2000年8月アーカイブ

2000年08月29日(水)
萬晩報通信員 園田 義明


 ある家庭の子供部屋のがらくた箱には、プラスティック製のおもちゃが山のように入っている。マクドナルドのハッピーセットのおまけがこの箱の主人のようだ。テレビCMでお好みのおもちゃが登場すると、その週末にはマクドナルド一家となる。

 実はその父親も嫌いではないらしい。週に2~3度利用することも少なくない。混雑する時間を避けて、早々とビックマックを飲み込みノートパソコンを開いてなにやら仕事をしているようだ。牛丼も捨てがたいが、さすがにカウンターで仕事をする勇気はないようだ。

 その父親は今でもたまに「マクドへ行くぞ」と言って子供から『?』を投げかけられる。千葉で生まれた子供にとってマクドナルドは「マック」であって「マクド」ではない。関西の方はくれぐれも気をつけよう。

 この父親は、たまにビッグマックをみつめてしまう。「できるだけ米を食べなさい」と言われて育ったために罪悪感を感じてしまうのだ。そんな時の飲み込むスピードは半端ではない。

 ◆マクドナルドの世界

 日本でのマクドナルド1号店は1971年7月に銀座三越1階でオープンした。今では日本国内だけで3,000店を超えている。本社はアメ リカイリノイ州オーク・ブルックにあり、世界で見ると119カ国約27,000店鋪という大変な数字が出てくる。まぎれもないビッグ・カンパニーである。

 当然のことながらこのマクドナルドも毎年アニュアル・レポート(年次報告書)を拝借しているが、社外取締役にはウォルマートのジェニー・ジャクソンCEOと非常に気になる大物が就任している。

 現在のCEOであるジャック・グリーンバーグが企業向け保険分野で米国最大の規模を誇るアメリカン・インターナショナル・グループ(AIG)のグリーンバーグ・ファミリーの一員だったらさぞかし面白いはずだが、このあたりの分析は広瀬隆氏にお任せしよう。

 とにかくある会社との関連性をずっと捜してきたのである。そんな時、待望のニュースが届いた。

 ◆マクドナルドとカーギルとの関係

 マクドナルドは今年7月25日、世界の卸売、小売業者、レストランなどと取引がある食品関連の大手3社と提携し、インターネット上で食材を取引する「電子商取引所」を設立すると発表した。互いの売買注文を効率化することで、在庫を抱えるコストなどの大幅削減を狙う。

 マクドナルドと提携したのは、穀物商社カーギル、食品サービス大手シスコ、食品加工大手タイソン・フーズ。4社の共同出資で、合弁会社「エレクトロニック・フードサービス・ネットワーク」をイリノイ州に設立する。

 世界で約27,000のチェーン店を展開するマクドナルドの食材調達体制を中心に、各社の取引ノウハウを活用しながら企業間の電子商取引を運営、管理する計画で、他の食品大手にも幅広く出資や参加を呼びかけているようだ。

 捜してきたある会社とは世界最大の穀物商社カーギルである。マクドナルドとカーギルとの取引関係が明らかになったことでアメリカの食糧戦略の全体像が明らかになる。

 ◆米農務長官のスーパーセールス

 1999年2月、グリックマン米農務長官は、前年12月末に合意したロシアへの約300万トンの食糧援助に続き、鶏肉5万トンおよび種子1万5千トン(トウモロコシ1万4千トン、野菜1千トン)のロシアへの追加援助に合意したと発表した。

 当初ロシアは、自国の農業生産建て直しのため、トウモロコシおよび野菜の種子の援助を要請し、鶏肉については援助希望品目に挙げていなかった。

 しかし、米国産鶏肉の最大の輸出相手国であったロシア向けの輸出量が、大幅に落ち込んだため、鶏肉業界が大きな影響を受けていた。そのために米農務省(USDA)側が5万トンの鶏肉の援助輸出を提案し、ロシアがこれを受け入れる形となった。

 これにより、鶏肉3千万ドル(約34億円)相当とその輸出に係る輸送コスト550万ドル(約6億3千万円)が、政府間によるPL480号タイトル1(低利融資による輸出プログラム)に基づき輸出されることになる。

 援助輸出された鶏肉は、ロシア市場で販売され、その収益はロシア年金基金に配分されることとなっているようだ。

 さて適応されるPL480号は別名「平和の為の食糧援助(Food for Peace)」と呼ばれている。1954年に制定された農業貿易開発援助法であり、アメリカの余剰農産物を売却することを目的としている。

 第二次大戦後、アメリカの食糧輸出は主にヨーロッパに送られていたが、復興するにともない新たな売却先を探し求めるために戦略的に制定された。

 そのプログラムはタイトル1、 タイトル2、 タイトル3に分類される。
 

タイトル1 外貨不足の開発途上国に、 長期、 低利で食糧を供給する制度で、90年農業法では、 7年間の据え置き期間を設定し、 最長30年間の償還期間を設定していた。 96年農業法では、 据え置き期間が5年に短縮された。 援助対象の選定においては、 食糧援助の必要性とともに、 『その国の将来の米国産の農産物の輸出市場への発展の可能性』に重点をおいて選定することとされた。
タイトル2 飢餓や栄養失調の解消、 天災被災国への緊急食料援助等を目的とした無償食料援助事業である。
タイトル3 開発途上国の中でも最も経済基盤の弱い国で、 貧困や飢餓問題に悩む食料援助の必要な国に対する政府間ベースの無償食料援助事業である。
 
 96年農業法では、 事業の一般的な管理事項を規定したタイトル4において、事業の2002年までの延長とそれぞれの事業予算の15%の流用を認めることなど、 予算支出に柔軟性を持たせる規定が定められた。

 この50年近く前に制定されたPL480号が今でもアメリカの食糧戦略の中核として生きている。余程の成功例があったに違いない。

 そう「呆れるほど見事な成功例」が存在した。

 ◆学校給食の歴史
 

明治22年(1889) 山形県鶴岡町私立忠愛小学校で貧困児童を対象にし昼食を与えたのが学校給食の始まりとされている。当時の給食は、おにぎり・焼き魚・漬け物。
昭和07年(1932) 文部省訓令第18号「学校給食臨時施設方法」が定められ、はじめて国庫補助によって貧困児童救済のための学校給食が実施。
昭和19年(1944) 6大都市の小学生児童約200万人に対し、米・みそ等を特別配給して学校給食を実施。
昭和21年(1946) 文部・厚生・農林三省次官通達「学校給食実施の普及奨励について」が発せられ、戦後の新しい学校給食がスタート。
昭和22年(1947) 全国都市の児童約300万人に対し学校給食を開始。連合軍の物資放出、LARA物資の援助によって急速に復活し、12月にアメリカ政府援助の脱脂粉乳が給与されてミルク給食が開始。
昭和25年(1950) 8大都市の小学生児童に対し、アメリカ寄贈の小麦粉によりはじめて完全給食を開始。
昭和26年(1951) 給食物資の財源であったガリオア資金資金(アメリカの占領地域救済資金)が6月末日で打ち切り。
昭和27年(1951) 小麦粉に対する半額国庫補助が開始。4月から全国すべての小学校を対象に完全給食が実施。
昭和29年(1954) 第19国会で「学校給食法」成立、公布。
昭和31年(1956) 「学校給食法」が一部改正、中学校にも適用。「米国余剰農産物に関する日米協定」の調印により、学校給食用として小麦10万トン、ミルク7500トンの寄贈が決定。
 ◆日本における飢餓そして放棄された食糧自給

 特に1945年は凶作となり大都市での食糧欠乏が予想された。日本政府は1946年の分として400万トンの食糧をSCAP(連合国軍最高司令官)に要請したが、折衝は順調には運ばず、わずか70万トンが保証されたにとどまる。

 都市部における摂取量は最低生存水準まで落ちていたが、幸いなことに農家が隠匿した食糧があったので、飢餓は回避される。占領当初2年間のアメリカの援助は、陸軍予算の一部であるガリオア資金(GARIOA:占領地域救済政府基金)による食糧援助が主要なものであった。

 終戦から年間の食糧消費量の4分の1程度は米国の援助に依存していた。従ってこの期間の米国による援助は、日本における飢餓の回避に重要な役割を果たした。

 この当時アメリカが食糧政策に戦略性を見い出していたかどうかは定かではない。しかし1954年に制定されたPL480号が日本をターゲットに置いたことはまぎれもない事実であろう。

 この年、アメリカは条件案付きで日本に経済社会構築のための防衛上の再軍備実施と食糧増産の打ち切りを要求する。そして財政投入型の食糧 増産をやめて日本はアメリカの余剰農産物を円で買う、そのかわりにアメリカは受け取ったその円を日本への防衛投資や日本製品購入に当てるという内容の MSA協定を提示する。

 日本政府は、アメリカ側の新しい援助だとして飛び付き、即座にMSA協定を締結すると、これまでの方針を大転換し、米麦を中心とした食糧自給を見事に放棄し小農保護政策の中止を決めていく。

 97年に公開された外公文書で、実際には1954年秋に愛知揆一通産相訪米の際、アメリカが小麦など大量の余剰農産物の日本に対する売り 込みと、その売却資金による日本の自衛力拡大の一石二鳥をねらい、在日米軍の「撤退の希望」表明することで日本側に揺さぶりをかけていた事実も明らかに なっている。

 かくして時には「米を食べればバカになる」との宣伝に後押しされながら、パンは日本人の食文化に浸透していくのである。

 10年後の1964年にはマクガヴァン上院議員は次のように述べている。

「アメリカがスポンサーとなった学校給食プログラムによって日本の児童がアメリカのミルクとパンを好むようになったことにより、日本がアメリカ農産物の最大の顧客となった」

 ◆カーギルの世界戦略

 カーギルは1865年に設立された世界最大の穀物商社である。マクミラン&カーギルファミリーが経営するプライベイト・カンパニーであり、今日でもその実体は秘密のベールに覆われている。

 1999年現在で全社売上が456億ドル、60カ国1000拠点を構え、従業員数も85,000人を有する。

 1960年代以降、食糧関係を中心に多角化を進め、種子加工、ハイブリット種子開発、大麦モルト製造、肉牛肥育・牛肉処理加工、製粉事業などを世界各国で繰り広げている。さらに陸上・河川運輸、鉄鋼生産、金融部門などへも参入している。

 日本でもカーギル・ノースエイジアを設立しており、97年には、倒産した山一証券の子会社である山一ファイナンスと食品商社の老舗である東食を買収しており、日本での足場を固めつつある。

 人工衛星や最新の情報通信手段を駆使して、気候監視ネットワークを地球規模で張り巡らせながら、収穫状況を正確に分析し世界の穀物市場を掌握している。
 このカーギルの世界戦略自体が、そのままアメリカの食糧安全保障戦略となっている。それは、PL480号を発展させたウィリアムズ・レポートとして生きている。

 ◆ウィリアムズ・レポート(『相互依存世界における米国の国際政治政策』)

 日米再逆転の原点として日本の政財界人は「ヤング・レポート」を取り上げるのが習わしとなっている。1984年、レーガン政権のもと「大 統領産業競争力委員会(PCIC)」が設置され、当時のヒューレット・パッカードの若きCEOジョン・A・ヤングがモルガン・スタンレーやインテル等の幹 部と共にまとめあげたものである。

 日本ではそっくりそのまままねをして政権が変わるたびに名称が変わる「経済戦略会議」「産業競争力会議」や最近の「産業新生会議」「IT戦略会議」の設置を行うのが流行のようだ。

 日本の研究者の多くも見逃しているようだが、このヤング・レポートのさらなる原点が存在する。「ウィリアムズ・レポート」である。ここにアメリカの国益を最優先にしながらグローバル・スタンダードの合意を引き出していく相互依存戦略の原点が見出せる。

 相互依存戦略とは、単独でリーダーシップを発揮するのではなく、共通の利害を持つ日本や欧州諸国を仲間に引き入れ、自己の主張を全面的に 盛り込む形でスタンダード化する戦略である。この仲間をしっかりつなぎ止めているのが最新鋭兵器を含めた先端技術産業であり食糧戦略である。

 ウィリアムズ・レポートは1970年、ニクソン大統領により「国際貿易投資委員会」が設置され翌71年にまとめられたものである。委員長 の名を冠してウィリアムズ・レポートと呼ばれるが、正式には『相互依存世界における米国の国際政治政策』と題するもので全3巻、1938ページからなる膨 大なものである。

 A・L・ウィリアムズ(IBM)を委員長に、F・J・ボーチ(GE)、R・C・ガーステンバーグ(GM)等と並んでカーギルの副社長W・ R・ピアースが主要メンバーとなって作成にあたり、アメリカのとるべき重要な二つの戦略領域として最新鋭兵器を含めた先端技術産業とアグリビジネスとを鮮 明に打ち出した。

 そして、さらに重要な点はこの時期に政府と財界が相互に結合しあい、アメリカの実質的なリーダーシップの担い手としてインナー・サークルの形成が行われている。

 現在もカーギルの取締役会には、駐日大使を務めたこともあるマイケル・H・アーマコストが1996年より就任しており、政府とのパイプ役 を担っている。アーマコストは1982年から84年までフィリピン大使を経て、89年から93年まで日本大使を務めた。とりわけ日本とのつながりが深く日 米協会や松下グループが設立したパナソニック財団の理事を務めてきた。

 米国家安全保障会議(NSC)上級スタッフや国務省での長い経験から政府関係者との強力なネットワークを持っている。現在1927年に設 立されたアメリカでもっとも古いシンクタンクであるブルッキングス研究所の所長を務めており政府の政策決定に大きな影響を与えている。他に民間企業ではア メリカン・ファミリー生命保険やアプライド・マテリアル、TRWの社外取締役、シンクタンクではアスペン研究所、アジア財団の理事を務めてきた。また外交 問題評議会(CFR)やビルダバーグ会議のメンバーでもある。

 日本ではその存在に言及した論文はほとんど見かけないが、アメリカ・イギリスには、上流階級のみが参加できる特権的なクラブが存在する。 イギリスでは、MCC、ブルックス、ホワイツ、プラッツ、ブードルズ、カールトンなどが、アメリカでは、ボヘミアン、センチュリー、デューケイン、リンク ス、メトロモリタン、パシフィック・ユニオンなどが著名である。

 アーマコストはこの中のボヘミアン・クラブのメンバーでありまさしくインナーサークルの中心にいる。このアジアに詳しいアーマコストの視線の先には広大な中国の姿がある。

 ◆次なる目標『中国』

 2000年5月24日、中国に最恵国待遇(MFN)を恒久的に供与する法案が、米下院本会議で可決された。米上院での審議は、9月初旬から始まる予定である。

 クリントン政権は中国の世界貿易機関(WTO)加盟をめぐる米中協議が妥結したのを受け、中国へのMFN恒久化を決断し、激しい攻防の末 にに下院を通過した。しかし、中国による大量殺傷兵器の輸出をけん制する関連法案の扱いをめぐり共和党内の調整が手間取っていることや同法案に反対するア メリカ労組の反発が再び盛り上がりを見せており、ゴア副大統領の選挙戦に影響を及ぼし始めている。

 同法案への支持を訴えロビー活動を展開していた米経済界は、総じて歓迎を表明しており、巨大な中国市場が開放されることで、コンピューター、保険、農業など幅広い分野での恩恵を期待している。

 グリーンスパン米FRB議長は、下院銀行委員会のリーチ委員長(共和党、アイオワ州選出)への書簡の中で次のように主張している。

「中国経済を世界市場に取り込むことは、世界的により効率的な資源の配分につながり、中国とその貿易相手国の生活水準向上につながる。」

 先のマクガヴァン上院議員の発言と重ね合わせると味わい深い。日本はこの言葉の持つ意味を身を持ってかみしめることができる数少ない国のひとつである。

 ◆立ちこめる暗雲

 以上見てきたように、アメリカの食糧戦略は政府とカーギルに代表されるアグリビジネスとが一体化してベースを築き、そして時期を見計らっ てマクドナルドやコカ・コーラが仲良く手をつないで登場する。その清潔感と愛くるしいキャラクターは、人々を魅了し同時にアメリカ文化の虜にする。

 しかし、いつも成功するとは限らない。最近特にマクドナルドは災難続きである。

 1999年8月、フランス南部の農村ミヨーで仏農業団体幹部ジョゼ・ボベがマクドナルドを農業のグローバル化象徴として襲撃し店舗を破壊した。

 器物破損罪に問われたボベ被告らの公判が今年6月30日よりミヨー軽罪裁判所で始まったが、同被告をグローバリゼーションへの抵抗の象徴とみなす非政府組織(NGO)活動家など3万人以上が人口2万人の同村に集結した。

 NGOの活動家らは、今回のデモを昨年11月の米シアトルでの世界貿易機関(WTO)閣僚会議への大規模抗議行動に次ぐ反グローバル化運 動の好機と位置付けた。ボベ被告への支援を訴えるとともに「世界は売り物ではない」「WTOにノン!」といったプラカードを掲げてデモを繰り広げる。
 
 また世論調査でもフランス国民の45%が同氏を支持、不支持の4%を大きく上回る結果が出ている。どうやら21世紀はこれまでの手法の修正が迫られそうだ。

 ◆真のグローカリズム

 私もビジネスマンの端くれである。電車から一駅ごとに現れるひときわ目立つ黄色い『M』の文字を見るたびに、闘争心がかき立てられる。た かだかハンバーガーにその戦略の多くを傾けざるを得なかったアメリカの文化的背景とだからこそ成功につながった単純明解さに敬意を表したい。

 批判的に考えると出口の見えないジレンマに陥るだけだ。すでに土俵に乗っかっているのだから、選択の余地はない。幸いにも世界中で日本の食文化は注目されているのである。強引な手法を取らなくとも異文化に歓迎される要素はある。

 GOOの海外ページで「japanese food recipe」で検索すると36,282件がヒットする。その多くが自然発生的なものだ。

 ただ私は父親でもある。子供達にはいろいろな世界を見せてあげたいと思う。画一的な文化の押し売りはきっぱりとお断りしたい。さてどう書こう。ここからが腕の見せ所だ。

 現在マイケル・H・アーマコストはアスペン研究所のストラテジー・グループのメンバーである。このグループには他にジョセフ・S・ナイ、 レスリー・H・ゲルブ、ウィリアム・J・ペリー、ブレント・スカウクロフト、リチャ-ド・B・チェイニー(共和党副大統領候補)、アルバート・ゴア(民主 党大統領候補)、ストローブ・タルボットなどそうそうたるメンバーが名を列ねている。

 アスペン研究所(The Aspen Institute)は1950年にコロラド州の自然豊かなアスペンで設立された。第二次世界大戦が生んだ東西冷戦や核開発競争など新たな国際的緊張に危 機感を抱いた有識者たちが、ゲーテの生誕200年祭を契機に、人間の精神、課題を見つめ直そうという趣旨で設立された。今年で50周年を迎える。

 世界の政財界のトップが集い、二週間を基本に対話のための合宿特訓を同研究所は続けている。アスペン研究所の役員を務める小林陽太郎富士ゼロックス会長が77年のアスペン・セミナーに初めて参加、衝撃を受けたとして次のように述懐している。

「米国のビジネスマンは当面の短期利益しか考えていないなどと私が思っていたのは、全く恥ずかしい限りだった。事実、利益をあげるという点 では米国のビジネス社会はものすごく厳しい。しかし一方で、その同じビジネスマンが一夜漬けでなく、哲学や倫理を論じる。その二つが全然矛盾していない。 米国人たちの底の深さに触れた感じだった」

 同じく役員を務める鈴木治雄昭和電工名誉会長とともに98年にはオリックス、キッコーマン、資生堂、セコム、大日本印刷、電通、東芝、富士ゼロックス、ソニーなど22社の出資により「日本アスペン研究所」も設立されている。

 テキストには、ヴィーコ「学問の方法」、キケロ「友情について」、ダーウィン「種の起源」、デカルト「方法序説」、ハイゼンベルク「部分 と全体」、プラトン「ソクラテスの弁明」、ヘーゲル「法の哲学」、ポアンカレ「科学の価値」、モンテーニュ「エセー」、朝河貫一「日本の禍機」、ヴァスバ ンドゥ「唯識二十論」、大森荘蔵「流れとよどみ」、岡倉天心「東洋の理想」、坂口安吾「日本論」、本居宣長「ういやまぶみ」、ルーミー「ルーミー語録」、 和辻哲郎「鎖国」などが使われている。

 ここにぜひある生物学者の著作を加えて欲しい。日本が生んだ世界的な社会人類学、生態学者今西錦司(1902~1992)である。

 今西は、ダーウィンの進化論に立ち向かった数少ない研究者である。生物をありのままにみつめてきた今西にとって、ダーウィニズムの自然淘 汰、適者生存、弱肉強食といった考えは、産業革命以来の経済思想と、機械論などに利用された極めて都合のよい西洋的な自然観であるとし、独自の『棲み分け 理論』で多様性を理論付けた。

 おそらく今西理論の正当性について、誰よりも理解できるのはあなた方ではないだろうか?

 今西は、晩年、次の言葉で真のグローカリズムを唱えている。

「一つの種社会が文化発展するとき、種社会間に生存競争が起こったり、自然淘汰が起こったりすると考えるのは、ダ-ウィニズムであって、起こらへんというのが今西進化論なんやで。」


引用・参考・紹介文献

日本経済新聞、産経新聞、朝日新聞他、企業、シンクタンクホームページ

PL480号
スーザン・ジョージ『なぜ世界の半分が飢えるのか』(朝日選書1984)
http://www.portnet.ne.jp/~kazu-t/L'amitie/vol2/no3/MS.vol2.no3.htm

学校給食の歴史
http://www.ntgk.go.jp/kyuusyoku/rekisi/rekisi2.html
http://www.nikonet.or.jp/~kana55go/rekisi/nirekisi.html
http://www.netlaputa.ne.jp/~oyayubi/kyusyokurekisi.html

ウィリアムズ・レポート
岩城淳子『国際寡占体制と世界経済』(お茶の水書房1999)

畜産情報ネットワーク推進協議会
月報「畜産の情報」(海外編)/週報「海外駐在員情報」 
http://www.lin.go.jp/

今西錦司
http://www.ipe.tsukuba.ac.jp/~s965525/
http://www.hi-ho.ne.jp/tadaoki/tadaoki/dokusho/4.htm

ディープエコロジーの環境哲学-その意義と限界 森岡正博
http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/library01/deep02.htm

その他多数


 園田さんにメールはyoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp
2000年08月20日(月)
マレーシア国民大学外国学部講師 伴 美喜子


 先日、久しぶりにウンク・アジズ元マラヤ大学学長にお目にかかる機会があった。小人数の夕食会だったのだが、デザートが運ばれる頃になって、話はサイド・オマールさんのことに及んだ。

 サイド・オマールさんは西マレーシア南端ジョホール州の王族の出身で、ウンク・アジズ教授夫人、アザー女 史の実兄。同教授とは幼なじみでもあった。1943年に大東亜省が招請した南方特別留学生として15歳で来日したのだが、広島で被爆。東京に向かう汽車の 中で病状が悪化し、京都で途中下車した。しかし、京都大学病院の担当医濱島義博氏の献身的な看護の甲斐もなく、1945年9月3日、異郷でそのまま帰らぬ 人となった。

 「心の優しい、美青年だったそうですね」

 『オマールさんを訪ねる旅―広島にいたマレーシアの王子様』の表紙を飾るソンコ(黒いイスラーム帽)姿のオマールさんのモノクローム写真を思い浮かべながら、私はそう言った。

 「そう、確かにハンサムだった。・・・優秀なやつでね・・・。オマールとは私が1945年3月に日本を離れる直前にも会っている。『帰らなくてもいいの・・・』と言っていた」

 ウンク・アジズ教授は南方特別留学生ではなかったが、徳川家がジョホールのサルタン家と親しかった縁で、徳川奨学金を得て早稲田大学で学んでいた。しかし、同大学の閉鎖にともない、終戦前に帰国している。

 「京都に墓があってね・・・」
 「円光寺ですね」
 「そう、そういう名前の・・・」

 オマールさんは亡くなって55年経った今も京都修学院の地、円光寺で、心ある日本人たちに守られて静かに眠っているのだ。イスラーム教徒でありながら、仏教徒たちに囲まれて・・・。

 「私たちモスレムは、日本人と違ってお墓がどこにあろうとあまり気にしないんです。もうそこには魂も、何もないんだから・・・」

 そうポツリと漏らしながらも、遠く離れた異境で若い命を絶たれた義弟について語る同教授の目は潤んでいた。

 私はマレーシアの知的指導者、文化人でもあり、親日家の第一人者として知られるウンク・アジズ教授の人生に彫り込まれた日本との悲しく、深い絆に改めて心を動かされた。

 王族であるウンク・アジズ教授(Royal Professor Ungku A. Aziz)は 1922年ロンドン生まれ。トルコ人の血を引くその西洋人的風貌は、78歳という年を全く感じさせない。今も、学問の傍ら、政府の諮問委員やマレーシア生 活協同組合(ANGKASA)の会長、南北高速道路開発会社等の役員を兼任しており、エネルギッシュに活動をしておられる。

 1951年マラヤ大学(シンガポール)卒、専門は経済学(農村開発)。1964年早稲田大学より経済学博 士号を取得。マレー人として初めての講師(1951年)、教授(1960年)となり、1968年から1988年まで20年間マラヤ大学の副学長(マレーシ アの学長は州元首等がなり、副学長は実質的な学長)を務めた。

 日本との関係では、60年代、70年代に頻繁に日本を訪問、1982年にルックイースト政策の一環として 始まったマラヤ大学日本留学予備教育課程はウンク・アジズ学長時代に始まっている。国際交流基金とも縁が深く、1981年には国際交流基金賞を受賞した。 1993年には福岡アジア文化賞(学術研究部門)を受賞。日本屈指の東南アジア研究者である石井米雄教授(神田外語大学学長)とは旧知の仲である。

 半世紀以上前を振り返って、同教授は次のように述べている。

 「日本文化について徳川家を通じて学んだ。どうして日本は米、英に勝てたのか(後で負けたが)。明治維新 から更に溯って、江戸時代に興味を持った。マレーシアが日本から学ぶことは2つある。聖徳太子から江戸時代までの歴史、そして日本人の生活にみられる、自 然や芸術に対する細やかさ、繊細さである」

 音楽、美術、映画、写真等に対する造詣も深い同教授は、おどけて自らを東西文化に精通した「文化恐竜(dinosaur)」と称されたこともあった。日本の俳句、五輪真弓の歌、黒沢明や三船敏郎等の日本映画ファンでもある。

 一人娘で今年5月にマレーシア中央銀行(Bank Negara)総裁に就任したゼティ・アクタル・アジズ女史(52歳)の息子さんたちを連れて、国際交流基金主催の映画会などにも気軽に出かけ来て下さったことが思い出される。

 そのウンク・アジズ教授が冒頭で紹介した夕食会の別れ際に次のような一言を述べられた。

 「これはお国の大使にお願いすべきことなのだが、アブドゥラ(アブドゥラ・バダウィ副首相)を早い時期に 日本に招待したらいいね。彼は日本の事をほとんど知らないと思うよ。何しろマハティールは50回以上も訪日しているからね・・・。そうだね、やっぱり季節 は桜の頃がいいだろうね」

 半世紀にわたり日マ交流に携わってこられた方の、ポスト・マハティール時代を見据えた貴重な提言だと感服した。

【参考】
1.早川幸生編「オマールさんを訪ねる旅-広島にいたマレーシアの王子様(かもがわ出版、1994)
2.藤原聡他「アジア戦時留学生-トージョーが招いた若者たちの半世紀」(共同通信社、1996)
3.「国際文化社会をめざして-国際交流基金創立15周年記念国際シンポジウム」 (国際交流基金、1988)


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2000年08月19日(土)
台湾研究家 船津 宏


 敗戦国日本の映画作りには制約がある。悪者の外国人役が自由に設定しにくいからだ。

 戦勝国、米英はその点自由だ。大体、悪人はドイツ系。「ダイハード」のテロリスト役、「ゴールドフィンガー(007)」の黒幕。「戦場に架ける橋」での終始情けない早川雪舟の役と、いつも毅然としてかっこいいアレック・ギネス(先ごろ亡くなった)の役の違いをみよ。

 戦争で勝った方が愚鈍で弱々しく、負けた方が格好良いはずがないではないか。

 「シンレッドライン」で原始人に近い描写をされた 日本人だが抗議もできない。戦争物でかっこいい日本人の役を設定したらどうなるか。日本は戦後思想教育でそういう場合自動的に自国内で問題が起こるように インストールされている。このため日本の戦争や国際関係を描写する映画人は、空想特撮映画やアニメに逃げたと思う。

 来年が生誕100年で再び話題となっている円谷英 二。その「ウルトラマン」を題材に、怪獣がどの国を表しているのかとふと考えてみた。戦争を肯定的に、外国人を敵として描けなくなった日本映画は、怪獣を 登場させた。このテレビシリーズでは、怪獣と日本人は同等の立場にいる。グロテスクに造形される怪獣はテレビでの受け狙いに過ぎない。目くじら立てずに軽 いネタとして読み飛ばしてもらいたい。

 ●ピグモンは台湾人?

 「小さな英雄」(第37話)で銀座のデパートに突然現れる小怪獣がピグモンだ。ウルトラマンが倒した怪獣がジェロニモンという酋長怪獣の魔力で多数よみがえり、日本に復讐を開始する。しかし、ピグモンは危機を知らせてくれた善意の怪獣だったのだ。

 それを理解できない日本人は、彼を怪獣軍団との戦 いの最中にみすみす死なせてしまう。このピグモンは台湾に代表される小国の存在と思う。大国には畏れ慄き、小国は無視するか見下すのが日本人。世界中から 文句ばかり言われている日本で、好意的に接してくれるのは台湾くらいしかないのに、その好意にこたえることができない日本。

 ピグモンは大怪獣にも恐れず勇敢に戦って死ぬ。日本人の典型として描かれるイデ隊員は自信喪失で戦うことができなかったが、小さな英雄の勇気に気づいてからは戦い始める。

 ●バルタン星人は中国人?

 敵役としてシリーズ一番の人気を誇るのがバルタン 星人だ。知恵が回り軍事力も強い。「狂信的人物の実験失敗で母国(星)を破壊されたので地球に移住したい」と申し出るバルタン星人に対しハヤタ隊員は、善 意の交渉を開始、平和に共存しようと持ち掛ける。しかしバルタン星人の人口が20億人と聞いて絶句、交渉は決裂する。

 人口が多すぎることで交渉が頓挫する点、バルタン 星人は中国人のようだ。セミの形象も、故宮博物院で見たセミを模った鼎を思い出させる。セミは古代Chinaで生命の象徴だった。中国がもっと小さな人口 だったら、日本への移住条件の緩和も簡単だ。台湾と中国の三通も人口圧力がなければ実現しやすい。

 しかしもし今日本や台湾が、労働力ほしさに入国条 件のハードルを下げたら、とたんに一億人くらい来てしまうかもしれない。返還前に人口600万人の香港から70万人もの人が外国へ逃れた事実は忘れがた い。「21世紀は中国の時代」とか言っている割に、中国人はあまり母国への愛着がない。来てくれた人をいらなくなったから帰れとは言えないのだ。物語では 戦ってしまったが、平和に別れ、お互いの国で経済、文化など各面で切磋琢磨するべきだ。

 ●ラゴンは沖縄人?

 「大爆発5秒前」(第4話)で厨子マリーナに白い 航跡とともに現れるのが海底原人ラゴンだ。ラゴンは平和な海の民だったが、水爆実験のために性格が狂暴化し日本を襲う。「ラゴン」の名前も「ラグーン(珊 瑚礁)」をイメージさせ、これは沖縄だ。水爆の不発弾が身体に付着しているため、科特隊も対応に苦慮する。米軍基地がついている沖縄そのものではないか。

 ウルトラマンの物語では、科特隊はもちろん自衛隊 のもじりだし、その隊員は日本人を表している。熱しやすく思慮のない行動をしてしまうアラシ隊員、主役なのに存在感の薄いハヤタ隊員など日本人の悪いとこ ろが出ている。そんな中でおっちょこちょいで格好いいところは何もないが、怪獣の気持ちが分かり大人の分別を持っているのがイデ隊員だ。日本人の良心を表 す。

 ところでウルトラマンは何国人か。米国であり、よ り具体的にいうと米軍、第七艦隊といえる。米軍がいるので国内で無責任な政治論議をしていても安全保障で心配がないというのが戦後の日本だった。「ウルト ラマン」はそうした状況を正確に描写している。困った時にはウルトラマンが助けに来てくれるという甘えだ。

 「いつもウルトラマン(米国)が助けてくれるので、科特隊(日本)なんて不要ではないか」という疑問を出すのもイデ隊員だ。自信喪失のイデはやる気をなくしふてくされる。まさに今の日本の体たらくを30年以上も前に見事に予言しているではないか。

 朝鮮半島は北を中心に共産化統一され、米軍は出て行く――そういう流れになってきた。日本からも追い出すのかどうか。ウルトラマンの居なくなった日本はどうするのか、図上演習すらしていない。(了)


メールはfunatsu@kimo.com.twまでお願いします。
2000年08月18日(金)
在独ジャーナリスト 美濃口 坦


 北ドイツの町ハノーバーで6月1日から万国博覧会が開催されている。このEXPO2000のテーマは「人 間、自然、技術 - 新世界の出現」で、主催者自らが述べるように1992年リオで179の国々が署名した「アジェンダ21」と関連している。すでに見物 した人々の評判は悪くないのに、ドイツのメディアでは訪問者が少なくて困っていることしか話題にならない。

 ●目標入場者数取り下げ

 ハノーバー万博の主催者は五ヶ月間の会期中に4000万人の入場者を見込んだ。この目標を達成するために は、毎日平均26万5000人が入場しなければいけない。ところが、今までこの目標平均入場者数に達した日など1日としてなかった。それどころか入場者数 が特に多い日でも10万を少し超える程度に過ぎない。現在までの一日の平均入場者数は7万台である。

 お土産物屋で働く人々をはじめ630人が開催後二週間も経たないうちに解雇された。ドイツで学校が夏休み に入るのは州によって異なる。例えば、ルール地方のノルトライン・ウェストファーレン州は6月の最後の州に夏休みに突入したが、南ドイツのバイエル州はし んがりで、夏休みは7月27日からである。

 子供連家族が万博を訪れるこの夏休みのシーズンこそ本来ならかきいれ時である。そう思うのは日本人だけで なく、万博会場アルバイトの人材派遣会社が7月1日もしくは8月1日から人手不足を見越して1180人も従業員数を増大させるべく雇用契約を結んでいた。 ところが、夏休みに入っても入場者数が増えないと見て、彼らは早々この増員計画を中止してしまった。事実、彼らが予想したように夏休みシーズンに入ってか ら、毎日の入場者数は増えるどころか減る傾向にある。このような事情から、EXPO2000の主催者は4000万人の入場者目標数をあっさり取り下げてし まった。

 ●万博よりバカンス

 なぜハノーバー万博にあまり人が行かないのだろうか。西ヨーロッパの国では、たいていの人々が2週間、3週間、4週間の休暇をとり、どこか一箇所にとどまってのんびりする。

 そしてこの種のバカンスの経費も低い。例えば、我家は子供2人の4人家族であるが、ミュンヘンから車で地 中海沿岸のイタリアの町に赴き、そこで家具とキッチンが備わり、2DKのフラットの住居もしくはバンガローを1週間借りて支払う家賃はせいぜい500マル ク(邦貨で3万円余り)である。買い物をして料理をしたり、あるいは1日一度レストランで食事し、浜辺で子供達がアイスクリームを食べたいだけ食べたとし てもたいしお金が出て行かない。

 またこの数年来飛行機代、ホテル宿泊代、朝晩の食事付きで、例えばフロリダ一週間700マルク(4万円あ まり)といった休暇も流行っている。但し、これは1人頭の値段であり、自分で自動車を運転してイタリアへ行くより割高になる。それでも昔コロンブスが苦労 して航海した大西洋を飛び超えることができるので安いといえば安い。

 誰もが想像できるように、万博目当てにハノーバーでは新しいホテルが建てられたり、既存ホテルのキャパシ ティーが拡大された。万博に訪れることは、「投資した以上、、」と手を伸ばして待ち構えているところに赴き、大枚をはたいて宿泊し、更に69マルクの入場 料を払うことである。ということは、2日か3日の万博訪問で平均的家族が2週間か3週間のバカンスに費やす金額を支出することになりかねない。日本ならい ざ知らず、西ヨーロッパの住民がそんな短期間にお金を使うなど私にはどうしても考えられないのである。休暇は長々と取れるので、万博訪問したばかりに休み の残りは来る日も来る日も自宅でごろごろすることになる。こんなことは夫婦間の不和につながるかもしれない。

 以上が、多くの平均的市民が万博に足を向けることなく、バカンスで南へと車を走らせたり、また飛行機で遠 い異国に消えてしまった事情である。10年以上も前に、推進派は万博開催が納税者の迷惑にならないことを主張するために「4000万人の入場者目標」をぶ ち上げた。当時もすでに、この「バカンス大衆主義」は普及していたが、何が何でもハノーバー万博を実現したいので都合の悪いことはふせておいたのである。

 ●昔は未来も今より良かった

 ハノーバー万博が環境問題をメイン・テーマにしたために観客から敬遠されたと思う人も少なくない。21世 紀に「出現する新世界」を想像して、現在自分達が何をしているかを考えて、良心が咎めて来ない人がいるだろうか。誰がお説教をされにわざわざ EXPO2000などに足を向けるであろうか。あるドイツ人ジャーナリストが今回の万博について書いたように、確かに「昔は未来も今より良かった」のであ る。

 そしてこの「昔は未来も今より良かった」というセリフを聞くと私は1970年大阪で開催された万博を思い 出してどうしても感傷的にならざるおえない。当時はオイルショック前で環境問題も資源問題も語られることがなかった。大学を卒業したばかりで若かった私に は、日本もまた人類もその「未来」が雲一つない夏の青空のように思えた。

 当時友人がドイツ館に通訳としてアルバイトをしていた。そのうちに彼には仕事が退屈になり、ドイツ語が少 しできた私が彼にかわって毎日働くことになった。夕方、近くのカナダ館の従業員食堂にご飯に食べに出掛けたが、途中に電光掲示板があって、その日の訪問者 数が表示されていた。私がそこに見たのは連日50万とか60万といった、ハノーバー万博主催者には涎が出るような巨大な数字であった。周知のように、こう して大阪万博は6420万人以上の総入場者数を記録して、大成功をおさめた。

 ●19世紀欧州の「時代の子」

 それでは、なぜあれ程たくさんの人々があの時千里ヶ丘万博会場を訪れたのであろうか。この問題を考えた途端、20世紀終了直前に開催されたハノーバー万博が直面しているより厄介な問題を無視することができなくなる。

 第1回目の万国博覧会が開かれたのはロンドンで1851年であり、600万の入場者があった。1900年 パリで開催された第10回目の万博に何と4500万人が押し掛けている。これは、当時まだ交通もあまり発達していなかったことや、人口も今より少なく、ま た人々の収入も低く、かつ休暇などあまりとれなかったことを考えると凄まじい数字ではないのだろうか。恐らくハノーバー万博主催者が四千万人ぐらい来てく れてもよいと楽観したのも、このような過去の数字があるからである。

 でも彼らは、万博が19世紀ヨーロッパの「時代の子」であり、時代そのものがかなり変ったことに気がつい ていないのではないのか。この催しの魅力は「世界」全体を万博会場という限定された空間の中にまるで箱庭のように収容する点にあり、これは19世紀ヨー ロッパで広まりつつあった博物館や動物園の思想と共通する。

 1970年、あの万博会場に「世界」を収めることによって、私達日本国民は意識の上で敗戦によってこう むった国際的孤立から正反対の地点に立つことができたのではなかったのか。だから、私達はあの催し物によって「世界の孤児」ではないという気持を抱くこと ができた。同時に、戦後耳が痛くなるほど聞かされた「世界」とか「平和」とか「人類」とかいった抽象的で仰々しいコトバを、多くの人々があの会場ではじめ て具体的に感じることができたのではなかったのだろうか。

 当時の日本を考えると、ハノーバー万博にドイツ国民があまり熱意を感じていないこともよくわかる。現在、ドイツ人は国際的孤立感など感じないですむ立場にある。統一を果たしたドイツは今や統合欧州に加盟したい東欧の隣国が一番ちやほやする国である。

次に「世界」を万博会場という箱庭に収めて今更眺める必要など毛頭ない。見たければ旅行会社へ行けばよい。次に、万国博覧会が前提とした「世界」が変ってしまったのではないのか。

 日露戦争が始る二年前の1903年に出たブロックハウス百科辞典に「万博は普遍的な性格の工業と貿易の展 示であるが、、、同時にどの参加国も自国の固有な性格を表現しようと骨折る場である」という記述が見られる。ということは、万博とは19世紀に勢揃いしは じめたネーション・ステート(国民国家)、当時の日本語でいうと「万国」がお国柄の表現を競い合う場所であったのである。

 「工業と貿易」のための展示という万博が昔もっていた役割も業界毎に開かれる見本市によって取って代られ た。また「ボーダーレス」や「グローバリゼーション」というコトバが示唆するように、国家を唯一の単位として「万国がそのお国柄を各々競い合った」国際社 会も、少なくとも以前と同じようには存在していないのである。どうせ「万国が競い合う」なら、多くの人々にとってはっきりしない「お国柄」よりスポーツの ほうが良いようである。

 ●ドイツ語を耳にすることなく育つトルコ人児童

 もう人々が万博に足を向けなくなった国際社会を私達はどのように考えたらよいのだろうか。私はアンビバレントである。時々悲観的にならざるおえない。かなり前、ルール地方の「鉄の町」デュースブルクを訪れ、教育関係者と話すことがあった。

 この町はトルコ人労働者とその家族が住民の五分の一近くを占める。昔は、ドイツで生まれ育ったトルコ人児 童が小学校へ行く年齢までドイツ語に接触しないことなど考えられなかったそうである。ところが、1990年ぐらいを境にしてトルコ人就学児童のうちでドイ ツ語をいっさい話さない子供の数がどんどん増加している。

 このような傾向の原因として、私が話した教育関係者は、一般的には「グローバリゼーション」と呼ばれてい る現象を、特に衛星放送やインターネットといったものの発達と普及を挙げた。例えばかつてはテレビもドイツ語の放送しかなかったのが、今ではトルコ本国と 同じように多くのトルコ語チャンネルがドイツで受信可能である。

 以前は必要に迫られてかもしれないが、多くのトルコ人がドイツ語を勉強した。ところが、今や通信技術の発 達のおかげでマンションのなかでもトルコ文化圏が成立する。その結果自国文化圏から出ることもなく、彼らの子供達もいっさいドイツ語を耳にすることなく就 学年齢を迎える。

 このままで行くと、「多文化社会」とは複数の文化が社会でなく、単に同一空間内にお互いに対話することもなく並存するだけのことになってしまうのではないのか。この状態は長い間「多文化社会」の実現に努力した人々が本当に望んだことではない。

 数日前、調べものがあってミュンヘン大学の図書館に出掛けたところ、若い日本人研究者に出会った。彼は日 本では超一流大学の大学院に在籍し、2年間の留学を終えて帰国する直前であった。この少壮の学者はドイツの学会の事情に通じ、頭脳も明晰で、データバンク だとかインターネットのこともよく知っていて、話していて本当に役に立った。

 彼は帰国前の心境について、「コンビニがなくて不便なドイツの生活はもうもうこりごりだ」と述べた。

 私は「、、、でもドイツにも勉強するだけでなく、学生生活というか、そうそう、彼ら固有のライフスタイル があって、それを楽しむと不便ということもあまり気にかからなくなることもあるのではないのか、、、」と言いかけて、もうトイレに行ってもトイレットペー パーが要らなくなった我が祖国の「便利な生活」を考え、議論にもう一つ気合いが入らなかった。

 この若い日本の社会学者の卵には、「欧州学会事情」というような論文を書いているうちに二年間が過ぎたようである。いずれにしろ、彼はコンビニがなくても生活をエンジョイする同年齢ドイツ人の「ライフスタイル」など知らないし、関心もないようであった。

 この時、私はマンションの中に自国文化圏を築き上げたデュースブルクのトルコ人の話しを思い出した。21世紀の国際社会とは、マンションのなかに閉じこもる「耳年増」だらけになってしまうのかもしれない。

 千里ヶ丘の万博会場で私が見た電光板の巨大な数字、群集から発される熱気と好奇心、そして理由もなくどこか興奮していた当時の若かった私。大学図書館を後に駐車場まで歩きながら、私があの時体験したことはすべて幻であったような気がした。


美濃口さんにメールはTan.Minoguchi@munich.netsurf.de
2000年08月17日(木)
萬晩報主宰 伴 武澄


 夏休みに古い資料を整理していたら25年前のサンケイ新聞の切り抜きが出てきた。1975年10月23日 の夕刊に作家の吉田知子氏が寄せた「広島カープの優勝にみる郷土意識」とと題したコラムだった。このコラムの内容はその後、筆者がことあるごとに引用して きた問題意識だっただけに妙に懐かしかった。25年前とはいえ、いまでも十分に問題提起に値する内容と思うので転載したい。

 ●ストリップも半額

 広島カープが球団結成以来26年目にして優勝した。これをカープ以上に喜んだのが広島の人である。いまま でも広島が勝つたぶに商品半額セールの出血サービスをしたり酒飲み放題の大盤振る舞いをしていたのが、今度は正真正銘の完全優勝であるから、もうどうした らよいかわからない。百貨店、商店街、スーパーから、はては古本屋は3冊無料進呈、ストリップ劇場までが入場料を半額にしたという話である。

 もともと広島カープは他球団と違い地域社会が作り育てた球団であること、万年最下位近くを低迷していたこ と、それにもかかわらず熱狂的ファンが存在すること、などを考えれば彼らの興奮ぶりは無理もないことだ。テレビに感激して泣きっぱなしのおじいさんがう つって、それが球団の関係者でもなんでもない、ただの広島市民だった。そんな場面を見れば誰だって広島と喜びたい気持ちになる。

 しかし、勇み足もあった。まだ誰の記憶にも新しい9月10日対中日戦のファン暴行事件である。ヒイキの引 き倒しとか間違った郷土愛とか非難された。広島ファンは39年9月の阪神戦でも騒ぎを起こして「中止試合」を作った前歴があるから、なおさらである。もち ろん、それらはファンの一部であるにしても、一般世間に悪印象を与えたことは否めない。

 そもそも郷土愛は戦争とかスポーツなどの闘争の場に於いて最高に発揮される。小のほうで言えば、村の運動 会。必ず最後に地区別リレーというのが行われ、字(あざ)ごとに選手が出る。その日のハイライトであり、老いも若きも声を嗄(か)らして声援し、勝てば当 の選手である子供たちはそっちのけで大酒宴が始まる。高校野球もそうだし、国体からオリンピックまで、常に自分の属する地域社会を応援する。プロボクシン グなどもそうである。

 どんな世紀の大試合だろうと、どちらも外国人の選手では、見るほうは、あまり熱がこもらない。日本の選手が出ているとき、大概の男は一緒に手を動かしている。おとなしくじっとしている男は我慢強いだけである。例の世飲酒暴行事件にしても同じことだろう。 誰も思いは一つである。飛びだして行って敵をやっつけ、敵の首を棒の先にぶらさげて干し首か何かにしたいのである。首狩り族の勝利の喊声(かんせい)こそ郷土愛の原形だろう。

 郷土の歴史や偉人や地理産物を勉強しましょう、風土を守りましょう、伝統を大切にしましょう、というようなのは単なる教養であって、そのために郷土を愛したりはしない。

 ●狂喜乱舞の男たち

 だから郷土愛なんかいらないかと言えば、その反対である。前記広島カープの優勝に狂喜乱舞したのは大部分 は男たちだった。女側からの発言は「ほうぼうの店で出血サービスしてくれて嬉しかった。いつもそうなら毎年優勝してもらいたい」というものだった。選手暴 行事件も全部男。子供にいたるまで男。首狩り族は言うまでもない。男のほうが共同体への所属意識が強く、闘争心が激しく、積極的なのである。

 はじめに自分がある。自分は大事だ。それから家族も大事だ。次ぎに住んでいる町。県。国。アジアというよ うに愛は拡がっていく。この愛が家庭で止まってしまうのが女の特徴である。ことがあれば争うより逃げるほうがよく、ひたすら無事であることを願う。男の闘 争本能と同じように是も非もない本能であって、悪いといってもどうしようもないのである。

 ●無気力と無責任

 一般的傾向として、男の中でも若い人より中年以上のほうが郷土愛が強いようだ。20数年しかその土地に住んでいないものと50年余も住んでいる人では、当然愛着の度合いが違うにしても、それ以上の差がある。

 郷土愛と無縁の若者がふえた。郷土を愛さないくらいだから、もちろん国も愛さないし、他人もどうでもよ い。争うのは馬鹿らしいから、ごめんこうむる。家族だけは愛しているようにみえるが、これも昔の家長型の男とは違う。いざとなれば妻子より自分のほうが可 愛い。暴力もふるわず、家事にも協力的な代わり、家族という最小の共同体すら守る気がない。

 それでは女より悪い。昔から家族を守るために身を犠牲にした女の話は数限りなくある。おそらく、それはいまも変わらないだろう。子殺し、子捨ての事件から女全般が悪く言われたりしているが、それは一部である。

 ●郷土愛を失った男

 理不尽な身びいきの強い男。荒々しい暴力を内に秘めた男。それは現代的でもなく理性的でもないが、私は彼こそは男だと思うのである。郷土愛を失った男は、男以下、女以下である。首狩り族の子孫であることは恥ではなく、誇りである。


2000年08月14日(月)
中国情報局 文 彬


 米国防省の2000年度版国防白書に「2015年以降に、世界レベルで米国の競争相手となる潜在的可能性 がもっとも大きい国」は中国とロシアだという警告的な文言が記されている。米露間の対弾道ミサイルシステム制限条約(ABM)への抵触を承知しながらも実 施しようとする米本土ミサイル防衛計画(NMD)も、日本、韓国、そして台湾を巻き込む戦域ミサイル防衛計画(TMD)も、「ならずもの」と米国が決めつ けた国々の脅威を防ぐものだとの建前上の理由があるものの、最先端技術を駆使して「潜在的な競争相手」と実力の差をつけたいというのが本音である。

 また、アメリカがアジアでの勢力範囲を確保するための動きは今までより頻繁になってきた。日本、韓国など 米軍基地のある国々で反米の気運が日増しに高まる中で、最近はそれ以外の国に浸透してきているのが特徴である。アジア・太平洋地域で相次いでいる米軍参加 の多国籍軍事演習もその一環と見なしてよいと思われる。以下に、最近行なった多国籍軍事演習を演習の名称、時期、参加国順に羅列する。もちろん、どれも米 軍を筆頭にしている。

 ●コーペラティブ・サンダー、1999年7月、米・豪・日・韓・インドネシア・マレーシア等。
 ●コープ・タイガー、1999年11月、米・タイ・シンガポール。
 ●バリカタン、2000年1月、米・フィリピン。
 ●コブラ・ゴールド、2000年5月、米・タイ・シンガポール。
 ●リムパック、2000年5月、米・豪・加・日・韓・チリ・英。

 東南アジア諸国が米軍主導の多国籍軍軍事演習に積極的に加わったのは、それぞれの地域で紛争の火種を抱え ているにもかかわらず、経済的な、あるいは軍事的な力量不足からアメリカの軍事的な援助を必要としているからだ。だが、アメリカから見れば、多国籍軍事演 習に参加して東南アジアでの発言権を強めることができるばかりでなく、もう一つの大きな目的も達成できるのだから、まさに一石二鳥である。

 それは中国包囲網を作ることである。地図上でこれらの軍事演習の地域を線で繋げてみると、あたかも中国に 海上から包囲の網を掛ける格好となっている。いざというとき、中国は海上の逃げ道が塞がれてしまうことになる。もちろん、東南アジア6ヶ国(地域)と中国 が領有権問題を巡って争っている南沙諸島(スプラトリー)についても、何時でも実力行使できるようになる。

 戦後30年以上も続いた冷戦は70年代に入って米、中、ソという三極鼎立の様相を呈し、表舞台でも裏舞台 でもし烈な駆け引きを繰り広げた時期もあったが、ベルリンの壁が崩れ、ソ連邦が解体したその時から、対抗が対話へ、そして協力へと氷山が一気に春の渓流に 溶け、世界は戦争も危機もすべて過去のものになったかのような和やかなムードに包まれた。

 またその時から、自分を牽制する勢力が無くなり、後顧の憂いが消えたアメリカの言行はしばしば強引になり がちだった。国際政治がアメリカ一極に傾斜し、国際社会はアメリカ合衆国の別名だという表現さえ生まれたほどである。コソボ紛争での米国の横柄な振るまい は、その端的な現われだった。

 しかし最近、特にコソボ紛争を境目にロシアと中国の反米姿勢が再び鮮明になってきた。NATO軍の紛争介入にロシアも中国も猛烈に反対した。特にロシアは紛争が長く続けば、何らかの形で介入するだろうと危惧される事態も一時あった。

 折悪しく、NATO軍戦闘機による駐ユーゴスラビア中国大使館の爆撃は、中国の反米感情を最大限に煽った ことになり、数年間苦心して築いてきた信頼関係が脆くも崩されてしまった。それ以来、「米国の暴行を阻止せよ」、「国が強くならなければ打たれる」などと いう民族主義高揚のスローガンが毎日のように中国マスコミを賑わしていた。

 また、その後のチェチェン紛争や台湾海峡危機の中で、アメリカの強い抑止力を意識せざるをえないロシアと 中国は、アメリカに対抗できる強い軍事力を持つ必要性と緊迫性を認識させられた。エリツィン元大統領が自ら後継者と選んだプーチン大統領が新政権をスター トした際、掲げた旗印は「強いロシア」だったが、もちろん強くしたいのは経済だけではない。また、中国国内でも反米的強硬派の発言権が強くなり、ミサイル を含む先端のハイテック兵器の導入にかつてないほど熱心に取り組んでいる。

 香港の情報筋によると、最近行なった会議で江沢民国家主席は、アジアで戦略的な主導権を取ろうとするアメ リカに焦燥感を示し、アメリカに対抗できるような新兵器の開発を指示したという。また、状況の変化により、今までの核兵器と軍縮に対する既定の方針も変え ざるを得なくなるとも話したという。その背景には、TMD計画がアメリカの計算通りに実施されれば、中国の台湾への威嚇力はおろか、大陸の制空権もアメリ カのコントロール下になってしまう恐れがあるからである。

 だが、アメリカの戦略的な計画と動きで、アメリカの予測しなかった現象が生まれた。中露の関係がますます 緊密になってきたのである。かつての中ソのイデオロギーの対立がなくなり、紛争が後を絶たない4,300キロもある国境問題もほんとんど解決済みである (境界線上にある幾つかの小島の帰属問題は懸案となっているが、すでに双方の貿易の拠点として共同開発が始まっている)ため、歴史の中でもまれに見る友好 ムードの高い時期になったのだ。

 ただ、それだけでは、エリツィン政権の対中政策を継続するプーチン大統領やそのスタッフと、ロシアにパー トナー関係を求める江沢民国家主席やそのスタッフとの異常とも言える頻繁な顔合わせ、ホットラインによるたびかさなる会談の理由を説明しきれない。たぶ ん、顔合わせや会談をする時、双方の脳裏を過るのが何時もアメリカの影であるは間違いない。

 7月26日、沖縄サミットから帰国したプーチン大統領は、ホットラインを通じて江沢民国家主席と1時間以 上も話し合った。話題の中心は、両首脳が北京で調印した「北京宣言」と「反NMD宣言」、これから締結する「中ロ善隣友好協力条約」以外に、軍事的な協力 関係についても真剣に意見を交換したという。ミサイルなどハイテック兵器の共同開発、共同軍事演習、ミサイル部隊の将校の相互訪問、150億ドルに上るロ シア製兵器の購入など、より具体的な協力分野についても合意したという。

 先日、ロシア外務省のアジア担当官がラジオ局「ロシアの声」のインタビューで、中国とインドの国境問題に 関する協議が大きく前進したことについて歓迎する意向を表明したと同時に、近々プーチン大統領がインドを訪問し、インドの国連安保理常任理事国加入問題 と、中・印・ロの戦略的な連盟関係についてインドの首脳と意見交換を行なうとの情報を漏らした。

 最近の北朝鮮、中国、ロシア首脳の相互訪問、「上海5ヶ国」(7月5日上海首脳会議に参加した中国、ロシア、キルギスタン、タジキスタン、カザフスタン)の中の中ア3ヶ国も考慮に入れれば、アメリカに対抗するアジア勢力範囲はさらに拡大する可能性も否定できない。

 また、プーチン大統領は、台湾有事の場合には、ロシアの太平洋艦隊が出動しアメリカの第7艦隊を阻止する と江沢民国家主席に約束したという。この「人民日報」系国際情報紙「環球時報」にも載ったニュースは、多くの軍事専門家にとっては非現実的なことであり、 根拠のないデマだと否定されたが、中露の軍事的な協力関係はますます強固なものになり、国際紛争が起きる場合、共同軍事行動に出ることも十分考え得る。

 まさに、新たな冷戦が到来しようとしている。アメリカの国際政治学者ではこの新たな冷戦は今までの冷戦と の違いを指摘し、「コンガジメント」(Congagement)という表現を使う。「Containment」(封じ込め)と 「Engagement」(約束、交流)を組み合わせた新しい造語である。確かに、アメリカはNMD計画とTMD計画をロシアにも認めてもらおうと努力し ているし、東南アジアで多国籍軍事演習を積極的に進める傍ら、中国の軍の高層部との交流をも常に求めている。また、中国とロシアも同じように硬軟両用の手 口を使い分けている。一方は相手に技術と投資を、もう一方は相手に市場を期待しているからである。

 このコンガジメント現象は21世紀にも継続するだろうと思われる。しかし、一旦軍縮が軍備競争に変わると、何時か世界各地に散在している火薬庫のコントロールが効かなくなり、最終的にはコンガジメントのバランスが崩れる時が来る。


【参考】
1. 筆者の関連コラム:「プーチン大統領の東亜歴訪と沖縄サミット」
 http://village.infoweb.ne.jp/~fwgc0017/0007/000721.htm(萬晩報)
 http://searchina.ne.jp/column/column.cgi?view=219&page=219(中国情報局)

2.「コンガジメント」をキーワードに米中関係などを解説するサイト:
●Recipe for a New China Policy
 http://www.rand.org/publications/RRR/RRRwinter00/sweet.html
●LAT-Hawk-Plus-Dove
 http://taiwansecurity.org/LAT/LAT-Hawk-Plus-Dove.htm
●ISSUE FOCUS
 http://www.fas.org/news/india/2000/wwwh0m16.htm
●Week of September 23, 1999
 http://www.uscpf.org/news/1999/09/092399.html
●Commentary Magazine -- January 2000
 http://www.commentarymagazine.com/0001/symposium.html
●TSR-Papers
 http://www.taiwansecurity.org/TSR-Papers.htm


 文さんにメールはbun@searchina.ne.jp
2000年08月13日(日)
とっとり総研主任研究員 中野 有


 米国政府の旅費等持ちの招待で、ホノルルで開催された朝鮮半島問題に関する戦略会議に出席した。討議内容 は、北東アジアにおける安全保障と経済協力のリンケージの模索である。米国国防総省、国務省、世銀、国連、シンクタンクが2日間にわたり北東アジアの信頼 醸成への戦略を練った。

 米国政府が鳥取の一研究員を日本人唯一のスピーカーに指名した理由は、国連、米国のシンクタンク、地方の シンクタンクの経験を基に多角的視点より北東アジアの開発に取り組んでいることと、北東アジアの多国間地域NGOである「北東アジア経済フォーラム」並び に「北東アジア開銀構想」への興味からであった。

 依頼を受けた時、会議の趣旨が軍事に関わる安全保障の色彩が強く、軍事に頼らず紛争を未然に防ぐ予防外交 の重要性を主張する筆者の信念との隔たりと英語力への不安から出席を躊躇した。しかし、未熟な発想も米国政府や国連等のリトマス試験紙を通せばそれなりの 構想に発展する可能性も有ると考え思う存分発言した。ここに戦略会議から全体をとらえることができた大きな構想と北東アジアの大局的なリズムを記す。

 南北首脳会談の成功や朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の全方位外交の成果は、ミッシングリンクといわれる北東アジアの冷戦構造の終焉を意味する。北朝鮮の瀬戸際外交は、米国が推進する迎撃用ミサイル開発や軍拡競争に拍車をかける。

 従って中国は北朝鮮の瀬戸際外交を牽制し、北朝鮮の全方位外交を支援すると同時に北東アジアへの建設的な 開発戦略を明確にした。昨秋、天津で開催された第9回北東アジア経済フォーラムにて中国が北東アジア開発銀行構想に対する具体的な協力姿勢を打ち出し、さ らに本年5月の北東アジア開銀の専門家会議では、天津市に北東アジア開銀を誘致し、土地・建物等のコストを天津市が負担するとの声明を出したことは中国の 姿勢の変化を的確に表現している。

 米国のシンクタンク(東西センター)が北東アジア開銀構想を提案し、5年の歳月を経て多国間協議にて熟成 させた構想を中国が実施することに意義がある。中国の北東アジアの開発戦略は米国が推進する市場経済化の進展のプラス材料である。プーチン大統領の「柔よ く剛を制する」対北朝鮮のロシアの黒帯外交は、北朝鮮のミサイル開発の流れを変えることに成功した。中国とロシアの共通の利益の合致点は、米国主導の軍拡 を排除するという意味での北東アジアの経済圏構築である。

 北東アジアにはNATOのような集団的安全保障が存在していない。ヨーロッパはNATOに加え、EUにより、集団的安全保障並びに経済協力を主眼とする 協調的安全保障が構築されている。朝鮮半島の38度線は技術的に紛争状態であり南北或いは、東西の冷戦構造の軍事勢力が均衡している。昨今の朝鮮半島を取 り巻く国際情勢の好転は、韓国の米軍の縮小を意味し、ひいては沖縄サミットでクリントン大統領が示唆したように沖縄の米軍基地縮小につながる。

 現在の北東アジアは安全保障と経済協力のリンケージを模索する時期にあり、また冷戦構造と密接に関係のある集団的安全保障を飛び越え多国間の経済協力に重点をおいた協調的安全保障が成り立つ可能性を秘めている。

 中江兆民は、1世紀以上前に出版された「三酔人経綸問答」の中で百年後には軍事でなく民主による外交の良策、換言すれば協調的安全保障の時代が到来すると予言した。

 この百有余年の北東アジアは、日清・日露・日中戦争、そして第二次世界大戦と戦争の歴史が続き、ベルリン の壁の崩壊を経て10年経過しようやく冷戦の長いトンネルから抜け出そうとしている。特に旧満州地域は、日本との紛争の導火線であり、北東アジアの20世 紀は紛争の歴史であった。北東アジアに協調的安全保障の枠組みを形成することにより21世紀の安定と発展は保証されるのではないだろうか。

 北東アジアの発展は、各国の多様性の中に生み出される労働、天然資源、資金、技術力の相互補完性、すなわ ち北東アジア諸国のハーモニーが不可欠である。北東アジアは、戦争やイデオロギーの犠牲により開発がせき止められてきた。北東アジアには基本的インフラが 整備されてない故に市場経済のメカニズムには限界がある。現在の世銀等の開発銀行の開発手法の主流は、民間セクター重視の開発である。民間セクターを引き つけるだけの魅力を欠いた北東アジアは、基本的インフラ整備を市場経済の視点でなく安全保障の視点から展望すべきである。

 日本は米国の共産主義封じ込め政策や日米安保で多大な恩恵を受けてきた。戦後の日本の復興は、経済に集中 できる環境により成し遂げられた。歴史的視点や日本の突出した経済力に立脚すれば、北東アジアの遅滞しているインフラ整備を行うのは日本の責務であるだろ う。北東アジアが安定すれば21世紀の紛争を避けられる可能性が高くなる。

 米・中・露の3大国に加え、韓国や北朝鮮が北東アジアの安定を後押しする国際環境が整いつつある。日本 は、国家百年の計を持って北東アジアの開発を周辺諸国との多国間協力により協調的安全保障を論ずるのが肝要である。北東アジアの安全保障と経済協力のリン ケージは、北東アジア開銀構想に有り。


2000年08月08日(火)
萬晩報主宰 伴 武澄


 インド独立の原点が日本にあるといったら驚く人が多いに違いない。インド独立の闘士はガンディーでありネ ルーだった。ネルーは戦後インドの首相になって日本にもやってきて親日家だと思っている人が多いが、戦争中は二人とも反ファシズムを宣言して、イギリスと ともに連合国側にあった。このことに間違いはない。

 だがもう一人、インド独立史に名を遺した志士がいた。スバス・チャンドラ・ボース。この名前を記憶にとどめている人は相当のインド通である。

 ●宗主国と戦わなかった植民地インド

 植民地支配にあったインドのガンジーやネルーが宗主国と戦わず、宗主国の戦争を支援していたのだから不思議だが、チャンドラ・ボースは戦争中にシンガポールでインド国民軍の総帥となり、イギリスに宣戦布告した。いわば枢軸側に立った人物である。

 戦後、イギリスは宗主国に牙を剥いたこのインド国 民軍を戦争裁判にかけ、植民地支配の威信を取り戻そうとした。だがことは単純に終わらなかった。チャンドラ・ボースはインド国民会議派とたもとを分かち、 日本軍とともにインパールで敗退。終戦の3日後、台北の松山空港で乗っていた飛行機が墜落して非業の死を遂げる。戦争が終わってみると彼が育てたインド国 民軍が一夜にしてインド解放の象徴的存在に変わっていた。

 イギリスによる報復は裏目に出た。インド国民会議 派は裁判に弁護士団を送り込み、労働組合はゼネストに入った。大英帝国の番犬と揶揄された英印軍までもがイギリスに砲弾を向けた。この結果、裁判の進展と ともにインド全土が騒乱状態となり、イギリスがインド支配を諦める引き金になったというのが歴史の真相である。

 しかし歴史はまた予想外の展開となる。1947年、インドが独立を達成すると、ボースは日本に協力したとして戦後のインド独立史から名前が抹殺されかけるのである。

 25年ほど前、チャンドラ・ボースの肖像画がニューデリーにあるインド国会に掲げられ、市内には「チェロ・デリー」の掛け声も勇ましい軍服姿の銅像まで建てられた。ガンディー、ネルーに次いで3人目の国父としてボースはようやくインド正史にその名をとどめることになる。

 ●一時期、東京はアジア革命の拠点だった

 ボースといえば日本では「中村屋のボース」(ラス・ベハリ・ボース)が有名だが、チャンドラ・ボースはこのボースとは別人である。ラス・ベハリ・ボースもまたインド有数の革命家だったが、第一次大戦の時、イギリス人のインド総督暗殺に失敗して日本に亡命した。

 明治後期から大正時代にかけて実に多くのアジアの革命家が日本を頼り、日本を訪れている。西欧による世界分割が最終段階に入り、その歯牙から唯一まぬがれたのが日本だった。このことは国民として誇りに思っていい。日本は最初からアジアを侵略したのではない。

 日本は西欧列強との対峙の中でアジアの利権の分け前にあずかり、結果としてアジアに覇権を求めるようになるのも事実だが、孫文の中国革命の一大拠点は東京だったし、1925年、北京で客死するまで孫文は日本と中国との連携を模索し続けた。これも歴史的事実である。

 ●ネタジーとマハトマ

 スバス・チャンドラ・ボースはベンガル生まれの熱 血漢である。すでに述べたが、第二次大戦中にインド国民軍を率いて日本軍とともにインパールに軍を進めたが、終戦直後に台北の空港で飛行機事故に遭い、非 業の死を遂げた。日本では信じ難いことだが、カルカッタではボースに対してほとんど信仰に近いものがある。

 インドではボースの名は多くあるため、スバス・チャンドラ。ボースは「ネタジ」(総帥)の名で呼ばれる。

 インド独立の志士たちを明治維新の日本にたとえると、ガンディーは精神的柱としての西郷隆盛、ネルーは維新後のの基礎をつくった実務派の大久保利通に似せられるかもしれない。そうなるとボースはさしずめ坂本竜馬のような存在といっていいかもしれない。

 ボースについては追々書いていきたいと思うが、ガンディーがマハトマ(魂)と呼ばれ、ボースがネタジと称されるわけはそんなところにあるのかもしれない。

 登山家の川喜多二郎氏がかつてヒマラヤ遠征をした折、ネパールで大歓迎を受けたことがある。その地を治めていた知事がインド国民軍の将校だったことを知るが、インドと日本がともに大英帝国と戦った国同士だったことを強調され、困惑したことを自著に書き記してある。

 中国や韓国と違って、インド人の国民感情が日本に対して概して好意的なのは第二次大戦の最中に起きたインド人と日本との間の数々のドラマのおかげだということを知らずにいると恥をかくことになる。

 ●杉並区に眠り続けるボースの遺骨

 筆者がボースの名を知ったのは高校時代、藤原岩市 氏の著書「F機関」を読んでからである。また大学時代、その藤原岩市氏から通訳のアルバイトが舞い込むという偶然にも恵まれた。おかげでインド・インパー ル州からの訪日団の世話をすることになり、インドでのボースの評価を聞かされることになった。

 そんなことが縁で、第二次大戦中にボースの周辺で世話をした日本人将兵の方々とも知り合うこととなった。

 ボースの遺骨は杉並区和田の蓮光寺というところに ある。仮安置だったはずなのに、なぜか50年をすぎてもそのままである。生前にボースと関係のあった人々たちでつくる「スバス・チャンドラ・ボース・アカ デミー」が毎年、8月18日の命日に慰霊祭を続けてきた。蓮光寺の住職も代替わりし、アカデミーの人たちもみな高齢ですでに他界した人も少なくない。

 アカデミーの最大の目的はボースの遺骨を無事、インドに返還することである。50年以上にわたり、外務省やインド政府に働きかけ続けている。

 蓮光寺にはネルー首相、ガンディー首相らを含め多くの閣僚が参拝している。インド大使が着任したときはまっさきにボースの遺骨を慰めるのが恒例となっている。にもかかわらずボースの遺骨返還はいまだに実現していない。

 インド国民軍の参謀長だったシャヌワーズ・カーン氏(故人)が「ボースの遺骨は軍艦を派遣して必ず迎えに来る」と約束した時期から40年を経た。事務局長の林正夫さんは「自分たちの世代にできなければどうなるのか」と将来を危惧している。

 そんなスバス・チャンドラ・ボース・アカデミーの人々に代わって、ボースと日本の関わりを月に1、2度の頻度で書いていきたい。


2000年08月02日(水)
萬晩報主宰 伴 武澄


ノルウェーから日本語で隔週で発信しているめるまが「ノルウェーニュース」は筆者の貴重な情報源のひとつとなっている。ITの最先端をゆく北欧の経済や生活情報には示唆に富む内容が少なくないからだ。今週は「缶ビールがノルウェーで流行っている」というニュースだ。

 日本やアメリカからみれば、「いまさら」という感があるが、飲み干した後の缶の処理方法が確立したから消費者の嗜好がビンから缶に移ったという話を聞けば、ちょっと驚かざるを得ない。というよりノルウェー国民に対して敬意を表さざるをえない。以下にその一部を引用する。

 ノルウェーで缶ビールの消費が増えただしたのは、空き缶の新式デポジット・システムが新たに導入されたのが契機となったからだといわれている。この結果、国内の空き缶の回収率は90%に達したそうだ。

 環境保護のため、これまで缶ビールを飲むのを控えていたノルウェー人。しかし、 リサイクル可能となれば、やはり缶ビールの方が具合がいいのだろう。ビール業界の スポークスマンも「缶ビールの方が瓶ビールより冷えるのが早いし、持ち運びも便利 だし...」と、今後、加速的にノルウェー産ビールの缶入り傾斜を予測するコメントを 出している。

 筆者は北欧に一度も足を踏み入れたことはない。だがノキアとかエリクソンという携帯電話会社が世界市場を 席巻した事実や、高福祉というイメージしかなかったこれらの国々の経済がグローバリゼーションの中で注目を浴びるようになった背景について日本としてもう 少し焦点をあててもいいのではないかと思っている。

 日本がここ10年、バブル崩壊後の不良債権問題で悩み続けているうちに世界は次々と変革に着手しているのだ。先日、アメリカで取材中の同僚が驚きのメールを送ってきた。

 ノースカロライナ州のかつての田舎町であるシャーロット市がいつのまにか金融都市に変貌していたという事 実を書き送ってきた。「バンク・オブ・アメリカや6位のファースト・ユニオンなど全米上位20銀行のうち4銀行が本社を置く企業城下町」でいまや全米有数 の人口増加率だということである。

 バンカメがカリフォルニアの銀行だと考えるのは時代錯誤であることと、アメリカの変革は都市ではなく小さな田舎町が発信の拠点であることを思い知らされた。そういえばシリコンバレーもかつてはサンフランシスコ郊外の単なる乾燥した回廊だったはずだ。


ノルウェー発! ビジネスと暮らしに役立つニュース
     発行元:Nor News office http://www.nornews.com

 【萬晩報】7月は酷暑だった。季節外れの台風3号の関東地方直撃で梅雨前線が吹き飛び、実質的に梅雨は7 月初旬で終わっていた。▼7月4日第二次森内閣が発足し、翌週の12日にそごうという巨艦百貨店が倒産した。銀行への債権放棄を核とした再建計画はいまや 外資系となった新生銀行の債権放棄拒否というひとことで吹き飛んだ。本来ならば、経営難に陥っていたいくつかのゼネコンも同じ方式で救済されるはずだった が、政府のもくろみも銀行の思い込みも破たんした。おかげでゼネコンの処理が遅れ、関係者はそれでなくとも暑い夏の休み返上を余儀なくされている▼今年の 梅雨の場合、台風通過からほとんど雨のない2週間が続き、20日、気象庁は遅まきながら関東地方に梅雨明けを宣言した。7月に台風が関東地方を直撃する気 圧配置を考えればもっと早く宣言できたはずだと考えた。こちらは人畜無害。大きな被害はないが、金融とゼネコンは引き続き暑い夏が続く。

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