2001年11月アーカイブ

2001年11月28日(水)南相木村在住医師 色平 哲郎

フランス映画「モンパルナスの灯」に衝撃を受けたのは、
高校生の時だった。

肺結核にアルコールと麻薬中毒、
そして極貧が重なって36歳の短い生涯を終えた
失意の天才画家アメデオ・モジリアニ。
彼の半生を、同じ36歳で急死した俳優、
ジェラール・フィリップが繊細に演じて素晴しかった。
モジリアニの、同時代の作家との交流を深めながらも、孤立を恐れない、
その画風と生き様には、超然としたものを感じた。

モジリアニは生前、同時代人から必ずしも評価された訳ではなかった。
映画の中に登場する画商は、彼の作品を黙殺する。
しかし、その画商こそ実は天才を最も良く理解する同時代人であった。
画家は無名のうちに死ぬ。
画商は彼の死を見届け、作品がそれ以上世に出ないことを確かめた後で、
悲嘆に暮れる家族から全作品を買い上げ、独占する......。


歴史を超えて生きるアート、すなわちクラシック(古典)は、
詩も文学も絵画、音楽そして映画も、
クリティーク(批評、批評家)の存在によって支えられ励まされてきた。
クリティークとは、たとえ一時は手厳しいものであっても、
アートが時空を超えるのに不可欠なものだ。

すべてアートには、優れたクリティークが伴うべきだろう。
それは日常の報道を支える表現活動においても同様なはずだ。
現代のマスメディア、特にテレビ放送にはクリティークがほとんど伴わず、
リテラシー(批判的に読み解く)意識もないままに、
垂れ流しの報道がなされているように感じる。

情報通信技術が発達したことによって、
私たちが見失いがちなものがあると感じる。
それは実体験というか、自ら経験することで心や体に刻みつけられる外界との接触感、
すなわち「リアルな記憶」だ。
メディアの無批判な垂れ流しによって、
虚像の体験が増えれば、その分、自らの存在は希薄になろう。
リアルな自己が希薄になると、
他者の存在への気配りの心もまた希薄になるのではないだろうか。

一時の放映に過ぎず、決して時代を超えるものになりはしない、
そんな代物でも繰り返し目や耳に入ればどうなるのだろう。
リアルな感性は磨耗し、他方で、編集のやり方次第では、
事物の一面に過ぎないものを真実として信じ込んでしまう危険があるのではないか。

メディアとはあくまで媒体であり、道具でしかない。
ところが、そんなメディアを通じて一方的に送られてくる「情報」を消費し続け、
宣伝・広告にさらされるうちに、実態の怪しい「情報」なるものに繰られて、
手作りのアートとして生きるべき自らの人生まで変容してしまってはいないか。


山の村の私の診療所で合宿研修に取り組む医学生や看護学生たちには、
メディア、テクノロジー、マネーの3者についてこそ、リテラシー、
つまり自覚的に読み解く勉強が必要だ、と説くようにしている。
医学もまたヒポクラテス以来の長い歴史を持つアートの一つに違いないのだが、
過去においても現在も、
日ごろ厳しいクリティークにさらされている分野とは言い難いからだ。

誰とともに生き、誰とともに歩むのか――。
そして、私がこの場を立ち去った後、どのようになっていくのか――。
この両者について、自らに対してもクリティークであり続けることが、
実体験を磨耗させるメディアが存在感を増す現代にあって重要だと思う。
色平さんにメールは DZR06160@nifty.ne.jp
2001年11月26日(月)萬晩報主宰 伴 武澄

 戦前の計画が踏襲されて優先された名神の建設

 1963年、日本の高速道路は栗東ー尼崎間の71キロが開通して以来、36年間に供用した総延長距離は6450キロを超える。南北の幹線である東北縦貫道、東名道、名神道、中国縦貫道、九州縦貫道がノンストップでつながった。

 首都圏から放射状に常磐道、関越道、中央道が広がり、関西圏からは日本海側を結ぶ北陸道、近畿道などが整備され、1980年代以降は幹線を交差するような枝線の建設が佳境に入っている。最終的には1万1520キロの高速道路を建設する計画である。

 東名、名神道の建設には面白い逸話がある。そもそも日本が初めて「高速道路」に取り組んだのは1940年のこと。旧内務省が「全国的自動車国道計画」を作り、北海道から九州まで日本を縦断する道路網が描かれた。1943年に東京ー神戸間の建設調査が実施された。

 戦争の最中である。政府部内からは「戦局の苛烈化のおりから、狂気のさただ」と批判され、当然ながら建設は差し止められた。その調査では「東京ー神戸間 で、最も緊急の課題とされたのが名古屋ー神戸間」だった。軍事関連の生産が神戸と名古屋に集中していたからなんの不思議もない。

 役人の発想というのは単純明快だ。いったん、つくられた計画は周りの事情が変わって遂行されるのだ。戦後なぜ東名道ではなく、名神道が先に建設されたの か。単に戦前に立てられた計画が名神優先だっただけのことなのだ。多くの日本人が疑問に思っていた疑問が氷解する逸話でもある。

 また当時、ドイツでは世界初の自動車専用道路であるアウトバーン建設が着々と進んでいた。ドイツに遅れまいとする内務官僚の心意気が感じられるだけでは ない。この「全国的自動車国道計画」は中国から中近東を経て欧州に到り、一方ではカムチャッカからアラスカを経由して米国にもつなげるという壮大な夢もは らんでいた。

 ●後ろ向きの投資を許したプール制の導入

 日本の高速道路建設の中心的役割を担ってきたのが日本道路公団だ。現在の資本金は1兆9801億円。8810人の職員を抱え、過去35年間に27兆円を 超える経費が投入されている。だが年間予算でみると歳出規模が約5兆3630億円もあるのに、肝心の建設費用はその24%の1兆2930億円にとどまる。 業務外支出という名の借金返済が3兆1000億円を超えているのである。

 歳入からみても、公団の純粋の収入は2兆1506億円の通行料しかない。あとは赤字で、赤字額の3兆2123億円は3047億円の政府出資金(補助金) とほぼ2兆8976億円に上る借金で収支を合わせているにすぎない。分かりやすく言うと3兆2000億円の借金を返済するために2兆9000億円の新たな 借金をし、政府に3000億円の補助金を仰いでいるということになる。こんな経営が借金の自転車操業が何年も続いている。経営の破綻は目に見えている。

 日本の高速道路は通行料で建設費を賄い、償還後は無料開放するはずだった。名神高速道路は1963年の全線開通からすでに30年を過ぎ、本来ならば無料 開放が始まる時期となっている。しかし、政府は高速道路の通行料金制度を1975年から「プール制」に変更した。プール制は、通行量の多い幹線道路の収益 で新たに建設する地方路線をも維持するという考え方だ。その時から無料開放の「無期延期」が決まっただけでなく、通行料の値上げも相次ぐようになった。ま た90年代に入ってから償還期間を30年から50年に延長して帳尻を合わせるようになっている。

 もちろん建設費の高騰は大きな理由となった。しかし根本には、採算性の低い地方路線の建設工事が次々と始まったことによる影響が大きかった。本来なら ば、50年間の通行料で償還できるはずのない路線には、違う料金体系を導入するか、国や自治体の補助金をつぎ込むかしないかぎり有料道路として成り立たな い。プール制の導入によって、地方路線の建設が進めば進むほど幹線道路の通行料を値上げしなければならないというジレンマに突き当たることになった。

 さらにプール制は、幹線の収益で地方路線の建設を進める一方で、渋滞が増す幹線道路の拡幅工事が後回しになり、結果的に経済活動の非効率的さを増すという後ろ向きの効果ももたらした。

 ●集団利権の場と化した日本の高速道路

 すでに述べてきたようにかつての高速道路の建設は、欧米の最新技術を日本の道路建設に導入し、国際入札など多くの合理的な制度をもたらす効果を果たしてきた。しかし、現在の日本の高速道路建設は巨額な予算を消化する利権集団の場に化している。

 日本道路公団自体では8900人の職員で構成しているものの、多くの子会社や孫会社を抱え、どれだけの人員の雇用の場になっているかさえ明らかにしていない。公団組織の非効率性が国民的批判を浴びるようになっているのだ。

 高速道路の建設は国民に「速く、遠く、自由に」というモータリゼションの夢を与え続けてきた。だがいつまでも「安く」という夢はお預けのままである。政 府や建設に従事してきた技術者たちも「夢を追及」する時代は過ぎ、高速道路建設を「生活の糧」とする時代に入っている。首都高速道路など大都市圏の高速道 路は渋滞時には「有料駐車場」と化しており、いつのまに高速道道路は「遅い」「高い」ことが国民的課題となった。

支出の部
区分
2001年度予算
2000年度予算
増減
建設費
1,293,000
1,283.000
1.01
維持改良費
357,649
357,487
1.00
調査費
4,350
4,843
0.90
建設利息
161,061
164,629
0.98
小計
1,816,060
1,809,959
1.00
業務管理費等
423,866
390,339
1.09
業務外支出
3,123,098
3,182,622
0.98
支出計
5,363,024
5,382,920
1.00
業務外支出は建設利息を除く

 
収入の部
区分
2001年度予算
2000年度予算
増減
業務収入等
2,150,654
2,136,829
1.01
       
赤字額総計
3,212,370
3,246,091
0.99
政府出資金
304,770
306,991
0.99
財政投融資
2,154,000
2,220,000
0.99
自主調達
753,600
719,100
1.05
2001年11月25日(日)萬晩報通信員 園田 義明

 ■動き始めたジョージ・ソロス

 10月31日、ジョージ・ソロス氏率いるソロス・ファンド・マネジメント は、新たなCEOにウィリアム・スタック氏(54)が就任したと発表する。 スタック氏は、ドイツの銀行大手ドレスナー銀行傘下の運用会社ドレスナーR CMグローバルインベスターズ最高投資責任者だった人物である。

 ソロス氏は、ヘッジファンドの第一線から退くのではないかとみられていた が、体制を整えて再び積極的な投資活動を再開する可能性が高い。

 9月11日以降、外為市場では米国による軍事行動や報復テロなどの行方が 読みづらいことから、銀行などの主要市場参加者が活発な取引に動けない状況 が続いており、この人事によってソロス氏が債券・為替投資型の新たなファン ドを準備するのではないかと予測される。

 最近、ソロス氏とアメリカ政府との密接な関係が目立っている。昨年7月に クリントン政権の政府ミッションとして、ニュービジネスの開拓、拡大、再建 を目的にサウスイースト・ヨーロッパ・エクイティ・ファンドが開始される。 このファンドの運用には、国家安全保障担当顧問を務めたサミュエル・バーガ ー氏とオーバーシーズ・プライベイト・インベストメント(OPIC)社長兼 CEOジョージ・ムノーズ氏と並んでソロス氏率いるソロス・プライベイト・ ファンド・マネジメント (SPFM)が選ばれた。

 サミュエル・バーガー氏は、ヘンリー・キッシンジャー氏も認めるアメリカ で最も影響力のある国際戦略のエキスパートとして、ストーンブリッジ・イン ターナショナルの会長とリーマン・ブラザーズの上級顧問を務めている。

 ブッシュ政権も今年3月にアメリカ合衆国国際開発局(USAID)とオー プン・ソサエティー研究所(別名「ソロス財団」)が共同で設立しているバル チック・アメリカン・パートナーシップ・ファンド(BAPF)の積極的な支 援を打ち出している。

 ■オープン・ソサエティー研究所(別名「ソロス財団」)

 1930年、ハンガリーのブダペスト生まれたソロス氏は、ロンドン・スク ール・オブ・エコノミクス(LSE)在学中に出会った哲学者カール・ポパー の著書に親しみ、その後の思想形成と慈善事業活動に影響を与えた。

 ソロス氏は、1979年に最初の取り組みとしてオープン・ソサエティー・ ファンドを立ち上げる。1984年にはハンガリーでイースタン・ヨーロピア ン財団を設立。その活動範囲は中欧、東欧、旧ソ連の全域から現在では南アフ リカ、ハイチ、グァテマラ、モンゴル、アメリカなども加えて計31カ国に拡 大していく。

 この活動の中枢機能として1993年に設立されたのがオープン・ソサエテ ィー研究所である。ニューヨークを本部にブリュッセル、ブダペスト、パリ、 ワシントンに事務所を置き、50カ国以上にまたがるネットワークのセンター として教育、メディア、ジェンダー、経済問題等のプログラムを作成している。 なお2000年度の総支出額は約5億ドルである。

 ソロス氏は長年麻薬合法化に向けてなにやら一生懸命なのである。ニューヨ ークを中心に莫大な資金を投入して、メディアを巻き込んだキャンペーンを実 施してきた。そしてようやくパタキ・ニューヨーク州知事及び州議会のリーダ ーらは、今年になって麻薬法を見直すことに合意する。現在の麻薬法は、19 73年に当時のネルソン・A・ロックフェラー知事が作ったものでロックフェ ラー・ドラッグ法と呼ばれている。まだ第一歩に過ぎず、「開かれ過ぎ」との 批判も多く、果たして実現できるかどうかは疑わしい。

 なおロックフェラーと言えば、前述のバルチック・アメリカン・パートナー シップ・ファンド(BAPF)の役員会会長は、ロックフェラー・ブラザーズ ・ファンドのウィリアム・ムーディー氏が務めている。

 また1995年のボローニャ大学の同大学最高栄誉賞である「ラウレア・オ ノリス・カウサ」に続いて、1999年には日本でも人気の高い20世紀を代 表する政治思想家ハンナ・アレント(Hannah Arendt、1906-1976) の名にちなんだハンナ・アレント賞を授けられた。この選定委員には、今年退 任したロックフェラー・ブラザーズ・ファンドの前議長コリン・キャンベル氏 も含まれている。

 ロスチャイルドと並ぶ世界的な二大企業グループの間で巧みに泳ぎ回る術は、 今でも衰えてはいないようだ。

 しかし、訴訟から逃れる術はまだ身につけていない。昨年末もパリ予審判事 が、ソロス氏、ナウリ元仏大蔵省官房長など4人をインサイダー取引の疑いで パリの裁判所に起訴した。これは、仏政府が1988年にソシエテ・ジェネラ ル株を政府系機関を通じて買い支えた際に、ソロス氏らが事前に情報を得て不 正な利益を得たとの疑惑である。

 常に彼のまわりにつきまとう疑惑には、カール・ポッパーが生きていればさ ぞかし困惑しただろう。

 ■ソロス氏とペルー、中国、日本、そしてカスピ海

 フジモリ政権の崩壊以来、政治混乱が続いていたペルーでは、今年7月、先 住民系のトレド大統領(55)率いる新政権が発足した。選挙ではユダヤ系で あるソロス氏がトレド陣営に多額の献金をしていたようだ。その結果、第二副 大統領でもあるバイスマン国防相、クチンスキ経済財政相など多くのユダヤ人 脈を政権に送り込むことに成功する。

 今年10月には、中国で大学を設立する準備に取りかかると発表する。すで に教育ベンチャー事業の一環として、ソロス氏は、セントラル・ヨーロピアン ・ユニバーシティーを設立しており、実現すればその第二弾となる。WTO加 盟で世界中の大物が連日のように中国に押し寄せる中、得意の投資戦略で挑む ようだ。

 さてあまり話題にはならないが、日本にもすでに上陸している。ソロス・リ アル・エステート・インベスターズは、投資対象をホテルに絞り込み、米ホテ ル運営大手のウエストモント・ホスピタリティ・グループと組んで、京都ロイ ヤルホテルとリーガロイヤルホテル成田を取得した。

 なおソロス財団の支出先として、ロシア5657万ドルも含めて、カスピ海 沿岸地域への積極性が読みとれる。(グルジア537万ドル、カザフスタン4 90万ドル、ウズベキスタン412万ドル、アゼルバイジャン325万ドル、 アルメニア191万ドル等)カスピ海地域の石油、天然ガス資源をめぐる「ニ ュー・グレート・ゲーム」の陰のプレイヤーであろう。

 ■ソロス氏の後継者達

 11月15日保険・再保険業務などを中心とする金融会社XLキャピタルは、 フロントポイント・パートナーズに5億ドルの投資を行うことを発表する。こ のフロントポイント・パートナーズは、ソロス・ファンド・マネジメントやジ ュリアン・ロバートソン氏が率いたタイガー・マネジメント、モルガン・スタ ンレー等の出身者が集まるヘッジファンドの最強軍団でもある。

 このXLキャピタル自体もバンカーズ・トラスト、J・P・モルガン、マー シュ&マクレナン、マッキンゼー、ベクテル、ロックフェラー保険等の出身者 で固められた超エリート集団が率いている。そして本拠地をバミューダに置く オフショアカンパニーである。

 ところで、10月に入って米証券取引委員会(SEC)は、証券ブローカー らに対して同時多発テロ直前に不審な取引が行われていた兆候があるかどうか 38銘柄について取引記録を調査するよう要請しているが、その38銘柄の中 にXLキャピタルの名前もある。

 しかし真相は決して公表されないだろう。なぜならソロス氏がパートナーを 務めるカーライル・グループにはSEC前委員長のアーサー・レビット氏が今 年5月1日付けで上級顧問に就任しているのである。なおレビット氏は過去最 長の7年半にわたってSEC委員長を務めた人物である。

 なおアーサー・レビット氏は、カーライル・グループの上級顧問に就任する 2ヶ月前の今年3月には、金融・経済情報メディアとして知られるブルームバ ーグの取締役にも就任している。そして、このブルームバーグを一代で築き上 げたマイケル・ブルームバーグ氏が、今月11月に行われた市長選に勝利し、 ジュリアーニ現市長(共和党)の後任として、来年1月から同時多発テロで大 打撃を受けたニューヨークの復興に向けかじ取り役を担うことになる。

 「ヘッジファンド」(浜田和幸著 文春新書)によれば、ソロス氏の口癖は、 「エリザベス女王陛下の資産運用をお手伝いしている」ということらしい。こ の言葉には憧れにも似た彼の本音があるようだ。悲しいことに、この世界には ビッグ・リンカーはいない。(つづく)

2001年11月24日(土)萬晩報主宰 伴 武澄

 ●一度は日本で導入された国際入札

 名神高速道路の建設に当たって、米国や西ドイツ(当時)などから最新技術も導入された。国際的に当時の日本の建設技術に対する不安もあっても仕方のない 時期である。とにかく1950年代当時の東京ー大阪間の国道1号はほとんどが砂利道で、土煙を上げながらの走行が普通だったから、時速100キロでカーブ を曲がるような高速道路の設計技術の蓄積をもっているはずもなかった。

 道路の設計では西ドイツのドルシュ博士、舗装などでは米国のソンデレガー氏が中心となって協力した。ドルシュ博士はドイツのアウトバーン建設に携わった 技術者の一人でもあった。当時の日本では、高速道路などは単なる土木技術の延長で建設できると考えていたが、ドルシュ博士などが持ち込んだ線形技術などに 日本の技術陣は驚愕した。明治時代の黎明期と同様、高速道路の建設もまた、海外からの技術習得がその後の日本の基礎となったのである。

 また、世銀からの融資が決まると、発注業者の国際入札も決まった。いわゆる透明性の高い入札制度の導入を求められたわけだ。名神と東名の建設工事は当時 としては巨額のプロジェクトであったため、世界的関心を集めたが、結局、外国勢が受注したのは東名の1区間だけに終わった。しかも不思議なことにこの業者 も結局、工事を完成させないうちに撤退し、途中で日本の業者に工事の権利を譲渡した。

 日本の公共事業に外国勢が参入するのは90年代に入ってからである。89年からの日米構造協議によって日本市場の閉鎖性が指摘され、関西空港建設などで 一部、風穴が空いた。しかし、外国勢といえども透明性の高い入札で勝ち取ったというより、政治の力で受注し、JV(ジョイントベンチャー)の分け前をも らっているにすぎない。残念ながら日本の高騰した公共事業費を押し下げるまでにはいたっていない。

 当時、外国勢の進出を阻んでしまった詳しい背景はうかがい知れないが、せっかく透明性の高い入札制度を設けながら、有効に運用できなかった日本の建設行政はその後、指名業者間の談合や建設費の高騰という高いコストを支払わされることになる。

 ●なんで最低速度が必要なのか

 それでも名神高速の栗東ー尼崎の開通は日本のモータリゼションにとってひとつの事件だった。まず馴染みのない「最低速度」という概念が持ち込まれた。米 国の連邦道路局の「遅い車も事故の確率が高い。一番事故率の低い速度は昼間で90-115キロ。夜間は75-110キロ」という報告が波紋を呼んだ。

 名神の多くの部分は最高速度120キロで設計されていたため、最高速度の100キロはすんなり決まったが、「最低速度50キロ」という道路交通法の規則 は決定までに「なぜ最低速度が必要なのか」など多くの曲折があった。当時は専門家の間でもスピードに関する認識はその程度のものだった。

 また、そもそも国産自動車が本当に時速100キロものスピードで長時間走れるかという、自動車の耐久性も疑問視された。1961年には完成した京都市郊外の一部区間で130日にもわたって国産自動車による高速走行試験が繰り返されたというから笑うに笑えない。

 日本の高速道路の設計者は先見性がないとの批判が絶えない。いまでこそ名神高速道路の京都-大阪間の渋滞を解消するために拡幅工事が行われ、天王山付近 は片道2車線から4車線になっている。しかし筆者もまた20数年前、名神が2車線しかなかったことを公団をなじったことがある。

 そのとき、こんなやりとりもあった。

「アメリカの高速道路では片道4車線や5車線が常識なのになんで、名神は2車線で設計されたんですか」
「昭和30年代に日本に本格的なモータリゼーションがやってくるなんて想像できた人がいたら、その人の顔を拝みたいものですよ」
「当時の日本でそんなもんだったんですか」
「そんなもんって、ふつうの国道は郊外に出れば砂利道がふつうでしょ。それから3輪トラックなんていう不安定な車がそこら中走っていたんだから」

 閉鎖された道路での事故の通報体制や高速警察隊によるパトロールなど関係者には初めて体験する多くの課題の解決が求められた。

 とにかく38年前、砂利道万能だった関西に突如として鏡のような高速道路が出現した。いまの自動車では考えられないオーバーヒートや擦り切れタイヤによるパンクなど車両の故障が事故の大半を占め、インターチェンジ出口からの逆行なども頻発したという。(続)

2001年11月23日(金)萬晩報主宰 伴 武澄

 小泉内閣の特殊法人改革がようやく途に就き、日本道路公団など7法人の民営化方針が決まった。毎年3000億円という国費投入は来年度からやめることに なり、9392キロという整備計画や50年という借金の償還期間の短縮など具体策の検討はは第三者機関に委ねられることになった。しかし喜んでいる場合で はない。これは改革の入り口にしかすぎないからだ。

 日本の高速道路建設については1999年6月に「36年目の日本の高速道路」というコラムを3回続きで書いた。40年前の日本の道路事情や有料制になっ た経緯など今となっては笑えぬ話もないではない。参考までにこの連作コラムを今日から掲載したい。(開通キロ数など数値は新しいものに変わっています)

 ●速さが夢と希望を与えた名神高速道路

 日本で初めて高速道路ができたのは38年前の1963年7月だった。神戸と名古屋をつなぐ名神高速道路190キロうち、まず尼崎市と滋賀県栗東町の間の第1工事区間71キロが開通、日本のモータリゼションの幕開けとなった。

 高度成長の最中とはいえ、マイカーという言葉が生まれたばかり。サラリーマンにとって安い軽自動車でさえ年間所得の10倍以上もしたし、今日のようにだれでもが手軽に週末のドライブを楽しむようになれるとは思っていなかった時代である。

 以降、高速道路の建設は全国で着々と進み、現在、総延長距離は日本道路公団が管轄する高速道路だけでも6000キロを超えている。

 1960年代に着工したのは、名神だけではない。中央高速と東名高速、そして東京と大阪それぞれ首都高速道路と阪神高速道路の着工も始まっていた。日本経済が急角度で成長し、ヒトやモノの高速でしかも大量移動が求められた。

 ほぼ同時期に完成し、世界一速い鉄道となった東海道新幹線は「夢の超特急」と名付けられた。東京オリンピックや大阪万博など国際的イベントも多く、国土建設が急がれるなかで「速さ」が国民に夢と希望を与えていた。

 日本の高速道路史で特徴的なのは、初めから有料道路制を導入したことだった。有料道路はいまではアジアを中心にかなり普及し、当たり前のように考えられ ている。しかし、当時の先進国のアメリカの州をつなぐ高速道路やドイツのアウトバーンには料金を徴収する発想はなかった。

 日本では戦後復興期には、一般国道の建設さえままならず、苦肉の策として道路財源にガソリン税を充てることが決まっていたが、あくまで国道の建設資金で、高速道路に国費を使うという発想はなかった。

 ちなみにガソリン税を道路建設費に充てるための法律名は1953年の「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」である。この法律は「臨時」だったため、58年に廃止され、同年成立した「道路整備緊急措置法」に引き継がれ、現在にいたっている。

 萬晩報が再三指摘してきた戦後日本特有の「臨時」や「緊急」といった法律の概念が40年を経たいまでもガソリン税の考え方の中に生き続いていることを指摘しておきたい。

 ともかく、本来、無料であるべき道路の通行に「お金を取る」ことに対して国民からの反発は予想以上だった。

 1956年、日本で初めて有料道路となった静岡県の「伊東道路」では通行料徴収ゲートではこんなやりとりもあったという。

「おまえら、なんでこんな山の中で追いはぎみたいに金を取るんだ」
「国の法律できょうから有料道路になりましたので」
「法律ったあなんだ。何の法律だ」
「道路整備特別措置法です」
「バカ。そんな法律は聞いたことのねえ」
「とにかく、お金を払っていただかなければここを通すわけにはいきません」

 40年前の国民の有料道路に対する認識はこの程度だったのである。もっとも道路整備特別措置法では、有料といっても30年たって建設資金を返済しおえたら、一般国道と同様に無料で開放することになっていた。

 ●建設を支えた世銀資金と郵便貯金

 そんな国民の認識の一方で、高速道路建設に対する緊急性も高まっていた。高速道路に関しては日本の道路事情を酷評したアメリカの「ワトキンス報告」が決め手となった。

「工業国でこれほどまでに道路網を無視してきた国はない。統計によると日本の一級国道であるこの国の最も重要な道路の77%は舗装されていない。この道路 網の半分以上は、かつて何の改良も加えられたことがない。しかし、実際の道路は統計よりももっと悪い。悪天候では通行不可能な場合もある。交通はたえず、 自転車、歩行者、荷牛馬車により阻害されることがはなはだしい」
 事実、幹線だった東海道は当時ほとんどが未舗装だったから、日本の道路事情がこのように酷評されたとしても不自然でない。

 高速道路の建設での課題は、有料制といってもどこから資金を調達するかという問題だった。まず郵便貯金の貯金を財源とする財政投融資があてがわれ、不足分は国際的支援を仰ぐことになった。そして路線ごとに30年で借金が返済できるように通行料金が決められた。

 戦後の日本の国土建設にこの財政投融資が果たした役割は計り知れない。いまでこそ銀行はサラリーマンの住宅資金として30年内外の融資をするようになっ ているが、当時の普通の銀行には、国がつくる高速道路とはいえ返済期限が30年などという長期の融資はなかった。そもそも戦争で国家に金を貸して貸し倒れ になった痛い経験をしたばかりだった。郵便貯金という「国営銀行」が豊富な資金供給源となってはじめてインフラ整備ができたという側面も否定できない。

 世銀からの借り入れは苦労の連続だった。1957年、ブラック世銀総裁が来日した際に電力や鉄鋼、高速道路の建設に280億円(7800万ドル)の融資を申し出たのが始まりだった。

 ワトキンス氏によるこの「信じがたいほどの悪さ」という報告が日本の道路整備の緊急性を訴えた形となったという。結局、名神高速では総建設費1148億 円の25%に当たる288億円(8000万ドル)を世銀に頼ったし、東名でも同3425億円のうち4次にわたり総計1080億円(3億ドル)の融資を受け た。ご存じのように当時の為替レートは1ドル=360円だった。

 当時の世銀の資金規模や貨幣価値からいえば、日本の高速道路に対する4億ドル近い融資は「かなり冒険的」だったようで、融資に際して多くの条件がつけられたのは当然のことである。(続)

2001年11月21日(水)萬晩報主宰 伴 武澄

 高知県佐川町は高知市西25キロの仁淀川水系にある。高知から松山に出る街道沿いの町。農水省的にいえば典型的な中山間地。さほど平地があるわけもなく、豊かでもない。牧野富太郎はそこの造り酒屋の一人息子として生まれた。

 佐川町を歩いて考えさせられることは、持続的な教育の継続と外部からの人材登用・流入こそが発展の礎にあるということである。

 江戸時代、土佐藩主山内家の筆頭家老職を代々務めた深尾家が佐川一万石を領有していた。深尾の源流は佐々木源氏で、保元・平治の乱に敗れて鈴鹿の山奥に 逃げ込み、やがて戦国時代に山内家のけらいとなった。だから土佐の地侍ではない。長曽我部が土佐を領有した時代、一帯を支配していたのは伊予国から移住し てきた越知一族ら地侍だった。そんな土地柄を深尾一族が知行することとなって大きな変化が起きた。

 佐川は土居(どい)という領主の館を中心に町が形成され、街道沿いの商業の町としても繁盛することとなる。土佐藩の産業として和紙が奨励され、深尾家は 山間にコウゾ・ミツマタを植えさせた。「土佐和紙」の紙漉きは仁淀川の河口に位置する伊野町で行われたが、佐川は原料の一大集積基地となった。

 水質がよいところから酒造りも盛んになった。深尾の旧領地の美濃から酒造り職人を連れてきて、杜氏は広島から招いた。現在も「司牡丹」という名の造り酒 屋が一軒あるが、大正時代まで5軒ほどあった酒屋が統合したもの。司牡丹の塗り壁は江戸時代の造り酒屋の風情を残すが、牧野家の造り酒屋もその一部として 町のたたずまいに溶け込んでいる。

 佐川町で一つ特徴的なことを書き記せといわれれば「名教館」(めいこうかん)に触れなければならない。深尾家が江戸中期につくった家臣のための学校だっ た。「多くの一流学者を聘して教授を主らしめ、、書生を養生したため学風勃興し、遂に佐川は学問の隆盛を来たした土地となった」(牧野富太郎「我が故 郷」)とされる。

 郷土史によると、四代目の重方は元禄年間に「大儒学者の聞え高かった伊藤東崖の門下にあった江田成章を京都から招き、高録、邸宅を供して講義させ・・・ 家臣たちに勉学させた」とある。明治政府が招聘した「お抱え外国人」と同じ発想である。とにかく佐川では明治までの百年間、高知にあった藩校に匹敵する学 問が行われていて、西日本でも有数のレベルを維持していたということなのだ。

 板垣退助が後に「自由は土佐の山間より出ずる」と称したように土佐藩は倒幕の志士を数多く生んだ土地柄でもある。武市瑞山が率いた土佐勤皇の壮士は192人に及ぶといわれているが、佐川から勤皇の志士12数人が輩出したことと名教館の学統が無関係にあるのではない。

 山間が幕末・明治の志士を生み出したのではない。山間に育まれた教育が時代の求めた人材たちを放ったのである。商人の子ながら牧野富太郎もまたここで学び、中岡慎太郎亡き後、陸援隊を事実上引き継いだ田中光顕伯爵もまた佐川・名教館が生んだ名ブランドである。

 ■我が故郷 牧野富太郎

 吾が故郷は高知県土佐の国、高岡郡の佐川町であるが、昔には佐川村と云ってゐた。丁度土佐の国の中部に位してゐた土地で、海からは北の方へ四里程隔たっ てゐる。四方は小山で取り囲まれてゐる盆地で、田やら畑やらが連なってゐる。其中央に平地に市街があって町をなして居り、春日川とゐう小さな川があって町 の南を過ぎ、それが折れて北向きの流れとなり町を離れ去ってゐる。町はおほかたは商家で、東から国道が這って来て町を過ぎて通り、遂に隣りの越知町に通じ てゐる。そして更に遠く隣国愛媛県の松山市に連絡してゐて、其間今日ではバスが通じてゐて便利である。これと同時に高知より入り来る鉄道は、佐川、西佐川 の二駅を通って南方須崎市に達してゐる。

 此佐川は、昔は佐川を中心として其近傍一万石と称し、それを深尾家が領有し、此深尾家が佐川一円の領主で且統治者であって、代々それが続き、泰平を謳歌 してゐた。即ち此佐川一円は土佐国主山内一豊公から賜はったものだ。右の領地を給はった時は、今から正に三百五十一年(西暦一六〇一年)前の慶長六年で あった。そして深尾家は代々続いて十二代になり、其治世の間が二百六十余年程であった。深尾家の主人公は明治二年に佐川に於ける累代の邸宅を毀ち、佐川を 去りて高知市に移られ、次いで明治三十三年に至て東京市に居を定められた。

 明治維新前は、深尾家の臣は所謂お士(さむらい)で沢山ゐたが、皆深尾家より禄を頂戴し生活してゐた。此等の人々は維新後には主人公と離れ、銘銘自活せ ねばならぬ境遇に陥いり、中には馴れぬ士族の商法で、困った人々も寡なからずあった様だ。此等の人々は世が世ならと、しみじみ嘆いた事であったであろう。

 深尾家の臣、即ち家来達のお士は、多くは深尾邸のお土居前の近傍から其下方に散在してい疎らな聚落をなしてゐた、此時世には皆大小の刀を差し、町人などに対しては横柄なものが多かった。町人も百姓も恐れ入って頭を下げてゐた。

 佐川の町は商業地で商家が櫛比してゐる。町の外は皆郷保(ごうがた)で、其処には農家が散在し、其時分には農家の人々をみな百姓と云ってゐた。町は町人 の住い地で、東町、西町、新丁出来町、新地、松崎、肥代坂などに分かれてゐた。町には土産神社(うぶすな)が二つあって、一は東町の方のもの、一は西町の 方のものであった。東は春日神社で、西は金峯神社、即ち牛王様(ごわう)である。皆多くの氏子を持ってゐる。そして今日でも社殿が厳然として居り、氏子衆 は皆お参りをして崇敬してゐる。春日神社も金峯神社も各々年に一度の大祭があって、牛王様では何時も御輿(みこし)を担ぎ出し当日は中々の賑ひである。

 お士でも亦町人でも執れも皆寺子屋へ行って習字を教すわったものであった。私は幼少の時分、佐川西谷の土居謙護先生方で手習いをした。間もなく目細(め ぼそ)の伊藤蘭林(徳裕)先生の寺子屋に転じた、其入口に当時非常に大きなクワリンの木があった事を覚えてゐる。此寺子屋は大抵お士の子弟でしたが、私と 今一里佐川西町山本屋の富太郎と二人が同じ名前の町人であった。士の方が上組(かみぐみ)で町人の方が下組(しもぐみ)と、一家屋の中で二分せられてゐ た。そこで畫食の時になると、先ず下組の町人は「上組の御方御免下され」と挨拶した後に箸を下さなければならなかったに対し、お士の子弟の方は「下組の方 免してよ」と挨拶したものだ。当時はまだお士と町人との区別が深く染み込んでゐたので、こんな封建的な挨拶をせねばならなかった。これは人間に上下の階級 があると思ってゐたからだ。明治初年頃は右の有様が普通であったが、段々世が開けるに従い、此の様な陋習も次第に無くなり、其内明治七年に至り、小学校も 出来る様になり、遂に今日に及んでゐる。右明治初年頃の事を回想すると、全く隔世の感があるが,私は此長い間幾変遷せし大芝居を実地に見て来たわけです。

 佐川は昔から学問の盛んな地であるとの公評があった。是れは深尾家第九代の深尾重教君が、佐川の菜園畑(さえんばた)に名教館という大校舎を築造し、多 くの一流学者を聘して教授を主らしめ、書生を養成した為めに学風勃興し、遂に佐川は学問の隆盛を来たした土地となった。明治になっては新学者も輩出し、其 中でも佐川からの出身者は宮内大臣の田中光顕氏、土方寧(やすし)法学博士、広井勇工学博士など錚々たる人々であった。其他佐川からは氏原氏など博士号を 有する数人が出た。高知に亜いで学問の盛んな土地で、諺にも「佐川山分学者あり」と謂われてゐたが、誠に其通りである。併かし教は大分衰靡して昔の意気が ないのは佐川の為めに残念に思わざるを得ない。私は其の頽勢を挽廻する非凡な人物が佐川に現れん事を熱望する次第だ。これに就ては切に佐川人士に奮起を促 したいと思う。

 佐川には維新前後、所謂勤王の志士が大分あった。中にも有志の輩は、身を挺して国境から脱走した人もあった。後に宮内大臣になった田中光顕氏も其一人であった。佐川の田舎から大臣を出したと云う事は、兎に角佐川の誇りである。

 佐川は総体から言うと余り富有な村町ではない様に感ずるが、それは佐川の為めに残念な事と言わねばならない。佐川の人々が富めば、従て佐川が富む理屈だ から刻苦精励して大いに各人が産を興し富を殖やさん事を、私は佐川を愛するが為めに。偏へにおすすめしたいのである。佐川を富ます為めに、何か興すべき産 業はないものか。佐川を憂ふる人の一考を望みたいと思ふ。

 佐川に一つ天然的に名産があるのは嬉しい。それは何んでせうか。其れは春日川の鰻である。以前親類の牧野儀之助君から、其鰻を送って呉れしが、其味が格 別に佳かった。私は体の養生の為めに毎日東京の鰻を食べてゐるが、其れに比べると佐川の鰻の方がはるかに美味だ。併かし調理の仕方はさすが東京の方が上手 だ。東京の調理法を佐川の鰻に施したならば、それこそ尚一層美味な鰻の味となるであらう。誰れか一人鰻料理の修行に東京に遊学(ハハハ)に来る人はないか ナ。そして東京直伝の鰻料理で大いに鳴らせば、佐川の鰻料理屋は此上もなく繁盛し、千客万来で自慢が出来る事受合だ。そして其声価が高く高知迄も響いて七 里の道を遠しとせず御来臨ある事保証もできると云うもの。そして東京仕込み鰻料理で大いに鳴らせば、佐川の鰻料理は此上もなく好評を博すること受合だ。何 を言へ畑水練では覚束ないネ。ところが昔と違い春日川の水が減って従って鰻も減り困ったものだが、何とかして鰻を殖やす方法も講じて見る事だヨ。  佐川は昔から酒のよく出来る処で、前には町に五軒程な大きな酒屋、即ち酒造屋があったが、実は私宅も其一つでした。其酒屋に生れた一人息子が私でした が、後に酒屋の株を譲って、私は時分の好きな学問界へ跡をも見ずして走り込んだ。元来佐川は水の質がよくて佳い酒が出来る。後には数軒の酒屋が一つに統合 せられて株式会社を組織し、其醸した酒を司牡丹を命名して東京迄も進出せしめる様に発展した。

 扨私は今年数え年九十二歳になったが、其後大分久しく郷里へ帰へらんので、達者な内、見おさめとして一度帰省して見たいと思いつつ、毎日研究の仕事に追われて、サー行かうと云う折りが中々得られなく、断えず故郷の景色にあこがれてゐる。

 扨私が愈よ郷里を離れて東京へ来り東京の人になったのは明治廿六年一月、即ち私が大学の職員となった年で、指折り算えて見ると、今から六十年も前であっ た。けれども故郷ほど、懐かしい処はない。故郷に帰って、子供の時分に遊んだ山や川などへ行って見ると、此処ではかうした、あそこではああしたなどと様々 に、いろいろ昔にあった事が思ひ出されて、実に感無量であると思ふ。当時の人は今は皆故人となって再会の機なく、今日の人は亦昔の人ではない。が、たとへ 人は変ってゐても、山や川やは依然として昔の姿そのままである。併かし川の水には増減があり、山の樹には盛衰があって、其等は在りし昔のままの姿ではな い。又私は其当時に若かりし故、頭髪は黒かったが、今は雪を戴く白髪となり、前日の紅顔は何れの辺にか消え去った。今は毎日自然の草木を眺めて「朝夕に草 木を吾れの友とせば、心淋びしき折ひしもなし」と歌ってすましてゐる。

 佐川の東端久兵衛坂の下り口を今霧生関と書いてゐるが、之れを呼ぶにはキリウセキと云うのが本当か、之れをキリブセキと云うのが本当か。これより外に読 み様がない。之れを旧来の称へのキリフザキとはどうもは発音が出来ない。即ち是れは旧来の通称へ、此んな風流な字を宛てた学者の罪である。其字面は風雅で 洵に結構だが、昔の通り呼ぶには都合が悪るい。此んな字を用うる為めに却って人の誤解を招く本だ。箱根の関とか、勿来の関とか云う様に、昔其処に関所の あった処ではないから、霧生関と呼ばなくても可い。今日でも称へてゐる様にキリフサギ、或はキリウサギと云えば結構だ。即ち是れは旧来の様に切塞(キリフ サギ)とすれば可いわけで、学者が余計な美称を附け過ぎた為め、却てマゴツク様な始末に陥った。佐川には漢学者が大分居た為め、其等の人が霧生関と雅名を 用ゐて昔からの通称を歿却してゐるた、詩でも作るには便利かも知れないけれども、実際は昔からの称を廃した姿で不都合千万だ。

 此キリウサギに伊藤蘭林先生の碑が建ってゐるが、是れは誇るに足る佐川老学者の記念として大事に保護して置きたい。今日は最早時代が過ぎたから。無論直伝の弟子はないだろうけれど、適当な戸にに祭典を挙行して尊敬の意を表わしても可いと信ずる。

 春蝉の頻りに鳴きしきりぎりす
    久兵衛坂は今もなつかし   結網

 佐川地方にはいろいろ貝の化石が沢山に出るのだが、其名かにダオネラ、サカハナと云うのがある。即ち佐川の地名を取って種名にしたものだ。平たい貝に細線の印せられた型の化石であるが、貝の実物は残ってゐなく、ただ細線が密に並んでゐる型だけが認められる。

 佐川で名を知られ、佐川の町から北に望まれる貝石山の貝の化石は、軟らかくて砕け易いものである。私の若かりし時分には此貝石山の絶頂は露出してゐて、貝を掘るにも容易であったが、今日は其絶頂は皆樹木が生え茂って其産地を隠蔽してしまってゐる。

 佐川の化石は皆貝ばかりであるが、私が嘗て吉田屋敷跡で、たった一つ得たのは珍しくも植物であった。単羽状の葉形のものであったが、多分ソテツか或は其 類のもので、其名は前世界のものだから勿論分明しないが、兎も角も珍しい化石であった。今でも其辺を徹底的に発掘捜索したら、或は再び見付からんとも限ら ない。又越知町に属する先達野の崩れた斜面地で私は大きなトリゴニアの化石を拾った事があった。佐川町の青山文庫には佐川産の化石標本が大分集ってゐる 由、誠に其学の為めに賀すべき事である。私も次に佐川へ帰ったら是非一度拝見に出たいと希望してゐる。

 佐川に産する植物の一にサカハサイシンと云うサイシン属の宿根草があって、此類名で一番花の大きなもので珍しく、兎に角佐川の誇りとするに足る植物の一つである。学名も佐川の名を記念して付けられ「アサルム、サカハナ」と謂われ発表せられた。(我が思いで=遺稿より)

2001年11月21日(水)萬晩報主宰 伴 武澄

 高知県佐川町は高知市西25キロの仁淀川水系にある。高知から松山に出る街道沿いの町。農水省的にいえば典型的な中山間地。さほど平地があるわけもなく、豊かでもない。牧野富太郎はそこの造り酒屋の一人息子として生まれた。

 佐川町を歩いて考えさせられることは、持続的な教育の継続と外部からの人材登用・流入こそが発展の礎にあるということである。

 江戸時代、土佐藩主山内家の筆頭家老職を代々務めた深尾家が佐川一万石を領有していた。深尾の源流は佐々木源氏で、保元・平治の乱に敗れて鈴鹿の山奥に 逃げ込み、やがて戦国時代に山内家のけらいとなった。だから土佐の地侍ではない。長曽我部が土佐を領有した時代、一帯を支配していたのは伊予国から移住し てきた越知一族ら地侍だった。そんな土地柄を深尾一族が知行することとなって大きな変化が起きた。

 佐川は土居(どい)という領主の館を中心に町が形成され、街道沿いの商業の町としても繁盛することとなる。土佐藩の産業として和紙が奨励され、深尾家は 山間にコウゾ・ミツマタを植えさせた。「土佐和紙」の紙漉きは仁淀川の河口に位置する伊野町で行われたが、佐川は原料の一大集積基地となった。

 水質がよいところから酒造りも盛んになった。深尾の旧領地の美濃から酒造り職人を連れてきて、杜氏は広島から招いた。現在も「司牡丹」という名の造り酒 屋が一軒あるが、大正時代まで5軒ほどあった酒屋が統合したもの。司牡丹の塗り壁は江戸時代の造り酒屋の風情を残すが、牧野家の造り酒屋もその一部として 町のたたずまいに溶け込んでいる。

 佐川町で一つ特徴的なことを書き記せといわれれば「名教館」(めいこうかん)に触れなければならない。深尾家が江戸中期につくった家臣のための学校だっ た。「多くの一流学者を聘して教授を主らしめ、、書生を養生したため学風勃興し、遂に佐川は学問の隆盛を来たした土地となった」(牧野富太郎「我が故 郷」)とされる。

 郷土史によると、四代目の重方は元禄年間に「大儒学者の聞え高かった伊藤東崖の門下にあった江田成章を京都から招き、高録、邸宅を供して講義させ・・・ 家臣たちに勉学させた」とある。明治政府が招聘した「お抱え外国人」と同じ発想である。とにかく佐川では明治までの百年間、高知にあった藩校に匹敵する学 問が行われていて、西日本でも有数のレベルを維持していたということなのだ。

 板垣退助が後に「自由は土佐の山間より出ずる」と称したように土佐藩は倒幕の志士を数多く生んだ土地柄でもある。武市瑞山が率いた土佐勤皇の壮士は192人に及ぶといわれているが、佐川から勤皇の志士12数人が輩出したことと名教館の学統が無関係にあるのではない。

 山間が幕末・明治の志士を生み出したのではない。山間に育まれた教育が時代の求めた人材たちを放ったのである。商人の子ながら牧野富太郎もまたここで学び、中岡慎太郎亡き後、陸援隊を事実上引き継いだ田中光顕伯爵もまた佐川・名教館が生んだ名ブランドである。

 ■我が故郷 牧野富太郎

 吾が故郷は高知県土佐の国、高岡郡の佐川町であるが、昔には佐川村と云ってゐた。丁度土佐の国の中部に位してゐた土地で、海からは北の方へ四里程隔たっ てゐる。四方は小山で取り囲まれてゐる盆地で、田やら畑やらが連なってゐる。其中央に平地に市街があって町をなして居り、春日川とゐう小さな川があって町 の南を過ぎ、それが折れて北向きの流れとなり町を離れ去ってゐる。町はおほかたは商家で、東から国道が這って来て町を過ぎて通り、遂に隣りの越知町に通じ てゐる。そして更に遠く隣国愛媛県の松山市に連絡してゐて、其間今日ではバスが通じてゐて便利である。これと同時に高知より入り来る鉄道は、佐川、西佐川 の二駅を通って南方須崎市に達してゐる。

 此佐川は、昔は佐川を中心として其近傍一万石と称し、それを深尾家が領有し、此深尾家が佐川一円の領主で且統治者であって、代々それが続き、泰平を謳歌 してゐた。即ち此佐川一円は土佐国主山内一豊公から賜はったものだ。右の領地を給はった時は、今から正に三百五十一年(西暦一六〇一年)前の慶長六年で あった。そして深尾家は代々続いて十二代になり、其治世の間が二百六十余年程であった。深尾家の主人公は明治二年に佐川に於ける累代の邸宅を毀ち、佐川を 去りて高知市に移られ、次いで明治三十三年に至て東京市に居を定められた。

 明治維新前は、深尾家の臣は所謂お士(さむらい)で沢山ゐたが、皆深尾家より禄を頂戴し生活してゐた。此等の人々は維新後には主人公と離れ、銘銘自活せ ねばならぬ境遇に陥いり、中には馴れぬ士族の商法で、困った人々も寡なからずあった様だ。此等の人々は世が世ならと、しみじみ嘆いた事であったであろう。

 深尾家の臣、即ち家来達のお士は、多くは深尾邸のお土居前の近傍から其下方に散在してい疎らな聚落をなしてゐた、此時世には皆大小の刀を差し、町人などに対しては横柄なものが多かった。町人も百姓も恐れ入って頭を下げてゐた。

 佐川の町は商業地で商家が櫛比してゐる。町の外は皆郷保(ごうがた)で、其処には農家が散在し、其時分には農家の人々をみな百姓と云ってゐた。町は町人 の住い地で、東町、西町、新丁出来町、新地、松崎、肥代坂などに分かれてゐた。町には土産神社(うぶすな)が二つあって、一は東町の方のもの、一は西町の 方のものであった。東は春日神社で、西は金峯神社、即ち牛王様(ごわう)である。皆多くの氏子を持ってゐる。そして今日でも社殿が厳然として居り、氏子衆 は皆お参りをして崇敬してゐる。春日神社も金峯神社も各々年に一度の大祭があって、牛王様では何時も御輿(みこし)を担ぎ出し当日は中々の賑ひである。

 お士でも亦町人でも執れも皆寺子屋へ行って習字を教すわったものであった。私は幼少の時分、佐川西谷の土居謙護先生方で手習いをした。間もなく目細(め ぼそ)の伊藤蘭林(徳裕)先生の寺子屋に転じた、其入口に当時非常に大きなクワリンの木があった事を覚えてゐる。此寺子屋は大抵お士の子弟でしたが、私と 今一里佐川西町山本屋の富太郎と二人が同じ名前の町人であった。士の方が上組(かみぐみ)で町人の方が下組(しもぐみ)と、一家屋の中で二分せられてゐ た。そこで畫食の時になると、先ず下組の町人は「上組の御方御免下され」と挨拶した後に箸を下さなければならなかったに対し、お士の子弟の方は「下組の方 免してよ」と挨拶したものだ。当時はまだお士と町人との区別が深く染み込んでゐたので、こんな封建的な挨拶をせねばならなかった。これは人間に上下の階級 があると思ってゐたからだ。明治初年頃は右の有様が普通であったが、段々世が開けるに従い、此の様な陋習も次第に無くなり、其内明治七年に至り、小学校も 出来る様になり、遂に今日に及んでゐる。右明治初年頃の事を回想すると、全く隔世の感があるが,私は此長い間幾変遷せし大芝居を実地に見て来たわけです。

 佐川は昔から学問の盛んな地であるとの公評があった。是れは深尾家第九代の深尾重教君が、佐川の菜園畑(さえんばた)に名教館という大校舎を築造し、多 くの一流学者を聘して教授を主らしめ、書生を養成した為めに学風勃興し、遂に佐川は学問の隆盛を来たした土地となった。明治になっては新学者も輩出し、其 中でも佐川からの出身者は宮内大臣の田中光顕氏、土方寧(やすし)法学博士、広井勇工学博士など錚々たる人々であった。其他佐川からは氏原氏など博士号を 有する数人が出た。高知に亜いで学問の盛んな土地で、諺にも「佐川山分学者あり」と謂われてゐたが、誠に其通りである。併かし教は大分衰靡して昔の意気が ないのは佐川の為めに残念に思わざるを得ない。私は其の頽勢を挽廻する非凡な人物が佐川に現れん事を熱望する次第だ。これに就ては切に佐川人士に奮起を促 したいと思う。

 佐川には維新前後、所謂勤王の志士が大分あった。中にも有志の輩は、身を挺して国境から脱走した人もあった。後に宮内大臣になった田中光顕氏も其一人であった。佐川の田舎から大臣を出したと云う事は、兎に角佐川の誇りである。

 佐川は総体から言うと余り富有な村町ではない様に感ずるが、それは佐川の為めに残念な事と言わねばならない。佐川の人々が富めば、従て佐川が富む理屈だ から刻苦精励して大いに各人が産を興し富を殖やさん事を、私は佐川を愛するが為めに。偏へにおすすめしたいのである。佐川を富ます為めに、何か興すべき産 業はないものか。佐川を憂ふる人の一考を望みたいと思ふ。

 佐川に一つ天然的に名産があるのは嬉しい。それは何んでせうか。其れは春日川の鰻である。以前親類の牧野儀之助君から、其鰻を送って呉れしが、其味が格 別に佳かった。私は体の養生の為めに毎日東京の鰻を食べてゐるが、其れに比べると佐川の鰻の方がはるかに美味だ。併かし調理の仕方はさすが東京の方が上手 だ。東京の調理法を佐川の鰻に施したならば、それこそ尚一層美味な鰻の味となるであらう。誰れか一人鰻料理の修行に東京に遊学(ハハハ)に来る人はないか ナ。そして東京直伝の鰻料理で大いに鳴らせば、佐川の鰻料理屋は此上もなく繁盛し、千客万来で自慢が出来る事受合だ。そして其声価が高く高知迄も響いて七 里の道を遠しとせず御来臨ある事保証もできると云うもの。そして東京仕込み鰻料理で大いに鳴らせば、佐川の鰻料理は此上もなく好評を博すること受合だ。何 を言へ畑水練では覚束ないネ。ところが昔と違い春日川の水が減って従って鰻も減り困ったものだが、何とかして鰻を殖やす方法も講じて見る事だヨ。  佐川は昔から酒のよく出来る処で、前には町に五軒程な大きな酒屋、即ち酒造屋があったが、実は私宅も其一つでした。其酒屋に生れた一人息子が私でした が、後に酒屋の株を譲って、私は時分の好きな学問界へ跡をも見ずして走り込んだ。元来佐川は水の質がよくて佳い酒が出来る。後には数軒の酒屋が一つに統合 せられて株式会社を組織し、其醸した酒を司牡丹を命名して東京迄も進出せしめる様に発展した。

 扨私は今年数え年九十二歳になったが、其後大分久しく郷里へ帰へらんので、達者な内、見おさめとして一度帰省して見たいと思いつつ、毎日研究の仕事に追われて、サー行かうと云う折りが中々得られなく、断えず故郷の景色にあこがれてゐる。

 扨私が愈よ郷里を離れて東京へ来り東京の人になったのは明治廿六年一月、即ち私が大学の職員となった年で、指折り算えて見ると、今から六十年も前であっ た。けれども故郷ほど、懐かしい処はない。故郷に帰って、子供の時分に遊んだ山や川などへ行って見ると、此処ではかうした、あそこではああしたなどと様々 に、いろいろ昔にあった事が思ひ出されて、実に感無量であると思ふ。当時の人は今は皆故人となって再会の機なく、今日の人は亦昔の人ではない。が、たとへ 人は変ってゐても、山や川やは依然として昔の姿そのままである。併かし川の水には増減があり、山の樹には盛衰があって、其等は在りし昔のままの姿ではな い。又私は其当時に若かりし故、頭髪は黒かったが、今は雪を戴く白髪となり、前日の紅顔は何れの辺にか消え去った。今は毎日自然の草木を眺めて「朝夕に草 木を吾れの友とせば、心淋びしき折ひしもなし」と歌ってすましてゐる。

 佐川の東端久兵衛坂の下り口を今霧生関と書いてゐるが、之れを呼ぶにはキリウセキと云うのが本当か、之れをキリブセキと云うのが本当か。これより外に読 み様がない。之れを旧来の称へのキリフザキとはどうもは発音が出来ない。即ち是れは旧来の通称へ、此んな風流な字を宛てた学者の罪である。其字面は風雅で 洵に結構だが、昔の通り呼ぶには都合が悪るい。此んな字を用うる為めに却って人の誤解を招く本だ。箱根の関とか、勿来の関とか云う様に、昔其処に関所の あった処ではないから、霧生関と呼ばなくても可い。今日でも称へてゐる様にキリフサギ、或はキリウサギと云えば結構だ。即ち是れは旧来の様に切塞(キリフ サギ)とすれば可いわけで、学者が余計な美称を附け過ぎた為め、却てマゴツク様な始末に陥った。佐川には漢学者が大分居た為め、其等の人が霧生関と雅名を 用ゐて昔からの通称を歿却してゐるた、詩でも作るには便利かも知れないけれども、実際は昔からの称を廃した姿で不都合千万だ。

 此キリウサギに伊藤蘭林先生の碑が建ってゐるが、是れは誇るに足る佐川老学者の記念として大事に保護して置きたい。今日は最早時代が過ぎたから。無論直伝の弟子はないだろうけれど、適当な戸にに祭典を挙行して尊敬の意を表わしても可いと信ずる。

 春蝉の頻りに鳴きしきりぎりす
    久兵衛坂は今もなつかし   結網

 佐川地方にはいろいろ貝の化石が沢山に出るのだが、其名かにダオネラ、サカハナと云うのがある。即ち佐川の地名を取って種名にしたものだ。平たい貝に細線の印せられた型の化石であるが、貝の実物は残ってゐなく、ただ細線が密に並んでゐる型だけが認められる。

 佐川で名を知られ、佐川の町から北に望まれる貝石山の貝の化石は、軟らかくて砕け易いものである。私の若かりし時分には此貝石山の絶頂は露出してゐて、貝を掘るにも容易であったが、今日は其絶頂は皆樹木が生え茂って其産地を隠蔽してしまってゐる。

 佐川の化石は皆貝ばかりであるが、私が嘗て吉田屋敷跡で、たった一つ得たのは珍しくも植物であった。単羽状の葉形のものであったが、多分ソテツか或は其 類のもので、其名は前世界のものだから勿論分明しないが、兎も角も珍しい化石であった。今でも其辺を徹底的に発掘捜索したら、或は再び見付からんとも限ら ない。又越知町に属する先達野の崩れた斜面地で私は大きなトリゴニアの化石を拾った事があった。佐川町の青山文庫には佐川産の化石標本が大分集ってゐる 由、誠に其学の為めに賀すべき事である。私も次に佐川へ帰ったら是非一度拝見に出たいと希望してゐる。

 佐川に産する植物の一にサカハサイシンと云うサイシン属の宿根草があって、此類名で一番花の大きなもので珍しく、兎に角佐川の誇りとするに足る植物の一つである。学名も佐川の名を記念して付けられ「アサルム、サカハナ」と謂われ発表せられた。(我が思いで=遺稿より)

2001年11月19日(月)萬晩報主宰 伴 武澄

 本草学の旅があるかどうか分からない。先月、高知市五台山にある牧野富太郎記念館を訪れた。世界的植物学者として知られる故牧野富太郎博士(1862-1957)を顕彰するため、2年前に建てられた。

 記念館が出来たのは知っていたが、植物学などには一切興味が湧かなかった。知人に「騙されたと思っていってごらん」といわれたのがきっかけだ。それ以降、どういうわけだか書店で植物の本が気になり始め、トマトだとかジャガイモの本を立て続けに読むはめになる。

 新大陸で育てられていた多くの植物がどのようにしてヨーロッパに渡り世界的に普及していったかをたどる作業はなかなか知的刺激があった。そんな刺激を与えてくれたのがこの牧野記念館だということになる

 さて牧野記念館に戻る。ここは牧野博士が収集した5万点にもおよぶ書籍や植物画などのコレクションを収納する博物館である。全国の多くの博物館がただ収納品を時系列的に並べてあるのと違って、なにやら雰囲気が違う。

 記念館は五台山の山頂の起伏に「沿わす」ように建ってられた秀麗な木造建造物である。400本におよぶ巨大な「梁」は1本ずつその長さと形状が違い、そ の上を銅版の屋根でおおわれる。建築家の内藤廣氏が東京・練馬にあった牧野文庫に入り浸り、収納のためのイメージを考え、職人たちの「潜在的伝統」を引き 出した。

 まず木造の博物館はめずらしい。消防法がハードルとなって日本で木造の公共施設は建てられないことになっているからだ。この木造建造物を見るだけでも入場料を払う価値がある。

 牧野富太郎は高知市の西約25キロにある佐川町で幕末に生まれた。年少の頃より植物に興味を抱き、上京して東京大学の門をたたく。といって入学したわけでも教授陣に交えられたわけでもない。生涯、一助手として近代日本の植物学の基礎を築くという稀有の人生を歩んだ。

 自ら「草を褥に木の根を枕、花を恋して五十年」と称した波瀾の人生が、幕末から明治・大正・昭和の日本という時代とぴったり重ね合わさるだけに、展示の 手法に「時代史」を感じさせるものがある。植物にも牧野富太郎にも興味のない人には歴史博物館として観覧できるようになっている。

 牧野博士は膨大な数の植物画を遺している。細密画のように繊細なタッチの植物画はほとんど芸術の領域である。多くの植物学者が絵画の基礎を習ってその道 に入ったのと違い、牧野博士は独学で植物画を描き始めた。牧野博士の場合さらにすごいのはすべての植物画を筆で描いたことだった。「ペンとインクでは線に 勢いがなくなる」と筆書きを貫いた。

 知人は記念館を訪れたら必ず併設のレストランで食事をするように薦めた。植物園に張り出したテラスに座るだけで安らぎを感じさせる演出がある。

「毎月1回はコーヒーを飲みにここへやってきます」。

 牧野記念館にはそんな人もやって来る。

2001年11月13日(火)萬晩報通信員 園田 義明

 ■カール・オットー・ぺール

 1998年6月1日に発足した欧州中央銀行(ECB、本部ドイツ・フラン クフルト)は、ドイツ・ブンデスバンクをモデルにしており確固たる独立性を 有している。このECBの規約作りに貢献した人物こそが、1980年から1 991年までドイツ連邦銀行総裁を務めたカール・オットー・ぺール氏である。

 現在カール・オットー・ぺール氏は、ドイツの投資銀行サル・オッペンハイ ムとその親会社であるスイスのサル・オッペンハイム銀行の取締役である。ま た、アメリカでバリュー株投資で著名なマリオ・ガベリ氏が率いるガベリ・ア セット・マネジメントの取締役でもある。かっては、J・P・モルガンの国際 諮問委員会のメンバーを務め、1992年から1997年まで世界的な食品・ 日用品メーカーであるユニリーバと石油メジャーロイヤル・ダッチ・シェルの 取締役を務めた。またフレッド・バーグステン所長率いる国際経済研究所所長 (IIE)の役員も務めている。

 そしてこのカール・オットー・ぺール氏もカーライル・グループの諮問委員 会のメンバーとなっている。さらに2000年7月25日にロールス・ロイス ・ドイツは、戦略的な諮問会議である「ヨーロッパ諮問委員会(本部パリ)」 の新設を発表し、そのメンバーにカール・オットー・ぺール氏を選任している のである。

 ロールス・ロイスは、買収拒否権のある「黄金株」をイギリス政府が保有す る国策的重要企業と位置付けられており、今なお外国人出資規制(上限49、 5%)も残るだけあって、「ロールス・ロイス・ヨーロッパ諮問委員会」には、 元フランス空軍のヴァンサン・ラナータ将軍やシラク大統領の側近中の側近ベ ルナール・ポンス元設備・運輸・住宅・観光大臣等の大物と並んでビッグ・リ ンカー達が集っている。

 ■ウォーレンバーグ・ファミリー

 「ロールス・ロイス・ヨーロッパ諮問委員会」のスウェーデン代表として名 を連ねるピーター・ウォーレンバーグ氏は、スウェーデンのロックフェラー家 として注目を集めるウォーレンバーグ(ヴァーレンベリ)一族にあたる。

 スウェーデン3位の大手銀行であるSEB(スカンジナビスカ・エンスクリ ダ・バンク)と持ち株投資会社インベスターを中核に、国内の通信機器大手エ リクソン、家電・厨房機器大手エレクトロラックス、航空機大手サーブ、産業 機材大手アトラス・コプコ、ヘルスケア大手ガンブロ、素材エンジニアリング 大手サンドビックや国外ではスイス本社のエンジニアリング最大手ABB(ア セア・ブラウン・ボベリ)、イギリスとスウェーデンに本部を置く世界3位の 製薬会社アストラゼネカなどを傘下に持つ巨大企業グループである。

 また一族の資産を管理するナット・アンド・アリス・ウォーレンバーグ財団 は、ノーベル賞で知られるノーベル財団の最大のスポンサーのひとつでもある。 ジャコブ、マーカス、ピーターの一族三人に加え、ビッグ・リンカーがここに 集う。

●ヨーラン・リンダール
※ABB前社長兼CEO、現取締役。デュポン(米国、化学最大手)、※エリ クソン、※ソニー(日本)取締役。※ソロモン・スミス・バーニー・インター ナショナル(米国)国際諮問委員会メンバー

●ピーター・サザーランド元WTO事務局長
BPアモコ(英国、石油大手)会長。ゴールドマン・サックス・インターナシ ョナル会長。※エリクソン、※インベスター、スコットランド王立銀行取締役。 日米欧委員会欧州議長。※ワールド・エコノミック・フォーラム財団(ダボス 会議主催)役員。ヨーロピアン協会ディレクター。

●ドナルド・ラムズフェルド現国防長官(米国)
ギリアド・サイエンス(米国)元取締役会長、※ABB、アミリン製薬(米国) 元取締役。※ソロモン・スミス・バーニー・インターナショナル(米国)元国 際諮問委員会会長。※インベスター元アドバイザー。ジェラルド・R・フォー ド財団、アイゼンハワー交流奨学基金、スタンフォード大学フーバー研究所、 国立公園財団、ランド研究所理事。

 昨年、インベスターの所有するサーブの自動車部門の株式50%をGMに売 却し、サーブの自動車部門はGM資本100%となる。これに対抗し、フォー ドは同じスウェーデンのボルボの自動車部門を買収するが、トラック・バス・ 産業機器・航空機部門を有する現在のボルボに対して、インベスターは、新た に触手を伸ばし始めている。

 なおGMとウォーレンバーグ・グループは、以前から密接な関係を維持して きた。グループ中核のインベスター、ABB、アストラゼネカ、サンドビック の4社の会長を兼任するパーシー・バーネル氏が、1996年からGMの社外 取締役に就任しており、M&Aを含めた政策を協調して行っているのである。

 パーシー・バーネル氏は世界的に評価の高い経営者であるが、ダボス会議を 主催するワールド・エコノミック・フォーラム財団の副会長を務めている。

 なおワールド・エコノミック・フォーラム財団には、ウォーレンバーグ・グ ループからバーネル氏とサザーランド氏の2名が、ワールド・エコノミック・ フォーラムの評議会には、ジャコブ・ウォーレンバーグ氏が参加している。

 現在のスウェーデン・サーブには、ウォーレンバーグ・グループと並んで、 BAeシステムズが33%の株式を保有している。またその取締役会は、ウォ ーレンバーグ・グループからマーカス・ウォーレンバーグを含めた4名とBA eシステムズからの3名が中心となって構成されている。

 さて、ヨーラン・リンダール氏であるが、今年9月にソニーに続いてアング ロ・アメリカンの副会長に就任している。

 そして、11月7日、ワールド・エコノミック・フォーラムは、2002年 のダボス会議をニューヨークで開催すると発表した。欧州のビッグ・リンカー 達がニューヨークを占領するのである。

 ■パウエル卿(The Lord Powell of Bayswater)

 現在イギリスのブレア政権は、貴族院(上院)に一部残っている「世襲貴族」 を議員にする制度の全面廃止に向けた改革に取り組んでいる。実現すれば、1 4世紀に誕生し世界有数の歴史を誇る上院は、完全に姿を変えることになる。

 この上院にも「ロールス・ロイス・ヨーロッパ諮問委員会」のイギリス本国 のメンバーがいらっしゃるのである。サッチャー元首相とメージャー元首相の 外交政策と防衛政策におけるアドバイザーを務めたベイズウォーターのパウエ ル卿(男爵)である。イギリス貴族を代表するビッグ・リンカーでもある。そ の肩書きの一部を紹介しよう。

●ジャーデン・マセソン・ホールディング元会長(英国/香港、商社、1832年設立)
●ルイ・ヴィトン・モエ・ヘネシーLVMH会長(英国)
●ルイ・ヴィトン・モエ・ヘネシーLVMH取締役(フランス本社)
●サギッタ・アセット・マネイジメント会長(英国)
●フィリップス・ファイン・アート・オークション会長(英国)
●キャタピラー取締役(米国、重機、建設機器、戦車製造)
●テキストロン取締役(米国、航空機、産業機器、軍事用ヘリコプター製造)
●マンダリン・ホテルグループ取締役
●HCL・テクノロジーズ国際諮問委員会(インド、情報ソリューション他)
●バリック・ゴールド国際諮問委員会(カナダ、金鉱会社)


●中国-イギリス・ビジネスカウンシル議長 
●シンガポール-イギリス・ビジネスカウンシル会長
●オックスフォード大学ビジネススクール理事長
●GEMS国際諮問委員会メンバー

●アスペン研究所理事※※

 ルイ・ヴィトンとくれば、さぞかし日本女性も興味津々となるに違いない。 しかし、バリック・ゴールドもあなどれない。今年6月にアメリカのホームス テーク・マイニングを買収し、アングロ・アメリカン傘下のアングロゴールド に次ぐ世界第二位の金鉱会社となる。

 そして、このバリック・ゴールドの国際諮問委員会の初代上級顧問がブッシ ュパパであり(現在は退任)、カール・オットー・ぺール氏もそのメンバーと なっている。

 ゴールドに群がるようにカーライル・グループとロールス・ロイスと貴族達 がなにやら不思議なサークルを構成しているようだ。

 そして、忘れてはならない人物がいる。第一線から退いたはずの大物がここ に復活してきたのである。そして彼もカーライル・グループのパートナーであ る。

 彼の名はあのジョージ・ソロスである。(つづく)

 園田さんにメールは mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp

2001年11月12日(月)萬晩報通信員 園田 義明

 国際的な企業間ネットワークを担うべく、複数の国籍の異なる大企業の取締 役を兼任する「ビッグ・リンカー」と呼ばれる人達がいる。彼らの発言は、企 業活動のみならず、政治、防衛、社会福祉、環境政策においても絶大な影響力 を持っている。

 2001年9月11日の同時多発テロの「前」後から彼らの動きが慌ただし くなってきた。

 ■カーライルの宴

 10月26日、米AP通信は、ビンラディンの親族関係者の話として、ビン ラディン家は軍需産業と関係の深い米投資会社カーライル・グループに行って いた202万ドル(約2億4600万円)相当の投資を引き揚げることを決め たと報じた。

 サウジアラビアの中東有数の建設会社を経営するビンラディン家は、米国を 含む世界の大企業に幅広く投資しているが、同時テロ以前からサウジアラビア を追放されていたウサマ氏とは既に絶縁していると表明している。

 カーライルは、カールーチ元国防長官を会長とし、上級顧問にはジェームス ・べーカー氏、諮問委員会にはブッシュ元大統領(以下ブッシュパパ)やイギ リスのメージャー元首相も名前を連ねるなど米英政権と太いパイプを持ってい る。

 昨年もブッシュパパとメージャー氏は、サウジアラビアの実業家と会談を行 うためにリヤドを訪問している。また9月には、ワシントン・モナーク・ホテ ルで豪華なパーティーを主催し、この時にはコリン・パウエル現国務長官とパ ウエルが取締役を務めていたAOLタイムワーナーのステファン・ケース会長 が講演者として雇われて壇上に立った。

 このカーライル・グループの宴は、世界中を巻き込みながら新たなステージ を演出していく。

 ■ジェームス・ベーカーとEDS

 ジェームス・べーカー氏は、1985年から1988年まで、レーガン政権 の財務長官としてプラザ合意をまとめ上げ、1989年から1992年までは、 ブッシュパパ政権の国務長官として湾岸戦争を指揮した。

 また記憶に新しいところでは、ブッシュVSゴアの最終決戦の場となったフ ロリダ州での再集計作業でも、ブッシュ陣営を代表して現地に乗り込み、勝利 の立役者となる。

 フロリダ州は、ブッシュ大統領の実弟のジェブ・ブッシュが知事を務めてい るが、現在全米を揺るがす炭疽菌問題で最初に被害にあった場所でもある。こ のあたりに何かが隠されているのかもしれない。

 ジェームス・べーカー氏は、カーライル・グループ以外に1996年からエ レクトロニック・データ・システムズ(EDS)の社外取締役も務めている。

 このEDSは、総売上高192億ドル(2000年度)の世界最大の情報処 理サービス会社である。大統領選にも出馬して旋風を巻き起こしたことのある ロス・ペロー氏が1962年に設立した。1994年にはペロー氏がゼネラル ・モーターズ(GM)にEDS株を売り渡し、GMの子会社となる。この時に GMの世界的ビジネス・ネットワークをフルに活用することにより世界戦略構 築の基礎が作られる。1996年にGMから分離独立するが、現在でもGMは、 EDSの大株主として強い影響力を維持している。

 また1995年には世界有数の経営経営コンサルティング会社、A・T・カ ーニーを買収し、コンサルティング事業とアウトソーシング事業を強化してい る。

 今年の入ってEDSは再び買収戦略を開始する。5月23日にストラクチュ ラル・ダイナミクス・リサーチ(SDRC)とユニグラフィックス・ソリュー ションズ(UGS)の買収を発表し、SDRCの買収手続きを9月4日に、ま たUGSの買収手続きを9月28日に完了する。

 そして10月1日には、両社を統合し、プロダクト・ライフサイクル・マネ ジメント(PLM)事業への本格的な参入を発表する。抱える製品は三次元C AD/CAM「アイディアズ」「ユニグラフィックス」「ソリッドエッジ」、 製品データ管理ソフトの「メタフェーズ」「アイマン」など多岐にわたり、包 括的なサービスを提供する唯一のプロバイダとなる。とりわけ日本の製造分野 への影響は計り知れないものとなるだろう。

 このEDSの1996年以来の大手販売先にロールス・ロイスがある。20 00年度の契約額は21億ドルとなっているが、このロールス・ロイスはすで に自動車部門をフォルクス・ワーゲンに売却しており、戦闘機を含めた航空機 エンジン部門を中核にした企業となっており、世界の旅客機エンジン市場の三 分の一を占めている。

 また買収したSDRCも航空宇宙産業トップ10企業のうちのボーイング、 ロッキード・マーチン、ノースロップ・グラマン等大手7社をサポートしてい る。また今年3月には、ロールス・ロイスと並ぶイギリスの軍需大手BAeシ ステムズとも提携しており、軍事面における強力なリーダーシップを構築しつ つある。

 なお、下のEDSの2000年度取締役会メンバーを開いていただきたい。

 http://www.eds.com/investor_relations/ir_proxy_proposalsa.shtml

 ●Richard B. Cheney, 59
 ●Ray L. Hunt, 56<

 現在のチェイニー副大統領とそのチェイニーがCEOを務めていた石油関連 サービス会社ハリバートンの社外取締役、ハントオイルのレイ・ハントCEO がジェームス・ベーカー氏と仲良く並んでいるのである。なおチェイニー副大 統領もブッシュパパ政権では、国防長官としてパナマにおける「大義作戦」、 そして中東における「砂漠の嵐作戦」という、近年の歴史上最大の2つの軍事 作戦の指揮をとった。ブッシュパパの果たせなかった夢を実現すべく、時には 忍者のように姿を隠しながら陣頭指揮にあたっているようだ。

 そして、「ロッキード・マーチン」「ロールス・ロイス」「BAeシステム ズ」が、揃って登場するニュースが飛び込んできた。

 ■JSF(ジョイント・ストライク・ファイター)

 米国防総省は、10月26日、空軍、海軍、海兵隊、及び英空軍向けの次世 代主力戦闘機「JSF」の発注先企業に米大手航空機メーカー、ロッキード・ マーチンを選定したと発表した。JSFは合計3000機製造される予定で、 総契約金額は2000億ドル(約24兆6000億円)となり、米軍の契約額 としては過去最大となる。

 また27日付の米紙ワシントン・ポストは、米国外からさらに3000機を 受注する可能性があると報じている。同紙は2040年まで生産予定のJSF を「今後半世紀にわたり、世界を支配する最後の有人戦闘機」と指摘した上で、 各国軍隊の発注を予想している。当然のことながら、日本に対する導入圧力が かかってくるだろう。

 また、JSFの生産拠点となるロッキード・マーチンのフォートワース工場 は、ブッシュ大統領の地元、テキサス州にあり、新たな雇用は約4500人と の見方さえある。

 今後50年間でみると、補修備品なども含め1兆ドル(約120兆円)を超 えるビックビジネスになるとの予測もある。この計画が発表された1996年 当時には、計画そのものに対する見直し論も議論されたが、今回の同時多発テ ロはそうした反対勢力をも吹き飛ばしたようだ。

 このJSFの開発には、BAeシステムズとロールスロイスが加わっている。 「BAeはロッキード・チームの一員であることを誇りに思う」と間髪入れず 声明を出した。BAeはJSFプロジェクトで開発・生産の10%を担い、米 GEエンジンが主導するエンジン開発ではロールスロイスが40%を分担する。 今回の報復作戦において常に行動を共にしたイギリスの狙いがここにあったよ うだ。

 また、テキサス州フォートワース所在のロッキード・マーチン・タクティカ ル・エアクラフト・システムズは、JSFを開発するノースロップ・グラマン やBAeシステムズ等から成るチームを指揮していたが、1999年5月にS DRCの「メタフェーズ」を共通PDMツールとして選択していたのである。(つづく)

 園田さんにメールは mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp

2001年11月05日(月)萬晩報主宰 伴 武澄

 消費者を不安に陥れた狂牛病の発覚から2カ月、農相や千葉県知事がステーキをほおばったところで国産牛肉の安全性を信ずる人はだれもない。残念ながら今回の騒動で取材現場にいたわけではないので、肉骨粉を食べた日本の牛肉の実態がどうなっているのかレポートできない。

 1998年2月7日付「萬晩報」で「EUのホタテ工場査察で分かった日本の検査の実体」と題して、日本での衛生管理で「検査」=「書類チェック」という 慣行が横行している実態をレポートした。狂牛病の発覚以降の行政の対応をみていると、実態は6年前の「ホタテ事件」から何も変わっていないと言わざるを得 ない。日本の安全衛生管理の落とし穴を知ってもらうため、1995年4月に書いた古いコラムを再掲載したい。

 ■日本産ホタテ貝柱のEU禁輸騒動/衛生管理で責任回避

「日本の食品加工場の衛生状態は韓国やマレーシア以下だ」-欧州連合(EU)は日本産のホタテ貝柱に貝毒が検出されたとして、日本産の水産食品を全面禁輸 にした。日EU間に新たな貿易の火種が浮上したかにみえた。しかし"事件"の解明に従い、事態は逆に日本政府や自治体の衛生管理能力が問われる様相に変 わってきた。

 ▼これはいったい何だ

 EUの調査団3人による青森,宮城、神奈川の6カ所の加工場の査察日程は3月27日から31日だった。事件は28日、青森県内のホタテ工場で起きた。工 場責任者が施設の概要や原料の仕入れ先など説明を一通り終えた後、調査団は3班に分かれて工場に入った。EU査察官の指示で、従業員が冷凍貯蔵庫の奥から 運び出した段ボール箱を開くと、フランス語で「1990年4月10日冷凍、賞味期限92年4月10日」と書かれた袋が出てきた。中には1キロのホタテ貝柱 が入っていた。釈明の余地はなかった。

「これはどういうことだ」。厳しく迫るEU査察官の声に工場内に緊張が走った。他の場所を調べていたチームも集まってきた。工場の専務は「余った袋がたくさんあってもったいないので、借りの容器として使った。中身は古くない」と釈明したが、査察官は納得しなかった。

 それだけでは納まらなかった。従業員が鍵をかけた別の冷蔵庫について「国内向けの製品しか入っていない」と開閉を拒否したため、EU側の心証はさらに悪くなった。査察官はその場で査察を打ち切って帰国した。

▼始まった責任のなすり合い

 EUが日本産水産食品の禁輸措置を決めたのは10日後の4月7日だった。あまりに早い決断だった。不意打ちを食らった水産庁など日本側は「事前に知らされなかった」と反発した。

 数日後にEUの官報に公表された査察結果は「施設、設備、衛生管理すべての面でEUの基準を満たす工場はひとつもなく、落胆した」との内容だった。欠陥 工場の烙印を押されたも同様だった。報告書はさらに「厚生省を含め衛生状態を保証した当局の監督責任体制のずさんさ」も厳しく指弾した。

 政府は当初「衛生管理上、問題があったとは思っていない」(鶴岡農水事務次官)と強く反発したが、しばらく経つと「こちらも改善しなければならない点が多々あるようだ」(井出厚相)と急速にトーンダウンした。

 しばらくすると厚生省内から「韓国などは輸出を念頭にEUの基準をきちんと守っているのに、日本の中小業者はそうした意識がない。恥ずかしいよ」などという発言が飛び出した。

 青森県も査察前に二度にわたり認定工場の立ち入り検査を実施したにも関わらず「水揚げから加工まですべてに立ち会うわけにはいかず、業者のデータを信頼せざるを得ない」(県生活衛生課)と早くも責任回避に走りだした。

 ▼検査とは「書類を調べる」こと?

 1990年までフランスにホタテ貝を輸出していた青森市の水産会社社長は「自治体の指導を遵守してきたのに」と経緯を説明し、「青森の工場が不衛生とい うなら、他の日本やフランスの工場のホタテ貝工場は全部だめだ」と怒りを露わにした。青森県は業者に「査察に備えて書類をそろえろ」と指導したが、査察官 は書類などには見向きもしなかった。代わりに消毒を怠った水洗場の井戸水の水質を検査し、冷蔵庫の中味を調べたのだった。

 査察の経過や日EU双方の言い分を取材するうちに疑問点として浮上してきたのは「法令などによる基準は厳しくても曖昧な運用」をしてきた日本的衛生管理だった。

 そして明らかになったことは、業者にとっての「検査」とは「書類をそろえる」ことであり、県生活衛生課にとっては「書類を調べる」ことだったのだ。 つまり書類に不備がなければ、ほとんどの場合「合格」となる。これこそが「偽りのリアリティー」ではないだろうか。  日本側の方を持つわけではないが、輸出市場での検査はどこの国でも「内国向け検査」とは桁違いの厳しい基準を設けている。「衛生」を理由とした輸入制限 はWTO(世界貿易機関)違反とはならないからだ。日本も、米国の食肉業者に「工場内の壁と床の境目は直角だと掃除がしにくい」など子供じみたいちゃもん を付けたことがあるそうだ。だからこそ、輸出国は、輸出商品の衛生管理に異常なまでに気を使っている。「マレーシア以下だ」というのはそういう意味であ る。

 1995年3月20日の地下鉄サリン事件を契機に日本の安全神話が崩壊したが、衛生神話も同時に崩れた事件であった。

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