2004年8月アーカイブ

2004年08月31日(火)萬晩報通信員 成田 好三

 他の参加各国より明らかに格上の選手をそろえ、チームとしてもまたとまりのあった野球の「長嶋ジャパン」は何故、アテネ五輪で惨敗したのか。

 野球は偶然性の大きい競技だと言う人もいる。どんなに強いチームでも、好投手がベストの状態で登板すればそう打てない。たまたまの1球が決勝打になる、という訳である。

 しかし、アテネ五輪での惨敗はそう言い訳して済ますことはできない。日本は豪州に2敗した。予選リーグでは打撃戦で破れ、決勝トーナメント(準決勝)で は投手戦で敗退した。この2試合の敗戦は、選手個々の能力やチームのまとまりはともかく、代表チームとしての総合力では、豪州は日本を上回っていたことを 意味している。

 「長嶋ジャパン」の敗因は大別して2つある。1つは、事前の情報収集・分析を含めた準備不足である。もう1つは、長嶋茂雄氏不在の「長嶋ジャパン」として五輪本番に臨んだことである。

 サッカーW杯は、ボールゲームに形を変えた国家間の戦争だという言い方がある。単に選手や代表チームの強化だけでは勝てない。対戦相手に対する情報収集・分析はもちろん、サポート体制など国家を挙げての総合力を結集しなければ、W杯に勝利(優勝)できないからである。

 五輪にプロ野球選手(組織)が参加したのは2度目である。前回、2000年シドニー五輪では、プロ・アマ混成チームで参加した。そして今回、アテネ五輪には初めて、金メダルを獲得するためとして、全員プロ選手の日本代表が結成された。

 全員プロの日本代表は、誰が見てもそれまでのアマ代表、プロ・アマ混成代表より、選手個々の能力、チーム力とも格段に上位のレベルであることは明らかである。

 しかし、五輪など国際大会は、選手の能力、チーム力だけで勝てるほど甘いものではない。事前の準備、対戦相手に対する情報収集。分析、試合での戦術、そして大会全体に対する戦略が大きく結果を左右する。

 しかも、五輪など国際大会では使用するボールはプロ野球とは微妙に違う。ストライクゾーンも違う。審判の技術レベルもプロ野球やメジャーリーグほど高く はない。球場の形状もプロ野球とは違う。内野は芝生で覆われている。五輪の野球競技は、プロ野球とは違う「国際標準」をもとに開催される。

 プロ・アマ混成チームで参加したシドニー五輪では、アマ側は山形県鶴岡市にある野球場で事前合宿を行った。当時、内野に芝生のある野球場は、国内にはそ こしかなかったからである。五輪参加を熱望していた古田敦也捕手(ヤクルト)は、公式戦の合間をぬって、アマ投手の投球を捕球するために合宿に参加した。 古田は結局、渡辺恒雄・読売巨人軍オーナーの強い圧力に屈したヤクルト球団の意向で、五輪参加はならなかった。

 前日まで公式戦を戦っていたアテネの五輪代表は、8月5日に日本を出発し、イタリアで5日間の合宿を行っただけでアテネ入りした。たった5日間でボールやストライクゾーンの違い、内野の芝生に慣れることは困難である。

情報収集・分析にしてもキューバに偏りすぎていた。今回、足元をすくわれた豪州には阪神の抑え投手、ジェフ・ウイリアムスがいる。主軸のデイヴ・ニルソン は4年前に中日にディンゴの登録名で在籍した選手である。前年までメジャーリーグで主軸を打っていたニルソンは、五輪に参加するためにプロ野球入りした。 シドニー五輪でもメジャーリーグ機構は、メジャーリーガーの五輪参加を認めなかったからである。

 アテネの五輪代表には、古田のような心意気があっただろうか。ニルソンのように、メジャーリーガーの地位を棄ててまで五輪に参加する熱意をもった選手はいただろうか。

 野球の日本代表は、プロ・アマ合同で参加したシドニー五輪以外の国際大会はすべて、アマ球界が参加していた。プロはシドニー以外、国際大会に参加した経 験はない。プロには国際大会のノウハウも情報もない。プロ野球界には代表チームをサポートする体制もなかった。サポート体制を構築する必要性すら考慮に入 れなかった。

プロ野球は長年、日本以外では活動した経験がない。いわば「鎖国スポーツ」である。時々、日本にメジャーリーグを招待して試合をするが、これは真剣勝負の 大会ではない。いわば営業目的の「興行」である。国際大会の戦い方を知らない日本代表は、個々の実力は高くても、そのまま勝てるほど国際大会は甘くはな い。

 五輪代表のもう1つの敗因は監督にある。長嶋氏が病に倒れた後も、後任監督を選任せず、「長嶋ジャパン」であり続けたことである。国際大会を「監督不 在」で戦った日本は、五輪をなめていたのである。サッカーのW杯で、監督なしに試合に臨むチームなどありえない。事前の情報収集・分析、戦術、戦略は、現 場にいる監督の「皮膚感覚」を通してしか選手に伝達されないからである。

 「長嶋ジャパン」が惨敗した数日後、萬晩報の読者である水谷五郎さんという方から筆者宛にメールで、敗因に関するこんな意見が寄せられた。以下はその抜粋である。

「今回の長嶋ジャパン、病に倒れた長嶋氏をどうしていつまでも担ぎ続けるの
か、おかしいことをすると思っていました。本来、病に倒れた時点で監督交代が筋でしょう。それをなぜ恋々として長嶋氏を引きずるのか。何かがあって、それ ぞれが演技しているように感じていました。私の感じたその理由は(1)野球界全体が、長嶋人気に頼りすぎている。マスコミにも長嶋タブーがある。(2)長 嶋ジャパンと言っておれば、金も集まるし、国民も納得させられる。(3)選ばれた選手自身、長嶋氏を替えて欲しくないと思っているのか。もしそうだとした ら、彼らは戦うことの恐さを知らぬ集団です。(4)野球界のリーダーも、長嶋氏を交代させることで、世論の反発が恐かったのではないか。」

 水谷さんは「長嶋ジャパン」の印象をこうも評している。

「今回、日本のベンチに長嶋のユニホームが飾られているのを見て、子供だましのように感じました。また『長嶋メッセージ』を有り難く聞いているらしいチー ムにも違和感を覚えました。すでに長嶋氏には、現場の空気や相手の能力を感じ取る当事者能力はない筈です。それをさも有り難そうに聞いているのは、マスコ ミ向けなのでしょうか。」

 水谷さんの言う通りである。ほとんど何も付け加える必要もない。筆者の書きたいことは水谷さんが書いてくれた。萬晩報の一読者の方が、主要メディアの論評よりはるかに優れている。

 「長嶋ジャパン」の敗因は、国際大会に対する球界の認識不足、準備不足に加えて、長嶋氏不在後も「長嶋ジャパン」であり続けたことにある。病気療養中の 老人を他に替えがたい「カリスマ」として奉る貧困な精神にこそ、最大の敗因があった。(2004年8月31日記)

 成田さんにメールは mailto:narita@mito.ne.jp
 スポーツコラム・オフサイド http://www.mito.ne.jp/~narita/
2004年08月30日(月)萬晩報通信員 成田 好三

 長嶋茂雄氏不在の「長嶋ジャパン」こと、野球の日本代表がアテネ五輪で惨敗した。決勝でキューバと戦う以前に準決勝で豪州に敗れ、銅メダルに終わった。

 野球の日本代表は、野球大国・キューバを破っての優勝、金メダル獲得だけを「目標」に設定されたプロ集団である。銅メダルに終わった結果は、惨敗と評価せざるを得ない。

 プロ野球12球団のスター選手を集めた、いわば野球版「ドリームチーム」が、米国のマイナーリーグ組を中心に編成された豪州に、予選リーグ、決勝トーナメントとも敗れたことは、プロ野球界にとって大失態と言える。

 球団合併に伴う1リーグ化の是非をめぐって球界が混乱する中で、リーグ公式戦の最中に各球団の主力選手をアテネに送り込み、金メダルを獲得することで野球人気の回復を図ろうとした作戦は、完全に裏目にでた。

 それにしても球界は相変わらずの無責任体制のままである。報知新聞によれば、五輪野球の開催期間中、球界の幹部は誰一人として視察にも来なかったという。

 他の競技団体であれば、五輪など大きな国際大会で、事前に想定した目標が達成されなかった場合は、その責任を問い、敗因分析を行うのが当然である。責任の所在を明確にし、敗因を明らかにしなければ、次の目標を設定できないからである。

 このことはスポーツに限ったことではない。政治や経済の分野でも同じことが言える。

 しかし、球界からは今回の大失態の責任を問う声も、敗因を分析する動きもない。彼らは当事者能力を失った烏合の衆のようだ。球界再編、1リーグ化に関する混乱に右往左往しているだけである。

 アテネに大量の取材陣を送り込み、金メダル確実とはやし立てて、自らの紙面や放送枠で五輪野球を大きく取り上げてきた新聞、テレビなどの主要メディアの対応もひどいものがある。

 アテネの敗因分析をしないどころか、日本代表を「準決勝の敗戦にめげず、よくぞ銅メダルを取った」などと称賛するメディアまで現れる始末である。

 日本のスポーツメディアは、よほどのお調子者かお馬鹿さんである。彼らは、アテネでの大失態の責任を問おうともしない。まっとうな敗因分析をしようともしない。これまで通り、球界のご機嫌を取っていれば、視聴率は稼げるし、新聞も売れると考えているようである。

 もうそんな時代ではないことは、視聴者や読者の方がよく知っている。球界再編をめぐる混乱の過程で、球団やその親会社の経営に関する考え方が何ともいい加減で、時代遅れのものであることが明らかになってしまったからである。

 メディアにしても、政治などの分野と同様に、読者や視聴者が最も知りたい重要情報は、「知っていても書かない」業界であることを自ら露呈してしまったからである。

 メディアは、多くの球団で経営が不健全で前近代的なものであることを前々から知っていた。ドラフトをめぐって巨額の「裏金」が存在することも、よく承知 していた。それでも彼らはなにも書かなかった。メディアは読者や視聴者の側ではなく、当事者(球界)の側についていたからである。(2004年8月30日 記)

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2004年08月29日(日)萬晩報通信員 園田 義明

 ■クエーカー人脈と新渡戸稲造

 これまでに登場した人物をひとつにつなげてみたい。

 まずボナー・F・フェラーズはクエーカーである。クエーカー派のアーラム大学で出会った渡辺ゆり(後に結婚して一色ゆり)も当然のことながらクエーカーの影響を受けている。

 河井道の父方は伊勢神宮の神官を務める裕福な家柄だった。しかし、事業投資に失敗し、一家五人は伊勢神宮のおひざ元から、北海道函館へ渡った。河井はサ ラ・スミスが札幌に開いたミッション・スクール塾(二年後にスミス女学校、現在の北星学園女子中学・高校)の一期生として入塾し、ここでプロテスタントと して洗礼を受けている。河井はスミス女学校で8年を過ごしたが、5年生の時に出張授業に来た新渡戸稲造と出会い、これを機に新渡戸の河井に対する関与は終 生続くことになる。この時、新渡戸は米国留学を終えて帰国し、母校である札幌農学校の教授を務めていたのである。新渡戸は毎週土曜の夜に河井を自宅に呼ん で、英文でつける日記の口述筆記をさせた。この作業は河井の英語力を高めることになる。
 
 札幌を離れた新渡戸は河井を札幌からよんで、東京に住む旧知の津田梅子(津田塾大学の設立者)に預けた。その後、新渡戸夫妻の勧めで、夫妻と一緒に米国 へ渡り、河井はブリンマー大学で学ぶことになる。ブリンマー大学は津田も学んだところであり、津田自身が設立した「日本婦人米国奨学金」を受けての留学で あった。河井は米国滞在中にアーラム大学を訪ねる機会があり、日本の女子学生受け入れのルートをつけて帰国した。その適用第一号が渡辺ゆりである。つま り、津田梅子、河井道、渡辺ゆりの三人はいずれも新渡戸と深く関係していたのである。

 新渡戸の「武士道」は河井を連れて渡米した翌年の1899年に英文で出版されている。この「武士道」はフェラーズにも影響を与え、日本兵を知るためのテキストにもなった「日本兵の心理」でも武士道が分析されている。

 関屋貞三郎は東京帝国大学法科大学を卒業後、高等文官試験に合格し、台湾総督府を振り出しに内務官僚の道を歩み、1921年に宮内次官となる。関屋も無 教会主義の内村鑑三の弟子、塚本虎二から聖書を学んでいた。塚本虎二は新渡戸の門下生によって組織された「柏会」のメンバーであり、関屋貞三郎本人もク エーカーであった。

 寺崎英成も後にクエーカーとなっており、フェラーズ自身も含めて、フェラーズ周辺にいた日本人すべてがクエーカーと関わりを持っていた。また、彼らのすべてが日本人最初のクエーカーである新渡戸稲造につながっていくのである。

 ■さらなる源流としてのモリス家
 
 新渡戸稲造人脈の更なる源流を辿れば、野口英世も姿を現す。

 新渡戸は札幌農学校時代に洗礼を受けたM・C・ハリスの夫人を頼って1884年に米国に渡り、夫人の出身校であるアレガニー大学(ペンシルベニア州ピッ ツバーグ)に入学するが、友人の佐藤昌介の勧めでジョンズ・ホプキンス大学(メリーランド州ボルチモア)に転じる。このジョンズ・ホプキンス大学の設立者 であるジョンズ・ホプキンスもクエーカー教徒である。

 ボルチモアでクエーカーに出会った新渡戸は日曜日になるとクエーカーの集会に出席、この時にフィラデルフィア郊外オーバーブルックのメアリ・H・モリス に出会う。メアリ・H・モリスの本名はメアリ・ハリス、クエーカーの集会で出会ったウィスター・モリスと結婚してメアリ・ハリス・モリスとなった。

 メアリ・H・モリスは1883年に開かれたクエーカーの婦人部総会でヨーロッパ、エジプト、シリア、メキシコ、インドに続く新たな伝道先として日本が候補にあがっていたことから、日本の状況を知るために85年夏に新渡戸と内村を講師として招くことにする。

 「講演料が貰える」との理由で張り切って出掛けた二人は日本の神道の思想や日本人の勤勉さ、実直さを紹介し、クエーカーとの共通点を強調する。また、女 子教育が遅れていることにも言及し、女子大学設立の必要性も説いた。この二人の助言から教会側は直ちに代表者を日本に送り、87年に女子教育を目的とした 日本における唯一のクエーカー派の学校として「普連土学園」が設立されたのである。 

 1871年に女子留学生としてわずか6歳にして岩倉使節団に同行した津田梅子は女学校卒業後いったん帰国するが、1889年には再びフィラデルフィア郊 外の名門女子大学、ブリンマー大学に留学する。この時もメアリ・H・モリスはブリンマー大学の学長と交渉して授業料免除、寄宿料無料という好条件を引き出 し、再渡米の道を拓いた。津田自身が設立し、後に河井道に適用された「日本婦人米国奨学金」や津田塾大学創立資金集めにもメアリ・H・モリスは多大な協力 をしている。

 こうしたことがきっかけとなって、モリス家では毎月の第一土曜日に日本人留学生を招いたクエーカーの集会が開かれるようになり、訪れた日本人を心暖かく 迎えた。このモリス家での集会がまさに留学中の日本人が行き交う「グランド・セントラル・ステーション」になったのである。

 ここに招かれた留学生は、新渡戸稲造、内村鑑三、津田梅子、そして新島襄(同志社大学設立者)など第一世代キリスト教人脈の中心人物の他に、後藤新平 (満鉄初代総裁、逓信相、鉄道院総裁、内相)、佐伯理一郎(佐伯病院設立者、同志社病院院長、京都看病婦学校、京都産婆学校校長)、串田万蔵(三菱銀行会 長)、林民雄(日本郵船専務)、伊丹次郎、和田義睦、馬場辰猪(土佐自由民権家)、大石正巳(土佐自由民権家、農商務大臣)などがいた。

 そして、日本でキリスト教の洗礼を受けていた野口英世もこのモリス家をたびたび訪れていた。ただし、野口の場合はモリス家からは宗教的な影響はあまり受けておらず、日本人との出会いの場として安らぎを得ていたようだ。

 今なお日本を代表する偉人として名を残す野口、新渡戸、内村、津田の4人がクエーカーのメアリ・H・モリスを通じて結ばれていたのである。

 ■クエーカーとララ物資

 「われ太平洋の橋とならん」と生涯の決意をした新渡戸稲造が「この法案が修正されるまで、アメリカの土は踏まぬ」と言い放ったことがある。この法案とは 1924年に成立した米国の移民法である。事実上、日本からの移民を阻止するための法律であることから「排日移民法」とも呼ばれた。日本の世論が反米に傾 くきっかけになった法案である。この時にクエーカーが反日感情の拡がりに反対しただけではなく、援助の手をさしのべていたことはあまり知られていない。

 そして敗戦後の日本にあって新渡戸と内村の助言によって設立された普連土学園の関係者が多大な尽力をしていたことを知る日本人も少ない。

 敗戦後の日本は窮乏のどん底にあり、食べ物、衣服、医療品、その他の生活必需品も不足していた。そうした中で、敵国だったはずの米国から、民間の救援品 を満載した船団が1946年11月30日、横浜港に到着する。クリスマスに間に合うようにと届けられたララ物資の第一便であった。以後このララ物資は52 年の終結までに約200隻の輸送船によって太平洋を渡ることになる。

 このララ(LARA)とは、米国の13のキリスト教界が超教派で組織した「アジア救援公認団体」の通称であり、クエーカーのアメリカ・フレンズ奉仕団も その一つとして配給にあたった。戦前から普連土学園で教鞭をとっていたエスター・B・ローズは配給のために日本全国を回りながら、救援品を集めるために故 国へ日本の窮状を訴え続けたひとりである。

 すでに前章で紹介した「裕仁とフーヴァー、非常に重要」文書の中にはこうあった。

「かつての敵のこうした高貴な態度は、見習うべき特質であると感じる。私の国民とともに、この尊敬すべき精神的価値を学び取り、我が民族の道義心を高めて救いを得たいと願う。」

 これは、戦前、戦後のクエーカーへの感謝の気持ちと無縁ではないはずだ。

 園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp
2004年08月28日(土)
 ■遅すぎた辞任、逃げ方に憤り 岐阜市 林さん

萬晩報を読ませていただきました。「たかが200万で」とはいい言葉ですね。おそらく日本中の人が変だと感じていることだと思いますが、どうしてもメディアにでてきません。私の行動範囲が狭いせいかもしれませんが、初めてナベツネ辞任に関して賛同できる文章を読みました。
個人的な意見ですが、このような人間の存在がスポーツ業界のみならず、日本の世代交代を遅らせ、更には経済を含めた国力の低下につながっているのだと思い ます。自分が手にしたものを他人に渡す勇気のない人間はトップたる資格が無く、世の中の変化に対応できなければ絶滅する運命なのだと思います。そういう意 味では遅すぎた辞任ではありますが、逃げ方に憤りを感じます。責任をとったと言いつつも、護身そのものだと思います。さらに、そこへつっこまないメディア もまったく責任感の無いサラリーマン集団です。
最終的にはトップ人事こそヘッドハンティングで、アメリカのように他社からつれてこなくてはいけないものなのかもしれません。

 ■過去の金の流れを調べ上げるべき 松本さん

私は現在海外にいるので、日本の野球の情報が分かりにくかったのですが、コラムを読ませていただきとてもよく分かりました。200万円というお金が今後の 野球界の浄化に役立つことを祈っています。スポーツという名ばかりのモラルを欠いた日本の野球の世界を正すには、もはや過去のお金の流れを、脱税などの名 目で洗いざらい調べ上げ、表にだすしかないのではないでしょうか。

 ■プロ野球構造改革の最後のチャンス 千葉県 井上さん

プロ野球の経営者はすでに経営者としての資質を欠いていることが誰の目にも明らかになったが、古田(敦也選手会長)らはいち早く、裏金の自主調査をするこ とを宣言しなければ、おお恥をかき、良心のあるファンからは見向きもされなくなるでしょう。プロ野球構造改革の、最後のチャンスです。新人選手の獲得にも 裏金が動いている。こういう犯罪行為を見逃していったいなにが、解決するというのか?

 ■T選手の本当の契約金は10億円? 匿名希望

私は関西のある市に住んでいます。時々行く寿司屋に、今年ある球団に入った選手の従兄弟が店員として働いています。時々その選手の両親が食べに来るのです が、3月頃、ポロリとある事を漏らしました。その選手の契約金は、新聞で報じられた額の2倍だ(となると、契約金の上限を超す額になります)。
これで驚いてはいけない。H球団にはいったT選手の本当の契約金は10億円だと聞いた時は驚愕しました。嘘をついているとは思えません。というのは、「T は開幕スタメンで使う事になっている」と、スポーツ紙で報道される以前に断言していましたし、開幕後にスタメンで使う試合数まで教えてくれました。ですの で、その事も真実だと思います。
こんなにお金を使えば、税務当局の目こぼしがあっても、組織として持たない所が出てくるのは当然ですよね。同時に、こうした流れがある限り、1リーグ制に したって持たないと思います。根来コミッショナーには、そういう意味で、強権を発動して欲しく思います。私自身はH球団のファンですが、そうする事で球団 が罰せられても仕方無いと思います。(文中の地名、球団名、選手名は匿名扱いにしました)

 ■1リーグ制の阻止の仕方 R さん 

知り合いが言っていたことで恐縮ですが、今回のプロ野球1リーグ制問題は、(1)独占禁止法に抵触している可能があり、公正取引委員会が読売ジャイアンツ に対して行政指導するべき(2)1リーグ制にした場合、選手の大量リストラが発生するため、労働監督庁が古田選手会会長に対して雇用主との交渉などの指導 をするべき、などの手段により阻止できるそうです。むしろ、(1)に関しては政治家ももっと関心を示すべきで、その関心の低さは、渡辺元オーナーの「たか が野球選手」の一言に現れていると言えます。
例えば日本の最近のサッカー熱は、FIFAが新たな市場開拓を目的に、日本サッカー界へ様々な配慮をした結果です。こうしたスポーツがもたらす経済効果 は、今の社会に無視できない要素であるにも関わらず、日本の政治家がほとんど動いていないことに、今の日本の政治家のレベルの低さが表れています...。
2004年08月23日(月)萬晩報通信員 土屋 直

 庭に子供が産まれたことを記念して苗木を植える。少年の成長とともに、その苗木は枝葉を付けやがて一人前の樹木となってゆく。青年になった少年は、縁側 から見事に緑の葉を繁茂させた樹木を眺めながら、両親と木にまつわる思い出を語る。家族は青年とともに成長した木を媒介として、物語をつむぎあい、その物 語によって、親子の絆はより固く強い結束で結ばれることになる。

 文化とは本来、こうやって形成されてゆくものではなかろうか。人類学者のレビ・ストロースは、親族関係や神話などの文化的所産の根底にある無意識の構造 の中に文化が存在することを指摘しているが、それならば、現実から離れた虚構性の中にリアリティを求めて、小説を書き続ける村上春樹氏は、現代の寓話の創 り手といえる。

「ノルウェイの森」などの、村上氏の小説は三百万部を超えるベストセラーとなり、70年前後の激しい学生運動の時代に青春を過ごした団塊の世代の感性を色濃く映し出す一連の小説群は社会現象となり、日本の現代社会が生み出した文化的な所産となっている。

 そんな村上氏の作品「TVピープル」が、「ニューヨーカー」の1990年9月10日号に掲載されたのは、私にとって衝撃的な出来事であった。

「ニューヨーカー」は、創刊以来「明るさと粋と洗練された諷刺精神」を主調に首都生活を描いてきた雑誌で、アメリカ人にとって「ニューヨーカー」とは永い間守り続けてきた宝物のような国民雑誌(ナショナル・マガジン)であり、WASPの飛び地とも呼ばれていた。

 また、「ニューヨーカー」は、文学界で最高の権威をもつ雑誌であり、人嫌いで知られ隠遁生活をおくっていた、J・D・サリンジャーも毎週電話で「ニュー ヨーカー」を読むよろこびを編集長ウィリアム・ショーンと語っていたし、ソール・ベーローは他誌から受取る稿料よりも少ない稿料で「ニューヨーカー」に寄 稿した。レイチェル・カーソンの『沈黙の春』、トルーマン・カポーティの『冷血』、チャールズ・ライシュの『緑色革命』も「ニューヨーカー」から生み出さ れた作品である。

 アメリカに日本作品を受け入れる素地が出来、「ニューヨーカー」のようなアメリカの雑誌に日本人の現代小説が掲載されたということが、当時の私にとって非常な驚きであった。

「ニューヨーカー」編集部によれば、六十五年の歴史を持つ同誌が日本人作家の作品を掲載したのは「ハツミ・レイコ」さん以来、40年ぶりだという。

 もっとも、この私の衝撃は遅いものであったのかもしれない。なぜなら、既に村上氏は1989年10月末に米国で『羊をめぐる冒険』の英訳本を講談社イン ターナショナル社から初版二万五千部を出版しており、日本人作家の「三千から五千部が普通」という従来の常識を打ち破っていた。さらに、発売日以前に第二 刷三千部の増刷が決まるなど、日本人作家としては異例の驚異的な売上の記録を更新していた。

 ニューヨーク・タイムズ紙は、村上氏の『羊をめぐる冒険』を1989年10月21日号の書評ページのトップで取り上げ、「国際的な創作の分野における力 強い新たな前進」であり、「汎太平洋小説」と呼んでよいと評価し、「太平洋のこちら側の読者にも認められるべき才能」として絶賛している。

 われわれは1995年にドジャースの野茂投手がメージャー・リーグで初勝利を挙げたのと同様に、村上氏の「ニューヨーカー」掲載の快挙を日米文学交流の偉大な功績としてもっと記憶にとどめるべきではないだろうか。

□ 参考文献 ;
『朝日新聞 縮小版 1989年11月号』(国立国会図書館・関西館蔵)
『朝日新聞 縮小版 1990年9月号』(国立国会図書館・関西館蔵)
『毎日新聞 CD-ROM版 1992年版』(国立国会図書館・関西館蔵)
『「ニューヨーカー」の時代』(常盤新平著;白水社)

 土屋さんにメールは mailto:habermas@mx2.nisiq.net
2004年08月21日(土)萬晩報通信員 成田 好三

プロ野球界全体を統括する立場にある根来泰周コミッショナーは同じ日(8月16日)にこんな発言をした。裏金問題の調査に関して、「調査能力に限界がある し極めて難しい。過去は過去としてそのままにしておく」。渡辺氏の「たかが選手の分際で―」をはるかに超える暴言である。

 根来氏は、極めて政治色の強い法務・検察官僚だった。プロ野球界にも、渡辺氏の傀儡として送り込まれた人物である。そうだとしても、現実に起きた裏金事 件を調査せず、過去の調査も行わないと即座に断言するとは、いったいどんな見識をもった人物なのだろうか。過去を(現在も)清算せずに、どんな未来をつく ろうと考えているのだろうか。自らの地位の安泰以外は何も考えない人物なのだろう。渡辺氏が球界の表舞台を去った後も、この人物は渡辺氏の傀儡であり続け るつもりだろう。

 ■メディアの不可解な沈黙

 渡辺氏のオーナー辞任発表は実に絶妙なタイミングで設定された。球界再編を巡る混乱の中で、1リーグ制の旗振り役であった渡辺氏の辞任は、当事者である 読売を除く全国紙各誌がトップニュースとして扱った。読売は1面左肩で4段見出し扱いにした。TVでもNHKはニュースのトップに位置付けた。

長年にわたるプロ野球界の病巣であった裏金の事実が発覚したことによる、球界の「ドン」の辞任である。球界再編の帰すうを決する9月8日のオーナー会議ま で1か月を切っている。1面トップで扱う価値のある重大ニュースだとの認識があってのことだ。しかし、彼らに価値判断はたった1日で変わった。翌日から彼 らの関心は別のテーマに向かったからである。

渡辺氏の辞任が発表用されたのは8月12日である。翌13日にはアテネ五輪の開会式が行われた。新聞やTVはアテネ「狂想曲」を激しく奏で始めた。柔道の 野村忠宏、谷亮子、競泳の北島康介、体操男子団体の28年ぶりの金メダル獲得と、メディアはアテネに照準を絞ってしまった。誰も渡辺氏の辞任とその背景に ある問題など気にしなくなった。渡辺氏の辞任は、アテネ五輪での日本選手の金メダルラッシュの中で忘れられた。各メデイアとも読売のメディア戦略に乗った ようである。

現実は、アテネ狂想曲の陰で忘れられてしまう程度のニュースではないことを、読売自身が自ら行った人事で示している。読売は事件の責任を取らせるとして球 団社長、球団代表を解任したが、球団代表の後任は、東京本社運動部長を充てた。アテネ五輪の開会式前日に、読売五輪取材の現場指揮官を交代させたのであ る。イラク戦争開戦前日に、米国が現地司令官を解任したようなものである。

読売は、アテネ五輪に社運をかけて取り組んでいる。JOCの公式スポインサーになり、印刷工場を各地に新設するなど巨額の設備投資を行っている。その読売が、アテネ報道の現場指揮官を直前に交代させてまで、球団体制の建て直しを図っている。 
 
 読売のライバルである朝日は、渡辺氏が押し進めてきた球界再編・1リーグ化に異議を唱えてきた。その朝日は、先の西村氏のコラムで、球界の内部文書で裏 金の存在を暴露している。しかし、朝日や西村氏は何故、この事実をストレートニュースとして扱わなかったのだろうか。その理由が分からない。

渡辺氏の辞任と「200万円供与」事件の意味は、球界で常識になっていた裏金の存在を、当事者、しかもプロ野球界の盟主を自認する読売自身が認めたことで ある。その事実を読売はもちろん、アマ・プロの野球界ばかりか、メディア界までもが加担して矮小化しようとしている。アテネ五輪に出場しているプロ選手 24人にしても、ドラフトに関して裏金とは無関係だと言える選手はどれだけいるだろうか。

 ■国税庁に「保護」させてきたプロ野球界

 裏金についてはもう一点だけ指摘しておく必要がある。球団と選手との入団契約の過程で、正規の契約金以外の金品が存在することは、違法行為に当たる。双方とも税金の申告などしようもない金品であるからである。

 読売は7月27日付の連載「野球再生」(1)「パ・リーグ 補填も限界」の中で、近鉄の40億円など親会社が球団の赤字を補填している実態に触れた中で、こう書いている。

「こうした補填は本来なら、子会社への寄付金とみなされ、親会社は補填額の大半を課税される。ただ、プロ野球の場合は(19)54年の国税庁通達で、赤字(欠損)補填金が広告宣伝費の性質をもつ場合は全額経費として認められている。」

 プロ野球界は、国税庁から税金面で特別な保護を受けている業界なのである。戦後、国民的娯楽を提供する業界として認められ、さらに当時の業界人の強い政 治力によってこの「保護通達」ができたのだろう。そうした特別扱いを受けている業界が、赤字で球団経営が成り立たないと言いながらも、巨額の裏金を横行さ せているとしたら、これは間違いなく悪質な犯罪行為である。

 ■辞任カードですべてを矮小化、隠蔽するのか

 読売自身が明らかにした裏金の存在という球界の病巣を、手術で除去することではなく、メディアも含めた関係団体がよってたかって隠蔽し、少なくとも矮小 化している。渡辺氏の辞任カードとその絶妙なタイミングは、それでだけ効果的だった。しかし、そんなことをしているプロ野球界は、現行のままの歪な構造の 2リーグ制を維持しようが、1リーグ制に変わろうが、展望ある未来など切り開けるはずもない。(2004年8月20日)

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2004年08月20日(金)萬晩報通信員 成田 好三

 NHKの海老沢勝二会長と並ぶ日本メディア界の「ドン」であり、プロ野球界の「ドン」でもあった、読売新聞グループ本社会長のナベツネ氏こと、渡辺恒雄 氏が8月12日、突如として読売巨人軍オーナーを辞任した。今秋のドラフト有力候補選手へのスカウト活動でルール違反の行為があったとして、この問題の道 義的責任を取ったというのが理由である。

 ■不可解な渡辺氏の辞任理由

しかし、渡辺氏のオーナー辞任の理由ほど不可解なものはない。辞任に関する読売の説明はもちろん、アマ球界も含めた野球界の対応は、不可解なことばかりで ある。当事者である読売、アマ・プロ球界、それに野球界を監視する立場にあるはずのメディアでさえ、渡辺氏辞任の理由を明らかにするのではなく、事態を可 能な限り矮小化しようと、「共同作業」をしているとしか思えないからである。

 渡辺氏の読売巨人軍オーナー辞任の理由について、読売は13日付の紙面でこう説明している。

今秋のドラフト自由枠での獲得を目指していた明治大学の一場靖弘選手(投手)を巡り、球団社長、球団代表の許可を得て編成部長が現金200万円を一場選手 に手渡した。一場選手への現金授受の事実は、最近になって読売新聞グループ本社に外部から情報が寄せられ、巨人軍に調査を指示した結果、判明した。この問 題の道義的責任を取って、渡辺氏はオーナーを辞任した。

読売新聞は、外部から情報が寄せられたとしているが、外部からの情報とは、誰からの具体的にはどんな情報なのか、何も説明していない。さらに、その情報が 何故、日本を代表する巨大メディア・読売新聞の最高経営責任者である渡辺氏のオーナー辞任に直結したのか、これについても何も明らかにしていない。

 ■「たかが野球選手」と「たかが200万円」

 読売新聞の説明する渡辺氏の辞任理由は納得できるものではない。記者会見には本人は出席していない。紙面を通して「メッセージ」を伝えただけである。日ごろから饒舌な渡辺氏だが、この問題に関してだけは、沈黙を守り通している。

渡辺氏が推し進めた球界再編に関して「蚊帳の外」に置かれたプロ野球選手会の古田敦也会長が球団オーナーとの直接会談を求めたのに対して、「たかが選手の 分際で―」との暴言をはいて会談を拒否した渡辺氏が、「たかが200万円」程度の現金供与でオーナーを辞めるはずはない。

 渡辺氏の辞任には、表向きの理由とは別の理由があるのではないか。選手はもちろん、ファンや世論の声を無視して強引に進めてきた1リーグ化、古田氏への暴言を機に巻き起こった「反ナベツネ」「反読売」の世論のうねりは拡大してきた。

渡辺氏に無視された古田氏は、テレビ朝日の討論番組「朝まで生テレビ」に出演して選手会の主張を訴えた。連合の笹森清会長との会談を実現させた。笹森氏も古田氏の立場に理解を示した。こうした動きを読売新聞としても無視できなくなったのではないか。

 ■裏金を認める「内部文書」が存在する

 仮に、辞任の直接の理由が「200万円供与」事件だったとしても、ドラフト有力選手への現金供与、裏金の実態は、今回発覚したような大学生への食事代な ど小遣い程度の供与であるはずもない。ドラフトでの有力選手獲得を巡っての裏金の存在は、プロ野球界の常識にすらなっている。8月17日付朝日は、西村欣 也氏のコラム「EYE」で、裏金の存在を認めるプロ野球界の内部文書の存在を明らかにしている。

西村氏はこう書いている。「過去の問題については、01年1月18日の開発協議会で12球団代表に配布された内部文書を読んでいただきたい。 『契約金を 1億円+出来高5千万円と申し合わせたが、現実は裏金と言われる金員がかかり球団経営を圧迫する事となった』 多額の裏金の存在を機構内部が認めている文 書が存在するのだ」

その上で西村氏は「裏金が(球団)経営を圧迫し、球界再編の流れとなった」と指摘している。

 ■「調査せず」「過去は問わない」プロ・アマ球界

 「200万円供与」に関しては、関係団体に共通する「項目」がある。どの団体も当事者である一場選手への事情聴取は行わず、過去の事実の確認も行わない ということである。「加害者」である読売巨人軍は8月16日、新球団社長が会見して、「(過去に)さかのぼって調査することはない」と明言した。

一場選手が所属していた日本学生野球連盟も同日、一場選手と明治大学野球部に対して処分を科さない決定を下した。既に野球部を退部した一場選手も明大野球部も被害者であり、処分の対象にはならない、という理由からである。一場選手に対する事情聴取は行わない。

「被害者」であるアマ球界も沈黙した。裏金の実態を明らかにする意思などまったくないのである。多くのアマ球界の関係者、指導者が裏金に染まっているとするならば、彼らは沈黙するしかないからである。(2004年8月20日記)

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2004年08月19日(木)ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口 坦

 原油価格が高騰している。原油相場の指標となっているウエスト・テキサス・インターミディエイト(WTI)原油の先物価格が1バレル45ドルを越して最 高値を連日のように更新している。50ドルを超えるのは時間の問題とみる人も少なくない。もうかなり前から、政治家は地球上のどこかで集まると、原油価格 値上がりをぼやき立ち直りかかった景気がポシャルことを心配することにしているようだ。

 ■ いろいろな原因
 
 現在の原油価格高騰にはいろいろな原因があるといわれる。世界経済が力強く成長するとよろこんだ途端、多くの人に今度はそれが石油需要の増加につながることが心配になってきた。でもここまでなら原油価格上昇が景気の過熱を抑えるので自動調整装置が作動している過ぎない。

 世界最大の産油国・ロシアの5分の1を扱う石油大手ユコス社の破綻問題で供給が止まる可能性があること、ベネズエラのチャベス大統領問題、イラクの政情不安定、テロの恐怖などが、原油価格高騰の短期的原因としてよくあげられる。

 次に、中国という人口大国の経済成長で石油需要が増大して不足していると油価の値上がりが説明される。「黄禍論」以来中国というと人口が多くて彼らが自 分たちと同じことをはじめた途端に物不足になると欧米人は思うようだ。中国は原油の需要で日本を抜いたけれど、輸入量がまだ少ないので中国の責任にするの はかなり酷である。

次にイラクの政情不安定であるが、これは短期的問題に終わらないかもしれない。「戦争終了後」イラクで(一説には)200回以上もパイプライン破壊活動が あり、その阻止のために2万人近い監視人と1万人の米軍兵士が常時投入されている。こんな警備体制が中東の油田地帯の日常風景になったら安い原油も不可能 なる。イラク戦争も、またその後の米連合軍の占領も、アラブのテロリストに目標を油田施設に切り換えさせただけではないのか。(こちらのほうが防ぎにくい し、ビルに飛行機でぶつかるほど騒がれないかもしれないが、ボディブローのように持続的効果を発揮する。)

 ■市場で根強い先高観

 今までは原油価格が上がってもサウジが増産してくれた。かなり前にワシントン・ポストのボブ・ウッドワード記者はその著書の中で米駐在サウジ大使が懇意 のブッシュに大統領選挙の前に原油増産にを約束したと書いて、多くの人がさもあらんと思った。(この「花形ジャーナリスト」はサウジに寄せる人々の期待感 に乗っかって噂を流したことになる。)

 ところが、市場は(少なくとも今までは)そんな約束が実現する雰囲気でない。それどころか、かえってサウジの増産能力を疑う人が増えている。ということは、今までとは事情が少し異なっていることになる。

 例えば、株がさがる発言は絶対慎むはずの国際的証券会社ゴルドマン・ザックスのジェフ・キューリー・チーフ・ストラテジストまでもが「石油はたっぷり あっても手のとどかないところにある」というイミシンな発言をして市場で根強い先高観を肯定した。

 もうかなり昔から、私たちは石油資源がいつの日か枯渇することを知って暮らしている。石油が地球上のあっちこっちに埋まっていて、その全部の埋蔵量の総 計を人類の年間石油消費量で割る。その結果、25年とか、40年とか、120年とかいった数字が出てくる。そして、まだ先の話だとか、もうそのときには自 分が生きていないとか私たちは考える。

 でもここでいわれる「枯渇する」とか「埋蔵量」とかいったことは何を意味するのだろうか。もしかしたら、私たちは厭なこと考えないですますために原油埋 蔵量を自分の銀行預金のように考えているのではないのか。この考えは「原油埋蔵量神話」というべきもので、今回の価格高騰に対する人々の反応を見ている と、この神話が終焉に近づきつつあるような気がする。

 ■「埋蔵量」について

 まず「埋蔵量」からはじめる。石油会社・メジャーには、発見した油田の埋蔵量を低めに発表し、その後原油採掘がはじまると、あらためて埋蔵量を上方修正 する傾向があるといわれる。こうするのは、採掘された量より新しく発見された埋蔵量のほうを大きくしておくことができるからで、企業価値を「右肩上がり」 に見せるためである。

 次は産油国政府が発表する埋蔵量である。たいていは、メジャーが発見・開発した油田が国有化されたので、恣意的な経理上の埋蔵量が踏襲されている。

 次に石油輸出国機構(OPEC)加盟国は80年代自国生産量の割り当てを増大させるために埋蔵量を拡大した。これは国庫収入を増やすのが目的で財政的必 要から生まれた数字である。例えばアブダビを例にとると1987年までは310億バーレルであった埋蔵量が、1988年に突然三倍近くの922億バーレル に増大した。

 多くの産油国は毎年原油を採掘しているのに公表した埋蔵量を変えないでそのままにしておく習慣がある。またアブダビの例を取ると1988年から922億バーレルの埋蔵量がすえおかれたままである。

 要するに、埋蔵量はかなりあてにならい数字である。今年のはじめ、メジャーのロイヤル・ダッチ・シェル社は長年に渡って原油と天然ガスの埋蔵量を水増し してきたことを認めて20%下方修正した。その結果、当時会長と担当重役が辞めただけでなく、少し前に米証券取引委員会(SEC)と英金融庁に罰金総額1 億5000万ドル(約168億円)の罰金が課せられた。この事件は埋蔵量が恣意的な数字であることを市場に印象づけたので、現在の原油高騰と無関係でない とされている。

 ■「枯渇する」こと

 次は「枯渇する」の意味である。ビールのビンは逆さにしてふれば空っぽになったことがわかる。ところが、油田のほうはそういかない。油田は埋蔵量が残っ ていて「枯渇していない」状態でも、噴出のし方がだんだん弱くなって採掘量が減り、採掘を続けるために技術的な工夫が必要になる。

 たくさんの埋蔵量が残っている油田でもそこからチョロチョロしか出なければ、増大する原油需要をカバーできない。とういうことは、原油の市場価格を考える上で決定的に重要であることは油田の埋蔵量より毎日の採掘量のほうである。

 原油価格を考えるためには、あまりコストをかけないで採掘できる普通の石油と、手間ひまをかけて、オイルサンドから抽出されるようなコストのかかった石 油を区別すべきである。ちなみに、現在私たちが消費している石油のほとんどは低コスト石油である。

 この安い石油を供給する大規模油田は前世紀の60年代までに発見されたものである。私たちは地球上のいろいろな場所で次から次へと有望な油田が発見され ていような印象をもっているかもしれない。ところが、前世紀の60年代以降もしくは70年代はじめ以後に見つかった油田はどれも小規模で埋蔵量が小さいと される。最近では、喧伝されたカスピ海油田も小規模でうまみがないと思って撤退する会社もあらわれているといわれる。

 油田は40年ぐらいでその採掘量がピークに達するとされる。すでに述べたように、安い原油とたっぷりと私たちに供給してくれた巨大油田は60年代頃までに発見されたものである以上、地球全体の総原油採掘量がそのピークに達するのは決して遠い未来でなく間近な話である。

 中国をはじめアジアで経済が成長し人類全体の原油需要が増大する。それなのに地球全体の総採掘量がピークでこれ以上増えなければ、原油は高くなるしかな い。現在の原油価格の高騰は投機的側面があり反落するにしても、このような未来の厄介な問題の予感であり先取りでもある。

 ■「狼少年」扱い

 誰もがいつか安い石油の時代が終わると思っている。人々の意見が分かれるのは、どの程度まで間近に迫っているか、またどのくらいの時間的余裕があるかの点についてである。

 悲観主義者は、総採掘量がすでにピークに達しているとか、それが間近であるとか考え今から採掘量が急激にへることを心配する。彼らは中東特にサウジの巨 大な油田がとっくに盛りを過ぎたものであると主張する。彼らは厭なことを考えたくない社会の多数派からイソップ寓話の「狼少年」扱いにされがちである。

 60年代までに発見された巨大油田から原油が勢いよく出なくなったとしても、ピークに達した地球全体の原油採掘量のほうが急激にへらないと希望がもてる 理由もないことはない。その一つは、小規模とはいっても60年代以降に発見された油田も稼動を続けていること。次の点は、オイルサンドなどから手間ひまと コストをかけて得られる石油の生産量が10年前では安価な普通の石油の2%に過ぎなかったのが、現在11%まで増大したことである。

 原油価格が高くなり、その結果消費が抑制されて高価格の石油の生産が増大し、また代替エネルギーの盛んになるのなら、まだましである。ところが、価格上 昇があまりに急激であるために、安い石油の上に乗っかっている経済・社会体制が反応できずに、混乱状態や戦争状態におちいる可能性がある。それを避けるた めには、この問題に眼をつぶり不安をおぼえているのでなく、議論の対象にしたほうがいいのはいうまでもない。そう考えると石油問題での悲観主義者を「狼少 年」扱いにするべきでないことになる。

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2004年08月18日(水)萬晩報通信員 園田 義明

 ■憲法第九条とのバーゲニング(取引)

 1946年2月13日に外務大臣官邸で日本側(吉田茂外相、憲法問題担当国務相松本烝治、白州次郎、長谷川元吉翻訳官)に「マッカーサー憲法草案」が掲 示される。GHQは松本烝治が中心となって起草した松本案が「天皇の統帥権維持」などを柱とした保守的な内容であることが分かり、急遽独自に作業を始め、 十日たらずで「マッカーサー憲法草案」を完成させた。

 この「マッカーサー憲法草案」は「マッカーサー・ノート」にあった3原則(象徴天皇・戦争放棄・封建制度廃止)に従って、25人の民政局員が運営委員会 と天皇、人権、立法など七つの小委員会に配置され、秘密厳守の下で草案作りを行った。実務責任者であったチャールズ・ケーディス陸軍大佐(GHQ民政局次 長)は、マッカーサーが示した3原則のうち、「天皇は国の元首」とあったのを「国の象徴」に修正、「自衛戦争の放棄」を削除して「交戦権の放棄」に改めて いる。

 この「マッカーサー憲法草案」が掲示された時、米国側は松本案の拒否を通告した上で、「マッカーサー憲法草案」は天皇を戦犯として起訴すべきだという他 国の圧力から天皇を擁護するために作成したもので、これを受け入れれば「天皇は安泰」になる。もし受け入れなければ、政府の頭越しに日本国民に提示する、 と述べている。さらに松本の回想によれば、民政局局長のコートニー・ホイットニーは、もしこの改正案を受け入れなければ「天皇の御身柄を保障することはで きない」と付け加えている。

 これを裏付ける資料として1992年に毎日新聞が日大大学院の河合義和教授立ち会いの元で行われたケーディスとのインタビューがある。

 このインタビューでケーディスは憲法第九条を「天皇制維持を他の戦勝国に納得させるため加えられたと言っていい」と証言した。当時の経緯について、「米 上院を含め戦勝諸国には天皇を東京裁判(極東軍事法廷)で裁くべきだ、との意見が強かった。しかしマッカーサーは『天皇家』は保持されるべきだと判断して いた」と述べ、ここから非戦条項を憲法本文に盛り込み、各国の理解を得ようとの考えが生まれた。また、ケーディスは「日本政府からは戦争放棄を憲法前文に 盛り込んだらどうか、との提案もあった。しかしGHQはこれを拒否した。戦争放棄規定は第一条にしても良いほどだった。しかし天皇への敬意もあって一条は 『象徴天皇としての地位』とした。しかし一条と九条はいわば一体であり、不可分のものだった」と述べている。

 このインタビューに関連して、古関彰一独協大教授(制憲過程研究)は、「連合国諸国は当時、日本、特に『天皇制』に対して大変厳しい見方をしていた。 マッカーサーやホイットニー、ケーディスらは極東委員会(連合国11カ国で構成)に天皇制の存続を何とか納得させたいと考えており、九条とのバーゲニング (取引)を十分、意識していただろうことは推測できる」としている。

 ■「マッカーサー・ノート」と幣原喜重郎

 それでは「マッカーサー・ノート」はマッカーサー本人の考えで、マッカーサー本人が書いたのだろうか。

 1945年のクリスマスに官邸の執務室で、憲法草案に没頭していた幣原喜重郎首相(当時)は風邪から急性肺炎になり寝込んでしまう。この幣原を助けたの はマッカーサーが送った軍医とペニシリンだった。年が明けて1946年1月24日の正午、幣原はそのお礼にマッカーサーを訪れる。

 マッカーサーによれば、この時幣原は『新憲法を書き上げる際にいわゆる「戦争放棄」条項を含め、その条項では同時に日本は軍事機構は一切持たないことを きめたい、と提案した。そうすれば、旧軍部がいつの日かふたたび権力をにぎるような手段を未然にうち消すことになり、また日本にはふたたび戦争を起す意志 は絶対にないことを世界に納得させるという、二重の目的が達せられる』と説明したとされる。さらに、「日本は貧しい国で軍備に金を注ぎ込むような余裕はも ともとないのだから、日本に残されている資源は何によらずあげて経済再建に当てるべきだ」と付け加えた。

 マッカーサーが原子爆弾の完成で戦争を嫌悪する気持ちが高まっていることを幣原に伝えると、幣原は涙ながらに「世界は私たちを非現実的な夢想家と笑いあ ざけるかも知れません。しかし、百年後には私たちは予言者と呼ばれますよ」と語ったとされる(「マッカーサー大戦回顧録」中公文庫下巻、 P239~240)。

 このことは、幣原自らも「外交五十年」(中公文庫、P220~221)で「多くの武力を持つことは、財政を破綻させ、したがってわれわれは飯が食えなく なるのであるから、むしろ手に一兵をも持たない方が、かえって安心だということになるのである。日本の行く道はこの他にない。わずかばかりの兵隊を持つよ りも、むしろ軍備を全廃すべきだという不動の信念に、私は達したのである。」と堂々と書き残している。

 このふたりのやりとりについて、「押しつけ論」の批判をかわすための演出との見方もあるが、いずれにせよ、ここでも天皇制の存続を条件にした憲法第九条 とのバーゲニング(取引)があったはずである。従って、当時の世界の天皇認識を考えれば、憲法第九条は米国からの「押しつけ」だったと言い切れるものでは ない。

 ■「銀杯一組」の行方

 はたしてクエーカーであるフェラーズは憲法草案にどの程度関わっていたのだろうか。この点の検証は未だに行われていない。

 当時「シカゴ・サン」の東京特派員であったマーク・ゲインは「ニッポン日記」(ちくま学芸文庫、P526)の中で「私は元帥の発表する声明の中に、いつもフェラーズの思想の反映を発見して驚いたものである」と書いている。

 またこれに関連して白州次郎が興味深いコメントを残しているので「風の男白州次郎」(新潮文庫、P130)より紹介しておきたい。重ねて書くが白州は当 時の日本におけるインナー・サークルの中心人物に深く関係している。樺山愛輔伯爵は白州の義父、そして牧野伸顕伯爵の娘婿である吉田茂の三女和子と麻生セ メントの麻生太賀吉を結びつけたのも白州である。

 白州は「週刊新潮」の回想の中で、マッカーサーがオーストラリアの地で日本本土侵攻作戦を開始した時に、すでに新憲法草案は着手されていたと推測してい た。白州によれば、新憲法が公布されると、政府はこれを記念して「銀杯一組」を作り、関係者に配ったという。白州がその銀杯をホイットニーに届けた際に、 ホイットニーはこの贈り物を喜んだ。そして、「ミスター・シラス、この銀杯をあと幾組もいただきたいんだが・・・」と言いだした。その日、ホイットニーの 部屋には、ケーディス以下何人かのスタッフが詰めていたが、彼の言う幾組という数字は、このスタッフの数をはるかに上回っていた。白州はその点を問いただ すと、ホイットニーはつい口を滑らせたのである。

「ミスター・シラス、あの憲法に関係したスタッフは、ここにいるだけではないんだ。日本に来てはいないが、豪州時代にこの仕事に参加した人間が、まだほかに何人もいるんだよ」

 「日本には来てはいない」という点で食い違いもあるが、豪州時代からマッカーサーと行動を共にしたのはホイットニー以外に、「43年9月にオーストラリ アのマッカーサー司令部に派遣され、統合計画本部本部長、そしてマッカーサーの軍事秘書、司令部内の心理作戦部(PWB)部長として、日本人に対する心理 作戦を立案、実行」したボナー・F・フェラーズもいた。フェラーズやその部下達の家に「銀杯一組」が飾られていないのだろうか。

 ■「裕仁とフーヴァー、非常に重要」文書

「戦争という災難が東洋に訪れてから、私は多くの時間を、苦悩と瞑想に費やした。我が国を崩壊寸前にまで導き、国民に屈辱を味わわせたこの悲劇の原因は何 だったのか、私は解明しようとしてきた。時が経つにつれ、我々は道徳的責任感に欠けていたことが明白になってきた。我々は不幸にも自らを欺いていたのだ。 我々は、西洋人が不倶戴天の敵であり、日本を破壊し、日本人を奴隷にすると信じていたのである。我々は戦争に敗れ、敵は軍隊をもって我が国を占領した。し かし占領軍は、日本人を絶滅させることも奴隷にすることもなかった。逆に、彼らはこの国を再建し、国民を解放した。彼らは、我々が今まで知らなかったほど の寛容さ、正義感、同情心を示した。かつての敵のこうした高貴な態度は、見習うべき特質であると感じる。私の国民とともに、この尊敬すべき精神的価値を学 び取り、我が民族の道義心を高めて救いを得たいと願う。」

 これが残された文書には「裕仁とフーヴァー、非常に重要」というフェラーズの走り書きがある。『昭和天皇二つの「独白録」』( NHK出版)の150、151ページに掲載されているが、この文書が書かれた日付は1946年6月18日となっており、『昭和天皇二つの「独白録」』で は、天皇からフーヴァーにあてたメッセージの英訳ではないかと書いている。

 フェラーズと河井道には共通する日本人観があった。「戦争における日本人の残虐性は、精神的なよりどころとなる神が存在する西洋と異なり、そういった神 が存在しない日本の宗教に起因する。そのような日本人を精神面から変える必要がある。」(フェラーズ文書「ピース・フロム・ザ・パレス」)という面で考え を共にしていた。反論を試みたい感情もふつふつと沸いてくるが、話がややこしくなるのでやめておこう。

 ジョセフ・グルーもマッカーサーも敬虔な聖公会の信徒であった。クエーカーのフェラーズとは敬虔なプロテスタント系クリスチャンという点で共通してい る。そして、彼らすべてが共和党員であった。また、フェラーズの背後には共和党の重鎮がいた。それがハーバート・フーヴァー第31代大統領だったのであ る。フーヴァーとフェラーズは極めて親しい関係にあり、その交流はフェラーズの陸軍大学在籍中に始まっている。そして、なによりもフーヴァーもクエーカー であった。 

 このフェラーズやフーヴァーの意向を受けて、極めて戦略的にクエーカーの理想を憲法第九条に反映されたと考えるべきだろう。そして天皇もしくはその周辺 も受け入れた。その証が上の文書であり、さらに皇太子(現天皇)の家庭教師としてのエリザベス・バイニング(バイニング夫人)の起用にもつながる。

 この皇太子に米国人家庭教師をつける発案は昭和天皇ご自身のものであったとするのが定説になっている。1946年3月に謁見した米国教育使節団団長 ジョージ・ストッダードに対し、その場で依頼したとされている。この時天皇は家庭教師の条件として、米国人女性であること、クリスチャンが望ましいが狂信 的ではないこと、昔から日本のことを知っている「日本ずれ」した者でないこと、年齢的には50歳前後であることなどをあげたと言われている。フェラーズは この年の1月頃に行われた吉田外相との会談で同様の提案をしていた。

 そして選ばれたのがクエーカーに属し、フェラーズの知り合いでもあったバイニング夫人だったのである。 

 ■フェラーズ周辺の日米インナー・サークル

 「シカゴ・サン」のマーク・ゲインは「ニッポン日記」(ちくま学芸文庫、P529)の中で、『「側近(インナー・サークル)」の人々は、長年にわたっ て、この一「寵児」マッカーサーと共和党の強固な保守的孤立主義者の中心とに密接に結び付いた政治的機関として活動を続けていたのである。この結合の中心 役割をつとめたのはフェラーズだった。彼はハーバート・フーヴァ(注=ハーバート・フーヴァー)やシアーズ、ローベックの取締役会会長でかつて「アメリカ 第一委員会」をひきいたR・E・ウッド将軍の友人である。』とも書いている。

 R・E・ウッド将軍はロバート・ウッド将軍のことであり、シカゴに拠点のある米最大の小売業シアーズ・ローバックの副社長、社長、会長を歴任し、ファー スト・ナショナル・バンク・オブ・シカゴ(FNBC、後にファースト・シカゴ、バンク・ワンとなり2004年JPモルガン・チェースによって買収される) やFRBシカゴなどの取締役を兼任したシカゴ財界の代表格であった。

 このフェラーズ、フーヴァー、ウッド将軍とシアーズ・ローバックは、ともにマッカーサーを大統領候補に推すキャンペーンに加わっている。彼らは、アン チ・ニュー・ディーラー、アカ嫌いという点でも共通しており、フーヴァーからフェラーズに宛てた手紙の中で「国務省から日本に送られている人間の中には、 元共産党員や共産党のシンパがいる」と注意を呼びかけている点は興味深い。 

 なお参考までに付け加えれば、前述した国際文化会館の松本重治が書いた「昭和史への一証言」にもフェラーズが登場している。45年9月に松本は高木八尺 とともにフェラーズを訪ねている。この時、松本はフェラーズに「戦争を始めたのはどちらなのか」とたずねると、フェラーズが「ルーズベルト・ウォンテッ ド・エイ・ウォア」といきなり大きな声でどなった。この時松本は、悪いのは日本だけではなかったとの思いを強くしたと書いている。そして、松本は、パール ハーバーも「ルーズベルトは少なくとも数時間前には知っていた。しかし、それをキンメル(太平洋艦隊司令長官)に連絡しなかった。だまし撃ちのかっこうに したほうが、アメリカ人の日本への敵がい心を高め、世論を統一できるからです。」と書いている。

 このフェラーズと松本の見解は当時のフーヴァーやグルーなどがいた共和党インナー・サークル、そして彼らと戦前から密接につながっていた樺山愛輔伯爵や 牧野伸顕伯爵(実父は大久保利通、吉田茂の義父にあたる)などがいた日本のインナー・サークルの共通認識だった可能性が極めて高い。

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2004年08月07日(土)萬晩報通信員 園田 義明

 ■終戦期の世界の天皇認識

「処刑すべし」33%
「終身刑」11%
「追放」9%

「裁判で決めるべきだ」17%
「政治的に利用すべきだ」3%
「無罪」4%

 上の数字は終戦直前の1945年6月にギャラップによって実施された世論調査結果である。「天皇をどうすべきか」との問いに対して、三人に一人が処刑を 望んでいた。戦争犯罪人の筆頭として天皇を処刑すべきだとの主張は当時、米国に限らず、中国、ソ連、オーストラリアなどを中心に根強いものがあった。

 正式に動き出そうとしていた戦勝国による極東委員会は、占領政策に大きな権限を持つと予想され、マッカーサー元帥の権限に制限が加えられる可能性が高 まっていた。極東委員会には既に始まりつつあった冷戦相手のソ連が含まれ、オーストラリアなどから天皇の戦争責任を追及する声が日増しに強まり始めてい た。

 しかも、米国務省は中国との外交関係を重視する立場から天皇制廃止論を唱えるチャイナ・クラウド(中国派)と、日本との外交関係重視から天皇制利用論を 唱えるジャパン・クラウド(日本派)とが激しく対立していた。チャイナ・クラウドの急先鋒になったのはディーン・アチソンやオーエン・ラティモアである。 特にラティモアは天皇と天皇位継承の資格のあるすべての男子を中国に流して抑留し、国連の監視下に置くべきだと主張した。

 これに対して、ジャパン・クラウドの代表格を務めたのが1932年から10年間にわたって駐日大使を務めたジョセフ・グルー(1880-1965)であ る。グルーは国務省極東局局長を経て、44年12月に国務次官に就任する。日本をかばいすぎるとの激しい批判を浴びつつも「日本をハチの巣とすれば、天皇 は女王バチ。女王バチが死んだら、他のハチはすべて死んでしまう」とする天皇「女王バチ」論を展開し、天皇制を擁護した。

 しかし、このグルーも日本のポツダム宣言受託を見届けながら辞表を書いた。グルー退官後、チャイナ・クラウドのディーン・アチソンが新たな国務次官に就任する。日本側は絶望的な状況の中でGHQを迎え入れることになる。

 ■日本に降り立つボナー・F・フェラーズ

 マッカーサー元帥がサングラスにコーンパイプをくわえて厚木飛行場に降り立ち、その後に続く幕僚達の中にボナー・F・フェラーズの姿があった。フェラー ズはラフカディオ・ハーンの文学に接し、「ハーン・マニア」を自称するほどの親日派であり、マッカーサーの高級副官として天皇救出工作を行った中心人物で ある。そして彼こそがクエーカーだった。

 それでは『昭和天皇二つの「独白録」』( NHK出版)、「象徴天皇の誕生」(角川文庫)、「天皇家の密使たち」(文春文庫)、「陛下をお救いなさいまし」(集英社)などをもとにしてフェラーズについて見ていこう。

 フェラーズは1896年にイリノイ州リッジファームにあるクエーカー教徒の農家に生まれる。リッジファーム高校卒業後、クエーカー派のアーラム大学に進 み、ここで日本から留学していた渡辺ゆりに出会い、日本に興味を持つことになる。1916年にアーラム大学を退学、軍人の道を志して陸軍士官学校(ウェス トポイント)に進む。陸軍士官学校卒業後、中尉となり21年からフィリピンに駐留、22年に休暇を利用して日本を訪れ渡辺ゆりと再会し、この時恵泉女学園 を設立したクリスチャンの河井道を紹介されている。ここで、ラフカディオ・ハーンの文学に接し、30年には夫人と共に再来日しハーンの遺族を訪ねている。

 33年から二年間を陸軍指揮幕僚大学に在籍し、論文「日本兵の心理」を残している。この論文は44年に軍内部で出版され、日本兵を知るためのテキストの ひとつになった。36年に再びフィリピンに派遣され、この時の上司がマッカーサーである。37年にマッカーサー、フィリピンのケソン大統領とともに日本に 立ち寄るが、この時グルー駐日大使の主催で歓迎レセプションが行われ、一色乕児・渡辺ゆり夫妻も招かれている。フィリピン勤務を終え、米国で陸軍大学に入 学、在学中の38年に4度目の来日をはたした。陸軍大学卒業後、母校の陸軍士官学校で英文学を教え、40年に少佐に昇進、アメリカ大使館付き陸軍武官兼イ ギリス軍観戦武官としてエジプトに赴任する。真珠湾攻撃はこのエジプト赴任中の出来事となった。

 エジプトから帰国したフェラーズは准将に昇進し、戦略事務局(OSS.CIAの前身)の計画本部に勤務、43年9月にオーストラリアのマッカーサー司令 部に派遣され、統合計画本部本部長、そしてマッカーサーの軍事秘書、司令部内の心理作戦部(PWB)部長として、日本人に対する心理作戦を立案、実行する ことになる。フェラーズ文書には当時つくられたビラやパンフレットが残されているが、この時すでに戦争責任を負うべきは軍首脳部であり、天皇はだまされて いるとする「天皇免責論」が反映されていたことに注目すべきであろう。さらに45年4月上旬に新たに策定された「対日心理作戦のための基本軍事計画」では 次のような方針が付加されている。

「天皇に関しては、攻撃を避け無視するべきである。しかし、適切な時期に、我々の目標達成のために天皇を利用する。天皇を非難して国民の反感を買ってはならない。」

 フェラーズもリアリストであったことがよくわかる。おそらくクエーカーとしての立場も人脈構築に使われていたはずである。決して宗教的な動機だけで動い ているわけではなかった。フェラーズの考え方は当時のグルー国務次官の天皇「女王バチ」論に通じるところがあるが、一色乕児・渡辺ゆり夫妻が招かれたグ ルー駐日大使の主催の歓迎レセプションで二人は会っていることは間違いない。

 ■日本側受け手の「陛下をお救いなさいまし」

 当然のことながら日本側に受け手がいないとクエーカー国家は成立しない。日本に着いたフェラーズは旧知の渡辺ゆり(この時には結婚して一色ゆり)と河井 道の消息を尋ねることから始める。二人の居場所を突き止め、アメリカ大使館の自室の夕食に二人を招待したのは1945年9月23日、戦後大使館に入った最 初の日本人ゲストとなった。天皇とマッカーサーの初会見が行われたのはこの4日後の9月27日である。

 フェラーズは大使館についた二人を抱きかかえんばかりに歓迎し、マッカーサーの幕僚達にも紹介した。食事が終わると、フェラーズは天皇の戦犯問題を切り 出す。二人とも米国に学んだクリスチャンであり、天皇崇拝者ではなかった。それにもかかわらず、ゆりは「天皇陛下にもしものことがあったら、ねえ、先生、 私たち生きていけませんよね」と口走り、河井も「日本にとって大変なこと」であると語る。この時のフェラーズの日記には「天皇が追放されれば暴動が起きる だろう」という河井の言葉が書き込まれた。

 フェラーズは二人の意見を取り入れながら天皇不起訴を進言する覚書を作成し、マッカーサーに提出する(10月2日付最高司令官あて覚書、日本語全文は「陛下をお救いなさいまし」にある)。

 またフェラーズはこの直後の10月4日に第二の覚書を提出している。ソ連の天皇制批判が高まる中で、フェラーズは米国国内の論調とソ連の動向を箇条書き にしながら、天皇訴追の危険性を警告している。「ソ連は、日本に革命が起こることを望んでいる。我が国(米国)の政策は、革命を期待しているかのようだ。 革命には、天皇の排除が最も有効なのである。」と記し、天皇を排除すれば日本人の暴動を招くとの主張を繰り返した。

 こうした中で11月29日に本国政府はマッカーサーあてに天皇の処遇問題に関して、判断に必要な証拠の収集を命じ、マッカーサーに一任されることになる。

 本国政府の要請に応じて、フェラーズは休むことなく次の天皇救出工作に着手する。天皇の無罪を立証するための証拠作りに取りかかったのである。この中に は万が一に備えた天皇自身による立証としての「昭和天皇独白録」含まれていた。この第二の工作には二人の日本人が関わっている。関屋貞三郎と寺崎英成であ る。

 関屋は1921年から12年間宮内次長を務め、万年次官と言われた。そして、46年3月には枢密顧問官となり官中・府中とGHQとの「架け橋」を務めた。

 寺崎は外務省に入省し、日本大使館の一等書記官として開戦直前期の対米交渉役を務めた。外務省アメリカ局長であった兄の太郎と連絡をとる際に、日米関係 を表す暗号として一人娘の名前「マリコ」を用いたことで広く知られている。寺崎は46年2月にフェラーズの提案に基づいて設置された「御用掛」に就任する が、フェラーズの祖母にあたるベッツィー・ハロルドが、寺崎の妻、グエンドレン・ハロルドの叔母にあたることがわかり、二人の関係は接近し、頻繁に接触を 重ねることになる。そして、日本語と英語の「昭和天皇独白録」を残した。

 マッカーサーの天皇の処遇問題に関する回答は翌年1946年1月25日のワシントンにあてた電報に記されている。

「天皇を戦犯とみなすに足る確実な証拠は発見できなかった。天皇を破滅させれば、国家が崩壊するであろう。(混乱を抑えるため)最低100万人の兵力を必要とし、予測できない長期間の駐留が必要となるだろう」

 この報告を受けて、ワシントンの天皇訴追論は終止符を打つことになる。

 フェラーズは晩年のインタビューでこう語っている。

「当時、本国(=米国)や連合国の間で天皇批判の声が高く、その圧力に抗するために覚書を書いた。大体の案はあったのだが、確認のために河井道に協力して もらった。(中略)河井道自身は知らないことかもしれないが、マッカーサーの天皇観は、たぶん河井の影響を受けている」

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2004年08月05日(木)ワシントン在住ジャーナリスト 堀田 佳男
 民主党の大統領候補ケリーは2002年10月11日、連邦上院の、ある採決で賛成票を投じた。イラク戦争をはじめる権限を、ブッシュにあたえるかどうか の採決だった。これは事実上、ブッシュに先制攻撃を許すための法案で、77対23で可決されている。下院でも296対133で可決され、ブッシュは議会か らのバックを受けて、胸をはってイラク戦争をはじめたのである。ケリーの副大統領候補、エドワーズも「OK」サインをだしている。

 本来であれば、共和党ブッシュに楯突くため、ケリーもエドワーズも「NO」を出すべきだった。民主党の重鎮、ボブ・バードやエドワード・ケネディは戦争反対を唱えてブッシュに「NO」を突きつけている。

 戦争支持に回ったケリーは、あとになってブッシュのイラク占領政策を失政と批判する。これは矛盾である。ケリーの言い訳は、法案採決直前に諜報機関がまとめた報告書をみせられ、そこにイラクの大量破壊兵器についての記載があったので賛成に回ったというものだ。

 ブッシュもケリーも諜報機関の情報に「素直に」従ったためとの立場である。ブッシュは最近、開き直って「イラクに大量破壊兵器がなくても、攻撃する権利があった」などと嘯(うそぶ)いているので、背後にこっそり回って背中に頭突きをぶちかましたくなるほどである。

 諜報機関といえば、今週ちょうど連邦捜査局(FBI)の法律顧問スパイク・ボーマンという人物に会った。彼はテロ問題で最初から白旗をあげているかのよ うに脆弱で、FBIや中央情報局(CIA)、国防情報局(DIA)といった諜報機関が情報を共有してこなかったことが"大事件"を誘発した一因だといっ た。これは縦割り行政の弊害である。

 日本でも、たとえば外務省の情報が内閣府に行きわたることはないので、役所はどこへいっても省益を守りたがるものなのだ。それにしても、FBI職員とい えばこれまでずっと大きな顔をしてきたものだが、その顧問が弱気な姿をみせたことに、多少驚いた。いまのアメリカの諜報機関は自信を失い、崖っぷちにたっ た枯れ木のようでさえある。

 どの諜報機関も9.11を境にエージェントの数を増やしているはいるが、アタマ数をそろえれば事足りるというわけでもない。技術改革も必要なのだ。ボーマンは、興味深い話を披露してくれた。

「9.11の実行犯19人のうち、13人が同じ電話番号からフライトの予約をし、同じ住所を使っていたことがわかった。ただ、事前に彼らをマークしていたとしても、攻撃を阻止できるわけではなかった」

 インターネットでクレジットカードを使い、その番号からさまざまな個人情報を割りだすことは、今の段階ではできないという。私はFBIであれば、すでにそれくらいのことは「左手で」できると思っていた。

「クレジットカード番号から特定人物の銀行口座やその他の情報を得るためには数学のアルゴリズムを使った最新技術が必要になる。これは政府の諜報機関の力だけではできない。民間のIT技術に頼らざるを得ない」

 民間企業のなかには、クレジットカードで購買された物品を分類し、たとえばサーフィン用品を多く買う人をサーファーと特定し、新製品の紹介サービスを開発、実施しているところもあるという。

 開かれた社会に住んでいるかぎり、テロ攻撃を100%阻止することは不可能である。そうかといって、はじめからお手上げ状態でいるべきではない。現段階 でやるべきことを着実にこなすことが大切である。それには官民共同の技術開発がかかせない。諜報機関の復活はとうぶん先になりそうである。(文中敬称略)

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2004年08月02日(月)萬晩報通信員 成田 好三

 日本人内野手として初めてメジャーリーグ入りした松井稼頭央が苦しんでいる。公式戦初打席で、センター・バックスクリーンに本塁打を放つという、鮮烈なデビューを飾ったものの、売り物であるはずの守備面で期待を裏切り続けているからである。

 松井稼が入団したニューヨーク・メッツ(ナショナル・リーグ)は、昨季までの正遊撃手、ホセ・レイエスを二塁手にコンバートさせてまでして、松井稼を迎え入れた。しかし、現時点の守備面での松井稼への評価は散々である。

 ニューヨークの大衆紙(ニューズ・デー)は7月28日、メッツは99試合を消化してメジャーリーグ最多となる91個のエラーを記録しており、その原因の 多くがメジャー最多の21個のエラーを記録している松井稼にあるとする記事を掲載した。この記事はまた、メッツの最高執行責任者が、守乱の責任を取って内 野守備コーチらを解雇するようアート・ハウ監督に提案したところ、同監督はこれを拒否したという、球団人事をめぐる混乱ぶりまで紹介している。

 打撃面ではオールスター前後から調子を上げ2割7分台に乗せてきた。盗塁数も次第に増えてきた。しかし、ニューヨークの大衆紙による「バッシング」はいまも止まらない。「二軍に落とすか、トレードの出せ」「日本に帰らせろ」―など、書きたい放題である。

 米国の大衆紙が、ひいき球団の不調をかこつ有力選手をこき下ろすことは、よくあることである。しかし、松井稼へのバッシング報道は、異常なほどしつこく続いている。松井稼への期待の裏返しの反応なのだろう。

 松井稼は、日本を代表する名遊撃手としてメジャー入りした。「オズの魔法使い」とたたえられたオジー・スミスのような華麗なプレーを期待されていた。しかし、松井稼はそう簡単には「魔法使い」になれない理由がある。メジャーリーグと日本の球場の違いである。

 メジャーの球場は、少数の人工芝球場を除いて内野は芝で覆われている。この形状はメジャーだけではない。世界中どこの国の球場もそうである。いわば国際 標準球場である。アテネ五輪の球場も例外ではない。これに対して、日本の球場の内野には芝がない。すべて土で覆われている。地方球場はほとんどすべてそう なっている。日本独自の球場である。

 プロ野球の球場はいまや、日本独自球場でさえ少数派になってしまった。セ・パ両リーグ12球団の本拠地では、その半数はドーム球場である。ドーム球場の 是非ははここでは触れないが、人工芝の球場は9つもある。内野が芝生で覆われている国際標準球場は、オリックスのヤフーBBスタジアムだけである。内野が 土である日本独自の球場は数を減らし、現場では甲子園、広島市民だけになってしまった。

 松井稼が昨季まで所属していたパ・リーグの球場は、ヤフーBBスタジアム以外はすべて人工芝で覆われている。松井稼が昨季、西武ライオンズで公式戦 140試合にフル出場し、試合が各球団の本拠地だけで行われたと仮定した場合(実際は地方球場でも開催されている)、松井稼は、126試合は人工芝の上で プレーしていたことになる。公式戦の半数は本拠地で、残り半数は他球団の本拠地で開催されるからである。

 松井稼はメジャーが期待していた「ウイザード」(魔法使い)だったかもしれないが、実のところは「人工芝の上でのウイザード」だった。

 松井稼が名手といっても、それは国際標準球場ではなく、打球がイレギュラーしない人工芝の上での名手だった。内野に芝があり、しかも芝の種類も形状も、 芝の刈り方もさまざまに違うメジャーの球場では、打球は微妙に変化する。いかに身体能力が高い松井稼でも、すぐに名手にはなれない。松井稼はバッシングに 耐えながらもメジャーの球場に慣れるしかない。

 日本独自の球場、しかも人工芝全盛のプロ野球で育った松井稼には、宿命ともいえる試練が続く。松井稼の苦悩は、彼一人だけの問題ではない。彼に続く日本 人内野手にとっても大きなハンディになる。「日本人内野手は、国際標準球場には対応できない」という評価が固定されてしまえば、メジャーに進出しようとす る内野手には、大きな障害となるからである。

 プロ野球と国際標準との違いは他にも多くある。ボールの仕様が違う。ストライクゾーンも日本独自のものである。ストライクとボールを数える順番さえ違う。その中でも、選手にとって最も対応が難しい違いは、内野の芝生である。

 内野には芝生どころか土さえなくなった球場で、キャリアのほとんどの期間をプレー松井稼はいま、国内だけに封じ込められてきた「鎖国スポーツ」であるプ ロ野球のハンディを一身に背負って、メジャーリーグで苦しみ、もがき続けている。(2004年8月1日記)

 成田さんにメールは mailto:narita@mito.ne.jp
 スポーツコラム・オフサイド http://www.mito.ne.jp/~narita/
2004年08月01日(日)萬晩報主宰 伴 武澄

『事典・昭和戦前期の日本』(吉川弘文館)という1991年に編さんされたタネ本が手元にある。日本の社会保険制度が始まった経緯について「今日の厚生年 金は昭和16年法律60号労働者年金保険法による労働者年金保険が始まりである」と書いてある。

 強制加入で、10人以上の労働者を使用する工場・鉱山・交通運輸などの男性筋肉労働者が対象だったが、昭和19年、その労働者年金保険は厚生年金と改称 され、対象は女性と事務職員にも拡大された。個人事業主を除くほとんどの勤労者が対象となったのである。

 「生活を健康で豊かなものにすること」という「厚生」の本来の意味からすれば、勤労者のみを対象とする年金制度は片手落ちである。国民年金のように広く 国民すべてを包括する年金制度をつくるべきだった。実は昭和15年には勤労者の税金の源泉徴収が始まっていた。源泉徴収がなかったら、勤労者から強制的に 年金の掛け金を徴収することは難しかっただろう。

 ともあれ、年金制度の拡充によって被保険者は倍増し、保険料収入は激増した。一方、この年金は積み立て方式だったため給付はほとんどなく積立金は膨れ上 がった。問題はその積立金の行方である。『事典・昭和戦前期の日本』によれば、太平洋戦争の「戦費に費やされた」というのだ。

 厚生省年金局・社会保険庁『改訂厚生年金法解説』(1972年、社会保険法研究会)によれば、「戦時下において生産力を極度に拡充し労働力の増強確保を 図る必要があり、そのための措置として要望されたこと、一方で時局下における国民の購買力の封鎖という見地から、この制度による強制貯蓄的機能が期待され た」ということのようだ。

 戦争中はあらゆる国民的資源が戦争に費やされたから、"強制貯蓄"された年金資産が戦争に流用されたとしてもおかしくない。

 ちなみに近代における公的年金の始まりは19世紀末のドイツ帝国だった。宰相ビスマルクが台頭する社会主義に対抗するため、健康保険を含めた社会福祉制 度を先取りして導入したというのが定説であるが、フランスとの戦いのための戦費調達という見方もないわけではない。

 日本の厚生年金が戦費調達を目的に設立されたとまでは考えたくはないが、国家にとってありがたい"臨時収入"だったはずだ。『事典・昭和戦前期の日本』 によれば、課長クラスで昭和11年、2・82%だったの所得税率は同17年に10・02%、同20年には17・13%まで高まった時代に、11%の厚生年 金の負担が上乗せされたのである。

 問題は年金の本格的な給付が始まる前に戦争が終わり、戦後の空前のインフレによって積立金は紙切れと化したことである。戦費に使われて"なくなってしまった"と批判されてもしかたないのかもしれない。

 戦後の年金の積立金の運用は第二の予算といわれる財政投融資計画を通じて高速道路建設など公共事業につぎ込まれているのはご存じの通り。財投資金は7年 で返済することになっているが、多分多くの場合、借り換えが続いているはずだ。高速道路がいい例で40年償還などというとてつもない借金地獄にはまり込ん でいるのだから、140兆円あるといわれる厚生年金の積立金が不良債権化していることは確実である。戦前の厚生年金が戦費に費やされたと批判ばかりしてお れないのである。

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