2005年2月アーカイブ

2005年02月28日(月)中澤英雄(東京大学教授・ドイツ文学)
 今年2005年は、アインシュタインが特殊相対性理論を発表して100周年、彼の死後50周年ということで、世界各地でアインシュタイン年の行事が催されている。

 ドイツ http://www.einsteinjahr.de/
 イギリス・アイルランド http://www.einsteinyear.org/
  (このサイトになぜ日本語表記があるのだろう?)

 アインシュタインは日本と深い縁がある。E=mc2という公式で有名な特殊相対性理論は、物質がエネルギーに変換されうることを示した。言うまでもなく、広島・長崎に投下された原爆は、この公式の現実化であった。

 原爆開発のきっかけを作ったのもアインシュタイン自身であった。1939年8月、彼は数名の科学者たちの代表として、アメリカ大統領ルーズヴェルトに原 爆の製造を進言した。ドイツ系ユダヤ人である彼は、ヒトラーが政権を取った1933年にナチス・ドイツを逃れてアメリカに移住していたが、ユダヤ人迫害を 進めるドイツが原爆開発に着手したとの情報に接し、強い危機感をいだいたのである。

 アインシュタインはその後のマンハッタン計画にはまったくノータッチであった。原爆が完成した時にも、彼は日本に投下することに反対した。彼は広島・長崎の惨事に直接の責任はない。しかし、彼はこのニュースを痛恨の想いで聞いたのであった。

 アインシュタインは1922年(大正11年)に来日し、大の親日家になっていたからである。

 ■来日

 アインシュタインは、雑誌・改造社が企画した日本講演旅行を承諾し、1922年10月8日、妻のエルザとともにマルセーユで日本郵船の北野丸に乗船し た。彼がまだ香港から上海に向かう船上にいた11月10日、1921年度のノーベル物理学賞が彼に授与された。このニュースは、相対性理論という神秘的な 学説を樹立した世紀の天才物理学者に対する日本人の熱狂的崇拝をいやが上にも高めた。

 11月17日に神戸に上陸したその瞬間から、日本中、彼が行くところ、アインシュタイン・フィーバーが巻き起こった。それは、最近のベッカム様人気やヨ ン様ブームどころの規模ではなかった。物珍しいものに熱狂する日本人の国民性は、昔も今もあまり変わっていないようだ。あまりの騒動に最初は驚きあきれ、 時には殺人的なスケジュールに閉口していたアインシュタインであったが、その背後に日本人の純粋な敬愛の念があることを知って、彼は日本と日本人を心から 愛するようになった。

 ここでは、日本におけるアインシュタインを詳しく描いている金子務著『アインシュタイン・ショック』(1)(2)(河出書房新社、1981年)と、杉元 賢治編訳『アインシュタイン日本で相対論を語る』(講談社、2001年)を中心に、アインシュタインの日本および日本人観を紹介したい。

 まず北野丸に乗船した最初の日の印象――

「乗組員(飾り気のない日本人たち)、友好的、まったくペダンティックでなく、個性的なところはない。日本人は疑問を持たず非個性的で、自分に与えられた 社会的機能を晴れやかに尽くし、思わせぶりもなく、しかもその共同体と国家に対して誇りを持っている。その伝統的な特色をヨーロッパ的なものの故に放棄し て、その国民としての誇りを弱らせることはない。日本人は非個性的だが、実際はよく打ち解けている。おおむね社会的存在として自己自身のためには何も所有 しないかのようであり、何かを隠したり秘密にしたりする必要はないようだ。」(金子(1)199頁)

 アインシュタインの日本人に対する第一印象は、その「非個性」と「共同体と国家に対する誇り」である。これは、欧米人と比較して日本人の特色としてあげ られる集団主義に、彼が最初に違和感をいだいたことを示している。しかし彼は、ヨーロッパ中心主義的に、それをすぐさま否定的評価につなげることはしな かった。彼は事実は事実として冷静に観察している。日本人と日本文化により深く接触するにつれ、彼は「非個性」の背後にある純真なものに気づいていくので ある。

 ■脱西欧の夢

 アインシュタインが日本行きを承諾した背景には、彼の東洋への憧憬があったように思われる。すでにベルリンで数名の日本人が彼の住まいを訪問していた。彼らの報告によると――

「もともとベルリンのアパートは、東洋趣味の絵や陶製人形で飾られ、茶器も菓子器もそれで統一していたという。《私が行きたいのは東洋だけ》と、アインシュタインは日本人の来訪客にしばしば語っている。」(金子(1)196頁)

 神戸に上陸したときの記者会見で来日の目的を聞かれて、彼はこう答えている――

「それは2つあります。1つは、ラフカディオ・ハーンなどで読んだ美しい日本を自分の目で確かめてみたい――とくに音楽、美術、建築などをよく見聞きして みたい――ということ、もう一つは、科学の世界的連携によって国際関係を一層親善に導くことは自分の使命であると考えることです。」(金子(1)28頁)

 アインシュタインもまたハーンと同じように、脱西欧の夢を見ていたのかもしれない。

 第一次世界大戦敗北後の社会的・経済的混乱の中で、ドイツでは反ユダヤ主義が高まっていた。フランスとの賠償交渉をしていたユダヤ系の外務大臣ラーテナ ウは、1922年6月に暗殺されていた。当時、学術で文字通り世界最高峰のベルリン大学正教授の地位にあったアインシュタインも、ユダヤ人であることを理 由に度々不快な経験を味わっていた。

 日本は第一次世界大戦では戦勝国になっていたが、まだ軍国主義がそれほど濃厚にはなっておらず、いわゆる大正デモクラシーの自由な雰囲気が残っていた。 しかし、あとでも見るように、アインシュタインは日本に忍び寄る軍国主義の気配も鋭く感じている。ともあれ、彼にとって日本旅行は、騒然としたドイツから 離れられる、心休まる解放の一時となったのである。

 ■国民性、自然、芸術

 来日2週間目にアインシュタインは、雑誌『改造』のために、「日本における私の印象」というエッセイを書かされている。ここでは杉元賢治氏の訳からその一部を紹介しよう。

「もっとも気のついたことは、日本人は欧米人に対してとくに遠慮深いということです。我がドイツでは、教育というものはすべて、個人間の生存競争が至極と うぜんのことと思う方向にみごとに向けられています。とくに都会では、すさまじい個人主義、向こう見ずな競争、獲得しうる多くのぜいたくや喜びをつかみと るための熾烈な闘いがあるのです。・・・
 しかし日本では、それがまったく違っています。日本では、個人主義は欧米ほど確固たるものではありません。法的にも、個人主義をもともとそれほど保護する立場をとっておりません。しかし家族の絆はドイツよりもたいへん固い。・・・」(杉元141頁)

 アインシュタインはこのように、欧米の個人主義が行き過ぎであることを指摘し、むしろ日本の家族主義、集団主義に親しみを感じている。この文章を今日の 我々が読むと、現代の日本も相当に「すさまじい個人主義」の社会になりつつあることに気づく。経過した時間の長さと社会の変化を思わずにはいられない。

 彼はさらにこう続けている。

「日本には、われわれの国よりも、人と人とがもっと容易に親しくなれる一つの理由があります。それは、みずからの感情や憎悪をあらわにしないで、どんな状況下でも落ち着いて、ことをそのままに保とうとするといった日本特有の伝統があるのです。・・・
 個人の表情を抑えてしまうこのやり方が、心の内にある個人みずからを抑えてしまうことになるのでしょうか? 私にはそう思えません。この伝統が発達して きたのは、この国の人に特有な感情のやさしさや、ヨーロッパ人よりもずっと優れていると思われる同情心の強さゆえでありましょう。」(杉元142頁)

 来日2週間で彼はすでに、ヨーロッパ人よりも自己主張の少ない日本人の「非個性」、感情表現の抑制の背後に、ヨーロッパ人よりも「同情心」に富んだ繊細な魂を感じ取っている。

 今日でも欧米人の中には、何年日本に住んでいても、日本の生活や文化をすべて欧米中心的な価値観でしか判断できない人びとが大勢いる。それに比べると、 これは希有な観察力、感情移入力と言わなければならない。アインシュタインは、科学者として超一流であったばかりではなく、人間としても、偏見のない豊か な感受性に恵まれた人物であった。彼は、人種や宗教や文化の違いによって他国民を軽蔑することがなかった。

 そういうアインシュタインの人間性が知られるにつれ、日本人はますますアインシュタインが好きになり、尊敬するようになった。

 アインシュタインが日本で最も強い感銘を受けたのは、日本の美しい自然と、自然と一体になった芸術であった。やはり「日本における私の印象」から――

「この点〔日本の芸術〕、私はとうてい、驚きと感嘆を隠せません。日本では、自然と人間は一体化しているように見えます。・・・この国に由来するすべてのものは、愛らしく朗らかであり、自然を通じてあたえられたものと密接に結びついています。
 かわいらしいのは、小さな緑の島々、丘陵の景色、樹木、入念に分けられた小さな一区画、そしてもっとも入念に耕された田畑、とくにそのそばに建っている 小さな家屋、そして最後に日本人みずからの言葉、その動作、その衣服、そして人びとが使用しているあらゆる家具等々。」(杉元142~3頁)

 ■離日

 日本で数々の心あたたまる歓待を受けて、12月29日、アインシュタイン夫妻は門司港から日本郵船の榛名丸に乗船し、帰国の途についた。

 離日の前日、『大阪朝日新聞』は彼の日本国民への感謝のメッセージを掲載した。

「予が1ヶ月に余る日本滞在中、とくに感じた点は、地球上にも、また日本国民の如く爾(しか)く謙譲にして且つ篤実の国民が存在してゐたことを自覚したこ とである。世界各地を歴訪して、予にとつてまた斯くの如き純真な心持のよい国民に出会つたことはない。又予の接触した日本の建築絵画その他の芸術や自然に ついては、山水草木がことごとく美しく細かく日本家屋の構造も自然にかなひ、一種独特の価値がある。故に予はこの点については、日本国民がむしろ欧州に感 染をしないことを希望する。又福岡では畳の上に坐つて見、味噌汁も啜つてみたが、其の一寸の経験からみて、予は日本国民の日本生活を直ちに受け入れること の出来た一人であることを自覚した。」(金子(1)245~6頁)

 ここでもアインシュタインは、日本人の国民性と芸術と自然をほめることを忘れない。翻訳や郵送の時間を考えると、この文章は数日前に書かれたものであろう。福岡の味噌汁のことが触れられているので、12月25日かもしれない。彼は乗船のためにそれから門司に移動した。

 新聞の文章はやや社交辞令的であるが、12月26日の門司での記者会見では、彼はもう少し率直に印象を語っている。

「日本にきて特に気になるのは、いたるところに軍人を見かけ、平和を愛し平和を祈る神社にも武器や鎧が飾られているのは、全人類が生きていくのに不必要な ことと思います。それからもう1つは、大阪の歓迎会では会場が日本とドイツの国旗でうめつくされていて、日独親善の気持ちは感謝しますが、軍国主義のドイ ツに住みたくないと思っている私には、あまりいい気持ちはしませんでした。」(中本静暁著『関門・福岡のアインシュタイン』新日本教育図書、71頁)

 あらゆる日本への賛嘆にもかかわらず、平和主義者アインシュタインは日本の軍国主義を受け入れることができない。彼のこの言葉は、その後の日独関係を知っている私たちには、まさに予言的に響く。彼はさらにこう続けている。

「また、いたるところで外国のものにかぶれているのは、日本および日本人のために好ましくありません。着物は非常に優美だが、活動に適していないので、こ れからは洋装になっていくでしょう。とにかく日本の風習の中で、保存すべきものまで破壊しようとする気風には感心しません。日本の建築はすみずみまで手が 入り込んでいて、外国の彫刻をみるようでした。一言でいえば、日本は絵の国、詩の国であり、謙遜の美徳は、滞在中最も感銘をうけ忘れがたいものとなりまし た。」(同、71~2頁)

 何度も見てきたように、アインシュタインが日本で最も感銘を受けたのは、建築をはじめとする日本の伝統的芸術であり、やさしい国民性であった。しかし、欧米化の潮流の中で、日本が伝統的な美質を失いつつあることも、彼は鋭く見抜いている。

 もちろん多少のお世辞も含まれて入るであろうが、これらのメッセージは、アインシュタインの日本と日本人への敬愛の念を証明している。船上で日本に別れ を告げるアインシュタインの目には涙が浮かんでいたという。日本は彼にとってまさにアルカディア(楽園)になったのである。ドイツに帰国後も、アインシュ タインは手紙を通じて日本人とたえず交流を続けた。

 ■原爆と世界平和運動

 広島に原爆が投下されたニュースを聞いたとき、アインシュタインはドイツ語で"Oh, weh!"(ああ、なんたることだ!)という悲痛な叫びをあげたきり、沈黙したという。彼は後年、

「私は生涯において一つの重大な過ちをしました。それはルーズヴェルト大統領に原子爆弾を作るように勧告した時です」(金子(2)270頁)

と語った。また、

「もし私がヒロシマとナガサキのことを予見していたら、1905年に発見した公式を破棄していただろう」(ヘルマンス『アインシュタイン、神を語る』工作舎、188頁)

とさえ述べている。

 アインシュタインはドイツにいた当時から断固たる平和主義者であったが、この罪意識は、晩年の彼をいっそう強く平和運動に駆り立てた。それは世界政府建設の運動である。

 アインシュタインの平和運動にも、日本人が関わっていた。

 1922年の来日の時、アインシュタインの通訳として彼の身の回りの世話をしたのは、稲垣守克であった。アインシュタインは彼を親しみを込めて「ガキ」と呼んでいた。

 終戦後、財団法人「世界恒久平和研究所」に関係していた稲垣は、1947年(昭和22年)、アインシュタインに協力を求める手紙を書いた。稲垣の要請によって書いたアインシュタインのメッセージは、昭和23年の年頭に朝日新聞に発表された――

「このような〔原爆のような大量破壊兵器の〕不幸を防ぐ道は只一つ、これらの兵器を確実に管理し、従来戦争突発の原因となったようなあらゆる問題を解決する機関と法的権限をもつ世界政府を樹立することである。
 こういう広範な権限をもつ世界政府の樹立は、すべての国の民衆が次のことを十分に理解した時にのみ可能である。すなわち諸国民の伝統的思想と気持にこれほど適応した、そして安い道はないということを。
 こういう根本的変化を可能ならしめ、そしてこれを手おくれにならないうちになしとげるためには、すべての国で教育啓発事業を熱心に辛抱強く行うことが必要である。」(金子(2)240頁)

 稲垣は、アインシュタインの後押しもあって、ジュネーブの「世界連邦政府のための世界運動」と連携を取り、日本に「世界連邦建設同盟」(世連)を作っ た。稲垣が理事長で、総裁に尾崎行雄、副総裁に賀川豊彦をすえた。のちに湯川秀樹も世連にかかわるようになった。世連の組織は現在も存在している。

 1949年にソ連が原爆実験に成功、53年にはアメリカに先んじて水爆実験にも成功した。アメリカも54年にマーシャル諸島のビキニ環礁で水爆実験に成功。その時、死の灰をかぶったのが第五福竜丸であった。

 世界の行く末を憂慮したアインシュタインは、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルとともに1955年4月11日、核兵器廃絶と戦争廃止を訴える 「ラッセル=アインシュタイン宣言」に署名した。その2日後、彼は病に倒れ、18日に帰らぬ人となった。彼の遺言とも言えるこの宣言には、湯川秀樹ら世界 の著名な学者9名が署名に加わり、のちのパグウォッシュ会議へて発展していくことになった。

 ■アインシュタインの予言?

 ところでインターネットの世界には、「アインシュタインの予言」という奇妙な文書が出回っている――

「近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。
 一系の天皇を戴いていることが今日の日本をあらしめたのである。
 私はこのような尊い国が世界に一ヶ所ぐらいなくてはならないと考えていた。
 世界の未来は進むだけ進み、その間幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れる時が来る。
 その時人類は、まことの平和を求めて、世界的な盟主をあげなければならない。
 この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜きこえた最も古くてまた尊い家柄でなくてはならぬ。
 世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。
 それにはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。
 われわれは神に感謝する。
 われわれに日本という尊い国をつくっておいてくれたことを。」
http://www.aiweb.or.jp/en-naka/column-5/column.htm

 これは、清水馨八郎氏の『日本文明の真価』(祥伝社黄金文庫、平成14年)から取られているという。ほかにも、多少文言は違うが、インターネットには似たような文章があちこちにある。

 清水氏の著書を参照したが、上の文書とは文言が若干異なっているが、ほぼ同じである。しかし、清水氏の著書にもその出典が出ていない。清水氏も、何かの 本から引用したのだろう。引用していくうちに、少しずつ文言が異なってしまい、色々なヴァージョンがインターネット上に出回る結果になったものと思われ る。私も、昭和40年代後半~50年代にこの種の文書を読んだ記憶があるが、その本は、書棚のどこかに紛れ込んで見つからなかった。

 今回、アインシュタインと日本というテーマに関係する本を何冊か読んでみたが、このような「予言」はどこにも掲載されていなかった。明らかに、新聞や雑誌に発表された文書ではない。それでは個人的な私信なのであろうか? この文書はそういう趣からもほど遠い。

 おそらくこれは創作(インチキ)である。その理由はこうである。

 来日の時、アインシュタインは天皇あるいは天皇制にはほとんど関心を示していない。彼は赤坂離宮での観菊御会に招待され、皇后陛下の謁見を賜わったが (大正天皇はご病気、摂政宮〔のちの昭和天皇〕は関西での陸軍大演習のためお留守)、この日の彼の日記には、フロックコートを借りるのに苦労したこと以外 には、とくに目立った記録はない(金子(1)172頁)。

 日本で彼の印象に残ったのは、いつでも自然と芸術の美しさ、そして日本人の素直な国民性であり、日本の歴史への関心は薄かった。

 彼はまた、どちらかというと社会主義的な信条の持ち主であった。彼は1930年に、彼をキリスト教に改宗させようとしていたヘルマンスにこう語っている。

「ご存じのとおり、私は社会主義者だ。関心があるのは、すべての人の幸福と、社会主義国建設のために個人の知的自由を獲得する必要性を若い人たちに教えることだけだ。」(ヘルマンス27頁)

 そういう彼が君主制の一種である天皇制をわざわざ賛美するということは、まずありそうもない。また、戦後の彼の世界政府構想においても、「世界的な盟主」の必要性については一度も触れられていない。

 アインシュタインの目が常に日本の一般民衆に注がれていたのに対し、上の文書は「一系の天皇」「尊い家柄」「尊い国」を強調する、典型的に右翼的な発想である。

 さらに彼は、日本が西欧化の中で伝統的な生活文化を失うことへの危惧を表明していたが、「予言」は「近代日本の発展」を素朴に肯定している。

 上の文書は、アインシュタインの思想とは相いれないのである。

 古い伝統と近代的な科学技術の両立を誇ることは、いわゆる日本人論によく見られる発想である。日本の美点を外国人の口を借りて賛美するために、外国人に なりすますという手法も時々見られる(イザヤ・ベンダサン=山本七平)。ここでは、自分の個人的信念をアインシュタインの名前によって権威づけているわけ である。

 このような創作は、明らかに清水氏に始まったものではなく、相当以前から行なわれている。その最初の出どころがどこなのか、ぜひとも知りたいものである。萬晩報の読者で、何かの情報をお持ちの方は教えていただければ幸いである。

 ■日本とアインシュタイン

 1949年、プリンストンにアインシュタインを訪ねた稲垣は、彼を日本に再招待した。老齢でしかも健康を害していたアインシュタインは、

「いやもうどこにも行けない。こんど生まれ変わったら第一に日本を訪れよう」(金子(2)251頁)

と答えたという。

 大好きな国・日本――直接的責任ではないとはいえ、自分はその国に原爆を落とすきっかけを作ってしまった。アインシュタインの心情は察するにあまりあ る。アインシュタインが生まれ変わったなら、まず第一に広島・長崎を訪れようとするにちがいない。そして、慰霊碑の前に額ずき、まず「安らかに眠ってくだ さい。過ちは繰り返しませぬから」とつぶやくのではないか。

 今年は相対性理論100周年、アインシュタイン死後50周年であるばかりではなく、広島・長崎原爆60周年でもあり、第1回原水爆禁止大会開催から50周年でもある。

 1954年の第五福竜丸事件をきっかけに、日本では原水爆禁止運動が高まり、翌55年に、第1回原水爆禁止大会が広島で開かれた。しかし、この運動には 当初から社会党・共産党の政治的イデオロギーが持ち込まれ、日本の平和運動は政治に翻弄されることになる。左翼イデオロギーが、被爆国民・日本人の素朴な 平和への願いを、反米・親ソ・親中という政治的目的に利用しようとしたことは紛れもない事実である。

 ごく最近、北朝鮮は核兵器を所有していると公言し、アメリカもまた戦場で使える小型核兵器の開発を計画しているという。核の危機はいまだ去っていない。

 「このような不幸を防ぐ道は只一つ、これらの兵器を確実に管理し、従来戦争突発の原因となったようなあらゆる問題を解決する機関と法的権限をもつ世界政 府を樹立することである」という言葉は、今日でもますます強く妥当する。世界の現状はいまだアインシュタインの理想からほど遠い。

 日本人はこの節目の時にあたり、日本の平和運動を、右翼的であれ左翼的であれ、政治的イデオロギーから解放し、国民の大部分が心から賛同できるものに再 構築する必要があるのではなかろうか。その時、アインシュタインの世界平和への願いと平和構想は様々な示唆を与えてくれるにちがいない。広島・長崎で彼が どのような平和への指針を語るか、ぜひとも聞いてみたいものであるが、それは叶わぬ夢である。

 言い古されて手垢がついてしまった言葉ではあるが、核廃絶への努力は、被爆国民としての日本人の人類に対する責務であると思う。

 中澤先生にメール mailto:naka@boz.c.u-tokyo.ac.jp
2005年02月27日(日)萬晩報主宰 伴 武澄
「昨年9月の台風21号で山が崩壊した現場がある」と聞いて、いつかこの目で見なければと思っていた。場所は三重県南部の紀伊長島町の赤羽川とその支流である三戸川の上流。ふだんは渓流釣りか林業関係者しか行かない。人家はないから"被害は"報告されていない。

 1月末、三重河川国道事務所の田中事務所長に誘われてに出掛けた。航空写真を見せてもらうと、同じ台風による山崩れで10人の犠牲者が出た宮川村から山をはさんだ東側の渓谷で、山の斜面が失われた地点が映っていた。

 宮川村では、雨量計が計測不能になるほどの雨が降った。それまでの田中所長との議論では、「われわれが知る雨量はたまたま計測器のある地点での雨量にす ぎず、ちょっと離れると本当の雨量は分からなくなる」ことは知らされていた。

 またそれほどの雨量になると、植林の状態がどうだったとか、人間が自然を壊したとか、そういう人為を超えた次元で被害が起きるのだろうと想像していた。

 ■白い礫原に川がない

 渓谷を目の当たりにして衝撃が走った。木々に覆われていた空間は、幅100メートル以上にわたって白っぽい礫(れき)に埋め尽くされていた。そんな風景が数キロは続く。流れは伏流水となっているため見えない。

 そんな風景は見たこともない。後になって辞書にもない「礫原」(れきげん)という表現を思い付いた。

 地図には流れに沿って林道があるが、いまや礫原の下である。ところどころに残る橋の欄干がかろうじてその存在を物語る。水辺に生えていた木々は礫原の上 に枝をのぞかせているが、その礫原の厚さはどれほどあるのか分からない。

 これまで見た災害地の写真は、崩れた斜面だとか、崩壊した家屋や堤防、それから散乱する流木によって被害の大きさを示していたが、そのどれもが存在しな い。すべてが礫に飲み込まれた空間は規模が大きすぎてどうにも表現しがたい。台風がこの地を襲ったのは4カ月前だが、それ以前の地形がほとんど想像できな い。

 ■跡形もない猛威

 台風の日、一帯の時間雨量は最大151ミリを記録していた。100ミリを超える雨量は4時間続き、2日間の総雨量は1189ミリに達した。これはあくまで三戸観測所での計測結果である。

 田中所長はつぶやいた。
「長年、災害現場を見てきたが、こんな風景はみたことがない。一〇〇㍉程度の雨ではこうはならないでしょう」。

「こういう風景は何に例えたらいいのでしょうか」と聞いたが、返事はなかった。

 さらに進むと、えぐり取られた地質の断層から、水流は礫の層のさらに五メートル以上はあっただろうと想像させられた。インド洋大津波の後だったので、ス マトラ島を襲った巨大津波のような水の塊がこの小さな渓谷をのたうち回る情景が二人の脳裏に浮かんだ。

 仮に人間の住み家があったとしても多分、そうした営みの痕跡は水と礫に飲み込まれて跡形もなかったに違いない。

「ここにまた大雨が降るとどうなりますか」
「そんなことは考えたくもない。この礫の層が巨大なダムの働きをすることは確実でしょう。水量が大きくなれば、持ちこたえられなくなって、一気に・・・」

 われわれは航空写真にあった山の崩壊を探して歩いたが、日が西の山に陰りだし、引き返すことにした。

 10年ほど前、フィリピンのピナツボ山の周辺を歩いたことがある。噴火からすでに2年が経っていたが、草木すらない泥流が幅数㌔にわたって大地を埋め尽 くしていた。「大規模な自然災害は地形をも変形させる」。そんな感慨に浸ったことがある。

 台風21号による豪雨が三重県南部を襲ったのは、台風の襲来の12時間以上も前のことである。たまたまその上空にあった前線を台風が刺激した結果であ る。台風そのものがもたらした雨ではなかったのに、われわれは台風の動きばかりを気にしていた。

 災害はわれわれが思いもしないところに、思いもしない形でやってくるのである。人間はあまり不遜になってはならない。いつだって自然は人間を超越していることを知るべきなのだと考えた。
2005年02月25日(金)アメリカン大学客員研究員 中野 有
  リベリアの現実はあまりにも悲しい。1989年のクリスマスに象牙海岸の内陸部から、後の大統領、チャールズ・テーラーによるゲリラ戦の侵攻が始まり、7 年半にわたる内乱が続いた。実にリベリア250万人の人口の3分の1が国外難民となり、国内外を併せると4分の3が難民になったのである。
 
その紛争前のリベリアに1987年の秋から2年間、国連工業開発機関(UNIDO)の中小企業育成のプロジェクトに従事し、内乱が勃発する2カ月前に契約 を終え、ウイーンの本部に戻った。モンロビアからギニー、象牙海岸方面に250キロ入った奥地に駐在したが、偶然にもこのバンガという地が、反政府軍の拠 点となったのである。

 その後は、リベリアのニュースを傍観するだけで15年の月日が流れた。昨年の正月、京都の実家で、リベリアからの電話を受けた。深夜、雑音とともに「Mr. Nakano, Liberia John」と懐かしい声が飛び込んできた。ジョンの声を聞くやいなや、15年前のリベリアのタイムスリップした。

 「ジョン、生きていたのか」。ジョンも子供達もみんな内乱の犠牲になったと思いこんでいた。この15年ぶりのリベリアからの便りがきっかけでジョンとの メールの交信が始まった。今回のエッセイは、紛争を経験したリベリアの奥地のジョンや子供達の希望のみならず、リベリア副大統領、カンボジア副首相、そし てリベリアで活躍する日本人ボランティアの声を盛り込み、アフリカの奥地における開発援助のあり方を観察したく思う。

 ワシントンのタクシードライバーは、アフリカ出身者が多い。彼等は口を揃えるように「昔のアフリカは良かった」という。70年代までのアフリカは、独立 と発展のリズムに酔いしれる勢いがみなぎっていた。しかし、80年後半以降のアフリカは、紛争が発生し、エイズが蔓延し、発展の時計の針が逆方向に回って いる。このアフリカの悲劇は、東西の冷戦の終焉も影響し、アフリカ人によるアフリカの声やアフリカの現地の現状を無視した世界の動きと決して無関係でな い。

 リベリアの声

 当時、高校生であったジョンは、赴任した日からリベリアを去る日までの2年間、一緒に生活し、ハウスボーイとして家事一切を賄ってくれた。30歳の新婚 早々の準専門家がアフリカの奥地でサバイブできたのは、ジョンのお陰であった。ペレ族出身のジョンは、ジャングルで口にする珍しい料理から、こちらの口に 合うスパゲティーまで、色んな料理を作ってくれた。

 電気、水道といった当たり前のインフラが整っていない生活にはアフリカのロマンがあった。大半が井戸水とジェネレーターに頼る生活であった。大地を床に夜空を天井とする、とまではいかなくても自然とシンクロナイズした、先進国と対極的なロマンティックな生活であった。

 ローソクやランタンの光を照らし、アメリカの平和部隊、日本の青年海外協力隊、ヨーロッパのミッション系のボランティアとアフリカの理想を語り合った し、土着の企業家(家具製造、鍛冶屋、養鶏、養豚、小売業等)を集め、パーティーも好奇心の趣くまま頻繁に行った。ノートや鉛筆が無縁の子供達が集まり、 気がつけば妻が開設した寺子屋には、素直で真剣な眼差しで勉強する子供達で満ちあふれていた。妻が買い物に行くときには、子供の行列ができた。そんな子供 達が、透き通った声でアフリカの奥地でしか聞けないような実に素晴らしい歌を披露してくれた。まざまざとその情景が蘇ってくる。すべてが新鮮でかつ平和な アフリカの奥地の日々であった。

 特に「ちび黒サンボ」そっくりな5歳のブグメという男の子は、本当になついてくれた。いつのまにか、家の前に住んでいたブグメは、家族の一員のような存 在となり大学までの進学を約束することとなった。15年の熟成を経てその約束が果たせることが嬉しい。

 これがアフリカの思い出である。目に焼き付いているリベリアの情景は、ジャングルのグリーンと赤土と透き通る青空である。ジョンからの連絡では、それが すべて灰色のゴーストタウンのようになったというのである。ジョンやブグメは、紛争が始まった時に、運良くジャングルに逃れたという。部族間の闘争によ り、当時の子供達もゲリラ部隊となり紛争の前線に駆りたてられたという。

 紛争が始まる2カ月前まで生活したのであるが、不安な要因、例えば一晩中、銃声や叫び声が聞かれた時もあったものの、家が破壊され住民のほとんどが難民になろうとは全く予測できなかった。

 ジョンやブグメに問いかけてみた。どのような復興支援ができるのかと。
 以前に較べ治安は良くなってきたが、日雇い的な建設関係の仕事がやっとだという。バナナ、マンゴ、パパイヤ等のアフリカの果物の恩恵で飢えはあまりない という。必要なのは、仕事を始めるための最低限のお金と技術を身につけるための教育のための投資だという。彼等の立場に立ってみても、先進国に期待するの は、緊急支援、すなわちすぐに役立つ支援と知的インフラだろう。

 2月中旬に韓国で開催されたシンポジウムで、北東アジアの平和構想を発表する機会に恵まれると同時に、そこで、カンボジアのノロダム副首相やボスニアの ガニック元大統領の発表を聞くことができた。ノロダム副首相は、教育の向上こそ最も重要であるが、先進国の援助による知的インフラ構築の問題点は、カンボ ジアの優秀な人材が国外に流出することだと指摘されていた。また、ガニック元大統領は、緊急支援が必要な状況においても、先進国や国際機関の援助には、調 査・研究、官僚的な複雑な手続きの要素が強く、現場がタイムリーに必要とするものがなかなか供給されなかったと述べておられた。

 ワシントンで開催されたシンポジウムでは、リベリアの副大統領と会った。副大統領が滞在されたホテルでゆっくりとお話しを伺うことができたのは、この 10年間、リベリアでボランティア活動をされている主婦の長谷川愛優美さんのお陰であった。副大統領は、東京オリンピックに陸上の選手として参加された人 であり、日本通である。長谷川さんは、自費でリベリアのボランティア活動を行っておられ、リベリアの子供達に教育の機会を提供されている。リベリア人の立 場に立って、内乱の最中の危険な地域にも足を踏み入れて活動をされてたことを聞き本当に驚いた。流暢とはほど遠いリベリア訛りの英語にも係わらず、リベリ アの副大統領から尊敬されている長谷川さんの姿に接し、今まで会ったどんな開発の専門家とは比較ができない程に脱帽する魅力があった。このような実績のあ る人物に、開発資金を提供し、リベリアの開発を任せるべきである。お金が無くてもリベリア人から尊敬される人に開発資金がつけばどれ程ダイナミックな活動 をされるのだろうか。検証してみたい。

 アフリカの奥地の開発援助のあり方

 開発援助の専門家の欠点は、現場の調査や報告書作成に主眼がおかれることから現地の人々が求める敏速な支援が不十分であるところであると考える。現地の 人々が求めていることを現場の視点で敏速に提供することが求められている。机上の学問としての論理的、講釈、そして官製マニュアルではなく、感性と情熱と 平和構築のビジョンである。また、知的直感や経験的直感による現場で応用できる能力である。

 最後に、JICAにお願いしたいことある。それは、アフリカの内戦で被害を受けた国を対象に、小学生、中学生、高校生、大学生、企業家の5つの分野での エッセイコンテストを実施することである。主題は、「あなた自身を磨きながら、あなたの地域、あなたの国を繁栄させるために、どんな具体的な活動ができる のか。そして先進国の援助として何を期待しているか」。

 独立と発展の勢い溢れる古き良きアフリカには、市民の力で地域と国を立て直し、発展させようというパワーがみなぎっていた。そのパワーを復活させるため にも、アフリカの夢と理想と希望を持った子供達や学生や企業家が意見を発信する場をエッセイコンテストとして提供し、そして奨学金や企業家の運転資金を提 供しながら彼等の理想を実践することが重要だろう。ジョンやブグメ、そしてバンガの子供達は、エッセイコンテストに参加し、開発の専門家を驚かす発想を提 示するだろう。そして彼等は、その夢と理想をきっといつの日か実現させると信じる。

 中野さんにメールは mailto:tomokontomoko@msn.com
2005年02月18日(金)萬晩報通信員 成田 好三
 NHKが2月12日午後2時から生中継した、ラグビーの日本選手権準々決勝、トヨタ自動車ー早稲田大戦は、日本のラグビー中継としては出色の出来となった。NHK上層部が現場に下した理不尽な「業務命令」が思わぬ「副産物」を生んだからである。

 審判(主審)のジャージーの胸についた「朝日新聞」のロゴをめぐって、NHKの方針が生中継をするしないで二転三転した、あの生中継である。

 昨年からの一連の不祥事とそれに対するお粗末な対応が大規模な受信料不払いを生みだし、海老沢勝二前会長の辞任にまで至ったNHKだが、いまだに視聴者の意向が組織の上層部には伝わっていないようである。

 そうでなければ、大会を共催する日本ラグビー協会に手続き上の落ち度があったとしても、審判の胸のロゴごとき問題で、予定していた生中継を、前日になって突然キャンセルする決定など下せるはずがない。

 審判の胸のロゴが問題ならば、広告だらけのプロ野球の球場はどうするのか。松井秀喜が所属するヤンキースの本拠地、ヤンキースタジアムの右翼フェンスに ある巨大な「読売新聞」のロゴはどうするのか。フィギユアスケート・NHK杯のリンクの周囲はすべて広告で覆われている。世界最大のスポーツの祭典である 五輪やサッカーW杯の会場も、広告で埋め尽くされている。

 視聴者の意向を理解できないNHKは、朝日新聞との「喧嘩」の場所」間違えたのである。喧嘩はスポーツ中継ではなく、報道番組や特集番組でやるべきことである。

 話がだいぶ横道にそれてしまったので、そろそろ本題に戻すことにする。

 録画中継から一転して生中継に方針を決定したNHK上層部は、中継現場に対して、ある業務命令を下したはずである。

 審判を正面から、特に上半身がはっきり見えるアップで撮ってはならない。特に動きが止まった映像は厳禁である。審判を撮る場合は流れの中で、しかも引いた映像でしか中継してはならない。

 現場のカメラマンや中継映像を選択するディレクターにとっては、相当な難題である。ラグビーやサッカーなどボールゲームでは、しごく当たり前のことだ が、ゲームはボールを中心に展開する。一つ一つのプレーを判断する審判は、可能な限りボールの近くにいなければならない。だから、審判を正面から、アップ で撮ってはならないという制約を受けると、撮影・中継は極めて困難な作業になる。

 しかし、NHK上層部の理不尽な業務命令は思わぬ副産物を生んだ。ゲームの展開が実に分かり易く画面に表れたからである。

 ゲーム自体も、実力で劣る早稲田大が強力FWと、ジョニー・ウイルキンソンを擁するイングランド代表のようにキックを効果的に使った戦法で、後半の中盤 までトヨタ自動車を上回る試合をした。最後は実力差がでて力尽きたが、近年の学生・社会人対決では希にみる好ゲームになった。

 ラグビーの醍醐味は、選手が密集した状態から、一瞬のうちに選手とボールがフィールドいっぱいに展開することにある。当然、その逆のケースもそうである。だから、選手のアップを多用する日本の中継スタイルでは、ラグビー本来の展開する魅力がうまく伝わらない。

 JリーグのサッカーをTV見慣れた人が、欧州のサッカーをTVで見ると、ほとんどの画面が引いた状態であることに驚くだろう。ラグビー中継もそうであ る。選手の表情や個々人の小さい動きよりも、ゲームの展開の面白さを優先する。だから、アップよりも引いた画面が多くなるわけである。

 ラグビーやサッカーよりも、選手がポジションごとに固定されている野球(ベースボール)でもそうである。日本の中継は打者と投手のアップばかりで、外野はおろか内野の守備位置でさえ画面からではよく分からない。走塁や外野からの返球などまともに焦点を当てない。

 メジャーリーグの中継も、打者と投手との一対一の対決は基本だが、内外野のフォーメーション、走塁の素晴らしさ、イチローの「レーザービーム」のように 外野手の返球の素晴らしさを伝えてくれる。それらはいずれもアップではなく、引いた映像である。楽々とホームインする姿など無意味なシーンは無視してしま うこともある。

 NHKがラグビー日本選手権の準決勝、決勝も生中継することを決めた。日本ラグビー協会は審判の胸のロゴをはずしてくれるよう朝日新聞に懇願したが断られた。NHK上層部は準決勝、決勝でも、あの業務命令を継続させるに違いない。

 NHKのカメラマンやディレクターの皆さん。上層部の理不尽な業務命令を逆手にとって、あなたたちが苦しまぎれに編み出した副産物をさらに進化させても らいたい。日本のスポーツ中継をリードしてきた優秀なあなたたちなら、スポーツ中継を新たな段階に進めることができるはずである。(2005年2月17日 記)

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2005年02月16日(水)萬晩報主宰 伴 武澄
 先週、東京の中野ZEROで「石井のおとうさんありがとう」という映画を見て、久々に涙した。明治時代、福祉という概念さえない時代に、3000人の孤児を育てた石井十次という人物の物語である。

 石井十次のことは戦前の修身の教科書で「縄の帯」として紹介されていたから年配の方には懐かしい名前かもしれない。2月2日に書いた「ラフカディオ・ ハーンの書いた稲むらの火」でも考えたことだが、情操教育はもっぱら欧米の人物ばかりに頼ることとなっているのは残念なことだと思う。戦後教育は日本が世 界に誇りとできる人物までも消し去ったのである。

 石井十次は慶応元年(1865)、いまの宮崎県高鍋町に下級武士の子として生まれ、医師となることを目指し、岡山医学校に学んだ。研修中に、物ごいの子 供を預かったことがきっかけとなって医学の道を断念、孤児たちのために一生を捧げることになる。

 孤児という言葉はいまの日本ではほとんど死語になっているが、筆者の子供時代には戦争孤児が多くいた。新たに占領軍と日本人との混血孤児も新たに生まれた。天災や貧困だけでなく、戦争もまた孤児を生む背景にあった。

 石井が孤児を預かったのは22歳の時だった。日本はちょうど憲法を発布し、立憲政治が始まろうとしていた。町にまだ電灯はともっていなかった。普通の人 でさえ日々の暮らしにあえいでいた時代であるから、国や地方行政が孤児にまで手を差し伸べることはなかった。飢饉は日常的に起きたし、濃尾大地震や三陸地 震など天災も追い打ちをかけた。

 子どもたちはどんどん増え、やがて世界有数の規模の孤児院となった。最盛期に1200人の規模になったという。石井は子どもたちに自分のことを「お父さん」と呼ばせ、妻は「おかあさん」となった。

 孤児院の経営は寄付に頼った。最大の後援者は倉敷紡績の大原孫三郎だった。アメリカからも慈善の基金が送られてきた。石井は後に自立のため事業も興し、 学校も経営した。なにしろ数百人規模の子どもたちを食べさせるだけでも大変な資金を必要とした。石井の孤児院では「満腹主義」をとった。すさんだ心を元に 戻すには空腹からの開放が一番と考えたからだった。

 映画の中で泣かせる場面がたくさんある。お父さんとおかあさんがけんかをしておかあさんが「家を出る」と決意したとき、子どもたちがおかあさんのところ にやってきて、「お父さんとお母さんは本当は仲良しなのに、ぼくたちがいるからけんかするんでしょ。だったらぼくたちが出て行きます」。町の嫌われ者だっ た子どもたちがそこまでいうのである。

 孤児院では子どもたちの稼ぎを"卒業"するまで貯金していた。ある時、子どもたちがそのお金を使いたいという。石井は「だめだ。いったい何に使いたいの か」と答える。子どもたちは「濃尾大地震で困っている子どもたちに送りたい」という。本当の豊かとは何かを考えさせられる場面である。

 この映画は現代ぷろだくしょんが昨年つくり、いまも各地で上映している。しかし、ほとんどが自主上映でしかない。これほどの物語がなぜ全国上映されない のか、こんなにいい映画をなぜ子どもたちに見せない。ご覧になった方はみんなそう思うに違いない。

 まだ見ていない方はぜひご覧になることをお薦めします。そうしてぜひうちの町で上映したいと考える方がいたらぜひ下記に連絡してみてください。

 現代ぷろだくしょん
 http://www.gendaipro.com/juji/index.html
2005年02月14日(月)
 ■「子育ては母親がやるべきもの」なのか 幸子(米国在住、専業主婦)

私は現在専業主婦で主人の転勤でここ4年ほど米国南西部のある都市に暮らしております。こちらで生まれた二人の子供達の育児に追われる毎日です。自分の事 が何一つ自由にできない日々に疲れることもありますが、もしこの都市で一生暮らすことができるのであれば子供はもっと欲しいと思うのです。でも、近い将来 日本に帰国することを考えるとその選択肢は皆無に等しく、悲しい現実でもあります。

この都市では「母親」はかなり優遇されています。保育園、託児所の仕組みが多様化していて、たとえば働く母親は朝6時から夜6時までの保育園の利用、もし くはナニーと呼ばれる住み込みや通いのベビーシッターの利用が主です。(もちろん、実家に頼っている人もいます) そして、いわゆる専業主婦である母親に も「自分の時間を持つ」という権利は認められていて、早いところで生後3ヵ月くらいから各教会が数時間、比較的低価格で預かってくれるシステムがありま す。また、スポーツジムにも託児所がついており、生後6週目から預けることが可能です。そして、大抵のレストラン(高級なものはのぞいて)には子供用の椅 子がおいてあり、大抵のデパートにはオムツ替えの台は当然のこと、授乳室もついています。

私が個人的に日本で生活していくうえでたくさんの子供を生みたくない理由は上にあげたシステムの問題もありますが、それよりも周囲の子供に対する考え方が第一にあげられます。

子供と荷物を両脇に抱えている時にお店などのドアを開けてくれる人はいるでしょうか? 乗り物の中で赤ちゃんを抱えているお母さんに席を譲ってあげるで しょうか? 子供は「うるさい存在」と思っている人がどれほど多くいることでしょうか? 子育てに関わっている男の人がどれくらいいるでしょうか? 

先日日本にいる私の友人が、子供が入院しているにもかかわらず、ご主人は平日は接待で午前様、土日も接待ゴルフ・・・とぼやいていました。そのご主人もは もとより、おそらくそのご主人の周囲も「子供の入院」ということがわかっていても何の疑問もなく接待につき合わせていることと思います。きっと「子育ては 母親がやるもの」だと決めているのでしょう。

日本の会社の構造上、そういう現状にならざるを得ないのかもしれませんが、問題なのは、そのような男性達(政治、メディア含め)が「少子化」について語っていることなのではないでしょうか。

もうひとつは、少子化の問題が働いている母親を焦点にあてているにもかかわらず、いまだに多くの人々が「子供は母親にそだてられるべき」と考えていること にも矛盾があります。 「母親はこうあるべき・・・」と言う人たちがまだたくさん存在しているのです。子供に何かあったときに「あの子の母親は働いている から子供に目が行き届かないんだ」と言う人がまだ山のようにいることでしょう。

日本の教育の現場はどうでしょうか? 先日、また別の友人は子供の通う幼稚園の先生との面接で子供の欠点ばかり指摘されたといって嘆いていました。まるで 「母親が悪い・・・」と言わんばかりに。もちろん、先生にもよるかもしれませんが、比較的日本の学校の先生は子供の長所より短所を見つける傾向があると思 われます。それでは母親は自信をなくし、これ以上子供を産もうとは思わないでしょう。

もう一つの例としては出産です。多くの先生、看護士は「産みの苦しみを味わうことが大事」と言い、無痛分娩はなかなか勧めてもらえません。麻酔を使うこと の確実性の問題は確かにありますが、基本的な考え方は「産みの苦しみを味わうことが母親の義務」です。何不自由なく過ごしてきた私たちの世代に「苦労、苦 痛」を強いれば、子供を産みたいと思う人は減っていくことでしょう。なぜ、「出産、育児」を「楽しみ」という考え方にしてはいけないのでしょうか?

アメリカでは赤ちゃんを連れて外出するといろいろな人が寄ってきてかわいがってくれます。こちらがびっくりするほど子供のことをよく誉めてくれます。そし て見ず知らぬ人でも荷物を運ぶのを手伝ってくれ、子供が愚図れば「いないいないばぁ」をしたりして笑わせてくれます。そして、「こんなすばらしい子供がい て、あなたは幸せね」と人々は当たり前のように口にするのです。以前日本で働いていたときには子供を産むなんていうことさえ考えられなかった私でさえ、こ んな日常をすごすとたくさん子供が欲しくなってくるのです。

 ■子供を産むことは失業することと同じ Hisako (関西在住、大手メーカー勤務、独身)

政治が世の中についていっていないだけだと思います。政治が世の中の変化にあわせていくことは当然のことなのに、今までの世の中の枠組みに今後も国民があわせていかなければならないといわんばかりの今の日本の政治には本当にあきれるばかりです。

もし子供――日本国籍を有する子供 つまりすくなくとも片親が日本国籍である子供――が大事ならなにも日本国籍を有する女が子供を産むことではない。施策 はいくらでもあるはずです。世界人口は増加の一途をたどっています。ということは女性が産む子供の数は減っていない。しかし、そういう動きは見えません ね。日本国は、男女とわず「外国籍」の人を受け入れるようなしくみにはなっていない。

日本国籍を有する女に子供を産んでほしいなら――もっとも女は本来は誰かに頼まれて子供を産むのではないのですが――日本国籍を有し子供を産める年齢の女 性に対して子供を産むことを躊躇しない施策を進めればいいのです。今の日本で子供を産むことはほぼ失業と同等です。いわゆる中小企業といわれる会社勤務の 人たちは本当に失業するでしょう。大手にしても「病気」に対してはこれほど厚遇するのに、電機メーカーでさえ「産休」は欠勤扱いです。キャリアだ生涯賃金 だと言い出したら、議論の余地すらありません。

私は、子供が授かれば産みたいし、生まれればできる限りのことはしてその子を一人前に育てようと思っています。(結婚するかどうかは別として)でも、今の ところ到底そうしたいと思いません。結婚以前に、子供を産むのは本当にパワーがいることだと思います。(私は経験ありませんが、友人を見ている限り)子供 は産みたいと思わない限り生まれません。これは子供を産むことの選択権以前の問題です。晩婚化 高学歴 いい加減にしてほしいです。少子化とはまったく無 関係。仕事、して当たり前です。クレジットカードを作るのに保証人がいるという事実は、この経済社会のなかで「一個人」とは言いがたい。(にもかかわらず 専業主婦の道を選んだ方はかなり勇気がある。ほとんど日本の教育がおかしいのだけだと思いますが。)

 ■少子化は悪いことなのか Pochi

子どもを産もうとする女性が得をするような社会にならなければ、子どもは増えないというご意見はその通りだと思います。

しかし、それだけでなく、女性にとって子育ての魅力が理解しにくくなったようにも思えます。私も男ですし専門家でもありません。したがって、これは個人的 な感想というようにとってもらえればかまいません。そもそも生活程度が良くなり、学歴が上がり、いろいろな楽しみが増えれば子どもの数が減るのは当然で しょう。ちょっとやそっとの援助制度を考えたところで、子どもは増えないでしょう。

ある本で子どもを産まないのは「痛いからだ」ということが冗談めかして書いてありました。アメリカなどでは無痛分娩が主流だと聞きます。しかし、日本では まだ少数派のように書いてありました。多分、こうした要因は無視されているのかも知れませんが、情報化社会では必ずしも無視できない要因でしょう。また、 代理出産や代理母についても、もっと肯定的に考えても良いかもしれません。極論すれば職業としての代理母です。

そもそも少子化がそんなに悪いものでしょうか。少子化の良い面もあるはずです。少子化イコールマイナス要因として捕らえるのはどうなのでしょうか。疑問も 感じます。今後、ロボットの発展等の要素も考えれば、近い将来の介護ロボットなどの実用化も考えられるでしょう。そうなったとき、多くの人間を必要としな い社会が未来の社会のようにも思えます。
2005年02月04日(金)長野県南相木村診療所長 色平哲郎
先日、東京で開かれたワークショップに参加した。
テーマは「赤ひげ」だ。

江戸時代の医師を描いた「赤ひげ診療譚(たん)」を山本周五郎が著したのは1958年。65年には、黒沢明監督、三船敏郎主演で映画化された。

「診療譚」で、赤ひげはエリート青年医師に言う。

「仁術どころか、医学はまだ風邪ひとつ満足に治せはしない、病因の正しい判断もつかず、ただ患者の生命力に頼って、もそもそ手さぐりをしているだけのこと だ、しかも手さぐりをするだけの努力さえ、しようとしない似而非(えせ)医者が大部分なんだ」

耳が痛い。人間にとって死が避けられない以上、赤ひげのジレンマは永遠のテーマとの感を強くする。同時に、社会が豊かになり、医療技術が格段の進歩を遂げ た今、貧しい人を無料で診療した赤ひげが医療関係者のワークショップのテーマになること自体、皮肉としか言いようがない。

赤ひげのいた小石川養生所は、患者が増えるにつれ幕府から経費を削られた。今で言う「公的医療費の削減」だ。赤ひげは激しく憤る一方で、権力者を診察した 際は高額な薬代を取り立てる。富める者からは多額の診察料を徴収した。「市場原理」の導入が声高に叫ばれている現代の医療改革は、果たしてどのような方向 に進むのだろうか?

医療を経済の視点だけで見れば、一人の金持ち10万円を使って十年長生きすることと、 十人の庶民が1万円で一年ずつ長生きすることは同等ということになる。しかし大切なのは、単純比較できない人々のニーズにどう応えるかだ。多くの人が半年でも一年でも長生きできる、そんな選択のほうがいいに決まっている。

ワークショップでは、現代の赤ひげ像として「バランス感覚」「人のために働ける気持ち」などの必要性が指摘された。新人医師には、医師免許取得後十年以内 に一年以上の「地域医療研修」を義務化してはどうか、との声もあった。不便なへき地で住民と向き合えば、患者の「痛み」が分かる医師に育つという期 待......。

時代が、技術が、そして人々の意識が大江戸の現実から遠ざかるほどに求めたくなる。 それが現代の赤ひげなのか。(いろひらてつろう)

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2005年02月04日(金)萬晩報主宰 伴 武澄
  昨年11月、熊野本宮を訪ねた帰り道、新宮市を走っていると徐福公園の道案内があって、あわててハンドルを右に切った。JR新宮駅の南側に朱色と黄色と緑 色の"荘厳"な門構えに出合う。紀伊半島のとったんの熊野古道の一角で、中国かと見まがう空間との出会いはショッキングである。

 この公園には徐福の墓とともに石像と不老の池がある。敷地には徐福が探し出したとされる不老不死の霊薬「天台烏薬」の木があり、幕末に編さんされた「西 国三十三カ所名所図会」(絵師・松川半山)の「新宮湊」の項に描かれた「徐福渡来」の挿絵の石碑まである。さらに熊野川の河畔には徐福上陸の地の記念碑も ある。もっともすべて平成の作ではある。

 新宮市は熊野古道に次ぐ観光の目玉として徐福伝説を売り出している。あくまで伝統とことわった上での宣伝だから、とやかく言うべきものではあるまいと観念した。

 三重県の熊野市にも徐福の墓がある。筆者の生まれた高知県にも徐福が上陸した伝説の地がある。しかし全国に徐福伝説があまたある中で新宮市ほど現世的な徐福を顕彰した地はないと思う。

 徐福は、秦始皇帝に命ぜられて不老不死の霊薬を求めて東の海に旅立った2200年前の歴史上の人物である。司馬遷の「史記」にも書かれている。その徐福 が大陸を出発したのは事実であろうが、果たして日本にたどり着いたかどうかは歴史には書かれていない。

 仮りにたどり着いたとして、日本はまだ縄文時代である。文字もない当時の人々が徐福という文明人と出会って、どう対応したか。もし語り継がれているのだ としたら、その後の史書のどこかに書かれているはずだが、そうはなっていない。にもかかわらず各地に徐福伝説があるということはある時代にそれぞれの地で 伝説が創作されたに違いない。

 徐福が東の海に出たのは、日本にとって神話の世界のまだ昔の世界ということになるからどうももどかしい。

 新宮市の場合、徐福j公園ができたのはこの10年のことだが、江戸時代の絵図にすでに徐福の墓だとか徐福の宮だとかいうのが書かれてあるというのだ。古 くは鎌倉時代、元朝の支配から日本に逃れてきた宋の高僧、無学祖元が弘安4年(1281年)ころに自らの境遇と徐福のそれを重ね合わせて書いたとされる詩 碑まであるのだからなにやら歴史が深いような気にさせられる。

 なにしろ台湾の中国時報にも大きな記事になっているし、徐福の生まれたとされる山東省の龍口市の市長さんまで新宮にやってきて交流を深めているのだから始末が悪い。

 このまま100年もたてば、平成期につくられた幾多の石碑は確実に苔むすことになる。そうなるとロマンどころではない、これは歴史になってしまう。そう確信した。

 ところが、ことし1月7日付朝日新聞の三重版に興味ある記事が出ていた。新宮市の東にある三重県熊野市の海辺に波田須という地区がある。始皇帝の時代に 造られた「大型半両銭」とされる青銅の古銭が民家に保管されているというのだ。

 直径3センチ。真ん中には四角い穴があり、その両側には「半」と「両」の2文字が書かれている。1960年代、工事中に7枚出土したとされ、2002年 11月、熊野市で開かれた「徐福を語る国際シンポジウム」で「大型半両銭」との確証が得られたという。日本では、波田須の7枚を含む25枚の半両銭が見つ かっているが、現存するのは3枚だけだ。中国での出土も数少ないという。

 物証まで出て来るとどうだろう。壮大なロマン派ますます現実味を帯びてくるのだが......。

 http://www.rifnet.or.jp/~shingu/kankou/k-index.html
2005年02月03日(木)萬晩報通信員 成田 好三
 子どもたちが急激に少なくなってきた。少子化などという官製用語を使わなくても、多くの人がそれぞれ身近な出来事を見聞きする度に、そう感じているに違いない。

 筆者の住む町内では、もう何年も前から町内単独の子ども会ではソフトボールのチームが組めなくなっている。幾つかの町内が合同でチームを編成することが当たり前になった。

 ほんの十数年前までは、町内ごとに単独でチームが編成できた。そればかりか、子どもが余ってしまった。ユニホームが全員分揃わず、ユニホームをもらえなかった子どもの親が、「なんで俺の子どもをはずしたんだ」と監督や役員に怒鳴り込む光景まであった。

 国の統計によると、日本は2007年から「人口減社会」に突入する。人口減に伴い日本社会が衰退すると、メディアは警鐘を鳴らし、国や自治体も人口減対策を重要課題に位置付けている。

 国の人口が減る最大の原因は少子化にある。その国の女性たちが、より少なくしか子どもを産まなくなったからである。では何故、女性たちはより少なくしか子どもを産まなくなったのか。

 国の少子化対策推進基本指針(要旨)にとると、少子化の原因と背景は「出生率低下の主な原因は、晩婚化の進行等による未婚率の上昇。その背景には、仕事と子育ての両立の負担感の増大や子育ての負担感の増大」とある。

 しかし、指針に書かれている原因、背景とも根本的原因でも根本的背景でもない。それらは派生的、表層的な現象であるにすぎない。

 欧米諸国や日本などいわゆる先進国では、経済の発展とともに例外なく出生率が落ちる。少子化が進行する。その根本的原因について、国の指針は何も語っていない。

 筆者は人口問題や女性問題の専門家ではない。ましてや人口減や少子化の動向を追う研究者でもない。しかし、素人でも分かる少子化の根本的原因に触れることなく、国の政策は進められている。それで、素人ながらもこのコラムを書くことにした。

 他にも派生的な様々な原因はあるが、少子化の根本的原因は、出産・子育ての選択権が、当事者である女性本人に移ったことにある。先進国では、経済の発展 に伴う女性の精神的、経済的自立によって、それまで男性配偶者やその親たちがもっていた出産に関する選択権―子どもを産むか産まないか、産むとすれば何人 産むか―が、出産する女性本人に移ってきた。この国では、通常の場合は出産の前提になる結婚の選択権も男性から女性に移行している。

 自立する(しようとする)女性が出産の選択権を得れば、女性たちがそれまでのように十人前後もの子どもを産み、育てようとすることなど考えられない。出 産は、時には生命の危険を伴うなど、本人にとってはリスクの大きな「仕事」である。だから、少子化は先進国に共通する現象になる。
 
 その国に住む女性たちが子どもを産まなくなれば、大量の移民を受け入れる以外にはその国の社会は継続できない。だから、少子化社会では、その国に住む女性たちに、社会が継続可能なだけの適切な数の子どもを産むよう促す政策こそ、最も重要な政策になる。

 その答えは単純である。日本の現状では、出産とそれに伴う子育ては、自立した(しようとする)女性にとっては、「得にならない」「損をすることが確実」 な選択肢である。市場原理で動く社会で、明らかに損な役回りを無理強いすることなど、誰もできない。この現状を逆転させればいいだけのことである。

 女性が出産のために会社を辞めれば、その会社に再就職することは困難である。他の会社でも、その女性のキャリアに見合った業務に就くことも難しい。育児 休暇を取っても、復帰後に元の職場に戻れるとは限らない。こうした社会システムのままでは、女性たちにもっと子どもを産んでくれと頼んでも、どだい無理な ことである。

 政府が本気で少子化を回避し、人口が増える、あるいは人口が急激に減らない社会にしたいと考えるならば、社会システムを、子どもを産み育てる女性が、そうしない女性より得をする、少なくとも損をしないように変えるべきである。

 出産・子育てする女性が尊敬され、仕事への復帰の道が開かれており、金銭的にも損失を被らない。女性が「人生設計」する際にトータルな観点から判断して 損をしない社会システム構築すべきである。そうでなければ、どんな政策を取ったとしても、それらは小手先な政策であるにすぎない。政治家と本来はその手下 であるべき官僚が抜本的な政策を取らない限り、少子化の進行は止まるはずはない。

 小泉純一郎首相は1月21日に国会で施政方針演説を行った。今回の施政方針演説は、郵政民営化以外は役人の「作文」を並べつないだものだった。その中で 小泉首相は少子化対策について簡単にこう触れた。「待機児童ゼロ作戦を引き続き推進するとともに、現在60%の育児休業制度の普及率を5年後には100% にすることを目指します」。たったこれだけである。あとは役人の書いた枕詞とお題目が数行続いていただけだった。(2005年2月2日記)

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2005年02月02日(水)萬晩報主宰 伴 武澄
  1897年、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が「A living God」と題して世界に紹介した日本の物語を紹介したい。安政の大津波(1854年)が紀州を襲った時、優れた村おさが村人を救った話である。その前年の 1896年には三陸地震とそれに伴う地震で2万人以上が死ぬ災害があった。

 寺田寅彦がいみじくも述べたように「天災は忘れたころにやって来る」。地震など天災に見舞われるたびに防災の必要性が語られるが、人間は忘れやすいもの である。のど元過ぎれば・・・ということわざがある通り、防災無線を各戸に配布しても、「うるさい」からといって電源を切る家庭もある。避難勧告を連発す れば、そのうち誰も避難しなくなる。

 災害が起きた後に防災を語るのは意味のないことではないが、災害がやってきた時にどう対処するかは結局、住民一人ひとりの意思でしかない。そんな思いがある。

 紹介する「稲むらの火」は昭和12年から22年まで尋常小学校の小学国語読本・巻十に掲載された。和歌山県の教師だった中井常蔵が小泉八雲の作品を読みやすくして、教材の公募に応じて採用された。

 「稲むらの火」

「これはただごとでない」。
とつぶやきながら五兵衛は家から出て来た。今の地震は烈しいといふ程のことではなかつた。しかし、長いゆつたりとしたゆれ方と、うなるような地鳴りとは。老いた五兵衛に、今まで経験したことのない不気味なものであつた。

 五兵衛は、自分の家の庭から心配げに下の村を見下した。村では豊年を祝ふよひ祭の支度に心を取られて、さつきの地震には一向に気がつかないもののやうである。
 村から海へ移した五兵衛の目は、忽ちそこに吸付けられてしまつた。風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には廣い砂原や黒い岩底が現れて来た。

「大変だ。津波がやつて来るに違ひない」と五兵衛は思った。此のままにしておいたら、四百の命が村もろ共一のみにやられてしまふ。もう一刻も猶予は出来ない。

「よし」
と叫んで、家にかけ込んだ五兵衛は、大きな松明を持って飛出して来た。そこには取入れるばかりになつてゐるたくさんの稲束が積んである。
「もつたいないが、これで村中の命が救へるのだ」
と五平衛はいきなり其の稲むらの一つに火を移した。風にあふられて火の手がぱつと上った。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走つた。かうして、自分の田のすべて の稲むらに火をつけてしまふと、松明を捨てた。まるで失神したやうに、彼はそこに突立ったまま沖の方を眺めてゐた。

 日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなつて来た。稲むらの火は天をこがした。山寺では此の火を見て早鐘をつき出した。
「火事だ。荘屋さんの家だ」
と村の若い者は急いで山手へかけ出した。続いて老人も、女も、子供も若者の後を追ふようにかけ出した。

 高台から見下してゐる五兵衛の目には、それが蟻の歩みのようにもどかしく思はれた。やつと二十人程の若者がかけ上つて来た。彼等はすぐ火を消しにかからうとする。五兵衛は大声に言った。
「うつちやつておけ。――大変だ。村中の人に来てもらうふんだ」

 村中の人は追々集つて来た。五平衛は後から上つて来る老幼男女を一人一人数へた。集つて来た人々は、もえてゐる稲むらと五平衛の顔を代る代る見くらべた。

 其の時、五兵衛は力一ぱいの声で叫んだ。
「見ろ、やつて来たぞ」
 たそがれの薄明かりをすかして、五平衛の指さす方を一同は見た。遠く海の端に細い暗い一筋の線が見えた。其の線は見る見る太くなった。廣くなった。非常な速さで押寄せて来た。

「津波だ」
と誰かが叫んだ。海水が絶壁のやうに目の前に迫つたと思ふと、山がのしかかつて来たやうな重さと百雷の一時に落ちたやうなとどろきを以て陸にぶつかつた。 人々は我を忘れて後へ飛びのいた。雲のやうに山手へ突進して来た。水煙の外は、一時何物も見えなかつた。

 人々は自分等の村の上を荒狂つて通る白い恐しい海を見た。二度三度、村の上を海は進み又退いた。
 高台でしばらく何の話し声もなかつた。一同は、波にゑぐり取られてあとかたもなくなつた村をただあきれて見下ろしてゐた。

 稲むらの火は、風にあふられて又もえ上がり、夕やみに包まれたあたりを明かるくした。始めて我にかへつた村人は、此の火によつて救はれたのだと気がつくと、無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまつた。

 ■稲むらの火 http://www.inamuranohi.jp/index.html
 ■A living God http://www.inamuranohi.jp/english.html

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