2004年5月アーカイブ

2004年05月22日(土)萬晩報通信員  成田 好三

 自らの年金未納が確認されたとして、民主党の小沢一郎氏が代表就任を直前になって辞退した5月17日の夜、帰宅後につけたNHKのニュース解説「あすを読む」で、解説員の神志名泰裕氏が、国会議員の年金未納問題と政局に関する話をしていた。

 神志名氏、いやほとんどすべてのNHK解説員の、経過説明だけは明確だが、主張と結論のはっきりしない解説は、好きではない。それでも、代表就任直前での小沢氏辞退のニュースを聞いた後だけに、しばらく神志名氏の解説に付き合った。

 小沢氏辞退を受けて急遽原稿を差し替えたこの夜の解説も、何一つとして主張もなく、結論もない、ありきたりのもので、聞くだけ時間の無駄と言っていい類 のものだった。しかし、神志名氏が10分程度の番組の中で、何度も繰り返した、ある言葉にひっかかった。「私たち国民の立場では―」「私たち国民の側から 見れば―」という言葉である。

 この言葉は、神志名氏や他のNHK解説員ばかりではなく、民放キー局のキャスターが愛用する常套句である。彼らは、「私たち国民の立場ー」を前提にして閣僚や国会議員、民間(企業)の権力者に質問する。

テレビ朝日「サンデープロジェクト」の田原総一郎氏の場合は、質問ではなく攻め立てると言っていいだろう。TBS「ニュース23」の筑紫哲也氏ならば、少 し斜に構えたもの言いで、この言葉を使う。テレビ朝日「ニュース・ステーション」を降りた久米宏氏は、皮肉と嫌味をこの言葉の裏に塗りつけて質問を投げか けていた。

 NHKの解説員や、民放キー局のニュース番組(あるいはニュースショウー)を采配する著名なキャスターたちは、「私たち国民の国民の側から―」と言える立場だろうか。

 閣僚や国会議員である権力者、民間の権力者も国民であるから、彼らが言う「国民」には、一般国民、庶民、市井の人の意味が込められている。しかし、TVのニュースキャスターは一般国民であるだろうか。断じて「否」である。

 彼らは、ニュースの取捨選択権をもっている。彼らが選んだニュースの切り口、扱い方を選択する権利ももっている。彼らの情報量は圧倒的である。彼らの情 報源へのアクセス権は、彼らが自らを形容する「私たち国民―」とは、まったく違ったものである。彼らが番組中に語る短いコメントは、いや言葉以外の表情や しぐさでさえ、世論形成に大きな影響を与える。

 閣僚や国会議員の年金未納を攻め立てた、田原氏や筑紫氏ら多くの民放キー局のキャスターたちも未納経験者だった。しかし、彼らが未納経験者だったこと は、大きな問題ではない。問題にするならば、相手を攻め立てる前に、自らの年金問題を確認しなかった、彼らのお粗末さである。彼らは、菅氏と同様の過ちを 犯したにすぎない。

 それにしても、菅氏の対応は政治家としてお粗末だった。相手を挑発する刺激的発言・質問で「喧嘩屋」として名をはせた菅氏は、小さな喧嘩には強いが、大きな喧嘩にはからきし弱い男であった。あるいは、政局観も大局観をもたない男であった。

 年金法改正案成立の見通しが立つまで自らの未納問題を隠し(嘘をついて)、その責任を取るとして官房長官を辞任した福田康夫氏や、未納(未加入)問題の 発表を秘書にやらせ、しかも発表日を北朝鮮訪問の発表と、小沢氏の党首就任受諾(翌日に辞退)にぶつけた小泉純一郎首相のやり方は、姑息そのものである。

 しかし、政治家の喧嘩、つまり勝負のやり方としては、小泉首相、福田氏と、菅氏では、大人と子どもほどの違いがある。大型連休後の週末、代表辞任論の嵐 の中で外遊日程を切り上げて帰国した菅氏は、民放各局を行脚して弁明を繰り返した。しかし、この行為は逆効果になった。各局のキャスターやアナウンサー は、菅氏から「辞任」の言質を取ろうと、てぐすねひいて待ち構えていたからである。菅氏から言質を取れば、そのTV局、その番組の「特ダネ」になるからで ある。

 メディアは、ある意味で「浮き草」のような存在である。そのことを菅氏は認識できなかった。メディアはその時々の風向きで、その「ベクトル」をいくらでも変えることができる存在である。

 大きな問題は、ニュースキャスターたちが、ほとんど無意識に使う、「私たち国民の立場から―」という言葉である。彼らは本来、こう言うべきである。「世 論調査やアンケートなど、ある一定のデータに基づいた国民の意向によれば―」。あるいは、「メディア側の『権力者』である私(キャスター)から見れば―」 と前置きして質問すべきである。

 TVを見る大多数の視聴者、つまり一般国民は、キャスターを自分たちと同じ立場にいる人たちと認識しているはずはない。逆に、そう認識しているとすれば、この国の社会が異常なのである。

 TVのニュースキャスターたちは、一般国民の代表者でも代弁者でもない。キャスターたちは、彼らがもつ情報量や情報の質、専門性、見識を前提にして権力 者と対峙すべきである。キャスターたちが一般国民の中に身を隠してしまうことは、卑怯な行為である。社会にとっては危険な行為ですらある。彼らがそうした 行為を続けていけば、権力者同士の「言葉遊び」を、本物の一般国民は、冷ややかに見るだけになる。(2004年5月21日記)

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2004年05月21日(金)ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口 坦

 5月18日付けの南ドイツ新聞に「右翼的思考の人質」というのタイトルの力作が掲載されていた。この記事はイラクで人質になった人々に対する日本国民の バッシングがテーマである。この事件も、ヘンリク・ボルク記者の眼には、他の事件、例えば学校で国歌や国旗が義務づけられるようになった現象とともに、日 本社会が右旋回して「右翼的思考の人質」になる日本人がふえつつある兆候になる。

 日本でバッシングの話題が下火になってからも、この記事だけでなく東京発のジャーナリストの力の入ったルポや記事が放送されたり掲載されたした。そのよ うな事情からバッシング事件について周囲のドイツ人と話したり、前回私が書いた「人質バッシング」で多数の人々からいただいたメールを読んだりしているう ちにいろいろなことを考えさせられた。今からその一部を記す。

 ■二つの国策

 自衛隊派遣は国会を多数決で通過した特措法によって決まった「国策」であり、人命尊重のためにこの「国策」を変えることなどできないと、メールの中で書 かれた読者が多数いらっしゃった。こう考えるのは、おそらく頭の中に天秤のようなものがあって、その一方のお皿に「国策」が、他方のお皿に三人の日本人の 「人命」が乗っかっているのではないのだろうか。

 「強い国家」を感じたい人には、この竿の「国策」のお皿のほうが下がり「国策の変更などもってのほか」ということになる。反対に「平和主義者」とか「左 翼」とかあるいは「市民主義者」とか呼ばれる人々にとって、天秤の竿は「人命」のお皿のほうでぐらりと下がる。下がり方とてつもなくエスカレートすると 「人命は地球より重い」というセリフになる。

 ということは、日本でもう半世紀以上も前から対立している二つの立場に共通点があり、それは、どちらも、天秤の一方のお皿に「国策」を、他方のお皿に 「人命」を置くイメージで問題を見る点にある。(またこれは日本でよく見られる「公vs私」の議論の図式に通じる。どんな意見も、どうしてもこの図式で押 し込まれてしまい、またそうしないと多くの人々は理解した気にならない。)

 でも私は昔からこのイメージで事態を見ることがおかしいと思っている。なぜかというと、自国民の人命尊重も国家の基本的政策でりっぱな「国策」だからで ある。自衛隊イラク派兵と異なり、人命尊重のために特措法は制定されなかった。そうであるのはその必要がないからで、憲法第13条の中に「生命、、、、に 対する国民の権利については、、、、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とあるからだ。

 日本では憲法が嫌いな人がたくさんいるのでいうと、人命の尊重は、憲法に書いてあろうがなかろうが、昔から国家の重要な存在理由で、そうでない国家などは取り柄がないことになっている。

 こう考えると、天秤のお皿に乗っかっているのは、「国策」と「人命」ではなく、「イラク復興人道援助」と「危険にさらされている自国民・人質の人命尊重」という二つの「国策」である。

 ■「人命は地球より重い」

 それではなぜ私たちは天秤の一方のお皿に「国策」を、他方のお皿にいわばむきだしになった「人命」を置くのだろうか。これについて考える前に、私たちが 本当にそうしているかどうかを検証する必要がある。もしかしたら私が勝手にそう思っているだけかもしれない。天秤のお皿の上には「人命」でなく「人命尊 重」の国家の政策という意味で「国策」が乗っかっている、私たちは頭の中で省略しているだけだ。そう反論する人が当然出て来る。

 この検証のために、私たちは一度有名な「人命は地球より重い」という文句を頭の中に浮かべてみるべきである。私たちはこのセンテンスを慈悲深さの表現と 感じるの普通である。だからこそ「世の中はそんな甘いものではない」という人が出て来て、それに「慈悲深さがないと争いがいつまでもなくならない」と反論 するのが議論のパターンである。

 これは政治的議論ではないが、議論がこうなるのは、天秤のお皿の上に乗っかっているのが「人命」一般で、「人命尊重」という国家の政策、すなわち「国 策」でないためである。私たちが「人命は地球より重い」が国策だと思っているのなら、この文句が時にはおそろしい意味になることを感じることができるはず である。(その結果、こんなオーバーなことをいえなくなる。)この文句を掲げる国家は自国民の「人命尊重」のために戦争をするばかりでなく、地球の破壊ま で辞さないことにならないか。(事実、昔欧米諸国はこれを口実に植民地戦争をはじめた。)

 日本では普通こう考えない以上、私たちは天秤の一方のお皿に「国策」を、他方のお皿にむきだしの「人命」を置くというイメージで議論していることになる。

 次にもう少しこの天秤を眺めると奇妙なことが気にかかる。それは、お皿に「人命」を置きその尊重を要求する人々が最初から「国家」という城をあけわたし てしまい、まるで国家体制の外にいるかのよにふるまっている点だ。これは1947年以来主権在民の憲法が施行されているので奇妙なことである。

 現実のほうはそんな戦前の日本国家的体制でないのに、議論ののほうは前の時代の図式のままで、このように議論を続ける限り、日本で「平和主義者」とか 「市民主義者」とか呼ばれる人々は、この半世紀の歴史がしめすように、勝ち目がないのではないのだろうか。それどころか、(今回外国人記者が心配した)日 本社会の右旋回を間接的に推進していることになるかもしれない。

 ■日本的道徳観

 人命の保護や安全は昔からある国家の課題である。そのために、どこの国の人でも、国家に国民の人命を尊重する義務のようなものがあり、国民の一人一人に 国家にこの義務の遂行を求める権利らしきものがあると漠然と思っている。今回の多くの日本人は、人質になった三人がこの普通なら認められている権利を自ら の不注意な行動によって失ったと考えたのではないのだろうか。

 例えば、今回多数の日本人は、人質家族に自分の要求をいう前に「ご迷惑をかけた」と謝って欲しいと思ったそうである。日本的道徳観と呼ぶべきものがあ り、それによると謝罪によって一度失われた権利が(少しは)回復すると考えられていることになる。またこの考え方によると権利が失われているのにそれに気 がつかないことは無知で厚かましいことになる。

 日本では説得力を発揮するこの道徳観は欧米人からは理解されにくいかもしれない。というのは、彼らの考えでは、国家に対して人命保護を要求する権利は人権であり、本人が人間であることから発生し有効とされる権利で、本人の行動と無関係と見なされているからである。

 注意深いとか、きちんと自分の「安全管理」をするとかいったことは個人の能力であり、その実行は個人の業績である。今回のバッシングで見られた日本的道徳観とは、このような業績・能力主義を欧米的人権より上位に置く考え方である。

 昔私が日本で暮らしていた頃、国立大学の入学試験はコネもきかず公正なものとされていた。東大に合格しなかった子どもの親が集まって記者会見を開き「教 育の機会均等」を主張し不合格に抗議している場面を想像してほしい。それをテレビで見た人々があきれる。この場面と似たように、今回多数の日本人は人質の 家族に反感を、バッシング側に共感をおぼえたのではないのか。

 このように見ると、今回のバッシングは日本的道徳が(「人権派」が想像する以上に)強いことをしめしても、だからといって大多数の日本人が「右翼的思考 の人質」なったとはいえないことになる。でもすでに述べたように、戦前の日本社会が今でも存在しているかのような議論の図式を今後も続けているとその危険 も無視できないかもしれない。

 美濃口さんにメールは mailto:Tan.Minoguchi@munich.netsurf.de

2004年05月19日(水)信州・佐久病院内科医  いろひらてつろう・色平哲郎

五月の連休に諏訪へ下り、「御柱(おんばしら)祭」を見てきた。

全国に一万社以上あるといわれる諏訪神社の"本家"に当たる「信濃国一之宮」諏訪大社(上社かみしゃ、下社しもしゃ)では、寅(とら)と申(さる)の年に(実質六年に一回)、御柱の祭事がとり行われる。
モミの巨木とともに、氏子たちが山の急斜面を豪壮に駆け下る様を映像で目にされた方は、大勢いるだろう。あの「木落し」のクライマックスが強調されがちだが、祭りは準備から本番まで、実に四年がかりである。

まず、主役の「御神木」を選ぶ「見立て」が行われる。
上社は、長い間、御柱に適したご用材を八ヶ岳・御小屋(おこや)山の大社社有林から選び、伐りだしていたが、御柱にふさわしい巨樹が減り、九八年の祭事から、下社と同じように、下諏訪町・東俣国有林で選定するようになったらしい。
厳密な見立てを経て伐採されたご用材は、棚木場(たなこば)まで運ばれ、いよいよ本番を迎える。「山出し」で御柱は里に下ろされ、大勢の人たちが綱で引い て社殿に運ぶ「里曳き」へと移る。そして御神木として垂直に立てて固定する「建御柱(たておんばしら)」で、祭りに幕が下りる。

今回、目にしたのは下社・秋宮(あきみや)の「里曳き」だった。
長さ一六メートル、直径一メートル以上、重さ一〇トンを超える大木を、コロも使わず(水はかけるが)、数千人の人力だけで曳いていく。
街道を埋め尽くした人々が、長さ三〇〇メートルの綱を曳く。
巨大な綱引きは圧巻だった。これだけの重い塊になると、
全員の力を瞬時に合わせないとビクともしない。
そこで鍵を握るのが「木遣り」の唄だ。
祭りの節目節目には必ずこの木遣りが流れてくる。
「見立て」の際、巨樹が林立する深山に響く木遣りは「幽玄」の一語。
「山出し」のそれは精神を高揚させる。
「里曳き」で木遣りが唄われると、「よしっ、曳くぞ!」と心の準備が整い、
一斉に力を結集できる。労働歌としての木遣りが内包する「力」が、曳き手たちに伝わり、御柱が動いていくのである。唄い手は、木遣りで巨木が動き出す瞬間に、至福を感じることだろう。

ところが、失礼ながら、この木遣りが聴くに堪えないと、いくら「力を出してくれ」と「お願い」されても一向に踏ん張れない。ヘナヘナと力が抜けてしまうのである。
 
この感じ、何かに似ているな、と思った。
「まつりごと」は「政事」に通じる。
そう「年金問題」と政治家たちの下手なウソである。
多くの国民は、年金制度の改革を「本気」で考えている。
このままでは制度が破綻する。
将来にわたって皆が安心して「老後」を過ごせる制度にするにはどうすればいいか。"痛み"を覚悟で抜本的な見直しが必要ではないか、と国民は自らの体にメスを入れるつもりで「議論」をしていた。

にもかかわらず、自身の未納は「ありません」と断言」していた小泉首相まで七年近くの未払い期間がついに発覚。「未加入と未納は違う」と独特の強弁をする始末だ。しかもその事実露呈にタイミングを合わせるかのように、北朝鮮への再訪を発表した。

「年金問題」に真剣に取り組もうとする国民は、政治家たちの振る舞いに、力が抜けるだけでなく、大きな憤りを感じている。曳き手である国民は、一致団結し て巨木を動かすのではなく、下手をすればそれぞれが「綱」を怒りで切りかねない危うさが漂っている。

祭りにおいて木遣りの唄い手は、単なる唄の上手い個人ではなく「公」の責務を負ったパフォーマーとなる。いわば「公人」である。国の「政事」を司る政治家 は、いうまでもないだろう。「公」の場に立つ人たちは、相応の責務を負う。だからこそ、下支えする人々が巨木を動かそうと力を出すのである。

だが、「公」とは名ばかりで、「利益の代表者」たちがテーブルを囲んでいるのが、日本の現状なのかもしれない。テレビ局の友人から、こんなメールが届いた。

「一〇年くらい前のことです。耳鼻科の医師から、自分に合わない補聴器をしている老人が多いと聞きました。それで老人たちは補聴器を遠ざけてしまう。しか し聴こえにくいので、また買い替える。その繰り返し。補聴器をその人が聴こえやすいよう調整すればいいのだが、補聴器を売る側が知らんぷりをしてい る、、、
補聴器の課題を検討する委員会のメンバーに補聴器業界の人が入っていて、この問題が一向に取り上げられない、とその医師は語っていました。
もしも状況が変わっていないとしたら、公益について話し合われる『審議会』などの場がどのように機能しているか、きちんと精査しなければなりませんね」

このメールは「中医協(中央社会保険医療協議会)」について各界の人と議論していた過程で送られてきた。また、あるジャーナリストはメディアが公について深く斬り込み得ない実情に関して、次のように指摘した。

「マスコミは正義の味方ではありません。記者は、日々、目の前の『事件』という素材を調理するのに汲々としており、専門的な記者が育ちにくい。取材に時間 をかけた記事は、まず、一面のトップにはきません。厚生労働省には政治部、社会部、経済部、科学部の記者が常駐していますが、年金は政治部、社会保障や労 働は社会部、先端医療は科学部と縄張りが決まっています。政治部と社会部の記者にとっては、官邸や自民党、警視庁などを担当して『激務』をこなしたあとに 骨休み的に厚労省に回るケースが多く、競争心がありません。年金改革のエキスパートといえる記者は極めて少ないのです。仮に一所懸命に取材する記者がいた としても、取材は審議会に託された議論の『落としどころ』を探り当てることばかりに向き、議論自体の方向がおかしいとか、間違っているという本質論には至 らない。残念です」

「公」を取り巻く"閉塞状況"は、日本全体を覆(おお)っている。誰もが「よしっ、綱を曳くぞ」と思わず力が入ってしまうような唄い手の登場を渇望しているのだが......。

どうすれば「新しい公」「市民的公共性」を構築できるのだろう。
分野を超えて、今こそ率直に意見を出しあい討論する必要があるのではないか。

 色平さんにメールは mailto:DZR06160@nifty.ne.jp
2004年05月12日(水)萬晩報通信員  成田 好三

 2004年8月13日。この日は、アテネ五輪の開幕予定日である。「開幕日」ではなく、「開幕予定日」と書いたのには訳がある。これまでの五輪とは違っ て、アテネ五輪は、アプリオリ的に、あるいは絶対的根拠をもつて、この日に開幕できるとは断言できない五輪だからである。

 その理由は2つある。1つは大会開催準備の大幅な遅れである。もう1つはもっと大きな、深刻な問題である。五輪をターゲットにしたテロの脅威が日増しに強まってきたことである。

 アテネ五輪開幕予定日の100日前に当たる5月5日、日本の新聞各紙はそろって五輪特集を組んだ。朝日、読売、毎日、日経をチェックしたが、4紙とも見 開き2ページの特集だった。いずれもメダル獲得が期待される日本の有力選手紹介が中心で、開催準備の遅れを指摘する記事もあったが、4紙とも似かよった内 容だった。

 そして、4紙の特集ともある共通のテーマを「無視」していた。テロの脅威を取り上げた紙面はどこにもなかった。国際的なテロの脅威にどう対応するかとい うことこそ、アテネ五輪に突きつけられた最大の課題である。しかし、4紙ともこの日の紙面では、1面などの生ニュースも含め、テロの脅威に関するテーマは 一切取り上げなかった。

 アテネ五輪は、ソフト・ハード両面での開催準備の遅れから、通常本大会の1年前に行われる「プレ大会」は開催されなかった。開催準備は、今年3月のギリシャの政権交代によってさらに遅れることになった。政権移行期に準備作業が滞ったからである。

 既に、競泳会場の屋根は断念された。マラソンコースもまだ整備中である。メーン会場となる五輪スタジアムの屋根も完成していない。施設整備の遅れに関し て、ギリシャのカラマンリス首相はこう語っている。「私たちギリシャ人が一致協力して仕事をすれば、奇跡を成し遂げることができる」(4月8日、毎日電子 版)。記事はこのコメントに「楽観的」という見出しをつけているが、はたしてそうだろうか。施設整備の遅れは、もはや『奇跡』を期待しなければならないと ころまできている。

 しかし、施設整備の遅れは、五輪の開催自体を危惧するほどの重大問題ではない。施設が完全に整備されなくても五輪は開催できる。競泳会場には、屋根など なくてもいい。五輪スタジアムを覆う巨大なガラスの屋根などなくても、競技運営に支障は起こらない。マラソンも、古代ギリシャの史跡や現代ギリシャの観光 名所をたどるコースではない、別のコースを設定すればいいだけのことである。

 競泳や陸上競技は本来、青空と太陽の下で行われるべきものである。会場に屋根などない方が古代オリンピックを生んだ地で開催される、アテネ五輪にふさわしい大会になる。巨大化、肥大化した現在の五輪を見直す絶好の機会にもなる。

 テロの脅威が日増しに高まってきたことは、施設整備の遅れなどよりはるかに大きく、深刻な問題である。アテネ五輪はテロから守られるのか、あるいはテロに蹂躙されるのか。そのことによって、五輪、サッカーW杯も含めた国際スポーツイベントの将来が左右されるからである。

日本の新聞各紙が、アテネ五輪は予定通りに開催できるという、アプリオリ的な判断のもとで特集紙面を掲載した、開幕100日前に当たる5月5日には、アテ ネ中心部にある警察の建物付近で時限爆弾3個が爆発し、警察官1人が軽症を負った。アテネでは昨年9月と今年3月にも時限爆弾が仕掛けられた。

 ギリシャ政府は、国際テログループの関与を躍起になって否定している。五輪開催の成功が至上命題であるこの国の政府にとって、爆弾事件の影響をできるだ け小さなものとして封じ込めたいからである。スペインの列車同時爆破事件でも、当時の政権は犯人グループを国内過激派によるものと決めつけていた。その過 ちが総選挙による政権交代につながった。ギリシャの爆発事件も、真相が明らかになるには、ずっと先のことになるだろう。

 ギリシャ政府は、五輪警備に北大西洋条約機構(NATO)の協力を要請している。3月13日・日経電子版によれば、スペインの列車同時爆破事件により、 五輪開催期間中のテロの懸念が強まっており、特に空海域などでの警戒に協力を求める。今後国会手続きを経てNATO軍駐留を受け入れる方針だという。 NATO軍の駐留が実現すれば、アテネ五輪は、当事国の警察や軍隊だけでなく、外国の軍隊によって警備される初めての五輪になる。

 五輪の主催者である国際オリンピック委員会(IOC)は、アテネ五輪で初めて保険に入った。4月28日・日経電子版によれば、テロや戦争などによって五 輪が中止に追い込まれた場合に保険金が下りる。保険金総額は1億7000万ドル(約180億円)。IOCと各国のオリンピック委員会などが受取人になる。

 アテネ五輪は、4年前に開催されたシドニー五輪とはまったく違った状況下で開催される。『9・11』以降、アフガン戦争からイラク戦争へと続く新たな形 態の『世界戦争』の状況下での五輪になる。国家体制自体を否定する方向に走り出した国際テログループにとっては、世界中の国家(地域)が国家の名の下に参 加する五輪ほど効果的なテロのターゲットはない。

 アテネ五輪は、開催国のギリシャがNATO軍に警備を依頼し、五輪主催者であるIOCが『戦争保険』に入らなければならない状況下で開催が準備されている。しかし、日本のメディアは、そうした状況に背を向けて能天気な五輪特集を組んでいる。

 日本のメディアは、新聞、TVともビジネス面であまりにも深く五輪と関わりすぎている。ビジネス面で彼らに都合の悪いニュースである、テロの脅威やテロ に対応するためのNATO軍への警備依頼やIOCの『戦争保険』加入の事実は、ニュース価値とは正反対に極めて小さく、できるだけ控えめに報道してきた。 メディアが既に本来の役割である「観察者」ではなく「当事者」の立場にあることを理解したとしても、能天気にも程があると考えるのは筆者一人だけだろう か。(2004年5月12日記) 

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2004年05月11日(火)萬晩報通信員 土屋 直

 米軍によるイラク人虐待を告発した「アブ・グレイブでの拷問(TORTURE AT ABU GHRAIB)」はアメリカの良心に衝撃を与えた。この事件を最初にとりあげたのは電子版「ニューヨーカー」である。記事を書いたのは、「ニューヨー カー」紙のセイモア・ハーシュ記者である。ハーシュ記者は、ベトナム戦争の最中の1968年、南ベトナムのソンミ村で米軍が約500名の村民を皆殺しとし たソンミ村の大虐殺をスクープし、ピューリツア賞を受賞した著名な記者である。

 政府や軍部による厳しい情報統制がおこなわれる中、このようなスクープが発表できたのも「ニューヨーカー」という媒体の性格によるところが大きいと考え る。というのも、「ニューヨーカー」という雑誌はいたずらに実益を売らず、ジャーナリズムのロマンと公共への奉仕を大切にする雑誌であるからである。そし て、その要因は編集の理想的な在りかたにある。「ニューヨーカー」の編集部と業務部は国家と教会のように分離しており、お互い干渉することがない。また作 家にとって「ニューヨーカー」は「安全な港」と呼ばれ、執筆者は特定の仕事をあてがわれることなく自由裁量で興味あるテーマに取り組み、会社が原稿を買い 取るという仕組みになっている。

 私が今回の報道で意外に思ったのは「ニューヨーカー」が写真入りの記事を掲載したことと、国際問題に関わる事件を迅速にとりあげたことである。もともと 「ニューヨーカー」は「言葉と絵によって首都の生活を反映する」ことを目的に創刊された雑誌で、写真を使うことを極力異例にも写真入りで拷問の様子を報じ られた。また、「ニューヨーカー」といえば、粋で明るい社会諷刺を主調とする保守的な文芸雑誌というイメージがあったのだが、5代目の編集長にニューヨー ク・タイムス出身のデーヴィット・レムニックが就任してから、国政や国際問題についても長い評論を載せる雑誌に変貌したようである。レムニックはこの分野 をカバーするため、ピート・ハミルはじめ新しい書き手をライバル会社から数人引き抜いたという。

 意外にも「ニューヨーカー」と戦争の関係は深い。「ニューヨーカー」が部数を大幅に伸ばしたのは、第二次世界大戦中に発行した軍人向けのポニー・エディ ションと呼ばれる縮小版が好評だったことに始まる。「ニューヨーカー」がナショナル・マガジンとして認知されるに至ったのは、原爆による広島の惨禍を報じ たジョン・ハーシーの「ヒロシマ」を全ページ費やして報じたことが契機である。そして、「ニューヨーカー」はベトナム反戦に声をあげた最初の雑誌である。 ベトナム戦争が自国の名もない農民にまでに深い傷を与えていることを伝えたC・B・D・ブライアンの『友軍の誤射』は2年がかりで書き上げられ、大きな反 響を呼んだ。

「ニューヨーカー」は保守的な雑誌である。保守的な雑誌であるがゆえ古きよきアメリカが侵されたと感じる時、敢然と言論の刃を抜きはなち自らがつくりあげ た民主主義の精神を守ろうとするのである。ハーシュ記者の「ソンミ村の大虐殺」はベトナム戦争を終結させる間接的なきっかけを与えたといわれている。今回 もこの記事が米軍のイラク撤退の呼び水となることを期待したい。


□参考文献
『「ニューヨーカー」の時代』(常盤新平著;白水社)
『アメリカの編集者たち』(常盤新平著;新潮社)
『ニューヨーク紳士録』(常盤新平著;講談社)

 土屋さんにメールは mailto:habermas@mx2.nisiq.net
2004年05月10日(月)萬晩報主宰 伴 武澄

 友だちが勤めている会社の社長さんに心温まる話を聞いた。同時に一隅を照らす人は語らずにいるだけで、数多くいるのだという感慨にふけった。

 その社長さんは健康食品の会社を経営していて、同じ業界の社長さんたち三〇人に声をかけ、アジアを中心とする留学生や苦学生に「つくし奨学金」を給付し ている。公益法人でないから、会社の節税にもならない。そんなことなど意に介さない人たちなのだ。

 毎年一五人の学生にほぼ二年間にわたり月額一〇万円を給付する制度はことし六年目に入った。これまで六〇人以上が「つくし奨学金」のお世話になっている。もはや小さな善意とはいえない。立派なフィランソロピーだ。

 奨学金を支給される学生は大学の先生に推薦をしてもらうのだが、最近では中国人ばかりになっている。ネパールとかモンゴルといった小さな国の留学生にも役立ちたいと思っているが、これも仕方のないことなのかもしれない。

 その社長さんが昨年からやみつきになっているのは、ミャンマーでの小学生へのノートや教科書寄贈だ。きっかけはミャンマーでの井戸掘り協力だった。これ も同業者仲間の発想から始まった。首都ヤンゴンから車で南東に約三時間半走ったところにあるザルーンという村で井戸を掘った。ある留学生の故郷である。予 算は百万円だったから、どうせ小さな井戸しかできないと思っていたが、出来上がってみると五本も掘ったという。しかもすべて電動モーター付きだと聞いて驚 いた。

 昨年、完成後の寄贈式があり、仲間でザルーンを訪問した。できれば貧しいところとかきたないところには行きたくなかったが、世話役の一人として行かざる を得なかった。せっかく行くならば子どもたちにノートや鉛筆などの文具を持って行こうとみなで考えた。結果的に一二〇〇人の子どもたちにノートを配ること になった。

 ザルーンの小学校を訪れて子どもたち一人ひとりにノートを手渡した。ノートには日本語とミャンマー語で「君は希望の星。一隅を照らす人となれ」と印刷した。みんなうれしそうにノートを受け取った。

 小学校の女の先生はこう言って感謝の意を表した。

「この子どもたちにとって一生忘れられないことかもしれません。中には大切にしまって一生使わない子どももいるかもしれません」

 社長たちはみんなこの一言で胸キュンとなってしまった。「もうくせになりそう」と誰かが言った。

 帰国してから「つくし奨学・研究基金」として本格的に募金がスタートした。お願いの案内にはこう書いた。

「つくし奨学・研究基金は医学・薬学の留学生を含む苦学生に奨学金を給付していますが、更に東南アジアの恵まれない子供達の教育支援の為に募金集めを始めました」

 支援を計画しているのはミャンマーのほか、タイ、インドネシア、マレーシアで五〇万人に教科書とノート、消しゴム付き鉛筆の支援を目指している。もちろんノートには「君は希望の星。一遇を照らす人となれ」と印刷する。

 日本がまだ貧しかった時代を覚えている社長さんたちはこの胸キュンをもう一度味わいたいと思っている。人のためというとかっこよすぎるから、自分たちの楽しみと考えている。

 フィランソロピーは社会貢献ではない。本当は自分のためにすることなのだということを思い知らされた一日だった。
2004年05月08日(土)萬晩報通信員 園田 義明

『トリックスターとは、その自由奔放な行為ですべての価値をひっくり返す神話的いたずら者、いわば文化ヒーローとしての道化である。創造者であると同時に 破壊者、善であるとともに悪であるという両義性をそなえて、トリックスターはまさに未分化状態にある人間の意識を象徴する。そして、既成の世界観のなかで 両端に引きさかれた価値の仲介者としての役割をになう。トリックスターのかもしだす痛快な笑い、諷刺、ユーモア、アイロニーは、多次元的な現実を同時に生 き、それらの間を自由に往還して世界の隠れた貌を顕在化させることによって、よりダイナミックな宇宙論的次元を切り拓く、すぐれた精神の技術である。』

「トリックスター」ポール・ラディン他著(昌文全書 1974)より

 ■右と左のトリックスター対決

 現代に復活した保守派のトリックスターであるネオコンに対して、くそまじめな論調で対抗しても勝ち目がない。スルリと身をかわし、笑い飛ばされてしまう だけだ。こうしたワンパターンの論戦に見飽きたところで、気になる存在が現れてきた。丸い体に丸い顔、丸メガネのひげ面、そして目をキョロキョロさせなが らジョークを連発させる。日本でもその著書(「アホでマヌケなアメリカ白人」)がベストセラーとなった映画監督マイケル・ムーアである。

 コロンバイン高校で起きた銃乱射事件から米国での銃犯罪に取り組んだ映画「ボウリング・フォー・コロンバイン」で2003年の米アカデミー長編ドキュメ ンタリー賞を受賞し、その授賞式では「ブッシュ大統領よ、恥を知れ!」を連呼した。この映像からはまだまだトリックスターには程遠いと感じるが、映画を観 る限りにおいてはその素質は十分にある。

 現在ムーアは最新作『華氏911(Fahrenheit 911)』の公開を目前に控えている。この映画はブッシュ家とビン・ラディン家の親密な関係を暴くもので、2001年10月に書いた拙稿「ニュー・グレー ト・ゲーム」の世界が映像で描かれているようだ。しかし、5月5日に各社が報じた記事によれば、親会社であるウォルト・ディズニーが、この映画に出資し配 給する予定であった傘下のミラマックスに対し、圧力をかけ配給を阻止している。

 ■マイケル・ムーアとカトリック

 さて、アカデミー賞の授賞式の最後にブーイングが鳴り響く中、マイケル・ムーアは次のように語っている。

「ローマ法王やディキシー・チックスが反対しているからには、おまえの命運もこれまでだ。」

 ディキシー・チックスは、保守的なカントリー・ミュージック界にあって、ブッシュ批判を繰り広げて話題を集めた女性3人組の人気グループである。長年にわたってカントリーも幅広く聞いてきたが、音楽業界の分裂は別の機会に書いてみたい。

 ここではムーアがローマ法王を口にしたことに注目してみたい。

 1954年にアイルランド系カトリックの家に生まれたムーアは、神学校に通いながら神父を目指していた。現在でも敬虔なクリスチャンであり、月刊 PLAYBOYとのインタビューでは「おい、ブッシュ、世界を返せ!」の執筆中に突如神が現れ、「私が代わりに書く」と言われたと応えている。やはりここ にブッシュ大統領との共通点も見出せて興味深い。

 当初『華氏911』に出資を予定していたのが、メル・ギブソンが設立した制作会社アイコン・プロダクションズであった。しかし、昨年5月に突如アイコ ン・プロダクションズは出資を取りやめ、代わりに出資合意したミラマックスに対して保守派は強い批判を行ってきたようだ。つまり、超リベラル派カトリック であるマイケル・ムーアと超保守派カトリックであるメル・ギブソンとの協調と分裂が生じていたことになる。

 ■『パッション』と『華氏911』

 映画『パッション』によってキリスト教右派に歩み寄ったメル・ギブソンは、クリスチャン・コアリションが大統領選に向けて今年9月24日、25日に開催 する「ロード・トゥ・ヴィクトリー2004」にもブッシュ大統領やパット・ロバートソンやカール・ローブなどと共に招待されている。今やキリスト教右派の ヒーローになったようだ。全世界的な規模で邁進し続けている『パッション』に対して、『華氏911』は公開すら危ぶまれている。

 ウォルト・ディズニーが圧力をかけたとの記事は瞬く間に世界中を飛び交うことになるが、実際にはすでに昨年5月にウォルト・ディズニーから配給しないと の決定がムーア側に伝えられていた。『華氏911』は5月12日から始まるカンヌ国際映画祭のコンペティション作品にノミネートされているが、この時期に 敢えてこの問題を取り上げたのは、カンヌに向けた人目を引くためのPR・スタントであった。ここにムーアのトリックスターとしての真価が見てとれる。

 この映画で注目すべき点は、ブッシュ家とビン・ラディン家のさらなる深部としてBCCI(バンク・オブ・クレディ・コマース・インターナショナル)・ス キャンダルが描かれているかどうかであろう。もし描かれていればマニアックなファンを獲得できるかもしれないが、真相に迫れば迫るほど欧州での公開も危ぶ まれることになる。

 ただし、BCCI・スキャンダルの真相を追求し、報告書にまとめ、2001年9月26日の銀行住宅都市委員会で「ビン・ラディンはBCCIに複数の口座を持っていた」と証言したのが、ブッシュと激戦を演じるジョン・ケリー大統領候補である。

 ブーメラン効果で民主党人脈に飛び火し、かなりの痛みをともなう可能性もあることから極めて可能性は低いが、BCCI・スキャンダルの真相を知るジョ ン・ケリーとマイケル・ムーアの映画が戦略的に結びつけば、ジョン・ケリー大統領も夢ではない。この戦略には米・欧にまたがるグローバル・ビジネス・リア リストへの配慮も含まれている。
 
 問題となるのは、ムーアがトリックスター的な性格を忘れ、くそまじめな映画になっている場合、特に米国南部・中西部のバイブル・ベルトではブーイングで 迎えられ、どこかの国のようにバッシングが吹き荒れ、自作自演や陰謀とのレッテルを貼られ、完全に無視されることになるだろう。

 ■日本の宗教週間での出来事

 小泉首相は5月2日午後に品川プリンスホテル内の映画館で映画『パッション』を鑑賞している。

 また安倍晋三幹事長は4月29日(日本時間30日)、ネオコンの影響が強いアメリカン・エンタープライズ公共政策研究所(AEI)で講演し、ネオコンの 首領でありキリスト教右派とユダヤ系米国人を結びつけたアーヴィング・クリストルに対して深い尊敬の念を表した。

 一方、民主党の菅直人代表は5月3日午前(日本時間3日夕)、バチカン諸宗教対話評議会議長のフィッツジェラルド大司教とローマ市内で会談し、翌4日午 前(日本時間4日夕)にもバチカンの「正義と平和評議会」議長のマルティーノ枢機卿と会談している。

 半年前であれば菅代表のバチカン訪問もコラムで大きく取り上げたかもしれないが、国民年金保険料の未払い問題で未納三兄弟だとこき下ろした直後に、自らも串刺しにされ、なんともしらけた訪問となった。

 石破茂防衛庁長官(プロテスタント)、麻生太郎総務相(カトリック)など宗教色も豊かな未納大兄弟達が、「米国の保守革命」のテキストに基づいて呪文のように繰り返した「自己責任の原則」をお笑いのネタに変えてしまった。

 右派系グラス・ルーツ団体を大同団結させた「水曜会」主宰のグローバー・ノーキストの著書の翻訳タイトルは『「保守革命」がアメリカを変える』である。 「米国の保守革命」がまわりまわって、福田官房長官に始まる政治家の辞任会見を引き起こしたのはなんとも皮肉な結果である。

 おとうとおもいのノーキスト兄ちゃんは、じぶんがいちばんのじなんたちを苦々しく見ていることだろう。


□引用・参考・資料

Disney Forbidding Distribution of Film That Criticizes Bush http://www.nytimes.com/2004/05/05/national
/05DISN.html?ex=1084334400&en=89983012bdce5ec0&ei
=5062&partner=GOOGLE

Moore admits Disney 'ban' was a stunt http://news.independent.co.uk/world/americas/
story.jsp?story=518901


Disney says Michael Moore row is 'PR stunt' http://film.guardian.co.uk/news/story/0,12589,1210805,00.html

米政権批判映画の配給拒否 ディズニー、傘下に圧力
http://www.sankei.co.jp/news/040506/kok037.htm

ディズニーがマイケル・ムーア新作の配給を妨害
http://hiddennews.cocolog-nifty.com/gloomynews
/2004/05/post_1.html


オスカー賞授賞式での、僕のスピーチに対する反響
http://terasima.gooside.com/morre030407speechaward.htm

Michael Moore - Biography http://movies.yahoo.com/shop?d=
hc&id=1800064216&cf=biog&intl=us


Answers Please, Mr Bush http://www.commondreams.org/views03/1006-11.htm

新刊をひっさげたマイケル・ムーアに直撃インタビュー
「ブッシュは連続嘘つき魔だ。彼はもう終っている」
http://www.globe-walkers.com/ohno/interview/michaelmoore2.htm

Road to Victory 2004
http://www.cc.org/rtv/

The BCCI Affair
http://www.fas.org/irp/congress/1992_rpt/bcci/

Japan and the United States in 2004
By Shinzo Abe http://www.aei.org/news/newsID.20399,filter.all/news_detail.asp

 園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp

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