2005年5月アーカイブ

2005年05月28日(土)ギターボーカリスト 兵頭ニーナ
  国内での音楽活動に区切りをつけ、ギターボーカリストNINAこと、兵頭ニーナさんがトビシリにその活動を拠点を移しました。そのNINAから突然のメー ルが飛び込みました。ロシア人の母、日本人の父(元満鉄調査部)ゆえか独特の情感がある歌声が途絶え、懐かしさが言の端にのり始めた頃、トビシリの情景と ともに女の子?らしい、チョット不安気な内容でした。

 期を同じくしてブッシュ大統領がグルジアを訪れ、元ロシアの子に歯の浮くような言葉を投げかけていました。俗に「こっちの水は甘い」ということです。一 躍脚光を浴びたグルジアの蜜に国民はどう応え、変化してゆくのか、いや翻弄されるか。ニーナの目はその庶民に向けられていました。日本の女性にとって、ま ことにウザッタく面倒な国際政治や経済の問題が否応なしにグルジアに降りかかります。

 歴史の操りと貧困ゆえか、人情豊かな庶民の生活や生活事情は放蕩に馴れた日本にとって、いずれかの蘇りに効ある便りにみえました。

 転送した伴、大塚氏からニーナのグルジア生活観は、面白い、知らせるべき、との歓迎があり、萬晩報に記載されることになりました。

 ホームシックを乗り越え、グルジアでの夢を挫折?させないためにも応援していきたいとおもいます。

 ちなみに、あのヒット曲百万本のバラを一番最初にレコーディングしたのはニーナですし、小文「請孫文再来」のテーマ曲『トシコ』も作曲しています。萬晩報の諜報員、いや特派員の調査報告をお楽しみください』


  【トビリシに来たニーナ】旅立ち

 4月10日。10日間もお世話になった矢島家を朝9時半に出発、成田に向かう。日曜日とあり混雑を予想したが以外にスムーズに走った。高速道路沿いの満 開の桜はいつ帰国するかも知れない私の心に素晴らしい日本の景色としてしっかりと焼きついた。

 さて、ギターとノートパソコンを除いた荷物は80キロ。いったいどのぐらい超過料金を取られるだろうと心配していたが、私のチケットが40キロまで無料 (20キロと思っていた)といううれしい誤算で5万5千円ぐらいでおさまった。

 と思いきや「本日満員のため畿内に持ち込めません。大切にお取り扱い致しますのでギターをお預けください」。あまり信用できないがパソコンじゃ完全にいかれてしまう。でさらに5千円ほど払って泣く泣くギターを預けた。

 チェックイン、荷物預け、ドル交換で1時間もかかった。矢島夫妻と私の愛猫ルーシーの里親小原さんらと軽くお茶を飲み、トルコ航空機内に乗り込んだ。イ スタンブールまで12時間、空港で3時間待機の後トビリシまで3時間20分というなが~い旅の始まりであった。

 とにもかくにも12時間も座りっぱなしというのはもはや苦痛以外の何者でもない。持ち込んだ本を一冊読み終わり、2回食事をし、映画を2本見てその間う たた寝をした。あ~それでももてあまして、機内をうろうろ。ほとんどの人が寝ていたがもはや寝るのもきつかった。

 乗換え後、トビリシに到着したのは真夜中の午前2時半。空から見た街は暖かな光にキラキラ輝いていた。出発前日、ヴィクトリアと電話で最終打ち合わせ た。「機内を出たらすぐにVIPと書いたマイクロバスに向かってください。私はVIPルームで待っています。ご心配なく」。あわてずゆっくり降りてマイク ロバスの前に行き名前を告げると荷物引換券を取られてNo3と書かれたワゴン車に乗せられる。もうこの先はグルジア語も解らないビザも無い私にとってヴィ クトリアだけが頼りだ。意外なほど冷静に覚悟を決めていた。

 車を降りて外階段を上がると少しばかり薄暗い十畳くらいのVIPルームでヴィクトリアが笑顔で迎えてくれた。

「ニーナさんようこそ!」
「ヴィクトリア、約束どおりグルジアに来ましたよ」

 軽く抱き合うとそれまでの緊張がいっぺんにほぐれた。

「お友達のジミートゥリーよ。ジーマと呼んで」
と背の高い男性を紹介された。

 早速グルジア語で書かれた書類にいわれるまま、私の名前、パスポートナンバー、ヴィクトリアの住所など書き入れ10ドル払うとあっけなく1カ月のビザが おりた。荷物は表の階段の下に無造作に置かれてあった。数をしっかり確認し2台の車に積み込んでトビリシ市内へ向かった。

 なにせ真夜中の3時すぎである。人も車も少なかったが、沿道にはキオスクみたいなテント張りの店がいくつも並び薄暗い灯りをともし、足元を毛布等でくるみ、居眠りしながら営業していた。

 よくがんばるなーと感心する。市内に入ると建物が高くなり道が広くなりカジノの派手なネオンサインがまだ光っていた。

「どう? 寝る前に少し飲みましょう」と誘われグルジアの買い物初体験とばかりに彼女の後に続く。BIGBENという24時間営業の高級スーパーマーケッ トだそうでビール、ワイン、チーズ、レモネード等を買い込んでそこから3分でアパートに到着。

 重そうな木の扉を鍵で開けると真っ暗な中に階段が見え、ヴィカの後ろに続いてギターを持って4階まで一気にあがった。長旅のあとの私には少々きつすぎて ぜえぜえと息が切れた。ベルを押すとまたまた重そうなドアーがギギギーときしりながら開きリューバ母さんの笑顔があった。去年の11月に彼女を成田から見 送って以来5カ月ぶりの再開だ。荷物はジーマとエムザリがすべて運び入れた。

 さてそれから私達の小さなパーティが始まった。時計は日本時間朝の9時を指していた。

 まず軽くビールで乾杯、それからワインを開けた。間もなくヴィカ(ヴィクトリア)の親友レラも表敬訪問に駆けつけ女3人のキッチンパーティが盛り上が る。しかしなんと言っても朝の5時だ。日本時間では午前10時ということだ。日本にいたらもう起きる時間だなあ早くグルジアの時間に慣れなくちゃなあと 思ったが、もはや自分は寝たいのかどうか身体からの信号が掴めなかった。

 酔っ払って寝ちゃえ!とばかりに勧められたチェリー酒も飲みはじめた。友人のワイナリーで造っているそうだ。

 これが何ともおいしくて止まらなくなり少々飲みすぎてしまった。

 疲れと酔いと興奮と寝不足で身体が相当まいっていたのだろう。その日の午後に3回も吐いてしまった。吐いては水を飲み吐いては牛乳を飲み、と胃液の調整をはかり夜にはおさまったが充分とはいえず腰と背中が痛かった。

「5時間の時差を飛び越えるには1ヶ月ぐらいかかりますよ」
ヴィカの息子イサトが教えてくれた。

 ニーナにメール mailto:nina2173@v7.com
2005年05月27日(金)萬晩報主宰 伴 武澄
  火曜日、木曽の上松に行った。8年後、伊勢神宮で式年遷宮がある。神さまのお引っ越しは20年ごとにある。いつもすがすがしいところにお住まいいただくと いうのが趣旨だそうで、1300年前の持統天皇の時に始まった。8年後に向けた造営に使う御神木を切る儀式「御杣始祭(みそまはじめさい)」が6月3日に あるため、下見に行った。

 ■尾張藩から続く営林

 上松は谷あいの町である。木曽川に張り付くように街並みがあり、面積のほとんどは森林である。その川筋から西へ林道を15キロ行ったところに赤沢休養林 がある。天然のヒノキが育つ国内でも数少ない美林地帯である。いまは国有林だが、戦前は皇室の御料林、その前の江戸期は尾張藩の御用林だった。伊勢神宮の 遷宮や大きな寺社の造営のため400年近くにわたり保護されてきた。

 御嶽山に連なる南麓の長野県から岐阜県にかけては「木曽の五木」といってヒノキ、サワラ、ネズコ、アスナロ、コウヤマキなどの針葉樹が生えている。江戸 時代は「ヒノキ一本、首ひとつ」といって伐採が禁止されていた。広大な国有林はいまも入山が厳しく制限されている。

 今回の遷宮のために切り出される予定の御神木は赤沢休養林の駐車場からさらに10分ほど専用道を走った深い山中にあった。

 森の土は何百年もの間、積もった枯れ葉でできている。歩くと雲の上にいるようである。靴が沈み込む感触がなんともいえない。息を吸うとまた別世界であ る。質感のある気体を吸い込むと体のすみずみまで空気が染みわたる不思議な感覚がある。

 冬は気温が零下20度まで下がるというから、植物の生育には厳しいが、それだけ剛性の高い樹木が育つのだそうだ。人間がめったに足を踏み入れることのな い世界とはいえ、御神木に必要な樹齢300年ものヒノキはそう多くあるわけではない。

 案内してくれた木曽の杣である藤澤佑吉さんは言う。

「20年前も最後の御神木切り出しといわれたが、またその切り出しのときがきました。御神木は2本切り出すのですが、儀式では二本の御神木が交叉するよう に倒さなければなりません。間隔が20メートル以内でないと重なりません。山中からそんな状況で生えている樹齢300年のヒノキを探し出すのです」

 ■木を慈しむ文化

 木は日本の文化である。高度に発展した文明で木が中心となっていたのは日本だけだろう。木は決して弱い建築材ではない。法隆寺の修復に当たった故西岡常 一氏は名著『法隆寺を支えた木』(NHKブックス)で述べている。1000年を経たヒノキでつくられる建物は1000年の命を保つと。

 伊勢神宮の場合は少々違う。300年持つ建材であるのに20年ごとに建て替える。逆に常にその用材を必要としていることが森の存続を意識させる。人々に そんな営林の意識を育ませているのだとしたら一つの英知であるといえるかもしれない。

 前回1985年の御杣始祭のビデオをみせてもらって、いくつもの感慨に浸らされた。樹齢300年の御神木は三方から小さな斧で1時間もかけて切られる。 木曽特有の「三紐伐り」(みつひもぎり)という伐採方法だそうだ。今どき森林を伐採する際に斧を使うことはまずない。20年に一度だけこの地で儀式として 残る。木は切るものではないのだそうだ。杣人(そまふ=きこり)の間では「寝かせる」という。切り倒した木が傷まないよう心配りが不可欠なのだ。静けさの 中にコーン、コーンという斧の音が響き渡る光景は荘厳である。

 残念ながら御杣始祭は関係者にしか公開されていない。しかし、NHKは昼にその模様を全国中継する予定である。また上松町では6月4日、5日と「御神木 祭」を行う。両日、JRは普段は止まらない中央線の特急列車を上松駅に止めるというから多くの観光客で賑わいそうだ。
2005年05月26日(木)萬晩報通信員 成田 好三
 プロ野球開幕以来、東北楽天イーグルス(楽天)が連戦連敗街道をまっしぐらに突き進んでいます。交流戦に入っても、その勢いはとまりません。

 超弱体球団・楽天に関して、スポーツライターの浜田昭八氏が5月23日付の日経・スポーツ面のコラム「選球眼」(見出し「田尾監督、まず補強を勝ち取れ」)で、「敵と戦う前に、まず補強をためらう味方のフロントと戦わねばならぬ」と書いています。

 まさに正論です。浜田氏の指摘の通り、楽天が負け続ける理由は、田尾安志監督の采配ではなく、他球団に比べ戦力が極端に劣っているからです。

 勝率だけでなく、楽天は打撃、守備部門などすべてのデータがダントツで12球団中、最下位の数字を示しています。

 楽天は24日の中日戦でようやく10勝目を挙げました。その戦力からすれば、むしろ早い時期での2桁勝利達成といえるでしょう。それほど他球団に比べて戦力が劣っています。

 しかし筆者は、楽天ファンや仙台市民の誤解を恐れますが、あえてこう主張します。「楽天は今シーズン、補強などせず、現状の戦力で戦い続けるべき」と。そうでないと、極端に弱い戦力しかもたない球団をつくらせた、球界の責任がうやむやになってしまうからです。

 プロ野球に限らず、スポーツのリーグ戦で極端に弱い球団が存在することは、その球団だけでなく、リーグを構成するすべての球団とリーグ全体に不利益をもたらします。

 戦う前から勝ち負けが分かっているような試合では、ファンは興味をもてなくなります。楽天と対戦する他球団の観客数は減り、TV視聴率も下がります。ファンのプロ野球離れをさらに加速させることになります。

 では、極端に弱い球団をつくった、あるいはつくらせた責任は誰にあるのでしょうか、楽天の三木谷浩史オーナーや球団経営者、田尾監督など現場にあるのでしょうか。  
楽天側にも責任はあります。しかし、最大の責任は根来泰周コミッショナーはじめ、ダイエー球団を買収したソフトバンクを除く既存の他球団のオーナーや親会社、球団の経営者にあります。

 彼らは、楽天の新規参入に際して、楽天にリーグ戦を戦えるだけの戦力を与えなかったからです。

 彼らは、礒部公一外野手を除いては、オリックスと消滅した近鉄の一軍半、二軍の選手と他球団から戦力外通告を受けた選手しかあてがいませんでした。岩隈投手はあてがわれたのではなく、オリックスの残留方針を振り切った、彼の強い意志によって楽天に移籍しました。

 新規参入に際して三木谷オーナーが求めたエキスパンション(拡張)ドラフトは、時間がないという理由で拒否しました。

 MLB(米メジャーリーグ)の場合は、新規参入球団には、他球団が一定の保護選手を確保した上で、選手を「供出」します。それが拡張ドラフトです。これを受けて新規参入球団はリーグ戦を戦える最低限の戦力を整えます。

 なぜそうするのか。先に書いたように、リーグに極端に弱い球団が存在すると、リーグ全体が不利益をこうむるからです。

 MLBでは、それでも新規参入球団が既存の他球団とまともに戦える戦力を確保するには数年、あるいはもっと長い年数がかかります。

 楽天の連戦連敗の原因をつくった最大の責任は、リーグ全体の利益、ファンの利益を考慮に入れない根来氏や、自らの球団の利益にだけしがみつく他球団のオーナーや親会社、球団の経営者にあります。

 彼らの責任を明確にするためにも、楽天は今シーズン、負け続けるべきだと考えます。

 拡張ドラフトの拒否ばかりではありません。球界は交流試合の実施を除いては、ドラフト改革など球界の構造改革をすべて先送りにしています。

 今シーズンの巨人人気の低迷、視聴率低下や入場者数の激減も、すべてはこうした球界の姿勢に対して、球界の「盟主」を自認する巨人をターゲットとして、ファンが拒否反応を示した結果といえるでしょう。 (2005年5月24日記)

 成田さんにメールは mailto:narita@mito.ne.jp
 スポーツコラム・オフサイド http://www.mito.ne.jp/~narita/
2005年05月25日(水)早大アジア太平洋研究センター特別研究員 文 彬
 ■インターネット上の「憤青」

 反日デモの発生した翌日、企業訪問のため中関村エリアに入り、件の「海龍大廈」前を通りかかった時、タクシーの運転手に「ここだったね」と尋ねると、彼は「まったく迷惑千万の憤青ども」と不快の色を隠さなかった。

「憤青」(Feng Qing)とは「憤怒青年」の略で、発音が似ていることから時折「糞青」と揶揄されることもある。また、ローマ字の頭文字を取って「FQ」とも呼ばれてい る。彼らの多くは高レベルの教育を受けており、一般市民と同等か、それ以上の生活を送っている。政治と社会問題に多大な関心を示し、時折過激な言動に出 る。また、自らを愛国者と認め、反米・反日感情が強い上、しばしば日米と共生を図る中国政府にも罵詈を浴びせる。

 しかし、政府の厳しい統制によって極稀なケースを除けば表に出て活動することはほとんどなく、インターネットを主な活動の場としている。かつて日本と米 国の政府サイトを攻撃したのも彼らによる仕業だと言われている。言わば現代中国の右翼的な存在だ。連日の反日デモも「憤青」のネット呼びかけによって起き たもので、デモ参加者の中にも「憤青」は多いだろうが、彼らの行動は必ずしも一般市民の支持を得ているわけではない。

「デモ参加者は1万人と報道されているが(実際は500人程度で残りは野次馬だと証言する目撃者もいる)、現在の北京の在住人口は1400万人に上ってい る。表現の自由が限定的でありながらかつてより大幅に許され始めた中国だから、日本嫌いの人間が0.07%くらいいても驚くにあたらない」と、私は出張か ら帰ってきてから日本人の友人に説明したこともある。

 中国憤青の主張をそのまま日本人がやると「サヨク」、日本版の憤青が「ウヨク」である。中国のネット論壇を観察するうえで「憤青」(FQ)と「精 英」(エリート。JYと略称される)という言葉に代表されるふたつの思潮を理解することが重要だと思う。(WJCF4月23日)


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 WJCFコラム http://www.wjcf.net/
2005年04月23日(土)ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口 坦
  中国で反日デモがはじまってから私が日本人と電話で話していて気がついたことがある。それは多くの人が事件のはじまり方を突然に感じている点で「何で今 に」といった発言に表れた。ところが、私の最初の感想は長い間おそれていたのがとうとう来たであった。この違いは、私が欧米特にドイツのマスコミに接して いるからである。

 この2,3年来、こちらでは日中関係となると、体面を重んじる儒教文化圏の二大国が覇権(面子)争いをしているイメージがある。ところが、しばらく前からこの関係が劇的に悪化しつつあるとする報道に私はよく接した。
  
 ■中国製マッチポンプ

現場にいた欧米ジャーナリストが書いたものから判断するかぎり、中国の反日デモ・暴動はやらせのように思われる。だから中国政府が主張するような「自然発 生的」なものではない。ジャーナリストが現場でそう直感したのは、人々の役割分担が前もって決まっているなどデモがあまりにもよく組織されているように見 えたからだ。

 例えば、日本の国旗を取り出して火をつける役目の人がいる。燃えて炎が出た途端別の人が順番を待っていたかのように出てきて用意していた消火器で要領よ く消すといった具合である。この場面の記述を読みながら私は昔日本にあったマッチポンプというコトバを思い出して思わず笑ってしまった。これは自分でマッ チを擦って火をつけて(=もめごとを起こして)おいて消火ポンプで消して(=もめごとをしずめて)利益を得る怪しげな政治家の行為が当時この名前で呼ばれ ていたからである。次に欧米人の記者に目立ったのは、お祭りの行列を随行するような警官、またテレビカメラを意識して石投をする人々などであった。

 学生ならこのようなデモを組織できるだろうし、また彼らが組織したとしたら「自然発生的」である。ところが、多くのデモは、生憎なことに、北京や上海以 外の出稼ぎ労働者が住む経済特区の町で起こっている。このような事情からも、共産党に近いところにいる人々が反日デモを組織していると推定される。

 戦争犠牲者の補償を日本に要求している市民運動家として欧米で知られているTong Zeng氏がドイツの新聞に登場した。自称会社経営者でドイツ製高級車BMを乗りまわすこの市民運動家は、江沢民から現在の指導者に交代してから運動がしやすくなったと自慢していた。

 共産党が一枚噛んでいると思われる決定的な理由はそのメディア操作である。中国語メディアの関係者、すなわち国内向けのメディアではたらく中国人に、共 産党支部から反日デモの報道を控えるようにという通達が出されていたことである。(このような情報が欧米のメディアにもれることは、中国がかなり開放的情 報社会になりつつあることを物語る。)

 ■メディア操作の目的

 中国語の国内向けメディアに反日デモの報道をさせないようにするのは、反日デモがコントロールできなくなる状況を政治指導者がおそれているからである。 誰か上のほうの人からデモに誘われてあなたは参加する。週末反日を叫んで歩き疲れてねる。これはいいが、よその町で反日デモがあったことを聞いた誰かが自 発的に反日デモを計画し実施する。これはまずいので、このような報道規制がされたことになる。

 2004年、理不尽に怒った住民が徒党を組んで地方自治体や共産党支部に対して行った抗議デモが約5万8千件もあったとされる。国内のメディアに反日デ モの報道制限をしたのは、反日デモがこのような住民デモと合流することをおそれているからだ。そうなったら反日デモと反政府デモは重なり、これを押さえよ うとするのは、反日(=愛国主義)を否定してしまうことになる。愛国主義が儒教と並び中国共産党のイデオロギー的支柱である以上、これは現在の中国政治指 導者が自分から墓穴を掘ることになる。

 次に考えることは、反日デモが共産党のコントロール下にとどまっているか、それとも暴走しはじめているかという問題である。少し前、ニューズウィーク誌 はフー チンタオ国家主席がその点を特別におそれていると報道した。でもチベット弾圧の功績があったこの政治家が心配そうな顔をして、自然発火だったと、すなわち 反日デモが「自然発生的」であったと国際的に著名なメディアを利用して発信しているのではないのか。現在、反日デモがあった町に沈静化のために人を派遣し たり、中国公安関係者が不法デモを取り締まるとか約束したりしている。でもこれらは、消化役の人々が消化ポンプをふりまわして間接的に「自然発火説」を強 調していることになる。もちろん古今東西火遊びが火事になることはあるので、予防措置と見なすことができるかもしれない。いずれに事態はコントロール下に ある。

 デモである以上、発信するメッセージがあり、またその宛て先があることになる。去年のサッカー・アジア選手権で拝見したように反日感情は国民にじゅうぶ ん以上に浸透し、またすでに触れたメディア操作からわかるように反日デモのメッセージの宛て先は自国民でなく(日本を含む)国際社会である。

 次にメッセージ内容は何であるのか。(日本社会がどのように理解したかは別にして、)国際社会のほうはとっくにキャッチした。というのは、反日デモがは じまってから、温家宝・中国首相とシン・インド首相会談で長年敵対関係にあった中印両国がお手打ちする。その後の記者会見で中国首相が反日デモの意味を解 説する。「これだけの多数の中国人(=アジア人)が過去を反省しないことで怒っていることからわかるように、日本はアジアを代表する国連安保常任理事国に ふさわしくない」である。このために用意された舞台装置は完璧で、アジアでの日本の孤立をしめし、中国はごていねいにもインドの常任理事国賛成まで表明す る。

 でも日本常任理事国・不適性のためのアッピールだけならデモだけさせておけばすむはずである。ときどき「石投げ」をさせるのはなぜなのか。昔から東アジ アの儒教文化圏には「膺懲(ようちょう)戦争」の伝統がある。これは、教育と称してビンタを加えるように隣国に対してしかける戦争で、最近では1979年 に中国がベトナムに対して実施したが、私は今回のデモを見てこのタイプの戦争を連想した。戦争が(かの有名なドイツの戦略家が書いたように)別の手段によ る外交の延長であるとするなら、今回はその「別の手段」が国内での街頭デモであり、少々手がすべってビンタするように「石投げ」にしたのではないのか。

 同時に、この実力行使は日本に対する威嚇・挑発であり、軽率な行動を誘い、日本国民に「過去の反省」が欠けている証拠をひきだすためかもしれない。いずれにしろ、人民服より背広が似合うようになった中国の現在の指導者は戦略的思考に長じているように思われる。

 ■高額納税者は当選して当然

 これに対抗する日本の小泉首相はどうであろうか。よくいえば自然体であるが、悪くいえば支離滅裂だ。国連安保常任理事国になることが日本の重要な目標であるのなら、なぜ今中国とことを構えるのか。そうしたければ日本が安保常任理事国になってからはじめればよい。

 常任理事国立候補でアジア諸国の支持が必要なのになぜ領土問題で韓国を怒らせたのか。常任理事国と竹島の返還が二つの重要な国家目標であるのなら、「竹 島の日」とかいう条例の制定を阻止するべきではなかったのか。というのは、この条例の制定で島が戻ってくる目標が達成されるわけでないし、韓国を怒らすこ とで第二の目標の達成を困難にするからである。目標があるのなら、奇妙な行動をとってその達成を困難にするのは愚かなことではないのだろうか。私はこのよ うに思うし、同じ疑問をもつ外国人ジャーナリストからも質問されて説明に困った。

 私が想像することであるが、日本国民は自国が経済大国であり、国連負担金もたくさん支払っている。だから安保常任理事国になっても当然と考えているから ではないのか。こう思い込んでいるために、中国や韓国が賛成するか、しないかなど、日本には重要に感じられない。でもなぜこの考えが甘いと考える人が日本 では多くないのだろうか。例えば、大金持ちが衆議院に立候補する。ところが、この人は選挙運動もしないし近所の評判も気にしないで、自分が高額納税者であ るから当選できると思い込んでいる。これは甘い考えだと普通なら思うはずである。とすると、やはりテーマが外交となると常識が忘れられて、高額納税者は当 選して当然と考えてしまうのかもしれない。でもこれは、私たちが外国に出ると他の価値を認めない金権主義者になってしまうこととと、、、

 ■認識ギャップ

 ここまで書いたところで、私は「日中両国に対立を平和的に解決することを望んでいる」とアナン国連事務総長が述べたニュースを読む。これは私にショック である。というのは、私の祖国はもう半世紀以上も前に「国権の発動たる戦争は放棄して」、紛争を平和的に解決することしか考えていないはずだからである。 それなのに、国連事務総長からこんな勧告を受けるなんて、、、

 そのうちに私には、こんなニュースなど日本で誰も気にしていないような気がしてきた。冒頭で日中関係について日本のメディアと欧米のメディアの間にある認識ギャップに触れたが、この点についてもう少し述べる。

 多くの日本人は、教科書も靖国神社も、以前からある問題であり、反日デモをひきおこすきっかけなど特になかったと考えていたようである。ところが日本の 外にいるとそう考えない。というのは、日本が米国といっしょに「共通戦略目標」を発表し、その中で台湾海峡問題の平和解決を呼びかけた頃から、欧米メディ アでは、中国と日本の対立がエスカレートし、コントロールできなくなることを心配する声がではじめた。というのは、台湾問題は靖国神社と質が異なるからで ある。

 愛国主義的教育を受けた多くの中国人の眼には英植民地・香港は民族が被った屈辱の象徴であったが、台湾も同じである。この点で日本にとって台湾問題は 「中国の国内問題」と呼んで済ますことができない厄介さある。そう国際社会のほうは思っていたので、中国と対立路線を進む日本が当時その線を踏み越えたこ とに驚きと不安を覚えた。

 ■シャドーボクシング

 ヨーロッパのどこかの国で今回中国で起こったようなデモ+暴力沙汰が発生したらたいへんなことになる。というのは、この文化圏にはユダヤ人迫害の伝統が あり、最近では第三帝国ドイツでナチ突撃隊が行進してユダヤ人の商店を破壊した。このような文化的背景では、暴力を伴った反日デモはポグロムに近い野蛮な 行為と見なされる。発生後しばらくの間、欧米メディアの論調もそちらの方向にその判断が傾きかけていた。

 日本はこのチャンスを逸する。というのは、日本政府は東シナ海で天然ガス田開発をすすめるために民間業者に対する採掘権付与をはじめると発表したからで ある。この結果、状況が覇権を争う日中両国の対立のイメージもどり、反日デモを東アジアの事件と見なして、欧州の尺度(文明vs野蛮)をだんだん適用しな くなる。その後日本が謝罪を要求し、すっかり体面を重んじる儒教国家同士の角の突き合いになってしまった。

 こうなったのは、日本政府が「断固とした態度をとれ」とか「足もとを見られてはいけない」とかいう国内の声を尊重したからである。でもこんなのは国内の 応援団に激励されて小泉首相が鏡の前でシャドーボクシングしているようなもので、国際社会で日本が置かれている現実の状況と関係がないし、日本が損するば かりである。その証拠に、EUの対中国武器禁輸解除の是非が議論されたが、見送りの理由として挙げられたのは中国国内での人権侵害で、次が台湾問題。進行 中の中国の反日暴力デモに言及する声は欧州ではごくわずかしかなかった。

 多数の日本人観光客が中国を訪れてお金を落とし、多数の企業が現地投資をしている。だから中国側が折れるとか、日中の経済のパイプが太いので大事に至ら ないと考えるとしたら、これも呑気な見方である。これは日中双方の人々が皆経済至上主義的価値観をもっていると勝手に思っていることである。でも、本当に そうなら奇妙なシャドーボクシングにはげむ人も出て来なかったし、マッチポンプもにならなかったはずである。
ということは、世界中の誰もがその重要性を認める中国と日本の関係がこわれないようにもっといろいろなことを配慮すべきである、もしまだ修復可能であるのなら。

 美濃口さんにメールは mailto:Tan.Minoguchi@munich.netsurf.de
2005年05月23日(月)早大アジア太平洋研究センター特別研究員 文 彬
 5月23日、共に独身で個性豊かな政治家としても有名な二人が東京で会談する予定となっている。日本の小泉純一郎総理大臣と中国の呉儀副首相である。

 中国に多少なりとも関心を持っているならこの人を知らない人はいないだろう。米国『フォーブス』誌が2004年8月に発表した世界で最も影響力のある女 性トップ100では、コンドリーザ・ライス大統領補佐官(現米国務長官)に次いで2位にランクインしているほど世界の外交舞台でもしばしば話題を呼んでい る女性政治家である。

 石油技師出身の呉儀女史は20年にわたって石油畑を歩んだ後、1988年北京副市長就任を皮切りに対外貿易相(対外経済貿易部長)、国務委員、副総理 (党内では中央政治局委員)と多くの要職を務めてきた。特にSARS(新型肺炎)騒動の最中に虚偽報告で失脚した衛生相(衛生部長)の後を受け、先頭に 立ってSARS対策の指揮を取ったことで、その名声は今まで以上に高まった。中国ではサッチャー元英国首相と並んで「鉄娘子」(鉄の女)と呼ばれている。

 日本側の靖国神社参拝、教科書問題、そして中国側の反日デモで両国関係が冷え切ったこの時期に中国があえて呉儀女史を日本に派遣したのは関係改善を求め る中国の期待を表していると言えよう。呉儀氏は中国中央指導部の中でも日中関係の重要性を強く主張し、多くの公的な場でこれまでの中国経済建設に対する日 本の援助に感謝の言葉を繰り返している数少ない要人の一人である。

 呉儀女史と小泉首相のもう一つの共通点は共にダンス好きだということだ。先日、米俳優のリチャード・ギア氏と社交ダンスのポーズを取る小泉首相が中国人 の視聴者にも好印象を与えたが、是非呉儀女史にも「シャル・ウィ・ダンス?」と言えるような余裕を持っていただきたい。日中関係にも時にはこのような雰囲 気を和らげるパフォーマンスが必要なのである。

 文さんにメール mailto:bun008@hotmail.com
 WJCFコラム http://www.wjcf.net/
2005年05月23日(月)アメリカン大学客員研究員 中野 有
 アメリカのシンクタンク

 シンクタンクの活動にずっと興味を持ってきた。ブルッキングス研究所や大学のシンクタンクに乗り込み内部からその活動を観察してきた。そこで学んだこと は、個人の発想と情熱がシンクタンクの原動力になっていること、時勢に適ったトピックのシンポジウムが開催され世界のマスコミに刺激を与えていること、そ して、大学のアカデミズムと外交官の実践が調和され、加えてアメリカの視点のみならずグローバルな多国的視点で構想が練られていることである。

 数カ月前のニューヨークタイムズのコラムで指摘されていたことだが、1971年はじめにCIAは、米中関係に大きな進展は期待できないとの分析を行っ た。その巨大な組織と莫大な予算と時間を費やして出された結論に反し、一個人は米中関係に大きな変化があるとの分析を行った。その半年後には、キッシン ジャーが北京を訪れ、周恩来との歴史的対談が行われたのである。

 見事に巨大組織の分析ははずれ、個人の洞察が現実となったのである。これは、極端な例であろうが、国務省、ペンタゴン、CIA等の巨大組織の弱点を埋め る効用として、個人の構想が尊重されるシンクタンクの存在がある。そこには組織の重要なポストを経験した人物が組織では規制がありできなかったことを、シ ンクタンクの活動を通じ、自由奔放にマスコミに個人的な見解を情熱を持って発表している姿がある。この自由がアメリカのシンクタンクの魅力である。

 トインビーの着想

 しかし、これらのシンクタンクの魅力に接しても、シンクタンクが本当に世界をそして歴史を動かすだけの含蓄があるとの満足感を得ることはできなかった。 現実には、タイムリーに国際情勢の流れを洞察すると云っても、日々の出来事に敏感に反応しているだけだと感じることが多かった。

 そんな時、アーノルド・トインビーの「歴史の研究」を熟読し、米国のシンクタンクに欠如している歴史的・文化的背景を透徹する哲学的な眼光を見い出すこ とができた。トインビーは、英国の王立国際問題研究所の研究部長として1925年から54年まで30年かけて既存文明の生起興亡、則ち文明の発生、成長、 衰退、解体という歴史過程を支配している法則を研究した。それを応用し、文明の統一性、持続性、並行性、同時性の観点から現状分析を行ったのである。

 具体例として、トインビーは、1914年の世界大戦がヨーロッパ文明にもたらした経験と、紀元前431年のペロポネソス戦争がイギリス文明にもたらした 経験とが同時性があると分析し、また満州事変勃発に際し、日本の責任の重大性についてローマ帝国と戦ったカルタゴの運命であるという洞察を行ったのであ る。

 インビーの視点では、人類の歴史の長さから観ると文明を生みだした期間はほんの短期間であり、その文明の何千年という期間に人類は同じことを繰り返すという考えに達するのである。

 トインビーの着想をシンクタンクの活動として応用することにより、より信頼のおける構想が生み出されるように考えられる。以下、トインビーの歴史の研究を読み特に感銘を受けた示唆を列挙する。
  1. 現在を遠い過去の出来事のように考えてみることにより、歴史上にある過去の時代との同時性を冷静に展望できる。歴史を双眼的に見る。歴史は単なる事実の集積でなく、啓示なのである。
  2. 歴史と社会科学とがアカデミックに区別されていることは、偶然なことであって、この伝統的な障壁を破って、人間的問題の総合研究に投げ込まなければいけない。
  3. 異なる文明に属する同胞を助け、互いに他の国民の歴史を理解することにより全人類の共通の成果と共通の財産を見いだし、敵意をいだくことを少なくすることができる。
  4. 衰 退に至った文明の歴史の中に、必ずしも実現することに成功しなかったとしても、事態を収拾する別の解決法が発見されたことが認められる。それが協調の理想 である。その精神が現代に現れたのが、国際連盟と国際連合である。この協調の理想は、孔子や老子がいだいた思想でもあった。政治における目標は、致命的な 争いやノックアウト的打撃のあいだの中道を発見することである。
  5. 平和競争という形での平和共存においては、相手にうち勝つためには相手の長所をとり入れて自分の弱点をカバーしなければいけない。そうすると、そういう作業の中で相互接近が行われる。この線が中道の線である。
  6. 国連そのものは、世界のそれぞれの国の人民とは直接つながっていない。政府を通じてつながっている。人民に直接つながる国連が必要である。
  7. 貧しい国の利益のために、富んだ国に重税を課すことができるような強力な世界政府を作ることが重要だ。貧乏な人達があまり挑発的・暴力的になったら、これはどうにもならない状態が生み出されるので中道の道を見つけなければならない。
  8. 西欧の宗教戦争の歴史の示すところは、精神上の問題は武力によって解決できるものでないことを証拠だてている。そうだとすれば武力解決でなく、新しい世界政治体制を造り出すことによって解決する以外に方途はない。
  9. 歴 史を眺める際に、我々の見地が、たまたま我々のおのおのが生まれた時代と場所によって、大部分決定されていることに気がつく。人の見方は特定の個人、特定 の国民、特定の社会の見方である。歴史をあるがままの姿において見ようとするならば、われわれはどうしてもそこから出発するほかないが、この局部的な見方 を超越しなければならない。
  10. 原子力時代においては、人類は、自分たち自身を滅ぼすまいとすれば、一つの家族となって生活することを学びとらなければいけない。これこそ、日本が学びとり、そして他に伝えることのできる真実である。
  11. 文明の歴史が複数であり、繰り返しであるのに対して、宗教の歴史は一つであり、前進的であるように思われる。ユダヤ教から派生したキリスト教とイスラム教において、宗教は異なっても啓示は一つであることの寛容的精神が重要である。
 日本の岐路に求められるシンクタンク

 米国には世界を動かすシンクタンクがある。これらのシンクタンク機能に、トインビーが我々に伝えるメッセージを生かし、さらに日本の特徴を盛り込んだシ ンクタンクを創造すれば、我々が直面する危機、例えば核問題や国際テロに対応できる活動が可能となろう。

 日本の特徴は、宗教に寛容な多神教、和を尊ぶ協調の理想、世界で唯一の核被爆国である。加えて、東西の文明を日本の特徴を生かし融合させてきた柔軟性に ある。一方、日本の弱点は、個人の発想や情熱が生かされる土壌に欠けており、島国的発想で国益中心で、地域全体の利益や地球益に欠けていると考えられる。 そして世界に発信するパワーが限定されているところにある。また周辺諸国に対し寛容な精神が欠如していることが、日中や日韓関係をぎくしゃくさせている。

 アジアの分断が加速されることで、多国間協調の足並みがそろわず北朝鮮の核問題への抑止力が低下している。日本が偏狭なナショナリズムに傾くことで、国 連常任理事国の一角を担う中国を刺激し、目前に迫っている国連改革や日本の国連常任理事国加盟も水泡に帰す。トインビーが指摘するように中道の道、協調的 な理想を実現するためには国連の存在は重要である。

 日本は、日米同盟、国連外交、アジア重視の外交路線を貫くことが重要であり、そのためには歴史観と多角的視点に基づく明確なビジョンが求められる。まさ に日本は、国連とアジアという日本の運命を左右する岐路に直面しているのである。

 日本は、周辺諸国との経済格差を考慮し、寛容な行動で相手を挑発的にさせぬ外交の良策を行う必要がある。アジアの国々と調和することにより、国連常任理 事国の地位を得ることができるのである。周辺諸国との調和なしには、日本は国連の重要な地位を失う。結果的に中国の更なる上昇と日本の下降を招くのであ る。

 国際テロ、宗教の対立に端を発し、最悪の場合、核兵器により人類や地球の危機が訪れる。このような危機的な国際情勢において、平和共存や協調的な理想に 向けた新たな世界政治体制が構築される可能性が増すと考察される。遠い将来になるかもしれないがトインビーが説く市民を主役とする国連が生まれる。そこで 被爆国であり多神教国家の日本の貢献が期待される。人類の歴史を探れば、何千年後もほんの短い期間であるのだから、現下の状況も過去と未来の狭間の中で人 間の個性が生かされた道に進むと考えられる。このような発想でシンクタンクを創設したい。

 中野さんにメールは mailto:tomokontomoko@msn.com
2005年05月22日(日)早大アジア太平洋研究センター特別研究員 文 彬
 きょうは早大アジア太平洋研究センター(WJCF)特別研究員となった文彬さんがWJCFに最近書いた中国での反日デモに関するコラム3本を掲載したい。(萬晩報主宰:伴武澄)

 ■抗日記念日でない「五四」

 5月4日夜、ネットで読んだ中国動静を伝える共同通信記事のタイトルは「中国、反日デモ発生なし 抗日記念日に厳戒態勢」であった(共同通信- 5月4日20時17分更新)。

「5・4運動」記念日(中国では略して「五四」と呼ぶことが多い)を「抗日記念日」を呼ぶことに違和感を覚えた筆者はその後テレビ東京のニュース番組ワー ルドビジネスサテライトでも「抗日戦争記念日」という字幕を見た。そして、翌日多くの大手新聞も同じような表現を用いて記事を掲載し、用語解説もこの線を 貫いている(例:中学生向けニュース毎日中学生新聞ニュースの言葉)。日本のマスコミでは概して「五四」は即ち抗日記念日となっている。

 しかし、これは読者や視聴者に対する恐ろしい誤導(ミスディレクション)である。抗日記念日や抗日戦争記念日でこの日を呼ぶのは、恐らくこの時期の日本 マスコミだけではないか。国民の対立感情を煽り立てると指摘されても仕方がない考慮を欠いた表現である。中国では「五四」はまず若者の祝日・「五四青年 節」であり、抗日記念日と呼ばれるのは7月7日(盧溝橋事件記念日)のみである。

「五四」のきっかけは「パリ講和会議」が不平等条約廃棄を求める学生デモだったが、「五四」そのものを「抗日」で締め括ることは事実を無視した激しい偏見 だと言わざるを得ない。そもそも共産党の教育の中でも「五四」は「帝国主義反対、封建主義反対、思想解放、新文化提唱」の運動、「五四精神」は「科学と民 主」と定義されており、ことさら「抗日」を強調するものではない。

 正確性を欠くセンセーショナルな報道は火に油を注ぐだけになるが、企業の中国情報収集はいっそう慎重にならなければならない。(5月7日)

 ■時代錯誤の抵制日貨

「抵制日貨」=日本製品ボイコット、これは今回の反日デモに良くあるスローガンの一つである。日本のマスコミではよく「愛国無罪」というスローガンが取り 上げられているが、中文googleで検索してみると、「愛国無罪」の5万件に対し、「抵制日貨」はなんと127万件にも上っている。

 デモでは「日本の常任理事国入り反対」「日本製品ボイコット」「魚釣島を中国に返せ」などのスローガンの書かれた横断幕や中国国旗が掲げられ、抗日戦争 を題材とした国歌が歌われた。九日北京での抗議デモでは、デモ隊が大使館前で警備する機動隊の部隊にせまり、ペットボトルやコンクリート片などを大使館に 向かって投げつけた。また各地のデモでは日系スーパーなどが抗議行動の対象とされた。

「抵制日貨」は、1919年6月、山東省のドイツの権益を日本が継承することを定めたベルサイユ条約に反対する北京学生の反対運動から急速に反政府運動と して全国に拡大したいわゆる「五四運動」のなかで掲げられたスローガンである。しかし、植民地化反対の最も有効な手段として使われていた「抵制日貨」は、 今日では「憤青」達の時代錯誤以外の何者でもない。

 中日の年間貿易総額は1700億ドル、日本からの直接投資累計総額は666億ドル、進出日系企業は約2万社、日系企業で働く技術者は約920万人、日本 製品ボイコットと言っても、その日本製品そのものが中国で中国人労働者の手によって造られているかも知れない。その謀叛の行動は双方の国民にとって百害 あって一利なしである。

 反日デモの火が燃え広がらないうちに必死に消そうとしている中国は今、商務部部長(大臣)の薄煕来氏はじめ多くの有識者を表に出して、「抵制日貨」の害を説いている。(4月27日)

 ■暢気だった北京

 4月10日午前北京へ飛び、17日午後大連から東京に戻ってきた。出張期間はちょうど反日デモの最中とダブっていた。だが、直接デモ隊に遭遇したことも なかったし、訪問先々でデモが話題となっていたが、緊張感も危機感もまったく感じられなかった。私が見た北京も大連もいつもと同じくどこまでも暢気な風景 が広がっていた。--時には公園から老人合唱団の歌声が聞こえていた。

 帰ってからテレビを見てびっくりした。テレビの報道よりあたかも中国各都市でデモ隊が練り歩き、いたるところで破壊活動が行われている印象を受けてい る。中国では報道規制が敷かれ、デモのニュースはさほど流されなかったこともあるが、それにしても事実と報道の温度差に戸惑いを禁じえなかった。

 そう思っている人は決して中国人の私一人ではない。「ぺきん日記 / 中国・北京より」(http://beijing.exblog.jp/)という日本人留学生や駐在員によるブログがある。随所にその「少なからぬ北京在住の日本人が感じる"温度差" 」が書かれている。

「(デモ発生の)4月9日でさえ、ごく一部の人たちと一部の地域を除けば、ごくフツーの北京の一日だった。......」

「きのう(4月10日・日曜日)の午後、私は北京市東部にあるイトーヨーカ堂に買い物に行き(中略)、北京の人たちはいつもと同じように買い物をしていました。......」

「この日は老舗のお茶屋さんの隣の茶館に飛び込みで入り、撮影をお願いして撮らせてもらいましたが、「あんたたち、日本人?日本人は礼儀正しいね」とほめられ、親切に助けてもらって感謝。......」

 企業の海外リスクマネジメント担当者が、一方的にセンセーションを煽るテレビのみではなく、現地の日本人の生の声も常に聞く耳を持つ方がより正確な状況把握ができるのである。(4月24日)

 文さんにメール mailto:bun008@hotmail.com
 WJCFコラム http://www.wjcf.net/
2005年05月21日(土)金沢市議 山野之義
 この連休に、台湾に行ってきた。「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」の一員として、八田與一の墓前祭に参列するためである。また、八田與一に連なる、様々な出会いもあり、陳腐な表現になるが、「感動」という一言に尽きる旅であった。

 金沢に戻り、一週間。すっかり落ち着いた中で、あっという間の4泊5日の「八田與一の旅」を、少し振り返ってみたい。

 5月5日の早朝に金沢を出て、台湾に到着。翌6日、台湾前総統の李登輝氏にお会いする機会をいただいた。

 最初に、会を代表して中川外司世話人から、昨年末、李登輝氏が金沢に来られたことのお礼の言葉が述べられ、それを受ける形で、李登輝氏がご挨拶をされ た。それは、挨拶というよりも、講演に近いものであった。八田與一及び金沢に対する想い、現在の日本、台湾のあり方、さらには、今後の台湾の進むべき方向 性を、50分近い時間をかけて力強く語られた。

 昨年末、金沢を訪れた印象を語られた言葉の中で、「金沢の雰囲気を知り、このまちが多くの偉大な人物を生んだ理由が良く分った。進歩の中に伝統を失わず、の精神があったからだ」と聞いた時は、さすがに、心を揺さぶられた。

 少々解説がいるかもしれない。

 李登輝氏は、これまでも、最も尊敬する日本人として、八田與一、西田幾多郎、鈴木大拙の三氏をあげられている。言うまでもなく、八田與一と鈴木大拙は金 沢市生れであり、西田幾多郎は宇ノ気町出身ではあるが、李登輝氏からすれば、西田幾多郎も金沢の気風の中で出てきた人物である。実際、西田幾多郎は、金沢 四高に学び、その後、教鞭をとられていたこともある。

 それらを踏まえての、先の言葉である。この三氏ともに金沢の気風の中で生まれてきた偉人であり、その気風とは、「進歩の中に伝統を失わず」の精神であると、私たちの前で喝破された。それは、あたかも、私たちに、忘れてはならないと諭されているようでもあった。

 さらに、日本であれ台湾であれ、これからの時代に大切な要素として三つあげられた。一つは、国の目標は何かをはっきりさせなければいけない、二つ目に は、指導者(リーダー)が確固たる信念を持ちしっかりしなければいけない、三つ目には、自分とは何かというアイデンティティをしっかり持たなければならな い。

 特に、このアイデンティティという言葉を何度も使われていた。現在の、台湾の置かれている状況や、これから先の行く末を想い、深く期するところがあったのであろう。

 西田哲学だけではなく、漱石の「私の個人主義」も引用されての力説であった。

 「自分は誰かと問われて、自分の国の歴史や思想に誇りを持って答えられないようでは、アイデンティティは確立できない。」

 アイデンティティと並んで、何度も繰り返していたフレーズがある。

「私は私でない私。」

 西田幾多郎や鈴木大拙に心酔する、まさに、禅問答のような言葉である。

 これは、私は次のように解釈した。

 私という人間が存在するということは、それは、無垢な個人としての私なのではなく、これまでの生まれ育ってきた伝統や文化、風習等々を全て背負った私、 つまり、先にあげた言葉にあるように、自分の地域や国という「公」を自覚した私なのである。その自覚のない「私」とは、無意味で空疎な存在に過ぎない。

 李登輝氏は、私たち全員に、最新の著作である、「新時代台湾人」を配られた。いただいた著作は北京語版であったが、後日、日本語に翻訳したものをいただいた。まさに、台湾人としてのアイデンティティを明確にした著作である。

 私は、質問の時間をいただいたので、再度、日本への訪問を要望すると同時に、新渡戸稲造の故郷岩手県への訪問について尋ねた。

 あまり知られていないが、台湾と新渡戸稲造の縁は深い。

 日清戦争後、日本の統治領となった台湾に、後藤新平が民政長官として就任。後藤は台湾財政確立のため、産業の振興を推進しなければならないと考え、郷里の後輩である新渡戸稲造を招集した。あの有名な「武士道」を著した翌年のことである。

 新渡戸稲造は、それまでも、札幌農学校の教授として、農政学と植民論を担当し、「農業本論」等の大作もまとめていた。それらの実績が認められての大抜擢であった。

 後藤新平の台湾統治論は「生物学的植民地論」とも言われる、これまでの欧米の植民政策とは、明確に一線を画するものであった。少々長いが、以下、後藤新平の言葉を引用する。

「社会の慣習とか制度とかいふものは、皆相当の理由があって、永い間の必要から生まれてきてゐるものだ。その理由を弁へずに無闇に未開国に文明国の制度を 実施しようとするのは、文明の逆政(虐政)といふものだ。そういうことをしてはいかん。だから我輩は、台湾を統治するときに、先ずこの島の旧慣制度をよく 科学的に調査して、その民情に応ずるように政治をしたのだ。これを理解せんで、日本内地の法政をいきなり台湾に輸入実施しようとする奴等は、比良目の目を いきなり鯛の目に取り替へようとする奴等で、本当の政治といふことのわからん奴等だ」

 その最前線に立ったのが新渡戸稲造である。新渡戸稲造は、現地の自然環境を調査研究し、糖業の改良に目をつけた。

 ハワイからのさとうきびの導入を通じて、幾多の品種改良を行い、また、搾糖機械の技術革新が図られ、製糖業の近代化を進めた。台湾製糖株式会社以下多く の大規模な製糖会社が次々と設立され、在来の零細企業の「糖」は、近代的な米糖産業と脱皮することになっていった。欧米型のモノカルチャー型生産ではな く、地域に根ざした産業として発展していった。

 さらに、日本統治下の台湾は、この米糖経済を土台にして、工業化の時代を迎えることになるのであるが、そのことについては、長くなるのでここでは触れな い。ただ、戦後の台湾の成長は、それらが基礎となったことは間違いないし、戦後間もなく、台湾経済が貧窮した時代、砂糖産業が最大の外貨獲得の手段であっ たということも、新渡戸稲造の功績と言っても過言ではない。

 話は少し飛ぶが、米についても、日本人技師磯永吉博士により、精力的な品種改良努力が重ねられ、「蓬莱(ほうらい)米」として知られた新品種が作られ た。この「蓬莱米」は品質と収量の両面で、当時の東アジアにおける画期的な水稲種であった。八田與一の作った烏山頭ダムによる、水利灌漑施設の拡充、これ による開田が相次ぎ、「蓬莱米」による、台湾の耕地面積が急拡大したことも付け加えておく。

 さて、台湾には今でも、「ニトベカズラ」という花がある。現地の人が、台湾の気候風土を理解した上で、農業指導にあたった新渡戸稲造を慕ってつけた名である。

 李登輝氏も昨年、「『武士道』解題」なる本を出版した。新渡戸稲造に対する思いは、格別なものがあるのであろう。

 その、新渡戸稲造の故郷岩手県へも、ぜひ、李登輝氏に立ち寄ってもらいたいところである。

 李登輝氏は、「奥の細道」を歩いていく過程で、ぜひ、その地も立ち寄りたい旨述べられた。またその返答の際、俳句の「わび、さび」について触れられ、奥の細道を歩いた後、「さびの構造」についての著作をまとめたいと気宇壮大な思いも述べられた。
 
 衰えることない知の欲求。驚くべき、「知の巨人」である。(05月19日)

 山野ゆきよし http://blog.goo.ne.jp/yamano4455/
 山野さんにメール mailto:yamano@spacelan.ne.jp
  2005年05月20日(金)  フリ-ジャ-ナリスト 宮本惇夫
  NEDO(新エネルギ-・産業技術総合開発機構)が手がける新エネルギ-の開発など、1プロジェクトで何億、何十億円もの金額になる。ところがたった 400万円をもってミャンマ-に行き、発電システムをつくり上げ地元に寄贈、ミャンマ-政府から大変感謝された人物がいる。

 しかも彼は数年前に会社を倒産させた経営者。社員や取引先への贖罪の気持ちが、その動機だったというのだから、まさに義理と人情のビジネス演歌物語だ。

 1つそんな人情話を.........。

 独立、そして倒産

いまから数年ほど前のこと。埼玉県新座市にキャップトップエンジニアリングという中小企業があった。社長は小松製作所出身の鈴木重信(61)。工業高校出 ではあるが優秀な機械技術者だった。小松時代は小松ナイジェリアへ出向、4年間セ-ルスエンジニアとして世界中を駆け回ったこともある。

 1988年、社内ベンチャ-制度が発足したとき、応募をして合格。社員ベンチャ-の第1号にもなった。ところが3年間という規定期間のなかで黒字化のめどが立たず、社員ベンチャ-は手仕舞を余儀なくされた。

 そこで彼は正式に会社を退職、社員ベンチャ-を引き継ぎ独立をする。それが「キャップトッエンジニアリング」だった。それが92年4月のこと。

 同社はベンチャ-時代から土木・建設機械の遠隔操作システムの開発に取り組んでいたが、ようやくその技術が完成。ちょうどその頃、長崎県の雲仙普賢岳が爆発、火砕流がふもとにまで押し寄せる災害となったことは記憶に新しい。

 その時、某ゼネコンは同社の遠隔操作技術に目をつけ、ジョイントを組む形で復旧工事に参画した。普賢岳の復旧工事はキャップトップにとって願ってもない 大きな受注だった。92年度が2400万円、93年が9800万円、以下2億5000万円、3億7000万円と売上高は拡大していったものだった。

 ところが95年を過ぎたころから普賢岳の噴火も沈静化し、受注量も先細りとなってくる。もともとが蓄積もない自転車操業。その上受注が集中したこともあ り、従業員を大量採用していた。数人で始めた事業が一時は30名近くまで膨れ上がっていた。そこに押し被さってきたのが銀行の貸し渋り。あえなくキャップ トップエンジニアリングは2億数千万円の負債を抱えて倒産となった。

 金策に駆け回った日々

 鈴木は「技術屋というのはどうしても技術開発が先行しがちで、お金が入ってくると次の開発、次の開発に注ぎ込んでしまう。経営のために資金をプ-ルして おけばよかったのでしょうが、技術屋にはなかなかそれができない。常に技術で他社に先行されてしまうのではないかという焦りがあるんです」と反省をしてい る。

 金庫が空っぽになり、従業員へ給料が払えなくなったときは、それこそ街金へ飛び込んでお金を工面したこともある。

 当時は数千万円ほどの売掛金も残っていて、それさえ入ってくれば、何とか乗り切れるのではないかということで、つなぎ資金の調達に走ったわけである。

 しかし街金融からの高利の借金はあっという間に雪だるま式に膨らんでいく。経営危機説が流れ銀行が警戒をするゼネコンの手形も割引率が低い。当時1割5分から2割の割引率だった。万策が尽き96年4月、キャップトップエンジニアリングは倒産をした。

 資産も何もない同社は会社更生法適用も叶わず、鈴木もまた自己破産になり全財産を没収され丸裸で外に放り出された。

 助っ人エンジニアとして

 それからー。
 倒産経営者に対する世間の風は冷たい。そのとき鈴木に手を差し伸べてくれたのは古くからの友人、知人。なかでもアフリカ出向時代に知り合った人たちが、 彼の経験と技術を使ってくれた。何か国際的な技術プロジェクトがあれば技術コンサルタントとして、助っ人エンジニアとして彼を駆り出してくれた。ベトナム での地雷探査事業、グルジア共和国での第2シルクロ-ドプロジェクトなどさまざまなプロジェクトに関わり生活の糧を得てきた。

 あるとき友人からもみ殻をつかった、いわゆるバイオマス発電計画の可能性についての相談を受けた。彼は答えた。

「もみ殻を乾留すると炭化物ができ、それがエンジンに入ってしまう。難しくコストのかかる技術ではないか。もみ殻を使うなら家畜の糞尿、人糞を使ってメタンガスを醗酵させ、それで電気を起こした方が早くて安い」

 それが事の始まりだった。

 実際にバイオマス技術に関する情報を集め研究するうちに、その技術を実際に役立ててみたいという気持ちが彼の中に激しく芽生えてくる。鈴木は30代の頃 に「60を過ぎたら自分の技術を通じて、東南アジアの人々に奉仕できるような仕事をしたい」と社内の論文に書いたことがある。その夢を思い出させてくれた のが可愛い孫の存在だった。

 アジアの国々はまだまだ貧しい。電化率も決して高くない。都市部はともかく一歩田舎に足を踏み入れると電気がない町や村がたくさんある。

「小さな子供が病気になったときアジアの田舎ではどうしているのか。診療所はあるのだろうか。診療所はあっても電気がきているのだろうか」

 孫の顔を見ながらそんなことを思い、勉強したバイオマス発電技術を使いアジアの貧しい国々に役立ててみたくなってくる。と同時にあの倒産事件もそれを突き立てた。

 彼はいう。

「倒産で多くのひとに迷惑をかけたことは1日たりとも忘れたことはありません。法律的には解決されたとはいえ私の心の中では解決されたわけではありません。その贖罪の気持ちも私を社会貢献事業に駆り立てたことの1つでした」

 候補地に選んだのがミャンマ-。そうかつてのビルマである。戦争で日本が迷惑をかけた国の1つであり、地方の電化率が6・7%という低い国だった。

 糞尿を浴びながらの工事

 といっても彼には資金がない。そこで彼は知人の間を資金調達に歩いた。幸い1人の経営者が彼の計画に理解を示してくれた。

「見本市出展用に取っておいた金だが、あなたの発電計画に役立てた方が有効かもしれない」といってポンと400万円を供出してくれた。

 03年8月のことだが、早速彼はミャンマ-へ飛び政府関係者とあった。承知の通りミヤンマ-は軍事政権機構下にあり、アウン・サン・ス-チンを盟主とす る民主化勢力を弾圧、世界から非難を浴びている。日本もそれに抗議し経済制裁を行っている最中にある。

 政府関係者は「かつての3年半戦争のことは忘れた。しかし今回の経済封鎖はけしからん」と憤りを見せていたというが、「大東亜戦争ではビルマの人たちに 大変迷惑をかけた。そのビルマに私の技術を通じてお返しをしたい。子供たちために電気を点けてあげたい」と話した時は大変喜んでくれたという。

 約75%を日本側、25%を現地が資金負担する形で、03年11月に鈴木はバイオマス発電計画はスタ-トさせる。場所はヤンゴン郊外の農村地帯で、養豚 所などから排出される糞尿や人糞でメタンガスを醗酵させ、そのガスで発電機を回そうという仕組みである。この発電システムのいいところはガスを生産し終 わった排出物を肥料や農薬として使えることである。

 鈴木は自分で設計図を書き、材料を買い集め、職業訓練センタ-の若い技術者を指導しながら発電設備を作り上げていった。その間、3回ほど頭から糞尿を浴 びる経験もした。そして04年9月、20KWの発電システムを養豚場の隣に完成させた。25軒ほどの集落全体に電気が供給されるようになったという。その 集落には診療所も学校もあり、診療所は夜間の緊急医療にも使えるようになったことはいうまでもない。要した費用は全体で約500~600万円ほどだったと いう。

 この発電システムの建設をミャンマ-政府はことの外喜び、協同組合省家内工業局は鈴木とその資金提供者を表彰した。

 鈴木はそれを契機にNPOを組織し発展途上国への貢献活動の本格化を模索している。500万円足らずで1つの集落に電気が灯る。こんな社会貢献があることも日本政府は知ってほしいものである。

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