【読者の声】私学より授業料が高い公立小中学校

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2000年12月10日(日) 
萬晩報主宰 伴 武澄


  【萬晩報】2000年12月05日「私学より授業料が高い公立小中学校」を書いてからどんなメールがいただけるか正直楽しみにしていた。賛否両論は期待通りだった。

 過疎ににおいても学校開設が必要な公教育の方が私学よりコストがかかるのは仕方がないという考えが あっても不思議はない。だが考えてもらいたいのは80万円というコストである。この金額を初めて知って「えー、そんなにかかっているの」と思った人が多い と思う。筆者もまた驚いた一人である。

 このコラムはこの驚きが出発点にあった。小生の家族には3人の子供がいる。一人が高校生になったが、2年前までは国と自治体に毎年240万円お世話になっていた。というより支払っている所得税と地方税の合計額にほぼ匹敵するのである。

 我が家でも「お受験論争」があった。都会に住む多くのお母さん方には公立学校に対して「教育が退廃している」との不安感がある。あるどころか日に日に強まっている。我が家の場合は、幸か不幸か私学に通わせる余裕がないという結論に達した。

 小野澤さんが伝えてくれたアメリカでの公教育の民間委託やバウチャ方式による間接的な私学支援策は貴重な情報でした。ここらの話について取材の上、報告できたらと考えています(伴 武澄)

 http://bbs.melma.com/cgi-bin/forum/m00000322/に教育問題について意見の書き込みができる掲示板を設置しました。議論が深まることを期待しています。
 

 コネティカット州ハートフォードでは公教育は全て民間委託 小野澤雅人

 米国コネティカット州ハートフォードでは、公教育を全て民間企業に委託して一定の成果を上げています。同様な動きは様々の都市でもあり、フィラデルフィアでは一部の学校、ジョージア州では「あの」公文が数学と作文の授業を請け負っているという話もあります。

 もはや民営化は大きな流れです。日本でも行政評価の流れの中で必ず論議される時代が来ると確信しています。ご指摘のように子供一人に80万円間接的とは言えかかっている実態は、正直言って少しおどろきました。もう少し安いのではと思っていたからです。

 これでは、やはり米国のようにバウチャ方式に切り替えよという話が日本でも出てくるのが当然の帰結のような感じがします。ちなみにバウ チャ方式とは、一部の(比較的民主党支持者の多い)教育委員会で行われている方式で、私立学校に行くことを選択した生徒に、その地域の学校予算の中から、 バウチャを発行して、そのバウチャをもって学費に充てるというやり方です。私立を選択する児童が増えると、必然的に公立の予算が減ります。公立は私立に対 抗するために質を上げざるを得ないという市場原理を導入したやり方で、民主党はこれを目の敵にしています。
 

 公立校は全て民営化するべきだ 中村 善典 

 私も義務教育はもとより、公立校は全て民営化するべきだと思います。努力する人間が馬鹿をみるお役所環境が子供達に良い影響を与えるとは 到底思えません。いまの学校(特に中・高校)は利よりも害が大きいと思えます。あの刑務所や収容所のような施設(気分の問題です。たとえ同じ作業をしてい ても、刑務所と手工業の家具工場は違うでしょう?)が子供達の精神の育成に与える害悪を考えると、昨今の年少者の凶悪犯罪の議論でなぜもっと問題視されな いのかと不思議に思います。尾崎豊の「卒業」がなぜ若い世代に絶大な支持を受けたのか、今一度考えてもらいたいものです。(私は彼の詩はネガティブなので 嫌いですが。)
 

  北海道 30歳 男

 「私学より授業料が高い公立小中学校」を読ませていただきました。常々、学校・教師の質の向上が必要かと考えている者ですが、この記事に関して、いくつかはっきりしない点があります。ご回答いただけると幸いです。

 私立学校の「学費」、公立学校の「経費」の内訳はどのようなものでしょう?二者の単純比較は可能なものでしょうか?公立学校の教員,生徒 数比は載っていますが,私学のものは載っていません。公立校の教員数はそれほど多いものなのか、客観的な判断ができません。担任1人あたり(つまり1クラ スの)人数(最大40人)は、手に余る人数であり、文部省が35人クラス実現に努力、というのも理解できます。教師数が「多い」とは考えづらいと思います が、いかがでしょう?



  【萬晩報】公立校の経費内訳は http://www.yorozubp.com/0012/001205.htm に追加しましたので参照ください。
 
 公立が私立より高いのは当たり前 帝京大学医学部神経内科 山田広樹

 今の世の中に義務教育が必要なのかという疑問はもっともだとは思いますが。公立学校の学費が平均すれば私立より高いのは当たり前でしょう。

 たとえば、離島や過疎地、養護学校などの教育では一クラスの人数はすくなくならざるを得ません。そのことを考えれば平均した一クラスの人 数が私立学校より少ないのはむしろ予想の範囲内です。私立学校は主に大都会に存在し、そうでない場合は寄宿学校のような形態をとって一クラスの人数で一定 数以上を確保しているのであり、いわばコストの安い部分だけでおいしい商売をしていると言えると思います。

 教育や医療にはどうしてもコストを度外視してもやらなければならない部分、あるいは受益者がコストを負担しきれない部分というのは存在し ます。米国などの場合その部分を慈善事業が補っているのですが、これはあのように貧富の差の激しい社会だからこそむしろ成り立つのであり、日本のように経 済的により平等な社会では同じようにはできません。

それに医療はともかく、教育を完全に民営化することには原理的に問題があると思われます。教育市場を完全に自由化・民営化した場合、教育を 受けるか、受けないか、あるいはどのような教育を受けるかということについて誰が決定すればいいのでしょう。子ども本人に決定させればいいのでしょうか。 子どもにそのようなことについての判断力があるのでしょうか。そのようなことについて決定できる判断力を養うことこそが義務教育の役割なのでしょうか。そ れとも親でしょうか。たしかに親が子どものことを最も良く知っており。最もよく考えているというのは多くの場合にあたっているのでしょうが、そうでない場 合も多いのではないでしょうか。極端な場合、自分の子どもに「悪魔」なんて名前をつけようとした親もいます。子どもは親の持ちものではありません。子ども に判断力がつくまで、親の恣意から子どもを守る役割も義務教育は負っています。そのような教育の在り方が社会によって定められ、社会がそのコストを負うと いうのは合理的であり、それをくつがえすには「その方が安いから」というよりは,もっと強力な根拠が必要だと思われます。
 

 「義務」を外しても、退廃の流れに乗った現状はもとに戻らない 山中和久 25歳

 こんにちわ。いつも楽しく読ませてもらっています。

>豊かな時代に義務教育を強要したあげく不登校や学校内暴力が
>はびこるのだとしたら、ここらで一度「義務」という概念を捨
>て去るのも悪くはない。

「義務」という概念を外しても、一度現在の退廃の流れに乗ってしまった現状はもとに戻らない。ゆるぎない物質的なゆとりがあるために(少な くとも彼らはそう信じこんでいる)、競争心や向上心を動かすためのスイッチが壊れている、もしくは競争心や向上心という動力を利用して行動に結びつけるま での歯車が、錆びて動かなくなっているか、溶けて変な方向に曲がってしまっている。

登校しなくてもいいのなら、そもそもの「不登校」という概念が消えるだけで何も生まれない。「学校内暴力」は形を変えるかもしれないがなく なるはずもない。学校に行くのが義務だから暴力を起こしている訳ではないだろう。今必要なのは中途半端なゆとりや自由ではなく、小学校、あるいは幼稚園か らの厳格な義務教育と道徳教育である。

現在の義務教育は、子供にとって「義務」となっていないのだ。ここに大きな問題と錯誤がある。

ゆとりを与えるのは高校生くらいからで良い。
 

 なかなか感心するアイデアだ 山瀬暢士

 国立大学不要論を掲げる我々(一部の)プータロー学者とは違って、義務教育不要論ですか。なかなか感心するアイデアだと思います。

 これもみんな大学にいかなければならないと持っているからこそ「学力のない大学卒」(入学時の学力は学生の意志があればあがります)が出てくるのと同じ発想ですね。

 朝日新聞などに出てくる最近の大学で、教官が新入生に手取り足取り、などという迎合教育では、いつまでもロボットを量産するだけです。

 アメリカの某州ですがオートバイに乗る時ヘルメットしなくても逮捕されません。これは死んだら自分の責任だという発想だからです。もちろん交通事情の違う日本ではこうは行きませんが,発想そのものは見習ってもいいような気がします。

 6年かかって卒業するのがあたりまえの大学が日本でごく普通になれば、遊びに行く学生の率は極端に減ります。大学生の学力低下に対する危 機感(そういう世代自体が意外と大学では何もしてない)などという,一見深刻そうで私からすればあくびの出る紙面の無駄論議も減るでしょう。

 私の博士課程は博士論文一科目だけで実に研究はすき放題やりましたが、単位が一つもなく,授業もサボってもよい環境におかれたところで、 必要な学力を身につけなければ到底博士論文など書けません。一つの目標があり,学生がやる気があり、さらに適切な間隔を置いてアドバイスする教官さえいれ ば(私の場合、教授の偽善ぶりと変人ぶりに嫌気がさし,博士論文の試験のため米国からやってきた試験官がその適切な助言者だったという悲しい現実がありま したが)、至れり尽せりの「指導」などいらないのです。

 「指導」しなければ出来ない学生は一度落第させれば、やる気を出すかそれ以外の人生を自分で探すようになります。みんなホワイトカラーの 人生が幸せだという馬鹿な観念に縛られすぎているのです。立派な会社人がいつの間に立派な社会人の定義となったのでしょう。立派な会社の多くは戦後はトタ ン屋根の小屋から始まったのです。会社以外の人生を探せる人間こそがこれからの日本を支えるのだと思います。

 国立大学の先生方が米国のように予算をもっとなどといっていながら実は教員あたりの予算を計算すると決して予算はアメリカに引けを取らない場合が多々あるのとよく似た論理でしょう。

 本来ゆとりの授業とは点数化されにくい図工や自由研究、読書感想文や作文といった知識を応用させる時間を増やす意味で行うべきなのです。 私の小学校の時の先生は土建屋から教師に転職した変り種で怒ると怖い人でしたが,町田の玉川学園の土地柄にまったくにあわないソーメン料理大会とか鯉の解 剖とか山へ生徒と昆虫取りに遊びに行くと言う、ほかの先生がめんどくさがってやらないゆとりのある授業をたくさんした人でした。結局他の先生方から煙たが られ追い出されましたが,こういう人を追い出したゆとりのない人たちによって作られるゆとりの授業なんて意味ないですよね。

 問題なのは日本の私学の経営者はワンマン体質を持つ傾向が強く、これを抑える要素がないと民営化移行が難しい面が出てくるかもしれません。  
 

 本当に教師は大変なのです 堀口 由紀子

 はじめまして。今日、友人から、「学校のことについていろいろ載っているよ」というメッセージとともに、この文が送られてきて、読ませていただきました。

 私は教育学部の大学4年生です。春からは教員になる身です。というわけで、教員側としての立場からこの意見を読ませていただいたのですが、どうしても腑に落ちないことがありメールさせていただくことにしました。

 今、学校では教員の数を増やす、もしくは、クラスの子どもの数を減らすという方向に動いています。私はこの方針に賛成です。昔と今とで は、学校の教育の仕方というものもずいぶん違います。昔だったら、みんなに前を向かせて、一気に同じ事を教えていればよかったのかもしれません。しかし、 今は、できるだけ、一人一人の能力に合わせた授業をしていこうと先生方は考えていると思います。TT(team teaching)という考え方も、そのような方針の現れだと思います。基礎、基本を身に付ける中で、考える力・生きる力を養っていくということです。

 そして、それを実際に行っていくには、今の教員数では絶対に無理です。統計的に教師一人当たりの生徒数が18.4人というのは、過疎の地 域なども入っているためではないでしょうか。都会の学校ではまだまだ教員数は足りていません。足りていないというのは、十分な教育をするために必要な教員 数に達していないということです。授業をしていても、どうしても教えきれないことが出てしまうのです。

 子どもの能力に差がある限り、どうしてもぶつかる壁ではありますが、もう一人先生がいれば、この子に理解させてあげられるのに!と思うこ とは少なくないと思います。そして、その少しずつの積み重ねがやがて、その子に落ちこぼれ、というレッテルを貼ってしまうことになるのを見ていることしか できない、という悔しさはいいようもありません。

 でも、先生には時間がないのです。朝から晩まで校務に追われ、時間ができたときには子どもはとっくに下校してしまっています。第一、子ども自身も居残りを進んでやろうとはしません。つまり、勝負はやはり授業中なのです。

 ゆとりが必要になってきたのは、教師のためではありません。教育というものは、「はじめに子どもありき」の精神で行うものです。ですから、
>だが「ゆとり」「ゆとり」といっている間にどうやら日本の
>教育の場は「教員にとってのゆとりの場」と化してしまったようだ。
このようなことは決してないとわたしは思います。

 この発言は教師の数とか、児童生徒の数とか、そういう統計上のことだけを鑑みてのものではないですか?そのような目先のことだけにとらわれた短絡的な発言をされてしまうのは、本当に悲しいです。

 むしろ、教師の仕事自体で考えれば、昔の教師よりも、今の教師のほうが大変です。今のような個を大切にする教育に方向転換してから、たとえばあゆみ(昔でいう通知表のことです)ひとつをとっても比べものにならないくらいの時間を割くようになっているのです。

 ご存知ですか?今は、(もちろんすべての自治体でそうなっているとは思いませんが、少なくとも、私の所属する自治体では、)単に数字で評 価するだけでなく、それに対して、担任の言葉が一つ一つに添えられるのです。国語、算数、理科、社会・・・道徳、学校生活全般などの項目一つ一つに対して 教師は受け持ちの子ども全員分にコメントを添えるのです。

 評価の観点も転換期の今ですから明確ではありません。いったいどのように評価すればよいものか。相対評価を加味した絶対評価などというわ けのわからない評価の仕方になり、教師は戸惑うばかりです。子どもたちの普段の様子を注意深く観察し、いいところは誉め、悪いことをしたらきちんと叱 り・・・。そしてそれをすべて記録に残す。本当に教師は大変なのです。

 義務教育は必要か、という論議にはあえて触れませんが、「ゆとり」を追求したのは、教員のためでもなんでもないということを明記したいと 思います。コマ数を削減するのが目的なのではありません。その先にある、そのゆとりがもたらす子どもたちの変化を目的にしているのです。ゆとりによって、 子ども達が自分の頭で考える力を養っていくことが目的なのです。教えられて、詰め込まれるのではない、自分の意思を大切にした、本来の教育のあり方という ものを今の日本は探し始めたのではないかと思います。

 今後どうなっていくのかはわかりません。教育というのは、今、その教育を受けている子どもたちが大人になって、生きていくようになって、そこで初めて、どうだったのか分かるからです。結果が出るのは10年、20年先です。

 しかし、私は今、自分もこの時代の子どもとして生まれていたらよかったのに、と強く思います。私が子どものころはまだまだ自分で考える時間というものはありませんでした。自分の頭で判断するというよりも、先生の顔を見て、条件反射で何事も覚えたようなところがあります。

 これはなぜいけないのか、どうしてこうなるのか、自分で考えていたのではありません。先生がこういう顔をしているからいけないんだろう、とか、こうなるって先生がいうのだから、間違いはないだろう、とか。今の子どもはそうではありません。自分で考えて進んでいくのです。

 また、自分の意見を発信する機会や自分を表出する機会も昔に比べて非常に多くなっていると思います。それは本当に小さなこと(班長になる など)かもしれません。帰りの会で発表することかもしれません。けれど、その小さなことの積み重ねが、子どもに勇気と自分自身への信頼を与え、そして、将 来その子を支えていくことになるのです。私自身が、自分への信頼というものをどこで得たかと考えると、やはりそういうことでした。

 そして、それはできるだけ小さいころから与えられるべきものだと今思うのです。このような機会を今与えることができるのは、教育の方針が 変わったからにほかならないと思います。ゆとりを大切にし、個を重視する方針になったからこそできることだとおもいます。そしてそれは確実に現代の子ども を変えていっていると思うのです。

 私は、これからの教育のあり方に大いに期待したいです。



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このページは、伴 武澄が2000年12月10日 09:14に書いたブログ記事です。

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