2005年7月アーカイブ

2005年07月31日(日)
ギターボーカリスト 兵頭ニーナ
 グルジアに来る前にネットで知り合ったやぶ蚊さんこと渡辺さんにやっとの事で立ち上げたPCから「トビリシに着いてます」とメールした。

 すぐに返信が来て翌日にはアパートの下のイタリアンカフェでお会いして自己紹介。去年結婚して今、生まれて2ヶ月の赤ちゃんがいると話して下さった。ぜひ奥様にもお会いしたいなー赤ちゃんも見たいなーと思ってたら突然!「ヒンカリはもう食べましたか?」とやぶ蚊さん。

 グルジアにきて2週間も過ぎ、色々食べたけどヒンカリは知らなかった。
「ヒンカリって何ですか?」
「しょうろんぽうみたいなものですね。僕のアパートの近くにおいしい店があるんですよ。下町ですけど・・・・」
「ぜひ、行って見たいです」

 早速マルシュートゥカ(乗合マイクロバス)に乗ってマルジャニシュヴィリまで出かけた。15分くらいかな。浅草か御徒町みたいに雑多な店が建ち並びなんだか私の気をそそる。私はやっぱり下町が好きなのかも知れない。時間はちょうど夕食どき。

 ここですけどとドアーを開けるとそこはまさに「下町の食堂」で10個くらいのテーブルは、ほぼ男たちでいっぱいだった。

「どうして女性はいないんでしょうね?」
「まあ、こういう所は男達のたまり場ですから殆ど女性はいないですね。グルジアの女性は強いからなー」
「フムフム、なるほどね」

 運良く空いてたテーブルに席を取るとやぶ蚊さんがヒンカリ10個と一番おいしいといわれてるビールをジョッキで頼んで下さった。ビールは麦っぽくて日本 の銀河高原ビールに似ていた。やがてお皿に山盛りで出てきたヒンカリはまさにしょうろんぽうの大きいやつで「熱い汁が飛び出るから少し冷めてからかぶりつ いてください」と教えられた。
袋状にねじられたところを手で持って恐る恐る食べて見る。

「うーん、味付けも東洋風・・・むしゃむしゃ・・・おいしいですねー・・むしゃむしゃ・・・シルクロードですねー」
「そうですねーむしゃむしゃ・・グビッ!」

 ジョッキ一杯のビールとヒンカリ4個でお腹がいっぱいになった。家庭ではあまったヒンカリは次回フライパンでじっくりと焦げ目をつけてあたためて食べるそうだ。となると餃子だな・・とタレの事を思い出した。

「グルジア人は外国の人と見ると、ご馳走したがるやからが出てきますが僕がうまく断りますからね。一度受けると止まりませんので・・・・」なんて言ってる 内に早速、横のテーブルからお声がかかった。やぶ蚊さんがグルジア語で何とか断ってるのを聞いて頃合いを見て立ち上がった。

 今日はやぶ蚊さんお奨めのおいしいヒンカリに出会えて幸せだった。ついでにアパートにもお寄りして奥様にもご挨拶、可愛い赤ちゃんの顔も見て帰路についた。

 一人で乗るマルシュートゥカは自信が無かったが、やぶ蚊さんが運転手さんに降り場所を言っておいて下さったので助かった。ヴァケ区はお金持ちの街と見ら れていて結構物騒だと聞いていたのでバスを降りてほんの2,3分、せいいっぱいあたりに気をくばりアパートの階段を駆け上がった。夕方から夜にかけての一 人の外出は初めてだったから私よりもむしろヴィカの方が心配だったに違いない。

 二重鍵を開けてもらいドアーの向こうにお互いの顔を見てやっとほっとした。

 ニーナにメール mailto:nina2173@v7.com
2005年07月30日(土)
萬版報通信員 成田 好三
 自民党は政権政党である以外に存立理由のない政党である。それと同様に、公明党もまた政権連立与党である以外に存立できない政党である。

 近年の国政選挙で自民党は、公明党・創価学会(以下公明党と記す)の支援(推薦、支持など)なしには戦えなくなってきた。組織としても、議員個々の選挙でも同じである。7月に行われた東京都議選でほぼ改選前の議員数を維持できたのも、公明党の支援によるものである。

 それでは、公明党が支えても、自民党が政権を維持できなくなったら、公明党はどうするのか。その答えは明らかである。地方自治、地方選挙の実態を少しでものぞいてみれば、誰にでも分かることである。

 国政とは違って、地方自治は議院内閣制ではなく、大統領制に近いものである。首長(知事、市町村長)と地方議員はそれぞれ別の選挙で選出される。

 地方議会において、公明党は市町村から政令指定都市、都道府県に至るまで、ほとんどすべて政権与党(首長与党)化している。

 多くの地方議会は、多数を占める自民党を含めた保守系議員が一枚岩ではなく、会派が分裂しているため、公明党会派は議員数以上の発言力をもつことになる。保守会派が複数に分裂した市議会などでは、少数の公明党会派が議長ポストに就くことさえある。

 地方の首長選においては、極めて多くの場合、当落のキャスティングボートを握るのは、公明・創価学会票である。

 泡沫候補を除いて、共産党系候補以外で複数の有力候補が出馬した場合、当落の判断に世論調査など必要としない。公明党がどの候補を支援しているかをみればいいだけである。

 逆に、公明党が支援する候補を明確にしない場合は、その選挙は間違いなく当落の予測が難しい激戦になる。

 地方の首長選において、公明党は常に勝ち馬に乗る戦略を取る。勝ち馬を読む能力は驚くほど高く、間違いを犯すことはほとんどない。勝ち馬が事前に見極め られない場合は、当選後の首長をじんわりと取り込んでいく。首長の多くも喜んで公明党に取り込まれていく。初当選した首長にとっては、次の選挙で公明党の 支援を得られるかどうかは、再選されるか否かの分かれ道になるからである。

 地方選挙において極めて大きな影響力をもつ公明党だが、公明党直系の候補を首長に当選させることは難しい。公明・学会票以外にも多くの支援者をもつ候補 を擁立しても、当選させることは至難の技である。公明党直系の首長誕生には、一般有権者のアレルギー的反応が強いためである。

 こうした地方自治、地方選挙での公明党の実態を理解していれば、国政での公明党の動きも簡単に読み解くことができる。

 公明党の冬柴鉄三幹事長は7月27日、日本記者クラブで会見した。その中で冬柴氏は、郵政民営化関連法案が参院で否決され、小泉純一郎首相が衆院解散・ 総選挙に打って出た場合、自民党が敗北した際には、極めて慎重な言い回しながらも、自民党との連立を解消し、民主党との連立の可能性があると言及した。

 同じ日、冬柴発言の後に記者会見した公明党の神崎武法代表は、「自公両党で選挙結果に責任を負う。過半数を取れなければ自民党と一緒に野党になる」(朝日)と、冬柴発言を言下にに否定した。

 翌28日の新聞各紙は、冬柴発言とそれを否定した神崎発言を取り上げた上で、冬柴発言を「(自民党の)法案反対派へのけん制が狙いと見られる」(毎日)などと、いずれも政局狙いの発言だと、発言の意味を矮小化した見方をしていた。

 しかし、はたしてそうだろうか。冬柴発言もそれを言下に否定した神崎発言も、公明党内部で周到に準備され、タイミングを見計らって行ったものである。

 参院での郵政民営化関連法案の否決の可能性が高まったこの時期に、公明党としては、民主党との連立の可能性について言及しておく必要があったのである。

 現在の連立相手である自民党にも、将来の連立相手となる可能性の高い民主党にも、事前に「仁義」を切っておくという狙いである。

 しかし、冬柴発言の波紋が広がりすぎては、公明党の利益にはならない。だから、同じ日に党内ナンバー2の発言を党内ナンバー1が否定してみせたのである。

 公明党が小沢一郎氏(現民主党副代表)と組んで野党になった時代は、公明党にとって最悪の時代だった。政権中枢(首長与党)を目指す地方と、野党である中央のベクトルが、まったく正反対の方向を向いてしまったからである。公明党はその轍を二度と踏まないだろう。

 自民党が政権政党ではあり得ないと判断した場合、公明党は即座に、しかも躊躇なく自民党を見捨てる。そのことは、地方自治、地方選挙の実態をを見れば、疑問の余地のないほど明らかなことである。(2005年7月29日記)

 成田さんにメールは mailto:yo_narita@ybb.ne.jp
 スポーツコラム・オフサイド http://blogs.yahoo.co.jp/columnoffside
2005年07月28日(木)
アメリカン大学客員研究員 中野 有
  ワシントンから50キロほど東に走った所にアナポリスという由緒ある港町がある。アナポリスには海軍士官学校があり、その博物館には、150年以上前に明 治維新の志士たちが目にした黒船で浦賀に来航した時のペリー総督の三角帽が陳列されている。写真で目にしたことのあるこの三角帽を目の前にして、歴史の舞 台を回転させたこの歴史の遺品の重みが伝わってきた。

 黒船が来航し、250年の天下太平が崩れ、尊皇攘夷か開国に迫られたのである。封建制度に圧迫されていた江戸の社会が、もとよりリンカーン大統領の民主 主義や自由な開放感に接した時のときめきは、想像を遙かに超えるものであったであろう。この開放感こそ明治維新のエネルギーの源泉であり、日本の近代化の バックボーンであったの考える。

 明治初期、岩倉具視を団長とする革命の英雄豪傑たち50人ほどが1年9カ月あまり欧米視察を行った。目的は新生国家のデザインを描く旅であり、世界史の どこを見ても国家のかたちを創る中心人物たちがこのように長期間の世界漫遊の旅に出た例は見られないという。伊藤博文がサンフランシスコで英語でスピーチ を行った。これは日本人が、公式な場で最初に行なった英語のスピーチだといわれている。

 伊藤博文は、この「日の丸演説」にて、日本の政府および国民が熱望していることは、欧米の科学・技術・文明の最高点に達することであると欧米へのあこが れを謙虚に述べると同時に、欧米では成し遂げられなかった無血革命に近い明治維新に触れ、日本の精神的進歩すなわち、「日本のこころ」が物質的進歩を凌駕 すると熱弁を奮った。米国の聴衆は、日本を知り万雷の拍手をおこし、しばしそれは鳴りやまなかったという。

 科学技術や豊かさの面で欧米より遙かに遅れていた日本であったが、欧米が羨望するバックボーンが当時の日本には有った。その日本のバックボーンがアジア を蘇らせる原動力となった。明治維新から40年足らずでロシアのバルチック艦隊を破ったのである。孫文は、このアジア人が白人を破った朗報をヨーロッパで 知り、白人が嘆く光景と、スエズ運河でアラブ人から、おまえは日本人かと尊敬のまなざしで大声をかけられた時の喜びを記している。当時の国際情勢を鑑みる に、大アジア主義や三民主義を唱えた孫文が、明治維新に伝わる日本のバックボーンの影響を受けたことが理解できる。

 これは、エジプトの駐米大使から直接聞いた話であるが、前国連事務総長のブトロス・ガリ氏は、日本に来られたときに真っ先に訪問されるのは、東京の東郷 神社であり、それ程までに日露戦争の英雄である東郷平八郎元帥を尊敬されているそうである。

 一世紀前の出来事にも拘わらず国連のトップを魅了するだけの日本のバックボーンがかつての日本には有り、アジアが西洋の列強の餌食になる時代において、 アジアを開放する意味でアジアの天下の形勢は日本に向いていた。しかし、日清戦争で国家予算の3年分の賠償金を獲得し、日露戦争に勝利した日本は、資源・ 市場獲得を目的に列強の植民地政策を模索することにより、近代ヨーロッパの侵略の矛先を東洋における西洋として東洋人に向けたのである。このように日本の 戦前の軍国主義の歪みにより、アジアを敵に回すことになったのである。

 原爆という洗礼を受け敗戦国となった日本は、平和国家として経済に集中することができたのは米国の共産主義封じ込め政策の恩恵である。敗戦国日本が、経 済的恩恵を受け、戦勝国である中国が、中共と国民党の内乱に続き朝鮮戦争等の動乱により経済的な不遇を強いられたのである。戦後の日本は、経済的優越感に 浸り傲慢になり、中国は経済的に卑屈になったのである。

 日本は、ODAをアジアの興隆のために提供してきたが、今日、日本の周辺諸国から警戒されるのは、一度はアジアかを尊敬された日本が、アジアを裏切り侵 略した行為と経済的な格差から来るアジアの妬みによると考えられる。それならこれらを払拭するためには相当な時間と忍耐が必要であるが、それなしでは大や けどするときがきっと来よう。

 60年前、日本は世界を相手に戦っていた唯一の国であった。歴史的に、全世界を相手に一国が3カ月以上も戦った前例があったであろうか。たとえそれが敗 戦であっても、そこには日本のバックボーンがそうさせたのだろう。黒船の出現により維新の志士達が自由に目覚めた憧憬と日本の軍国主義を打破した米国への 尊敬が、占領軍を驚かせる程の純粋な日本人を演じさせたのであろう。もし、戦勝国である中国に日本が侵略されたとすると徹底的な抗戦がもたらされたであろ う。その意味でも米国に占領されたのは不幸中の幸いだったと思う。米国への憧れは、黒船に由来しているのだろうか。

 しかしながら敗戦をバネに再び欧米への経済的キャッチアップを実現させた今日の日本は、伊藤博文の日の丸演説にほど遠く全く正反対の状況に直面してい る。欧米の科学技術に追いついた日本は、かつて欧米から賞賛された日本のバックボーンをどこかで置き忘れてしまったのではないだろうか。世界の中の日本の 特徴なき特徴を巧みに表現している点でどこかで読んだ以下のジョークは示唆深い。

 ユネスコが、象の研究を世界に依頼した。イギリス人は、象牙の輸送をテーマに植民地の教訓を生かした実利的な研究論文、フランス人は、象の愛情問題に関 する研究論文、ドイツ人は、象学における方法論の哲学的論文を作成した。日本人は、世界の象に関する論文の事例をまとめた。すなわち日本人の論文は、他国 を調査するだけで自国の特徴が不在しているのである。このジョークを考えたのがアメリカ人である。

 これは実際に体験した話である。筆者がワシントンのシンクタンクの研究員として、国務省出身の上司と一緒に日本の国会議員団の訪問に対応した時、米国の 立場で日本の北朝鮮政策の本音を聞くことが目的であった。しかし、中国、韓国、ロシア、米国の政策についての話はあったが、煙に巻かれたように日本の特徴 に関する政策を把握することはできなかった。まさにこれはユネスコの象の研究と同じように、日本は他国の研究を気にしているが日本の特徴を示す研究に欠け ているし、加えて日本のバックボーンやビジョンを明確に語る人物があまりにも少ないように思われる。グローバリゼーションの世の中でこそ、日本人らしさと 日本のバックボーンが不可欠なのである。

 グローバリゼーションは進み、国際水平分業に研きがかかり、とりわけ製造拠点と市場を兼ね備えた中国と、エンジニアの能力を備えたインドの上昇が現実味 をおびてきた。時差の関係で、米国が寝ているときに東アジアは仕事をしている。例えば、アメリカ人が、明日の朝の会議で、パワーポイントで発表しようとし た場合、夕方に依頼したパワーポイントの作成を低コストでインドのインド人が的確に行ってくれるという。これが、グローバリゼーションに伴う地球のフラッ ト(水平化)現象である。

 この現象は、経済の分野だけではない。国際テロも巧みにグローバリゼーションの弱点をついているようである。1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊 した。戦後、最大の出来事は、ヨーロッパ式に数字を並べると9.11である。2001年9月11日に同時多発テロが米国で発生した。偶然にもいや意図的に ベルリンの壁に並ぶ戦後の出来事が同じ数字となった。マドリッドのテロは、2004年の3.11、そしてロンドンのテロは7.7である。アルカイダが意図 的に数字の遊びをしているとすると、これは米国を中心とするグローバリゼーションへの挑戦であるとも読みとれる。

 国際テロがこのように数字遊びという余裕のある行動が可能なのは、物質のパワーを凌駕したアラブの気質とイスラム教の精神面から来ていると考える。それ ならば米国の軍事というハードパワーだけで対抗しようとすると、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教の兄弟喧嘩が泥沼化するだけである。実際にイラク戦争の 泥沼化がそれを物語っている。

 この1週間、キャピタルヒルで開催された上院と下院の公聴会(イラク問題、北朝鮮問題、エネルギー問題、中国の軍事費の問題、国連問題、経済問題など) 熱心に聴講した。議員と専門家とのやりとりは、官僚が作成した原稿を棒読みするのでなく、ライブ性が有り真剣勝負そのものである。シンクタンクのセミナー でも遭遇できないような最新の情報や本音が読みとれる。にもかかわらず日本のマスコミがほとんど不在なんは、不思議である。

 米国の議論は超一流であり、論破するのは不可能に近い。しかしながら、米国の先制攻撃で始まったイラク戦争一つを検証してみても、米国がアラブの気質、 則ちイスラムの精神面への認識と分析を間違ったことは明らかである。軍事関連の会議では、軍事費を上昇させることで抑止力が高まり、平和が到来するとの考 えが主流である。米国の基幹産業である軍事産業との絡みが背景にあるからそうなるのであろう。まるで冷戦中の戦略思考である。このような精神面を無視した 行動は、ますます国際テロを蔓延らすことになると確信する。

 キャピタルヒルに接する程、明らかに米国が理解できぬ世界のデザインを日本が提示することができると実感する。それは、一神教やハードパワーでは、解決 できぬことも「柔よく剛を制す」といういかにも日本的な考えが求められているとの想いである。米国と波長が合うのは、米国のハードパワーと日本のソフトパ ワーの調和にあるからであろう。

 聖徳太子が1400年前に残した「和の精神」や日本独特の多神教の柔軟性を持って米国や世界に臨むことが重要である。「和魂萬才」こそ日本のバックボー ンだと考える。アジアへの懺悔と精算を済ませ、アジアの中の日本、世界の中の日本の地位を向上させるためにも、ソフトパワーへの強力な実践が望まれてい る。
2005年07月22日(金) 萬晩報通信員 成田好三

 2005年7月8日は、日本のプロ野球がそれまでよりどころにしてきた2つのビジネスモデルがともに破綻した日として記憶されることになるだろう。

 ■祝杯をあげたに違いないロゲIOC会長

 この日、シンガポールで開かれたIOC総会で、野球はソフトボールとともに2012年ロンドン五輪の開催競技から除外されることが決定した。この決定に より、五輪を前提にしたプロ野球の国際化モデルは破綻した。プロ野球は、米国MLB(メジャーリーグベースボール機構)の強い支配力の下で国際化せざるを 得なくなったからである。

 その夜、IOCのジャック・ロゲ会長は宿泊先のホテルのスイートルームで、少数の側近たちと密かに祝杯をあげたに違いない。ロゲ会長にとって、五輪から の野球除外、いや野球追放は、2002年メキシコ総会で野球、ソフトボール、近代五種の除外を提案し、決定が先送りされて以来の悲願だったからである。

 近代五種の除外提案は、野球(ソフトボール)の追放目的をあからさまにしないための、めくらましのようなものだった。

 野球は巨大なローカルスポーツである。世界1位と2位の経済大国である米国と日本では圧倒的な人気競技ではあるが、欧州や南米、アフリカでの普及はまったく進んでいない。

 野球は極めて金食い虫のスポーツでもある。ボール、バット、グラブ(捕手用・ファースト用ミット)など用具に金がかるだけならまだいい。最も金がかかるのが専用球場である。

 夏季五輪に採用された競技のほとんどは、陸上競技場と体育館さえあれば開催できる。水泳もプール付き体育館と考えればいい。マラソンは公道を使う。トライアスロンは公道と海(湖)があれば開催できる。

 野球(ソフトボール)は融通のきかない競技でもある。専用球場がなければ開催できない。内野の一部が盛り上がった投手用のマウンド、芝生を四角に削り取った内野のダイアモンド、外野の中心部奥にあるバックスクリーン―。他の競技には使えない専用競技場が必要になる。

 それに加えて、野球の最高峰リーグであり、米国のほか野球の盛んな中米や東アジアの国々のトップ選手を抱えるMLBが五輪参加を拒絶している。五輪の源流である欧州貴族やその影響下にあるアフリカ諸国のIOC委員にとっては、敵対的、あるいは関心外の競技である。

 ■セリグMLBコミッショナーも祝杯?

 五輪からの野球追放決定に関して、祝杯をあげたに違いないもう一人の人物がいる。バド・セリグMLBコミッショナーである。この決定によって、2006 年3月に開催するワールド・ベースボール・クラシック(WBC)参加に二の足を踏んでいた、世界第2位の野球大国である日本のプロ野球が参加せざるを得な いことが確実になったからである。

 WBCは、野球の国際競技団体である国際野球連盟(IBAF)が主催する大会ではない。MLBとMLB選手会が主催し、各国チームを招待する、文字通り 「MLBのMLBによるMLBのための」大会である。MLBはIOCにもIBAFにも何一つ横やりを入れられることなく、野球版の『W杯』を開催し、そこ から得られる権益を独占できる。

 IOCの野球追放によって、プロ野球の国際化モデルは破綻した。MLB主催のWBC参加以外に選択肢はなくなった。そう決断しないと、プロ野球は世界の野球界の「孤児」になってしまうからである。

 ■「巨人の巨人による巨人のための」プロ野球は終わった

 もう一つ記憶されるべきことは、7月8日に発表されたオールスター戦の出場選手名簿に、読売巨人軍からは3人の選手しか掲載されなかったことである。

 ファン投票での選出は別格的存在の清原和博一塁手のみで、他の野手の選出はなかった。監督推薦でも上原広治、工藤公康両投手が選出されただけだった。逆に、長く不人気球団だった千葉ロッテ・マリーンズからは、球団史上最多の10選手が選出された。

 有り余る戦力をもちながらも前半戦を通して低迷してきた巨人と、開幕から快進撃を続けてきたロッテとの明暗の差を考慮に入れても、これまでの球界の常識 では考えられない結果になった。全国ネットのテレビ中継では巨人戦の低視聴率が続き、巨人戦はいまやテレビ局の「お荷物番組」化してきた。東京ドームの観 客席も空席が目立つ。

 これらの現象は、昨年の球界再編騒動以来、「巨人中心の球界」「巨人人気依存の球界」という国内モデルが、もはや野球ファンから支持されなくなったことを意味している

 プロ野球ファンは、すでに「巨人の巨人による巨人のための」プロ野球を見捨てている。それは、今シーズン、東京ドームでの巨人軍主催ゲームの観客動員数の減少、TV視聴率の大幅な低下に表れている。

 読売新聞の兄弟会社である日本テレビの最高首脳が言う「顔見せ興行」である、長嶋茂雄氏の東京ドーム・巨人戦観戦も、観客動員数の増加には貢献しなかった。視聴率もわずか数パーセント数字を上げただけだった。

 ■巨人軍中心でまとめたドラフト折衷改革案

 プロ野球を運営する日本プロフェッショナル野球組織(NPB)は7月19日、来年と再来年に限って実施するドラフト改革案を決定した。高校生と大学・社会人選手を別々にドラフトにかけ、希望枠(従来の自由獲得枠)を2から1に減らすのが主な内容である。

 しかし、この改革案からは、ドラフトを本気で抜本的に改革しようとする姿勢はまったく見られない。まるで水と油を混ぜたような折衷案である。コップの中 の液体はかき混ぜている間しか混ざり合わない。それをやめてしまえばすぐ分離してしまう。そんな改革案である。しかも、この改革案は巨人軍が中心になって まとめられたものだった。

 ことここに至っても巨人軍に依存するプロ野球界の体質は、みじめにさえ見えてくる。他球団には、巨人軍から自立する意思さえないようである。

 国際化モデル、国内モデルとも破綻したプロ野球は、これからも漂流し続けるしかないのだろう。(2005年7月22日記)
2005年07月18日(月)
ギターボーカリスト 兵頭ニーナ
 もうすぐグルジア正教会の復活祭がやって来る。日本の盆と正月を一緒にしたくらいの大事な行事で休みを利用してお里帰りをしたり親類、親兄弟と行き交ったりする。

 お店もだいぶ閉めるらしい。私も母と日本で住んでた頃は毎年の復活祭が我が家の最大行事だった。3、4日も前から大掃除を始め、ご馳走をつくり教会に 持っていく卵に色をつけ特別のパンを幾つも焼いたものだ。母は料理が好きでお客を招くのが好きだったから、いつもたくさんの料理を用意し、そして復活祭が 終わると残りものを家族が片ずけるのが常だった。まあ日本のお正月とさほど変わらない。

 ヴィクトリア家には一週間の滞在予定でモスクワからナターシャがやって来た。ジャーナリストだったフランス人のご主人は、残念ながら7カ月前に亡くなっ たそうだ。70歳と聞いてたけどそのスタイルの良さといい顔の若さといい、とてもとてもその齢には見えない。旅行先の空港でたびたび「貴方は年齢を偽って いませんか? なにかパスポート以外の証明書はありませんか?」と聞かれ年金証書を見せたら驚きながら納得したそうだ。

 超美人の上パリに長く住んでパリ仕込のセンスを身にまとうナターシャを女優と紹介されても誰も少しも疑わないだろう。「今どきはロシアの女優や歌手は整 形手術はもう当たり前、でも私は幸せなことに自然のままよ。手足の長いのはお父さんからの贈り物」と自慢ばなしも嫌味にならない。

 同じ年齢のリューバ母さんはかなり刺激を受けていつになく小奇麗にしている。ジャーナリストの妻らしくフランス語はもとより英語もぺらぺらでロシア語も 怪しい私とは英語交じりで会話する。ある日、私が練習でギターを弾いて唄ってるのを聞いてすっかり気に入ってくれたらしく「ねえニーナ、私のモスクワの電 話番号知ってる? 今教えるから書いておいて。いつか必ず遊びにいらっしゃい!」と誘ってくれた。

 モスクワかーもう15年も行ってないなー「チャンスを作って、ぜひぜひ行きたいと思います。ナターシャ有難う!」

 若さの秘訣なのかナターシャは毎日決まった時間に起き、朝食はコーヒー一杯ととカッテージチーズにジャムを添えたのをほんの少し食べてそれで終わり。それから念入りにお化粧を始め、お洋服選びも大変だ。

 「これはイギリスへ行ったときに...これはイタリアで...パリで...」。と、とめどがない。そういえば1週間の為のトランクの大きい事! 着いた当日出した5 足ぐらいの靴は全部ヒール付きだった。一度履いたら寝るまでそのままなので、疲れないのかなーと感心する。いろいろ話をしたら若い頃にやっぱり女優をめざ し少し学校も行ったらしい。だから仕草ひとつも絵になってるのかな?煙草を持つ時のナターシャと、笑顔一杯で相手の顔から目を離さずお話する時のナター シャは最高に綺麗だ。

 今は実生活の中で女優を演じているのか? 絹のガウンに着替える時に洋服は勿論すべての下着を脱ぎ捨てる。そこではじめてこれも持参の上履きに履き替える。

 しばしみんなと談話して煙草を一服、それからいよいよベッドに入る時「ごめんなさい!私若いときからの習慣なので...」とガウンをも剥ぐ。

 わーお!一糸まとわずか...マリリン・モンローみたい!。

 別にかまわないんだけど...よく寒くないこと...私などまだまだ長袖のパジャマなのに...とただただ感心するばかり。

「ナターシャはとっても綺麗で素敵な女性だけど子供を持ったことも無かったし、ちょっと自分の年齢を忘れちゃったのかも知れないわね!」とヴィクトリアの鋭いご意見。



 ニーナにメール mailto:nina2173@v7.com
2005年07月17日(日)
ギターボーカリスト 兵頭ニーナ
 トビリシに来て2週間。何かと家事で忙がしくて遠出をしないリューバ母さんをさそってトビリシ観光と相成った。彼女はもともとは黒海沿岸のスフミ出身だが現在、アブハジア人の勢力下にあり買ったばかりの地図にはグルジア側の承認無しに国境線まで書いてあった。

 1991年、ペレストロイカの時にグルジアが独立するとアブハジアでもそれに続き2年間の内戦となった。終結の結果は良く分からないが、またいつか内戦が無いとも限らない、と思ってる人は結構いるようだ。

 仕事も無いスフミでの生活に希望も失せ家族をおいて心の洗濯にきているレーナと仕事をなくしたばかりの美容師のタムリコも一緒に行く。朝早いかと思った ら「3時出発!」と聞いてなんだか気抜けした。「何、小さな街だから2、3時間もあれば十分よ」とのこと。でも結局4時になった。

 エムザリの車に乗り、大きな通り、細い通り、旧市街と展望台への道すがら「戦争前はどんなに綺麗だったことか。見て今のこのひどさは!」とリューバ母さ んはため息をついて嘆く。ムタツミンダ(聖なる山)の展望台に着くと松林を抜ける強い風がざわざわと少し恐ろしげな音をたてていた。

 展望台から遥か下に緑の多い市内を見下ろし、真中を流れるムトヴァリ川やトビリシ駅や空港の説明をエムザリから聞く。

 私達の住む西のヴァケ方面は林に拒まれよく見えなかった。ムトヴァリ川の流れに沿って両側の丘に少しづつ上がって行くようにできたトビリシは、だからこの展望台の反対側にもなだらかな丘が続いていた。

 その中にエムザリが住んでるという高くそびえ建つアパートの林も見えた。展望台にある建物、レストラン、ケーブルカー乗り場、ゲーム屋等などいまだ手つ かずに荒れ果てて全てが止まっていた。レストランはどこか外国人の手に渡ったらしい。何年たったらすべてが美しく生まれ変わるのか誰にも分からない。

 帰り道エムザリが面白いことをしてくれた。下り坂でエンジンを止めたら何と車が勝手にバックして行くではないか。「えーっ!どうして?」と驚くと道路の 下に磁気が埋められていて、展望台への急な坂道を楽に上がれるようにしてあるのそうだ。すっかり感心してしまった。しかしそれにしても道はでこぼこだらけ だでまともに走れない。

 次に、このトビリシを作ったという人の銅像がある川のほとりの崖上の古い教会に行った。来週はグルジア正教の復活祭ということもあるのか小さな石造りの質素な教会は人で込み合っていた。今日はとても風が強く、下から吹き上げてくる土ぼこりに思わず目をつむった。

 教会の真下に見える円形の交差点の真中の花壇は土で色分けしてアメリカとグルジアの国旗が作られていた。アメリカ大統領が来るまでには美しい花が植えられるであろう。

 現在建設中の大きな教会への道すがらは昔のままの街並みだという低い家が続き、細い道路を走ってるとふと時代を遡ったかのような不思議な感覚にとらわれた。ピロスマニ(グルジア人画家)の絵で見たような・・・・・。

 大きな教会は建設がまだ半分も終わってないらしいがそれでも人はいっぱいだ。敬謙な信者が多いと聞いていたが祭壇のすぐ傍で記念写真を撮るカップルや家族がいる。

「観光地と間違えてない?」。

 ムトヴァリ川に沿った公園の芸術市では絵画、版画、刀類(ペルシャの剣みたいな)木の実や松かさの小物、色々な鳥の羽根を用いた絵とか、陶器とか実に様 々なものがあった。私は昔のグルジアの風景や人々の暮らしを描いたものに一番惹かれた。もう店仕舞いなのか公園の真中ではテーブルを囲み10人ばかりの アーチストたちが酒を飲み交わし歌を唄っている。

 しばし立ち止まって聞き惚れる。そして面白いことに気がついた。5、6人ばかりの男性がきちっとしたスーツにネクタイを締めているのだ。あれ~街中ではさっぱり見なかったのに・・・・。日本だったら芸術家ほど自由な格好してるけどね。あっはっは。

 ヴィクトリアと6時に待ち合わせたグルジアンレストランは川のほとりにあった。大きな木のまわりにグルジア風丸太小屋が並んでいて大小はあるがすべて個 室になっている。ここの女主人はリューバ母さんの友人らしいが最初、3部屋から始まって、おいしいグルジア料理と確実な経営で今は10室を越えたそうだ。 私達6人のための予約室は6畳ぐらいのこざっぱりした部屋だった。

 鶏肉のグリル、ママリーガ(コーンの粉のご飯風なものに2種類のチーズを埋め込んでたべる)、プリ(ナン)、ハチャプリ(中にチーズが入ってるパン)鱒 のグリル焼き、サラダ(きゅうりとトマト)グリーンソース、赤いソース、茶色のソース(どれもからい)等などをテーブルに揃え、飲み物はレモネード、ミネ ラルと控えめだ。私とリューバさんは主賓だからと赤ワインを飲まされたが・・・。

 実はこの後、川向こうの温泉に行くことになっているのだ。

 食事中突然、ラッパや太鼓のけたたましい音が聞こえてビックリした。グルジア音楽隊がお客様からお呼びの声がかかるのを待って時々アピールするらしい。

 温泉はちょうどレストランの川向こうでそこに着くとまあるい屋根?みたいなのが地面の上に並んでる不思議な光景が見えた。予約済みの個室は地下らしく、 階段を降りていくとかすかに硫黄の匂いがする。受付でバスタオルなのか身体に巻くのか、シーツみたいな布を6人分わたされたがそれ以外は銭湯に行くみたい にヴィカがぜんぶ用意してくれた。

 着替え室、休憩室、垢すり台とシャワー室、そして温泉と4部屋ぐらいに分かれている。まさかグルジアで温泉に入れるとは思ってもなかったのでとても楽し みにしていたが洗い桶もお湯の出る蛇口もない。あ~と思ったがまあしょうがない。みんなに続いてローマ風呂みたいな大理石の円形ふろに入る。ぬるめで結構 いい感じだ。天井がまあるいドームになっていて空気口みたいのがあった。あれか、さっき見えてたのはと一人で納得する。

 グルジア式垢すりがあるというのでみんなで体験することになった。お湯で流してくれた大理石のベッドに裸のまま寝ると垢すり専用手袋をはめた、がっちりした女性が首筋から足の裏まで丁寧にこすってくれるのだ。

 気持ちはいいのだがどうも足の先一段低いところにみんながいる浴湯があって、そこへ向かって足を広げて寝てるのもなんだか落ち着かない。

 そこへきて垢すりが終わった後にお湯をかけてくれない。おばさんのそばには50センチ四方くらいのため湯があるんだから、バケツでざばあーっとかけてくれたらさぞかし気持ちがいいのに・・・・とちょっと欲求不満ぎみ。

 垢だらけのままベッドから起きて隣りのシャワーで洗えといういうことなのだが実はこれもシャワーでなくて水道ほどの細いお湯が上から落ちているだけで何とも洗いにくい。でもまあ思いがけない垢すりはとても楽しい体験だった。

 今度くる時は風呂桶をもってこよう。それから垢すりする時は、やっぱり最後にざざざーっとお湯をかけてくれるように頼んでおこう。うん!

 ニーナにメール mailto:nina2173@v7.com
2005年07月16日(土)
アメリカン大学客員研究員 中野 有
  ワシントンの日本人の間でも、「冬のソナタ」が話題になっている。3年前に韓国で放映されたドラマが、日本人の心をつかんだのが昨年である。その「冬ソ ナ」の効果が、東南アジア、中東まで波及しているという。先日、韓国を訪問した時、再放送で冬ソナを放映していた。これは日本の冬ソナ現象の影響からだそ うだ。ニューヨークタイムズの一面でも、冬ソナ効果をアジアの社会的現象として取り上げている。テレビドラマが複雑なアジアを一つにしているという意味 で、軍事というハードパワーなしで、文化というソフトパワーにより地域の安定が生み出されていると考えられる。

 たかがテレビドラマといってしまえばそれまでだが、韓国の現代経済研究所の試算では、冬ソナの経済波及効果は3千億円である。経済の側面だけでなく近く て遠い国といわれた隣国との交流が深化し沸騰したのである。歴史観や安全保障を考慮すると、韓流には、計り知れない歴史的意義があると考えられる。

 冬ソナの純粋で美しいシーンと儒教的なドラマの展開は、日本のテレビでは味わえぬアジアの情感にあふれている。韓流に触れ、心地よくなるのは、ウラルア ルタイ語の文化圏(日本、朝鮮、モンゴル)に備わっている共通のDNAと決して無関係ではないだろう。

 日本の文化は、北方系と南方系の複合体であり、その北方系の文化は、朝鮮半島や大陸から伝わり日本文明の根底が形成されたのである。モンゴルの大草原に 沈む夕日に酔いしれながら、大自然に包まれたときに、何とも表現できない幸せな気分になるのは、日本人のルーツに帰化するからであろう。その感性は、ユー ラシア大陸、朝鮮半島、日本列島という地勢を越えたものである。

 韓流ブームやモンゴルの力士の活躍により、アジアの中の日本の意識が高まり、アメリカやヨーロッパに憧れてきた日本人の意識がバランスのとれたものに変 わりつつある。この百年の朝鮮半島や大陸への日本人の意識には、戦前の軍事的、そして戦後の経済的な優越感により、偏見があったことは否定できない。その 偏見が中国をはじめとするアジアの興隆の影響で、アジアを見る眼が変わってきた。加えて、韓流ブームが追い風になり、偏見がむしろ尊敬に変化したようであ る。

 環日本海交流の研究を通じ、日本海側の空港と対岸諸国の航空路線を如何に活性化させるか考察したことがあったが、北朝鮮問題もあり、なかなか苦戦が強い られたことが思い出される。それが、冬ソナ効果により、予測を遙かに越える勢いで交流が進展している。冬ソナのソフトパワー、すなわち、一つのテレビドラ マが環日本海交流にこれ程、影響を与えるとは誰が予測したであろう。韓国の太陽政策は、イソップ物語の「北風と太陽」に例えられるが、韓流の冬ソナは、外 交・安全保障が容易に解決できぬ北朝鮮の雪解けのきっかけになるのかもしれない。

 前回のコラム(外交・安全保障をビジュアルに展望する)で、マンガのソフトパワーが日本の隣国とのぎくしゃくした関係をなめらかにする潤滑油として機能 すると問いかけたところ幅広い反響があった。この1カ月強の間に、モスクワ、ワシントン、秋田、東京、ソウルの会議に出席し、非軍事の外交戦略を描くにあ たり、マンガやドラマのソフトパワーが如何に機能するかについて述べてきた。

 安全保障というハードパワーやパワーポリティックス中心の国際会議においても、戦略的な開発援助や人材育成についても議論がされている。安全保障の範囲 が、軍事のみならず非軍事の分野に拡張されているのは、貧富の格差や宗教や地域間のねたみが紛争の種になり、具体的に国際テロにつながっているからであ る。加えて、自然災害の脅威も安全保障として議論されている。

 日本が国連常任理事国の地位を確保するにあたり、日本の得意とする国際貢献を明確にしなければいけない。それは、明らかに非軍事における国際協力、すな わち自然災害の分野やソフトパワーの効用による紛争の回避であろう。国連という多国間の協調の理想を発展するにあたり、市民が主役となる活動がある。その 活動の一環にマンガやドラマのソフトパワーがある。これらの活動が日韓の調和の下で世界に広がることが期待されている。

 ワシントンからセントレア(中部国際空港)に到着し、フェリーで伊勢湾を渡り津に赴いた。津にて萬晩報の主筆の伴さんと平和戦略について熱く語りあっ た。安全保障、東アジアの戦略、靖国問題、国連常任理事国・・・真面目に国益や地球益のことを考察しているつもりでも、気がつけばマンガのソフトパワーの ことを語るこっけい滑稽な国際フリーターそのものであった。余談だが、セントレアの和風の店の並びと風呂は、長旅を豊かなものにしてくれる意味で、なかな か日本的ないやしの粋な空港である。

 中野さんにメールは mailto:tomokontomoko@msn.com
2005年07月15日(金)
長野県南相木村診療所長 色平(いろひら)哲郎
 近い将来、フィリピンから看護師や介護士が日本にやってきます。そのとき日本の医療・福祉の現場は彼女ら、彼らをうまく受け入れてケアの質を高められるでしょうか。言葉や習慣、歴史、宗教などの違い......いろんな面で、それぞれのケアの現場は試されることになるでしょう。

 最も怖れるのは、彼女たちに「仕事を奪われた」として日本人が差別的な態度をとることです。外国人労働者をたくさん受け入れている国では、そのような反 発が生じているのも事実です。しかし、考えてみてください。なぜ、彼女たちは専門的な知識に加えて日本語まで身につけて、わざわざ海を渡ってくるのか。そ の根っこには何があるのか。それを知れば、個人を差別することがいかにおろかで情けないかがわかるはずです。

 じつは、フィリピン国内の医療をとりまく環境は、ずっと貧しいまま放置されているのです。たとえばフィリピンの乳児死亡率は日本の約十倍。結核患者は 60万人もいます。看護師1人が担当する患者は100人と、とんでもなく危険な状況です。医師を含めて医療関係者は低賃金とひどい労働を強いられていま す。そのキツさは日本とは比べものになりません。患者を救いたくても国にお金がなくて助けられない。早く稼ぐには外国に出るしかない。この現実が、彼女た ちを海外へと向かわせるのです。

 医師のなかには米国で看護師資格をとってまで働く人が現れました。貧しさが社会全体をおおっています。フィリピン政府は、労働者を海外に送り出して お金を稼いでもらうことを国の方針とし、貧しさを乗り越えようとしています。海外労働者から母国への送金額はGNP(国内総生産)の1割ちかくを占めています。

 看護師に限ってみると、02年度に約1万3千人が海外で就職しました。その受け入れ先はサウジアラビアが最も多く(50%)、次いで英国(26%)と なっています。現在、総数で約30万人のフィリピン人看護師が海外で働いているそうです。

 自らの国の患者を犠牲にしても、海外で働いてお金を稼がなければ成り立たない経済とは何でしょうか。人の命を助けたい、お世話をしたいと志して医療や福 祉の道に進んだ人が、目の前で苦しむ人に係わることもできず、海外でお金を稼ぐ......。彼女たちの胸の奥にある哀しみを私たちは深く受けとめなければならな いでしょう。

 日本がフィリピンからの看護師、介護士の受け入れを決めたのも、医療や福祉の現場が求めたのではなく、国と国の経済的な取引によるものでした。具体的に は、日本とフィリピンが「FTA(自由貿易協定)」という特定の国どうしの貿易やサービスのやりとりの制限をなくす協定を結び、そのなかで看護師、介護士 の受け入れが決まったのです。表向きは、フィリピンからのお願いを日本側が聞きいれたかのように伝えられていますが、そんなに単純な話ではありません。医 療でお金儲けを狙っている日本の財界にシタタカな計算があってのことです。

 財界は、外国人労働者の規制緩和のポイントとして次の三つをあげています(「規制改革・民間開放推進会議」資料より)。

(1)少子高齢化が急速に進むなか、高いレベルのサービスとリーズナブルなコストを実現するためには、外国人看護師・介護士の導入が必要。
(2)日本語を話せる外国人介護士・看護師の養成には時間もかかり、円滑な導入のための取組みを大急ぎで始めなければならない。
(3)多様化する日本の消費者の嗜好に対応するとともに日本人のヘルスケアのため、外国人マッサージ師に関する市場開放を検討すべき。

 注目してほしいのは、(1)で、外国人看護師・介護士の「導入」の理由が、「リーズナブルなコスト」つまり安い賃金だとはっきり断言している点です。看 護師や介護士という人間の受け入れを、「導入」と、まるでモノや機械を取り入れるかのコトバで表現していることからして感受性のカケラもない文章ですが、 低賃金で働かせると堂々と宣言しているのです。もしも、そうなれば、さまざまな問題が発生するはずです。

 その影響は日本人スタッフにも及びます。財界が、人件費を下げるために外国人スタッフを入れようとするのは、その先に病院を株式会社が経営できるようにして、より利益をあげたいとの狙いがひそんでいるからです。

 現在の医療のしくみでは、病院を株式会社にしても、診療報酬体系によって人件費を下げにくい。また混合診療による自由診療のうまみがないので大きな利益 は得られない。ですから、外国人スタッフの受け入れと混合診療の解禁などを連動させて、病院の株式会社化への地ならしをしようというわけです。

 しかし、大多数の国民は、お金持ちが高級ホテルのような病室で高度な医療を受けられる株式会社病院の出現よりも、皆が、いつでも、どこでも、保険証一枚 で病院にかかれる「国民皆保険制度」を守ることのほうが大切だと感じています。医療は、皆で支えあうもの。ひとにぎりの財界人の思惑に左右されていいはず がありません。

 とはいえ、現実は動き出しました。日本はフィリピンへの「ODA(政府開発援助)」で日本向けの看護師・介護士の養成にとりかかりました。人道的な援助 であれば、日本は、まず、フィリピン国内の医療を整え、フィリピンの看護師たちが自国で働けるような環境をつくることに努めるべきではないでしょうか。

近い将来、フィリピンから看護師・介護士が海を渡ってきます。
彼女たちは、献身的にケアをするでしょう。
その微笑みの裏には母国の貧しく、満足な治療も受けられない人々の苦しみがはりついているのです。

 色平さんにメール mailto:DZR06160@nifty.ne.jp
2005年07月13日(水)
ギターボーカリスト 兵頭ニーナ
  昨日、西の方へ散歩に行って俄然勇気が出た。今日は街の方へ向かい是が非でも本屋を探して地図を買おうと思った。12時出発、いつものプリ屋(パン屋)の ひげちょびれのおじさんやその隣りのちっちゃな食品店のお兄さんが「今日は」とロシア語で挨拶してくれる。周りからはさっぱり分からないグルジア語の会話 が聞こえてくるがロシア語で話しかけるとちゃんとロシア語で答えてくれる。ソ連邦の頃の第一国語としての教育のおかげだと思う。

 そういえば昨日公園の帰り道、小学生くらいの女の子にグルジア語で話かけられ私がロシア語で分からないと言っても通じなかった。英語で「英語かロシア語 わかる?」といったら「ロシア語は駄目、英語を少し話ます」と言う。時間が知りたかったらしく教えてあげるとサンキュウと答えた。

 年を聞いたら12歳だって。ふーん独立したグルジアでは今やロシア語は高学年の選択科目かもしれないなーと思った。

 今日は片側3車線(往復6車線)のチャウチャウワゼ大通りを東へ歩く。相変わらず人や車が多く排気ガスの匂いもきつい。ちょうどランチタイムらしく学校 の前やベーカリーの前は人だらけで皆立ち食いをしてる。もっとも立ち食い歩き食いは老いも若きも着飾った人もごく普通でキオスクや路上で物を売ってる人は 一日1、2回はそこで食事を済ませてるようだ。

 口淋しいのかどうか知らないがひまわりの種を器用に食べてはぺっぺと黒い殻をそこいらに吐き捨てる人がいっぱいいる。いいのかなー。

 古い建物が立ち並ぶこの辺はいわば表参道か青山通りのような高級商店街だそうだが、なある程どこかで見たようなブランド店やおしゃれなイタリアンオープ ンカフェもある。(ランチタイムだけど誰もいない)。通りを闊歩してる人達は実に姿勢が良くかつ特に女性はおしゃれだ。美人も多い。ひとりひとり自分はモ デルがのごとく上手に着こなしスタスタと歩いて行く。何故だかサラリーマンスタイルの男性にはお目にかからない。オフィス街って何処なのかな。

 街路樹もあるせっかくの広~い歩道は、あるところではその半分以上をも、せり出してきたレストランに占められ違反がありありと伺える。古い時代の権力者にさぞかしつかませたのだろうと・・・・・・。

 犬もあるけば露店にあたる・・・程にここかしこに売店、露店がある。

 だいぶ歩いた所で、立てかけた一枚の板に器用に本や新聞を並べて売ってるご婦人がいたのでトビリシ市の地図はありませんか?と聞いたらここからひと駅く らいのところに×××と言う本屋があるからそこで聞いてごらんなさい、ととてもやさしい。もう一度聞きなおして復唱していたが歩いているうちに忘れた。よ く考えてみたら覚えていたってグルジア語の看板は読めないじゃない。それにひと駅って何の駅?バス?地下鉄?トロリーバス?まあいいか、

 ゆっくり行こう。ペレストロイカまでの教育のおかげで70%ぐらいの人がロシア語を話せると聞いてたが街中の看板やネオンサインは殆どグルジア語だ。時おり並んで英語やロシア語があるとうれしくなる。

 ぶらぶらいくうちやっと小さな本屋を見つけて入っていく。地図はあるかしらん?とあたりをざっと見回すと英語で三島由紀夫と書かれた本が二冊あった。へ えーこんな所まで・・・と少し驚く。写真がいっぱいのトビリシ観光案内書20ラリ(1200円)の隣りにやっとお目当ての地図をみつけ10ラリ(600 円)で買い求めた。

 これで10日ぶりに自分の居場所もわかるしと本当にほっとした。

 帰りはあてずっぽうに裏通りを歩いたが意外と店も多く、あまりにぎやかではなかったものの緑のトンネルがそのままアパートまで20分ぐらい続いた。

 ニーナにメール mailto:nina2173@v7.com
2005年07月10日(日)
ギターボーカリスト 兵頭ニーナ
  昨日いっぱいで椅子張替えの作業が終わり夕食後、ヴィカが手直しの筆を取った。朝7時ごろ起きて見ると大きなメインテーブル、8個の椅子、長椅子、2個の サイドテーブル、アーム付き椅子等がモデルルームのようにきれいにセットされていた。これでやっと引越しパーティが出来るねと寝ないでがんばったヴィカに 「お疲れさん!」とトルココーヒーで乾杯し?それから彼女はベッドにもぐり込んだ。きっと夕方まで休むだろう。

 今日は一人で少し散歩して見ようと表通りを西へ歩いた。ぶ~らぶ~ら物珍しげにあるいてたら15分程で大きな公園にたどりついた。公園というより森みたいだ。道路の上からは真っ直ぐ目の前に開けた場所に山の中腹まで続く噴水装置しか見えない。水は出ていない。

 下に降りようかどうかしばらく迷ったが、子供連れの人をみて一階分ぐらいの階段を降りていった。以外にも樹木に隠れて小さな遊園地があった。メリーゴー ランド、コーヒーカップ等10個ぐらいの施設がそろっていて人も多くすっかり安心した。向こうの外れにトイレが見えたので恐る恐る入っていくと何故か入り 口奥に机やミシンや布があり太ったおばあちゃんがデンと座っている。トイレいいですか?と聞くと行って行っての手振りでそっけない。

 しかし私にとっては大いなる安心を得てトイレに入る。えっ?ドアーが無い?思わず数十年前のモスクワを思い出した。あの時も公園墓地の大理石の立派なトイレだったのにドアーが無かったっけ。(壊れてるわけじゃあない、最初から無いのだ)。

 まっいいか!と奥へ入る。さて用を足して外へ出ようとしたら額に皺を寄せたおばあちゃんが手を出す。「えっ何?」という私の怪訝そうな顔に20テトゥリと書かれた壁を指す。

 そうかそうか有料だったんだ。イズヴィニーチェ(ごめんなさい)と財布を開けたが生憎く細かいのが無い。カーサ(両替所)へ行きなさいと100メートル 程先を指差す。しかしカーサの窓からはニェト!とにべもな返事。そうだと思い売店でジュースを買ったが2ラリちょうどでおつりなし。

 お菓子売り場やカフェで頼んでも全く駄目。あーあどうしようこのまま行っちゃおうかなと悪い考えが頭をかすめたが、例えわずか20テトゥリ(12円)で も日本人の私にはそれは出来ない。ふと見るとトイレ係のおばあちゃんがのっしのっしとこちらに歩いてくる。さっぱり戻らない私を怒っているのかなと思った らカーサの所まで行き両替してるではないか。私にはしてくれなかったと訴えたら私の手から1ラリをさっと取り両替して60テトゥリおつりを渡してくれ た。(1ラリは100テトゥリ)殆ど無表情だったけど案外親切なのかも知れない。

 さてそろそろ帰ろうとさっと公園をまわってみたらテニスコートやレストランやらまだまだ何かあるみたいだ。テーブルと椅子がある木陰ではおじさんグループがお酒を飲みながら何かゲームに熱中しているし小道沿いに並ぶベンチでは、カップルが仲良くしている。

 この森公園はあまりにも樹木がうっそうとしてるので近くに行くまで様子がつかめず、あちこちに目つきの悪い若者たちがたむろしてるのを見ると夜はかなり危険そうだなと思った。

 そういえば公園の入り口横にケーブルカー乗り場があったので値段や時間を調べようと覗いてみた。朝9時から9時まで営業、片道40テトゥリ(24円)と ロシア語で書いてあった。結構遅い時間まで・・と思ったが4月でもすでに8時半頃でも明るい。山の上まで続くケーブルの線を目で追ったがどうも動いてない ようだ。誰かが今週の土曜日から動くよと声をかけてくれた。シーズンがきて開けるのか故障が直って動くのか定かではない程建物はくたびれている。でもやっ ぱり一度乗ってみようと思う。
2005年07月07日(木)
萬晩報主宰 伴 武澄
 きょうは七夕。珍しく浴衣姿の子どもたちが多く町に出ている。笹流しがこの町では残っているのだ。

 先週、亀山市の能褒野という土地に行った。「のぼの」と読む。

 そこにある能褒野神社には、明治12年に明治政府が指定した「景行天皇皇子日本武尊の墓」という陵墓があり、日本書紀では日本武尊(倭建尊)の終焉の地とされる。

 日本武尊は伊吹の悪神を成敗した時、傷つきこの地に果てたのだが、この能褒野でいい歌を残している。

 大和は国のまほろば、たたなずく青垣山、隠れる大和しうるわし

 30年以上も前、大学入試に失敗して浪人した時、直木孝次郎という人の書いた岩波新書『奈良』を携えて最初の古都の旅をした。その時、初めて意味もわからず覚えた歌だった。

「まほろば」とか「たたなずく」という音感にじーんとくるものがあった。なにやら日本を感じてしまったのだ。

 伊勢に住むといままで神話や歴史の中でしか存在しなかった人物が生身の人間として浮かび上がってくる。これは不思議な現象である。

 日本武尊伝説について、さらに書いてみたい。

 日本武尊は景行天皇の皇太子だった。世が世ならば戦場に身を置く必要にない地位にあった。にもかかわらず、父天皇は日本武尊を多くの戦場に向かわせた。最初は九州の熊襲征伐だった。

「タケル」という名には猛々しいイメージがある。皇室にふさわしくないその名は熊襲の首領の名からもらったという。それまでは小碓命(おうすのみこと)と 呼ばれていた。兄は大碓命といったから古代の命名は分かりやすい。物語では景行天皇の皇太子は兄ではなく、弟の小碓命だった。「日本」という文字をあて がった皇子に「タケル」という雅でない呼び名がつけられた。そこらの古代人の思考がおもしろい。

 日本武尊は次いで東国征伐を命じられ、伊勢の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)を訪ねる。伯母の倭姫命は伊勢神宮を現在の地に遷宮した人物として知られる。 皇室の先祖である天照大神の安住の地を求めて飛鳥を旅立ち、伊賀、近江、三河などを経て伊勢の渡会(わたらい)の地にたどりついた。なぜ伊勢の地でなけれ ばならなかったか。古代史の疑問は少なくないが、日本武尊が東国討伐に旅立った時は、渡会で斎宮として天照大神をお守りする役割と担っていた。

 日本武尊は伯母に自らの身の上を嘆いた。「父上は私に死ねということなのでしょうか」とも悲しんだ。旅立ちにあたって倭姫命は天照大神の天叢雲剣(あめ のむらくものつるぎ)と火打ち石の入った袋を与えた。天叢雲剣は須佐之男命が出雲国で倒したヤマタノオロチの尾から出てきた太刀である。須佐之男命はこの 剣を天照大神に捧げ、八咫鏡とともに天照大神の神体となっていた。

 日本武尊は天叢雲剣と袋をもって東征に向かう。駿河でこの神剣によって野火の難を払った。そのため草薙剣(くさなぎのつるぎ)と命名された。東の国々を 討伐の後、尾張国造の娘の美夜受媛(ニヤズヒメ=宮簀媛)と結婚。美夜受媛の元に剣を預けたまま伊吹山の悪神を討伐しに行くが、山の神によって病を得、途 中で亡くなってしまった。なぜ草薙剣を置いて出陣したのかこれもなぞである。美夜受媛は剣を祀るために熱田神宮を建てたのだという。

 明治になるまで、「神宮」を名乗れたのは伊勢のほか、この熱田と鹿島、香取の5つだけだった。尾張の熱田神宮が古来、「神宮」を名乗ったのは草薙剣の存在に由来することは間違いない。大和朝廷にとって伊勢と尾張は国家統一に欠かせない重要な存在だったことが分かる。

「大和は国のまほろば」とうたった日本武尊は戦陣の中で人生を終え、白鳥となって西に飛んでいった。物語はみごとに日本武尊を悲劇のヒーローに仕立て上げている。

 神話の中であっても日本の国造りのロマンをもう少し知っていていい。津々浦々に語り継がれた物語があり、日本の物語を多く知ることは旅をより豊かにするよすがとなる。
2005年07月06日(水)
早大政経学部4年 藤田圭子
 自分の故郷が寂れていくのを見るのは、とても辛い。自分に何ができるか見つけられないまま、何かないだろうかと農山漁村を旅するようになった。そういう旅で、去年の師走は高知県安芸市にいた。安芸は高知県東部にある人口2万人ほどの市である。柚子と米ナスの産地。

 この旅行は、国土交通省が企画したボランティアホリデーのモニターとして、航空券と宿代が支給されたものだった。6泊7日に渡って安芸市内に滞在することになったわけだが、その旅程は全て安芸市役所が組んでくれていた。

 この旅の中で特に印象に残っている集落が二つある。一つは市の西を流れる安芸川、畑山川沿いに北へ車で30分ほど走った畑山というところ。もう一つは市 の東を流れる伊尾木川沿いに北へ車で20分ほど走った入河内というところ。どちらも川沿いの曲がりくねった道を行かなければならない。

 畑山には市営のバスで行ったのだが、車窓から見える山の緑と川のコントラストのキレイな様に心を奪われてしまった。田舎育ちとは言え、海と山は全く違 う。こんな世界もあるんだとドキドキしてしまった。そんな自然への感動を味わいつつも、まだ着かないのだろうかと不安にもなった。外の世界の美しさと1軒 の家も見ない不安が胸の中で交錯していた。しかし、徐々に空が広がり、水田が現れ、目的の畑山に到着した。

 ここ畑山は30年で人口が10分の1に減ったところ。限界集落と言われるところ。一番若い人は40代の小松靖一さん。通称、靖ちゃん。靖ちゃんのその下 は、靖ちゃんの弟以外にもういない。70人の畑山にとって、一番頼りにされている人だ。会話の中で、「自分が畑山を背負っている」という言葉をよく耳にし た。私にとって、「故郷・遊子を背負う」という言葉はまだ言えるような状況にはない。だから、靖ちゃんをどこか羨ましく思うところもあったが、それだけの 苦労が目に見えるようなところもあった。

 靖ちゃんは、畑山で土佐ジローという鶏を育てている。これは畑山にもともとあった産業ではない。大工をしていた靖ちゃんが、どんどん人のいなくなってし まう畑山で、人が生きていける道を模索して辿りついた道だ。最初はうまくいかなかったらしいが、試行錯誤の末、土佐ジローブランドとして確立されている。 そして、今では海外からも注文があるほどだ。

 畑山での夜、私も食べさせてもらったが、その味は今までに食べたことのない美味だった。昼間見た鶏が目の前にあるという生き物の命を貰って生きていると いう感じ。我が家で感じる魚への感謝とは、何か違う感謝の気持ちを感じた。そして、そういう鶏に拘って鶏を可愛がって育てている靖ちゃんたちに、言葉では ないけれども沢山教えてもらったように思う。

 土佐ジローがブランドとして確立したが、靖ちゃんの悩みはまだまだ尽きないように感じた。アドバイスなり意見を言う人は幾らでもいるが、それを畑山で実 行に移すだけの人がいないということ。地域全体のこともあるが、養鶏に従事する従業員の人は畑山の人だけでなく市街地に住む人もいる。働き場所が仮に出来 ても集落を形成するのは別問題なのだと教えられた。限界集落の寂しさをここにも見たように思う。故郷にこだわって生きることがどういうことか・・・靖ちゃ んの背中は教えてくれているように思う。

 続いて、入河内のことを書きたいと思う。こちらには、まだ小学生児童もいる。しかし、特認校制度を活用して、他地域からもこの小学校に通っている生徒を含めての学校存続ではあった。

 ここでは、有澤家でお世話になった。農家民宿を始めようと思案している家で、50代のお母さんと80代のおばぁちゃん2人の家だった。お母さんもおばぁ ちゃんもとても良い人で、また家族のように付き合える人が増えたと喜んでいる。お母さんもそうだが、特におばぁちゃんの肌つやはとてもスベスベで、笑顔も 素敵だった。

"何でそんなにキレイなん?"と聞くと、"ユノスのおかげ"と言っていた。柚子のことだ。80歳を越したおばぁちゃんだが、自転車に跨るようにバイクに乗 り、山の畑を行き来していた。入河内で作られる"てまいらず"という柚子巣の瓶には、このおばぁちゃんの写真が使われているのも納得してしまう。

 そんな元気なおばぁちゃんだが、お母さんが始めようとする農家民宿には反対していた。私が入河内を訪れた時も、"ようこんな田舎へ"と大変恐縮した様子 だった。でも、私は本当に楽しかったし、良いところへ来たと思っていた。人込みの中を観光するよりも、こうした山などで我が家のように休めるところがある ことは本当に幸せだと思った。そんな気持ちをおばぁちゃんと話たり、帰ってから手紙に書いたりしていた。

 入河内から帰って半年が経った先日、嬉しい知らせが届いた。農家民宿を本格的に始めたのだという。最初は嫌がっていたおばぁちゃんが、今では積極的に外 にアピールしているのだという。お母さんが"入河内で何かやらないと"という声を聞いて、私も頑張ろうという気持ちになった。

 今、農山漁村は廃村になりかけているところが数え切れないほどある。廃村になった村はあっという間に家が崩れ、その家は裏の藪に飲まれていく。そんな姿 を故郷の姿に重ねて想像しなくもない。人口規模で見れば、我が故郷はまだ良い方かも知れない。でも、それに甘えていては、あっという間に無くなってしまう のかも知れない。

 公共事業などだけへの依存ではなく、自分たちの手で何か新しい産業を創る必要性に迫られているのではないだろうか。しかし、それを担うべく人材や、若い 後継者は農山漁村から姿を消しているのも事実である。農山漁村がなくなっても問題ないとする論調もあるが、それは違うと思う。一つの村が無くなっても大き な問題ではないが、廃村になろうとしている村は数多い。農山漁村が持つものを経済的な指標とは違うもので、再評価する必要があると思う。どの村にどの方法 が最善なのかということは言えないけれど、村の自立を考えていきたいと思う。

 藤田さんにメールは mailto:yusukko@cf7.so-net.ne.jp
2005年07月04日(月)
フリ-ジャ-ナリスト 宮本 惇夫
 初のPFI刑務所

 民間資金を使った公共施設の整備、それをPFIと呼んでいることはご存知のことと思う。この度、その第1号PFI刑務所が山口県美祢市に作られることになった。

 4月22日入札が行われ、「美祢セコムグル-プ」「NTTデ-タ・宇部興産グル-プ」「大林組グル-プ」の3グル-プによって提案内容、価格の総合評価の結果、セコムグル-プ(12社)が落札をした。入札金額は約493億円。

 PFI刑務所は美祢市の約28ヘクタールの未利用地に建設され、男女初犯受刑者1000人を収容する。法務省ではそれを刑務所ではなく「社会復帰促進センタ-」と名づけている。

 まず施設だが刑務所特有の高いコンクリ-ト塀はなく、代わって三重のグリ-ンベルトが周囲を囲む。といって受刑者に逃げられては困る。そこで外からは見 えない特殊な透明壁を設けて脱走できないようにしている。部屋はすべて独房で遠隔操作の可能な電気錠やCATV監視が設置され、ICタグを利用しての受刑 者の位置確認など先進的なセキュリティシステムが導入されている。

 社会復帰促進センターは開かれた施設を売り物にしていて、広場や構内道路は市民にも開放される。地域のちょっとした憩いの場というわけだ。

 地方自治体の誘致合戦

 ではPFI刑務所の運営はどうなっているか。官民の協同体制で運営され公権力(手錠をかける。懲罰を命ずる等)行使に関しては官が担当し、それ以外の受付、巡回、教育、清掃、給食などのサポ-ト業務を民間が担当することになっている。

従事者は全体で250名を予定し、官員120名、民間130名になる。2007年4月の開設予定だ。

 近年、犯罪が増え受刑者の数が急増、全国の刑務所では収容定員を大きく上回る過剰収容状態となっている。そこで民間資金を活用したPFI刑務所の発想が 生まれてきたわけだが、この新刑務所構想に飛びついたのが地方自治体だ。地場産業の疲弊や工場の移転とうにより失業率は増大し財政赤字も膨らむ。産業なら ぬ刑務所誘致によって雇用を創出し地域活性化に役立てたいというのが地方自治体の切なる願いだ。第一号PFI刑務所については50近い自治体が名乗りを上 げたともいわれる。

 誘致に成功すれば固定資産税が入り、刑務所関連産業も増加する。美祢市の場合、1000人の受刑者に250名の従業員。その家族も含めれば2000人近い町ができるわけで、経済効果もかなりなものになることが予想させる。

 当初、誘致地区として美祢市とともに有力視されたところが鹿児島県の枕崎市。美祢市に決まった時の落胆ぶりは相当なものだったともいわれている。第2号PFI刑務所についても候補地選びが始まっていて、激戦の末、最近島根県の旭町に決定した。

 満杯状況つづく刑務所

 現在、刑務所は110%を超えた過剰収容状況という。その状況は今後も悪化することはあって改善されることは期待できない。PFI刑務所はますます増えていくことになり、地方自治体の誘致合戦もさらに激しいものになっていくであろう。

 地域復興のために刑務所の誘致合戦を展開する。喜んでいいのか悲しんでいいのか。何とも寂しい地方政治であり経済政策だ。

 すでに米国や英国では刑務所も完全民営化。いまの犯罪状況を見ると、早晩日本でも刑務所の民間経営時代がやってくることになろう。刑務所不足を作ってい るのはどこに原因があるのか。国はもちろんだが企業にも一端の責任がある。107人の犠牲者を生んだJR西日本ではないが、利益はもちろん大切。しかし度 の過ぎた効率主義、利益至上主義ともいえる経営は勝ち組負け組をつく出し失業者、フリ-タ-を生んでいく。それが犯罪の温床になっていないだろうか。

 宮本さんにメール mailto:fwkc0334@mb.infoweb.ne.jp
2005年07月03日(日)
金沢市議 山野之義
 5月9日、台湾最後の日である。

 八田與一の墓前祭に参列し、李登輝氏、許文龍氏といった八田與一に繋がる、素晴らしい出会いもいただいた。全てを終えたつもりでいた私たちに、この最終日に、さらに素晴らしい出会いの場があった。

 急遽、台北日本人学校にお伺いすることになった。

 台北日本人学校へは、「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」台湾在住世話人の徳光信誠氏のご令嬢が通われている。

 実は、この学校では、4年生の時に八田與一のことを学び、6年生の修学旅行では、烏山頭ダムにまで行き、八田與一の業績に直接触れてくるという。

 徳光氏が、小学6年生のお嬢さんに、八田與一の墓前祭に日本から沢山の方が来られる、その中に、八田與一のご長男の晃夫氏ご夫妻もいらっしゃるという話 をされたという。秋に烏山頭ダムへの修学旅行を控えていたお嬢さんが、そのことを、学校の先生に、何気なく話されたところ、先生の方から、ぜひ、お時間が あれば、日本人学校にお立ち寄りいただきたいというお願いがあった。晃夫氏から、直接お話をお伺いし、子供たちに、より一層、八田與一に興味を持ってもら い、秋の修学旅行を、格段に実りあるものにしたいとの思いからであろう。

 世話人の方たちで相談の上、私たちは急遽、日本人学校に寄らせていただくことになった。

 私たちの乗ったバスが日本人学校に入ると、既に、先生方が迎えに来ておられた。

 6年生の子供たちは、ピロティで私たちを出迎えてくれた。

 長旅でお疲れの八田晃夫氏は車椅子で、子供たちの前に移動された。マイクを持った晃夫氏はしっかりとした口調で、子供たちに向って話を始められた。

 「私は烏山頭で生まれ、小学校は烏山頭小学校でした。その頃は、二学年ずつの合同授業でした。そこで、10年いました」。

 「私のふるさとは台湾です。台湾以外に、私のふるさとはありません」。
 「皆さんは、台湾と日本との架け橋になってください。これが、私からのお願いです」。

 ゆっくりとした口調ではあったが、一言一言、丁寧に話されていた。本当に、この子供たちに、台湾と日本との架け橋になって欲しいという強い思いの表れであろう。子供たちにも、十分伝わったはずだ。

 ちなみに、この日の、まさに私たちがお伺いした時間は、数日後に行われる予定の運動会で、6年生が発表する原住民ダンスの練習をしている時間であった。 その講師である、台湾原住民の林さんという、まだ、若い男性の方もその場に同席されていた。日本語が理解できるのかどうかは分らないが、理解できなかった としても、後から、この出来事を聞き、何か感じてもらえれば嬉しい。また、子供たちにとっても、林さんとの関係でも、同じような思いを持ってもらえるので はないだろうか。

 さて、金沢に帰ってから、子供たちが書いた感想文が掲載された学級通信を送っていただいた。子供たちの素直な気持ちが伝わってくるものであった。

 金沢に戻って、もう一つ、いただいたものがある、それは、日本人学校の子供たちが授業で使っている、社会科副読本「みんなで学ぼう 台北台湾」のコピーである。

 これは、実際に授業を行っている先生方がまとめられたものという。八田與一の偉業が9ページにも渡って詳細に書かれていたことにも感銘を受けたが、何といっても、「はじめに」と題された巻頭言は、秀逸である。

 最初に、大きな字で「台湾の良さをおもいきり知ろう!」。

 中ほどに、この副読本作成の最大の眼目が書かれている。
 
 「この社会科副読本『みんなで学ぼう台北台湾』は、あなた方が、今以上に台湾を知り、台湾が好きになり、台湾が愛せるようになるために、先生方の力を結集して作り上げたものなのです。」

 日本の学校で使われている社会科副読本はもちろん、社会科の教科書でも、その観点で作られたものは、一体どれだけあるだろうか。

 「日本を知り、日本が好きになり、日本が愛せるようになるために、先生方の力を結集して作り上げたもの」と、作成者が胸を張って言えるものが、どれくらいあるのか。

 台湾の日本人学校は、日本の文部科学省とどのような関係にあるのか、また、先生方は、どのような資格をもってそのお立場に就かれるのかは、私はよくは知 らない。しかし、教員を志すような高邁な精神をお持ちの方たちは、皆、本来は、ここに書かれているようなお気持ちに違いない。外国の地に行き、旧時代の残 滓による呪縛から解き放たれた先生方の、子供たちに対する素直な思いが伝わってくる。

 最後の締め括りは次のように書かれている。
 「台湾のことを今以上に知り、台湾を愛せる皆さんになり、将来の日本と台湾の架け橋となれるような国際人に成長してくことを先生方は願っています。」

 「日本と台湾の架け橋」。李登輝氏、許文龍氏、そして、八田晃夫氏。今回の旅で、皆さんから何度も聞かせていただいたお言葉を、改めて、目にすることになった。まるで、お三方は、この副読本を読んでいたかのようである。

 最後に。今回の「八田與一の旅」での新たな収穫は、八田與一に勝るとも劣らないくらいの素晴らしい立派な「人物」が、他にもおられるということを知ったことである。

 既に述べた、台湾下水道を整備し、八田與一に大きな影響を与えた浜野弥四郎。やはり、既に書いているが、現地に合った米の品種改良を重ね、蓬莱米という新品種を作った、農学博士磯永吉。

 また、学生時代、気宇壮大な思いを口にする八田與一は、いつの間にか「八田屋の大風呂敷」と陰口をたたかれてもいたという。そんな時、「八田に内地は狭 すぎる。内地にいれば、狭量な人間に疎んじられるようになる。八田を生かすには外地で仕事をさせるのが一番だ」として、24歳の八田與一に台湾へ進む道を 開いてくれた、東京大学時代の恩師広井勇教授。この恩師がいなければ、「八田與一」はなかった。

 烏山頭ダムというハードは完成したが、先に述べた蓬莱米を豊かに実らせるために、計画給水、計画生産に則った農業が必要である。

 この指導を任されたのが、東京農業大学出身の中島力男技師である。100万人近い嘉南平野の農民は、計画的な水利に基づく米作りの経験はない。中島技師 は、農村を巡回して、苗代作り、田植え、稲の消毒から農機具の使い方を指導した。さらに、ダムからの水を田畑に引くための水路作り、完成し張り巡らされた 水路にどれくらいの水を放出するかの管理も農民たちに指導した。

 ダムが完成し、台北に戻った八田與一も、時々、現地に来ては、中島技師を激励していたという。

 八田與一が台湾を去り、水利課長となった中島技師の活躍と苦労は終戦間近まで続き、その後も台湾省の留用として1年余現地で指導にあたった。

 その後、故郷大分県宇佐市に帰郷した中島技師は、地元の中学で教鞭をとられていた。しかし、ご本人の性格なのだろう、中島技師は、台湾での功績や苦労をほとんど語ることもなく、地元の人も中島技師がそのような活躍をしたこともほとんど知らなかったという。

 しかし、台湾の人たちは中島技師の功績を忘れてはいなかった。

 八田與一ご夫妻のお墓の横に、中島技師の生前墓が建てられ、現地の人たちは、八田與一と同じように感謝の気持ちを表している。

 実は、中島技師は現在もご存命で、今から4年前に100歳を迎えられた時には、嘉南農田水利会の役員数名が宇佐市を訪れ、感謝状を送っている。その時の写真も水利会事務局に飾られてあった。

 まだまだ、「人物」はいる。たくさんいる。

 最後に、一点のみ付け加えたい。忘れてはならないことは、浜野弥四郎にしても、八田與一にしても、中島力雄技師にしても、彼らの行った事業は、全て、日 本政府の方針のもと、日本政府からの予算で行ったということである。もちろん、だからといって、彼らの偉大な業績及び人間性に、いささかの曇りももたらさ れるものではない。

 台湾を領有した日本は、欧米列強から、果たして、日本に植民地経営ができるのかと疑いの目で見られていた。それだけに、日本は、莫大な予算と、優秀な人材を派遣して、慎重に台湾統治にあたった。

 誤解を恐れずに言えば、当時の日本政府の方針が、浜野弥四郎や八田與一を生み出したのである。

 余談。
 「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」が台北で宿泊する時は、福華飯店(ハワードプラザホテル)と決まっている。理由がある。

 今から10年ほど前、やはり、墓前祭に参列すべく、台湾に来ていた一行が、台北のあるホテルで宿泊していた。団体での行動であるため、バスを一台チャー ターする。バスの前面には、『「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」一行様』というような案内が貼られる。ある早朝、中川外司世話人が、そのバスのところ に行くと、一人の老人が、そのバス前面に書かれた案内をじっと見つめている。中川世話人に気付いた老人が、きれいな日本語で、「八田技師とは、八田與一先 生のことですか」と聞いてきたという。

 「私は、まだ10代の若い頃、烏山頭ダムの現場で働いていた。八田先生は既に雲の上のような人であったので、とても言葉を交わすことは出来なかったが、私たちの仕事を、いつもニコニコして見ていてくれた」。

 驚いたのは、中川世話人たちの方であろう。烏山頭ダム建設にあたり、八田與一と一緒に仕事をした方で、ご存命の方にお会いできるとは、夢にも思っていな かった。聞けば、その後、一念発起して、事業家に身を転じ、福華飯店を創業されたという。現在は、99歳というご高齢ということもあり、ご子息に、オー ナーの座は譲られているという。今回、残念ながら、体調がすぐれず、私たち一行はお会いすることは出来なかった。
 
 という事情があり、少なくとも、その方がご存命の間、私たちは、福華飯店に宿泊することになる。

 次、本当に余談、蛇足。実は、前出した徳光氏は、私の中学時代の同級生である。彼は現在、日本一の和風旅館加賀屋の台湾現地社員として、台湾加賀屋立ち上げのため、日夜奔走している。

 さらに、水利会のこれからの通訳及び説明役は、だんだん、徐氏から、私の慶應の後輩になってくることであろう。

 ますます、私は、「八田與一」から抜け出せなくなってくる。

 山野ゆきよし http://blog.goo.ne.jp/yamano4455/
 山野さんにメール mailto:yamano@spacelan.ne.jp
2005年07月02日(土)
早大アジア太平洋研究センター特別研究員 文 彬
  レオ・バーネット(Leo Burnett)は、年間売上35億ドルを誇る世界最大の広告代理店であり、豊富で高品質なサービスメニューの中でも特に企業のブランド構築力とアイデア の考案力に定評があると言われているが、大陸におけるビジネス活動でしばしば壁にぶつかっていることから中国に対する理解の浅さが露呈している。

 6月21日、ケンタッキーとの大陸のファーストフード市場争奪戦に明け暮れるマクドナルド中国現地法人(中国全土660店舗、URL=http://www.mcdonalds.com.cn/) は、「中国人消費者に対する侮辱」と抗議が殺到したため、レオ・バーネットがプロデュースしたテレビ広告の放映を中止するとともに「広告代理店のミス」と して遺憾の意を表明した。もっともマクドナルド側が広告の審査機関、中国広告協会の審査を待たずにその「ミス」のある広告を流したのも大きな責任問題だ が。

 この30秒広告が問題とされたのは、男性客がDVD店の店主らしい傲慢な男の足元にひざまずいて優待期間の延長を哀願し、その直後に「マクドナルドは 365日優待」というセリフが続くシーンである。これは明らかに『中国人民共和国広告法』の「消費者を侮辱しないこと」という条項に違反しているのだが、 マスコミと抗議者は、更に「ミス」の広告が外資企業が「中国消費者」を侮辱していると解釈したため、問題が大きくなったのである。ただ、その傲慢な店主も 外見から見て同じ中国人であるのが不幸中の幸いである。

 ここで疑問視したいのは広告製作元のレオ・バーネットのいわゆる「中国文化」に対する感覚である。数ヶ月前にも当社は、大陸でも著名なブランドとなっている立邦漆社(日本ペイントの中国法人、URL=http://www.nipponpaint.com.cn/) のために製作した広告が中華文明の象徴である龍を侮辱したとして猛烈な抗議があったため、謝罪したばかりである。ユーモアのセンスに富む二つの作品は何れ も創意工夫と表現技術では申し分ないと広告評論家も認めているが、中国人のタブーに触れただけで逆効果になる。レオ・バーネットの中国法人には優秀な中国 人スタッフが多くいるはずなのに、しばしば初歩的なミスを犯すことから見て「中国文化」に鋭い感覚を持つスタッフがいないように思われる。

 だが、国民はプライドが高く(それはしばしば夜郎自大やコンプレックスによる屈折した心理である)、排外思想が根強い。そして政治的、文化的及び歴史的 タブーの多い中国における広告業では、「中国文化」と民衆やマスコミの動向に敏感な専門家が必要不可欠である。(WJCF6月26日)

 文さんにメール mailto:bun008@hotmail.com
 WJCFコラム http://www.wjcf.net/

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