2001年12月アーカイブ

2001年12月22日(土)萬晩報主宰 伴 武澄

 先週、円安が一気に進み、3年ぶりに1ドル=130円に近付いている。市場ではIMFが円安を容認し、元財務官が円安を示唆したとはやしてているが、 20日に発表された2002年度予算の財務省原案で100兆円を超える国債発行を余儀なくされることを嫌気したことは間違いない。

 1998年の円安は8月にロシアがルーブルを大幅に切り下げ、ロシア国債が暴落したことがきっかけだった。国債金融資本がロシア国債暴落の穴埋めのため に円建て資産を売り、円安が加速した。その後、榊原財務官率いる大蔵省が円買い介入を実施し、円は瞬く間に100円台の円高にオーバーシュートした。

 具体的に言えば、8月11日に147円まで売られた円は2カ月かかって130円台前半まで戻した。事件はその時起きた。10月7日に130円だった円が 2日間で115円まで急騰したのだ。理由は分からない。当時、日本は銀行の不良債権問題が本格化し、国会で金融再生関連法案が成立して、日本長期信用銀行 と日本債券信用銀行が相次いで国有化された。円が買われる理由はまったくなかったはずだった。

 筆者は当時、引き金は何であれ、日本経済を立て直すには「円安」しかないと考えていた。せっかく外部要因で為替水準の揺り戻しがあったのに榊原財務官が 円買い介入に踏み切ったのが不可解だった。そもそも95年の1ドル=80円台という超円高から強引な円安誘導を行った張本人である。

 当時の橋本内閣や小渕内閣が声高に言っていたのは「日本が世界的な金融不安の引き金になってはならない」ということだった。97年のアジア通貨危機の直 後だっただけに、心情的には分からなかったわけではなかった。日本経済尾規模からみて、大企業が二つ、三つつぶれたところで大したことにはならないと思っ ていた。事実、そごうが破たんした時もマイカルが倒産した時も何も起こらなかった。日本の銀行への相次ぐ公的支援の際に理屈とした「国際的な金融不安阻 止」はこけおどしにしか過ぎなかったのだ。

 もちろん、円安によって日本企業の海外資産が目減りして不良債権を急増することも不安視されたが、それならば超円高をそのまま維持しておけばよかったの だ。円高が維持されるかぎり日本から資本の逃避は起きない。国際的なマネーを日本に引きつけておくことも不可能ではなかったかもしれないのだ。日本の国際 経済からの「退場」がまさに通貨安から始まったことは疑いもない。

 実は日本の金融機関の不良債権問題は榊原財務官らによる強引な円安誘導以降、急速に悪化し、一方で構造改革も中途半端なままとん挫してしまうのだ。経済 を結果論で語ることはできないが、少なくとも多くの企業経営者たちが円高で悲鳴を上げるのではなく、円高の要因となる構造問題にようやく本格的に取り組む 覚悟ができた段階になって、今度は為替の極端な乱気流に巻き込まれることになったのである。

 時代環境はすっかり変わって、日本経済は不良債権問題に加えて財政事情の悪化という難問をも抱え込む身となった。今回の円安は、「円安期待」というより も「国民的な失望感」の広がりの中で進んでいる出来事であることを明記しておきたい。日本経済をこのまま放置しておくとやがて国民が自国の通貨を信用しな くなる時代がやってくる。

2001年12月14日(金)長野県南相木村在住医師 色平哲郎

古いパソコンを使い続けているからだろうか、
いただいた電子メールが、文字化けして読めないことがある。
バージョンアップしていないからだろうか。
記憶容量が限られていることもあるだろう。
余裕がないので、負荷をかけるとフリーズして動かなくなるようだ。

人間も同じではないか。
いくら覚えることが得意だといっても、たくさん覚え込み、
吟味することなく暗記しまくれば、
古いデータやわけのわからないソフトが頭の中にたまってしまい、
若くして「若年寄」ができるだろう。
パターン化して覚えれば覚えるほど、
頭の中はごちゃごちゃになって重くなり、自由な発想に乏しくなって、
コンクリートの塊を頭に詰め込んだように「動脈硬化」をきたすだろう。

当たり前のことだが、事態を変革する新たな構想やアイデアは、
知識だけからは生まれない。
体験と、その体験を共有した仲間との創造的なディスカッションが重要だ。
そして相手の心の動きや周囲の気配を読み解き、
「風」を感じ取る能力の方が、事物を覚え込む能力よりずっと大切なのだ。

事物を記憶するだけなら、
コンピューターのハードディスクに任せたほうがずっと正確だろう。
時にはきれいさっぱり忘れてしまう能力こそ、
人間にとって、むしろ大きな才能となるかもしれない。
そんな移り変わりの激しい時代が、われわれの眼前にあるように感じる。

子どもが7歳から14歳までは、「伝統的価値」を教え込むことが大切だろう。
権威を伴った教師が、愛情をもって規律を教え伝えること。
文字も計算も立ち居振舞いも、こうするモンダ、と教科書的に教える必要がある。
しかしそのまま、こうするモンダ、と進んで行ってしまってはいけないのだ。
14歳以降の教育の理念は、まったく異なる。

14歳から21歳までの多感な時期は、親よりも、
兄弟より教師よりも、大切な存在がある。
親にも教師にも打ち明け得ない、そんな秘密を分かち合う数人の仲間。
「同時代的価値」をともに体験し、感じ、分かち合う仲間こそ重要だ。
さまざまな冒険もあり、壁もあるだろう。
しかしこの大切な、しかも困難な時期を、仲間と一緒にくぐり抜けてはじめて、
人はひとりの人間になる。
数人の仲間から発し、
21歳にして人は「ひとり」のヒトとして社会に生まれ落ちるのだ。

ひとりの人間として、広い世間を生きることが始まる21歳――。
ちょうど生れ落ちた赤ん坊が、
手に触れる外界のすべてのものを口に入れて確かめるように、
世間と新たに付き合うことが始まる。
世間とはこんなモンダ、他人とはこうやって付き合うモンダ、
と決めてかかってはいけないのだ。
摩擦を恐れず、時には反面教師としてでも、
周囲の人々の生き方から学ぶ謙虚な姿勢が必要となる。

ヒトは、どこの国の出身であろうと、男であろうと、女であろうと、
年長であろうと、年下であろうと、「魂として」平等である。
書いたもの、しゃべったものではごまかしが可能だろう。
だが、生き方だけはごまかせない。
あらかじめの知識や肩書きなどで決め付けずに、世間の人々、
世界の人々の多様な思いと生き方に出会って学んでほしい。

人生には、ぶつかってみなければ分らない、
自分の足で歩いてみなければ分らないことが多い。
人の話にも、書物の中にもヒントはあるが、
自分の人生の「答え」は自分で見つけるしかない。
あてのない旅が人生そのものだとするなら、
「生きる力」こそ今大切なものだと思う。
色平さんにメールは DZR06160@nifty.ne.jp
2001年12月11日(火)萬晩報通信員 園田 義明

 ■ワッサースタイン・ラザードCEO誕生

 11月15日、独ドレスナー銀行傘下の投資銀行部門ドレスナー・クライン オート・ワッサースタイン(DKW)のブルース・ワッサースタイン氏は、D KWの会長を辞任し、同業である米ラザードのCEO(最高経営責任者)に就 任することが決まる。

 ワッサースタイン氏は、自らが率いた投資銀行ワッサースタイン・ペレラを、 昨年9月にドレスナーに身売りし、ドレスナーの投資銀行部門「ドレスナー・ クラインオート・ワッサースタイン」の会長に就任する。同部門を分離・独立 させたうえで、銀行のバランスシートと専門性を融合したディール・メーカー として再上場を予定していたが、ドレスナー銀行自体が、今年初めに独保険最 大手のアリアンツの傘下に入ったことでこの計画は中止となった。

 ワッサースタイン氏は、89年に旧ファースト・ボストン時代の同僚、ジョ ー・ペレラ氏(現モルガン・スタンレー)とM&A専門の投資銀行ワッサース タイン・ペレラを設立。1980年代のM&A市場を席けんしたディール・メ ーカーである。KKRのRJRナビスコ買収やテキサコのゲッティ・オイル買 収、AOLとタイム・ワーナーの合併やモルガン・スタンレーとディーン・ウ ィッターの合併などで剛腕を発揮する。顧客が有利になるように買収金額をつ り上げる交渉術にたけていたことから、「ビット・エム・アップ・ブルース (価額をつり上げるブルース)」の異名をとった。

 移籍先の米ラザードは、M&Aの仲介を収益の柱とする知る人ぞ知る老舗の 名門投資銀行である。1848年設立時のラザード創業者の家系で、非公開で ある同社の筆頭株主でもあるマイケル・デービッドーワイル会長は、「過去1 5年にわたって折に触れてワッサースタイン氏を誘ってきた」と語る。

 ラザードはリーマン・ブラザーズと進めていた合併交渉が同時多発テロでご 破算になったばかりであるが、この合併を推進していた前CEOのウイリアム ・ルーミス氏を一年もたたないうちに更迭した経緯から、欧米メディアは、個 性の強い二人の組み合わせを疑問視する記事を相次いで掲載する。しかし、少 し前にはウイリアム・ルーミス氏の実力を疑問視していたこともある。

 いずれにせよ9月11日の同時多発テロが世界的な企業再編を加速化させて いる。再編を主導していくのは彼らである。日本人の多くは、M&Aを単なる 企業の売買として別世界の出来事のように眺めるだけだが、これは一面に過ぎ ない。多くのM&Aは、政治的な意図を繁栄した中長期戦略に基づくものであ り、世界的な人脈と高度なスキルが必要とされる。特にラザードは、欧州貴族 達の戦略を可憐に演出する実行部隊としての側面がある。そしてその長い歴史 にはビッグ・リンカーが数多く存在する。

 ラザードの歴史を振り返る前に今年の世界のM&Aの仲介ランキングを見て おこう。残念ながらここに日本企業の名前はない。

■今年の世界のM&Aの仲介ランキング     金額(億ドル)件数
1  ゴールドマン・サックス            4,520  262
2  メリルリンチ                 3,563  179
3  クレディ・スイス・ファースト・ボストン    3,213  344
4  モルガン・スタンレー             3,102  215
5  JPモルガン・チェース            2,752  284
6  シティグループ/ソロモン・スミスバーニー   1,851  240
7  UBSウォーバーグ              1,808  191
8  ドイチェ・バンク               1,623  183
9  ドレスナー・クラインオート・ワッサースタイン 1,172   67
10 リーマン・ブラザーズ             1,028  107
11 ロスチャイルド                 871  119
12 ラザード                    754  112
13 クアドラングル・グループ            579   2
14 ベア・スターンズ                557   57
15 グリーンヒル                  363   15

(注)2001年1月から9月末『※トムソン・ファイナンシャル・
セキュリティーズ・データ』調べ(日経金融新聞より)
 ■ラザール3兄弟

 ラザードの起源は1848年にさかのぼる。フランス人の3人兄弟、アレク サンドル、シモン、エリーの三人のフランス人がアメリカへ移住し、ニューオ リンズに設立した。そして1852年にパリ事務所としてラザール・フレール、 1877年にロンドン事務所としてラザード・ブラザーズを設立し、彼らの従 兄弟にあたるアレクサンダーが1880年にニューヨーク事務所としてラザー ド・フレールを設立する。

 これまでパリ、ロンドン、ニューヨークの三つのラザードがひとつのパート ナーシップのもとに別会社として運営されてきたが、昨年3月に3社を統合し グローバル戦略強化に乗り出している。現在全世界で20オフィス、約260 0人の従業員を抱えている。過去大きな事件が起こるたびに彼らは欧州と北米 を股にかけて世界を動かしてきた。歴代のビッグ・リンカーを紹介していこう。

 ■ラザードとキャサリン・グラハムとマイヤー家

 日本でも新聞各社が一斉に報じたが、今年7月17日「世界で最も影響力の ある女性」と言われたワシントンポストのキャサリン・グラハム最高経営会議 議長が亡くなった。63年、夫で社主だったフィリップ・グラハム氏がうつ病 で自殺した後、46歳で新聞経営を引き継ぎ、地方紙に過ぎなかった同紙をア メリカを代表する最有力紙の一つに育て上げた。特に70年代、ベトナム戦争 をめぐる米国防総省機密文書を掲載し、ウォーターゲート事件の調査報道で、 政府と対立しながら言論の自由を守り抜いたことは有名である。

 キャサリン・グラハムの本名はキャサリン・マイヤーであり、フランスのア ルザス・ロレーヌ地方に何世代も続く著名なユダヤ系一族出身である。そして、 ラザードグループとの関係は、彼女の祖父、マルク・ユージン・マイヤーから 始まる。

 マルク・ユージン・マイヤーは、従兄弟に当たるラザードのアレクサンドル を頼って1859年にアメリカに渡り、ニューヨークのラザード・フレールの ゼネラル・マネージャーを務める。

 彼の息子、すなわちキャサリン・グラハムの父親であるユージン・アイザッ ク・マイヤーもラザード・フレールに入社するが、官僚主義に失望してすぐに 退社、新たにユージン・マイヤー・アンド・カンパニーを設立する。ウォール 街で人脈を広げ、1913年には、ニューヨーク証券取引所の理事に選任され、 1920年には化学者ウィリアム・ニコルスと共に※アライド・ケミカル・ア ンド・ダイ・コーポレーションを設立し大成功をおさめる。また政府の戦時軍 需品・財政委員会、戦争産業委員会のポストにも起用され、1930年にはF RB(連邦準備制度理事会)の理事に就任、1931年には再建金融公社の会 長に就く。そして1946年には初代世界銀行総裁に任命される。当時の金融 界の大物である。

 このユージン・アイザック・マイヤーがワシントン・ポストを82万500 0ドルで買収したのが1933年である。この時に金融家として軍事産業とメ ディアと政治とをコントロールすることに成功したのである。また、彼をサポ ートしていたのは紛れもなくラザードグループであり、キャサリン・グラハム を陰で支えていたのも金融界のピカソと言われたラザードのアンドレ・マイヤ ーであった。(つづく)

2001年12月10日(月)萬晩報主宰 伴 武澄

 日露戦争後の日本を訪ねたチェチェン人、アブデュルレシト・イブラハム氏が書いた「ジャポンヤ」(第三書館)という旅行記が90年ぶりに本になった。イスラム系ロシア人による明治日本の印象記そのものがおもしろく一気に読んだ。

 その中で日本の郵便制度について何度も触れている。アジア主義者で黒竜会の内田良平氏と日比谷公園で待ち合わせる場面は、読者をなかなか感動させる。その一節を紹介したい。

「葉書は5月22日9時に投函され、11時5分前には私の手元(横浜市)に届いた。そして当日の午後1時には落ち合うことができた。電報よりも迅速である」
 また「郵便」と小見出しを打った部分では、明治のポストマンたちの勤勉ぶりを特記している。
「日本では郵便事業は年中無休である。手紙、現金、小包等を送り出す為に、郵便局は昼夜開いている。ただし職員は時間ごとに交替する。郵便局が開いたの閉 まったのという言葉はない。夜中の12時に横浜から、ある友人に送金した。『この金を受け取ったなら、これこれの通りにある写真屋から私の写真をとって来 てほしい』と。私の友人梅原は、2日後の朝9時に、写真を届けてきた。なんたる几帳面。こんな郵便制度を持つ国には電報すらも必要ない」
 このほか1日に10回も集配していることも紹介している。イブラハム氏がどれほど正しく当時の郵便制度を紹介したものなのか確かめようもないが、夏目漱石の小説にも午前中にその日の夜の会食の予定を書いた葉書を投函する場面があったように記憶している。

 もうひとつ夏休みに高知県物部村の山道で道に迷った時、たまたま出会ったクロネコヤマトの集配車の配達人に道を聞いた時のエピソードも紹介したい。

「・・・という在所はこの先にあるのでしょうか」
「それはもう一つ向こうの谷。道を間違ったのでしょう」
「やっぱりそうですか。ところであなたここらの荷物を集めているの」
「はい。担当地域は3町村。1日に2回ほど集配に回ります。走るのは1日280キロ」
「え!そんなに走るの。それで郵便屋さんは?」
「よくて1日1回でしょ」

 勘のいい読者は筆者がなにを訴えたいか分かっていただけたと思う。勤勉な明治のポストマンたちが生きていたなら郵政事業の民営化などは求められなかった はずだということが一つ。もう一つは郵便事業の民営化で民営反対論者が不安視する「過疎地の集配業務」という問題である。

 すべての宅配業者が物部村で出会った集配マンのような勤勉さを持ち合わせているかどうかは分からない。しかし、このような集配マンが存在するかぎり、郵便を民間業者に委ねても問題はないということである。

 この夏の物部村での出会いは、世の中の有識者は自分の中で持っているイメージだけでなく、過疎地での民間の宅配業者の実態をもっと知ってから、ものを言うべきだということをしみじみと考えさせらた。

 付け加えるならば、今年の夏に上映された中国映画「山の郵便屋さん」はそれこそ明治時代の過疎地のポストマンたちもかくあったのだろうと考えさせられる作品だった。

2001年12月08日(土)東西センター北東アジア経済フォーラム上級研究員 中野 有

 米国国務省、国連、世銀、米国のシンクタンク(ブルッキングス、CSIS、東西センター等)を訪問し、北東アジアの開発について意見交換する機会を得た。

 米国政府は、9.11の同時テロの影響で米国の外交政策が変化したことを認めることはないとしても、米国の東アジア戦略が大きく変化する可能性があると 感じた。米国単独では解決できないテロ等の21世紀型問題に対し、軍事的安全保障のみならず、経済・社会・エネルギー等の安全保障を総合的に捉える重要性 が模索されている。

 また、世界最大の人口を有し、急激に経済的・軍事的パワーをつける中国を戦略的競合国として位置付け、歴史的に見て中国の再登場に対する高度な戦略が練 られている。概して、米国の東アジア政策は、日米同盟を基軸、アジア市場を考慮に入れた米中関係の強化、東アジアに多国間協力メカニズム構築の3点である と考えられる。

 日中韓のトライアングルが中心となる北東アジアは、3つの大きな問題に取り組む必要がある。第1に戦争・冷戦の負の遺産が残存する北東アジアの途上地域 (旧満州、北朝鮮、モンゴル、極東ロシア)の開発のためのインフラ整備、第2は1997年の東アジア通貨危機の教訓を生かしたアジアによる金融システムの 構築、第3は朝鮮半島の安定に向けた経済社会機能の強化にある。

 これらの3つの問題に対応する新たな国際機構、すなわち「アジア経済社会開発機構」を日中韓が中心となり、設立すべきである。日中韓が対等にこれらの活 動を分担し、各国の特性を生かしながら中国に北東アジアのインフラ開発機能、日本に金融のメカニズムの機能、そして韓国に朝鮮半島の安定に向けた経済社会 機能の3つのウィンドウを設ける。

 ブレトンウッズ体制の下で、世銀やIMF等の機能と同様に、市場経済やグローバリゼーションという流れに逆らわず、アジア的な価値を生かした「アジア経 済社会開発機構」の下で、日中韓の連携の上経済圏構築のための司令塔を有する。このような東アジアの多国間協力や経済協力を主眼とした協調的安全保障のメ カニズムの青写真を描くにあたり、現時点ほどこの実現性が高い時期はないのではないだろうか。

 数年前、日本はAMF構想等を推進させようとしたが、米国・中国は難色を示した。しかし、今回の米国のシンクタンクを中心に「アジア経済社会開発機構」 設立のアイデアについて意見を聴取したところ、9.11以降の米国や世界の多国間重視の変化により、国際機構をアジアに設立するのは夢ではないとの感触を 得た。

 その前提条件として、日本が北東アジアの多国間協力を推進しながら、米国と密に協議を進めることにある。この構想を推進することで、ひいては東南・南西 アジア等を包括する「アジア機構」に発展するだろう。10年後、20年後を考えれば、日本のイニシエティブの下で中国や韓国とトライアングルの国際機構を 有することが、大いなる国益と地球益につながると考えられる。

 アジアには、マニラのアジア開発銀行、バンコックのESCAP、東京の国連大学等の国連機構しか存在しない。先進国の条件として、所得1万ドルを達成し OECDに入ること、そしてオリンピック、万博開催そして国際機構の誘致だと言われている。そう考えるとアジアに21世紀型の問題に対処する国際機構を作 る、それも日中韓が協力しアジアの社会的なファクターを含む国際機構の設立は実現されなければいけないだろう。

 中野さんにメールは tonakano@csr.gr.jp

2001年12月06日(木)萬晩報主宰 伴 武澄

 東京都と東京ガス、シェルグループ子会社が3日、埼玉県三郷市にある東京都の浄水場で発電事業を立ち上げると発表した。朝日と日経が翌4日朝刊の経済面 3段で報じている。後の新聞はベタ記事扱いだったが、筆者はこのニュースにけっこう興奮した。全国の自治体が発電事業を起こして地域の企業や家庭に供給す れば、電力会社の地域独占をいとも簡単に突き崩せるはずと考えるからである。

 東京都があえて事業に進出するのは東京電力の電力料金が高すぎるからである。電力料金の問題は10年以上も前の日米構造協議で改善を求められながら一向 に是正されない課題の一つである。このほど倒産したアメリカのエネルギー企業エンロンが日本政府に販売の自由化と発電・送電の分離を求めてようやく規制緩 和に動き出しているものの、地域独占の壁を突き崩すのは容易でない。

 東京都の計画は15-20万キロワットのガスタービン発電機を設置して発電。約2万5000キロワットを浄水場が利用するほか、民間にも販売する。投資 金額は120-160億円で2005年度から発電を開始する。この発電規模だと、都庁本庁舎など東京都の大規模施設の電力すべてを賄うことが可能になるそ うだ。

 1990年代後半に始まった電力販売の自由化というものは実は虚構であって、発電事業はもともと自治体も参画していた。筆者の地元の高知県ですらいくつ かの水力発電所を持ち、長年、四国電力に売電してきた。民間企業だって「共同火力」といってコンビナートでは電力会社との共同出資の発電所は少なくない。

 問題はコスト意識だった。ただ漫然と売電していただけで、自治体の施設で使用するという発想はなかった。もちろん財政が許していたからだった。しかし緊 縮財政が求められるこれからの自治体にとって自前の発電所の確保は有効な歳出削減策のひとつになるという意識を持ってもらいたい。

 ●都市型発電は一石三鳥の効果

 電力業界をめぐる話題として90年代を通じて関心を持たれたのが、企業による自家発電である。円高によって日本の電力料金が突出して高くなった結果、企 業の防衛策として自前の発電所が工場や事業所に次々と建設された。大規模な地域開発では必ず一帯のビルに供給するための中規模の発電設備が併設され、郊外 型の大型スーパーでも5000キロワットクラスの発電機が不可欠となった。

 発電所は規模が大きくなるほど発電効率が高くなるのは当然だが、発電所の立地は大型になればなるほど需要地から離れたところに建設することを余儀なくさ れ、送電コストが余分にかかる。ちなみにわれわれが月々支払う電力料金の約半分は送電コストといわれる。だから都会のど真ん中で発電すれば電力料金は半分 で済むことになる。

 コンピューターの世界が汎用の大型機からパソコンに移行したように、電力もまた中小型機を需要地にたくさん建設すれば、発電効率が多少落ちたとしてもコストダウンにつながることは間違いない。

 萬晩報の皮算用はまだある。自治体には土地開発公社が抱える未利用の工業団地が多くあるはずだ。仮に電力料金を半額にすれば電力多消費型の産業の誘致に はもってこいだし、当然そこで雇用も生まれる。県民や市民もそのおこぼれに預かれるのだとしたら一石三鳥というものだ。東京都でいえば、臨海副都心や旧羽 田空港跡地でどんどん発電してほしい。

 環境問題をうんぬんする方も少なくないと思うので、そちらの方にも言及しておくなら、あなたの近くの大型ショッピングセンターのほとんどではすでに分か らないところで自家発電が行われているということを知っておいてほしい。今時の中小型の発電機はもくもくと煙などは出しはしないし、近所に騒音をまき散ら すこともない。

 参考までに言えば、3000ccで300馬力の高性能エンジンを発電能力に換算すると225キロワットとなり、ほぼ70件分の民間住宅の電力を賄うことが可能となる。東京都が三郷市に建設する発電所は民間住宅の電力需要に換算するとほぼ6万件(約24万人)分となる。

 一番考えてほしいのは、官業が不効率がから民営化を進めろという小泉内閣の下で、東京都という「官」が電力会社の非効率に立ち向かおうとしているという、ほとんどパロディーのような世界にわが日本は突入しようとしているということである。

 【参考】
 1999年07月20日 沖縄電力に匹敵する神鋼の発電事業の能力
 1999年07月26日 発電余力を持て余す素材産業?
 1999年08月23日 団地で自家発電するという真夏の夜の夢

2001年12月01日(土)萬晩報主宰 伴 武澄

「NTT株の売却益ってむかし景気対策で使っちゃったんじゃなかたっけ」
「俺もそう思う。この公共事業は1987年から始まって90年代前半に底を突いているはずなのに」
「そうそう。思い出した。僕が大蔵省で予算を担当した時、名前はNTTがついていたけど本当は国債を発行して財源を賄っていたんだ」

 第二次補正予算の財源として2兆5000億円のNTT株式売却益を公共事業に利用することが突然決まった。NTT株式の売却益はそもそも国債の償還財源 として位置付けられているはずなのにと、公共事業として使っていいものなのか。国民の多くは騙されたような気分になっているのではないだろうか。記者仲間 でも疑心暗鬼なのである。

 ●宮沢蔵相の錬金術

 NTT株式の売却益を利用した公共事業は87年度の補正予算で突然出てきた。確か日経新聞の特ダネだったように覚えている。当時の日本経済はプラザ合意 以降の急激な円高によってかつてない景気低迷を迎えていたが、景気対策を打とうにも財源がなかった。国民に「増税なき財政再建路線」を約束した土光臨調の 下で歳出は厳しく制限されていた。

 ある意味で財政の規律というものが自民党にもあった。160兆円という国債発行残高をどう減らすかが国民的課題だったのである。一般会計予算は一般経費 はマイナス5%のシーリングがかぶせられ、公共事業費は伸び率ゼロで6兆円を超えることはなかった。だから当初予算で国債の発行はたった6兆円内外だっ た。ちなみに小泉内閣の公約は30兆円である。

 そんな時に大蔵省はNTT株式を一次流用するというアイデアをひねり出した。本来、国債の償還財源と決められていたNTT株式の売却益はその時から、法 律改正によって一時的に公共事業の財源として流用できるようになった。宮沢蔵相(当時)は「5年とか7年とか借りるだけ。すごいアイデアだ」と絶賛した。 政府は「財源が続く限り継続する」と約束し、まさに「宮沢蔵相の錬金術」のように受け止められた。

 正式には「NTT株式売却益を活用した無利子融資制度」として87年度補正予算で4500億円が計上され、翌88年度の当初予算から1兆3000億円が 計上された。筆者は日本の財政が規律を失ったのはまさにこの「NTT公共事業」が登場してからのことだと思っている。その後、景気が回復基調に乗ってから もこの錬金術をやめることはなく、つい最近まで続いていた。

 ●またしても大蔵省の禁じ手

 NTTの株式売却は95年のNTT民営化に基づく措置で政府の持ち株の3分の2を放出することが決まった。87年2月の売却で2兆3000億円。97年 10月に約5兆円。88年10月2兆8500億円。NTT株は一時300万円を超えた後100万円台に急落するなど高値圏で乱高下したため売却は途中で頓 挫したものの、総計10兆1566億円というとてつもない売却益が生まれていた。

 景気回復した後にこの無利子融資制度を止めていれば、日本経済を救った救世主的存在として財政史に名を残したかも知れない

  問題はいったん計上した予算は減額できないという日本の予算制度にあった。止めるどころかバブルに向かって日本経済がブレーキを失った状態でも約10兆円のNTT株式の売却益を活用した公共事業は続き、7年後の91年度でついに財源が底を突いた。

 92年度は無利子融資制度を止める二度目のチャンスだったが、当時の日本経済はバブル崩壊と二度目の急激な円高期に突入しており再び大規模な財政出動が求められる場面に直面していた。

 なんと財源を失った「NTT」の名を冠した公共事業は国債を発行して続けられた。

 大蔵省が監修して毎年発行される「日本の財政」の「社会資本の整備」の項目に(注)として「NTT株式をめぐる市場環境等からその財源に確保が極めて困 難な状況にあったためNTT・Bタイプ事業の大半に一般財源(建設公債)を充当することにより、その事業を実質的に確保した」と淡々と記載してある。(事 業の詳細については次回報告する)

 この摩訶不思議な予算に対してマスコミも野党も糾弾しなかった。政界は自民党の瓦解が進み、政権交代が必至の情勢で国民の関心はほとんど財政には向かなかった。大蔵省は国民の関心の薄さをいいことにまたしても禁じ手を犯していたのだ。(続)

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