2001年4月アーカイブ

   海軍大佐の変死と迷走する捜査活動
2001年04月30日(月) 中国情報局 文 彬 

 台湾海軍の軍艦工場に勤務していた尹清楓技師は、軍部の技術畑のエリートであるだけでなく、バレーボール選手並の体格をしていてハンサムだっ た。また、社交的で同僚の間でも評判が良く、上司もいつも彼のことを誉めていた。その上司の推薦で1993年春、尹は海軍購買室の大佐を拝命して輸入軍艦 を技術的にチェックする実務担当者となった。役得も多く、更なる昇進も見えるようなポストで同僚達の憧れの的となっていたが、尹自身にとってはまさに命取 りの栄転となった。

 1993年9月、尹は同室の郭力恒大佐及び謝聰敏ら立法院国防委員会メンバーと共にフランスの西部にある造船工場を視察した。尹の任務は建造中のフリゲート艦の性能を調査することである。

 長年軍艦の研究に携わってきた尹は、艦上の設備を念入りに調べるうちに、フリゲート艦のレーダーとミサイル発射システムなどが、フランス が中国大陸に売却したものとまったく同じものだと分かった。このような軍艦では大陸の海軍と戦うことが出来ないと尹は同行の人に不満をもらし、またあると き、尹は思い出したように、同行の立法委員に「命の危険を感じている。私が陰謀の犠牲者になったら、犯人を捕まえて下さい」と意味不明な話をしたりした が、これは尹の冗談だと思われて、真剣に受け止める人はいなかった。

 しかし、帰国後、尹自らの予言は当った。同年12月10日午前、宜蘭湾岸の烏岩角沖で作業していた漁師が変死体を発見して警察に通報した ところ、着衣などで尹であることが分かったのだ。後頭部を鈍器で殴られた痕と体中の傷痕から判断して、他殺体と判断するにさほど難しいものではなかった。 また、尹の体格から見ても少なくとも3人以上の犯行ではないかと警察は推理した。

 にもかかわらず、海軍当局は当初、自殺と主張して警察の捜査を妨害していた。警察の許可なしに尹の服を交換したり、尹の執務室のドキュメントや録音テープを持ち出したりしていたため、警察は通常の職務執行でさえも思うようにいなかった。

 夫の死は「軍腐敗の犠牲」だと主張する尹夫人の執拗な追究と日に日に高まるマスコミの圧力で、最終的に軍も事件の調査に協力せざるを得な かったが、汪傳浦など軍需ブローカー数人はすでに台湾を離れ、警察当局の国際氏名手配が出されたものの、結局逮捕することはできなかった。また、事件の真 相を知っていると見られる郭力恒大佐も機密漏洩で検挙され、無期懲役の判決を受けたものの、暗殺事件の訊問となると彼はいつも口をつぐんでしまい語ろうと しない。

 真犯人が捕まるまで、尹清楓大佐の死に纏わる謎は永遠に解くことはできないが、警察とマスコミでは尹に対する殺意はおおむね以下のことから来ていると推理している。

 尹が帰国後直ちにフリゲート艦に装備される設備をイタリアか、ドイツから購入するよう意見書を提出したため、トムソンからリベートをもら う予定の軍関係者とフランス系軍需ブローカーの恨みをかったのではないか。また、意見書を出した尹の意図も必ずしも白ではない。彼も自分の女性問題の証拠 を握っていると言われるドイツ系の軍需ブローカーと頻繁に接触していたし、暗殺される直前まで、フリゲート艦購入にかかわる軍関係者の電話などを頻繁に録 音していた。それが相手に恐怖心を与え、殺人という極端な行為に走らせたのではないかと。

 警察当局は最初から、海軍大佐殺人事件をフリゲート艦との関係に興味を持ってきた。そして、事件に何らかの形で関与していたものとして海 軍総司令官を含む現役将校十数人の名前が浮かんできた。これらの人々の多くは長年武器の購入に携わってきたし、また卒業校や出身地の一致などで、海軍内部 では同じ派閥に属されていたので、結束力も強かった。そのため、警察当局が再三揺さぶりをかけ、高額懸賞金を出したにもかかわらず、結局有力な証拠を手に 入れることはできなかった。

 そうこうしているうちに、フリゲート艦の購入にかかわってきた海軍将校が相次いで退役した。事件発生現場からなるべく遠くへ離れたいとい う気持ちからか、あるいはマスコミが憶測しているように、海外の銀行に預けたリベートを求めてからなのか、退役後海外に移住する将校も多かった。(つづ く)

 文さんにメールは mailto:bun@searchina.ne.jp

2001年04月28日(土)中国情報局 文 彬

 「オペレーション・ブラボー」計画を実現するため、フランス政府を説得すること以外にもトムソンの前には大きな難関が2つ横たわっている。その1つはも ちろん台湾側が数多くの競合者の中から確実にフランスのフリゲート艦を指名してくれること。もう1つは、北京がフリゲート艦の売却で過剰に反応せずに済む ことである。そして、この後者の方が最も乗り越える見込みの少ない難関であることはトムソンも十分理解していた。

 現在、アメリカのイージス艦の台湾売却問題で再び注目された中国の断固とした姿勢で分かるように、最先端武器の台湾売却はもっとも中国の神経を尖らせる 敏感な問題であり、「台湾法」という名目を掲げるアメリカでさえ遠慮しがちな問題である。フランスなど中国との関係を最優先に考慮しなければならない欧州 諸国が、北京の態度を無視してまで売却を敢行することはまずあり得ない。

 この2つの難関を突破するため、トムソンはフランス外務省工作以外にも同時に2つの工作計画を練った。台北側では兵器ブローカーの汪傳浦ルート、北京側 ではリーリー・リュウという香港在住の女性実業家ルートと、シルパンが紹介した香港出身のカナダ籍ビジネスマンのエドモンド・クアンルートを作り、それぞ れに多額のリベートを約束し、斡旋工作を開始してもらったのだ。

 そして、1991年、ジュンクール夫人も同行したデュマ外相の北京訪問の後、フランス外務省の態度が明らかに軟化し始め、同年9月、ついにフリゲート艦 の売却にゴーサインを出したのである。不思議なことに北京側は前回の抗議と対照的に、今回はさほど過激な反応をしなかった。当時の北京駐在フランス大使館 のマーティン大使が本国外務省への報告で「北京はいつでも経済制裁を発動するような姿勢だったが、今度の態度は我々の受けられるようなものだった」と喜び をあらわにしたという。明らかにトムソンの北京工作が奏効したのである。

 何故北京が態度を変えた理由についてはこれと言った説明がなされていない。一般的な言い方としては、フランスは売却の内容をフリゲート艦の船体の部分だ けに限定し、精密機器などソフトの部分は売却しないと約束したため、北京の譲歩を得たのだという。この言い方は実際、フリゲート艦が台湾海軍の手に渡され るまでに香港で数日間も停泊し、北京側の検査を受けたという情報にも裏付けられている。しかし、フランスや台湾の消息筋の間では、その裏にはトムソンがリ ベート全額の20%を北京側に約束したからだという見方もある。

 信じられないようなことだが、台北総統府国策顧問の謝聰敏は昨年、フランス憲法委員会主席在任中のデュマを訪ねた後の記者会見で、台北、北京、アメリ カ、そして南アフリカの「関係者」からフリゲート艦のリベートを受けたと明言したし、ジュンクール夫人も誰がリベートをもらっているか、北京が良く知って いると何度も報道陣に漏らしている。

 しかし、この北京工作はどのように行なわれていたのか、今になっても情報が極端に少ない。というのも、リーリー・リュウもエドモンド・クアンも事件の 後、行方がわからなくなったため、直接工作に携わった人の証言を得られなくなったからである。法廷に提出されたトムソンの秘密文書でもリーリー・リュウの 北京工作は非常に役立ったという曖昧な表現にとどまっている。

 この事件の調査に携わった台湾の政府筋によれば、この大掛かりな国際的な汚職事件に使われていた銀行口座は約700もあり、資金が流れていた国と地域は 台湾、フランス、香港、中国、アメリカ、ドイツ、スイス、南アフリカなどだそうだ。だが、リーリー・リュウのところに流れたものほど纏まった金額はなかっ たという。その金額は、ざっと1億6千万USドルはあるらしい。

 リーリー・リュウは、当初から神秘的な女性だった。良く一緒に行動をしていたというジュンクール夫人でさえ、彼女についてはそれほど語ることが出来な い。香港でどんな事業をやっているのか、何故北京側とパイプを持っているのかについても一切知らない。41歳だという割りにはずっと若く見える彼女はかな りの美人だが、写真を取ると誘われると何時もやんわりと断わっていた。事件後、ジュンクール夫人が香港へ行って彼女を尋ねたこともあったが、借りた事務所 の主はすでに関係のない別人だったという。彼女が確実に存在していたことを証明するのは、ジュンクール夫人の元に残したリーリー・リュウの名刺1枚のみで ある。

 しかし、デュマ元外相はすべてを知っているから、事実が暗闇に葬られることはないとジュンクール夫人は確信している。デュマはリベートを受取った全ての 人の名前を載せたリストを持っているのだと彼女は言い、デュマ自身もそれをほのめかすような発言を繰り返した。しかし、このリストはフランス外務省の機密 とされているため、果して公開がいつになるのか誰にも分からない。謝聰敏が陳水扁総統の名義でフランスに名簿を請求するようにと呼びかけていたが、これも 実現には至らなかった。(つづく)

【ここまでの主な登場人物】
・ローランド・デュマ:-元フランス外相、フランソワ・ミッテラン元フランス大統領側近
・クリスティン・ジュンクール夫人:-デュマの元愛人、「共和国の娼婦」と「オペレーション・ブラボー」の著者
・アルフレド・シルパン:-エルフ・アキテーヌ社元ナンバー2
・ 汪傳浦(アンドリュー・ワォン):-トムソンと台湾の海軍に太いパイプを持つ兵器ブローカー
・リーリー・リュウ: -自称香港在住の女性実業家、北京工作に携わった工作員
・ エドモンド・クアン:-香港出身のカナダ籍ビジネスマン、台北工作に携わった工作員
・ 謝聰敏:-台北総統府国策顧問、法務部顧問

 文 彬さんにメールは bun@searchina.ne.jp

2001年04月24日(火)萬晩報主宰 伴 武澄

 先週前半には実現しないと考えたことが週末に実現した。台湾の前総統の李登輝氏の来日が22日実現し、自民党総裁選挙の予備選で小泉純一郎氏が圧倒的強 さを見せつけた。家庭の団らんや床屋談義で随所で「ホー」とか「やりましたね」という会話が交わされたのではないかと思っている。

 ●李登輝氏の尊厳を傷つけた交流協会

 李登輝氏の来日ビザの申請ではおかしなことが起きた。台湾にある事実上の日本国大使館である「交流協会」にビザの申請がされていたのに、福田官房長官は 記者会見で「申請はまだない」とうそとついた。「申請があったが突き返した」というならまだ分からないわけでないが、交流協会に提出したということは「受 理」そのものであるはずだ。

 もうひとつは19日に日本側が「ビザの発給はするが、政治活動をしないという念書を書け」と李登輝氏側に署名を求めたことだ。記者として取材ビザを申請 する際、一部の国から念書を書かされた経験がないわけではない。しかし、いやしくも1年前まで一国の大統領という肩書きにあった人物である。その人に「念 書」を書かせるという外務省の役人の非礼な感覚には同じ日本人として恥じ入るしかない。

 この日本側の対応に対して李登輝氏側は「屈辱的だ」と反発した。尊厳を傷つけられたに等しいから当然のことだろうと思った。同時に日本は中国と台湾と双 方からの信頼をなくすのだろうとも心配した。こんなことならはじめからビザの発給を拒否した方がずっとましなのにと頭を悩ました。日本はそんな稚拙な頭脳 しか持たない官僚たちが大勢いるのだ。

 19日の夜から次の日までなにが起きたのかは知らないが、李登輝氏は日本に来ることを決めた。さすがに日本側も「念書」は取り下げたのだと思う。22日 に関西空港に降り立った李登輝氏の笑顔はすがすがしかった。嬉しさを体で表現していたように思えた。同じ日にアメリカは同じ李登輝氏に数次ビザを発給する と発表した。あまりにタイミングが良すぎた。中国としても日米を同時に的に回すわけにはいかないからだ。

 森首相は在任1年で最後にひとつだけ国民に支持される行動をとったのだと思う。

 それにしても李登輝氏周辺の警備はすごかった。顔つきにあまりよろしくない「側近」が何人もいたのではせっかくの日本での休暇も台無しになるのではないかとよけいな心配もしている。

 ●小泉総裁の次の仕事は早期の総選挙

 週末開票が進んだ自民党総裁選挙の地方予備選で小泉純一郎氏が地滑り的勝利を手中にした。筆者も含めて大方の予想は、小泉氏が予備選でそこそこ勝利して も、どうせ国会議員による本選挙で橋本龍太郎氏が逆転して総裁になるのだろうというものだったはずだ。それが地滑り的勝利によって国会議員による本選挙で も「全国党員の選択肢」を覆すことができるような状況ではなくなった。

 自民党の支持者でなくとも「何かが変わるのではないか」という期待感を持ち始めていると思う。筆者は小泉氏と同様、構造改革の遅れが景気の長期低迷をも たらしているのだと考えてきた。構造改革は今の景気をよくしてからという議論は経済記者となってからこの16年、聞き飽きるほど聞いてきた。

 1985年のプラザ合意後の円高不況でもそうだった。国際社会からは輸出依存体質から内需依存型の経済への移行が求められた。にも関わらず日本企業はさ らに強い輸出競争力を身につけた。バブルが崩壊した90年代前半にも同じ理屈がまかり通った。もちろんアジアへの生産移転は進んだが、日本経済の強い部分 が海外に逃避し、円高で淘汰されるべき企業が生き延びて、不良債権を積みます結果となった。

 90年代後半に訪れた金融不安の時も国家の重大事と位置づけられ、橋本内閣の行財政改革はあっさり葬られたことは記憶に新しい。一時的に不況を切り抜けると構造改革は一切口にされず、結果、何も変わらない日本と借金の山だけが残った。

 そんな自民党からようやく改革を全面に押し出す政治家がトップに立つことになったのだから、戦後日本政治の潮目を感じないわけにはいかない。小泉氏は 「信頼される総理」と「信頼される政策」ということを主張した。「最大派閥の支持なしに初めて総理・総裁になるのが小泉だ」「選挙戦で言ったことを実現す るのが責任だ」とも言った。総裁選挙の演説などで国民の琴線に触れる言葉で多くのことを語りかけた。

 驚くべきは田中内閣以来、キングメーカーの名をほしいままにしてきた橋本派の力の後退だ。あるマスコミは「液状化」と書いた。族議員の上に立ち、ほぼ 30年にわたり金と票を牛耳ることで自民党を意のままに動かしてきた組織体が空洞化したのが今回の総裁選だったとすると、次の選挙では自民党そのものの存 在が問われることになる。

 早めの方がいい。小泉総裁の次の仕事は自らの政権基盤を世に問うために解散総選挙に打って出るべきだ。それこそが憲政の王道であろう。王道を歩めば、来るべき参院選で自民党の地滑り的敗北を食い止められるかもしれない。

 【BBSから】[94] 李登輝前総統訪日に思う 曽根 2001/04/24

 私は台湾に長く暮らし仕事も生活もここにあります。萬晩報の「小泉純一郎総裁の誕生と李登輝前総統の来日」で触れられた李前総統の訪日については、好む と好まざるとにかかわらず、おそらく日本よりはるかに多くの報道に触れていると思う。今回の訪日は結果として実現したことはよいことと思う。

 アメリカが、中国の李前総統訪米ビザ発給に関する抗議に対して「すでに公職を離れた平民に対しビザを発行するのに何の問題もなし」としたその言い方を、 日本はなぜできなかったのか、と残念に思う。日本は民主国家であり、多様な価値観の存在を前提としており、たとえ李前総統が日本で政治的意見を発言して も、すでに公職を離れている以上、一私人の発言であり、それは言論の自由のもとで許されるべきと思う。その発言がどれだけの影響力をもつかは別の話であ る。中国の発言も当然自由であるが、中国のご意見を聞くだけの外務省の決定は自らこの民主の原則を投げ出している。

 1、2カ月前、「台湾論」が台湾世論をにぎわせた。作家である小林よしのり訪台を拒否するなどの話もあったが、最終的には陳水扁総統の「言論の自由を守 る」という発言で、収拾したようである。日本は台湾より長い民主の経験があるはずだが、日本の官僚はわかっていないのだろうか。

 すでに平民となった李前総統に対し、中国はあいも変わらず攻撃しているが、今回は逆効果であったようだ。さらっと対応すればよいものを騒ぎ立てたため日 本のマスコミをはじめ、大々的な宣伝効果をもたらしてしまった。李前総統が「医療=人道的」という大義名分を作ったことも賢いが、日本の世論や政治家がビ ザ発給支持にまわってしまったということは、中国にとっては大きな誤算だろう。

中国人の交渉事では相手が憤り顔を赤くすればするほどその交渉は成功と判断すると聞く。大使召還や要人の日本訪問延期など、この顔を 赤くしていることを示している、つまりは中国は今回の交渉はみごとに失敗したわけだ。

中国は李登輝前総統をトラブルメーカーであると批判しているが、このような言い方が続き、武力で威嚇することが終わらない限り、台湾国民は中国との統一を 望まず、現状維持を支持すると思う。日本も平和的統一を支持するならば、中国の言い分だけを聞くのではなく、日本の国家利益も考慮した上で中立的な態度で 臨むことが、東アジアの平和と繁栄に貢献することになると思う。(m-sone@comany.com.tw

2001年04月20日(金)ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口 坦

●被害者から「受難者」へ

なぜトルコ人は「アルメニア人虐殺」が「ジェノサイド」と呼ばれることを嫌がるのであろうか。ドイツの新聞記者が考えるように、トルコ国民も「過去に盲目 で、人権意識、倫理感覚が欠如している」からなのか。問題は別なところにあると思う。というのは、「ジェノサイド」というコトバが1948年の国連総会決 議にあるニュートラルな法律用語でなく、もはやすっかり「ホロコースト」史観で汚染されているからである。

例えば、私たちがどこかの人権関係NGOのパンフレットを眺める。そこには、スペイン人の「インカ征服」から、「北米インディアン」「アルメニア人虐殺」 も、ソ連の「収容所列島」も、中国大陸での「日本軍戦争犯罪」も「連合軍無差別戦略爆撃」「ヒロシマ」「アウシュビッツ」「カンボジア」「チベット」「ル アンダ」までありとあらゆるジェノサイドが仲良く並んでいる。このときの「ジェノサイド」は比較的にニュートラルで文化汚染されていない。

それに対して「アルメニア人虐殺」に適用されるのは、ホロコースト汚染された「ジェノサイド」である。というのは、西欧社会、特にドイツ社会では、昔から「アルメニア人虐殺」がヒットラーにユダヤ民族絶滅の先例をなったと思う人々が跡を絶たないからである。

私はこの事件についてドイツで数年前に出版された本を読んで「ホロコースト」を連想させる表現の多さに驚いた。これは、作者が「ホロコースト」的メガネで 事件を見ているからである。だから、トルコ人は「アルメニア人虐殺」をジェノサイドとして認めると、ホロコーストの前座をつとめる四回戦ボーイにされてし まうのを察しているのではないのか。

またこの事件に関連してアルメニア民族が「最古のキリスト教徒で、彼らの文明度の高さ」がことさら強調される。被害者がキリスト教徒で、加害者が回教徒で あるために「キリスト教対回教」とか「文明対野蛮」という対立の図式が文化的共鳴箱のように機能して「アルメニア人虐殺」が西欧社会で伝説化したと考えら れないことはないのである。

次に「ホロコースト」史観の根底にある「加害者対被害者」という図式そのものは特定の文化とは関係のないニュートラルなものである。但し、私たちが考慮す べきことは「死の収容所」で殺されたのはユダヤ人だけでない。周知のように、種々のカテゴリーに属する人々が被害者として同じような運命に遭遇していた点 である。ユダヤ人と同じように、ある特定の民族に属するということだけで「ジプシー」と呼ばれる民族グループが50万人も抹殺されたが、この被害者はユダ ヤ人のように扱われない。

このように色々な点を考慮すると「ホロコースト」史観はすでに触れたように米国在住のユダヤ人にとってだけでなく、世俗化した欧米社会にとっても、以前キ リスト教が果たした役割を演じていると考えたほうが、多くのことが理解しやすいのではないのだろうか。つまりこの史観のなかの被害者はキリスト教的意味で 「受難者」である。「受難者」を見殺しにした自分たちは罪ある存在である。またこのことに気がつかなければいけないし、二度と繰返してはいけない。このよ うなキリスト教的考え方はこの史観の重要な要素である。

開祖者兼受難者ナンバーワンのイエスは、かなり暑い南のほうに住んでいて日焼けしていたと思われる。ところが、ヨーロッパ諸国の宗教画でヨーロッパ人とし て描かれている。これと同じように「ホロコースト」史観が機能するために、「受難者」は自分たちと同じような人々であるというイメージを抱くことできなけ ればいけない。

例えば、ユダヤ人と一口でいっても色々な国に分散している以上、色々なユダヤ人がいる。ところが、欧米人がホロコースト犠牲者として連想するのは自分たち に近い西欧社会同化ユダヤ人である。ヨーロッパ人は「ジプシー」と呼ばれる民族グループに対して自分たちと同じような人々と思っていない。そのために、い ろいろ屁理屈をつけて、彼らをユダヤ人のように扱わない。これも、ジプシーは被害者であるが、「ホロコースト」史観の「受難者」になれないからである。

こう考えていくと、アルメニア人は「受難者」レースでゴールに近い地点まで来ているのかもしれない。でも、彼らが「受難者」に昇格したとして、事件そのものが「ホロコースト」の前座で、ランクの低い聖人の扱いを受けるような気がする。

ただこのことは、ユダヤ人「ワンマンショー」という趣きがある「ホロコースト」史観が複数の聖人・殉教者を配置する方式に変わることを意味する。また第二次世界大戦に限定されていたその対象がひろがる。

「ホロコースト」を西洋文明と対極的なもの、それも異教徒のヒットラーとそのお仲間が仕出かした「アジア的蛮行」と見なすホロコースト観は戦後西ドイツ社 会に存在していた。「小アジア」の住民トルコ人がキリスト教徒のアルメニア人に襲いかかり、虐殺するイメージが公認される。この結果、欧米中心主義的な 「ホロコースト」史観にすでに存在する「アジア的蛮行」観がすっかり定着すると思われる。

「ヒロシマ」といっしょに論じられていた頃の「アウシュビッツ」とはガス室など大量殺人の工業・技術的側面が強調され、核兵器の発明とともに文明の極地と して見なされていた。このことを考えると、この「アジア的蛮行」説には今昔の感を覚える人々が多いのではないのだろうか。

●受難劇コンクール

「アルメニア民族ジェノサイド承認」が決議された後でフランス側はオスマン・トルコが問題にされているのであって、現在のトルコにアルメニア人に対する補償・賠償を求めるのではない点を強調した。

それなら、なぜフランスの政治家が議会でこのような奇妙な決議をするのであろうか。彼らが政治的あるいは法的解決をめざさないなら、どうして自分たちがよ く知りもしない歴史的事件の性格についての判断を歴史研究者に任せないのか。欧米社会にもこのように考える人々は少数ながらいるのである。

フランスの議員連中には補償を求める意図はないかもしれない。彼らの多くが古風な愛国者で、奇妙な慣習が出来あがり自分たちがいつの日か払うはめになるの を怖れる。トルコ人のほうは「ジェノサイド認定決議」をする国が今後どんどん増大していくと、結局補償請求になると心配する。この心配に根拠がないとはい えない。

というのは、この数年来米国という「訴訟社会」で、冒頭に列挙したように次から次へとホロコースト関連の集団訴訟が繰返されているからである。これは「ホ ロコースト史観」をバックに米国独特の法制度、また州レベルでの法改正や、ヨーロッパから見ると本当に不可解な被害者保護の絶対化という傾向と結びついて 可能になった。

ルター以来新教的伝統の強いドイツ人から見て、米国の集団訴訟は免罪符を売りつけるようもので彼らの気質に合わない。彼らが本当に好きなのは日曜日の教会 で深刻な顔をして「アウシュビッツ」の方を向き、自身を含めて人間の罪に思いはせることである。その後、彼らはまわってきた賽銭袋にわずかばかりのお金を 忍び込ませ、教会に来ない国民(例えば日本)に対して優越感を覚える。その程度である。

また、ドイツをはじめヨーロッパ諸国は米国とは法制度も、またその伝統も異なるので「歴史紛争」と関連した訴訟も日本と同じように結果になる。以上のことからわかるように、米国と欧州の間に考え方の上でとてつもなく大きなギャップがある。

米国社会を外から見ていると、これらの集団訴訟はこの国のナショナリズムのかたちと絡み合っているように思われる。「旧世界」で迫害を受けたから理想的な 「新世界」を建設したというメイフラワー号の建国神話が色褪せて、すでに触れたように七〇年代の後半に「ホロコースト」史観がその補強にかりだされた。

この「ホロコースト」史観に則ってユダヤ人以外のニューカマーの少数民族も迫害を受けたというお話を語る。それは、米社会でその存在を主張したり、アイデ ンティティーを確立するためには、ニューカマーが「旧世界」で受難に遭って「新世界」に来て幸せになるという建国神話に似た話を語らなけれいけないかのよ うである。

アルメニア人はトルコ人から、朝鮮人や中国人のアジア系は日本人から酷いめに遭った物語をする。こうして色々な少数民族の受難劇コンクールが始まり、「南 京大虐殺」もアジアの「ホロコースト」になる。こうして米国社会内の通過儀礼、各少数民族の「成人式」のようなものに世界中がつきあわせられる。私にはそ のように思えて仕方がない。

●ディストモ村の人々

国際社会でのこのような「歴史紛争」に、私たちはどのように考え、対処したらよいのだろうか。

問題となっているのは国内の刑事・民事事件でなく、昔戦争で起こった事件である。オスマン・トルコに戻れば、アルメニア人を殺したり、また彼が所有してい た家屋を奪い、そこに住んでいるのは不正であり、正義を実施するために、補償したり、当時の加害者を処罰すべきであるというのは正しいのである。

でも国内法でも時効があることからわかるように、国際関係でそんな昔のことを蒸しかえさないほうがよいとする見解にも傾聴すべき点がある。いわんや国家間 の関係も絡んでいる。国家間の条約で貸借関係が精算されているとか、また経済援助で間接的に責任を果たしたとかいう主張を、日本政府は繰返してきた。この 立場が絶対間違っているとはいえないのである。そう主張する人たちは、自身の判断が「過去志向型ユートピア思想」と関係ないかどうか考えるべきである。

世界中で日本と正反対と見なされるドイツも、事情次第では日本政府と同じことを言い出す。例えば、それは1944年6月10日ギリシアのディストモ村でド イツの親衛隊(SS)が生後二カ月の乳児から86歳の老人を含めて218人の村人を村の広場で虐殺(=「マサカー」)した事件である。この数年来、この村 の遺族がドイツ政府に対して補償するようにギリシア国内で訴えて裁判になっている。昨年ドイツに支払いを命ずる最高裁判決がくだされたが、ドイツ政府は従 わない。その理由は戦後ギリシアに対してドイツが直接的にも、また欧州共同体を通して間接的に経済的援助をしてきたことである。ということは、日本政府と 同じ立場である。

ドイツをはじめ欧米のメディアがディストモ村の話を小さな外電記事以上に取り上げないのも、ドイツ外務省の役人が日本政府と同じようなことをいっても大多 数のドイツ人が気にもかけないのも、このギリシアのディストモ村の人々が彼らの奇妙な「ホロコースト」史観のなかで「受難者」でないからである。

この前の戦争で確かに日本軍は色々恨まれることをした。私たち日本人の意識のなかでは、日本人から残酷な扱いを受けた人々がディストモ村の人々のような存 在になっている。だからドイツが「受難者」でないディストモ村の人々を見たり、扱ったりしているのと同じように、私たち日本人はアジアの被害者・犠牲者に ついて考える。すでに述べたように、キリスト教的要素を色濃く含む「ホロコースト」史観など私たちは無関係なので「受難者」などという特別枠を設けること はできない。このように日本人の態度を解釈することもできる。

どうして欧米の人々はこのように考えることができないのだろうか。私はドイツ人をはじめヨーロッパ文化圏の人々と議論したり、彼ら書いたものを読んだり、また自分が書いたものに対する反応を見たりして、彼らが理解してくれないことに驚くし、時には絶望的になる。

彼らには「ホロコースト」史観的メガネで自分たちが多くのことを見ていることに気がつかない。だからディストモ村の人々に対して日本政府と同じ態度をとっ ていることも彼らの意識にのぼらない。つまり「灯台下暗し」である。こうなるのは非西欧社会に対峙したときに彼らは自分たちの社会が異質であるというイ メージを抱きたいからである。また、この「ホロコースト」史観がどこか世俗化した西欧社会で宗教のかわりになっていることも議論を困難なものにする。

私たちはどうしたらいいのだろうか。これは難しい問題である。多分何をしたらいけないかのほうがはっきりしていると思う。彼らが文化汚染された概念で思考 したり、議論している以上、私たちが文化や歴史に逃げて文化汚染された概念で話しはじめるのは彼らの思う壺になるように思われる。

この事情は欧米とアジアとの間で「人権論争」を考えるとわかりやすい。ヨーロッパが自分たちの専売特許であるかのように人権を主張する。それに対して、文 化的にニュートラルな、より普遍主義的な立場からヨーロッパ人の主張に含まれる文化汚染を指摘するべきである。アジアの人々が反発するのは自分の身の丈に 合わない衣服を強要される気持を抱くからである。それなら「ヨーロッパの服」であるといえばよいので、「アジア的価値」を持ち出すのは、自分たちは別だと 思いたいヨーロッパ人を喜ばすだけである。

今回仏国会による「アルメニア人ジェノサイド認定」後こちらのメディアでトルコ国民がかなり一方的に弾劾され、私の精神衛生に悪い日が何日か続いた。唯一 の救いは、トルコ史を専門とす歴史学者が「ホロコースト」史観的メガネで事件を見ることに協力的でなかった点である。トルコでも古い公文書を歴史研究者が 閲覧できるようになり、色々なことがわかってきたからである。

確かにどんな学問もイデオロギーから自由でない。とはいっても、歴史研究の進展こそ、宣教師等の当時の目撃談に基づいた「アルメニア人大虐殺」のイメージ を相対化し、この事件を本当に理解するのに役立つように思われる。というのは、本当の歴史学は「過去志向のユートピア思想」と関係ないからである。

美濃口さんにメールは mailto:Tan.Minoguchi@munich.netsurf.de
http://www.asahi.com に「欧州どまんなか」を連載中
http://www.asahi.com/column/aic/index.html

   2001年03月19日(月) 萬晩報主宰 伴 武澄
 

 先週の3月12日は中国の革命家、孫文(1866-1925)の命日だった。1年前、寶田時雄さんの「請孫文再来」のホームページつくりをお手伝いし、 めるまがとしてメルマガで連載することをすすめした。連載はすでに終わっているが、いまだにホームページには相当数の来訪者がいる。

 寶田さんは東京都板橋区でレストラン「GREENDOOR」を経営しながら、孫文を中心とした中国革命と明治後期から昭和初期にいたる日中関係史を生き 様に据えている。日本が大陸を侵略したという歴史がある一方で、孫文の中国革命に多くの日本人が参画し、影になり日向になり支えていた歴史がある。免罪符 ではない。寶田さんには「そういう歴史が現実にあったということを伝えておかなければ」という思いがある。

 ●脱亜入欧の厳しさ

 中国革命における津軽の山田良政、純三郎兄弟、熊本の宮崎滔天三兄弟はひと際目立った存在だった。特に宮崎滔天(1871-1922)は「三十三年の 夢」(平凡社)という名著を残し、幕末から日本に芽生えたアジア主義の系譜を詳述している。犬養毅は政治家として、頭山満は精神的支えとして、孫文の歴史 に度々登場し、三井物産もまた資金協力者として見え隠れする。日本がアジアだった時代である。

 明治国家が生まれ、近代を超克する過程で、思想的に二つの潮流があった。一つは「西洋に追いつけ」である。和魂洋才といいながらどんよくに西洋の文物を 取り入れ、一方でアジア的なものを切り捨てるという「脱亜」の流れである。もうひとつの反対の流れは「アジアと共闘して西洋列強と対峙せよ」という主張で ある。

 明治政府の最初の課題は幕末に西洋列強から強要された不平等条約の改正だった。中国のWTO(世界貿易機関)加盟に当たって、先進国にグローバルスタンダードを強要されているここ数年の世界を取り巻く環境とはいささか状況が違う。

 弱肉強食の帝国主義が全盛だったから、列強の仲間入りをはたすまでのハードルは並大抵ではなかった。列強に認められるために必要だったのはまず「強兵」だった。軍事力で列強と並ぶためには「富国」は不可欠だった。

 富国のため数少ない輸出競争力を持っていた生糸産業の振興が図られ、その歪みとして国内的には「女工哀史」を生んだ。日本には大型艦船を建造する能力な どなかったから、日清、日露戦争を闘った艦船はほとんどがイギリスやドイツで建造された。いわんやODAなども一切ない。だから日本は当時の国際金融資本 から借金した。返済が出来なかったら、関税など国家機能の一部が担保として取り立てられる厳しい条件だった。

 財政から科学技術にいたるまで多くのお抱え外国人が日本の近代化に貢献した。貢献したといっても当時の内閣総理大臣をはるかに超える年俸を保証した。多 くの国費留学生もまた先進国に学び、その次の世代のリーダーとして育てられた。ここらの日本をめぐる国際環境の厳しさは教科書的に「脱亜入欧」と一言で片 づけらるようなものではなかった。

 そんな日本が第一次大戦で戦勝国側に立ち、棚からぼた餅的に世界の「一等国」の仲間入りをはたす。そして勝ち組として中国大陸にあったドイツの橋頭堡で ある山東半島の利権を手に入れ、太平洋に拡がる南洋群島を実質支配下に置くこととなった。明治日本を引っ張ってきた「アジアの国としての矜持」が大きく後 退し、日本の慢心がここから始まる。

 ●届かなかった孫文の悲痛な叫び

 そのころ中国は辛亥革命で清朝を崩壊させたものの、統一を失った広大な大陸は各地の軍閥による分割統治が進み、それこそ欧米による草刈り場となった。日本はというとヨーロッパ諸国が欧州大陸で総力戦を戦っている最中に満州を中心に大陸での覇権を強化していった。

 孫文は1911年に辛亥革命に成功し、中華民国の臨時大総統に就任したものの、大総統の地位は翌年ただちに袁世凱に奪われた。孫文は広東を中心とした一 地方政権を担っていたにすぎなかったことを思い知らされ、共産主義政権が生まれたばかりのソ連に接近する一方で、日本との提携の可能性も模索し続けた。

 今でいう当時の中国大陸の沿岸部は実質的に英仏に支配されていたこともあって、日本に頼ろうとする姿勢になんら不自然さは感じられない。少なくとも日露 戦争に勝った直後の日本という国は植民地支配にあったアジア諸国にとってまばゆいほどの存在に映っていたことは間違いないからだ。

 だが世界の「一等国」に上り詰めた当の日本には、明治維新で不平等条約に悲憤慷慨した政治家もアジアとともに苦悩を共有しようとするステーツマンももはやいなかった。孫文の地方政権は欧米はもとより日本にも大陸を代表する勢力として認知されることは一度もなかった。

 孫文は亡くなる前年の1924年、神戸で有名な「大アジア主義」と題して講演し、日本にアジアの心を取り戻すよう呼びかけた。日本の聴衆に「ヨーロッパ のように覇道を求めるのかアジアの王道を歩むにか」と問い詰めた。すでに日本という国家は大陸支配に向けてさらに一歩踏み出していたから、孫文の悲痛な叫 びが日本の政治の中枢に届くはずもなかった。

 当時の孫文は満州における日本の利権に一定の理解を示していたのだが、日本という国家はそれに満足しなかった。イギリスの植民地支配の狡猾(こうかつ) さは間接統治の巧妙さにみられる。逆に日本の植民地支配はなんでも直接手を下さないと気に入らないという稚拙さがあった。

 歴史に「もし」はないが、当時の日本政府が、苦境にありながら中国民族のこころをつかんでいた孫文に肩入れしていたならば、その後の世界の歴史はどれほ ど変わっていたかと思うと残念でならない。日本政府が辛亥革命後に大総統に就任した袁世凱を交渉のパートナーとしたのは仕方がないことかもしれないが、群 雄割拠後も北京の北洋軍閥に肩入れし、孫文は終生、日本政府から交渉相手とされることはなかった。

 ●革命前夜の日中関係史

 津軽の山田良政は孫文の第一回目の蜂起となった1900年の「恵州起義」に参加して命を落とした。孫文の革命の黎明期に命をかけた日本人がいたというこ とは歴史の救いである。山田良政の遺志は弟の山田純三郎に引き継がれ、さらにいとこの佐藤慎一郎に引き継がれた。中国の革命世代はこれらの日本人の名前を よもや忘れはしまい。だがそうした革命世代ももはやこの世を去った。

 戦前に日本が大陸を侵略した歴史を否定しようというのではない。1980年代以降のアジアの経済発展はめざましいものがある。今世紀アジアの中で先頭を 走り続けてきた日本を追い越す勢いさえある。そんな中で中国革命に共感し身を捧げた日本人がいたことを語り継ぎたいと思う。

 興味ある方はぜひ「請孫文再来」http://www.thinkjapan.gr.jp/~sunwen/を訪れてほしい。


 孫文が1924年行った「大アジア主義」と題する講演

1924年11月孫文が神戸で頭山満と会談した翌日、現兵庫県庁隣の旧神戸第一高等女学校講堂で講演。中国語で行われ日本語に通訳された(「孫文講演・大アジア主義資料集」法律文化社刊より)。
 (1)文化の發祥地(12月3日)

諸君、本日諸君の最も熱誠なる歡迎に應じて自分は誠に感謝に堪へぬのであります、今日皆さんに申し上げるところの問題は、即ち大亞細亞主義であります。

惟ふに我亞細亞といふものは即ち世界文明の發祥地である。世界最初の文化は即ち亞細亞から發生したものであります(拍手)。今日欧羅巴の一番古い文化の國 である所の希臘の文化にしても、又羅馬の文化にしましても、夫等の文化は總て亞細亞の文化から傳へられたのであります。我亞細亞の文化といふものは一番古 い時から數千年前から、政治の文化にしましても、道徳的文化にしても、また宗教的文化、工業的文化、總て世界のあらゆる文化といふものは、悉く亞細亞の文 化から系統を引いて居るのであります。

近來に至りまして・・・最近の數百年になりまして亞細亞の各民族が段々衰頽しまして、そして欧羅巴の各民族が段々強盛になりました。その結果、彼らは支那 に向かって、――彼らの力を持って亞細亞に壓迫を加へました。さうして亞細亞における各民族的國家といふものは段々彼等に壓迫され、亡ぼされ、殆ど今から 三四十年前までは亞細亞において一つの獨立したる國家といふものはなくなったのであります。大勢茲に至って、即ち機運が非常に衰頽し、亞細亞の運命が衰頽 の極にあって、そしてこの機運がこの三十年前に至って愈々復興の機運になったのであります。

この三十年前において亞細亞の復興機運が發生したといふはどういふことから認められるかといふと、即ち三十年前において日本國が各國との間に存在した所の 不平等條約、平等ならざる條約の改正を得たといふ時から、亞細亞民族といふものが始めて地位を得たのであります(拍手)。この日本の條約改正によりまし て、日本が獨立したる民族的國家となりましたけれども、其外の亞細亞におけるかく民族國家といふものは、總て獨立したる國家ではなく、總て歐米各國の植民 地の境遇にあ居るのであります。

我中國であっても、また印度、波斯、亞刺比亞、その他のあらゆる亞細亞の民族で國家といふは總てまだ植民地といふ境遇に居るのであります。さう考へると日 本といふ獨立したる民族的國家の建設せられた所以は、即ちお國の國民が努力して、この不平等なる條約の撤廢、廢止それから得たのでありまして、その後段々 亞細亞の各民族的國家に亘りまして、亞細亞の獨立運動といふものが、だんだんその機運が熟してきたのであります(拍手)。

三十年前におきまして亞細亞の人間は、歐羅巴の學術の發達を見、また歐米各國の殖産興業の發達を見、彼等の文化の隆盛を見、又武力の強盛を見ても、迚も我 亞細亞各民族が歐州人種と同じやうな發達を致すといふことが出來ないといふ觀念を持ったのです。これが即ち三十年前における亞細亞民族の考へである、處で 日本の條約改正によって亞細亞の民族は始めて歐羅巴の壓迫から遁れることが出来るといふ信念を持ったのであります。けれども尚を全亞細亞民族に傳へるだけ の力を持たず、それから十年たつて日露戰争が始まり、日本が歐羅巴におけるもつとも強盛なる國と、戰つて勝ったといふ事實によって、亞細亞の民族が歐羅巴 の最も強盛なる国よりも強い、又亞細亞民族が歐羅巴よりも發達し得るといふ信念を全亞細亞民族に傳へたのであります(拍手)。

自分の見分する所知る所を之から諸君に申し上げます。日露戰争當時自分は仏蘭西の巴里に居りました。丁度その時日本の艦隊が日本海において露西亜の艦隊を 撃破したといふ報が巴里に傳はつた。それから數日後に自分は巴里を去って蘇士の運河を經て歸國の途に就いたのであります。さうして蘇士の運河を通過する 時、亜剌比亜の土人――蘇士の運河の土民が大分船に入つて來て、自分の顔が黄色民族であるのを見て、自分に『あなたは日本人であるか』とききましたが、さ うぢやない自分は支那の人である。

日本の人でないといふことを答へて、さうしてどういふ事情であるかと聴いたら、その人達が『我々は今非常に悦ばしいことを知った。この二三ヶ月の中に、ご く最近の中に東の方から負傷した露西亜の軍隊が船に乘つて、この蘇士の運河を通過して歐羅巴に運送されるといふことを聞いた。是は即ち亞細亞の東方にある 國が歐羅巴の國家と戦つて勝つたといふことの證明である。我々は、この亞細亞の西における我々は、亞細亞の東方の國家が歐羅巴の國家に勝ったといふ事實を 知って、我々は恰も自分の國が戰爭に勝つたといふことと同じやうに悦ばしく思つて居る』といふのでありました(拍手)。

彼等はアジアの西の民族である。亞細亞の西における亞細亞民族は一番歐羅巴に接近して居つて、一番歐羅巴の國家の壓迫を受けつつある。故に彼等は、この亞 細亞の國家が歐羅巴の國家に勝ったという事實を知りまして、亞細亞の東の民族よりも、國民よりも非常に悦んだのである。その時から始めて埃及の民族が獨 立、埃及国の獨立運動というものが始まつた。それから亞刺比亞民族も、波斯の民族も、土耳其も、又亞富汗尼斯担も、印度においても、印度の民族においても 總てその時から初めて獨立運動といふのが盛んになつたのであります(拍手)。

 (2)王道の文化(12月4日)

日本が露西亜と戰って勝つたといふ事實は、即ち全亞細亞民族の獨立運動の始まりである(拍手)。それ以來二十年間におきまして、この希望、運動が益々盛ん になりまして、今日にあつては埃及の獨立運動も成功し、又土耳其の獨立も完全に出來上り、波斯の獨立も、又亞富汗尼斯担の獨立も成功し、さうして印度の獨 立運動も益々盛んになる次第であります。これらの獨立運動、獨立思想といふのが亞細亞の各民族に起りまして、さうして西方の亞細亞民族は總て此獨立運動の 為に結合し、非常に大なる團結運動に着手しつゝある、けれども唯亞細亞の東におきまして、日本と我國とのこの二國の結合、連繋といふのが未だ出來てゐない のであります。斯ういふ運動、總てこの亞細亞の民族が歐州民族に對抗して亞細亞民族の復興を圖るのであるといふことは、歐米の民族が非常に明白に觀ており ます。

この亞細亞民族が眼を醒ましたといふことを、歐米人がどう觀て居るかといふと、この最近米國の學者が一の書物を作りました。その書物にどういうことを論じ ているかといふと、彼等は亞細亞民族の覺醒といふのは即ち亞細亞民族が世界の文化に對する謀叛であるといふのです。この米國の學者ストータといふ人が作つ たこの書物の名は即ち「文化の謀叛」といふ名であります。

即ち彼等が亞細亞民族の覺醒したといふ事實を觀て、是は世界の文化の一の危険であると論じてあるのであります。この書物は、出版されてから僅かの日數を以 て數十版を重ね、さらに各国語に翻譯され、歐羅巴の人も、亜米利加の人もこの本に論じてあることを殆どバイブルに書いてあることのやうに非常に尊重して居 る次第であります(拍手)。

この書物に論ぜられた亞細亞の覺醒といふ事も矢張り日露戰争が始まりであると論じゐる。さうしてこの亞細亞民族の覺醒といふのを世界に對する威嚇であり世 界の文化に對する不穩であると彼等は觀て居る、即ち彼等は、歐米民族だけ世界の文化に浴せらるゝこの權利がある、亞細亞民族といふものは決して世界の文化 に浴せられる権利を持ってゐないと彼等は觀て居り、信じて居るのであります(拍手)。

歐州民族の考へでは、彼等は世界文化といふのは單に彼等が持って居る文化――彼等の文化といふのが即ち一番高尚な文化であると思つて居る。成程此數百年來 歐羅巴の文化は非常に發達しました。彼等の文化は我東洋の文化より進んでゐた。東洋の文化はこの四百年において確に歐州文化に及ばないけれども、彼等の文 化といふのは何であるかといふと、即ち唯物質的文化であり、又武備武力によつて現れる所の文化である(拍手)。

即ち亞細亞の昔の言葉を以て評すると、歐州の文化といふのは覇道を中心とする文化でありまして、我亞細亞文化といふのは王道であります。王道を中心とする 文化であります。彼等は單に彼等の國を以て我亞細亞を壓迫し、亞細亞民族を酷使する道具である、故に近來歐州の學者で東洋の文化といふのは道徳的で、道徳 的文化に至つては、彼等よりも歐州の文化よりも進んで居るといふことを段々認めて來たのであります。

一番著しい事實といふのは、即ち近來歐州の文化といふものが発達して以來、世界的道徳、国家的道徳といふものが非常に衰頽して來ました。さうして昔この亞 細亞の文化が非常に発達した時代では國家的道徳が非常に進んでゐたのであります。今から二千年前から五百年前までの間といふのは即ち我國の一番強盛な時代 である。世界において二千年前から五百年前までの間の支那といふのは世界における最も強盛なる國であり、第一の國である。今日の英國、また米國を以て比べ ても尚我國のその時代における世界的地位に及ばないのである(拍手)。

その時に亞細亞の南、又亞細亞の東、又亞細亞の西、亞富汗尼斯担邊りまであらゆる邦國、又あらゆる大陸的國家、民族が總て我國に来朝した。我國を祖國と思 ひ、喜んで我國の屬國となつてゐましたけれども、これらの屬國に對して何をしました。また之等の屬國、領土を得ましたのは、果たして海軍の力を用ひて征服 したのであるか、或は陸軍の力を用ひて征服したのであるか、決してさうではない。單に我國の文化に浴せられまして悦んで心服して我國に来朝しただけであり ます。

この事實は今日になりましても尚はつきり證明し得る證據があるのであります、亞細亞の西蔵の西に二つの小さい國がある、極く小さい國である。一は即ちブー タンであり、即ち一はネパールでありまして、この二つの小さい國の一つのネパールは小さな國ではあるけれどもその民族といふのは非常に強い民族である。今 日英國の印度に於いて用ひて居る軍隊の一番最も強いコーカストといふ軍隊は即ちネパールの民族を用ひたのであります。英國はネパールといふ國に對して非常 に尊敬し、出來るだけネパールに尊敬を拂いました。さうしてあらゆる工夫をして漸くネパールへ一人の政治を研究する人を寄越すことが出來た。

この英國があらゆる禮譲を盡くし、さうしてあらゆる方法を以てネパールに厚意を表した所には即ちネパール民族が非常に強い民族であり、英國がこのネパール 民族を、コーカスト民族を利用して、それを用ひて、これを軍隊にして、この印度の鎭壓に使ふといふ目的を持つて居るからである。英國が印度を滅亡したのに は既に非常に長い時間がたつて居るけれども、このネパールといふ國は英國に對して今日尚獨立の態度を以て英國に對し、決して英國を自分の上國、祖國である と思つてゐない、さういうことを感じてゐない。

我國は非常に弱くなつてから既に數百年たつて居る。けれどもこのネパールといふ國は今日になっても、この最も国力の弱い我國に對しては従来の通り我國を上 國と思ひ、又我國を彼等の祖國であると觀て居るのであります。さうして民國元年までこのネパールの國は依然として祖國の禮を以て我國に來朝した事實があつ たのであります(拍手)。

その事實を見れば是は實に最も奇怪なる事實であると見るのであります、この一の事實を見れば即ち歐州文化と東洋文化の比較といふのがこの事實によつて非常 に明白となり得るのである。我國は衰頽して以來既に五百年たつた。この五百年も衰頽した我國を尚ネパールは祖國と思ひ、上國と認めてゐる。一方英國は今日 世界中に於ける最も強盛な國であるけれども、ネパールといふ國は如何に英國が強くてもまだ彼は自分の祖國であるといふことを認めていない。この一つの事實 は即ち東洋の民族は、この東洋の文化、この東洋の王道により文化に信頼を持つて居るが、歐州の覇道を中心とする文化に對しては決して信頼して居らぬのであ る(拍手)。

 ●(3)日本と土耳其

大亞細亞問題といふのは何ういふ問題であるかといふと、即ち東洋文化と西洋文化との比較問題である。即ち東洋文化と西洋文化との衝突する問題である。この 東洋の文化は道義仁義を中心とする文化でありまして、西洋の文化といふのは即ち武力、鐵砲を中心とする文化である。それでこの道義仁義を中心とする文化の 感化力といふものはどれだけあるかといふことは、即ち五百年間衰頽して來た所の我國に對して尚ネパールといふ國が今日になつても我國を祖國であると認める といふ一の事實が即ち仁義道徳の感化力のどれだけ深いといふ事を説明するのであります(拍手)。

さうして西洋文化、、武力による文化の力がないといふ事は即ち今日英國の武力をもつてしても、尚英國の勢力である所の埃及と、又は亞刺比亞、又波斯の至る 處においてこの獨立運動、革命運動といふのが起り、若し五年間英國の勢力が衰頽したならば、即ち總ての英國の屬地といふものが悉く獨立運動を起して英國に 反對するのであります。夫は即ち東洋文化と西洋文化との文化の何方の文化が良いかといふ事を證明するのである(拍手)。

それでこの大亞細亞主義といふのは何を中心としなくちやならぬかといふと、即ち我東洋文明の仁義道徳を基礎としなくてはならぬのである(拍手)。

勿論今日は我々も西洋文化を吸収しなくてはならぬ。西洋の文化を學ばなくてはならぬ、西洋の武力的文化を採り入れなければならないけれども、我々が西洋文 化に學ぶといふは決して之を以て人に壓迫を加えるのではなく我々は單に正當防衛のために使ふのである。歐州の武力による文化に學んで非常に進んだのは即ち 日本でありまして、今日日本の海軍力も陸軍力も自國の人により自國の技術により、製造力により海軍をも用ゐ、又陸軍をも完全に運用し得たのである。

さうして、又西の方におきましてモウ一ッ土耳其といふ國があります、これは歐州戰争の時には獨逸に加擔して、さうして負けましてから殆ど歐州各國に分割さ れる境遇になつたのであるが、彼等國民の努力奮鬪によりまして、之を打破して全く完全なる獨立を今日得たのである、即ちこの亞細亞の東において日本あり、 又西においては土耳其あり、この二つの國は即ち亞細亞の一の防備であり、亞細亞の最も信頼すべき番兵である。

又亞細亞の中部においては阿富汗尼斯担といふ國があり、又ネパールといふ國がある、この二つの國は矢張り強い武力を持つて居る國である、これらの國民は今 日の戰鬪的能力といふのは非常に強いのである、将来波斯にしましても、又暹羅にしましても、總て皆武力を養成し得る民族である、又中國では今日段々國民が 覺醒されまして、この四億の民衆を以てして将来歐羅巴の壓迫に對して矢張り非常に大なる反抗力を持つのである。

 ●(4)我等の覺醒(12月6日)

さうしてこの亞細亞におきましては、我國に四億の人間が居り、また印度は三億萬の人民を有し、亞細亞の西においても亦一億萬の人民がある。南洋一帶におい て數千萬の人間がある。日本においても數千萬の人が居る。さうしてこの世界の四分の一の人種を抱擁して居る亞細亞は全部仁義道徳を以て聯合提携して、この 歐州の亞細亞に對する壓迫に對抗するだけの武力、力といふのが必ず出來るのである。即ち我々は宜しく我々東洋の文化、この仁義道徳を中心とする文化を本と し、我亞細亞民族團結の基礎にし、またこの歐州に對して我々が學んで來た所の武力による文化を以て歐羅巴の壓迫に對抗するに使ふものである。

歐米の人民は僅四分の一も四億の民衆でありまして、我亞細亞民族は十二億萬あるのである。今日の事情は、即ち歐米各國は四億の人間を以て、我十二億萬の人民に對して壓迫をするのである。これは即ち正義人道に違反する行為である(拍手)

今日歐羅巴におきましても、また亜米利加におきましても、總て彼等は非常に專横極まる力を揮って居るけれども、彼等の國においては、米國におきましても、 英國におきましても、あらゆる歐米の國の中には依然として小數の人が、この仁義道徳を重んじなくてはならぬということを知つて居る人があるのである。さう してみるといふと即ち段々彼等の中にも東洋の文明、即ち仁義道徳を中心とする文明を信ずるやうに段々なり得るのである。

それで大亞細亞問題といふのはどういふ問題であるかといふと、即ち此壓迫される多數の亞細亞民族が全力を盡して、この横暴なる壓迫に――我々を壓迫する諸 種の民族に抵抗しなければならぬといふ問題である。今日のこの西洋文明の下にある國々といふのは、單に小數の民族の力を以て、多數の亞細亞民族を壓迫する のみならず彼等の國家の力を以てして、彼等の自分の國内の人民に對しても依然として壓迫をするのである。故にこの亞細亞の我々の稱する大亞細亞問題といふ のは即ち文化の問題でありまして、この仁義道徳の中心とする亞細亞文明の復興を圖りまして、この文明の力を以て彼等のこの覇道を中心とする文化に抵抗する のである

この大亞細亞問題といふのは我々のこの東洋文化の力を以て西洋の文化に抵抗するといふ、西洋文化に感化力を及ぼす問題である、米國のある學者の如き我々の 亞細亞民族の覺醒といふのは、西洋文化に對する謀叛であるといふ、我々は確かに謀叛である、併しこの謀叛といふのは、單に覇道を中心とする文化に對する謀 叛でありまして、我々は仁義道徳を中心とする文明に對して、我々のこの覺醒は即ち文化を扶植する、文化を復興する運動である。(拍手喝采)

(注)希臘=ギリシャ、羅馬=ローマ、波斯=ペルシャ、亞刺比亞=アラビア


拙稿「請孫文再来」ついて (宝田 時雄)

賢読6000に届こうとしている拙稿は、当初、備忘録のつもりで陰蔵していたものですが、「萬晩報」の伴主幹とTHINKJAPAN主宰の大塚寿昭氏のス タッフによって作成され見事に化粧を施されましたが、他人の目に供するほどの文体でもなく当初は゛恥ずかしい゛心地がしたものです。

そういえば手前味噌な例えで恐縮ですが、映画の場面でショーンコネリー扮する小説家が、「自分の為に書いた文章は,人に見てもらおうと書いたものより勝る」と、小説家志望の少年に説いています。

いつぞや夜半、再々読したという青年が来訪し「この文章は句点が多くていつまでたっても終わらない。どうしてですか?」と、正式な文学に触れていない小生を困らせたが、

「官制学歴も乏しく,学校では作文の時間に原稿用紙とにらめっこをしていたものだが、何時頃からか書き始めるとこんな風になっている。つねに明治の先輩に 接していたからその感化かと思うが、しかし分かっている事は゛語り言葉゛ということだ。゛話し言葉゛ではなく゛語り゛という吾が言うことだ。いちど自らの 言葉で「音読」してみたらいかがでずか」と応答した。

それは、泪を落としたり,肩をいからしたり、あるいは遠大な理想に空を見上げたりすることの繰り返しが、まさに師との語りだった。

すると青年は「請孫文再来」を日本語でなく流暢な北京語で私に聞かせてくれた。「私は正式な北京語でこの表題を発音するべきだ」と、熱烈に語り掛けてくれた。

あるときは名の有る会社の気骨のある会長が来訪し「全部読ませてもらいました」と、感想に添えて見識あるアジア観を披露してくれた。

いまだかって無学者の゛難しい゛面倒な文体で、しかも見るものにとって過去の遺物にも考えられる表題は、たとえ遠大な意図や推考が添えられていても、たんなる手前勝手な思い出話としての備忘に過ぎず、不特定多数の見解に晒すことの恥ずかしさはなかった。

後の挿入である『はじめに』と『あとがき』はそのような意味での言い訳のようにも見えるのもそのためです。

また孫文の命日を発信日とした伴さんのご苦労と同時に、即日,上海のサイトから連載依頼があり一挙にその効果の多面性を認識したものです。

しかし、まだまだ書き足りないものもあれば、時を忖度して秘すべきものもある。師から請けた膨大な資料と体験備忘録は小生の非力と相俟って、あるいは熱狂と偏見の鎮まりが許されないアジアの現状を観つつ何れ入稿の時を待っているようだ。

それは筍子の言葉の寸借だが、国家衰亡過程に現れる「行いは雑」「声楽は淫」といつた現象の中ではなかなか難しい事だということです。

『行いは雑』とは一時流行言葉になった゛ながら族゛のようにテレビを見ながら勉強するといつた鎮まりのない考察や、『声楽は淫』といって音楽も言葉の発声も抑揚のない雑音のようになったり、錯覚した欲望を喚起させ男女の区別さえつかなくなるような状態である。

あるいは「五寒」に表されている亡国の徴は、ときには架空現実や作為的な映像視覚にその拠をおき、言葉や文書というものを軽薇なものと捉える民情を的確に表している。

『敬重』(敬う対象がなく、その価値さえ枯渇してしまう
) 父母,子弟に敬もなく,感動感激の意味が単に驚き恐れとして錯誤するため わかり易い地位,名誉,学歴,財力、という何ら人格を代表しない附属性価値によって人物を観察するため統治バランスが崩れ調和が無くなる状態。

『内外』(国内や家庭が治まらないため視点や力が外部に向かってゆく)
価値観が錯交し国内でも家庭内でも調和が取れなくなると外来価値に委ねたり,外部の争い(侵略,紛争)を創作したりしながら外の世界に潤いの糧を求めたりするようになる。他国の高官との写真や褒賞、儀礼学位を国内向けに宣伝したりするのがその例である。

 『政外』(政治のピントが外れる)
国の民情と地政学的にみる地域の特徴との関係に作為的乖離を生じさせるような一過性の合理や論拠によって支配されてしまうような状態で、自らを範とする 「教」と,世を経(治め)民を済(救う)う経済の「養」のバランスが崩れることによって欲望の赴く奢の「養」が優先され、「教」までもがその手段となって しまう。学歴,地位,財力とが一体の志向となり相(教,養一体となった先見ある宰相)の存在さえも枯渇してしまう。

『謀弛』(謀が弛(ゆる)む。秘すべき鎮まりが騒じょうとした世情になる) 「はかりごとがゆるむ」情報化社会なのか処理能力の枯渇なのかは峻別すべきところだが、人の動向に興味を持ち垣間見ることで安堵する軽薄な民情もさることながら、緊張感が欠けた漏洩政治もその類である。

『女レイ(ガンダレに萬)』(女が烈しくなる)
母のつよさとは異なり女性の劣性が際立つことである。男のひ弱さもその因ではあるが、男女の別といった弁えが無くなり、その不調和は国家の基盤さえ揺るがすといっている。

「五寒」はこのような社会の゛際立ち゛に警鐘を与えてくれるが、はたして「どうするか」ということについては百家争鳴になり結論が出ないことも示唆している。 はたして世界を駆け巡る情報や、たかだか人間の考える一過性の論拠や、はたまた科学的根拠といった臭九老の戯言に委ねることは、せいぜい歴史の一片にしかなりえまい。

せめて、高麗の種のように、歴史への感謝の稲穂となって広幡したいものだ。 小生は「請孫文再来」を自身の秤として回顧しつつ、長(おさ)のあるべき存在を確認し、古今の栄枯盛衰にその思考の糧を求めなければ、恥ずべき拙稿に登場願った先人に応えるすべはないと考える。

賢読された方々とすがすがしくも爽やかな歴史を刻むためにも。

2001年04月19日(木)ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口 坦

●「覚えているほうがよい」対「忘れるほうがよい」

それでは、フランスの国会の「ジェノサイド認定」決議をはじめ、なぜ国際社会で現在昔のことが蒸しかえされて、歴史的紛争、論争になるのだろうか。選挙区 にアルメニア人の子孫がたくさん住んでいるとか、トルコのEU加盟の願望に水をさしたい。このような事情が原因であるのは、前回紹介した毎日新聞の記事を はじめ多くの人々が指摘する通りである。

でも、昔も政治的目的を遂げるために色々な手段がとられたが、今のように「歴史紛争」「歴史論争」というかたちにならなかった。ということは、政治目的に利用されることを指摘するだけでは、昔のことが蒸しかえされるようになったことを説明できないことになる。

多くの人々、特にドイツ人ジャーナリストは、トルコ国民がこの「ジェノサイド」を認め、そのこと記憶に留めることによってのみアルメニア人との和解が可能 になると主張する。これは、忘れないで思い出すこと、そのために昔のことを蒸し返し、決着をつけることが真の解決、和解に通じるという考え方でもある。も しかしたら、この考え方と「歴史紛争」の興隆と関係があるのではないのだろうか。

昔はどこでもこんな考え方をしなかった。というのは、忘れないで覚えているとは、復讐の意志表示であったし、だから恨んだりしないで、過ぎ去ったことは忘 れたほうがよい。こうしたほうが和解できると考えたからである。ドイツ語に「何かの上に草を生やさせる」という熟語があるが、これは時間の経過に解決をま かせる考え方で、昔は忘れることの効用に今ほど否定的でなかったのである。

恐らくどこの文化でも、覚えているほうがよい場合、忘れるほうが良い場合、またいつもは忘れているが、決まった間隔で思い出すほうがよい場合とが区別され ていると思われる。紛争に関して不満足なかたちであっても一応解決、一見落着した場合は、「忘れたほうがよい」と思われことが多かったのではないのだろう か。というのは、ある紛争が恨みを残すことなく完全に公平に解決することなどできないという認識が一般に認められていたからである。

とすると、かって一般に承認されていたこの認識、自明であったことがそうでなくなった。つまり現在から過去に遡って紛争を完全に公平に解決することができると、多くの人々が考えるようになり、その結果「覚えている」ほうがよいことになったのではないのか。

このことを次のように考えられないだろうか。かってマルクス主義を筆頭に、未来にユートピアを築く政治思想が多くの人々に魅力的であった。ところが、これ らの未来志向ユートピア・イデオロギーの権威が失墜し、信頼を失った。未来に対して「理想郷」を追求することができなくなった。そのため、私たちが過去に 遡って、今から(新たな恨みを生まない)完全に公平な解決を実現しようとする。時間軸上の矢印の向きが変わった。

1970年代の後半から80年代にかけて、社会主義という未来志向ユートピア思想がその魅力を失う。その頃、「忘れるほうがよい」とする思考から「覚えているほうがよい」考え方に転換するような精神風土がゆっくりと準備されたのではないのか。

●「ヒロシマ」をふりきった「アウシュビッツ」

今述べた思考パターン、少々おおげさにいえばパラダイムの転換について、別の視点に立って考えてみることができる。

地球上はじめて原爆が投下された「ヒロシマ」と、ナチのユダヤ人虐殺を象徴的に表わす「アウシュビッツ」の両方を、欧米の知識人は戦後長い間現代文明の極 限として考えていた。つまり彼らの頭のなかで、この二つの事件は一列に並んでいた。ところが、マラソンレースでいえば、ある時から「ヒロシマ」が脱落し、 「アウシュビッツ」が独走態勢に入る。それはいつ頃だったのであろうか。このあたりの事情がこの問題を考えるヒントになると思う。

というのは、「ヒロシマ」の脱落も、国際社会での「歴史紛争」のはじまりと無関係でない。厳しい冷戦で抑えられていた「加害者=枢軸国」という第二次世界大戦についての刑法的歴史観が復活したために、このような議論が始ったと見なすことができるからである。

「ヒロシマ」のほうは「アウシュビッツ」と異なり「被害者対加害者」の刑法的図式におさまらない。「加害者」に対して「警察官」の米国がやってしまったこ とだからである。「アウシュビッツ」、すなわち「ホロコースト」と呼ばれるナチのユダヤ人虐殺を強調することは、「被害者対加害者」という図式のみに基づ く歴史観を普及させることになる。

ドイツの週刊新聞「ツァイト」で、ある知識人が原爆投下の「ヒロシマ」と、「アウシュビッツ」、すなわちユダヤ人虐殺の「ホロコースト」を昔同列に置いて 論じた哲学者・文化人を片っ端から弾劾する評論を書いたことがある。同列に論じることで、彼らが「被害者対加害者」の区別をおろそかにしたというのがその 弾劾理由であった。

私は昔から「ノーモア・ヒロシマ」の核廃絶運動について行けなかったが、でも広島と長崎の原爆投下がこのように扱われることに読みながら複雑な気持になっ た。これは冷戦終了後数年たった頃である。でも、この論調につながる「被害者対加害者」の図式で切ってしまう第二次世界大戦観は、後で述べるようにドイツ では八〇年代に定着している。でもヨーロッパで、これほどまでも「ヒロシマ」が「ご用済み」にならなかったのは1987年の米ソ中距離核戦力(INF)全 廃条約調印までは核戦争の恐怖があったからである。

冒頭に触れたIBM訴訟との関連で米人歴史学者ポール・ヒルベルクが新聞インタビューで、米社会で済んだ話の第二次世界大戦を「よい戦争だった」とする意識は七〇年代の後半から目立つようになったと述べている。

この変化は、多くの人々が指摘するように、ベトナム戦争敗北後の米国社会の精神状態と無関係でない。状況が悪くなると誰もが良かった昔を思い出したいもの だし、米国人の眼から見て「良い戦争」、「正しい戦争」で輝かしい勝利をおさめたとなると「第二次世界大戦」を持ち出してくるしかないからである。

●「ホロコースト」史観

少し前ペーター・ノーヴィックという米国の歴史家によって指摘されたが、戦後かなり長い間でナチのユダヤ人虐殺「ホロコースト」について語ることは犠牲者 の内輪に限定されていた。米国のユダヤ人社会全体でこの忌まわしい出来事はどちらかというと忘れるべき事件とされていた。またユダヤ民族は自前の国をもつ べきとするシオニストと、このイデオロギーに反して米国で暮らすユダヤ人は水と油のような関係にあった。

1967年に第三次中東戦争が勃発してこの状態がすっかり変化する。アラブ諸国に包囲され存亡の危機にさらされているように見えていたイスラエルが華々し い勝利をおさめる。その途端、奇妙なことに、米国在住ユダヤ人は親イスラエルに転じ、また民族絶滅の恐怖が蘇り、「ホロコースト」が彼らの意識のなかに どっかりと腰をおろし、それ以来出て行こうとしない。

次に、米社会内のユダヤ人も時代の流れに抗せずユダヤ教を離れたり、他民族と結婚したりする人々がどんどん出る。本来のアイデンティティーを失いつつある 彼らを束にまとめてくれるものは「ホロコースト」だけになってしまう。「私たちは旧約聖書をヒットラーの『我が闘争』にとりかえてしまった」とある独在住 ユダヤ人作家が嘆くのも、彼らが陥った倒錯したこの状況を物語る。

この「ホロコースト」志向が、七〇年代の後半にユダヤ人社会の垣根を超えて「輝かしい第二次世界大戦」の記憶を求める米社会のメインストリームに流れ込 む。というのは、第二次世界大戦下に起こったこのジェノサイドほど、敵国の不正義を示し、結果として米国のした戦争の正義を証明してくれる事件はないから である。

こうして種々雑多な無数の事件が起こった第二次世界大戦をホロコーストに収斂させる「ホロコースト」史観が成立する。ホロコーストの現場である「絶滅収容所」は米軍でなく、ソ連軍に解放されたのであるが、こんな些細な事実は重要でなくなる。

この「ホロコースト」史観が米国社会、しいては欧米社会で普及するにあたり、ユダヤ人が伝統的にメディア世界で重要な地位を占めていたこと、特に涙腺をしぼりつくすハリウッド映画が役立ったことはいうまでもない。

この数年来、米国はホロコースト・ブームというべき状態で、ワシントンを筆頭に大きな町にはホロコースト記念館があり、また多くの大学に「ホロコースト」 講座ができ、研究者のポストだけでも千以上あるそうである。この事態は、米国自身は加害者でも被害者でもないし、遠くのヨーロッパで起こった事件であるこ とを考えると、異常である。

国際社会の「歴史紛争」の展開に重要な役割を演じるのは「ホロコースト」をおこした張本人のドイツである。第二次世界大戦に関して、昔からこの国の人々は 意識の上で自分たちがした戦争と「ナチがやった収容所での出来事」を切り離して考える傾向が強かった。戦争を直接体験した世代は自分たちが手を下したので はない限り、昔から「ホロコースト」のほうは弾劾するが、反対に「戦争」に対してはアンビバレントな気持を抱いていた。

80年代に入るとこの世代の人々は社会のなかで少数派に転落する。それ以来「戦争の記憶」が希薄になり、第二次世界大戦が「ユダヤ民族虐殺+アルファ」に どんどん縮んでいく傾向にある。この「アルファ」とは、歴史的事実として教科書に記載されているかもしれないが、人々の意識の上で重要でない事件である。

1985年の有名なヴァイツゼッカー演説以来1945年5月8日の敗戦日は「ドイツ国民解放日」として定着してしまった。こうして負けたドイツ人はいなくなると、戦争がなかったことになるのではないのか。これも彼らの意識の上で第二次世界大戦が収縮していく事情を物語る。

こうして、ドイツ社会も米国とは別の事情から「ホロコースト」史観になってしまったのである。戦争の歴史が「ユダヤ民族虐殺」に収縮してしまうと、敗戦国 と戦勝国の区別がなくなる。だから米国で進行中の集団訴訟で戦勝国や中立国の企業までもが補償金の支払いを求められている。

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2001年04月18日(水)ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口 坦

若い頃文芸評論家の小林秀雄を読んだが、よくわからなかった。それでも「歴史とは、人類の巨大な恨みに他ならぬ」というのは今でも憶えている。この数年来、ドイツで暮らしているとこの言葉を思い出すことが多い。例えば次のような話を読んだときである。

●「アルメニア人殺害」虐殺をめぐる仏とトルコの対立激化

《第1次世界大戦中のオスマン・トルコによるアルメニア人殺害をめぐり、仏とトルコの対立が激化している。仏国会が殺害を「大虐殺(ジェノサイド)」と認 定したのに対し、トルコ政府はパリ駐在大使を召還して激しく抗議したほか、連立与党の祖国党は24日、第2次世界大戦後のアルジェリア独立運動への弾圧を 「仏による虐殺」と非難する決議案を国会に提出するなどの動きが出ている。過去の歴史をめぐる対立は他の欧州諸国にも広がっており、トルコの欧州連合 (EU)加盟問題にも悪影響を与えそうだ。、、、、、》(2001年01月26日付け毎日新聞)

日本の読者には遠くの国の遠い昔の話について今から書くのは少し事情がある。私がメールを交換するようになった読者の方が日本だけが国際社会で「慰安婦」 問題を言われ続けて不公平だと嘆かれたからである。実情は、「過去の歴史をめぐる対立」や、その結果ある国民の昔の行状を非難されることなど国際社会で日 常茶飯事である。ロシアなど非難する気にもならない国こそ、期待されていない証拠であり、私など少し気の毒になる。

かなり前米国でかっての「アフリカ人奴隷」のことで集団訴訟がはじまるというニュースが流れた。この毎日新聞の記事にあるアルメニア人「大虐殺(ジェノサ イド)」認定決議でひと悶着があったと思ったら、今度はユダヤ人登録に利用された技術をドイツ子会社経由して提供し、ナチのユダヤ民族虐殺に間接的に協力 したかどで米企業IBMが訴えられて、アルメニア人の話は誰もしなくなった。そのうちに今度はユダヤ人の輸送に協力したことでフランスの国有鉄道に対する 集団訴訟が近々はじまるというニュースが飛び込んできた。いずれにしろ、日本列島の住民は自分たちばかりとひがむことはないと思う。すぐに自国と関係づけ ないで、距離をとってこの種の問題の意味を一度考えてみる必要があるのではないのか。

●「強制移住」対「民族の浄化」

さて、「大虐殺と認定されたアルメニア人殺害」であるが、前世紀のはじめ1914年から1918年まで続いた第一次世界大戦に起こった出来事である。当 時、欧州の「列強」はドイツとオーストリアの同盟側と英仏露の協商側にわかれて戦争をした。「大虐殺」非難をされているオスマン・トルコは同盟側に立って 参戦した。

最盛期にはアジア、アフリカ、ヨーロッパにまたがる大帝国であったオスマン・トルコも一九世紀に入ってからは領土内で諸民族が独立・分離する末期的症状に あった。独立戦争が発生する度に欧州列強が干渉したのはいうまでもない。トルコが特に脅威を感じたのは極東で日本に封じられ、南進エネルギーをこの地域に 集中するようになったロシアの存在であった。

この状況から想像できるように、トルコにとって第一次世界大戦とは英仏露の協商国に対して戦争するだけでなく、自国領土内で独立しようと蜂起する他民族に 対する内なる戦争でもあった。映画にもなった「アラビアのローレンス」が活躍するのもこの戦争で、これは愛国イギリス青年がアラブ人をオスマントルコに対 して蜂起するように仕向けた話である。

「アルメニア人大虐殺」と関係あるのはこの「アラビアのローレンス」でなく、開戦後間もない1995年春の雪解けとともに攻勢に転じ南進するロシア軍とそ れに呼応してオスマントルコ領土内で蜂起するアルメニア人であった。トルコ側に立って戦略的に見ると、背後から攻撃され挟み撃ちされないようにするため に、現在のトルコ東部地域に居住していたアルメニア住民を強制移住させたことになる。「大虐殺」はこの強制移住と関連して起こった。

「強制移住」といっても平和な日本ではピンと来ないと思う。突然、アルメニア住民が町や村ごとに住居から立ち退くように命じられ、着の身着のままで南部の メソポタミヤに向かって歩かされた。この移動中に、殺人、略奪、強姦等あるゆる残酷で凄まじい地獄絵が展開し、また飢餓や病気や疲労で死んだ人々もあった と思われる。いずれにしろアルメニア人側は150万人が殺され、60万人だけが生き残って外国に逃げることができたと主張している。

この「強制移住」は戦時下の緊急措置で、「疎開」のようなもであり、戦争終了後、元の居住地に戻ってもらう意図をもっていた、とはトルコ側は絶対いえない はずである。ということは、現在の表現では「民族の浄化」に近かったことになる。これは、多民族国家オスマン・トルコでなく、民族的に同質なトルコ人だけ の国民国家建設を夢見た「青年トルコ党」指導者が戦争のどさくさを利用した結果である。だから、「大虐殺(ジェノサイド)」の意図と計画があった。アルメ ニア人側はこのようにトルコを非難する。

それに対してトルコ側は殺人・略奪・強姦といったあらゆる残酷な仕打ちがあったことを認めるものの、この強制移住の対象になったアルメニア人の数が70万 人であるので、150万人という数は誇張で、死亡者数は三十万人ぐらいであったと主張する。更にこの事件は戦時下の混乱状態で起こったことであり、「大虐 殺(ジェノサイド)」の意図などなかった。今まで証拠として提出された計画書も偽作である。

またアルメニア人だけが殺されたのでなく、第一次世界大戦とその直後の分離・独立戦争でトルコ側(回教徒であるトルコ人とクルド人)の戦死者は250万に及び、これは人口の18パーセントに相当した。このような時代状況を考慮してほしい。以上がトルコ側の主張である。

この事件で多数の生き残ったアルメニア人が故郷を失い、欧米社会で暮らすようになった。彼らはトルコ人を恨み、事件について語り続けた。確か映画「エデン の東」のエリア・カザン監督もフランスのシャンソン歌手シャルル・アズナブールもこのような運命にあったアルメニア人もしくはその子孫であった。

●「虐殺」と「ジェノサイド」の意味

私はドイツ語を話しても関西弁に聞こえるほど語学的才能に乏しい。そのせいか日本語に横文字を混ぜる人は昔からハイカラ過ぎで苦手であった。でも今回のテーマでは避けられないような気がする。

私たちはブリのコドモをハマチと呼んで区別する。つまり文化によって対象の区別の仕方が異なる。多数の人間が殺されたとき、欧米文化圏と私たちとでは区別の仕方が異なるのではないのか。そのために、上記の新聞記事を日本人が読んでもピンと来ない。そんな感じがする。

私たちは日本語で「殺害」の残酷度が強まると「虐殺」になると思っている。次に、この規模が大きくなると「大虐殺」になり、そのうちに見慣れない横文字の 「ジェノサイド」に接近する。私たちは日本語で考え、大量殺人をこのように把握している。こう考えながら、私たちは冒頭の記事を読んだし、このように把握 されることが前提となってこの記事も書かれている。もちろん私たちが日本人同士で議論している分にはこれでよいのである。

問題は欧米人と大量殺人について議論するときである。彼らの区別はどうであろうか。私はドイツに長く暮らしているせいかドイツ人の頭脳内回路について少し は見当がつくが、米国人、英国人、フランス人となると本当は自信がない。それでも敢えて欧米人と書く。というのは、彼らは昔から多数の人が殺されると「マ サカー(英語の綴りではmassacre)」という単語を使うが、これは欧州の色々な言語に共通するからである。日本の世界史で習った「聖バーソロミュー の虐殺」をはじめ歴史上の有名な大量殺人はヨーロッパではこのコトバで登録されている。私たちは昔からこの「マサカー」という単語に「虐殺」とか、「大虐 殺」とかいった日本語をあててきた。有名な「南京大虐殺」もこの「ナンキンのマサカー」である。

この「マサカー」という単語を、ドイツ人が聞くと流血惨事を連想するそうだが、血を流さずに大量殺人が可能になってからも、この単語が使われる。次に「多数」という表現は不特定で、何百万人殺されようが「マサカー」で、日本語訳では「虐殺」である。

反対に、人死の少ないほうはどうかというと、英国史のなかに「アンボイナの虐殺」というのがあるそうで、これは17世紀に12人の英国人商人がモルッカ諸 島でオランダ人に殺された事件である。これが死者数最小の「マサカー(=虐殺)」であるそうだ。要するに「多数」というのは数百万から12人までで非常に 幅が大きいのである。

12人殺されても「マサカー(虐殺)であった」と見なす文化圏の人々に「『南京大虐殺(ナンキンのマサカー)』はまぼろしであった」というのは、下手する と「12人も死んでいなかった」と主張していることにならないだろうか。幾ら身贔屓の強い日本人でもあの時の南京での死者数が11人以下とまで主張する気 はないはずである。

このように考えると、異文化間コミュニケーションは厄介である。自分ひとりで納得しているのではなく、何を伝えたいか、本当にそのことが相手に伝わるのかを考えてから発言すべきである。

さて「アルメニア人殺害」に戻ると、今回のフランスの国会決議にあり、問題とされているのは「マサカー(虐殺)」でなく、「ジェノサイド」である。

ではこの「ジェノサイド」であるが、二十世紀が進行するとともに人権思想が強まり、似た事件を表わすのに別の概念が出現した。このコトバはギリシア語の 「民族」とラテン語の「殺す」を組み合わせてつくった法律用語である。米人法律家のラファエル・レムキンが1933年にはじめてこの用語を使ったとされ る。

「ジェノサイド」はドイツ語でわかりやすく「民族の殺害」というコトバで置きかえられることが多い。ところが、このコトバの意味はもう少し広い。というの は、これは、ある特定の民族や人種だけでなく、特定の宗教に属する人々を、あるいは特定の社会グループに属する人々を直接絶滅させる行動を意味する。更 に、例えば生存条件を悪くして間接的に絶滅に通じるような行いをすることもこの意味に含まれる。1948年12月9日の国連総会で、このような行為を国際 法的犯罪とすることが満場一致で決議された。

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2001年04月17日(火)萬晩報通信員 園田 義明

 ■日米温暖化予測

 4月13日、気象庁がスーパーコンピューターで予測した「地球温暖化予測」を公表する。大気中の二酸化炭素(CO2)の濃度がこのまま年1%ずつ増加した場合、70年後には濃度が2倍となり、日本の冬場の平均気温は、ほぼ全地域で2-3度上昇するという。

 気象庁は、これまでに地球全体の温暖化予測を発表してきたが、今回初めて日本列島周辺に対象を絞り込んだ。

 同じ日、今度はアメリカで米海洋大気局(NOAA)とカリフォルニア大学スクリップス海洋研究所のグループが、温暖化ガスと地球の温度上昇を科学的に結びつける研究成果を米科学誌サイエンスに発表した。

 研究グループは複数のコンピューター計算モデルを使い、人間の工業活動や生活に伴って発生する温暖化ガスなどが海水温を上昇させていることを示し、「温 暖化ガスを出し続ければ海が蓄えきれなくなり、大気中の濃度が急速に高まって気象などに大きな影響を及ぼす可能性がある」と警告している。

 温暖化に疑いの目を向ける研究者らは、「計算モデルをどこまで信頼していいのか疑問だ」などと反論している。今アメリカ国内でも温暖化をめぐって政治家、財界人、科学者らがふたつに分かれつつあるようだ。

 ■「原子力発電」ビームの波紋

 離脱表明直後にアメリカから発信された『「原子力発電」ビーム』は、予測通り日本政府を大きく揺さぶることになる。

 EU側は、4月11日に気候変動枠組み条約第6回締約国会議(COP6)のプロンク議長(オランダ環境相)が、各国政府に新提案を示した。この中で、 「原子力発電は二酸化炭素をほとんど出さないが、決してクリーンなエネルギーとはいえない。」として、日本とアメリカが求めてきた、先進国が資金を出して 途上国で行う二酸化炭素の削減事業の対象から、原子力発電所の建設を除外していたことが明らかになる。意外にも原発におけるEU側の結束は強いようだ。

 実は4月9日と10日に欧州連合(EU)代表団の一員としてラーション・スウェーデン環境相が来日する。京都議定書への支持を取り付けるためロシア、イラン、中国を回っており、その最終地が京都議定書の議長国日本であった。

 河野外相は9日の会談で「米国の参加は地球環境にとって極めて大きなインパクトを与える。米国が参加した方がはるかに環境を守ることになる」と述べる。

 これに対し、EU議長国スウェーデンのラーション環境相は、前日8日のチェイニー副大統領の「京都議定書はブッシュ政権が発足する以前に、死文化してい た。我々はアメリカが議定書に縛られないことを明確にしただけだ。」の発言に触れ、「1カ国で多国間協定を一方的に死文化したと宣言することは許されな い」とアメリカを批判し、「たとえアメリカが参加しなくても2002年の批准を決意している」とはっきりと明言した。

 4月9日には、森首相や主要閣僚からの発言も相次ぐ。

 ◆京都議定書、米への働き掛け粘り強く=森首相
 ◆米国に議定書支持求める=福田官房長官
 ◆環境対策、米の参加は不可欠=広瀬経済産業次官

 そして4月10日、福田官房長官は午前の閣僚懇談会で、「環境、農水、経済産業、外務各省が中心となり、政府が一体となって努力を尽くすようお願いしたい」と述べ、米国に再考を促すよう関係閣僚の協力を呼び掛けた。

 結局日本政府は、米国抜きでの対処について、立場を最後まで明確にできなかった。

 4月10日に行われたラーション環境相らの日本記者クラブで会見でも落胆の表情がうかがえる。そして、4月11日のプロンク議長の新提案を迎えるのである。

 おそらくこの2001年4月10日は、21世紀の日本にとって極めて重大な日であったはずだ。

 この新提案を受けて日本では、激震が走る。4月12日、温暖化対策に関する小委員会で、環境省中央環境審議会の森嶌昭夫会長が、日本政府の対応を批判し 「日本政府は、アメリカが新しい提案を出してくるのを待っているが、京都議定書の大幅な見直しを求められたらどうするつもりなのか、いつも判断が後手にま わる。」と語り、「たとえアメリカが批准しなくても日本は批准するという覚悟を示して、アメリカが国際社会の批判を浴びて批准せざるをえない状況に追い込 むべきだ。」と締めくくった。

 NHKニュースや新聞記事では一切触れられていないが、森嶌昭夫会長は今年1月に原子力委員会委員に新任されたばかりで、2004年まで任期を考えれば批判の理由も理解しやすい。

 特に与党自民党は、同じ日に開いたエネルギー総合政策小委員会で、今後のエネルギー政策についての提言と、法制化を目指しているエネルギー政策基本法の 要綱をまとめたが、供給信頼性確保と環境への適合をエネルギー政策の基本と位置付け、原子力発電、使用済み燃料再処理事業の「国策としての推進」を再確認 している。

 ■新たな展開

 アメリカでは、有力シンクタンクの外交問題評議会(CFR)が動き始めた。CFRは、ジェームス・べーカー設立のライス大学ベーカー研究所とともにスポンサーとなって、エネルギーの供給拡大や在庫確保を急ぐべきだとするブッシュ大統領への提言を行う。

 この提言は、エンロンのケネス・レイ会長を始め、燃料電池のバラード社、シェブロン、BPアモコの経営陣や大学研究者らによる専門委員会がまとめたものだ。

 米国は深刻なエネルギー危機に直面しているとして、アラスカやロッキー山脈沿いの自然保護地域などで石油、天然ガスの生産を増やすとともに、精製施設やパイプライン網などインフラ整備を急ぐ必要があるとし、これまでのブッシュ政権への影響力を見せつけた。

 川口順子環境相は、4月13日、プロンク議長が示した京都議定書の新提案について、「会合をまとめていく立場の人間としてとるべき進め方だったのか非常に疑問をもっている。あの中身なら出すべきではなかった」と温室効果ガスの排出量取引を中心に強く批判した。

 鉾先が徐々に日本へと向けられている。

 長く続いてきたアメリカ単独覇権構造が大きく揺らぎ初めているようだ。EUが国連を味方につけ途上国をも巻き込みながら着実に覇権構築に向けて動き始めた。そのキーワードは、環境である。

 このままでは21世紀の日本は、「古都」として名を残すだけになりかねない。

参考・引用
ガーディアン、BBC、英エコノミスト、ロイター他海外メディア、日本経済新聞、時事通信、共同通信、NHK他日本メディア

□気象庁
http://www.kishou.go.jp/

□Studies Tie Rise in Ocean Heat to Greenhouse Gases
http://www.nytimes.com/2001/04/13/science/13CLIM.html

□the Council on Foreign Relation
http://www.cfr.org/p/

Strategic Energy Policy Challenges for the 21st Century
http://www.cfr.org/p/pubs/Energy_TaskForce.html
The Collapse of the Kyoto Protocol and the Struggle to Slow Global Warming
http://www.cfr.org/p/resource.cgi?pub!3929

園田さんにメールは mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp

2001年04月16日(月)萬晩報主宰 伴 武澄

 英国に留学中の大学院生Aさんが、4月5日付「ガーディアン紙」の米中軍用機接触事故に関する記事の要約をメールしてくれた。Aさんのメールには「私に はある種驚きでしたので、紹介とそれを読んでの感想をお伝えしたいと思います」と書き添えてあった。興味深い記事なのでAさんの要約を転載したい。

************************************

 Richard Norton-Taylorという人の署名記事で
「US spy planes fly from Britain too, whether we like it or not; It's hard to control what the American military do to us」(USのスパイ機がイギリスからも飛んでいる。われわれが好むと好むまいと。アメリカ軍がイギリスでやっていることはコントロールできない)という 見出しが付いており、今回の中国軍機との接触事件を起こしたアメリカ軍偵察機が沖縄の米軍基地から飛び立っていたことを枕にして、英国内におけるアメリカ 軍基地の法的根拠をめぐる歴史的経緯を扱ったものです。

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 <要約>沖縄のアメリカ軍基地は勝者が敗戦国に押しつけたものだが、一方イギリスのそれは、第二次大戦後1948-49年のベルリン封鎖の際の大空輸作 戦の際にアメリカ軍が使っていた基地がそのまま当時のイギリス労働党政府との「正式な合意なしに、または公のあるいは議会での何等の論議なしに」アメリカ に引き渡されたものである。

 イギリスに恒久的にアメリカ軍の爆撃機(つまり米軍基地:筆者注)を置くことはイギリス内閣によるなんらの決定によるのでもないし、この件について議会 にも知らせていない、と1949年に労働党外務次官(foreign secretary)アーネスト・ベヴィンは述べている。この法的根拠をもたない合意は「大使の合意」とされ、この合意はイギリス高官によれば「アメリ カ・イギリス両政府の見解において、共通防衛の利益においてアメリカ軍の存在は望ましいかぎり継続する」のである。

 これらの文書はリンディス・パーシーというベテランの平和運動家が入手し、ガーディアン紙とニューステイトマン紙にもたらされたものであるが、彼女はこ れを元に、エシュロン計画で重要な役割を担っている北ヨークシャーのメンフィス・ヒルの基地などの法的無根拠性を訴えている。

 戦後、(筆者;日本政府がアメリカ政府に対して認めてきたのと同じように)イギリス政府は、労働党政権も保守党政権も法的には無根拠なアメリカ軍基地を 擁護してきた。イギリスは理論上は非公式な拒否権を持る、あるいは基地の使用についてのアメリカからの問い合わせを受ける権利を保持しているという理解な がら、イギリスの歴代首相は実際上はそんな権利が存在しないことを非公式に認めてきた。

 したがって、1986年のリビア爆撃や1960年のアメリカ軍偵察機のロシアでの撃墜事件などで、これらがイギリス国内のアメリカ軍基地が関係したもの であっても、イギリスはアメリカからの相談を受けることがなかったし、アメリカはなんの制約も受けることなく行動してきた。

 しかし、イギリス防衛省の文書は、イギリスの戦略的安全保障が脅かされる可能性は目下のところありそうにないと述べており、アメリカとイギリスが冷戦状 況化において共通の防衛意識を持っていた時代は過去のものとなった。今後、イギリスがアメリカの新ミサイル戦略構想に加わることは、イギリスの安全保障に とってプラスにはならないだろう。

 ジェフ・フーンという防衛次官(defence secretary)は以下の認識をもっている:
 もし新たなアメリカ軍基地を受け入れるならばイギリスはより脅威にさらされることになるだろう;現在中国に囚われている偵察機の基地がある日本のような国は、アメリカがもたらすこれらの問題に気を付ける必要がある;おそらくイギリスもそうすべきだろう。

************************************

 この記事が興味深かったのは、日本とイギリスが戦敗国と戦勝国という違いにもかかわらず、アメリカ軍基地についてはある種非常に似通った状況に置かれて いる、ということを知ったからです。そしてこの記事の筆者はイギリスの状況を書きながら、明らかに日本のことを念頭においています。

 もちろん、イギリスと日本の違いはあります。日本の場合は安保という明文化された規定があるという点です(思いやり予算などは別にして)。それに対して、イギリスの場合は法的に無根拠なのであるから、それの変更を要求することは日本よりは容易かもしれません。

 しかし、イギリスがアメリカ軍の引き上げを要求すれば、友好関係に基づいてきただけにアメリカとの関係に問題を生じさせるかもしれません。したがって、イギリスも慎重に対応せざるをえないのでしょう。

 この記事から日本との関連で学べることは、おそらく日本の安保の問題をアメリカとの関係だけで考えると、事態の認識を誤るということだと思います。アメ リカ軍の問題は、沖縄や日本の防衛の問題というだけではなく、日本よりも対等なイギリスのようなアメリカの盟友国家も同種の問題を抱えているのだという、 日本とアメリカの関係を相対化して見る目が、最近ますます日本で強くなりつつあるようにみえるナショナリスティックな考え方(それはアメリカだけを世界だ と思っているという点で実はアメリカ属国的考え方)に対して重要だと考えます。

 Guardianの記事は
 http://www.guardian.co.uk/Archive/Article/0,4273,4165397,00.html

2001年04月15日(日)萬晩報通信員 園田 義明

□Oh no, Kyoto
□EU warns it will go ahead with Kyoto
□L'UE se battra pour sauver Kyoto

□Bush kills global warming treaty
□The President who bought power and sold the world
□Anger at US climate retreat

 ■合い言葉はkyoto

 海外メディアのサイトでは、「kyoto」の文字がひときわ目立ち始めている。そのきっかけは3月28日にさかのぼる。その日、ブッシュ政権は、地球温 暖化防止を目指す京都議定書からの離脱を発表した。その声明をうけて、世界のメディアが一斉に反応し「Kyoto protocol」の文字がネット上を駆けめぐっているのである。

 もう少し記事を見てみよう。

「ブッシュは温暖化条約を葬り去る」
「パワー(=エネルギー業界)を買って、世界を売り渡した大統領」
「米気候変動枠組条約離脱への怒り」

 なにやらかなり感情的である。環境対策を重視するEUは、ブッシュ政権の環境政策に猛然と抗議を始めたのである。そして、その抗議はNGOにも飛び火する。

 ■動き始めた巨大NGO

 4月1日、環境保護団体グリーンピースのメンバー21人がブッシュ政権京都議定書離脱に抗議してスコットランド・インバネス沖30キロに位置する洋上石 油掘削装置(リグ)を占拠した。そして5日には最新の米企業ランキング「フォーチュン500」より上位100社に対し、1週間以内に米政府の方針に反対す る意思表示をしない限り、企業名を公表して消費者に不買運動を呼び掛けると通告したことを明らかにする。

 グリーンピースはブッシュ大統領の決定の背景には米国の石油、石炭関連企業がいると非難しているが、エクソン・モービル(1位)、エンロン(7位)、 JPモルガン・チェース(12位)、テキサコ(16位)、デューク・エナジー(17位)、シェブロン(20位)等を標的にしているようだ。

 そして、地球の友(フレンズ・オブ・ジ・アース)は、ブッシュに抗議メールを送るキャンペーンを開始する。そしてこのキャンペーンには、大手石油資本であるBP(英)とシェル(英蘭)も加わっている。

 ■第一波 「原子力発電」ビーム

 3月31日、米電力大手エクセロン(イリノイ州)は、新型原子炉の米国での建設認可を来年にも原子力規制委員会(NRC)に申請した。ブッシュ政権はエ ネルギー源多様化の一環として原発見直し始めており、建設が実現すれば、1979年のスリーマイル島事故以来初めての原発の新規建設となる。

 エクセロンはComEd、PECO Energy Company、Gencoなどの持ち株会社で取締役会や株主構成を見ると石油大手ARCO社との関係が深い。現在ARCOは、BP アモコ(英)の傘下にある。

 チェイニー副大統領は、諮問委員会「エネルギー政策開発グループ」を設置しているが、そのメンバーには原子力業界と深いつながりを持つエネルギー省高官のジョー・ケリハーを中心とする原子力ロビイストが参加しており、原発見直しに貢献しているようだ。

 離脱表明直後のこの発表の狙いは、各国の原子力産業界への揺さぶりであろう。世界的に見ても原子力業界には、アメリカが手塩にかけて育ててきた財閥を中 心とするエスタブリッシュメントが集結している。また総じて自由化のあおりを受け苦境に立たされている。とりわけこの中で「温暖化解決のための原発」の生 みの親である日本とそれにフランス、イギリス、ドイツ、中国、韓国、台湾あたりにはかなりの影響を与えたはずである。

 ■第二波 「風力発電」ビーム

 4月4日、日経連の奥田碩会長は、定例会見で、米国の京都議定書不支持表明について「米の方針によって、力を入れないということはありえない。粛々と努 力していく」と語った。さらに「日本の数値目標を下げろと主張することもない」と述べ、産業界はこれまで通り温室効果ガスの削減努力を続けていくべきだと の見解を示した。

 そしてその翌日、日本自然エネルギー(東京電力51%、住友商事、三井物産各10%出資)が、ソニーやトヨタ自動車など20社と風力発電における販売契 約を結んだと発表し、時を合わせるかのようにイギリスでもトニー・ブレア首相が再生可能エネルギー政策の一環として18基の風力発電所の計画を打ち出し た。

 ■第三波 「新提案」ビーム

 4月6日、リチャード・アーミテージ米国務副長官は、訪米中の荒木清寛・外務副大臣ら政府・与党代表団と会談し、7月の気候変動枠組条約第六回締約国会 議(COP6)再開会合までに京都議定書に代わる米政府の新たな提案をまとめ、日本など友好国との協議を開始する考えを明らかにする。

 国務副長官は米政府の新提案について、〈1〉全世界をカバーする〈2〉新しい技術を含む〈3〉米国内の幅広い支持を得られる――内容にする考えを示し「事前に米議会にも根回しして実現可能なものにしたい」と述べた。この記事は、瞬く間に世界に配信される。

 全世界をカバーし、米国内の幅広い支持が得られる新技術。言い換えれば、全世界に導入できる、石油業界やエネルギー業界が歓迎する新技術。それは、おそらくガソリン改質による燃料電池であろう。この3つ目のビ~ムは強烈な破壊力を見せつけたようだ。

 ■EU+NGOvsオイルマン政権?

 私は、昨年夏から現在のブッシュ政権をオイルマン政権と呼んできた。従って今回の京都議定書離脱もある程度は予測はしていた。しかし、根回しにいささか 問題があるように思う。おそらくカリフォルニア電力危機の影響が予想以上に大きく影響しているのかもしれない。そのあせりの原因には、復活を始めたEUと NGOとを結び付ける巨大企業グループの存在がある。

それを解く鍵は・・・。

 ゴルバチョフ旧ソ連大統領や米俳優ハリソン・フォード氏ら著名人10人が、ブッシュ大統領に対する公開書簡で、温室効果ガスの排出削減計画を推進するよ う要請した。この10人のなかにあのジョージ ・ソロスも含まれている。それにしても京都議定書の議長国で、この問題が一向に盛り上がらないのはどうしてだろう。(次回へ続く)

参考・引用
ガーディアン、BBC、英エコノミスト、ロイター他海外メディア
日本経済新聞、時事通信、共同通信他日本メディア

□簡単情報収集
http://uk.fc.yahoo.com/g/globalwarming.html
http://dailynews.yahoo.com/fc/World/Global_Warming/
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/science/global_warming
http://www.guardian.co.uk/globalwarming/0,7368,395145,00.html

□Oh no, Kyoto
http://www.economist.com/PrinterFriendly.cfm?Story_ID=561509

□EU warns it will go ahead with Kyoto
http://uk.news.yahoo.com/010405/80/bik42.html

□L'UE se battra pour sauver Kyoto
http://www.lemonde.fr/rech_art/0,5987,169964,00.html

□Bush kills global warming treaty
http://www.guardian.co.uk/globalwarming/story/0,7369,464920,00.html

□The President who bought power and sold the world
http://www.guardian.co.uk/globalwarming/story/0,7369,466580,00.html

□Anger at US climate retreat
http://news.bbc.co.uk/hi/english/sci/tech/newsid_1248000/1248278.stm

□グリーンピース
http://www.greenpeace.org/
http://www.greenpeace.or.jp/

□フォーチュン500(最新版)
http://www.Fortune.com/

□地球の友(フレンズ・オブ・ジ・アース)
http://www.foei.org/
http://www.foejapan.org/news/index.html

 園田さんにメールは mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp

2001年04月14日(土)鳥取県倉吉市 新聞記者 萩原 俊郎

 これが未来の新聞か?

 先日、産経新聞(大阪版)の1面に「新聞まるごと"電子配達"」の見出しで、今年夏から新聞紙面のレイアウトをそのまま高速インターネットで各戸配達する旨(むね)が出ていた。

 文字の拡大が自在で、読者は好きな紙面だけ自宅でプリントアウトすればいい、という「インターネット新聞」だ。同紙は「日本初」と自慢げだが、実は ニューヨーク・タイムスも今年末から、記事でなく紙面そのものを「有料」で配達するシステムを導入するらしい。シカゴ・トリビューンは先日、ベストWEB 新聞に選ばれたばかりだ。「いよいよ本命の未来型新聞が登場か」と見る向きもあるが、どうもそれは早合点ではないだろうか。

 新聞業界は今、「迷走」している。最近は全国紙だけでなく地方紙もホームページを持ち(99年末で65社)、記事提供(オンラインサービス)している が、いずれも「無料配信」で、採算面で見通しは立っていない。ただ「急速なデジタル化に、わが社だけは遅れまい」という姿勢に過ぎない。

 そこで、こうした産経のような「紙面まるごと(有料で)配信」という発想になるのだろうが、これでは単なる「ペーパーレス新聞」である。確かに、アジア の森林資源を食い尽くしている日本の新聞業界はやがて世界から非難を浴び、近い将来、ペイパーレスを採用せざるを得なくなる。ひょっとして「紙で新聞を読 む」のは裕福な階層しか味わえない贅沢になるかもしれない。

 だが紙面をそのまま画面上に映したような新聞では、あまりに能がない。

 日本橋で見つけた「未来」

 未来の電子新聞(WEB新聞)らしきものを、先日、大阪日本橋の電気街で見つけた。SONYが昨年末に発売した「エアボード」である。テレビもメールも インターネットも、すべてこの「移動式液晶テレビ」の画面上で、指でタッチして選べる。インターネット上ではニュース、天気予報、娯楽などの情報コンテン ツが並び、それを選択する。もうすぐ、薄型軽量でビニールのように柔軟に曲げられる液晶画面も開発されるというから、ほとんど「紙」に近い(ただし、私の ように風呂の中で新聞を読むのは困難?)

 また電子新聞の内容自体は、アメリカのCNNのホームページあたりが一番近いように思う。つまり映像と文字情報を同時提供する、ということ(たとえば米 大統領選で「ヘッドライン」をクリックすれば今日のテレビニュース、「ビデオ」をクリックすれば昨日の公開テレビ討論のもよう、さらに「解説」をクリック すれば記者の解説が読める。加えて候補者の経歴や過去の関連記事が次々引き出せる。

 そうしてみるといずれ「ソニー傘下の情報コングロマリット」のようなものが生まれ、明治以来、情報産業の頂点に君臨してきた新聞は、そこにコンテンツを 提供する一部門に転落するかも知れない。すでにそのにそのようなコングロマリットが次々生まれているアメリカ(タイム・ワーナーグループなど)など外資参 入やまったく異業種の産業からの殴り込みもあるかもしれない。

 新聞は斜陽産業か?

 ...と一般論=他人事のようなことを書いてきたが、地方紙とはいえマスコミの端くれでメシを食っている人間にとっては、心中穏やかではない。しかも拡張中 心(新聞は部数だ!)でやってきた古い世代の幹部らにその危機感はなく、事なかれ主義や社内抗争に明け暮れているのが、地方紙の一般的な姿ではないだろう か。

 先日、Y紙に勤める古い友人と電話で話していて、「おれたちゃ鉄鋼や造船と同じく、斜陽産業に就職したのかもしれないな」と深いため息をついた。

 ところが、どっこいである。混迷の時代だからこそ「新聞の核」の部分が浮かび上がってくる気もする。たとえば...

 (1)地方紙の役割 報道発表資料は今や自治体のホームページで一般の人間が簡単に入手できる。地方に住む人間(とくに私が住んでいるよ うな過疎県の住民)にとって、これからはむしろ地元に対する正確で豊富な情報、歯に衣着せぬ鋭い批判や解説、足で取材した記事、論評的なコラムの需要が増 しているが、これまで記者クラブの発表ものに惰眠をむさぼってきた地方紙は、その能力がますます落ちている。

 (2)紙面への信頼性 その点、多くのWEB読者(視聴者?)の信頼を得られるための社の基本精神=とくに政治的、経済的な中立性、公平 性はますます問われる。「部数が多い」とあぐらをかいている新聞はたちまち見放されるだろう(販売店に断りの電話をする必要もない。クリックすればいいの だから)。

 (3)ネットの双方向性の活用 新聞はこれまで半ページしかない「読者欄」で申しわけ程度に「下々の声」を載せてきた。しかし今の時代、 読み手の中には、記者よりよほど専門知識があったり、鋭い批評眼を持った人間がいるのだ。記者はその特権的立場におごらず、新聞社内という「安全圏」に逃 げ込まず、ネットを通じて突きつけれた記事への批判や論評をむしろ紙面に積極的に生かし、文字通り「読み手とともにつくる」新聞を目指すべきではないか。

 (4)ケーブルテレビとの連動 実は地方紙の多くは地方ケーブルテレビ局を傘下に置いている所が多く、独自にサーバーも持っている。だがこれらを連動して総合的に情報提供するという発想がなかった。

 この指、とまれ!

「IT」の文字が新聞やマスコミに流れない日はないが、しかしIT化による日本の新聞の将来について論評しているものは極端に少ない。とくに「地方紙の将 来」に至っては。「地方紙のWEB化」や地方ジャーナリズムのあり方についてワイワイ話し合うネット茶話会みたいなものが欲しいと思ってます。

 情報洪水の中で、地方の主張と情報分析を―。面白いと思った方、関心のある方、また同業者の方はご返事を下さい。

2001年03月12日(月)   萬晩報通信員 園田 義明

■AOLとの訣別

 2000年1月31日付けコラム「ダボスで語られる世界大再編の第2幕?」で、AOLの社外取締役であったベルテルスマンのCEOトマス・ミッデルホフ が、AOLタイム・ワーナー誕生により辞任を示唆していると書いた。事実彼はAOLを去ることになるが、1953年生まれの若きリーダーはその後とてつも ないことをしでかすことになる。

 ■ビベンディ・ユニバーサル誕生

 2000年6月20日、フランスの複合企業のビベンディと同社傘下の有料テレビ会社カナルプリュス、そしてユニバーサル映画などを持つカナダの醸造・娯 楽企業シーグラムの三社の合併が合意したと発表された。ビベンディ側によるシーグラムの事実上の買収となり、買収総額は約340億ドル(約3兆6千億円) にのぼる。

 ビベンディと言っても日本ではまだ馴染みのない名前かもしれないが、現在のフランスでは赤丸急上昇中の企業グループである。従業員は27万5千人、売上高は約410億ドルでこの企業を率いるジャン-マリー・メシエも若干44歳の若きエリートである。

 シーグラムはまもなく大阪に完成するハリウッド映画大手ユニバーサル・スタジオズに加え、ユニバーサル・ミュージック、ポリグラムなど豊富な音楽コンテ ンツを持っている。ユニバーサル・スタジオズは90年に松下電器産業が買収したが、経営方針の違いから「シーバース・リーガル」で有名なシーグラムに売却 されたという経緯がある。

 今回のビベンディ・ユニバーサル誕生により米AOLタイム・ワーナー、日ソニー・ミュージックエンタテインメント、独ベルテルスマン、英EMIグループのわずか5社が、市場に出回っている楽曲の約9割を配給することになる。

 ■ビベンディ・ユニバーサルの取締役会

 ビベンディ・ユニバーサルの取締役会には何かと話題の多いシーグラムのブロンフマンも副会長に就任するが、なんとここにトマス・ミッデルホフが社外取締 役としてしっかりと名を列ねている。1999年よりビベンディの取締役に就任してきたが、シーグラム買収の動機がここにあるようだ。

 実はネット事業でもビベンディは、AOLフランスの経営権を持つほか、ボーダフォンとの合弁会社によるポータル事業では「米ヤフーをしのぐものにす る」(メシエ会長)と積極的に取り組んできた。そして遂に3月5日にはビベンディ・ユニバーサルは、AOLフランスの保有株をAOLタイム・ワーナーに7 億ドルで売却することに原則合意する。

 ■ダボスで語られた新たなる再編

 今年のダボス会議でも情報技術(IT)関連では、ゲイツマイクロソフト、クーグル・ヤフー会長と並んでトマス・ミッデルホフもジャン-マリー・メシエも 昨年同様顔をそろえた。そして忘れてはならないのは今年も同席した出井伸之ソニー会長の存在である。出井会長は、エレクトロラックス、GMに続いて4月か らはスイスに本社を構える食品、飲料で名高いネスレの社外取締役にも内定しており世界的トップエリートの階段を駆け昇っている。

 ソニーの欧州本社ソニー・ヨーロッパ(ベルリン)は昨年11月にビベンディ傘下で、欧州最大の有料テレビサービス会社、仏カナルプリュスの子会社の株式 3%を取得すると発表しており、今年2月にはビベンディ・ユニバーサルとソニーとの合弁会社「デュエット」の設立を発表した。

 メシエ会長は仏経済紙トリビューヌで、「デュエット」によりインターネットでの音楽著作権を扱うことで「世界の音楽著作権の約半数を占めるようになるだろう」と述べている。

 ■ナップスター訴訟

 3月5日サンフランシスコ連邦地方裁判所は、インターネット上で音楽無料交換サービスを展開する米ナップスターに対する仮命令を下した。この訴訟は 1999年12月に、旧ユニバーサル・ミュージック、ソニー・ミュージック、旧ワーナー・ミュージック、EMIグループ、ベルテルスマン傘下のBMGなど 世界の大手レコード各社が起こしたものである。

 ここで気になるのはミッデルホフ率いるベルテルスマンの動きである。昨年11月にベルテルスマンはナップスターと戦略提携を交わし、共同で新しい会員制 音楽サービスの開発に取り組むことを発表している。敵対関係から一転して戦略提携へ大きく転換するが、ここでもメシエ会長は、ナップスターの海賊版防止用 の保護機能の有効性が立証されれば、ビベンディがソニー・ミュージック・グループと共同開発している「デュエット」サービスで、喜んで音楽のライセンスを 提供する可能性があると述べたという。

 従ってビベンディ・ユニバーサル、ベルテルスマン、ソニー・ミュージックエンタテインメントの日独仏のまたがる戦略的な提携も予測される。その鍵を握る人物はミッデルホフである。

 ■ビベンディの挑戦

 時代の変化のスピードが加速していく中で、若い世代が世界を動かす時代になった。今夜はあまり深酒をせずに「ミネラルウォーター」にして企画書でも作ることにしよう。

 そう「水」も重要である。ビベンディの母体は水道会社のジェネラル・デ・ゾー社であり、もともと水道事業をベースに環境関連や建設、エネルギー部門に多 角化してきた。1999年12月にビベンディは、日本での電力自由化参入に向け丸紅と共同で丸紅ビベンディ・エンバイロメント株式会社を設立している。

 そしてアメリカでは「水」を巡ってビベンディはエネルギーの巨人エンロンと真っ向勝負に挑んでいる。

「ダボスで語られる世界大再編の第2幕?」http://www.yorozubp.com/0001/000131.htm


   2001年04月11日(水)
 東西センター北東アジア経済フォーラム上級研究員 中野 有

 もし(IF)自由を謳歌することができればどんなに幸せであろうか。これは国籍を超えて誰もが望む想いであろう。先人は、自由を獲得するために多くの犠 牲を払ってきた。自由民権運動家の中江兆民は、「自由は取るべきものなり」と述べている。人類の歴史は、自由を獲得するための歴史であると言っても過言で ない。現在も何のためにあくせく働くかといえば、豊かな生活をおくる、即ち自由を得るために会社や社会に貢献しているのだろう。

 若者の間で、フリーターが増えている。定職に就かず、いや就く事ができず、刹那的に生きるために働かせられているのがフリーターなのであろうか。このよ うに、一般的にフリーターのイメージは芳しくない。しかし、フリーターを「自由人」として訳せば、終身雇用の形態と対極的な21世紀の生き方に発展するの ではないか。

 一流大学に入るために無味乾燥的かつ機械的な受験勉強を強いられる。子供の時から強制的な勉強ばかりしていると、人間が成長期に養うべき直観力や創造 力、そして心身の向上に欠陥をきたす。かっての日本では、このような犠牲を払っても一流大学を目指す価値が有ったかも知れない。しかし、日本式経営が機能 しなくなった現在では一流大学を卒業しても、かってのように一生の生活の安定が保障されるわけではない。

 現在の日本に必要とされているのは、学歴という表面的なものでなく、日本のこころを有し、グローバルな社会に通用する実力をいかに養うかである。偏狭な日本という枠におさまらず、地球益のため、世界の万民のために行動する人材が求められている。

 その意味でも学生や社会人が先進国や途上国を問わず、経済発展や社会資本整備、フロンティア的な仕事に取り組み、多角的視点で洞察する力や、日本とは違 う価値観を養う。これは決して不毛な回り道でなく、途上国でバイタリティーあふれる生活に接し、大自然とともに生きることで、人間の根本にある直観力を呼 び起こすことが可能となる。加えて、欧米のライフスタイルに接し、また弱肉強食の社会に身をおくのも必要であろう。

 現在の若者は、先人の汗による経済発展のおかげで、フリーター(自由人)として活動できる「ごほうび」を授かっている。どうせなら、日本の枠を超えて 「インターナショナルフリーター」として地球規模の活動に参加し、夢を抱くべきである。クラーク博士は、きっと以下のようなメッセージを伝えるだろう。 「青年よ大志を抱け。そして、地球規模で活動する自由人として地球益のため汗を流せ」。

 20年前に日本企業に就職したときに、終身雇用や年功序列の日本式経営の弊害が必ず起こると予測した。脱藩の気分で日本企業を去り、国連機関で途上国や 開発援助の仕事に取り組み、米国のシンクタンクや日本のシンクタンクにも勤務してきた。日本の社会の純粋培養による安定がないおかげで、インターナショナ ルフリーターとして世界を飛び回り国際的な人脈を形成することが生きるために必要であった。異なった国籍の人々と建設的な仕事を行うことで、多角的に思考 する力や、実践による直観力を養うことができた。

 しかし、人生とは面白いもので、まわりまわってこの桜の季節に何回目かの新入社員として日本企業に勤務することになった。組織の枠におさまらない日本人 が日本企業でやっていけるかどうか未知数である。しかし、日本企業が大きくグローバルな潮流の中で大変貌を遂げつつあると実感できる。

 ぼくの場合、インターナショナルフリーターとしての回り道は少し長かったかもしれないが、自由人として世界に目を向けたのは決して無駄ではなかったと感じる。もし(IF)20年前に戻ってもIF(インターナショナルフリーター)の道を歩むことは確かである。

2001年04月08日(日)萬晩報通信員 松島 弘

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「歌」歌いたいんだ、夜明けの星に
   ブルカーシュで見かけた可愛い女に
   水に踊るランタンの灯に 胸にしまった甘い言葉に
   四十の階段のあるお屋敷に 茶屋にスカーフに水煙菅
   ダイナマイトと労働者たちとの哄笑に
   頭を垂れない谷に山が頭を垂れる時
   槌と鉄床のダンスに 畑の農民の喜びに
   歌いたいんだ、息子に
   でも、俺が歌う時はまだ来ない・・・

パレスチナのバンド「サーブリーン」の3枚目のCDが到着した。
カーヌーン、ウード、カワル(笛)等のアラブの伝統楽器に、
バイオリン、チェロ、コントラバスが絶妙にからむ。
今までに増して、多彩なアラブの打楽器が使われ、おもしろい効果を
あげている。すばらしいアンサンブルだ。
その上に、一言一言の言葉を噛み締めるように歌う、
カミリア・ジュブラーン嬢の声が、しなやかに紡ぐ。
歌がまたしても、うまくなっている。
アルバム・タイトルは「Ala Fein(何処へ)」

前作「ヒア・カム・ザ・ダブズ」より6年、前作で聴かれた
ポップ色は後退したが、燻し銀のような音世界は、むしろ今の
空気感にあっているように思われる。
安らぎを奪われたパレスチナから届く、安らかな音楽。
もちろん、果てしないポジティブさから生まれた、硬い意志を持つ安らかさだ。

1枚目のCD「預言者の死」を日本でリリースし、彼らを日本に
招いてコンサートを開いた1992年から、もう9年もの月日が流れてしまった。
この際の感動的ないきさつは、1998年に「萬晩報」に発表した
「パレスチナのサブリーンとの心の出会い」に詳しいので、ぜひお読みいただきた
い。
当時はイスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長との間に
「オスロ合意」も交わされる前だった。
その後は、あたかも「スターウォーズ」でも観ているかのような、めまぐるしい紆余
曲折。
そして今、リクード党首シャロンによる連立政権が発足して、「オスロ合意」
そのものも、白紙に戻ってしまったかのように見える。

思えば、サーブリーンはいつも、パレスチナに生きる誇りを持って、
生活実感に根ざして、映画や舞踊のための音楽を作曲し、自らの作品も
コンスタントに発表し、海外のアーティストとも積極的に共演してきた。
パレスチナのようなきびしい現実にあってこそ、アートは人々を
力づけることを十分理解していた。そんな彼らだから、自分たちの
録音スタジオを、子供たちの音楽教育の場としても開放していたのだ。

昨年9月下旬から始まった、パレスチナとイスラエルとの紛争の
ニュースを聞くにつけ、いつも思っていた。
「彼らのスタジオは無事なのだろうか?いや、彼らは無事なのだろうか・・」

そして、無事の知らせは届いた。さらに、それだけではなかった。
サーブリーンは「ある子供の証」という趣意書を届けてきた。
それは、紛争が続くため精神的に疲弊した子供たちのために、
アートや音楽を通してセラピーとしてのワークショップを展開する
というもので、「音楽とアートを活用したリクリエーションによる
支援プログラム」と言えるものであった。

この趣意書の全訳が下記のHPに載っている。
92年にサーブリーンを招いたスタッフの一人、岡田氏がたちあげたページだ。
http://homepage2.nifty.com/tokada/sabreen/sab-top.html
そこには、パレスチナの子供たちが置かれた状況について以下のように書かれている。

「子供たちの個人的なアイデンティティは、伝統と自衛の強大な文化の中に
飲み込まれてしまっている。敵意に満ちた環境の中でのこうした社会的価値観が、
子供の精神の上におおいかぶさっているのだ。こうした状況に対抗できない
子供たちは内側に引きこもり、抑圧と孤立へと追いやられることになる。
これらの、子供たちへの影響は、たとえ直ちに訪れるものではないとしても、
それが取り返しのつかないものとなる危険性は高い。」

私は、世界中のあらゆる紛争のニュースを聞くたびに、
精神的に抑圧される子供たちはどうなるのだろうと思ってきた。
それに対する具体的な対処プランを、私は初めて読んだ。
もちろん、各地でもこのような取り組みはあったのであろう。
しかし、ここまでよく練られた趣意書は、世界の同様な事態にも
十分な手引きになるのではないか。

それにしても、この計画書の綿密さはどうだ。ワークショップ実行にあたって
予想されることがら全てに、実に具体的にまとめあげられている。
すばらしいのは、ワークショップにアシスタントとして参加した人は、
自らリーダーとして、別の地域でワークショップを実行できるよう、
スタッフたちの事も指導できるよう組まれているところだ。
プロジェクトはすでに昨年10月からスタートしている。
サーブリーンのメンバーが中心となって、今も着々と進行しているはずである。

あらためて彼らの新譜「Ala Fein(何処へ)」を聴き返す。すばらしい。
サーブリーンは、アラブの伝統楽器を使って、まさに今のパレスチナの
音楽を生み出し続けている。ウードで、カーヌーンで、アラビア口語で
歌うのが、彼らの新しさにぴったりと合っているのだ。
音は、ドラマティックで、スリリングで、繊細で、おおらかで、
したたかに美しい。
歌は、語るように、つぶやくように、ささやくように、
「言葉」の意味と美しさを噛み締めて、歌われる。

サーブリーンは6ヶ月におよぶ紛争をどのように見つめて来たのだろうか?
もしや、友人を失ったりしたのだろうか。冷静に中東和平を志していた
人々が怒りにかられて、自暴自棄になるさまを見たのだろうか?
しかし、ひとつ確実なのは、彼らは何が起こっても、あきらめの
気持ちを持つことはなかったということだ。
彼らは、音楽が実際に人々を勇気付けるのを、見届けてきた人たちだ。
いかなる困難な状況でも、ポジティブさを失わず、活動を続ける
サーブリーンを、私は知ることができて良かったと思う。

「剣」剣を抜いて歌うがいい
   その歌はお前に似合う
   剣の上には
   クーフィー書体で刻まれた文字
   「恋をした」と書いてある
   残りの文字はかすれてしまった   (山本薫 訳)

※岡田氏らが、新譜「Ala Fein(何処へ)」を日本で発売できるよう努力している
真っ最中です。私も早く、皆さんの耳にお届けしたいと思ってます。

+-*/+-*/+-*/+-*/+-*/+-*/+-*/+-*/
松島弘  kutaja@parkcity.ne.jp

   2001年04月06日(金)萬晩報主宰 伴 武澄
 

 3月上旬、95歳の男と銀座で出会った。遠山正瑛さん。きんさん・ぎんさんは茶目っ気で100歳を超えても人気者だったが、この男の場合はいささか違 う。内蒙古の砂漠地帯に木を植え続けることを晩年の仕事と課している。金儲けや野心からではない。「蒙古へ行くと祖国を感じる」のだという。

 鳥取大学元教授の遠山さんの名前は以前から知っていた。映像メディアにいる友人が年末に目を輝かせてこんな話をしていたことからどうしても遠山さんに会いたくなった。

「こんどモンゴルに行くんだ。日本人がずっと木を植え続けているのは知っているでしょ。その地に森が生まれて、動物たちがよみがえり、なんと湖までできたって話を取材しにいくんだ」
「それってまるでジャン・ジオノの『木を植えた人』じゃない」
「そうなんだ。人間の力ってすごいと思わないかい」

 中国の黄河は1972年からほぼ毎年、下流の流れが途切れる「断流」現象が起きている。緑を失った上中流の土地の保水能力が失われたのが主な原因だとさ れる。大規模な地球の環境変化がもたらした結果でもあるが、一方で住民による森林伐採もまた黄河の上中流の砂漠化をもたらしている。

 飢えを克服した中国の次の大きな課題は黄河流域の砂漠化を食い止め、緑化することである。遠山さんはそんな黄河上流に住み着き、木を植え続けている。

 遠山さんが住むのは内蒙古自治区の恩格貝という町。黄河が内蒙古を流れているとするのは違和感があるが、恩格貝は黄河が北に向かって湾曲するその最北端にある。北京からだとフホホトまで汽車か飛行機で飛び、さらに数十キロ行ったところにある。

 恩格貝での植林事業は王明海氏との出会いから始まった。文化大革命でずたずたにされた心を癒すために恩格貝の緑化を始めていた。二人をつないだのは日本 人を母親に持つ谷曉蘭さんだった。パオトウの緑化研究所で日本文献の整理に当たっていた。あるとき蘭州の砂漠研究所で緑化事業に協力していた遠山さんの招 聘を思いついた。

 遠山さんは戦前、食料増産という国家プロジェクトで海岸砂丘の開発に従事。以来、砂漠との付き合いが始まった。最初の訪中は田中角栄による日中国交樹立 がきっかけであるという。遠山さんが実感したのは「中国に砂漠研究所はあるが、砂漠開発はない」ということだった。江沢民主席も「農学進んで農民衰えた り」と嘆いたそうだ。

「それなら俺が」ということで、まず蘭州北部の砂漠地帯にあるサボトウというところにブドウ園をつくった。資金は立正佼成会が7000万円寄贈した。遠山さんがつくった5ヘクタールのブドウ園はいまでは1000ヘクタールまで広がっているそうだ。

 恩格貝の緑化では多くの日本人が協力している。成長の早いポプラを1本1本手植えする「緑の協力隊」を日本で隊員を募集。1週間から10日のツアーで木 を植えるだけのためにすでに延べ5000人が恩格貝の地を訪れている。やってきた日本人たちはそれぞれ「アミダの森」「犬塚の森」など思い思いに名付けて 自らの訪問の証を記している。宗教団体や労組の名前も少なくない。

 植林されたポプラは280万本を超えるはずだが、遠山さんは一切植林の規模を明かさない。

「ヘクタール数が分からないのなら、何キロ四方だとか森林の広がりを示す数字はありませんか」
「さぁ。砂漠に森が点在している状況ですから」

 いつの間にか遠山さんの目は遠くモンゴルに地に果てていた。恩格貝の植林事業はマスコミを通じて中国全土に知れ渡り、多くの中国人が関心を寄せるように なった。三年前に遠山さんの銅像が恩格貝の地に建った。故周恩来首相の第一秘書だった宋平氏がどうしてもといって建てたものだそうだ。この銅像はとかくぎ くしゃくしがちな日中関係にとって貴重な存在である。

 緑の協力隊に関心のある方は「日本沙漠緑化実践協会」(03-3248-0389)

(注)8日に一部内容を訂正しました。
 (1)植林されたポプラの本数「300万本」→「280万本」
 (2)恩格貝の距離「数百キロ」→「数十キロ」
 (3)「アイヌの森」→「アミダの森」

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