2005年8月アーカイブ

2005年08月31日(水)
萬晩報主宰 伴 武澄
  きのう「総選挙の真の対立軸は小泉vs亀井」というコラムを書いた。そうなると岡田民主党は本当の敵を間違えているということになる。いま敵対すべきは小 泉自民党ではない。民主党が改革政党を名乗るなら、自民党内の抵抗勢力こそが民主党の真の敵なのだということを知るべきである。

 いま小泉自民党を敵に回すということは民主党が目指す理想と逆行することになる。多くの有権者が民主党に風を送らないのはそういうことではないかと思っている。

 小泉首相がきょうの街頭演説で強調したのは「本来は野党が言うべきことを与党の私が言っている。逆ではないのか」。そこまで言われているのに小泉改革の批判ばかりに徹していたのでは岡田さんは支持を得られない。

 今回の総選挙で岡田さんが犯した最大の間違いは「政権を取れなければ退陣する」と退路を断ったことである。小泉首相のまねをする必要はさらさらない。先 に宣言したのならともかく、二番せんじの「退路を断つ」公約では迫力はないからだ。

 岡田民主党に期待するのは筆者だけではない。しかしこの時点で改革の足を引っ張る国内の勢力に引導を渡したのは小泉純一郎だった。

 言いにくいことだが、岡田さんはまだ民主党の中でそこまでの勇気を持っていない。もしこの時点で小泉首相に張り合うなら「退路を断つ公約」ではなく、官 公労と縁を切る宣言が不可欠だ。小泉首相は自民党の長年の支持基盤である特定郵便局に絶縁状をたたきつけたのだから、岡田さんはそれ以上の勇気が必要なの だ。

 有権者の多くはそこのところはしっかりと見抜いているはずだ。だからといって岡田さんに完全に失望しているわけでもないし、改革政党としての民主党を見限っているわけでもない。

 多分多くの改革支援者たちは小泉さんの次に岡田さんに期待しているはずなのだ。そこのところを見間違えてもらいたくない。いまからでも遅くはないと思 う。岡田さんは小泉改革にエールを送って次を狙ってほしい。小泉首相は来年の9月には「退陣する」と何度も公約している。本音で語れば、民主党内部からも 本当の岡田支持者が増えてくる。

 岡田さん、もう建前の論戦はやめましょうや。広島6区の選挙民は困っているはずだ。改革志向の選挙民は民主党の佐藤公治と無所属で小泉首相推す堀江貴文に票が割れて亀井静香が漁夫の利を得ることに頭を悩ませているはずだ。

 岡田民主党が公示後のいまできることは「小泉ほめ殺し」しかない。郵政民営化を認めた上で、「われわれも特別国会で郵政民営化法案を出す。どちらがより いい民営化をできるか勝負しましょう」ぐらいのことをぜひ言ってほしい。

 そうなれば、この総選挙は完ぺきな対立軸が生まれ、選挙戦はがぜん白熱するはずだ。どうだろうか。
2005年08月30日(火)
萬晩報主宰 伴 武澄
 きょうは公示日。いよいよ総選挙の幕が切って落とされた。小泉自民党は郵政民営化の実現を掲げ、岡田民主党は政権交代を求めている。表面的には二大政党の激突時代を迎える様相を呈しているが、何か違うと感じている有権者も少なくない。

 昨夜、支局の仲間と話していて気付いたことをきょうは報告したい。

「今回の選挙は自民と民主が対決しているけど、本当に二大政党が対決しているのだろうか」
「民主党は確かに自民党から政権を奪う戦いをしているが、小泉自民党の敵は実は民主党ではないんじゃないかと思う」
「俺もそう思う。小泉自民党の本当の敵は亀井静香を筆頭とする党内の抵抗勢力なんだよ」
「第二次大戦時の中国みたいだ。蒋介石政権は日本と戦争しているつもりだったが、当の日本はアメリカと戦争をしていた」
「そうそう。いい比喩だね。社民の福島瑞穂が言っている通り、岡田民主党と小泉自民党の主張はそう変わらない。実は自民党内の価値観の対立の方がよっぽど深刻なんだ」
「まさに自民党内の抗争こそが解散総選挙の引き金になっているという現実をもっとマスコミは報道しなければならないのだよ」

 小泉自民党の今回の郵政民営化騒動を振り返ると、中国で1950年代に起きた百家斉放運動を思い出さざるを得ない。毛沢東は革命遂行にあたって「内部矛盾」という問題をことのほか重視した。『矛盾論』という"名著"もある。

 革命の進め方について広く知識人たちに意見を求め、その中から「内部矛盾」と「敵性矛盾」をえり分け、敵性矛盾にレッテルを貼り、それらに総攻撃を加えるという手法である。小泉自民党はまさに50年近く前の中国共産党の奪権闘争に重なる。

 自民党のマニフェストが言うように郵政民営化を実現することで、規制緩和を含め多くの構造改革が進展する素地が生まれそうな気配だ。

 小泉首相にとって郵政民営化問題は目的ではなく、抵抗勢力を自民党から切り離す手法の一つだったのだ。そういう目で今回の総選挙を見ると小泉自民党の主 戦場は民主党との全面対決ではなく、広島6区であり、東京10区なのだということが分かる。この時点で自民党内の抵抗勢力を一挙に排除できれば「勝った」 とほくそえむのだろうと思う。

 自民党が自民党であり得たのは、まず政権の座にいて、官界と財界と鉄のトライアングルを組んで、利権の采配者として君臨していたからだった。小泉首相の 第一の功績はその利権の中核派閥だった橋本派を崩壊に導いたことである。

 派閥を牛耳った野中広務は政界を引退し、参院自民党を率いた青木幹雄は郵政民営化法案の参院での否決で政治生命を失ったも同然。かつての首相だった中曽 根康弘と宮沢喜一はすでにいないし、橋本龍太郎も政界を引退した。国民新党をつくった綿貫民輔は終わった人だし、堀内光雄や平沼赳夫が党内に確固たる力を 持っているわけではない。これに亀井静香を排除すればもはや小泉の天下となる。

 繰り返すようだが、今回の総選挙の最大の注目点は広島6区の亀井静香の当落ということになる。どうだろうか。
2005年08月28日(日)
ギターボーカリスト 兵頭ニーナ
  グルジアという国を聞いたのはソヴィエト連邦時代にモスクワを訪れたはるか昔のことだ。「モスクワの台所」というほどに気候温暖で野菜やくだものが豊富だ とか、商売上手なグルジア商人とか黒海に面した素晴らしい保養地があるとか色々母に聞かされ少なからぬ興味を持ったのを覚えている。

 モスクワに1カ月滞在中、何度かグルジアレストランへ行こうとしたがいつも満員でついに食べることなく残念だった。

 それから10数年、縁あって「百万本のバラ」をレコーデイングして売り出すにあたり、スタッフ一同「ピロスマニ」というグルジアの天才画家の半生を描いた映画を見せられた。

 何故なら「百万本のバラ」の主人公はく「ピロスマニ」であったから・・・・。

 1850年代生まれのピロスマニの時代の風景や人々の生活、アラビックな不思議な文字、彼の描いた絵を差し込んでいくめづらしい映画製作法等など1時間ちょっとの短いフィルムだったけれど強い印象を受けて、今でも私のお気に入り三大映画のひとつになている。

 まもなく日本に来たヴィクトリアとお友達になり、彼女の故郷黒海沿岸スフミの話を聞いたりグルジア料理をご馳走になったりお土産をもらったりと、どんど んグルジアが近くなっていった。いつの日かグルジアへ・・・彼女の故郷スフミへ行って見よう・・・・ピロスマニの美術館へもぜひ・・・・・と夢がふくらん だ。

 しかしペレストロイカの時、グルジアではアブハジアとの内戦が始まっていた。

 ヴィクトリアの親戚や友達が戦争に巻き込まれ悲惨な状況にあると聞き胸が痛んだ。グルジア行きが少し遠のいてしまい数年が過ぎた。

 今年トビリシ行きを決めてから地図やインターネットでグルジアを調べて見るに、ヨーロッパのもっとも南東に位置し、アジアというにはかなり西の果てにありロシアの最南端になり、さりとて中近東でもない日本の四国程の小さな国であった。

 勉強するほどに今まで何も知らなかった自分に驚いた。私でさえこれだから友人知人にグルジアの話をしても殆どわからない。
「えっ?それってどこ?アメリカ?」なんて聞く人もいた。

 言葉もかなり独特であると読んだがそんなに難しくはないだろうとたかをくくっていた。がどうしてどうして歌手として7,8カ国ぐらいの原語の歌を唄う私 でも、いまだに簡単な単語を幾つか覚えたにすぎない。歌は丸暗記して発音だけ何度もチェックしてもらうがなかなか大変だ。「勉強を手伝いましょうか?でも グルジア語は本当に難しいですよ」と言われ今も迷っている。もっともホームステイ先がロシア語と日本語で通じてしまうのもじゃましてるのだろう。

 しばらく住んで色々とおもしろい言葉を発見した。まづヴィクトリアのカフェの名前を「つる」と決めた時、グルジア語では「ツェロ」だと聞いてビックリした。
「ちょっと」を「ツォータ」、「はい」は「ホウ」「キー」「カイ」、「いいえ」は「アーラ」だ。

 アーラ、アーラは電話中の会話でもっとも良く聞く言葉で最初は「もしもし」だと思ったくらいだ。なんでそんなにアーラ、アーラ〔いいえ、いいえ)言う の?と聞いたらあんまり意味なくアーラ、アーラいうらしい。そうよね、そんなに否定ばかりしてたら会話にならんもんね・・・。それにしても父親がママ、母 親がデッダというのもまた可笑しい。赤ちゃんは毎日母親を見つめて乳を飲みある日初めて言葉らしきもの発する時、どう考えてもアーアーかマーマーだと思う んだけど・・・・。

「こんにちわ」は「ガマルジョブ」。「ありがとう」は「マドロプ」。「とてもありがとう」は「ディ、ディ、マドロプ」とか「ディ、ディ、ディ、ディ、マド ロプ」とかいう。アパート周辺のショップの人達とはすっかり顔見知りになり、最初はロシア語だった挨拶がグルジア語で言えるようになってとてもうれしい。

 グルジアの独特なおみやげ物のひとつに、土で練った素焼きの土器のようなものがあるのだけどそのまんま「ドキ」と言うのを聞いたときは本当に本当にド キッとしましたね。はるか日本と離れたこの小さな国グルジアと意外なところでこんな共通点があったなんて・・・・・・・。

 ニーナにメール mailto:nina2173@v7.com
2005年08月27日(土)
萬晩報主宰 伴 武澄
 南アフリカの町を歩くとよく「ヘイ、チャイナ、チャイナ」とおどけた様子で声を掛けられた。明らかに侮蔑した声だった。ゴミ収集車の黒人にも言われた。これには閉口した。「チャイナ」は世界中で通用するアジア人に対する蔑称だった。

白人たちは黒人たちを「キャファー」と呼んでいた。蔑称のひとつである。そのキャファーたちから「チャイナ」と呼ばれる気持ちはなんともやるせないもの だった。自分の中にすでに白人優位の差別構造が存在していたのだろう。「白人にいわれるのならともかく、なんで黒人にまでいわれなければならないのか」。 「いったい何様だと思っているのか」。そんな思いが心を締め付けた。

 海外で暮らして分かることは日本人がアジアの代表ではないということである。経済的存在感は確かに断トツなのだが、圧倒的な存在感はその人口が示す通り 中国人なのだ。次いでやはりインド人ということになる。世界中どこにいってもチャイナ・タウンがあるし、インド洋周辺の東南アジアから東アフリカにかけて はインド人が商圏を握っていた。

 そのアジアがなんで「チャイナ」といって侮蔑されなければならないのか。侮蔑されるその土地でなんで住み続けなければならないのか。十代半ばだった筆者は悶々とした。

 古代において中国やインドは、黄河とインダスという世界四大文明を生んだ存在だったはずだ。しかし、つい最近まで中国もインドも国家としての存在感を示 すことがなかった。中国人はアフリカの奴隷貿易が禁止された後、クーリーとして世界各地に浸透していった。インド人はイギリスによる世界支配の買弁として 軍事力まで担う存在だった。

 少なくとも明治の日本はそうではなかった。貧しい中でも国論を統一して西洋から知識を学び取り、"富国強兵"に努めた。明治政府の最大の課題は江戸幕府 が結んだ不平等条約の解消だった。鹿鳴館文化などというきてれつな現象が起きたのは、なんとか西洋に追いつきたいという悲壮な思いが明治の人々にあったか らだと思っている。

 それに比べて、中国やインドが不幸だったのは白人に対するある種の敗北主義があったからではないかと考えた。白人社会がつくった上海租界の公園の立て札 に「犬と中国人は入るべからず」と書かれても、西洋諸国に対抗すべき勢力は結集しなかった。インドの土侯たちはイギリス国王の庇護の下に入り、いままで通 りの貧しいインドを放置したし、その貧しいインド人は進んで英印軍の傭兵となって同胞に鉄砲を向けていたのだ。

 南アの学校で相手を罵倒するときによく言っていたのが「Where is your conscience」というフレーズだった。「お前はばかか」「プライドってものがないのか」といったような意味だった。もちろん白人同士の話である。

「ヘイ、チャイナ」とわれわれをからかう黒人たちに言ってやりたかったのはまさに「Where is your conscience」という言葉だった。また差別され、侮蔑されてもじっと耐えるしかなかった中国人やインド人たちにも同じことを言いたかった。(続)
2005年08月23日(火)
萬晩報主宰 伴 武澄
  プレトリアの黒人お手伝いさんのユリさんはだんなさんがいた。ともにバスに乗り継いで1日以上かかる遠い村からの出稼ぎだった。メイドとしての労働許可証 を持っているユリさんは白人の住宅内に住むことができたが、だんなさんは一緒に住むことは許されなかった。たまに週末などにたんなさんが訪ねて泊まってい くこともあったが、それは筆者の母が"許した"からだが、本来ならば南アの法律に反する行為だった。

 南アでは黒人の住む居住地をロケーションと呼んだ。南ア以外の社会ではタウンシップと呼んでいたが、南アの人たちはロケーションと言っていたのだ。ロ ケーションこそがアパルトヘイト=人種隔離政策の象徴的存在だったのだ。都市の周辺部にいくつか展開し、そこでは道路が舗装されていることはほとんどな く、電気があればいい方で、水道すらないところも少なくなかった。黒人たちはそこから労働者として朝晩、都市に通うことを余儀なくされていた。

 世界のどこの町でも労働者の住む貧しいゲットーのような町があるではないかといわれれば、確かにそうだが、南アではたとえお金があっても黒人というだけ で住む場所が決められ隔離されていた。だから同じ貧しさでもタウンシップとゲットーはまったく別物である。

 また都市に通う黒人たちは身分証明書の携帯が義務付けられていた。警察に身分証明書の提示を求められ、不携帯で問答無用に逮捕される黒人の姿を見るのは 日常茶飯事だった。たとえ使用人として働いている家の前でもそうだから気が抜けないのである。

 列車もバスも白人と黒人が一緒に乗ることはまずない。仮に同じバスで乗る場合も、車体が真ん中で区切られていて、白人は前から乗って、黒人は後から乗る のである。町の郵便局もトイレも別々。ホテルやレストランは白人の子守である場合を除いて黒人が入れてもらえることは絶対にない。

 一番ひどいのはインモラル・アクト(背徳法)という法律の存在だった。異人種間の結婚はおろか性行為も禁ずる法律で、キスをしただけで逮捕されるのであ る。多くの白人家庭では、母親は子どもを産むだけ。育てるのは黒人メイドである。黒人に育てられた子どもたちがやがて成長してアパルトヘイトを支持する大 人となるのである。

 南アでは町に出るたびに不愉快な体験をしなければならなかった。実際にホテルやレストランで断られる場面に遭遇したことはない。しかし、レストランで受 ける白人からの刺すような視線は毎回、覚悟しなければならなかった。彼らの目は教えていた。「お前たちの来るところではない」。

 ユリさんと町を歩くことはなかったが、黒人の運転手さんと遠出をした時に困ることが多々あった。まずレストランに一緒に入れない。われわれ家族は別々に 食事をするのが嫌だったから、できる限りテイクアウトで食事をした。宿泊だけは仕方がなかった。白人用のホテルには必ず運転手用の宿泊施設があったからそ こを利用してもらうしか方法がなかった。

 ふつうならこんな社会が長く続くと思わないだろう。しかし、南アだけは別だった。1960年代、南アの白人社会は世界で最も裕福な社会生活を送ってい た。それを可能にしたのは人権を奪われた無尽蔵な黒人労働力だった。(続)
2005年08月22日(月)
ギターボーカリスト 兵頭ニーナ
 今日は5月5日、日本では子供の日だなあとふと思ったが復活祭が終わったトビリシの街はまた普通に戻った。でもパン屋は開いたが私のお気に入りのひげちょびれの青い目の太鼓腹のおじさんの姿はまだ見えない。

 店の奥の部屋に泊まり込み2人交替で朝8時から夜12時までのパン焼きはけっこう大変だ。何しろタンドールのおかげで中は一日中サウナ状態だ。

 きっと遠い所から出稼ぎにきてがんばってるんだるんだろうなあ。久しぶりの帰郷で今頃は家族とゆっくりしてるのかなー・・・・・と勝手な想像をする。

 明日はやぶ蚊さんの奥さんタムリコの誕生パーティで歌を唄う事になってるのだが風邪のせいか2、3日まえからのどの調子が悪くてとても心配だ。

 当日花を買いギターを持ってイサトとタクシーでマルジャアニシヴィリ駅をめざす。駅隣りにマグドナルドがありその前がやぶ蚊さんのアパートなのでとても わかりやすい。アパート下のトンネルをくぐり抜け、中庭から外階段を2階に上がる。建物一階のトンネルといった形式は日本ではあまりないがロシアでもよく 見たし時に普通に道路であったりもする。

 夕方6時の約束だったやぶ蚊宅は第一陣のお客様が帰ったばかりでがらんとしていた。そのうち別の友人達も来ますからぼちぼち始めましょうとワインを開け る。主役の奥様はただいま2カ月半の息子の授乳があってジュースで乾杯!テーブルそばのベビーベッドの中ではショータ君が機嫌よくあーあー言ってる。同じ グルジア人と日本人のハーフのイサトはまるで自分を見るように感慨深げにしばらく赤ちゃんに見入っていた。

 おじいさんに似てとても静かな子なの、という通り帰るまでの4時間ぐらいの間に一度も泣かなかった。もっともやぶ蚊さんもタムリコもとにかく良く世話を焼いていた。幸せな人生の一ページだ。

 やがて国連の仕事をしてるといううららさんもやってきた。今年1月にグルジアに来たばかりで、これでトビリシに住んでるたった4人の在留邦人が全員集合 したということらしい。でまた乾杯!まもなくどかどかと友人達が駆けつけた。皆そろったところでタムリコのためにハッピーバースデイと他2曲くらい唄っ た。やっぱり声が出ない。何てこった!あんなに気をつけてたのに・・・・。

 大事を取って訳を話して私は歌をやめた。変わりに別の女性がギターを弾きアメリカでオペラを勉強したというレナとのデュエットが始まった。

 素敵なハーモニーにしばし聞きほれる。やっぱりグルジアの曲の流れはどこかアラビックで東洋風で私の胸をくすぐるものがある。早く咽を直して私もグルジ アの歌を唄いたい。ところでせっかくオペラを勉強してきたはづのレナは今は英語の先生をしてるというから音楽の仕事が厳しいのかな?

 まあいずこも学校を出てすぐは大変かも・・・・。最後にやってきた男性は現在プロのミュージシャンらしくシンセサイザーを弾くという。

 仕事で広島、長崎、京都、大阪、東京、札幌と全国まわったらしいがスラスラと地名が出たのには驚いた。しごく日本がお気に入りの様子だ。

 出ない声でもう一度がんばって唄ったら、次の機会に僕がシンセサイザー、あなたがギターでぜひ一緒にやりましょうと約束をしてくれた。いいお友達が出来 たと私も喜んだのだけど無理して唄ったせいか翌日からますます声が出なくなった。あ~情けない、やるせない、くやしい。
2005年08月21日(日)
アメリカン大学客員研究員 中野 有
  ワシントンでイラクの形勢と時局を少し大観してみたい。アメリカがバグダッドに先制攻撃を仕掛けた理由、そして、その結果を考察することにより、今後の方 向性と日本のスタンスが展望できる。とりわけ、ライス長官の現実主義が徐々に浸透し、その成果が現れている状況においては、傍観者でなく、信頼醸成構築へ のプレーヤーとなることが求められている。

 開戦から2年半近くが経過し、米軍の犠牲者が2000人近くに迫り、イラクの犠牲者は、その15倍だと言われている。恐らく、圧倒的な軍事力を有するア メリカが、執拗にイラクの抵抗に遭い、また米軍がゲリラ戦に対しこれ程、脆弱だとのシナリオを描いた人は少ないと思う。開戦時にサダム・フセインがテレビ でイラク国民の徹底的なゲリラ戦による報復を訴えたことが現実となっている。

 開戦時における、アメリカのイラク関与への本質的理由を知るために、4つの理由を再確認する必要がある。現実的理由は、9.11の報復として、アフガニ スタンだけでは物足りないのでイラクを攻撃することにある。本質的理由は、中東の民主化と市場経済化を進め、中東における石油の利権を確保すること。道義 的理由は、イラク民への圧制と生物・化学兵器の使用によりクルド人殺害を行ったフセインへの軍事制裁。発表された理由は、大量破壊兵器を予防防衛の視点で 処理すること。

 そして現在。4つの理由との関連と結果として、現実的には、イラクの憲法の制定と選挙を経て、米軍の撤退を行いたいとの楽観的なシナリオを描くには悲観 的要素が大きすぎ、出口戦略が見いだされない状況である。米軍撤退により、イラクのシーア派、スンニ派、クルド族、無宗教間の内戦が発生した場合、アメリ カの責任が問われる。加えて、来年の中間選挙を考えれば、これ以上の米兵の犠牲を容認できないとの世論に左右され、米政府が遂行している本質的理由が歪め られる可能性が高くなる。最近の調査によれば、6-7割の米国民が間違った戦争だと考えている。余談だが、この数字は、戦後60年を経て、日本が太平洋戦 争に対し、避けるべき戦争だったという日本人の考えと近い数字である。

 本質的理由については、アメリカが理想とする民主化や市場経済が進むどころか、米軍への抵抗のみならずシーア派とスンニ派の対立が激化している。少数の スンニ派であるフセイン政権を崩壊させたことにより多数を占めるシーア派の民主化政権の樹立が生まれた。しかし、その結果として、シーア派が中心のイラン の政権とシーア派イラクの勢力が増すことは、アメリカの国益に反するのみならず、親米のスンニ派総本山のサウジアラビアにとりマイナスである。同時に、ア メリカが進める民主化が実現されることは、サウジアラビアにとっては、逆効果である。

 石油の利権をアメリカが確保するどころか、イラク戦の影響並びに中国の石油需要の関連で、石油価格が予想外に高騰しており、アメリカ経済に悪影響が出て いる。一方、産油国はアメリカの中東政策の誤算により、石油価格の上昇という恩恵を受け、保守的なイスラム社会の地盤固めにつながっている。石油価格の上 昇は、アメリカの理想とする中東の民主化の抵抗勢力を高めることに連携している。

 80年代前半のイランーイラク戦争では、アメリカがスンニ派であるフセイン政権を援護し、イランのシーア派を牽制していた。当時、バクダッドに駐在して いた筆者は、サダム・フセインのバッチをつけ、水道局を訪問し、イラクの勝利は西側の勝利だとの感覚を持っていた。現在のイラク戦では、アメリカは正反対 のことを行っているのである。イラクとイランは、アメリカにとって「悪の枢軸」であり、両国の勢力が増すことは、アメリカが望む民主化に反する。そして、 スンニ派主流であるサウジアラビア、シリア、ヨルダンと、イラン・イラクのシーアの対立が激化する。従って、アメリカが目指すイラク戦争の本質的理由と戦 争の目的が曖昧になるどころか、中東の不安定要因を煽っている。たとえ、アメリカがイラク介入に成功したとしても、結果は中東の安定とアメリカの利益に適 うとは考えられない。

 イラク戦の開戦の半年前にワシントンに入った筆者は、9.11の後遺症から抜け出せずテロの報復を戦争と解釈するワシントンの空気に接し、戦争回避は困 難であるとのコラムを萬晩報に書いた。信長、秀吉、家康の不如帰を如何に鳴かすかに例え、家康の「鳴くまで待とう」は、テロの戦争の最中にあるアメリカが 納得しないし、信長の「鳴かぬなら殺してしまえ」では、ハムラビ法典のように報復が報復を呼び起こすので危険すぎる。実際に、アメリカは信長の行動をとっ た。しかし、秀吉の「鳴かぬなら鳴かせてみせよう」という、外交と軍事の両輪による解決策はあったと考えられる。

 開戦前の日本の役割として、国連の決議を歪めても単独で先制攻撃を行おうとするアメリカに対し、大西洋を挟み戦争回避を望む「平和の枢軸」であるフラン ス、ドイツ、ロシアの仲裁に入ることは可能であった。日米同盟の観点から日本は、アメリカを支持するも、大西洋を挟み、正確には米英のアングロサクソンと 仏・独・露の平和の枢軸が対立してい国際関係において、「待てば海路の日和あり」というスピーチを国連で披露すべきであった。1カ月待てばイラク戦に参戦 するといったフランスを入れ、ひいてはNATO軍との協力体制による多国籍軍のイラク戦の作戦を練り出す可能性もあったのである。これは、筆者が開戦前に 読売新聞のアメリカ版のインタビューに答えた考えである。

 最近、キッシンジャーは、アメリカが中途半端に撤退することは、国際テロの増強につながり、これを防ぐためには、イラク戦への国際協力と多国籍軍の関与 を強化する他にないとの展望を語っている。将に、アメリカに忠実な日本は、開戦前の9.11の後遺症から抜け出せず冷静を失っていたアメリカに対し、「ハ ムラビ法典」が示すアラブの報復の気質と、単独による先制攻撃のリスクを提示し、フランス等との協力を取りつけNATOを中心とする多国籍軍の編成による イラク戦の青写真を提示することを実践すべきであった。現在、イラク戦の失敗は、多国籍軍の編成にあるとの見方をする専門家が多い。

 アメリカがイラクの泥沼化から抜け出せぬ状況の中、イランの核開発の問題について、英、独、仏が交渉の主流になり、北朝鮮問題に関しては中国が議長役と なり6者会合が行われている。アメリカの外交関与が弱くなっているように表面的には映るが、ライス長官の現実主義の外交政策が生かされているのは事実であ る。ライス長官とブッシュ大統領との信頼関係に加え、ボルトン、フォルフォビッツ等のネオコンの強硬派を国連、世銀の多国間の外交に追いやることで着実に 現実路線の外交に成果が現れている。

 パレスチナ問題の歴史的進展、米中関係を考慮に入れたインドとの関係強化、来月の中国の胡錦涛国家主席の訪米、国連総会とライス長官の更なる外交手腕が 試されることになる。ブッシュ政権の2期目は、外交面で予想外の成果があるとの見方が主流である。昨日、6者会合のアメリカ代表であったクリストファー・ ヒル国務省次官補の話を聞いたのだが、ライス長官の下の外交戦略の巧みさを感じた。

 日米の関係において、ライス長官が唱える「日米戦略開発同盟」を具現化させることが重要となる。日米の戦略的な協力は、1ドル紙幣に描かれている米国の 象徴である鷲が参考になる。鷲が軍事という矢を左脚に、開発やソフトパワーというオリーブの木を右脚に持っている。日米関係において、重要なのは、日本が アメリカのハードパワーという盾を生かし、ソフトパワーの分野で貢献することであろう。

 アメリカが中東の民主化をハードパワーで強行し火傷をしている時、中国、インド、フィリピンの賢いアジアは、メード(お手伝い)を百万人規模で中東に派 遣している。メードというソフトパワーでアラブの教育に貢献しているのである。民主化は時間がかかるが軍事より教育の方が効果がある。

 筆者は、80年代に南アフリカで2年間生活し、南アのアパルトヘイトに挑戦した。そこで学んだ経験的直観は、少数の白人が多数の黒人と対立構造にある 中、最善の解決策として白人・黒人・カラード・インド人・中国人との共通の利益の合致点を見いだすことであるという視点である。アパルトヘイトの根絶を経 済制裁を通じ行うのは現実的でなく、建設的関与政策を実践することである。

 則ち、白人と黒人の共通の利益の合致点が、平和と安定と黒人の教育水準の向上により共産主義化を防ぐことであるとすると、積極的にそれを促進することが 大切である。レーガン大統領は、議会の反対にあったが南アへの投資を推進し、黒人への教育に力点を行う政策を行ったのである。

 この成功例をイラクに応用すると、シーア派、スンニ派、クルド族、無宗教のグループの共通の利益の合致点を見いだすことである。イラクの共通の利益と は、平和と安定と発展である。特に世界1級の石油資源という財産をイラク国民に分配し、イラクのインフラ、教育等を急速に興隆させることである。それを援 護するのが国際社会の責務である。イラク戦に反省しているアメリカは、イラク人によるイラクの民主化の実現を期待している。

 イラク戦開戦前のアメリカの本質的理由は、アメリカンスタンダードによる民主化・市場経済化であったが、今日のアメリカが望んでいるのは、来年の中間選 挙を控えたアメリカが非難されない米軍の出口戦略にある。ネオコンの軍事的関与と理想主義から、現実主義に変化した、それが現在のアメリカ外交である。

 特に、日本は傍観者になってはいけない。自衛隊を派遣していること自体が、積極的な関与とも考えられるが、イラク憲法制定、選挙という信頼醸成の時局に おいて、キリスト教、イスラム教の戦い、そしてイスラム教内部の戦いから、いかにも東洋的な協調的な共通の発展の機運を生み出す大局観やグランドデザイン が求められている。日米戦略的開発同盟や国連・世銀の多国間の開発戦略、これらに加え、最も重要なのが市民レベルや非政府団体、非政府個人による、ソフト パワーの建設的な関与であろう。

 戦後60年の還暦に、地政学的変化が着実に進展していることをワシントンで直覚している。日本の役割は、多神教的視点で、宗教、民主化、人権問題におい て敵対し相容れない関係にある国や民族の共通の利益の合致点を示す大局観とその青写真をソフトパワーに力点をおき描写し、それを実践することだと考察でき る。地球というカンバスを眺望すれば、東京、ワシントン、バクダッドやケープタウンの限られた視点より、大きな地球益のための共通項が見えるような気がし てならない。

 中野さんにメールは mailto:tomokontomoko@msn.com
2005年08月20日(土)
萬晩報通信員 成田 好三

  郵政民営化関連法案の参院否決により小泉純一郎首相が決断した衆院解散・総選挙で、新聞・TVなど主要メディアは、「自民党分裂」「自民党分裂選挙」「刺 客」「落下傘候補」といった、明らかに事実と違う言葉や、選挙の本質を見誤らせる情緒的な言葉を、無責任に垂れ流している。

 ■自民党は「分裂」していない

 小泉首相と自民党執行部が、衆院で郵政法案に反対票を投じた前議員を公認せず、小選挙区に立候補する造反派の前議員全員に対して、対抗馬の擁立を進めて いることから、メディアは「自民党分裂」「自民党分裂選挙」という言葉を頻繁に使っている。しかし、この言葉の使い方は明らかに間違っている。自民党は まったく「分裂」などしていないからである。

 政党が分裂したならば、多数の国会議員が離党し、党の中央組織の一部や地方組織(都道府県連のことを指す。選挙区支部は議員の個人後援会と事実上一体である)の一部が党から離脱しなければならないはずである。しかし、現状はそうなっていない。

 造反派の前議員の多くは離党していない。中央組織に変化はない。地方組織も、反対票を投じた前議員を「県連公認」(実質的には意味がない)にするケースはあるが、党中央に反旗をひるがえしたところは皆無である。

 8月17日には、造反派の綿貫民輔、亀井静香両氏らが「国民新党」結成を表明したが、この新党に当初参加したのは、自民の衆院前議員3、自民の参院議員1、民主の参院議員1の計5人だけである。

 この新党は公選法の政党要件を満たすための、「選挙互助会」そのものである。現段階では「郵政民営化反対」の公約すら掲げていない。法案に反対票を投じた造反派の前議員が多数参加する動きなどまったくない。

 小泉首相と自民党執行部は、法案には反対票を投じた前議員を排除しただけである。

 ■対抗馬は「刺客」ではない

 メディアはまた、造反派の前議員の選挙区に対抗馬を擁立することに対して、「刺客」を送り込むという言葉を使っている。刺客とは対立する相手方を抹殺する人物、いわばテロリスト的な語感があるが、対抗馬は果たして刺客なのだろうか。

 内閣の最重要課題である郵政法案が参院で否決されたことにより、郵政民営化の是非を最大の争点に、小泉首相は解散・総選挙に踏み切ったのだから、全選挙区に郵政民営化に賛成する候補を擁立することは、当然の判断である。

 郵政民営化反対の候補しかいない選挙区が残ってしまったのでは、何のために解散したのか分からなくなる。造反派の前議員に対して対抗馬を擁立することは、刺客などという情緒的な言葉で形容すべきではない。

 ■「落下傘候補」のどこが悪い

 メディアはまた、自民党が官僚や学者など著名人を、その人の地元ではない選挙区に擁立することを、「落下傘候補」を立てるなどと形容している。しかし、落下傘候補のどこが悪いのだろうか。

 政党化が進む小選挙区制度では本来、候補者は出身地にかかわりなく選ぶべきである。党の政策に賛同する、能力と意欲、将来性のある人物を党が選び、党の指定する選挙区に擁立することが本来の政党選挙である。

 落下傘候補でない候補、つまり在来型の「地盤」「看板」「カバン」をもった候補が、日本の政治と選挙を歪めてきたのである。政治家を「一国一城の主」などと称し、地元の大物秘書を「城代家老」などと呼ぶ近世戦国時代的な政治的土壌と精神風土こそ、排除されるべきである。

 「地盤」「看板」「カバン」が、地元利益誘導型政治と政治家の実質的な世襲を生み出し、政治と政治家の新陳代謝を阻害してきた大きな要因であるからである。

 落下傘候補こそ政党政治においては、本来あるべき候補の姿である。

 ■判断を誤る権力者とメディア

 時代が大きく変わろうとするとき、権力者の多くは判断を誤るものである。彼らに既得権益をもたらした旧体制が骨の髄までしみこんでいるからである。小泉首相と何十年も付き合いながら、首相の最終判断(解散・総選挙)を読み違えた綿貫氏や亀井氏はその典型的な例である。

 時代が大きく変わろうとするとき、メディアの多くもまた、判断を誤るものである。彼らもまた、旧体制が骨の髄までしみこんだ既得権益をもつ存在だからで ある。彼らが「自民党分裂」「刺客」「落下傘候補」といった、間違った言葉や情緒的で無責任な言葉を垂れ流す背景には、彼らの表面上の主張とは違う、旧体 制と既得権益を維持したい願望があるからである。(2005年8月18日記)

 成田さんにメールは mailto:yo_narita@ybb.ne.jp
 スポーツコラム・オフサイド http://blogs.yahoo.co.jp/columnoffside
2005年08月19日(金)
萬晩報主宰 伴 武澄
 南アフリカには1965年の春からちょうど2年間滞在した。家はプレトリアの高級住宅街にあった。前庭は芝生が生えていて子どものサッカーが十分にできるほどの広さがあった。1000坪はあったと思う。

 道路から出入り口が二つあって二階建ての家の後ろに乗用車が6、7台はゆうにとめられる駐車場があった。そのさらに向こうに果樹が何本か植えられている大きな裏庭があった。それまで日本では2Kの狭い公務員住宅に住んでいたから、そこは邸宅と呼んでいい住居だった。

 家にはユリさんという40歳前の背の高いやせた女性のお手伝いさんが住み込みで働いていた。彼女のすみかは母屋から2、30メートル離れたところにあっ た。サーバント・クォーターといってどの家にも使用人の離れがあった。電気は裸電灯があるだけまし。便器は水洗だが、座るふたがなかったし、シャワーにお 湯はなかった。"使用人"とはいえ母屋とはあまりにも違う住環境だった。

 日本にもかつては女中や下男を置く家もあったが、少なくとも住むところは同じ屋根の下だった。だからサーバント・クォーターはまさに異なる人の住むところという印象があった。

 ユリさんの賃金は食事付きでたぶん月5000円程度だったように思う。まずは白人の数十分の1以下である。主食はミリミールというトウモロコシの粉を炊 いたもので、見かけはマッシュポテトのようなものだった。副食には必ず肉があったから栄養的にいえばそう貧しくはなかったが、生活レベルは雲泥の差であ る。

 筆者が住んでいたプレトリアは南アの首都で、日本人は総領事館の5家族しかいなかった。子どもは筆者の兄弟3人とあと1人の小学生だけだったが、70キロほど離れた商都のヨハネスブルグには日本人が500人ほどいて日本人学校もあった。

 狭い日本人社会ではよく行き来があった。日本人同士のパーティーもしょっちゅうあった。そうした集まりで必ずといっていいほど話題になるのが黒人メイド のことだった。「不潔」「低能」などといって罵倒するのはいいほうだった。一番いやしいと思ったのは奥さま方が黒人メイドの「盗み」にどう対応しているか 喜々として話している場面だった。

 ほとんどの家庭が日本では考えられないほどの王侯貴族の生活を満喫しているのに、メイドたちが「砂糖を盗む」「しょうゆがいつの間にか減っている」と いったけちけちした話にうつつを抜かしていた。美しく着飾った日本の奥さまたちが砂糖を盗んだといってメイドを面罵する場面を想像するだけで恥ずかしかっ た。町に出れば自分たちも差別される身でありながら、南アのアパルトヘイト政策を批判する場面に遭遇することはまずなかった。

 そりゃそうかもしれない。当時の日本では想像も出来ないプールとテニスコート付きに邸宅に住み、何人もの使用人にかしずかれる。アパルトヘイトさえな かったらおよそ天国といっていい。多くの日本人はその生活レベルに舞い上がっていたに違いない。しかし筆者にはそのアパルトヘイトが許せず、現実を直視せ ずにアパルトヘイト政策を支持するような日本人こそが醜い存在だった。

 同じような日本人社会は南アが特別ではなかったはずだ。タイでもインドネシアでもあったはずだ。戦争に敗れて20年しかたっていない日本人はようやく豊 かさの入口に立っていたが、まだ貧しかった同じ有色人種の仲間たちを白人以上にぞんざいに扱っていたのだ。(続)
2005年08月17日(水)
萬晩報主宰 伴 武澄
  大学時代だからいまから30年も前の話である。学友と政治を語ることが多かった。多くの学生は社会主義にかぶれていた。世の中の対立は資本と労働にあり、 世の中の矛盾はすべてこの対立構造によって語られる風情があった。だから学生の中では、資本主義社会はいずれ社会主義に取って代わるという意識が多分に あった。

 筆者は少々違う体験をしていたから社会主義にはどうしてもなじめなかった。中学・高校の時に人種差別(アパルトヘイト)の南アフリカに育ったからだ。世 の中の対立がすべて資本と労働の論理で解き明かされるなら、それほど簡単なことはないと考えていた。世界にはもっと根深い差別があるのだと思っていた。

 筆者が考えていたのは人種間の問題の方が階級対立よりより深いと思っていたのだが、当時、筆者の心情を理解してくれる人はほとんどいなかった。

 南アで困惑したのは、差別されている日本人が同じ差別されている黒人をバカにする場面にたびたび遭遇したからだった。もちろん日本人は「名誉白人」の待 遇を得ていたから、白人居住区に住むこともでき、ホテルやレストランだけでなくバスも郵便局も白人並みの扱いを受けていた。

 外交官や商社マンたちは美しい芝生を敷き詰めた広大な敷地の邸宅に住み、何人もの黒人の使用人を雇っていた。プールやテニスコートは当たり前である。気 候は温暖で物価は安い。人種差別に鈍感でいられたら王侯貴族のような生活だった。

 でも学校だけは別だった。名誉白人でも公立の学校への通学は体よく断られた。当時の南アの法律ではホワイトとノンホワイトの区別しかなく、名誉白人など というものは単なる「お目こぼし」にしかすぎないことはすぐに分かることとなった。

 南アでは、同じ顔をしたアジアの人種でも中国人はまた別扱いだった。ほとんどの日本人が南アで短期の滞在の外国人であったのに対して、多くの中国人はそ こで生業を営む南ア人だったから、彼らは白人地区に住むことは許されていなかった。中国人たちは黒人とは違う地区だが、「隔離」された居住区にしか住むこ とを許されていなかった。

 そんな白人たちの勝手な世界にどっぷり浸かって、それでも黒人ばかにする日本人というものが信じられなかった。

 1960年代、南アに支局を置く日本のマスコミはなかった。ときどきロンドンから記者が取材にやってきた。南アに数日滞在して日本人から南ア事情を聞き かじった記事が日本の新聞に掲載されることがあった。多くの記事はやはり階級史観で南アの人種差別を分析していた。

冗談じゃないと思った。南アの人種差別はそんな単純な構造で成り立っているわけではなかった。表面的には確かに白人が資本家で、圧倒的多数の黒人が搾取さ れる側にいた。それは間違いないことなのだが、資本家側には一人の黒人もいないのだ。弱い黒人が強い白人に支配されている。高校生だった筆者には、ただそ う考える方が自然だった。

 20世紀前半までは、西欧にも白人同士でも資本家による過酷な収奪構造があった。だから当時の南アにも「プアホワイト」という貧しい白人も多くいた。だ がその貧しい白人と収奪される黒人が「共闘」を組むという図式は考えられなかった。そのプアホワイトこそが南アの人種差別政策の圧倒的支持層だったのであ る。

 ある日、ロンドンから朝日新聞社の記者がやってきた。わが家にも一晩来て父親と話し込んでいた。高校生の筆者もその話をそばで聞いていた。難しい話をし ていたのではないが、こんな日本人もいるのだと感動したことを覚えている。

「レストランに入ろうとしたら断られたんですよ。アイ・アム・ノット・チャイニーズと言えば入れてもらえたのでしょうが、そのひと言が言えなくて」

 その一言に筆者は恥じ入った。毎日のように差別されるたびに躊躇なくその一言を発していたのだから衝撃は大きかった。筆者のアジアへのこだわりはその日に始まったのかもしれない。(続)
2005年08月16日(火) 金沢市議 山野之義
 先般、石川インドネシア友好協会主催による、講演会に行ってきた。インドネシア総領事が金沢に来て講演していただけるということで、楽しみにしていた。期待通りの、私たち日本にいてはとても知り得ないお話を色々と聴かせていただいた。

 講演の後の懇親会で、協会の方で、気を遣っていただき、挨拶の機会をいただいた。
 私は、インドネシアと金沢との接点という観点から、先の大戦後、前田家末裔の前田利貴陸軍大尉が殉死された話を手短に述べてきた。ほんの数分、しかもざ わめく会場ということもあり、どれだけ、正しく伝わったか分らなかった。ただ、何人かの方から、もう少し詳しく聞かせて欲しいと言われ、私の知っている範 囲のことを述べさせていただいた。

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 

 昭和20年8月15日のポツダム宣言受諾。その宣言に基づき、敗戦国日本をターゲットにした戦争犯罪裁判が行われた。

 ところで、一般に、A級戦犯及びBC級戦犯とよくいわれているが、私たち日本人は、それらを、被告とされた人物の階級を指した序列を表すものと思いがちであるが、決してそうではない。

 ABCとは、日本より早くに準備された、ドイツのニュールンベルグ裁判における戦争犯罪の規定に由来している。

 すなわち、大まかにいって、A項目「平和に対する罪」、B項目「戦争法規及び慣習の違反」、C項目「捕虜の虐待を含む人道に対する罪」、それぞれを表わ すABCなのである。よって、正確には、A級戦犯ではなく、A項目戦犯容疑者というべきであろう。ABCという順番が、階級好きの日本人の性向にあって か、いつの間にか、A級戦犯、BC級戦犯という誤解を招きがちな表記が一般化していった。

 結果的には、A項目戦犯容疑者とは、指導的立場にある高位高官の人物が多く、BC項目戦犯容疑者とは、戦争の現場における直接の指揮者、責任者、執行者等の人物が多くなり、尚一層、その印象が強まってしまったようだ。

 ちなみに、A項目の「平和に対する罪」なる概念は、この裁判のために急遽作り上げられた考え方である。しかしながら、言ってしまえば、戦争それ自体が、 「平和に対する罪」そのものであり、そのような罪状名を作り上げてしまうと、それで全てが完結してしまう。裁判を行う意味をなさない。

 さらに言えば、日本を裁いた連合国側には、リアルタイムで北方四島と北海道を侵略中で、しかも、日本軍兵士数十万人をシベリアに抑留し、強制労働させて いる真っ最中であったソ連(現ロシア)までが裁判官として加わっていたことや、この後述べるが、日本の敗戦後すぐに、独立宣言をしたインドネシア占領に乗 り出したイギリスなどに、「平和に対する罪」などと言って責められたのでは、全くもって、たまったものではない。

 さて、BC級戦犯容疑者裁判である。

 これらはアメリカ、イギリス、オーストラリアなど7カ国が主宰国となり、国内外の49の裁判所でほとんど非公開で行われた。5,700人が捕虜虐待や民間人殺戮などの戦争法規違反に問われ、920人が処刑されたという。

 BC級戦犯裁判も、東京裁判同様に、首を傾げたくなる内容も多かった。元捕虜の証言などを手がかりに犯人捜しが行われたが、身に覚えのない容疑で逮捕さ れ、処刑された「戦犯」も少なからずいたようである。また、イギリスやオーストラリア、オランダのように、日本軍の捕虜になった者を裁判官に選び、報復的 な処置を前提にしたり、罪状調査、陳述などを省略するもの、通訳のつかなかったりしたものも多数あった。中には、法廷では本人に陳述の機会すら与えられな いケースもあり、いきおい、感情的な判決も多かったと思われる。

 さて、BC級戦犯裁判について書かれた書物をいくつか読んでみると、インドネシアに再侵略したオランダの軍事裁判が、もっとも粗暴であったと書かれたものが多い。

 日本とオランダとの戦闘行動は僅か9日間に過ぎず、よって、捕虜や一般市民の受けた人的被害は、他の連合諸国に比べても、最も微小なものであった。それなのに、なぜ、戦犯を問うた数とその量刑とは、他とは比較にならないほど重酷なものであったのか。

 その理由の一つとしてあげられるのは、オランダの「プライド」であろうか。

 オランダ本国が、既にドイツとの戦いに疲弊している時に、インドネシアが日本に奪われたという怨み。また、日本敗戦後も、自らインドネシアを奪い返したのではなく、イギリス軍が上陸し、日本の武装解除をしてから、オランダが譲り受けたという屈辱。

 もう一つの大きな理由は、オランダが再びインドネシアに上陸した際の、インドネシア独立共和国との闘争、さらには、そのインドネシア独立に、日本兵が大きく関与していたという事実があげられる。

 このテーマは長くなるので、ここではこれ以上触れないが、日本人として、是非知っておかなければいけない事実である。

 それらを全て受けての、「前田利貴陸軍大尉」である。

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 インドネシアのティモール島クーパン収容所で行われた裁判において、昭和23年4月29日に、前田利貴陸軍大尉が死刑を宣告された。

 前田利貴は、加賀藩主前田家の末裔で、正確に言うと、第13代藩主前田斉泰(なりやす)の玄孫(孫の子供)にあたる。彼の父親は華族でもあり、彼自身 は、学習院高等学校から法政大学に入り、卒業後は、三井物産に勤めていた。馬術が得意で、幻の東京オリンピックの候補選手でもあった。

 前田の罪状は、ティモール島及びサウ島で逮捕した捕虜に拷問を加え、死に至らしめたということである。

 もちろん、それらは、前田の預かり知らぬことであり、むしろ、裁判においては、原住民特にサウ島民の多くが、「最後の公判の時まで、私の為に有利な証言 をして呉れた」(『世紀の遺書』より。以下、引用は全て同書より)ことからも明らかなように、「サウ島警備隊長時代の至誠が天にも通じている」仕事ぶりで あった。

 これは、前田の毛並みの良さが、予め、オランダ当局に目をつけられていたことに起因する罪状であったようだ。本人も、これまでの処遇から、その点は充分覚悟していて、「今日あるを予期し前以て遺髪を送った次第」と認(したた)めている。

 前田の育ちの良さ、教育の深さは、この遺書の中からでも自然、感じられてくる。

 前田とともに処刑された、穴井秀雄兵長が、「昔の楽しかった思ひ出にふけると死ぬのがいやになる」というが、前田の場合は、「将来の希望を胸にうかべた時一番死ぬのが嫌になる」と述べている件からも、充分、彼の性向がうかがえられる。

 やや長いが、前田の性格を表わす部分を遺書から引用する。

「兄(前田の遺書は、兄弟に宛てたものである)が死の判決を割合に平然と受けることが出来たのは、之全く御両親の御教養の賜に外ならず、之を見ても我々の 御両親は我々が知らぬ間に人間最大の修養をちやんとして居て下さつたのだ。(中略)今となつては其の高恩を何一つ御報いすることが出来ないのは慙愧に耐へ ない」

 さて、前田に対するものだけではなく、インドネシアに置ける日本人捕虜への虐待は、猖獗を極めたものであった。

 捕虜たちは、犬や猫の物真似をさせられたり、夜中に、突然起こされ、コンクリートの上に二時間も座らせられて、罵詈雑言を浴びせられたり、日本人同士の 殴り合いをさせられたり、床の上にばら撒いた飯粒を這いつくばって食べさせられたり等々、「彼らが我々のことを事件に取りあげている以上の虐待を重ねて」 受け、捕虜たちは半死半生となった。
 しかし、そんな中、捕虜たちは、「『我々はどうせ死ぬのだ。この虐待は我々一身に引き受け(中略)同胞の人に少しでも虐待の及ばぬように!』と申し合わせ神に祈っている次第です」と励ましあっていた。

 そんな中、前田は最後まで誇りを失わなかった。死の前日に、残る死刑囚たちに世話になったお礼の手紙を書き、「私の希望として検事に申し出たこと」として、次のように書いている。

 1.目かくしをせぬ事
 2.手を縛らぬ事
 3.国歌奉唱、陛下の万歳三唱
 4.古武士の髪に香をたき込んだのに習い香水一ビン(之は死体を処理するものに対する私個人の心づかいであります)
 5.遺書遺髪の送付
   以上全部承認

 処刑前夜、前田はともに死ぬことになる穴井に対し、こまごまと注意を与えていたという。

「穴井君。左のポケットの上に白布で丸く縫いつけましたか」
「はい。明るいうちにつけておきました」
「白い丸が心臓のところにあたる。明日は早いから目標をつけて置かぬと弾が当たりそこなったら長く苦しむだけだからね。発つ時は、毛布を忘れないように 持って行きましょう。死んだら毛布に包んでもらうのです。砂や石が直接顔に当たって、ちょっと考えるといやな気がするからね」

 翌朝早く、二人は書き置いたとおりの手順と態度で銃殺された。大きな声で歌も歌い、二人何か言葉を交わして笑い声をあげた直後、銃撃音が響いたという。

 その時、昭和23年9月9日午前5時45分。

 さすがの監視兵たちも、この歌声と笑い声の最期には、恐れと驚きを感じたらしい。あほど続いていた収容所内での虐待が、その時以来、すっかりやんでしまったという。

「『我々はどうせ死ぬのだ。この虐待は我々一身に引き受け(中略)同胞の人に少しでも虐待の及ばぬように!』と申し合わせ神に祈っている」

 彼らの祈りは、神に通じたのである。

 山野ゆきよし http://blog.goo.ne.jp/yamano4455/
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2005年08月15日(月)
萬晩報通信員 萩原 俊郎
  【9月11日AP電】ふたを開けてみれば、小泉自民の勝利だった。「やつ当たり解散」「自爆テロ解散」と言われ、調整型の政治家が主流のこの国では〝変 人〟と評価される―いや、われわれ欧米人から見ればよくある政治家タイプなのだが―小泉首相の特異のキャラクターによる、見通しのない解散総選挙、という 当初の評価だったが、後から考えればこれはかなり用意周到、確信犯的な行動だったに違いない。

 日本人はどうしても永田町の「政局」を見たがるが、国の外から見れば今、日本は大きな選択の岐路に立たされていることが分かる。つまり米国に近い「小さな政府」、新自由主義を志向する政治を、小泉は本気で進めるつもりなのだろう。

 一方で米国とは異なる選択、つまり、自由競争の中にも国民への防護ネット=福祉や社会保障、さらに産業の持続的発展のための環境保護などを取り入れた、 社会民主主義政策がEUで伝統的に強いが、日本ではその声は小さい。日本の最大野党、民主党の若手は小泉以上に新自由主義的な主張が多いのだ。

 不思議なことに日本は、EUのような社会民主主義的な政党が政権を取ったことがほとんどないにもかかわらず―「野合」と呼ばれた自社さ政権があるが、あ れは例外―自民の代々の指導者が、選挙対策も兼ねて国の各地方、各産業、ありとあらゆる「有権者」に配慮しながら利益を再配分し、「護送船団方式」で企業 を守り、世界でも稀有な、国民の大多数が「中流意識」を持つ国を築くに至った。

 彼らは見方を変えれば立派な社会民主主義者だったのかもしれない。

 世界でも稀有なこの国を築いた「保守本流」を自称する自民党の政治家たちは、表面は親米を装っているが、ぎりぎりのところでは抵抗を示す。とくに、今回 の解散の原因となった郵政公社の300兆円超の財産を、彼らが気前よく米国の信託銀行や証券会社に公開する気はない。

 小泉はそんな彼らを「抵抗勢力」と名付け、その「利権ぶり」を糾弾し、今まさに自民党から、さらに政界から追放するため解散に踏み切った。われわれ外国 人記者は、これを小泉による「党内粛清解散」「政界浄化解散」と名付けたが、粛清と浄化がすべて完了し、古い政治家たちの屍が累々と横たわる中で、小泉の 新自由主義に向けた改革は、永続的なものに変わる。

 今回の小泉自民の勝利で、日本は本質的に変わるだろう。

 【9月12日AP電】11日深夜、東京都内で爆発があったもよう。警視庁は米ニューヨークで同時多発テロが起きた「9・11」に備え、厳戒態勢を取って いたが、イラク派兵に踏み切った小泉首相に審判が下る総選挙の投開票日に重なり、中東のテロ集団にとっては国際的に注目を集める、またとない期日設定と なった。一部で「自爆テロ解散」という〝不謹慎な〟命名もあったが、これからは自粛を余儀なくされるだろう...。
    ◆           ◆           ◆
 ※これはあくまでパスティッシュ(贋作)です。実在のAP通信社とはなんのかかわりもありません。あしからず。
2005年08月14日(日)
萬晩報通信員 成田 好三
 小泉純一郎主首相は凄まじい政治家である。まさに稀代の策略家、いや天才的な軍師、戦略家といえるだろう。

 参院本会議での郵政民営化関連法案の否決は、郵政民営化を内閣の至上命題とする小泉首相にとっては絶対的な危機である。しかもその危機は敵(野党)ではなく味方(自民党)の反乱によってもたらされた。

しかし、小泉首相は圧倒的に不利な、全面敗北寸前の状況下で、妥協的勝利ではなく、全面勝利を目論んだ戦略の実行を決断し、正面突破作戦を決行する。

 敵と戦う前にまず「反乱軍」を鎮圧し、併せて敵を「反動勢力」と位置付ける。それが今回の解散・総選挙における総司令官であり軍師も兼ねる小泉首相の選挙戦略である。

 衆院解散後の第一ラウンドは、小泉首相の戦略通りに進行している。その一部をこのコラムで分析してみることにする。

 ■「郵政解散」ネーミングの勝利

 衆院解散・総選挙のネーミングは重要な意味をもつ。その選挙の特性、イメージを決定付けるからである。

 解散・総選挙を決断した直後、8月8日夜の会見で、小泉首相は自ら「郵政解散」と名付けた。翌9日付以降の新聞各紙は、朝日を除いて、「郵政解散」を社説や特集・連載のタイトルや見出しに使っている。

 総選挙の焦点をメディアを通して、「構造改革で民間主体の小さな政府を目指す郵政民営化賛成勢力」=小泉自民党、公明党=と、「官主体で大きな政府を維 持したい郵政民営化反対勢力」=自民党造反勢力、民主党など全野党勢力=の対決という構図に持ち込むことにまずは成功した。

 小泉首相の戦術はさらに手がこんでいた。10日には、自ら名付けて新聞各紙の多くが使用した「郵政解散」の呼び名を、「郵政・ガリレオ解散」と変更するよう提案した。

 これもメディア対策である。メディアは取材相手、特に権力者の取材相手が提案した名称の使用を嫌う習性がある。

 政治的にニュートラルな事案であった「阪神淡路大震災」(政府側の名称)でも、多くのメディアはこの名称を使わず、「阪神大震災」で通した。

 小泉首相とメディア対策に長けた飯島勲書記官ら側近は、あえて定着しかけた名称を否定してみせたのである。これには以下のような、小泉首相のメッセージが込められている。

 「私が当初名付けた『郵政解散』の名称は撤回しましたから、どうぞ自由に総選挙のタイトルをつけてください。ただし、私は既に名付け親の立場を放棄したので、『郵政解散』を使っても結構ですよ」

 こうなると、メディアは「郵政解散」の使用に躊躇しなくなる。

 民主党の岡田克也代表は「郵政解散」に反発し、幾つかの代案を提案したが、後の祭りである。岡田氏の代案を使うメディアは一つもなかった。

 ■「竹中擁立」はガセネタか

 小泉首相が、民営化法案に反対した自民党前議員すべての選挙区に対抗馬を立てる方針を明らかにし、その第1弾として小池百合子環境相(比例近畿)を小林興起氏(東京10区)の対抗馬として擁立すると決めた10日、永田町をある噂が駆け巡った。

 反対派の中核の一人である亀井静香・元政調会長の選挙区である広島6区に、竹中平蔵・郵政民営化担当大臣(参院比例)を擁立するという噂である。一部メディアは「擁立有力」と報じた。

 自民党の反対派は早くも足下が乱れている。選挙向けの新党構想はあっという間にしぼんだ。

 党の公認を得られない反対派は、自民党の看板も、自民党の金庫も、自民党総裁の印のある借用証書も使えない。選挙向けの新党立ち上げにも失敗した反対派は、現行の公選法では圧倒的に不利な無所属で戦うしかなくなっていた。

 そこに小泉首相が「刺客」(対抗馬)を送り込んでくる。しかもその第1弾はタレント出身で現職閣僚の小池氏である。

 11日付の読売「スキャナー」によると、「竹中擁立」の情報は、反対派の会合の席で、1枚のメモによって伝えられた。

 この記事によると、亀井氏は「望むところだっ」と吠えたそうである。しかし、実のところは冷や汗を流し、肝をつぶしていただろう。

 記事では「竹中擁立話はガセネタだった」とあるが、単なるガセネタであるはずもない。これも飯島秘書官らが仕掛けた情報戦に違いない。「擁立有力」と報 じた一部メディアは巧妙なリークの罠にひっかかったのだろう。この記事では、午後4時に竹中氏が首相官邸を訪れ、小泉首相との会談後に擁立話を否定したと あるから、相当に手のこんだ情報戦である。

 ■「刺客」はいくらでもいる

 小泉首相が、反対派全員の選挙区に対抗馬(刺客)を立てる方針を明らかにした際、反対派や野党、メディアの一部は、そう簡単に大量の対抗馬は擁立できないだろうと考えていた。

 しかし、それはとんでもない間違いである。対抗馬はいくらでもいる。何もこれからあわてて民間人を探すこともない。「身内」に数多くいるからである。

 国会議員にはある習性、方向性がある。参院議員なら衆院議員、それも比例区ではなく選挙区に鞍替えしたい、比例区の衆院議員なら選挙区に転出したい、という習性、方向性である。

 小泉首相はこの習性、方向性を利用すればいいだけのことである。東京10区への擁立が決まった小池環境相も衆院比例区選出である。

 参院比例区選出議員なら本人にとっても、党にとっても都合がいい。本人にとっては衆院議員、それも選挙区選出議員になれるチャンスだからである。党に とっては、参院比例区議員が衆院議員に転出するため何人辞職しても不都合はない。その都度、次点者が繰り上げ当選するから、議席数が減ることはない。しか も、鞍替えする本人も、繰り上げ当選する次点者も、ともにチャンスを与えてくれた小泉首相に感謝する。

 小泉自民党有利な情勢下ならば、対抗馬擁立に困ることはない。国会議員以外からの自薦他薦組も増えてくる。

 小泉首相の戦略、戦術は事前に周到に準備されたものである。(2005年8月12日記)

 成田さんにメールは mailto:yo_narita@ybb.ne.jp
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2005年08月13日(土)
ギターボーカリスト 兵頭ニーナ
 5月1日(日曜日)。今日はグルジア正教の復活祭だ。

 敬虔な信者達は夕べの内に教会のミサに出かけ、夜12時のキリスト復活を伝える鐘の音が鳴り響くと同時に周りの人達とお祝いのキスを交わしたことだろ う。グルジアでは赤く染めたゆで卵しか作らないけど、私が子供の頃はできるだけ多くの色の卵を作り、籠に入れたパスハ(復活祭用の特別のパン)のそばにき れいに並べ、一家そろって東京神田のニコライ堂に出かけたものだ。

 ヴィクトリア家にはここから歩いて15分程の丘の上に住むネリコから復活祭パーティへの招待があった。「ニーナお願い! あなたの歌をプレゼントしたいの」とヴィカに言われて断る訳もない。

 アパート玄関先の路上花屋でチューリップとカラーの花束を買い、ヴィカ、リューバ母さん、ナターシャ、私の4人で出かけた。ネリコの家に着くと「フリス トス、ワスクレースィ!」「ワイーシナ、ワスクレースィ!」とキリスト復活のお祝いの言葉を交わし右、左、右と3回ほっぺたにキスをする。

 部屋に入るとまぶしいほど真っ白なテーブルクロスの上にすでにたくさんのご馳走が並べてあり、ひとつに2本分ぐらい入りそうな赤と白の大きなワインデ キャンタもおいてあった。ご馳走とワインの量からして10人ぐらいのお客様になるのだろうと想像したが、意外にも少し遅れてナターシャの幼馴染だという老 人が一人来ただけだった。早速ワインで乾杯してご馳走を食べ始める。何かにつけて乾杯するから帰るまでに何十回となくクリスタルグラスのチーンといういい 音が響いていた。
 
  • 今日のメニュー
  • 子牛のハーブ煮、豚肉のグリル、鶏肉のくるみソースあえ、魚のグリル(チョウザメの親せき?)
  • チーズ3種(豆腐をたてに6等分にしたぐらいの大きさに驚く)
  • パン2種(ショーティプリ、コーンパン)
  • サラダ2種 A トマト、きゅうり、ピーマン、タラゴンの葉、スィートピーマン等が皿の上にそのままある。塩をかけて食べる。
            B サラダ菜ざく切りとハーブ類のみじん切り。
  • カッテージチーズと塩
  • ワイン赤、白
  • デザート パスハ(ケーキパン)、赤いゆで卵、紅茶、コーヒー
          カッテージチーズから作る甘いねりもの等など。
 ひと通り食べてみたけど、どれもとてもおいしくてつい食べ過ぎた。

 64歳のネリコはでっぷりと太っている。まさにグルジアのお母さんだ。夕べのミサに出かけて朝方帰り、4、5時間の仮眠をして、それからご馳走をつくり 始めたそうだ。今日の日だというのに飾りっ気もなくムームーみたいな黒の服につっかけで台所とテーブルを行ったり来たりしてみんなの世話を焼く。台所では 姪っ子が手伝っていたが、帰ってきた娘夫婦ともども一度もテーブルにつく事は無かった。何かきびしい掟?でもあるのかな。

 かのじいさんはと見れば食べるのも忘れて帰るまでナターシャ(70歳)に釘づけだった。「ナターシャ! 君は50年前と変わらず美しい。君を思うと胸が 痛いよ」とか言いながら有名な人の詩を朗々と語り愛の歌をうたい...。

 実に率直にお芝居かのごとく自分の気持ちを伝えているのを見てると、こちらまで熱くなってくる。ナターシャはとても気分がよさそうににこにこしている。

 頃合いをみて「ギターを弾いて」とヴィカから合図があった。私が歌い始めるとみんな目を丸くして楽しそうに聞いてくれた。特に日本語の歌は「言葉の響き がきれい! エキゾチック」とかいって喜んでくれた。でも2回目に唄った時にはみんな酔っ払っていて1時間以上も唄わされた。

 ネリコの家はかなり高台にあり誘われてベランダにでると、星をちりばめたようなトビリシの街の夜景がそれはそれは美しかった。

「素晴らしいでしょう、この眺めと空気のおいしさが気に入ってこの家を買ったのよ」と彼女は満足げに微笑んでいた。うーん確かにアパートのまわりは車が多 くて排気ガスもすごい。15分ほど高台に上がるだけで青山から箱根にでもいったような不思議な感じがする。

「素晴らしいですね、私もこんな所に住みたいです」と正直な気持ちを伝えた。

 10時頃には帰りたかったのにのびにのびて結局2時過ぎた。食べて飲んでの8時間ものパーティは言葉も不自由な私はとても疲れる。それにしてもグルジア のご婦人たちは元気だなあ。体力に自信があった私もすっかり参りました。

 復活祭2日目、ナターシャを案内してチャヴチャワゼ大通りの薬局へ行く。通常の半分以上の店のシャッターが閉まっていて何だか淋しかった。やっぱりここは車で込み合い人がぞろぞろいないと変な感じだ。

 いつも買いに行く半地下のプリ屋(パン屋)も閉まっていて、薄汚れたランニングを着てプリを焼いてるひげちょびれの青い目のたぬき腹のおじさんの顔が見れなかった。やっぱり淋しい。

 いつもにこにこと愛想のいいあの吸い込まれそうな青い目に惚れちゃったかな?? 露店花屋だけはいつもより多く出ていてナターシャはすずらんを買って リューバ母さんにプレゼントした。それから残り少ないトビリシでの休日を惜しんで昨日のネリコといっしょに旧友の復活祭パーティへと出かけて行った。

 ニーナにメール mailto:nina2173@v7.com
2005年08月11日(木)
萬晩報主宰 伴 武澄
  8日午後1時からの参院本会議で郵政民営化法案はみごとに否決された。日本の構造改革はまた一から出直しなのだろうかと陰鬱な気分にさせられた。しかし小 泉純一郎首相はどうやら違うモードにあったようだ。自民党の青木幹夫参院会長のうつろな表情とは裏腹に小泉首相は意気軒高で反転の行動も素早かった。

 直ちに臨時閣議を召集し、解散に反対した島村農相を罷免し、解散署名を集めた。さらに9月4日公示、11日投開票の総選挙スケジュールを決定すると同時 に、衆院で郵政民営化法案に反対した37人の造反組の公認はないことを内外に宣言し、電光石火のごとく総選挙の方針を決めていった。

 山本一太参院議員が心配していた解散総選挙における3つの懸念などはいまのところ杞憂におわっているといっていい。自民党の執行部や閣僚たちが否決後のショックで放心状態にある間に小泉首相のペースで総選挙の方針を決めてしまった感がある。

 さらに夜の記者会見では、今回の解散総選挙の意義について、あらためて小泉改革路線の是非を国民に問うという国民投票的意味合いを強調し、自公で過半数 を取らなければ下野すると自ら退路も断った。返す刀で本来、郵政民営化に賛成すべき民主党が大安を出すどころか法案反対を貫いたことを批判、小泉自民党こ そが真の改革政党であることを印象づけてしまった。

 一連の動きを振り返ると、小泉首相は本当は参院での否決を望んでいて、衆院解散をてこに自民党から抵抗勢力を駆逐する口実にしたかったのではないかと勘繰りたくなるほどの手際良さだった。

 小泉首相は8日の参院本会議で敗れたはずなのに、一日が終わってみるとこの日の勝者は小泉首相になっていた。小泉首相は敗者から、あっという間に攻勢に転じ、抵抗勢力も岡田民主党もなすすべがなかった。だれもがそんな印象を得たのではないかと思う。

 少なくとも小泉自民党の選挙公約である郵政民営化に反旗を翻したのだから、抵抗勢力はそれなりの覚悟と戦略を持っていなければならなかった。小泉自民党 に政策面で堂々と渡り合えるだけの準備が必要だった。解散総選挙が終わったら、再び自民党の合流できるだろうなどという卑屈なまねだけはしてほしくない。 少なくとも一時は、小泉首相の「覇道」てい手法に対して「王道」などとほざいた勢力なのだから自らの王道ぶりを示してもらいたいものだ。

 民主党内にも少なからず郵政民営化論者がいるはずだ。これを抑えて改革の着手を遅らせる勢力となってはならない。本来ならば、民主党こそが改革の旗手だったはずだ。構造改革の必要性を知りながら手をこまねいていた自民党に対して大同団結したのが民主党ではなかったか。

 言葉だけの総花的改革論はもはやだれも聞きたくない。改革には反対があり、痛みが伴うことを国民は覚悟している。「政治空白」「景気の後退」などだれも 気にしていない。マスコミ各社の直近の世論調査を読むと、小泉ブーム再来の兆しがある。民主党にお願いしたい。自民党だけには投票したくないと思っていた 筆者のような人たちを転向させるようなことだけはしてほしくない。
2005年08月07日(日)
萬晩報主宰 伴 武澄
 参院議員の山本一太氏が参院で孤軍奮闘している。参院で郵政民営化の必要性を声高に主張しているのはほとんど山本氏しかいない。山本氏がホームページに今夜書いているメッセージを勝手に転載したい。
 http://www.ichita.com/03report/index.html

 NO.1432 「改革自民党のチャンス」 2005年8月7日 パート2
  HPのアクセス数/日はここのところずっと2000を超えている。昨日から今日にかけてレポートの読者から100通以上のメールを受け取った。9割は「激 励のメッセージ」だった。内容は大きく分けて次の三つ。「郵政改革に賛成」「今になって民営化に反対する議員はおかしい」「否決されたら解散して国民に信 を問うべきだ」というものだった。
  昨晩、大村秀章衆院議員から電話があった。このレポートにも何度か登場した大村氏は、自民党を代表する若手論客の一人。愛知県の自民党県連会長も務めてい る。「地元の声を拾ってみると、小泉総理に同情的で、法案反対派に厳しい。もしかすると風が起こるかもしれない。選挙は小泉改革支援の立場でやるつもり だ!」と話していた。続けて東京都選出の菅原一秀衆院議員からも連絡が入ってきた。菅原氏は区議会議員として政界にデビュー。地盤も看板もないことろから 攻め上ってきた筋金入りの改革派だ。「選挙区の盆踊りを回ってみたら、郵政改革への関心が高い。ここ数日の一太さんと小林興起さんのテレビ討論が話題に なってました。ほとんど10割の人が(山本一太の主張が正しい)と言ってました。それを伝えたかったんです」ということだった。そういえば、昨日の「高崎 まつり」で会った地元の有権者からも口々に、「一太さん。郵政民営化は賛成だ。しっかり頑張ってくれよ!」と声をかけられた。ついでに言うと、政界の兄貴 分である武見敬三参院議員からも電話があった。会話の内容は書かない。が、武見さんてさすがに腹が据わっている。
  選挙になった場合、小泉総理は法案に反対した37名の衆院議員を「公認しない方針」を固めている。マイナス37(あるいは51?)の議席からスタートする わけだから、誰がどう考えても苦しい選挙だ。が、必ずしも負けるとはかぎらない。そんな気がしてきた。小泉総理と党執行部が中途半端なことをせず、造反組 (*この言い方は好きではない。「違う信念を持った議員」というべきだろう)のすべての選挙区に候補者を擁立するという覚悟で臨んだら、すべての選挙区に 「改革自民党」の新人を立てることが出来たとしたら...デビュー当時とは違った「風」が吹くかもしれない。選挙の構図は「三つ巴」になる。「改革自民党」と 「違う信念を持った前自民党議員」(新党?)と、そして「対案のない野党民主党」の間のレースになる。
 万が一、解散総選挙になる場合でも、小泉首相は国民の多くが応援していることを忘れないでほしい。山本氏は仮に解散総選挙になった場合、小泉首相に三つのことを求めている。

 (1)即刻、衆議院解散を表明する。
 (2)同時に法案に反対した37名を自民党の名簿から外す。
 (3)37選挙区のすべてに新たな公認候補者を擁立する。

 筆者も絶対に抵抗勢力と妥協してほしくないと思っている。加藤紘一氏が「加藤の乱」で最後に腰砕けになった二の舞いにはなってほしくない。総選挙でのス ローガンはあくまで郵政民営化でなけれなならない。信じる道を貫けば、道は自ずから開けるというものだ。

 国民は利害抜きにそういう政治家を求めているのだ。
2005年08月06日(土)
萬晩報主宰 伴 武澄
  ここ数日の小泉純一郎首相を見ていて「孤高」という言葉を思い浮かべた。自民党はおろか、マスコミもほとんど小泉支援の声が出てこない。民営化法案の成否 が問題なのであって、解散の是非は二の次の話なのに、メディアの関心は解散とその後の政局にしかないのは悲しいことだ。

 きょうの日経新聞は平田育夫論説副主幹の「改めて郵政改革を考える」と題したコラムを一面に掲載した。いまごろになって郵政の民営化が「新しい国造りに不可欠」であることを主張している。

 きのうも書いたが、筆者は郵政民営化論者である。郵便貯金と簡保の350兆円の資金が政治家や官僚の都合で採算性を度外視した事業につぎ込まれてきた歴史をわれわれは見てきた。郵貯が一般会計予算による国債発行の受け皿になってきたことも見てきた。

 真面目に日本の財政を考える人にとって、国家と郵貯との関係を断ち切らなければならないことは自明の理であろう。もはや議論の余地はないはずなのだ。

 郵政民営化法案に反対する自民党の多くの議員にとって、本当に頭に来ているのは郵政民営化法案などではないのだ。小泉首相がこの4年間とってきた政治手法がたまらないのだ。

 どういうことかというと、小泉首相が現れるまでの日本の政策は、官僚と自民党議員の二人三脚によってつくられてきた。本来ならば、内閣は国会で選ばれた 内閣総理大臣に全権を委ねなければならないのだが、官僚たちは内閣をないがしろにして自民党のそれぞれの利権集団に相談して政策を立案してきた。

 自民党の議員たちは官僚たちの配慮によって、黙っていても多くの利権にありつくことができたのだった。小泉首相が取った手法は、その官僚と自民党議員との関係を断ち切ることだった。

 小泉首相は内閣の機能を強化するため、民間人を多用した多くの諮問機関をつくった。その諮問機関のリーダーは竹中平蔵氏だった。諮問機関で政策提言がなされると多くの場合、官僚たちは反対に回った。当然ながら利権集団の自民党議員たちも反対に回った。

 諮問委員会では最後に小泉首相の意見が求められ、そこで「ゴーサイン」が出された。以前には政策決定のたびごとに自民党の意向が強く反映されたが、諮問 委員会形式の政策決定では自民党議員の出る幕がないのだ。出る幕がないということは利権にありつけないということでもある。

 多くの自民党議員にとって小泉首相の存在は煙ったいどころではなかった。自民党議員のこれまでの仕事は業界や支援団体への利益誘導だった。その原資は財政であり、財投資金だった。

 財政資金はすでに枯渇していることは多くの自民党議員たちは知っている。残るのは財投資金である。その財投資金のほとんどを賄っているのが郵貯の資金であるから小泉首相はその最後の資金源を断とうとしているのである。

 自民党の議員たちは利益誘導の資金源を断たれると、議員としての存在価値が問われることになる。これまで自民党は選挙の顔として小泉純一郎を珍重してき た。選挙に勝つためにだけ小泉首相を利用してきた。自民党は政権政党であることが唯一のマニフェストだった。政権にあることによって初めて政党の体をなし ていた。

 自民党にとって単なるピエロだった小泉純一郎が政策を掲げたのだからうまくいくはずがない。日本道路公団の民営化が成立したことで自民党は堪忍袋の緒が切れていたはずだ。よもや郵政民営化までには手を伸ばさないだろうと高をくくっていたが、小泉首相は本気だった。

 8日、参院本会議で郵政民営化関連法案が採決に付される。午後2時前には成否が決まる。郵政民営化法案が可決されれば、自民党の利益誘導の資金源が断たれる。否決されれば、解散総選挙で自民党は二分する。いずれにせよ自民党はぶっつぶれる。

 小泉純一郎の最大のマニフェストは自民党をぶっ壊すことだったのだ。がんばれ小泉純一郎。
2005年08月05日(金)
萬晩報主宰 伴 武澄

 ある日曜日に伊勢湾に浮かぶ神島に行こうと決めて、土曜日の午後、近くの書店で三島由紀夫の『潮騒』(新潮文庫)を買った。夜、その本を読みながらインターネットで鳥羽から神島への船便を検索した。

 一周しても一時間足らずの小さな島であるが、午前の便で着いたら、午後3時半にしか帰りの便がないことを知った。どうやって時間も過ごすのだろうと考えたが、行ってみると時間はそう余らなかった。

『潮騒』は一夜では読み切れなかったから、鳥羽からの船で続きを読み始めた。連絡船はポンポン蒸気に毛の生えた51トンの小さな船だった。224人乗りの 船に客は十数人だった。途中菅島に寄ったら、乗船客は名古屋からのアベックと筆者だけになった。

 荷物はけっこうあって、クロネコヤマトの宅急便と郵便マークの入ったずた袋が一緒に運ばれている光景を目にして、ほほえましかった。連絡船は鳥羽市が経営しているものの、小さな島への荷物では官も民もないのは当然のことと理解しなければならない。

 ロマンチックになるはずの旅は船内にあった郵便マークの入ったずた袋で一転、郵政民営化を考える旅になった。なんとはない。公務員が配達するはずの郵便マーク入りの袋はただ一人海を渡ってきたのだ。津に帰ってから数日後、鳥羽郵便局に電話を入れた。

「神島には郵便局がありますが、集配局ではありませんよね。神島では誰が郵便を配るのですか」
「鳥羽郵便局員です」
「でも船には郵便物だけあって配達員はいなかったです。島のおばさんが郵便袋を持っていったようです」
「あー、それは受託員です」
「受託員ってのは公務員ですか」
「いえ、契約しているのです」
「となると神島では民間人が配達をしていると。答志島や菅島でも同じなのでしょ」
「そういうことです」
「集配局のない瀬戸内海の小島でもそうなのでしょうか」
「管外のことは分かりませんが、たぶん同じだと思います」

 思った通りである。神島では民間人が郵便を配達しているのである。ここで見た風景はすでに「民」に多くを依存している郵便事業の一端を示している。

 全国2万5000の郵便局には普通郵便局と特定郵便局、それに簡易郵便局の3種類ある。一番多いのが特定局で1万9000局、次は簡易局の4500局。 普通局は1300局しかない。その二番目に多い簡易局の職員は公務員ではない。特定局だってもともとは名主や庄屋に公務員の身分を与えて取り立てたもの。 世襲が認められているぐらいだから人事権すら及ばない。辞令は出ているが、民間の発想では「契約」に等しい。そうなるとほとんどの郵便局は「民間委託」で 成り立っているといっても間違いないのだ。

 参院郵政特別委員会できょう、郵政民営化法案が採決された。週明け8日は参院本会議での採決がある。筆者は郵政民営化論者で小泉首相の立場を支持してい るが、「官から民へ」ということを強調しすぎだ。小泉さんは郵便事業がすでに多くの「民」でなりたっている状況をもっと強調すべきだったのだと思ってい る。

 きょうは126年前、郵便貯金事業の規則が公布された日である。

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