2002年7月アーカイブ

2002年07月31日(水)ジャーナリスト 大前 仁


 私は二ヶ月前に東京に戻るまで、米国の首都ワシントンで九年間暮らしていた。留学先の大学院を卒業した後、最近まで日本の大手新聞社の現地支局で記者の 仕事をしていた。今回は米国生活を終えたことに伴い、自分の体験、米国や米国人への観察を簡単にまとめてみたい。

 ただ、判で押したような「米国総論」や「日米比較」を論じるつもりはない。あくまでも、私が見聞きたした事柄を紹介し、自分なりの考えをまとめてみる。 そこでは、ある疑問を投げかけながらも、きちんとした答や結論が出せないことがあるかもしれない。それでも、米国を「考える」ための一つの作業として、付 き合っていただければ幸いだ。

 一回目の今回は、多人種国家である米国の宿命ともいえる人種差別の問題に触れたい。その中でも、私自身が経験したし、記者として強い関心を払ったアジア系米国人や住民への差別問題に焦点を合わせる。

 私は日本に一時帰国した際などに、「米国で人種差別にあいますか」と尋ねられることが少なくなかった。しかし、いつも答に窮してしまうのだ。これまで、 白人の男性にあからさまに差別的な言葉を浴びせられたことは一度だけあった。(この時は自分も汚い言葉で言い返した。)また、黒人の子供たちに「おーい、 ジャッキー・チェン」と声をかけられたり、黒人やヒスパニック系の大人に「お前はブルース・リーに似ているな」と言われることは少なくなかった。(事実、 私はブルース・リー系統の顔立ちをしている。)

 しかし、最初の出来事を除くと、他については「あからさまな人種差別だ」と本気で腹を立てる気にはなれなかった。何故ならば、そのような発言をする人た ち(例外なく、彼らは全て黒人かヒスパニックだった。これは事実としてだけ明記する)は人種に関する適切な教育を受けてないし、何も考えないで言葉を口に 出しているだけに思えてならないからだ。ただし、これが差別といえば、確かに差別なのかもしれない。

 それ以外の場合には、どのようなケースが日本人である私に対する人種に基づいて差別しているのか、または単に相手の対応が悪いだけなのか、明確に区別す ることが難しかったのだ。ある店で店員の私への対応が悪かったとする。しかし、その店員が他の人種の客にも悪い対応をしていたとしたら、これは私に対する 「人種差別」と呼べなくなる。だから、私は今でも「米国で人種差別を経験した」と明言することを躊躇してしまうのだ。

 新聞社時代の日本人の同僚では「人種差別を受けた」と口にする人が少なくなかった。例えば、米国の航空会社は昨年九月の同時テロ以降、搭乗前の乗客を一 部任意で選び、厳密な手荷物検査することを義務付けられるようになった。これは米国人の間でも不評だが、テロ防止策の一環として渋々従っている。私の同僚 の何人かも例に漏れず、この手荷物検査に引っかかったようだ。その結果、「自分たちがアジア系だから、差別的に選ばれたのだ」と憤慨する声を少なからず聞 くことになった。

 私自身もこの手荷物検査に引っかかったことがある。靴まで脱がされるのだから、気持ち良いものでない。しかし、私の手荷物が調べられたのは十回搭乗した うちの一度くらいの割合に過ぎなかった。(ちなみに、先ほども触れたように、私は険しい系統の顔立ちである。「テロリストのようだね」と言われたこともあ る。)

 米国南部ノースカロライナ州の空港では、私の前で搭乗しようとしていた、いかにも善良そうな白人の老夫婦が検査のターゲットになっていたこともあった。 この時の私は戸惑う老夫婦を横目にしながら、すいすいと飛行機に乗り込んだわけだ。だから、私個人はこの手荷物検査の件だけを取り上げて、アジア系への差 別うんぬんを語る気にはなれないのだ。もちろん、他の人はそれなりに違う捉え方があるのだろうから、私の考えを強制する気は毛頭ないのだが。

 ここで一点だけ、はっきりとさせておきたいのだが、私は何も現在の米国でアジア系米国人や住民への差別がなくなったと主張しているのではない。現在でも 差別は残っていると思う。ただし、手荷物検査の件でみられたように、どの問題を取り上げて、差別と断定するのかが簡単でないことを指摘したいのだ。

 米国内でのアジア系への差別を遡ると、古くは十九世紀半ばに米国に来た中国系の移民が大陸横断鉄道の建設で酷使された例がある。また、ここで詳しく説明 する必要はないが、第二次大戦の開戦直後から、合法的な米国市民であるはずの日系人が強制収容所へ移された「恥ずべき歴史」もある。

 ここ五-六年でも、一九九六年の大統領選の際に、アジア系が違法献金した疑惑をめぐり、メディアや議会の対応が問題となった。また、台湾系米国人の科学 者が中国へ核兵器に関する情報を流していたという疑惑をめぐり、他のアジア系科学者への差別的な言動が急増する事態も生じた。

 このような状況下で、アジア系米国人の活動団体では米国内でアジア系を対象にした憎悪犯罪が増えていると主張するところが多い。司法機関がこれらの犯罪 を厳しく取り締まり、罰するべきだと訴える。一方で、これとは違う切り口や政治的な信条からアジア系への差別問題を取り上げる声も台頭している。その代表 格は、アジア系女性として初めて入閣したエレイン・チャオ現労働長官だ。台湾生まれの同女史は、家族ともどもに少女時代に米国へ移住。言葉の壁に悩まされ ながらも立身出世した「アメリカン・ドリーム」の体現者であり、信奉者でもある。

 チャオ女史は「アファメティブ・アクション」と呼ばれる、少数派の進学や就職を優遇する制度が、結果的にアジア系差別に繋がっていると主張する。この制 度では、全米各地の大学や公共機関が黒人、ラテン系、アジア系という少数派の人口比などにあわせて、それぞれの人種が進学や就職できる枠を設けている。

 同女史は、ある少数派では高校の成績が良くない生徒でも割り当てに助けられて大学に進学できる一方、アジア系のように優秀な生徒が多い少数派の中では本 来は進学を優遇するはずの制度が逆に進学できる生徒数の上限を設けていると指摘。このような状況が、「本当の意味のアジア系差別を生み出している」と断言 する。女史はクリントン前政権時代、人種問題に関する政府の諮問委員会でも、この点を主張して譲らなかった。

 このような主張は共和党を中心とした保守派に浸透している考えの一環だ。アジア系のチャオ女史が同制度の廃止を口にするからこそ、より効果がある一面も 見逃せない。他のアジア系の活動家では、「アジア系に対する憎悪犯罪などは根拠のない被害妄想に過ぎない」と、同じアジア系の叫びを一刀両断する声もあ る。

 私個人はこれらの〝アジア系右派〟の主張に全面的に賛同することは出来ない。彼らや彼女らアジア系が「人種の違いを論じる前に、自分が一人の米国人とし て強い人間であるべきだ」と己を律する姿勢には共感、尊敬できる。しかし、その考えをすべてのアジア系へ押し付けようとすることには無理がある。また、社 会的な弱者への思いやりも欠けていると言わざるを得ない。すべてのアジア系が彼らのような精神構造の持ち主ではないのだから。

 さて、私は前に「人種差別を簡単に判断することは難しい」と書いた。その一方で、米国内でアジア系への差別も残っていることも記している。だから、この 項を理路整然とまとめることは非常に難しい。それでも、アジア系米国人である私の友人のエピソードを添えて、相応のまとめとさせてもらいたい。

 この友人は台北生まれで、十歳の時にロサンゼルスへ移住。現在は中国系として初めて下院議員に選出されたディビッド・ウー議員(民主党・オレゴン州選 出)のスタッフとして働いている。この友人と出会うきっかけとなったのは、前述した台湾系科学者による核機密の遺漏疑惑だった。

 その反動として、米国各地の研究所などで、アジア系科学者への差別的な言動が急増したことは先ほども触れた。ウー議員は父親が科学者だったこともあり、 このような事態を見逃せなかった。アジア系科学者への差別を糾弾する決議案を提出し、下院本会議で全会一致の可決に導いた。この時の取材を通じて、知り 合ったのがこの友人だった。

 当然ながら、友人は米国内でアジア系への差別や蔑視が残っていることを思わしくないという。上司のウー議員のように社会問題として取り上げて、問題提起 する必要がある。しかし、多くのアジア系活動団体が自分たちを被差別者とみる意識が強すぎるという。

 アジア系米国人は「差別されている」と泣き言を繰り返すだけでは駄目だ。殴られた場合は、「時には殴り返す必要もある」という。社会の同情を買おうとす るだけでは問題解決に繋がらない。時には強さを誇示して、自らの手で差別を排除していく必要もあるという。前述の〝アジア系右派〟の人々を除くと、アジア 系米国人から、このように強い言葉を聞いたのは初めてだったし、感銘した。そして、彼と友人になるには多くの時間を必要としなかった。

 さて、米国内のアジア系をめぐる政治・社会的な状況は悪化しているのだろうか。そうではないと思う。前述の九六年の大統領選に関する違法献金疑惑をめぐ り、一時的な打撃を受けたことはあった。それでも、その後の二つの政権で、チャオ女史をはじめとして、延べ三人のアジア系が閣僚入りしている。(それまで 歴代の政権でアジア系閣僚は一人もいなかった。)

 また、台湾系科学者による機密遺漏疑惑と、その後のアジア系への差別の問題をめぐり、議会内で公聴会が開かれたことがあった。その際には議会有力者であ る日系のロバート・マツイ下院議員(民主党・カリフォルニア州選出)が白人のFBI調査官を厳しく問いただす場面が続いた。何もこのことだけを取り上げ て、米国内のアジア系の地位が格段に向上したと主張するわけでない。

 しかし、「人種差別」という難しい問題をめぐり、アジア系米国人が議会という場で白人を問いただす環境はすでにあるのだ。この点は明記しておいていいだ ろう。アジア系をめぐる状況は「一歩後退」したことがあるものの、確実に「二歩前進」している。

 最後に、米国内で同時テロ直後に起きた中東系米国人や住民への迫害問題を完全に無視して筆を置くことは出来ないので、簡単に触れよう。テロ発生以前に も、米国内で中東系への蔑視があったのは間違いないだろう。テロ事件が差別への引き金になったことも否定できない。

 しかし、テロ発生直後の米国民は未曾有の衝撃に襲われて、尋常でない精神状態にあったといえる。だから、その点を無視して中東系への迫害問題は語れな い。そして、今回のアジア系への差別問題と同系列で語ることは出来なかった。これは別の機会に考えなければならない問題だろう。

2002年07月25日(木)萬晩報主宰 伴 武澄


 夏休みを利用してスコットランドから日本にやってきた年配の高校の先生と先日、懇談する機会があった。日本の東北の村に一週間ホームステイしていろいろ学んだ。

「初めての日本だったのですが、田舎を体験できてよかった。子どもたちもたった一週間で、涙、涙の別れでした」
「よい旅でしたね」
「ところでどうにも分からないことがいくつかあって、教えてもらえるかね」

 訪れた村の人口は3500人程度なのに村役場の職員が39人。村議会にいたっては議員が11人。どうやって彼らの給料を払っているのか。それから村では いつも道路工事をしていた。大した工事でもないのに、7、8人も働いていた。何より驚いたのはほとんど交通量がない道でも必ず前後二人、交通整理員がいる というのだ。

 われわれが普段、なにげなく見過ごすごく普通の光景が奇異に映ったというのだから、返答に窮したのはいうまでもない。

 地方の公共事業は90年代のピーク時から三割程度は減少しているはずだから、スコットランドからの客人がそのころ、日本にやってきていたらさぞ腰を抜かしたに違いない。

 いつの間にか、筆者は日本が人口過剰で仕事を分け合う「ワークシェアリング」をむかしからやってきたことや日本の公共事業が持つ失業対策的意味合いを口にしていた。はずかしいことにまるでお役人的「答弁」である。

 23日に仕事をしていたら、「大ロンドン市庁舎が完成、新名所に」という短い記事が入電してきた。読んでみてこの客人のことを思い出した次第である。

 ロンドンの新市庁舎は10階建て、総工費4300万ポンド(79億円)だという。79億円といえば日本では小さな町役場の新庁舎のお値段である。もっと 驚いたのは記事には「440人の役人が入居する」とあったことである。もちろんほかにも庁舎があるのだろう。これだけの人数で大ロンドンの行政を賄えるは ずもない。

 だが、なるほどイギリスの自治体の行政規模というものがなんとなく分かり、かの客人が日本の行政の姿に疑念を持つ理由もさもありなんというところである。

 考えてみれば、ヨーロッパではむかしから失業率10%が当たり前の社会だった。5%台に乗せたといって大騒ぎしている東洋の島国とは違う。それでも不思 議なことに暴動も起こらず、なんとか社会が維持されてきた歴史がある。スコットランドというところは地味が痩せている上、イギリスの中でもさらに仕事のな い地方として有名であった。人材を育てても働く場所がないことが彼らの積年の悩みだった。

 そのスコットランドはいまや、隣国のアイルランドと並んで経済的活況を謳歌している。スコットランド開発庁の日本事務所の人にその当たりの事情を聞いたことがある。

 20年来、彼らは地道に海外企業の誘致に努めてきただけなのである。一国二制度で税制の恩典があるわけではない。ただ人材の育成だけは手を抜いたことがなかったようである。なにやら明治の日本のようでもあった。

 翻って日本の地方はどうなのであろうか。「国際」と名の付く怪しげな学校や機関、行政の部署は数多くある。大枚を払って東京の有名人を呼んでシンポジウ ムを開く。それだけで終わってはいないだろうか。議員や社長たちの海外研修はほとんどが物見遊山である。

 自らアメリカ、ヨーロッパ、アジアに出向いて継続的な人脈づくりをしてきたのだろうか。そんなことができる人材を県内に育成してきた経験があるとでもいうのだろうか。

 かの高校の先生は味なことをいっていた。

「日本の農村で感じたのは土が肥えていることだ。ご存知のようにスコットランドは土が実に貧しい。人材というのは農業でいうところの土と一緒です。土が貧しければ何も育たないのです」

 スコットランドの高校の先生との会話から多くのことを考えさせられた。

2002年07月19日(金)萬晩報主宰 伴 武澄


 5月25日、くたびれた単発のパイパー機でペリュリュー島に向かった。パラオのコロール島の日本人古老といってもいい倉田洋二さんに「ぜひ」とすすめられた。ここまで来て太平洋戦争の激戦の地を見ないわけにはいかなかった。

 コロール空港を飛び立って40分後、ペリュリューの島影が見え、南部にある滑走路に降り立った。客は筆者と母の二人きりである。滑走路には背筋をピンと 伸ばし海軍帽をかぶった日本人が迎えてくれた。中川束さんである。前夜、倉田さんが電話をしてくれていたようだった。

 中川さんは、奈良県で経営していた建設会社をたたんで10年程前に住民500人ほどのこの島にやってきた。昭和7年、3歳のとき父母に連れられてパラオ 島に移住した開拓農民の一人だった。若くして航空隊に志願したが、戦地に赴く前に終戦となった。玉砕した1万2000人が遺骨収集もままならず眠るこの地 を、養子にした島の息子と二人で守っている。

 ペリュリュー島には二つの滑走路が交差している。東西1500メートル、南北1800メートル。開戦前夜に建設された当時としては南太平洋最大の飛行場 だった。東のトラック島、そして開戦直後に陥落させたニューギニア東のニューブリテン島にあるラバウルを結ぶ航空基地としての位置付けがなされた。

 余談だが、当時の国際社会は、日本が国際連盟を脱退した後も日本が南洋群島を委任統治することについてちゃんと認めていた。委託統治領に軍事施設を建設 するのは御法度だったため、一応「パラオ第三農場」という名目で建設工事が始まった。飛行場建設では沖縄から多くの働き手がやってきた。パラオ在住日本人 に沖縄の人が多かった理由の一つでもある。

 パラオは地理的にフィリピンの東に位置する。ペリュリュー島の上陸作戦はマッカーサー率いるアメリカ軍によるレイテ島上陸作戦のための航空支援基地確保 が目的だった。ニミッツ提督率いる米太平洋艦隊は6月、すでにマリアナ海戦で勝利し、南太平洋における日本の機動部隊を潰滅させ、日本本土上陸作戦のため の航空基地をテニアン島に確保していたが、マッカーサーはフィリピン奪還のためにペリュリュー島を欲しがった。

 1944年9月15日、そのニミッツ提督指揮下の米軍は400隻の艦船と17万発の爆弾で総攻撃を浴びせた。第81歩兵師団を中心とした米軍2万 8000人が南東部のオレンジビーチに殺到した。迎える守備兵は中川州男大佐率いる陸軍第14師団歩兵第二連隊を軸とした1万2000人。

 物量に勝るアメリカは数日でペリュリュー島を占領する考えだったが、結果的に2カ月の月日と1万人を超える尊い犠牲を払うこととなった。中川連隊長は兵 力だけで2倍以上の米軍と対峙するに当たって、海岸線で戦闘を避け、米軍が上陸した後に大規模反攻を試みた。一日でも長く米軍をペリュリューに引き付ける ことでレイテでの戦いを有利に導こうとしたのだった。

 三日間に及ぶ艦砲射撃でペリュリュー島の海岸線のジャングルは丸裸になった。しかし、日本軍は500を超える人工、天然の洞窟陣地に立てこもった。洞窟 内には数十門の大砲が据えつけられ、アメリカの上陸部隊にかつてない被害をもたらした。上陸地点のオレンジビーチはアメリカ軍兵士の血で赤く染まったとい う。

 ペリュリュー島には砲撃で潰滅した旧海軍指令部跡、ゼロ戦や米軍機の残骸、焼けただれた戦車などが随所に放置されてある。さながらジャングルの中の戦闘 博物館である。中川さんは「戦跡は探せばまだいくらでもあるはずだが、一人で探すのは体力的無理」と嘆く。

 中川さんの説明を聞きながら、戦跡を歩くことは戦争体験そのものである。灼熱の太陽が照りつけ、汗がとどめなく流れるのだが、58年前の兵士のことを思 えば「暑い」とはいえない。戦争を意味のないことだと語るのは容易である。戦争反対のトキを上げるのも簡単だ。しかし、現実に戦いは21世紀になってもな くなったわけではない。そんな国のために戦う行為が崇高でなくては死んだ兵士はたまらない。

 戦後、生き残った人たちには、戦地で死んでいった仲間に対するある種の負い目があった。父もそのことをよく口にした。ある意味では「いいやつ」が先に死 ぬのが戦争なのかもしれない。ジャングルの中で熱い思いにかられながら、ふと「人柱」という古い言葉を思い起こした。こういうところで死んでいった兵士た ちが戦後日本の人柱になっていると考えることは感傷でもなんでもない。

 中川洲男連隊長は11月22日、パラオに向けて「サクラ、サクラ」を打電し、玉砕した。戦闘が終わって、上陸部隊の第323連隊のワトソン大佐は岩山をくり貫いた日本軍の指令部を訪れ、中川大佐以下、日本軍将兵の割腹した姿を発見した。

 ワトソン大佐は、直立不動、敬礼した。中川大佐の戦いぶりに最大級の敬意を表したのだった。ワトソン大佐もまた武人であったといわざるをえない。日本は 鬼畜米英と戦ったのではない。武人同士の壮絶な戦いの場を訪ね、今思い出しても鳥肌の立つ思いがする。

 そんな話がいまもペリュリュー島に伝わる。

 この戦いは、後にニミッツ提督をして「ペリリューの複雑極まる防備に打ち克つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘 損害比率(約40%)を甘受しなければならなかった。既に制海権制空権を持っていた米軍が、死傷者あわせて1万人を超える犠牲者を出して、この島を占領し たことは、今もって疑問である」といわしめた戦いであった。

 つまり、ペリュリュー島を占領する前の10月15日、アメリカ軍はレイテ上陸作戦を完了していたから、1万を超えるアメリカ軍の犠牲は太平洋戦争の大局になんら貢献しなかったことになる。ニミッツ提督の嘆きはいわれのないことではない。

 そして、そのニミッツ提督がペリュリュー島に残した石碑がある。

    諸国から訪ねる旅人たちよ
    この島を守るために日本軍人が
    いかに勇敢な愛国心をもって戦い
    そして玉砕したかを伝えられよ

        米太平洋艦隊指令長官 C.W.ニミッツ

 ニミッツ提督は生涯、日本海海戦でロシア・バルチック艦隊を破った東郷平八郎元帥に私淑していたと伝えられる。戦後、横須賀にあった戦艦「三笠」保存のために私財を献じたことも知られる。ニミッツ提督もまた武人であった。

2002年07月10日(水)萬晩報コナクリ通信員 斉藤 清


 ◆蜂蜜の誘惑

 蜂蜜と金。その両者にはまったくつながりはないのでしょうが、実は昨日、奥地のキャンプから、車のオイルが入っていたプラスチック容器で、蜂蜜が4リッ トル届きました。これは私の大好物なのです。金産地の金イオンを含んだ水を吸い上げて咲いた野の花々のエキスの、あるいは金イオンを含んでいるのかもしれ ない黒砂糖風味の野趣そのものの蜂蜜をなめながら、それで、時には当地での金の仕事の情況を書いてみるのもいいのかなと愚考し、さらに外は週末の雨でしっ とりと落ち着いていて、過ぎた時間をたどってみるのにはちょうどいい背景設定ではあるし、そのうえ、小紙『金鉱山からのたより』は1998年7月の創刊以 来丸4年、怠惰な発信周期のままにいよいよ5年目に流れ込むという、誇ることもできない区切りの月にあたることも頭をよぎり、そしてその瞬間、蜂蜜に混 じっている小型の蜂の死骸と巣の破片がずいぶんと多いことに気がついて、これはガーゼを使って漉したほうがいい、とあらたな仕事(さほどの手間でもないの ですが)が増えてしまったことをおおげさに嘆いてため息をつき――時の経過に逆らうことのできない身をしみじみとみつめているつもりになっている筆者なの ですが。

 ◆奥の細道

 現在のキャンプ地――金の採掘現場までは首都コナクリから約1,000キロ。
1990年に初めてこの地に足を踏み入れたのですが、当時の道路事情はホントにひどいもので、地方の幹線道路の一部の区間では、日中でも車のライトをつけ て、舞いあがる砂塵の中での自分の存在を知らせ、対向車らしき影を感じたら、はげしくクラクションを鳴らす必要もありました。細かい砂塵が、ふりつもった ばかりの雪のように道を覆っていて、足を踏み出せば、くるぶしくらいまではもぐってしまうほどの深さでした。

 そして常識的には、自分の車の前にはいつも走れる道があり、しかも障害物はないであろうという想定のままに走行を続けるわけですけれど、ある地点では、 道路に横たわる細い川にかかる橋の幅が道幅の半分もなく(車1台分の幅だけで)、――おそらくは素直に直進して橋を踏み外し、けっこう深い流れに身を沈め ているスクラップ車を何度か目撃。そのように、予備知識なしでの夜間走行だったら転落して当然、といえる場所もありました。――そんな道路事情も近年は すっかり改善されて、幹線道路のかなりの部分は、日本の国道よりもずっと走りやすくなっています。

 この過酷なコースを丸々二日間走りつづけると、窓を締めきった車の車内にも、ラテライトの紅い埃が厚くつもっていて、乗っている人間の顔にも埃がへばり つき、仮面の中から眼球だけが外を見ているような状態になります。鼻と耳の穴にも紅い埃はふりつもるのですが、口の中だけは、唾液が埃を洗い流してしまう ものなのか、さほどの異変は感じなかったようです。そして無事に目的地に着いて車を降りる時は、第一歩は必ずよろけてしまって、平衡神経がまともな状態に 回復するまでには大分の時間が必要でした。

 ◆金の採掘に向けて

 ともあれ、カナダの会社が調査を始めていた鉱区の一角に、初めて足を踏み入れたのが1990年。その後、鉱区の隅のほうの面積4平方キロの漂砂鉱床だけ を重点的に精査し、まずはその部分を採掘する目的で、その会社が当時保有していた総面積1,500平方キロの鉱区をすべて引き継ぎ。

 1993年の暮れから、現地への採掘機材の搬入と、キャンプの宿舎、食堂、事務所、金精製作業棟などの建設を開始。日本ばかりではなく、他の国からも送 り込んだ重機、資材―大工用の釘に至るまで―を、現地調達の車輛を使って、しかも長距離の悪路を移動させる作業は楽なものではありませんでした。――現在 の道路状況だとずいぶん楽なのですが。

 カナダのバンクーバーで特注製作した金選別装置は、輸送船の都合があって、雪のロッーキー山脈を越えてニューヨークまで牽引陸送し、コナクリ向けの船に 載せたこともありました。また、総重量70トンほどのドラッグライン(土砂をすくいあげて移動させる重機)は、スウェーデンで手頃なものが見つかり、ベル ギーのアントワープ港で積み替えてアフリカ航路へ。

 特に、総重量70トンほどのドラッグラインのギニア国内の移動に際しては、通過する予定のすべての橋の状態と幅を前もってチェック――これは自分自身の 手でやりましたけれど。最終的に、中部ギニアのリンサンという町を流れる川にかかる50メートルほどの橋が、強度はともかくとしても、幅が絶対的に狭くて 通過できないことが判明。そこで村人の指導を得て、1キロほど下流の、両岸が比較的平坦な場所を選び、ここに臨時のアクセス道路を開いて、乾季の水位が下 がった時期を見計らい、川底に大きな岩を敷きつめて横断路とし、この区間だけは重機を自走させたこともありました。

 ◆採掘作業の開始

 そのようにして採掘体勢を整え、1994年後半から現地での金採掘を開始。3交代24時間稼動態勢でのスタートでした。この時期に掘り出した金の粒を、 『金鉱山からのたより』の初期の読者の方々に、記念品としてお送りさせていただいたこともありました。

 1994年から1997年までは、金価格は1オンス(31.1g)380$を超える国際価格が続いたのですけれど、このあと急激に下落して、時に 250$ということもあり、それから長期にわたって低落したまの期間が継続することになります。金価格350$程度を想定しての計画を立てていた私めにし てみれば、それは絶命の窮地ということを意味し、その後現在まで、どうしようもない状況にあるということには変わりがないと、妙な自信を添えて断言し、逆 境を強調して笑いに紛らす、ということも現実にはあるのですが。

 国際的な規模の産金会社から見れば、当社の現場はかなりちゃちな操業風景ではあるのですが、それでも、ごく一般の、金鉱山をご覧になったことのない普通 の日本人の目から眺めれば、それなりの規模に思えることは確かで、ことに、移動させている土砂の量は、ちょっとした土木工事のイメージをはるかに超えてい るものではあります。

 これまでの採掘作業は、あくまで漂砂鉱床を対象としていて、大昔――人間がまだ登場していなかった頃でしょうか、この地が形成されたある時期に流出して 堆積した金を含む層を(この地では2-3mの厚みなのですが)、地下のある深さから掘り出して水でただ洗うだけの、単純なそれでもやさしくはない微妙な技 術も要する、露天の土砂クリーニング業、といった類いの仕事になっています。

 ◆黄金にまつわる伝承

 流出した金を含む堆積層があるということは、さほど遠くはない場所にその源があるはず、というのは当然の理屈。ついでながらその金鉱床を確認してみたい、という遊び心もあり、私めは民俗学者をまねて、まずは何人もの古老と話しこんでみました。

 ――昔はたくさん金が出たけれど、それは村人のためにならないからずっと立ち入りを禁止している、とか、精霊がその山を守っているから入ってはいけない ことになっている、とか、あるいは金はたくさん出るけれど、水が多いから村人の採掘技術では作業ができずに現在は放置されている、などの貴重な情報はいろ いろあって、時間を見つけてはそれぞれの山(丘)を訪ねてみました。山によっては、ニワトリを生贄として持参し、土地の信仰(おそらくはイスラム教が入り 込む以前の)にしたがって、山の木立に向かってひっそりと宗教儀式を行ったこともありました。その中には、いつの時代に掘られたものなのか、古老の知識に はない「採掘遺跡」もいくつか存在しています。

 これらの場所は、村人にとってはタブーであったとしても、異邦人としての私めにはタブーの効果は及ばない、という古老の解釈でしたし、むしろそこを案内 することに積極的でした。その結果、けっして小さくはない金鉱床の存在が、現代の技術を使って、その一部だけではあるもののはっきりと確認できた今は、立 ち入りを許してくれた山の精霊や村の古老らに、おおいに感謝しているところです。

 現在のキャンプ地あたりは、古くはブレ地方と呼ばれ(駿河、紀州のような昔の土地の呼び方)、古代マリ王国の支配者マンサ・ムサ王が首都ニアニを置いて いた場所の近くです。そのニアニは現在のギニア領内で、当社鉱区に隣接。彼がメッカへ巡礼に行った1324-25年には、持参した黄金(その量は数トンと も、十数トンともいわれるのですが)を旅の途中でばらまき、そのせいで金の価値が下がってしまったと、モノの本には書かれています。

 この当時――つい最近までも、この地方には奴隷の制度があって、ある家柄の者は生まれたその時から自動的に特定の家系に従属する奴隷として働くことに なっていました。そのために、日本の佐渡金山にも匹敵するような規模の金の採掘が行われ(現在のような村人の個人レベルでの手作業では絶対に無理な規模 の)、その巨大な空洞、採掘跡はまだいくつも残っています。その作業の跡を現在の知識レベルでチェックしてみても、当時の彼らがとても優れた知識と技術を 持っていたことがわかります。――実に的確に掘っています。

 ちなみにこの地では、経済効率を考えなければ、いたるところで金が採取できます。例えば、小高い丘の上に建てられた我々の宿舎の前庭の、天然の小砂
利をバケツに一杯ほどすくって洗ってみれば、必ずいくつかの金の粒(粒の大小は問わないとして)を目にすることができます。機械のテストで、丘の麓のトウモロコシ畑の砂を洗っても、充分な量の金が採集できました。

 1828年には、この黄金郷をめざすヨーロッパの探検家ルネ・カイエが、苦難の末にこの地に到達しています。彼は、おそらくは現在の村人の作業風景とほ とんど変わることのない現場に立会い、事細かに採掘の状況を記録しました(日本語訳の本もあり)。命をかけて、地を這うようにしてこの地にたどりついたル ネ・カイエと、埃まみれにはなっても、さほどの危険もなしに、同じ場所に車で乗りつけることができる今の時代とでは、文字通り、隔世の感があります。

 そして、これらの耳と足で確認した情報を、資源探査衛星の写真と突きあわせてみると、その間には、みごとに一定の法則が存在していることがわかってきました。

 ◆科学的なチェック

 そうとなれば、もう少し組織立てて調査する必要があり、北米の大手金山会社と提携して、鉱区全体の洗い直し調査を始めたのが1997年からだったでしょ うか。体系的に膨大な点数のサンプルを採取して金の含有量を微量分析し、その結果の数値を地図上に落とし、金の濃度分布図を描いてみると、これもぴたりと 村人の昔の採掘跡、あるいは村人の手による現在の採掘現場と重なったわけです。その後、集中的に地下100メートル程度までのボーリング調査などを実施 し、商業的にも放置できない規模の金鉱床が確認されました。

 その評価をもとにして、ギニア国の鉱業法の制約もあり、現在は鉱区面積を200平方キロに絞りこんでいます。そして実際には、金価格の低迷の影響をまと もに受けて、悪戦苦闘、四苦八苦、断末魔の苦しみを引きずりながら、国際的な規模の金鉱区に仕上げるための作業を断続的に続けています。とりあえずは、現 在までに確認している、100トン程度の金埋蔵量を見込んでの精査作業が続くことになります。

 むろんこの鉱区は我々が発見したわけではなく、その第一番の貢献者は古代マリ王国のマンサ・ムサ王であり、探検家ルネ・カイエであり、そしてこの地方の先祖とそれを伝えてくれた現在の村人たちでした。

 そして――このあたりになってくると、遊び心の範疇をかなり超えている状況でもあり、私自身はこの10年間、苦しみつつ(そして多くの人に迷惑をかけつ つ)も、妙な縁から始めた金採掘を楽しみ、あるいは国際的に通用する規模の金鉱区の確認に、山師として、舞台監督として立会い、たっぷりと遊ばせてもらっ たことを手みやげに、そろそろ浦島太郎になるのもいいねと、キャンプ地から届いた黒砂糖風味の蜂蜜に、かすかなほろ苦さをも感じて、ふりしきる雨をみつめ ているのです。
2002年07月08日(月)中国情報局 文 彬


  世界最大手の半導体ファウンドリー、台湾積体電路(TSMC)は3月28日、大陸投資の申請をする意向を発表した。TSMCはウエハーの製造、組み立て、 テスト等を手掛け、台湾で初めて12インチウエハーの試験生産に成功した最先端技術を持つ著名な企業であるだけに、その大陸進出は世界のウエハー市場に大 きな影響を与えるだけでなく、中台貿易に新たな局面をもたらす行為として今後の動きが注目される。

 TSMCの発表を可能にしたのは台湾政府の8インチウエハー大陸進出解禁宣言だが、これまで解禁宣言そのものに対して大きな議論が繰り広げられていた。 というのも、ウエハー製造を含む半導体産業は20年来培ってきた台湾経済の命脈である。その解禁は台湾のハイテクと資金の流失に繋がり、やがてそのハイテ クと資金の恩恵を受けた大陸が台湾産業を圧迫するようになるとの懸念の声があがったためだ。

 また、大陸進出解禁に伴う失業問題も一層深刻になるだろうと解禁反対派は強く警告している。政府のシンクタンク・工業研究院がまとめた「両岸の半導体産 業の発展」に関する報告書も「いったん8インチ工場の大陸投資を解放すれば、今後国内で数年内に2万人規模の失業者が出る」と認めている。

 それにも関わらず政府が解禁に踏み切ったのは、大陸進出を台湾半導体産業の唯一の活路と見る人が増えたからである。陳水扁政権以来、前政権の大陸経済政 策である「急がず忍耐強く」(李登輝の「戒急用忍」政策)を「積極解放、有効管理」に改め、激流のような大陸進出をバランスよくコントロールしながら外資 誘致による台湾経済の復興を図ろうとしてきたが、貿易総額が2000年の260億ドルから2001年の180億ドルに激減し、失業率も3.19%から 5.33%へと悪化してきた。台湾の『天下』誌のアンケート調査結果によると、大企業リーダーの94%が2001年の経済状況に不満があり、4分の3の企 業リーダーが広い大陸市場は台湾企業の活路だと認めている。

 もう誰も止めることは出来なくなる。台湾がやらなければ、欧米、日本、韓国、そして香港の企業に先制されてしまう。いや、実際に台湾は既に出遅れてい る。今年3月10日、日本電気の合弁会社である上海華虹NECの半導体工場が完成し、ウエハーの製造を開始したというニュースが世界を駆け巡った。この半 導体工場は中国最大級のものであり、生産ライン稼動当初8インチウエハー月産5000枚でスタートするが、順次生産能力を高め、最終的には月産2万枚の計 画である。また、香港の聯華電子(UMC)もこの春から、中国の北、中、南部の3ヶ所でウエハーの生産拠点を同時に建設していると発表した。稼動後はウエ ハーの供給地図が大きく塗り替えられることとなるに間違いないだろうと関係者は見ている。

 大陸で事業を起こせば儲かる――大陸で操業している台湾企業の大半はかつての悪戦苦闘から利益が見えるようになり、大陸の醍醐味を享受できるようになっ てきた。(日本貿易振興会の調査結果を見ると、大陸に進出している日系企業も好調であることが分かる。2001年の営業損益見込みについての質問に対し、 70%の企業は黒字であり、約12%の企業は均衡であると答えている)。それが台湾の企業を大陸に惹きつける最大の魅力である。

 「両岸関係の正常化には軍事や政治のバランスだけではなく、経済のバランスも重要である」と主張する陳水扁総統だが、財界や産業界からの圧力にたじろぎ ながらも規制の手綱は緩められていく。そして、台湾が大陸に「併呑」されると警告し、今まではタブーだった「三通」(直接通商、通航、通信)に対してもか つてない活発な議論が展開されている。

 多くの企業家の目には中華圏の経済中枢はすでに台湾から大陸へと移りつつあるように見えるに違いない。台湾政府は今まで以上に苦境に立たされている。(中国情報局コラム転載 2002.06.29)

2002年07月04日(木)萬晩報主宰 伴 武澄


 郵政関連法案修正のドタバタをみていて「族議員」の無力を感じた。4月末に内閣が国会に法案を上程した際に自民党は「法案の中身を認めたものではない。国会で修正する」と脅しをかけたものの、泰山鳴動してねずみ一匹とはこのことである。

 自民党が3日、修正した中身は日本郵便公社法案の中で、(1)郵便局はあまねく全国に配置しなければならない(2)公社は郵便関連事業に出資できる(3)国庫納付金は経営ぶ支障がないかぎり「積立金増加額の一部」に限る-の3点だけだった。

 マスコミは公社の民営化に逆行しかねない内容と通り一遍の批判を加えているが、そもそも公社化は民営化に対抗して生まれた発想。自民党が党を挙げて取り組んだにしては中身があまりにも薄い。この程度の手直しは修正とはいえない。

 当初、自民党が求めた「公社化後、4年間は民営化見直しの議論をしない」「ダイレクトメールは基本的に信書である」を盛り込むという要求がいとも簡単に外れたことこそ郵政族の無力化を象徴する出来事だったのではないだろうか。

 自民党はこの財政難の折に、収益性のない郵便局を人のいない村にどんどんつくろうというのだろうか。郵便事業はこれまでどれだけ関連事業に出資してきた のだろうか。国庫納付金だってあまりに恣意的だったのではないか。この3点どれをみても郵便局にとって大きな得点とはいえない。

 郵政族は特定郵便局向けに「修正しました」というポーズをつくり、野中弘務元自民党幹事長と青木幹夫参議院自民党幹事長は総務会で波風が立たないことだ けに腐心しただけだった。この間、「政策論議」はほとんどなく、「修正」論議は腰砕けに終わった。

 郵政法案はもともと来年から発足する「日本郵便公社」設立に向けた単なる設置法づくりだったものを、小泉首相が押し返して、郵便への民間参入を求めたと ころから内閣と自民党の軋轢が生まれたものである。郵政民営化をもくろむ小泉内閣にとっては「いずれ不必要となる」法律にしかすぎない。

 小泉首相の郵政民営化の背景にあるのは、巨額な郵便貯金が日本の財政資金に還流して、財政投融資という不透明な財政構造を築き上げたという問題意識がある。

 政府の一般会計予算と財政投融資の違いは前者が税金による国の事業で、後者が借金による国の事業。一般会計が国債という名の借金まみれになってしまい、 いまでは両者の区別がつけにくくなっているが、財政投融資は高速道路建設のように、あくまで将来の収益によって借金の返済が可能であることが前提なのであ る。

 その財政投融資が過去の景気対策で大盤振る舞いされ、収益の見通しのない事業にまでつぎ込まれてきたことは承知の事実である。民間であったらとうの昔に 破たんが宣告されてもいい事業がいつまでも続くということは、郵便貯金の不良債権化に直結するはずなのに、いったん「国」というフィルターを通ると問題の 在処が見えなくなってしまうのである。

 お金の使い方の出口にも当然、問題があるのだが、入り口である郵便貯金に手をつけないかぎり、財政投融資も郵便貯金も破たんするのは間違いない。

 すべての自民党を含め国会議員がこのことを知らないはずはない。知りつつも問題を先送りし、これからも先送りしようとしているのである。

 改革が一日にして成るとはだれも考えていないと思う。サッチャー改革は10年の年月を要した。抵抗勢力があれば、なおさらである。行きつ戻りつがあるのは当然ではないか。その先送り阻止の先陣を切る小泉首相にさらなるエールを送りたい。

 ちなみに郵便事業の民営化は重要である。今回の信書法案は民間参入に高いハードルを設けてしまった。ポスト設置10万件だけをとってもハードルは高い。 しかし、コンビニは全国に5万件以上あり、酒屋もまた10万件ある。これに宅配便の集配の拠点となっている米屋と地域のよろずやは無数にある。設備投資に 何百億円もかかるとは思われない。

 クロネコのヤマト運輸が信書の参入するのならば、はがき100円、封書200円でも筆者はクロネコを選ぶだろう。勇気ある事業参入を求めたい。

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