子媒体のほうがずっと素早くアクセスできるので、こちらのほうは本という形態は徐々に消滅していくかもしれな い。

 書き手、すなわち情報発信者の側にとっても、本という媒体はいまだ捨てがたい。学会誌、専門誌、紀要などに発表できる論文は、執筆分量が制限されてい る。最近は電子ジャーナルという形態も出現しているが、これとても分量制限があることは同じである。自分の研究をまとまった形で世に問うためには、どうし ても本という媒体が必要である。

 筆者も研究成果を著書として出版するために、これまでいくつかの出版社と交渉したことがあるが、いつも問題になるのは「売れるか売れないか」という問題 である。出版業界全体が不況にあるとき、筆者のような無名の学者が、必ずしも一般読者にうけるかどうかわからない学術的な書物を出そうとすれば(とはいっ ても、拙著は一般読者も十分に興味深く読むことができるはずである)、この問題をクリアーすることができない。かといって、自費出版にすれば多額の費用が かかる。

 たとえ運よく出版できたとしても、日々膨大な本が出版され、廃棄されていく日本の出版業界では、その本が、本当に必要としている読者の目に触れ届くこと は、至難の業である。地味な専門書は、大書店の片隅で埃をかぶっているのならまだましなほうで、書店にすら並ばないことも多い。

 そういうときに、無料で本が出せるというのは、実にうまい話である。しかし、よく調べてみると、「オンブック」は、大量生産・大量消費を超える、真に時代に即したシステムであることが判明する。とくに学術書の執筆者にとっては朗報であろう。

 専門的な学術書というのは、もともと読者数が限られている。これまでの出版形態では、そういう書物でも一度にある部数を印刷しなければならない。しか し、利益が出る一定の数が売却できるまでには相当の時間がかかるし、中には当然売れ残りも出てくる。もともと製作部数が少ないので、1冊の定価は高くな る。そうするとますます売れにくくなる。出版社側のリスクを避けるために、出版に際しては著者がある程度の負担金を支払わなければならないことさえある。 また今度は逆に読者の立場になると、自分にとってどんなに重要で入手したい書物でも、いったん売り切れて絶版になると、なかなか重版してもらえない。

 しかし、「オンブック」では著者が無料で本を出版でき、その本の電子データがあるかぎり、読者も必要な本をいつでもインターネットから購入できる。本の 製作は、受注の時点で始まるので、出版社側のリスクもない。これこそ、少量生産・少量消費の学術書にふさわしい出版形態ではなかろうか。

 「オンブック」で本を出版するためには、原稿を執筆することはもちろんだが、それをさらに「Word」や「一太郎」などのワープロソフトで本の体裁に整 形し、PDFファイルに変換することが必要である。だが、この程度のことであれば、パソコンを1年も使っていれば誰でもできるようになるだろう。

 「オンブック」は、お金がなくても、知名度がなくても、学界や出版界にコネがなくても、本を執筆する能力がある人すべてに、本を出版する可能性を開く。 様々な事情から今まで著書の出版をあきらめていた人も、「オンブック」によって本を出すことができるのである。これは、出版における一種の革命であろう。

 また、絶版になって、出版社からは再版の見込みのない本も、「オンブック」での出版が可能であろう。インターネットではよく復刊リクエストの運動が行な われているが、ある程度の購入希望者数が集まらないと、出版社は復刊してくれない。しかし、著者が原稿の電子データを保存していれば、すぐに「オンブッ ク」として復刊できるだろう。

 もちろん、本は、出版されたからといって、読まれるというわけではない。読まれるためには、それなりの内容がなければならない。オンブック社も原稿を審 査し、すべての持ち込み原稿を出版するわけではないだろう。読まれる価値のある本は、口コミのような形でインターネット上で徐々に知られていくだろうし、 その価値のない本は、いずれは忘却されるだろう。とくに学術書は、それなりの意義があれば、引用や反論という形で取り上げられるであろう。まったく論及さ れない学術書は、存在価値がないということになる。そこには、情報の中味がその本の価値を決めるという、一種の市場原理が働くであろう。

 モノの市場はごく短い時間の範囲でしか機能しない。たとえば、私は5年前に10万円でデジカメを買ったが、今日では2~3万円でそれよりはるかに高機能 のデジカメが買える。しかし、本(情報)の市場は、はるかに長い時間のスパンで存在する。過去の本だからといって、その価値が下がるわけではない。価値と いっても、もちろん価格のことではなく、その情報の重要性のことである。そして、情報に価値を認めるのは、個々の読者である。

 キルケゴールは1855年に死んだ。生前、彼はデンマークでは、国教会に反逆する変わり者の思想家としか見られていなかった。彼の全集が、哲学言語とし てはマイナーなデンマーク語からメジャーなドイツ語に翻訳され、ドイツ語圏の思想界に大きな影響を与え始めたのは、20世紀に入ってから、つまり死後約 50年たってからである。そのようなことが可能であったのも、キルケゴールの本が存在していたからである。

 彼は膨大な量の本を書いた。彼はどうやって自分の本を出版したのか? すべて自費出版であった。彼は大商人の息子で、仕事をしないで著述に専念できた。 その頃はまだ本の売り上げだけで生きられるような時代ではなかったし、そもそもそんなに売れるような本ではなかった。彼は、父親の遺産をすべて著書出版に 使ってしまい、財産がなくなった時点で――うまいぐあいに――死んだのである。彼の思想はもちろんユニークなものではあったが、それがただ頭の中に存在し ていたり、原稿用紙の状態でしか存在していなかったら、それは人目に触れることなく忘れ去られていたであろう。キルケゴールは、自費出版ができるだけの金 持ちであったからこそ、自分の思想を残せたのである。

 カフカは1924年に死んだ。生前は数点の売れない本を出しただけで、もちろん執筆だけでは食っていけなかった。彼の職業は保険会社のサラリーマンで あった。カフカが爆発的に読まれ出したのは、死後20年以上たってからである。そんなことが可能になったのは、ブロート――その時代にあってはカフカより もはるかに有名な作家であった――という彼の親友が、カフカ作品の価値を信じ、彼の原稿を命がけでナチスから救い、雑多な状態の未完の原稿から本を編集 し、倦まず弛まず出版社と交渉したからである。それはまさに自己犠牲的な献身であった。そういう熱烈な支持者がいなければ、20年以上も前の無名の作家 は、そのまま永遠に忘れ去られていたかもしれない。

 本の執筆者は通常、キルケゴールのように金持ちでもないし、カフカのように高名かつ献身的な友人を持っているわけでもない。しかし、「オンブック」では、そういう例外的な幸運がなくても、本を出版でき、それを電子情報の形でインターネット上に残すことができるのである。

 本は、時間・空間を超えた対話の媒体である。本を通して私たちは、仏陀やキリスト(仏典や聖書は彼らが執筆した書物ではないが)、古代ギリシャや古代中 国の哲学者などの、2000年以上も前の人びととも対話できる。拙著は、カフカやキルケゴールらとの対話の成果である。「書物による対話」が本書の隠れた テーマでもある。

 カフカはこれまで、世界中でどれほど多くの人びとに読まれてきたかわからない。しかし、彼の作品が本当に理解されたかどうかは別問題である。著者として は、数百万人の誤読者よりも、たった一人でも、自分の本と真剣に取り組み、その思想を深く汲み取ってくれる読者のほうが、うれしいのではないだろうか。そ もそも、カフカの友人であり崇拝者であったブロートが、カフカ作品をほとんど理解しなかったことは、大いなるアイロニーである。本書は、カフカとこれまで になかった対話を行ない、彼の無視ないしは誤解されてきた側面を取り上げ、解明したつもりである。

 筆者の見解に賛成するにせよ反対するにせよ、拙著に意義を見出してくれる人が一人でもいれば、著書出版の目的は達成されたことになる――その読者が、同 じテーマに関心を持ち、インターネット上で本書を見つける、数十年先の読者であったとしても。「オンブック」は、出版に革命を引き起こすだけではなく、書 物による対話の可能性も大きく広げるのである。

 中澤先生にメール mailto:naka@boz.c.u-tokyo.ac.jp

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