2004年11月アーカイブ

2004年11月28日(日)構想日本政策スタッフ 伊藤 伸
 前回、栄村の「道直し」の事例を紹介し、国の指示に従って事業を行っ
た場合とコストの比較を示しました。今回は同様の切り口で、長野県の下條村を紹介します。

 ●「建設資材支給事業」

 栄村の道直しと同様、国の補助を受けない村道や農道の改良事業のことを言います。村は整備に必要な材料を支給するだけで、実際の施工は集落の住民が行います。

 この事業は国庫補助を受けず、国からの関与は一切受けていません。国の関与を受けて行った場合とは、事業規模や周辺整備の違いがあり一概に比較はできな いものの、結果として原材料費は栄村の道直しと同規模の1/8に抑えられ、集落の住民がすべての施工を行うため、人件費や舗装代は無料。総事業費では 1/32になります。

 ●下條村の創意工夫による主な事業

 栄村と同じく合併をしないことを決めた下條村では、道路の建設資材支給事業だけでなく、様々な行政のスリム化政策を行い、実績をあげています。

 ○職員改革
 役場の業務が忙しい12月に、職員全員を交代でホームセンターでの研修を実施。民間企業の方が更に忙しいことを実感させる。また、職員の嘱託化、新規雇 用カット、係長制廃止、3保育所の統合など行政のスリム化を進め、人口当たりの職員割合が全国平均に比べて4割も少ない。

 ○若年対策
 若者向けの安い村営住宅の建設、中学生までの医療費無料化を実施。このことが一因となって、村の人口が平成2年に比べて300人以上増加、生涯出生率は 1.97で県内第1位(全国の出生率は1.36)、若年人口率が17.3%で県内第3位。

 ○合併処理浄化槽
 汚水処理において、大部分の自治体が公共下水か農業集落排水を選んでいた時代に、下條村はコストの面を考えて合併処理浄化槽を選択。結果、公共下水・農 業集落排水で想定した事業費の約1/6に削減。汚水処理の人口普及率は全国で76%のところ、下條村は96%まで整備。合併処理浄化槽の問題点とされてい た水質についても、これまで苦情は一度も上がっていない。なお、全国的な汚水処理の種類別人口普及率は、公共下水が66%、合併処理浄化槽が8%、農業集 落排水が2%。

 ○財政の健全化
 最も厳しい前提条件に基づいて財政見通しを平成34年度まで試算。その状況下で行政運営できるよう徹底した財政の緊縮を行い、財政構造の長期安定性を示 す「起債制限比率」が1.7%で県内1位(全国平均は8.7%)。また平成15年度の基金残高が22.9億円。当初予定より3.7億円多く、1人当りの基 金残高は約55万円(全国平均は30万円)。

※起債制限比率:財政の中に占める、地方交付税措置されていない公債(純粋な借金)の割合。15%以上で警告、20%以上で一般単独事業債と厚生福祉施設事業債の発行停止、30%以上で一般事業債の発行が停止

 ●伊藤喜平 下條村長

「これまで行政にはコスト意識があまりにもなさ過ぎた。今回の合併論議は行政が自分の市町村の状況を真剣に考えるようになったという意味で非常にプラスに なった。国の借金を返すのに地方の財政が減るのは仕方ない。その代わり、国は地方の細かいことを決めるよりも、どのくらい減るのかなど大枠だけを決めてい れば良い」

 ●最後に

 「平成の大合併」により、市町村の数はこの11月1日で3000を下回った。ともに人口が5000人未満の栄村、下條村は国の方針に従わなかった「造反 組」と言えるが、両村のヒアリングを通じて、小さな村でも生き残っていく術は十分にあり、地方の財政危機の観点だけでの合併論は誤っていることを実感し た。

 今後は、国の方針に従わないから「切る」のではなく、両村で行われている創意工夫を更に生かすことのできる環境整備が必要である。

<下條村基礎情報>
【人口】4218人
【世帯数】1264世帯
【面積】37.66平方キロメートル(内、山林原野が79%)
【H16年度当初予算】20億6700万円
【特徴】長野県南部に位置し岐阜、愛知、静岡の3県が
     通勤圏内にある。特産品に蕎麦、辛味大根がある。
【URL】 http://www.vill-shimojo.jp/

☆詳細は構想日本ホームページ
 http://www.kosonippon.org/prj/c/?no=05 に掲載しています。

 本稿は構想日本のメルニュースから転送しました。

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2004年11月27日(土)構想日本政策スタッフ 伊藤 伸
 ●「お金」はいるが「補助金」はいらない!?

 「三位一体改革」や「補助金3兆円の削減」という言葉がたびたびマスコミ等で取り上げられています。その多くは、国と地方との間の、お金の取り合いのよ うな報道ぶりです。しかし問題の本質は、「補助金」の背後にある国のコントロールをいかに取り除くかです。

 これまで国は、補助金や交付税をえさにして、地方をコントロールし、そして、地方はこれに依存してきました。その結果、地方はどこも同じ"金太郎飴"に なり、必要のない行政運営の積み重ねで、膨大な財政赤字が積み上がりました。

 しかし、その中で危機感を持って行政を運営し、お金がないからこそ工夫が生まれている村があります。この村の取り組みを2回に渡って紹介します。
 
 ●長野県栄村 ~現場は改革のアイデアの宝庫!~

 長野県栄村の高橋彦芳村長は市町村合併をしないことを宣言し、以来、村が持続可能な行政運営を行えるように、行政コストを削減し、ユニークな政策を行っています。

 それらの政策の中で、補助金をもらわずに(国の関与なしに)行っている村独自の道路整備とは、どのような中身でどのくらいのコストで行っているのかを、栄村で現地調査しました。そして、補助事業との比較を試みました。

 ●村長の思い、村民の反応

<高橋彦芳村長>
「国は農山村でも都市並みの村づくりをやれと言ってきた。そのためのカネは交付税と過疎債。これは『本物』ではないと思いながら大バカになってやってき た。しかし、官のつくる公共事業のモノサシは栄村のような山村には全く合わない。暮らしの知恵を活かしながら、栄村らしく生きていくことが必要」

<広瀬房子さん(薬局経営)>
「(栄村独自の政策によって)視察が増え、村全体が引き締まって良いと思う。若い人が少なくなって村が続いていくのか不安だけど、今は私のような高齢者にとってはとても住みやすい」

 ●道直し

 国の補助を受けない村道や農道の改良事業。村の予算と受益者負担(用地費の3割、材料費の25%を集落で負担)で行い、村の臨時職員が施工します。

 村道が国庫補助の対象になるには道路を2車線以上にするなどの条件がありますが、集落内の生活道路は機械除雪が行える幅(3.5m)さえ確保できれば良 く、国庫補助の対象に合わせた規格にするとかえって高くつくため補助事業では行っていません。

 具体的に見ると、栄村の道直しは整備距離1m当り約1万9000円。それに対し国の道路構造令・補助基準に従った場合は、建設会社へのヒアリングによる と約11万1000万円かかります。簡易な道路整備であれば、栄村は通常の1/6のコストで行っていることになります。補助事業で行うと50%の国庫補助 がつきますが、それでも栄村独自で道路整備を行う方が負担額は1/3になるのです。

 補助事業の場合、国が一律に決めることで「どんな地域、状況でも問題ない」よう基準が決められ、多くの場合過剰な仕様になり高くなってしまいます。栄村 の道直しは、国が決めた基準(道路構造令)に従わなくて良いため、国や県への報告するための設計や測量にかかる費用が不要になったり、原材料費が安くすむ ことが大きな原因です。特に原材料費は、道路構造令や補助基準に従った場合に比べて、栄村の道直しの方が1/14にも削減されています。
 
 以上のことからも、車道や路肩の幅など、現場の必要性と判断、責任をもっと生かすべきだと言えます。全国でこのような工夫をすれば、税金の無駄使いが相当減るのではないでしょうか。

 ●「道直し」以外の栄村の創意工夫による主な事業

「田直し」:補助基準に満たない小さな田を拡大する事業。農家と村が10アール当り20万円ずつ負担し、その費用の中から機械、作業員(1名)の費用を賄う(1時間8500円)。

「下駄ばきヘルパー」:村が講座を開いて160名のヘルパー資格者を作り、集落ごとに班を作って介護サービスを提供。農山村部特有のコミュニティーを生かした手法。村の雇用拡大にも寄与。

「雪害対策」:冬期間、雪害対策救助員を15名雇い高齢世帯の屋根の雪降ろしを行う。申請に基づいて民生委員が審査、無料と有料に分け村長が決定。

 ●最後に

 栄村で行われている政策は、これまでマスコミ等で「国からのお金はなくても行政運営ができる」として取り上げられることが多くありました。しかし実状は 補助金をもらうことのできない事業、あるいはもらうとむしろ高くつく事業を、いかにして低コストで行うかを追求して生まれたものであり、冒頭にも述べたよ うに現行制度の中で「国のコントロール付きの補助金は無駄も多いし、要らないが、お金は必要」なのです。このことに留意し、今後このような努力している自 治体が報われる仕組みを早急に作らなければなりません。

<栄村基礎情報>
【人口】2604人 【世帯数】905世帯 【面積】271.51平方キロメートル(内、山林原野が93%) 【H16年度当初予算】30億1700万円  【特徴】年間140日間は根雪があり、JR沿線での日本最高記録がある豪雪地帯。新潟と群馬の県境に位置する。

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2004年11月20日(土)アメリカン大学客員教授 中野 有
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 ルーズベルト大統領からレーガン大統領まで、カーター大統領を除く8代の米大統領につかえた冷戦の戦略家として国防副長官や海軍長官を歴任された、ポー ル・ニッツ氏が97歳でなくなった。ニューヨークタイムズやワシントンポストは、数ページの特別記事で、この冷戦の歴史的証人の功績を讃えた。

 ポール・ニッツについては、ジョンズ・ホプキンズ大学の高等国際研究所の創設者の一人であり、対ソ戦略を立案した程度の知識しかなかったが、新聞記事が きっかけで、ポール・ニッツに興味を持った。以外と書店にポール・ニッツの文献がないので、中古本を中心にできる限りの文献を読みあさり、氏の戦略思考を 探求してみた。対ソ戦略や共産主義封じ込め戦略を描いたジョージ・ケナンやポール・ニッツの戦略的思考は、冷戦の国際情勢に適応した最強の戦略であった。 しかし、21世紀の今日、ポール・ニッツやジョージ・ケナンが練った戦略思考が存在していない。将来の「国際テロ封じ込め政策」を考えるためにも、冷戦の 大構想を調べてみる必要がある。

 10月23日、ワシントンの大聖堂でポール・ニッツの葬儀が行われた。一度も会ったことのない人物の葬儀に出るのも不思議であるが、私の住む家の大家が ニッツ氏の子供と友人であるということと、一般人も入れるということなので出席することにした。そこには、ラムズフェルド長官、ウォルフォビッツ副長官を はじめ、ペンタゴンやフォギーボトム(国務省)の中心人物が参列されていた。
  
 レーガン大統領の国葬が行われたのもワシントンの大聖堂であるが、テレビで観たレーガンの国葬に較べもちろん素朴な式であったが、ニッツが中心となり描 かれた構想が、歴代大統領を動かし、アメリカを冷戦の勝利に導いたのみならず、核戦争をものの見事に回避したという点で、ニッツの戦略思考を尊敬する空気 が漂っているように感じられた。

 ■ニッツと日本

 ニッツと日本の関係は深い。ハーバードを卒業し、投資銀行に勤めていたニッツは、原爆投下後の広島と長崎を訪れ、米戦略爆撃調査団の副団長として原爆投 下の効果を調査した。その時の述懐として、初秋の富士山を上空からみて、日本は世界で最も美しい国であると述べている。

 マッカーサーとの会議で、意見の相違により、ニッツはマッカーサーから2度と会うことはないと告げられるのである。しかし、2日後には、マッカーサーか ら声がかかり、夕食などでうちとけた関係になり、1ヶ月後には占領軍の経済担当官の重職としての誘いを受けるのである。ニッツは、米国の極東戦略の調整な しで日本経済を立て直すことは不可能なので、ワシントンとの協議を重んじるという条件をマッカーサーに出したのである。それに対し、ワシントンから距離を 置いていたマッカーサーは、ワシントンどころか大統領の干渉も受ける用意はないとの理由で、再びマッカーサーとニッツの関係が悪くなるのである。

 その後、朝鮮戦争が勃発したときにマッカーサーは、中国と北朝鮮の国境のあたりに原爆の使用を考えていたことや、中国への異常な挑発的な攻撃で毛沢東の 共産党政権の転覆と蒋介石の国民党の復活を考えていた。これらの危険な選択をしたことを理由に、マッカーサーの解任をトルーマン大統領が決定するのであ る。日本国憲法の1章すなわち1条から8条まですべて天皇に関する記述であることから、マッカーサーがいかに天皇擁護をしていたかが伝わってくる。ニッツ が天皇の役割をどのように考えたか分からないが、マッカーサーとニッツの関係や占領軍の東京とワシントンの関係を読み解くと人物と人物の興味深い事実がみ えてくる。

 共産主義封じ込め政策を描いた二人

 1943年7月、ニューヨーク発ワシントン行きの混雑した電車の食堂車でニッツは、ジョージ・ケナンと偶然出会うのである。この出会いがきっかけで、4 年後には国務省政策企画部の初代部長のケナンの下でニッツは、マーシャルプランの実施に深く係わるのである。

 フォーリン・アフェアーズ誌に掲載されたジョージ・ケナンの「X論文」はあまりにも有名である。1946年にモスクワから打電した長文電報がアメリカ外 交に衝撃を与えたのである。ケナンは国務省の立場上、匿名で「ソ連との協調という甘い期待を抱くのでなく、ソ連の拡張主義を封じ込めていく必要がある」と 大衆への啓蒙を行ったのである。この「ソ連の行動の源泉」論文の影響で、アジアにおける共産主義封じ込めという目的で日米の関係が親密になったのである。

 ケナンのビジョンをさらに拡大させ、ソ連の核兵器に対抗する米核戦略推進の基礎を築いた「NSC68」を1950年に描いたのはニッツである。核抑止論 を信奉するニッツの設計図が、東西の冷戦終焉までのアメリカ外交の知的・戦略的指針となったのである。ニッツの描く外交政策は、マーシャルプランの下で経 済支援を強化し、NATOを通じた集団的安全保障を構築することにあった。NSC68では、ソ連の脅威は全世界的だが、最もさしせまった危険は、クレムリ ンの衛星国による、個別的な攻撃であり、アメリカは核兵器と通常兵器の両方で防衛費支出を大幅に増大すべきであると結論づけている。

 ケネディーとニッツ

 ケネディー大統領からの電話でニッツは、大統領補佐官、国防副長官、国務省次官のいずれかのポストを30秒で選択せよと突然告げられるのである。ニッツ は、30秒間考え、国防副長官のポストに決めたのである。ケネディーの「平和戦略12項目」の上位三つは、核兵器、通常兵器、マーシャルプランを基本とす る技術協力であることからもニッツの戦略思考が、ケネディーと波長があったことは確かである。キューバのミサイル危機に瀕し、ケネディーの側近としてのマ クマラン国防長官とニッツ国防副長官の揺るぎなき戦略が活かされたのである。

 冷戦の勝利の秘訣

 10年前にニッツに直接、冷戦の勝利の秘訣について問いかけた経済評論家の田中直毅氏によれば、「冷戦が西側の勝利に帰したのはソ連に対し徹底して厳し くあたり、その妥協のない場を保持し続けたからであり、文化交流等の手段を通じて、軍事の実質・実態は変わらなく、いざという場合に使うことのできる究極 的な兵器というものによって相手の変質を待つ以外になかった」とのニッツの見識が記録されている。

 国際テロ封じ込め政策

 冷戦中は終始一貫して妥協のない核抑止論を実践したニッツであったが、アメリカの先制攻撃で始まったイラク戦争に反対していた。理由は定かでないが、ネ オコンの創始者と言われるニッツは、現在のネオコンの戦略と温度差があったようである。冷戦中は、イデオロギーの戦いの中で共産主義封じ込め政策が機能し たが、冷戦後の危険因子は、国際テロやならずもの国家、そしてこれらのネットワークを通じた核の拡散である。そこで、大国や衛星国への封じ込め政策でな く、「国際テロ封じ込め政策」が必要となる。国際テロの原因は、宗教観や価値観の違い、貧富の格差を含むことから、軍事の抑止だけでは解決不可能な幅広い 要素が求められる。

 ケナンは百歳の今も健在である。60年以上前に電車の食堂車の中で、ケナンとニッツは偶然出会った。その二人が主役となり平和の設計図が描かれたのであ る。一握りの人物の構想により大統領が動き、動かされ外交や安全保障の舞台が回転したのである。21世紀の課題、国際テロ封じ込め政策の戦略思考も、きっ と一握りの人物から生み出されるのであろう。敵は大国でなく、国際テロであるとすると、国やイデオロギーの対立でなく、協調や調和の要素が必要である。平 和戦略に向けた構想が国連やG8の場で、協議され議論が沸騰することが望まれる。ニッツ氏は、国際テロ封じ込め戦略を描くにあたり、きっと冷戦時の NATOを中心とした封じ込め政策でなく、経済・文化交流という分野も強調するハードパワーとソフトパワーの調和という戦略を思考されると信じたい。

 参考文献
Nitze, Paul H. From Hiroshima to Glasnost: At the Center of Decision. Grove Weidenfeld 1989

Nitze, Paul H. Tension Between Opposites. Macmillan Publishing Company 1993

Talbott, Strobe. The Master of the Game: Paul Nitze and the Nuclear peace. Vintage Books 1989
Mayers, David. George Kennan: and the Dilemmas of US Foreign Policy. Oxford University Press 1988

Kennan, George F. Memoirs(1925-1950). Bantam Books 1967

 Foreign Affairs, Japanese Edition: Anthology Vol.4 冷戦と「X」論文
2003.12

タッド・シュルツ、吉田利子訳、1945年以降・ポール・ニッツのNSC68、文芸春秋社、1991年

田中直毅コーナー 今週のひとりごと、アメリカ外交の変化:ポール・ニッツ氏の訃報に接し、10月22日

 中野さんにメールは mailto:tomokontomoko@msn.com
2004年11月17日(水)萬晩通信員 園田 義明
 ■森有礼の英国留学

 森有礼がスウェーデンボルグ主義の教団のカリスマ的指導者であったトーマス・レイク・ハリスに出会たのは英国留学中のことである。森は新渡戸稲造や内村鑑三と並んで日本におけるキリスト教の受容に大きな影響を残し、この人脈が後に新渡戸らの人脈と合流していくのである。

 森の英国留学は薩英戦争(1863年)以後、開国の立場に転じた薩摩藩が密航の形で送り出したもので、1865年4月に森を含めた薩藩留学生15人と五 代友厚や寺島宗則ら4人の外交使節が海を渡った。海外渡航は当時国禁であったため、留学生らは藩からそれぞれ変名を与えられ、羽島浦(串木野郊外)から旅 立つことになる。 
 
 留学生達を乗せた「オースタライエン号(オーストラリアン号)」はグラバー商会所有の船であった。そして、一行をロンドンで出迎えたのもジェイムズ・グ ラバーとグラバー商会のライル・ホームである。この二人は留学生達の教育プランの作成や生活面の支援など、広範囲に渡って世話をすることになる。ジェイム ズ・グラバーはグラバー商会のトーマス・ブレイク・グラバーの兄にあたり、実質薩摩藩による英国派遣を支援したのはスコットランド生まれのトーマス・ブレ イク・グラバー率いるグラバー商会であった。

 1863年9月の生麦事件の報復として英国艦隊が鹿児島湾に侵入、そして薩英戦争が始まった時、五代友厚は寺島宗則とともに指揮していた蒸気船三隻を拿 捕され、船を焼却された上、捕虜になっている。その失態を怒った同藩士から命を狙われるが、その時に五代をかくまったのがトーマス・ブレイク・グラバーで あり、この時から五代とグラバーとの密接な関係が築かれ、この人脈から英国派遣が実現したのである。

 グラバー商会は、資金の大部分をオランダ貿易会社とジャーディン・マセソン商会に依存していたが、薩摩留学生の学資もジャーディン・マセソン商会(香 港)の信用状にもとづいて、マセソン商会(ロンドン)が薩摩藩の手形を割り引く形で前貸ししていた。従って、実質的な薩摩留学生の支援者はジャーディン・ マセソン・グループであった。

 留学生活の準備に追われている時に、ライル・ホームが3人の長州人に出会ったとの情報がもたらされ、1865年7月2日に薩長留学生達が英国の地で出会うことになる。

 ■英国で出会う薩長密航留学生

 この3人とは野村弥吉(井上勝)、遠藤謹助、山尾庸三であり、1863年5月に同じく密航の形で日本を出発していた。当初は志道聞多(井上馨)、伊藤俊 輔(博文)を含めた5名であったが、聞多と俊輔の2名は、実際に海外に出て攘夷の無謀を痛感し、タイムズ記事で長州と英米仏蘭との間で戦争が始まるとの情 報が入ったことから、留学を放棄し1864年4月にロンドンを発ち、戦争を中止させるべく奔走していたのである。

 英国では後に長州藩から密航した5人の若者を「長州ファイブ」と呼び、彼らもまた明治維新の原動力となった。

 この長州留学生はジャーディン・マセソン商会(横浜、英一番館)のウィリアム・ケズウィックや英国領事ジェイムス・ガワーの協力を得て、ジャーディン商 会所有のチェルスウィック号で上海に渡り、ロンドン行きの貨物船ペガサス号とホワイト・アッダー号に分乗しながらロンドンに到着している。

 そして、英国留学中の世話役になったのは、ジャーディン・マセソン商会の創業者の一人であるジェームス・マセソンの甥にあたり、マセソン商会(ロンドン)の社長を長く務めたヒュー・マセソンであった。

 このヒュー・マセソンの紹介で、長州留学生はロンドン大学ユニバーシティー・カレッジのアレキサンダー・ウィリアム・ウィリアムソン博士と出会う。ウィ リアムソン博士は、ユニバーシティー・カレッジの化学教授を務めながら、英国学士院会員、ロンドン化学協会会長などの要職に就いており、偏見にとらわれな い世界主義的見解の持ち主であった。また、思想的には、ジョン・S・ミルの功利主義やオーギュスト・コントの実証哲学の信奉者として知られていた。

 長州留学生5人はウィリアムソン博士がいるユニバーシティー・カレッジに学びながら、揃ってイングランド銀行を見学するなど最先端の知識を吸収していった。

 伊藤博文、井上馨のその後の名声は語るまでもないが、井上勝は初代鉄道局長官として日本の鉄道の発展に寄与し、山尾庸三は工部大臣として活躍、遠藤謹助は洋式の新貨幣を鋳造して現在の造幣局のもとをつくった。

 薩長連合の成立は1866年1月、それより先の1865年7月に遙か彼方英国の地で後の日本を背負う薩長の若き密航留学生達が出会い、留学生サークルも誕生し、親密な交流が始まっていたのである。

 ■留学生を送り込んだ幕末・維新期のビッグ・リンカー

 まず、薩長の留学生を密航させたグラバー商会とジャーディン・マセソン商会に関わる人物のビッグ・リンカーとしての側面を見ていきたい。

 密航留学生などを通じて薩摩・長州両藩との人脈を築いたトーマス・ブレイク・グラバーは、欧米列強に対抗すべく軍備強化に乗り出していく幕末・維新期の 日本にあって武器商人として華々しい活躍を成し遂げる。少し長くなるが、すでに両書とも入手困難になっているため、杉山伸也の『明治維新とイギリス商 人』(岩波新書)や石井寛治の『近代日本とイギリス資本』(東京大学出版会)のグラバー商会とジャーディン・マセソン商会の艦船・武器の取引内容を紹介し ておく。

 幕府は1862年7月に外国艦船の購入を許可すると、幕府や各藩は競って契約に乗り出し、日本は格好の外国艦船マーケットとなった。こうした中でグラ バーはジャーディン・マセソン商会から委託されて、鉄製蒸気スクリュー船カーセッジ号(12万ドル)を幕府経由で佐賀藩に売却した1864年10月を契機 に本格的な艦船取引に乗り出していく。

 艦船取引は利潤も大きく、このカーセッジ号についても販売価格12万ドルに対して簿価は4万ドルとなっており、この取引だけでジャーディン・マセソン商会は5万8000ドルの純益をあげている。

 グラバーはこの艦船取引に際して下の三つの方法をとっている。
  1. グラバーが蒸気船や帆船を見込みで買いつけ、商会用にすでに運航させている船舶を売却する。
  2. グラバーが、ジャーディン・マセソン商会やデント商会などの販売希望者、あるいは幕府や諸藩など購入希望者からの委託をうけて適当な購入先や船舶をさがし、仲介・斡旋の手数料をとって販売する。
  3. 幕府や諸藩からの依頼によって艦船の建造の仲介をする。
 この中で特に(2)の場合、利潤はジャーディン・マセソン商会とグラバー商会の間で折半されることになっていたが、仲介者への手数料などの経費は予定価格に上乗せして販売されていた。

 留学生達が英国で学んでいた頃、すなわち1864年から68年の5年間にグラバーないしはグラバー商会の名前で販売された艦船は24隻、価額にして 168万ドルに及ぶ。これは、同時期に長崎で売却された艦船の約30%、価額にして36%にあたる。そして、この売却先は薩摩藩が最も多い6隻、ついで熊 本藩の4隻、幕府、佐賀藩、そして長州藩の各3隻となっている。しかし、薩摩藩6隻の内のユニオン号(桜島丸、後に乙丑丸)は土佐藩士である上杉宗次郎 (近藤長次郎)が仲介して長州藩が薩摩藩名義で購入した船であり、実際には薩摩藩5隻、長州4隻となる。

 グラバーはこうした艦船の売却以外に、各藩の依頼によって英国での船舶建造も仲介していた。この建艦は、グラバーの長兄であるチャールズ、そして薩摩留 学生達をロンドンで出迎えたジェイムズらがアバディーンで設立した船舶保険会社、グラバー・ブラザーズ社を通じて行われている。

 最初に建造された艦船はサツマ号で1964年に建造されている。薩摩藩が発注したのは『薩摩海軍史』では1865年となっていることから、発注前に建造 されていることになる。このサツマ号は不運にも日本への回航の途中に破船しているが、薩摩留学生が密かに旅立ったのが1865年4月だったことを考えれ ば、この建造費用の処理などをめぐる話し合いが五代友厚立ち会いのもとで密かに英国で行われていた可能性が高い。薩摩藩は留学生とともに英国に渡る五代に 対して小銃、弾薬、紡績機械の買い付けに当たらせていたのである。

 グラバー・ブラザーズ社が手掛けた日本向け建造船舶はサツマ号を含めて7隻あるが、この内の鳳翔丸と雲揚丸の二隻が長州藩発注となっている。

 グラバーはこの艦船取引の他に、小銃や大砲などの武器や弾薬類のビジネスも手掛けており、1866年1月から7月と1867年に長崎で売りわたされた小 銃の合計3万3875挺の38%にあたる1万2825挺を扱っていた。

 中でも有名なのが長州藩との取引である。幕末の長州藩は幕府の敵で、長崎では武器の購入ができない。そこで、1865年、土佐の坂本龍馬や中岡慎太郎ら は薩長和解のために亀山社中を使って薩摩藩の名義でグラバーから武器を購入して長州藩に譲り渡す仲介をし、7月には長州藩は薩摩藩士になりすました英国留 学組の伊藤博文と井上馨を長崎に派遣した。この時の取引でミニェー銃4300挺、ゲベール銃3000挺を9万2400両で購入した。

 この亀山社中が斡旋した艦船取引もある。土佐藩士である上杉宗次郎(近藤長次郎)が仲介して薩摩藩名義で購入したユニオン号がこれにあたる。しかし、こ の仲介は表面化し、上杉宗次郎は盟約違反を同志らに問われ切腹する。長州から得た謝礼金をもとに英国留学に旅立つ目前であった。

 また、グラバーは幕府から薩英戦争で鹿児島の街を焼き尽くす最新式のアームストロング砲35門、砲弾700トン、総額18万3847ドルにものぼる大量 の注文を受けていた。一部は1867年に長崎に到着していたものの、幕府は瓦解寸前で、新政府側に同砲は渡った。仮に幕府が入手していたら、戊辰の戦いだ けでなく、その後の国の行方さえ違っていたかも知れない。

 興味深いのは、薩英戦争前に、薩摩藩はこれから戦おうとする英国からアームストロング砲100門をグラバー商会に注文していたことも記録に残っている。 しかし、この話を耳にした外務大臣ラッセルが1863年2月20日に販売を禁じる指示を出していた。従って、グラバーの日本での活動はジャーディン・マセ ソン商会を通じて英国政府に伝えられていたことは間違いない。

 ■マセソン・ボーイズとロスチャイルド家

『多くの冒険の末に、3人(5人の誤り―引用者=駒込武注)はロンドンに着いた。そこで、彼らは、コモン・センスを備えたキリスト教的人物の世話になると いう幸運に恵まれた。その人は、彼らの逃亡を援助した会社のメンバーであった。ヒュー・マセソンである。今日の日本は、ヒュー・マセソンの相談と世話に少 なからぬものを負っている。「はい、私はマセソン・ボーイズの一人でした」。先日、日本の首相は私に語ってくれた。「私は多くのものを彼に負っていま す。」』

 上は京都大学の駒込武の『「文明」の秩序とミッション―イングランド長老教会と19世紀のブリテン・中国・日本―』(『地域史の可能性―地域・世界・日 本―』山川出版社)からの引用であり、日清講和条約締結の準備が進められていたさなかの1895年3月4日の『ウエストミンスター・ガゼット』に掲載され た伊藤博文首相へのインタビュー記事である。

 駒込によれば、この記事の中で伊藤は、交渉相手である中国政府の非文明的な性格、たとえば責任の所在の曖昧さについて不平を漏らすとともに、李鴻章は 「私の西洋に対するすべての知識と、私が日本で行ってきたすべての改革について知識を得たがっていた」と誇らしげに語っている。

 また駒込は英国に密航した5人の長州留学生を『いち早く西洋近代文明への「改宗者」になった』と評し、彼らもまた『自分たちの社会の劣等者を今や彼らが 「文明」とみなすものに向けて改宗させるための、もっとも熱心な宣教者となる』と書いている。

 続けて、当時の覇者英国は、キリスト教的な使命感も手伝って、自国を「文明化の使命」と位置付け、『「文明」の担い手にふさわしい人々と、その対極にあ る「非文明的」な人々を序列化しながら、多元的な「中心―周縁」構造を生み出していった。「中心」は「周縁」の人々を魅きつけ、「周縁」から「中心」への 旅を生み出すことになる。』とし、『近代日本は、そこからキリスト教をとり除き、天皇制という疑似宗教を忍び込ませるという作業を密かに行いながら、「文 明化の使命」という点ではブリテンを模倣しようとした。』と結んでいる。

 グラバー家は英国国教会に近いスコットランド聖公会に属し、トーマス・ブレイク・グラバーもフレイザーバラにある聖公会系のセント・ピーターズ・エピスコパル教会で洗礼を受けている。

 そして、英国留学生の世話役になっていたヒュー・マセソンは、イングランド長老教会の海外宣教委員会の委員長を1867年から1898年までの30年以 上の長きにわたって努め、宣教師の人選、現地の活動状況に応じた資金の配分などに大きな権限を持っていた。つまり、ビジネスマンと宗教家のふたつの顔を 持っていたことになる。そして、スコットランドの「ケルト辺境(Celtic fringe)」の出身者としてのケルト民族であったことにも注目しておきたい。

 駒込の「中心―周縁」構造を借りれば、イングランド出身の英国国教会徒が当時の英国の「中心」に位置している中にあって、その「周縁」にいたスコットラ ンド系のヒュー・マセソンとグラバーは、英国の「中心」へと駆け上がる野心から、日本を「自らの周縁」にするために「周縁」としての薩長と手を組みながら 「中心」である幕府を崩壊させたことになる。

 グラバーは、明治維新の成功が長崎貿易の縮小をもたらし経営が悪化、倒産に至る。しかし、高島炭坑の支配人、三菱が高島炭坑を買い取ってからの渉外担当 顧問として、岩崎彌太郎、彌之助、久彌に仕え、キリンビールの基になったジャパン・ブルワリー・カンパニーの経営にも携わりながら、1911年12月16 日、「周縁」の地の歴史に名を刻みながら麻布富士見町の自邸で息を引き取った。

 多数のグラバー関連文書が見落としてきた重要な事実をここで指摘していきたい。グラバーとは対照的にヒュー・マセソンは英国の「中心」を率いるエスタブ リッシュメントとして、1873年3月に鉱山採石最大手と知られるリオ・ティント(リオ・ティント・ジンク、RTZ)を設立し、1898年まで会長を務め た。設立に関わった金融業者、事業家による国際コンソーシアムの中にはロスチャイルド家の名前もあった。さらにロスチャイルド家は1887年から89年に かけてリオ・チィントの大株主となり、経営に大きな発言力を持つようになる。

 左手のアヘンを兵器に持ち替え、「左手に兵器、右手に聖書」となったグラバー商会やジャーディン・マセソン商会は、密航という手段を用いてまで、「周 縁」の若き担い手達を留学生として「中心」に招き入れることで、人的交流を深めながら「周縁」との関係を強化しつつビジネスにつなげていった。

 この手法は、ヒュー・マセソンやロスチャイルド家によって英国の「中心」に取り込まれ、ハード・パワー一辺倒の戦略から「ソフト・パワーを組み入れたハード・パワー戦略」へと転換させていくのである。

 ■ソフト・パワーの「永遠の輝き」

 英国の「ソフト・パワーを組み入れたハード・パワー戦略」を最も象徴するのが、ローズ奨学生制度である。

 ローズ奨学生制度は、英植民地政治家として知られたセシル・ローズがロスチャイルド家の支援を受けて南アフリカで1888年に興した世界最大のダイヤモ ンド生産・販売会社であるデ・ビアスなどの財産をもとに1903年に創設された。

 大英帝国繁栄のシンボルであったビクトリア女王の死去(1901年)、そしてボーア戦争(1899-1902年)では予想外の苦戦を強いられ、国際的な 正統性を失い孤立を深めていく。エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』を引き合いに大英帝国の衰退と没落が語られ、自信喪失感が漂い始める。彼らの目 には1904年から翌年にかけての日露戦争で勝利した日本人が、愛国心に富み、ロシアに対し一丸となって戦うモラル高き民族に見えた。

 ハード・パワーの限界に直面した英国にあって、ソフト・パワー強化のためにローズ奨学生制度が生まれ、1907年には日本の武士道に影響を受けてボーイ スカウト運動が始められる。ボーイスカウト運動を提起したベーデンーパウエル卿もセシル・ローズの土地を意味するローデシアや南アフリカで前線部隊総司令 官などを務めており、初期段階の次世代の兵士を育てるための青少年への軍事訓練としてのボーイスカウト運動は瞬く間に世界へと拡がっていく。

 およそ100年を経て、新たな「中心」となっているにも関わらず、英国の影響を強く受けたローズ奨学生政権が誕生した。クリントン前大統領を筆頭にウー ルジーCIA長官、タルボット国務副長官、ステファノポロス大統領補佐官、ライシュ労働長官など、いずれもローズ奨学生だったのである。

 このローズ奨学生政権を僅差で破って誕生したブッシュ政権は、再選をかけた戦いを聖戦と位置付け、両政党にまたがる国際派エリートを自負する東部エスタ ブリッシュメントを見事なまでに叩きのめし、名実ともに「周縁」が「中心」へと躍進した。

 軍産インナー・サークルとキリスト教右派・ユダヤ教右派連合に支えられたはブッシュ政権は、「左手に兵器、右手に聖書」の強力な陣営を率いて、現代版十字軍遠征に進軍していくのである。

 ローズ奨学生であったミスター・ソフト・パワーことジョセフ・ナイは、ハード・パワーを過信するブッシュ政権に警告を発し、巷ではボーア戦争とイラク戦 争を重ね合わせながら、今再びギボンの『ローマ帝国衰亡史』が注目を集め始めている。

 若きクリントンにローズ奨学生になることを勧めたのは、自らもローズ奨学生として英オックスフォード大学に学んだJ・ウィリアム・フルブライトである。 このフルブライトが上院議員時代に広島、長崎への原爆投下にショックを受け、「世界の平和を達成するためには人物の交流が最も有効である。」との願いから 1946年に創設したのがフルブライト交流計画である。

 このフルブライトの奨学金でこれまでに米国に留学したフルブライターと呼ばれる日本人同窓生は約5900名にのぼり、官界、法曹界、金融界、財界、学 界、ジャーナリズム、芸術分野で戦後の日本を支え、数多くのビッグ・リンカーを生み出す国際派エリート人脈を作り上げている。しかし、本来リベラルである はずの彼らは、フルブライトの平和への願い虚しく、イラク戦争をも受け入れた。

 100年後のモラル高き民族は、西洋近代文明の改宗者から熱心な宣教者へと見事に変貌を遂げ、ハリウッドから届けられたスクリーンの中だけの「ラスト・サムライ」を呆然と眺めていた。

 そして、米国と並ぶ世界的なダイヤモンドジュエリー市場となり、給料3カ月分神話に支えられて今なお「永遠の輝き」で人々を魅きつけている。

 これが「ソフト・パワーを組み入れたハード・パワー戦略」の威力である。


 ▼参考引用
・駒込武『「文明」の秩序とミッション―イングランド長老教会と19世紀のブリテン・中国・日本―』
 http://www.educ.kyoto-u.ac.jp/~koma/mission.html
・1873 The Rothschilds become shareholders in Rio Tinto
http://www.rothschild.info/history/popup.asp?doc=articles/pophist2_1873
・1887 The Rothschilds finance the establishment of De Beers
http://www.rothschild.info/history/popup.asp?doc=articles/pophist2_1887

  園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp
2004年11月17日(木)元中国公使 伴 正一
 カリフォルニアの大農場に日本の青年たちが不熟練外国人労働者の入国資格で働きに行っていた時代がある。そんな昔のことではない。昭和30年代、戦争の傷が癒されたかどうかという頃に始まり、東京オリンピックの直後まで続いた。

 当時、私は外務省でこの「派米短期農業労務者」というプログラムに携わっていた。略して「派米短農」と呼ばれた。

 ■農業研修と単純労働のはざまも

 この事業は、カリフォルニア州の果樹園や野菜畑で、手仕事による労働力の不足を補うものだった。日本側はアメリカ農業を学ぶという目的があったが、農場 主の認識はもちろんのこと、米国移民法上の滞在資格も「Supplementary Agricultural Worker」(我が方では短期農業労務者と翻訳、略して短農と呼ばれるようになる)だった。日本側にどれほどこの抵抗感があろうとこれが日米合意の基本 的枠組であることに変りはなかった。

 アメリカ市民はもはやこうしたきつい単純労働を敬遠するようになっていて、メキシコから国境を越えてやってきた合法、非合法の労働者がその主力を担って いた。CIOやAFLというアメリカの二大労働組合が、こういうメキシコ人労働者の存在を「農業労働賃金適正化の足を引っ張っているもの」として目の仇 (かたき)にしていたのも無理からぬところだった。。

 そこへはるばる日本から、上限1000人とはいえ、毎年500人前後の農村青年を、メキシコ人労働者と同じステータスで送ろうというのだから、米国の労働界からの反対が起きないはずなはかった。

 日本国内にも「猫の額みたいに狭い日本の農地に大規模なアメリカ農業のやり方を取り入れる余地などない」とせせら笑う人もいたし、「アメリカへ行くと いっても土地にはいつくばる単純労働では勉強にもならない」という指摘もあった。いずれも、まともには反論できないもっともな意見だった。

 しかし当時の日本では「アメリカへ行ける」というだけで「天にも昇るような話」だったし、「見るもの聞くもの、ためにならないものはないだろう」という思いも国全体にあった。

 ■2年間の労働で家が建つ

 彼らが手にするはずの賃金は1時間当たり70セントから80セント、アメリカの水準では問題なく低賃金だが、日本からみれば垂涎ものだった。真面目に2年間も働けば、現地での生活費や往復渡航費を差し引いても100万円をゆうに越す蓄えができた。

 辻堂や茅ヶ崎あたりの小さな一戸建ての家が80万円から90万円で売りに出ていた時世である。日本の青年にとって2年間のアメリカでの苦労は十二分に報われるものだった。

 果たせるかな、派米短農への期待は非常なもので、派遣人員を都道府県に割り振りする際、知事あたりからの陳情はひきもきらなかった。応募資格だった義務教育修了に関係なく志願者は殺到した。

 政府部内での主管争いも事業への期待の高さを反映したものだった。厳しい現実への即応という外務省の主張が通り、「実習」は"目的"ではなく、"期待さ れる効果"にすることで収まりがついた。農政の大御所として知られていた石黒忠篤氏を運営機関「農業労務者派米協議会」のトップに迎えたのもその時の合意 によるものである。

 選考は、知事の推薦者リストを基に、派米協議会、外務,農林両省、米国移民官の四者のチームがそれぞれの県に出向いて行われた。

 「うんざりするような長時間の単純労働に耐えきれるか」を主眼とし「折角のチャンスを生かして見聞を広めようとする志と資質があるか」にも配慮して念入りに人物を吟味したものである。

 最期に2週間の合宿訓練があり、英語と農作業が主な日課だったが、そのうち農作業には一種の最終選考の意味も併せ持たせた。

 事業が始まって幕を閉じるまでの10年間、アメリカ社会の指弾を受けるケースや契約期間終了後の居座りが一件もなかったというだけでも、この種の事業としては特筆に価するのではなかろうか。

 ■連発した「不満はないか」

 もっとも「短農事はじめ」時代には、笑えぬ喜劇とも言える失敗もあった。

 訓練には、往年の満蒙開拓民のリーダー格が何人か参加していた。開拓民を見捨てて去った軍と役人に対する烈しい憤りを胸に、集団を率い死線を越えて帰国 の途についた彼らにとって、ほんの一部かも知れないが"満州"農民の差し伸べてくれた温かい救いの手はいつまでも忘れられないものだったようで、いつも口 癖のように言っていたのが「土に生きる者の心は国境を越える」という言葉だった。

 ところが、それを聴いてその気になって出かけた短農青年たちがアメリカで見たものは、それには似ても似つかぬ吹きっさらしの資本主義世界だったのである。

 そんな誤解が影をひそめた後も労働条件やその他でトラブルが絶えなかったのは、ある程度予期されていたことでもあった。

 2度目のサンフランシスコ在勤で私は、農場主と短農青年との紛争処理のためにカリフォルニア全域を走り回ることになる。言ってみれば消防ポンプのようなものである。

 私とそんなに年の違わない若者たちの日ごろの鬱積した不満を聞き、農場主に掛け合うのが仕事である。農場で話を聞くのは彼らが仕事を終えた後,私がサンフランシスコから出かける時間次第では午後9時を過ぎてからになることも稀ではなかった。

 何しろニューヨークやシカゴの値動きを見ながら出荷量を決め収穫にピッチを上げたり下げたりするのが当時の大農場経営の定石だから、早朝からの突貫作業になるかと思うと、2日も3日も賃金の貰えない休みが続くことも農場によって珍しくない。

 地平線まで続いているようなアスパラカスの畑を「ちょっと一服」の暇もなく這いつくばって進むのには、零細農業に慣れた日本人のものとは別の波長の勤勉 さが要るかのようだった。軍隊生活を知らない若者にとって、兵営のようなキャンプの生活は人間のものとは思えなかったし、頻繁に出るメキシコ料理への文句 は絶えることがなかった。

 そんなこんなの不満を聴きながら「もう他にないか」を連発してありったけの憤懣を吐き出すと、時計の針が真夜中の12時を過ぎるのはしょっちゅうのことだった。

 だが私の方も結構しぶとかった。双方ともグッタリの態で、空気も沈静しかかったタイミングをとらえて私がよく口にしたのが「大切なのは志だよ」という言 葉。引き合いに出したのが、幕末の頃、つらい水夫の手伝いをしながらイギリスに渡航した伊藤博文の話だった。「お疲れでしょう」と言って出してくれた缶 ビールに口をつける時の安堵感は45年たった今も忘れることができない短農担当の醍醐味である。

 ■日本でも考えていい逆短農の導入

 事業の企画段階からその終幕直前まで、私はカリフォルニア現地にいたり、外務本省にいたりしながら,ずっと短農から離れることがなかった。

 幸いにして、短農OBが、アメリカで過ごした日々を懐かしみこそすれ、反米的になったという話は聞かないし、伊藤博文とまでは行かなくても,国の内外で頭角を現わした人材の話も耳にする。

「アメリカ農業」の体験がそのまま生かされなかったとしても、先進アメリカで見聞きしたことやさまざまな体験は短農OBの血や肉となり、それからの生きざまの発射台となったはずだ。

 ひたむきだった当時を顧みる時,短農時代はこの私にとっても悔いなき青春だった。それと同時に、当時のアメリカとは段違いの配慮で臨むような「逆短農シ ステム」を考案し、アジアを中心に先ず2、3カ国からでも若者を日本に受け入れる体制ができたら、それはこれからの世界のためにどれだけ素晴らしい先例に なることだろうという思いに駆られるのである。(魁け春夏秋冬」1999年11月06日号から転載)
2004年11月14日(日)萬晩報コナクリ通信員 齊藤 清
  【コナクリ発】東京の浅草名物、雷おこしを食べたことがありますか。米と砂糖と水あめと、おそらくはただそれだけの材料で仕上げられた、とても素朴でとり たてて深い味わいもないような、格別なんということのないお菓子です。それでも、ポップコーンのように膨張した米粒の、頼りなくすかすかっとした舌触り と、それをくるんだ水あめのさらっとした甘さが、ひと昔前の東京のお土産が放つきらめく異郷の香りのひとつとして、東京育ちではない人間の遠い記憶の中 に、ほのかに固定されています。――その記憶の原点から見れば、現在売られているピーナッツの入ったおこしなど、それは邪道のおこしとも思えるのですが、 人の好みは時代によって変遷するもののようですから、あえて声を張り上げる気もなく、またそれは今日のお話の目的でもありません。

 ◆戦略家サモリ・トゥーレ

 ギニアの首都コナクリから国道を北東方向へ400キロほど走ると、急なカーブの続く山道を下った先で風景は一変し、遠くに急峻な山並みを従えた甲府盆地 のようなたたずまいの平原が現れます。ダボラという町です。土地の言葉で「ダボの郷」を意味するこの町は、昔ダボ一族が造った町らしいのですが、1800 年代終盤、当時ワスルー族の王としてマンディング文化圏で権勢を誇っていた戦略家サモリ・トゥーレに追われ――それは、フランス軍とのゲリラ戦のための戦 闘員と物資の徴発のためだったと推察されます――戦わずにその町を明け渡したと、親しくしているダボ一族の末裔から最近何度か聞かされました。

 この頃、フランスの侵略軍はすでにギニア内陸部にまで足を伸ばしています。 サモリ・トゥーレは近郷近在の有力者を糾合し、フランス軍へのゲリラ攻撃を続けていました。この動きは一時期かなり成功し、土地勘の希薄なフランス軍兵士 たちを悩ませたもののようです。それは、1904年に、フランスが現在のギニアを植民地支配宣言するほんの何年か前のことでした。

 ちなみに、1958年にフランスを追い出してギニアを独立に導き、初代大統領となったセク・トゥーレは、サモリ・トゥーレの孫あるいは曾孫にあたる人です。

 ◆胡麻のおこし

 1970年代のある年の乾季、私めはこのダボラに数週間滞在していました。 仕事でたまたまそこにいることになっただけのことで、その土地の歴史背景などまったく無知のままでした。またそれらしい情報や資料を入手できる環境でもなかったのです。

 全土的に物資の乏しい時代だったのにもかかわらず、このダボラの町の市場には、いつでもそれなりの農産品が並べられていました。ソースの材料となるマニ オクの葉、わけぎ、ニンニクほどに小粒の玉ねぎ、落花生をすりつぶしたもの、燻製の川魚、カボチャ、タロイモ、調味料スンバラの材料となるネレの実を発酵 させた団子などなど、ごく日常的な食品を売るテーブルが雑然と並べられた市場の中の、おそらくは市場唯一の菓子コーナーで、毎日数量限定で胡麻のおこしが 売られていました。既成のお菓子などとうてい存在し得ない時代の地方の町で、おこしのテーブルは異色の存在に思われました。

 このおこしは、西アフリカ起源の胡麻(胡麻は西瓜と同様、西アフリカ起源の植物で、イラン、イラクあたりを経由して各地に伝わったものとされている) を煎り、この土地で採取した蜂蜜を使って赤ん坊の手のひらほどの大きさの円形に固めたもので、さらっとした味わいは雷おこしとまったく瓜二つでした。 胡麻の香りがなかなかにいい雰囲気を出していました。遠い日本の郷愁を手繰り寄せるような気持ちで、滞在中に何度か、朝早めの時間に買出しに出かけてみた ものです。一足違いで、残りのおこしをレバノン人の女の子に買われてしまって、ひとしきり残念に思ったこともあります。

 その十数年後、このおばさんが胡麻おこしを商っていたテーブルに立ち寄る機会があって、かつての懐かしいお菓子に再会することができたのですが、つい最 近この市場を覗いた時には、あのテーブルはもう跡形もなく消えていました。

 それでもある日、首都コナクリで、マリンケ族の小さな女の子が頭に金属の盆を載せて胡麻のおこしを売って歩いているのに出会い、嬉しくなって残りすべて を買い取ったことがありました。尋ねれば、母親が作っているとの返事。 事務所の人間におすそ分けしたら、高地ギニアではけっこう普通に作るお菓子だとの反応がありました。

 ◆奴隷街道に残るバオバブ

 たまたま手にしたMamadou Camara著『Le floche』を斜め読みしていたら、このダボラの町からさほど遠くない村の名前が出てきました。クルフィンバ。 これは土地の言葉で「大きな黒い岩」という意味になるのですが、その言葉どおりこの村の背後には、お子様ランチの型抜きのご飯のような形で、黒いつやつや した巨大な岩の塊が控えているのです。大地から突出したこの岩の塊は、観光地としてその名を知られたオーストラリアの「エアーズロック(ウルル)」よりも いくぶん規模が大きいように思えます。村からは、この黒い岩の塊に沈む夕日を眺めることができます。

 Mamadou Camaraは書いています。――個人の意思を剥奪された奴隷たちは、「大きな黒い岩」を通ってやってくる――と。つまりこの村は、大西洋の海へと続く奴 隷街道の通過点にある村のひとつであったようです。村の入り口には、海岸地方へ連れていかれる奴隷たちの足跡を静かに眺めていたはずのバオバブの巨木が三 本、一直線に並んでいました。――十年ほど前、道路拡幅整備の際に一本倒され、海の向こうの国へ連れ去られた人々の瞳にはたった一度写されただけで、遠い 故郷の記憶としてそのまま消えてしまったクルフィンバ村の三本のバオバブは、今は二本だけとなっていますけれど。

 このクルフィンバ村よりもさらに内陸の村々から、例えば現在のアメリカの南部、ヨーロッパからの移民集団が先住民から略奪した未開発の大陸へと送りこま れ、あるいは綿花の栽培に使役されたことになります。それがアメリカ建国当時の経済発展の礎となり、同時にポルトガル、スペイン、フランス、英国、オラン ダ等の奴隷貿易公認国家の富を増大させることに貢献したということになるわけでしょうか。

 ◆奴隷の積み出し港

 アフリカ大陸の内陸部から海に向かう奴隷街道を自らの足で歩かされ、ついに「出荷」のための港に着いた捕われの人々は、そこで船待ちをさせられることになります。

 奴隷貿易の拠点として有名な西アフリカ・セネガル沖のゴレ島、ガーナのエルミナ城などはそれぞれに奴隷運搬船待ちのための一時的な収容所であると同時 に、競合するヨーロッパの他の勢力からの攻撃と強奪を防ぐための要塞でもありました。

 例えば、奴隷貿易の時代のゴレ島の高台に配備されていた巨大な大砲は、錆びてはいるものの、長大な砲身が現在にまでそのまま残されています。その地下室 では、砲弾を運搬するための英国マンチェスター製のレールとトロッコの残骸を見ることができます。

 そして、どの積み出し拠点にもキリスト教会が建てられていて、奴隷貿易に携わる白人を信仰の面からも支援していた様子がうかがえます。つまり、アフリカ の未開の野蛮人をキリスト教文明の恩恵に浴させることが信者の使命であると諭し、信じさせ、あるいは信じたつもりで、人身売買・虐待・虐殺の免罪符にして いたというのが、奴隷貿易を正当化した時代をくくる一般的な説明となっているようです。

 これは、世界の隅々にまで「民主化」という名の似非宗教を広め、虐げられた人々を解放することが使命であるとするお題目を唱えながら、日々殺戮に精を出 しているどこかの国の狂信者たちとまったく同じ理屈であるように私めには思えます。むろん、目先の餌を求めて狂信者に精一杯尻尾を振るだけの、人間として の誇りを知らないお追従の手合いは論外ではありますが。

 ◆奴隷を商ったギニア人

 実はギニアにも、奴隷を収容し積み出した拠点が今でも残されています。現在の首都コナクリから、海岸線に沿って北東方向へ150キロほど行ったところに あるボファという町に、その古い建物はあります。ゴレ島、エルミナ城のようには整備されていないものの、人間が人間を喰い潰した時代の歴史資料に触れるこ とはできる状態になっています。

 Mamadou Camaraが書くところによれば、マングローブの茂みに隠れたこの場所は、英国が奴隷貿易禁止法を定めた1807年以降も、さらに数十年間にわたって機 能していたとされます。――米国が奴隷解放宣言を公布したのが1863年であることからすれば、それは十分にあり得ることでしょう。

 「大きな黒い岩」に身の不幸を呪い、バオバブのある村を通過して海辺の町ボファについた捕われの人々は、この土地の奴隷売買業者の支配下に置かれます。 そして手始めに、業者が信頼している有能な呪術師にゆだねられ、その呪術によって反抗心をそぎ、すべての記憶を消し去る処置がなされたといいます。 むろん、部族も出身地も自分の名前さえも。それは、黒人の奴隷業者にとっての、かすかに残る良心を慰める免罪符となったのかもしれません。

 ――この地の奴隷売買業者は海辺の町の出身者ではなく、私めの観察によれば、内陸の、むしろ連れ去られた人々に近い部族の一団であったように思えます。 彼らは内陸から海辺の地――スースー族の文化圏――に移住し、そこに定着して白人に奴隷を引き渡す役目を果たしました。彼らは、姓だけは出身部族固有のも のを使っているものの、今では出身母体の文化と伝統は完全に忘れ去り、すっかりスースー族の文化・習慣に溶け込んでいます。そのいくつかの家族と付き合っ た経験から言えば、気質までスースーそのものになりきっているようです。

 このボファの地には、奴隷貿易の時代からの伝統を伝えるギニア最古のカトリック教会があります。地域住民にも信者が多数いて、現在では、キリスト教徒と イスラム教徒との結婚もごく自然に行われる土地柄です。むろんそれぞれの信仰を変えることなく。

 ◆末裔たちのその後

 遠来の奴隷売買業者はこの地でしっかりとした地歩を築き、先祖の血筋は異なるものの、今ではスースー族の社会の中で名家として認知されています。その理 由から、スースー族の大統領による現政権下では、すでに複数の末裔が政府高官に抜擢されました。

 ある時、その一人を知り合いのギニア人と共に訪ねたことがあります。知り合いの彼は開口一番、「あんたの奴隷はどうしているかね」とその高官に挨拶し、 そばにいた私めはその意味が理解できずに、話しかけられた人の表情が一瞬こわばったのだけを記憶に残したことがありました。――その高官は業者の末裔だっ たのです。知人は前政権の時代に亡命を余儀なくされ、長年の国外生活の後、政権が変わってやっと故郷に戻ってきたばかりの硬骨漢でした。

 またある時は、事務所のスタッフと役所に出かけ、そこの長に会うために老齢の女性秘書を訪ねたことがありました。スタッフが秘書に自分の名を告げたとた ん、彼女は彼を見つめて、土地の言葉で「ああ、私の奴隷」と人差し指を突き出しました。彼は秘書の姓を尋ねて、「いいや、あんたこそ私の奴隷ではないか」 というような意味の言葉を早口で興奮気味に繰り返し、私めはまったく状況を理解できないままに、二人のやり取りを眺めていました。

 この彼は、先にお話した、戦略家サモリ・トゥーレに戦わずに破れ、おそらくは手元の奴隷を取り上げられたダボ一族の末裔であるのです。そしてその当時のダボ家に従属する奴隷の子孫の一人がこの秘書であったわけです。

 ◆胡麻の幻想

 そして時折、胡麻のおこしの連鎖を思うのです。高地ギニアで育った子供が、母親の作った胡麻のおこしを食べ、それを記憶に刻み、アメリカ大陸へと送り出 され、今度はそこで自分の子供のために胡麻のおこしを作ったのではないかと。その子供も同じことを繰り返したかもしれないと。

  アフリカ大陸から連れ出されたほんの何代か前の先祖たちは、アメリカ大陸の富を増すためにその血を流し、その末裔が、今は生きるためにその土地の軍隊 に雇われ、世界最大規模のテロリスト集団の一構成員として、飯のために他人の血を流すことを義務付けられている。あるいは自分の血を流さざるを得ない状況 に追い込まれている。

 もしかすると、そんな状況のわずかな隙間で、彼は、あるいは彼女は、母親が作ってくれた胡麻のおこしの味をふっとよみがえらせることがあるかもしれないと、そんなことを思ってみるこの頃です。

 齊藤さんにメールは mailto::bxz00155@nifty.com
2004年11月11日(木)萬晩報通信員 飯田 亮介
イタリアにいると中東が日本より近いせいか、イスラムの移民の姿が目に入るせいか、はたまた自分も彼らと同じ、非欧米の外国人であるためか、または反ブッシュ政権が大半のヨーロッパにいるせいか、イラクのニュースに敏感になります。

ひどいことが続いています。そして、ひどいことの一端を日本も担いでいます。残念です。何とかしたい、そう思います。

イタリア在住の私が今日たまたま眼にしたNHKの衛星ニュースでは、ファルージャ攻撃の特集をやっていた。キャスターと軍事アナリストの間にはファルー ジャの衛星拡大写真が拡がっている。まるで「川中島の陣」か何かを分析するかのように、淡々と語られるウォー・ゲーム。「戦略」を知ることで、視聴者にど んな思考を展開させようと言うのか。

センチメンタルな「感情論」と非難されるかもしれない。だが、そこには流されることになる「血」も「涙」も見えなかった。「理屈じゃない」無惨な戦争の姿が見えない。

以下にPeaceReporter.netに11月8日、クリスティアン・エリアが書いたレポート「ファルージャの呪われた人々」の翻訳を転載します。

http://www.peacereporter.net/dettaglio_articolo.php?idc=0&idart=329

 ■ファルージャの呪われた人々

「情況はますます悪化してます。ファルージャから20キロの距離にあるAmiryaの町を見れば、疎開者たちの困難はたちどころに理解できます。10月 26日の時点では、スンニ派の町(ファルージャ)からやって来た150家族の疎開者を迎え入れていましたが、今ではそれが、ほぼ1万7000家族になって います」。

イタリア連帯協会(Consorzio Italiano di Solidarieta'=ICS)の責任者、ダウニア・パヴォーネはヨルダンのアンマンからそう答えた。パヴォーネはアンマンから、同NGOのために働 くイラク人7人の活動をコーディネートしている。

「わたしたちはファルージャとラマディのあるアンバール県全域の難民の情況の把握を試みています。飲用水から医薬品、マットレスから毛布まで、足りないものばかりです」。

2004年4月の攻撃を受けるまでファルージャの人口は30万人ほどもあった。その時期から多くの住人たちが脱出を始めたが、当時はまだそれほど絶望的な ものではなく、近隣地区の親族や友人たちをたよっての避難だった。疎開者の流出は漸増しつづけ、今では、地元の医療関係や報道関係者の情報によると、ファ ルージャの町には総人口の20%以下が残るのみだと言う。

「疎開した家族たちは最低限の避難場所になりうるあらゆる建物を占拠しはじめました」パヴォーネは語る「公共施設、学校にモスクです。ここでは、アラウィ 政権の支配は全く機能していません、行政者すらいないのです。悲劇的なのは、食糧配給を受けるためには役所が発行する居住証明カードが必要だという事実で す。彼ら避難民には食糧を手にする権利が無く、ファルージャに残った人々には、食糧運搬上のリスクから食糧が供給されないのです」。

ファルージャにいる報道関係者は、眼を疑うばかりに家財道具を満載した、途切れることの無い自動車の長い列のことを語った。それはファルージャに残った約 2000の家族たちだ。合衆国空軍が投下する爆弾の数々と、まもなくやって来る寒さから彼らは逃げようとしている。物資供給の不在から医療施設は機能せ ず、人々は病と餓えを抱えて逃げてくる。

かつてはツーリスト向けのレジデンスだったHebbaniyaの施設を占拠した、1万2000のファルージャの家族たちもそうだ。ファルージャの重要な宗教指導者の一人、Khaled Hammud長老は数日前、ないものだらけの彼らのために声明を発表した。

今回の同盟軍の軍事作戦は、数日前にファルージャの町にばらまかれたビラと拡声器を通じて伝えられた宣告によって先触れが行われた。その宣告は女性と子供 たちに町を出て行くように促すものだった。さらに、45才未満の男性はすべて戦闘員であると見做されること、武装した男性はその年齢にかかわらず逮捕され るであろうことを強調していた。

町に午後6時から翌朝6時までの戒厳令がしかれ、ファルージャの住民たちはテロリストの逮捕のために米軍への協力が要請された。今回の攻撃の目的はつま り、イラク反抗勢力の本拠地と見做され、ヨルダン人テロリスト、ムサブ・アル・ザラウィが隠れているとされているファルージャを奪還することにある。

昨夜、ファルージャはひどい爆撃の標的となった。町の手前で宿営している2万の米兵とイラク兵に、入城のための道を開くことが爆撃の実質的な目的だった。 爆弾は医療物資の大倉庫に命中し、日の出からまもなく、兵士たちはユーフラテス川にかかる2本の橋を確保し、ファルージャの最も重要な病院を確保した。同 病院の上には、少し前からイラクの国旗が翻っている。

ファントム・フューリ(Phantom Fury)と名付けられたこの作戦による戦闘の最初の報告は、地元の医療関係者によれば、民間人の死者が12人ということである。そのうち数人は爆撃に よって崩れ落ちた建物の下敷きとなり、その他の死者は町の殉教者墓地での葬式に参列中に死亡した。攻撃側には2人の死者が出た。米兵2人が、ユーフラテス 川に落ちた軍用車のなかでおぼれ死んだのだ。

ファルージャにいる報道記者たちによれば、同盟軍の兵士たちも日の出の頃はさしたる抵抗を受けずにいたが、時を追うに従い、戦闘が激しさを増していったと いうことだ。町の到るところで、幽霊じみた廃虚と破壊を背景に、戦火が交えられている。

ファルージャ奪還のために派遣された舞台は米軍の特殊部隊とShahwanisと呼ばれるイラク軍の一大隊で編成されている。Shahwanis大隊は解 体されたサダム・フセインの軍隊で兵役を務めていた兵士たちからなるエリート部隊だ。同大隊は市街戦向けに八月から訓練されてきていて、ペンタゴン(米国 防総省)から直接に給料をもらっている。数日前、米軍の訓練官の一人、マイケル・アップルゲイト軍曹は、同大隊のうち138名がファルージャで戦うことを 拒否したと報告した。

彼らに対し、今日、ムスリム聖職者協会(Muslim Clerics Association)のウラマー(導師)たちが発した声明は、「イラク軍とあらゆるムスリムは、イスラム教も人権も尊重することの無い軍隊の旗印のも とにファルージャを侵略するという大きな過ちを犯してはならない」と呼びかけている。

ファルージャのムジャヒディンのシューラ(戦士議会)は以前に声明を発し、そのなかで、「イスラムに対する十字軍遠征の証人となるために、そしてアメリカ の本当の顔を見るためにファルージャに入るメディアには、誰にでも許可証を与えよう」と明言していた。こうした声明の数々に、今日、より総合的な聖戦への 参加をすすめる一つの声明が加えられた。それはザルカウィとつながりを持つとされるグループが出した声明である。

爆弾と言葉たちの数々からなる戦争、その狭間には、今もファルージャに閉じこめられたままの人々がいる。ファルージャから遠ざかることの出来た人々も、決してましな情況にはいない。11月6日ヨルダン紙のAlarab Alyawmが、ヨルダン国境を越えたイラク人たちは恐らく7000人以上にのぼると報告している。

今日アラウィ政権は、60日間にわたりイラク全国にしかれた戒厳令の処置の一つがまさに、その国境とシリアとの国境を閉鎖するものであることを明らかにし た。それは、ファルージャの呪われた人々の目の前で閉ざされるもう一つの扉である。(了)

この翻訳文は「反戦翻訳団」に掲載予定です。
反戦翻訳団:http://blog.livedoor.jp/awtbrigade/

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2004年11月09日(火)萬晩報通信員 成田 好三
 『腐ったリンゴ』の話がある。箱の中に腐ったリンゴが1個か2個あったら、見つけ次第取り除かなければならない。そうしないと、箱の中のリンゴすべてが腐ってしまう。

 箱の中にもっと多くの腐ったリンゴがあったらどうするか。もったいない気もすぐが、思い切って正常なものも含めすべてのリンゴを廃棄するしかない。そし て、箱そのものを取り替えなければならない。そうしないと、新しく入れた正常なリンゴもすぐ腐敗菌に取り付かれてしまう。

 プロ野球は、箱の中に1個か2個の腐ったリンゴが見つかった程度の、なまやさしい状況ではない。複数のリンゴ(球団・親会社)が既に腐っており、箱(プロ野球機構)そのものを取り替えなければ再生できない状況にまで至っている。

 来季からの新規参入球団が楽天に決まった後も、プロ野球は非常識な話題に事欠かない。もっとはっきり言えば、反社会的行為が繰り返されている。腐ったリンゴから発生した腐敗菌は、いまや球界全体を覆っている。

 ■2年連続で主力選手をただで放出したダイエー球団

 ダイエー球団は、昨年行った小久保裕紀の読売巨人軍への無償トレードに続き、今年は井口資仁を自由契約にした。球団にとって選手、特にスター選手は重要な経営資源である。優勝を争うには欠かせない存在であり、観客動員にも大きな役割を果たす。

 小久保、井口とも高額な価値をもつ商品でもある。有償トレードすれば、2人とも億単位の収入が球団の財布に入る。そんな高額商品を、球団は2年続けて、ただで放出した。

 小久保の無償トレードに関しては、いまもって球団から納得のいく説明はない。井口の自由契約に関しては、高橋廣幸球団社長が会見で説明をした。

 それによると、高塚猛オーナー代行(当時)が昨年の契約更改時に、中内正オーナーか高塚オーナー代行が球団経営から離れた場合は自由契約にするという「覚書」を井口と交わしていた。契約は有効であるため、井口を自由契約にせざるを得ない、という。

 そんな説明で納得できる話ではない。球団の大事な経営資源であり、高額な価値をもつ商品をただで放出する行為を、明らかに球団に不利益をもたらす行為を、球団幹部が独断で行ったならば、この行為は特別背任罪に該当する。

 球団と親会社であるダイエー本社は速やかに高塚氏と高塚氏の行為を容認した中内オーナーを特別背任罪で告訴しなければならない。球団を除く「福岡事業」 を外資「コロニーキャピタル」に売却した際に、球団売却の決定権を放棄した「秘密契約」が明らかになったダイエー本社が、既に当事者能力を失っているとす れば、支援が決定した産業再生機構がその役目を果たさなければ、筋が通らない。

 高塚氏は福岡ドームなどを運営する「ホークスタウン」社長当時のセクハラ容疑で起訴されているが、容疑はセクハラにはとどまらないだろう。逮捕前の高塚 氏は、一部の中小企業家グループから『カリスマ経営者』扱いをされてきた。そうした中小企業家に目を覚ましてもらうためにも、高塚氏の反社会的行為は、明 らかにしなければならない。

 ■参入審査中に球団売却を持ちかけた西武の親会社・コクド

 高塚氏が行った反社会的行為に驚いていてはいけない。もっと悪質な反社会的行為が、西武球団の親会社であるコクド(西武グループの中核会社)によって行われていた。

 コクドが西武球団を売却し、プロ野球から撤退する方針を固めたことが、11月6日に明らかになった。日経が朝刊で抜き、各紙が夕刊で後追いした。

 各紙の記事の中には、見逃すことができな記述がある。各紙ともライブドアを含めた複数の企業に対し、コクドが売却を打診したと書いている。

 11月8日のサンケイスポーツ、スポーツ報知両紙によると、ライブドアの堀江貴文社長は、打診は新規参入審査の時期だったことを明らかにしている。

 コクドと西武球団は、楽天とライブドアいずれかの参入を審査中に、一方では球団売却をライブドアに持ちかけていた。しかも、新規参入を審査する日本プロ野球組織(NPB)の審査小委員会の委員には西武球団の星野好男球団代表が名を連ねている。
 
コクドの行為は、こう解釈する他はない。コクド・西武球団を含めたNPB側には、初めからライブドアの参入を認める考えは毛頭なかった。楽天を加盟させる ことははなから決まっていた。ただ、審査の正当性を装うために審査小委員会による参入審査が必要だった。正当な理由でライブドアを排除したという理由が必 要だっただけである。

 コクド・西武球団が、ライブドアに参入のチャンスがあると考えていたならば、参入審査の最中に球団売却を持ちかけるはずはない。語るに落ちた、という言う他はない。

 ■アダルトサイトはライブドアだけの問題か

 新規参入を巡っては、メディアの取材記者数を制限した上で、録音も記者の途中退席も許さない、『公開ヒヤリング』が2度にわたって行われた。このえせ公開ヒヤリングで焦点となったアダルトサイト問題では、露骨なまでのライブドアはずしの意図が見え見えだった。

 インターネットの検索サイトからは、アダルトサイトどころか原爆製造サイトからアルカイダ関連サイトまで、若干の英語力と検索の労を惜しまない能力さえあれば、簡単に接続することができる。それがインターネットの特性である。中学生でも知っている常識である。

 アダルトサイトに容易に接続できるとして、ライブドアの検索サイトだけがやり玉にあがったが、これはおかしな話である。そんなことを糾弾するならば、楽天の三木谷裕史社長が所有するインフォシークも、ダイエー球団買収に名乗りをあげた孫正義氏のヤフーも、同じである。

 この問題で三木谷氏は、アダルトサイトを未成年者が見られない仕組みがあると説明し、委員が納得したそうだが、三木谷氏の説明自体がおかしい。検索サイトの管理者(所有者)には、そんなことができる権限も能力も機能ない。これも中学生でも分かる常識である。

 ■腐ったリンゴは取り除かなければならない

 プロ野球は、もはや再編成や小手先の改革などで再生できる段階はとうに過ぎている。真に再生させるためには、腐ったリンゴの1つや2つを取り除いても無駄である。箱の中のリンゴすべてと、箱そのものを取り替えなくてはならない。

 権限がないと逃げてばかりいる根来泰周コミッショナーを含めたプロ野球界全体の『総取替え』が必要である。役目を終えた、時代遅れになった『三文役者』には退場してもらわなければならない。

 新聞、TVなど主要メディアには期待できない。彼らは本来の役割である監視機関ではなく、プロ野球の利害当事者になっている。プロ野球12球団のうち、 『勝ち組』であるセ・リーグの3球団はメディア企業が所有している。読売新聞、中日(東京)新聞、TBSである。パ・リーグ会長の小池唯夫氏は毎日新聞元 社長である。他の主要メディアもプロ野球の生中継、スポーツニュースショー、プロ野球中心のスポーツ面を展開することで、プロ野球と利害を共有している。

プロ野球を再生させるためには、プロ野球ファンが、プロ野球を『ボイコット』するしかない。「裏金など反社会的行為が横行するプロ野球は見ない」「球場に 足は運ばない」「TV中継もプロ野球中心のスポーツニュースも見ない」「新聞の野球のページも見ない」と宣言して、宣言どおり実行することである。

 もはや、ファンによる『プロ野球解体』運動に期待するしか、プロ野球再生への道はない。いったん解体して駄目になるようなプロ野球ならば、そうなればい い。解体後に現れた新たな担い手とファンによって、新たなプロ野球を創造すればいいだけのことである。(2004年11月9日記)

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2004年11月06日(土)アメリカン大学客員教授 中野 有
  イラクのみならず世界には、恐怖と貧困に苦しむ人々がたくさんいる。日本でも台風や地震の自然災害が連続して発生し困っている人がたくさんいる。宮沢賢治 の「風の又三郎」のように困っている人があれば東西南北に翔ながら、少しでも平和のために貢献したいと考えている人がおられると思う。

「東に病気の子供あれば行って看病してやり、西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い、南に死にそうな人あれば、行ってこわがらなくてもいいといい、 北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろといい」このような風の又三郎のような行動こそ、外交、安全保障といった市民からかけ離れた分野でなく、国 際貢献の理想ではないだろうか。

 萬晩報の読者の皆様の中には、若い又三郎のような人、また定年後の第二の人生を設計されている人、筆者のような国際フリーターもおられると思う。一人一 人が地球規模で何ができるかを考え、行動することが平和の一歩となりうる。では、どのような国際協力や国際貢献についての情報源があるのであろうか。

 「国際開発ジャーナル」という40年近く続いている月刊誌がある。http://www.idj.co.jp/ 今月号の特集は、「あなたは国際協力のどんな仕事に向いている??」である。これは人生に多くのヒントと可能性を提供する月刊誌である。
 
 いつの世も紛争や戦争が絶えない。それは、人類が弱肉強食の性を備えているからであろう。人類の歴史が戦争であっても決して人類が滅亡することなく進化 を続けているのは、人類の調和やヒューマニティーといった崇高な能力がDNAの中に組み込まれているからだろう。開発援助の仕事の本質は、ヒューマニ ティーの一環であると信じたい。

 国際開発の仕事に従事している人は、単に利益を追求しているのでなく地球全体の社会貢献に重点を置いていると思われる。しかし、政府開発援助が減少傾向 にある中、開発のビジネスのことを考えれば、国際貢献という理想を追い求めてもそれが利益につながらないというのが現実である。

 国際貢献という理想が薄れた開発援助は、高圧的な態度で発展途上国と接し、先進国の一方的な価値観を押しつけながら機械的に仕事をこなしているにすぎな いようにも映る。開発援助の仕事として情報収集や報告書を作成したりする作業も必要である。しかし、開発援助の仕事の本質は、机上の学問でなく、現地で日 々生活する人の目線で開発協力を考え、最も効率的な手法で現地の生活水準を持続可能的に向上させることであろう。つきつめれば、人間の潜在と可能性を引き 出す活動である。

「開発協力は人類の義務である」と語ったのは久保田豊である。戦前の日本は大いなる理想を掲げ満州の建設を進め、また戦後の急激な経済発展の中、東南アジ アを中心に開発の理想が実践されてきた。地図をにらみながら、開発の空間に社会資本整備の理想が描かれ、その青写真が実現され、人材育成と技術移転が着実 に行われたと聞いている。当時の開発援助は、夢があり、ダイナミックで情熱的であり、また崇高な汗の匂いが漂っていたように感ぜられるのは私だけであろう か。

 恐らく、このような社会資本整備と人材育成のバランスのとれた開発援助は、欧米の開発援助機関や国際機関では、実施されなかったであろうし、また、現在 の日本の開発援助でも忘れされつつあると思われる。日本の得意とする国際貢献は、大規模な社会資本整備とそれに伴う人材育成であると考えられる。何故なら 憲法9条を有する日本は、軍事的関与(ハードパワー)を通じ国際貢献を行うには制約があり、開発援助、経済協力、人材育成等の(ソフトパワー)を生かした 国際貢献が最も有効だからである。

 国際貢献には、「矢とオリーブの木」が存在する。軍事と開発がコインの表裏であり、世界平和のためには両者がバランスよく機能することが求められる。戦 前、軍事の矢で失敗した日本が求められるのは、オリーブの木が象徴する開発援助による平和の創出である。

 紛争を予防する活動や紛争が終わった後の復興支援には、危険が伴う。開発援助の仕事が、利益追求型に向かない根拠は体を張って仕事をしなければいけない からだと考えられる。報告書の作成では表面にでぬ平和を醸成する理想と情熱こそが日本の開発援助の本来の特徴だろう。そこが、軍事という矢の存在を活用で きる欧米との違いであろう。

 では、いったいどのような形態で、開発援助の仕事に関与できるのであろうか。国際貢献を語る身分ではないが、20数年かけ中近東、アフリカ、ヨーロッ パ、アジア、アメリカで生活しながら学んだ多種多様な開発援助の組織でのエピソードを通じた国際協力の一端を紹介したく思う。

 戦時中のイラクの経験と先制攻撃

 80年初頭のイラン・イラク戦争の最中のバグダッドに駐在し、上下水道の供給のプロジェクトに従事した。これは偶然にも現在、自衛隊がイラクで行ってい る仕事に類似したものであった。当時のイラクは、戦時中にも係わらず大規模な水道事業が目白押しで、何百億円のプロジェクトが実施された。

 チグリス川、ユーフラテス川、蕩々と湧き出るオアシスの澄んだ水、荒涼とした砂漠に真っ赤な夕日にラクダのシルエットとヨルダンに続く水道のパイプライ ン。これらの光景こそ大型プロジェクトの醍醐味であった。イランの戦闘機とイラクの高射砲による応戦を目の当たりにし戦争の恐怖を実感した。

 イラクの核疑惑施設にイスラエルの戦闘機が先制攻撃した当時、イラクはアメリカの支持を得ていたのでイスラエルに対する非難が集中した。しかし、10年 後に湾岸戦争が勃発したときにイスラエルの先見性が認められた。2003年のアメリカのイラクへの先制攻撃は、このイスラエルの行動が影響したといわれて いる。23年前のイラクの経験から考察すると、ブッシュ政権がアラブの本質を知ればイラク戦を回避する事が可能であったと考えられる。

 開発援助と予防外交
 国連工業開発機関の準専門家として西アフリカのリベリアで中小企業育成のプロジェクトを担当。2年間の契約を終え、2ヶ月後にリベリアで内戦が発生した ことをウイーンの本部で知った。その後、13年の内戦が続いた。赴任地がゲリラの拠点となり多くの犠牲がでた。一緒に生活した仲間や子供達の犠牲を知り、 開発援助を通じた予防外交の重要性を認識した。紛争が始まれば取り返しのつかない結末となる。家具製造の指導を行ったリベリア人から、難民になってもその 技術は役にたったとの連絡を受け、開発援助の基本は、製造技術等のものづくりであるとのことを学ぶことができた。

 ネットワークと相互理解
 国連工業開発機関の本部では、アジア太平洋地域を担当。偶然、北朝鮮の担当になり、ウイーンの北朝鮮の代表部との人的ネットワークを通じ、マスコミ情報 に振り回されることなく北朝鮮の内観を外望、2国間の国交がない場合も国連外交を通じ、日朝という同じアジア人の相互理解を深めることができた。

 シンクタンクとコンサルタントの合作
 地球規模の重層的なネットワークを生かし明確なビジョンを描くのがシンクタンクであるとすると、それを具体的に実現させるための青写真を描くのが開発コ ンサルタントの役割である。発展と紛争の可能性を秘めた北東アジアの空間に、コーエイ総研と総合研究開発機構の合作で「北東アジアグランドデザイン」を作 成。

 国際NGOを通じた北東アジアの信頼醸成
 ホノルルの東西センター、環日本経済研究所、とっとり総合研究センターで勤務しながら、日本、中国、韓国、北朝鮮、モンゴル、ロシア、国連機関、欧米が 参加する北東アジア経済フォーラムに関与。冷戦構造が残存する北東アジア諸国が経済協力という共通のテーマで協議することにより地域の信頼醸成が構築。

 ワシントンのシンクタンクと大学
 外交、安全保障の中心はワシントンである。北朝鮮問題を解決するのにブルッキングス研究所やジョージワシントン大学のシガーセンターの影響力は大きい。 北東アジアグランドデザインをワシントンのシンクタンクの視点で展望。アメリカン大学では、日本・中国・米国の国際関係論を教えることで、アメリカ人の学 生のアジアへの関心を深めると同時に東西思想の調和が可能。

 多くの国々で生活し、多くの組織で働きながら国際貢献に係わってきた。マラリアにもかかり紛争にも出くわした。バグダッド、ケープタウン、モンロビアか ら、ウイーン、ワシントンまで地球規模のネットワークを構築することができ、国益も地球益も重要であるとの考えを持っている。開発援助の仕事とは、報告書 作成といった机上の作業でなく、例えばアフリカ人の子供の目線で草の根レベルの発展を考え、そして同時に、紛争を未然回避するという崇高な情熱が必要であ ると考えられる。戦争と敗戦を体験し、世界でも希なる平和国家となった日本は、開発援助を通じた国際貢献を外交・安全保障の礎とし、多くの人々が参加でき るシステムの構築が望まれている。

 中野さんにメールは mailto:tomokontomoko@msn.com
2004年11月03日(水)萬晩報通信員 成田 好三
 日本プロ野球組織(NPB)は、11月2日に開いた実行委員会とオーナー会議で、楽天の来季からのパ・リーグ加盟を全会一致で承認した。

 毎日新聞によると、同じく新規参入を申請していたライブドアとの比較審査の結果、楽天の方が企業規模、財務体質などの点で球団の継続的な経営が期待できると判断した、という。

 毎日の記事の中で、NPB・審査小委員会の瀬戸山隆三委員(ロッテ球団代表)は、パ球団の年間平均赤字額を約32億円としたうえで、「仮に40億円の赤字を想定した場合、(2社の経常利益に与える影響率が)決定的に違う」と説明した。

 滝鼻貞雄オーナー会議議長(読売巨人軍)も、「長期間赤字が続くパ・リーグの現状を考え、球団を永続的、安定的に経営できる企業が望ましいと判断した。楽天の経営体力がライブドアより勝っていた」とコメントしている。

 一見しただけでは、しごくもっともな、常識的な判断のようにも思える。しかし、ちょっと視点を変えて考えてみれば、これほどおかしな、理屈に合わない判断はほかにない。

 新規参入球団を審査するためにNPBが設けた審査小委員会ほどおかしな委員会はない。委員構成の正当性、審査の公平性、透明性、いずれにも大きな疑問がある。ここでは多くは触れないが、1点だけ指摘しておく。

委員はセ・リーグ会長と巨人、西武、ロッテ、横浜各球団の球団代表(横浜は専務)で構成されているが、何故この4球団で構成したのか、NPBから何の説明 もない。しかも、4球団のうち巨人、横浜両球団のオーナーはアマ選手への裏金問題で、西武球団のオーナーは株に関する虚偽記載問題で、それぞれオーナー職 を辞任していいる。

 プロ野球は、なかでも巨人戦の放映権をもたないパ・リーグとその所属球団は、経営体として破綻状態にある。だから、近鉄本社は近鉄球団の経営継続を断念して、オリックス球団との合併(吸収合併)の道を選択した。

 1リーグ化、選手会のスト、2リーグの維持と右往左往したあげくにNPBは来季からの新球団参入容認へと方針を変えた。

 新規参入を申請した楽天、ライブドアの2社は、破綻した球界と球団の経営システムを変革するとして、加盟を求めたはずである。親会社による赤字補填に頼 らない、自立した球団経営が、「わが社なら、わが社のシステムならできる。そのシステムを球界全体に導入すれば、球界全体が自立した経営体になれる」とし て参入を求めたはずである。

 しかし、参入球団を審査するNPBには、そうした新しいシステムを導入する考えなど毛頭なかった。彼らが参入球団に求めたのは、「われわれと同じシステム、親会社による赤字補填にあなた方は耐えられるのか。その意思はあるのか」ということだけである。

 既に破綻した時代遅れのシステムにしがみつく側が、自らのシステムを変革するために参入球団を求めたのではない。古いシステムに『同化』できる球団を選択したのである。

 この構図はほとんど漫画である。例えて言えばこうなる。「シャッター通り」と化した商店街が、空き店舗を埋めるに際して、新しい商店形態、経営システム をもつ商店を受け入れるのではなく、撤退した商店と同様の旧態依然とした形態とシステムを容認する商店を選択するということである。

 こんな商店街が、近い将来に活気ある商店街に生まれ変わると予想する消費者など誰もいないだろう。(2004年11月3日記)

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