2004年1月アーカイブ

2004年01月30日(金)萬晩報通信員 齊藤 清

 【コナクリ=ギニア発】2003年のクリスマス。里帰りの人々を乗せてレバノンのベイルートへ向かっていたボー イング727型機が、西アフリカのベナン共和国で離陸に失敗して海岸に墜落。この事故がアフリカの空の安全管理システムのもろさを露呈するとともに、ミステリアスな疑問を再び思い出させるきっかけとなりました。

 ◆クリスマスの悲劇

 かつて中東のパリといわれたレバノンのベイルート。当時は中東の金融の中心地としての栄華を誇っていました。しかし1975年の内戦開始、1978年の イスラエルによるレバノン侵攻、占領、それと併行するようにしてシリアによる実質的な支配。落ち着くことのない国内情勢を反映して、多くのレバノン人が国外での生活を余儀なくされてきました。いまでは西アフリカの国々にも彼らの社会がしっかりと形成されていて、それぞれの場所でけっして小さくはない経済的な影響力を維持しつづけています。同時に、隠然たる政治力を蓄えていることも否定できません。

 ギニアもその例に漏れず、例えば大統領府に続くギニアきっての目抜き通りの大きな建物の多くはレバノン人が所有し、高級住宅街の海に面した土地と豪華な住宅、それから大きなマンションなどもたいていはレバノン人が持っているという現実があります。ちょっとしゃれた喫茶店、レストラン、ホテル、商店なども レバノン資本が多く、筆者が散髪でよく世話になる「美容室」もレバノン人のセンセイ。また仕事上の事務所も実はレバノン人所有の建物の中にあります。日本大使館も、日本大使公邸も、その職員の住むマンションもすべてレバノン人所有の物件のはず。経済支援として外国政府から贈られた重機などを、現金で買い取 るレバノン人業者すら存在しているようです。お金にうるさい人たちではありますが、約束はきっちり守るという点で、とてもつきあいやすい人種というのが実 感。もっとも、お金のためならかなりの無理をする、というつきあいにくい側面を持ち合わせている人たちでもあります。

 そんな彼らのコミュニティーを悲嘆の底へと突き落としたできごとが、昨年のクリスマスに勃発。──日本の新聞記事の第一報抜粋をまずご覧ください。

【ヨハネスブルク支局】アフリカ西部のベナンの主要都市コトヌーで25日、レバノン・ベイルート行きの旅客機が空港を離陸した直後に滑走路近くの大西洋上 に墜落した。<途中省略> 同機はギニアの首都コナクリを出発し、ドバイ経由でベイルートに向かう便。アフリカ西部には大規模なレバノン人社 会があることから、乗客の多くはレバノン人とみられる。コトヌーでは乗客63人が搭乗したが、乗客総数や航空会社名など詳しいことは分かっていない。[毎 日新聞12月26日] ( 2003-12-26-01:39 )

 ◆謎のはじまり

 これは事故の第一報でしたから記事の詳細には目をつぶっていただくとして、今になってはっきりしたのは、この便はレバノン人が共同出資したUTAという 会社が運行するものであったということ。以前、エールフランスが関与する航空会社にまさにUTAフランス航空という会社がながらく存在していて、そのアフ リカ路線に筆者も何度か乗ったことがありました。その会社が経営不振で少し前に消滅したのを受けて、その知名度の遺産を利用させてもらおうと紛らわしい会社名を使ったというのが実態の、いくぶん胡散臭さがただよう新参の小さな航空会社ではありました。

 この機は、おそらくは重量オーバー(8-9トンの超過とも)で飛び上がりきれず、空港の関連施設にぶつかってから海に突っ込んだものとされています。

 Boeing 727 Datacenter(事故の概要を紹介、写真多数)
 http://727.assintel.com.br/acid/aci03-1.htm

 その後の情報によれば、乗務員を含めて総数およそ161人(定員141人) のうち、およそ139人(いろいろな数字がある)が死亡したと伝えられています。ギニア人に関しては、23人が犠牲となり、ギニア人スチュワーデス1人を 含む3人が生還。国連PKOとしてシエラレオーネに派遣されていたバングラデシュの兵士15人も犠牲に。あとの犠牲者の多くは故郷へ帰るレバノン人であっ たようです。もっともこの数字はあまり正確なものではないらしく、アングラ情報では、ひとつの座席に二人掛けもあり、床に座っていた人もいるというほどの 状態で、たしかな乗客総数は永遠にはっきりしないだろうともいわれています。

 そのわずかな生存者の中に、この会社の経営者の一人も含まれていました。家族とともにレバノンへ帰る途上だったようです。そしてこの飛行機を動かしていたリビア人クルーのうち副操縦士だけは生き残って病院に収容されました。また死亡したリビア人パイロットは正規のライセンスを持っていなかったとも伝えら れています。

 飛行データの記録されたブラックボックスは回収され、すでにフランスへ送られました。フランス(ベナンのかつての宗主国)、ギニア、レバノン、そして参加を申し出たアメリカの混成チームで記録の分析が行われることになっています。

 ◆レバノン当局の見解

 911事件の後、アメリカの航空各社は大量のボーイング727型機を放出しました。1975年あたりに就航させた、かなり疲労している機体が多かったように思われます。今回の事故機もこの中の一機であったと推測されます。しかし、公式発表とは異なる情報がいくつも飛び交い、この事故を発端として、機体の特定そのものがすでに一筋縄ではいかなくなっていることを、各国の航空業界関係者が思い知らされることとなりました。

 ベナンでの事故の後、レバノンの運輸大臣がUTA社のコナクリ-ベイルートの旅客便乗り入れを受け入れた過程について説明しています。

 『UTAはギニアで認可された航空会社である。2003年7月、ギニア側はギニアに登録されたボーイング727登録番号「3X-GDM」機によるベイ ルートへのフライトを打診してきた。機体検査の結果、安全性に問題があって旅客運送を許可しなかった。その後UTAは、スワジランドに登録されていた別の機体、登録番号「3D-FAK」機による運行を申請してきた。機体検査の結果、これにも旅客運送の許可は出さなかった。

 そして8月、ギニアの民間航空機関のトップがレバノンの民間航空機関に対して、「3D-FAK」機は技術基準に適合していると通告してきた。レバノン側はこれを運輸大臣に上申したが、大臣は許可しなかった。

 そしてギニア、レバノンの間でさらに多くのやり取りを経た後の10月27日、スワジランド登録番号「3D-FAK」機がギニアへ登録換えされたことを受けて、コナクリ-ベイルート便が許可された』

 この認可の裏には、ギニア側の一方的な奔走と、レバノン治安当局をも巻き込んでの圧力がかけられていたことはすでに表面化し、ギニア、レバノン双方のメ ディアに書かれていることですが、レバノン運輸当局はさらに、UTA社によるコナクリ-ベイルート旅客便の運行を、しぶしぶ認めたことを強調しておきた かったようです。

 ◆ギニア当局の見解と疑問

 事故の直後から、ギニアの運輸大臣がUTA社に対して便宜をはかりすぎたのではないかという声があがっていました。同時に、ある重大な疑惑がふたたびそ の陰影を深めることになりました。大臣はこれらの声には極力反応しない姿勢で、何の問題もなかったと断言し、事故機について説明。

 『このボーイング727型機の出自はアメリカン航空であり、2003年1月にアリアナアフガン航空を通して、その後2003年9月、UTA社へ移管されたものである。機体の状態はまったく正常であった』

 Benin crash plane bought from Afghan company
 http://www.wanadoo.com.lb/news/news.asp?inc=/news/afp/
english/lebanon/040102200729.mnwlcmsn.html&language=1


 そしてこの機体のギニアでの登録番号は「3X-GDM」であり、アメリカン航空時代の登録番号は「N862AA」であったとギニア側から発表されまし た。このふたつの番号は、アメリカの航空当局のデータベースの記録と合致するものであり、多くのメディアで一般的に伝えられている情報でもあります。

 もっともアメリカ航空当局のデータベースによれば、アリアナアフガン航空が入手したアメリカン航空の古い機体は「N863AA」であって「N862AA」ではないので、ギニア当局の発表には疑問符がつきます。

 今回墜落したとされる「3X-GDM」機のAA時代の写真
 「N862AA」in Jamaica, April 1995
 http://www.airliners.net/open.file/111354/L/

 ベナンでの事故の直後には、「あの」機体ではなかったのか、という憶測が流れました。実は、事故のニュースを聞いたときに筆者も反射的に「あの」航空機 のことを思い浮かべていたのです。この反応は、いくぶん形が変化したものの、今でも抱きつづけているものです。

 しかしワシントン・ポスト紙は、「あの」機体であった可能性を示唆しながらもアメリカ当局は確認を拒否したと書き、さらにつづけて、APの記者が事故現場で確認した機体の登録番号は「GIH161V71」であったと報じています。ギニア政府のいう「3X-GDM」でもなく、かつ憶測されている機体でもな い、というわけです。

http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/
A50301-2004Jan2?language=printer


 また、あるドイツ人パイロットは、「3X-GDM」機は2003年10月30日現在、トリポリ(リビア)ですでにリビアンアラブ航空のカラーに塗り替えられていた、したがって、今回事故を起こした機体ではあり得ないとの情報を伝えていました。

 ギニア当局が、事故機体確認の上で基本となる登録番号を錯誤しているとは思えません。巷間伝えられている情報に信憑性があるとすれば、ギニア当局はなぜ 正確ではない登録番号を発表したのか。そこにはどのような必要性があったのか。いくつもの登録番号が錯綜する中で謎は深まります。

 ◆アンゴラから消えた航空機

 ところで、小型のプロペラ機であればまだしも、大型の旅客機がどこかへ忽然と姿を消してしまった、などというニュースをあなたは信じることができるで しょうか。そしてそれが一カ月たっても行方が知れないとしたら...。事故を起こして海中深く沈んだのでもないかぎり、考えられないことです。以下はアメ リカからの日本語ニュースの抜粋です。2003年6月のもの。

旅客機なぞの失そう1カ月 米、テロ使用の可能性調査
<前部省略>
 19日付の米紙ワシントン・ポストによると、旅客機は5月25日夜、アンゴラの首都ルアンダの空港から飛び立ったのを最後に行方不明となった。米政府は偵察衛星でアフリカ中の空港を撮影したが、事故の可能性も含め所在に関する端緒はつかめていない。

 旅客機を所有する米マイアミの会社関係者は、旅客機は別の会社に貸与、座席シートを外して燃料タンクを設置、燃料運搬のためアンゴラ・ルアンダに向かったと話している。

 米メディアは、中枢同時テロのような旅客機を使った大規模テロから詐欺や密輸などの犯罪への利用の可能性を指摘している。
 
 Kyoto Shimbun 2003.06.20 News
 http://www.kyoto-np.co.jp/news/flash/2003jun/
20/CN2003062001000097J1Z10.html


 そして以下の記事では状況をさらに詳しく解説し、アメリカ諜報当局が衛星その他のハイテク技術を駆使して追跡しているもののいまだに見つかっていない、 アルカイダによって911事件と同様、航空機による攻撃に使われる可能性があると警告する内容になっています。

 Missing Fuel-Tanker Jet Could Be Used as Flying Bomb
 http://www.foxnews.com/story/0,2933,90269,00.html

 日本のある女性の小説家は「(アフリカの)どこかの田舎空港に着陸すると、ただちにジャングルに引き入れられ、上空からは見えない場所で解体されたのだ」と書いていましたけれど、相も変らぬアフリカ=ジャングル信仰に呆れるとともに、その小説家の想像力と現実把握能力の欠如を憂えたものです。零戦の時代のままの感覚ではないのか、と。全長が40メートルを超え、翼の長さが30メートルを超える機体を隠せる木蔭などあるはずもありません。

 ◆フロリダで航空機爆弾へと改造

 この「消えた旅客機」は、ニュースの舞台となるアンゴラ・ルアンダへ仕事に出される前は、アメリカン航空の古参機としてアメリカ近辺を飛んでいたようです。

 写真:「N844AA」in USA August,2001
http://www.jetphotos.net/viewphoto.php?id
=64000&PHPSESSID=a7247a99b76087f8cfa8908b374acf96
  そしてアメリカン航空を引退してアフリカ・アンゴラへ送られる直前に、フロリダ州のオパロッカで会社のロゴマークを削り取られます。下の写真では、削り取 られた胴体前部の「American」の文字と、垂直尾翼「AA」のロゴ文字がその跡を残しています。そして胴のストライプのレッドがブルーに塗り替えら れました。(これは奇しくも先の事故機を運行していたUTA社のカラーになるのですが)

 写真A:「N844AA」January 19, 2002
 http://www.airliners.net/open.file/215616/L/

 前記の日本語ニュースでも触れているように、それから座席を取り払い、そのあとに容量500ガロンの燃料タンクが10個設置されることになります。それ ぞれのタンクは直径4インチのパイプとバルブで連結され、さらに揮発ガスが機内に漏れないように循環装置が備えつけられました。その結果として、通常の燃料以外に、機内に別途5000ガロン(約19キロリットル)の燃料を積むことができるようになったわけです。まさに現代の「KAMIKAZE」機を髣髴と させる特殊仕様機への変身でした。──日本語を語源とするこの「KAMIKAZE」という単語は、今では英語、フランス語、イタリア語、ポルトガル語、ス ペイン語などなど、特攻を意味する外国語の単語として認知されています。

 この機体は2002年3月、アメリカの航空機ブローカー会社の説明によれば、アフリカ・アンゴラの政府軍幹部が関与しているペーパーカンパニーへ、ダイ ヤモンド鉱山への燃料輸送のためとしてリースされました。この時アンゴラでは、永年にわたって反政府勢力を指揮していたサビンビが殺されて内戦が収束し、 4月には停戦合意が成立するという時期でした。

 しかしながらボーイング727型機の運行には、少なくとも3000メートルクラスの、しかも70トンを超える航空機の重量に耐えられる滑走路が必要にな るわけで、このような施設が、アンゴラ国内のダイヤモンド鉱山に整備されているとも思えず、また19キロリットル程度(100万円ほどの商品価値) の燃料をボーイング727型機で運送するという非経済的な仕事は想像すらできません。この燃料を消費する規模の現場であれば、タンクローリー車でのアプ ローチが可能であるはずです。つまり、この機体の使用目的はアメリカの会社関係者が説明するようなものであるはずはなく、やはりもっと特殊な非日常的な仕 事に備えてのものであったと推測しても、それほど的外れとも思えません。

 米連邦航空局(FAA)のデータによれば、この機体の名義は南フロリダのアメリカ人航空機ブローカーとなっているものの、実質的な所有者は南アフリカ在住の人物であると伝わってきています。

 ◆ボーイング727アンゴラから失踪

 2002年3月にアンゴラに送り込まれた「燃料輸送機」は、書類不備という理由で空を飛ぶこともなく、その後14カ月間を地上ですごしたことになっています。そして2003年5月30日、CIAの追跡網をもすり抜けてその姿を消しました。

 機体が消える2カ月ほど前に、南フロリダの航空機ブローカーはアメリカ人航空機関士をアンゴラに送り、このボーイング727型機をアンゴラ国外へ移動す る準備を始めます。なぜかこのアメリカ人ブローカーの負担となっていた未払いの駐機料が400万ドルに達していたとも報道されているのですが、とりあえず 4万ドルほどを支払った後に機内への立ち入りを認められた模様で、燃料を補給し、エンジンをかけて調子を確認していたそのとき、未確認情報によれば、 Keith Irwinという南ア在住の人物が送り込んだ6人のクルーが、この機関士を乗せたまま、アンゴラ当局の許可を受けずにこの機を離陸させたとされています。 アフリカの空は、そのほとんどの区域で航空管制が行われていませんから、人知れず空を飛ぶことが可能だといわれます。同機のトランスポンダーのスイッチは切られたままで、無線での呼びかけにも応答せず、その後の行方はまったくわからない、というのがアメリカの諜報機関をも含めた公式見解であるようです。先ほどの新聞記事にも書かれているように、米CIAは全力を尽くして捜索した、ということになっています。

 その日以後、機体とともに消えた機関士は行方不明となりました。この機関士の兄弟が後にアメリカのABCテレビで情報提供を呼びかけています。またFBIもこの男を探している旨を、きょう現在もHPに掲載しています。

 FBIの人探し:BEN CHARLES PADILLA
 http://www.fbi.gov/mostwant/seekinfo/padilla.htm

 機関士の兄弟からのメール
 http://www.cabalofdoom.com/archives/000372.html

 当日の唯一の関連情報としては、インド洋に浮かぶ小さな島セイシェルの管制塔がこの機からの着陸許可を求める無線連絡を受けたものの、実際にはこの機は姿を見せなかったと伝えられています。いずれにしても燃料による飛行時間の制約があるわけですから、ずっと飛びつづけられるわけではありません。

 このようないわく付きの航空機が内緒で着陸できるとすれば、それはナイジェリアか南アフリカだろう、ともいわれていたのですが、やはり穴場というものはあったようです。それでも他人の目をふさぐことは簡単ではなさそうです。

 ◆目撃情報

 機体の失踪からひと月ほど経過した2003年7月7日、英紙「ガーディアン」はカナダ人パイロットの目撃情報を伝えました。6月28日に、そのパイロッ トがコナクリ空港で「あの」失踪した機体を確認したというのです。コナクリ空港はいうまでもなく、私めが根城にしているギニアの表玄関になります。

 その記事によれば、アメリカン航空時代の登録番号「N844AA」の上にギニアの登録番号「3X-GOM」がペイントされ、しかも旧番号がはっきりと確 認できる状態であったとされています。そしてその機は、レバノン人グループがコナクリ-ベイルート間の貨物輸送に使っていると付け加えているのです。

 Plane in terrorism scare turns up sporting a respray
 http://www.guardian.co.uk/international/story/0,3604,992839,00.html

 CIAが追跡しても見つからないとされている失踪中の航空機が足元のコナクリにいるとなれば、物見高い筆者としてはこの機会を逃すわけにはいかず、空港へ人を迎えに出た7月14日、見晴らしのいい空港喫茶コーナーに陣取って、じっくりと空を眺めていたものでした。日が傾き、それが急ぎ足で沈んでいって淡 い光だけが残る時刻、ついに航空会社のロゴマークを消したボーイング727型機が登場。まったく突然に、夕暮れにつつまれた滑走路に着陸して駐機スペースへと移動。ただ、機体に接近することができないために登録番号の確認は不可能でしたけれど、通常の定期便では飛ぶはずのない機体であったことはたしかでした。

 はるか遠くの文化果つる国と思われているギニアの空でさえ、エンジンを三基つけたボーイング727型機などというレトロな機体はきわめて珍しいのです。 ──現在では、アメリカ近隣の路線に残っている程度のものでしょう。コナクリの空港警察の人間に尋ねたら、軽い調子で「チャーター機だ」といっていました けれど、運行の主体はカナダ人パイロットの指摘どおりレバノン人。 「あの」失踪した機体であるという確証は取れなかったものの、少なくともその仲間がまだアフリカの空を飛んでいそうだ、というほのかな光は感じられた夕方でした。

 ◆すりかえられた登録番号

 911事件から2年たった2003年9月11日、イスラエルは「あの」失踪した「燃料輸送機」あるいは「航空機爆弾」が、サウジアラビアから飛び立つのを警戒していたといわれます。その根拠は、9月11日に先立って、サウジ国内でボーイング727のパイロットをリクルートしていたという情報によるらしい のですが、別の未確認情報によれば、当日この機体はレバノンのベイルートにいたとされています。しかし、結果として、この機体が関係する格別な事件は起こ りませんでした。

 2003年12月には、アラブ首長国連邦シャルジャー国際空港(Sharjah) で、「3X-GDO」の登録番号をペイントしたボーイング727型機が、二人のカメラマンによって撮影されていました。この登録番号はむろんギニア籍を意味するものであり、機体に書かれた会社名は、この撮影の何日か後のクリスマスに事故を起こすことになったUTA社でした。──この空港は、機体の定期整備で便宜が受けられる場所として知られていて、ロシアの旅客機の多くはここで整備をする(あるいは、したことにする)とも聞きます。

 以下の二枚の写真は、この空港でペイント作業中らしい元アメリカン航空所属のボーイング727型機です。胴体前方の「American」の文字と、垂直尾翼の「AA」のロゴ文字が削り落とされているのが確認できます。それに重ねて、UTAの文字、ギニア国旗などがすでにペイントされています。

 写真B: December 12, 2003
 http://www.planepictures.net/netshow.cgi?162772

 写真B': December 13, 2003
 http://www.airliners.net/open.file/478565/L/

 データベースによれば、「3X-GDO」機はアメリカン航空の元「N863AA」機とされています。しかしながら、2003年3月に、航空機の姥捨て山 ともいわれるカリフォルニアのモジャブ砂漠で撮られた「N863AA」機の写真(写真C)を見ると、垂直尾翼の「AA」のロゴ文字はペンキで塗りつぶされています。その背後に駐機されている別の機体の例から、「N863AA」機の胴体前方の「American」の文字も、同様にペンキで塗りつぶされている ものと推測できます。ちなみに、アラブ首長国連邦シャルジャー国際空港にてペイント作業中の機体(写真A)はアメリカン航空のロゴを削り落としてあります から、この相違だけから見ても、写真Bの機体が元「N863AA」であるとは考えられません。

写真C:ロゴマークをペンキで塗りつぶされた機体「N863AA」
http://www.jetphotos.net/viewphoto.php?id=29253&
PHPSESSID=fd413a108a00cc60bf4d8b2331088e7e


 それでは「N863AA」機はどこへ行ってしまったのか、という疑問がわいてくるものの、この際それは無視しておくことにして、目の前にあるこの機体は何者なのかを追ってみます。

 もう一度「あの」機体の写真Aを見てください。これはアンゴラから消えた「N844AA」機ですけれど、昔の名前の削り方(消し方)が、アラブ首長国連邦で作業中の写真Bに酷似していると私めはにらんでいるのです。

 写真A:「N844AA」January 19, 2002
 http://www.airliners.net/open.file/215616/L/

◆いくつもの謎

 つまり、アンゴラから姿を消し、CIAも探し続けているという航空機は、実はつい最近アラブ首長国連邦で化粧直しをしていたのではないか、と筆者は考え ています。本人に「昔の名前は?」、と直接に尋ねたいところではありますが、それぞれに渡世の事情があって、過去の記憶を断ち切りたいと願っているのかも しれませんから、ただ静かに見守るだけということにしたいのですが、前述の写真Aと写真Bが同じ機体であるかどうか、あなたの的確な鑑定を期待していま す。

 もし同じ機体であるとすれば、アンゴラから失踪した同機は、名前を書き替えて再びこの世にデビューするつもりであったことになるのでしょう。それとも、これもまた別の仮の姿ででもあるのでしょうか。

 ともあれ、UTA社が保有していた(リース契約の可能性もある)ボーイング727型機は都合二機ということになっていて、そのうちの一機はすでに事故で消滅していますから、アラブ首長国連邦で化粧直し中のこの機体が残りの一機であるはずなのですが、ベイルートへの乗り入れ許可を申請する段階で顔を出していた複数のボーイング727型機たちはどうしてしまったのか、墜落した機体は本当はどれだったのか、今見ている写真の機体の正体は何者なのか、などなど、 塩をまぶした串だんごでも食べさせられたような、落ち着かない胃袋の状態のまま、筆者は途方にくれています。

 「KAMIKAZE」仕様航空機の存在がアンゴラからの失踪ニュースで世間に十分アピールされ、さらにはコナクリ空港で目撃されたことによって、その役割をきっちり果たし終えたのか。あるいは失敗という結果になっているのか。

 複数のアメリカ人、アメリカ当局、ギニア当局、アンゴラ政府軍高官、レバノン人、場合によってはアラブ首長国連邦の空港関係者、あるいはリビアンアラブ航空、それから各地での目撃情報を発信した現役パイロットたちまでもがそれぞれの定められた役割を演じている可能性も否定できず、さらにはそのシナリオを 書いた黒幕の存在を指摘する外野の声もあながち軽視できないものの、謎は沙漠の砂嵐につつまれたまま静かに消え去っていきそうです。
(2004.1.17記)

 齊藤さんにメール mailto:bxz00155@nifty.com
 『金鉱山からのたより』バックナンバーは
 http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000005790

2004年01月29日(木)萬晩報通信員 園田 義明

 ■エアー・パワーと英BAEシステムズ
 
 英国とオランダは、米国とユーラシアに二股をかけて絶妙なバランスを取りながら、「ショー・ザ・フラッグ(旗幟鮮明にせよ)」を極力避けてきた。今回の 対イラク戦で特に英国の存在がなければ米・欧の対立はより深刻になっていたかもしれない。しかし、冷戦終結後、英国はユーラシア寄りに軸足を変えつつあ る。

 欧州12ヶ国で設立したアリアンスペースでの英国の出資比率も2、12%(オランダ1.97%)と控え目な参加に留めていたが、2001年からボーイン グを抜いて世界第一位の民間航空機メーカーとなったエアバスには、英国を代表する航空防衛企業であるBAEシステムズが20%を出資している。このエアバ スは、仏・独・スペイン連合のヨーロピアン・エアロノーティック・ディフェンス・アンド・スペース(EADS)との合弁企業である。

 そして、このBAEシステムズは、世界第2位のミサイルメーカーであるMBDAにも出資しているのである。MBDAは1996年に設立された仏マトラ・ ディフェンスとBAEシステムズ傘下のBAe・ダイナミクスの合弁会社「マトラ・BAe・ダイナミックス(MBD)」を中核に、EADSアエロスパシア ル・マトラ・ミサイルズと英伊連合のアレニア・マルコーニ・システムズとの3社統合により2001年に発足した新会社で、現在世界トップの米レイセオンに 次ぐ世界第二位のミサイルメーカーとなっている。MBDAの出資比率はBAEシステムズが37.5%、EADSが37.5%、フィンメカニカが25%と なっており、アリアンスペースと比べてその積極性が際立っている。

 ■E爆弾(E?BOMB)を巡る米・欧の駆け引き

 対イラク戦に使用されるのではとの観測から世界的に話題になった新型兵器がある。「E爆弾(E?BOMB)」と呼ばれるマイクロ波照射弾で、人を殺傷せ ずに強力な高出力マイクロ波「HPM」によって瞬時にコンピューターやレーダーなどの電気・通信系統を破壊する「ワンダー・ウェポン」(驚異的な兵器)で ある。米空軍が対イラク戦開始直後の3月25日から二日続けて行ったイラク国営テレビ局への攻撃でE爆弾が初めて実戦使用されたと米CBSテレビが伝えた が、実際にはイラク国営テレビは一時的に中断したもののすぐ再開したことから、多くの専門家はE爆弾の使用はなかったとみているようだ。

 このE爆弾を開発したのは、MBDAの前身であるフランスのマトラ・ディフェンスと英国BAEシステムズ傘下のBAe・ダイナミクスの合弁会社「マト ラ・BAe・ダイナミックス(MBD)」であった。最新鋭の新型兵器が米国企業ではなく、フランスと英国の企業体によって開発されている現実を直視すべき である。

 米・欧間の企業部門でのリムランドのような存在となっているBAEシステムズを巡って米国のボーイングやロッキード・マーティンがM&Aを仕掛けるので はとの噂が繰り返し流れているが、英国のユーラシアへの接近に対するブッシュ政権の苛立ちを象徴しているかのようだ。欧州勢が恐れるのは、民間部門で協調 関係も有するボーイングではなく、ロッキード・マーティンの存在であろう。かつてのロッキード事件によって米欧のグローバル・ビジネス・リアリストの拠点 であるビルダーバーグ会議の初代議長を務めたオランダのベルンハルト殿下が失脚したことを思い出しているに違いない。現在のブッシュ政権はまさにロッキー ド・マーティンとの関係がますます密接になってきた。

 ■ブッシュ政権の軍産インナー・サークル

 ブッシュ政権は、このロッキード・マーティンやノースロップ・グラマン、レイセオン、ボーイングなどの国防企業と、ランド研究所、新しいアメリカの世紀 のためのプロジェクト(PNAC)、ヘリテイジ財団、アメリカン・エンタープライズ研究所(AEI)、安全保障政策センター(CSP)、国家公共政策研究 所(NIPP)などのシンクタンクからなる回転ドアで繋がる強固な軍産インナー・サークル(奥の院)を構成しており、主要閣僚ポストには軍産インナー・ サークルの攻撃的なビジネス・リアリストやネオコンが多くを占めている。

 特に米国防産業の最大手であるロッキード・マーティンとブッシュ政権とのかかわりは密接である。2001年から2002年にかけてのロッキード・マー ティンの政治献金は236万9000ドルに上り、その6割が共和党に向けられている。チェイニー副大統領夫人であるリン・チェイニーは1994年からロッ キードの取締役となり、マーティン・マリエッタとの合併後も取締役に再任され、2001年1月まで取締役会に留まっていた。そしてラムズフェルド国防長官 もロッキード・マーティンと関係の深いシンクタンクであるランド研究所の理事を務めていた。PNACのブルース・ジャクソン所長はロッキード・マーティン の元副社長である。また水曜会に参加するCSPのフランク・ギャフニー所長もPNACの設立メンバーのひとりとなっているが、このCSPとNIPP双方の 理事会メンバーとなっているチャールズ・クッパーマンは、ロッキード・マーティンの宇宙・戦略ミサイル計画部門の副社長である。なお、CSPはロッキー ド・マーティンやボーイングなどから300万ドル以上の寄付を受けており、軍産インナー・サークルを資金面で支えているのは軍事産業であることがわかる。

 ブッシュ政権の軍産インナー・サークルが一体となって推し進めてきたのがミサイル防衛システム(MD)であり、とくに安全保障政策センター(CSP)、核兵器では国家公共政策研究所(NIPP)が中心的な役割を担ってきた。

 日本政府は、2003年12月19日の安全保障会議と閣議でミサイル防衛システムの導入を正式に決定し、2004年度予算案に日本全域を射程に収める北 朝鮮の弾道ミサイル「ノドン」の迎撃を念頭にミサイル防衛システムの実戦配備費として初めて1068億円(契約ベース)を盛り込んだ。これには、地上配備 型の地対空誘導弾パトリオット3「PAC3」と、イージス艦に搭載する海上配備型のスタンダードミサイル3「SM3」が含まれており、2007年から一部 を稼働させる計画となっている。調達費の総額は約5000億円だが、防衛庁の試算では、維持管理費も含めると8000億から1兆円規模に達する見通しと なっている。

 この商談成立には、北朝鮮を「悪の枢軸」とすることで、日朝間の緊張を高めたことが大きく貢献したのである。小泉政権は、対イラク戦支持、イラクへの自 衛隊派遣、日本の防衛力強化、そして将来の憲法改正へと向かうための大義名分として、北朝鮮カードを積極的に活用してきた。石破防衛庁長官が武器輸出三原 則の全面的な見直しの必要性を示しているが、これには日本がブッシュ政権の軍産インナー・サークルの一角を担う野心すら感じられる。

 しかし、冷静に考えれば、北朝鮮の軍事力の緻密な検証すら行われていない中で、連日メディアが煽る脅威が一人歩きしているようにしか見えない。またテロ に対するミサイル防衛システムの有効性に対する現実的な議論も見えてこない。ミサイル防衛システムの日本での一部稼働が予定されている2007年を迎えた 時、一兆円規模の価値が見いだせるかどうか疑問である。

 ■「ブッシュ・チームを月か火星に送っちまえ」

 2004年1月14日、ブッシュ大統領はワシントンの米航空宇宙局(NASA)本部で演説し、月面への宇宙基地建設や火星への有人宇宙飛行などを盛り込 んだ新たな大規模宇宙開発計画の概要を明らかにした。1961年のケネディ大統領の月への有人飛行計画発表以来となる大規模宇宙開発計画となり、「われわ れは月面に新しい足跡を付け宇宙旅行を準備するため新しい宇宙船を建造する」と語る。

 この計画には、チェイニー副大統領や国家安全保障会議のメンバーが深くかかわったと言われており、軍産インナー・サークルの存在がここでも脚光を浴びる ことになる。ブッシュ大統領は、新設される宇宙開発計画の諮問委員会の委員長にピート・オルドリッジ前国防次官を任命しているが、オルドリッジは地下核実 験再開の必要性を主張したタカ派で、2003年5月に国防次官を退官、翌月にはロッキード・マーティンの取締役に就任していた。またダグラス・フェイス国 防次官らと共にCSPの軍事委員会のメンバーになっていた。

 ブッシュ大統領は、新宇宙開発計画で通信やエネルギー、新素材などの技術革新が、米産業界に新需要をもたらすとの期待を表明し、税金の無駄遣いではない と強調、有権者の理解を求めたが、大統領選を目前に控えた古くさい戦略との批判が国内外から高まることになる。国際的な環境保護団体である地球の友は、 「火星探査に使う巨額の資金は、地球温暖化対策など、地球のために使うべきだ」とする声明を発表し、米国市民の間からは人類の将来のために「ブッシュ・ チームを月か火星に送っちゃえ」と呼びかける洒落たコメントも登場している。

 ブッシュ政権にはぜひとも金星便もお願いしたい。石破防衛庁長官の長官室には自作の戦艦や戦闘機のプラモデルがずらりと並んでいる。月や火星や金星に行 けば、広大なスペースを利用して思う存分楽しめるはずだ。「歩く月刊明星」こと石破茂オンステージも待っている。得意の河合奈保子や岩崎宏美やアグネス・ チャンの歌を熱唱する姿が思い浮かぶ。一番好きなキャンディーズのミキちゃん演じる防衛庁長官、果たしてランちゃん、スーちゃんは誰がやるのだろうか?

 月や火星が彼らを受け入れてくれればいいのだが・・・・。

 ▼参考・引用


BUSH SHOULD CONCENTRATE ON LIFE ON EARTH...NOT MARS
http://www.foe.co.uk/resource/press_releases/
bush_should_concentrate_on.html


Send Bush team to moon or Mars
http://www.c-n.com/news/c-n/story/0,2111,886874,00.html

国防のトップ「人間・石破茂」に迫る
毎日新聞2003年5月27日夕刊

 園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp
2004年01月28日(水)イタリア・モントットーネ村在住 飯田 亮介

 昨年十二月末に日本に帰ってきてから、かつて覚えのないこの国に対する「違和感」が胸をはなれない。かといって、私の留守の間に日本がなにか大きく変わってしまったとも思えない。いったい私はどうしてしまったのだろう。

 外国から日本に帰るたびに、日本を新たな目で眺めることになるというのは、私にとって新たな体験ではない。大学生の頃、中国を初めとしたアジアの国々に通っていたころは、日本と言う国は物はあふれかえっているが、人の心になにかが足りなくなっていると考えさせられ、月並みな表現ではあるが「貧しいけれど も心は豊か」な人々の住む国々から何かを学び、日本にもって帰ってくることが出来ればと考えていた。イタリアから帰ってくるようになってからは、日本の治 安の良さや、アルバイトであれとにかく仕事があること、電車がすこしでも遅れると「大変申し訳ありません」などとアナウンスが入るほどのその正確さを評価 することも覚えた。ルーズではあるが、もっと「人間臭い」イタリア人の感覚が懐かしくなることも往々にしてあったが。

 いずれにせよ、帰国当初は新たな発見をしたり、違和感などを覚えつつも、そのうち自分をとりまく日本の現実に慣れてしまうことが出来るのが、常だった。だが、今回は違う。

 日本の周囲には「他」が見えなくなると言うバリアーが張り巡らされている気がする。そして今回はそのバリアーの存在に慣れることがどうしても出来ない。それがいま私のもつ「違和感」だ。

 周囲にある「他国」が見えない。世界が見えない。情報がきこえてくることもあるが、やはり、ほんとうに見えて来ることは少ない。ここにいると、なにか外 の世界とは隔絶した空間に生きているような気がしてくる。口にするのも眼にするのも、外国からやって来たものばかりだというのに。

 この国で生きる「他人」同士の間にある隔壁も以前にくらべて、厚く強固なものになった気がする。電車のなかで私のまえで黙って座っている人々は、たしかに目の前にいるのに、誰よりも遠い存在のようだ。「人にやさしく」と適度な距離をはかっているうちに(もしくはそうするように教育されているうちに)、 「他人にさわらず」とどこかで転化してしまった末の隔壁なのだろうか。目の前にいる他人より、毎晩ブラウン管の中ではしゃいでいる会ったこともない「オピニオンリーダー」の方が、なんだかずっと身近な気分がするというのはやはり、奇妙だ。

 慣れてしまえば、バリアーにかこまれ、それぞれの隔壁のなかでおくる日本社会の生活も、せわしなくこそあれ、それほど息苦しいものでもなく、自分の隔壁 のモニターにうつる遠い国の騒ぎをみながら、「日本って平和だなあ」なんてセリフも言いたくなることは分かっているが、今回ばかりは、どうにもこうにも慣 れることが出来ない。

 バリアーのなかで安穏と暮らしているには、いまの国際情勢は危うすぎる気がする。日本人の誰もが「知っている」現在の反テロ戦争の動きにしてもそうだ。 「アフガニスタンで米軍による新たな誤爆」という小さな記事を先日眼にした。「ひどいな」と誰でもそこで感じると思う。しかし、それが実は日本にも関わり のある悲劇であることを考えさせるような考察はその記事にはなかったし、そんなことを考える人も少ないようだ。アメリカの爆弾で死亡したアフガンの民間人 は、日本が(もっと言ってしまえば、わたしたちが払った税金と、わたしたちの政府、そしてわたしたち全員がある意味で)殺した人々でもあるのだ。アメリカ の攻撃は日本の政府によって、経済的にも政治的にも応援されているのだから。  日本は「人道的支援」を理由にアメリカに資金を提供している----そう反論する人もいるかもしれない。だが、いったん差し出したお金に名前などついて はいない。かつては同じアジアの先進国として日本のことを比較的好意的にみていた中東・南アジアのイスラム教徒たちが、今、日本をアメリカの側にたって自 分たちを攻撃する敵国とみなすこともありうるという話は、このバリアーのなかまではきこえてこない。

 またつい先日、ブッシュの演説で、アメリカの対イラク政策を自画自賛した後に、アメリカの行動を支持する世界の国々のリストの最初のほうに日本の名前を あげていた。それを聞いて喜んでいるようでは、危ない。この国は今、アメリカに攻撃をされている者たちの恨みを買ってしかるべき、「ご指名」を受けてし まったのだから。

 いやがおうにも、日本は世界の中にあり、世界中の国々と相互に関わっているのである。当たり前のようでいて、それが実感しづらい空気がこの国にはある。

 バリアーを、そして隔壁を作り出したのが誰なのかは、まだ私にはわからない。政治的な操作も、ジャーナリズムの怠慢も、民族性も歴史の影響も、あるいは 島国と言う特殊な地理もあるのかも知れない。いずれにせよ、このバリアーはわたしたちの安全な生活を守ってくれるほど親切なものではない。なんとかしてそ れを取り払い、一億を越える国民がお互いの隔壁を越え、本当の世論をたちあげて行かぬことには、この国はあぶない――そんな危機感が私のなかには強くあ る。

 さて、いま私がこんな気分でいるのは、「反戦の手紙」の翻訳をしたからだと思う。「翻訳とはもっとも深い読書のしかたの一つだ」という言葉を読んだこと があるが、まったくその通りで、ここまで深く一冊の本を読んだことは私の人生の中でも恐らくなかった。まだ一冊しか翻訳をしたことのない私がこの職業を語 るのは、時期尚早でもあるだろうが、「翻訳者とは神(作者)の言葉を人々(読者)に伝えるシャーマン・巫女のようなものだ」とでも言いたい気分がする。自 己をむなしくして、原作者の言わんとすることをその魂から読みとり、誠実な形で人に伝える......経験のあさい自分はこの翻訳作業を終えた今も、「反戦の手 紙」の作者テルツァーニ氏の主張に心を支配されている部分がかなりある。自分で考えたつもりで、じつは無意識のうちに、彼の言葉を形をかえて語っているだ けの可能性もある。それは白状しなければならない。

 だがこの「洗脳」状態はそう悪いものではない。私にひとつ、世界を見る新たな視点を与えてくれたのだから。 いつの日か彼の言葉を消化しきって、自分の血肉に出来る日が来ると思う。その時には、もうすこしまとまった形で、今回の「ざわめき」の原因と対策を説明で きる気がする。

 飯田さんへメールは mailto:info@ryosukal.com
 飯田亮介のホームページ http://www.ryosukal.com


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2004年01月27日(火)萬晩報通信員 成田 好三

 箱根駅伝で燃え尽きてしまった選手は数多くいる。その中には「100年に1人」と評価された渡辺康幸選手(早稲田大)がいる。高校時代から嘱望され、大 学時代には箱根駅伝で1区、2区の区間新記録を連発した。早稲田大の黄金時代をつくりだしたヒーローである。しかし、卒業後は学生時代に痛めたアキレスけ ん痛に悩まされ、五輪でのマラソン、トラックのメダルを狙うどころか、五輪への出場も実現できないまま引退した。

 箱根駅伝は、大学生には過酷すぎる駅伝である。あるいは逆に、大学生でしかできない駅伝なのかもしれない。駅伝でタイムを大きくロスしたり順位を大きく 下げたりすることを「ブレーキ」と言う。やはり読売新聞の記念座談会に出席した箱根駅伝の経験者たちが恐ろしいコメントを残している。

 箱根駅伝に昭和34年から4大会連続して出場し、中央大6連覇に貢献した横溝三郎氏はこう語っている。「箱根でブレーキした選手は、それ以降ほとんど立 ち直っていないんです。もう競技会に出てこないんです」。読売新聞の記者として長く箱根駅伝の取材に携わってきた水戸英夫氏がこう続ける。「箱根でつぶれ ちゃうと、それだけ精神的ダメージがおおきいんですよ。それに、全国放映でテレビでみんな流れますから―」

 彼らは箱根駅伝の理不尽さを理解していない。だからこそ、こうした恐ろしい事例を何のためらいもなく語れるのだろう。学生時代にたった1回、ブレーキを 起こしただけで選手生命が終わらせてしまう大会など他にはない。スポーツの最高峰の大会である五輪でさえ、一度失敗した者にも復活のチャンスはある。復活 へのトライアルこそ、見る人の想像力を刺激する。

 箱根駅伝で最も厳しい区間は山登りの5区だと一般的には言われている。しかし、本当に厳しいのは、いや過酷なのはその逆のコースをたどる山下りの6区で ある。箱根から小田原まで標高差800メートル以上を1時間前後で一気に駆け下りる。山下りの過酷さについて、座談会での発言を拾ってみる。

 神奈川大の監督、総監督として連覇を果たし、同大在学時にも3大会連続で出場した工藤伸光氏は「初めてのときは、1週間階段をまともにおりられなかっ た。足の裏は全部血まめになりました」と振り返る。「膝と腰がだめになりました。立っているのがやっとでした。直るのに1週間かかりました」(横溝氏)。 「衝撃の反動が内臓に来るんですよ」(工藤氏)

 箱根駅伝の異常さを象徴するような発言もある。「ある大学は駅伝しかやらないという現象まである」(横溝氏)。駅伝は陸上競技の中の1分野である。ト ラックとロードレースを組み合わせてこそ選手の技術も能力も進歩する。しかし、駅伝だけしかやらせないその大学は、経営戦略の中でしか箱根駅伝をとらえて いない。そして、選手たちは大学の戦略の中で「走る道具」としての存在となる。

 箱根駅伝は区間設定そのものにも問題がある。1―10区ともすべて20キロを超える。駅伝が耐久レースだった時代に設定されたからだ。しかし、現在の駅 伝、ロードレースは、もはや耐久レースではない。世界のマラソンは男女ともトラックのスピードランナーが続々と挑戦し、世界記録を塗り替える時代になっ た。マラソンの世界記録をもつ男子のポール・テルガト(ケニヤ)、女子のポーラ・ラドクリフ(英国)とも1万メートルで世界トップレベルのランナーであ る。

 そうした時代に、明日の陸上・長距離界を背負うエリートランナーたちは、20キロの練習に明け暮れる。世界に挑むならば、18-22歳のころは、トラックやクロスカントリーでスピードを身につけるべきである。世界の流れとは逆行した練習をしている。

 駒沢大が3連覇を達成した今年の箱根駅伝には、日本学連選抜選抜チームが出場した。これまで箱根駅伝には縁がなかった関東以外の大学の選手に出場機会が 与えられた。しかし、オープン参加で個人記録は残るがチームとしての成績はつかない。しかも、80回の記念大会だけ、今回限りのの措置だった。

 読売新聞のシンポジュウムは「箱根から世界へ」をテーマに開催された。しかし、メディアによって肥大化し、大学の経営戦略に組み込まれた現在の箱根駅伝 は、はたして世界へ通じる道なのか。日本の陸上界が世界レベルで戦うことを望むのであれば、日本の陸上競技関係者は、箱根駅伝の現実を直視し、早急に改善 策を講じるべきである。                            (2003年1月13日記)

(注)記事中の箱根駅伝80周年記念シンポジュウム、記念座談会に関する記載は、YOMIURI ON-LINE(http://www.yomiuri.co.jp/)の箱根駅伝特集(http://www.yomiuri.co.jp /sports/ekiden2004/)から引用しました。

 成田さんにメールは mailto:narita@mito.ne.jp
 スポーツコラム・オフサイド http://www.mito.ne.jp/~narita/

2004年01月26日(月)萬晩報通信員 成田 好三

 国内最高のレベルの大会ではもちろんない。大学レベルの大会である。しかも、ある地方の大学にしか参加資格がないローカル大会である。そんな大会が、あ る新聞・TVメディアの強力な後押しによって、圧倒的な社会的関心を集める大会になった。その結果、地方のローカル大会が、全日本の大学レベルの大会どこ ろか、国内最高レベルの大会をもしのぐ社会的「ステータス」をもつ大会になった。東京・首都圏も日本全体から見れば、ひとつの「地方」であることには変わ りはない。それが、箱根駅伝の現在の姿である。

 箱根駅伝の「魔力」に引き寄せられて東京・首都圏の大学に進んだエリートランナーたちは、どんな状況下で何を目標にして走るのだろうか。そのことについて語る前に触れなければならないことがある。箱根駅伝は東京・首都圏の大学にとってどんな存在なのかということである。

 今年、2004年の大会で箱根駅伝は80回を迎えた。大会の実質的主催者である読売新聞は昨年12月、東京で記念シンポジュウムを開いた。基調講演の中 で、「ミスター箱根駅伝」ともいえる沢木啓祐・順天堂大教授は、現在の肥大化、巨大化した箱根駅伝が抱える問題について指摘している。沢木氏は、最近の途 中棄権が優勝を争うトップチームからでているとした上で、次のように述べている。

「彼ら(途中棄権した選手)は疲労骨折やアキレスけんを痛めた。現場(レース)には秋口までほんとうに復帰できなかった。一歩間違うと競技生命を危うくす る。こうしたことがなぜ起こるのか。テレビ中継によって人気が高まり、大学の経営戦略の中に箱根駅伝が組み込まれるようになった。老舗と言われる大学でも 非常なサポートがなされている」

 沢木氏が指摘する大学の経営戦略とは、少子化に伴う大学間競争の時代に、いかにして大学の名前を売り込み、そのステータスを上げるかということである。 この競争に勝ち残らなければ、伝統ある大学でも生き残れない。箱根駅伝は、そうした厳しい状況下に置かれた大学にとって、最も効果的に大学の名前と存在を アピールできる場になっている。

 多くの国民が休日を楽しむ正月2、3日に、延べ約12時間以上にわたって生中継で大学を「宣伝」してくれるイベント、TV番組など他にはない。視聴率 30%近くをたたき出すTV番組は、何度も出場校と出場選手を映像と音声で紹介する。優勝を狙える有力校の場合は、その大学の歴史や興味深いエピソードま で繰り返し放送してくれる。TV・CMに換算すれば、どれほどの広告費に値するだろうか。

 箱根駅伝のランナーたちは、大学OBや駅伝ファン、出身地の期待だけではなく、大学の経営戦略の中で走るのである。そのため、出場選手はもちろん、監督など関係者にも過度の重圧がのしかかる。

 選手や監督などにのしかかる過度の重圧を示すいい例がある。最近の箱根駅伝では、1区はスローペースになることが多い。少なくと2001―03年はそうだった。スタートから全選手(全出場校)が牽制し合い誰も飛び出さない。

駅伝では、1区で大きなリードを奪えば、その後のレースを有利に展開できる。しかし、飛び出して失敗すれば、リスクは逆に大きくなる。だから、だれも飛び 出さないのだ。いや、飛び出せないのだ。あるときは、ジョギング程度にまでスピードが落ちる。選手も監督も、リスクを犯してまで飛び出せない。失敗すれ ば、大学の戦略にとって致命的な結果になるからである。

 今年の大会では、山梨学院大が勇気をもって飛び出した。1区のランナーが序盤からスパートした。しかし、中盤には失速し下位に落ちた。山梨学院大はこの 失敗が後をひいて12位に終わり、有力校にとっては「最低条件」である来期のシード権を失った。山梨学院大の失敗により、来期の箱根駅伝では、よほどの高 速ランナーを配置できる大学がない限り、1区はまたも牽制し合う展開に戻るだろう。

 沢木氏の講演後に行われたフォーラムでは、司会役の金哲彦氏(ニッポンランナーズ理事長)が、「箱根症候群」についてこう指摘している。「箱根のために 練習をやりすぎ、そこで終わってしまうということもあると思う」。金氏は早稲田大時代に箱根駅伝の山登り(5区)で名をはせたランナーである。

 沢木氏が先に指摘した途中棄権の主な理由、疲労骨折やアキレスけん痛はほとんど練習のやりすぎからきている。金氏は自らの体験を踏まえてこう続けている。

「よほど力(の差)がない限り、強いチームにいると、自分が選手になれるかどうかはわからない。12月の後半になると、当時の早稲田の場合は、20キロのタイムトライアルを1週間置きぐらいにやる。毎回、選手選考会みたいなことをずっと繰り返してきた」

箱根駅伝のランナーたちは、大学の経営戦略による過度の重圧の中で走り続けている。(2004年1月13日記)

(注)記事中の箱根駅伝80周年記念シンポジュウムに関する記載は、YOMIURI ON-LINE(http://www.yomiuri.co.jp/)の箱根駅伝特集(http://www.yomiuri.co.jp /sports/ekiden2004/)から引用しました。

 成田さんにメールは mailto:narita@mito.ne.jp
 スポーツコラム・オフサイド http://www.mito.ne.jp/~narita/
2004年01月25日(日)萬晩報通信員 成田 好三

 日本における正月最大のイベントは箱根駅伝である。2、3の両日、東京―箱根間往復約200キロのコースで行われるこの大学生による駅伝大会は、もはやスポーツの枠を超える社会的イベントにまでなっている。

いまや「怪物」と化した箱根駅伝の前では、元日に行われる全国実業団駅伝の影は薄くなる。社会人のトップチームとそこに所属する日本を代表する長距離ランナーが日本一をかけて競う大会は、まるで箱根駅伝の「前座試合」であるかのような扱いを、メディアから受けている。

全国一の初詣客を集める明治神宮にしても、箱根駅伝が呼び寄せる沿道の人の波にはとても太刀打ちできない。往復約200キロの沿道に何百万人という人の波 がほとんど切れ目なく続く。そんな巨大イベントは他にない。民放キー局によって製作され、2日間で延べ約12時間にもわたって放送される生中継は高視聴率 をたたき出す。全国の何千万人という人たちが、この駅伝大会を見るためにTVの前で正月休みを過ごす。

箱根駅伝は戦前からの長い歴史をもつ伝統ある大会である。しかし、前述したように日本一を決める大会ではない。そればかりか、大学日本一を決める大会でもない。関東1都6県と山梨県に所在する大学チームしか参加資格のない、「ローカル大会」である。

関東のローカル大会があるメディアグループの強力な後押しによって、大学ばかりか全日本の大会をしのぐ社会的人気と関心を集める大会になった。それが、いまの箱根駅伝の姿である。

箱根駅伝の主催者は関東学生陸上競技連盟である。本来は大学生が主催する大会である。しかし、共催の読売新聞、後援の日本テレビが実質的に大会をコントロールすることで成り立っている。これだけ巨大化した大会を大学生が実質的に主催することなどできない。

読売・日本テレビグループは大会前に圧倒的な量の事前キャンペーンを繰り広げる。読売新聞は前年12月ごろから何度も特集紙面とスポーツ面での参加校と有 力選手の紹介を続ける。日本テレビはもっと一般受けする話題をニュース、ワイドショーで展開する。社会的人気、関心の高さから他のメディアグループも箱根 駅伝を無視できなくなる。

箱根駅伝が「怪物」化した最大の要因は、日本テレビによる2日間、延べ約12時間にも及ぶ全国生中継が実現したことにある。スポーツ番組の連続生中継としては日本一である。恐らく世界でも例のないものだろう。

箱根駅伝は、社会的人気、関心の高さゆえに、スポーツ大会としては「倒立」した存在になってしまった。「正三角形」であるべき形態が「逆三角形」になってしまったともいえる。地方のローカル大会が肥大化、巨大化したことで派生させた歪みについて以下に指摘したい。

歪みはまず、長距離ランナーを目指す高校生が進学する大学が、東京・首都圏に集中するという形で表れる。箱根駅伝に出場するには関東の大学を選択しなけれ ばならない。関東といっても、箱根駅伝に出場可能な大学は資金力、選手のスカウト能力、指導者のレベルなどから、ほとんど東京・首都圏の大学に限られる。

高校生ランナーの東京・首都圏集中は、大学駅伝の「三大大会」の成績にはっきりと表れる。大学駅伝は、箱根駅伝と出雲駅伝、全日本大学駅伝が三大大会と呼ばれる。箱根駅伝以外は、北海道から九州・沖縄まで参加資格のある、大学生による「オール・ジャパン」の大会である。

2004年の箱根駅伝と同じシーズンに行われた出雲駅伝(2003年10月13日、島根県で開催)では第9位の第一工業大学(鹿児島県)以外は、優勝した 日本大学を含めすべて関東勢が占めた。全日本大学駅伝(2003年11月2日、愛知・三重県で開催)では、優勝の東海大学から9位の東洋大学まで関東勢が 占め、関東勢以外では10位に京都産業大学が入っただけだった。

ここ10年ほどを見ても、出雲駅伝、全日本大学駅伝のベスト10は箱根駅伝への参加資格のある関東(東京・首都圏)勢がほぼ独占している。

東京・首都圏の私立大学はこぞって箱根駅伝への出場、上位入賞、さらに優勝を目指す。箱根駅伝の巨大な「宣伝効果」は計り知れないほど巨大だからだ。少子 化、大学間競争激化の時代に、箱根駅伝で名前を売るほどの宣伝効果はない。大学のステータスを上げ、優秀な受験生を数多く集め、経営を安定させるためにこ れほど効果的なイベントはほかにない。

一方、箱根駅伝への出場を「門前払い」された関東以外の大学は、東京・首都圏の大学の「箱根スパイラル」ともいうべきこうした動きに対し、指をくわえて眺 めるだけの存在になる。箱根駅伝が東京・首都圏と他の地域の大学との「地域間格差」を拡大させる。箱根駅伝が東京一極集中をさらに加速させる。

箱根駅伝、いや箱根駅伝の異常なまでの社会的人気と関心は、他にもさまざまな歪みをもたらしている。(2004年1月8日記)

 成田さんにメールは mailto:narita@mito.ne.jp
 スポーツコラム・オフサイド http://www.mito.ne.jp/~narita/


2004年01月15日(木)萬晩報主宰 伴 武澄

 小泉内閣による改革路線が当初、多くの国民から喝采を浴びていたのに、ここへ来て「何か違う」と思わせている。道路公団、郵政、年金問題。先の衆院選で 各党の打ち出したマニフェストでも"改革"は"目玉商品"となった。改革なくしてマニフェストは描けないほど人口に膾炙し、改革という文字はもはや小泉内 閣の専売特許ではなくなった。

 誰もが語る"改革"という文字に鮮度がなくなっただけでない。本当に改革なのかと思わせる改革もある。年金問題などはその典型である。単に財政的に現行 制度が維持できなくなっただけのことで、国民に重い負担を強いるものまで改革の範疇に込められたのでは「何のことか」と首をかしげざるを得ない。

 そんなことからある日、構造改革を構造破壊という言葉に置き換えてみた。そうだ。日本でいま起きている変化は人為的な変革なのではなく、たまたま制度疲 労に陥った日本的経済構造が自律的に崩壊過程にあるだけだったと考えることによって、ここ数年日本で起きていたこと、そしてこれから起こるだろうことが鮮 明に見えてくる。

 小泉内閣は改革をはじめたが、改革を進めたわけではない。小泉首相は「抵抗勢力も改革に与するようになった」と改革路線を自画自賛しているが、実は抵抗 勢力とみられた人々が"改革路線"に沈黙したのではない。沈黙を余儀なくされているのだ。財政のバランスシートをしばし眺めて、このまま旧来の大盤振る舞 いを続けていいと考えるのはよっぽどの経済オンチとしかいいようがないからだ。

 日本的な経済構造を崩壊に導いた因子はいくつかある。

 まずは円高である。1985年のプラザ合意以降、進んだ円高は第二波、第三波と津波のように列島に押し寄せて日本的な経済構造を揺るがしてきた。まずは 輸出産業をアジアに移転させる動機となった。日本の輸出産業はNIESそしてASEANへ、さらには中国へとダイナミックな移転を行ってきた。日本企業の アジア移転は輸出生産を単に迂回させただけには終わらなかった。アジアで生産された商品はやがて日本本土に還流し、国内で価格破壊をもたらした。価格破壊 は企業に売り上げ減という問題を付きつける一方で、消費者は安い衣料品や家電製品の恩恵にあずかることになった。

 海外生産の拡大はまた、日本的な系列取引を崩壊させた。国内での生産では、鋼鈑、プラスチック、電子部品、さらには製造機械に到るまで系列取引で価格が 硬直化していた。「購買部門」が系列から解き放たれた結果、日本企業の海外での収益構造が格段に向上した。この成果はじわじわと国内の経営にも導入され た。ここ数年、高水準の収益を得ている企業群はまさにこの成果を先取りしたグループなのである。

 二番目はグローバル化の影響である。日米構造協議やウルグアイ・ラウンドによって、それまで外資の参入を阻止していた非関税障壁が次々と壊れた。外資の 参入が容易になるということは国内でも新規参入が可能となる。規制緩和によって国内産業を規定していた業界秩序が崩壊したのである。

 業界秩序の崩壊を如実に示したのがビール業界だった。酒販免許の規制が緩和され、大型のディスカウント店が出現すると輸入ビールがブームとなり、続いて 家庭でのビール需要は「ビン」から「缶」へと劇的に変化した。その結果、キリンビールの牙城が瞬く間に崩れたのである。戦後の業界序列がはじめて崩れた ケースであろう。

 三番目は金融のビッグバンである。銀行、証券、保険の垣根が崩されたことも小さくないが、金利の自由化がもたらした影響は計り知れない。金利の横並びは 十分に解消されたとはいえないが、市場金利は外部要因で絶えず変動するようになった。例えば、国債増発による公共事業の積み増しが長期金利の上昇をもたら すようになった。景気刺激のため公共事業を増やすのはいいが、金利が上がったのでは元も子もない。資本主義経済では当たり前のことが1980年代までの日 本では起こり得なかったのである。それが現実のものとなった結果、景気対策として安易に公共事業を積み増すことができなくなり、財政の規律すら市場原理が 律するようになったのだ。

 第四番目は地方の自立である。公共事業の負担に耐えられなくなった自治体に田中康夫長野県知事のような知事が生まれ、政府の思い通りにいかない自治体が いくつも生まれた。小泉内閣がうたう三位一体の改革は補助金と地方交付税交付金のカットと財源の地方への移譲をセットにしたものだが、多くの自治体が政府 による画一的な建設行政を欲しなくなった。それだけでない。これまでの公共事業による地方負担は借金という形で地方財政を圧迫していたのだ。新たに選ばれ た首長たちは選挙で政府の財政より足元の地方財政の危機を訴えた人々だったといえよう。政府に対して財源移譲を求め、それぞれの地方に独自の開発計画を求 める傾向はこれからも強くなる。

 小泉内閣の出現も因子として取り上げなくてはならない。「自民党をぶっ壊す」とまで言ったが、その自民党もまた「キングメーカーの不在」「族議員の弱体 化」など崩壊過程にある。小泉首相は就任時、国債発行を30兆円以下に抑えると公約し、少なくともその年度と翌年度の当初予算で公約を実現した。小渕内閣 や森内閣のような大規模な景気対策は打たたなかった「がまんの財政」だけは評価しなければならない。3年間、財政出動というカンフル財がなかったおかげ で、民間経済の自律的回復が可能となったのである。

 昨今の景気回復や企業業績の回復について、まだまだ疑問を呈する政治家やアナリストが少なくない。「リストラ頼み」「輸出頼み」など言い訳はいろいろあ るが、企業リストラの必要性が強調されながら「リストラが進まない」と言っていたのは誰なのであろうか。それから日本はこれまでいつだって「輸出立国」で あったのだから、これは言いがかりとしか言いようがない。

 日本的な経済崩壊の過程で起きているのがデフレ経済である。日本的な経済構造とはまさしく公共事業を筆頭に多くの分野ではびこる二重価格だったと考えれ ば、本来は歓迎すべきではないだろうか。民間の建設事業と比べて格段に高かった公共事業の談合が崩れ、カルテルに守られてきた素材の市況が内外無差別とな ることは結果的に日本経済を筋肉質に変化させつつあることをなぜ「デフレの危機」と煽る必要があるのだろうか。もちろんこの過程で失業率は確実に増えた。 貸し渋り現象も起きた。しかし、5%程度の失業率はヨーロッパではいい方の範疇に属する。やがて2%台という完全失業率に近い状態の方が異常だったという 時代がやってくるだろう。

 インフレターゲット論者たちは絶対に認めたくないだろうが、デフレ経済は構造破壊が消費者にもたらした最大の恩恵なのである。名目では経済成長率が減速 しているという主張もあろうが、筋肉体質をもたらすデフレによる実質成長をもっと素直に喜ぶべきではないだろうか。サラリーマンはもはや都内ではマンショ ンを買えないと言っていたのはちょうど10年前の話なのである。

2004年01月10日(土)萬晩報通信員 園田 義明

 ■動き始めたアジアハイウエー構想

 国連ESCAP(アジア太平洋経済社会委員会)が主催するアジアハイウエー(AH)政府間協定(仮称)に関する政府間会合が2003年11月17、18 の両日、タイのバンコクで開かれ、アジア地域を結ぶ55路線の経過地や標識、道路構造基準などを盛り込んだ協定文が採択される。アジアハイウエーは、アジ ア地域の32カ国、延長約14万キロメートルの路線を計画に位置付け、日本はこれまで専門家の派遣、調査の実施、技術協力等による支援を積極的に実施して きた。この会合ではアジアの一員としてAH計画に参加することが日本のプレゼンス向上に寄与するとの観点から、AH政府間協定に日本国内の路線を掲げるこ とを表明、「東京?福岡」(?釜山)を路線「AH1(AH1号線)」として掲げることを提案し、会合において意見の一致を得ることになる。

 この結果AH1号線の主要ルートは、東京-福岡-釜山-北京-ハノイ-バンコク-ニューデリー-カブール-テヘラン-イスタンブールとなり、通過国は、 日本、韓国、北朝鮮、中国、ベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマー、バングラディシュ、インド、パキスタン、アフガニスタン、イラン、トルコの14カ国 に及ぶ。道路には「AH1」という標識が付く予定となっており、東京・福岡間は東名や名神、中国縦貫道など既存の高速道路が指定され、「イスタンブールま で2万キロ」の標識が都心に立てられる可能性もある。

 ■国連主導のアジアハイウエーと
    E・ロード ・ネットワークとユーラシア大陸横断鉄道


 なお重要な点は、この国連ESCAP(アジア太平洋経済社会委員会)のAH計画は、国連欧州経済委員会 (UNECE)の進める「E・ロード ・ネットワーク」と連携しており、中央アジアとコーカサスで合流することになっている。従ってユーラシア全域に拡大する可能性を秘めている。この国連と古 い欧州が主導するユーラシア道路網に米国の強い警戒心に繋がっている。

 2003年6月14日、韓国と北朝鮮を半世紀ぶりに鉄路で結ぶ京義線と東海線の鉄道連結式が南北の軍事境界線で行われた。2000年6月の南北首脳会談 三周年を記念する行事となったが、北朝鮮の核問題が国際的な懸念や金大中前政権の対北送金疑惑の影響により3年前の熱気は消え失せ、祝賀行事の参加者も報 道関係者を含め南北各50人という小規模なものとなった。

 この背景には、「太陽だけで乾燥した土地は耕せない」と太陽政策容認路線のクリントン政権を批判し、一転して北朝鮮を「悪の枢軸」と呼ぶ強硬路線に切り 替えたブッシュ政権の地政戦略が大きく影響し、それと連動した諜報工作が北朝鮮周辺国一帯で進められているものと考えられる。そして、ブッシュ政権の様々 な介入は南北鉄道連結の中止が決まるまで継続される可能性がある。

 その理由は、朝鮮半島の鉄道網が中国やロシアの鉄道とつながることで、北東アジアと欧州間にまたがるユーラシア大陸横断鉄道が誕生するからである。そして、アジアハイウエー同様に日本がその発着地となる可能性も恐れているのである。

 朝鮮半島からヨーロッパへ至る現実的な鉄道ルートには、次の経路が存在する。  
  • 中国東北経由、満州横断鉄道(TMR)
  • 新義州-瀋陽-ハルビン-満洲里-シベリア鉄道(TSR)へ
  • モンゴル経由、モンゴル横断鉄道(TMGR)
  • 新義州-北京-ウランバートル-ウラン・ウデ-シベリア鉄道(TSR)へ
  • シベリア横断鉄道(TSR)直行
  • 清津-豆満江-ハサン-バラノフスキー(ウラジオストック北方)-シベリア鉄道(TSR)へ
  • 中国西部・中央アジア経由、中国横断鉄道(TCR)
  • 新義州-西安-ウルムチ-アルマトゥイ-シベリア鉄道(TSR)へ
(『朝鮮新報』高成鳳「ユーラシア大陸横断ルートと京義線」を参考)

 実際に海上輸送とのコスト差、時間、手続き、治安等の問題から現状では夢物語のように見えるが、1995年から国連ESCAP(アジア太平洋経済社会委 員会)もアジアとヨーロッパをつなぐ縦断鉄道建設を推進しており、アジアハイウエーとユーラシア大陸横断鉄道が連携させることで、ユーラシア一帯の有力な 輸送手段の選択肢のひとつとなる可能性を秘めている。

 ■日韓海底トンネル構想と麻生太郎

 国連ESCAPのアジアハイウエー協定文には日韓海底トンネル構想は触れられていない。しかし、自民党のHPに掲載されている「デイリー自民」の平成 15年6月19日付け記事では、外交調査会がドーバー海峡トンネルの工事に携わった宇賀克夫氏と、民間で日韓海底トンネル実現に向けて調査などに取り組ん でいる「日韓トンネル研究会」の高橋彦治・濱建介両氏からヒアリングを行った結果、日韓海底トンネルは「技術的には実現可能」との見解を示したことを掲載 している。この構想について、自民党では麻生太郎総務大臣が議長を務める「夢実現21世紀会議」の「国づくりの夢実現検討委員会」が実現に向けた政策提言 を発表している。

 この麻生太郎総務大臣は九州を代表する麻生グループの御曹司であり、セメント事業を中核に健康・医療・福祉関連事業、教育人材関連事業、人材派遣関連事 業など80社を超えるグループ企業を傘下に持っており、セメント事業では世界最大のセメントメーカーであるフランスのラファージュと資本提携し役員も受け 入れている。ラファージュ本社のベルトラン・コロン会長は、取締役兼任によってBNPパリバやトタル、そしてフランス・テレコム、カルフール、ラザード・ ブラザーズなどと密接に繋がるフランス株式会社の中核に位置している。九州とフランスを結び付ける日韓海底トンネルはこの麻生太郎にかかっているのかもし れない。またブッシュ政権にとっては要注意人物のひとりとなっている可能性が高い。

 ■ガリレオが導くユーラシアの歩き方

 なお南北が連結に着手することになった京義線は、日露戦争開戦とともに前線への軍事物資輸送を目的として1906年に日本によって開通されたものであ り、1911年には南満州鉄道との直通運転が開始され、日本の中国侵略の先兵となった満州鉄道の経営下に入った。その当時の日本の傀儡国家である満州国の 奉天と釜山を結ぶ大陸連絡特急の名前は「のぞみ」と「ひかり」である。

 2003年12月9日、宇宙航空研究開発機構(JAXA)は相次ぐ故障により日本初の惑星探査機「のぞみ」の火星探査を断念した。宇宙への「のぞみ」は 人工の星屑となって太陽の周りを回り続けることになる。しっかりと地に足を着けて冷静に歴史を振り返り、したたかに「のぞみ」を「オリエント急行」に変更 すれば、先人達の夢が実現するかもしれない。オリエント急行には古い欧州を代表する有力者が集っていることを認識しておくべきだろう。そして、ここにトヨ タに繋がる強力な人脈が存在する。

 20XX年、オリエント急行に併走するトヨタの燃料電池車には、欧州が計画する衛星利用測位システム「ガリレオ」と繋がったナビゲーションが組み込まれているはずだ。

 園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp
2004年01月09日(金)萬晩報通信員 成田 好三

 最近、首相会見における日本の新聞記者(通信社・TV局記者を含む)の姿勢に変化が見られ始めた。質問に際して、所属会社名と自らの姓を名乗るようになったことである。

 萬晩報に書いたコラム「匿名性に隠れる日本の新聞記者」(2003年11月18日)で、首相会見において所属会社名と自らの姓名を名乗らない新聞記者の 姿勢を批判した。生中継するTVカメラの前では、新聞記者はもはや「黒子」ではない。舞台に上がった役者の役割を果たしており、取材される側と同様に国民 から監視されている。そうした趣旨で、会見で名乗らない新聞記者を批判するコラムを書いた。

 政治においては本来、国の最高責任者が、メディアを通してであっても、国民に直接肉声で語りかける首相会見ほど重要なものはない。しかしこの国では、最 高責任者は多くの場合、真摯に国民に語りかけることを拒んできた。話題をずらしたり、問題の本質を避けたりしてきた。国民が痛みを感じるテーマについて、 真正面から説得しようと試みる最高責任者はほとんどいなかった。

 新聞記者の側も、彼らが所属するメディアの見解や、あるいは自らの考え方を提示した上で質問することはほとんどなかった。新聞記者は匿名であっても構わ ない。メディアもそこに所属する新聞記者も、客観報道を前提にした「中立性」を保持すべきだ。そうした暗黙の了解事項の範囲内で、質問と答弁が繰り返され てきた。

 しかし、会見場にTVカメラが入り、重要会見は生中継される時代になった。答弁者も質問者もリアルタイムで国民の目と耳にさらされることになった。それでも長い期間にわたって、暗黙の了解事項に変化は見られなかった。

 変化は昨年12月9日の首相会見から始まった。この会見はNHKが生中継した。小泉純一郎首相が、自衛隊のイラク派遣を決定した日の会見である。憲法を 変えないまま実質的に戦時下のイラクに自衛隊を派遣するという、戦後日本政治の大転換となる決断に際しては、小泉首相もいつもの「はくらかし」と「すりか え」の論理は使えなかった。国際貢献をうたった憲法の前文だけを引用した論理展開には無理があった。それでも、この日の小泉首相はある意味でそれまでとは 「別人」だった。少なくとも政治的には命懸けで記者会見に臨んだことだけは確かである。

 会見に臨んだ新聞記者の側も、それまでとは姿勢を変えていた。ほとんどすべての質問は、所属会社名と自らの姓を名乗った上で行われた。最後の2、3の質問は匿名だったが、これは補足質問と考えれば、すべての質問から匿名性が消えていた。

 1月5日に行われた小泉首相の年頭会見もNHKが生中継した。質疑を含め30分程度の短い会見だった。質問者4人は全員、幹事社の産経新聞の「こじ ま」、北海道新聞の「えだかわ」、フジテレビの「そりまち」、NHKの「こいけ」と名乗った上で質問していた。こうした会見のスタイルが定着し、他の重要 会見にも拡大すれば、日本の政治と政治メディアも、よりましな方向性をもつことになるだろう。

 年頭会見の中で小泉首相は、政権に対する匿名性をもった批判、立場と見解が不明確なままの批判に関して反論していた。学者や評論家のほか、多くはメディ アとそこに所属する新聞記者に向けられた言葉だろう。年頭会見における小泉首相の反論を、首相官邸のホームページから引用する。

「――どっちの立場かわからない、目の見えないところから批判すればいい、揚げ足取りだけすればいいという状況というのは、皆さんもよく考えていただきた い。ちゃんと顔を出して、その論者はどうして一貫の立場に立って私を批判しているのか。小泉内閣を批判しているのか。現在の財政、経済政策を批判している のか。そういうことをはっきりさせて、両者(国債増発論者と反対論者)からの顔を合わせた批判なら大いに歓迎します。――」

小泉首相の発言は興奮すると論理と文法がぐちゃぐちゃになるきらいがある。引用した部分は、景気の展望と経済、財政政策を問われた答えの一部である。しかし、引用した辺りでは問わず語りのように、小泉首相の鬱積した不満をぶちまけたものになっている。

 ならば、会見に臨む新聞記者はこう反論すべきである。「我々は匿名性の衣を脱ぎ捨てた」「所属会社の見解、自らの考えを表明した上で質問する」「首相も はぐらかしやすりかえ答弁を止めるべきだ」「互いにもうごまかしはできなくなった」「首相もわれわれもTVカメラを通して国民の監視の目と耳にさらされて いる」

 記者会見は本来、質問者と答弁者とが「真剣勝負」で渡り合う、言葉による戦いの場であるべきだからである。(2004年1月6日記)

 成田さんにメールは mailto:narita@mito.ne.jp
 スポーツコラム・オフサイド http://www.mito.ne.jp/~narita/
2004年01月08日(木)中澤英雄(東京大学教授・ドイツ文学)

 話題の映画『ラスト・サムライ』を観た。いろいろなことを考えさせられる映画であった。

 アメリカ軍人ネイサン・オールグレン(トム・クルーズ)は、明治初期の日本に軍事顧問として派遣される。彼を雇うのは、明治政府に武器を売り込もうとす る武器会社である。彼の役割は、新政府に反逆する参議(英語ではminister)「勝元」(渡辺謙)一派の反乱軍を討伐するために、新政府の兵士たち ――農民上がりの新兵――に銃の使い方を教え、軍事教練を施すことである。戦闘中に勝元軍の捕虜になったオールグレンは、彼らの村で暮らすうちに、新時代 に反逆して伝統的な武士道に生きる勝元ら「最後の侍」たちに魅了され、やがて彼らの一員になって戦う。

 時代が一八七七年に設定されていることからもわかるように、映画のモデルは西南戦争である。しかし、フィクションであるから、事件の経過もだいぶ違う し、勝元はあまり西郷隆盛に似ていない(風貌もそうだが、人間面でも)。勝元ら「最後の侍」たちは、いわばアメリカ人が理解した武士道という、一種の理想 像の権化なのである。アメリカ映画にしては武士道をたいへんよく理解し、しかも非常に肯定的に描いている。美化している、とさえ言えよう。

 オールグレンは南北戦争(一八六一~六五)の英雄であった。彼はその後、カスター将軍の部下として、対インディアン戦争に従事した(今日では「インディ アン」という語は差別語だとされているが、歴史的事実を述べるために、以下でもアメリカ先住民をこの用語で呼ぶことにする。筆者にはアメリカ先住民を蔑視 する意図はない)。そのとき彼は、インディアンの戦士ばかりではなく、村の女、子供までも虐殺した。この非人道的行為がときおりフラッシュバックとなって よみがえり、悪夢となって彼を襲う。このトラウマから気を紛らわすために、彼は酒におぼれ、アル中になっている。彼は、自分の罪悪感から逃避するために、 エキゾチックな未知の国・日本に行くことを承諾する。

 彼の「前史」は、単に物語を起動させるための仕掛けであるばかりではない。もちろん、「最後の侍」たちの武士道に徹した厳しいまでに純粋な美学を描くのがこの映画の中心なのだが、それはオールグレンのインディアン体験と密接にかかわっている。

 かつての西部劇に出てくるインディアンといえば、野蛮人の代名詞であった。インディアンは故なくして白人の入植地を襲い、略奪し、そして最終的には騎兵 隊によって退治され、めでたしめでたしとなる。文明=善が野蛮=悪を征服することは、文明の進歩として肯定された。だが、このような描写が白人の自民族中 心主義的な視点からの一方的な記述であることは明白である。歴史の真実は、白人が先住民族を殺戮し、彼らの土地を略奪し、彼らの屍の上にアメリカ合衆国を 建設したのである。

 当然のことだが、メインストリームの白人たちは、このような血にまみれた歴史を直視することを好まない。西部劇は、自らが加害者となった惨劇を英雄譚に変える物語であった。西部劇によって、白人は自らの犯罪を隠蔽し、正当化してきた。

 しかし、これは偽りの物語である。偽りの物語はいつかその嘘がばれる。ベトナム戦争や黒人の公民権運動は、アメリカ白人に潜む自民族中心主義を暴き出し、その過程の中で、アメリカ先住民族にまつわる暗い過去も徐々に意識にのぼってきた。

 先住民族の復権は、アメリカ合衆国だけの問題ではなかった。環境問題が地球規模で深刻化するのにともない、自然と一体になって生きてきた先住民族の知恵 を再評価する機運が世界各地で高まってきた。おりしも一九九二年にコロンブスの「アメリカ発見」五百周年を迎えた。この「発見」が、ヨーロッパ白人による 南北アメリカ大陸の先住民族の虐殺と支配、その文化と宗教の破壊であることが、先住民族の側から告発された。その年、リオデジャネイロで「国連地球会議」 が開催され、翌一九九三年は国連の「国際先住民族年」とされた。

 ケビン・コスナー監督・主演の『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(一九九〇)は、このような世界的な先住民族復権の機運の中で作られた、それまでの西部劇と は一線を画するインディアン映画であった。この映画の中では、インディアンはもはや絶滅されるべき野蛮人ではなく、白人とは違った独自の文化を持つ対等な 人間として描かれる。古い西部劇の「文明対野蛮」という図式は、「異文化の交流」という図式に代わった。

 『ダンス』の主人公のジョン・ダンバーは、オールグレンと同じく南北戦争に参加した軍人である。物語の時期も同じ南北戦争後。両作の背景は似ている。私 には、『ラスト・サムライ』は日本を舞台にしたインディアン映画に見えた。この映画のいくつかの「奇妙さ」は、これを擬装されたインディアン映画と見なす ことによって腑に落ちるものとなる。勝元の村はインディアン部落に似ている。勝元軍と官軍の戦闘場面は、まさにインディアンと騎兵隊の戦闘である。剣と弓 矢しか持たない勝元軍は、新式銃で武装した官軍に、まさにインディアンのように殲滅される。しかし、それはもはや「文明対野蛮」の戦いとしては描かれな い。

 勝元が体現するのは、武士道という伝統文化である。彼に対立するのは、欧米文化の導入に熱心な「大村」(モデルは大村益次郎と大久保利通)である。近代 派の大村は、アメリカ武器商人から賄賂を受け取る悪役として描かれる。勝元は、文明の利器である鉄道を襲撃するので(インディアンと同じだ)、たしかに反 近代である。しかし、それは「野蛮」でも「退嬰」でもない。彼は利害損得を超えた武士道という高貴な精神性に生きている。伝統文化は、近代文明の物量と軍 事力の前に敗れはするが、その精神性において近代文明にまさっているのである。

 「伝統と近代」という二つの文化の対立は、見方を変えれば「精神と物質」の対立である。そしてこれは日本だけの問題ではなく、アメリカの問題でもある。 オールグレンはアメリカの文化に生き甲斐を見出すことができない。自国では内面に空白をかかえ、アル中に陥っていたオールグレンは、勝元の村に来て、「ス ピリット(霊)」を感じ(I feel spirit)、魂の平安を取り戻す。彼はインディアン虐殺の悪夢から解放される。伝統的日本は彼の魂の救済の地となるのである。

 「伝統と近代」「精神と物質」という対立は、オールグレンの目を通して、先住民族と白人という、自国の対立にも重ね合わされている。彼はノートにイン ディアンの生活について、詳しいメモとスケッチを残している。彼は勝元とインディアンについて語り合う。彼は『ダンス』のジョン・ダンバーと同じように、 インディアンを異なった文化を持った対等の人間として尊敬していることがほのめかされる。そのような彼であるからこそ、彼は勝元を、文明の進歩を阻害する 野蛮人としてではなく、別の文化の高貴な人間として尊敬できるのである。

 だが、オールグレンのインディアンに対する心情は、ジョン・ダンバーよりもさらに先を行っている。彼には、自分が犯した罪への罪悪感と、自分にそのよう な罪を犯させたアメリカ白人文化への嫌悪感がある。彼はむしろインディアンに自己同一化しているようにさえ見える。オールグレンが官軍との戦闘で、官軍側 にいた武器会社の上司たるアメリカ軍人を殺すのは、虐殺されたインディアンのための復讐でもあり、軍事国家アメリカへの反逆でもある。彼はまだ、直接イン ディアンとともに彼らの権利のために戦うことはできないが、日本のインディアンたる勝元とともに戦うことによって、己が犯した罪の代理的な贖罪をはたすの である。

 映画のエピローグで、彼は勝元の村に戻り、村の一員になる。『ダンス』では、主人公がインディアンに共感を示しつつも、最終的には白人世界に戻っていっ たのとは対照的である。『サムライ』の結末は、オールグレンがインディアンの一員となることを暗示している。村は、何事もなかったかのような超時間的な桃 源郷として描かれている。これは、白人が贖罪によってインディアンと和解する理想の象徴である。『ダンス』と『サムライ』の結末の相違は、アメリカにおけ る先住民族問題の、一三年という時代の差を反映しているのであろう。

 さらにこの映画は、九一一事件以降、「テロとの戦い」に邁進する現在のアメリカの動きも間接的に批判している。

 冒頭にも述べたように、オールグレンが日本に派遣されたのは、武器会社が明治政府に武器を売り込むためであった。近代化に熱心な明治政府はフランス、ド イツ、オランダなどヨーロッパ諸国からは法制、建築、技術などを導入しようとしているが、アメリカから導入するのは武器だけである。これは、軍事国家アメ リカ(現在のアメリカ)へのアイロニーに満ちた自己批判である。

 映画の最後の場面では、若き明治天皇は、大村の補佐を受け、アメリカの武器会社と契約を結ぼうとしている。そこに、生き残ったオールグレンが勝元の形見 の剣を持って入ってくる。天皇は勝元の刀(武士の魂)を受け取り、武器取引で私腹を肥やそうとしている大村を解任し、アメリカの会社との武器契約を取り消 す。武器商人は憤然として御前から退出する。

 この場面に込められたメッセージは明瞭である。たしかに勝元は死に、「サムライ」の時代は過ぎ去った。しかし、「サムライ」の魂=武士道は、物質的には 近代化=欧米化の道を歩まねばならない日本にも継承されねばならない。ただし、近代の武士道とは、決して単なる軍国精神であってはならない。日本はアメリ カの軍国主義に盲従するのではなく、自国の伝統と精神性を大切にし、勇気をもって自主独立を貫いてほしい、と映画は語っている。なぜか? 武器しか輸出で きないアメリカには、もはや「スピリット」が存在しないからである。もし日本までもがアメリカの言いなりになってその高貴な精神性を失ったら、インディア ン虐殺(その背後には広島・長崎やベトナム戦争、さらにはイラク戦争までもがかいま見える)という大罪を犯したアメリカが、贖罪し救済される可能性はなく なる。安易に「日米同盟」(武器契約)に走るのではなく、日本が日本の「スピリット」を発揮することこそ、アメリカへの真の援助となるのである、とこのア メリカ映画は語っている。

 アメリカといっても軍事強硬派の一枚岩ではないことを、この映画は教えてくれる。そして、日本が現代において発揮すべき「武士道」、「スピリット」とは何か、ということを考えさせるのである。

※お断わり:映画を一度しか観ていないので、ストーリーの紹介で細かな不正確さがあるかもしれないが、ご容赦を願いたい。

 中澤先生にメール mailto:naka@boz.c.u-tokyo.ac.jp
2004年01月07日(水)萬晩報主宰 伴 武澄

 あけましておめでとうございます。萬晩報はあさって1月9日で7年目になります。最初の100日は毎日コラムを書きました。その後は、通信員や多くの寄稿者たちに支えられながら驚きや怒りを文字にしてきました。

 インターネットはメディアに多くの影響を与えました。一番大きな影響はニュースの同時性です。新聞中心の時代には特ダネや独自ダネは半日しないとほかの 新聞は追いかけられませんでしたが、いまではどこかのウェッブサイトに掲載された価値ある記事は瞬時にほかのサイトでも掲載されます。ニュースの鮮度の劣 化時間が著しく短くなったということによって、極端に言えば、「抜いた」「抜かれた」というメディアに働くものにとっての最大の喜びも苦悩もなくなったの です。

 このことはいいことのように思われますが、この同時性によってどこのメディアのウェッブサイトも同じような内容の記事が並ぶようになり、特色を出すことが難しくなったという結果になってしまいました。

 ニュースが国境をいとも簡単に越えていくようになったということも重要です。ニューヨークタイムズもワシントンポストもアメリカ人と同じ時間に読むこと ができるようになりました。日本のメディアだけではありませんが、海外特派員の最大のニュースソースは地元新聞でだったことが白日の元にさらされました。

 一番の大きな変化はニュースを職業としていない人々に表現の場が与えられたということです。素人といってもいい人々にも情報発信のツールが与えられたと もいえます。萬晩報でいえば、園田義明さんのようにブッシュ政権の背後にあったネオコンの存在を大手メディアに先駆けて読者に伝えるという離れ業ができた のもインターネットのお陰といえましょう。ギニアの齊藤清さんは日本のメディアにとって完全にニュースの空白地帯となっている西アフリカから示唆に富む数 々のコラムをものにしています。

 正月休みのネットサーフィンで興味深かったのは、清水安三という人物を再発見したことです。『百三人の賀川伝』という40年前の本を読んでそこに登場する「清水安三」をキーワードに検索したら、めくるめく世界がありました。

 清水は桜美林学園の創設者ですが、実は桜美林の名は米オハイオ州にあるOberlin Collegeからとったものです。この大学は清水の留学先で思い出深い学校であっただけではなく、全米で最初の女性と黒人に門戸を開いた大学でもありました。そして八重桜の美しい町田市の学園敷地は賀川豊彦から与えられたものだったのです。

 清水と賀川との付き合いは長いものでした。清水は滋賀県高島郡の出身で、同志社大学の神学部を卒業した後、北京の朝陽門外の貧民街で伝道活動をしながら 女の子どもたちの自立のための学校を経営していました。崇貞学園といって裁縫などの職業訓練をしながら読み書きを教える学校でした。現在も陳経綸中学校の 名でその歴史を引き継いでいます。1921年から45年まで、清水は中国人のために全精力を傾けていました。戦前の北京にいわばミニ賀川のような人材がい たのです。

 戦前の賀川は中国伝道のたびに清水を訪れています。清水に貧民街に入るよう勧めたのは賀川だったのです。互いに敬愛の情を抱きあったのは不思議でもなん でもありません。清水の交友範囲は考えられないほど広く、特に作家の魯迅、周作人兄弟、五四運動の指導者胡適、中国共産党創設メンバーの中核だった李大釗 とは彼らが有名になる前から親しかったようで、北京の貧しい人々のために尽くしていた清水は革命を目指す中国人にとってそれこそ一目を置く存在だったので す。

 その清水が終戦後、着の身着のままで帰国して、神保町でばったり賀川に出会ったのです。学校の創設を考えていた清水に「それなら町田にいい土地がある」 といったのが、現在の桜美林学園なのです。ある財閥企業の別荘のようなところを借り受け、後に賀川が300万円で買い求めたそうです。

 とりとめもない年始のご挨拶となりました。インターネットは時代をも超えるツールだということをこのネットサーフィンで感得しました。

 一昨年11月から財団法人国際平和協会のメルマガも発行しています。賀川豊彦が59年前に設立した財団です。メルマガ「国際平和」も併せてご購読願えますようお願い申し上げます。

 http://www.jaip.org/

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