2000年10月アーカイブ

2000年10月28日(土)
萬晩報主宰 伴 武澄


 近くの世田谷文学館で「北杜夫展」を開催中である。開館5周年の記念展覧で、世田谷在住の北杜夫氏が選ばれた。2Fには「マブセ共和国」がある。正式国 名は「マンボウ・リューベック・セタガヤ・マブセ共和国」である。1981年、畑正憲氏の「ムツゴロウ王国」に触発されて自宅に建国したから今年は建国 20周年にあたる。いまは「大使館」がその2Fにある。

 国民は3人で、北杜夫氏とその家族だけ。フクロウをあしらった国旗があり、通貨は「マブセ」という。文学館の入場券の半券が「1万マブセ」の紙幣になっ ている。文化事業として星新一氏や遠藤周作氏に文華勲章を授与したこともあるそうだ。文学館を訪れた当日、北さんみずから国歌を独唱して、喝采を浴びた。

 北杜夫氏の作品は「白きたおやかな峰」という作品しか読んでいないから「マブセ共和国」については初めて知った。これはやられたと思ったのは筆者が5年前、友人と考えた北海道連邦国の国旗のモチーフもフクロウだったからである。

 以下は当時書いた「北海道が独立したら」というコラムをよみやすくリライトしたものである。


   しんしんと冷え込む2月下旬の夜、若い農水省の役人とビールを傾けていた。省内ではなかなか天下国家を語るチャンスがないと嘆く人だから、当然、日本国のあり方に話が及ぶ。空の缶ビールが10本も並んだころ、彼は突如としてひらめいた。

「国を出て、国を作ればいいんだよ。そうしたら日本の規制から逃れられる」
「自治体の独立だな」
「道州制なんて議論があるが、規制緩和ひとつできない政府がそんな大胆なことできるはずがない。万一やっても何10年かかるかわからない」

 1ドル=100円という円高が続けば、農業どころかハイテク産業だって崩壊しかねない。ビールのピッチが上がり、1ドル500円 ぐらいの為替だと、一人当たりGNPは5000ドル前後となる。アジアの中進国以下の水準だが、「教育水準が高くて日本語が通じる投資国」として売り出せ ば、NIES諸国より有利な地位になる。農業だって国際的競争力を回復できる。国からの補助金は切れるが、インセンティブがあれば投資はある程度、外国に 依存できる。

 まず日本国憲法は武力の行使を認めていないし、知事の要請がないと自衛隊は出動できないから一方的独立をしても自衛隊は何もできない、簡単な住民投票で 独立できそうだ」という点で一致した。アメリカも英国の規制から逃れるため独立した。日本の徳川時代の諸藩は半独立状態で独自の通貨を持っていたり軍隊を 持っていた。そこでどこが一番独立しやすいか考えた。彼はつぶやいた。

「北海道だな」

 経済規模としても適当で道路などインフラ整備が比較的進んでいる。ハブの役割を果たせる24時間体制の滑走路4000メートル空港の存在は大きい。農業も本土のように反当たりなんてけちな単位を持ち出さなくて済む。

 室蘭に高炉が復活し、紙パルプ産業どころか、炭鉱も復活するかもしれない。ビールがなくなって水割りに移ったころ、北海道国の未来は輝きはじめ、具体的 国家作りに入った。政体は大統領制を中心とした連邦国家とすることに決まった。ほかの本土の自治体が参加しやすいからである。輸入リンゴと競争したければ 青森県だって参加できる。秋田県が「あきたこまち」の秋田県も連邦政府は歓迎する。

 北海道はアメリカ同様本土で食えなくなった人々が移民したところ。首都は札幌でなく、中心の旭川に置き、札幌は経済の中心として残ればいい。最高裁は帯広、議会は函館が候補地として上った。三権分立だ。

 国語について彼は当然ながら日本語を主張した。国旗はアイヌの神様である「ふくろう」をあしらう。国歌は札幌オリンピックの歌となったトワエ・モアの「虹と雪のバラード」。僕たちは18世紀後半のワシントンやジェファーソンのように国の将来を語り続けた。

 通貨名だけは決まった。「ピリカ」。美しいという意味のアイヌ語だ。。大切なのは通貨の切り下げだけだ。切り下げなくして独立のメリットはまったくない。産業の競争力を回復できないからだ。僕が口火を切った。

1ドル=300ピリカ程度だろうか」
「そんなに北海道経済が強いはずがない。貿易黒字のもとになるハイテクや自動車なんてなんいだから」
「それもそうだ。そうすると1ドル500ピリカぐらいかな」
「そんなもんだろう」

 果てしない議論が続き、やがて東の空を白ずんできた。そしてはっと、目が覚めたら自宅のベットに横たわっていた。


2000年10月24日(火)
中国情報局 文 彬


 ●陳水扁総統誕生で再び動き出したリー

 9月24日の早朝、台北の寰鼎ホテルで大統領プレゼンテーションルームを設置するフロアマネージャーとそのスタッフは一時慌てふためいた。昨晩からここ に泊まっていたリー・クァンユーシンガポール上級相は準備された豪華な朝食メニューには目もくれず、いきなり焼餅(ショウピン)、油条(ユウチオ)、豆花 (ドウファー)などという台北の屋台にしか出てこないような庶民的な料理を注文したのだ。フロアマネージャーはすぐさまコック長と連携をとり、市場で買い 集めてきて貴賓の要望を叶えることが出来た。

 リーはよほど台北のことが懐かしかったのだろう。かつて、自ら心身の保養地だと言っていたほど良く訪れていた台湾も、今回は7年振りの再訪だった。リー は蒋経国と腹を割って意見を言い合えるほどの深い間柄だったが、1992年に総統に当選した李登輝とは意見が合わなかった。リーの口の出し過ぎと李登輝の 嫉妬心が原因だとの説もあるが、ただ単に性格的に馬が合わないのだという人もいる。それが日増しに悪化し、1994年以来二人は全く会うことがなくなり、 リーも台湾島に行くことはなかった(今回も李登輝はリーのスケジュールに合わせるように期間中台北を離れ地方視察に出かけていた)。

 もちろん、リーは台北の庶民料理を楽しむために来たのではない。三泊四日のスケジュールの中で彼は台湾政界の多くの要人と顔合わせした。陳水扁総統、唐 飛行政院長、荘銘耀国家安全会議幹事長、邱義仁副幹事長、李遠哲中央研究院院長、蔡英文大陸委員会幹事長、連戦国民党主席、宋楚瑜親民党主席などが次々と リーとの会見をした。なかでも、陳水扁は2回もリーの宿泊先を訪ねている。1998年、陳水扁が台北市長の選挙で馬英九に敗れてから、シンガポールでリー の温かいもてなしを受けた恩に感謝するということもあるのだろうが、三軍を統率する台湾の総統として、2度もプライベートで訪台した外国人に会ったことは まさに異例中の異例である。

 シンガポールを独立させ、31年間この国のトップを務めたリー・クァンユー上級相は、首相のバトンを後任のゴー氏にわたしてからも(1990年)、国際 政治の舞台で精力的に活躍している。アメリカのレーガン、ブッシュ、クリントン、イギリスのサッチャー夫人、プレアをはじめ、西側の首脳はアジア問題に関 して揃って彼の意見に耳を傾けてきた。とくにアジアではリーの人望が高く、各国の首脳にも幅広い人脈を持っている。宋楚瑜親民党主席がリーのことを「世界 的な指導者」と称えたのもただのお世辞ではない。

 そして、大陸と台湾のためにもリーは大きな役割を果たしてきた。1994年にシンガポールで行なわれた両岸関係の最高実務者会談(新しい両岸関係のきっ かけとなった「汪・辜会談」)もリーの仲立ちで実現したものである。李登輝との関係悪化で暫くは口を出さなかったが、彼は陳水扁が総統に当選してから再び 動き出した。

 今年の6月、リーは北京で行なわれた「21世紀フォーラム」に出席し、「中国は経済の発展に注目すべきだ。国家統一の目標が脅かされないかぎり、台湾と は辛抱強く付き合うべきだ」と力説し、直接江沢民らの指導者に会って自制を呼びかけたりして、まず大陸側で精力的な行動を見せてきた。そして、今度の台湾 訪問が実現したのだ。

 もっとも、シンガポール上級相であるリーの訪台は公式訪問ではなく、また、台湾要人との会見も報道陣の取材をいっさいシャットアウトした形で、まさに密室の会談だった。

 ●台湾に依存してきたシンガポール国防

 多くの人には意外なことかも知れないが、一見国土の小さなシンガポールは、東南アジア諸国の中でも有数の軍事大国だ。今年8月9日、建国35周年記念式典で陸海空の最新兵器を披露した盛大なパレートは、外国のマスコミからも大きく注目されていた。

 1965年、シンガポールがマレーシアから独立したときには、軍隊は1,000人程度、戦闘機一機、老朽化した軍艦数隻といった悲惨な防衛戦力だった が、35年間の進化には目を見張るものばかりだった。5万人の正規軍がすべて機械化装備を整え、機動性も優れている。いざとなれば、全国からすぐにも30 万人の予備軍を集めることができる。空軍と海軍も最先端の兵器を備えており、侵略者を国境の外に食い止める能力が十分持ち合わせている。そして、シンガ ポールの国防工業局は世界の兵器メーカーベストテンにも入っており、もっとも性能の優れたキャノン砲もここで造り出されている。

 このシンガポールの国防建設に、台湾は昔から大きく関わってきた。建国当初、シンガポールはイスラエルの軍事専門家に頼っていた時期もあったが、70年代に入ってから、全面的に台湾にシフトするようになった。

 シンガポールの初代海軍総長邱永安はシンガポール生まれ育ちの華人だったが、第二次大戦中、中華民国の国軍に入隊し抗日戦争、国共内線に参加した。そし て、国軍が台湾に敗退したあとも20年以上台湾の軍に留まったが、1974年、シンガポール側の要請で邱はシンガポール国籍に戻り、昨年亡くなるまでシン ガポール海軍の建設に多くの軌跡を残した。シンガポールには、邱のように台湾から来た元台湾の軍人が数多くいた。なかには高級将校となって、今もシンガ ポール軍で活躍している人も少なくない。

 この「星の光」と名付けられた秘密の軍事協力プロジェクトは80年代になってマスコミに暴かれてからも、シンガポールが中国大陸と国交関係を結んだあと も中断することはなかったし、いまも台湾にはシンガポール軍の訓練基地があると報道されている。ただ、中国や周辺諸国の反撥を懸念しているのか、共同訓練 はいつも極秘のうちに行なわれている。だが、意外なことに中国はこれを容認している。1990年、李鵬前首相がシンガポールを訪問したとき、「星の光」は 客観的に必要だとむしろ理解を示していた。

 一方、シンガポールは中台問題で時々意志表示に苦慮しながらも海峡をはさんで台湾と対峙している大陸との関係がここ20数年間さざなみを立てたこともな く順調に進んでいる(建国当初、東南アジアにおける共産主義者追放運動によって中国・シンガポール関係が悪化していた時期はあった)。中国の近代化建設に シンガポールの経験を多く取り入れた。両国間貿易も順調だし、国際政治の舞台でも対立したことはなかった。

 このように、中台の何れとも良好な関係が保ててきたのはシンガポールのスーパー活動家であるリー・クァンユーの役割が非常に大きかった。彼は、台湾では 蒋経国元総統、大陸では鄧小平元最高実力者をはじめ、幅広い人脈を持っているし、同じ華人ということもあり、人望が厚く敵もいないため、海峡両側に対して 強い影響力がある。口の出し過ぎだという批判の声も聞こえるものの、おおむねリーの発言と活動は好意的に受け止められてきた。

 ●海の両側に深い人脈を持つ第三者的立場

 このように、人望の高いリー・クァンユーだからこそ大陸と台湾の間を往来し、率直に両岸の指導者に進言することができたわけだが、さすがに今回の台湾訪 問では、批判の声も聞こえてきた。前総統李登輝はリーとの対面を地方視察の理由で避けたばかりでなく、「リーの台湾訪問は両岸関係に役に立つか」という記 者の質問にも「役に立たない」ときっぱりと言いきった。さらに民進党党内も冷ややかな雰囲気だった。シンガポールで民主主義を抑圧していたくせに、台湾に 来て大きな口を叩くなと言わんばかりの人も少なくなかった。また、台湾のマスコミもリー・クァンユー訪台に対する政府と陳水扁総統の対応には大いに不満を ぶちまけた。

 これらの不満の最も大きな原因は、極少数の側近以外、外務大臣をふくむ多くの政府要人とマスコミは蚊帳の外に置かれてしまったことから来たものだった。 リーの訪台が公式訪問ではないということを差し引いても、陳水扁以下政府と与党の指導者との会談が密室のなかで行なわれ、マスコミをシャットアウトしたこ とは情報のディスクロージャーを標榜する陳水扁政権に人々は憤慨を覚えたからである。総統以下政府高官が相次いでリーの宿泊先へ行って門を叩いたことは主 権国家である台湾の体面を損なう行為だとの感情的な批判も多かった。台湾独立を主張する建国党などは、デモ隊をホテル前に送り「内政干渉反対」のシュプレ ヒコールを繰り返していた。

 マスコミの最大の関心事はリー・クァンユーの訪台の目的と詳細内容である。実際、リー・クァンユーが今年の6月に北京で開かれた「21世紀フォーラム」 に出席して以来、台湾のメディアではリーはかつてのように、再び両岸関係の仲介役に名乗り出るのではないかとの憶測が飛び交っていた。そして、リーが台湾 に来る場合、北京から何かのメッセージを持ってくるに違いないと断定していた。昔から両岸関係は緊張感がみなぎる時期でも水面下の接触が途絶えることはな かったし、いまやリーがその触媒的な役割にもっとも相応しい人物だと見られているからである。

 一方、陳水扁政権にとってもリーに対する期待は大きいのかも知れない。米国会で中国に対する恒久正常貿易関係法案(PNTR)が可決され、世界貿易機構 (WTO)への加入も現実味を帯びてきた今、アメリカをはじめ、国際政治の動きは北京の方へ傾斜しつつある。また、両岸関係が凍結したままで会話のない状 態が続くと台湾の経済にも大きな圧迫を強いられることになるため、陳水扁政権としては何とかして現況打開の糸口を見つけたいという焦りがあるようにも見ら れている。こういう視点から分析してみれば陳水扁はリーを通じて北京との対話のタイミングや形式を探っているではないかと憶測されている。

 もちろん、リーはマスコミの仲介人説を否定した。台湾に来る前もリーは「李登輝時代、何か役に立つことをしようとしたら、酷い目にあった。もう仲介役は 辞める。ただ、第3者として台湾へ行ってアドバイスしたい」と記者に漏らしたという。また、台北も北京もリーに言伝を頼んだことを否定した(銭副総理は親 民党訪中団の質問に答える形で「両岸関係には密使がいない。いても貴方達に知られることはない」と、間接的にリーの仲介役説を否定した)。具体的な言伝は ないかも知れないが、両岸を往来し中台関係の話題を頻繁に取り上げること自体、結果的にはそのような役割を果たしていることになるのである。そして、この ような役割はリー・クァンユーにだけ許されているような気もした。

 10月9日、リー・クァンユーの自叙伝の出版祝賀パーティが北京で盛大に行なわれた。9月16日にシンガポールで出版されてから、アメリカ、台湾、さら には日本までもが相次いで書店のもっとも目立つ書架に並べた。自叙伝のなかでは、戦乱から独立へ、そして世界有数の経済センターになるまでのシンガポール の歴史と、波乱に富んだリーの生涯が書かれ、多くの関心を呼び寄せている。また、そのなかでは中台関係に関する今まで知られていなかった秘話等も多く述べ られている。このように、両岸の政治について記述が多い本にも関わらず、中台で同時期に出版を果たせたことは非常にめずらしいことである。

 何か、中国の長い歴史の中で形成されたワンパターンのような気がしてならない。対立した二つの勢力が争いを繰り返し、膠着状態になって出口も見付からな いところへ、第三者の立場にたつ人望の厚い政略家が出て取りなおして緊張が解消されるというパターンである。リー・クァンユーは政治家としての行動力、そ してもっとも成功した華人としての魅力を以って、また、海の両側に持つ深い人脈を活用して今後も両岸関係のなかで大いに活躍する時期が来るだろうと思われ る。(ぶん・ひん)


 文サンにメールはbun@searchina.ne.jp
2000年10月18日(水)
大友 賢 & 園田義明


「持続可能な開発」という概念は1987年の国連ブルントラント委員会(環境
と開発に関する世界委員会)の報告書"Our CommonFuture"の
中で打ち出されました。1992年の地球サミットでこの概念が世界が目指すべ
き目標として採択され今日に至っています。ここでそれまでの経済成長一辺倒か
ら人間と自然の共生できる経済へというパラダイムの転換が行われたことになり
ます。

環境問題は1960年代から1970年代にかけて主に先進国を中心に議論が高
まりました。しかし1980年代半ば以後は途上国問題を含めた形で地球規模の
問題として認識されるようになります。そして「持続可能な開発」へとつながっ
ていきます。

☆環境と思想

園田  このパラダイムの転換は世界的に見ても思想上かなり奇妙な変化をもた
    らします。それまで「成長か環境か」「開発か環境保全か」といった二
    元論で扱われる中で、思想上でも対立軸となっていました。極端な事例
    かもしれませんが、チェルノブイリ事故直後の反原発運動の高まりを振
    り返っても明らかであると思います。

    当時の産経新聞には「エコロジストはトマトだ」とする社説を掲載した
    ことをよく覚えています。最初は「緑」だがすぐに「赤」になると主張
    しました。当時の社会状況を象徴する内容でしょう。つまり環境問題を
    取り上げること自体、反社会的、反企業的なものとみなされていたので
    す。

    私自身はこの記事で産経新聞の先見性に大きな疑問を感じて以来、この
    新聞を手にするのを控えてきました。

    この思想的な側面は日本だけに見られる特徴ではないはずです。国際関
    係に詳しい大友さんはどう思いますか?

大友  環境問題を思想的なベースをもとに捉えるために、リベラルとマルクス
    主義的思想の二つに大きく分けて考えてみようと思います。

    前者の場合、環境保全運動は、グローバルな視点で個人の権利を守る為
    の運動と捉えられるでしょう。これは別の言い方をすれば、カント的思
    想になると思います。つまり、人間が安全な環境で生きることを「権利」
    として認め、さらにはそれが普遍的な権利であるという主張になるわけ
    です。

    後者の場合、環境問題のほとんどは先進資本主義国の手によって引き起
    こされていると論じます。人間の生活の中には必要最小限の環境破壊は
    あっても、それが必要以上に拡大していくのは資本主義経済のせいであ
    り、さらには開発途上の国にまで環境汚染を輸出している(例えば、日
    本企業の工場が東南アジア諸国に移転され、汚水を垂れ流し煤煙を出し
    まくっている現状や、日本に輸出する為に森林を伐採している現状)こ
    とを強く主張します。先進資本主義国による環境の搾取が行われている
    わけです。

    「持続可能な開発」というのは、この両者を満足させようとするスロー
    ガンであったように見えます

園田  時あたかも東西「冷戦」の終結に遭遇します。この結果、政治が多様化
    ・多元化するなかで、ドイツ、フランスに見られるように「新しい政治」
    の担い手として環境主義が独立した思想として確立していきます。

    私自身はエコロジー運動の世界的広がりの要因として「持続可能な開発」
    の概念化と冷戦終結は密接につながっているように思います。冷戦終結
    によって環境主義のマルクス的色彩が薄められ、より中立な存在となっ
    た。時には政治的に利用されながらもユニバーサルに浸透していくよう
    な気がします。

    日本の場合、冷戦終結の歴史的な認識が希薄です。根本的に何が事実と
    して起こったのかいまだに理解できていないところがあるように思えて
    なりません。

    日本では赤緑連合と揶揄されることも多いドイツ・シュレーダー政権で
    すが、試みとしては非常にユニークだと思います。原発廃止を巡る是非
    で混乱が続いているようですが、結果生み出されるものは21世紀に向
    けて極めて貴重なものになるように思います。

☆予測される自然観の対立

園田  ところで大友さん。日本では吉野川可動堰問題などのように一時的に盛
    り上がりはしますが、まだ環境主義が根付いていないように思います。
    これはどうも日本人の自然観によるところも大きいのではないかと思う
    のですがどうですか?

    現在の環境問題は西洋的な自然観が前提にあるように思います。このあ
    たり私自身も抵抗を感じることがあります。温暖化問題にしても、何か
    人間のおごりのようなものが見隠れしているように思えてなりません。

大友  面白い視点だと思います。確かに、日本人にとって「自然」は「そこに
    あるもの」で、また「あるべきもの」であり、「あって当然なもの」な
    のかもしれません。歴史的には、それぞれの神が自然に宿していると考
    えていたことにも、この感覚が見られるように思います。その分、四季
    の移ろいには敏感でも、「自然」というもの自体には無頓着なように見
    えます。

    西洋的な感覚だとこうではないと思います。人間社会と自然を切り離し
    て意識し、人間の力によって制御されるべき対象と捉えられてきた側面
    があるのではないでしょうか。特に、科学万能主義的な思想はこれを反
    映しているように思います。

    ですから、環境問題も人間がどうにかコントロールして、「人間が暮ら
    しやすい」環境作りをしなくてはならないという人間中心的な発想にな
    るのでしょうし、その考え方の度合いが日本人よりも強くなるのかもし
    れませんね。

園田  今朝子供と「お母さんと一緒」を見ていたら、♪小さい秋♪が流れてい
    ました。この曲って良く聞くと凄いですね。おそらく西洋人にはこの繊
    細さは理解できないでしょうね。

    同様に私の好きな言葉に「足るを知る」があります。今年1月の日経新
    聞で在日アメリカ商工会議所前会頭のグレン・フクシマ氏が、日本人の
    「もったいない精神はアメリカ人には理解できないだろう」と書いてい
    ました。私も「足るを知る」をアメリカ人に懸命に説明しようとしまし
    たが、英語力の問題もあって見事に挫折した経験があります。

    この繊細な自然観は日本特有のものでしょうか?大友さんにお願いがあ
    ります。韓国に友人がたくさんいらっしゃるようですが彼らはどのよう
    な自然観を持っていますか?

    年末に「神々が宿る島」バリ島に行く予定です。最近特に偏った主張が
    目立つようになってきました。日本人のアイデンティティーを見直す中
    で、この自然観の特殊性を殊更に強調しすぎるきらいにあります。極め
    て偏狭なナショナリズムではないかと心配しています。このままいくと
    自然観の対立からハンチントンの罠に陥りそうな気がします。

大友  私の印象に残っている曲に♪ふるさと♪があります。これは、長野オリ
    ンピックの閉会式で杏里さんが歌っていたのですが、彼女の歌唱力だけ
    ではなく、その歌詞に様々な季節の情景が(暗黙に)込められていること
    にふと気づいたわけです。これは、たまたまビデオに録画しておいたも
    のだったので、何度も見返してしまいました。このように、日本の歌に
    は様々な季節観が込められているものが多いのだと思います。

    イギリスにいる時に、韓国人の友人と「この国には季節が無いね。」と
    いうことを話していたことがあります。このきっかけになったのは、私
    が秋が一番好きなのですが、イギリスの秋はちょっと物足りなく感じた
    ためで、その時に感じたのは、彼らの季節観は日本人のものに近いなと
    いうことでした。ただ、私は韓国語が分からない為、この感覚がどのよ
    うに文学や歌に反映されているのかは分かりません。(この点に関して
    は知り合いのイギリス人が、イギリスの季節は「春から夏に変わったと
    思ったらすぐ秋になり(夏は無いと同じで)、秋が来たらすぐに冬になる
    (秋も冬も感覚的に差が無い)」と言っていました。)

    日本人の季節観はやはり独特なのかもしれません。しかし、それを「外
    国人には理解できないもの」といった考え方になるのは、その人の心が
    偏狭である証拠でしょう。日本の文化を理解しようとしない外国人にと
    ってはこの感覚は理解できないものでしょうが、日本人よりももっと日
    本人らしい外国人もいるわけですから。逆に、海外に出た日本人が「日
    本人はこうだからおまえらの考えは理解できない(または、理解しよう
    としない)」というのも、結局はこれを逆さにとった偏狭性の表れでし
    ょうね。

    このような考え方を日本国民の多くが持ち排他的な感覚になってゆくと
    したら、ハンチントンの罠に陥ってゆく要因のひとつになるようにも感
    じられます。

    もし「日本人が自然をこよなく愛する民族だ」などと主張するならば、
    他の国の人たちにもその感覚を理解してもらう努力をしつつ、他の国の
    事情や文化も研究してどのように自然を守っていくかというような行動
    に出るべきでしょう。

☆環境と企業経営

大友  近年、日本企業では環境問題に取り組む姿勢が顕著になりましたが、こ
    こには人々の意識の変革がそうさせた面と、企業の環境問題への取り組
    みがさらに人々の意識を変えていくという面との相乗効果があるのでは
    ないかと思うのです。もちろん、企業にとってはイメージアップの要因
    になっていることが重要ではあるわけですが、多国籍企業などは環境問
    題を人々に意識させるという点で「政府以外の意思決定機関」としての
    役割を果たしてきているように思うのです。このような企業の環境への
    取り組みに関しては園田さんの方が詳しくご存知でおられると思うので、
    その辺を具体的におっしゃっていただけますでしょうか?

園田  「地球に優しい」を呼ばれる自動車メーカーやOA機器メーカーとはこ
    れまでに随分と一緒に仕事をさせていただきました。イメージアップと
    いう面は無視できないでしょうね。ただ現場段階で実際に研究開発に携
    わっている方々は相当ユニークな連中ですよ。しっかり信念を持って日
    夜地道に努力されています。

    優秀な経営者ほど環境技術が日本にとって21世紀の生命線になること
    をしっかり認識しています。この点で基幹産業である自動車業界を例に
    取ってみましょう。

    10月2日に米環境保護局が2001年型乗用車の燃費ランキングを発
    表しました。1位がホンダ・インサイト、2位がトヨタ・プリウスでと
    もに日本のハイブリット車です。6位にホンダ・シビックHX(マニュ
    アルタイプ)、7位にスズキ・スイフトが入っており、トップ10は日
    本車と独フォルクスワーゲン社の乗用車が占めました。特にホンダは2
    年連続で最優秀燃費車に選ばれたことになります。日本の自動車分野で
    の環境技術は世界的にみても依然として高い水準を誇っています。

    日本の自動車メーカーの環境への本格的な取り組みは、1970年にさ
    かのぼります。この年、アメリカでマスキー法(大気汚染防止法)が制
    定されました。当時世界で最も厳しい排出ガス規制とされたマスキー法
    を世界で初めてクリアしたのがCVCCエンジン搭載のホンダ・シビッ
    クです。1973年の発売以来これまでのアメリカでの販売累計は55
    0万台を超えています。

    1969年、ホンダは人気車種に欠陥が見つかったことから、会社存亡
    の危機に立たされます。起死回生のため20代の技術者を中心に『低公
    害エンジンプロジェクト』を立ち上げますが先発大企業の技術の「改良」
    を試みる若手に対し、独自技術の開発にこだわる社長・本田宗一郎との
    激しい格闘があったようです。そして4年後、F1レースで培ってきた
    「ガソリンを徹底的に燃焼させる」技術を一般エンジンに持ち込み、全
    く新しい方法で低公害化を実現します。

    「これで世界一の自動車会社になる」と喜ぶ社長に、若手は「私たちは
    社会のためにやっているのだ」と反発します。この言葉を聞いた本田宗
    一郎氏は「自分の時代は終わった」と、まもなく社長の座を降りること
    になります。

    テレビでも幾度も取り上げられたエピソードですが、日本の環境技術史
    の面でも再評価する必要があるように思います。

    ダイムラー・クライスラー誕生に端を発した世界的な自動車業界の合従
    連衡もその要因のひとつとして環境技術の獲得にあることを見逃しては
    いけません。日産や富士重工、スズキ、三菱自工などが相次いで海外企
    業の傘下に入りましたが、「新生銀行方式」や「山一證券方式」、見向
    きもされない「ゼネコン業界」とは似て非なるものと思います。

    特に日本の場合、企業合併、買収、提携において「する側」と「される
    側」の単純な議論が繰り返されてきました。結果として国境を超えたパ
    ートナーシップに結びつくこともあります。特にルノー・日産の仏日連
    合は、お互いの文化がもっと深く融合できればこれまでにないコンセプ
    トの車が出来上がるような気がします。

    各社とも開発にしのぎを削る燃料電池車は、ハイブリット技術なしには
    実現できません。

    また自動車以外でも包装容器リサイクル法、家電リサイクル法への対応
    から家電メーカー、OA機器メーカーが環境技術に対して本格的に取り
    組みを始めています。

大友  なるほど、日本企業は様々な形で環境保全というスローガンを掲げ、実
    行していると思います。ただ、ひとつ気になるのは海外、特に途上国に
    出た日本企業のあり方です。私は、製品自体は環境保全になっていても、
    製作段階で環境を汚染していては、両者が相殺してしまい、結局は意味
    が無いと思うのです。

    例えば、日本は大量の二酸化炭素等の排出国ですし、一部の廃棄物が海
    外に流れ出てているといった話もあります。さらに、環境基準が緩い途
    上国に進出している日本企業はその基準に合わせて大量の排水や煤煙を
    出しています。

    これらが、日本が「環境破壊大国」とレッテルを貼られる理由のいくつ
    かですが、やはり環境を汚しながら「環境にやさしい」製品を作ること
    には意味が無い。この点で、日本の企業ならびに国民は、表向きの環境
    保全だけでなく実際の中身ももっと知る必要があるのだと思いますね。

☆環境と政治

園田  現在の与党三党は「循環型社会基本法案」で票を取りにいったようです
    が、見事に空振りに終わりました。現在はITを柱にした経済再生に集
    中しています。

    「失われた10年」は環境面では「失われずにすんだ10年」かもしれ
    ません。バブルの狂乱より現在のほうがまともですよ。この点でもう少
    し踏み込んだ理性ある議論を期待しています。

    経済成長率や失業率、財政赤字統計などに一喜一憂している様子が最近
    非常に滑稽にみえて仕方がありません。どこまで伝統的なマクロ経済指
    標にこだわるべきかの議論も必要ではないでしょうか? 環境評価を反
    映した新たな指標が望まれます。
    このあたり大友さんはどうお考えですか?

大友  GDP、消費、貯蓄等のマクロ経済指標を基に経済を測ると、これらの

    指標を改善する為の策しか練られませんから、環境は無視されることに
    なります。本来なら、園田さんの仰る通りバブル後の日本は「環境評価」
    を含んだ経済の構造改革を進めるべきだったのだと思います。あのよう
    な状況下であったからこそ思い切った改造ができたかもしれません。

    しかし、政治的な面では実際的な話ではないのでしょう。これは「環境
    にやさしくする」ということは「国民の生活を不便にする」という面が
    あるからです。

    再利用よりも再使用の方が環境にはやさしいとしたら、例えばドイツの
    ようにペットボトルを禁止してビンに置き換える必要があるでしょうし、
    缶ジュースの類や、コンビニ弁当といったものも規制の対象にすること
    になると思います。

    これは、消費活動においてはマイナス要因になるでしょうし、便利さに
    慣れた国民の同意を得られるかも疑問です。もちろん関連企業にとって
    は迷惑この上ないことですから必死に反対工作を練ることになるでしょ
    う。

    このようなことに対処できる政治家など日本に存在しないでしょうね。
    彼らにとっては、選挙での票の獲得が一番の課題ですから、票獲得のマ
    イナス要因になるものには触れたくない訳です。これを当たり前だと感
    じる政治家は発想が乏しい証拠です。全体の為の戦略的な考えが出来な
    い、利己的な人間でしょう。
   
    逆に「環境問題」を自分の票につなげられる政治家にお目にかかりたい
    ものです。その重要性を論理的に訴えることができれば、その政治家は
    支持されるべきでしょうし、この点においては国民が意識を変えていか
    なくてはならないでしょう。コンビニと携帯電話会社の提携で「さらに
    便利な社会に」という話が出てきたばかりですが、悪いとはいいません
    が、正直あまり感心しない話ですね。「便利」=「良い」といった短絡
    的な思考はもうやめるべきです。

    ただ、日本政府が何も手を打っていないかというと、そういう訳でもあ
    りません。例えば、1993年の環境基本法では国際環境法で打ち出さ
    れた、「地球益」と「人類益」という新たな概念を盛り込みました。残
    念なのが、これらの概念が形骸化しており、国民の間に浸透していない
    という現状です。これでは政治家は「環境問題」を票につなげるのは難
    しいでしょうね。

園田  現在、国会では2001年4月の施行を目指して太陽光や風力発電など
    を加速させるための「自然エネルギー発電促進法案」の審議に入ってい
    ます。

    自民、民主、公明など五党の超党派の議員で構成する「自然エネルギー
    促進議員連盟」(会長・橋本竜太郎元首相)が検討を重ねてきたもので
    すが、ここにきて雲行きが怪しくなってきました。

    与党側が電力会社に対する推進義務表現を削除した代替法案作りを進め
    ていることが明らかになったからです。小売り自由化による電力市場の
    競争激化を背景に、自然エネルギー買い取り義務に反対する電力業界な
    どに配慮したようですが、野党や現行案の作成に参加した市民団体から
    の反発は大きいようです。

    結局のところこれも票ですね。循環型社会基本法案も同様ですが、もう
    少しオープンに議論していけば新たな票の獲得にもつながるようにも思
    うのですが、どうも過去の呪縛から逃れられないようです。

    票にならない分野として日本では「外交」も挙げられますね。「外交」
    すなわち国際戦略と呼んでもいいでしょう。近頃「環境戦略」的な議論
    も多くなってきました。

    途上国はこれまで「今後『持続的な経済成長』が必要だ。途上国の弱い
    経済に排出ガス削減が義務づけられれば、成長を阻害することになり、
    絶対に受け入れられない」と主張してきました。

    確かにCO2排出量削減は、途上国からすれば先進国のエゴイズムに見え
    てしまうのもわかる気がします。過去にさかのぼって排出量を規定する
    のであれば別ですが、そうなっていないですね。ここに大きな矛盾が生
    じています。

    1997年の地球温暖化防止京都会議(COP3)においてこの問題が
    大きくクローズアップされたことは記憶に新しいと思います。

    さてどうでしょう。環境問題は各国の文化を内包しながら、途上国の債
    務問題と『持続的な経済成長』とが絡み合い、より複雑化してきました。
    コンセンサスを引き出す為に強力なイニシアチブが必要となってきてい
    ます。これまでどうりの20世紀型社会経済システムの限界が見えてき
    たような気がします。

☆持続可能な開発は可能か?

大友  園田さんのご指摘通り、「先進国のエゴイズム」という点が環境問題を
    考える上で重要です。

    環境問題自体が経済開発と密接に絡み合い政治化しています。そして、
    OECD諸国だけで40%近い温室効果ガスを排出しているという現状
    があります。

    さらには、先進諸国は環境を自国の都合のいいように破壊して発展して
    きたという歴史があります。例えば、ロンドンでは建物が多く立ち並び
    住宅も密集し、中心地ではハイド・パークやリージェント・パークなど
    の人工の巨大な公園がありますが、昔はロンドン一帯全てが森だったの
    です。ロンドンは森が破壊されて出来上がった都市なのです。これはも
    ちろん、ロンドンに限ったことではないでしょう。

    このような事実を語らずに、単に途上国には「環境を破壊するな」など
    ということは「先進国のエゴイズム」に映るのは当然です。植民地化し
    て多くの人命や資源を奪い取り、今ではそれは悪いことだからしてはい
    けないと言いながらも誤りもしない旧宗主国としての先進国のあり方が
    反映されているように見えます。国際関係ではこのようなバイアスが掛
    かっているわけですが、それを取り除いていかない限り、新しい解決法
    は見えてきません。

    実際問題として、「環境破壊なしの開発」は先ず無理でしょう。
 
    開発が進めば進むほど環境破壊も進むのが現状だと思います。とすると、
    選択すべきは「経済成長を抑制しつつ環境を守る」か「環境には気を配
    りつつも開発を優先させる」かになります。
    
    途上国が望むものは何よりも経済成長ですから、後者の考え方が支配的
    になるでしょうし、ある程度の先進国で環境問題に敏感な国は前者の考
    え方になると思います。

園田  私自信の結論も大友さんと同じです。「環境破壊なしの開発」は不可能
    です。先進国側にとってさらなる成長を前提とするには大変聞こえのい
    い「持続可能な開発」と途上国の「持続的な経済成長」への熱望に支え
    られて行き着くところまで行くしかないようです。そして見えてくるの
    は「破局」だけです。

    この20世紀を今あらためて振り返ると人間はそんなに賢くないようで
    す。このままずるずると一歩手前あたりまで行くんでしょうね。

大友  核戦争などは直前で回避されるかもしれません。が、環境問題で恐ろし
    いのは、「じゃあ止めよう」と言ってすぐに事が片付くわけではないと
    いう点だと思います。

    つもりに積もった環境破壊がある日突然、人類に襲いかかる。その時に
    やめてももう遅いですし、ぎりぎりのところも見極められないでしょう。

    もしかしたら、もうぎりぎりのところまで来ているのかもしれません。
    これが分からないのがこの問題の最大の脅威ですね。
2000年10月16日(月)
萬晩報主宰 伴 武澄


 09月23日付萬晩報「日本を変えたイレブンと金融トップの自殺」 で長野知事選での田中康夫氏の活躍を期待したいと書いた。よもやと思ったがそのよもやが起きた。田中氏が58万票に対して次点の池田典隆・前副知事は47 万票と予想外の大差がついた。昨夜、この結果を速報で聞いて長野県民がうらやましく思った。うらやましく思うのはこの1カ月県民の多くがわくわくするよう な時間を過ごしただろうと想像したからだ。

 ●田中知事を支える議員育成が課題

 田中氏の力量については誰もが不安を持ちつつも、県民が「変化」を求めてその通りになった。田中氏にとっても県民にとっても正念場はこれからだ。

 まず長野県民に求めたいのは性急な結果を求めてないけないということだ。まず、県議会議員の多くが土建屋体質を維持したままで、いまの県政がそう簡単に 変わるとは考えられない。そして何よりも長年のカルテル的治世によって多くの県職員が旧世代の基本ソフト(OS)にフォーマットされたままであることを理 解しなければならない。

 変革にはトップの交代は不可欠であるが、アメリカと違って長年、日本では官僚が多くの政治的な意思決定に関わってきたため、一夜にして変革がもたらされるわけではない。

 官僚の仕事のやり方はそう簡単には変わらないし、議会と結託して知事のリーダーシップを棚に上げて行政を執り行う性癖は何も中央官庁だけの話ではない。むしろ地方官僚の方が変革に対して頑固に抵抗するものなのである。

 そうした状況で性急な結果を求めれば、落胆しか待ち受けていないことをまず知るべきである。自分たちで選んだ首長を長い目で育て上げるくらいの余裕がほしい。むしろ来るべき次の県議選で田中知事を支える政策集団を輩出できるよう準備を怠らないことである。

 ●信毎社長に請われて信州入りした桐生悠々

 田中氏は長野県の地銀、八十二銀行の茅野実頭取に請われて知事選の出馬を決意した。このことを関連して、明治43年(1910年)、信濃毎日新聞の小坂 順造が金沢の生まれで東京朝日新聞にいた桐生悠々を主筆として招いた古い話を思い出した。ほぼ一世紀前のことである。名声を博した山路愛山の後任主筆だっ た。

 驚くなかれ当時の信毎の発行部数は2万部足らずで、現在の萬晩報よりも少ない。山路愛山のころはたったの6000部しか発行部数のない新聞だった。悠々はそこで「二三子」「べらんめえ」というコラムを持ち、歯切れのいい筆致で信濃毎日新聞の発行部数の倍増に貢献した。

 信毎の第一声は「入社の辞」と題したコラムだった。

「文明の主義は一変せり。現在主義を放れて、未来主義に移れり。現在の向上を以て諸般の社会的制度を律せんとする主義は最早時代遅れとなりて、来るべき未 来の発達を理想とする主義こそ、即ち現に来たりつつある第二十世紀を支配する唯一の思潮たるらめ」と書き、イギリスの功利主義やマルクス、ニーチェをも時 代遅れと喝破した。なんとも自意識の強い論説家の登場だった。

 井出孫六著「抵抗の新聞人 桐生悠々」によると着任早々の信毎の読者欄にはファンからこんな投稿があったという。

「こんど来た悠々とか申す筆豆の男、来る早々県下の教育や県政に難クセをつけやがる。長野県のような議論好き、イヤサ屁理屈好きの土地にこんな議論好きの男が来ては、いよいよもって議論好きになるから困ったものだわい」

 悠々は日々の記事やコラムだけでなく、県内各地から呼ばれて県民との討論を楽しんだ。悠々が感動した信州の県民性はこういうものだった。「信州青年は知 事などの訓示的演説を聞くと『何だ、官僚が』と言って、これに何等の敬意を払わなかったにも拘わらず、新聞記者の講演には敬意を払って傾聴した」。

 なるほど田中氏も二週間の選挙戦で県民との対話を通じて、同じことを考えたのではないだろうかと想起した。これからは長野県民だけでなく、日本全体をわくわくさせる田中康夫であってほしい。


 【参考】
 2000年09月23日 日本を変えたイレブンと金融トップの自殺
 2000年01月09日 桐生悠々と個人雑誌「他山の石」
2000年10月14日(土)
北東アジアビジネス協力センター事務局長 中野 有 http://www4.ocn.ne.jp/~nbc/


 国連とはどんなところなのであろうか。

 国連の常任理事国は第二次世界大戦の戦勝国で構成されている。そのせいか日本は米国に次ぐ国連の分担金を担っているにもかかわらず、国連は遠い存在である。かえってそれが国連への憧れにつながった。

 14年前、国連の試験に挑戦した。国連といえばニューヨークと思っていたが、最初の赴任地は西アフリカのリベリアで、その後ウィーンの本部で勤務した。 リベリアの首都モンロビアから遠く離れた奥地の生活は、水道・電気という当然のインフラが整っていない。与えられた仕事は、中小企業の育成であった。企業 もあるかないかの地で2年間、開発援助のイロハを学んだ。日本の国益でなく、「国連益・地球益」のために働いたといっても過言ではない。たとえ紛争に巻き 込まれたとしても国連職員への指示は自国の大使館に従うのではなく、国連に従うことであった。

 2年間のフィールド勤務を無事終え、ウィーンに本部がある国連工業開発機関(UNIDO)に入るが、その数ヵ月後にリベリアで内乱が発生し、その後6年 間紛争が続き、計り知れない犠牲が出た。その中には、仕事を共にした多くの仲間も含まれている。紛争が発生したら取り返しのつかないことになる。地域紛争 は、未然に防ぐことが最適の解決法であることから「予防外交」の重要性が身にしみた。

 当時のガリ国連事務総長は、冷戦後の国連の役割として「平和への課題」を発表した。紛争の段階を4つのカテゴリー、「予防外交」、「平和維持」、「平和 創造」、「平和建設」に分けられている。日本では「平和維持活動」について国会での牛歩戦術がとられたが、私はむしろ、紛争を未然に防ぐ予防外交に焦点を 絞るべきであると感じた。戦争の放棄を規定する「憲法9条」を有する日本は、紛争が発生したあとの活動より、それ以前の段階で貢献すべきだと考えたからで ある。

 国連ミレニアムサミットの重要議題は、国連改革と地域紛争の解決策、貧困、環境問題等であった。米国に次ぐ国連への分担金を担っている日本は、国連の常 任理事国になるための努力を重ねているが、日本が常任理事国に入るためには国連と日本の利益に合致した国際貢献が必要であろう。国連への分担金が多いから 日本は国連常任理事国に仲間入りすべきとの主張には説得力がない。軍事というハードの分野のイメージが強い従来の国連常任理事国のあり方でなく、日本が常 任理事国になったらどのような貢献が可能かを明確に示すことが大事である。「憲法9条」を有効に使う日本の国際貢献のあり方を国連に提示すべきである。

 今夏ホノルルで国連の事務次長級のツン博士と会ったが、彼は朝鮮半島問題に関わる「豆満江開発」の重要性を強調した。豆満江は中国、北朝鮮、ロシアの国 境から日本海に流れる国際河川である。8世紀から200年間、大陸と日本を結んだ渤海船の出航地としても知られている。豆満江開発は国連が90年代初めよ り音頭をとり、中国、北朝鮮、ロシア、韓国、モンゴルが次官級の委員会を通じて、豆満江流域のインフラ整備の話し合いを重ねている。そして国連は、日本に も豆満江開発への積極的な参加を呼びかけている。しかし残念なことに、日本は北朝鮮との国交がないことから消極的なのである。 日朝国交正常化交渉は日本の主張である拉致疑惑問題とミサイル問題、そして北朝鮮の主張である日本の植民地時代の補償、賠償問題により平行線をたどってい る。

 日本と北朝鮮の共通の利益の合致点は、日本の国益にかなう経済協力ではないだろうか。日本の政府開発援助は世界一であるにもかかわらず、灯台下暗しの如 く、日本の最も近くの地域へ投下されていない。豆満江流域は大陸と日本を結ぶ文化、経済交流の発祥の地である。加えてこの地域は20世紀の紛争の導火線で もあった。この地域の紛争を未然に防ぐシステムを構築することにより、21世紀は発展の世紀になるであろう。この地域の開発こそ日本の協力が不可欠であ る。

 戦前の日本は「大東亜共栄圏」を掲げ、周辺国の同意なしに、勝手にこの地域の排他的な経済圏をつくろうとして失敗し、それが戦争の遠因となった。しかし いま、すべての周辺国が日本の資本と技術に期待している。経済を通じた多国間の協力は、予防外交や協調的安全保障という考え方からも重要だ。

 日本は国連の常任理事国に入るための具体的アプローチとして、国連が求める豆満江開発に積極的に参加することが不可欠であろう。さらに豆満江開発を通 じ、北朝鮮への経済支援が可能となる。日本の国際貢献の要は、地域の信頼醸成につながる予防外交であるとすると、豆満江開発こそ大いなるメッセージとなる であろうし、日朝国交正常化に伴う経済協力の核となるであろう。


 中野さんにメールはnakanot@tottori-torc.or.jp
 北東アジアビジネス協力センター http://www4.ocn.ne.jp/~nbc/
2000年10月11日(水)
ジャーナリスト 平岩 優


 今春、渋谷界隈のネット関連企業の集積がシリコンバレーならぬ"ビットバレー"として、マスコミにさかんに取り上げられた。ビットバレーとは99年春頃 から自然発生的に形成されたネット関連ベンチャーの集まりである。今年2月のビットバレーの集会には野次馬も含めて、3000人の参加者が集まり、社会的 なムーブメントとなった。かってファッション、音楽など若者文化の発信地といわれた渋谷がIT関連の集積地となりつつあるようである。

 たとえばゲームなどのCGクリエイターの養成校として名高いデジタルハリウッドが今年、JR渋谷駅前の新ビル「Qフロント」に渋谷校を開校した。デジタ ルハリウッドは94年に開校し、いままでに1万5000人以上のCG、webクリエイターを育成してきた。私も5年ほど前に、3D映像の制作現場をのぞか してもらったことがある。

 しかし、渋谷校ではクリエイターだけではなく、インターネットを使ったビジネスモデルを構築しようという企業やビジネスマン、起業を志す人のためのカリ キュラムも始められた。渋谷校に通う生徒は大学生から60代と幅広いが、フリーターが少なく、社会人が7~8割を占める。日曜日の午前1時~6時30分開 講のミッドナイトスクールでは、9割が社会人である。すでに在学中から起業する生徒も輩出し、同校自体がネット関連のクリエイターやビジネスマンのコミュ ニケーションの場となっているようだ。

 また、同じ駅前にオープンした「マークシティ」にもIT関連のインキュベータースペースがオープンし、起業家が殺到しているようだ。ちなみに、このマークシティのオフィスのテナントの約半数はIT関連企業によって占められているという。

 東京23区内に本社のあるネット関連企業は1194社あるが、そのうちの37%にあたる436社がビットバレーと呼ばれる渋谷区、港区にある(99年 「首都圏白書」国土庁まとめ)。その理由にはマイクロソフトやAOLジャパンといったIT関連の大手取引先が多いことや、通信回線の環境がよいことなどあ げられている。ビットバレーのベンチャー活動を支援するNPO「ビットバレー・アソシエーション」によれば、渋谷界隈のベンチャー企業でアルバイトをして いた学生が、卒業後、ワンルームマンションを借りて起業する例なども多いという。学校からのアクセスがよく、アフターファイブに遊べて、しかも私服で仕事 ができるようなワークスタイルがフィットする街ということであろうか。

好きなインターネットでビジネスを  尾関茂雄さん(25歳)もそんなアントレプレナーの一人だ。尾関さんは大学時代から「好きなインターネット」でビジネスを立ち上げたいと考え、「ネット エイジ」(インキュベーター)の創立に参加したり、「サイバーエージェント」(ネット広告)に籍をおいてビジネスを学び 、99年10月に「アクシブドットコム」(http://www.axiv.com)を創立した。

 同社の事業はオンライン・プロモーション・サービス。具体的には企業の消費者向けの懸賞やプレゼント情報をホームページに集め、登録した会員向けに無料 で応募代行サービスを行う。会員は名前、住所など必要事項をうめる手間をかけずに、希望する懸賞に応募でき、一方、同社は会員の属性や懸賞応募の履歴など をデータベース化し、マーケティング資料が得られる。こうした会員のデータは企業にとって商品開発の資料やDMの配信などに利用できる。

 尾関さんは「一般ユーザーにいかに便利なものを提供し、会員数を確保できるかが勝負です」という。現在、懸賞の掲載企業は延べ約3000社におよび、6月からは携帯電話向けの窓口(http://mobil.myid.ne.jp)もオープンし、会員は10万人を突破した。年内には20万人の会員獲得を目標としている。

 尾関さんはビットバレーの運営メンバーでもあり、この集まりに参加するメリットも大きいという。「最初のエンジェル(個人投資家)に出会えた」場であ り、メンバー同士の情報交換、人材の交流や移動も活発に行われている。「やりたいことはたくさんあるが、人的ソースが追いつかない。それにITは進化のス ピードが速く、自分ですべてをやっていては間に合いません。得意な分野に集中し、足りないところは提供しあっています」というように他社とのアライアンス も進んでいるようである。

 ●ビジネスモデルの特許申請

 篠田示承さん(31歳)は大学卒業後、営業職、シンガポールでの日本人子弟の塾教師、司法試験への挑戦など、さまざまな履歴を経て、96年にweb構築 の制作会社「東京サイバースペース」を設立した。資本金わずか2000円からのスタートだったが、99年度の売上げは6000万円を突破した。

 しかし、篠田さんはそこで満足せずに、今年1月にはネット上でweb構築の受発注を仲介する会員制の「ミツモリドットコ ム」(http://mitumori.com/)を設立した。会員の発注者が「ミツモリドットコム」に仕事を登録すると、会員の受注者が見積もりを付け て応募する。いわゆるBtoB(企業間)の電子商取引である。会費は無料だが、ビジネスが成約した場合は受注者から5%の仲介料を徴収し、受発注者へのコ ンサルティングなども行っている。現在、会員数は1200社を突破、その所在地も北海道から沖縄までの国内にとどまらず、オーストラリアなど国外にまで広 がっている。

 篠田さんはこの事業アイデアをビットバレーなどさまざまなメーリングリストに流すなどして、19人のエンジェルから2550万円の資本金を集めることが できた。また、アメリカのサン・マイクロシステムの目にとまり、ニューヨークのビジネスショーでプレゼンテーションする機会も与えられた。

 篠田さんの日課は5時半に起床して、夜の10時まで仕事というハードなスケジュール。「ビジネスモデルの特許も申請しましたし、2002年の株式公開を目指します」と意欲を燃やす。

 ●インターネットで物件情報

 インターネット上で不動産情報を提供する「ネクスト」の井上高志さん(31歳)は、もと不動産販売「リクルートコスモス」の辣腕営業マンだった。

 井上さんは同社での営業活動から「物件探しなどを通し、不動産は情報産業であるにもかかわらず、インフラが整備されていない」ことを思い知らされる。だ から、消費者に届く物件情報は質・量ともに不足し、流通自体が不透明でもある。そこで、97年に「ネクスト」を設立し、インターネット上の不動産情報シス テム「HOME'S」(http://homes.co.jp)を立ち上げた。このシステムは不動産業者が入会金3万円、月1万5000円の会費で、物件をいくつでも登録できる。物件の新規登録や登録抹消などのデータ更新もリアルタイムで行える。

 一方、消費者はホームページ上で求めている物件の条件、賃貸住宅であればエリア、路線、間取りなどを指定すると、適合した物件の一覧表が表示される。個 々の物件をクリックすればより詳細な情報をみることができる。現在、会員数は650社、一般公開物件は全国で8万件(登録物件は33万件)で、月間150 万ページビューのアクセスがある。

 井上さんの当面の目標は、年内に会員数を1000社にまで伸ばし、2002年度の売上げ目標を7億円とすることである。また、不動産業界の共通のデータベースフォーマットを作る構想などを通じて、不動産流通の改革を押し進めたいとしている。

 3人の若き起業家の話を聞いていて、時代の大きな波がたしかにここに押し寄せてきていると感じられた。もちろん、この4月ハイテク株が暴落しネットバブ ルが囁かれたように、ネットベンチャーのビジネスモデルが企業収益に即、結びつくわけではない。登場していただいた経営者が成功モデルを作れるかどうかも 不明である。ある外資系金融機関のアナリストからは、台湾のベンチャーに比べたら、語学力もなくひ弱だという意見も聞いた。しかし、ここに寸暇をおしん で、しかも生き生きと楽しみながら仕事に打ち込む若い世代が台頭している。しかも、この人達の話からはそれぞれ旧いシステムややり方を変えて、新しい社会 (システム)を作りたい、新しい生き方をしたいという「世直し」の気概も感じた。こうした起業家たちの集積がまた呼び水となり、篠田さんは「いま、野心の ある若者が渋谷を目指して集まってくる」という。

 振り返ってみれば、ここ20年ぐらいの日本は衣食足り、消費財は手を伸ばせば何でも手に入るが、強い閉塞感につつまれていなかっただろうか。成功した経 済大国の一員たるには、決められたコースが設定され、これでいいはずはないと思いながら、皆が表向き平和と平等を享受する振りをしていた。そうした欺瞞は 子供たちに伝わらないはずがない。

 もちろん、そんな社会に風穴があいたとは、まだ思えない。しかし、結果の良し悪しはわからないが、古いくびきを断ち切ろうとするある力の兆しが現れたように思う。

 ちなみに、依然、賃料の低下が続く東京のオフィス街で、渋谷だけがオフィスの引き合いが多く、賃料が上昇しているようである※。街を活性化するのは大規模なインフラや施設の建設などではなく、まず、そこに住まい、働く人の力であろう。

※(社)東京ビルヂング協会の7月調査によると、千代田、中央、港3区は4月に比べオフィス賃料水準が低下したが、渋谷区は16.7%上昇(2000年9月20日付け日本経済新聞)。


 平岩さんにメールはyuh@lares.dti.ne.jp
2000年10月04日(水)
萬晩報通信員 園田義明


 9月13日クリントン米大統領は、日本の調査捕鯨の拡大問題でミネタ商務長官が対日経済制裁を勧告したのを受け、米国の200カイリ経済水域内で日本漁 船が操業することを禁止する制裁を発動した。日本は、ミンククジラに限っていた調査捕鯨の対象に、今年7月からニタリクジラとマッコウクジラの2種を加 え、米国や自然保護団体などの批判を招いていた。大統領は日本が方針を撤回しない場合、経済制裁を科すとも警告している。(ロイター記事より)

 イギリス留学から帰ってきたばかりの若き国際関係学者である大友氏とのクジラをめぐるメール対談です。
 

大友 一つ気になる話題が。今回の河野外務大臣の訪米で、日本の捕鯨に関し
    てアメリカとのやり取りがあったようですが、以下の点で結構注目され
    るところではないかと思います。

        1 理論的側面: レジーム理論による、捕鯨規制の影響力とWTOの
             兼ね合い。

        2 倫理的側面: NGOによる、アメリカ議会への圧力が大きいと考
             えられること。

        3 日本の外交: ここで、アメリカに対して強く出ることが、対アメ
             リカ、対アジア、対ヨーロッパ外交・戦略にどのよ
             うな影響をもたらすか。

        環境問題や捕鯨問題に関して、今後の日本の外交を大きく左右する要因
    になるのではないかと思います。

園田 これ以上悪化すると思いますか? というかこの問題が長期化すると思
    いますか? 結局米大統領選向けパフォーマンスに終わるような気がし
    ます。

大友 確かに大統領選に向けてのパフォーマンス的要素が強いのですが、私が
    関心をもっているのは、なぜこれがパフォーマンスになりえるかという
    点です。

    つまり、この裏にある、動物愛護団体、環境NGO等の動きが、今後の
    国際世論に対してどれだけ左右するかという点で興味があります。つま
    り、今回の大統領選においてはこれらの団体を意識したパフォーマンス
    であることは明らかであるとは思いますが、これが大統領選だけではな
    く、今後のアメリカの政治に与える影響力といった点で、まだ先がある
    ような気がします。

    今回、アメリカが200海里水域内での日本の操業を将来にわたり全面
    禁止とあっても、これは実質的に影響はないと新聞記事にはありました。
    ですから今回の件はパフォーマンスの域を出ないでしょう。が、今後の
    動きがこれだけで済むものなのか、注目しているわけです。

    また、文化の相違といった点でも注目しています。日本や韓国またはノ
    ルウェーなどでは、鯨を食べる習慣がありますが、それがない地域では
    「野蛮な行為」として受け取られます。特に、ヨーロッパ、アメリカ、
    オセアニアなどではそれが顕著なのでしょう。オーストラリアなどで、
    鯨が湾に入ってくる光景を人々が高台から眺めている光景を目にします
    が、これはある種の神秘的な存在として鯨を見ているからだということ
    です。(神の使いがやって来たというような感覚)

    日本人の場合は、それとは違う意味で鯨に感謝しています。これを彼ら
    は理解できない。そして、鯨を食用にすることを全面的に禁止しようと
    しているわけです。ここを日本がしっかりと主張していかなくてはなら
    ないと思います。この意味で、日本の今回のアメリカに対する態度には
    興味があるわけです。

    捕鯨問題における私の関心は、上記の「NGOや環境保護団体が政治に
    与える影響力」および「文化の相違と不理解」の2点です。ですから、
    これか今後さらに尾を引く問題ではないかと考えています。

園田 こと捕鯨問題に限定すれば長期化しない理由として、アメリカ国内の制
    裁アレルギーにあります。かって米ソ冷戦時代にソ連のアフガニスタン
    侵攻で、当時のカーター米大統領は、米国産小麦の対ソ禁輸を発表しま
    したが、農民の圧力で、撤回せざるを得なかった苦い経験があります。
    この時の教訓が尾を引いているはずです。

    すでにアメリカの食品業界や農業団体は、対日制裁が米国農産物の日本
    向け輸出に響く可能性について、懸念を示しているようです。この分野
    にまで波及すれば大統領選への影響はマイナス要因が上回るはずです。
    従って現在アメリカ側も制裁品目の特定に頭を抱えているのではないで
    しょうか。

    ただし大友さんの御指摘どうり、「NGOや環境保護団体」を巻き込ん
    だ今回の捕鯨問題に象徴される構図は、これから日本を悩ませることに
    なるでしょう。今回の日本政府の対応にもアメリカ側への主張はある程
    度打ち出せていますが、「NGOや環境保護団体」へのアピールが聞こ
    えてきません。従って味方がないままひとり大声をあげているようなも
    のです。

    ところで捕獲した鯨はやっぱり食べちゃうんでしょうか?私にとっては
    鯨って小学校の給食で食べた記憶ぐらいしかないので残念ながら多くの
    日本人がこの問題で「目くじら」を立てる感情が今ひとつ理解できない
    ところがあります。
    
    
大友 先ず、アメリカの「制裁アレルギー」ですが、園田さんのおっしゃる通
    り、一方の筋が通ればもう一方が通らなくなるという点で、アメリカ政
    府の頭痛の種でしょう。ですから、カーター政権時代の件も例として的
    を射ていると思います。ですが、今回は状況が違うように思います。N
    GOなどの団体は、政府や企業などに対して常時目を光らせプレッシャ
    ーを与え続けます。これに対処していかなくてはならないのですから、
    一時的な処方箋では通用しなくなるように思えます。

    また、なぜ捕鯨問題がこのように取りざたされているのでしょうか?? 
  
    確かに現在の日本人がどれほど鯨のお世話になっているかと聞かれれば、
    ほとんど無しと言えるのではないでしょうか。少なくても、一般人には
    身近に感じられない食品であることは確かであると思います。私の場合
    はなおさらです。しかし、その食文化をなくしてしまう理由もないわけ
    です。他の理由として私なりに考えたのは、

    1. (日本の)国家としての意地
    2. マスコミによる意識の増幅

    であると思います。

    1に関しては、あまり意識されていないかもしれませんが、国際関係上
    でよく見られるものです。自国の意志を他に「委ねる」、または「譲る」
    事は、独立国家としての地位と権威に関ることなので、些細なことであ
    っても意地になることがしばしばあります。

    2に関しては、マスコミが繰り返し伝えたり、時に必要以上に大きく取
    り上げることで、国民の問題意識が増幅されることをさします。案外意
    識していないことですが、国民意識の形成がこのようになされることが
    あると思います。今回の例では、捕鯨問題が「日米または日本とヨーロ
    ッパ・オセアニア諸国の対立」として刷り込みが自然と行われています。
    それは報道のあり方にも因ると思います。例えば、捕鯨問題が日米関係
    に発展したという報道がなされても、捕鯨で生計を立てる人がどれほど
    いて、捕鯨無しではどれだけの社会問題が起こるとか、「鯨を食さなく
    なる」ことが日本経済にどれだけ影響を与えるかなどといったことは議
    論されていなかったのではないでしょうか。結局、捕鯨問題=「日本」
    対「反捕鯨国」といた図式だけが刷り込まれてきたのではないでしょう
    か。

    またそれが、反アメリカ・ヨーロッパ感情に訴えていくわけです。これ
    は、実は日本だけでなく韓国でも見られるようです。私の知り合いの韓
    国人は、今回の捕鯨問題を「日本・アジアの文化 対 ヨーロッパ文化」
    といった図式で見ているようです。

園田 日本だけに限ったわけではないようですが、マスコミも含めて感情が全
    面に出てきがちですね。冷静にどちらがメリットがあるかの視点で語ら
    れるケースが非常に少ないように思います。
    
    この視点で将来を考えれば、対象はヨーロッパ文化ではなく、環境主義
    に移行してくるでしょう。従って図式は「日本・アジア文化 対 環境
    主義」となるでしょうね。その場合、かなりの部分で「理想的意志」が
    作用してきます。ただし、この図式の方が手法によっては理解を得られ
    やすいはずです。

    日本側とすれば妙な意地にこだわらず、将来を見越して速やかにそのス
    テージに議論の場を移していく方が有利だと思います。理由は、現在多
    くのNGOや環境保護団体の鉾先がアメリカのグローバリゼーションに
    向けられているからです。今ならお友達になれるかもしれません。

    問題は日本の政策決定者の想像力の欠如でしょうね。多くの方はこの点
    で30~40年ほど遅れているようですね。いまだにNGOなどを生涯
    相容れない敵とみなしている方が大勢いるようです。

    そんな方のために下のホームページを参考にされることをお勧めします。

    http://www.whitehouse.gov/PCSD/
    http://www.whitehouse.gov/PCSD/Overview/index.html
    http://www.whitehouse.gov/PCSD/Members/index.html

大友 鯨に限って言えば、正直のところあまりこだわる必要もないのだと思い
    ます。日本政府はきっとこれを認識していると思います。ただ、ここで
    譲歩すると他の漁業にも響いていくことを恐れているのではないでしょ
    うか。他国の日本食の不理解により、他の魚(鯨は魚ではないですが)
    の漁獲量を制限されてはたまらない。日本政府が恐れているのは正にこ
    こでしょう。
    
    「科学的調査・根拠」にこだわるのは、これを回避する為だと思います。
    そのようなルール作りをし、国際的に公平な調査を行う機関を将来創設
    することで、日本の食文化はある程度守られていく。(これが理論的側
    面です。)この観点からすれば、日本も戦略的に行おうとしているのだ
    と思います。

    ところで園田さんは、「マックとマクドのグローカリズム」でも少し触
    れられていますが、インターネットを使って「日本食を世界に広めよう
    構想」を実際に行おうとしていますよね。日本の食文化を守る為に有意
    義であるのでしょう。やはり、日本は「特殊」ですから、世界に理解を
    求めなくては逆に衰退するしかないような気がします。生魚や魚料理を
    食べなかった人たちが食べるようになれば、魚を保護しようという意識
    は生まれても、漁獲禁止とはならないはずです。

    このような「理性的意思」は共通項を持つことから生まれるものである
    と考えています。

園田 私は大酒飲みなので帰宅途中もついつい近くの居酒屋さんに寄り道して
    しまいます。先日、横に座った年配の方から鯨料理のレクチャーを何時
    間にもわたって受けました。漁港に近いところの出身の方でそれはそれ
    は親切丁寧に教えていただきました。

    私はこんなお話を聞くのが大好きです。伝えていく方法は時代に応じて
    いろいろあるように思います。この年配の方のお話も私なりのやり方で
    世界にお伝えしたいと考えています。


園田さんにメールは mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp
大友さんにメールは mailto:ryutar1@attglobal.net
2000年10月02日(月)
萬晩報主宰 伴 武澄


 1945年、第二次大戦が終了し、アジアで二つの大きな軍事裁判が始まった。東京裁判とデリーのインド国民軍裁判である。日本が関わった「大東亜戦争」 の評価をめぐりこの二つの軍事裁判ではまったく違う論陣が張られていた。東京裁判の法廷では連合国が日本を「侵略者」として裁き、デリーの軍事法廷ではイ ギリスがインド国民軍将兵を「反逆者」として裁こうとした。

 裁判の結果、前者では日本が「悪者」として断罪され、後者では国民軍が「愛国者」として英雄視された。大東亜戦争の最中、ともにインパール作戦を戦った間柄である。

  ●諸君は独立を欲するか、生命を欲するか

 日本の無条件降伏とチャンドラ・ボースの死によって、3年半のインド国民軍(INA)による祖国の武力解放の夢ははかなく崩れたかのようにみえた。しかし、インドの民衆はボースの努力を無駄にはしなかった。

 戦争が終った後イギリスが着手した仕事はINA2万人の将兵の処理だった。イギリスはこれら将兵を「イギリス国王への反逆」とみて軍事法廷にかけ、イン ド帝国に権威を誇示しようとした。インドの民衆、特に英印軍、つまりイギリス軍内のインド人兵士に対するみせしめとし、インド支配を揺るぎないものにする 必要があった。

 1945年11月5日、インド国民軍第一回裁判はデリーのレッド・フォートで開かれた。レッド・フォートはかつてのムガール王朝の王城で当時はイギリス のインド支配の牙城だった。チャンドラ・ボース率いるインド国民軍が「チェロ・デリー」と進軍を夢みたインド解放の象徴でもあった。

 このレッド・フォートに関してネルーは「この裁判の行われた場所として、デリーの『赤い城』ほど格好な場所はないだろう。88年前、ここで一つの裁判が あり、偉大な王朝の最後の人を裁いた。1945年の最後の週に行われた第二の裁判は次の章の終末をもたらすであろうか。しかり、その章はまさに終わらんと する前兆である」と象徴的な言い方をしている。

 英印軍の立場からするとINAに関係したものはすべて、反逆罪の対象で法的には死刑に処すべきだった。しかし、2万人もの将兵を裁くことは事実上不可能 であり、インド民衆に与える影響も大き過ぎた。そこですべての将兵について尋問調査し、「戦闘、あるいはそれ以外でもイギリス人や連合国の人員を殺害する 主役を演じたものと残酷に扱ったもの」に限って裁くこととなった。

 その結果、第一回裁判ではシャヌワーズ大尉(INAでは大佐)、サイガル大尉(同中佐)、ディロン中尉(同中佐)の3人を訴追することが決まった。罪状 は「マレイ、ビルマで、1942年9月から45年4月までの間、イギリス国王に対して戦争をしたのはインド刑法第121条違反に当たり、その間の殺人と殺 人教唆はインド刑法第109条、302条による」というものだった。

 一方、インド国民会議派は9月14日の運用委員会(プーナ)で、「インド国民軍将兵は祖国インド独立のために戦った愛国者であり、即時釈放されるべき」 と決議、INA将兵救援のためのインド国民軍弁護委員会を結成した。弁護団はインド法曹界の長老デサイ博士を首席に、ネルーら会議派のそうそうたるメン バーで編成された。1939年の会議派トリポリ大会以来、ボースと反対の立場をとっていたネルーは20年ぶりに法衣をまとっただけでない。ついに「国民軍 将兵は愛国者である」とボースの作った軍事革命集団であるINA擁護の立場に立ったのだった。

 そして10月19日、ネルーはレッド・フォートにシャヌワーズら被告を訪ね、「もし、諸君が命が助かりたいのなら、その方法がないわけでない。しかし、 万一諸君の生命が助かってもインドはなんら得るところはない。だが、もし、諸君が生命を捨ててくれるなら、インドは諸君の尊い犠牲によって得るところは大 きく、独立は促進されるだろう。諸君は独立を欲するか、生命を欲するか」と彼らにインド独立の犠牲になることを要求した。

 シャヌワーズらは「我々の生命は国民軍に参加したその日からインドに捧げられたものだ」と答えた。

 同席したデサイ博士は「諸君の生命も重大だが、いま我々が一番しなくてはならないのは諸君らの指導者ネタージの名誉を救い、諸君の軍隊であるインド国民軍の栄誉を守ることなのだ」と勇気付けた。

 ●隷属民族は闘う権利がある

 11月5日からの裁判の最大の焦点はインド国民軍が自由かつ完全独立した軍隊だったか、という点だった。会議派は日本の援助を受けた同盟軍として弁護したが、イギリス側は日本軍のかいらいであると、決めつけた。

 インド側の要請により、日本から沢田廉三元外務次官、松本俊一外務次官、大田三郎外務省参事官、元ビルマ方面軍参謀の片倉少将、F機関の藤原中佐らが証人として喚問されることになった。

 藤原中佐らは証人喚問では「INAの反逆罪は免れようがなく、刑の軽減のため証言を求められるだろう」と考え、今大戦のINA将兵の行為はすべて日本軍の命令で行われたものと証言することで口車を会わせることにした。

 しかし、インドへ来てみると情勢は日本で考えていたのとは全く逆だった。シャヌワーズ被告らの決意は固く、インド国民会議派もこの機会を利用して反英闘争を開始しようとしていた。

 INA将兵の収容所内では、ネタージことチャンドラ・ボースから授かった軍服を愛着し、誰もがビルマ戦線で使っていた「ジャイ・ヒンド(インド万歳)」と挨拶し合っていた。また、当局の制止を拒否して毎朝INA軍歌を合唱、法廷でも栄光ある国民軍階級章を離さなかった。

 藤原中佐によると、日本人は収容所に入れられたものの、看守やインド兵も好意的で、見ず知らずのインド人から多くの差し入れまであり、ネタージのことを知っているだけで尊敬されるという有り様だったという。

 軍事法廷は12月31日まで続いた。弁護側はまず、裁判の非合法を主張した。被告らの行為は、自由インド仮政府の軍人として実行したものであることと、 この仮政府とインド国民軍は独立した団体で日本の支配下にあったのではないと主張。この二点からインド国内法の適用は受けないことを強調した。

 確かに、自由インド仮政府の樹立に当たって、チャンドラ・ボースが最も苦慮したのは、いかにして仮政府を国際法上、独立かつ完全な人格として整合性を持 たせるかにあった。弁護側は、自由インド仮政府は日本政府の承認だけでなく、諸外国からも承認されており、日本政府からはニコバル・アンダマン諸島の割譲 も受け、事実上、国際法上の交戦権を持つ団体である、と主張。その独立と同時にINA所属将兵は英皇帝に対する忠誠義務が解かれるため、反逆罪も成立しな い、と結論した。

 仮政府の独立性については、いったんラングーンの仮政府に派遣された蜂谷公使が、「ボースの要請で改めて信任状を持って派遣された」とする沢田元外務次官の証言が有力な証拠となった。

 また、インド国民軍の独立性に関しては片倉少将が「インド独立運動は当初からチャンドラ・ボースの純然とした自主性から生まれた。インド国民軍はボース の完全指揮下にあり、インド解放のために武力闘争に出たのもボースの意志だった。日本は大東亜民族解放政策の一環からこれを支援した。

 したがってインパール作戦も日本軍の立場はビルマ防衛策だったが、ボースはこれをインド解放闘争に利用したもので、形の上では一緒に戦ったが、互いに別 個の作戦だった。その証拠に日本はインパール統治の意志はなく、占領後の統治はボースがビルマ方面軍との協定のもとに独自に計画した。その他、指揮権、軍 の編成、軍法会議にいたるまでINAは日本軍からの独立性を明確にしていた。この点で、満州国軍やビルマ国防軍とは大きな違いがある」などと証言した。

 シャヌワーズ被告らもインド国民軍や自由インド仮政府の独立性を主張、最後にデサイ博士が、1775年の米国独立戦争の例を引き「植民地の人民は搾取す る本国に対して独立自由を獲得すべき天与の権利を有し、英皇帝に対する忠誠より自らの国家に対する忠誠が優先する。日本とインド国民軍との共同作戦は今大 戦でイギリス軍の一部が米国のアイゼンハワー将軍の指揮下に置かれたのと同じこと」「隷属民族は闘う権利がある」と締めくくった。

 ●インド民衆の決起

 インド国民軍裁判はイギリスにとって大きな誤算だった。民衆のイギリスに対する怒りは逆に爆発、裁判の進展とともに国民軍は国民的英雄に祭り上げられて いった。この反英気運は信仰や民族、階級と言語、政党や党派を越えた大きなうねりとなった。INA自体がそうしたインドが持つ幾多の矛盾を乗り越えて独立 のため結集した集団だったからでもあった。

 インド議会では、国民会議派が連日、INA裁判の不当性や大衆のデモに対する不当弾圧を糾弾し、ヒンズスタン・タイムズやドン、ステーツマンなど有力マスコミもINA裁判批判の記事やインバール作戦でのINAの武勲話で紙面を埋めつくしたという。

 民衆は街頭に出てイギリスの支配に抗議するデモ行進展開、インド各地で暴動を誘発した。裁判が開始した11月5日の翌日、植民地政府は「監禁中のINA 将兵の中から首謀者400人を向こう6カ月の間に裁判にかける」と発表したことが民衆の怒りに火を注ぐ結果となったのだった。11月21日から26日にか けてのカルカッタのデモはゼネストにまで発展、全市がマヒ状態に陥り、火の手はデリーやボンベイなど主要都市にも広がった。

 藤原中佐は後にこの暴動をレッド・フォートの収容所内からも感じ取ることができたと自著「F機関」に記している。「レッド・フォートを囲んだ暴徒の歓声 が一段と高まり、近付いたかと思うと銃声が城内にこだまし、しばらくすると暴徒の声は怒号に変わった。キャンプのボーイが『死者何人。負傷者何人。郵便局 が焼かれた。警察署が燃えている』など状況を逐一報告してくれ、我々は固唾を飲んで成り行きをみていた」と述べている。

 12月31日、シャヌワーズ被告らに無期懲役が宣告された。イギリスは判決に対するインド民衆の怒りを恐れ、判決の公表をさけ、翌年1月3日被告3人を軍職解雇とし、釈放した。刑の執行無期延期措置を採ったわけで、事実上の無罪放免だった。

 朗報はまたたくまにインド全域に広まり、民衆の歓喜を呼び覚ました。各地で盛大に祝賀会が開かれ、カルカッタでは1月23日にチャンドラ・ボースの誕生日は町を挙げた祝典となった。

 INA裁判はこれで終わったわけではなく、その他のINA将兵の対する公判はまだ続いていたが、2月に入ると今度はボンベイのインド海軍が反乱を起こし た。INA裁判に抗議するとともに、食料や給料の改善を要求、将兵は20隻の艦船を占拠。彼らはINAのスローガンを叫び、イギリス人を襲撃した。この騒 動は海軍だけでなく、英印軍全体に波及した。

 軍隊内にまでINA裁判の影響が及んだことを重視したイギリスは、直ちにINA裁判の中止を宣言、INA将兵全員を釈放した。イギリスの敗北は近付きつつあった。イギリスにとってこれ以上のインド領有はいたずらにイギリスの経済的、軍事的消耗を強いるだけだった。

 一年後の1947年イギリスはインドへの権力委譲の準備を終えた。インドは独立した。歴史に「もし」は許されないが、ボースが生きてインドに帰っていた ら、裁判を取り巻く情勢はもっともっと激しいものだったことは想像に難くない。INAは戦場から同胞を蜂起させることはできなかったが、法廷から見事にそ の使命を果たしたのであった。

 インド独立に果たした日本の役割は決して小さくない。インド人たちが知っている常識ををわれわれはもう少し知っておく必要があるのではないだろうか。


 参考:
 2000年08月08日 日本の中にあったインド独立の原点 伴 武澄
 ネタジと日本人 レッド・フォートの暁 片倉衷
 Mikiko Talks on Malaysia マラッカで出会った「日本占領」に関する資料

このアーカイブについて

このページには、2000年10月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2000年9月です。

次のアーカイブは2000年11月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

月別 アーカイブ

ウェブページ