2005年6月アーカイブ

2005年06月29日(水)早大政経学部4年 藤田圭子
  日本全国、夏祭りの季節となった。祭り好きの私には、毎年楽しみにしている故郷の祭りがある。宇和島和霊大祭、宇和島牛鬼(うしおに)祭り。7月22日か ら24日までの3日間、宇和島を舞台に繰り広げられる祭りの名前だ。2つの名前を持つこの祭り。名前が分けられているのは、神社のお祭りと市民のお祭りの 日程を同じ3日間に合わせたからと聞く。

 本来の祭りは宇和島伊達家家老の霊を慰めるための和霊大祭。また、海の祭りとしても古くから賑わってきた。私の両親が幼い頃の楽しみといえば、この和霊 大祭だったと聞く。祭りになると、船に乗り合わせて宇和島湾へ行き、祭りの間は、丘に上がったり、船中で寝泊りして、楽しんだのだという。

 私が知る限りでは、そこまでの賑わいは失せてしまっていた。しかし、この数年で又、息を吹き返しつつある。特に高校生くらいの子どもたちが、この祭りを 楽しみにするようになっている。私も宇和島の何を誇りに思うかと言われると、この祭りを挙げる。あれだけ多くの人の笑顔に出会えるのは、宇和島ではこの祭 りが最高の機会だと思う。普段は閑散としてしまった宇和島に、熱気があるのが何よりも嬉しいのだ。

 この3日間を大まかに分けると、初日がガイヤ・オン・ザ・ロード、2日目が宇和島音頭、3日目が祭りのフィナーレを飾る走り込みだ。若い人たちの人気を 集めているのは、この初日に行われるガイヤ・オン・ザ・ロードである。通称「ガイヤ」。ガイヤとは地元の言葉で、「スゴイ」というニュアンスを含んでい る。(しかし、この言葉の持つ意味はとても広く、私には標準語に置き換えることはできない。)

「ガイヤ」の曲は、宇崎竜童氏に作詞作曲をしていただき、振り付けはピンクレディーなどの振り付けで活躍されてきた土井甫氏によってしていただいたもの。 土井氏は同市にある高校の出身者でもあるそうだ。完成したのが平成元年。歌詞の随所に方言が組み込まれている。今年で17回目を迎えているが、年々、賑わ いを増している。

 普段は閑散としている商店街のアーケードに多くの人々が集まり、その真ん中を踊りながら進んでいく踊り手たちに熱い視線を注ぐ。ガイヤが始まる5時頃か ら少しずつ人が集まり始め、クライマックスを迎える11時頃には異常な熱気に包まれている。土井氏によって基本的な振り付けがなされているが、振り付けの 変更は認められているし、衣装も自由であるために、参加チームによって全く別のダンスを見ることができるために観客は飽きない。私も高校1年のときに1度 だけ踊ったことがある。多くの視線が心地良かったのを思い出す。

「ガイヤ」の歌詞には、"太鼓にうかれて"という部分があるが、ガイヤにはダンスだけでなく、太鼓もバックミュージックとして祭りに参加している。私もダ ンスを踊った翌年から2回は太鼓の叩き手として祭りに参加していた。小学生の頃から、休み休みではあっても続けていた竜王太鼓のメンバーとしての参加だっ た。太鼓はガイヤの始まりから終わりまでの6時間ほど、祭りに参加することができる。踊ることも好きだけれども、太鼓(オケ)を抱えて、バチを振り、リズ ムに乗ることが好きだった。6時間、休憩らしい休憩も取らず、バチを振り続けた。終わって気付けば、履いていた地下足袋はもう使い物にはならなかった。そ れくらい熱中できる祭りだった。

 ガイヤは若い人の注目を浴びるが、どの世代にも人気があるのは最終日の走り込みではないだろうか。場所は、ガイヤ、宇和島音頭と賑わった商店街のアーケード街から、祭りの本拠地、和霊神社へと移る。

 和霊神社の前を流れる須加川を舞台に、走り込みは行われる。川面には1本の御神竹が立てられ、その竹が見え易いところを求め、観客は暑い中早くから場所取りを行う。汗を掻きながら待ち続け、夜の闇が少し深まったところで、先ずは仕掛け花火が観客を楽しませてくれる。

 そんな仕掛け花火が終わる頃、川面に太鼓の音が轟く。そして3体の神輿が川下から上ってくる。この神輿は、お日様の高い時間に市内を回り、船に乗ってい たもの。夕方になり丘に上がってきて、川下から和霊神社を目指す。その神輿を松明を持った人が先導する。その灯りが見えるのを私たちは心待ちにしているの だ。

 待ちに待った神輿が私たちの前を通り、男の人たちが御神竹の周りに集まり始める。そして、開戦。川面に立てられた御神竹の先端には、白いお札がつけられ ている。このお札目掛けて合戦が始まるのだ。長い竹によじ登り、火花を散らせる。その一つひとつの光景に観客がどよめく。そして、お札が一人の手に握ら れ、3日間続いた祭りは幕を下ろす。

 観客も参加者も来年の祭りを楽しみにして、最後の夜を過ごす。故郷の祭りが、年々賑わいを増すのは本当に嬉しいもの。この4年参加できていないが、次こ そは・・・と願いつつ、今年の祭りもインターネットでの実況中継で楽しむことに決め込んでいる。

 藤田さんにメールは mailto:yusukko@cf7.so-net.ne.jp
2005年06月27日(月)金沢市議 山野之義
 5月8日、八田與一の命日である。

 墓前祭の前に、隣接したホテルで、「追思八田技師音楽会」が開催された。

 音楽会とはいうものの、関係者や来賓の紹介、挨拶等々だけで1時間。お客様や目上の方を大事にするお国柄を感じた。

 昼食を挟んで、墓前祭は滞りなく行われた。八田與一の半生をテレビドラマ化するということもあってか、テレビカメラが、やたらと目に付いた。
――――――
 その日、ダム近くのホテルに宿泊した私たちは、早めに起床し、1.2キロのダム堰堤の途中まで歩いた。ダムに貯められた水の中で泳いでいる方がいたのに は、驚いた。聞くと、もちろん、遊泳は禁止であるという。のどかな光景である。

 八田ご夫妻のお墓は、満面に水がたたえられたダムを見下ろすことができる小高い丘の上に作られ、そのすぐ横に、八田與一の銅像が置かれている。

 銅像は、現地で働いていた方たちが、八田與一の功績をたたえ、製作を依頼し寄贈したものである。そして、この銅像は、日本と台湾との関係に翻弄されるかのように、数奇な運命をたどることになる。

 終戦後、中華民国国民政府の蒋介石軍が、台湾に上陸し、台湾を統治することになった。

 当然、日本人の銅像や碑は全て撤去された。八田與一の銅像も、同じ運命にあったと思われていたが、実は、水利会の方たちが、ずっと隠し守ってきたのである。

 時代の流れを見、1975年、水利会は、政府に対し、銅像設置の許可を求めたが、不許可の通知。その後、1978年、再び、銅像設置の許可申請をした が、その返事はずっと来なかった。政府としても、日本と正式に国交がない以上、許可を出せないまでも、不許可を出す理由までもないとして、黙認せざるを得 なかったのであろう。その3年後の1981年1月1日、八田與一像は、台座をつけて元の場所に再び設置されることになった。こうして、烏山頭から持ち去ら れてから37年ぶりに「八田與一」は、温かい嘉南の人達の心に囲まれて、烏山頭ダムを見下ろし、現在に至っている。

 朝食後、嘉南農田水利会顧問徐欣忠氏のご案内のもと、長い工事の間に亡くなられた方たちの霊を慰めるために作られた、「殉工碑」に向う。

 徐氏は、「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」の世話人の方たちからすれば、まさに旧知の間で、私たちだけでなく、八田與一の話を聞きに来る、台湾、日本の方たちほとんど全ての、通訳及び説明役をされているという。

 余談だが、徐氏の後継者として、私の後輩にあたる、慶応義塾への留学経験をもつ30代の若い方がおられたが、80歳近い徐氏には、まだまだ及ぶべくもないようだ。

 徐氏は、殉工碑の前にきて、これまで以上に力を込めて、説明を始められた。

 「八田先生が当時から、そして今でも、私たち台湾人に、心より尊敬されている、その最大の理由が、この殉工碑にあります。二つの点で、その偉大さが際立っていることがあります」。

 声震わせて、話される。

 その一つは、碑に刻んである名前は、日本人、台湾人の分け隔てなく、全て、亡くなられた順番に書いてあるということである。しかも、工事中の事故だけでなく、病気で亡くなられた方たちの名前も同じである。
 とかく、安直に「人権」なるものが吹聴される現代の価値観からすれば、さしたることではないかも知れない。しかし、当時、台湾は日本に統治されていたという事実を考えた場合、まさに、あり得ないことであったろう。その決断力、実行力。

 もう一つは、工事の従業員だけでなく、その家族の名前までもが刻まれているということである。

 八田與一は自分の家族を大事にしているのと同じように、従業員たちの家族も大事にしていた。そもそも、「よい仕事は安心して働ける環境から生まれる」と いう信念のもとに、職員用宿舎二百戸の住宅をはじめ、病院、学校、大浴場を造るとともに、娯楽の設備、弓道場、テニスコートといった設備まで建設した。

 それ以外にも、芝居一座を呼び寄せたり、映画の上映、お祭りなどを行ったり、従業員だけでなく家族のことも頭に入れてのまちづくりを行っている。工事は人間が行うのであり、その人間を大切にすることが工事も成功させるという思想からであった。

 家族があっての、現場の従業員であり、工事である。その家族が亡くなられるということは、大切な、従業員が亡くなることと同じである。その考え方のもと、殉工碑には、工事期間中に亡くなられた、従業員家族の名前も刻まれている。 

 工事期間中、八田與一にとって一番辛かったことは、随道内で発生した爆発事故であったであろう。

 随道工事の最中に、石油ガスが噴出し、そのガスに火花が引火して爆発した。50名以上死亡するという大惨事となった。

 その事故もあり、この殉工碑に刻まれている方のお名前は、134名にもなる。

 また、この殉工碑には、八田與一の文章も刻まれている。

 漢語調の、やや長めの文章であったが、徐氏は既に、何百回と口にしてきたのであろう。

 「読み上げます」と言い、抑揚をつけながら、また、時には、途中で簡単な解説をつけ加えながら、既に暗誦しているであろう八田與一の書き上げた文章を読 み、説明してくれた。その韻律に耳を傾けているだけで、徐氏及び台湾の方たちが、八田與一を心より崇拝しているお気持ちが伝わってくる。

 その最後の方に、次の言葉がある。
 「諸子の名も亦(また)不朽なるへし」

 このダムの水によって、灌漑用水が流れている限り、皆さんの労苦は、忘れられることはない。

 この一文を読むだけで、八田與一が、従業員の皆さんを思う気持ちが伝わってくる。また、その関係者も、この一文だけで、心震わされる思いをしたことであろう。

 私は、殉工碑の前に立って、その文章を凝視し、言葉の力というものを、一人感じ入っていた。

 山野ゆきよし http://blog.goo.ne.jp/yamano4455/
 山野さんにメール mailto:yamano@spacelan.ne.jp
2005年06月26日(日)中澤英雄(東京大学教授・ドイツ文学)
 筆者は萬晩報2月28日に「アインシュタインと日本」という文章を書かせていただいた。その中で、インターネット上に広まっている【アインシュタインの予言】なる文章は創作であることを指摘した。
http://www.yorozubp.com/0502/050228.htm

 筆者がこれを虚構と判断する理由は、

(1)どこにも確固たる典拠がない。
(2)内容がアインシュタインの思想と矛盾する。

という2点である。

 ところがその後も、この【予言】をアインシュタインの真実の言葉だと思いこむ人があとを絶たないようだ。6月になって、立て続けに数冊の雑誌でこの予言が真実のものとして引用されているのを見て驚いた。

 これはまことに困った事態である。日本人がこのような作り話を信じていることが海外にまで知られれば、「日本人はアインシュタインの名を騙ってまでそん なに自国を自慢したいのか」というように、日本人への軽蔑に転化しかねないからである。筆者は日本人の一人として、日本人が笑いものにされるのはうれしく ない。したがって、その内容がいくら「親日的」であろうと、日本への嘲笑につながりかねないこの偽予言を、このまま放置しておくことはできないと考えてい る。

 筆者は前稿において、

「このような創作は、明らかに清水氏に始まったものではなく、相当以前から行なわれている。その最初の出どころがどこなのか、ぜひとも知りたいものである。何かの情報をお持ちの方は教えていただければ幸いである」

とお願いしたのだが、数名の読者の方から、著書名やインターネットのサイトなど、貴重な情報をお寄せいただいた。この場をお借りして、あらためて感謝申し上げたい。

 アインシュタインは科学者であった。彼は真理を追い求めて、あらゆる虚偽から自由であろうと欲した。そのアインシュタインの名において嘘を語ることは、 アインシュタインへの冒涜である。この【予言】が虚構であることは前稿で十分に論証されていると思うのだが、その後の調査も含めて、ここで再論することに したい。結論から先に言うと、これが虚構であることはより明確になった。

 ■【アインシュタインの言葉】の「フル・ヴァージョン」

 さて、この【予言】の文言は、掲載されている場所(インターネット、雑誌、本)によって、かなり異なっている。まず、その長さが違う。あるものは冒頭の 部分が欠けている。別のものは、末尾が欠けている。個々の言葉づかいも微妙に違う。ここでは最初に、その最も長いヴァージョン、いわば「フル・ヴァージョ ン」をあげておこう。とはいっても、これが「真正(オリジナル)」の言葉だと誤解してほしくない。これから論証することになるが、もともとオリジナルの 【アインシュタインの言葉】など存在しないのである。比較の一つの基準とするためである。そして、個々の文には番号をふることにする。

[1] 近代日本の発達ほど、世界を驚かしたものはない。
[2] この驚異的な発展には、他の国と異なる何ものかがなくてはならない。
[3] 果たせるかなこの国の、三千年の歴史がそれであった。
[4] この長い歴史を通して、一系の天皇をいただいているということが、今日の日本をあらせしめたのである。
[5] 私はこのような尊い国が、世界に一カ所位なくてはならないと考えていた。
[6] なぜならば世界の未来は進むだけ進み、その間幾度か戦いは繰り返されて、最後には戦いに疲れる時がくる。
[7] その時人類はまことの平和を求めて、世界的な盟主を挙げねばならない。
[8] この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、凡ゆる国の歴史を抜き越えた、最も古くまた尊い家柄ではなくてはならぬ。
[9] 世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。
[10] それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。
[11] 吾々は神に感謝する、吾々に日本という尊い国を、作って置いてくれたことを・・・・

★出典:河内正臣著『真実のメシア=大救世主に目覚めよ』(山手書房新社、1992年)、66頁。ただし、原文における空白(スペース)は句読点で置き換えてある。また読点の位置や助詞の使い方や言葉づかいにややおかしなところもあるが、原文のままにしてある。

 河内氏の著書にも、もちろん出典は書かれていない。巷間に広まっている諸々の【アインシュタイン予言】の共通した特徴は、その出典が不明なことである。

 著者の河内正臣氏(昭和16年生まれ)は、天皇が真実のメシアであり、日本人が天皇の真の姿に目覚めたとき、日本国内の思想的対立が解決され、平和の中 心国としての日本の役割が明確化され、世界が平和になる、という立場で活動している天皇主義の平和運動家である。やや神がかった氏の主張であるが、その中 で最も衝撃的なのは、憲法9条が昭和天皇の発案であり、マッカーサーは昭和天皇の意志を受けてこの条項を憲法に書き込んだ、というテーゼである。

 本論は「アインシュタインの予言」に焦点を絞っているので、河内氏の議論には深入りしない。ご関心の向きは、以下を参照されたい。
http://www.geocities.jp/ennohana/koutitenno.htm

 さて、この「フル・ヴァージョン」を基準に、いろいろな引用を測定することができる。たとえば、前稿で紹介した清水馨八郎氏の『「日本文明」の真 価』(祥伝社黄金文庫、平成14年=2002年、258頁)では、[2]と[3]が欠けている。これらは、清水氏の議論に不都合な箇所ではない。むしろ補 強する議論である。にもかかわらず、この部分が欠けていることは、清水氏が依拠した文献でも同じ箇所が欠けていたことを示唆している。

 ■名越二荒之助著『新世紀の宝庫・日本』

 次に取り上げたいのは、名越二荒之助氏の『新世紀の宝庫・日本』という本である。この本は多くの引用の元になった可能性がある。筆者が最近目にした雑誌でも、名越氏が引用元として言及されていた。

 名越氏(大正12年生まれ)は高千穂商科大学前教授。家永教科書裁判では国側証人となった。現在は「新しい歴史教科書を作る会」にも関わっているようである。詳しくは以下を参照されたい。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/nagoshi/nagoshi.htm
http://tendensha.co.jp/event/news3.html

 まず最初に、この稿は、名越氏の思想や、氏の人格や、「新しい歴史教科書を作る会」を批判するためのものではない、ということを断っておきたい。主題は あくまでも【アインシュタインの予言】の真偽である。真実の解明である。

 本書は、諸外国との比較によって日本文化の長所を述べる日本文化論の一種である。個々の記述には興味深い点もあるが、イザヤ・ベンダサン(山本七平)を ユダヤ人と信じているなど、今日では明らかに時代遅れの内容になっている。学問的な議論においては、誤りや根拠なき思い込みは正されなければならない。そ の点では名越氏には鋭い批判が向けられるが、専門分野は違うとはいえ、同じ学徒である名越氏は筆者の批判を理解してくれるものと信じている。

 名越氏はこう書いている。

《アインシュタインは大正11年、日本の「改造社」の招きで来日しています。11月16日(ママ)夫妻(ママ)と共に北野丸で神戸に上陸。時に博士42歳 (ママ)、ノーベル賞の決定した直後でした。国会図書館で当時の記録を調べると、彼が日本の朝野でいかに盛大な歓迎を受けたかがよく判ります。12月26 日(ママ)までちょうど40日間滞日し、慶応大学、神田の青年会館、東大その他で講演し、奈良、京都等にも旅行しています。その間すっかり日本通となり、 日本のすべてを適確(ママ)に掴んでいます。彼の日本観は誠に卓抜で、当時の日本人がいかに日本を知らないかがよく判ります。いちいち紹介することはやめ て最も印象に残る言葉をお伝えしたいと思います。
 【引用・アインシュタインの言葉】
 彼はヴァイオリニストでもあり詩人でもあって、この感想は詩的な韻律さえたたえています。
 この言葉は今村均著『祖国愛』に、次のような後日譚と共に紹介されています。第二次大戦後同博士を訪ねた稲垣守克氏が次のような質問を発しました。
 「独裁制の国家を混えても、世界政府を樹立することは可能だと考えられますか」
 それに対して博士。
 「我々は科学によって原子力の秘密まで発見したではないか。社会原子力ともいうべきものもある筈だ。大いに頭をしぼりなさい」》

★出典:名越二荒之助『新世紀の宝庫・日本』(日本教文社、初版昭和52年=1977年。参照したのは昭和57年・第13版)、102-3頁。ただし、漢数字はアラビア数字に直してある。

 名越氏の記述には多数の間違いがある。日付などの具体的データを、前稿のアインシュタイン来日時の記録と比較してほしい。まずこの点に、名越氏の杜撰さ が現われている。あらためて確認すると、来日は11月17日、離日は12月29日、滞在日数は43日、アインシュタインは来日当時43歳だった。

 名越氏のために弁護するならば、名越氏の著書は、金子務氏の『アインシュタイン・ショック』(1981年)よりも前に執筆されている。「日本におけるア インシュタイン」というテーマに関する必読書であるこの著作を参照していたら、こんな初歩的な間違いをおかさないですんだであろう。なお、金子氏の書は 2005年3月に岩波現代文庫として再刊され、入手しやすくなっている。

 名越氏の引用はフル・ヴァージョンであるが、各所で河内氏の引用とは文言が違う。とくに[4]は、「この永い歴史を通じて、一系の天皇を戴いたという比 類なき国体を有することが、日本をして今日あらしめたのである」となっていて、「比類なき国体」という語が付け加わっている(あるいは、河内氏からはこの 部分が欠落している)。このように、引用者によって文言が違うのも、【アインシュタインの言葉】の特徴の一つである。

 一読しただけでは気づかないかもしれないが、ここでは巧妙な議論のすり替えが挿入されている。

 名越氏は「国会図書館で当時の記録を調べると」と書いている。国会図書館で調べれば、当然、その当時の多くのアインシュタインのコメントが収集できただ ろう、と読者は想像する。次に氏は、「いちいち紹介することはやめて最も印象に残る言葉をお伝えしたいと思います」と書く。この前置きによって、次に引用 される【アインシュタインの言葉】が、あたかもその収集資料の中の一部であったかのように、読者は錯覚する。

 ところが、この言葉は、名越氏が国会図書館で調べた資料の中ではなく、今村均著『祖国愛』の中にあるのだ! 名越氏はなぜ、当時の新聞や雑誌といった、 氏が苦労して調べたはずの資料ではなく、今村氏の著書から引用するのだろうか? その理由はただ一つ、国会図書館の資料の中には、その言葉が見つからな かったからにほかならない。

 国会図書館で1922年当時の資料の中から、求めるアインシュタインの言葉が掲載されている資料を見つけることは、いわば巨大な干し草の山から一本の針 を見つけるような困難な作業である。そのような調査の末にこの言葉の出典がわかったら、何をおいてもそれを発表したいと筆者なら考える。名越氏とても同様 であろう。それが学者というものである。しかし、名越氏にはそれができなかった。なぜなら、そんな言葉は当時の資料のどこを探しても存在しなかったからで ある。

 筆者なら、「1922年当時の資料を調査はしたが見つからなかったので、信憑性はないが、参考のためにほかの文献から引用する」と書くだろう。しかし、 名越氏はそうはしなかった。氏にとっては、この言葉は真実でなければならなかったのである。見つかりはしなくても、どこかに必ず存在するはずである、とい うのが氏の信念であった。なぜなら、アインシュタインのように偉大な科学者であれば、わが国の「比類なき国体」を賛美しないはずはないからである。そこ で、手元にあった別の文献から引用することにした、というわけである。だが、これは学者としては誠実な態度とは言えない。

 名越氏も認めるように、「この感想は詩的な韻律さえたたえて」いる。そもそもこの予言はあまりにもこなれた日本語である。あたかもアインシュタイン自身 が日本語で書いたかのようである。1922年に来日したとき、彼の使った言語は、言うまでもなくドイツ語である。しかし、この【言葉】のドイツ語原文は存 在しないし、翻訳者名もわからない。最初から日本語ヴァージョンしか存在しないのである。

 アインシュタイン研究の専門家・金子務氏や杉元賢治氏は、ドイツ語の原文が残っている文章は(ドイツ語原文が失われているものもある)、ドイツ語からこ なれた現代日本語へ訳し直しているが、当時の新聞・雑誌に載った翻訳は、おしなべてきわめて生硬な直訳調である。たとえば、前稿で紹介した、『大阪朝日新 聞』に12月28日に掲載されたアインシュタインの別れの言葉を読んでほしい。さらに、この【予言】が1922年当時の文献に載っていたのであれば、当 然、旧仮名遣いのはずだが、私が見た例では、すべて新仮名遣いである。このような文体的特徴からも、この【予言】は、1922年よりかなりあとになって、 最初から日本語で書かれたものとしか思えないのである。

 ■今村均著『祖国愛』

 名越氏の著書は出典を明記している。その点だけは高く評価したい。

 次に、名越氏があげる今村均著『祖国愛』を調べてみた。

 今日では今村均という名前を知る人も少ないかもしれない。今村均(1886-1968)は、インドネシアを植民地支配していたオランダを短期間で打ち 破った名将である。彼はインドネシア人からも敬愛される仁恕の人であり、聖書と歎異抄を心の支えとした信仰の人でもあった。そして戦後は、オーストラリア やオランダによる軍事裁判で、自分を唯一の有責者として部下のすべてをかばおうとした責任の人であった(角田房子『責任・ラバウルの将軍今村均』新潮 社)。

今村均将軍について:
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog045.html
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog046.html

 『祖国愛』は、戦後の日本をおおう、日本を侮蔑する左翼的マスコミ論調に抗して、祖国を愛することの大切さを説いた本であるが、その中で【アインシュタ インの言葉】が引用されている。この本には、昭和31年=1956年の日本文化協会版と、昭和42年=1967年の甲陽書房版の2種類がある。両版の間に は若干の相違があるが、アインシュタインに関する記述はほぼ同一である。そこで今村氏はこう書いている。

《大科学者であり、ユダヤ人であり、そして世界は一国であるべきことを理想としたアインシュタイン博士は、今より34年前〔四十余年前〕の大正11年、そ の43歳の頃、我が"改造"雑誌社〔わが雑誌「改造」社〕の招聘に応じ〔て〕、夫人同伴〔で〕、日本にやつてこ〔来〕られ、仔細に観察をと〔遂〕げたの ち、次の声明を発表し"改造"〔「改造」〕及び多くの新聞が、それを記載した。
 【引用・アインシュタインの言葉】
 かく云〔い〕つた博士は――原子力の爆弾原動力としての可能を、米大統領に答えた一人であり、臨終の時は、大きくこれを懺悔して逝つたものだが――第二次大戦終了後、同博士を訪ねた稲垣守克氏が、
 「独裁制の国家を交えても、世界政府を建立することは、可能のものでしようか〔?〕」
と質問したのに対し、
 「われわれは、科学によつて原子力の秘密までを、発見し得たではないか。社会原子力とも云〔い〕うべきものもある筈だ。大いに頭をしぼりなさい」
かように答えたそうである。》

★出典:今村均『祖国愛』(日本文化協会、昭和31年)、89-92頁。漢数字はアラビア数字に直してある。なお、甲陽書房版(39-40頁)では、文言 が変更されている部分があったので、それは〔 〕に示した。促音の「つ」は、甲陽書房版では「っ」と現代語的に表記されている。また、引用されている【ア インシュタインの言葉】も両版では、文言の上では若干の違いがあるが、内容的に重大な相違はない。

 今村氏が、「〔アインシュタインが大正11年に〕次の声明を発表し"改造"及び多くの新聞が、それを記載した」と書いているのは、事実無根である。雑誌 『改造』が掲載し、有名になったのは、前稿でもその一部を紹介した、来日2週間目に雑誌『改造』のために書かされた「日本における私の印象」というエッセ イであるが、この中には、天皇や日本の国体に対する言及はない。

 もし日本の国体を賛美する【アインシュタインの言葉】が当時、『改造』や「多くの新聞」に広く「記載」されたのであれば、当然すぐに見つかるはずである が、これまでのところ、そういうものはどこにも見つかっていないのである。

 今村氏が引用している【アインシュタインの言葉】はフル・ヴァージョンではない。[9,10,11]が欠けている。

 今村氏が不完全ヴァージョンを掲載したのは、参照元がもともと不完全ヴァージョンだったのか、それとも氏が[9,10,11]を不必要として引用しな かったのか、それは、今村氏が出典を書いていないので、判断できない。しかし、もし参照文献にそれがあれば、今村氏の著書の趣旨からして、氏がそれをわざ わざ省くとは想像できない。おそらく、参照元にも[9,10,11]がなかったのだろう。

 また、今村氏の引用が、参照文献の文章と同じなのか、幾分か文言が変更されているのかも判定のしようがないが、後述するように、今村氏は引用の正確性を 期する人ではないので、おそらく若干違っているものと思われる(そのことは、昭和31年版と昭和42年版で【言葉】の文言が違っているところにも見えてい る)。

 『祖国愛』は1956年に出版された。アインシュタインは前年の1955年に死去している。今村氏がこの本を執筆していたころは、アインシュタインに関 する記事が新聞・雑誌にあふれていただろう。今村氏はその中の一つに、【アインシュタインの言葉】を見つけたものと推測される。そして、その中では、「こ の【言葉】は1922年のものであり、当時の新聞・雑誌で広く紹介された」、と語られて(騙られて)いたのであろう。しかし、学者ではない今村氏が、その 嘘を見抜けなかったことは、やむをえないことであったと思う(名のある学者でさえ、本ものと信じているのだから)。

 ■稲垣守克氏のアインシュタイン訪問

 今村氏が『祖国愛』で言及している稲垣守克氏は、前稿でも紹介した、1922年にアインシュタインの通訳をし、戦後は「世界連邦建設同盟」を設立した例の「ガキ」である。

 稲垣氏が戦後最初にプリンストンのアインシュタインを訪問したのは、昭和24年=1949年11月である。稲垣氏はこのあとさらに2回アインシュタイン に会っているという(金子務著『アインシュタイン・ショック(2)』河出書房新社、251頁)。1949年の訪問記は、『東京毎日新聞』昭和24年12月 4日朝刊の「アインシュタイン博士を訪ねて」として発表された。

 今村氏がオランダの軍事裁判で無罪の判決を受け、日本に最初に帰国したのは昭和25年=1950年1月22日である。彼は、わずか1ヶ月、巣鴨戦犯刑務 所にいただけで、あえて志願してマヌス島のオーストラリアの戦犯収容所に入った(日本を離れたのは同年2月21日)。マヌス島から解放されて日本に帰国し たのは1953年である(今村氏に関する以上の情報は、角田氏の前掲書による)。今村氏は、1950年1月~2月の巣鴨暮らしのころには、稲垣氏のアイン シュタイン訪問については知りえなかっただろう。

 今村氏の稲垣氏に関する記述の情報源は、1955年のアインシュタインの死去に際して、『毎日新聞』4月20日朝刊に掲載された稲垣氏の追悼文「アイン シュタイン博士の言葉」である。稲垣氏のオリジナルの文章は、今村氏の引用とは違うので、ここにあげておこう。

「博士と会うごとに、話の中心は世界政府論である。私は独裁制の国家を変えての世界連邦が可能であるかという点についてその考をただした。先生は『我々自 然科学者は、遂に原子力の秘密をとらえたではないか。社会科学においても社会原子力とでもいうものがあるはずだ。大いに頭をしぼれば、そこに必ず解決の道 はあるであろう』と、大いに激励してくれた。」(金子氏前掲書、273頁)

 稲垣氏は、「独裁制の国家を変え」なければ世界連邦は実現しない、と考えているのに対し、今村氏は「独裁制の国家を交えて」と誤解している。

 『毎日新聞』の稲垣氏の文が、今村氏によって引用され、それが名越氏によって再引用されるにつれ、どのように変化しているかを確認していただきたい。こ こからも、「引用時の改変」こそ、【アインシュタインの言葉】の多様性の原因であることが推測できる。

 ■名越氏の典拠

 さて、今村氏が引用する【アインシュタインの言葉】と名越氏が引用する【アインシュタインの言葉】の間には、読者の皆さんもお気づきであろうが、看過で きない重大な相違がある。名越氏の参照元であるはずの今村氏の【言葉】が不完全ヴァージョンであるにもかかわらず、名越氏の【言葉】はフル・ヴァージョン である。[9,10,11]は明らかに名越氏によって付け加えられたものである。

 これはどういうことであろうか? 二つの可能性が考えられる。

(a)名越氏が[9,10,11]を創作して、付加した。
(b)名越氏の参照元は今村氏ではなく、別にあった。

 名越氏は、学者としての誠実性・正確性に問題があるとはいえ、(a)を行なうほどの「詩人」ではない。というのは、次項でも見るように、名越氏の『新世 紀の宝庫・日本』が書かれた1977年には、すでに[9,10,11]が存在していたことが、別の文献から明らかになるからである。

 今村氏の著書からは、【アインシュタインの言葉】の不完全ヴァージョンが、遅くとも1956年までには存在していたことがわかる。名越氏の著書が出版さ れた1977年には、もう相当広まっていたはずである。名越氏は別の文献に出ていたその【言葉】を、自分の著書に引用したのであろう。

 名越氏の本来の典拠が今村氏の著書でないことは、[9,10,11]以外の文の比較からも明らかになる。ここでは、漢字や句読点以外の、[8]に見られる、内容的にも重要な相違点を指摘しておこう。

【今村氏】この世界の盟主なるものは、武力ではなく、あらゆる国の歴史を超越した、最も古い、且つ貴い家柄の者でなくてはならない。
【名越氏】その世界の盟主は武力や金力でなく、あらゆる国の歴史を超越した最も古く、且つ、また尊い家柄でなければならぬ。

 名越氏では、今村氏には欠けている「金力」があり、今村氏の「貴い家柄の者」が「尊い家柄」になっている。また、今村氏がアインシュタイン来日時の年齢 を「43歳」と正しく記しているのに、名越氏は「42歳」とわざわざ間違えている。名越氏が今村氏の著書から使ったのは、稲垣氏に関する部分だけではな かったかと思われる。

 筆者の推理はこうである――名越氏の本来の典拠は『祖国愛』ではなく、別の文献であった。あるいは、その別の文献と『祖国愛』を混ぜ合わせたのである。 しかし、名越氏はその文献名をあげることを避けた。というのは、その文献は、学者が著書で言及するにははばかられるような、マイナーな文献であったからで ある。そこで氏は、今村均という偉大な軍人の著書のみを自分の典拠として引き合いに出し、今村均の権威で自分の引用に箔をつけようとしたのである。

 ■谷口雅春の『理想世界』

 1977年以前に[9,10,11]が存在していたことは、『理想世界』という雑誌に掲載された谷口雅春氏の論説から明らかになる。

 谷口雅春 (1893-1985)は当初、出口王仁三郎の大本教の信者であったが、そこから離脱し、「生長の家」という新たな宗教団体を創設した。出口が皇室への不 敬を理由に官憲の大弾圧を受けた(2回にわたる大本事件)のに対し、谷口は戦前・戦中は天皇信仰を強調し、日本の戦争遂行に積極的に協力した。戦後も天皇 信仰は揺るがず、「生長の家政治連盟」という組織を通じて、保守系の政治家と深く結びついていた。「生長の家」の特徴の一つはその旺盛な出版活動であり、 名越氏の『新世紀の宝庫・日本』の出版元である日本教文社は、そのために設立された出版社である。ただし今日では、「生長の家」とは直接関係のない、精神 世界系の書物も多数扱っている。

生長の家と谷口雅春氏について:
http://www.sni.or.jp/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%AE%B6

 『理想世界』は「生長の家」の機関誌の一つであるが、その昭和41年10月号に、谷口雅春氏は「日本への回帰(一)」という論説を書いている。

《相対性原理の発見者として世界的数学者であり、物理学者であるアインシュタイン博士は、世界連邦が実現し世界政府が樹立せられた場合、誰をその宗主に頂くかということについて、次のごとく述べているのである。
 【引用・アインシュタインの言葉】(天中会本部発行『天中』第1巻第1号26頁より)
 アインシュタイン博士は直観によって相対性原理も、日本国の実相も発見したのである。》

★出典:『理想世界』(日本教文社)昭和41年=1966年10月号、31頁。漢数字はアラビア数字に直してある。

 尊敬する教祖が書いたのだから、その宗教団体の信者はことごとくこの【言葉】を真実のものとして信じ込んだことだろう。しかも「生長の家」はかなり信者数の多い教団である。

 引用されている【アインシュタインの言葉】は不完全ヴァージョンで、[1]から[5]が欠け、[6]から[11]までである。[6]の冒頭の「なぜならば」は欠けており、「世界の未来は」から始まっている。

 1966年に書かれたこの論説にはすでに、名越氏が使っている[9,10,11]が存在している。したがって、名越氏が[9,10,11]を自分で創作 したのではないことが判明する。ただし、両者は、同じ日本教文社の印刷物に掲載されていて、両者の思想傾向が似ているとはいえ、名越氏が谷口氏の論説を利 用したとは思えない。というのは、両者の文言がかなり違うからである。

【谷口氏】幾度びも争いは; 人類は; 誠の平和; 歴史を抜き越えた
【名越氏】幾度も闘争が; 世界の人類は; 真の平和; 歴史を超越した

 相違はほかにも多数あるが、これ以上は必要ないであろう。

 このような文言の違いは、アインシュタインの原文があって、それを各人が翻訳する際に生じたものではない。先述したように、ドイツ語の原文はどこにも存 在しない。筆者の現在の仮説は、この【言葉】には「原初の創作」があり、それを多くの人々が引用・再引用・再々引用・・・するうちに――意図的か書き誤り かはさておき――様々の改変がほどこされ、現在のような文言に成長してきた、というものである。そのため、この【言葉】は引用者によって長さも文言もまち まちなのである。現在、巷に出回っている種々のヴァージョンは、そういう改変をへて出来上がったものであるので、「原初の創作」とはかなり違っているのか もしれない。

 谷口氏が参照したのは『天中』という雑誌である。この雑誌は国会図書館にも所蔵されていないが、筆者はインターネットの古書店で検索し、1冊だけ入手す ることができた(便利な世の中である)。それによると、この雑誌は河野利江なる人物が主幹の、右翼愛国主義的な団体の機関誌である。天中会本部は新潟市に あった。河野利江は歌人の会津八一(新潟出身)と親しい人物であったようだが、それ以上の詳しいことはわからない。天中会は現在ではおそらくもう消滅して いるものと思われる。

 谷口氏が参照元の雑誌の頁数まであげて、いかにも学術的な装いをこらしてみても、その雑誌が、海のものとも山のものともわからない団体の機関誌では、こ の【言葉】がアインシュタインのものであることの何の証拠にもならない。

 筆者が入手したのは昭和49年3月号で、第14巻と書かれている。これから逆算すると、『天中』第1巻第1号は昭和36年=1961年の発刊である。こ れは今村均著『祖国愛』よりも5年もあとであるから、そこに掲載された【アインシュタインの言葉】も、当然、河野氏の創作ではなく、別の文献からの引用に 違いない。『天中』に出典が明記されていれば、学術的正確さを好む谷口氏であるから、きっとそちらの典拠を書いたことだろう。それがないということは、 『天中』にも出典は書かれていなかったものと推測できる。

 ■世界連邦の盟主?

 谷口氏は、【アインシュタインの言葉】を1922年来日の文脈から切り離し、それを世界連邦の文脈に移し換える。これもまた新たな創作である。

 アインシュタインが最初に世界政府構想をいだいたのは、ナチスの台頭に強い危機感を覚えた1932年ころである。来日した1922年よりも10年もあと のことである。このころ彼は、「ナチスの暴力を抑えるためには軍事力を持つ世界政府の樹立による救済しかあり得ない、という考えに傾いていった」のである (金子氏前掲書、241頁)。ヒトラーが政権を取った1933年に、彼はアメリカに亡命した。

 アインシュタインは昭和9年=1934年の『改造』に「平和のために」という論文を寄稿している。その中で彼は、

「平和主義的努力に対する最大の危険は、軍人階級あるいは戦争に経済的な利害を持つ階級による敵対や圧迫にあるのではなく、大部分の平和主義者の、目標は XXによって達成され得るという幻想にあるのです」(金子氏前掲書、243頁)

と述べている。「XX」はドイツ語の原文でも伏せ字にされているということであるが、おそらくは「Entwaffnung(武力放棄)」であろう。軍備を 撤廃しさえすれば世界は平和になるという考えを、この当時のアインシュタインは「幻想」として退けている。

 広島・長崎以前のアインシュタインは、武力を肯定する戦う平和主義者であった――とくにナチスに対して。このことが、のちにルーズヴェルト大統領への原爆製造の進言につながるのである。

 改造社社長の山本実彦氏は、日米開戦の前年の昭和15年=1940年にプリンストンのアインシュタインを訪ねている。そのとき、アインシュタインは山本に、

「日本人は個人としては正直でもあるし、親切でもあるが、国家的に仕事をするときにはあまりにかけ離れたことをする、そのコントラストがひどすぎる、な ぜ、国として動くときそんなにも他の国々に嫌はれる様なことをせなくてはならぬか」(金子氏前掲書、246頁)

と語っている。ここには、満州事変以降の日本の対外侵略、国際連盟からの脱退、そしてナチス・ドイツとの同盟などに対する批判が感じられる。このようなア インシュタインが、日本が「世界の盟主」になることを期待するはずはない。前稿でも述べたように、アインシュタインが日本で感銘を受けたのは、美しい自然 と芸術、そしてやさしい国民性であり、天皇(大正天皇はお病気がちで、来日したアインシュタインは天皇に対して何の印象も持ちえなかった)でも国家として の日本でもなかった。

 「盟主」は、ドイツ語では「Fuehrer」か「Oberhaupt」であろう。「Fuehrer」とは、ヒトラーの称号「総統(フューラー)」と同じ 語である。アインシュタインがこんな語を使って日本を賞賛することは絶対にありえない。

 日本への原爆投下という悲劇に直面し、核兵器による人類滅亡の危機を憂慮した第二次世界大戦後に、彼はいっそう強く世界政府運動にのめり込むようになっ た。稲垣氏の世連運動はそれと連動している。だが、世界連邦と「世界の盟主」がどう両立するのであろうか? 連邦のトップに立つ者は「盟主」でも「宗主」 でもなく、「大統領」であろう。アインシュタインは、人類が世界の盟主を選出し戴くことが世界の問題の解決になるなどという、そんな単純なことを考えては いなかった。そんなことを考えていたのなら、稲垣氏の質問に、「大いに頭をしぼれば、そこに必ず解決の道はあるであろう」などとは答えず、「日本の天皇を 世界の盟主にする運動を起こしなさい」と答えたはずである。

 【アインシュタインの言葉】はアインシュタインの思想と矛盾するのである。

※アインシュタインの「世界政府」は必ずしも「世界連邦」と同じではなかった。この点については、金子氏の著書を参照されたい。

 ■大学で話した?

 前稿に対して読者から寄せられた反論の中に、「アインシュタインがこのような趣旨のことを○○大学での講演のときに話した」、というものがあった。これも伝説でしかない。

 日本でのアインシュタインの講義をまとめたものとしては、石原純著『アインシュタイン講演録』(東京図書株式会社、1971年)がある。石原氏は、 1913年にチューリッヒ工科大学時代のアインシュタインのもとで学んだ物理学者で、アインシュタインの友人であった。この講演録によれば、アインシュタ インが日本で講義したのは、もっぱら相対性理論についてであって、日本文化論や日本国体論ではない。アインシュタインは物理学者として日本に招待されたの だから、当たり前のことである。話のついでに日本を賛美するような内容を一言でも漏らしていれば、当時、彼の講義を聴いた数多くの大学教授、学生、知識人 の記憶にとどまったはずであるが、そういう記録はどこにも存在しない。何よりも、アインシュタインを学者としても人間としても心から尊敬し、日本でのアイ ンシュタインの講義をすべて聴き、彼に捧げる詩まで作っている石原氏(氏は詩人であり歌人であった)が、そういうことにいっさい触れていない。

 また、「いろいろなところで話したことをまとめたものだ」という意見もあった。だが、諸処で話した内容を、アインシュタインの承諾なしに、彼の思想と一 致しない形でつなげたのであれば、それは「捏造」以外の何ものでもない。

 この【言葉】が真実であることを証明したい方は、それが掲載されている信頼に足る資料を提示しさえすればよい。しかし、そういうものはこれまで見つかっていないし、これからも見つからないであろう。

 以上、この「Part 2」においても、【アインシュタインの言葉】は、

(1)どこにも確固たる典拠がない。
(2)内容がアインシュタインの思想と矛盾する。

ということを再確認した。この【言葉】が虚構であることは明白である。だが、虚構がいったん真実として広まると、それを正すにはなかなか時間がかかるようである。

 最後に、ある読者の方からいただいたメールを転載させていただこう。

*******引用開始*******
実は数年前からこの言葉の真偽について、アインシュタイン研究の大家である金子務先生にお聞きしてみたいと思いながらそのままになっていました。
そんな折りに中澤先生の論文を読ませていただき、やはり他人の創作だったかと思った次第です。これで一件落着したのですが、もし金子先生からも何か一言い ただければ決定的だと考え直して、中澤先生の論文コピーを添付して金子先生にお伺いしました。

金子先生からいただいたご返事の一部を抜粋してお送り致します。

「お手紙の一文ですが、おっしゃるようにまったく信用できません。十年前にも二、三の方から質問いただき、その際出典元が伊勢神宮の◯◯とか言っていたのを覚えております。」
*******引用終わり*******

 金子氏がこの情報を聞いたのは今から「十年前」というごく最近のことなので、筆者は、「伊勢神宮の◯◯」も原初の創作者であるかどうかはわからないと 思っている(なお「伊勢神宮の○○」は、いただいたメールでこのようになっていたもので、筆者が伏せ字にしたものではない)。

 本稿で言及したのは、読者の皆さまからの情報提供による文献である。ほかにももっと多くの文献がこの【言葉】を掲載しているに違いない。

 筆者の探究は現在のところ、1956年までしかさかのぼれていない。しかし、この【言葉】の背後には、明治以降のきわめて興味深い日本精神史の問題が潜 んでいることも見えてきた。それ以前の文献を見つけ、「Part 3」を書きたいと思っているが、読者のご協力をお願いしたい。

※この稿の執筆中に、ある大学関係者からメールをいただいた。その方は、「アインシュタイン奇跡の年」100周年である今年、その大学で開催する予定のア インシュタイン展のスタッフの一員なのであるが、【アインシュタインの予言】が本ものであるかどうか、確認する必要があったようだ。拙稿によってその方の 手間を省くことができ、【予言】のようなイカサマが展示に紛れ込まなくてよかったと思っている。

 中澤先生にメール mailto:naka@boz.c.u-tokyo.ac.jp
2005年06月25日(土) 萬晩報主宰 伴 武澄
 長野県南相木村の色平さんから「長野県木曽郡で直接民主主義実現へ」という刺激的なメールをもらった。23日の王滝村の村議会で「議員定数削減」と「村民総会設置」の二つの条例案が提出されたという。

 市町村合併で100人を超える議員を抱えるようになった自治体がいくつも出現した。そんな矛盾に真っ向から問題提起した王滝村の人々の勇気に拍手を送りたい。

 以前の萬晩報に書いたこともあると思うが、日本のマスコミの限界はこうした小さくもきらりと光るニュースが県境を越えないところにある。

 総会設置条例案は、町村議会を置かずに、有権者の『総会』を設けることができるとした地方自治法94条の規定に基づく。信濃毎日新聞によると「条例案は、村民総会は18歳以上の全村民を構成員とし、定例会を年1回開催、半数以上を定足数とし、報酬は支給しない」。

 まず日本の地方自治法にそんな規定があったことに新鮮な驚きがあった。六法全書を取り出して地方自治法を読んでみるとあるある。「町村は議会を置かず、選挙権を有する者の総会を設けることができる」のだ。

 過去に住民総会を設けた村はあるそうだが、もちろん現在はない。そもそも小さく貧しい村で「生業としての議員」が必要なのか疑問だ。人件費だけの問題ではない。選挙にだってお金がかかる。小さな共同体で行政と議会という二つの機能が不可欠とは思えない。

 王滝村は平成の市町村合併で近隣町村と合併できず、村営スキー場関連の多額債務を抱えて財政再建団体への転落も予想される状況なのだそうだ。村議会の今 回の提案は、「定数を削減せず、チェック機能も果たしていない」として、住民グループが村議会解散を請求していることに対する危機感の表れでもある。

 民主主義における議会はもともと、イングランド王へのチェック機能からスタートした。その後、法律や条令を提案する機能を付加された。議会が本来の機能を果たしていないという住民の不満はなにも日本だけのものではないと思う。

 平成十三年十一月二十七日の衆院総務委員会でおもしろいやりとりがあった。
http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/
009415320011127012.htm

 社会民主党の重野安正氏が市町村合併に関して直接民主主義と間接民主主義の問題に対して片山虎之助総務大臣に質問しているので参考にしてほしい。

 どうやら「住民総会」は明治憲法下で多くあったため、戦後の地方自治体にも残さざるを得なかった制度だったらしい。

 この総務委員会のやりとりの最後に片山大臣はおもしろいことを言っている。「ITがずっと進みまして、インターネット、オンライン時代になるんですよ。 そういうことになるときに、市町村の住民の意思を直接聞いてみよう、そういう制度ができれば、町村総会は形を変えて生まれ変わってくる、私はこう思いま す」。

 戦後、日本は間接民主主義を旨としてきたが、本来、民主主義は直接住民の意思を問うところからスタートした。平成の市町村合併では多くの自治体が「レファレンダム(住民投票)」を行った。これはまさしく住民総会の「変形」いな「原型」なのである。

 ■衆院総務委員会のやりとり

○川崎委員長代理 次に、重野安正君。
○重野委員 私は、社会民主党を代表しまして、ただいま議題となっております地方自治法等の一部を改正する法律案について、特に市町村合併と直接民主主義の問題を中心に質問をいたします。
 まず、憲法との関係について質問をいたします。
 明治憲法と異なりまして、憲法第八章において地方自治の章が設けられたことは、戦後民主化の象徴と考えます。その九十二条では「地方自治の本旨に基い て、法律でこれを定める。」とありますように、憲法は、地方自治の本旨について、自明のものとして定義づけてはおりません。要するに、団体自治と住民自 治、これが憲法に言う自明の理としての地方自治の本旨の内容、このようにされているところであります。
 そこで聞きますが、この地方自治の本旨としての住民自治と、憲法九十三条の、長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、住民がこれを直接選挙 するとの規定は、どのような関係に立つのでしょうか。つまり、九十三条の規定からしますと、住民自治とは間接民主主義であり、直接民主主義は含まれないと 考えるのか、大臣の見解をお伺いします。
○片山国務大臣 基本的には、地方自治は住民自治と団体自治がある。住民自治は、何度も言いますように、長、議員は住民が直接選ぶという間接民主主義で、 住民が物事を決めるということですね。団体自治というのは、国と独立した団体をつくって、その機関で、機関は議決機関と執行機関がありますけれども、議決 機関で決めたものを執行機関がやれる、国とは独立して。
 そこで、議員の選挙という九十三条ですか、この規定は、私は、住民自治の中身を書き、かつ団体自治の中の議決機関を規定している、こういう規定だと思います。
○重野委員 間接民主主義も直接民主主義も、住民自治にとってどちらも重要な構成要素である、そのように今の大臣の答弁を聞きますと受け取ることができま す。また、当然そうであろうと考えますが、その意味で、両者の間には理論上の優劣というものはないというふうに思いますが、それでいいんでしょうか。
○片山国務大臣 理屈上の優劣はないんでしょうけれども、我が国憲法は間接民主主義を、今の規定によって、九十二条、九十三条によって書いているわけです ね。長とその他の吏員及び議会は住民の直接選挙で選ぶ、これが意思決定の議決機関であり執行機関だと明定していることは、私は、間接民主主義が基本で、あ くまでも直接民主主義が補完である、こういうふうに思います。
○重野委員 いわゆる九十三条の規定に基づく間接民主主義に対し、直接民主主義はどのような制度関係にあるとお考えでしょうか。
○芳山政府参考人 ただいま大臣がお答えいたしましたように、憲法八章の規定は、住民から直接選挙で選ばれた長と議員で構成される議会とが当該地方団体の意思決定及びその運営に当たるという意味で、いわゆる間接民主制を基本にしているというぐあいに考えます。
 その上で、地方自治の究極の責任は住民自体に帰するという基本的な考え方をより実効あるものにするために、間接民主制を補完する意味で、住民が直接行政 に参画するための直接民主制的な制度として、議会の解散請求、また解職請求等々の直接請求制度等が設けられたというぐあいに理解をしております。
○重野委員 今の局長の答弁を私なりに理解をしますと、両者には法理論上の優劣はない、制度的には直接民主主義は間接民主主義を補完するものということになりますが、そういう理解でいいのかどうか。
 それからもう一つは、地方自治法九十四条に定める町村総会について、総務大臣のお考えをお聞かせください。
○芳山政府参考人 地方自治法は代表民主制を原則として採用しているというぐあいに思いますが、今御指摘がありました町村総会でございますけれども、非常 に人口が少なく、社会的構成も比較的単純で、その住民全体が一堂に会して議論ができるというような団体については、例外的に、議会を置くまでもなく、条例 でその意思決定機関として、選挙権を有する者の総員によりまして構成される会議体である町村総会を置くことができるという規定があります。
 現行の町村総会でございますけれども、地方自治法の制定のときに、地方自治法の前身であります戦前の町村制において採用されていた制度を、一部修正の上、設けることができることとされたところであります。
 なお、事例としまして申し上げますと、町村制が施行されていた当時は、神奈川県の足柄下郡芦之 湯村、現在の箱根町の一部でありますが、町村総会が設けられていたということでございますけれども、二十二年四月に議会が設置をされました。また、地方自 治法施行後でございますけれども、東京都八丈支庁管内宇津木村、人口六十一人、有権者数三十人ぐらいですけれども、そこに設けられておりましたが、町村合 併によりまして八丈町の一部とされております。
 現在、町村総会は設けられていないという状況でございます。
○重野委員 今、例外的という言葉があったんですが、地方自治法九十四条に明確に書かれていることが例外的というふうな形で表現されるというのは、ちょっとおかしいんじゃないですか。
○芳山政府参考人 町村総会の規定の仕方でございますけれども、自治法で議会を設置するということでありますが、町村総会においては、議会を設置しないで 全員でもって構成することができるという規定になっていますので、基本に対する例外ということで使わせていただきました。
○重野委員 次に進みますが、現行地方自治法九十四条では、「議会を置かず、選挙権を有する者の総会を設けることができる。」このように書かれているわけ です。つまり、議会に取ってかわって町村総会を設け、議決機関とすることができることが保障されている。これは、先ほどからの答弁に言う間接民主主義の補 完というふうな受けとめになるんでしょうか。私は、これはまさしく直接民主主義そのものではないかというふうに理解をするんですが、大臣の見解をお聞かせ ください。
○片山国務大臣 まさにこの町村総会は直接民主主義なんですよ。これは、明治二十二年にできた町村制、あそこに規定があるんですよ。明治の町村制ができた ときは町村が七万一千あったんです。だから、恐らくいろいろな小さな町村があったと私は思いますね。そこで、町村制は、特別の事情があって知事が認めた ら、町村議会にかえて町村の総会でもいいよと。その規定がずっと戦後まで来まして、自治法をつくるときに残したんですね。だから、そういう意味では、歴史 的な遺物と言っちゃいけませんが、歴史的な制度をそのまま残したんですね。しかし、それは自治法制定の、そのときの考えですから、今、例えば六十人だと か、神奈川県が何人だったか知りませんが、恐らくそのぐらいの単位の話なんです。
 だから、あくまでも例外としてあって、しかも市制町村制のそのままの仕組みを残した、こういうことでございますので、私は、いい悪いじゃなくて、そういう経過があると。これこそ、まさにある意味では直接民主主義ですね。それはそういうふうに思っております。
○重野委員 大臣も局長も例外的という言葉を再三使われますが、この町村総会の経緯をずっとたどっていきますと、例えば、私が見た資料の中で、昭 和二十二年三月二十五日、第九十二回帝国議会、この議会の中で、地方自治法案の審議録を取り出して読んでみますと、当時の政府委員でありました内務事務官 の林敬三さんという方の国会の答弁は、「此の町村の中の組織の問題と云ふものが矢張り町村民の自主性を貴んで、其の點特に町村會を設けずに、自分の村は小 さいから總會で行きたいと云ふ所があれば、其の自主性を尊んでやつて宜いのではないか、斯う云ふ風に考へまして此の規定を此處に存置して、」「さう云ふこ とを認める」、こういうふうに議事録に載っております。
 この答弁からしましても、町村総会は、制度上間接民主主義の補完ではない、まさしくこの直接民主主義というものに対する評価というか、積極的な、そういう思いというものが読み取れるのではないかと私は理解をするんですが、どうですか。
○片山国務大臣 いや、それはもちろんそういうことなんですよ。間接制民主主義が全部正しくて、直接制民主主義はおかしいということはないんです。私は同じだと思っている。
 ただ、今のいろいろな、市町村の規模等を考えると、直接制民主主義はなじまないだろうと。何千人、何万人が集まって、総会をやって細かいことを決めてい くということはなかなかできないので間接制民主主義を憲法が書いているわけですから、憲法が書いていないからといって、それではこの町村総会の規定が違憲 かといったら、そんなことはありませんね。憲法に根拠はありませんよ。しかし、これは地方自治の本旨で読めるんですよ。ただ、憲法は間接制民主主義だと。
 だから、そういう意味では補完だと私は思うんですけれども、しかし、町村の中で希望して、うちは全員集まってやる、どういう場所でどういうふうにやるの か知りませんよ、何千人も何万人も集まってやると。やれるのなら、その市町村がそういうことをお選びになるのなら、それはそれで制度としては認められてい る、こういうことだと私は思います。
○重野委員 では、ちょっと角度を変えて、今行政改革大綱をめぐっていろいろな角度から議論がされておりますが、その中で、与党は市町村を一千程度にまと める、内閣はこの方針に基づいて行革大綱をつくる。そうなりますと、二〇〇五年以降には現在の市町村の数は約三分の一になる。そうなると、ほとんどの町村 は、合併によって新しい市をつくるか、あるいは中核的な市に吸収されることになるわけで、要するに、合併によって一自治体の人口が現在よりふえることは間 違いないでしょう。
 そうなりますと、この九十四条というのはどうなるんだろう。現実にこれを採用し得る自治体があるかないかという問題ではなく、法理論上、現に地方自治法に規定されている九十四条に基づく町村総会は、条文上全く意味のないものになるのではないかと思います。
 憲法に定める地方自治の本旨の構成要素が一つの特例法によって空文化する、そういうことが許されるのかという理屈も成り立つのではないか、このように思うんですが、いかがですか。
○片山国務大臣 重野委員、千にはなかなか大変ですね。これはあくまでも目標で、できるだけそれを目指してこれから三カ年努力していくということだと思い ますけれども、仮に合併が我々が思うように進んだ場合に、それじゃ自治法九十四条の町村総会ができるかというと、今ですら町村総会を選択している町村はな いわけですから、今度の合併によって私はもっとなくなると思いますね。そういう意味では、制度としてはあるけれども実際は使われない、そういうことになる と私は思いますね。しかし、町村総会という制度というものを残す意味は私はあると思います。
○重野委員 地方自治法上、町村総会は残す、一方では、この規定はどんどん空文化していくという現実がある。そういう、町村合併、大きくしていこうという 国の意思があるわけですね。何か私は理屈の上で大きな矛盾を感じるんです。そうであれば、この町村総会の規定というものをすぱっとなくしていけば、もうそ ういう悩ましいことを考えることはないんですが、大臣、そんなことはお考えになりませんか。
○片山国務大臣 それは、重野委員、町村制のときだってほとんどなかったんですよ。神奈川県で一つでしょう。それから、地方自治法のときに八丈村ですか、 何かでございますから、もともとこの制度を使うというところはなかったと思います。しかし、それは、落とすか落とさないかは立法政策の判断で、最終的には 国会がお決めになることですけれども、今、我々としては、総務省としては、この規定を削除するということは考えておりません。
○重野委員 現実問題として、町村総会を採用する可能性のある町村があるかないかというと、それはもうわかっておるんですね。それはもう百も承知するわけ です。しかし、市町村数を合併によって再編するという政府、内閣の目的があります。憲法九十二条に基づく地方自治法の個別条文が実体的に意味のないものと されることが、これは許されることなのかという思いがあるんですね。
 しかも、一九八九年十二月の第二十二次地方制度調査会の答申、大臣も知っていると思うんですが、このときの答申では「小規模町村がその判断により、町村 総会の制度の活用を図ることができるよう、検討する。」こういうふうに制度調査会は書いているわけですね。そういう経過について、大臣はどのように受けと めるんですか。
○片山国務大臣 それぞれそのときのいろいろな状況に基づく判断があると思いますし、私は、重野委員の思いは十分わかります。
 だから、これは私個人の考えですけれども、ITがずっと進みまして、インターネット、オンライン時代になるんですよ。そういうことになるときに、市町村の住民の意思を直接聞いてみよう、そういう制度ができれば、町村総会は形を変えて生まれ変わってくる、私はこう思いますけれども、最終的には、何度も言いますけれども、国会の御判断、立法府の御判断なんです。ただ、この制度はもう長い、町村制からの制度ですから、これをどこも使っていないからといって今回積極的に削除するという、私はその必要はないんではないかと思っております。
○重野委員 私は、これをなくせばいいというふうな理解で言っているわけじゃないんですね。いわゆる住民と為政者との距離がより近い、近くあるべきだとい うことを象徴的にこのことは言っているんじゃないか。だから、政府もそうそう簡単に、もう時代に合わないからこれはというふうには言わないだろうと。問題 は、この条文が言わんとしていること、これをどう受けとめて実行するかということが問われている、こういうふうに私は思うんです。
 結局、そういうものがありながら、地方財政は非常に厳しくなってきている、このもとで自治体の行財政運営の効率化ということが非常に強く強調されて推進 されていく、そのためには平成の市町村合併だ、こういうふうになるわけですね。内閣の本音も、私はそこに尽きるんだろうと思いますが、しかし、今私が申し ましたように、この法理論上の自己矛盾こそが、私は、地方自治の本旨というものを曲げないあかしになるのではないか。そういう意味では、整合性を欠くけれ ども、これが言わんとしているこのことはやはり積極的に受けとめていかなきゃならぬ、そういう思いを持つんですが、大臣の見解をお聞かせください。
○片山国務大臣 スイスが地方自治や民主主義の大変進んだ国だ、コンミューンというのがあって、そこはどうも全員参加で、まさに町村総会みたいで物を決めていくということを我々も教わりましたよね。だから、これが一つの理想であるということは事実ですけれども、しかし、それは、現在のような状況の中で町村総会という形で町村議会のかわりができるかというとなかなか難しい、こういうことではないかと思いますね。
 ただ、先ほども言いましたが、将来、世の中がずっと変わってきますから、おかげさまで電子投票のトライアルの法案も参議院で御審議を賜るようになりまし た。トライアルでございますけれども、ずっと将来は、そういうことで、形の変わった直接民主主義が、また地方自治制度の中に導入していくべきだということ になるかもしれないと思います。そういう意味では、この規定は大切に残しておきたいと思っております。
○重野委員 また、先ほど言いました一九八九年の二十二次地方制度調査会、この答申の中にこういうことも書かれております。「小規模町村の実情及び事務事 業の性格に応じ、広域市町村圏の中心都市等又は都道府県のいずれかが、事務を補完・代行することができるよう新たな仕組みを検討する。」「事務配分の特例 についても、今後、検討する。」
 このことは、地方分権を市町村中心にさらに進める上でも検討しなければならない重要な課題ではないのか。合併によるいたずらな規模拡大よりも、規模に応 じた事務の再配分、そしてこれと都道府県による補完、代行、そういうありようこそが分権にふさわしいのではないかという私の思いもありますが、そこら辺、 大臣はどのように考えていますか。
○片山国務大臣 何度も答弁させていただきましたように、私は、二十一世紀は地方の時代であり、それは住民に身近な市町村の時代だと考えております。
 そこで、委員が言われました、人口規模による差をつけろ、これは今もうかなりできているんですね。政令市、中核市でしょう、特例市、普通の市、町村、こういうふうになっていまして、現に過疎山村では都道府県代行で道路や下水道を代行しているんですね。
 そういう意味では、そういうことがかなり進んできておると思いますけれども、まあ二十一世紀に入りましたので、今の都道府県、市町村という二層制を含め て、全体のこの制度をもう少し勉強してみる、研究してみる必要があるのではないかということで、せんだって総務省の中に研究会をつくらせていただきました ので、委員のいろいろな思いやお考えも体しながら研究会でいろいろ勉強させていただきたい、こういうふうに思っております。
○重野委員 時間も来たようですので終わりますが、きょうは、住民自治における直接民主主義と間接民主主義の問題を町村総会の規定に基づきながら質問させていただきました。
 必ずしも大臣の答弁、うん、なるほどそうだとすべて言えない部分もたくさんあります。そこで、次の機会があれば、間接民主主義と今回の市町村合併にかかわる手続問題を中心に、また大臣の話を聞きたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
 以上で終わります。
2005年06月23日(木) 萬晩報通信員 成田 好三
  8月に行われるヘルシンキ世界陸上の選手選考で、日本陸連がまたも醜態をさらした。高橋尚子が落選したアテネ五輪・女子マラソンの選手選考では、曖昧な選 考基準が批判されたが、今回は自ら設定した選考基準を無視して派遣選手を、いったんは決定した。落選した選手側からの抗議を拒否する態度を取っていたもの の、新聞などメディアから選考基準と選考結果の矛盾点を指摘されると、当初の決定を取り消し、新たな選考基準を設けて選考をやり直すという、ドタバタ劇を 演じている。

 陸連のドタバタ劇のきっかけとなった、当初の選考を簡単に説明するとこうなる。陸連が昨年10月に公表した選考基準では、世界陸上の参加標準記録A(A 標準)を突破し日本選手権に入賞した選手を、B標準突破で日本選手権優勝の選手より優先して選考するとしていた。しかも「同一種目ではこの優先順位は覆ら ない」とまで明記している。

 しかし、男子10000メートルでは、A標準突破し日本選手権2位の大森輝和選手(くろしお通信)を選ばず、B標準突破で日本選手権優勝の三津谷祐(ト ヨタ自動車九州)を選考した。陸連は当初の選考に関して、「日本選手権を重視した」と説明しているが、選考基準にはそうした文言は一切書かれていない。

 実際の選考が、選考基準に従って行われないならば、世界陸上を目指す選手(監督、コーチ)は何を目標に設定していいか分からなくなる。陸連の当初の選考 は、理不尽この上ない話である。しかし何故、陸連はこうした理不尽な選考を行ったのか。その背景には、陸連だけでなく日本の競技団体がもつ、時代遅れで間 違った「共通認識」がある。

 競技団体やそこに属する幹部は、アスリート(競技者)に対して絶対的な権力をもち、アスリートは彼らの恣意的な決定に対しても絶対的に従わなければなら ない「下僕」であるという考え方である。つまり、競技団体や幹部は指導者、教育者であり、まだしっかりとした考え方が身に付いていない、未熟者であるアス リートを正しい道に導くべき存在である、というものである。戦前の軍国主義教育の時代から続くこの考え方はいまも、スポーツ界に根強く残っている。

 しかし、現実のスポーツは彼らの時代錯誤の考え方とはまったく逆のものになった。スポーツの「主役」は競技するアスリートである。そして、アスリートの パフォーマンスを楽しむファンである。競技団体やその幹部は、アスリートを支え、アスリートとファンの仲立ちをする「サポーター」である。

 この関係性は、ドイツW出場を決めたサッカー日本代表に端的に表れている。日本代表が強くなれば、多くのファンを引き付ける。そうなると多くの資金を提 供するスポンサーが出現する。競技団体である日本サッカー協会にはより潤沢な資金が集まる。その資金を日本代表の強化につぎ込めば、日本代表はさらに強く なって、もっと多くのファンを呼び寄せ、さらに多くの資金をスポンサーから集めることができる。

 こうして「拡大再生産」された資金は、Jリーグなど国内サッカーの強化と、次の若い世代への普及にも使われる。日本代表によって獲得されたファンは、J リーグのファン層を広げていく。現代スポーツは、こうした循環関係の成立によって維持、発展していくものである。

 極論すると、競技団体やその幹部こそ、彼らの考え方とは逆に、アスリートとファンの「下僕」なのである。

 陸連は、アスリートとファン、そして両者を仲立ちする競技団体という関係性をまったく理解していない。昔ながらの「上意下達」の精神が支配する世界である。逆に言えば、そうでなければ自ら設けたルールを自ら破って恥ないということなどあり得ない。

 今年の日本選手権は6月2日から4日間、東京・国立競技場で行われた。スタンドは空席が目立つどころではない。ほとんど観客が入っていない。アテネ五輪 ハンマー投げ金メダルの室伏広治、100・200メートルで9秒台、19秒台を狙う末続慎吾、エドモントン世界陸上銅メダルの400メートルハードル・為 末大、女子マラソンでは、高橋、アテネ五輪金メダルの野口みずき――といった「スター」の存在を、陸連はまったく生かしていない。

 陸連は、まともな選手選考ができないだけではない。陸上競技をマネージメントすることもできない。できないならば、優れたマネージメント能力をもつ専門家、専門集団に大会運営を任せればいいのだが、それもしない。旧態依然たる大会運営を続けている。

室伏や高橋、末続などのスター集団を擁する競技団体に資金が集まらず、国内最高峰の大会である日本選手権に観客が来ないという実態は、陸連と陸連関幹部の 無能力と職務怠慢の結果に他ならない。時代錯誤の陸連幹部は即刻総退陣し、現代のスポーツのあり方を理解できる次の世代に権限を渡すべきであ る。(2005年6月20日記)

 成田さんにメールは mailto:yo_narita@ybb.ne.jp
 スポーツコラム・オフサイド http://blogs.yahoo.co.jp/columnoffside
2005年06月20日(月)ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口 坦
 「その長さは少なくと16センチメートルに達していなければいけない。昔はは17センチだったのに、、」と誰かがいうと皆が爆笑した。何が話題にされていたかというとコンドームの長さの欧州基準である。

 昔ドイツ人が欧州統合に対する不満を表現しようとすると、バナナの曲がり具合まで欧州共同体が決めることを嘆くのが定番だった。私はバナナからコンドームに移ったことを知る。数日前妻の高校時代の同級生10人近くが我が家に集まってワインを飲んでいたときのことだ。

 ■反対することはタブー

 欧州統合が話題になったのは、欧州憲法の批准がフランス、つづいてオランダの国民投票で否決されたからである。今までドイツ、イタリア、ベルギー、オー ストリアなど、全加盟国の半分が(スペインをのぞいて)国民投票でなく議会だけで批准をすませた。欧州連合では昔から加盟国が全員賛成しないと決議が成立 しないことになっている。昔デンマークがマーストリヒト条約を、4年前アイルランドがニース条約を、それぞれ国民投票で否決したが、一年後に投票を繰り返 して批准に成功した。

 ところが、今回はそのようなかたちではすすめることができない。フランスもオランダも欧州では欧州統合の最初からの参加国で、また推進国と見なされてき た。そのような加盟国の国民の反対は欧州統合の根幹にふれる。また反対がそれぞれ55%と62%で、これは僅差といえない。

 国民投票が予定されている国々(例えばデンマークやポーランド)では、これまでは世論調査で批准賛成者が多数だった。ところが、フランスとオランダが国 民投票の結果が出てから反対が多数になった。こうなったのは、加盟国の国民にとって欧州統合に反対するのに勇気が必要であり、反対する他国民を見てその勇 気が生まれたことをしめす。そうであるのは反対することがタブーで、現在多くの加盟国でこのタブーが小さくなりつつあることになる。

 反対がタブーであるのは欧州統合がどこでも大義名分で国是になっているからだ。野党は自分の存在価値をしめすために少々文句をつけるが、表立って反対し ない。あまりすると、政権担当能力を疑われる。メディアも「大政翼賛会」的になり批判者を極右扱いする傾向があった。このような状態では、国民は今まで政 府が外国と合意したことを「既成事実」として承認するだけだった。人々がバナナかコンドームかを挙げて自嘲するしかなかったのは自分たちが蚊帳の外に置か れていることを承知していたからである。

 欧州の政治家は、自国民が反対できない非民主的な方式に慣れてしまっている。だからこそ、彼らは今回のフランスとオランダの国民投票の結果に狼狽を隠す ことができない。次に彼らが一番おそれるのは、今後他の加盟国が国民投票で批准を否決していくうちに人々が欧州憲法に反対するだけでなく、欧州統合という 大義名分が崩れ、それに反対することがタブーでなくなることである。

 そこで、一年ぐらい欧州憲法批准を中止してようすを見るこにする。ほとぼりが冷めたところで、批准を続行するか、それとも欧州憲法を受け入れやすいものに変えるかどうか決めるということなりそうである。

 ■憲法と条約の相違

 欧州連合(EU)は加盟国の国民から見たら本当に遠い存在であり、この超国家的機関の中では民主主義が機能しにくいといわれる。普通の国家では、選挙で 選ばれた政治家が(、行政府の役人の協力を得ることがあっても、)立法を担当している。ところが統合欧州ではそうなっていない。

 バナナの曲がり具合やコンドームの長さの基準からはじまったさまざまな欧州ガイドラインなどの法案を作成しているのは欧州委員会(ブリュッセル)であ る。この機関は普通の国のしくみでいえば省庁であり、そこには欧州官僚と呼ばれるお役人が働いている。現実には、このお役人と識者・業界団体ら関係者から なる諮問委員会がいっしょで法案を作成している。どちろも選挙で選ばれた人々ではない。

 欧州議会に加盟国の国民から直接の選挙で選ばれた代表者がいるが、ここは法案を作成しないので立法機関とはいえない。この機関は(企業でいえばで監査役 会のようなもので、)監視機能を果たしたり、一部の法案に対して同意したりするだけである。次に、本当の重要事項は欧州委員会から閣僚理事会にまわされ る。ここは加盟国政府の代表者、担当大臣が(外交)交渉をする舞台である。

 こう見ていくと、欧州連合の中で活躍しているのは行政関係者ばかりで、本来民主主義のかなめとなる選挙で選ばれた立法府が極端に弱いことになる。自国政 府が閣僚理事会で合意したことは、すでに述べたように、欧州統合が超党派で進められているために、国民は「外圧」として承諾するしかない。

このような状態では、加盟国の国民がだんだん自分たちにコントロールできない欧州官僚機構に支配されているという感じを抱くようになってもしかたがない。 逆に見れば、これは、欧州連合に関係する政治家やお役人が加盟国国民の現実から遊離していくことでもある。今回拒否された欧州憲法が483頁もあるが、こ んな分厚いものを「憲法」と呼ぶことじたいが現実感喪失の証拠といえる。

 これを「憲法」でなく「条約」と呼んでおけば、フランス国民も今までと同じようにキリキリで通してくれたかもしれない。「憲法」となると知らん顔できな くなる。今回フランスの有権者の12%は、この「憲法」の200頁に及ぶ簡易版の全部、もしくは大部分を読んだとアンケートで回答している。ちなみに選挙 民の46%は抜粋で済ませた。

 このような話を聞くと私は少し感動してしまう。ドイツでは5月12日連邦議会で594人の議員のうち569人が批准に賛成した。でも彼らのうちに何人が この「憲法」を読んだのであろうか。ちなみに欧州憲法の第一部47条によると100万の署名が集まると市民請願権が成立する。ドイツ公営テレビ放送のある 批判的番組は与野党6人の連邦議員に「欧州憲法に市民請願権が盛り込まれているか」という質問をした。そのうち5人の議員は正しく回答できなかった。とい うことは、大部分の議員はこの憲法を全部読むことなく批准で賛成したことになる。

 ■ネオリベラリズムに反対

 ドイツの庶民は、統一通貨ユーロの導入で食料品などの生活必需品の価格が二倍近く上昇したと思っている。確かに家賃のように価格が変わらなかったもの も、電気製品のように値下がりしたものもあり、物価は上がっていないと説明された。とはいっても、生活必需品の値上がりはエンゲル係数が高い低所得層、裕 福でない多数の人々には厳しいことであった。オランダの国民投票ではこのユーロ導入後の物価上昇に不満な社会的弱者が反対にまわったといわれる。このよう な状況に直面してオランダ中央銀行総裁は「統一通貨が及ぼす効果を前もってよく考慮していなかった」ことを認めた。

 社会的弱者が憲法に反対し、社会的強者が賛成するのはフランスでも見られたパターンである。例えば、家賃が上昇して庶民の住宅地でなくなったパリ市内や また高級住宅街のヴェルサイユの周囲では賛成票が、いっぽう比較的貧しい人々が住んでいるパリ北部郊外では反対票が多数を占めた。

 冷戦時代、東隣にある共産主義と対抗しなければいけないこともあって、西欧諸国は、社民党が政権を担当していようがいまいが、社会保障や税制によって富 を再分配して、比較的貧富の格差が小さい社会をつくることに成功した。人々は自分たちのこのような社会を破壊するものとして欧州統合を見なして欧州憲法批 准で反対したのである。

 ユーロ導入前、多くのエコノミストは、通貨を共有する巨大な統一市場が出現し、ユーロ圏内の経済が活性化されて、雇用が創出されると説明した。ところ が、実際に起こったことは異なる。確かに企業は統一市場によって利潤を倍増させることができたかもしれないが、投資先は低賃金のユーロ圏外であり、西側で は雇用が生まれなかった。それどころか、それまで西欧諸国にあった生産拠点をより低賃金の東欧やアジアに移転させる企業も出てきた。これは雇用喪失につな がる。

 昨年ポーランド、ハンガリー、チェコといった8カ国の旧東欧共産主義諸国が欧州連合に加盟した。この加盟も「(それが)及ぼす効果を前もってよく考慮し た」結果かどうか疑問である。例えば、ドイツのアウトーバーンには駐車エリアがありドライバーが休憩できるが、そこで見かけるトラックのナンバーはドイツ やオランダであったりするのに、運転手の多くは東欧圏出身者である。彼らは本国の会社に勤務したまま長期出張し西ヨーロッパの運送会社で働いているといわ れる。これは、企業にとって本国並の賃金+アルファですませることができるので重宝である。反対に今までトラックの運転手だったフランス人やドイツ人には 失業を意味する。似たようなケースは今や無数にある。

資本、人間、商品の移動を自由にして企業家が活動しやすいようにして規制もなくして市場原理にゆだねると経済も社会もよくなる。そう考える人々が中心に なって今まで欧州統合をすすめてきた。この市場こそ「神の御心」とする考え方はネオリベラリズムと呼ばれる。欧州憲法はこのネオリベラリズムと直接関係が ないが、この考え方による欧州統合に不安を感じる人たちが今回の国民投票で反対票を投じた。でも欧州統合とネオリベラリズムとはほんらい別々のことで、別 の考え方が欧州連合の中で強調されてもよいといわれる。

 ■欧州統合の二つの原理

 欧州統合は外から見ていると理解しにくい。そうであるのは、二つの異なる原理が絡み合って統合が進行してきたからである。昔ドイツの著名なジャーナリス トがピンとこない顔をしている私にウィスキーをすすめながらそのことを説明してくれた。(昔ドイツ人はウィスキーなど飲まなかったので久しぶりの私は当時 大感激。)その一つめの原理は一つの国家になる道をすすんでいることで、そのまま行けばいつか米合衆国やソ連邦に似たものになる。二つ目の原理はできるだ け国民国家のままにとどまろうとすることである。このジャーナリストは欧州統合がそれまでこの二つの原理で進行してきたし、今後そうあるべきだと強調し た。欧州諸国は(米国に似た)欧州合衆国になって加盟国がその個性ある国民性を失う事態は避けるべきである。彼は、そうならないことが可能であることを示 すために中世ヨーロッパの神聖ローマ帝国を参考に挙げた。

 この二つの原理であるが、加盟国が一つの国家をめざすので「これは国家でなくなろとすることである。同時に国家でありつづけようとする」なんて、私には 当時「禅の公案」のように思われた。でも矛盾する二つの原理を脳裏にうかべながら欧州統合を眺めると理解しやすい。加盟国の国民から選ばれた議員がいる欧 州議会は、欧州連合が一つの国家として見なされているので、一つ目の原理の反映である。ところが、すでに述べたようにこの議会の権限は制限されている。こ の制限されていることも、また同格の主権国家同士の外交交渉である閣僚理事会が重要であることも、加盟国が国家のままでとどまるべきとする二つ目の原理の 実現として理解できる。

 冷戦時代米ソのはざまに位置する小国の互助組合としてはじまった欧州統合は、「禅の公案」的試行錯誤をしながらゆっくり進行した。ところが、今や統合テ ンポの速さに不安を覚えている人が多いとされる。欧州統合に加速がついたのは、東西ドイツ統一にフランスの支持をとりつけるためにコール首相(当時)が通 貨統合に承諾して、その結果マーストリヒト条約が調印されてからである。同時に欧州統合の重点も変化した。

 冷戦時代、統一通貨の導入を要求するフランスに対してドイツは首をたてにふらなかった。その本当の理由は強い自国通貨・マルクを失いたくなかったからで あるが、そういわないで、欧州で政治的統合が政治的統合とくらべて進展していないことを理由に挙げて断った。マストリヒト条約で統一通貨に承諾したドイツ に対して、それ以来フランスをはじめとする隣国が政治的統合を進めることで歩み寄ろうとしたのが、今までの欧州統合の大きな流れである。
 
 今回、フランス国民投票の批准賛成者の52%が「欧州も米国、中国、インドといった他の大国と並ぶように強くなるために憲法が必要」と回答したが、マス トリヒト条約以来の欧州政治統合はこのようなフランス的大国願望・覇権主義に引きずられてきた傾向がある。これは「欧州合衆国志向」という一つめの原理が 強調され、加盟国が国家のままでいるべきとする二つ目の原理が後退することであった。

 新しい国々が次から次へと加盟することは欧州連合(EU)の威光の増大で、欧州覇権主義者の大国意識がくすぐられることであった。また「欧州合衆国志 向」型の政治統合は、内部では独仏が露骨にリーダー国としてふるまい小国が慢性的に不満を抱く構造ができあがった。例えば今回の欧州憲法によると、主権国 家同士の交渉の場である閣僚理事会で拒否権が通用する範囲が小さくなる。これは小国の力が弱められることで、オランダ国民が反対した理由の一つだった。

 今回のフランスとオランダの国民投票の結果は統合の軌道修正をうながす警告である。もしかしたら昔のような「禅の公案」的欧州統合に戻るかもしれない。

 美濃口さんにメールは mailto:Tan.Minoguchi@munich.netsurf.de

v

user-pic
0
2005年06月19日(日)萬晩報通信員 園田義明
 ■弥生中期の戦士の墓

 今からちょうど20年前の夏、私は東大阪市と八尾市にまたがる久宝寺緑地内の遺跡発掘調査現場にいた。炎天下の中、汗だくになりながら弥生時代中期の方 形周溝墓の木簡の中から出土した人骨と連日向き合っていた。ボンド片手に骨を固めながら丁寧に掘り出していくと、北側に向いた頭骨から密着した状態でサヌ カイト製の石鏃(矢じり)が出てきたのである。また、頭骨周辺には多量の水銀朱と思われる赤色顔料も検出している。この頭部からの石鏃発見は「戦士の墓、 発見」の見出しと共に新聞各紙も取り上げた。

 後にこの人骨は身長1.6m前後の20歳前後の男性と鑑定されている。従って若き戦士を弔うための墓だったのだろう。弥生時代の戦士の墓は、鳥取県の青 谷上寺遺跡、京都市南区の東土川遺跡や松江市・友田遺跡などで続々と発見されているが、この時期広範囲にわたって戦いの爪跡を残している。

 縄文人が一万年以上も平和に暮らしていた日本列島に水田稲作文化をもった渡来人が主に朝鮮半島経由でやってくる。縄文人の多くは、この渡来人から稲作を 学びながら血も混じり合っていく。弥生人とはこの縄文系の混血弥生人と新たな渡来系の弥生人によって構成され、現在の日本人の原型となっている。
 
 狩猟・採集民族であった縄文人は比較的平和であったのに対し、農耕民族である弥生人はテリトリー意識が芽生え、貧富の差も拡大、階層を生みだし、攻撃性 も増していく。しかし、混血は見られるものの、縄文人と弥生人の礎となる渡来人が戦った形跡は残されていない。渡来人は縄文人を「うまく言いくるめたので はないか」と知り合いの考古学者は笑って話していたことを思い出すが、北米大陸のネイティブ・アメリカンの歴史を重ね合わせれば信憑性が帯びてくる。

 しかし、縄文人とて自らのアイデンティティーにこだわり、渡来人との窓口に位置していた西九州地方では伝統的な世界観を象徴するために土偶作りが行われ、小林達雄はこれを幕末末期攘夷運動の縄文版と呼んでいる。

 ■エルヴィン・ベルツの混血説

 この日本人の起源に関する「混血説」を唱えたエルヴィン・ベルツを紹介しておきたい。明治初期に医学を教えたベルツは、アイヌ人が北部日本を中心に分布 した先住民族であるとしながら、アイヌ人と沖縄人の共通性も指摘している。

 ベルツが指摘したアイヌ沖縄同系論は最近のDNA分析でも実証されつつあり、斉藤成也はアイヌ沖縄同系論を支持しつつ、遅くとも縄文時代が始まった1万 年以上前には大陸と縄文人としての日本列島集団との間に遺伝的な分化が始まり、縄文時代が終わる3000年前頃には、北海道集団は本州以南の集団と遺伝的 に少しずつ離れていく。そして、弥生時代の朝鮮半島あるいは中国からの渡来人による遺伝子流入によって、北海道と本州以南の集団の遺伝的近縁性が減少し、 沖縄を中心とする日本列島南方集団が遺伝的に分化する。日本列島本土では弥生時代から奈良時代までは朝鮮半島南部を含む周辺集団と混血しながら、平安時代 以後は大規模な混血を経ず、今日に至っているとの見方を示している。

 おそらく、神宿る森と共生した縄文人は渡来人の圧倒的なパワーに屈しながらもその信仰を鎮守の森にそっと隠したのだろう。また、融合できなかった一部の 民は熊野や四国、九州南部、そして東北の山奥へと逃げ込んでいった。アイヌ人と沖縄人は日本列島の周縁にあたることからその影響を逃れた。渡来人に次い で、後に仏教、さらにはキリスト教をも受け入れた寛容性は縄文の伝統が生きていた証だったのかもしれない。縄文人は負けながらもその信仰を八百万の神々と して弥生的な神道に植え付けていく。どうやら、太古から続く主体的な伝承者としての縄文末裔一族のネットワークも今なお存在しているようだ。

 この負けて勝つ縄文人を支え続けてきた八百万の神々は、自らも国家的な死に直面しながらも、日本人の根っ子に生き続け、敗戦後の日本を救うことになる。

 ■縄文との断絶

 明治期、皇国史観が支配する中で、縄文人は当時日本人の祖先と考えられていた天孫族が日本に来る前に住んでいた先住民と位置付けられ、野蛮で低劣な存在 と見られていた。その結果、鎮守の森や山の奥深くでひっそりと受け継がれてきた縄文信仰も近代化を目指す明治期の天皇を中心とする神道の再編成によって国 家的な死を迎えることになる。これは縄文との断絶を意味した。

 神道を国家的存在と位置づけるべく、神社分離令(廃仏毀釈)(1868年、明治元年)に始まり、神社合祀令(1906年、明治39年)に至る過程で仏教 施設はもとより全国で約7万社の神社とその神々、そして鎮守の森が姿を消した。神々の一元化による淘汰としての神社合祀令に対して、抗議の声をあげたのが 熊野の森を愛した野人・南方熊楠であったことはよく知られている。南方が命をかけて守ろうとしたのは、自然ではなく、熊野の地と自らのDNAに刻まれた縄 文そのものであった。

 先に紹介したエルヴィン・ベルツは日本人を長州型と薩摩型とに分け、それらが異なる二系統の先住民に由来するとしながら、支配階級に見られる長州型は満 州や朝鮮半島などの東アジア北部から、薩摩型はマレーなどの東南アジアから移住した先住民の血を色濃く残していると考えていた。このベルツの分類は現在の 靖国参拝問題を読み解く上で示唆に富んでいる。

 1869年(明治2年)に靖国神社は、明治天皇の思し召しによって戊辰戦争で斃れた人達を祀るために創建された。設立当初は東京招魂社と呼ばれたが、1879年に靖国神社と改称されて今日に至っている。

 一部に敵味方を問わず国のために身命を失った人々を弔う場とする見方もあるようだが、中国・韓国以前に会津出身者に申し訳ない。よく比較に出されるアー リントン墓地には敗北した南軍の兵士も弔われているが、靖国神社の場合、戊辰戦争の敵方であった会津白虎隊や西南の役で明治政府に反旗を翻した西郷隆盛は 祀られていない。

 会津藩士族出身であり本物の右翼を自称した田中清玄は、靖国神社を「長州の護国神社のような存在」と切り捨てる。確かに、戦前の靖国神社は長州・薩摩出 身者の強い影響下にあった陸軍省、海軍省と内務省が管轄する別格官幣社であり、祭神の選定も陸・海軍省が行っていた。このことは靖国神社にある長州出身の 近代日本陸軍の創設者・大村益次郎のいかつい銅像がなによりも象徴している。

「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・」という言葉を時の首相・鈴木貫太郎に送り、日本を終戦に導いた名僧・山本玄峰の元で修行し、「(陛下は反対であっ たにもかかわらず)どうしてあの戦争をお止めにはなれなかったのですか」と昭和天皇に直接伺い、山口組三代目組長田岡一雄とも親交があった田中清玄が許せ ない存在として名前をあげたのが岸信介・児玉誉士夫一派である。このあたりの『闇』はさすがの田中清弦も語るのをためらっているようだ。

 いずれにせよ岸信介の孫である安倍晋三が「小泉首相がわが国のために命をささげた人たちのため、尊崇の念を表すために靖国神社をお参りするのは当然で、 責務であると思う。次の首相も、その次の首相も、お参りに行っていただきたいと思う」(2005年5月28日)と札幌市内の講演会で発言した背景には、安 倍の偏狭な長州史観が実によく表れている。

 また、小泉首相が薩摩の血を引いていることを考えれば、現在の靖国参拝問題は単なる薩長史観に国民全体が振りまわされているに過ぎず、薩長連合による靖 国参拝が、分裂寸前の中国・韓国を結束させていることを考えれば、意外と裏では『闇』つながりの仲良し勢力が潜んでいるようだ。

 ■縄文・弥生のハイブリッドシステム

「日本の古代も神の場所はやはりここのように、清潔に、なんにもなかったのではないか。おそらくわれわれの祖先の信仰、その日常を支えていた感動、絶対感 はこれと同質だった。でなければこんな、なんのひっかかりようもない御嶽が、このようにピンと肉体的に迫ってくるはずがない。-こちらの側に、何か触発さ れるものがあるからだ。日本人の血の中、伝統の中に、このなんにもない浄らかさに対する共感がいきているのだ。この御嶽に来て、ハッと不意をつかれたよう にそれに気がつく。そしてそれは言いようのない激しさをもったノスタルジアである。 」

「それにしても、今日の神社などと称するものはどうだろう。そのほとんどが、やりきれないほどに不潔で、愚劣だ。いかつい鳥居、イラカがそびえ、コケオド カシ。安手に身構えた姿はどんなに神聖感から遠いか。とかく人々は、そんなもんだと思いこんで見過ごしている。そのものものしさが、どんなに自分の生き方 のきめになじまないか、気づかないでいる。」

 これは岡本太郎が御嶽と呼ばれる沖縄の聖地を訪問したときに書き残したものである。拙著「最新アメリカの政治地図」(講談社現代新書)の推薦文を書いて いただいた坂本龍一教授、宮崎駿なども含めて一流のアーティストと呼ばれる人々は感性で見抜くことができるのだろう。

 しかし、敢えてここで縄文に対するノスタルジアを否定しておきたい。結論から言えば、沖縄やアイヌは周縁であるがゆえにたまたま残ったに過ぎない。周縁 と呼ばれる場所に行けば同じ神々に出会うことが出来る。東アジアにこだわる必要もない。

 その神々を今なお根っ子に残しているという点では特筆に値することは事実であろう。拙著の中で、トヨタの地政学的な戦略から日本人の両生類的なDNAが あると書いたが、縄文人を海洋文化、弥生人を大陸文化と位置付けることで日本人=両生類説を見出していたのである。

 大陸を隔てた反対側の周縁にはケルト民族がいる。妖精が今なお生きるケルト民族と日本人との共通点を見出したのは、「庭の千草」(アイルランド)や「蛍 の光」(スコットランド)などのケルト・ミュージックを日本に持ち込んだ森有礼、そして小泉八雲 (ラフカディオ・ハーン)であった。

 岡本太郎、坂本龍一、宮崎駿に続き、矢野顕子やネーネーズの古謝美佐子がケルト・ミュージックの重鎮であるチーフタンズと共に歌い、THE BOOMの 「島唄」がアルゼンチンに次いで今年ロシアでもヒットした。アイヌではOKIがトンコリの心安らぐ音色を奏でる。

 一方では、今なお進化し続けるトヨタの「ハイブリッドシステム」は世界を席巻している。海外勢はこのシステムをまさに神憑りと見ていることだろう。このシステムの本当の原動力は縄文と弥生のハイブリッドにある。 

 縄文は地球に生きる人類の歴史の原点である。そして今まさに八百万の神々とともに世界を舞台に可憐に踊り始めようとしている。われわれの歴史を今一度丁 寧に復元しつつ、現代風にアレンジしながら蘇らせる努力こそが必要だ。

 言霊を忘れたかのような罵声が東アジアを飛び交い、日本人が再び縄文と断絶し、ハイブリッドを見失う時、戦争はまた起こる。

□参考・引用
佐原真・小林達雄「世界史のなかの縄文 対論 」(新書館)
小林達雄「縄文人の文化力 」(新書館)
斉藤成也「DNAから見た日本人 」(筑摩書房)
岡本太郎「沖縄文化論 忘れられた日本」(中央公論新社)
「田中清玄自伝」(文芸春秋) 他多数

 園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp
2005年06月18日(土)アメリカン大学客員研究員 中野 有
 マンガのソフトパワー

 初夏の英国を旅した時、街の本屋を覗いてみた。ベストセラーの新刊と並び、そこに英訳された日本のマンガが、かなりのスペースを占めていた。英語でマン ガを読むと、短縮されたフレーズがまるで詩のような響きで伝わってくる。文章を読むより、確実に内容がイメージとして記憶される。このマンガのソフトパ ワーを、外交や安全保障に応用できないものか。

 アメリカのディズニーなどのアニメやマンガは、アメリカのソフトパワーとして歴史の浅いアメリカのマイナス面を埋め、アメリカのイメージ向上に貢献し た。ミッキーマウスなどのキャラクターは、音楽のように言葉の壁を超えた世界の共有財産である。国やナショナリズムを超越したマンガやアニメを通じ、日本 の周辺諸国との歴史認識の相違を是正させる名案が存在していると考えられる。

 こんな単純な想いをモスクワやワシントンで会議に出席しながら、北東アジア諸国や米国の政府関係者や専門家に、日本のマンガのソフトパワーの効用につい て問いかけてみた。ロビー外交でなく、マンガ外交である。この発想は、北東アジアの専門家の中で、面白いほど好評だった。

 日中韓の歴史教科書

 中国に訪れた時に、テレビを見ると日本ではありえないような暴虐的な日本兵の姿が描かれたドラマが多いことに驚き、中国は意図的に戦前の日本の軍国主義 を国民に蔓延させているように感じた。でも、中国の歴史教科書がどのように日本を描いているかについては、知らない。きっと、多くの日本人は中国や韓国の 歴史教科書がどのように日本を描いているかを知らずにいる。中国や韓国の専門家から、自国の歴史教科書にどのように日本が描かれているかについて聞いて も、教科書を真剣に読んでいないので覚えていないとの答えが多い。

 言葉の壁のみならず、近くて遠い中国、韓国の歴史教科書を読むのは簡単でない。中国が描く中国の歴史、韓国が描く韓国の歴史が自国中心であって当然であ る。中国や韓国が描く日本の歴史、特に満州国を建設した日本への歴史観は、日本の視点と大きく異なっていても驚くに値しない。

 マンガで日中韓の壁を破る

 このギャップを埋める方法はある。日中韓の3カ国の歴史教科書に則ったマンガを、それぞれの言語と英語で、しかも分かり易くビジュアルに、そして客観的 に描くことにより少しでも日中韓の相違点を認識できると考える。そして、アジアの一角の歴史観を世界全体の歴史観の中で展望することにより、同じ蒙古斑を 持つアジアの共通項やアジアの意思を認識できるように思われてならない。マンガというソフトパワーを通じてそれは可能であり、何といってもマンガやアニメ に接する世界の層は圧倒的に多い。特に新しい世代の潮流が、北東アジアの曖昧な歴史観を払拭すると考えられる。

 漫画家の里中満智子さんが、ワシントンのセミナーでマンガのソフトパワーに関する講演をされた。外交・安全保障と同列にこのマンガのソフトパワーが話し 合われたのだが会場が沸くほど里中さんの講演にはインパクトがあった。漫画家は、映画に例えるなら監督、プロデューサー、脚本などのすべてを一人でこなす ことができる職業であると述べておられた。映画の制作ならかなりの資金が必要でも、マンガの制作は、少ない資金で、乗数効果のある仕事ができるそうであ る。マンガのソフトパワーは、日中韓の難解な歴史問題を解きほぐす可能性を秘めていると考えていた時だけに、里中さんの講演に惹きつけられた。

 外交・安全保障をビジュアルに描く

 いささかマンガのソフトパワーの本題から逸れるが、複雑な問題を大局的にビジュアル化することによる効用に触れてみたい。外交・安全保障は、難解であ る。国や世界の命運に係わることなので、当然、明確なビジョンは容易に生みだされない。自国の利益を追求すればするほど複雑な要素が絡み、現状維持へと守 りの姿勢に入ってしまう。多くのシンクタンクの研究員は、現状分析すれば現状を打開することが困難だとの結論に達することが多いと嘆いている。そのような ジレンマを打開する手法として、当事者から直接話を聞くことと、複雑な要素を大局的に考えることが重要である。

 ワシントンに滞在しながら、国務省やホワイトハウスのみならず安全保障関係者を通じ、少しは米国の中枢の本音?に踏み込むことができたと思っている。ワ シントンに入る前にも、安全保障のイメージを描いていた。概して、4つの安全保障の形態で国際情勢が眺望できると考えていた。それを確証するためにブルッ キングス研究所等に乗り込んだといっても過言でない。

 その4つとは、覇権安定型、勢力均衡型、軍事に主眼をおく集団的安全保障、そして経済協力とソフトパワーを活用する協調的安全保障。未だ冷戦構造が意図 的に残る北東アジアは、勢力均衡型であり、米中の駆け引きで、ミサイル防衛を中心とする集団的安全保障に向かうか、経済協力に重点をおく協調的安全保障に 向かうか、或いは、その両方を程良く追求するのか。

 日米関係では、日本のミサイル防衛予算が約1兆円ついたことを考えれば集団的安全保障に傾いているように映る。同時に、ライス長官が唱えるように日米戦 略的開発同盟を強化、すなわち軍事の安全保障とコインの裏表の関係にあるソフトパワーを通じた安全保障も重要であることが理解できる。ヨーロッパにおける 軍事の安全保障は、NATOであり、経済の安全保障はEUである。北東アジアにおいては、中国、ロシア、北朝鮮に対峙し、米国、日本、韓国の存在がある。 これらがどのように統合されるのか。それはハードパワーかソフトパワーか、その両方で実現されるのか。

 北朝鮮問題の大局的な動向として、4つのシナリオで説明できる。非軍事による平和的解決であるソフトランディング、軍事によるハードランディング、ス テータスクオ(現状維持)、そして核武装の朝鮮半島。安全保障の形態も朝鮮半島の4つのシナリオも実に単純明快で説明できると思う。しかし、難解な専門書 に集中し、複雑な思考を行うことで、考えが漂流してしまい、興味を失うのが常である。外交・安全保障、世界観、歴史観などの大きな輪郭をビジュアルに観察 することが大切である。

 とりわけ、戦後60年といわれるが、60という数字には、1時間は60分であり、60歳の還暦のように特別な意味があるように思う。この重要な時期に市 民が主役となり歴史観と世界観を養い、アジア、世界の中の日本のあり方を諦観することが重要である。マンガのソフトパワーの効用を通じ、日中韓の複雑な歴 史、そして地政学を学ぶことにより近隣諸国とのぎくしゃくした関係が少しは解消されると思われる。さらに、マンガやアニメの人気は世界的であり、世界が日 中韓の複雑な現状を理解することにより、グローバルな視点でアジア観が語られることになる。結果として北東アジアの結束につながると考えられる。

 このような考えをブルッキングス研究所の韓国の研究員に伝えた。偶然にも、「冬のソナタ」の監督であるユン・ソクホ氏は、彼の高校時代に一緒にギターを 弾いていた親友だという。韓国の研究員と軍事のハードパワーや竹島問題でなく、韓流やマンガのソフトパワーについて意見交換すると、日韓に共通する情緒的 感性が湧き出てとめどもなく話が弾むのである。

 韓国のドラマのソフトパワーと日本のマンガやアニメのソフトパワーを通じたドラマや映画が製作され、互恵の感性が醸成されることで、歴史問題や日本海の とげとげしい領土問題を緩和させるきっかけになると考えられる。ハードパワーの脅威で封じ込めるのでなく、ソフトパワーを活かし、核の脅威が伴う北朝鮮問 題を解決することが日本の知恵・アジアの知恵であると信じたい。
2005年06月16日(木)ワシントン在住ジャーナリスト 堀田 佳男
「したたか」という言葉しか思い浮かばないようなことが起きている。

 そこにはカネがついてまわる。金銭的強欲さを地球の裏側にまでとばし、人が死ぬのを横目で見ながら収益をあげる。

 ハリバートンという会社の名前が世界中を駆けまわったのはイラク戦争前の2003年初頭である。副大統領のチェイニーが政権入りするまで経営最高責任者 (CEO)を務めていた石油開発会社だ。当時、副大統領というポジションを利用して会社に利益をもたらせる癒着の噂は絶えなかった。さらに、メディアは戦 争でカネを稼ぐ「死の商人」的な行為を糾弾しもした。ハリバートンは世界中から鋭い眼をそそがれ、不正は何もできないかに思えた。

 戦争から2年たった今、メディアから「石油利権」という言葉はほとんど聴かれなくなったが、ハリバートンとその子会社KBR(ケロッグ・ブラウン&ルート)は、潮が音もなく満ちるように、イラク戦争を契機に多額の収入をあげていた。

 今月18日、ハリバートンはテキサス州ヒューストンの本社で株主総会を開いた。CEOのデイビッド・レサーは、イラクでの戦争関連事業の売り上げが昨年約7500億円にのぼったことを口にした。

 やってくれるものである。しかし、時間がたつにしたがって彼らの所業があばかれ始めた。しかもペンタゴンの内部告発という形で企業の暗部がでてきたの だ。一人の勇気ある声が多くの悪行をあらわにする。だが、その声を発露することはその人間が役所の他の人間から総スカンを喰うことであり、辞めさせられる ということでもある。家族を養う人間にとっては大きな決断であり、躊躇しがちな勇断だ。しかし、アメリカには89年に法制化された内部告発者保護法があ り、こうした内部国内でも原則的には解雇されない。

 米陸軍にいるバニー・グリーンハウスという女性将校はイラク戦争を契機に、入札なしでKBRが多額の契約をとっていくことに気づいていた。民間企業の契約を統括する役目をしていた彼女は、階級が上の将校たちによってKBRが不当な契約を結んでいた事実をつかむ。
 
 彼女の所属する陸軍工兵隊(USACE)だけで約80億円が入札なしでKBRに渡っていた。これはアメリカ版談合である。グリーンハウスは弁護士ととも に、アメリカ政府を敵に回すのだ。すでにKBRやハリバートンが不当にペンタゴンからカネを受領していたことは、何人ものジャーナリストの調査報道によっ て明らかにされている。グリーンハウスの件は3月10号の月刊誌『Vanity Fair』に出た。

 また、下院政府改革委員会の委員長で長年敬愛している政治家ヘンリー・ワックスマンもハリバートンを糾弾し続けている。彼は正義感あふれる人物で、リベラルの魂が表情からも感じられるワシントンの重鎮である。

 そうした流れのなかで、ハリバートンは現在、連邦捜査局(FBI)とアメリカ証券取引委員会(SEC)、司法省からナイジェリア、イラン、イラクなどで の公共事業で不正契約があったかどうかの調査を受けている。元社員からも不正会計を理由に告訴されている。それだけではない。ペンタゴンから「貰いすぎた 税金」630万ドル(約6億6000万円)を政府に返金したし、社員2人がクウェートの民間企業からキックバックを手にしていたことも認め、腐敗した体質 が露呈されている。

 さらに今後、2億1230万ドル(約222億円)もの大金を「もらい過ぎ」として政府に返すことになっている。私を驚かせるのは、この化け物企業が多数 の社員(契約社員も含める)を混迷のつづくイラクに飛ばし、すでに60人もが命を落としていることだ。それでも株主総会ではCEOが登場してイラク戦争に よって売り上げがあがったと嬉々としている。

 本社のあるヒューストンの市民運動活動団体の会員、メリッサ・パトリックは「戦争で人命が失われていても平気で利益をあげられる恥知らずで腐敗した企 業」と憤りを抑えない。カネにまみれた株主たちは配当があがれば何をしても構わないのだろうか。そこにチェイニーの顔が見え隠れするところがブッシュ政権 のおぞましさである。

 堀田佳男 のDCコラム「急がばワシントン」5月27日から転載
 http://www.yoshiohotta.com/

 堀田さんにメールは mailto:hotta@yoshiohotta.com
2005年06月14日(火)萬晩報通信員 土屋 直
  萬晩報通信員である藤田圭子女史にならって、自分の郷土のことを何か書いてみようと、先日仕事の合間をぬって父祖の地である伊豆の韮山を訪ねてみた。韮山 といえば、幕末に伊豆の代官江川太郎左衛門英龍(坦庵)が建設した反射炉が有名である。反射炉とは、銑鉄を溶かし大砲を鋳造する炉であり、1853年浦賀 に来航したペリーの黒船騒動の中、幕府の許可を得て着工されたものである。今では、幕末の重工業の発生を象徴する記念物として、国の重要文化財になってい る。

 反射炉のかたわらに建つ記念碑文を読んでみると、韮山の代官であった江川坦庵の非凡な人柄がうかがえる。若きころに江戸で砲術を高島秋帆に学び、剣術は 神道無念流を修めた。また、神道無念流の兄弟子であった斎藤彌九郎とは長年の友人であり、蘭学者渡辺崋山と文を交わし、松代藩主真田信濃守と親交が深かっ たため松代藩士佐久間象山を弟子として受け入れている。

 しかしながら、碑文を読みすすむうちに必ずしも韮山の反射炉が日本で初めて建設されたものではなかった事を知った。反射炉の建設に最初に挑んだのは藩主 徳川斉昭公(烈公)の熱心な国防論に突き動かされ水戸藩であることを知った。反射炉の築造は江川太郎左衛門に先駆けて、島津、水戸、鍋島が手がけて完成し ている。韮山の反射炉だけが国の重要文化財として現存しているのは、維新後、寺内陸軍大臣が荒廃した反射炉を偶然発見して世界的な記念物として大修繕をお こなったからに他ならない。今回は反射炉の先達である水戸藩の陰の部分についても触れてみたい。

 水戸藩の反射炉建設については、東郷吉太郎海軍中将の綿密な反射炉建設の調査に基づき編纂された『水戸烈公の国防と反射炉』(誠文堂親光社)に詳しい。

 黒船来航以前から水戸藩では、幕藩体制の動揺と西欧列強の進出という内憂外患を打開することが重視されていた。国内的には農村復興のための藩政改革を主 張し、対外的には西欧諸国を夷狄とみなしてうちはらうという攘夷が主張された。あわせて国民の心を一つにし、階層秩序を維持するために尊王も主張された。 ここに尊王と攘夷がはじめてむすびつき、西欧列強のいいなりになる幕府への批判する潮流が生まれた。

 水戸学の基礎をつくったのは、「大日本史」編纂にもかかわり、18世紀末から活躍した藤田幽谷である。これが子の藤田東湖にうけつがれて発展し、斉昭の名で公表された「弘道館記」(1838)に集大成された。

 水戸藩の改革をおしすすめ、藤田東湖らを登用した徳川斉昭公(烈公)は、黒船来航より20年前から独自の国防論を展開したが用いられなかった。反射炉建設も烈公の国防論の具現化の一つであり、長年の念願であった。

 やがて、1853年(嘉永6)のペリー来航後には海防参与として幕政にくわわった。将軍継嗣問題や日米修好通商条約の締結をめぐって対外強硬論を主張 し、開国派の井伊直弼とはげしく対立したものの開国派に敗れ、安政の大獄では水戸に永蟄居となり、60年(万延元)水戸城中で急死した。

 一方の水戸学の理論的旗手であった藤田東湖は1855年(安政2)の大地震のとき志半ばにして斉昭に先立つこと5年、江戸藩邸で圧死してしまった。

 1864年尊皇攘夷の旗の下に挙兵した天狗党には、藤田東湖の子、小四郎を旗頭に浪士、藩士はもとより、町民、農民や神官なども多く参加した。この動き に応じ、幕府は天狗党追討令を出し、常陸、下野の諸藩に出兵を命じる。水戸藩もこれに応じて市川某らを中心とする追討軍を結成し、1864年8月8日(元 治元年7月7日)に諸藩連合軍と天狗党との戦闘が始まった。

 天狗党は水戸城へ向かい市川一派と交戦するがこちらも敗退し、那珂湊の近くまで退却する。市川ら諸生党は幕府に応援を要請し、那珂湊を包囲。幕府は田沼意尊を将とする部隊を派遣。共に那珂湊を包囲する。

 11月4日には総大将、松平頼徳が幕軍に誘き出されて切腹、千人余りが投降するなど天狗党は大混乱に陥り、侵略してきた幕府軍に徳川斉昭(烈公)ゆかり の閣は焼かれ、烈公の国防策の結晶である水戸の反射炉も灰燼と帰した。

 最後に、200年以上つづいた鎖国がやぶられることになった神奈川条約(日米和親条約)がむすばれた時の藤田東湖と薩摩藩士有村俊斉との対話が残っている。

「もし先生がその時外交談判の衝にいたり当たられたならば如何なされます御所存ですか」

と有村に問われた東湖は、

「万一、拙者がその談判の衝に当たり赤心以ってペリーに折衝すれども、ペリーがなお拙者の意見を容れなければおそらく拙者はペリーを刺すであろう。さすれ ば拙者も死する。然しながら、拙者のこの死によって日本国中の志士達の魂には旺然たる士気が奮いて起こる。さすれば必ずやこの未曾有の国難を突破すること ができるであらう」

と答えたという。この対話を若き日の海軍中将東郷吉太郎は同郷の有村俊斉翁から聞かされたという。


□参考文献;
『水戸烈公の国防と反射炉』(関一著;誠文堂親光社、国立国会図書館蔵)
『反射炉と江川担庵』(山田寿々六著;修善寺印刷所、国立国会図書館蔵)
『天狗党の乱』(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

萬晩報通信員 成田 好三2005年06月12日(日)
  ナベツネ氏こと渡辺恒雄・読売新聞グループ本社会長が、10カ月ぶりに球界に復帰する。昨年8月、ドラフト候補選手に対するスカウトの裏金提供が発覚した ことで、読売巨人軍オーナーを辞任した渡辺氏だが、7日の株式会社・読売巨人軍の決算取締役会で、代表取締役会長に就任することが内定した。23日の株主 総会と取締役会で正式決定する。

 渡辺氏にしてみれば、開幕からセ・リーグ最下位を独走する成績不振、人気面でも東京ドームの観客席が埋まらず、TV視聴率も下がる一方という、巨人軍の惨たんたる現状から、再び球団経営と球界運営の陣頭指揮を執る決意を固めたのだろう。

 球界復帰に当たり、渡辺氏は「巨人軍は今歴史的な危機を迎えています」で始まるコメントを発表した。コメントの中で渡辺氏は、巨人あってこそのプロ野球という信念と球界建て直しは自分しかできないという自負心を強く表している。

 しかし、渡辺氏の球界復帰は、球界のためにも、巨人軍のためにもならないことは、明らかである。

 その理由は、渡辺氏が信奉し、推し進めてきた、巨人軍が絶対的存在であることを前提にした、プロ野球のビジネスモデルが、昨年の球界再編騒動によって、既に破綻してしまったからである。

 巨人軍だけが圧倒的な実力と人気をもち、他球団は巨人人気のおこぼれをあずかって存続するというビジネスモデルは、球界再編騒動によって、ファンからそっぽを向かれてしまった。

 さらに、渡辺氏は、球界再編騒動の過程で、「たかが選手――」などの言動により、古い体質の球界と巨人軍の「負のイメージ」を、一身に背負ってしまったからである。球界と巨人軍における絶対的権力者であるがゆえに、そうならざるを得なかった。

 今シーズンのプロ野球人気は、本当に低迷しているのか。一概にはそうは言えない。開幕から快進撃を続けるロッテ、福岡を中心に熱いファンをもつソフトバンク、北海道の新天地で人気者・新庄剛志を擁する日本ハム、相変わらず熱狂的ファンがいる阪神などの球団は元気である。

 球場入場者数は、昨シーズンまでの「サバ読み」数字を「実数に近い」数字に改めたから、統計的な数字は減少している。しかし、実質的には球場に多くの観客を集める元気な球団が多い。交流戦では、パ・リーグの球場に熱い声援が起きている。

 しかし、巨人人気の低迷だけは、明らかである。昨年まで、全試合「満員御礼」の大本営発表を続けてきた東京ドームは、対戦相手によっては空席が目立っている。

 観客動員数以上に、TV視聴率の低下が著しい。細かい数字を挙げるより、象徴的なランキングがある。朝日新聞が毎週木曜の紙面に載せている「TVランキ ング」(視聴率ベスト20)で、5月9日から29日まで3週間の番組を確認してみた。3週間ともプロ野球中継は皆無である。プロ野球中継といっても、視聴 率を稼げるナイター中継は、ほとんどすべて巨人戦だから、これまで夜のゴールデンアワーのドル箱番組だった巨人戦がランキングからすっかり消えたことにな る。

 既に、巨人戦は夜のゴールデンタイムを席巻する超優良ソフトではなくなった。巨人が日曜夜の、主催試合の開始時間を繰り上げたのは、読売の兄弟会社である日本テレビが、日曜の巨人戦夜9時以降は放送したくなかったからである。

 球界と巨人軍における渡辺氏は、職員の相次ぐ不祥事の発覚と、幹部役員のお粗末な対応から、組織の屋台骨を揺るがすほどの受信料不払いを招いた、NHK前会長、海老沢勝二氏と同じ立場にある。
 海老沢氏も、NHKという巨大組織における絶対的権力者であるがゆえに、NHKの負のイメージを一身に背負うことになったからである。

 NHKの受信料不払いは今も増えているが、6月2日のNHKの発表によると、4~5月の増加率は鈍化してきた。その理由について、橋本元一会長は「視聴 者に我々の改善努力を受け止めていただけたのかなと思っている」と語っているが、橋本氏が口に出せない、もっと重要な理由がある。

 辞任によって海老沢前会長がNHKの「釈明特番」にも他のメディアにも露出しなくなったからである。視聴者は、海老沢氏の釈明の良し悪しについて判断し ていたのではい。度重なる不祥事とお粗末な対応を続けるNHKの「負のイメージ」の象徴として、海老沢氏をとらえてきたからである。だから、海老沢氏が特 番に出演するたびに、受信料不払いは増え続けてきた。

 交流戦の実施によって盛り上がってきたプロ野球で、球界と巨人軍の負のイメージを一身に背負った渡辺氏が球界に復帰し、辞任前と同様に権力を行使し、メディアに露出たらどうなるか。結果は、あれこれ分析する必要のないほど明らかである。(2005年6月8日記)

 成田さんにメールは mailto:yo_narita@ybb.ne.jp
 スポーツコラム・オフサイド http://www.mito.ne.jp/~narita/
2005年06月11日(土)ギターボーカリスト 兵頭ニーナ
  入口のドアーを開けまっすぐ進むと大広間があり、右角に煉瓦造りの立派な暖炉がある。脇には薪が積まれ火付け用の紙や小枝、おが屑もあって単なる飾りでは 無いと解って歓声を上げた。冬はこれだけで暖を取るのかな、と思ったが各部屋にはガスストーブがすえ付けられてあった。

 ヴィクトリアが越して来るまでは家主が住んでいて家族みんなで造ったらしい。今は真上の5階に住んでいてよほど自慢なのだろう、とどみたいな女主人が時 々誰か連れて来ては「ごめんなさい数秒でいいから見せて」と入り込み耳を塞ぎたくなるような大声で数分も説明して帰って行く。人のいいヴィクトリアもこの 頃すっかり呆れている。

 少し寒い日、ペチカに火を点けるのでみんな大騒ぎになった。大袈裟だなと思ったが、前回は友達が火入れしたらしく誰も経験がない。子供の頃、炉端のある田舎に暮らした私が何とか一番太い薪まで燃やすのに成功した。

 以後私はペチカ係となって5月半ばまで何回となく火を入れた。そばのロッキングチェアーにゆったりと座りペチカの火を見つめその暖かさにうっとりしてい たら、いつの間にかうたた寝をした。なんと贅沢な時間だろう。ところでロシア語ではペチカというのはガスストーブのことで、暖炉はカーミンと言うのだそう だ。

 大広間の右隣には8畳くらいのキッチンがあり窓を開けると中庭が見える。トタン屋根の車庫が縦に横に7つ8つあり、それぞれにあつらえるらしく形も大き さも不ぞろいだ。ほかに青空駐車でベンツやBMW等高級車が5~6台おかれている。

 実は初めてこの窓を開けて下を覗いた時、あまりの高さに背筋がぞお~っとして思わず後ずさりしたのだった。このアパートが建てられたのはソヴィエト時代 とも帝政ロシア時代ともいわれ、天井が高く(3.2m以上もあった)中地下がある構造となっている。だから4階とはいうものの実際は中一階から始まるので 日本的に考れば5.6階ぐらいの高さかも知れない。

 建物から直角に突き出た2本の棒には何本もの紐が張られていて、ひさしも無い窓から身体を半分ぐらい出してせんたく物を干してるリューバ母さんを見て、 あー私にはとても出来ないと思ったものだ。ある時、中庭から上に向かって何か大きな声で叫んでる人がいたので最初は階段が面倒で誰かを呼んでるのかと思っ たのだが、何か物売りらしい。

 くだもの売りだったり、ほうき売りだったり、あるいは肉屋だったりと、日に何人も来る。欲しい人はお金を入れたバスケットなどを紐でつるして下げると代わりに品物が戻ってくるって訳だ。

 おもしろ~い。一度やってみたいと思うが、やっぱり下を見るとくらくらしてバスケットより先に落ちてしまいそうだ。やっぱり止めておこう。

 ニーナにメール mailto:nina2173@v7.com
2005年06月08日(水)金沢市議 山野之義
 20世紀アジア最大の政治家李登輝氏にお会いした後、空路、台南に入り、八田與一が作った烏山頭ダムを管理する嘉南農田水利会主催による晩餐会にご招待いただいた。

 李登輝友の会全国総会長の黄崑虎氏、国策顧問の呉天素氏等々、通常ならとてもお会いできないような方たちとも、懇談の場をいただく。
 このご縁も全て、八田與一の名声によるものである。なにより、彼らにとって、八田與一は神様のような存在であり、八田與一と郷里が同じというだけで、大変な歓待振りである。

 実は、今回の「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」一行に、八田與一のご長男の八田晃夫氏と奥様が、現在お住まいの名古屋市から合流されている。なおさらのこと、現地の方たちは、「ご一行様」として大切にしてくれたのであろう。

 翌7日、午前中、台南市内にある水利会を表敬訪問。

 私は、そこの資料室で、八田與一が残した様々な資料に目を通す機会をいただいた。改めて、紹介できる機会もあるかもしれない。

 その後、ABS樹脂生産で世界一を誇る台湾の奇美実業グループ許文龍氏の会社が所有する、「奇美博物館別館」にお伺いする。残念ながら、本館の方は、工事中ということでお伺いできなかったが、別館だけで、その蒐集の品の良さは十分窺い知れる。

 広大な台南サイエンスパーク内に点在する、奇美実業グループの社屋をバスで見て回った後、社員食堂で夕食。正面に用意された舞台には、バイオリンのケースと、何かを覆っているであろう黄色い生地がかけられた台座が一つ。

 そこに、許文龍氏が静かに現れた。

 食事の後、許氏は、舞台端にある、黄色い生地が掛かった台座の傍らに行き、その生地をめくりながら、静かな口調で話しを始められた。

 その生地の中には、一人の日本人の胸像があった。

 浜野弥四郎の胸像である。

 日本の統治前、亜熱帯の台湾にはマラリアやペストなど様々な風土病が存在し、街頭にはゴミが堆積し汚水があふれていた。洪水があれば、汚水・汚物までをも含んだ水が街道を覆った。そのため、先の伝染病などが蔓延し、平均寿命は30歳前後であったといわれている。

 日清戦争後、日本の統治領となった台湾。その民生局長となった後藤新平は、イギリス人衛生技師で当時東京帝大の講師であったウィリアム・バルトンを台湾 に呼び、衛生土木監督に任命。バルトンは一番弟子の浜野弥四郎とともに、3年かけて台湾各地をまわり、上下水道の設計と水源地調査を行った。

 バルトンは淡水と基隆の水道を完成させたところで、マラリアに感染し、東京に戻ったが、そのまま治癒することなく死去してしまった。そこで浜野がその事業を受け継ぎ、23年もの長い年月をかけて完成させた。

 バルトンと浜野が建設した上下水道は鉄筋コンクリート製で、何と信じられないことに、本土の東京や名古屋に先んじて建設されている。これで台湾の衛生環境は一気に改善され、マラリアやペストなどの根絶の一翼を担った。

 その浜野の後輩として、浜野の手伝いをしたのが、八田與一である。先にあげた新渡戸稲造もバルトンも、全ては、後藤新平から始まっている。後藤新平については、一度、しっかりと取り上げたい。

 許氏は、台湾の下水道の歴史にバルトンの名は刻まれてはいるが、浜野弥四郎のことはほとんど触れられていないということに、以前から気になっておられた という。また、以前、台南県水上郷浄水場に建てられた浜野の銅像も、戦後の混乱の中、紛失してしまっているということを知り、浜野弥四郎の胸像を関係各方 面に寄贈することを思い立ったという。尚、以前建てられていたという浜野の銅像には、「友人一同贈」と書かれていたが、許氏が色々と関係者に確認すると、 どうやらそれは、八田與一からの寄贈であったという。そのことも、許氏が胸像寄贈を思い立った理由であった。

 趣味とはいえ、相当な腕前の油絵をたしなむ許氏。「デッサンから彫刻までを、私一人で行いました。私の第一号彫刻作品です」。
 一同、和やかな雰囲気に包まれた。

 その後、許氏手製による歌集「懐かしき若き日の歌」が、私たちに配られた。日本の懐かしい童謡・唱歌が掲載されている。私たちのリクエストにあわせ、許 氏が、何人かの社員さんたちとともに、時にはバイオリンをひき、また、時にはギターを爪弾きながら、一同、楽しいひとときを過ごした。

 八田晃夫氏も大好きな軍艦マーチを歌われ、「私は海軍なので、ここのところの歌詞はこうだ」と、海軍式の歌詞も教えていただいた。

 すべての演奏を終えると、八田晃夫氏は、許氏に抱きつき、「会いたかった。本当に会いたかった」と泣きながら叫んだ。許氏が、来年もまた来てくださいと いうと、晃夫氏は、「私はもう年だから、来られない」。傍らにおられた奥様が、静かに、来年も来ますとおこたえになられた。大変、印象的な光景であった。

 八田與一のご子息である晃夫氏には及ばないが、心打たれ、涙しない者はいなかったのではないだろうか。

 山野ゆきよし http://blog.goo.ne.jp/yamano4455/
 山野さんにメール mailto:yamano@spacelan.ne.jp
2005年06月07日(火)長野県南相木村診療所長 色平(いろひら)哲郎
 必修化された臨床研修が始まって1年が過ぎた。

 厚労省が研修必修化に向けて掲げた「医師としての人格養成」「プライマリー・ケア(一次医療)への理解を高め、患者を全人的に診ることができる基本的診 療能力の取得」「アルバイトをしないで研修に専念できる環境整備」という理想とは裏腹に、人手不足が慢性化している病院側には多くの混乱が生じ、指導医へ の負担が高まっている。制度的にまだまだ見直す点は多いだろう。

 いつの時代も「学生さん」から「白衣の先生」に変わったばかりの研修医は、いきなり飛び込んだ臨床現場で「生命の重さ」の洗礼を受ける。必修化された臨床研修は、その重さを研修医の心に「原点」として刻印させる作用を強めたようだ。

 今年3月、佐久病院につどった15名の研修医の1年を追ったドキュメント・NHKスペシャル「研修医・理想に燃える若者が直面する生と死」が放映された。私たち自身の研修医時代を振り返る意味でも、番組で描かれた研修医の姿をご紹介したい。

 その研修医は、「患者さんに頼られる外科医を目指したい。何がきても最初に判断を間違えない。先生、切ってくださいといってもらえる医者になりたい」と宣言して研修を開始した。

 彼が配属されたのは「総合診療科」。佐久病院のなかで、最も「厳しい」とされる科だ

 ここは、複数の障害を抱えている人、そして高齢者特有の病気に罹っている人たちの治療を担う。総合診療科の医師には多角的な医療知識と、患者の生活背景までを把握した対処が求められる。

 研修初日、新卒の研修医は、うっ血性心不全と気管支喘息、さらに肺炎を患うおばあさんの担当を命じられた。彼は、椅子に腰かけて参考書に目を落としたまま、じっと動かなくなった。指導医になった11年目の医長が、たまりかねて声をかけた。

「朝から、ずっとそうやってるようだけど、何か、進展したの?」

 研修医に、おばあさんの脈拍、呼吸の状態を細かく観察するよう指示が出される。おばあさんが、息苦しさを訴える。血液検査の二酸化炭素値が通常の倍ちか くにはね上がっていた。「マジ、高いっすよ」と若い研修医は驚き、「どうしました?」と、苦しむおばあさんに恐る恐る声をかける。

「オラさ......おっかなく、なっちゃう」と、か細い声。

 研修医は、カメラに向かって言う。

「(病室で)診察して、所見とって、(医局に)帰ろうとすると、患者さんが、ありがとうございますって言ってくれる。なんていうんですかね、この人、ほんとに......なんとかしなきゃいけないって......思います」

 研修医が、命の重さをひしひしと感じ始めたころ、おばあさんの容体が急変した。

 喘息の悪化で呼吸不全に陥った。医長は気管支拡張薬の吸入、点滴の処置をしながら「がんばろうね」とおばあさんに大きな声をかけた。研修医は、その横で呆然と立っている。  

「おまえにできること、考えているか」と医長が叱咤する。
「みつかり、ません」と、研修医がつぶやく。
「みつからない? 患者さんに声をかけて!」と医長。

 しかし研修医は声もかけられず、おし黙ったまま、おばあさんの手を握り続ける。医長が、おばあさんの家族を呼び、万が一に備えての話し合いがもたれた。そのミーティングの席から、研修医はすーっと夢遊病者のように離れてしまった。

 じつは、私も研修医だったころ、似たような行動をとった。担当を命じられた患者が亡くなって、病棟を離れ、佐久病院がある臼田(うすだ)の街から山道に 入って1時間近く、何も考えずほっつき歩いた。悲しいとか、苦しいという感情よりも、とにかく人の死が「不条理」で仕方なかった。

 ついさっきまで生きていた人が、目の前で人生の幕を閉じる。医学知識を総動員して、どのように解釈しようとしても、解き明かせない。何のために懸命に治療してきたのか、一瞬で目の前が白くなってしまったことをつい昨日のことのように思い出す。

 家族との話し合いを終えた医長が、研修医に「万が一のときは延命措置を行わないことに決まった」と伝えると、研修医は「はぁ──っ」と深いため息をついて、メガネの奥の涙を拭った。医長は話しかける。

「僕らにできなくて、先生にできることは何か? 時間をつくって患者さんのそばにいること。容態を観察して、変化があったらキャッチして知らせる。重要な役目があるんだ。患者さんのそばから離れるな」

 その夜、懸命な治療の効果があって、おばあさんの呼吸は安定した。生と死を分かつ峠を越え、危機を脱した。

研修医は一枚の紙をずっと大切に保管している。おばあさんが一番苦しんでいたときの血液ガス分析の検査票だ。五里霧中で、悩み苦しんでいたときの「証」。いつまでもあのときの気持ちを忘れたくない、そう思って、研修医は検査票を持っている──。

 この研修医が「特別」なのではないだろう。使命感に燃えて、医師として第一歩を踏み出した者は、誰しも「生命の重さ」に一度はおしつぶされそうになる。徐々に経験を積み、あちこちに頭をぶつけているうちに重さに耐えられる力が身についてくる。

 しかし、それが日常化してくると悲しいかな「生命の重さ」を感じる力は逆に減退する。私たちは、常に「生命の重さ」を自らに問いかけ続けなければならないだろう。

 研修医時代に経験した「原点」は、その医師の精神的な脊柱を形成する。

 30数年前から全科ローテートの臨床研修プログラムを実践してきた佐久病院の一貫したテーマは「病気ではなく、人を診る医者になれ」である。

 色平さんにメール mailto:DZR06160@nifty.ne.jp
2005年06月06日(月)ギターボーカリスト 兵頭ニーナ
 今日は4時頃、トビリシ郊外にあるワイン工場見学に行くことになっていた。

 10日の真夜中に私を迎えて以後ヴィクトリアはすっかり宵っ張りになっていてぎりぎりまで寝て化粧をし身支度を整えた。私は反対に日本時間のまま朝早く 起き 半日ぼぉーっとしていたがとりあえず着替えた。初日のキッチンパーティに朝方5時に加わった女友達のレラもほどなくやって来た。すっかり体調を悪く していた私は本当の所今日のワイン工場見学にはあまり乗り気ではなかったのだ。だって絶対ワインテスティングがあるだろうし日本から着いたばかりの私のこ とが伝えられているので歓迎パーティになるだろうと思うから・・・・・・。

 アパートの下に降りると空港に来てくれたエムザリの車が待っていて3人を乗せ走り出した。車中から見るトビリシの街は車と人でいっぱいで広い道路、ヨー ロッパ風な建物、グルジア語の看板、高くそびえた街路樹などなどをおのぼりさん気分で眺めているうち少しづつ道路はせまくなり家はとびとびになり郊外らし くなってきた。森や林が多くなり野に咲いた花などを見ているうち少しづつ元気になってきた。やがて左側に高い丘が続き右側に川が流れ程なくして橋を渡り少 し上がるとそこにワイン工場があった。

 車を降り金網の戸をくぐると土の中に大きな瓶が埋められた不思議な光景が見えた。満開に咲いた林檎や杏、桃の木の林をぬけて近づくと瓶のそばで小太りで 目の大きなバチャーナ社長が自ら迎えてくれた。「日本から来た友達のニーナです。でもグルジアはニーナという名前が多すぎるから日本名のエミと呼んで下さ い」とのヴィカの紹介に、まあるい目をさらに大きくして「駄目駄目!ニーナと呼びましょう。ねえ、ニーナさん」とがっちりした手で握手してほっぺにキス (グルジア式挨拶)。とても親しみやすい方だ。

 さっそく工場見学。ワイン発祥の地として6000年以上の歴史があるとか伝統の作り方が今も続いてるとか独特な葡萄があるとか後で知ったがあの瓶がそう なのかと感慨深かった。一階の樽置き場でまさにそのグルジアの伝統に基づいたワイン作りを再現しているとバチャーナさんが熱く語ってくれた。二階に上がる と成分分析でもしてるのだろうか学校の化学室をおもいだすような部屋もあった。

 さらに進むと数人のスタッフが陶器のワインボトルに磨きをかけたり筆で模様を書き入れたりする作業室があった。何種類もの瓶はどれもワインを入れずとも 飾っておきたいほど形、デザインが素晴らしかった。このワインを買った人は飲み終わったあともおそらく瓶を捨てがたいだろうと3人で意見が一致した。

 小さな工場なので20分ほどで見学を終え、さて社長室でワインテスティングが始まった。次から次と注がれ並べられるワインは初めての事ながら色や味の違いもわかり好みの味もあった。試作品で名前の無いワインも飲んだ。

 そしてそのまま社長室で夕食が始まった。チーズ数種、サラダ(トマト、きゅうり、フレッシュタラゴン、イタリアンパセリ、万能ねぎ等すべて洗ったそのま ま)子牛のスパイス煮込みと他簡単なメニューだったがワインは飲み放題!恐ろしい限りだ。6時頃始まった食事は延々と続き、ついに10時頃眠気に襲われた 私は失礼して隣の部屋で横になる。目が覚めたら12時を過ぎていた。(日本時間は朝5時?)

 バチャーナさん、ヴィカ、レラの3人はまだ楽しそうに話しながら飲んでいた。ニーナさん起きましたか?もう少し飲みましょう、にははっきり言ってギブアップである。夜は道が空いていて20分。それでも社長の車に送られてアパートに帰りついたのは真夜中の2時過ぎだった。

 こんな事はまだ序の口だったというのを後で知る事となる。

 ニーナにメール mailto:nina2173@v7.com
2005年06月05日(日)企業経営 南出健一
 数世紀にわたって大国に蹂躙され続けた東欧の国々、それも20世紀後半まで国家でありながら国家としての意志が踏みにじられてきた「苦渋の歴史」に思い致さずにはいられません。

 なかでもポーランドの「現・近代史」は国家の生い立ちすら消し去られ、民族そのものが抹殺され続けたことを思うと、誰が神の名において「正義の存在」を認めたのか、けだし神とは邪悪そのものではなかったのかと問わざるを得ない慄きを覚えます。

 その意味でも残忍極まりない仕打ちを受けた国家と民族ために、いま一度この事実を直視し問い続けることが、せめて僕たちが後世に申し送るわずかな責務ではないかと思うのです。

 ■Arbeit Macht Frei

 アウシュビッツ強制収容所の三部作「夜と霧」「アンネの日記」「アウシュビッツは終わらない」をはじめ幾つかの書籍を読み、映像でも「シンドラーのリス ト」「戦場のピアニスト」や多くの古典作品も観てきました。それなりの認識を持ってアウシュビッツを訪れたつもりの人間でも、凍てつく現場に立ち 「Arbeit Macht Frei」を見上げた瞬間、今まで頭の中で積み上げたすべてものが跡形もなく崩れてしまったのです。

 それが如何ほどの薄っぺらな「傍観者的認識」であり、「知ったかぶった軽薄さ」にすぎないものかをはじめて知りました。動かし難い事実と向かい合ったと き、その人間の持つ矜持が見て取れるようにも思えました。そして、すべてのものが霧散していく空しさだけが残ったのです。

 あまりにも欺瞞に満ちているとはいえ「働けば自由になる」という看板の下を潜った数十万の人々は何を思い何を考えたのでしょうか。明日にもガス室に送り込まれる運命であることを知りながら...。

 ■考えてほしい

 1944年、ここアウシュビッツに収容され生き残ったイタリア人化学者プリーモ・レーヴィの書「アウシュビッツは終わらない」(朝日選書 竹山博英訳) の1ページを飾る散文詩をご紹介します。彼がソ連赤軍に解放された2年後の1947年、学者らしく「事実を事実」として出版したものを1972年あらため て若者に向けて編纂したといわれています。

  暖かな家で
  何ごともなく生きているきみたちよ
  家に帰れば
  熱い食事と友人の顔が見られるきみたちよ

  これが人間か、考えてほしい
  泥にまみれて働き
  平和を知らず
  パンのかけらを争い
  他人にうなずくだけで死に追いやられるものが。
  これが女か、考えてほしい
  髪は切られ、名もなく
  すべてを忘れ
  目はうつろ、体の芯は
  冬の蛙のように冷えきっているものが。
  ...............

 周囲をめぐらす二重の高圧線フェンス、囚人たちを睥睨する一定間隔の監視塔、とても60年前のものとは思えないほど異様に整えられた赤レンガの二階建て 収容施設。その建物の一角に積み上げられた7トンもの頭髪、うら若き女性のものと思われる三つ編みのブロンド髪、年老いた男性の白髪、その髪の毛で織った 絨毯や生地の数々、カメラを構えてもシャツターを押す勇気はありませんでした。

 やがて、ヨチヨチ歩きの乳児の可愛らしいブーツ、ハイヒール、軍靴、木靴まで身に付けていたものをすべて剥ぎ取った証が際限なく目に飛び込んでくるのです。障害者の義手・義足、メガネ、トランクの山、その中に一際目立つ持ち主のサインと鮮やかに書かれた1943の文字。

「一体この人たちは前世でどんな悪行を重ねたというのか! でなければ、なぜこれほどまでの仕打ちを受けるか」どうしても自分に言い聞かせ、無理やり得心させなければ次のブースにたどり着けませんでした。

 そして、強制労働の囚人が化学工場で作った毒ガスの空き缶や、まだ「チクロンB」が入った缶のショーケースの前に立ったとき、彼らは「このガスで殺されるのだ」と直感したはずです。そう思った瞬間、すべての思考が途絶えていくのが手に取るようにわかりました。

 ■屠殺システム

 ふたたび、プリーモ・レーヴィの詩の後半をお読み下さい。

  ...............
  考えてほしい、こうした事実があったことを。
  これは命令だ
  心に刻んでいてほしい
  家にいても、外に出ていても
  目覚めていても、寝ていても
  そして子供たちに話してやってほしい。

  さもなくば、家は壊れ
  病が体を麻痺させ
  子供たちは顔をそむけるだろう
   (竹山博英訳 )

 たった一杯の腐ったスープと一欠けらのパンで家畜以下の残酷な強制労働をさせながら、不要になったと見た途端、送り込まれたシャワー室に似せた高い煙突 のガス室。15分か20分後には搬送されるであろう焼却炉と廃油路。その間をつなぐ3台のトロッコ・ドーリーと軌道。何と手順よく設えられた「屠殺システ ム」であることか。とても狂人の仕業ではあるまい、冷静に仕組まれた「フォード生産システム」の原型ではないのか、ここまで観てくると「人間とは何か」な ど甘っちょろい議論自体などどうでもよくなってくるし、そんな「傍観者」の議論をしても通じないことだけがわかってきました。

 1945年1月27日、南下してきたソ連赤軍に開放されたとき、アウシュビッツで抹殺された名もなき人々の名簿の一部が発見され、そのまま展示されてい ます。わずか6年の間にヨーロッパ大陸に散らばっていた150カ所以上の強制収容所と400万とも600万ともいわれている「灰にされ肥料にされた人々」 から見ればほんの一部でした。未だに正確な数さえわからないほどのユダヤ人やロマ人ばかりかナチスに抵抗した人々まで「民族優生学」の名の下に殺戮を繰返 していたのです。

 ワルシャワから4時間有余をかけてたどり着いた真っ白な平原のうらぶれた町の一角に「国立オシフィエンチム博物館」としてアウシュビッツ強制収容所が、 1.5キロ地点にあの忌まわしい鉄道引込線と城郭を模した監視塔がそびえるビルケナウ強制収容所が今も当時のまま残されています。

 ■ここまで書いてよかったのか

 書かずにはいられない思いに駆られながらも、今日まで何一つ書くことは出来ませんでした。それもわずか60年前、ヨーロッパ大陸を狂気の淵に追いやり「人間」が「人間」を屠殺場に送り込んだ「おぞましき事実」を知れば知るほど何を書いていいのかわからなかったのです。

 受けた衝撃の大きさもさりながら、どのように書けば彷徨い続ける数百万の人々の「魂」に許しをもらえるのだろうか、ほんの僅かでもいい、許しが請えられるものならば何でもいいと願いながらも結局、今まで書けなかったのです。

 とはいえ、この事実を知った者はすべからく書き留め、未だ知らない人々に教える責任があるのではとも考えました。恐らく、友人の簑原氏そして椿氏と2人の娘さんたちも同じことを考え続けていると思います。

 お互い「生」ある限りこの事実への答えを問い続けなければならないことも承知しているでしょう。

 そして、アウッビッシュを訪れた世界中の人々が「許しがたき事実」を目の当たりにした以上、誰もけっして忘れはしないでしょうし「繰返される歴史」の愚かさに終止符を打ちたいと願うことでしょう。

 もう一度、繰り返して申し上げなければなりません。本当に僕ごとき傍観者がペンをとっても許されることだったのでしようか。いまも迷いに迷い続けそこから抜け出せないまま、書かかなければという思いだけで認めたものです。

 奇しくも僕たちが凍てつく彼の地を訪れたのは1945年1月27日の解放から60年後の40日過ぎた2005年3月8日でした。(05.03.31)

 南出さんにメール mailto:minamide@aupa.co.jp

このアーカイブについて

このページには、2005年6月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2005年5月です。

次のアーカイブは2005年7月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

月別 アーカイブ

ウェブページ