2000年9月アーカイブ

2000年09月27日(水)
萬晩報主宰 伴 武澄


 陪審員制度の導入の議論がにわかに現実味を帯びてきた。政府の司法制度改革審議会が裁判の審理に一般市民が加わり、判決に主体的に関与する新たな裁判制度を設置する方針を決めたからだ。マスコミは裁判への市民参加は戦後最大の司法改革だと論じている。

 萬晩報が誕生してまもなくまだ読者が100人しかいなかった時代に筆者は陪審員制度について論じた。反響もそれなりにあったが、否定的な意見が多かっ た。それから2年半しか経ていないのに裁判への市民参加がまともに議論されている。閉塞感のある現在の日本社会を打破するひとつのきっかけになるのではな いかと思う。

 以下、2年半前のコラムを再掲し、読者の意見を聞いてみたい。



55年前まで日本に存在した陪審制度

1998年01月30日(金)
共同通信社経済部 伴武澄

 大蔵官僚が、二人逮捕され、三塚蔵相と小村事務次官が辞任した。またしても日本の官僚を中心として制度疲労が表面化した。制度疲労が起きているのはは 霞ヶ関の官僚だけではない。国会はもとより、三権分立の一角を担う司法界でも同じだ。裁判の長期化、警察や検察調べに偏重した判決、特にハイテクや生命工 学などに関する裁判での裁判官の専門性の欠如はもはやおおいがたいものがある。

 西部劇で見る乱暴な裁判や報道が伝える米国での陪審裁判は必ずしも万全ではない。しかし、選挙人登録した米国人は企業の社長であれ、家庭の専業主婦であ れ、裁判所の要請があれば、すべからく陪審員としての「義務」から逃れることはできない。普通の人による普通の感覚を司法の場に導入することが重要なだけ ではない。「人を裁く」という難しい判断をあえて国民に委ねることを通じて、国民に試練の場を提供しているという側面も見逃せない。

 ●ステレオタイプでみてはいけない歴史

 陪審裁判制度が昭和初期に導入され、15年間も施行されていたことは案外知られていない。もともと明治憲法制定に際して参考としたドイツ憲法に 「Jury」制度があり、憲法草案の策定では熱心に導入が議論された経緯もあったが、「日本人にはあわぬ」とする井上毅ら政府高官の猛烈な反対に遇い、導 入に到らなかった。

 それが大正デモクラシーの護憲運動と連動、民主主義の基本として普通選挙と併せて国民の司法参加を求める声が高まった。政友会の原敬は第26回帝国議会に「陪審制度設立に関する建議書」を提出、陪審制度導入のきっかけとなった。

 明治憲法下の日本は絶対君主下のもとに国民の政治参加がまれで本当の民主主義は存在しなかったように思われているが、実はこれも戦前の社会に対するステレオタイプの見方でしかない。

 日本は対外的にはシベリア出兵や中国進出など確かに軍国主義の様相を強め、国内的にも米騒動や労働争議など社会不安が頻発していた。社会的にも政治的に も安定を欠いていたが、思想面では大正デモクラシーに代表される自由な雰囲気があり、社会制度の不備や不公正に対して国民側から多くの意見が出され、政治 に反映されたといってよいだろう。少なくとも自由と豊かさのなかで政治的無関心が蔓延している現在と比べても当時の方が政治に対して正面から取り組む姿勢 があったように思う。

 陪審制度導入もそうした国民的世論の高まりの代表例のひとつとして位置づけることができよう。

 ●全国で3339回もの講演会を開いて徹底した啓蒙

 陪審法の本格的整備は原内閣(1918年9月から1921年11月)に始まる。法律の制定は1923年4月で、施行は28年からだった。もちろん内容的 には陪審で取り扱う事件を限定するなど欧米の陪審制度から比べるとお粗末なものだったが、法律制定から施行までの5年間の準備作業と宣伝・啓蒙活動は驚く べき内容で、陪審制度導入にかけた当時の日本政府の熱意が伝わってくる。逆に慎重の上にも慎重を期した結果、5年間もかかったのかもしれない。

 判事と検事を欧米に派遣するとともに、関連法令の制定を急いだのは当然として、陪審制度の運用のため各市町村と綿密な事務協議を繰り返した。また、新制 度の徹底のための宣伝、普及活動も同時に進められ、全国で延べ3339回もの講演会を開き124万人もの聴衆を集めた。さらに啓蒙パンフレット類284万 枚を作成、ほかに宣伝用映画11巻(うち日本映画7巻)も作成している。

 日本の陪審制度は1943年、「戦時」を理由に「陪審法ノ停止ニ関スル法律」が交付され、停止した。あくまで廃止されたのでなく、停止したのだ。付則に 「大東亜戦争終了後再施行スルモノトシ其ノ期日ハ各条ニ付勅令ヲ以テ定ム」と規定しており、多くの法律学者に陪審法は現在でも「眠っている状態」と考えら れている。

 ●国民の成熟のためにも求められる陪審制度

 戦後の憲法制定過程で、陪審制度に関する議論もあり、占領軍内部には「日本の民主化政策の一環として陪審制度の導入が不可欠」との考えが強かったようだが、日本側は「時期尚早」を理由に新憲法への明文化を阻止したという。

 その際、「日本での民主主義の未成熟」や「日本人の国民性に合わない」ということも大きな理由となったようだ。未成熟だったり、国民性に合わないものが どうして明治憲法制定に当たって議論されたり、大正時代に制度として導入されたのか疑問だ。また政府が外国から制度改革を求められたときになぜいつもこの 「国民性論」が持ち出されるのか疑問も残る。

 確かに日本人のなかには義理人情があり、素人が隣人を裁くなどということは得意でないのかもしれない。自ら勝ち取った民主主義を持たないため、お上の権 威に対して弱く、専門家である裁判官に裁いてもらいたいという気風が残っていることも否定できない。しかし、それだけで国民性の問題にすり替えられてはた まらない。

 われわれも経験を通じて素人が隣人を裁くという欧米の制度を試してみる権利はあろうかと思う。いままでの傍観者から当事者になることにより、経験を通じ て「人を裁く」ことの難しさや責任を体得することができるようになる。そう考えるのは決して間違いではない。自ら民主主義を勝ち取った歴史がないのなら 「未成熟な国民」にとってなおさらそうした経験や体験が必要なのではないだろうか。


2000年09月23日(土)
萬晩報主宰 伴 武澄


 シドニー五輪で20日夕、日本サッカーはブラジルに破れたが、32年ぶりの準々決勝リーグ進出が決まっ た。数時間後、社内のどよめきをかき消すかのように日債銀の本間忠世社長自殺の一報が入った。日本を変えた新しいイレブンの活躍と不良債権という十字架を 背負った金融機関トップの死という二つのニュースが翌21日朝刊に並んだ。変わり目にある日本を象徴する紙面だった。

 筆者がいま、関心を持っているのは28日告示、10月15日投票の長野県知事選だ。対立軸のないまま、20年の長期政権を担った吉村午良知事の引退に伴う選挙で、絶対本命視された池田豊隆前副知事に作家の田中康夫氏が宣戦布告したことによりがぜん全国の注目区となった。

 田中康夫氏は一橋大在学中に「「なんとなくクリスタル」を書いて以来、人気作家の一人となっているが、そ の後ブランド志向、スッチーものなどのコラムには一定のファン層を維持してきたものの、とりたてて売れた作品を書いたという記憶はない。それほど幅広い層 の支持を得た作家とは言えなかったが、95年1月の阪神大震災でのボランティア活動や神戸空港建設反対運動で世間の田中氏を見る目ががらっと変わった。

 何が田中康夫をかりたてたのか分からないが、その田中氏が政治の世界に挑戦するとはだれも考えなかっただろう。だからこそ長野県知事選が国政レベルでインパクトを与えるのだろうと思う。

 田中康夫氏の出馬について「変わらないのが当たり前という長野が変わるかもしれないと期待している」とのある長野県民のコメントが信濃毎日新聞に載っていた。

 単純だが、いまの日本人にとって最も分かりやすい言葉ではないかと思う。村上龍氏は近著「希望の国へのエ クソダス」(文芸春秋社)で主人公の中学生のポンちゃんに「この国はなんでもある。ないのは希望だけだ」と繰り返し言わせている。村上龍氏がたどりついた このフレーズを筆者は最近気に入って逢う人ごとに話している。

 思い起こせば90年代のこの日本で1回だけ、国民に希望を持たせた時期があった。細川内閣が誕生した前後である。男も女も大人はみんなわくわくしていた。

 日本経済は決していい状況にはなかった。円高のさなかで、経済界は円高不況の到来に危機感を高めていた。 だが海外旅行が安くなり、ブランドものや輸入車も相次いで値下げされ、「物価安が生活レベルを向上させる」との期待があった。なによりも自民党一党独裁と いう55年体制の崩壊で何かが起きるとの期待感に胸を膨らませた。

 だがそんなわくわくした気分も連立政権の瓦解、そして阪神大震災によって1年足らずで一気に収束した。

 自民党が政権に戻り、政権維持のためにかつての政敵と組んだ。銀行破綻が相次ぎ、政府は銀行救済のために 巨額の公的資金注入をスタート、天文学的財政赤字の中でも不況克服を目的とした財政投入に歯止めをかける人はだれもいなくなった。官僚汚職は頂点の大蔵省 にまで及び、警察官の犯罪いもづる式に白日にさらされた。少年による凶悪犯罪が日常化し、雪印乳業の集団食中毒事件で自慢の製造業にまで信じられないもの となった。

 失礼ながら、田中康夫氏や村上龍氏が政治や経済問題に正面から取り組むとは思わなかった。彼らに男と女の間のファンタジーを描かせれば絶品だ。そんな彼らが腐食する日本列島に本格的に取り組まざるをえない状況こそ日本の病状を端的にしめしているのである。

 サッチャー元イギリス首相が回顧録の中で語っていた。「エリートたちはこの国が立ち直ることなど考えてい なかった。過去の栄光からどのようにしたら時間をかけて衰退できるかばかり考えてきた」。日本のエリートたちも同じようなことを考えているのだとしたらえ らいことだ。もはや政治や経済をなりわいとしてきた人々では解決策を見いだしえないのだろうか。           


2000年09月21日(木)
台湾研究家 船津 宏


 「9・21台湾大地震」一周年。思い返すも恐ろしい、1999年9月21日午前1時47分ごろ、台北市中山北路のホテルにいた筆者を強烈な揺れが襲っ た。花瓶が飛び、バスルームの水が逆流し、全館停電。恐怖が襲うのは個人に対してだが、同じ恐怖を全員が共有した。台湾全土が大きく揺れた。

 静かな夜の闇にカーテンを開き、台北の中心街、中山北路を見下ろした。交通信号の消えた道路をヘッドライトを煌煌と照らした車が静かに通り過ぎている。 が、街のネオンはすべて消えていた。台北駅前の新光三越摩天楼はいつもの明るいライトアップが消え、非常灯だけが寂しく点っている。NYの某有名ビルをイ メージするこのビルは台北のランドマークだ。(東京のNTTドコモ本社がこれに似ている) 「1.17阪神大震災」を経験している筆者は、「この地震は大 きい。震源地ではかなり死んでいる」と直感した。家々が軒並み崩れるイメージが強烈に浮かんだ。私にとってはその後駆けつけた日本救援隊の活躍に感動した 数日間でもあった。

 ●サインの消えた不気味な「セブンイレブン」

 余震が続く中、まんじりともせず夜が明けた。停電でテレビが消えたままなので状況が分からない。台湾では真夜中に臨時ニュースが流れたらしい。台湾から 日本に連絡が入り、妻はテレビをつけ朝一番のNHKニュースを待ち受けた。ホテルに電話が入った。受話器をテレビスピーカーに当ててもらい地震被害の状況 を知る。「大変なことになっている! 神戸よりひどいかもしれない」-心配は現実になっていく。震源地の地名を取って「9・21集集大地震」と命名された この地震は台湾中部に大災害をもたらした。

 夜が明けたので食べ物を探しに出た。赤と緑の電飾サインが消え、いつものような活気がない不気味で薄暗い「セブンイレブン」には人が押し寄せ、すでにお にぎりやパンが売り切れ状態。朝刊は「100年来の大地震」と伝える。電気の復旧は街区ごとにやっているようで、歩き続けると電気が灯る区画に着いた。

 うどん屋で肉うどんを注文し、店の角の天井近くに置いてあるテレビでニュースを見た。日本の食堂で良くあるテレビの配置だ。客は皆、食い入るように報道 を見つめている。いつもは騒がしい台湾人がこの日ばかりは無言だ。実況中継で生々しい光景が飛び込んで来る。どうしても神戸と比べてしまう。国は違っても 同じく火山帯列島の上に住んでいる我々。台湾と日本の運命共同体を意識した。

●政治を優先した共産党と真っ先に駆けつけた日本救援隊

 この時、中国共産党の唐家*旋*外相は「我が国で発生した地震だから援助も勝手にやってもらっては困る。我が国政府を通してからにしてくれ」と国際社会 に対して発言。救援活動の遅延を招いた。国連にもWHO(世界保健機関)にも中国の反対で入れない台湾は、国際救援活動の枠から除け者扱いだ。

 台北駐日経済文化代表処が第一勧銀白金支店に「台湾大地震救済義援金」口座を開設したら、中国大使館は同じ第一勧銀広尾支店に「中国台湾大地震救済義援金」という紛らわしい口座を開設して対抗した。

 多くの人が苦しみ、嘆き悲しんでいる時には、何を差し置いても助けに赴かねばならない。この期に及んで、政治を優先する体質。人民共和国を名乗りながら、人民の安全を軽視する国柄。こんな国に統一されたい国がいったいどこにあるというのだろうか。

 日本の救援隊は世界で一番早く台湾に到着した。一番近い国だから当然なのだが、いつものかったるい日本とは違った。「1.17阪神」を先に経験しているから地震に対して敏感だった。

 瓦礫の山の現場で懸命に活動する日本隊は背中に「JAPAN」の文字。新聞やテレビで何度も報道された。別におべんちゃら報道ではない。「日本隊が救援 に駆けつけた」という客観報道である。でも見出しが踊っている、写真が光っている。感謝されているのが分かる! 「取るものも取り敢えず駆けつける」「隣 近所だから助けに来た」-この姿勢が良かった。

 外国のメディアで紹介された日本の事で、これほど格好良いと感じた報道はここ十年を振り返ってもなかったのではないか。何だかよくは分からないものの、 紙面(画面)を見ていて涙が出てきた。生き埋めになった人を助け出し目立った手柄を立てたのは他国の救援隊である。それでも真っ先に行って行動した日本が 良かった。台北市政府前の救援物資センターでは主婦や学生が懸命に荷分け作業をしていた。私は郵便局で心ばかりの義援金を振り込んだ。忘れられない数日間 になった。 (2000年9月20日記)


著者へのメールはfunatsu@kimo.com.tw
2000年09月16日(土)
マレーシア国民大学外国学部講師 伴 美喜


「私は『東洋の真珠』と呼ばれるペナン島で、1925年の七夕の日に生まれたんですよ。ロマンチックでしょう?」

 高く甘い声で、悪戯っぽく、そう語るラザク先生の笑顔を、私は毎年7月7日に必ず思い出す。お元気だろうか・・・、お会いしたいなあ・・・。まるで、昔の恋人を思うような懐かしさがこみあげてくるのだ。

 ラザク先生(Abdul Razak bin Abdul Hamid)は元マラ工科大学ルックイースト政策プログラム主任。生き残った唯一人のマレーシア人被爆者でもある。

 小柄ながら、いつも身だしなみをきちんとし、背筋をピンと張った先生は、敬虔なモスレムとディシプリンあ る古き良き時代の日本人を合せたような人柄で、まるで日本とマレーシアの架け橋となるべき星の下に生まれたような方である。以下その不思議な人生の歩みを ご紹介しよう。

 10歳で父親を亡くしたラザクは、翌年、母親とともにペナンから兄のいるクアラルンプールへ引っ越す。ク アラルンプールの中学を卒業し、15歳で中学教師見習いとなる。しかし、間もなく1941年12月8日に、日本軍がマレー半島北東部コタバルに上陸。 1942年2月15日にイギリス軍がシンガポールで無条件降伏すると、マラヤは日本の軍政下に置かれる。ラザクは3ヵ月の日本語講習を優秀な成績で修了 し、セランゴール州文教科日本語教育コーディネーターに任命される。

 マラッカの馬来興亜訓練所での2回にわたる研修を経て、1944年6月に18歳で南方特別留学生に選ば れ、来日。東京の国際学友会で日本語教育を受けた後、1945年4月に広島文理科大学に入学した。しかし、8月6日、授業中に被爆。同11月、20歳で学 業半ばにして帰国した。広島で一緒に学んでいたマラヤ留学生のニック・ユソフとサイド・オマールは被爆死し(サイド・オマールについては前回コラム参 照)、今も広島と京都で眠っている。

 帰国したラザクはスルタン・イドリス師範学校で学び、中学教師、師範学校講師、テレビのジャウィ教育番組 の講師等を経て、1978年にマラ工科大学のマレー語及び日本語の講師となる。マハティール首相が提唱したルックイースト政策の一環である産業技術研修生 の予備教育が1982年に同大学で開始されると、そのプログラムの責任者に抜擢される。以後、1998年に同大学を退職するまで、日本語教育者として、ま た日マの架け橋として活躍。また、1984年からは自宅隣のモスクの管理責任者に任命され、今日に至っている。

 私は国際交流基金時代、仕事上でのおつきあいが深かったので、何度も先生の希有な経験について、直接話を聞くチャンスがあった。

 先生は日本語は美しく、音の響きがよくて、繊細さのある言語だという。帰国後は暫く日本との距離を置かざ るを得なかったが、クアラルンプールに日本大使館が開設されると、館員向けに自らマレー語教師を買って出たり、自宅で夫人が館員の奥様向けにマレー料理教 室を開いてその通訳をするなど、日本語に触れる機会を作る努力を続けたという。だから、マラ工科大学の日本語講師になった時、30年以上のブランクがあっ ても、教えることができたのだそうだ。

 先生はまた、日本文化はイスラームの教えと共通する部分が多く、その点でも親しみと興味を覚えたという。

 そして、「馬来興亜訓練所や日本留学で学んだことが、その後の生き方に積極的な影響をもたらし、『負けず に頑張る精神、困難に挫けない精神』は一生を通じての生活信条ともなった。国歌の斉唱や国旗掲揚を通じて、国を愛することも、日本から学んだ大切な価値 だ」と述べている。  先生の話を繰り返し聞いているうちに、先生の口癖である「できないことはない!」はいつしか私たち国際交流基金の仲間の間で「頑張りましょう!」に代わ る掛け声ともなった。

 60年代後半から再開されたマレーシアの日本語教育は80年代から90年代にかけてますます盛んになり、 1993年にはマレーシア日本語教育連絡協議会が発足したが、会長にはラザク先生を、と誰しもが思った。ラザク先生はこの多民族国家にあって、民族の区別 なく広く日本語教育関係者の人望を集めていた。そして、ラザク先生のもと、バラバラだった日本語教師たちがお互いの結びつきを強めていったのである。

 1995年、国際交流基金はクアラルンプール日本語センターを開設した。終戦50周年の年である。偶然の ことだった。その同じ年にラザク先生が国際交流基金奨励賞を受賞した。マレーシアからはウンク・アジズ元マラヤ大学学長の基金賞に続く、二人目の受賞者で ある。その知らせを受けた時、当時日本語センターの主幹をしていた私は感極まって、はらはらと泣いてしまった。

 自らの意思というよりも、国家の意図で「南方特別留学生」と「ルック・イースト政策」という形で日本との関わりを持ったラザク先生。その50年という長い年月を貫いた先生の日本への情熱に対し熱いものがこみ上げてきたのである。

 10月3日の東京での受賞式を終えてマレーシアに戻ったラザク先生を関係者一同が囲んでお祝いしたことは言うまでもない。先生は後に続く者の「誇り」でもあった。

 七夕はとっくに過ぎていたが、数日前、私は急に思い立って久しぶりにゴンバのラザク先生宅を訪ねた。運良 く先生はご在宅で、「伴さぁーん」、「せんせー」と握手をしたお互いの手は固く握られたまま暫く離れなかった。少し痩せられたかなとも思ったが、その75 歳の小柄な体からは昔と変わらぬ明るい「生気」が感じられ、「先生は万年青年ですね」と申し上げた。

 居間に通されると、広島県からのお客さまが歓談していた。先生は来月また広島を訪問されるという。「モスクの方も責任があるし...。一日5回行きますよ。夜は毎晩8時から10時までね。」 退職されてからも相変わらずお忙しそうな先生だった。

 そんな忙しい先生を突然訪ねて、あまり長居をしてはいけないと、暇乞いをして外に出ると、家の前に立派な 車が止まっているのが目に付いた。「先生の...」と言いかけると「いや、息子のですよ。ペナン科学大学の副学長補佐(実質の副学長)をしている長男のズルキ フリーが出張で来ているんです」と先生はおっしゃった。先生は幾多の困難をくぐりぬけながらも、やはり、幸せな星の下に生まれた方なのだなあ、と私は思っ た。

 帰り道、43回目の独立記念日を十日後に控えたクアラルンプールの町には、赤、黄色、青、白、四色の国旗がまるで春を告げるように鮮やかに咲き始めていた。

マラヤからの南方特別留学生12名の名簿
第一期生(1943年度) トゥンク・アブドゥラ.。宮崎農林専門、福岡高校文科。前国王の弟、財界人、 夫人は横浜市長(1994当時)の義妹

ラジャ・シャヘラン・シャー。宮崎農林専門、京都帝大経済学部。宮内庁事務総長(1994年当時)

ラジャ・ダト・ノンチック(故人)宮崎農林専門、福岡高校理科。上院議員,財界人、元アセアン日本留学生評議会会長、土生良樹著『日本人よありがとう-マレーシアはこうして独立した』(日本教育新聞社、1989年)は同氏の半生記、1994年死去

ニック・ユソフ(故人)広島高等師範、広島文理大。被爆死 広島市佐伯区光善寺に墓

サイド・オマール(故人)広島高等師範、広島文理大。被爆死、京都市左京区円光寺に墓、毎年9月3日の命日には法要が行われる。

ボスタム(故人)。広島高等師範、福岡高校文科

ハシム・ナイマッド(故人)神奈川県警練習所、福岡高校文科。

サイド・マンスール(故人)。熊本医大専門部、熊本医大。九州帝大病院で死去、 今も「福岡マレーシア市民の会」等が中心となり、命日や彼岸には墓参りが行わ れている。
第二期生(1944年度) アブドゥル・ラザク。広島文理大。被爆者、元マラ工科大学ルック・イースト政策プログラム主任、同氏の被爆体験についてはオスマン・プティ著、小野沢純他訳「わが心のヒロシマ」(けい草書房、1991年)、かつおきんや『マレーシアの語り人』原爆児童文学集17 汐文社)参照

ハッサン・ビン・アハマッド。陸士。父が日本人

ユソフィ・アブドルカダル(故人)京都帝大法学部。高裁判事、1996年夫人を追って自殺

イブラヒム・ビン・マハムッド(故人)徳島高専(土木)ロンドンで死去

(藤原聡他著『アジア戦時留学生』の巻末資料に加筆)

2000年09月11日(月)
台湾研究家 船津 宏


 豊かになった今、貧しい時代を振り返り、現状を反省することこそ意義がある。「豊衣足食的生活」(同国で の表現、意味は分かると思う)の台湾で頼東進さんの伝記「乞食の子」がちょっとしたブームになっていたり、粥(かゆ)を中心とする粗食メニューに関心が集 まったりしているのは、そういう時代のムードと無関係ではなさそうだ。頼さんは陳水扁のように一国の大統領に上り詰めた訳でもなく、消防機器メーカーの一 社員として平凡な生活を送っている。しかしその人生は波瀾万丈、極貧の連続であり、涙なしでは語れないものがある。台湾中の涙を誘った感動の物語を紹介し よう。

 「1999年度全国十大傑出青年」に選ばれた頼さんは中美防火公司の工場長兼生産部経理として働く。この 賞は国が毎年全国の青少年の励みになるようにと表彰しているものだが、その中でも特に頼さんの人生は際立っており、自伝「乞食の子」(出版元=台北市の平 安文化社)が発行された。

 12人兄弟姉妹の長男で、父は盲目の乞食、母は知的障害者。姉は売春宿に売られ、一家は墓場で寝泊まりする。着る物は死人の服をその家族から分けてもらう。本の題名も直裁だ。しかし「貧しい子供」くらいの甘い題名では決して表現できない人生がそこにはある。

 ●流浪する人生にいちいち傷ついている暇はない

 7歳の夏、飢えた兄弟姉妹を救うため、見知らぬ他人の玄関に立つ。台風で道路には瓦が飛び散り、木の枝が 飛散している。どの家も固く門を閉じて台風が去るのをじっと待っている。そんな家々を一軒一軒訪ね歩いて余り物をもらう。その晩の一膳のご飯さえその一家 にはなかったのだ。年を追うごとに兄弟姉妹は次々に生まれて来る。

 普段は盲目の父親が盛り場や駅の片隅で月琴を弾き語り、飲み客や通り掛かりの人のわずかばかりの恵みを頂く。住む家とてない一家は墓場を住居としていた。

 そんなある夜、通行人が「この子ははまだ学校に行っていないのか。おやじさん、このままだとこの子もいつまでも乞食だ。そのまた子供も乞食になってしまうよ。」と話し掛けてきた。

 その男が続けて言う。「子供は勉強が大事なんだ。勉強して初めて世に出ることができる。」―― 少年にとって「学校」「勉強」は縁の遠い言葉だった。しかし、「勉強して世に出る」という言葉が心に妙にひっかかった。

 男は台湾通貨10元を父親に渡し「この金はこの子の勉強に役立てるんだよ」と言うが、父親はいつものよう に袋の奥にしまいこんでしまった。――失望する少年。しかし幸運がまたやってきた。違う日、こんどは別の人が同じように「この子を学校にやるんだよ」と父 親に話し掛けてきた。教育になどまったく関心のない父親だったが、度重なる説得に応じ、親戚を頼って頼少年は10歳で小学校1年生になった。

 少年の努力は少しずつ実を結ぶ。書道や美術に才能が現れ、6年生の時までに成績も良くなり、模範生に選ばれるまでになる。弟も同じ学校に入るが成績は最低。できる兄と出来の悪い弟のコンビは有名になった。

 ●おしんを超える感動の実話

 学校に入る時、初めて役所に戸籍というものがあるのを知る。学校ではクラス資料のため父親の職業欄を記入する必要がある。「父親は乞食ですがそう書くのですか」と少年。担任の陳先生は「そんなことはないよ。家庭経営と書いておけばよい」――少年と陳先生の間に心が通う。

 10年間墓場に暮らし、20年間乞食をした男はその後どうなったか。別に大金持になったわけではない。 40歳を過ぎた今、結婚し子供も得た。父は亡くなったが、知的障害の母や弟を引き受けて、一生懸命暮らしている。生活は豊かではないかも知れないが、どう しようもなかった宿命を人並みにまで引き上げた男。

 本のライナーノーツには「日本には阿信(おしん)の物語があるが、台湾にだって阿進の物語がある」とあ る。台湾でも80年代「おしん」が大ブームになりその後何回も再放送された。橋田嘉賀子の著書も売れた。「阿進」は頼東進さんの愛称だ。屈辱の境遇の中、 人生の不平等に負けず、毎晩3~4時間の睡眠時間で頑張った。そんな男が50人の工員を預かる工場長をしている国。おしんは架空の人物だったが、阿進は現 実にこの台湾に生きている。台湾人は汗と涙の物語が大好きだ。


 船津さんにメールはfunatsu@kimo.com.tw
2000年09月07日(木)
萬晩報通信員 佐藤 嘉晃


欧州にへ出張して、オランダでオランダ北海道人会という組織がユニークは活動をしていることを知った。会長の松本善之氏との会食の折、筆者が感銘を受けた事柄について伝えたい。

●日蘭交流400年

日本とオランダの交流は、西暦1600年4月(慶長5年3月)、オランダ交易船の「デ・リーフデ(慈愛)号」が日本に漂着した時から始まる。漂着場所は豊後、現在の大分県臼杵市であるといわれている。

その船の生存者の一人、イギリス人航海長のウィリアム・アダムス(三浦按針)が徳川家康に認められ、江戸幕 府に仕え活躍した事は、歴史で学んだ通りである。その後、船長ヤコブ・クワッケルナックが、徳川家康の意向を東インド会社(1602年3月設立)が派遣し た船隊に仲介し、日蘭交流が開始された。以来両国の長い交流が始まり、今年西暦2000年が、日蘭交流400周年の記念すべき年となった。

在蘭日本商工会議所はオランダに在る日本人会の最大・公式の組織で、在留邦人約6000名、企業約350社 が登録している。もちろんこのような組織に属さない日本人もおり、また会員となった人の中でも数年間しか在住しない例もあることから、在オランダの日本人 は約6000名前後で推移していると言ったところであろうか。

●オランダ北海道人会

オランダ北海道人会会長の松本氏は現在、Y&T MATSUMOTO INT'L代表として、輸出入コンサルタント会社を経営している。もともと、日本の総合商社のオランダ/ロッテルダム支店長として駐在。3年後に一度日本 へ帰国したが、日本の歯科医療機器メーカーのヨーロッパ支店長として再度来蘭。8年後の1997年、支店閉鎖に伴い退職し、その後独立する。微力ながらも 公私に亘り、日蘭の架け橋にならんとし、今に至る。

本会の設立は1997年10月。その月の28日、KLMオランダ航空の札幌-アムステルダム便が就航した事 が契機となっている。この時、北海道とオランダが直接に繋がった。なお現会員数は、オランダ在住の日本人会員が約50名である。年間行事として、会員同志 の親睦を計る種々の催し(北海道出身者らしく、ジンギスカンパーティーやスキーなど)を行っている。

まず、"古里の学校へチューリップの球根を送る企画"(※1 末尾の趣意書を参照のこと)がある。これは昨年からスタートし、会員の出身校を含めた40校へ寄贈した。寄贈されたチューリップの球根数は、6品種×10球 計60球を40校に送った。

送られたチューリップは、校庭の片隅に咲き誇る事となったが、学校によってはこれを機に、チューリップ庭園 を校庭内の一部に新設した所もあり、約70%の学校から感謝状や開花した時の写真、教職員や生徒達が書いた作文など数多くのお礼が届けられた。これほどの 反響は予想外であり、一同大変感激させられた。

また昨年9月、道新文化センター主催で150名に依る日蘭文化交流として、マーストリヒト市での通訳などの ボランティア活動がある。また同じ月には江差町長以下17名が来蘭し、「開陽丸」によるドルドレヒト市との交流再開の協力活動も行なった。なお、今後の活 動予定としては、今年の11月に、北海道交響楽団の60名によるアムステルダム公演が計画されており、そのための協力があげられる。

上記のように、年間を通じて北海道との関わりを重点に、精力的な活動をされている様子がわかる。 特に去年から始めた、チューリップの球根を送る企画については、昨今の若年層を中心とした忌まわしい事件を知るにつけ、日本にいる我々以上に心を痛め、日 本の行く末について案じている彼等の想いの強さに感銘を受けると同時に、国や地方自治体に頼るばかりではなく、本人達の自由意志による、祖国への想いに突 き動かされて行動するという、清々しい活動に拍手を贈りたい。

筆者も、北海道に住まいする道民の一人として誇りに思う。

●今年のチューリップ発送予定

今年は9月中旬を予定されているとのこと。現在事務局長と打ち合わせ、チューリップ栽培業者を訪ねて、品 種・数量・価格等を協議中。発送先は、火山爆発のあった有珠山界隈の洞爺村・大滝村・虻田町・壮瞥町を最優先とし、少なくとも合計40校を計画中である。 学校の選定は、昨年同様に道庁・北海道教育庁と相談の上決定される。

今回のチューリップの球根を送る活動の資金源は、会員のポケットマネーと札幌にある一部企業からの寄付に依るそうだが、今後とも末永い活動を続けるためには、彼等の善意にだけ頼るわけにはいかないだろう。

日本(北海道)から遠く離れた彼の地において、日本に暮らす我々以上に祖国への熱い想いを抱き続ける彼等に 協力出来るすべはないものかと思案してみた。そこで、せめて募金という形で協力してはどうかと思い、会長へ打診してみたところ、額の多少ではなく、同じ想 いを共有する友情の輪が広がれば・・・という事で快諾頂いた。

そこで、この企画に賛同する企業や個人の協力をお願いしたい。筆者も微力ながら協力させて頂く所存である。そして、出来れば土にまみれ、球根の植付けに汗を流してみたい。自分の母校の庭に、綺麗なチューリップが咲き誇る姿に想いをはせながら・・・。

なお、あくまでも"北海道内の古里の学校"へ限定する、という条件付きである事を申し沿えておきたい。

 古里の学校へチューリップの球根を送る企画趣意書
■「オランダ北海道人会」は1997年10月 KLMオランダ航空のアムステルダムー新千歳ー名古屋就航を契機として結成された。会員50余名。
■1600年4月19日オランダ船「デ・リーフデ(慈愛)号」が、日本の大分県臼杵湾へ漂着。以来両国の長い交流が始まり、西暦2000年が日蘭交流400周年に当る。
■この記念すべき年に、21世紀を担う子供達の夢を育む一環として、オランダの国花であるチューリップの球根を北海道内の古里の学校へ送る企画を始めるもの。
■送り先は、北海道総務部知事室国際課、北海道教育庁の協力を仰ぎながら、会員が卒業、在籍した小中学校、養護学校、僻地校等から40?50校を毎年選定する。
■この企画はオランダ北海道人会が存続する限り、毎年の恒例行事として継続される。
■北海道とオランダの友好がチューリップの輪で結ばれる日が実現することを期待し、本企画の強力なる推進を計るものである。
◆問い合わせ先 オランダ北海道人会会長 松本善之 ymatsu@xs4all.nl 


 佐藤さんにメールはysa@HomeResort.com
2000年09月05日(火)
ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口 担


温度計が連日30度を超す日本の暑い夏は「戦争と平和」を語る季節でもある。これは8月6日広島の「原爆の日」で始り、長崎に舞台が移り、数日後の「8月 15日」の「終戦記念日」でクライマックスを迎える。翌日の16日は「大文字さん」でご先祖さまの霊をお送りする日である。戦没者の慰霊はよその国にもあ るが、日本で戦後早い時期にはじまり、どこよりも盛大に実施されているように思われる。こうなのは戦争の終局がお盆と重なっていることと無関係でない。

今年はこの「戦争と平和」を語る季節が沖縄サミットで早くはじまり、「今世紀最後の」という枕詞がついたが、例年通り盛大に実施されたようである。

戦没者の慰霊は重要であるが、、、

私が暮らしているドイツでは、11月の第二もしくは第三日曜日が戦没者慰霊日で、第一次ならびに第二次世界大戦両方の死者をまとめて偲ぶ。 但し市町村単位で実施され、遺族や教会が中心の地味な行事である。日本のようにメディアがとりあげることもないし、また戦没者慰霊と関連して「戦争と平 和」について語られたり、議論されることもない。

自分が「お寺さん」の多い京都で育ったせいか、日本で「死者に対する儀礼」が盛大なことは良いことに思われる。ただ、私が昔から苛立ちを覚えるのはこの戦没者慰霊と「戦争と平和」についての議論が日本でいっしょになっている点だ。
例えば誰かが強盗に遭って死んだとする。葬式の席で「治安対策としての警察力の強化」といったテーマの議論をしない。こんな場で冷静な議論などできない。誰もがそう思うのではないのか。

確かに戦争の終結がお盆と重なってしまったのは仕方がないことである。でも、仏壇を背に「戦争と平和」を論じることはまずいことだ。それに気がつくべきであった。そうならなかったのは、どこの敗戦国民も負けたことで奇妙な考えに陥るからである。

例えば、日本で有名になった1985年「ヴァイツゼッカ‐演説」以来、ドイツ国民は「敗戦したのではなく、連合軍に解放された」と思うこと にしている。幾ら自分達が戦後変ったことを強調したいからといって、ここまで言うのは度が過ぎると思われる。でも、この点は本人にあまり気にならないよう だ。

それでは、「戦争と平和」について日本国民にも似たことがないのだろうか。何か自分達はへんと思わずに言っている。ところが、外から見ると 理解しにくい。考えてみると奇妙なことでもある。もしかしたら、これは戦没者の慰霊といっしょになっていることと無関係でない。何かそんなことがないだろ うか。

■世界に平和を発信

私がなぜこんなことを言うのかというと、沖縄サミットの頃インターネットで読む日本の新聞に「沖縄から世界に平和を発信する」といった表現を何度か眼にしたからである。正直、私はこの「世界に発信する」という言い方にひっかかりを感じた。
というのは、「九州から日本に発信する」と言い出したら、普通九州は日本の一部でなく外に位置することになる。とすると、「沖縄から世界に発信す る」ということは沖縄が、しいては日本が世界の外にあることにならないのか。つまり沖縄も日本も地球上に存在しない。まるで沖縄の住民、あるいは日本国民 が巨大な人口衛星に乗り込み地球をぐるぐる回りはじめる。そして地球に「平和を発信する」。なぜ私達はこんな奇妙な表現をするのであろうか。

この私の感想に対して、「九州から日本に発信する」のは「日本全国津々浦々に届くように発信する」ことで、九州が日本の一部でないことなど 意味しない。このように反論できるかもしれない。だから「沖縄から世界に発信する」と言ったのも「沖縄から全世界各地に発信する」という意味である。もち ろん日本も沖縄も地球上の地名である以上、こう考えるのが正しいのである。

でもそれなら、私達が「平和」というコトバを口にした途端、なぜこんな仰々しく、紛らわしい言い方をするのだろうか。私は今まで色々な国の 平和主義者と接したが、日本の平和主義者ほど「世界平和」というコトバを多用する人々を知らない。なぜ彼らにとって平和は「世界平和」でなくてはいけない のだろうか。

■8月15日の処方

今から私に思い浮かぶ幾つかの回答を書く。日本の平和主義の根幹は「ヒロシマ」と「ナガサキ」の反核運動である。人類を絶滅させる核兵器に 反対する以上、A国とB国とが戦争状態にないという意味の「ちっぽけな平和」であってはいけない。私達はあくまでも「世界平和」を問題にする。

この説明に私は本当に満足したくなるが、でも本当にそれだけであろうか。もしかしたら、これ程「世界平和」が気になるのは、私達が「世界平 和」に責任を感じると公言される「世界の警察官」と戦争して負けたからではないのだろうか。そしてこの「世界の警察官」のお節介に内心対抗するために、日 本国民は「人口衛星」と見間違えられるほどの「高い見地」に立つようになった。そして戦後、「経済大国」になる遥か前に「平和大国」となり、「世界平和」 というコトバを繰り返した。このような説明も不可能でないと思われる。

次の解釈はどうであろうか。「平和」と来れば枕詞のように「世界」となるのは、「太平洋戦争」の最終局面と関係があるのかもしれない。同盟 国ドイツは脱落し、私達は最後にはとうとう「世界」を相手に戦争をした。そして日本が8月15日に降伏し武器を捨てることで、確かに「世界平和」が実現し た。(同時に日本国民は「一億玉砕」をまぬがれた。)

戦後多くの人々に支持され、私達の平和観と戦争観の形成に大きな影響を与えた考え方の一つに「非武装中立論」というのがある。これは日本が率先して武器を持たないことが安全保障政策として正しく、同時に「世界平和」につながるとする見解である。

先入観をなるべく排して内容だけに注目すると、この主張は日本が降伏し武器解除されることで「世界平和」を実現できた「8月15日の処方」 が今後も正しいと述べていただけではないのか。当時、著名政治学者を筆頭に多くの知識人がこの奇妙な「武装解除の勧め」を安全保障理論と吹聴した。でも、 本当はそんなしろものではなかったのではないのか。

この理屈は、「8月15日の処方」があの時正しかったとする前段の論拠部分と、「だからこの処方を繰り返すことは今後も正しい」とする帰結 部分にあたる後段から成り立っている。次に戦没者に対する供養とは死者がこの「8月15日」に間に合わなかったことを嘆き、自分自身が生きていることを確 認すると同時に肯定することであるから、意味内容からいって前段の論拠部分と一致する。

とすると、戦後私達は「非武装中立論」を主張することで「死者に対する儀礼」を実施していたことにならないだろうか。つまり後段の部分を「安全保障理論」として提出すると、前段の論拠部分までが共鳴して供養となる。こうして強い説得力が生まれた。  

例えば、この理論はその全盛時代に「自分だけ丸腰になっても世の中には悪いことをする人がいるので、、だから、、、その時どうするのよ?」 といった、しもじもの素朴な疑問もあっさり撃退できた。これは、私達が武器を捨てることで平和を実現し、私達が不幸にならなかったという「8月15日」の 集団体験に乗っかることができたからである。(だから、平和主義者は吸血鬼ドラキュラがニンニクをいやがるように、「戦争体験の風化」を恐れる。)

ところが、この好評なる国民的集団体験が可能になったのは枢軸国民に比較的寛容で、自分達が住む国土が日本軍に蹂躙されず、そのために復讐 心が比較的少なかった米軍に降伏し、占領されたからである。ということは、こんな平和主義者の処方など、同じ第二次世界大戦でも運悪く別の国の軍隊に降伏 し、占領後も不幸が終らなかった人々には説得力がまったくない。
すなわち、日本の平和主義は「8月15日」以降の巧く行った大多数の国民体験を絶対化し、その結果相互不信や猜疑心といった厄介な要因を最初から考慮の外に置くことで成立した平和主義ということになる。

こんな平和主義は、「僕はね二十歳のとき大病を野菜スープで直した。野菜スープこそ健康の秘訣」と説教を繰り返すヘンなオジさんと変らないのではないのか。だから多分「戦争論」とかいうマンガを読む若者が増えているのである。

■「平和の鳩」になって帰還した特攻機

「非武装中立論」であろうが、また反核運動であろうが、日本の平和主義者について私が驚くのは、自分達の思考と主張がどんな歴史的条件下で 生まれ、人々の共感をうるようになったかについてあまり考えない点である。例えば、日本人相手に「8月15日の処方」を勧めている限り、内輪の話でその奇 妙さがはっきりしないかもしれない。そこで、この理論が国境を超えて適用されることを想像してみる。

この理論の信奉者は、日本の非武装が端緒となり、他国民も「戦争の愚かしさ(あるいは悪いこと)」に気がついて武器を捨て、その結果「世界 平和」が実現すると説明した。ということは、この考えは「8月15日」を経て「戦争の愚かしさ」を悟った日本国民に従うことを他国民に期待することにな る。ところが、他国民とは当時戦勝国であった以上、これは敗戦国民が戦勝国民に武装解除(=降伏)を期待・想定することになる。これはやはり前代未聞であ る。つまり戦勝国と敗戦国との関係が倒錯している。
昔どこかで、安全保障専門家のヘルムート・シュミット元独首相が日本の平和主義を「敗戦後遺症」とはき捨てるようにいったが、彼はこの倒錯した関係を直感し、病的と感じたからではないのか。

日本の平和主義者は自分の考えを病的とは感じない。これは「戦争の愚かしさ」を悟ることで、彼らには「勝ち負けの区別」が重要でなくなった からである。それでは、なぜ彼らがそうなったのであろうか。私は自分が日本人であるせいか、彼らの「勝ち負けの区別」を無効にし、戦勝国を武装解除したが る点に悲劇的なものを感じる。

戦争の最終局面で、日本人は「勝ち負け」がどうでもよくなる絶望的状況に陥ってしまっていた。「特攻」に代表されるように、自分も負け、敵も負かす形をとった当時の作戦行動がこの状況を物語る。
そして、この「勝ち負け」を無効にする戦争観が8月15日を越えて当時の日本人の意識を規定していた。だから、「全面講和」を要求した平和主義者 には敗戦国と戦勝国の双方に武装解除を願望することは奇異に感じられなかった。このように考えると日本の平和主義ほどナショナルでかつ日本的思想はない。 帰りの燃料をつまずに飛び立った特攻機が戦後「平和の鳩」になって帰還したようなものである。

■「戦争」と「麻薬」の相異

「戦争は愚かである」とか「戦争は悪である」というのは日本の平和主義者の常套句である。このとき彼らは「戦争一般が悪い(愚か)」といっ ているのである。次に、彼らは「日本は侵略戦争、すなわち悪い戦争をした」とも主張する。この二つのことを平気で主張する人の頭のなかで、「論理回路」が どのようにつながっているのかが、私には昔から不思議で仕方がなかった。

「日本が侵略戦争、すなわち悪い戦争をした」ということは、例えば日本の「悪い侵略戦争」に対して、例えば中国は自国防衛のため戦争をした ことになる。これは「良い戦争」になるはずである。ところが、この結論は「戦争一般が悪い」とする主張に矛盾しないだろうか。というのは、「戦争一般が悪 い」なら、日本国民だけでなく、中国人も「悪い戦争」をしていたことになるからである。「戦争をすること」は子供達が集まって「麻薬をやること」と異な り、一方が良ければ他方が悪くなる。でも日本の平和主義者は当時「麻薬が悪い」というように「戦争が悪い」というふうに考えたかった。

それでは、戦争につきものの「一方が良ければ他方が悪くなる」という厄介さを消すためには頭の中の構造をどのように変えたらよいのだろう か。論理学を少しかじった人にとって答は簡単である。「第二次政界大戦をした」という述語の主語としては、交戦状態にあった国々を持ってきたら、日本と中 国の例で見たように巧く行かない。そこで、「人類」とか「世界」とか言った、より高次の概念を主語にすればいいのである。こうすると「戦争」と「麻薬」の 「悪さ」の相異が気にならなくなる。すなわち、

「人類が、愚かな戦争すなわち第二次世界大戦をした」

ということになる。ところが、現実がこのように見えるためには、私達は「高い見地」に立たなければいけない。すでに述べたように、凡人は人工衛星に乗り込んで地球を回らなければこんな心境にならないかもしれないのである。

またこの「高い見地」に立つと「人類が原爆を投下するという過ちをおかした」ことになり、広島の原爆慰霊碑にある主語のない「碑文」に近く なる。また当時戦後の雑誌は「人類」とか「世界」とかいったコトバで氾濫していたのではなかったのだろうか。これらすべて面白い言語現象は当時の日本人が 頭のなかに奇妙な「論理回路」を作って「戦争一般が悪い」と思いたかったからである。

それでは、なぜ戦後の日本人はこれほどまでも「戦争一般が悪い」と思いたかったのであろうか。こう思うことで「日本も悪かったが、よその国も悪かった」と考えることができて、国民としての誇りを完全に失わずにすんだので、これはこれで良かったのである。

またこの「戦争一般が悪い」という見解は、「世界の警察官」米国主催、「国際社会」協賛だった「ニュールンベルク裁判」や「東京裁判」とまったく無関係なメッセージである。だから、私は日本の戦後に「東京裁判」の亡霊を見ようとする人が理解できない。

この「戦争一般が悪い」は、当時「島国」に住む国民が感じた「国際社会」からの非難に対する屈折した反論で、ナショナルな感情の陰性的表現 であった。すでに見たように、この反論そのために、私達は奇妙な「論理回路」を頭のなかに搭載するようになってしまった。その結果、自由な思考や複雑な議 論を困難にしてしまったのではないのだろうか。

この「敗戦後遺症」は、戦後の早い時期にきちんと議論すべきであった。それができなかったのは、冒頭に述べたように仏壇を背に「戦争と平和」を議論することになったからである。



 美濃口さんにメールはTan.Minoguchi@munich.netsurf.de
2000年09月03日(日)
オークランド 大石幹夫


党支部の会合に向かっていたアウンサンスーチーほか13名の国民民主連盟(NLD)一行がヤンゴン郊外で当局の手で足止めを食らって、野外で車中ろう城を初めて以来1週間が過ぎた。

足止めの理由は、前回1998年の車中ろう城の時と同じ理由、つまり、一行が訪問しようとしている地域は、反政府ゲリラの出没地であり、当局としてはアウンサンスーチーの身辺の安全を保証できないからだという。

しかし、その地域にはそのようなゲリラは存在しないし、ヤンゴンの郊外が危険であるという声明は、90年代半ばに武装少数民族集団のほとんどと休戦協定を結んで以来、「ビルマ全土が、独立後かつて例を見ない平和を享受している」という当局のいつもの主張に反している。

今回の事件は、ビルマ国内政治の異常な現状を再び明らかにした。正規に登録されている政党が通常の党活動に従事できない。それは、党の指導 者が地方支部に赴くことが許されていないばかりでなく、党の出版活動の禁止、ビルマ民衆との対話集会の禁止、アウンサンスーチーの私設秘書の逮捕・拘留な どさまざまな形で現れている。

しかもこの政党は1990年の総選挙で国会の議席の80%以上を獲得した本来ならば政権党となっている政党である。軍事政権(SPDC)は選挙の結果を認めず、政権のNLDへの移譲は実現しないまま、両者の対立は膠着状態が続いている。

しかし、ビルマは現状のままを続けることはできない。97年以来の海外投資の激減などで、90年代初め上向きかけていた経済がいまや壊滅状 態にある。毎年30%から50%のインフレが続き、庶民は生活必需品を手に入れることがますます難しくなってきている。また、福祉や教育がおざなりにされ ていて、国の将来をになう若い世代が「見捨てられた世代」となろうとしている。

外敵の脅威はないにもかかわらず、国家予算の約40%が軍事に費やされており、これらは民主化運動弾圧と辺境地帯の少数民族との戦いに使わ れている。山岳地帯の農民たちは、阿片やヘロインの原料であるケシを栽培するしか生計の途がない。当局は、武装少数民族集団との停戦の見返りとして、彼ら の麻薬取り引きを黙認している(麻薬取り引きに関与して儲けている軍人たちもいる)。これらの麻薬は、近隣諸国だけでなく西欧諸国へも大量に流入してお り、流入先の国々の最大の脅威の一つとなっている。

また、公衆衛生が整備されていないため、近隣諸国に対しエイズをはじめさまざまな疾病の発信源となっている。近隣諸国との国境問題は大部分 未解決で、軍事政権の「武力外交」が地域の緊張要因となている。内戦および迫害から逃れる難民(国内避難民は50万人から100万人と推定)の近隣諸国へ の流出はいまだ続いており(国外難民約20万人)、地域の不安定要因となっている。

また、東南アジアの他の「開発独裁」諸国に比べ、SPDCは国の経済発展をになう人材を海外留学などにより育成していない。結果として専門職など中産階級が育っておらず、かりに専門職がいたとしても、国外か、NLDか、刑務所のなかにいる。

孤立したSPDCは、武器その他の物資を供給する中国にますます傾斜している。このままでは、ビルマは中国の属国になるかもしれないとの見方もある。現に、中国雲南省に近いビルマ第2の都市マンダレーは、中国人の大量流入により急速に中国化しているという。

そして中国は、インド洋に浮かぶビルマ領ココ島の軍事使用権を得、同時に雲南省からイラワジ川を通り、マンダレーを通過してインド洋に抜け る軍事ルートを確立しようとしている。中国のインド洋への進出は、インドの重大関心事であるばかりでなく、インド洋に原油輸入ルートをもつ日本にとっても 懸念事項となる。

これらの問題は、国の将来を決定するビルマ国内の3大勢力つまり、NLD、SPDCおよび少数民族の代表の間に和解が生まれていないことに 発する。NLDはビルマ国民の圧倒的多数の支持を得ており、少数民族は国の人口の30%を占めるのに対し、SPDCは支持基盤がなく、軍事力と中国の後ろ 盾によってのみ、権力を維持している。もし3者のあいだに和解が生まれれば、上記のような国内の軍事化とそれから生じる弊害の解決への道が開けることにな ろう。

NLDは、早くから、SPDCに対し問題解決のための対話を呼びかけている。またSPDCの将軍たちを人権抑圧のかどで罰したり報復したる することはない、国軍は将来のビルマで重要な役割をになうであろうと繰り返し言っている。しかし、SPDCの軍人たちにとってNLDとの対話は、自分たち の弱さを認めること、不名誉なことであると考えているようである。

彼らは、NLDを「粉砕」もしくは「抹殺」することしか考えていない。国内最大の武装勢力であるカレン民族同盟(KNU)も、カレン族をは じめ少数民族の問題は、武力ではなく政治的な話し合いによってしか解決しないことを認めている。しかし、SPDCはKNUの無条件の投降と武装解除を話し 合いの前提条件としてあげており、それはカレン族に不可能を強いるものである。

対話を拒み続けているSPDCの将軍たちの一番の問題点は、彼らは対話の意味するところを知らないということである。ある問題について、異 なった意見、ものの見方を突き合わせることによって、共通の理解と問題解決への糸口への合意を得るという民主的プロセスに習熟していない。

NLDは、将軍たちの見方も対話を通じて最終の結論に大きく寄与することを保証している。しかし、SPDCは対話を拒み続けている。その理 由は、NLDが敵対的態度(SPDCを批判したり、外国政府に経済制裁を呼びかけたりなど)を取り続けているという理由によるものである。これに対し、 NLDは、建設的な批判は野党の役割であり、このような批判や経済制裁などの外圧がなかったらSPDCは自己満足におちいり、決して対話の必要を感じない だろうと考えている。

冷戦後の世界秩序のキーワードは、リベラル民主主義と人権である。人権侵害は一国のみならず地域全体の安全を脅かす、また、人権侵害がこの 地上のどこで行われようとその下手人は罰せられなければならないという考えが台頭してきている。それで、ビルマの将軍たちが、彼らの人権抑圧のために、将 来「国際刑事裁判所」で裁かれる可能性がでてきた。

そのとき、彼らを国際社会の非難から擁護するのはなんとNLDとビルマの人々だとのことである(NLDの「赦しの思想」については、拙訳のアウンサンスーチー著「希望の声」岩波書店 を参照していただきたい)。皮肉なことにSPDCは、自分たちの唯一の擁護者を滅ぼそうとやっきになっている。このことをSPDCの将軍たちに分からせる第3者が必要である。日本政府がその役割を演じられるかもしれない。

日本政府はこれまで、太平洋戦争当時日本で軍事訓練をうけたネウィン将軍などとの戦前からの個人的つながりによって、軍事政権よりの政策を 取り続けてきた。しかし、キンニュン将軍やマウンエイ将軍など若い世代が台頭し、彼らとは特別のつながりをもたない日本政府は、ビルマへの影響力を、他の 国とりわけ中国に奪われることを恐れている。それが、ビルマ国内の民主化の遅れや人権問題に対して強い態度をとれない理由の一つとなっている。

日本政府がやっていることは、軍事政権が日本から離れないように、一定の期間ごとに何らかの支援を行う一方で、すこしでも態度軟化の兆しが 見られるや、ただちになんらかの見返りを与えるというものである。軍事政権もそのような日本の足元を見透かして、ジェスチャーとしての態度軟化を示して見 返りを受け取るという、一種の「茶番劇」を日本政府と演じてきている。

結果として、日本政府のやりかたはビルマの国内状況の改善にほとんど寄与していない。そして、日本は「アメとムチ」ならぬ「アメとアメ」の 政策を行っているとみられ、国際的な信用を失いつつある。かといって、人権や民主主義のような特定の価値観を掲げるような「道義外交」は今の日本政府には できそうもない。

今後、日本はSPDCだけでなく、NLDさらに少数民族の代表たちとも関係を深める必要がある。そこからさらに一歩進めて、3者の和解に向 けてさらに積極的な役割を演じることが求められている。日本は、とりわけNLDとSPDC双方の立場をよく理解でき、また両者を仲介できる立場にある。

これに対し、リベラル民主主義と人権を旗印とする欧米諸国は、SPDCにプレッシャーをかけてその力を弱めることはできるものの、NLDと SPDCの間をとりもつようなことはできない。日本はこの恵まれた立場を大いに生かすべきである。東南アジアの民主化は不可避であり、ビルマもその例にも れない。

日本政府が、ビルマ国民の支持を得ていないSPDCよりの路線をこれまでどおり続けていけばいくほど、ビルマ国民の日本への信頼はますます 損なわれるであろう。ビルマの国内紛争の当事者それに近隣の関係諸国全部を含めた対話の実現に向けて日本がイニシアティブをとることが強く求められてい る。日本政府に求められていることは、欧米諸国のような特定の価値観のアドボカシーではなく、異なった立場の間をとりもつ仲介者としての役割であろう。



1978年、京都大学文学部(アメリカ文学専攻)卒。佐賀県庁勤務。
1989年、シンガポールで、日本語の専任教師。
1991年、英国ブラッドフォード大学で平和学修士号取得。
1992年、マレーシアへ。マレーシアの国際団体(NGO)であるジャスト・ワー ルド・トラスト研究員、 サラワク大学で教鞭。
1995年 英国ブラッドフォード大学で平和学博士号取得
1999年、ニュージーランド、オークランドへ。
7月から非常勤でオークランド大学で、「ビジネス日本語」担当。8月14日には、 オークランド工科大学(AUT)で、「アジア太平洋の政治経済学」というテーマの 講義をゲスト講師。
ビルマの国内問題に関心を持ち、英語で小冊子 "Aung San SuuKyi' s Struggle : Its Principles and Strategy" その他の論文を発表したほか、今年の7月、アウンサンスーチー著「希望の声」を翻 訳して岩波書店から出版した。


 大石さんにメールはmikio@zfree.co.nz

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