2004年7月アーカイブ

2004年07月31日(土)萬晩報通信員 園田 義明

 ■アーミテージの第九条発言

 7月21日、アーミテージ国務副長官は訪米中の自民党の中川秀直国対委員長らと会談し、日本の憲法第九条について、「日米同盟の妨げ」と述べ、日本の国 連安全保障理事会常任理事国入りの障害にもなるとの見解を表明した。そういえば、読売新聞はアーミテージについて、「日本の政界に多くの知己を持ち、副長 官就任前まで在米日本大使館や石油、軍需関連など日本企業6社の顧問も務めた。(2001年5月21日夕刊)」と書いている。この6社あたりの思惑が複雑 に絡んでいるのだろう。

 かつて、ジョン・フォスター・ダレスは1951年から4度にわたって来日し、「自由世界防衛に貢献を」と吉田茂に迫った。1953年11月に来日したリ チャード・ニクソン副大統領(当時)も「日本の非武装を主張した1946年の米政策は誤りだった」と語り、大きな反響を巻き起こした。このニクソン発言は 米国側の過大な防衛力増強要求をかわすための宮沢喜一の高等戦術として日本側からの提案に基づいて発せられた。ダレスの時代には朝鮮戦争が勃発し、米ソ、 米中対立が日増しに激化する。しかし、吉田は経済復興重視の考えから、新憲法を逆手にとってのらりくらりとかわしていく。吉田の敷いたレールに乗って経済 発展を遂げた現在の日本は、過去のことなどお構いなしに、アーミテージに同調して、政界も日本経団連も鼻息が荒くなっている。

 自国を守るために自らが築き上げた技術を使うのであればいいが、武器輸出三原則の見直し論には、短絡的なビジネス志向が見え隠れしている。結果として、うまい具合に日本の技術が米国に取り込まれ、米国依存を強化することにつながりかねない。

 当然表と裏の顔もあってもいいと思うが、日本の情報は米国に筒抜け、しかも今なおアーミテージ発言に見られる外圧依存が抜け切れていない中で、本来あるべき真の自立を目指した憲法改正ができるとは到底思えない。

 ■憲法第九条の宿命とクエーカーが手にしたもの

 憲法第九条の理論的な根拠はパリ不戦条約(1928年)の精神を盛り込んだ国連憲章(1945年)の影響を受けている。1920年から26年まで国連の 前身である国際連盟の初代事務次長を務めた新渡戸稲造が願った「太平洋の橋」は、こともあろうに国連安保理の旗でお尻をたたかれながら、太平洋の橋は大量 の最新兵器が行き交うだけの橋になりそうだ。

 詳細は後に触れるが、そもそも現行憲法は昭和天皇に対する戦争責任を追及する声を封じるために、共和党内のクエーカー派と日本で最初のクエーカーとなっ た新渡戸稲造一派の連携によって、国連憲章に彼らの理想をも取り入れながら生み出されたものだ。つまり、昭和天皇救出が確定すれば、自ずとと改正論につな がる宿命を抱えていた。従って、米国が「逆コース」に転換しはじめた時点で、すでに米国にとって目障りな存在になっていたのである。

 現行憲法が公布されたのは1946年11月3日、その翌年1947年にクエーカーを題材にした西部劇映画に「拳銃無宿」(原題はANGEL AND THE BADMAN=天使と悪人)が公開された。当時すでにクエーカーの平和活動は世界的なブランドであった。このブランドを日米のクエーカー達が昭和天皇をお 守りするために利用したのである。

 そして、この1947年10月にクエーカーは最高の栄誉を手にする。日本も含めた長年の世界各地での平和活動が評価され、ロンドンのフレンド奉仕団評議会(FSC)とアメリカ・フレンド奉仕団委員会(AFSC)が連名でノーベル平和賞を手にする。

 ■「新渡戸派=クエーカー派」を引き継ぐ者

 アーミテージ発言の10日前の7月11日、北海道遠友夜会は札幌グランドホテルで『高尚にして勇気ある生涯ー5000円札新渡戸稲造さよなら、又、会う 日までー』と題するシンポジウムを開催した。今年11月に予定されている新札切り替えで20年にわたって5000円札の肖像画となってきた新渡戸稲造が明 治の作家・樋口一葉に変わる。

 テレビにも再三出演し、イラク戦争に対して反対の姿勢を貫いた寺島実郎(北海道出身、三井物産執行役員、三井物産戦略研究所長、日本総合研究所理事長、 中央教育審議会委員)は、この北海道遠友夜会の顧問を務めている。寺島は「新渡戸派=クエーカー派」を引き継ぐ人物のようだ。

 そして、寺島同様にイラク戦争に反対した政治家がいた。当時外相だった彼女は2001年6月にペンシルベニア州フィラデルフィアにある母校を訪ねた。出 迎えた同級生と抱き合いながら、「みんな、おじいさんとおばあさんになっちゃって」と言葉を交わし、「日本最大の輸出品はイチローと新庄」などとユーモア 溢れるメッセージを英語で読み上げた。当時話題を独占していた彼女の姿はテレビで何度も繰り返し映し出されていた。

 61年9月から63年6月までの約二年間を過ごした彼女の母校の名前は「ジャーマンタウン・フレンズ・スクール」、1845年に設立されたクエーカー・ スクールである。彼女、つまり田中真紀子は記者団に「人の意見も聞くけど、自分もはっきり意見を持つようにという教育を受けた」と語り、"真紀子節"の原 点がこの留学にあったことも披露した。

 田中真紀子は、留学中のケネディとニクソンの大統領選では、ニクソン支持のバッジをつけて校内で政策論議を交わしたという。この共和党のニクソンも実は クエーカーだった。ただし、ニクソンは大統領在任中にベトナム戦争を終わらせなかったため、教団から破門にされたとの説もある。従って一般的に田中真紀子 は「親中派」と称されることが多いが、正しくはクエーカー派である。従って田中真紀子も「新渡戸派=クエーカー派」の数少ない生き残りのひとりとなる。

 ■エリザベス・G・バイニングと田中真紀子

 田中真紀子同様に、感受性の強い時期にクエーカーの影響を受けて育ったのが、現在の天皇陛下である。児童文学作家でクエーカーであったエリザベス・G・ バイニング夫人は昭和天皇のご希望で1946年10月に来日、当初1年の予定は4年間に延長され、皇太子時代の13歳から17歳までの間の家庭教師を務め た。帰国後も両陛下の結婚式に外国人としてただ一人招待され、1999年11月に97歳で亡くなるまで天皇陛下との交流は続いた。

 バイニング夫人は1902年にペンシルベニア州で生まれ、津田梅子も学んだブリンマー大学を卒業後、ドレクセル・インスティテュートで図書館学を学ん だ。29年にノースカロライナ大学教員モーガン・バイニングと結婚したが、33年に交通事故で夫を亡くし、自身も重傷を負った。失意の夫人を引きつけたの はクエーカーの「礼拝での深い沈黙の中の癒し」であり、また「平和と人種問題に対する明確な立場」であった。

 バイニング夫人は1934年、故郷ペンシルベニア州のクエーカー教徒の正式会員になった。会員となったのは「ジャーマンタウン友会」。そして、バイニング夫人の出身高校は田中真紀子と同じ「ジャーマンタウン・フレンズ・スクール」である。

 また、バイニング夫人はドイツにヒトラー政権が成立するとアメリカン・フレンズ奉仕団(AFSC)の難民部局でアメリカに逃れてくるユダヤ人を助けるた めの奉仕活動を行い、第二次世界大戦の末期には、平和と和解に貢献しようとアメリカン・フレンズ奉仕団(AFSC)広報部に勤務していた。このアメリカ ン・フレンズ奉仕団(AFSC)が1947年にロンドンのフレンド奉仕団評議会(FSC)とともにノーベル平和賞を授かったのである。バイニング夫人はこ の知らせを在任中に受け取ったことになる。

 バイニング夫人は1969年にベトナム反戦運動で警察に逮捕されたこともある。この時「良心に従って、根気よく反戦デモを続ける」と語った。

 ■天皇家とカトリック

 感受性の強い時期にクエーカーであるバイニング夫人に学ばれた現在の天皇陛下に対して、皇后陛下美智子さまと皇太子妃雅子さまも第三世代キリスト教人脈 と関わっている。皇后陛下美智子さまの生家である正田家がカトリックであることはよく知られているが、皇后陛下美智子さまを天皇家に迎え入れたのも第二世 代キリスト教人脈の「新渡戸派=クエーカー派」であった。この流れは皇太子妃雅子さまにも受け継がれている。

 1934年10月20日に誕生された皇后陛下美智子さまは、本郷の大和郷幼稚園、四谷の「雙葉学園幼稚園」を経て、1941年に「雙葉学園雙葉小学校」 に入学された。太平洋戦争の戦火が激しくなったため、44年以降には神奈川、群馬、長野と転校を繰り返され、47年1月に「雙葉学園雙葉小学校」に戻られ た。47年4月に港区の「聖心女子学院中等科」にご入学、「聖心女子学院高等科」を経て、53年4月には渋谷区の聖心女子大学文学部外国語外国文学科に進 まれ、57年3月に同大を卒業された。

 皇太子妃雅子さまは1963年12月9日に誕生された。外交官の父、小和田恒の仕事柄、1歳半の時のモスクワを振り出しに、ニューヨークと世界の大都市 に在住された。71年年春に帰国し、新宿区立富久小学校などを経て「田園調布雙葉学園小学校3年」に編入学、そして、「田園調布雙葉学園中学校」、「田園 調布雙葉学園高校」へと進まれた。高校1年の時、父親がハーバード大学に国際法の客員教授として招かれたのに伴い、再び渡米、ボストン郊外のベルモントハ イスクールに通われた。そして、81年9月にハーバード大学に入学、国際経済学を専攻され、85年に同大学を卒業し帰国、86年4月に外交官を志し、東大 法学部に学士入学するものの、同年10月には外交官試験に合格されたことから、翌87年4月に東大を中退して外務省に入省された。

 気付かれた方も多いと思うが、皇后陛下美智子さまと皇太子妃雅子さまは共に「雙葉学園」で学ばれている。雙葉学園は「幼きイエス会」というカトリックの 修道会が母体となって設立した学校で、キリスト教的な全人教育を徹底している。現在、東京の四谷と田園調布以外に、横浜、静岡、福岡の5校があり、お互い 姉妹校となっている。

 雙葉学園は聖心や白百合、上智などの大学に推薦枠を持っており、皇后陛下美智子さまも緒方貞子と同じカトリック系の聖心女子大学を卒業されている。そして、皇太子妃雅子さまが学ばれた田園調布雙葉学園の理事には山本正の兄、山本襄治の名前がある。

 皇后陛下美智子さまと皇太子妃雅子さまは、第三世代キリスト教人脈の中心人物である緒方貞子、山本譲治・正兄弟のカトリック人脈と密接に結び付いているのである。

 そしてこのカトリックの総本山であるバチカンは、米国主導のイラク戦争に一貫して反対した。

今年4月13日、天皇陛下はイラク戦争を主導したチェイ二ー副大統領と皇居・宮殿で会見されている。この会見こそが、現在の天皇家の「キャリアや人格を否定する」ものであったような気がしてならない。

 ■5000円札から1000円札へ

 戦後を担ったはずの日本国内のクエーカー派も戦中タカ派の復活組と第三世代キリスト教人脈のカトリック勢に押されて今や少数派に転じつつある。歴史的な5000円札の「切り替え」はこのことを象徴しているかのようだ。

 新渡戸は「どのキリスト教派よりも、フレンド派が神道と似た点がある」(「普連土学園百年史」)と語っていた。クエーカーと日本を結びつけた新渡戸はこのまま歴史の中に消え去るのだろうか?

 また、この切り替えは憲法第九条の改正をも意味することになりそうだ。その改正内容が現在の天皇家の「キャリアや人格を否定する」ようなものになる可能性があるのだろうか?

 寺島実郎も田中真紀子もかつて米共和党内で確固たる一勢力を築いたクエーカーの影響を受けており、決して反米ではない。また、天皇家もクエーカーの影響 を強く受けていることから天皇派と呼ぶこともできる。ここに日本の保守派における二重三重の歪みや捻れを生み出した原因が隠されている。

 クエーカーは、英国、ペンシルベニア州(「(ウィリアム・)ペンの森」を経て、新渡戸らによって日本で神道と交わり、日本の経済発展にも大きく寄与した。このクエーカーと資本主義の関係は、非常に重要な論点であるにもかかわらず、今までほとんど言及されてこなかった。 

 こうした点も踏まえながら、次章から日本における第一世代キリスト教人脈と第二世代キリスト教人脈の中心を担った「新渡戸派=クエーカー派」を中心に歴史を紐解いていきたい。

 おそらくこのシリーズが終わる頃には、新渡戸に代わって野口英世が新1000円札となって戻ってくる。野口英世もクエーカーに関わる人物であった。結論 から言えば、上のふたつの問いに対する回答もこの1000円札の野口英世に隠されているのかもしれない。つまり、新渡戸はクエーカーやカトリックとなって 今に引き継がれ、また歴史を創り、憲法第九条の改正は現在の天皇家の「キャリアや人格を否定する」ことがないように最大限に配慮されるものになるだろう

 園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp
2004年07月30日(金)イタリア在住 飯田 亮介

私が訳し、以前にメールニュースでも紹介させて頂いたことのある「反戦の手紙」の原作者・テルツァーニ氏がガンのため、7月29日亡くなりました。

非常に残念です。
まだ語ってもらいたいことが、山とあった気がします。
それと同時に、
「遺された言葉たちから、もっと自分で考えて行かなければ」
とも思います。

かつてミヒャエル・エンデが亡くなった時にも、やはりそう思いました。

悲しいことです。ですが、この三月にテルツァーニ氏本人から送られてきた彼の最後の作品『Un altro giro di giostra・メリーゴーランドのさらなる一周』を読んだ私には、未知の世界へとまた新たな旅に出るような気持ちで彼は穏やかに死を受け入れたにちがいないとの確信があります。

彼の旅の幸運を祈りたいと思います。
Tiziano, buon viaggio! E grazie infinite!!

以下にRaiNews24のホームページからの特集記事の訳を掲載いたします。-----(訳文始まり)----------

 ■肉体を去ったテルツァーニ(1938-2004)

一九三八年フィレンツエ生まれ。一九七一年からドイツ「デル・シュピーゲル誌」のアジア特派員。シンガポール・香港・北京・東京・バンコクで暮らし、一九 九四年から妻のアンジェラ・スタウデ(作家)と二人の子供とともにインドに住んできた。アジア大陸の深い識者であり、国際的に高い評価を受けた高名なイタ リア人ジャーナリストの一人であった。

「私にとっては、毎日がメリーゴーランドのさらなる一周なんだ」

ティツィアーノ・テルツァーニはそんな風に言っていた。彼の人生の新たな一日一日を、もう何度目になるか分からない、さらなる経験と知識を得るための機会 であると語りながら。七月二十八日がそんな一日の最後となった。この知らせを妻アンジェラは次のような言葉で知らせてくれた「オルシーニャ村の谷でテル ツァーニは穏やかに逝きました......もしくは、彼が好んだ言い方をすれば、その肉体を去りました」

 この出来事は、まさに彼の最期の作品(『メリーゴーランドのさらなる一周』)のなかで、この上なく穏やかで深い形で予告されていたものだ。彼の人生のな かで最も深く神秘的な旅を語り、最も困難なルポルタージュ、自分自身の内面世界のルポルタージュを記すためのこの本の執筆作業は、まるで終わりを知らぬか のような推敲の繰り返しであった。

 作品を未完成で遺してしまうことへの恐れから、テルツァーニは仕事に熱中した。書き記された形での自分の最期の物語が終わってしまうことへの恐れから、 彼は際限なく読み返し、書き直しつづけた。最後に、テルツァーニの人生とその旅の多くの伴侶であったアンジェラ・スタウデが彼を説得し、原稿の三分の一以 上を省かせた。

 ヒマラヤ山中の彼の孤独な隠遁場所であった家から9・11テロ直後に記された『反戦の手紙』もまた、ガンに罹っていることを知った六年前からの(最新作 に記された)彼の経験に照らし合わせれば、世界の出来事・人類の争いとその不幸を通常とはまったく異なった視点から見る者の証言として、そして、真の心の 平安を得ることを知った者の証言として読むことが出来る。
 そうした平安のなかでテルツァーニは、彼の言葉を借りれば、「肉体を去って」いったのだ。  ------(訳文終わり)------

(モントットーネ村から2004年7月29日から転載)

Lettere contro la guerra
Tiziano Terzani
反戦の手紙
ティツィアーノ・テルツァーニ
飯田亮介訳

Amazon.comで購入

WAVE出版
2004年1月29日発行
訳者あとがきから

"Salviamoci Nessnun altro puo fare per noi"
「わたしたちを救おう。それができるのは、わたしたちだけなのだから」

 本書はイタリア人ジャーナリスト、ティツィアーノ・テツツァーニの2002年3月作品「Lettere contro la guerra」の全訳に、作者が2003年12月に書き下ろした日本人読者にあてたメッセージの役を加えたものである。

『反戦の手紙』は、9・11テロにたいする復讐という非文明的で、もっとも原始的なアメリカの反応と、それを支持した「国際社会」の動きに危機感をいだ き、アフガニスタン空爆開始直後に単身現地に向かったテツツァーニの旅の記録である。それは反テロ戦争の現場をゆく旅であると同時に、平和な世界実現のた めに必死に思索をつづける作者の心のなかの旅でもあった。・・・・・・・
  四国新聞1月20日付一面コラム「一日一言」

 陸上自衛隊がサマワに入ったころ、夕食会の席で「イラクはどうなるんでしょう。マスコミの見方は?」と尋ねられた。「米国の思惑は外れたようです」と答えたが、不明を恥じている。

 第百五十九回通常国会で小泉首相が細身の体をそびやかし、米国に追従して自衛隊をイラクに派遣する「不退転の決意」を語っていたころ、断じて暴力にくみするなという、「もう一つの決意」を迫る本が届いた。

 何度か紹介したイタリア人ジャーナリスト、ティツィアーノ・テルツァーニの「反戦の手紙」(WAVE出版)が今月末に出版される。9・11から始まった米国の戦争に反対する「古いヨーロッパ」からの反論集である。

 その序文で著者は「人生におこるすべては偶然ではない」と書いた。非暴力主義者として世界の内戦や混乱を取材した証言者の言葉だ。アフガンやイラクで起きた暴力に口を封じればやがて自らが暴力の犠牲になる―。

 首相は決意を語るにあたり、「義をなすは毀(そしり)を避け、誉れに就くにあらず」という墨子の言葉を引用した。「正義」の実現において他人の評価を気にしてはいけない―という戒めの言葉。

 しかし首相のいう「正義」が、米国一国だけの正義ではもはや意味を失う。「大量破壊兵器を持っているような気がした」程度のことで、何万もの民間人を犠牲にしてよい正義など存在しない。

 テルツァーニは言う。原爆を体験した「日本人であればこそ、世界中のどこの市民よりも大きな声でNOと叫ぶ資格がある」。あの席で本当はこう答えるべき だった。「どちらが有利か、正しいかではなく、殺し合うことを避けることが日本人の役割です」。

2004年07月26日(月)萬晩報主宰 伴 武澄
 2003年度の出生率が1・29であることが分かり、参院選前の日本ではいろいろな意味で大騒ぎとなった。「出生率の動向が将来の年金のかぎを握る重要 な要素だ」といわれては関心を持たざるを得ない。そう思っていたら、26日付日経新聞朝刊に興味深い記事が掲載されていた。

 香港やシンガポールなどかつてNIES(新興工業国・地域)と呼ばれた国々でも出生率が急低下して、昨年度はそろって日本を下回ったというのだ。シンガ ポール1・25、台湾1・24、韓国1・17。香港にいたっては0・925と1を割り込んでいる。驚くべきことは、4カ国の出生率は1990年にはすでに 2を切っていたということである。

 まさに経済的躍進をおう歌していた時代から出生率の低下が顕著だったことは筆者にとって一つの重大な発見だった。日本の出生率低下に対して政治家もアナ リストたちも「将来への不安が増大しているから」などと訳知り顔に語っていたが、NIES諸国の出生率の有り様を見るとそんな分析は怪しいものだといわざ るを得なくなるからだ。シンガポールや香港などには日本のような公的年金はないから、日本のような「将来への不安」はありようがないのである。

 もっと不思議なのは、NIES諸国に公的年金がないからといって老人たちが飢え死にしたという話を聞かないことである。年金制度はあった方がいいに決 まっている。だが公的年金がなかった時代の日本だって老人たちは飢え死にしたわけではない。苦しいながらも家族とか地域が協力しあってなんとか生きていた のである。

 もちろん大家族制度が残っていた時代と核家族化が進んだ時代とを同列に比較することはできないが、最近の日本での年金をめぐる議論をみていると、年金という制度が本当に人々を幸せにするのか。そんな疑問も湧いてきた。

 国内的に見ても出生率と将来の年金とはまったく関係ないことも分かってきた。日本の年金不払い率のワーストワンは沖縄県のある島であることを先日の NHKで放映していたが、映像を見ているかぎり実にのどかな雰囲気で年金問題に対する切迫感はほとんど感じられなかった。

「そんなものもらわなくとも生きていける」。島人の反応からそんな印象すら伝わってきた。出生率を調べてみたら日本の自治体でいちばん高いのが沖縄県なのである。多良間村では3・14と日本平均の2倍以上なのである。

 暑い夏ではあるが、年金に対する素朴な疑問を考え、シリーズでみなさまにお伝えしていきたいと思う。どこまで続くか分からないが、期待していただきたい。

2004年07月23日(金)萬晩報通信員 園田 義明
 ■今蘇る「真昼の決闘」

 さてと、息抜きに映画の話でも。。。 

 K「ドゥ・ユー・ノウ・ハイヌーン?」
 B「ン?」
 K「ゲーリー・クーパー」
 B「オオ」

 これは毎日新聞の岩見隆夫が好んで取り上げるKとBの出会いの時に交わされた会話である。Kは小泉首相、当然Bはブッシュ大統領、初対面の時に「ナイ ス・ミート・ユー」ではなく、のっけからこの会話で始まった。「ハイヌーン」は小泉首相が好きな西部劇映画「真昼の決闘」のことで、この後に「保安官を演 じたゲーリー・クーパーは米国の精神を象徴している」との感想を披露した首相に対して、大統領は「正しいことのために立ちあがり、困難を成し遂げようとす る精神は小泉首相を思わせる」とエールを交換し、意気投合した。このやりとりが行われたのは同時多発テロ以前の2001年6月30日、すでに3年の月日が 経っているが、今でも政界の話題にされることが多いらしい。

 この「真昼の決闘」は同時多発テロ後にも登場する。2001年9月25日の日米首脳会談で小泉首相は「今回はあなたがゲーリー・クーパーだ。保安官の ゲーリー・クーパーは一人で悪と闘い、最後に新妻グレース・ケリーが助ける展開だった。しかし今回は全世界が米国とともにある」と語り、テロに立ち向かう ブッシュ大統領を激励している。この時、大統領は首相にクーパーのポスターを贈っている。「わが友ジュンイチロウ・コイズミへ」と書かれたポスターは首相 公邸の玄関横の壁に飾られている。

 そして、ついに「真昼の決闘」は蘇る。テキサス出身のブッシュ大統領は、お似合いのカウボーイ・ハットをかぶったゲーリー・クーパーとなって、勇ましく イラク戦争を開始した。当然のことながら、小泉首相はグレース・ケリーを演じることになる。とはいえ、集団的自衛権はあるが、行使はできないという中途半 端な役回りであったことから、言い争いも始まった。

 ここで映画のストーリーをおさらいしておこう。ゲーリー・クーパー演じる保安官が、かつて監獄に送った悪党が出所して、お礼参りに来るのを迎え撃つ。保 安官の任期はその日正午に切れるが、逃げずに立ち向かう。グレース・ケリー演じる新妻は暴力を否定し、夫の態度にあきれ、一度は一人去ろうとする。町の人 々も姿を隠し、あわやという瞬間に、悪漢を背後からライフル銃で撃ったのは、暴力を否定したはずの妻だった。

 ■ブッシュ演説に登場した新渡戸稲造と「ラスト・サムライ」

『今から1世紀前、日米両国は、それまでの長きにわたる猜疑(さいぎ)や不信を抱いていた時期を経て、お互いから、またお互いについて学び始めました。日 本が生んだ偉大な学者にして政治家、新渡戸稲造は日米両国民のことを理解しており、そして友好の将来像を描いておりました。そして彼は「太平洋の架け橋と ならんことを欲す」と記しております。その「架け橋」はすでにできております。1人の力ではなく、日米両国の無数の人々の力によって。』

 上は2002年2月19日にブッシュ大統領が参院本会議場で行った演説の一部である(訳は駐日米国大使館による)。この演説で新渡戸に続き、イチローを 例えに、「(小泉)首相はどんなタマでもすべて打ち返すことができる」と持ち上げ、福沢諭吉が「競争」という訳語を生み出したことを紹介しながら、「競争 は改革を推し進め、自由主義諸国の人々の潜在能力を引き出す」と日本経済再生に期待感を示した。

 一人目に登場した新渡戸は今再び日本でブームになっている。昨年12月に日米同時公開された映画「ラスト・サムライ」でエドワード・ズウィック監督や主 演のトム・クルーズが熟読したと伝えられたことから、1899年に英文で出版した新渡戸の「武士道」関連本が書店で復活している。

 松方家につながるライシャワー元駐日大使の弟子であるズウィック監督は。「ラスト・サムライ」をネイティブ・アメリカンと日本人を重ね合わせながら描いた。

 そして、新渡戸稲造と「真昼の決闘」のグレース・ケリーは同じ信仰を持っていた。

 ■「真昼の決闘」と「ラスト・サムライ」とクエーカー

 第一世代キリスト教人脈の主役である新渡戸稲造は、札幌農学校時代にメソジスト派の宣教師M・C・ハリスから洗礼を受けている。同時に受洗した同級生の 中にはもうひとりの主役である内村鑑三もいた。クリスチャンネームとして新渡戸はパウロを、内村はヨナタンを選んだ。札幌農学校の開校時に招かれ、「少年 よ、大志を抱け」で知られるウィリアム・スミス・クラ?クはメソジスト教会の信徒であり、彼によってまかれた福音の種が、後の日本の発展に大きな影響を及 ぼす「札幌バンド」の形成につながる。

 しかし、新渡戸も内村も彼らの聖地である米国を目指し、そこにある豪華主義、人種差別、教派間の敵意や紛争を目の当たりにして、新渡戸をクエーカーへ、そして内村は無教会主義へと向かわせることになる。

 新渡戸はクエーカーの集会に参加し、簡素な会堂で、説教する演壇も賛美歌もなく、300人あまりの素朴な信徒が座禅を組むがごとく黙座する姿に、自身の 内なる武士道や神道を重ね合わせ、共鳴し合った。ここで新渡戸は生涯の伴侶となるメリー・P・エルキントンと出会い、1886年12月には「ボルチモア友 会会員」として認められ、日本人最初のクエーカー教徒となった。

 クエーカーは敬虔なプロテスタントの一派として17世紀の英国でジョ一ジ・フォックスなどによって始められた宗教運動である。お互いを「友」(フレン ズ)と呼び合っていたことから、日本ではキリスト友会という名称が公式に使われ、その会員は「友会徒」とお互いを呼び合う。クエーカーはこの集団を白眼視 する人びとから付けられたあだ名である。時に感動のあまり震えることがあることからクエーカーとなった。

 クエーカーは「内なる光」を求める人々の集まりであり、生活は「簡潔」を旨とし、一切の差別を排し、非戦、非暴力の積極的な「平和」の実践を追求してい る。ピューリタンやその他様々な政府から迫害を受けてきた歴史があることから、他の信仰にも理解を示し、ネイティブ・アメリカンに対しても友人として共存 したいと願った数少ないヨーロッパ人であった。このクエーカーとの出会いは、キリスト教に精神的な救いを求めていた新渡戸の心を震えさせたのである。

 「真昼の決闘」でグレース・ケリー演じる新妻が暴力を否定したのは、映画での設定がクエーカーであったからだ。

 ■「天使と悪人」とクエーカー国家物語

 新渡戸稲造の弟子達によって「日本は戦後クエーカー国家となった」という紛れもない事実がある。これはある程度調べれば簡単にわかること。はっきり書けばいいのに回りくどい表現で記された本も何冊か出されている。また、これを知るための映画もある。

 クエーカーを題材にしたもうひとつの西部劇映画に「拳銃無宿」(原題はANGEL AND THE BADMAN=天使と悪人)がある。この映画ではジョン・ウェイン扮する伝説の早撃ちガンマンが傷を負い、荒野で生き倒れるが、クエーカーの牧師一家に助 けられ、その美しき娘ペニーと恋に落ちる。追いかけて来るならず者や保安官に対して、一家の主は無抵抗で戦う。流れ者は一家の温かさや人間味に触れ、銃を 捨てる。

 伝説の早撃ちガンマンを真珠湾攻撃の日本に置き換えれば、戦後の日本が見えてくる。この日本をかくまって助けたのは日米にまたがるクエーカー達であった。皮肉なことに、その後半世紀が過ぎ、ゲーリー・クーパーが荒野で行き倒れそうになっている。

 日本人は「日本は戦後クエーカー国家となった」ことを受け止めることから始めなければならない。そうすれば、米国を助ける役回りが訪れた時、「太平洋の架け橋とならんことを欲す」と語った新渡戸の想いがかなうことになる。

 信じられない方は下の文章を英文にして本場のクリスチャンに見せればいい。憲法第九条こそ、クエーカーが思い描く理想が詰め込まれた偉大なモデルとなっ ている。また、このことは新渡戸稲造の弟子達が設立した国際文化会館の第1次理事および監事の信仰を見れば一目瞭然となっている(資料1)。

<憲法第九条>
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


★★(資料1)★★

財団法人 国際文化会館

財団の第1次の理事および監事の中の信仰(「」内はその出所)
※E・J・グリフィスとJ・P・ダディーについての文献が見あたらないことから、この二名を含めていない。何か情報があれば筆者にご連絡いただきたい。


<理事 16名中8名がクリスチャン>

小泉信三 1952年に日本聖公会の聖アンデレ教会で洗礼
「小泉信三伝」(文春文庫)P228

上代たの 1950年に聖公会からクエーカー教徒へ
「神谷美恵子若きこころの旅」(河出書房新社)P35

高木八尺 クエーカー教徒
「絹と武士」(文藝春秋)P385

南原繁 無教会派プロテスタント
「南原繁」(岩波新書)

ゴードン・T・ボールズ クエーカー教徒
「象徴天皇の誕生」(角川文庫)P231

前田多門 1947年に聖公会からクエーカー教徒へ
「神谷美恵子若きこころの旅」(河出書房新社)P34

松方三郎(本名は義三郎) 無教会派プロテスタントからカトリックへ
「絹と武士」(文藝春秋)P353

松本重治 死亡時は聖公会

<監事 2名中1名がクリスチャン>

加納久郎 クエーカー教徒
「神谷美恵子若きこころの旅」(河出書房新社)P35

 園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp
2004年07月22日(木)萬晩報通信員 成田 好三
 既に制度疲労があらわになった現行の2リーグ制を存続させても、プロ野球に未来はない。一方、読売の渡辺恒雄オーナーらが推し進める1リーグ化も、一人勝ちした読売への依存度を強めるだけで、将来への展望が開ける道ではない。では、どうしたらいいのか。

 6月28日付毎日新聞「論点」のページでは、1リーグ制の是非を識者に語らせている。その中で北矢行男氏(多摩大教授)は、プロ野球は1リーグ化し、米 国の大リーグ傘下に入るべきだと提案している。1リーグ制は必然の流れ、プロセスのひとつだとした上で、こう述べている。

 「いずれは大リーグとの一体化を軸とした球界再々編成が起こるだろう。私が予測する日本のプロ野球の将来は、1リーグ制がいずれ8球団となり、メジャーのア、ナ両リーグに4球団ずつ加わり、ファーウエスト(極西)地区を構成する、というものだ」

 北矢氏は、大リーグ傘下に入ることによって、プロ野球界を支配する読売の一極構造も打破できるというが、はたしてそうだろうか。野球の本家である米国 が、日本を大リーグと同格に扱うだろうか。大リーグの球団の本拠地はほとんどすべて米国内にある。カナダに2球団あるが、そのうち1球団(モントリオー ル・エクスポス)は、経営難から来季はカナダから米国内に本拠地を移す可能性が大きい。

 大リーグはそれでも、ア、ナ両リーグの勝者による優勝決定戦を「ワールドシリーズ」と名付けている。多くの米国人にとっては、「米国一」は、「世界一」 と同義である。そんな世界観をもつ米国人が、日本の野球を大リーグと同格であると認めるとは考えられない。プロ野球が大リーグに擦り寄ることは、北矢氏の 考えとは逆の結果を生むことになる。

 プロ野球は大リーグのマイナーリーグ化し、日本人選手を大リーグに供給する補完的リーグになる。日本の野球市場も、大リーグ市場に取り込まれることにな る。現在でも、大リーグは、日本を含む東アジアを選手供給の場であり、将来有望な市場と位置付けている。ヤンキースが今季の開幕戦を東京で開催したこと は、そうした戦略の一環である。大リーグにとって、プロ野球が米国に軸足を置くことは、願ってもないことである。

 ここからは筆者の提案である。現行の2リーグ制は破綻したのも同然の状態なのだから、1リーグ制移行はやむを得ない選択である。その上で、米国の大リー グではなく、東アジア各国の野球リーグと連携することである。「東アジア野球リーグ」を立ち上げることである。球界の時代遅れで歪なシステムを抜本的に改 革することが、当然ながら、その前提条件になる。

 東アジアには、米国に劣らないほどの野球人口と野球市場が存在する。日本以外にも、韓国、台湾には長くプロリーグが存在してきた。中国にも一昨年、北 京、上海などを本拠地にした4球団によるプロリーグが誕生した。この4カ国のプロリーグが連携し、統括組織である東アジア野球機構のもとでリーグ戦を行う のである。

 東アジアには、米国にはない有利性がある。米国の周辺には米国と対峙できるほどの野球市場が存在しない。北米、中米の国家はすべて、経済的には米国の 「衛星国」である。これに対し、東アジアは1カ国が「一人勝ち」した地域ではない。韓国、台湾の経済力は大きくなった。中国、特に沿海部の経済成長は驚く べきものがある。野球市場を支えるに足る十分な経済力を、東アジアの4カ国は既に保持している。

 東アジアリーグは2段階でステップアップすべきである。第1段階では、日本、韓国、台湾のリーグがそれぞれ国別でリーグ戦を行う。その上で3カ国のリー グ優勝球団が、東アジア優勝決定シリーズを行って、「東アジア一」の球団を決定する。数年後には中国リーグが参加することは、当然の合意事項になる。

 中国リーグも参加した第2段階では、東アジア4カ国のリーグは、米国の大リーグと同様に、一体となったリーグ戦を行う。米国の大リーグでは、東、中、西 の3地区に分かれているが、地区内の球団だけでリーグ戦を行う訳ではない。各地区の順位は地区ごとに決めるが、他の地区の球団とも試合を行う。ア・リーグ では、松井秀喜の所属する東地区のヤンキースと、イチローのいる西地区のマリナーズは、地区は違うが年間何度も試合をする。そうしたリーグ運営を行えば、 日本リーグは日本中心に試合をするが、韓国、台湾、中国の球団とも試合ができる。

 第一段階、第2段階とも、東アジア野球機構は、米国の大リーグに対して、真の「世界一決定戦」の開催を要求する。ほとんど米国だけの「ワールドシリー ズ」は、世界一決定戦ではないのだから、東アジアリーグの要求は筋が通ったものである。しかも、東アジアの巨大な市場を敵にまわすことは、彼らの選択の枠 外になるだろう。

 そうした段階を踏むためには、東アジアの野球を統括する組織が必要になる。その機構、東アジア野球機構は当然ながら、国家を超えた公平、公正なシステム の構築が前提になる。日本以外には通用しない、プロ野球の「鎖国的システム」では機能しない。参加各国に共通するシステムを構築すればいいのである。

 東アジアリーグは、野球、スポーツの分野を超えた大きな有益性をもつ。冷戦後、米国の「一人勝ち」の時代の後は、アジア、とくに中国を中心とした東アジ アの時代になるだろう。東アジア経済は既に巨大なものになっている。しかし、日本、韓国、台湾、それに中国を結ぶ「絆」が見つかっていないのが現実であ る。同じ漢字文化圏でありながらも、日本と中国、韓国は第2次世界大戦の後遺症をいまも引きずっている。

 日本の保守政治家の「不用意」発言と、それを利用した中国、韓国政府の反日キャンペーンがいまも続く。中国と台湾は経済的に強く結びついたが、政治的、軍事的な緊張関係が続いている。

 東アジアリーグは、各国の文化的結束を強める「共通文化財」になる可能性がある。米国が、大リーグなど4大スポーツによって、米国民の共通意識を維持していることは確かなことである。ならば、東アジアも野球によって、共通意識を醸成できるのではないだろうか。

 中国が参加する、あるいは中国が近い将来に参加する東アジアのスポーツリーグほど、経済界にとって魅力的なスポーツイベントはない。中国を含めた東アジアリーグ構想は、1リーグ化を応援する奥田碩日本経済連会長をはじめとする財界にも大きなメリットがある。

さらに言えば、プロ野球がその将来を米国に求めるのか、あるいは東アジアとの連携に求めるかの選択は、日本がこれから国際社会で生きていくための軸足をこ れまで通り米国におくのか、東アジアにおくのかの、象徴的選択にもなる。東アジア野球リーグ構想こそ、プロ野球界だけではなく、財界、政界も含めて、日本 の国家戦略に位置付けるべきものである。(2004年7月21日記)

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 スポーツコラム・オフサイド http://www.mito.ne.jp/~narita/
2004年07月20日(火)早稲田大学政治経済学部3年 藤田 圭子

 私には故郷が二つある。一つは実家のある愛媛県宇和島市遊子(ゆす)水荷浦。もう一つは祖父母の住む宇和島市日振(ひぶり)島能登(のと)。

 この故郷・日振島はかつて海賊と呼ばれた藤原純友がいた。私は知らないけれど、大河ドラマで純友が放映されたことがあるらしいのでご存知の方もいらっしゃるのではないだろうか。

 私たちは「海賊」という言葉に「悪」というイメージを抱かない。西洋の海賊とは別格だと思っているからだろうか。日振出身の母を持つ私を「海賊の子孫」 だと冷やかす人もいるが、それがどこか心地良くもあるのは、そんな悪のイメージを抱いていないからなのかもしれない。
 
 藤原純友は伊予の海に海賊が横行していた承平のころ(931~937)、海賊を取り締まる伊予掾として伊予の国に着任した公家だった。紀淑人という伊予守の下で海賊鎮圧に当たっていた純友がどうして海賊になってしまったのか・・・

 海賊の実態を彼が知っていたからだと言われている。律令政府の政治の執り方、当時の社会情勢を知っていた彼が改革の必要性を感じたのだと。そして、瀬戸内海を中心とした海域で新しい政府、海上王国を作ろうと夢を見たのだと。
 
当時の瀬戸内海の漁民は家族全員で、小さな小舟に乗って、船上生活をしながら集団で漁業を営んでいた。漁網も共有の氏族共同体だった。漁だけではなく、海岸近くの陸地に上がって田畑の耕作もしていた。

しかし、立地条件のよい豊穣の土地は、既に政府の公田となり、貴族の私田となっていて、みだりに開墾耕作することができなかった。同じように漁場も政府や 貴族・役人に従属する漁民がいて、それらの漁民の漁場からは締め出し、追い払いを受けるような状態にあった。

 瀬戸内海々域で暮らしていたこういう漁民集団のうち、海からも陸からも締め出しを受けた漁民たちは、制限の少ない豊後水道や熊野灘に生活の場を求めて移動していった。中には朝鮮海峡の沿岸、韓国にまで移動していった者たちもいたという。

 豊後水道などへ逃れた漁民集団の中には、政府の公田や貴族の荘園から都へと運ばれる貢租を積載した船を襲って掠奪するようになったものがいた。こうし て、彼らは「海賊」と呼ばれる漁民集団になってしまった。この集団をまとめていたのが藤原純友と言われている。

 中央政府が権力を持ち、それが絶対に正しいとされる限り、真実が見えないように思う。史実として、中央政府から見た史実から海賊を捉えると、こういう見 方は出てこない。これは『日振島のはなし』という日振の家にあった小さな本に書かれてあった純友に関する記事だ。地域に残る伝承と中央政府の書き残した歴 史書とどちらが正しいのか判断しかねる。中央に残る史実が正しいのかも知れないし、この本に書かれてあることが正しいのかも知れない。

 全ての価値が中央に求められる危険性を感じる。今の社会、田舎に行っても都市部の情報が朝から晩まで流される。人々はそれに流されてしまっているように も思う。地域に価値がないのだと思っている人が私の周りには多い。テレビに出て、本を出し、マスコミの中で有名になることが良いことだと思っている。そう ではなく、地域に生き、その中で顔が見え、相手がわかる暮らしをしていくことでも幸せを掴むことができると私は信じている。

 祖父が魚を釣り、祖父母が協力して加工していく島の生活。未だに味噌を作り、餅を搗き、祝い事を欠かさない祖父母の生活。いつまで残すことができるだろ う。戦争に行き、出稼ぎに行き我が母たち5人姉妹を育てきった祖父の手はとてもとても輝いている。こうした身近な存在を尊敬できる幸せ。中央の価値観が席 巻する中で失われているものが多いように思う。身近なところに目を向けると中央の価値観では見えないものがあるはずだ。もっと周りを知る機会を作り、共有 し、次の世代にも知ってもらおうと思う。

 藤田さんにメールは mailto:yusukko@cf7.so-net.ne.jp
2004年07月19日(月)萬晩報通信員 齊藤 清

 【コナクリ発】夜の赤坂一ツ木通りあたりで、「ねえ、社長さん」などと声をかけられたら、ましてやそれが深いスリットの入った黒いドレスの妙齢の女性で あったりしたら、これはちょっとご用心、ということになる。むろん新宿歌舞伎町界隈の、「ちょっと旦那」あるいは「オニイサン」と呼びかける手合いだっ て、同様の危うさを秘めている。

 これがギニア・コナクリであって、昼間そのあたりの市場でも歩いている場合だと、「パトロン、いいものがあるよ」とか、「パトロン、こっちこっち」とか、そんな声が四方からかかってくることになる。

 むろん同じギニアであっても、場所が変わり、会話の相手が変われば、パトロンが大統領を意味することもあり、そんな場合には彼に調子を合わせ、「我々の パトロンは・・・」と仲間意識を鮮明にして迎合し、相手をくすぐってやる、ということもないではない。

 パトロンという単語を手元のフランス語辞書に尋ねてみると、店の主人、経営者、親方などという解釈がまず現れていて、日本で密やかに使われる傾向のある保護者、庇護者といった意味合いでの特殊な用法はずっと後のほうに出てくるもののようだ。

 ともあれ、フランス語圏でのパトロンという呼びかけは、日本での用例よりはずっと幅広い内容が含まれていて、それほど特殊なものではないらしい。

 ◆わが師マンサ

 ある朝、それは日曜の朝だったのだけれど、キャンプの食堂で朝食をすませ、腰を上げずにそのままギニア人スタッフとお喋りをしていると、待ちくたびれた ような表情の男が「パトロン、おはよう」と呟きながら顔をのぞかせた。彼は絶対に私めの名前を口にしない。いつも、パトロン、と呼びかける。「あんたたち のパトロンのように、カミさんが三人もいないし、軍隊の指揮権もないし、ましてや風光明媚気候清涼なフータジャロン(中部ギニア地方の総称―西アフリカの スイスとも言われる)にキラキラのお城など持っていないから、パトロンと呼ばれる資格はない」と宣言しても、彼はただニヤニヤするだけである。

 彼の名前はマンサ。この地方には昔、マンサ・ムーサという名前の著名な王様がいたから、その名を借りたものかもしれない。また、その昔、ケイタという姓 のやはり著名な王様が覇を唱えていた時代もあり、キャンプ地の村が当時の首都に程近いことから、その末裔であるとでもいうように、この村の家々はすべてが ケイタ姓である。より正確には、生まれながらにグリオとしての職掌を果たすことを運命付けられたクヤテ家(現代では、村の儀式の補助をする程度の役割) と、たまたまどこかから流れてきて村のはずれに住みついたフラ族の牛飼いの一家と、あわせて二家族だけがケイタ姓ではない。ついでに言えば、両隣の村も、 ケイタ姓と、それに付随するとされるクヤテ家だけである。それで彼の姓はケイタ。マンサ・ケイタである。多分。さらに蛇足ながら、私めの現地名はサイト ウ・ケイタ。

 マンサは鍜冶の家系の出身である。もっとも、父親の時代で鍜冶本来の仕事はその役割を終えたものらしく、マンサ自身は今は我らがキャンプでパジェロの運 転手をしている。それでも門前の小僧としての鍜冶の知識と、学校では教わることのないさまざまな情報をたっぷりと蓄えている。それをひけらかすことはない けれども、訊ねればたいていは期待にこたえてくれる。還暦をいくつか超えているはずだ。大学出のギニア人スタッフとは引き出しの中身の厚みが違う。――む ろん彼らもそれなりには優秀なのだが。

 そのマンサと、山へ行く約束になっていた。車の走れる道ではない。目的地までの距離を訊いたら「パトロンなら歩ける程度」としか答えない。それじゃ何時 に帰ってこられるかと問えば、欠けた歯を露わにし、冷やかすようなしわがれ声で、「夕暮れ前には」と歌う。

 私は私で、小さなリュックに水とフランスパンと鰯の油漬けの缶詰(モロッコ製が村の雑貨屋でも買える)、タオルと小型のGPSと愛用のコンパクトカメラ を投げ込み、腰には歩数計をつけ、ポケットにはナイフをしのばせ――蛇との戦いに備えて――、すっかり小学生の遠足気分。小さな懐中電灯まで用意した。

 ◆トゥドゥ・ララン

 朝から気温はかなり上がっているけれどそれはいつものことで、強い日差しも気にはならない。ゆっくり歩こう、という枕詞をつけての出発ではあったけれ ど、痩身のマンサは後ろも見ずに飛ばす。明るい林の中の細い道ではあるものの、踏み固められていてさほど歩きづらいことはない。起伏も少ない。空気が乾燥 しているから汗が流れ落ちることもない。着ているシャツはいつもサラサラである。

 セミ時雨が耳の奥に染み付いたまま、マンサの踵ばかりを追いかける時間が過ぎて、一息つきたいと思い始めた頃、路肩に蘭の仲間とおぼしきあでやかな黄色 の花を見つけ、マンサに声をかけて歩みを止める。この地方でも、季節ごとにそれなりの花がつつましやかに踊ってくれるものの、たいていはかなり地味な装い である。時に、瞳に花の色が写りこんでしまうような派手なものもあるけれど、数は少ない。マンサに花の名前を尋ねると、土地の言葉マリンケ語で「トゥ ドゥ・ララン」、日本語にすると「蛇のねぐら」とでもいうことになるらしい。このあたりの山に十年ほどいて初めて見る花だ。

 長さ十センチもないような細身の葉を四枚だけ放射状に地面にへばりつけて拡げ、その中心から直接に、まさに地面からまっすぐにトランペット形の花を天に突き出している。その高さは三十センチほどか。口径は五センチくらい。 すべてが花で、茎らしいものが見当たらない。鎌首をもたげた蛇の図、とでもいうのか。その花の二、三株の集落が、五百メートルほど歩く間に十ほどあっただろうか。乾ききった大地の木陰に点在する至福の眺めである。

 横道にそれたままで座り込んでいたら、マンサが軌道修正して、「パトロン、日が暮れるよ」と歌う。たしかに今日の目的は花ではない。しかし、心惹かれる花があれば、それを愛でるのも悪くはないだろうに、と独り言。

 ◆溶鉱炉の遺跡

 歩数計が九千歩に近づいたあたりで、村の裏手でも見たことのある粘土造りの溶鉱炉が姿を見せた。製鉄をやる炉である。直径一メートル、高さが一メートル 半ほどの尻がすぼんだ細身の素焼きの壷を、逆さにして地面に伏せたような形。壁の肉厚は二十センチほど。この土地でよく見かけるシロアリの塚を、人間がま ねて作ってみたような造形でもある。地面に接した部分をくりぬいて、高さ二十センチほどのアーチ型の空気採りの窓が、壷を一周して七個ついている。

 初めに見た炉は、先端部分が少し欠けているだけで、精緻に造形されたものとは言えないものの、それでも充分に端正な形を当時のままに残していた。これは 製鉄作業を終えた後の放棄された炉である。高温で焼かれた後の粘土だからこそ、長い年月の風雨、太陽の強烈な熱射に耐えて、現在にまで姿をとどめてきたも のにちがいない。いつの時代に作られたものかは知らない。溶鉱炉は常に消耗品であり、この炉そのものは、それほどには古くないのかもしれない。

 山道から四、五十歩のところに、ほっそりした姿の炉が二基残っていた。土地が痩せているから、炉の周囲には丈の低い草がまばらに生えているだけ。そこか らさらに四、五十歩離れた場所には、いくぶん太り気味に見えないでもない炉が三基、隣り合わせに並んでいる。手前の二基と立ち姿が違って見えるのは、炉の 製作者の手の違いによるものか。

 ここに残されていた都合五基の炉には、今までには見たことのない特徴があった。炉の壁を作るとき――下から粘土の団子を積み上げていくときに、手のひら の大きさほどに割った鉄滓(てっさい)のかけらをいくぶん規則的に並べ、粘土の壁にびっしりと封じ込めてある。外壁には、黒いかけらの一端がまったく無頓 着に飛び出したままになっている。。褐色の肌に、割れ目の不規則な艶々した黒い岩の塊がごっそりとはめ込まれている感じだ。内壁には、半壊した炉の壁を見 るかぎり、鉄滓のかけらが飛び出しているようには見えないけれど、あるいは高温で溶けてしまったのかもしれないし、確かなことは言えない。粘土を節約する ためだったとは思えないから、鉄滓の黒い塊には何らかの別の役割があったのだと思う。

 ◆西アフリカの鉄

 1993年、パリの「アフリカ・オセアニア博物館」で開催された『ニジェ
ール川流域展』のカタログには、西アフリカ・ブルキナファソ共和国で撮られた「古い溶鉱炉」というタイトルの写真が載っている。炉の形は、造り手の個性の せいか、キャンプの村のものとは微妙に表情が異なるけれど、基本的な形、大きさに違いはない。炉の外壁は粘土だけで仕上げられている。

 以前、ブルキナファソの金鉱山視察に行ったことがある。コナクリ空港から、ローカルの飛行機を乗り継いで行ったもので、かなり面倒な旅程であった。今あ らためて周辺国の地図を眺めてみたら、キャンプ地からブルキナファソのあの場所までは、陸路で八百キロ程度のものだ。

 あの山のふもとの村では、鉄滓(鉄鉱石から鉄をとったカス)を石垣のように積み上げて、土地の境界を表示する用途に使っていた。放棄された溶鉱炉を見る 機会は得られなかったものの、そこが製鉄をやっていた土地であることを強く印象付けられた。また、あの土地で喋られている「ジュラ語」は、キャンプ地の言 葉「マリンケ語」とまったく同じものであったから(おそらく)、どちらも同じ文化圏に属していると言えるのだろう。

 このキャンプの村から九千歩ほど離れた「製鉄所跡」の五基の炉には、鉄滓を使って何らかの意味を持つのであろう細工、あるいは工夫が施されていたけれ ど、村の裏手のマンゴーの木の下に残されている古い二基の炉は、ブルキナファソのものと同じく粘土だけでできている。

 『ニジェール川流域展』のカタログは、この地域では紀元前2000年頃から鉄を生産していた、と解説している。ちなみに、中国での製鉄の歴史は、紀元前600年頃に始まったとされているようだ。

 ◆金と鉄の関係

 たしかに、鉄の道具がなければ、村人が西アフリカのこの地で金の採掘をすることは無理だった。川での砂金採りはその成果が微々たるものであるし、山で掘 るとなれば、地面を覆っているラテライトの固い岩盤を掘り進む必要がある。現代の村人は、二十センチほどの鉄の歯に短い木の柄をつけた片手用のツルハシ で、岩も、固い粘土層も、やわらかいカオリンの層も、すべて掘り崩していく。この極めてシンプルな道具の形は、ずっと昔からほとんど変化していないのでは ないだろうか。

 昔、エジプト、北アフリカ、ヨーロッパ方面へ、この地方から金の供給を続けることができたのも、鉄があったおかげである。金を生産する以前に鉄の存在が必要とされた。

 わが師マンサの後についてゆるい斜面を昇り、すぐ近くの薄暗い林に入ると、小さな横穴が二つ。「蛇がいるかもしれない」とマンサが言うものだから、横穴 の入り口あたりに転がっている岩のかけらを二つ、三つ拾っだけで、穴の中を覗くのは止めにした。ここが鉄鉱石を掘り出した跡になる。

 この鉄鉱石と、その辺りに生えている木から作った木炭を、炉の中へ交互に積み上げてから火を入れる。すると、しだいに炉の中の温度が上がり、数日の後 に、還元された鉄の塊が手に入る。「ふいごはどうしたのだろうか」とマンサに尋ねると、彼は自信を持って、「必要ない」と答えた。彼自身は製鉄作業をした ことはないらしいのだけれど、感覚的にそのように理解できるのだろう。

 とすれば、比較的低温で、例えば1000度、あるいはそれよりも低い温度で鉄を還元したことが推定される。モノの本によれば、その程度の温度でも可能なことであるらしい。

 ここでできた鉄の塊を木炭の火で再び熱して(これにはふいごが必要だ、とマンサは解説する)、トンテンカンと打ちたたいて鉄の道具をこしらえる。

 ◆ヌオイ・ダマンダ

 西アフリカの歴史の本にしばしば特筆される特殊な身分としての鍜冶の家系は、単に鉄の道具を作る技術者というよりも、製鉄技術を受け継いでいる人々であ るということに、より大きな意味があったのだと思う。鉄が、金の生産、農業生産、時には戦いの道具として、古代からこの地の人々の生活の基礎を支えてきた ことが、鍜冶の家系を敬う雰囲気を醸成したのかもしれない。

 帰り道の木陰で、フランスパンに油漬けの鰯をはさんだサンドイッチを頬張りながら、マンサがぽつりと言った。「このあたりはヌオイ・ダマンダと呼ばれている」と。

 マンサがまだ幼い子供であったころ、彼の父親がこの山で金を見つけた。それで、山の精霊に金を掘る許しを得るため、一カ月間ほどこの山にこもった。 ある夜、精霊が現れて、彼の父の願いを聞き入れた。彼は村に戻り、村の長老にそれを告げた。その時からこの山は、彼の父の名前ヌオイをとって、「ヌオイ・ダマンダ」(ヌオイの鉱山)と呼ばれるようになった。今でも村人がこの山で金を掘っている。

 4000年の鉄の歴史を今に伝えている西アフリカの、小さな村の遠い昔の記憶に、そっと触れることのできた一日であった。(『金鉱山からのたより』2004/07/18から転載)

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2004年07月17日(土)萬晩報通信員 園田 義明

 ■国際文化会館の生い立ち

 それでは松本重治に関わる著作をもとに国際文化会館の生い立ちを見ていきたい。国際文化会館設立のきっかけは日中戦争、太平洋戦争をはさんで長い間会っていなかったジョン・D・ロックフェラー三世と松本が1951年に再会したことから始まる。

 その年、ジョン・フォスター・ダレスはサンフランシスコ講和条約を結ぶために米国特使として来日するが、この時にダレスはロックフェラー三世を文化顧問 に任命し同行させている。この背景として、米国の占領政策が逆コースをとったために、日本の知識層が反米、親ソ連になることを防ぐ必要があり、日米文化交 流の担い手としてダレスがロックフェラー三世を選んだと松本は書いている。

 そして1951年2月、ロックフェラー三世は日本に来ると、松本重治、高木八尺、松方三郎などに連絡を取り、松本、高木のふたりがロックフェラー三世に 会うことになる。ここで松本は米国の超一流の思想家や学者を日本に招くことを提案している。そしてこの年の10月にロックフェラー三世夫妻と法律顧問で あったドナルド・マックレーンの三名が再来日し、ここで松本は人物交流論を再提案し、ロックフェラー三世側もロックフェラー財団として協力することが決ま る。

 松本はこの直後に行われた帝国ホテルで行われたロックフェラー三世夫妻主催のレセプションで、同席した長老格の樺山愛輔伯爵を日本側のまとめ役として担 ぎ出し、その場でロックフェラー三世の部屋に行って招請状40通ほどに樺山の署名をもらい、この招請状をもとに同年11月12日に日米両国の約40名が工 業クラブに参会、ロックフェラー三世の講演を聞くことになる。

 この時の約40名の名簿には小泉信三、前田多門、亀山直人、南原繁、高木八尺、矢内原忠雄、木原均、中山伊知郎、上代たの、松方三郎、東畑精一、坂西志 保、中野好夫、都留重人らの知識人、一万田尚登、新木栄吉、渋沢敬三、藤山愛一郎、加納久朗、杉道助、関桂三、そして石坂泰三らの財界人、外国人として オーチス・ケーリ、カンドウ神父、ゴードン・ボールズなど当時を代表する国際派の名前が並んでいる。

 この会合で文化センター準備委員会が発足し、樺山が委員長、リーダーズ・ダイジェスト東京支社長をしていたスターリング・フィッシャーと松本が常任幹事 に選ばれている。準備委員会の事務所はリーダーズ・ダイジェストに置き、準備委員会の中から17名で実行委員会をつくり、計画を実行に移すための会合が始 まる。

 日本側は拠点となる建物の必要性を説き、ロックフェラー財団側のマックレーンと松本が交渉にあたり、準備委員会は20数回の会合を重ねた末に、文化セン ターのための土地、その会館の規模やあり方、活動や事業の具体的内容、建設資金の調達方法などをまとめ、高木、松本、マックレーンが作成した助成金申請書 を52年5月にロックフェラー財団に提出する。

 これに対してロックフェラー財団理事会は52年7月、土地建物のための資金として1億7500万円を拠出することが決まる。また、法人として許可された 日から57年末まで、年2500万円を限度に事業運営費を保障することも決まり、結局、準備費を含めると、申請した助成金総額は4億円以上になった。

 しかし、ロックフェラー財団は日本側が53年8月31日までに1億円の募金を集めることを条件にしていた。この条件を満たすための募金活動が日本で開始されることになる。

 ■日本での募金活動

 首相の月給が11万円という時代に1億円もの大金を集めるための募金活動は吉田茂首相が総理官邸で開いたパーティーから始まった。そのパーティーには財 界から200名程、学者ら知識人が100名程集まり、吉田の挨拶の後、松本によって国際文化会館の概要が説明された。そして、感動的な樺山愛輔伯爵のス ピーチが始まる。

「今度の計画は、自分がこれまでやってきた日米協会とかそういうものとは格段の違いのある、大きな規模で、内容のある事業なのだ。これができれば、私は死んでもいい。この訴えを自分の遺言だと思って、みなさんのご援助をお願いします」

 この樺山の「遺言発言」が参加者の心を動かすことになる。このパーティーで募金委員会が設立され、樺山が名誉委員長、一万田尚登が委員長、副委員長とし て東京が渋沢敬三と石川一郎、関西は関桂三と杉道助が就き、募金委員会の手で52年11月1日を期して募金が始められた。

 名誉委員長の樺山愛輔伯爵と東京副委員長の石川一郎が当時を代表するビッグ・リンカーであり、関西副委員長である関桂三は東洋紡績会長として当時現役の 関経連会長であった。またもうひとりの関西副会長である杉道助八木商店会長も当時大阪商工会会議所会頭と海外市場調査会(ジェトロの前身)の理事長を務め ていた。この関と杉の関西コンビは大阪日米協会の初代、二代目会長を務めた国際派であり、特に杉は石川一郎とともに藤山愛一郎の要請で揃って日本航空の設 立委員になっている。大阪万博の仕掛け人としても知られ、住友生命の社員総代なども務めていた杉は吉田松陰の甥、そして東京副委員長を務めた渋沢敬三が渋 沢栄一の孫、さらに委員長を務めた一万田尚登は当時現役の日本銀行総裁であった。

 松本はこの時足が不自由であったが、杖をつきながらほうぼうを回り、期限ぎりぎりの8月30日に樺山と一万田の連名でロックフェラー財団に募金が1億円 に達したことを電報で伝えた。募金は個人が3000人、法人が5000件を越え、中には文部省のはからいで川端康成、大沸次郎、吉川英治の3名の文化人有 志としての200万円も含まれていた。

 なお、国際文化会館が建てられることになる約1万平方メートルの旧岩崎弥太郎邸跡地についての交渉過程も極めて興味深いので紹介しておきたい。

 当時、第三次吉田内閣の大蔵大臣である池田勇人に樺山と松本のふたりが会いに行き、樺山がなるべく安く払い下げられるようお願いしている。池田は「ご老 体を押してこられて恐縮です」と答えて了承し、すぐに秘書官を呼んで関東財務局にその場で電話をかけさせたようだ。この秘書官が後に首相となる国際派の宮 沢喜一であった。

 そして1955年初夏、国際文化会館は盛大な開館式を迎える。当時の総理大臣、文部大臣、外務大臣が祝辞を読み上げ、総理を辞めた後の吉田茂の姿とロックフェラー三世の姿もあった。

 ■旧岩崎弥太郎邸跡地と松方正義一族

 ここで松方正義一族との関係も見ておきたい。旧岩崎弥太郎邸跡地と大きく関係しているのである。これまで松方家の豪華な家系はあまり注目されていない が、松方正義が創設した日本銀行を中心に、今なお増殖し続ける国際色と宗教色豊かな300人以上からなる閨閥を形成している。

 日本財政史に名高い松方正義(1835-1924)は1881年に大蔵卿となり、翌年には日本銀行を創設した。内閣制度ができると初代蔵相となり、薩閥の巨頭として内閣を2度組閣するなど首相、元老と栄達の道を歩んでいく。

 松方は王侯並みの子だくさんでも知られ、明治天皇から何人子供がいるのかと尋ねられると即答できなかった。『公爵松方正義伝』では19人となっており、 正妻満佐子が八男三女の計11人、三人の妾が二男一女ずつの計9人(内8人を認知)と思われるが、正義の孫にあたるハル・松方・ライシャワーの『絹と武 士』では21人、あるいは毎日新聞では23人としており、文献によって食い違いがあるほどの子宝に恵まれた。この子供達は正義の方針でほとんどが海外留学 し、日本における国際派の源流とキリスト教人脈を築いた。

 松本重治の母は正義の四女光子であり、重治自身も松方コレクションで知られる正義の三男幸次郎の長女花子と結婚していることから松方家と二重の縁になっ ている。重治は母親と共に神戸に住んでいたが、中学卒業後に上京し、一高に入った。ここで松方三郎と親しくなり、同年輩の従兄弟同士は共に内村鑑三と新渡 戸稲造に影響を受け、共に現在の共同通信社の社史に名を残すジャーナリストとなり、共に日本の文化交流大使として第二世代キリスト教人脈を担っていくこと になる。
 
 松本重治と共に国際文化会館の設立を支えた松方三郎(1899-1973)は松方正義の末息子(十三男)であり、後に兄幸次郎の養子となって正義の法律 上の孫となり、43年には松方家第三代の家長の座についている。出生時は義三郎と命名されたが55年に戸籍上も三郎に改名している。共同通信社専務理事、 東京ロータリークラブ会長、ボーイスカウト日本連盟第六代総長、ボーイスカウト・世界ジャンボリー組織委員長(1971年)などを務めた。また、アルピニ ストとして日本山岳会会長や英国アルパイン・クラブの名誉会員として国際的に認められている。1926年に秩父宮殿下がスイスアルプス10数峰を登った時 には松方三郎と松本重治が同行している。

 三郎の登山は松方正義の長男巌の女婿である黒木三次の影響があるが、黒木の影響は三郎のキリスト教の出会いももたらした。三郎は高等学校時代に黒木の誘 いから東京YMCAで行われていた内村鑑三の聖書と倫理に関する日曜講演に出席するようになり、内村の弟子となった三郎は内村の始めた無教会派の信者とな る。

 三郎が関わったロータリークラブ、ボーイスカウト、YMCAなどは日本のキリスト教人脈を語る上で極めて重要な役割を担っている。このあたりの事情は後にまとめて書いてみたい。

 三郎の妻は海外勤務の長かった佐藤市十郎の娘で、ベツレヘムの星にちなんで「星野」と名付けられた敬虔なカトリック信者であった。この星野の影響から三 郎は臨終の床でカトリックの洗礼を受けている。三郎には合計8人の子供がいたが、その中には長男峰雄(日本航空名古屋支店長→ジェイエア副社長、顧問)、 次男富士男(トヨタ役職不明)、三男登(不二音響社長)などがいる。登は89年2月に54歳の若さで胃ガンのために亡くなっているが、その告別式は聖イグ ナチオ教会で行われていることを考えれば、三郎・星野以後カトリックの影響が強いようだ。

 三郎の家系以外の松方家を見てみよう。

 松方正義の四男正雄は浪速銀行頭取、福徳生命保険、阪神電鉄や大阪ガスの社長、阪神タイガースの初代会長などを歴任し、正雄の長男義雄は大同生命保険の 取締役を務めた。義雄の長男清は第一ホテル常務、第一ホテルトラベル社長を務め、清の長男純は皇太子妃候補に有力視されたこともある旧華族出身の徳川冬子 と結婚している、義雄の次男である康は三井海上火災保険副会長を務め、現在は三井海上火災保険相談役、三井物産監査役、三井海上文化財団理事長、トヨタ財 団監事など三井グループを束ねる役割を担っている。

 実は、義雄の妹富子は中上川彦次郎の息子、中上川小六郎と結婚しているのである。この中上川彦次郎は福沢諭吉の甥にあたり、時事新報社社長、山陽鉄道会 社(現山陽線)初代社長、神戸商業会議所初代会頭などを務めた後に、理事として三井銀行に招かれ、以後、同行副長、三井鉱山理事、三井物産理事、三井元方 参事、同専務理事を務め、明治中期に不良債権問題で経営危機に陥った三井銀行を救った人物として今再び注目を集めている。

 松方正義の四男正雄の家系は三井だけにとどまらない。日本生命の創業者一族である西の名家弘世家につながり、巨大な閨閥を作り上げている。正雄の次男鉄 雄の娘である信子が日本生命保険を世界最大の生保会社に育て上げた弘世現の長男、源太郎と結婚しているのである。弘世現源太郎は父同様三井物産で学び、内 外に認められた後継者として日本生命常務になるが、1975年に44歳の若さで病死している。この弘世家はサントリーの鳥井一族、松下幸之助一族、旧皇族 久邇宮家にもつながっている。

 なお、1997年に松方義雄が97歳で亡くなっているが、この時の告別式は上野寛永寺輪王殿で行われていることから、正雄の家系はクリスチャンではないと思われる。

 松方正義の五男である松方五郎の家系は日野自動車と関係が深い。嵐山電車軌道、台北製糖、東洋製糖などの経営を手掛けた五郎は1911年に、新興のガス 灯部品製造会社である東京瓦斯工業の二代目社長に就任し。照明がガス灯から電灯へ移る時代の流れを敏感に受け止め、社名を東京瓦斯電気工業とし、軍用自動 車の国産化に乗り出すことになる。37年には東京自動車工業を設立、東京・武蔵野の日野町に工場で主に軍用車両を製造した。戦後になって平和産業に転換 し、59年に日野自動車工業となり、現在は日野自動車としてトヨタ自動車グループのトラック、バス、商用車メーカーとなっている。東京瓦斯電気工業は日野 自動車以外に現在のいすゞ自動車、日立建機、コマツゼノアの前身でもある。五郎の次男正信も日野自動車工業社長、正信の長男正隆も同社執行役員を務めた。 正信もその妻てる子もすでに他界しているが、共に告別式が行われたのは港区芝公園の聖アンデレ教会である。聖アンデレ教会は松本重治と同じ日本聖公会に属 している。つまり松方五郎一族は日本聖公会家系となっている。

 エドウィン・ライシャワー元駐日大使の妻、ハル・松方・ライシャワー(松方ハル、松方春子)は、松方正義の七男正熊の二女になり、母方の祖父新井領一郎も生糸貿易で成功したニューヨーク日本実業界の御三家と呼ばれた第一世代キリスト教人脈の中心人物である。

 以上のように松方一族にはトヨタに関係する人物が多い。これは現在トヨタの名誉会長である豊田章一郎の妻博子が三井財閥一族の伊皿子家八代目の三井高長(元三井銀行取締役)の三女であり、三井を媒介にして松方家と豊田家がつながっていることも影響している。

 そして注目すべきは松方正義の次男正作の妻である。妻の名前は岩崎繁子、つまり三菱財閥の創設者である岩崎弥太郎の弟であり、三菱財閥の二代目総帥、そして第四代日本銀行総裁となる岩崎弥之助の長女であった。

 旧岩崎弥太郎邸跡地は国際文化会館と名称を変えて、三井家や岩崎家、そして弘世家などの名門一族の血を招き入れた松方家によって今なお受け継がれていることになる。

 ■国際文化会館の第一次役員と白州次郎と現在の日本

 話を戻そう。樺山が署名した招請状が送られた約40名は国際文化会館の評議員になっているが、この中で第一次理事と監事に選ばれたのは(資料1)の通りである。

 書ききれないほどの肩書きを持ち、初代経団連会長を務めた石川一郎、1946年に第18代日銀総裁となり、GHQと渡り合える唯一の経済人として以後8 年7ヶ月にわたって君臨した「日銀の法王」こと一万田尚登、同じ日銀からは第16代日銀総裁で渋沢栄一の孫にあたる渋沢敬三、文相からソニー初代社長に転 じた前田多門、藤山コンツェルンの創設者である藤山雷太の長男に生まれ、戦後の公職追放を乗り越え、経済同友会、日本航空会長としてカムバックし、再び日 商会頭に就任、日商会頭のまま岸内閣の外相を務めた藤山愛一郎、米国政治外交史研究の先駆者存在として松本を支え続けた高木八尺、高木と共に終戦工作を進 め、戦後最初の東大総長に就任し、「無教会派プロテスタント派理想主義的現実主義者」として護憲の学問的支柱となり、今再び脚光を浴びている南原繁など、 戦後の日本をつくった人物が顔を揃えた。

 日本の戦後教育改革の方向を示したゴードン・T・ボールズ、そして南原繁は教育刷新委員会の副委員長、そして委員長として教育基本法の生みの親となったが、現行憲法の数少ない生き証人もこの人脈に存在する。その人物こそ「ジェントルマン・白州次郎」である。

 当時英字新聞「ジャパン・アドバタイザー(後にジャパン・タイムズに吸収)の記者であった白州次郎は、国際文化会館の設立に尽力した樺山愛輔伯爵の長男 である樺山丑二と親しくなり、その妹、即ち樺山の次女正子と結婚している。所帯を持った白州はセール・フレイザー商会取締役を経て、日本食糧工業(日本水 産の前身)取締役となり、仕事先の英国で駐英大使時代の吉田茂と出会い親交を深めた。白州は51年5月に東北電力会長に就任、以後、荒川水力電気会長、大 沢商会会長、大洋漁業、日本テレビ、昭和石油の役員、そして当時英国を代表するユダヤ系投資銀行であったS・G・ウォーバーグの顧問になっている。そし て、同時期に白州次郎と樺山正子を結びつけた樺山丑二も東宝取締役とモルガン銀行東京支店の顧問を務めており、樺山愛輔伯爵に関わるふたりの人物が世界的 なビッグ・リンカーとなっていた。なお、白州次郎の妹、宣子は松方正義の孫である松方三雄(松方正義の四男正雄の三男)に嫁いでいる。

 この白州次郎は吉田との関係から終戦後の1945年12月に終戦連絡中央事務局参与(翌年3月には次長)に就任し、占領期間中のGHQとの交渉窓口を務 めた。「日本は戦争に負けたのであって奴隷になったのではない」。こう言ってはばからなかった白洲は英国仕込みの英語力と、政治家でも官僚でもない立場を いかしてGHQと渡り合い、米国側から「従順ならざる唯一の日本人」としてにらまれた。46年2月にGHQから現行憲法の原案となる「マッカーサー憲法草 案」が提示されたが、この場に立ち会ったのは、吉田茂外相、憲法問題担当国務相松本烝治、長谷川元吉翻訳官、そして白州の4名だけであった。この時白洲は 外務省の翻訳官らとともに、GHQ民政局長のホイットニーから草案の翻訳を命じられる。焦点の天皇の地位について草案は「シンボル・オブ・ザ・ステイト」 と規定していた。白洲は「翻訳官が『シンボルは何と書きましょう』と言うから、英和辞典を見たら『象徴』とあった。それが由来ですよ」と後に証言してい る。

 この草案通りの新憲法が成立したとき、白州はその手記に「斯ノ如クシテコノ敗戦最露出ノ憲法案ハ生ル『今に見ていろ』ト云フ気持抑ヘ切レスヒソカニ涙 ス」と書いた。その後、48年に初代貿易庁長官となり51年にはサンフランシスコ対日講和会議に全権委員顧問として蔵相秘書官であった宮沢喜一、麻生太賀 吉らとともに渡米している。この調印式での吉田演説の2日前、白洲は吉田から演説草稿に目を通すよう依頼される。草稿は英語となっており、外務省が米国側 と打ち合わせた結果に基づき、GHQの占領を褒めたたえる内容となっていた。白洲は「冗談言うな」と憤慨し、吉田の了解を得て、威厳を保つために日本語に 変更する。急遽チャイナタウンの店で購入した巻紙を宿舎の長い廊下に広げて筆で書き直させた。吉田の巻紙演説は「トイレットペーパー演説」と呼ばれ会場の 話題を集めた。それにしても現在の外務省を見る限り、当時と何も変わっていないように見えてしまう。
 
 英国流のファッションに身を包み、ポルシェなどを乗り回し、軽井沢ゴルフ倶楽部でゴルフに興じた白州次郎は吉田茂の三女和子と麻生セメントの麻生太賀吉 を結びつけた。吉田の妻雪子から和子の結婚相手を探して欲しいと頼まれていた白州は、日本への帰りの船の中で出会った麻生太賀吉を紹介したのである。以後 白州と麻生和子は亡くなるまで交流を結ぶことになる。従って、白州次郎なくして現在の総務大臣、麻生太郎は存在しなかったことになる。白州が監査役を務め た日本テレビも麻生太郎も憲法改正を推進している。白州のまいた種が今蘇っているのである。 

 また松本重治と吉田茂を結びつけたのも白州次郎である。松本は同盟通信時代に上海で吉田と出会っているが、この時の吉田の印象は良くなかった。戦後に なって白州と松本は神戸一中の同窓生であったことから、終戦後に麻生夫妻を紹介し、麻生和子を通じて米国に詳しい松本と吉田茂との間を取り持ったのであ る。当時松本は家族を軽井沢に残し、従兄弟である松方三郎の家で寝泊まりしていた。三郎邸は外相官邸に近い霊南坂にあり、この時から本格的に交流が始ま る。

 この白州と松本は吉田が総理になることに反対する書簡を吉田本人や吉田の義父にあたる牧野伸顕宛に送ったり、白州の大臣就任を松本がつぶしたりと人知れ ず密接に関わっていた。春名幹男の「秘密のファイル」によれば、キリスト教青年会(YMCA)関東大震災救援団の一員として来日し、立教大学教授などをつ とめ、戦後、GHQ参謀第2部民間情報局(CIS)の編集部長として戦犯や戦争責任者の公職追放に関する情報をまとめたポール・ラッシュは、吉田追放を画 策するが、これが途中退けられ、ラッシュは吉田と親しく交遊するようになる。ラッシュの有力な情報源であった白州と松本が関与していたことは間違いない。 ポール・ラッシュは後に「清里の父」と呼ばれるが、同時にマッカーサーと並ぶ「日本聖公会の父」でもあった。

 白州次郎はマッカーサーに敵意にも似た感情を抱いていたようだ。天皇からのクリスマス・プレゼントを白州が届けた際に、マッカーサーが置き場所に絨毯を 指したために、天皇の贈物をそんな所へ置くわけにはいかないと席を立ち、「持って帰る」と言うと、マッカーサーは新しいテーブルを持ってこさせたという。 しかし、白洲は講和条約締結後の吉田の引退、そして昭和天皇の退位を主張した。日本を独立に導き、政治家として大役を果たした吉田には花道での引退を、昭 和天皇には「この機会を逃せば(太平洋戦争開戦の詔書にある)『朕(ちん)戦いを宣す』のけじめがつかない」ことを理由に退位を求めたのである。白州は 「新生日本」のために「プリンシプル(原則)」に貫き通した。

 この白州次郎は現在につながる名言を残しているので紹介しておきたい。右だの左だのの枠組みからはみ出した白州ワールドが見出せる。はたして白州の想いは今に生きているのだろうか。

「オレの左翼思想が、どれだけ戦後の日本を救ったことか」

「(戦後の憲法騒ぎについて)歴史というのは、今生きている人が自分たちに都合良く理解して運用するものなんだ。だから、今オレがしゃべったら、まだ生きている人に迷惑がかかる」

「政治というのは、国民に夢をもたせることなんだよ」

「(戦後の財界人について)あの人たちはバスが走り出してから飛び乗るのがうまいだけだよ」

「日本人ぐらいおとなしい被占領国民もなかった。占領中の日本で、GHQに抵抗らしい抵抗をした日本人がいるとすれば、ただ二人。一人は吉田茂であり、もう一人はこのぼくだ。」

★★(資料1)★★
財団法人 国際文化会館
財団の第1次の理事および監事
http://www.i-house.or.jp/ihj_j/disclo_j/2001/bottom1.html

<理事 16名>
石川一郎
日産化学社長、初代経団連会長、企業役員多数(年譜参照)
一郎の息子には馨(故人、武蔵工業大学長、東大名誉教授)、潔(故人、元三菱石油社長)、六郎(現在、鹿島代表取締役名誉会長、フジテレビジョン監査役)、七郎(故人、本州製紙取締役)、八郎(元三菱化成常務)などがいる。

『石川一郎追想録』巻末の年譜
http://www.lib.e.u-tokyo.ac.jp/ishikawa/ishikawa.htm

一万田尚登
第18代日本銀行総裁、蔵相

樺山愛輔伯爵
海軍大将、元帥、文相、内相、海相、初代台湾総督を勤めた樺山資紀の長男。
米アマースト大留学後、国際通信社、日英水力電気、蓬莱生命保険相互等の取締役、千歳海上再保険、千代田火災保険(社長)、大井川鉄道の役員や東京ロータリークラブ(1921年)の創立会員を務める。
次女正子は実業家の白洲次郎と結婚し、随筆家として知られる白洲正子となる。

亀山直人
東大工学部第一工学部長、日本学術会議会長初代会長、中央教育審議会会長

E・J・グリフィス

小泉信三
慶應義塾長、東宮御所教育参与?皇太子明仁親王(現天皇)の教育係

渋沢敬三
第16代日本銀行総裁、渋沢栄一の孫

上代たの
日本女子大学六代目学長、平和運動家

高木八尺
東大名誉教授、アメリカ政治外交史研究の先駆者

南原繁
政治学者、戦後最初の東大総長

スターリング・W・フィッシャー
リーダーズ・ダイジェスト東京支社長

ゴードン・T・ボールズ
降伏直後の極東小委員会(SFE)特別委員会メンバー
第一次米国教育使節団顧問

前田多門
文相、朝日新聞論説委員、ソニー初代社長、ソニー井深、長女は神谷美恵子

松方三郎(本名は松方義三郎)
本文参照

松本重治
本文参照

藤山愛一郎
藤山コンツェルンの二代目、日本航空会長、経済同友会代表幹事、日本商工会議所会頭

<監事 2名>

加納久郎
住宅公団総裁

J・P・ダディー

(参考)ポール・ラッシュの歩み
http://www.kiyosato.gr.jp/about/rekisi/pr.html
1897  米国に生まれる
1925  東京と横浜のYMCA会館再建のために初来日
1926  立教大学教授として残留
1927  日本聖徒アンデレ同胞会(BSA)を設立
1928  日本聖路加国際病院建設のため米国で募金活動
1934  日本にアメリカンフットボールを紹介
1938  日米協会の青年活動およびBSA指導者訓練場として清泉寮を建設
1942  日米開戦のため米国へ強制送還
1945  GHQ将校として再来日
1946  清里農村センター(キープ)建設開始
1948  清里聖アンデレ教会完成
1949  高冷地実権農場開始
1950  清里聖ルカ診療所開設
1957  清泉寮再建 清里聖ヨハネ保育園開設
1963  清里農業学校開設
1979  12月12日 聖路加国際病院で逝去


□引用・参考

20世紀 日本人の自画像「白洲次郎」
1999年9月6日付中国新聞朝刊

白州次郎・白州正子関連書籍
http://www.buaiso.com/else/shuppan/shuppan.html

『白州次郎』、平凡社、コロナブックス
白州次郎『プリンシプルのない日本』、ワイアンドエフ
松本 重治『国際日本の将来を考えて』、朝日新聞社
松本重治『国際関係の中の日米関係』松本重治時論集、中央公論社
松本 重治『昭和史への一証言』、 毎日新聞社
ハル・松方・ライシャワー『絹と武士』、文藝春秋
神一行『閨閥』、角川文庫
大森映『日本の財界と閨閥』、學藝書林

 園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp
2004年07月16日(金)萬晩報主宰 伴 武澄

 三重県は酷暑だ。誰かが地面が燃えているようだと言っていた。終業式は来週火曜日とはいえ、子どもたちは夏休みモードに入った。

 少し前になる。七夕の日、行きつけの喫茶店のママに「岩田川に行ってごらんなさい。笹流しの子どもたちでいっぱいだから」と言われ、夕方、岩田川にかかる観音橋に向かった。

 観音橋は津市の商店街「大門」に続く道の先にあり、赤い欄干で車は通れないようにしてある。橋の上から笹飾りを川に流すには格好の場所である。この日ばかりは提灯で飾られ、賑わいをみせていた。

 ふだん人通りがないと思っていた津市ではあるが、「おー、こんなに子どもたちがいたんだ」と思わせる風景があった。子どもたちは浴衣に着替え、手に手に 笹飾りを持ち観音橋に向かっていた。表現は悪いが「子どもたちが湧いてくる」と思えるぐらい道をいっぱいにした。そして橋の上は子どもたちが手にする笹飾 りで満艦飾になっていた。東京育ちの筆者は恥ずかしながら「笹流し」などというものを初めて目にした。

 その昔、七夕が近くなると学校でササの枝が配られ、家に持ち帰って短冊に将来の夢を書いたことを思い出したが、その笹飾りがその後どうなったのかは覚え ていない。たぶんどこかで焼かれたのだろうと思う。津市内でこれだけの子どもたちが「笹流し」にやってくるということはそれぞれの家庭でササが飾られ、思 い思いに願いや夢を短冊に託しているということ。ただ単に子どもたちにとっていいことだと思った。

 町の古老に「津市はいい風習が残っていますね」と聞くと、笹流しは最近"復活"したものだという。青年会議所が力を入れて、幼稚園や保育園で大きな笹飾 りをつくらせ、それを商店街に飾ることをすすめたのだそうだ。やがて「うちの笹飾りも商店街に飾ってほしい」と競争になり、商店街が笹飾りでにぎやかに なった。環境問題がうるさくなった昨今、川に笹飾りを流すことは"ご法度"だが、青年会議所は下流に網を張って後に回収することになった。

 それぞれの地で「歳時」を行うことは大切なことだ。日本の多くの町や家で子どもたちの行事があった。大人にとっては取り立てて特別のことではないし、伝 統的と言えるほどのものではないが、子どもにとって毎年やってくる行事である。そんな子どもたちの行事をと自然に馴染ませる努力がここ津市で大切にされて いる。七夕の夜はそんな感慨にふけった。

 少しは涼しくなりましたでしょうか?

2004年07月15日(木)
萬晩報通信員 成田 好三

 7月の参院選は、昨年11月の衆院選と同じ結果に終わった。さんざん騒いだあげくに何も変らなかったからである。

 先の衆院選でも今回の参院選でも、自民党は改選議席を確保出来なかったが、連立相手の公明党の協力で与党としては安定多数(衆院選では絶対安定多数)の議席を得た。民主党はともに大幅に躍進したが、退潮著しい社民党、共産党の議席を奪った結果だった。

 メディアは2つの国政選挙の結果を、二大政党化が進んだなどと評しているが、与野党の議席割合、政権の枠組みから見て、何の変化も起こらなかった。

 メディアは今回の参院選を「政権選択を問わない選挙」としていたが、これは不思議な言い方である。政権選択を問わない国政選挙にはどんな意味があるのか。その選挙で選ばれた議員、その議員で構成される院、つまり参議院にどんな意味があるのか。

 政権選択を問わない選挙という言い方は、参院無用論(廃止論)に、論理的には直結するはずだが、メディアはそのことを理解した上でこの言葉を使っているのだろうか。

 落語でいう「枕」はこの辺でおしまいにして、本筋に入りたい。本筋とは、政治家、なかでも総理大臣や政権政党の言語感覚についての疑問である。

 参院選公示期間中、新聞やTVに頻繁に掲載され、放送された自民党の選挙広告に強い違和感を覚えた。広告内容に文句があるのではない。小泉首相の写真や 映像に合わせて登場するキャッチコピー「この国を想い、この国を創る。」に、もっと正確に言うと、「この国」という言葉に、強い違和感を覚えた。政治の最 高責任者である総理大臣と政権政党が、日本を「わが国」ではなく「この国」と表現したことに、である。

 小泉首相と政権政党である自民党が、膨大な費用をかけた参院選の選挙広告のキャッチコピーに選択したのだから、このキャッチコピーは相当優秀なコピーラ イターが考え出し、大手広告代理店がよくよく吟味したした上で、最終的に選択された言葉だろう。小泉首相と自民党は、「この国」という言葉に有権者への メッセージを込めたはずである。

 「この国」という言葉は故司馬遼太郎氏が多用した表現である。司馬氏が文藝春秋に長年連載した巻頭エッセーのタイトルは「この国のかたち」だった。司馬氏はこのエッセーの中で、日本を「わが国」ではなく「この国」と表現した。

 司馬氏が日本を「この国」と表現したことには幾つかの理由があるだろう。そのひとつには、出来るだけ客観的立場でものを見る上で、「わが国」では障りが あると考えたからではないだろうか。明治から大正、昭和へと続く日本のダイナミックな流れを、出来る限り「ニュートラル」に考え、分析するために、「この 国」という表現を多用したのではないだろうか。

 社会批評、歴史批判をする上では、当然の選択だった。客観的にものを見る、「ニュートラル」の立場に立つといっても、完全な「客観」「ニュートラル」の 立場は存在しない。そのこと知っているからこそ、可能な限りの客観性、ニュートラル性を担保するために、司馬氏は「この国」という表現を多用したのだろ う。その後、「この国」は社会批評などの分野で多くの人が使う言葉になった。


 そして「この国」は政治家でさえ好んで使う言葉になった。政権政党が、政党にとって最も重要なイベントである選挙のキャッチコピーにまで意図的に使う言 葉になった。しかし、社会批評、歴史批判と政治は同一のレベルのものだろうか。社会批評は出来るだけの客観性を前提にする。誰かのため、特定の目的のため の批評など、読者は受け入れるはずもないからである。

 政治は、批評とは逆の立場にある。政治は社会批評での「客観」や「ニュートラル」を前提にしたものではない。自らの立場(政策・理念)を明確に説明した上で選挙や議会で戦うのが政治であり、政治家である。

 日本政治の最高責任者である総理大臣と政権政党が、日本を「わが国」ではなく「この国」と表現する。しかも、その表現に何の違和感も覚えないばかりか、 それが得票につながると考えている。だからこそ、自民党は参院選のキャッチコピーに「この国」という言葉を使ったのだろう。

 民主党も参院選の選挙広告で、キャッチコピーではないが、「この国」と表現していた。総理大臣も政権政党も、そして最大野党も、日本を「この国」と表現 している。政治権力者までもが、社会批評家のようなもの言いをする。そんな社会では、日本を「わが国」と表現する日本人は誰一人としていなくなってしまう のではないだろうか。(2004年7月15日記)

 成田さんにメールは mailto:narita@mito.ne.jp
 スポーツコラム・オフサイド http://www.mito.ne.jp/~narita/
2004年07月14日(水)萬晩報通信員 園田 義明

 ■今日の国際文化会館

 最近の新聞紙上に松本重治が永きにわたってオヤジを務めた国際文化会館に関する記事が取り上げられている。立て替えをめぐる賛否が話題になっているからだ。

 国から払い下げを受けた約1万平方メートルの旧岩崎弥太郎邸跡地に建てられた国際文化会館(港区六本木)は日本現代建築史における巨匠三人(前川国男、 坂倉準三、吉村順三)の共同設計で1955年に完成している。都心にありながら緑豊かな環境を保持してきた日本庭園(小川治兵衛作庭、後藤由末改修)と一 体化した建物は56年に日本建築学会作品賞を受賞するなど名建築として知られてきた。76年に新館を増築し、会議室や講堂、研究用宿泊施設、日本研究の専 門図書館を備え、国際文化交流の拠点として多くの外国人に愛され、「Iハウス」の名前で親しまれてきた。

 しかし、老朽化した建物の維持管理にコストがかかる上、宿泊施設の半数に風呂とトイレがなく、部屋の利用率はこの10年で65%まで落ち込むことにな る。また、年間2億円あった寄付も不況の影響で1億3千万円に減少し、同会館を運営する財団法人国際文化会館の財政は2億円弱の赤字(03年度)となって いる。

 このため同財団は今年3月に建て替えに理解を求める手紙を会員に送り、6月22日に開かれた理事会・評議員会で、土地の一部と空中権を森ビルに売却する 方針を固めている。また売却費用を元に建て替え計画も動き始めており、庭はほぼ現状保存しながら、施設は現状に近い低層にすることなどが報告された。

 これに対して日本建築学会、日本建築家協会、学者や建築家らが設立した「国際文化会館21世紀の会」などから保存を求める要望が出されており、同財団は今後も意見を聞く方針を打ち出している。

 なお売却先として名前があがっている森ビルの創業者で、世界的な資産家としても知られた森泰吉郎(1904-93)と松本重治の出会いは、「世界政治経 済年鑑」を発行していた東京政治経済研究所が設立された1932年頃までさかのぼることができる。

 ■現在の「宿屋(国際文化会館)のオヤジ」と三菱

 現在の国際文化会館の役員名簿には、「首相を囲む会」から小林(理事)、茂木(理事)が参加し、松本重治の長男である松本洋も常勤専務理事となってい る。なお評議員には樋口廣太郎(アサヒビール元会長、現相談役)の名前があるが、樋口もカトリック信者である。そして、現在の「宿屋(国際文化会館)のオ ヤジ」、即ち国際文化会館の理事長は「タダシ・テディ・ベア」の周りでボール遊びをしていた東京銀行元頭取の高垣佑(現・信越化学工業監査役)である。つ まり、松本重治、そして信州の名門・小坂財閥につながる山本正と高垣佑は、国際文化会館を拠点に合流していることになる。

 高垣佑は1946年に東京銀行に入行し、国際投資部長、企画室長を経て、79年に取締役に就任、ロンドン総支配人を経験しながら、90年に頭取となる。 96年には三菱銀行と合併して誕生した東京三菱銀行の初代頭取となり、98年に会長、00年に相談役に退くことになる。現在は信越化学工業監査役の他に三 菱プレシジョンの監査役や外務省の諮問機関である外務人事審議会会長、ロシア東欧貿易会会長などを務めている。

 東京銀行と三菱銀行の合併は当時「スーパーバンク」誕生と騒がれたが、この合併の裏側には高垣人脈が大きく関係していた。というのも、高垣佑の父親であ る高垣勝次郎は三菱商事の終戦時の社長であり、戦後連合国軍総司令部(GHQ)に解体された三菱商事の再合同劇を演出し、戦後最初の社長も務めていたから だ。この関係から、高垣の東京銀行頭取就任直後に両行の接触が始まっていたのである。

 高垣佑は高垣勝次郎の三菱商事の関係で上海、香港、ロンドンを移り住んだ経歴を持つ。その上海の日本人小学校で「タダシ・テディ・ベア」こと山本正の山本家と一緒にボール遊びをし、中村貞子(現在の緒方貞子)とも出会うことになる。

 ■槙原稔と聖公会司教

 この高垣勝次郎のライバルであったのが、槙原稔(元三菱商事会長、現取締役相談役)の父、槙原覚であった。ここからは、朝日新聞に掲載された「槙原稔・三菱商事会長 内からの国際化」から槙原の発言を紹介したい。

『私(=槙原稔、注)は1930年、三菱商事ロンドン支店に勤める父覚(さとる)、母治子の長男として、ロンドン西北部、ハムステッドに生まれました。一 人っ子でした。(中略)父はロンドン支店で、戦後最初の社長となる高垣勝次郎さんと並んで昇進していきました。父には大変かわいがってもらいましたが、仕 事が忙しく、なかなか家でゆっくりしていることはなかったようです。その父が亡くなったのは、私が小学校6年生だった42年の、いわゆる「大洋丸事件」で す。当時、父はロンドン支店から東京に戻って水産部長をしていましたが、軍の依頼で、南方の占領地の立て直しに向かう途中、乗っていた大型客船が撃沈され たのです。1300人以上の乗員乗客のうち、約800人が死亡する大惨事でしたが、軍の方針でほとんど報道されませんでした。』

 そして、興味深い発言が続く。

『その後、亡くなった父が三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎の長男・久弥(ひさや)氏から奨学金を受けていた関係や、私が久弥氏の孫の寛弥(ひろや)君と 成蹊高校の同級で親しかったこともあって、私たち母子は、久弥氏の長男の彦弥太(ひこやた)さんの国分寺の別邸に移り住みました。戦後、その岩崎邸の母屋 がキリスト教の聖公会に接収され、そこで、ハーバード大出身のケネス・バイエルという司教と出会いました。私がマッカーサー杯の英語弁論大会に二回優勝し たのを機に、司教から「ハーバード大に行く気はないか」と聞かれました。彼は「私が口をきけるセントポール高校(ニューハンプシャー州)へ行って、そこそ この成績を修めれば、ハーバードにいくチャンスはある。どうだ」と。で、行こうと。あのころの日本は、終戦直後のごたごたで、下山事件や三鷹事件など不穏 な事件が多く、一番悪い時代でした。夢を抱く人は皆、チャンスがあれば米国へ行きたいと考えたと思いますよ。一人残される母が賛成してくれたことにも感謝 しています。』

 ■日本の戦後と日本聖公会

 この発言に出てくる「国分寺の別邸」とは現在の「殿ヶ谷戸庭園」であり、「岩崎邸の母屋」とは東京都台東区池之端にある「旧岩崎邸庭園」で知られる岩崎家本邸のことを指している。

 三菱財閥の第3代当主、岩崎久弥(1865-1955)の私邸であった「旧岩崎邸庭園」は2001年から一般公開されており、英国人建築家ジョサイア・ コンドルが設計した洋館と撞球室、大河喜十郎が手掛けたと伝えられている和館の一部を見学することができる。

 この旧岩崎邸庭園は、戦後、GHQに接収され、主に岩崎家のゲストハウスとして使われていた洋館は、GHQ参謀2部(G2)の秘密工作機関である合同特 殊工作委員会(JSOB)の傘下にあったキャノン機関の活動拠点として「本郷ハウス」と呼ばれていた時期がある。このキャノン機関はプロレタリア作家の鹿 地亘をソ連のスパイとして監禁したことがあるが、その監禁場所は洋館の二階の部屋だったとする説と地下室だったとする説がある。

 そして、槙原稔の発言にあるように聖公会もここを使用していたことは間違いないようだ。「旧岩崎邸庭園」側の話として聖公会は和館に入っていたとの情報 があった。このことに触れた文献が極めて少ない中で槙原の発言はそれを裏付けるものとなっている

 国際文化会館も岩崎弥太郎邸跡地に建てられている。そして、現在の国際文化会館の理事長は親子二代にわたって三菱グループに関わってきた高垣佑である。 そして、つい最近まで世界的なビッグ・リンカーであり、今なお三菱グループ内のビッグ・リンカーを務める槙原稔は聖公会司教との出会いが人生を変え、宿屋 の元祖オヤジである松本重治は日本聖公会の東京聖三一教会で人生を終えた。

 世界を見渡せば、イラク戦争でブッシュ大統領と行動を共にした英ブレア首相は日本聖公会が属する英国国教会の信者で、シェリー夫人は敬虔なカトリック教 徒である。そもそも16世紀に英国国教会が独立したのは、当時のローマ法王クレメンス7世がヘンリー8世の離婚を認めなかったのがきっかけである。これま でに何度も歴史的な和解が試されてきたが、イラク戦争はまたしても両教会を遠ざけたようだ。この背景にはカトリックと英国国教会の信徒達を中心に再建され たフリーメーソンとの永く続く対立の歴史も存在しているのかもしれない。あるいは神から遣わされたピューリタンの戦士、オリヴァ・クロムウェルの魂が今な お生きているのだろうか。

 槙原が通ったのがセントポール高校、日本にもセントポールズ・ユニバーシティが存在する。それは立教大学である。日本聖公会は立教大学、 立教女学院、 桃山学院、 神戸松蔭女子学院大学、 プール学院や聖路加病院などの教育・医療・福祉事業を手掛けてきた。この日本聖公会の基礎を築いて「中興の祖師」と呼ばれた八代斌助は、「世界のヤシロ」 として知られ、エキュメニカル運動に貢献した。

 終戦直後、昭和天皇をお守りするかのように第一世代と第二世代のキリスト教人脈が集い、後にその多くが国際文化会館の設立に関わっている。彼らが最初に 向き合うことになる人物がサングラスにコーンパイプをくわえて厚木飛行場に降り立つ。その最初の人物とは、聖公会信徒であり、フリーメーソンの熱心なメン バーとして知られ、権力を生かして戦後の日本聖公会の発展に貢献した、ダグラス・マッカーサー元帥である。

□引用・参考

・国際文化会館の建て替え関連記事

国際文化会館「保存を」 日本建築学会などが要望書
2004年6月29日付朝日新聞朝刊

「国際文化会館」建て替えへ
 名建築、苦渋の土地切り売り/東京・港区
2004年6月23日付読売新聞朝刊

・森ビル社長森泰吉郎氏(11)経済史論専攻(私の履歴書)
1991年11月12日付日本経済新聞朝刊

・槙原稔・三菱商事会長 内からの国際化
1999年1月9日付け朝日新聞夕刊


・キャノン機関並びに鹿地亘の監禁場所=洋館の二階部屋説は下記参照

この本の冒頭にはマッカーサー・フリーメーソン説も書かれている。
秘密のファイル 上・下 春名幹男 (著) 共同通信社

・鹿地亘の監禁場所=洋館の地下部屋説については下記参照

『小社会』

2004年5月22日付高知新聞朝刊
・マッカーサー元帥が聖公会信徒だったことについては下記参照

よくわかる聖公会(1)
1996年11月1日付産経新聞夕刊

ひと95 永田秀郎さん
1995年2月22日北海道新聞朝刊

 園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp
2004年07月13日(火)萬晩報主宰 伴 武澄

 参院選が11日終わった。高知新聞は12日付朝刊の社説で「真の勝者は見えない」と書いた。多くの新聞は自民党の「敗北」「苦戦」などを一面の見出しに 取ったが、失った議席はたった「1」。公明党は1議席増やしたから与党全体としての議席の増減はゼロ。しかも参院全体の定員が5人減っているから与党の比 率は高まっているのだ。単独過半数を取れなかったことは確かだが、安倍幹事長のいう通り数議席程度の減少では「敗北」と呼べないと思う。

 目標の51議席に届かなかったことから小泉首相の責任を問う声が出てきたとの論評もあったが、これも論外。これもたった1議席届かなかっただけで責任も なにもないだろう。ニュースキャスターや記者どものワンパターンの報道ぶりにはいささかへきへきさせられるものがあった。

 にもかかわらず、与党の"後退"を印象づけたのは民主党が大きく議席数を伸ばしたからだ。今回の参院選で民主党は議席を12増やし、新勢力は改選前の70議席から82議席となった。

 確かに民主党は一定の風を受けたといえようが、野党全体を眺めてみると、11議席を失った共産党の議席がそのまま民主に移っただけといえなくもない。民 主党を中心とした野党が参院の過半数を占めたのならば「躍進」と威勢のいい見出しをとってもいいだろうが、これでは何も変わらないと言わざるを得ない。

 高知新聞の論説委員は今回の選挙に実に冷静な分析をしているということになる。

 ■おちゃらけ小泉人気の退潮

 そうした与野党の勢力分野の分析とは別に今回の参院選が国民に印象づけたのは小泉人気の退潮と岡田民主の台頭ではなかろうかと思う。

 小泉首相の人気は簡単に言えば党内の抵抗勢力に支えられていた。旧来の自民党政治を敵に回すことによって自らの"正義"を浮き立たせる手法だった。「自 民党をぶっ壊す」発言が象徴していたように国民の多くは政官財の鉄のトライアングルに立ち向かう政治家を欲していたのだ。

 就任直後のそういう小泉首相は確かに格好良かった。日本をこれ以上の借金漬けにしてはならないと景気に対しては国民に「我慢」を強いる一方で、高速道路 公団と郵政の民営化を掲げ本格的な構造改革路線を打ち出した。外交面では北朝鮮との国交回復を目指して自ら平壌に乗り込んで金正日総書記とのトップ会談を 敢行した。

 内なる抵抗勢力を敵に回しながら、外に向かっては自主外交を打ち出したのだから内外の注目度は突出した。その勢いがなくなり、改革の方向性を修正せざる をえなくなった分水嶺はどこにあったのか。筆者は2002年9月17日だったと考えている。金正日総書記とのトップ会談で「東アジアの安定」に独断で乗り 出すことで、アメリカの虎の尾を踏んでしまった。表面化はしなかったものの、小泉首相はブッシュ政権から強烈なアッパーカットを食らったはずだ。小泉首相 は外交政策を180度転換させ、対米追従はその時まさに始まる。

 アメリカのアッパーカットにより、体力を失い、思考回路を断たれた小泉首相が陥ったのが悪評高い「丸投げ」という陥穽である。役人にとって政治家の丸投げほどありがたいものはない。

 最悪の結果をもたらしたのは「年金改革」である。本来5年に一度義務付けられている年金の見直し作業でしかないものが、いつの間にか「改革」となり、負 担増と給付減が参院選の命取りとなった。今の日本の金利、経済成長率を前提にすればどんな国の年金制度だって成り立たない。年金以前にそもそもこの国の財 政が成り立たなっていないのだ。

 小泉首相は政策の丸投げを繰り返すによって役人の、特に財務省の思い描く政策地図に次第次第に乗せられていたのである。構造改革を推進していると思って いた小泉首相は、いつの間にか官僚版のウインドウズにフォーマットされていたということなのかもしれない。

 そんな小泉首相が到達した境地が「人生いろいろ」なのだとしたら分かりやすい。

 ■存在感増す融通の利かない岡田代表

 一方の岡田代表は鳩山由紀夫と菅直人という民主党生みの親の時代が過ぎて生まれた次世代の代表である。年金未加入騒動のおかげで棚ぼたの格好で党首の座 についた。いつも民主党のトップの陰に隠れた暗く引っ込み思案な存在だったが、いやはや地位は人間をつくるというか今回の参院選での各地での遊説ぶりはな かなか堂に入っていた。存在感を増したというのが大方の印象だ。

 小泉首相と好対照の真面目な人柄が逆に国民に受け入れられたのだと思う。生まれ、学歴、財力など考えてみれば岡田氏ほど恵まれた経歴を持っている政治家 はいない。父親はイオングループ総帥の岡田卓也氏。東大法学部を卒業後、通産省を経て衆院議員となった。典型的なエスタブリッシュメントの一人である。

 それでもってごう慢さが見られない。裁判官出身で堅物で通っていた江田五月が自分のことを棚に上げて「これまでの政治家とかなり違って、融通無碍にとか いうのが全然ない」と表している。「人生いろいろ」とちゃかす小泉首相の対抗軸として、「融通がきかない」岡田代表こそが国民受けするキャラクターなのか もしれない。トップになったとたんマイナスだった性格がとたんに輝き出すということはよくあることだ。

 付け加えれば、三重県選挙でいえば、日本最大の流通業となったイオングループは政治で初めてといっていいぐらいの存在感を示した。

 故竹下登氏が生前言っていたそうだ。「選挙で資金協力を断った新人候補者は後にも先にも岡田だけだ」。金の心配がない政治家ほど怖いものはない。今回の参院選での最大の収穫は民主党代表としての岡田克也氏の台頭かもしれない。

 おもしろくないと宣言した参院選だったが、真の勝者は岡田代表だったのかもしれない。

参院の新勢力分野
党派名 新勢力 選挙区 比例区 非改選 選挙前
自民党 115 34 15 66 116
民主党 82 31 19 32 70
公明党 24 3 8 13 23
共産党 9 0 4 5 20
社民党 5 0 2 3 5
諸 派 0 0 0 0 1
無所属 7 5 - 2 6
合 計 242 73 48 121 247

2004年07月05日(月)萬晩報通信員 園田 義明

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 ■ロックフェラー家と盛田家

 盛田昭夫は愛知県小鈴谷村の300年も続く造り酒屋の名家盛田家の15代目当主であり、その夫人盛田良子も大手書店「三省堂書店」を経営する亀井豊治の 四女であった。夫婦共にエスタブリッシュメントの血を引くものの、当時世界を代表する財閥であったロックフェラー家やモルガン家とは明らかに格の違いがあ る。それにもかかわらず彼らのサークルに招かれた理由を探って行きながら、日本の現代史におけるキリスト教人脈を明らかにしたい。

 このキリスト教人脈を説き明かす鍵も「盛田・ロックフェラー対談」にあった。読売新聞は1991年12月3日付の「盛田・ロックフェラー対談」を一冊の 本にまとめた「21世紀に向けて」を92年12月に出版している。この中でロックフェラー家と盛田家の出会いを「妻と私は、あなたのご家族とはちょっと変 わったつながりを持っておりまして、妻は(ジョン三世夫人の)ブランチェット・ロックフェラーさんとは非常に親しくさせていただいています。」と発言して いる。実際デビッド・ロックフェラーの日本初訪問は62年であり、それまではデビッドの実兄であるジョン・D・ロックフェラー三世とその妻ブランチェッ ト・フェリー・フッカー・ロックフェラーが日本と米国とのパイプ役を務めていた。

 このジョン・D・ロックフェラー三世(1906?1978)に関わる日本人を丹念に調べていくと戦前・戦後のキリスト教人脈がはっきりと浮かび上がる。 彼らは英語力を武器に戦後日本企業史に名を残すソニーの原点はおろか、そのネットワークが保守本流、財界、そして天皇家まで及んでいることがわかる。

 ■「第二世代キリスト教人脈」と吉田茂

 ここで簡単に整理してみたい。昭和後期から現在に至る山本正、緒方貞子、小林陽太郎らの国際派カトリック人脈を中心とするキリスト教人脈を「第三世代キ リスト教人脈」と位置付けることにしよう。第三世代はデビッド・ロックフェラー主導のもとで1972年の設立準備会を経て翌73年に設立されたトライラテ ラル・コミッションの現在の中核を担うメンバーである。そしてこのトライラテラル・コミッションのメンバーの多くが世界的なビッグ・リンカーとなってお り、小林に代表される世界規模の日本人ビッグ・リンカーを生み出した。

 「第二世代キリスト教人脈」を戦後の昭和期に活躍した人物と位置付け、前回取り上げた石坂泰三(元東京芝浦電機会長)、そして戦後を支えた名宰相の誉れ高い吉田茂(1878?1967)もここに含まれることになる。

 「陰の総理」と言われたと石坂はすでに触れたとおり、石坂本人もキリスト教への関心が深く、戦死した次男泰介はカトリック信者だった。泰介との天国での 再会を願った石坂の妻雪子もカトリックを信じ、「マリア」の洗礼名を授かっていた。「雪子のところへ行きたい」と本音を語った石坂の晩年にはカトリックの 洗礼名「ペドロ」が用意されていた。

 吉田茂の妻は大久保利通の二男で文相、外相などを歴任した牧野伸顕の長女雪子である。従って石坂の妻と同じ名前であった。石坂同様、雪子の影響でカト リックに興味を持った吉田も最後の病床でカトリックに帰依して、自分を「天国泥棒」だというジョークを吐いてこの世を去っている。吉田の葬儀は故人の信仰 に従ったカトリック教会(文京区関口の東京カテドラル聖マリア大聖堂)での葬儀と東京・日本武道館で行われた戦後初の国葬とに分けられた。この吉田のカト リックへの改宗はその子供達によって政界と天皇家に拡がりながら、第三世代へと引き継がれることになる。

 吉田の三女和子は麻生セメント社長や自民党代議士を務めた麻生太賀吉と結婚している。その長男が現在の総務大臣、麻生太郎である。つまり麻生太郎は吉田 茂の孫にあたる。拙著「最新・アメリカの政治地図」(講談社新書)でも書いたとおり、麻生太郎もカトリックである。96年3月15日に和子は亡くなってい るが、ミサ・告別式は父吉田茂と同じ東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた。麻生太郎の妹である信子(三女)は三笠宮寛仁親王殿下と結婚されており、三 笠宮寛仁親王妃殿下(信子さま)もカトリックではないかと思われる。

 この麻生太郎は米国の昨今のイラク戦争におけるキリスト教右派やネオコンまではいかないまでも、理想主義からくる暴走傾向が見られる。これもキリスト教人脈の特徴として認識しておく必要があるだろう。

 吉田茂や石坂泰三の周辺で第三世代の山本正と同じようにフィクサー的な存在として日米における民間レベルのパイプ役を担った人物がいる。山本正の先輩格にあたるこの松本重治(1899?1989)について詳しく見ていきたい。

 ■松本重治の橋渡し人生

 松本重治は太平洋戦争を阻止できなかった反省から、「宿屋(国際文化会館)のオヤジ」を自認し、民間レベルでの日米の懸け橋となってきた。「国際日本の 将来を考えて」(朝日新聞社)では松本を「明治の気質」と「平和憲法の精神」とを兼ね備えた無形文化財と評し、松本を形作るイメージとして、進取の気性、 不屈の闘志、教育重視、博愛主義、愛国心、人生意気に感ずる男気、民主主義、自由主義、平和主義、性善説、国際協調、文化国家などをあげている。実際には 「現実をふまえて物言うキリスト教的理想主義者」あるいは、「戦後リベラリスト本流」などが似合っているかもしれない。

 松本重治は1899年に松本松蔵の長男として大阪に生まれる。明治時代に銀行、現在の南海電鉄などを興した関西財界の松本重太郎の孫にあたる。妻花子は 明治の元勲、松方正義公の孫で、松方コレクションで有名な松方幸次郎の娘である。松本はエドウィン・ライシャワー元駐日大使とも家族ぐるみでつきあってい たが、ライシャワーの妻松方ハルは松本のいとこにあたる。

 松本は東京帝大法学部卒業後、米エール大学をはじめとする欧米の大学に留学し、帰国後は東大の高木八尺教授(米国憲法)の助手に就任する。1925年に 太平洋会議などの国際会議の裏方を務めたあと、32年に同盟通信社の前身である新聞連合社の上海支局長となり、中国人要人、「中国の赤い星」の著者エド ガー・スノーらと交遊を深めた。この時には日本軍に父張作霖を爆殺された張学良が蒋介石を監禁し、国共合作の契機となった西安事件を36年にスクープして いる。39年に帰国し、終戦まで同盟通信社編集局長や同社常務理事を務め、戦後は公職追放処分となった。

 その後、松本は「宿屋(文化会館)のオヤジ」の拠点となる財団法人「国際文化会館」を設立し、ソ連封じ込めのジョージ・ケナン、インドのネール元首相、歴史学者アーノルド・トインビー、キッシンジャー元米国務長官らを招き、文化交流に努めた。 

 この松本が亡くなったのは1989年1月10日である。その二日後の1月12日、東京都世田谷区にある日本聖公会の東京聖三一教会で松本の密葬が行われ ている。東京聖三一教会が属する聖公会はローマ・カトリックとプロテスタントの中間に位置し、両者の橋渡しの教会(ブリッジ・チャーチ)と呼ばれている。 聖公会は松本の人生そのものを映し出していた。

 ■アメリカン・アセンブリーでの命がけのスピーチ

 松本の密葬に集まった約350名の中には中山泰平(日本興業銀行特別顧問、以下当時)、柏木雄介(東京銀行会長)や池田芳蔵(NHK会長)などととも に、わざわざ米国から駆けつけたジョン・D・ロックフェラー四世(ジェイ・ロックフェラー)の姿もあった。

 現在、ジェイはウエストバージニア州選出の大物上院議員(民主党)として、イラク戦争の大義、そしてイラク人虐待問題をめぐってブッシュ政権を激しく追 求している。ジェイは知日派として知られており、ハーバード大学卒業後の57年から60年の3年間を東京三鷹にある国際基督教大学に留学している。また、 強い要請によってトヨタのウエストバージニア工場(TMMWV)の誘致を実現させたことでも知られている。

 ジェイの国際基督教大学の留学に際し、保証人になったのが松本であった。そして、ジェイの父、ジョン・D・ロックフェラー三世と松本重治とは誰もが認める親友同士であった。

 ここで現在につながる松本のエピソードを紹介しておきたい。松本は当初からベトナム戦争に反対し、米国外交最大の失敗と語っている。そして、外務省の参 与でありながらも周囲の反対を押し切り、「中央公論」や「ニューヨーク・タイムズ」に米国批判の記事も掲載している。一部から反米家とのレッテルを貼られ ながらも、米国を愛すればこそ勇気を持って発言したのである。

 松本は当時のことを振り返って、健康上の問題と国際文化会館がつぶされる心配から、まさに命がけだったと告白している。そして北爆が始まった1965年 に命をかけて米国に乗り込み、スタンフォード、バークレー、ハーバード、プリンストンなどの大学を回って、米国批判の講演を行った。中でも1965年10 月にアーデン・ハウスで開かれた第二十八回アメリカン・アセンブリーに招かれて講演したことは日米関係史に残る出来事だったかもしれない。この時の概括的 テーマは「日米関係」であった。

 アメリカン・アセンブリーはコロンビア大学の付属独立機関として1950年に後に大統領となるアイゼンハワーらによって設立されている。会合場所となる アーデン・ハウスはニューヨーク市北方の広大な丘陵地の山の上にあり、もともとは鉄道王W・アヴレル・ハリマンの別荘であった。ハリマンはこの別荘をコロ ンビア大学に寄付し、現在は80人程度が宿泊できるように増築されている。会議は年に一度もしくは二度開催され、米国の公共問題について大物知識人が数日 間缶詰となりながら討論を行い、時には米大統領への提言としてまとめられる。最近では対中国政策などが盛んに話し合われているが、現在のアメリカン・アセ ンブリーの理事長はリチャード・W・フィッシャーが務め、理事会にはポール・ボルカーの名前もある。リチャード・W・フィッシャーはキッシンジャー元国務 長官とクリントン時代の大統領首席補佐官を務めたマック・マクラーティが1999年に共同設立したキッシンジャー・マクラーティ・アソシエイツの副会長で あり、トライラテラル・コミッションのメンバーでもある。

 このアメリカン・アセンブリーに乗り込んだ松本は国務省高官、言論界の代表、大物財界人を前に「日米関係が過去数ヶ月の間のような緊張状態にあるのは戦後初めてのことだ」と指摘し、次のような直言を行っている。

一、戦後の日本国民のなかには、アメリカ人の想像する以上に、反戦感情が根強く心の底にしみこんでいる。なぜ半数以上の日本人がベトナム戦争に批判的かを 知るには、この戦争反対の感情を理解する必要がある。(中略)もしアメリカ政府が、日本の保守党政府が世論を無視して望むがままのことをなし得ると考える なら、それは重大な誤りである。ベトナム戦争がこのような状態で長引けば、日米関係は深刻な危機に直面するだろう。

一、ベトナム戦争は、結局中国問題の一部である。アメリカと中国との間にある日本は対中関係の好転を・・・それをむずかしいものと知りながら、期待せざる を得ない。日本はアメリカとの友好を望むとともに、隣国である中国との正常な関わりを望んでいる。

一、私は自由主義者であり、日本の共産化には強く反対するものであるが、日本の民主主義国家としての発展、アメリカとの友好関係の永続のため、アメリカと 中国との激突を恐れる。私はアメリカ国民が中国問題について反省し、考え直されることを切望する。ベトナム戦争のために日米の友好が失われてはならない。

(以上、「国際日本の将来を考えて」(朝日新聞社)P72、73より)

 ベトナム戦争をイラク戦争に置き換えれば松本の想いは現在に蘇ることになる。

 アメリカン・アセンブリーの影響力については、この時にキー・スピーチを行った人物からも理解できる。初日のスピーカーは後にシティー・バンクの会長と なるウォルター・リストン、最終日三日目はCIAから当時国務省極東担当次官補(ジョンソン政権)となっていたウィリアム・バンディである。ウィリアム・ バンディはケネディ、ジョンソン両元大統領の国家安全保障問題担当補佐官を務めたマクジョージ・バンディの実兄であり、後にフォーリン・アフェアーズ誌の 編集長になっている。そして松本のスピーチは二日目に行われた。

 なおこの第二十八回アメリカン・アセンブリーで日米関係が初めて取り上げられたことが、二年後の下田会議開催のきっかけをつくったのである。下田会議は アメリカン・アセンブリーのフォローアップという位置付けだった。下田会議が山本正の率いる日本国際交流センターとアメリカン・アセンブリーの共催となっ ていたのもこのためである。

 従って、山本正は松本なくして存在しなかったといっても過言ではないだろう。松本は命をかけて米国に向かった。はたして山本正はイラク戦争に関して行動を起こしたのだろうか。

 アメリカン・アセンブリーに挑む松本に対して保守派として知られたロックフェラー三世(アメリカン・アセンブリーには風邪のために欠席できなかった)は 「君の考えはだいたいつねづね承知している。君の考えどおりに素直にやってください。日米関係のためになると信じているからね」と激励している。

 はたして現在の日本政府関係者や「第三世代キリスト教人脈」、そして「小泉純一郎首相を囲む会」の中に米国の有力者との深い友情に支えられて、時には批判であっても発言が許される人物はいるのだろうか。

 軽々しい親米・反米論争や親中・反中論争が飛び交う今、我々は先人達の生き様を学ぶ必要があるのではないだろうか。

□引用・参考

21世紀に向けて D・ロックフェラー、盛田 昭夫、読売新聞社編
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4643921188/qid
=1088221488/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/249-0496222-6057134


国際日本の将来を考えて 松本 重治 (著) 朝日新聞社
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4022558156/qid
=1088824742/sr=1-1/ref=sr_1_8_1/249-0496222-6057134


国際関係の中の日米関係?松本重治時論集 松本重治 (著) 中央公論社
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4120021300/qid
=1088824742/sr=1-2/ref=sr_1_8_2/249-0496222-6057134


昭和史への一証言 松本 重治 (著) 毎日新聞社
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4620305286/qid
=1088824742/sr=1-6/ref=sr_1_8_6/249-0496222-6057134


アメリカン・アセンブリー
http://www.columbia.edu/cu/amassembly/

 園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp
2004年07月01日(木)萬晩報通信員 成田 好三

 地方でイベント業をしている知人がこんなことを言っていた。
「芸能人は2種類いる。テレビに出る芸能人とテレビに出ない芸能人だ。芸の質やレベルは関係ない。テレビに出る芸能人をイベントに呼べば客が集まる。テレ ビに出ない芸能人を呼んでも客は来ない。だから、イベントにはテレビに出る、しかもギャラの安い芸能人を呼ぶ。地方じゃそんなに金はかけられないからね」

 いまの日本は、テレビ全盛の時代、いやテレビ万能の時代である。社会事象も、テレビに映るか映らないかによって分別される。極端に言えば、テレビに映らない事象は社会的に無視された存在になる。

 スポーツも例外ではない。前述した知人の言う芸能人のように、スポーツも2つに分別される。テレビで中継(とくに生中継)されるスポーツと、そうではないスポーツに、である。テレビで中継されるスポーツはメジャーであり、そうでないスポーツはマイナー扱いされる。

マイナースポーツは、五輪でメダル獲得の可能性がある場合にだけテレビ中継される。つまり、テレビに映るときだけメジャーに昇格する。女子ソフトボールや女子レスリングがその典型的例である。それが、良し悪しはともかく、現在のスポーツが置かれている状況である。

 プロ野球も同様に分別されている。全国ネットで生中継されるセ・リーグと、生中継されてもせいぜいローカル圏域でしか放送されないパ・リーグとに、であ る。セ・リーグの試合が全国ネットで生中継されるといっても、それは読売巨人軍との試合だけである。セ・リーグの各球団は、読売巨人軍との試合だけは、球 場が満員になり、巨額な放映権料が入る。球団の知名度が全国規模に拡大することにより、関連グッズなどの収入も大きくなる。

 セ・リーグが、パ・リーグが求め、多くの野球ファンが熱望するインターリーグ(公式戦でのリーグ間の交流試合)を拒否してきたのは、読売巨人軍との試合 で得られる利益をセ・リーグで独占するためである。パ・リーグは、セ・リーグ球団が享受する圧倒的な『読売巨人軍効果』を、ただ指をくわえて眺めるしかな い。セ・リーグとパ・リーグの球団に大きな収入差があるのは、当然の結果である。

 現在の球団数を2つ減らして10球団による1リーグ制にすればどうなるか。読売巨人軍中心の『一極集中』がさらに加速する。セ・パ2リーグ制では、巨人 軍と対戦することで得られる利益をセ・リーグの5球団で分配してきた。1リーグ制になれば、この利益を全球団が等しく分配することになる。しかし、そうな れば、読売巨人軍の球界への支配力は倍加する。読売巨人軍の直接的支配力が、全球団に及ぶことになる。

 読売巨人軍に有力選手が集中する要因になったFA制度も、ドラフト制度の改悪(ドラフト制度の本来の趣旨であるウエーバー方式からかけ離れた逆指名、自 由獲得枠)も、読売巨人軍主導で進められてきた。読売巨人軍の直接的な支配力がセ・リーグだけに限定されていても、これだけの力があった。それが、1リー グ制で全球団に及べば、どれだけの支配力を行使できるか、論証するまでもないことである。

 1リーグ制は避けられないとしても、読売巨人軍の圧倒的支配力を封じるためにはどうすればいいか。それには、プロ野球の制度、組織を抜本的に見直すしか ない。親会社の『道具』でしかなかった目的と経営形態を改める必要がある。リーグと球団とを自立した経営体にしなければならない。そのためには、プロ野球 機構を、個別の球団や親会社のためではなくプロ野球全体の発展を目的とした組織に、野球協約をそのための条文に改めなければならない。

 野球協約を改正して、コミッショナーの権限を強化し、テレビ放映権の一括管理や球団ごとに選手の年棒総額を制限するサラリーキャップ制の創設、FA制 度・ドラフト制度の改正、選手保有制度の改正(移籍の自由化)を行うことは、当然である。プロ野球は、球団を保有する親会社の利益のために運営されるので はなく、プロ野球自体の利益のために運営されなければならない。それを前提に、各球団が利益を生み出し、自立した、持続可能な経営形態に変えなければなら ない。

 そして、もうひとつ重要なのは東アジアの野球界との連携である。韓国リーグ、台湾リーグ、そして勃興したばかりの中国リーグとの連携である。プロ野球界 が球界再編で揺れるさ中、MLB(メジャーリーグベースボール機構)が来年春の野球のW杯開催を提案した。プロ野球界は消極的な対応だとメディアは伝えて いる。「消極的」ではなく、「それどころではない」が本音だろう。しかし、東アジアとの連携によって日本野球の市場と経営規模を拡大し、東アジアの野球と 一体的に動くことなしには、MLBの攻勢には対応できない。

 最後に、プロ野球再編は、優れて経済問題であることを指摘したい。近鉄とオリックスとの合併問題は、関西経済界の雄であった近鉄本体の再建策の一部であ る。そして、今後必ず浮上するダイエーの合併問題は、ダイエー本体の再建のためには避けては通れない課題である。巨額な有利子債務を抱え、公的資金を投入 された大手銀行に債務免除を含めた支援策を求めているダイエー本体が、球団を保有していること自体が異常なことである。間接的ではあるが、国民の税金が球 団経営に使われることになるからである。

 近鉄がオリックスとの合併構想を発表した翌日である6月14日、日本経団連の奥田碩会長が記者会見で、「1リーグ制で球団の数を減らすのが一番合理的」 「12球団は多い。8球団程度なら内容もしっかりして観客の入りもよく、変化も出て面白いのではないか」と語ったことは、偶然ではない。8球団による1 リーグ制は、プロ野球再編を進める渡辺恒雄・読売巨人軍オーナーが、前々から主張していたことである。奥田氏は、プロ野球再編にエールを送る一方で、再編 を機会に日本経済界の『患部』を手術すべきであると語ったのである。(2004年6月29日記)

 成田さんにメールは mailto:narita@mito.ne.jp
 スポーツコラム・オフサイド http://www.mito.ne.jp/~narita/

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