2003年5月アーカイブ

2003年05月31日(土)コロンビア大学東アジア研究所 大西広

 先日の中野有さんと美濃口坦さんのコラムに触発され、イラク復興事業のあり方について意見したいと思った。

 そこでまず表明したいのは中野さんの「アメリカの軍需産業を宇宙産業に」との意見への賛意である。これは宇宙産業が緊急に必要との趣旨からではなく、好 戦勢力の圧力をかわす為の政治的趣旨からである。以前、鄧小平は改革開放によって職を失う膨大な官僚層向けに彼らが(この言葉自体は後のものだが)「下 海」と称して企業家となっていく道を用意した。これなしに「保守派」を抑えて改革を推進できなかったという意味で抜群の政治的判断であった。

 が、実はこれと同じ意味で心配なことがある。美濃口さんの報告ではイラクにおける米軍の不要な破壊がアメリカやその支援国の「復興需要」を作り出すため のものだったとイラク人たちに思われているということである。つまり、この戦争は石油のための戦争だっただけではなく、復興事業に関わる諸業界も受益者と して関与していたと疑われている。そして、この考えを延長するとき、本来は「好戦的」でない建設業やプラント業界までもがこの利益によって好戦勢力に丸め られてしまったと読まれうるからである。

 日本でも建設業界との関わりの強いと言われる自民党内の諸派閥に対する首相サイドからのそうした抱き込み工作はなかったのであろうか。

 もちろん、この「疑い」を私は何らかの手段で証明することはできない。それは新聞社の政治部記者の仕事であろう。がしかし、それでも確実に言えること は、イラクや世界の人々にそう思われているということだけで実は既に重大であるということである。

 したがって、問題は復興需要に関わる企業家たちがそのことを十分配慮した行動をとられることである。日本は国際社会の中では少数派の戦争支援国であっ た。また、日本の支持なしにはアメリカの攻撃がなかった可能性さえ大きい。そのような国の企業が今後イラクで配慮のない商行為を行なったとき、アメリカの 軍需産業や石油業界と同じ「死の商人」と思われる可能性を否定できない。復興に参与すること自体を否定しないが、参与するのであればそれは是非是非その 「誤解」を受けないために出血事業でなされたい。日本という国全体の国際的評判に関わるからである。

 関連で言うと、5月23日付け共同通信の記事にポーランド政府が各種復興事業への参与を「戦利品」のように誇っているということが書かれている。グダニ スク石油精製所がイラク南部の石油精製事業に参画し、またその他インフラ整備などでも多くのの受注が見込まれているようである。
http://news.kyodo.co.jp/kyodonews/2003/iraq2/news/0523-1054.html

 しかし、これではあまりにあさましい。「戦利」のためなら数万の他国民を殺してよいと考えるなら,これまで積み重ねられてきた人類史とは何だったかということになるからである。

 そもそも日本における戦争支持論にはそれでこそ日米を維持しえ、よって自国の安全を守れるというものであった。この真偽自体も相当怪しいが、もしそれが 真実であったとしても、その「国益」のために他国民の大量殺戮(戦争)までもが許されるのであろうか。「国益中心の外交」が叫ばれそれ自体ある程度理解で きるが、それでも他国民の生命に関わる判断までをも「国益」によってできるのだろうか。「国益」あるいは「企業利益」追求のガイドラインというものを今こ そ明確にしなければならないと私は思う。

 大西さんにメールは mailto:ohnishi@f6.dion.ne.jp
2003年05月30日(金)早稲田大学・日中ビジネス推進フォーラム 文 彬

 大地を疾走する高速鉄道の夢を見る指導者達

 1978年10月26日、訪日中の鄧小平は古都・京都を訪れるために初めて新幹線に乗った。田園地帯を疾走する快適な車内でいささか興奮気味の鄧小平 は、随行の記者団に「新幹線に乗ってみると、前進を急かされている感じがする。我々は今こそ前進しなければならない」と感想を述べた。ちょうど文化大革命 が終わり、鄧小平が三度目の政界復帰を果たし対外開放と経済発展をさせようと夢が膨らむ時期だった。この時、彼はおそらく胸中に中国の大地で高速鉄道が走 る様子を描いていたであろう。鉄道網は国の大動脈だ。その大動脈の近代化、即ち高速鉄道化は中国の経済復興のシンポルにもなるのである。

 それから24年経った2002年の最後の日、鄧小平の肝いりで経済再建の立役者を務めてきた朱鎔基首相(当時)が中国初の本格的な高速鉄道・上海市内と 浦東国際空港を結ぶリニアモーターカーの運行式に立ち会った。しかし、工事受注国であるドイツのシュレーダー首相がそばにいるにもかかわらず朱鎔基の表情 は始終厳しかった。彼の決断で総事業費92億元(約1200億円)の巨資を投入したこの上海リニアは中国の高速鉄道の試験線と位置付けられ、その成否は重 大な結果をもたらすからである。

 2010年にも北京と上海を結ぶ京滬(きょうこ・北京と上海の略称)高速鉄道が完成すると計画しているが、時間が差し迫った今になっても、リニア式と レール式のどちらを採用するかさえ決まっていない。リニア派とレール派が激しく対立するなかで、カリスマ性と指導力に定評のある朱鎔基も躊躇せざるを得な くなった。2001年10月、来日した朱鎔基は京滬高速鉄道について「私の任期の2003年までに詳細を決めて、2005年に着工したい」と語ったが、結 局約束は果たせず、その決定は次期の温家宝内閣に委ねなければならなくなった。

 今尚続くリニア式・レール式論争

 京滬高速鉄道にリニア式か、それとも新幹線のようにレール式を採用するかという議論はもともと中国にはなかった。レール式を採用すれば、日本の新幹線の 40年にわたる商用経験が生かされ、コストを最小限に押えることが出来る。そして、在来線への乗り換えも可能になるなど実用性が高い。従って、中国鉄道省 は最初からレール式を念頭に置いて10年掛けて調査した結果を纏めた建議書を1997年に国家計画委員会に提出し、高速鉄道の早期着工を促した。

 北京-上海間は1300キロ、航空機なら2時間の距離だが、現在の鉄道では特急でも12時間かかる。時速300キロの高速鉄道を走らせ、それを一気に4 時間半に短縮させる計画である。完成は2010年、総工費は1000億元(約1兆5000万円)と見込まれる。中国では三峡ダムに次ぐ巨大プロジェクトと なる。北京から上海までの地域は中国でももっとも経済活動の活発な場所だ。日本でいえば東京-名古屋-大阪の太平洋ベルト地帯に相当し、いわゆるドル箱路 線である。

 全国GDPに対するシェアも約40%だと言われている。だが、京滬鉄道の在来線の輸送力はすでに飽和状態になっており、高速鉄道建設の遅延が直接当地域 の経済の足を引っ張る格好となっている。高速鉄道建設の遅延により年間損失が200億元(約3000億円)になると経済学者で中国科学院メンバーの李京文 が指摘する。京滬高速鉄道の建設を一日も早く進めなければならないことは官民の共通の認識である。誰もが間もなく鉄道省の建議書が批准され、工事もすぐに 始まるだろうと思っていた。

 しかし、鉄道省の建議書が提出されたすぐ後にレール式に反対する意見が出た。この意見は京滬高速鉄道を遅らせたばかりでなく、未だ収まらぬ「リニアか、レールか」の論争を引き起こすきっかけとなった。

 反対意見を申し出たのは中国科学院の有力メンバー、徐冠華、厳陸光、何祚キュウ(广+休)の3氏だった。徐は科学技術省大臣(部長)を兼務し、厳は中国 科学院電工研究所所長の肩書きを持つ。そして何も中国でもっとも知られている物理学者の1人である。3人はいわば、中国科学の権威を代表する人物だ。厳が 首相の朱鎔基に「京滬高速鉄道はリニアが最適」と手紙で進言したところ、「大いに検討する価値がある」との返事を受けた。

 リニア推進派はリニア技術の先鋭化と保守のローコストを強調すると同時に、伝統的なレール式と比べて飛ぶように走るリニアの機能性を絶賛した。中国の高 速鉄道に世界的に見ても商用運行された例のないリニアを導入することで、先進国との距離を一気に縮めることも狙っている。テレホンカードで先進国が数年間 使用していた磁気式を飛ばし、いきなりID化した時のように。

 これが政府をしてリニア式に傾斜させた最大の理由である。経済的にも技術的にも先進国から立ち遅れている中国としては、国民の士気高揚のためにも「世界 初」、「世界最速」、「世界最新」という言葉が必要なのである。こうして、中国高速鉄道の試験線である上海リニアの建設がスタートしたのだ。


 鎬を削る市場争奪戦

 京滬高速鉄道の長さは1300キロ。今後20年の間に建設予定の北京香港線(2500キロ)、ハルビン大連線(940キロ)、徐州宝鶏線(1030キ ロ)をあわせると、日本新幹線の約3倍の走行距離となる。そして、2050年までに中国全土を約1万キロの高速鉄道網で結ぶ壮大な構想もある。

 京滬高速鉄道の入札に勝てばばく大な利益につながる可能性も大きいだけに、海外の関心度も高い。中でも40年近くの歴史をたどってきた新幹線を有する日 本と、官民挙げてリニアを推進してきたドイツの熱意は一段と高い。世界同時不況に長年苦しまれてきた日本やドイツにとっても、京滬高速鉄道は是が非でもや らせて欲しいビッグプロジェクトである。

 2009年の竣工を目指す三峡ダムは、中国最大の国策プロジェクトだ。数年前、このダムに設置される発電機の国際入札の際、日本の企業連合は欧州勢に完 敗した。その最大の原因として、官民一体の欧州勢と違い、日本政府は工事の受注は企業行為として積極的に協力しなかったことが指摘されている。

 一度大魚を逃した日本は、今度こそはと中国鉄道省が京滬高速鉄道の可能性調査を始めたとの情報を入手したとほぼ同時に入札への準備を着手した。1994年のことだった。

 その最初の動きはJR東日本、日立製作所、川崎重工業、三菱商事など14の企業と団体が設立発起人として作った日中鉄道友好推進協議会である。3年間の 準備期間を経て1997年、同協議会が正式に発足したとき、参加したメンバーは鉄建公団やJR各社、商社、メーカーなど60以上に上った。

 その狙いは言うまでもなく、まず京滬高速鉄道の受注にあった。協議会は参加企業と団体の協力を得て、中国の鉄道関係技術者を年間100人規模で受入れ、 新幹線の先端技術を含む技術の交流も中国側に約束した。そして、協議会は日本の政界にも中国の高層部にも深い人脈を持つ竹下登元総理を初代名誉会長に迎え て政治攻勢を展開する体制を整えた。

 深い経験と多彩な人脈、精緻な情報に支えられてきたと言われる竹下の影響力も助勢したのだろうか、京滬高速鉄道の建設を「中日友好の象徴的な事業に」と 訴えた村山内閣以来、日本の政府首脳は一貫して新幹線のトップセールスマンの役割を努めてきた。

 一方、ドイツは台湾高速鉄道を巡る入札競争時から相手を攻撃することによって自分を優位に見せるネガティブキャンペーンをも辞さず、強烈なPRキャン ペーンを一貫して展開してきた。「台湾戦」では、その戦略が効を奏して今にも落札できそうだったが、不運にも台湾大地震とドイツの列車事故が重なり、最終 的には日本の企業連合の攻勢に勝てなかった。

 しかしその一年後、本願の大陸で雪辱を誓ったドイツは官民挙げての商戦で、ついに中国をして上海市内と浦東国際空港を結ぶ高速鉄道にトランスラピット (ドイツのリニアモーターカー)を導入する契約を結ばせた。そして、ドイツ政府は約54億円もの補助金を無償で建設費に充てた。上海リニアの成功が京滬高 速鉄道ないし将来の高速鉄道網の受注に確実に繋がることを、ドイツは堅く信じていたからである。

 このようにして日本の努力も一時下火になり、新幹線を大陸で走らせる夢は空しく砕かれたかのように思われていた。

 決戦の時が間もなく来る

 だが、リニアを支持するのは少数派である。中国鉄道省が推し進めてきたレール式高速鉄道構想は、依然広く支持されているのだ。たとえば、中国科学院及び 中国工程院メンバーである沈志雲西南交通大学教授は、世界的に見てもリニアの商用化はまだ行なわれていないとその反対理由を述べている。周宏業鉄道部科学 研究院副院長もリニアのコスト、開通後の採算、安全性、他の列車との乗り換えの可能性から分析して、リニアには統一性がなく、京滬高速鉄道のリニア化は抜 け出ることの出来ない泥沼になると強く警告している。上海リニアの工事が開始されてから海外にいる多くの中国人科学者も巻き込み、論争はいっそうレール派 に有利な方向へと傾いてきた。

 すかさず、日本もこの機運に乗じて再び新幹線の売り込みに躍起になった。2001年9月、日中鉄道友好推進協議会や日本鉄道車両輸出組合などの鉄道関係 団体が中国鉄道省主催の「チャイナ・レール2001」に出展し、大画面モニターで日本の鉄道風景を流しながら、新幹線のスピード、安全性、大量輸送と経済 性を大々的にアピールした。

 ライバルのドイツ、フランス、イギリス、カナダなど各国が最新の高速列車と運行システムを披露しているなか、新幹線はひときわ中国の鉄道関係者の注目を 浴びた。また、日本の政治家と企業のトップが密に協力し、水面下でレール派の鉄道省高官と頻繁に接触した。こうして人脈をいっそう拡大することによって中 央指導部に影響を浸透させようとしているのである。

 ここに来て、中国指導部も揺れた。昨年9月の北京では、李鵬全人代委員長(当時)が扇千景国土交通大臣に対し京滬高速鉄道について「個人的にはレール式 がよいと思う」と異例の発言をし、指導部の中でも意見の対立があることを匂わせながらも、レール式への支持を明らかにした。

 今年1月下旬、日中鉄道友好推進協議会の岡田宏副会長が北京で中国鉄道省と京滬高速鉄道について協議した際、中国側が新幹線方式を採用した場合の日中合 弁事業について、新幹線の車両生産と運行の合弁事業化や技術移転の可能性など、約10項目の検討を要請したことが報道された。レール式、それも新幹線方式 へ大きく傾いてきたことを示す動きである。岡田は5月までに回答すると約束したが、中国側の最終決定も今年のうちだとの見方が強まってきた。

 韓国高速鉄道ではフランスに負け(1993年6月)、台湾高速鉄道では欧州企業連合に大逆転し勝利した(1999年12月)日本だが、果たして第三ラウ ンドとなる中国ではどのような結末が待っているのだろうか。まもなく、京滬高速鉄道の受注を巡る最終戦が始まろうとしている。

【参考1】「北京―上海高速鉄道」計画概要



【参考2】これまでの経緯
  • 1978年10月26日 鄧小平副総理が京都を訪問した際に東海新幹線に乗車。
  • 1993年6月 韓国高速鉄道でフランスが日本とドイツを破って受注。落札価格は2800億円。日本より200億円も安かった。
  • 1995年5月 訪中していた村山首相が李鵬総理に対し日本政府は中国の高速鉄道建設を全面的に支持すると表明。
  • 1997年3月 中国鉄道省が国家計画委員会(現在の国家発展計画委員会)に鉄道プロジェクトの建議書を提出し、京滬高速鉄道の構想を固める。
  • 1997年9月 JR各社や車両メーカー、商社など60に上る企業・団体で、中国高速鉄道の受注を目指した連合組織「日中鉄道友好推進協議会」を発足。初代名誉会長は竹下元総理。
  • 1998年4月16日 「日中鉄道交流に関する協定書」の調印式が人民大会堂で行なわれる。
  • 1998年11月 江沢民主席が東北新幹線に乗車。小淵首相は江沢民に対し、日本は官民挙げて協力し、技術面のノウハウ提供や資金援助も惜しまないと約束した。
  • 1999年12月28日  台湾が台湾高速鉄道の車体と信号システムに日本の新幹線技術を採用すると発表。契約金額は3300億円。日本企業連合が逆転して仏独の欧州連合との受注競 争に勝った。日本企業の連合7社は、それぞれ三菱重工、川崎重工、東芝、三井物産、三菱商事、丸紅、住友商事。完成予定は2005年10月、距離は台北- 高雄間340㌔。土地代を含む総工費は1兆6千億円。
  • 2000年1月 中国が、上海市内と浦東国際空港間(33㌔)の高速鉄道についてドイツとドイツ製リニア「トランスラピット」の導入に合意。総事業費は約1200億円、ドイツ政府は54億円の補助金を提供。
  • 2001年3月8日 第9期全国人民代表大会(全人代)第4回会議の記者会見の席上、国家発展計画委員会の曽培炎主任が北京-上海間の高速鉄道建設について、第10期5ヵ年計画期間中の着工を目指すことを発表。
  • 2002年3月 朱鎔基がドイツ側の技術移転に不満を感じ、公の場で「日本の新幹線方式採用の可能性がある」と語った。
  • 2002年4月 鉄道省部長(大臣)が訪日し、扇国土大臣と新幹線の建設、資金などの問題について会談。
  • 2002年9月 ドイツが技術移転の可能性を示唆。
  • 2002年9月24日 李鵬全人代委員長が訪中の扇千景国土交通大臣に対し京滬高速鉄道について「個人的にはレール式がよいと思う」と発言。
  • 2002年12月31 日上海リニアの商用運行が開始。朱鎔基首相とドイツのシュレーダー首相が開通式典に参加。
  • 2003年1月 中国側が、新幹線方式を採用した場合の新幹線の車両生産と運行の合弁事業化や技術移転の可能性など、約10項目の検討を日中鉄道友好推進協議会の岡田宏副会長に要請。岡田副会長は5月までに回答すると約束。(肩書きは全て当時のもの)

    文さんにメールは mailto:hin.bun@ikic.co.jp
2003年05月29日(木)中国寧波市在住  岩間孝夫

 前編では越州や龍泉で作られた青磁がどのようなものかをご紹介しました。後編ではそれらが作られた窯跡についてご紹介したいと思います。

 窯跡―兵(つわもの)どもが夢の跡

 私が今までに訪れた窯跡はエリアとして越州14カ所、龍泉4カ所、建窯2カ所、南宋官窯1カ所、スワンカローク(タイ・シーサッチャナーライ)1カ所です。
 
 エリアとしてと言うのは、例えば龍泉では大窯、金村、渓口、安仁口の四カ所に行きましたが、南宋時代に龍泉最大の生産地であった大窯地区だけでも隣村に 至る雑木林に覆われた山々に6キロの距離にわたり50カ所以上の窯跡があるのですが、その一つ一つに番号をつけた看板や標識が立っているわけではありませ んし、窯跡が隣接する所では隣の窯跡との境界なども不明確ですから、自分が歩いた丘陵地帯で結局いくつの窯跡に出会ったのかよく分からないからです。これ は他の地区でもだいたい同じです。
 
 窯跡の元々の姿である窯場は陶磁器を焼くための仕事場で、主役である窯をはじめ、原料や燃料を置く場所、轆轤をひいたりして成型をする場所、成型したも のを乾燥さす場所、焼き上がった製品を置く場所、焼くための道具を作る場所、物原(ものはら:失敗した作品や不要になった道具を捨てる場所)、陶工職人が 寝泊りや休憩をする部屋、などで構成されています。最盛期の龍泉大窯の中心地ではこのような窯場が2.5キロの道沿いに連綿と軒を連ね、雨の日にも傘が要 らなかったといいます。
 
 窯跡とは一言で言えば、今では使われなくなった昔の窯場の跡です。但し、使われなくなってから窯によって龍泉でも400-800年、越州なら 800-1500年が過ぎていますので、窯場のそれらの設備は何百年の間野ざらしになり、原型を留めず朽ち果て、そして跡形も無くなったその上を草木が うっそうと覆い茂っているのが普通です。
 
 従って、窯場の主役である窯も、石炭を使う華北ではこんもりとした兜型が中心ですが松を燃料とする越州や龍泉など江南の窯では緩やかな山の斜面に沿って 下から上に築く登り窯が大半で、長さは後漢や三国の頃は10メートル、唐代なら30メートル、南宋の頃なら60メートル程で、幅は2-3メートル程の大き さが一般的だったのですが、多くの窯跡では今や殆どその痕跡もなく、そこに窯があったことさえなかなか分かりません。

 巨大な物原―露天博物館

 その一方、中国の窯跡で出くわすのは、物原だった所にころがったり埋まったりしている驚くほど大量の陶片や焼成道具です。
 
 上に述べたような一般的な大きさの窯で南宋時代の龍泉窯なら一度に2~3万個、唐代の越州窯ならその半分ぐらいを、何十年も窯によっては何百年も焼き続 けましたので、うまく焼き上がらなかった作品や不要になった焼成道具が打ち捨てられ、膨大な量となって物原に堆積しているのです。
 
 その堆積量は実にすさまじく、例えば、越州窯の中心地であり125ヶ所の窯跡のある慈渓上林湖では、最大級の物原になると縦横それぞれ90メートルほど の範囲に約4メートルの堆積層を持つものがありますし、一般的な規模のものでも概ね縦横20-30メートルの範囲に1-2メートルの堆積層があります。

 また一部の窯跡では湖畔一面見渡す限りに陶片と焼成道具が敷き詰まりあたかも露天博物館のような様相を呈している所もありますし、長さ135メートルの大きな窯で一度に十万個以上焼いていた建窯では物原で一つの丘が出来ています。

 窯跡を訪ねる楽しみ―宝石のように美しい陶片との出会い

 言わば「兵どもが夢の跡」のような窯跡ですが、そんな窯跡を訪れる第一の楽しみは、約千年前の世界陶磁史上の黄金時代に作られた美しい陶片にめぐり会えることです。

 南宋時代を代表する龍泉なら、空の青、青梅の青、若草の青、淡く澄んだ青緑、鮮やかな青、深みのある青、オリーブグリーン、黄みがかったオリーブ色など、青磁の王者にふさわしいさまざまな色合いの美しい釉色に出会います。

 越州も、さすがに龍泉には及びませんが、青緑色、灰白色、明るいオリーブ色、黄褐色・暗褐色のオリーブ色など、後漢の頃から五代・北宋に至るまでの時代毎に、それぞれの特徴ある美しさを発揮しています。   
 
 厚い釉薬に守られて宝石のような美しさを持つそれらの陶片は、悠久の時間をタイムスリップして、あたかもたった今焼き上ったかのような力強い輝きを保ちながら山の斜面や湖畔にころがっていたり土中に埋まっていたりするのです。
 
 丘陵地帯や湖畔の窯跡を尋ねて藪をかき分けながら探し回り、最後にやっとたどり着いてそのような陶片にめぐり合い、明るい太陽の光を受けて美しく輝く陶 片を眺める時、大げさかもしれませんが、私の心はシュリーマンがトロイの遺跡を発見した時に負けないぐらいわくわくと踊ります。

 窯跡訪問の心得―陶片は貴重な考証資料

 ここで少し説明の必要なことが一つあります。

 400年か場所によっては1000年以上前に廃窯となった窯跡になぜそのような昨日今日焼き上がったような陶片が転がっているのでしょうか。

 本来10年も野ざらしで放っておきますとそれだけでもかなり土砂で覆われますし、まして50年や100年以上も経てばほとんどは土砂や草木に覆われてしまい、普通は一見しただけではそう簡単に見つかるものではありません。

 それが簡単に見つかるのは、何らかの理由で比較的最近掘り返され地表に出て来たからで、それは学術調査によるものも時にありますが、多くは盗掘によるものです。
 
 中国の経済発展に伴い富裕層も増え、それにつれ骨董品に関心を持つ人も増えて来ました。そして10年以上前なら見向きもされなかった古陶磁の陶片でさえ も今では市場で取引されるようになり、例えば、北京や上海の骨董街では手のひら大の陶片でも色や文様や形の美しさに応じて数十元から数百元で取引されてい ますし、原型率が高く完品に近ければ数百元、物によっては数千元数万元になるのです。従って、宝の山である物原を掘る盗掘者が出てくるのは自然の成り行き ではあるのです。

 しかし、龍泉や越州など古窯の盗掘が中国の法律で厳しく禁じられているのはもちろんですが、それだけではなく、窯跡へ見学に行く者も残念ながらそこに落 ちている物を拾うことは出来ません。それは、ただ単にそれら陶片が国家の保護対象物であるというだけでなく、それらは美術史や歴史の研究者にとって時代考 証のための重要な資料ですから、むやみに人が触るとその大きな妨げになるからです。従って、もし窯跡に行っても、そこに落ちている陶片は拾わずに、その場 で写真を取るか頭の中に印象としてよく焼き付けるにとどめなければなりません。

 素朴で美しい自然―人間生活の原風景

 千年の眠りから覚めた宝石のように美しい陶片に出会えるのが窯跡を訪ねる第一の楽しみとするならば、第二の楽しみは、とても素朴で美しい自然あふれた光 景に出会えることです。古い窯跡の多くは豊かな水と緑をたたえたのどかな農村の、更に人里離れた丘陵地帯の中にひっそりと眠っていることが多いのです。

 例えば龍泉、大窯村。山間の町である龍泉市からバスに乗り、清らかな渓流沿いの道を約一時間走り、さらに奥まった山間にあるその小さな村に着きます。そ の間、川原では女達が洗濯をし、野菜を洗い、そのまわりを幼い子供達が遊び、ニワトリやアヒルが群れをなして餌をついばみ、犬が走り回ったり寝そべった り、時には豚がのっしのっしと道を散歩し、男達が農作業で使う牛を追いながら通り過ぎ、食事時になれば家々のかまどから煙が上がり遊び疲れた子供達がそれ ぞれの家に帰って行きます。

 そこに展開される光景は今やめったに見ることが出来なくなった人間生活の原風景です。
 
 往年の面影も無くひっそりとした大窯村の小高い丘の上にたたずみながら眼下にある物原や小川や隣村へと続く宋代に築かれた細い石畳の道を見ていると、千 年前の陶工が轆轤を引いたり、職人が窯に薪を炊いたり焼き上がった青磁を洗ったり運んだりしながら忙しく行き交う光景がまぶたに浮かんで来ます。

 最盛期の龍泉窯には全体で1万5000人ほどの陶工職人が働いていましたので、中心地であった大窯では窯数からいって2000人以上が働き活気に溢れていたに違いありません。

 しかし今では丘ごとにある巨大な物原がわずかにその名残をとどめているだけです。
 
 中国に来てから約10年、今までに桂林、九寨溝、長江三峡、モンゴルの大草原などいくつもの雄大で限りなく美しい自然に接し感動を覚えました。

 龍泉大窯の風景はスケールにおいてそれらとは比べるべくもないおもちゃのような世界ですが、人間生活の原点を思い起こさせてくれるという点で、私にとっ て大変心が洗われる場所です。もしいつか中国を離れて帰国する時に、最後にもう一度行きたい所はどこかと問われれば、龍泉大窯と答えるに違いありません。

 越州の窯跡もやはり大変美しい自然に囲まれた地域にあります。最も多くの窯跡がある慈渓上林湖は山紫水明のとても風光明媚な所で、寧波からは約一時間で 行け、春や秋にはハイキングを兼ねて行くと空気も爽やかでとても気持ちの良い一日が過ごせますし、上虞や寧波東銭湖にある窯跡なども水と緑が美しいのどか な田園風景の中にあり心が和みます。

 そんな環境の中で千年前に作られた陶磁器の美しい陶片に出会う喜びは、自然と歴史と文化を同時に味わうことの出来る、他にはない楽しみです。

 終わりに―窯跡に行くには

 このように魅力溢れる窯跡への訪問ですが、記念史跡となり整理されたごく一部の例外を除き、残念ながら誰でもある日思い立って見に行きたいと思っても必 ずしもたどり着けるものではありません。それは、今までに述べたように廃窯になってから大変長い年月に亘り山の中や川べりや湖畔などに打ち捨てられて朽ち 果て、歳月が残した土砂や草木がその上を覆っていたり、今では茶畑になっていたり、湖中に沈んでいたりするからです。
 
 従って、先達も無く自分一人で窯跡にたどり着く為にはかなりの情熱と、執念と、そこそこの中国語能力と、多少の機転が必要になってきます。ちょっと面倒 くさい感じがするかもしれませんが、その先にはシュリーマンが味わったような心踊る発見の喜びが待っていますので、きっと報われることでしょう。

 もっと詳しくご紹介したいところですが字数の関係で今回はこれまでとさせて頂きます。もしこれらの窯跡を訪ねてみたい方がありましたら、どうぞ私までお 問い合わせ下さい。個別に詳しくご説明させて頂きますし、同行なさりたい方があればご連絡下さい。中国ならではのこのエキサイティングな楽しみを一緒に味 わいましょう。(完)

 岩間さんにメール mailto:koyoyj@mail.nbptt.zj.cn
2003年05月28日(水)中国寧波市在住  岩間孝夫

 はじめに

 現在私は中国浙江省寧波市に住んで仕事をしていますが、1999年4月に当地に来て以来4年が過ぎました。この間の生活で、ガイドブックにも載っておら ず、地元の人々でさえもほとんど知らない楽しみを見つけました。それは700年から1700年程前の青磁の窯跡を訪ねることです。

 今回は、このごろの萬晩報のテーマとは少し色合いが異なりますが、あまり知られていませんがとてもエキサイティングな中国生活の楽しみを前後二回に分け て御紹介したいと思います。先ず第一回目では、寧波の近辺にあり私がよく窯跡を訪れる越州や龍泉で作られた青磁がどういうものか簡単に紹介します。

 中国青磁の始まり―浙江省は青磁の故郷

 ChinaのCを大文字で書けば中国、小文字で書けば陶磁器を意味することは皆さん御存知の通りで、それほど陶磁器は中国の代表的産品であるわけです が、そのchinaの黄金時代といわれる宋の時代、陶磁器の最高峰に位置付けられ皇帝の用に供せられたのが青磁であったのは御存知でしょうか。そして、浙 江省こそは中国青磁の故郷なのです。

 中国での原始陶器の歴史は紀元前五千年頃始まりますが、青磁の製造はそれから約5000年経った後漢(25-220)の頃、越の上虞地方曹娥江流域で始まったとされています。

 当時今の浙江省は越と呼ばれていました。現在上虞は浙江省紹興市にありますが、その近くの余姚には約七千年前に人類が稲作を行っていた河姆渡遺跡があり ますので、やはりこの一帯では古くから文明が発達していたのでしょう。そしてまた陶磁器の生産に必要な条件は良い原料(良い土)、良い燃料(主に松。但し 華北では石炭も使用)、製品の製造や運搬をするための水源、の三つですが、この地方にはそういった条件も備わっていました。
 
 ちなみに1973年に発見された河姆渡遺跡はそれまでの世界史の教科書を塗り替えたと言われています。私が子供の頃には、中国では世界古代四大文明の一 つである黄河文明が最初に起こり、その文明が徐々に他のエリアに広がったと習いましたが、この河姆渡遺跡の発見以後現在では、北方の黄河文明と平行して揚 子江文明とも言える独自文明が江南を中心とする南方にあり、時に互いに影響を与えながら発達していったとされています。

 上虞地方で中国初の青磁の製造が始まったのは決して偶然ではなく、こういった地理的、歴史的背景があったように思えます。

 閑話休題 この上虞地方で始まった青磁の製造はその後徐々に近隣の余姚、慈渓、寧波、奉化、紹興、粛山など寧紹平野と呼ばれる現在の寧波市や紹興市エリ アに広がっていきますが、そのエリアで焼かれたものは当時の地名を取り越州の青磁とか越州窯と呼ばれており、色はオリーブ色や灰色がかった青緑色が基調で す。 

 またこの越州の青磁のなかでも3世紀前半から7世紀初に至る後漢、三国、西晋、東晋、南北朝など隋以前の時代に焼かれたものはその後に続く唐、五代、宋 の時代に焼かれたものと造形や釉薬など作風や持ち味が異なる為、後者と区別するため古越州の青磁あるいは古越磁と呼ばれています。
 
 この古越州の青磁こそが中国青磁の原点で、現在の浙江省にあたるエリアを中心として焼かれると共にその製造方法は中国各地に伝わり、その後数百年を経て 龍泉窯(浙江省)、景徳鎮窯(江西省)、建窯(福建省)、耀州窯(陝西省)、汝窯(河南省)、鈞窯(河南省)などで独特の発展をし、華麗な陶磁の世界を繰 り広げるのです。

 秘色の青磁―越州青磁の隆盛と終焉

 中国青磁の原点となった古越州の青磁ですが、南北朝後半(6世紀中)から中唐の中頃(8世紀後半)までいったん衰え、以前の輝きを失います。これは、そ の頃に江南地方で戦乱が続き社会が不安定になるとともに経済も地盤沈下したこと、燃料不足などの原因により越州窯の中心地が上虞地方から慈渓上林湖に移る 過渡期になったこと、などが主な要因だと思われます。
 
 しかし越州の青磁は中唐後半(9世紀初)に入り、慈渓上林湖を中心地とし釉薬の改良や焼成技術の向上により「秘色の青磁」と称えられた美しい色合いを持 つ製品を生み出し再び発展を遂げ、一部の上林湖畔の窯は中国初の官窯として皇帝へ献上する品を作るまでになります。そして晩唐、五代(907-960)へ と続き、五代の頃に作品の質量ともにそのピークを迎え、窯数は200カ所近くに達しました。
 
 しかしながらその栄光は長く続かず北宋の頃から再び作風は荒れ始め、南宋に入り、同じ浙江省にあり北宋の頃から台頭し南宋時代に最盛期を迎える龍泉窯に 主流の座を空け渡し、約1000年間続いた窯煙はやがて消滅してしまったのです。消滅に至った最大の原因は、長年の製陶活動により燃料となる松材が枯渇し てしまったことでした。当時の文献には「山あれど樹木なし」と記されています。

 宋代の陶磁―芸術文化の黄金時代

 北宋時代(960-1126)には都の開封(河南省)に官窯が築かれたこともあり、華北地方の陶磁が一斉に大輪の花を咲かせます。青磁を焼く耀州窯、汝窯、鈞窯、白磁の定窯(河北省)、白地に黒い装飾の磁州窯(河北省)などです。
 
 中国史上、書や絵画などの芸術が最も目覚しい発達を遂げるのが宋時代の約300年ですが、陶磁もその時代に黄金時代を迎え人類史上最も優れた作品の数々が生み出されます。

 これは唐から五代十国の長らく混乱の続いた社会が安定し、商業と貨幣経済が発達し社会全体の経済レベルが向上したことや、指導者階層に純理を追求する厳 正な儒教精神がみなぎり、その結果社会全体として崇高なものを尊び清純なものを愛する風潮が高まったことが大きな要因だと思われます。宋代の貴族は、実態 としてはほぼ世襲制に近かったそれまでの貴族と異なり、一代限りの実力制であり、みな教養を充分身につけた読書人で美意識も高かったのです。

 約170年間続いた北宋は金に追われて杭州(浙江省)に遷都し南宋時代が始まりますが、新しく杭州に官窯が築かれると青磁の龍泉窯、青白磁の景徳鎮窯、 黒釉磁の建窯、吉州窯(江西省)、白磁の徳化窯(福建省)など再び江南地方の窯が鮮やかな光彩を放つようになります。 一方、北宋時代に華やかに輝いた華 北の窯は、北宋官窯や定窯は廃窯となり、その他の窯も火が消えたような寂しさとなり地方の民窯としてわずかに命脈を保つのみとなりました。

 南宋時代(1127-1279)に中国陶磁の中心となるのは龍泉窯です。龍泉窯は浙江省南部にある龍泉市を中心に500カ所以上の窯跡が発見されている 中国史上最大の青磁窯で、五代の頃に始まり、当初は当時の主流であった越州風の青磁を焼いていましたが、この時代に「粉青」と呼ばれるとても美しいブルー の青磁を完成させます。そのブルーの美しさは雨上がりの澄んだ青空の色に例えられ「雨過天青」と称され、古来日本では「砧(きぬた)青磁」と呼ばれ青磁の 最上位に位置付けられ多くの人々に深く愛されて来ました。
 
 そしてまた南宋時代の作品で日本人として忘れてならないのは建窯の天目茶碗でしょう。

 建窯は浙江省と接する福建省北部にあり、唐代に始まり、当初は龍泉と同じくやはり越州風の青磁を焼いていましたが、唐代から流行した喫茶の習慣を受け、 宋代には黒釉の茶碗を専門に焼く窯として発展を遂げました。当時賞味された高級茶は白色の固形茶でしたので、茶の白さを引き立たせる黒釉の茶碗が好まれた のです。
 
 そして南宋時代に最盛期を迎え名品の数々を生み出しましたが、その中でも神品とされ最高位に位置付けられる曜変天目は世界に四個しか伝わっておらず、本 場中国にも現存せず、全て日本にあります。従ってそれらは、中国が生み出し日本に伝わり護り続けられた人類の宝、と言っても過言ではないでしょう。現在そ のうちの三つは国宝に(建窯ではこの他にも油滴天目の国宝が一つあります)、一つは重要文化財に指定されています。

 元代以降―龍泉から景徳鎮、青磁から五彩・染付へ

 さて、南宋時代に輝かしい黄金時代を迎えた龍泉の青磁ですが、元代(1279-1368)も中頃に入ると、宋時代は俗に影青(いんちん)と呼ばれる青白 磁の生産で知られ元の頃から五彩や染付などを開発し急成長を遂げる景徳鎮窯に押され気味になりました。染付は白磁の釉下に青く発色するコバルト釉で絵や文 様を描いたもので、中国では青花と呼ばれています。

 元王朝を築き上げた草原の遊牧民であるモンゴル民族には青磁の繊細で優雅な美しさよりも五彩や染付など派手・豪華で装飾性の高い作風の方が好まれたので しょう。またそれは多くの製品が輸出されたペルシャ、エジプト、トルコなど西方イスラム圏の好みに対応したものでもありました。この当時陶磁器は中国の主 要輸出商品だったからです。

 そして明代(1368-1644)中頃には中国陶磁の中心は官窯が置かれた景徳鎮窯に移り、その一方、龍泉窯は作風を低下させながら徐々に衰退の道をたどり始め、明末清初に至り廃窯に追いこまれ約700年の輝かしい歴史の幕を閉じました。

 元の時代に始まった染付はその後明代中頃以降は中国陶磁の主流となり、明代後半や清(1644-1911)の時代に景徳鎮で宋代青磁の名品が模倣されることはありましたが、いったん主役の座を降りた青磁が再びその座に戻ることはありませんでした。

 このように越州から華北、華北から龍泉、龍泉から景徳鎮と、原料や燃料など自然環境の変化、政治や文化の中心の地勢的移動、権力支配者の好み、人々の生 活習慣や嗜好の変化、外来文化の影響、交易相手国の好みなど、さまざまな要因が織り交ざりながら何百年という時間をかけ時代と共に主役が交代し興亡するさ まは、語呂合せではありませんが、青磁の世界というより政治の世界を見るようで興味は尽きません。
 そしてまた、進歩向上するだけの科学の世界と異なり、西洋クラシック音楽において18世紀初から19世紀中頃の150年間に作られた作品を超えるものが 出て来ないのと同様に、陶磁器の世界においても800年から1000年も前の宋時代の作品を超えるものがそれ以来今なお生れ出て来ないことは、人間社会や 精神文化の不思議を感じざるを得ません。

 日本に招来された青磁―寧波から船に乗って

 最後に越州や龍泉の青磁と日本との関係に少し触れておきます。

 越州青磁は遣隋使や遣唐使の船で中国に渡った人などにより日本にも招来されました。また、龍泉青磁や建窯の天目茶碗も南宋以降交易船や中国へ修行に来た 禅僧などにより多くの名品、優品が日本へもたらされていますが、これらが日本へ運ばれる際、主に中国の出口となっていたのが私が現在住んでいる寧波です。

 遣唐使船は630年に始まり894年まで264年間に亘り合計14回(数え方によって20回)派遣されますが、当初から第7回目までは朝鮮半島沿いの ルートを通り山東半島を目指していました。ところが朝鮮半島で663年に起こった白村江の戦いで親日的であった百済が敗れその後半島を支配した新羅と日本 が国交断絶してからは、東シナ海を突っ切り寧波を目指すようになっていたのです。

 それ以来、天然の良港を持つ寧波は中国と日本を結ぶ窓口となり、特に杭州に首都が築かれた南宋時代には多くの禅僧や貿易商人が留学や交易のため杭州の最寄港である寧波を目指して来ました。南宋後期には年に40-50隻の船が日本から来ていたといいます。
 
 国宝・重文の数々―日本の宝、世界の宝

 こうして日本へ渡来した中国陶磁の優品の数々は平安貴族、鎌倉貴族、武家、或いは江戸時代ならば将軍家や地方有力大名、豪商などその時々の権力者、有力 者、大金持ちなどにことのほか愛され、伝世品として現代まで伝えられましたが、それらがいかに優れたものであり大切にされたかは、国宝や重要文化財に指定 されている数が示しています。

 日本で現在国宝や重要文化財に指定されている中国陶磁は国宝が8点、重要文化財が65点合計73点あります。そのうち時代別には唐6点、宋42点(北宋 9点、南宋33点)、元8点、明16点、清1点です。また窯別ではやはり龍泉窯が最多で国宝が3点(国宝は他に建窯が4点、吉州窯が1点)、重要文化財は 19点あり、圧倒的に他の窯を引き離しています。なお、日本陶磁は国宝が5点、重要文化財が67点、合計72点です。(注)

 これからみても日本人が古来いかに中国の陶磁を、そしてその中でも特に宋代の、わけても龍泉の青磁を愛でて来たかが覗えます。また世界的にみましても、 龍泉の砧青磁は日本に伝世するものが数も多く最も優れていますし、建窯は先に紹介した曜変天目を始め油滴天目など名品は日本にのみ伝世しています。

 これら国宝や重要文化財に指定された作品はそれぞれ誠に見事な作品で、いくら見ても見飽きず、そして見るたびにうっとりとするような物ばかりです。それ らの名品は日本では大阪市東洋陶磁美術館、東京国立博物館、出光美術館(東京、大阪)、根津美術館(東京)、静嘉堂文庫美術館(東京)などで見ることが出 来ます。中国ではやはり本場の浙江省博物館(杭州)、浙江省官窯博物館(杭州)、龍泉博物館(龍泉)、慈渓博物館(慈渓)で良いものを間近に見ることが出 来ます。台湾の故宮博物館は、さすがに歴代の皇帝が絶対権力で金と時間を惜しまず作らせたものだけに、中国陶磁の至宝と言われる北宋官窯南宋官窯を始め、 各窯の垂涎ものの名品が数多く秘蔵されていますが、残念ながら日頃見ることの出来るのはそのうちのわずか一部だけです。(続く)

(注) 国宝と重要文化財の数については手元にある限られた資料から集計していますので細部に間違いがあるかもしれず、その際はお許し下さい。

 岩間さんにメール mailto:koyoyj@mail.nbptt.zj.cn

 トップへ
2003年05月27日(火)ブルッキングス研究所客員研究員 中野 有

 アメリカの新保守主義(ネオコン)の構想がブッシュ政権に大きな影響を与えているとの考えも正しいかもしれないし、また、アメリカは柔軟な発想を受け入れる土壌があるとの見方も正しいのではないだろうか。

 アメリカという国を考えるに、最近感じたことを記してみたい。
  1. イラク戦直後にワシントンでバスケットの試合を観戦した時、マイケルジョルダン等に熱狂するアメリカ人を見て、戦争の空気を微塵にも感じられなかった。戦争を仕掛けている国でありながら、ひょうきんなアメリカの個人主義を垣間見た。友人は、戦争の息抜きだと表現していた。
  2. 世界最大のコンサルタント企業である、ベクテルが開催するイラク復興の説明会に集まる2000人の参加者を見て、アメリカには破壊から創造まで、幅広い活動を行うバイタリティーがみなぎっていると感じた。
  3. ブルッキングス研究所というリベラルな研究所の中でも、非常なリベラルな北東アジア構想を発信しているが、保守的な大学やマスコミが私の構想に興味を示してくれた。 http://www.atimes.com/atimes/Korea/EE22Dg01.html VOAというアメリカの国営のラジオ局で2回インタビューを受け、さらに中国向け1時間ライブの解説を行った。何を話すかわからない研究員に北朝鮮の情勢分析を打ち合わせもなしで許可をするアメリカの柔軟な姿勢に驚いた。
 平たく言えば、アメリカは、ほどよい柔軟性と実利的な側面を兼ね備えた懐の深い国であると思う。ネオコンの思想や一国主義、そして9.11のトラウマが、アメリカを孤立化させているのが現実であろうが、これは一時的現象で本質的にアメリカは、バランスのとれた国である。

 アメリカの自由を謳歌し生涯を終えたアインシュタインは、世界のあるべき姿を方程式のように的確な普遍性の有る言葉を発している。この言葉こそブッシュ政権が学ぶべきである。

 Prevent war through cooperation among nations, Treat everyone equally.

 アインシュタインは、国際協調と人間を普遍的なものとして尊重している。

 また、国連の重要性を理解するも、その限界を指摘し、「World Government」すなわち、国家を超越した市民が主役となる「世界連邦構想」を提唱した。萬晩報の主筆、伴さんが語る賀川豊彦は、アインシュタインとこの構想を推進した。

 しかし、現在のアメリカのイラク戦に見られた一国主義、先制攻撃、イラク国民のみならず世界の市民を無視した行動は、アインシュタインの理想と対極的である。

 アメリカの素晴らしさは自由と民主主義、そして多くの人種で構成され世界からアメリカに憧れて集まる「世界連邦」に近いところにある。このアメリカが、 冷戦に勝利し、世界の警察官の役割を演じるに相応しかったアメリカが、国際テロのトラウマの影響からか、世界の声を無視してもアメリカはアメリカで守ると の行動が目立っている。この近視眼的な一国主義の行動が、世界の不安定要因を高めている。

 アメリカ一国の軍事費は、世界の2位から14位までの合計額より突出しているといわれている。軍事費を上げると戦争の可能性が増すとアインシュタインが 指摘している。アメリカは、国際テロ撲滅やならず者国家への対応のため、ミサイル防衛を含む莫大な軍事費が不可欠と考えている。背景には、アメリカの基幹 産業である軍事産業との絡みもあろう。

 軍需産業の推進は世界平和に反する。宇宙の開発は、技術革新という意味で平和につながる。イラク戦の教訓からアメリカは、国際テロ撲滅のためには、戦争 より国際協調が重要であることを学ぶべきである。アメリカは、経済発展のためには軍需産業が必要と考えるのなら軍需産業から宇宙開発への転換を国際協調の 下で取り組むべきであろう。

 リベラルな構想を保守的な新聞やシンクタンクが興味を示してくれるアメリカは、柔軟性に富んだ国である。アインシュタインは、「宇宙の目的」を最後まで 追い続けた。アメリカの軍事費を削減するには、宇宙産業の推進がキーとなるのではないだろうか。

 中野さんにメール mailto:TNAKANO@BROOKINGS.EDU
2003年05月22日(木)ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口 坦

 イラクで大量破壊兵器を見つけようとしていた米軍査察チームが近々を帰国の途につくそうです。さがしても何も出て来ないからだそうです。

 数日前に、バグダットの郵便・電話公社の巨大なビルディングが火事で燃えているのを外電の写真で見ました。爆撃による破壊をまぬがれたのに、、、
 
 さて、ドイツに「ドイツ・アラビア協会」という組織があり、これはアラブ諸国と関係のあるドイツ人の親睦団体です。そこから配布されたニュースレターに バクダット滞在中のドイツ人考古学者のメール(5月10日付き)が掲載されていました。発信者のヴァルター・ゾンマーフェルトさんはマールブルク大学の教 授で、発掘の仕事でもう何十年もイラクとドイツの間を行ったり来たりしているそうです。彼が接触するイラク人は大学関係者などフセイン体制下の上・中流の 階層に属する人々と思われます。とはいっても、メールから現在イラク人人がどんなことを感じたり考えたりしているかが窺われます。

 最初はドイツ人の学者らしく落ち着いて書いていたのですが、だんだん書きすすむうちに冷静でなくなるところが面白く思われました。
 
 そこで、イラク問題に関心を抱く萬晩報の読者の方々にも面白いかもしれないと思って、ドイツ語で書かれたこのメールを日本語に訳しました。メールは長い もので、翻訳にあたりイラク博物館や大学の略奪に関する詳細な記述部分は省略させていただきました。それでも長くなりすぎたと思われます。でも読んでいた だくと幸いです。
 
  ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 バクダット陥落 Prof. Dr. Walter Sommerfeld

 イラク軍は南部では予想外の激しい抵抗をしめしていた。ところが、4月9日バクダットは予想外にあっさりと陥落した。いったい何が起こったのだろうか。

 個々の詳細な事実は今後判明すると思われるが、今まで会った人々の証言から、大筋では以下のことが起こったと考えて間違っていないと思われる。

 米軍は、イラク兵の機関銃をとかし、死亡兵士には骨しか残らないような武器を使用して(バグダット郊外の)飛行場を占領した。その後、バグダットの町の中に進軍することができた。

 私が入国した4月25日でも、米軍が進入した道路上に燃えて破壊された多数の普通乗用車、また乗っていた女性や子供などの非戦闘員の死者を見ることができた。またこの道路から約400メートル離れた民家にクラスター爆弾の跡を、私は発見した。

 その後バグダット市内の一部で激しい市街戦が起こった。サダム・フセインは4月6日もしくは4月7日にウム・アル・タブール寺院に担当軍司令官を呼び、 南部で軍が頑強な抵抗したのに飛行場が容易に陥落したと激怒し、直ちに反撃することを命令した。軍司令官は飛行場の近くに戻る途中、米軍の攻撃に遭い戦死 したといわれる。

 軍事的抵抗を無意味とみなす軍の上部は、バグダット市の完全破壊を回避するために降伏を望む。米軍との間に密約があったかどうかについては、私と話した 人々は回答できなかった。サイフ・アド-ディン・アル-ラウィ大将は4月8日に抗戦停止の命令を下した。それに対して、サダム・フセインは自分の従兄弟を 派遣し、同大将を銃殺させる。しかし命令不服従は阻止不可能になる。夕方、バクダット市内全域が停電し、闇に乗じて軍上層部が逃亡した。水曜日の朝、共和 国親衛隊員、政府閣僚、バース党護衛部隊員、警官等は上司が消えてしまったことに気がつき、勤務から離れる。市内の一部で散発的な抗戦があったが、米軍は こうしてバグダットを速やかに制覇することができた。

 無政府状態

 その時以来、人口500万のバグダット市は無政府状態である。警察も司法なく、信号も停止したままだ。誰もが武装し、四六時中市内のどこかで銃声が響 く。とはいっても戦闘はまれで、警告するために、不安から、あるいはある町の一部で電気が(今まで最長2時間)供給されてよろこんだために発砲するからで ある。
 
 とはいっても、至るところで安全が脅かされている。例えば、5月1日、イラク博物館の後ろ側で一晩中激しい銃撃戦があった。その際弾がガソリンスタンド に命中して爆発が起こり、数人の死亡者が発生した。翌日、私が博物館に数時間いた間にも、また激しい銃撃戦が再開する。住民の一人が博物館を見張る米兵の ところへ来て、死亡者・負傷者がでたと連絡した。兵士は「素晴らしい隣人」と皮肉なコメントしただけであった。

 23時から外出禁止になる。町は幽霊が出そうなほど暗い。治安は住民の第一番の心配ごとで、バグダット大学のある学部長の発言を引用する。

 「政府がない限り、不安で大学に出られない。例えば、私から悪い点数をもらった学生が来て、私を射殺することだってありうる。そんなことは誰の関心もひかない。その学生をつかまえようとも、処罰しようとも思う人もいない」

 公務員も、教師も、医者も、役人も二カ月前から給料をもらっていないことを嘆く。蓄えのない人は食料を買うことができない。

 このような事情では、どこからか調達するしかない。こうして泥棒、強盗、殺人は日常茶飯事になってしまった。真昼間から銃をつきつけられて自動車を取り 上げられる話はここに来てからもう何度も聞いた。今まで武器など所持しなかった人々も購入するようになった。略奪された軍の武器貯蔵所から大量に流れ出た 兵器が安い値段で入手可能である。闇市で大量に売られているのを見ていると、一連隊ぐらい直ちに武装することができるように思われた。

 上・中流に属する人々は命を奪われる心配から外出しない。かっての公安関係者や、熱心なバース党員は姿を消して地方の親戚に身を隠しているといわれる。

 民家の略奪は現状では散発的で、例えば戦争で窓が壊れてしまった地区に限定されている。(旧支配者層に対する)復讐裁判のようなものも、今のところは起 こっていないが、それに対するおそれや期待を表明する人は多数いる。というのは、旧体制下個人的に大きな不正と被害をうけた人々が少なくないからだ。彼ら は何か起こらなければいけないと思っている。権力関係がはっきりし、旧体制支配者の誰かが前と同じ地位を占めることがあれば、この国で以前発生した革命の 時と同じように個人的な血生臭い復讐行為が多発すると予想される。旧体制のネットワークはまだ完全に破壊されているわけでないので、その人々と新たに権力 を志向するグループと、私的復讐の機会をねらう人々の間で内乱状態になると、どのイラク人も考える。

 私はトラウマに陥っている人々に何度も出会った。爆撃は特に子供たちに精神的障害を残した。ドアが音をたててしまる度に、彼らは怯え、ヘリコプターが飛んでいると震えだし、絶えずどこかに隠れようとする。

 中心街に居住する大人は、連合軍を撹乱するためにオイルが燃やされたためと、爆撃で燃える建物のために、3週間の間ほとんど太陽を見なかったと語った。 市内の幾つかの地区では、偶然戦闘の近くに居住していた非戦闘員の市民が巻き添えをくって死んだと、私は何度も聞いた。

 希望を抱かせるのは、市民の自主的運動で、多くの地区では自警団が組織された。また市民が交通整理にあたっている。食料の分配をしたり、月給をもらえないのに破壊された元の職場にもどり、後かたづけをする人もたくさんいる。

 組織的略奪と放火

 イラクの人々が特にショックをうけたのは、狼藉者がインフラと文化を破壊することである。 数多くの普通の市民が詳細に語ったことはどれも似ていて、どこかに現実にあったことを示唆しているとしか考えようがない。少なくとも次の点は大多数の人々 が確信していることであり、これが今後占領軍と住民の関係に何らかの形で影響すると思われる。

 1:略奪は組織的である
 旧政府の施設はどこの地区でも完全に略奪された。中の設備は運び去られ、破壊された。そうなったのは、
  • 石油省以外のすべての省庁、
  • 15の大学(唯一の例外は米軍が宿泊しているバグダット大学のキャンパス)、
  • 博物館(世界的に有名なイラク博物館も含む)、図書館、資料館、芸術・文化センター、- 病院、倉庫、銀行、
  • 旧政府関係者の住居、
  •  ホテル (例えば Rasheed, Melia Mansour, Babil),
  • その他の個々の施設、例えばドイツ大使館、フランス文化研究所、中国大使公邸、国連施設等
 略奪はまだ終息していない。五月初頭現在でも色々な場所で見られる。

 2:略奪はそそのかされたか、少なくとも黙認されたもの

 多くの人々は、米軍兵士にとめてくれるように懇願したが、効果がなかったと、私に語った。パレスタイン・ホテルにいる司令官に、例えば国連職員が国連施 設を守ってくれるように依頼した場合も、聞き届けられなかったという。略奪者は許可されていると感じ、ときには誇らしげにテレビカメラの前で略奪品をかつ ぎ、建物が空っぽになるまで略奪を続けた。貧しい人々も、普通の人も、また身なりのよい人々も略奪するので、貧乏で困ったためだけでなく、怒りや恨みや貪 欲からも参加する。略奪品は当日に路上で売られ、冷房装置が5ユーロで売られるなど、安い値段で取引きされる。

 略奪がはじまる状況は驚嘆に値する。というのは、米軍兵士が頑丈に閉鎖された建物の門や入り口を壊し、見守る人々に「アリババ、入れ。お前達のものだ」 と略奪するようにうながすからである。この「アリババ」の常套文句は本当に多くの目撃者が何度も聞いたもので、「アリババ」は米兵には略奪するイラク人の 代名詞になっているようである。通訳や案内人として米軍を同伴するクウェート人も略奪するようにそそのかすといわれる。

ある人は、兵士が戦車の上に腰掛けてゲラゲラ笑いながら略奪を眺めているのを目撃していたと、何人かのイラク人が私に語った。

 ドイツ大使館の破壊については、近所に住む人が語ったところによると(、この人と関係のない別の人も同じことを話したが、)まず米軍が軍用車両で門をこわし、見物人に略奪するようにうながしたという。

 工科大学の場合は、米軍が建物の中に最初に入り、コンピューターを開けてハードディスクを確保してから略奪がはじまったと、国連職員が私に語った。

 このように略奪をそそのかすしたり、黙認したりすることが、その場での成り行きの結果に過ぎないのか、それとも指令があってそうなったのか、現状では答えられない。

 3. 放火は略奪とは別の事件である

 略奪者は盗み、破壊しただけであるが、放火しなかった。その後に、放火する者が現われて、略奪されて空っぽになった建物を次から次へと、ガソリンもしく は可燃性の化学物質を用いて放火する。略奪から放火まで数日あいだを置くのが普通で、略奪された建物の多くが火事になって燃える。(幸いイラク博物館はそ うならなかった。)また略奪を受けることなく放火された建物もある。例えば国連関係の会計部があった建物もその例である。火事の犠牲者は紙、書類で、建物 は数日間も燃えつづけ崩壊する。

 このような放火による火事の結果、旧政府の関係書類はすべて破壊され、行政の仕事はゼロからはじめなければいけない。例えば、バグダット市の土地台帳も 破壊されたために、所有権を証明することが不可能といわれる。(「国民会議」の)民兵団は、この事情を悪用して、一等地に住んでいた人々を追い出し、現在 建物を事務所等に利用している。重傷をおった20人の子供がヨーロッパで治療を受けるはずであった。ところが、出国ドキュメントが作成されず渡欧できな かった。そのうちに何人かが死亡し、残りの子供は現在サウジ・アラビアで治療を受けている。

 略奪は多数の目撃者がいて、その状況が詳しく知られているのに対して、放火は少数の犯行で、正体不明である。略奪をしたのはイラク人で、放火は別の人々の仕業なのであろうか。そう思っている人は少なくない。

 このような狼藉行為の理由については憶測するしかないが、教育程度の高いイラク人は以下の点を指摘する。
  • 住民の反感が占領者でなく旧政権に向けられるようにするため。
  • 再建事業もビジネスで、国家のインフラが全部破壊されたら商売が大きくなる。
  • 住民が混乱し無力で、生き残ることだけで頭がいっぱいのほうが、外からの傀儡政権を受け入れる。「死ぬことを考えたら熱がでることなどたいしたことでない」(イラクのことわざ)
  • 自分のしたことの痕跡を消したかった。というのは、多くの場合一番最初に建物の中に足を踏み入れて、何かを運び去ったのは占領軍だったから。
  • クウェート人に復讐のチャンスを与えようとした。1990年、91年のクウェート占領中、イラク兵士は略奪した。(でもイラク兵は当時放火はしなかった)-ドイツやフランスや国連等にお灸をすえるため。「今後おとなしくして、よくいうことを聞け」というメッセージ。
  • 米国の国内向けのショー。このメーセージは「悪いイラク人は何もかも壊し、良い米国が再建する」。最初の放火があったのは、ジャーナリストが泊まるパレスタイン・ホテルであった。これは映像になりやすい。
 教育のあるイラク人は狼藉をはたらく同国人にショックを感じている。また前政権が自分たちだけ富み栄え、強ければ何をしてもいいとする「強者の論理」を実行した。この結果イラク人の国民性が歪んでしまった。こういって、彼らは嘆く。

 また彼らは次のことも指摘する。35年も続いた独裁政権でイラク人を怯えさせることなど米軍にとって容易だった。戦勝国の米軍兵士が一度発砲するだけ で、略奪者は直ぐに逃げ出したはずだ。だから、米軍が略奪するイラク人を勇気づけたり、黙認する意志を示していたのではないのだろうか。

 住民の不満

 米国の軍事作戦計画が効果的であったためか、それだけに戦闘終了後に発生する問題に対しては、前もって考慮したようすがない。米軍は、住民の生存に必要 な物資の供給することなど今までしなかった。また現在バグダットを支配する無法状態に対しても為すすべを知らないのも、このためと思われる。彼らは、対応 が遅いだけでなく、首尾一貫していないし、発生する問題に気がつかないのかもしれない。占領するにあたり、あまり先のことを考えなかったことは、例えば今 になって警備のために国際社会から人材を派遣させようとしたり、また地元でわずか20人のイラク人を警官としてやとったことを重大事件としてニュースにし た。このような事情も、前もって発生する問題を考慮していなかったことを物語る。

 ところが自国の利益となると、話が別になる。石油省だけは略奪も火事もまぬがれた。これもその一例で、この省庁だけは最初から厳重に警備された。原油の埋蔵について調査結果等の書類も確保され、以前の従業員も活動を再開している。

 鉄道施設は略奪されたが、放火されなかった。少し前英軍将校が現われて、以前の従業員を集め、20ドルを一時金として支払った。バクダット・バスラ間の路線に最重点が置かれているようである。

 米国人にはイラク人のメンタリティを理解する能力も、また敏感さも完全に欠如しているようだ。戦車に乗っかった米兵の集団が10ドル紙幣を見せて路上で 売春婦をさがしていたと、あるイラク人が私に語った。また米軍専用の売春施設もすでにできたといわれている。このような態度はイラク人の反米感情を高める ように思われる。

 住民は米国人に対して感情を抑えている。多数のイラク人は、フセイン政権が消滅したことに満足し感謝しているが、米国人が現在の不法状態の発生と継続に 責任があるとする見解がどんどん強くなりつつある。またどのイラク人も米軍の撤退をのぞむ。フセインのときは悪かったが、今はもっと悪いという声がふえつ つある。またどのイラク人も、現状がすみやかに改善されず、また米軍が撤退しないと、占領軍に対する武装抵抗がはじまると予想する。

 新秩序と権力への戦い

 住民の大部分はショック状態にあり、今後状況がどう展開していくのかを待っている。なかには、この権力の真空状態を利用して活動をはじめる人もいる。今 後どうなるかを予想するのはむずかしい。どのようなグループがのしてくるか、失敗するか、どんなシナリオで進行するのか、聞いたことをしるす。

 すべての住民が、またバース党員も、また旧政府に追従していた人々も、サダム・フセインには失望している。以前誰も知らなかったことや、ごく一部の人々 にしか知らなかったことを、今では多くの人々が知るようになった。大部分の住民が窮乏にひんしていたのに、フセインとそのナカマだけが懐を肥やし富を独占 していた。このことを、多くの人々が憤慨する。幾つかの宮殿で壁の中や犬小屋の下に数億のドル紙幣が隠匿されていたのが発見された。以前は普通の市民がこ のような宮殿に足を踏み入れることなどできなかった。ところが、現在略奪者だけでなく、見たい人は見物することができる。こうして多くの隠されていた事実 が判明した。また監獄から囚人が解放され、残酷で非人間的な状況が白日の下にさらされる。サダム・フセインの長男ウダイのサディスティックな行状の一部始 終が噂される。

 人々は、フセインがイラクの国に害悪をもたらし、絶望的な戦争を避けようともせず、住民を救うために何の処置もとらなかったことに憤慨する。

 フセイン政権についての人々の怒りはとどまることを知らない。1968年の革命以来バース党の思想に共鳴し、フセイン専用の医者団に属し、4月7日彼が いた建物の中で夜を過ごした医者は、戦争開始以前にも麻酔薬などの必需品さへ病院に欠けていたと、私に語って、このような窮状に責任があった厚生大臣こそ 第一番目に処刑されるべきであると彼は怒った。

 フセインがカンバックすることは考え難い。でも彼の権力を維持するネットワークは完全に破壊されていないといわれる。人々は、彼がどこかに隠れていて、 事態の展開を見守り、現在の無政府状態が続き、食料等の供給が改善されずに、住民の不満が増大したときに何か悪いことを画策すると思っている。

 亡命イラク人団体、イラク国民会議(INC)・アハメド・チャラビ代表のグループの活動が活発である。彼らは民兵を組織し、一等地の建物を占領し、住民 を追い出したりした。また彼は資金潤沢である。(彼らの民兵が幾つかの銀行を略奪したという人もいる。)このグループは将来できる政府に影響力をもとうと 必死である。彼らの用いる手段は暴力とカネである。住民のあいだに支持基盤もないし、好かれていない。彼らは「外国人」と感じられて、誰からも受け入れら れていない。これは、このグループがこの国の現実からも、また住民の直面する問題からも遊離しているからである。

 シーア派は一番よく組織化されたグループである。彼らは数百万人に及ぶ大衆の動員力をもつ。外国から気づかれることなく、このグループは、前前政権に対 して服従することと引き換えに南イラクで1994年以来自治権をもち、これを効果的に利用した。彼らの宗教的指導者は秩序が守られ騒動が起こらないように する権威をもつ。だからこそ、彼らの影響下にあるナジャフやケルベラといった都市では略奪が発生していない。彼らは回教法を適用している。

 シーア派グループの戦略は柔軟で、民主的手続きをへて将来成立する政権の中で、まず彼らの人口にふさわしい多数派になることめざし、その後ゆっくりと回 教国家を築こうとするのではないのか。そう予想する人が多い。彼らは米軍占領反対であり、自分たちも軍事力をもつ。ナジャフから来た人々は、シーア派がす でにそこでゲリラ戦の準備をしていると語った。バグダットの住民で、教育程度の高い人々は、このグループが未知数で、同時に強い意志をもち、強力な軍事力 をもつ政治グループと考える。

 「米国人は生を愛するが、シーア教徒は生を憎悪する。米国人と戦うことになり、指導者が命令すれば、彼らはよろこんで死ぬ」とシーア派の大学教官が私に語った。

 イランからのテレビ放送が、バグダットでは現在地上波で受信できる唯一のものである。その中で、米軍の撤退と聖戦が要求され、回教国家建設の宣伝が繰り 返される。イランの民兵がすでにイラクに潜入しているという噂も流れている。イランがイラクのシーア教徒に対してもつ影響力は外から見て窺い知れない。

 バグダット市住民の大部分はスンニ派である。何百万人もの市民は宗派によっても、氏素性でも、また政治綱領によっても組織化されていない無名の群集であるように思われる。

 バグダットの中間層、上層に属するイラク人は行政や経済についての知識も豊富である。彼らが経済封鎖という困難な時代にもこの国を機能させた。このよう な階層に属する人々の願望は、今まである程度まで能力をしめし、社会や経済について知識をもち、あまり腐敗していない人々が将来この国に指導者になってく れることである。とはいっても、彼らのあいだから、誰か多数の人々に支持されるグループや指導者が生まれていない。また彼らの誰もがはっきりした未来のビ ジョンももっていない。

 現在あるのは一種の真空状態で、これを好機と見なして力を得ようとすつ小さなグループが存在するだけである。これらの小グループが、メディアの関心を集 めるためにパレスタインホテルの前でときどきデモをする。この政治的真空状態で、誰もが運に恵まれて将来石油省大臣になると、皮肉なことをいう人も少なく ない。

 議論の場といった民主主義につながるものも、またそれを経て形成される多数派形成も見えてこない。回教国家も米国による直接支配も、傀儡政権による間接 支配も望まないという点でのみ、皆の見解が一致している。「新しいイラク」放送の宣伝も無内容で、彼らが本当に聞きたいことでもなく、またそのアラビア語 もひどいもので、納得して耳をかたむける人はいない。世論は私的意見の交換や口コミで形成される。軽視できない役割を演じるのは回教寺院で人々に語られる 回教的内容のメッセージである。戦争終了後、以前の反体制運動家がはじめた新聞を含めてメディアが登場したが、一握りの住民にしか届かないのが実情であ る。

 未来のシナリオ

 今後展開するシナリオは、「このままゆっくりと安定していく」から、内乱、国家分裂、武装蜂起、ゲリラ戦争まで種種雑多である。現状ではどうなるか予想できない。イラク人同士の議論では、今後に展開について次のような点が重視される。
  • 占 領軍は外からの支配者と見なされ、彼らがつくる政権は傀儡政権で、住民から受け入れられない。占領軍は治安や食料、電気などの供給に対する住民の要求をす みやかに、また効率よく満たさなければいけない。それに成功しない場合は、住民の現在の不満が憎悪に転換し、蜂起やゲリラ戦争になる可能性がある。再建 は、現状では進展していないし、コンセプトが欠如している。
  • 外から誰かを、例えばイラク国民会議のチャラビを新政権に登用すると、スンニ派やシーア派だけでなく住民全部が反対し、内乱状態になるかもしれない。
  • シーア派組織が多数派を形成し、イラクを回教国家に転換しようとすると、スンニ派の都市部住民が激しい抵抗をする。この結果も分離戦争になる。これも内乱状態である。
  • フセインの後継者というべき強い指導者が登場してスンニ派独裁体制が成立する可能性もある。こうなると本当に何のために戦争したかということになる。

  • 人望があって人をまとめる力をもつ指導者が見当たらない。以前外相をしたパチェッチは人気があっても、すでに歳を取りすぎている。旧政権残党問題は克服されていないので、彼らが住民の不満を利用してサボタージュや蜂起を画策する可能性がある。
 状況が不安定、一触即発の状態であるために、「爆撃は終わったが、本当の戦争はまだはじまっていない」という人がいる。

 サダム・フセインについて

 フセインは、イラク国家を建設し大きく強くしたいという私たちの理想主義を悪用した。彼がいなかったら、イラクはインドやパキスタンと肩を並べる中堅強 国になっていたはずだ。私たちは彼の奴隷に成り下がり、国家そのものが彼の私物になった。彼の郎党が私たちの目の前で悪いことをして見せてくれて、これが 今やイラク人の習性になった。フセインは長男のウダイに好き放題を許し、これが彼の評判を落とした。この息子こそ、国民の八〇パーセントがサダムとバース 党と政権を憎悪するようになった原因である。彼はサディストで、父親を政治的に破滅させた。

 アメリカ人について

 誰が彼らに信頼を寄せるだろうか。彼らはバカで、物事を理解できないし、アイデアもない。イラクのことをろくろく知らないし、知ろうとも思わない。彼ら がやって来たのはイラクを解放するためでないし、石油というお目当てがあったからである。彼らは、私たちの状況を以前以上に悪くするためにやって来た。彼 らは壊しただけで、それまであったものに替わるものを、何か持ってきたのだろうか。彼らが今から何か建ててくれるかって、、、、それならなぜ現在の混乱状 態を改善しようとしないのだろうか。人々が街頭に出て、サダムのほうがよかったと叫ぶ日がくるかもしれない。米国人が出て行かないなら、いつか戦う。毎日 2人殺せば、時がたつうちにけっこうな数になる。そうなると、彼らもとんでもない泥沼にはまり込んだことがわかるはずだ。彼らが連れて来た人たちは何もわ かっていないので、イラク人に受け入れられる日など来ない。

 民主主義について
 
 私たちのほうにその用意ができていない。民主主義といっても時間がかかるもので、おそらく50年はかかると思う。私たちは民主主義を悪用すると思う。お ちおち眠れない私たちに民主主義など、何の役に立つのか。イラクに実現して困るものの一つは、民主主義である。そんなものなど必要ない。私たちが必要とす るのは、私たちを守ってくれる人で、それは独裁体制、それも穏やかな独裁者である。

 未来

 私たちの未来はとても暗い。私たちは身の危険を感じて不安で仕方がない。私たちは生き延びたい。社会はバラバラになってしまい、無法状態である。信頼で きるものはどこにもない。イラク国民はいつか赦すかもしれないが、決して起こったことは忘れない。(ヴァルター・ゾンマーフェルト 2003年5月10日)

 美濃口さんにメールは mailto:Tan.Minoguchi@munich.netsurf.de
2003年05月21日(水)台湾在住 曽根正和

 台湾の国際社会での地位は中国の「一つの中国」政策のため、多くの国や組織に認知を受けていない。今回5月19日のWHO(世界保健機関)へオブザー バー(正式成員ではなく)としての参加申請も、中国の政治力の前に実現しなかった。中国政府の同種の動きは特に新しいことではないが、今回のSARS病の 蔓延を眼前に体験するにつけ、疫病予防と政治は切り離すべきではないかと思い、萬晩報の読者に問題を提起したい。

 初めにお断り申し上げるが、私はここで台湾独立を支持したり、中国政府の「一つの中国」政策についてコメントを述べるものではない。

 SARS病はつい最近まで日本にとってはどちらかというと対岸の火事であり、中国、香港、台湾などとのビジネス関係者を除いては、関心が薄かったとおも う。そこに先日、台湾の医師が西日本を観光し帰国後SARSを発病したニュースが入り、一気にマスコミの注目もあつまり、一般の関心度も高まったようだ。

 中国広東省仏山で発生したとされるSARSは昨年秋の発生後、中国政府当局が故意にその情報をコントロールし発表することも無く、そのために適切な防疫 対策もされず蔓延した。北京でも同様な隠蔽がなされ、結果衛生部張文康部長や新任孟学農北京市長が更迭されたことも記憶に新しい。世界からのこうした隠蔽 工作に対する批判も相次いだ。一方、正しい情報が流されなかったため、広東省では消毒作用があるとされる酢などの民需品が無くなり、パニック状態になっ た。

 台湾でのSARS蔓延は、4月半ばの台北市立和平病院での院内感染がきっかけで、現在も毎日二桁台の新ケースが報告されている。台北地区から南部へも広 がりを見せており、先に流行したシンガポール、香港などが落ち着き始めているのとは対象的である。

 台湾の防疫対策にも問題点がある。上記和平病院などでは、業績への心配から来院患者がSARSの疑いがあるにもかかわらず、適切な報告や対応をしなかったことが指摘されている。一般民衆も感情的な対応をしたり、理想とは程遠い。

 現状説明が長くなったが、SARSはまだ治療方法が確立していない伝染病であり、これを防ぐ方法は情報の公開や伝達、それに基づく迅速かつ確固とした隔 離などの防疫対応である。ウィルスや細菌には国境や人種の隔てなどない。中国でも台湾でも、また世界のどこでも同じように伝染する。要するに国や政治を超 えた存在である。WHOのオブザーバーとして正式に組織内での情報のやりとりは、台湾の人民にプラスになるだけでなく、周辺諸国も正しい情報が伝えられる というメリットもある。中国や台湾に近い日本は、伝染病の蔓延については、正式経路で台湾の疫病最新情報が常にインプットされることは重要なはずである。

 同様な認知は国際医療関係者にもある。たとえばWMA(World Medical Association)は5月16日にも台湾のオブザーバー参加について提言している。要点は今回のSARS蔓延の状況を見るに付け、国際社会の協力が 必要な状況であるにもかかわらず、2000万の人口を有する台湾がWHOから除外されていることは終わりにすべきであると。但し、WMAの立場は台湾の国 際地位についてサポートするもではないと注記をつけている。
http://www.wma.net/e/press/2003_4.htm

 中国政府のオブザーバー参加の拒否理由は、国家という資格がないからという技術問題を前面に出しているが、それでは実際に起こっている病気をどうするの かに対する明確な回答がない。簡単に中国は台湾同朋の健康福祉には関心があり、台湾での情報が十分であるといっている。http://fpj.peopledaily.com.cn/2002/04/09/jp20020409_16052.html

 しかし、このようなコメントは自己矛盾である。もともと中国はWHO人員が台湾に行くことすら渋っていた。http://www.kyoto-np.co.jp/kp/topics/2003may/03/K20030503MKH1Z100000012.html

 WHO正式成員でありながら、SARSの隠蔽をして世界的な批判を浴びていることを忘れたのか。次に台湾での現実為政ができない状態で、どうして十分な 情報があるかを判断するのか。一歩進んで防疫対策ができるのか。その昔、20数年前台湾で見た地図には、外蒙古(モンゴル)からチベットまで含んだ、大中 国の版図が中華民国とされていた。中国政府のコメントはこれと大同小異の発想である。

 中国政府の参加拒否行動は、目の前にSARSの脅威を感じている台湾人民の反感を買うだけで、「一つの中国」政策にもマイナスのはずだ。それともハリー ポッターに習い、魔法の棒を一振りして台湾のSARSを消滅すれば、それこそ台湾では大歓迎だろう。

 人道的な観点、またWHOを通じた国際協力を通じて自己を疫病から守るという観点から、日本が台湾のオブザーバー参加を支持するとの表明は正しいと思う し、更なる支持を期待する。また、数は少ないが日本国民をはじめ、諸外国の国民も台湾に暮らしているのであるから、これらの国家は自国民の健康のために も、台湾のWHOオブザーバー参加は支持すべきではないか。ますます狭くなる国際社会ではさらに多くの未知の病気が発生する可能性は非常に大きい。中国の 政治問題でこの狭い世界に疫病のブラックホールを存在させることは、全国際社会にとってもマイナスである。中国も国際社会の一員であることを認識するべき だ。

 曽根さんにメールは mailto:sone.home@msa.hinet.net
2003年05月17日(土)四国新聞社論説副委員長 明石安哲

 自分の町の知名度が低くて閉口することといえば、県外へ電話した時、「いえ、カナガワではありません。カガワです」と何度か言わねばならないことだろう。そんな日本の無名県・香川から世界に向けて日本文化を発信する「さぬき盆栽美術館」構想が地元のNPO法人アーツカウンシル高松(略称ACT=石井ルリ子理事長)から提案され、昨年秋に構想準備委員会がスタートした。日本初の屋上盆栽美術館構想は高松市丸亀町商店街の大規模再開発に盛り込まれ、最短なら平成18年の開館。さぬきはうどんばかりじゃない。

 うどんとベストセラーの謎

 ある日、突然の讃岐うどんブームのおかげで香川県はたちまち全国の注目を集める土地になったが、近年の香川県は各種調査で「全国一知名度の低いことで全国に知られる」という逆説を体現した土地だった。県都高松市は古代から江戸期を通じて四国の玄関として栄え、明治以降も長らく経済力を含めて優越した地位を保ち続けてきたが、経済・情報の中央集権化の進行、特にバブル景気の騒ぎの中で、すっかり名前を忘れ去られてしまった。うどんブームで「讃岐」は一躍脚光を浴びたが、それを「香川」のことだとは知らない人がいるのにはもう笑うほかない。

 讃岐うどんが「安くてうまくて早い」のはもう20年も前からのことだ。香川に縁のあった人々は「これほどうまい釜揚げうどんを毎日100円で食べられる」社会システムに注目していた。銀座のデパートで食べる700円のキツネうどんの不味さと比べて、その豊さを「讃岐の謎」と呼んだ人もいる。最近の全国的ブームのきっかけを作った人物の一人である人気作家・村上春樹さんはあるコラムの中で、こんなうまいものがあったのか、という衝撃を「米国のディープサウスで鯰ステーキを食べた時のような」と表現した。

 村上さんは余程、うどんがお気に召したのか、現在ベストセラー中の小説「海辺のカフカ」の舞台まで高松にしてしまった。その理由は「ただ高松が好きだから」と何だか謎めいているが、とにかく売れている。一昨年の超ベストセラー「バトルロワイアル」も高松市沖の島が舞台である。作者の高見広春さんは地元在住の人。こちらは100万部も売れた。高松を舞台にすればベストセラーになるというジンクスは讃岐うどんほどには認知されていない。

 香川の謎はほかにもあるが、当面の新たな謎は盆栽である。これもあまり知られていないが、香川は日本文化を代表する「松盆栽」の最大の産地である。一体なぜ香川が盆栽の大産地になったかについては後述するが、フランス文学研究の第一人者で名著「盆栽発見」を発表した評論家の栗田勇さんは、数年前にその産地・鬼無を探訪して、「ダイヤモンドの原石がごろごろ」と驚きを記している。さぬき盆栽美術館構想はその原石を磨き上げ、世界を相手に現在の10倍に当たる100億円産業に育てようという構想である。

 目立たないのも戦略

 その驚くべきダイヤモンドの原石畑は、高松市郊外の鬼無町から隣りの綾歌郡国分寺町にいたる旧国道ぞいの数キロにわたってずらりと並んでいる。全体面積は12ヘクタール、本数では1000万本は下らないともいう。樹高はどれも1メートルにも満たないから目立たないが、最近の若木から先々代の盆栽園の園主が植え込んだ100年近い古木まで、あらゆる年代の盆栽素材が植え込まれている。

 盆栽園の園主に畑を案内してもらうと、「あっ、そっちは気をつけてください。枝を折ったら大変」と注意されるのは明治後期から大正にかけて植え込まれた名品ぞろいの畑。いずれも時価で40万円は下らないものがまさにごろごろ並んでいる。1平方メートルに1本なら100平方メートルで4000万円。「ただし売れればの話」と笑い飛ばされたが、この素材木を首都圏の盆栽業者が買い取り、高価な盆に上げて、形を整え、10年も寝かせれば500万円の名品になることもある。

 園主は再び「それも売れればの話。今は大変」と笑うが、栽匠(一流の盆栽師をそう呼ぶ)の技術で、いわゆる「国風クラス」に仕上がれば、決して夢ではない。10年で10倍なら大変立派な投資だが、なぜか鬼無・国分寺地区に軒を並べる200軒以上の盆栽業者は高価な最終製品の販売にはあまり挑戦しようとしない。あくまで中間素材と10万円単位の比較的廉価品の販売が中心。年間の出荷数は約16万鉢。実はこの「目立たない戦略」こそ香川の真骨頂である。

 100年後への投資

 前出の「国風クラス」という表現は日本の盆栽界の最高峰を集めて、毎年2月に東京・上野の国立美術館で開く展覧会「国風展」の名前から来ている。バブルの時期、そこに並ぶ作品には億単位の価格さえつけられたが、今ではそうした名品中の名品も暴落という現状で、そのあおりを受けて有名盆栽園が顔をそろえた埼玉県大宮の盆栽村にも一時の隆盛ぶりは見られないという。

 しかし香川の業者の多くはリスクを好まず、素材生産に徹して生き残ってきた。盆栽が売れなくなれば、兼業農家でゆったりと時代の元気が回復するのを待てばいい。待っている間に素材は時を重ね、結果として売値も上がる。彼らが先祖代々、100年をかけて育ててきた宝の畑に追いつく者はどこにもいない。なにしろ収穫は50年先という気の長すぎる投資なのだ。

 祖父が植えた木を売って、空いた場所に苗木を植え、また百年を待つというのは数百ヘクタールの山を連ねる山林王のような話である。それと同じことをわずか3反(1000坪)で行っているわけで、畑一枚が山一つという雰囲気だ。さすがに不況が10年も続けば、貴重な畑を転売する人も現れるが、目を海外に向ければ盆栽生産発展の可能性はまだまだある。あるどころか、今世界のエスタブリッシュの間ではBonsaiがブームなのである。

 盆栽はBonsaiになる

 最近の外信報道によれば、パリ、ロンドン、ニューヨークの大手デパートには必ずBonsai売り場があるそうだ。中心は小品盆栽から中品で値段は日本の10倍。かつて盆栽はドワーフド・ツリー(dwarfed tree)つまり「いじけた植物」と侮蔑的に紹介された時代があったが、日本文化への理解が進むなか、「一つの樹木を数百年にわたって世話し続ける」思想への共鳴、さらに明治期に確立された近代盆栽が表現する「幽玄」への憧れ、そしてそれを支える精緻な栽培技術への評価はますます高まっている。

 たとえば1976年の米国建国200年祭にあたっては、米国からの特段の要望によって日本の大型盆栽が多数、日本から贈られ、米国は国立植物園に大規模な盆栽園を新設して受け入れたこともその証明だろう。それから10年ほど後、日本を訪れた当時のクリントン大統領が首脳会談そっちのけで盆栽に興味を示し、政府の特段のはからいで植物検疫を通過した名品数点が贈られた話も盆栽界ではよく知られている。

 こうしたブームを受けて鬼無・国分寺地区には世界各国から盆栽技術の修得を目指す留学生が毎年のように訪れている。米国、ドイツ、ブラジルなど過去30年間に香川で盆栽栽培の基礎を学んだ外国人は数え切れない。またヨーロッパなどから本物を見たいと訪れる愛好者の産地見学ツアーも、その需要と関心の高さを示している。植物検疫の壁さえクリアできれば大型盆栽を輸出の夢が広がる。

 ビル屋上を盆栽で緑化

 香川の盆栽界は世界の注目を集めるだけの素材と技術を持っているが、その資産を生かし切っているとはとても言えない。NPO法人ACTが打ち出した屋上盆栽美術館構想は盆栽界が抱えるさまざまな問題を官民共同で洗い出し、解決していくためのパイオニア・プロジェクトである。

 美術館の建設場所は政府の中心市街地活性化対策の先兵として注目を集めている高松市丸亀町商店街の再開発ビル。この再開発は平成18年を目標に進行しているG街区を手始めにA~Jまで合計7つの街区を10数年をかけて建設するもので、それぞれの街区ビルの屋上やテラス部分を盆栽美術館にして屋上緑化にも役立てる構想だ。実現すれば日本最初の、そして増殖する屋上盆栽美術館になる。

 ACTは構想に当たって生産から販売、鑑賞にいたるまでの全体システムを官民共同でコントロールするシステムを提案し、盆栽芸術の最高レベル作品を常に展示するとともに、関連商品を扱う販売センター、技術研修センター、盆栽教室などを含めた盆栽産業のピラミッドづくりを提言している。美術館には専門の学芸員をおき、貴重な盆栽資料を一堂に集める日本初の盆栽図書館や鑑賞しながらお茶を楽しむBonsaiカフェを併設。若者の人気を集める小品Pop盆栽にも講座を用意する。

 名品眠る宝の畑

 ところで、なぜ香川で100年も前に盆栽栽培が始まったのだろう。ここにも讃岐うどんを育てた特殊な風土が反映している。日本一県土が狭く、人口が多く、山が少ないという香川は四国の残り3県とはまったく風土が違う。平野ばかりで風水害もない香川は古代から日本有数の人口稠密地だった。そのため江戸期には山という山に人手が入り、落ち葉まで燃料化された山は肥料分を失い、パイロットプラントの松ばかり生き残ったと林学専門家は分析する。養分の少ない山地で育った小さく頑丈な松はまさに盆栽向きだった。

 讃岐人がそれを山採りして、金毘羅参詣客に売り始めたのは園芸ブームに沸いた江戸後期。その後、維新の志士たちによる簡雅な盆栽ブームが始まるとそれも取り尽くされ、それならと自家栽培が始まった。直幹、双幹、模様木、斜幹、株立ち、懸崖、吹流し、根上がり、石付き、根連なり、そして文人。畑には古来の名品がまだたくさん眠っている。「一芽一万」で大騒ぎする都会の盆栽ファンがこの畑を目の当りにすると、目眩さえ感じるらしい。目立たない戦略で生き延びてきた香川の盆栽が「讃岐」を名乗って世界を目指せるのかどうか、今後が楽しみだ。(NPO法アーツカウンル高松・副理事長)

 明石さんにメールは mailto:akashi@shikoku-np.co.jp
2003年05月16日(金)ブルッキングス研究所客員研究員 中野 有


 ブルッキングス研究所の北東アジア政策研究センターのチームの一員として、コロンビア大学、フォード財団、スタンフォード大学、カリフォルニア大学バークレー、アジア財団、ランド研究所、南カリフォルニア大学等を訪問した。

 平たく言えば、円卓のディベート形式の道場破りか他流試合のようなものであった。構想は、多くの人に聞いてもらい、それを肥やしとしてさらに成長してい くものだと確信した。率直に想いを語り、コメントが建設的であっても攻撃されたものであっても、学ぶことが無限大である。ある専門家のコメントに少し味付 けして、次のセミナーで、さらに内容を充実させた構想を語る。アメリカ大陸を東から西へ横断しながら、これぞアメリカのシンクタンクの醍醐味だと感じた。

 日本で多くのセミナーやフォーラムの開催に関わったことがある。ものすごい量の雑用に追われ、本質的な成果はあまり得ることができなかった苦い思い出が 無数にある。数週間も前に作成した原稿を棒読みする日本での講演者を見て、会議に出るよりインターネットで読んだほうがよっぽど効率的だと思われることが 常にあった。日本で国際会議を行った場合、通訳から参加者の出迎え宿泊の手配、はたまたビザの準備まで雑用だらけである。会議の当日に予定通り参加者と聴 衆が集まった時点で、安堵してしまい、それ以上の気力が沸いてこなかったことが思い出される。何のために高い予算を血税から工面し、会議を行うのか、もう 一度、会議の成果を問い直してみる必要がある。

 今回のブルッキングスの遠征では、一日に2時間のセミナーを2-3回、5日間連続でこなすのである。そうなれば準備をしている時間もないので、自ずと じっくり熟成された構想を原稿なしで語ることになる。構想は、会合を重ねるほど着実に成長していく。構想が練られることにより、自信がつきさらにチャレン ジ的な発想が芽生える。聞いている人に感動を与える構想とは、このように成り立つのだと思われる。

 明治維新にもきっと、このような場があったと思われる。開国か攘夷か。そんな危急を要する情勢において構想と実現のための青写真を描いた竜馬をはじめと する志士たちは、人物に次から次とめぐり合い、構想に磨きをかけたのだろう。ブルッキングス研究所の遠征では、うきうきする開放感があった。会議に出席 し、発表することにより新鮮な発想を呼び起こすという喜びである。

 満足感とは、「起承転結」の中でもとりわけ「結」に到達したときに得られるように思われる。ある尊敬する経済学の先生から、「中野君の話は、起から結に すっと飛んでしまうので消化不良になる」と指摘されたことがある。分析力が足りないと指摘されたのであるが、名誉なことだと思っている。何故なら日本の議 論は、起承転で終わってしまい結論、すなわち、何をすれば乗数効果が得られるのかという、発展の原動力を享受することが稀なのである。日本の会議やディ ベートでは、攻撃や受身的な説明や分析に終わってしまう場合が多いように思われる。途中経過なんてどうでもよい。とりあえず明確な構想が生み出さればよい のである。

 構想は柔軟性に富み実利的でなければいけない。ブルッキングス研究所の遠征では、日本と対極的な会議のあり方と、凝り固まった保守的な構想でなく、進歩的、建設的な討論のあり方を学ぶことができた。

 萬晩報は偉大であると思った。コロンビア大学では、萬晩報を通じて知り合った、大西先生と他流試合を行うことができ、また、萬晩報の読者であるランド研 究所の人ともメールのやり取りができた。また、ワシントンでも萬晩報の読者がたくさんおられることを知った。インターネットを通じた他流試合にも望みたく 思う。

 中野さんにメールは mailto:TNAKANO@BROOKINGS.EDU
2003年05月12日(月)コロンビア大学東アジア研究所 大西 広

 この原稿を書いている現在は5月10日の「母の日」である。「父の日」には何もしない子供たちもこの日ばかりは皆が何かをしたいと考える。が、そんな母 の日の由来が残念ながら日本にはあまり正確に伝えられていない。実は、これはアメリカ史上最大の戦禍であった南北戦争時に夫や父親を失った両軍の遺族のケ アに尽力したジュリア・ワード・ホーウ女史が1972年に「平和のための母の日」を呼びかけたのが最初である。

 確かによく紹介されているとおり、アンナ・ジャービス女史が母の命日に教会で白いカーネーションを捧げた儀式を始め、それが数年後にウィルソン大統領に よって正式に認定されたことによって「母の日」は始まる。が、このアンナの母(同じ名前のアンナ・ジャービス)は上に述べたホーウ女史に共感し、南北戦争 の両軍を分け隔てせずその衛生状態の改善に尽力した女性である。そして、この母の遺志を継ごうと娘のアンナがカーネーションの儀式を始めたのである。

 このことは私も実は今回初めて教えられた。それはこうした母たちと同じ気持ちをもって出征した息子とイラクの民衆、兵士のことを気遣うひとりの日本人の 母親にここニューヨークで知り合い、その方に教えられたからである。この息子さんは海兵隊所属である。グリーンカード(定住権)は持ってはいるが、市民権 は持たない日本国籍の日本人が1人、この戦争に参加していた。私にはこの事実が余りにも衝撃的で、そのために兵士とは何か、その中のマイノリティーとは何 かをずっと考えさせられて来た。前回このコラムで紹介したインディアンの女性兵士の戦死もそのことと関わっている。

 ところで、この息子さんは気立てのやさしい、繊細な神経をお持ちの方のようである。が、この繊細さはアメリカ社会で生きていくには大変な精神的な負担に なっているとお聞きした。「愛国心」が何よりも重視されるアメリカ社会においてマイノリティーが気がねなく生きて行くためには何らかの態度を示さなければ ならず、その最も端的な表現方法として目の前にさし出される選択肢が「入隊」である。そして、その中でも最も危険で最もハードな仕事を受け持つ海兵隊が最 高の選択肢として提示される。

 実際、財政危機下でかつドイツ、サウジなどの支援のない戦争のために兵士の待遇は非常に悪く、その状況下での兵士の調達のためにアメリカ政府は今回グ リーンカード保持者の市民権取得を兵士とその家族に対して緩和している。通常は3年以上の米国在住が必要とされるものが、兵士とその家族についてはその条 件を要しないように改定したのである。知人の息子さんの入隊理由のひとつにもこのことがあった。が、そのためには1カ月150ドルしかない特別手当で毎日 16時間の重労働をさせられているという。確かにこんな待遇で兵士を戦場に送り込むには市民権取得という「アメ」が必要となろう。

 とはいっても実は本当のところ、市民権の取得はそう簡単ではないようである。死亡した兵士には市民権が与えられ、よってアーリントン墓地に葬られるので あるが、そうでない兵士にはすぐそのまま市民権が与えられるわけではない。移民法がテロ後かなり厳格化されているためである。現在グリーン・カード保持者 の兵士は全体で3万7000人おり、比率にして3%を占めているが、上記の誘導措置により新規入隊者に占めるその比率は4-5%に上昇しているといわれ る。このうちの何%が今後実際に市民権取得に辿りつけるのであろうか。

 が、それ以上に彼らの心をやりきれなくさせているのは5月6日付けの「ロサンゼルス・タイムス」の記事かも知れない。そこではこうした非米市民の兵士へのあからさまな危険視が表明されているからである。
http://www.latimes.com/news/printedition/california/la-oe-krikorian6may06.story

 たとえばこの記事には次のようなことが書かれている。つまり、彼らが本当に米国憲法に忠誠を誓うつもりかどうか市民になる前に分からない、上記のような 移民への傾斜は「本当の市民」の入隊の魅力を少なくする、そして最後に過去にアイルランド移民の部隊がメキシコ戦争で裏切ったと言うのである。これには3 月末のクウェートで市民権を持った1人のイスラム教徒の兵士が手榴弾で同僚の兵士を殺害したことも傍証として挙げられている。アメリカはこうして自軍兵士 さえ信じられないという状況の下で戦争をしている。そして、その結果彼らグリーンカードの兵士たちは上官から信用さえされないまま、戦地での戦闘を命令さ れているのである。

 この母親によるとその息子さんも含め、今回の戦争に疑問を持ちながらも戦地に送られている兵士は多いという。大義のある戦争は辞さないが、この戦争には その大義を感じられないからだという。が、ロサンゼルス・タイムス紙はこうした問題に触れることなく、危険な兵士が内部にいるとのみ主張する。そのような 目で見られながらも市民権取得のために戦地に送られる、そうした兵士のことを気遣う母親の気持ちは計り知れない。この兵士もまた母親の誕生日は忘れても 「母の日」には毎年必ず何かをプレゼントする、そうした普通の息子さんである。

 大西さんへメールは mailto:ohnishi@f6.dion.ne.jp


May 6, 2003 LA times

COMMENTARY
Green-Card Soldiers Don't Pass Muster
* Using noncitizens for our defense raises security and allegiance issues.

By Mark Krikorian
During the Iraq war, much was made of the accomplishments of noncitizens in the military. To speed the granting of citizenship to these "green-card soldiers," President Bush waived the three-year residency requirement for naturalization. Sen. Barbara Boxer, Rep. Darrell Issa and others have introduced legislation to ease citizenship requirements for immigrants in the service or their families.

But no one seems to have stepped back and questioned the underlying policy: Is it a good idea to allow noncitizens to enlist?

There now are more than 37,000 lawful permanent residents ? green-card holders ? in the military, accounting for about 3% of active-duty personnel. (Illegal aliens are prohibited from enlisting ? for now). They make up 4% to 5% of all new enlistees, and their numbers have grown by one-third since 2000.

Barring changes in immigration policy, this trend will only continue as immigrants make up an ever-growing share of young people. In March 2002, children of immigrant mothers accounted for 18.3% of the school-age population and 19.2% of those younger than school age.

There are two kinds of problems with the enlistment of noncitizens: principle and practical.

To begin with principle: The question here is one of membership in the nation. Theodore Roosevelt rightly said that "if the immigrant who comes here in good faith becomes an American and assimilates himself to us, he shall be treated on an exact equality with everyone else." But Roosevelt's next sentence is also relevant: "But this is predicated upon the man's becoming in very fact an American, and nothing but an American."

An immigrant becomes "in very fact an American" by becoming a citizen. The oath taken by new recruits would seem to presuppose that they are already Americans: "I do solemnly swear that I will support and defend the Constitution of the United States against all enemies, foreign and domestic; that I will bear true faith and allegiance to the same" Until an immigrant fully becomes one of us, how can we expect him to "bear true faith and allegiance" to our Constitution, rather than his own? To use an analogy from a different arena, you can't serve on the altar until you join the church.

Then there are the practical problems: As the proportion of noncitizens in the armed forces grows, there is the real possibility that defending the United States will become "work Americans won't do."

Over the long term, budget pressures and high enlistment targets will create incentives for the armed services to continue to cut back on pay and benefits and to hope that shortfalls can be made up by noncitizens seeking accelerated citizenship. This would save the Pentagon money but make military service relatively less appealing to those Americans who already have citizenship.

This didn't happen during previous waves of immigration because there was little disparity between immigrants and the native-born in the other characteristics that affect enlistment rates ? educational attainment, for instance. But now the disparities are huge.

This points to another practical problem. By limiting military service to those who have already become citizens, we might be less likely to face instances of desertion and treason, like the San Patricio Battalion, a group of Irish immigrants in our Army that defected to fight for the enemy in the Mexican War. Although Sgt. Asan Akbar, the Muslim convert who allegedly killed two of his comrades in a grenade attack in Kuwait, was not an immigrant, the Washington Times reported recently that U.S. officials feared more attacks from the 4,000-plus Muslims, many of them immigrants, in the armed forces.

There is a way out of this problem without changing the military's rules: reducing immigration. Though the principled argument is unrelated to numbers, it would become less salient if there were fewer noncitizens enlisting. And the practical problems with immigrant enlistment would shrink if the immigrant population were to shrink. Noncitizen enlistment and mass immigration just don't go together. One or the other needs to be ended.

Mark Krikorian is executive director of the Center for Immigration Studies.

2003年05月08日(木)早大政経学部 藤田 圭子

「良いものは残る!」は現在の地域で可能だろうか?

「良いものは残る!」

 この言葉を否定するつもりはない。確かに良いものは残っている。残っているものは、誰かの努力の賜物であったり、今との生活の違いが顕著であった時代の 名残だったりしないだろうか?しかし、現在の全国津々浦々の各地域において、これは果たして可能なのだろうか?という疑問を抱かずにはいられない。

 私は18年間、愛媛県の遊子という地域で育った。遊子で育ち、外の世界をあまり知らない私ではあるけれど、その分遊子の生活については詳しいと思う。こ の経験を活かして、現在の日本の一地域における諸問題について提起してみたい。ともすれば、全国の地域に通じるものがあるかもしれない・・・

 18年を通して、失われていったものは感じるだけでも多々ある。以下に例を挙げてみたい。
  • 段々畑だった山が荒野になってしまった。
  • 地域結束力の衰退・共同体の崩壊。
  • 年中行事が徐々に簡略化され、失われていった。
  私が小学校にあがるまで、裏山全てが段々畑であった。それが、養殖による経済発展と後継者不足によって、段畑は年々、猪の闊歩する山へと還って行った。後 継者不足と言っても、人はいるのだ。段畑を耕作する後継者がいなくなってしまっただけである。養殖のみで生活が出来るようになり、先人たちが戦国期から造 り続けて来た段畑はあっと言う間に数百年も前の山へと戻っていった。荒山が元の自然であり、良いという人もいるだろう。

 しかし、治水や砂防を為してきたであろう、段畑の有益性は失われているのではないだろうか。段畑の管理は難しい。先人たちは難しい管理であろうと、厳し い生活条件下で行っていたはずだ。それが、今では出来ない。人間は利便性を求めるだけで良いのだろうか?という疑問も頭をもたげる。段畑に限らず、棚田や 植林地など、日本人が山を用い、耕作してきたことによって、バランスが保たれていたはずである。公共事業としてお金をかけずとも守られていた村の暮らしが あったのではないだろうか・・・

 そして、地域の結合力についても思うことがある。小学生の頃、周りがヨソヨソしくなってきているのではないか?という思いを子供ながらに抱いていた。地 域の老人たちが次第にその高い知識を胸に収めたまま姿を消していった。老人たちが姿を消すと共に、盆踊りがつまらないものになり、子供心に水荷浦に寂しさ を感じるようになった。

 そんな地元にないものを求めるかのように、私は共同体として興味深い、江戸時代の庶民文化にはまっていった。しかし、高校になって、自分の住むところで なく、他のものを追いかけても仕方がない!そう思い地元の活気作りをしたいと思うようになっていったのだった。幼い頃を振り返ると、地域に育てられた自分 がいた。

 幼なじみとは、学校から帰ると、段畑に秘密基地を作ったり、手元にある道具で日が暮れるまで遊んだ。遊び場は山であり、海辺であり、家と海との間にある 道路であった。道路で遊んでいたのは、遊子地区でも私の家のある水荷浦だけであった。というのも、家の前の道路は、端まで行っても隣の地区に行ける道路で はなく、交通量の少ない道であったためである。

 共同体の崩壊というべき、事実は葬式の変化によって、感じるようになった。以前、葬式は自宅でするのが原則であったが、現在ではその煩わしさを取り去る ためか、市街地にある葬祭場で行うようになった。これは、市内に属する島嶼部においても、同様のことであり、船で出かけて執り行うようになっているよう だ。

 以前の形式として、私が理解している範囲で述べてみたい。(何分、幼少時までしかこの形式が残っておらず、正確に伝えることは出来ない...)家で法要を 行った後、家から寺までの間の道を参列者全員で歩いていく。故人の遺影や遺骨、草鞋などを親族が携帯し、後ろに続く参列者たちはそれぞれお菓子などが入っ た容器を持たされる。

 このお菓子は寺に着くまでに道端で見守っている人たちに配ってしまわなければならない。夜は、家で故人の供養を兼ねて会食をする。これが今では葬祭場で の供養の後、同場で会食。家に親族以外が集ることはなくなってきている。家に集わないことで、郷土料理を振る舞う機会がなくなってしまった。

 そして、葬式は故人を偲ぶ場であるのだが、地域の情報交換の場でもあり、子供たちの集う場でもあった。葬式に限らず、地域の大人たちが昔のように集うこ とがなくなりつつある。それは、経済的基盤が漁業から離れ、外に働きに行く人が増え、これまでのように水荷浦全体で同じような仕事をし、時間にも都合が付 き易かった状況が変化しつつあるためでもある。仕方がないといえば、それまでなのだが、寂しいものである。

 年中行事として、子供には亥の子があった。亥の子は主として関西以西で行われる稲の刈上げ祭である。米を作ってこなかった遊子においても存在するので、 米だけでなく穀物の豊穣を祝ってのものであったのではないかと推測する。この亥の子は男の子の行事であった。

 現在では、少子化のため女の子もつくようになったが、私が小学生の頃は男の子のみの行事であった。亥の子の練習は、唄の伝承である。小学校最高学年の男 子が先頭になり、夕ご飯後集って練習を行った。今年入学したばかりの男子に上の子が教えていく。練習の場ではあるけれど、大部分が遊びの場であったように 思う。

 当日は、亥の子の石を神社から降ろしてきて、各家の庭に石をついた。最近では、土の庭も少なくなり、本当につくことはなくなってきている。唄の中から 2・3曲を選びつき、ご祝儀をもらった。そのご祝儀の中から、おこもりといって、集会所でご飯を食べて泊まる費用に当てられて、残りは学年があがるごとに 多く分配されていった。これも、少子化の影響で男女混合になっているが、小学生がいなくなれば、この伝承は途絶えてしまう。

 このように、遊子を中心とした諸問題を挙げてみた。地元の人々は煩わしさの軽減を選ぶ。文化ではなく、都会的な生活が地域にも流入してきており、価値観 も変わってきている。これまでとても長い間に培われてきた文化が戦後の社会変化の中で多々失われてきているように思う。「良いものは残る!」と人は言うけ れど、今の時代、そうも言っていられないのではないだろうか?中央の良さでなく、地域の独自性・良さが日々失われてきている。

 完全に失われる前に、自分だけでも地域の慣習や伝承などを書き留めておきたい!その思いからHP作りが始まった。書き留めるだけではいけない。また、他 人に任せるだけでなく自分も伝承していきたい!と思うようになってきた。遊子で生活することは、これから困難を伴うが、故郷の伝承を失うのは寂しい。「文 化で飯が食えるか!」という言葉が聞こえてきそうだが、地域での可能性を探っていきたい。今は遊子を離れ、関東で暮らしているが、遊子の良さは遊子にいた だけでは、はっきりと認識できなかった。外を知り、また、故郷を見つめていきたいと思っている。

 藤田さんにメールは mailto:yusukko@cf7.so-net.ne.jp

 『遊子っ子広場』 http://www005.upp.so-net.ne.jp/yusukko/
2003年05月07日(水)萬晩報主宰 伴 武澄

 賀川豊彦が東京の改造社からベストセラー『死線を越えて』を発刊したのは32歳の1920年10月だった。プリンストン大学へのアメリカ留学から神戸に 帰国して3年。大阪市の「有限責任購買組合共益社」と神戸市の「有限責任神戸購買組合」を相次いで設立、12月には播磨造船の労働組合長に推され、社会運 動家として八面六臂の大活躍。貧民救済を続けていた一牧師から一皮も二皮もむけていた。

 『死線を越えて』の元となる『鳩の真似』を書き始めたのは葺合新川の貧民窟に入る前、三河蒲生郡で肺結核の療養中であった。まだ20歳になっていなかった。明日の命もないことを宣告され、小説風に自らの生い立ちをつづったものにすぎない。

 このベストセラーが生まれる背景には多くの出来事があった。

 文学全集の出版や有名人の講演とタイアップした出版など日本の出版界をガラリと変えたとされる山本実彦が創刊した月刊誌「改造」はまだ黎明期にあった。 「改造」創刊号が世に出たのは1919年4月。定価60銭。中央公論のような総合雑誌を目指した。安部磯雄、与謝野晶子、尾崎行雄、土井晩翠らが執筆し、 幸田露伴の名作『運命』も掲載されていた。

 当時、言論界ではまだ無名の賀川豊彦の連載が始まったのは10号目に当たる1920年新春号である。「神戸におもしろいキリスト教の牧師がいる」と賀川 を山本実彦に紹介したのは大阪毎日新聞社記者の村島帰之だった。村島は奈良県生まれで賀川より三歳年下。大阪本社で地方版を編集していた時に知り合い、二 人で労働組合友愛会関西同盟を発足させた。いわば労働組合運動の同志でもあるが、葺合新川における賀川の献身的な活動にほれ込んでいた。

 「ますらおのごとく 村島帰之先生の生涯」(学校法人平和学園設立20周年記念出版)によると「友愛会関西同盟の理事長に賀川がなり、村島が理事に就任 している。神戸支局時代に川崎造船所で労働者1万6000人が指導し、日本初の大規模サボタージュを決行した。友愛会の幹部としてサボタージュを指導する 一方で、サボタージュの記事を特だねとして書いたのだからまさに自作自演である。島村は「サボを『同盟怠業』と訳した」と備忘録に残した。「怠けること」 を「サボる」というようになったのは島村が生み出した新語だったようである。

 山本実彦が賀川に会ってみると実におもしろい。第一時大戦後の論壇は「大正デモクラシー」から「社会主義」へと急傾斜していた。世相は悪徳商人を打ち壊 す「米騒動」が全国を駆け巡っていた。鳴門の船問屋が神戸の愛人に生ませた子がキリスト教に目覚め、徒手空拳で貧民救済に乗り出す。そんな型破りの物語に 時代性を感じたのだろうか、賀川に自伝風小説を書かせることにした。

 しかし、出来あがった原稿の評価はさんざんだった。文章はへただし、物語もあまりにも通俗だというのが編集局内での評価で、ほとんど「ボツ」になりかけ た。一人山本実彦だけは違って「これはおもしろいかもしれない」と多くの反対論を押し切って掲載にゴーサインを出した。

 とにかく『死線を越えて』は1920年1月号を飾った。反響は編集局の大方の予想通りで論壇からは「改造は素人に書かせている」などの酷評を浴びせられ た。それでもくじけなかったのが山本実彦たるゆえんだろうか。山本実彦は『死線を越えて』の読者層は雑誌「改造」と違うと判断し、連載は4回で打ち切って 単行本として出版することに方向転換した。

 賀川は島村に「単行本にしようという話がある。どうしようか」と相談を持ちかけた。島村は雑誌「改造」での散々な評判を聞いていたので「売れないだろうからやめた方がいい」と乗り気ではなかったようだ。

 改造社にとっての最初の単行本はこうして生まれたが、これが予想外の売れ行きとなった。10月に発行した『死線を越えて』は年内に10万部を売り、翌年 は100万部の大台に乗せた。賀川は小説家志望ではない。だからお世辞にも文章がうまいとはいえなかった。神の示した道を地道に忠実に生きたにすぎない。 しかし、そんなうそのない賀川の生き方が国民的共感を生んだのだ。

 100万部を超える『死線を越えて』の売り上げは、創立間もない山本実彦の改造社の経営にとって多大な貢献をしたことになる。賀川にとっても山本実彦との出会いこそが、その後の人生を決定付ける大きな意味合いとなった。

 賀川はそれまで詩集『涙の二等分』(福永書店)のほか、『貧民心理の研究』(警醒社)など研究書を何冊か出版しているが、まだ言論人としての地位を得て いたわけでなく、『死線を越えて』はアマチュア作家の誕生として位置付けられていたにすぎない。

 ベストセラー作家としての知名度と現在の価値に換算して10億円を超えるとされる巨額の印税はその後の賀川の社会活動における大きな支えとなった。『死 線を越えて』がなかりせば、改造社のその後もなければ、賀川の労働運動や消費組合運動も違った方向に進んでいたかもしれない。農村部に病院を建てていった 組合病院もなく、医療のあり方も変わったものになっていたかもしれない。

2003年05月02日(金)コロンビア大学東アジア研究所 大西 広

 英国ガーディアン紙4月10日付けに「プライベート・ロリィはどうなの?」と題する記事が書かれている。
 http://guardian.co.uk/g2/story/0,3604,933363,00.html

 救出された女性兵士としてジェシカ・リンチが一躍有名になった一方で、同じ部隊に属し、同室の親友でもあったロリィ・ピーステヴァの戦死があまりにもア メリカで無視されているという記事である。彼女は少なくともこの時点では唯一の戦死女性としても報道されるべきであるものが、同時にアメリカ・インディア ンであることから差別されているのではないかという批判が込められている。

 といっても、もちろんイギリスのガーディアン紙がそのことを知ったのだからアメリカのマスコミのどれかに言及があったには違いがない。実際、私も新移民 向けの新聞でピーステヴァのことを読んだ。が、たとえば何ページにもわたってジェシカ・リンチの特集を組んだ『ニューズ・ウィーク』誌でさえ名前のみの言 及でインディアン女性であることは書かれていない。アメリカ版ヤフーの検索によっても、ジェシカ・リンチのページは119000も出てくるが、この中で ピーステヴァに言及したのはたったの300、つまり全体の0.3%以下に過ぎない。しかも、このほとんどは『ニューズ・ウィーク』誌のように名前のみの言 及で、さらにイタリア、イギリス、ドイツなど多くの外国紙も含まれている。ジェシカ・リンチに比べ軽視されているとの批判は当っている。

 とくに個人的にもこのことが気になり出したのは彼女が戦死したとされる丁度その日3月23日に私は彼女の出身地、アリゾナ州チューバ・シティに足を踏み 入れていたからである。ここはナバホ族居留地の一部にあるもののホピ族インディアンが主に住む地域で、私は家族とともにチューバ・シティ内の「恐竜の足 跡」という観光地に入った。観光地といってもただ道の傍に広々と「足跡」が無数に化石化しており、そこに現地のインディアン数名がガイドとみやげ物売りを しているという程度のものである。

 が、生まれて初めて入ったその居留地の町は「シティ」とはいうもののトレーラー・ハウスが散在する「部落」としかいいようのないほどの小ささで、丁度日 曜日とあって10歳の子供が案内をしてお金を稼いでいるという状況であった。その母親は手作りの宝石細工を売り、2人3脚で仕事をしている。貧しい途上国 で見るものと寸分違わない光景がそこにはあった。父親と姉は外部に働きに出ているということであった。

 もちろん、この日にはまだ戦死ないし行方不明の情報が流れていなかったものの、この子供たち、大人たちは全員ピーステヴァと一緒に生きて来た人達であ る。ガーディアン紙でも現地からの情報として村の全員が知人であると報じている。ピーステヴァは離婚後、ふたりの子供を育てるために自分の母親に子供を預 け、軍隊に入隊したという。ピーステヴァの4歳と3歳のふたりの子供は私を案内した10歳の子供の遊び友達にきっと違いない。

 ガーディアン紙も報じているところであるが、荒野に押し込められたインディアンたちの生活はアメリカの最低辺を形成する。居留地内の失業率は50%に達すると言われ、同居留地の首都で話した女性も「ここは住みやすいか」との質問に「Yes and No. つまり住みやすいが仕事がない」と答えていた。

 1989年の数字であるが、このことは連邦センサス局によるインディアン統計によっても伺うことができる。何と彼女の属したホピ族インディアンの一人当 り年平均所得は6628ドル=80万円に過ぎず、居留地外を含む全人口11522人の内2026人が貧困線のさらに半分の所得しか得ていない。また、全 2502家族の内の887家族、両親のそろっている全1464家族の内の377家族、母親のみの797家族の内の401家族が貧困線以下の生活をしている とある。ピーステヴァの場合、この最後のケースに属していたことになる。

 このため「合衆国軍」という本来「敵軍」である軍隊(インディアン居留地は現在もなお形式的には「国家(Nation)」となっている)への入隊が多く の家族にとって残された唯一の生活の道となっている。ピーステヴァの場合も父親、祖父ともに入隊をしていたし、ガーディアン紙によれば少なくとも45人が 入隊し、海外に派遣されているという。先のインディアン統計によると1990年のホピ族の18-24歳の若者は男女合わせて1435人しかいない。通常入 隊するのが男性だと仮定すれば、7-800人の内の45人以上が現在海外で兵役に就いていることになる。異常な高率であることは言うまでもない。ちなみ に、この統計には16歳以上の男性の入隊経験率が示されているが(英会話能力等の問題とともに「同化」の指標として示されている事も見逃せない)、それに よると何と22.4%が入隊経験を持っている。

 その後、いくつかの新聞報道によれば、アリゾナ州の州都フェニックスにある「スクウォー・ピーク」と言われる山を「ピーステヴァ・ピーク」と改名しようとの運動が起きたようである。
 http://www.tucsoncitizen.com/opinion/4_21_03op.html
 http://www.2020hindsight.org/2003/04/21.html

 「スクウォー」は女性性器を意味する俗語で改名が必要との声は以前からあったようであるが、本来の「インディアン女性」との言葉にそって、彼女の名前を つけたいとインディアンたちが5月に開かれる州の地名決定会議に要望したのだそうだ。白人たちの冷笑を浴びていると記事にはあるが、彼らインディアンたち のやりきれなさを思う時、せめてそれぐらいの度量は見せてもらいたいものである。

 大西さんへメールは mailto:ohnishi@f6.dion.ne.jp



 【参考情報】
 対イラク戦争で救出されたジェシカ・リンチに関して3月17日に彼女の名前でドメイン(jessicalynch.org,jessicalynch.com, jessicalynch.net)が取得されていたことが、ニュージーランドの「Scoop」というサイトで4月10日に紹介されているということです。
http://www.scoop.co.nz/mason/stories/HL0304/S00102.htm

 筆者であるAlastair Thompson記者がドメインの取得状況を調べたところドメインの申請はA.G.。メールアドレスからAlexander Golimbuというマンハッタンにある広告代理店Morpheus Mediaの創設者の一人であることが分かりました。
http://Www.morpheusmedia.com

 Thompson記者がGolimbu氏にメールで問い合わせたところ、今年2月のミス・ニューヨークの受賞者がたまたまジェシカリンチさんで、たまた まイラク戦争の開戦直前に登録したものだ、との返事をもらったとのことです。本当だとしたら奇妙な偶然でしょう。ちなみにジェシカさんの出身地はウエスト バージニア州のパレスチナ(Palestine)というところなのです。
http://www.asahi-net.or.jp/~FV6N-TNSK/gates/column188.html

3月17日の証拠としてリンクの張られている先は
http://www.psi-domains.com/cgi/whois.cgi?domain=jessicalynch.org
2003年05月01日(木)萬晩報主宰 伴 武澄

 きのう配信した「フォルケホイスコーレを映す色平さんの信州自由学舎」の続きである。

 今回の勉強会のテーマは「神野直彦氏『二兎を得る経済学』『人間回復の経済学』読後会」だった。神野氏はこれらの本の中で「スウェーデンモデル導入」を 提唱している。田中康夫長野県知事は神野財政学の信奉者の一人でもあるから、いわば破綻に近づく日本の財政をどう考えるかという重たい課題でもある。

 スウェーデンモデルというのは、地方政府の重視や脱市場主義を中心に高福祉のためには高負担もやむなしとするところに特徴がある。問題は政府に対する市 民の信頼度であろう。スウェーデンのように税金の使い道が透明であれば、市民は相応の負担をするはずだというのが神野氏の主張である。

 医療、教育、公共事業......。勉強会では、それぞれのあり方について行きつ戻りつ議論した。ところがどのテーマでも必ず問題となるのが「行政のあり方」で あった。政治家とか官僚は何のために存在し、誰のために仕事をしなければならないのか。つまり行政に対する信頼の問題である。神野氏の主張するスウェーデ ンモデルの根幹にある部分に議論が集中した。

 行政が国民や住民のためにあるのは自明の理である。にもかかわらず、「行政のあり方」が問題となるのは現実にはそうなっていないからである。

 勉強会には多くの長野県庁の役人も参加していたことは前回書いた。その役人たちがそろって「これまでの長野県政は組織のためにしかなかった」「組織の維 持が最大の関心事だった」などと言い出したのには正直驚いた。田中康夫知事の登場でそうした事情が一変したのだという。

 田中知事が「革命的」だったのは、組織のためにしか働かない役人には相応のポストが与えられなくなったということのようだ。2年6カ月を経てまだついて いけない人も多いのだが、「県民本位、顧客本位」という当たり前のことに必死で取り組んでいるのだそうだ。

 筆者が革命的だと思ったのは、複数の役人が「制度とか法令は本来、市民のためにある。そうでないのならば、変えていけばいい」「法令が市民のためにならないと判断したら法律を破ったっていい」というような考えを披瀝したからだ。

 外部の勉強会とはいえ、従来の役人根性ではなかなかここまでは言えないはずなのに、堂々と「法令を破れ」と言えることは部内でもそこそこブレーンストー ミングが進んでいるからだと思った。改革派知事が多く生まれているとはいえ、県庁内でここまでブレーンストーミングが進んでいる自治体はまだないと思う。

 田中知事は自らの改革についてウインドウズではなく「リナックス型」だと表現しているが、日本型にフォーマットされた、官僚や役人の思考は信州でようやく解き放たれつつあるのだと思う。

 役人は良かれと思って法令をつくるのだろうが、内容によっては時代遅れになることが少なくない。

 極端な話、市民のために真っ先に法令を破るほどの度胸のある役人が出てきたら、われわれはもっともっと行政を信頼し、それこそ進んで税金を納めたくなるはずだ。

 そもそも役人は共同体の世話人であるはずだ。本来、「行政」と「市民」が対立するのはおかしい。もっと共同の価値観があるはすだという民主主義の根本に立ち返れば、いま信州で起きていることは取りたてて革命的でもなんでもないのかもしれない。

 【参考】
 1998年09月27日 ヨーロッパで常識化した地方分権の新しい力学
 http://www.yorozubp.com//9809/980927.htm
 1998年10月17日 Local Governmentを地方自治体と書き換えた日本
 http://www.yorozubp.com/9810/981017.htm
 2000年02月15日 外形標準課税から始まる日本の地方自治
 http://www.yorozubp.com/0002/000215.htm
 2000年05月03日 独断で地租を減免した明治生まれの役人
 http://www.yorozubp.com/0005/000503.htm

このアーカイブについて

このページには、2003年5月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2003年4月です。

次のアーカイブは2003年6月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

月別 アーカイブ

ウェブページ