2000年5月アーカイブ

2000年05月31日(水)文 彬

 今週の月曜日(5月22日)は、東芝在籍41年の辣腕副社長古賀正一氏にとって、恐らく最も手に余る問題に直面している日に違いないであろう。

 北京の中国大飯店で記者2百名以上の報道陣の前に座ること3時間、氏の表情は始終強張っていたし、言葉に も色彩が乏しかった。棒読みに等しい釈明の後、興奮した若手記者から矢継ぎ早に浴びせかけられる感情的ともとられる質問に半ば機械的にただただ事前に用意 したと思われるコメントを繰り返すばかりだった。

 それもそのはずである。東芝は、自社のノートパソコンのフロッピーディスクに使用されている制御装置の不具合でデータが壊れる恐れがあるとして、米国の消費者から損害賠償を求められ、昨年総額千百億円を支払ってようやく和解に漕ぎつけたばかり。

 同じ問題で損害賠償に発展しかねない、あるいは長年培ってきた消費者の信用を失墜しかねないと危惧されている中国大陸でのトラブルに対し、東芝は否応無しに真剣に、且つ慎重に対応せざるを得なくなったのである。

 もちろん、東芝がもっと危惧しているのは、これ以上対応を怠慢すると、国民感情を逆撫ですることになり、通信、医療設備、家電製品、発電など多岐に展開されている東芝の中国事業に挽回できないほどの打撃を与えてしまうことであろう。

 しかし、古賀氏の釈明は東芝の期待通りの効果を得られるはずもないようだ(東芝は、事態がここまでになっ て、1回だけの記者会見ではことが収拾できないだろうと元々覚悟していたのかも知れない)。来場者ももちろん古賀氏の釈明には満足できないし、中にはいく ら質問しても、同じ答えしか返ってこなかったため、これ以上の情報が得られないと憤然として席を蹴った若手記者も多かった。

 会場を後にしたあるネットライターが書いた記事の中で、とある名セリフをチャカして、「今終わったのは、間違った時間に、間違ったところで、対象を間違えて行なった、間違った記者会見だった」と東芝の対応を皮肉った。

 「悲運の改革者」とも呼ばれている西室泰三東芝社長がトップの座を後任に譲らざるを得なくなった一因にも なっているテキサス州で起こしたパソコン訴訟は昨年の10月末に10.5憶ドルの和解金の支払いで一応沈静化した。この事件が何故今の時期に再燃したの か、と不思議がる人も多いだろうが、事件の経緯を振りかえれば今回の騒動の必然性が見えてくるし、東芝側の硬直な体制の弊害と事無かれ主義による怠慢が露 呈されてしまう。

 東芝は昨年10月29日に和解訴訟を受け、翌月の1日に日本国内での同社ユーザーへの対応方法を明らかにした。そして 11月3日から修正用のソフトを無償配布するほか、修理窓口でも対応するような処置を取った。しかし、東芝の善後処理はここまでにほぼ止まった。

 中国におけるノートパソコン市場の22%のシェアを占めるにもかかわらず、東芝はテキサスでの訴訟和解を 中国総代理店には情報を交換したが、ホームページによる無料修正ソフト(Software Patch)を配付する以外、ユーザーへの直接の説明は何もしかった。しかも、その修正ソフトの説明文も英文しかないので、不親切極まりないと言われても まったく弁解の仕様もない。実際、多くのユーザーは今回の騒動によって、初めて訴訟和解や修正ソフトのことを知ったのである。

 西室氏は、テキサス州のユーザーの集団訴訟に対して、東芝はあくまでも法的責任や製品の瑕疵を否認し、最 後まで対抗する構えだったが、テキサス州では「被害の可能性」も処罰の対象になるなど、メーカーには不利な法律を活用する場合、敗訴時には東芝の存亡その ものにかかわる100億ドル以上もの巨額賠償金の支払いを命令される可能性もあることから、原告と和解することにしたという。

 また、記者の質問に対しても、米国のユーザーに支払ったのは和解金であって賠償金ではないと強調した上、米中の法律の違いから、中国のユーザーに賠償金を支払うことはないとの繰り返しに始終させた。

 これは、今までの東芝側の説明と比べて何ら新味のないものだが、無意識の中で中国のユーザーと米国のユー ザーというふうに対立させてしまうようになってしまうものなので、結局、火に油を注ぐことになる一方である。このような状況下では「和解という苦渋」への 理解を中国ユーザーとマスコミに求めたとしても明らかに無理なことである。

 報道陣から「製品に自信があるなら、なぜ最後まで訴訟を戦わないのか、米国の何を恐れているのか」、「製品に瑕疵がなければ、なぜ修正ソフトを配付するのか」などの厳しい質問に追い詰められた西室氏は返答に窮する場面がしばしばあった。

 西室氏記者会見の翌々日、中国消費者協会と中国工商時報社が共同で「東芝ノートパソコン事件」を題に討論 会を行なった。出席の大方の法律専門家は東芝の弁明に異議を唱えた。中国は米国ほどの厳しい消費者保護法がないが、現行の「消費者権益保護法」、「製品品 質法」及びその他の関連法律で東芝を法廷に引きこませる可能性は十分あるとも言われている。中国消費者協会の責任者も提訴する消費者が現れれば協力すると の姿勢を示した。

 今までも、東芝は一度訴訟に巻きこまれたことがあった(東芝カラーテレビ騒動)。また、豊田(豊田スポーツカー騒動)とミノルタ(ミノルタカメラ騒動)も法廷で争った結果、敗訴したことがある(「中国経済時報」より)。

 しかし、中国の法律の特殊性によるものなのか、何れも僅かな賠償金でことが済んだ。ただ、企業にとって賠 償金よりももっと大切なものがあるはずだ。それは消費者に対する責任感から得られた信頼感と安心感である。そして、海外で事業を行なう場合、現地人に差別 を感じさせるような行動が最大の禁物である。

 既に東芝製品の販売を中止すると宣言した販売会社が出たという。東芝のこれからの出方によっては更に問題 が深刻になる可能性がなくなったわけではない。過去15年間世界で1,500万台ノートパソコンを売りさばいた実績のある東芝は、競争がますます熾烈化さ れる世界の市場で栄光を保つためには体質を改善してもっと各国のユーザーを平等に、そして謙虚に対応する姿勢を見せなければならないようであ る。(2000.05.24)


 文 彬(ぶん・ひん)氏 遼東半島大連生まれ。遼寧師範大学、北京語言文化大学(大平学校)及び北京外国語大学(日本学研究センター)で勉強した後、1989年末来日。帝京大学大学院を経て、現在はソフト開発会社に勤務。
 文さんにメールはbun@searchina.ne.jp

2000年05月29日(月)マレーシア国民大学講師 Mikiko BAN


5月11日より13日までPWTC(Putra World Trade Centre)で開催された統一 マレー国民組織(UMNO)の党大会が終わって、1998年9月のアンワル前副首相解任以来つづいたマレーシアの政治の季節にひとまず句読点が打たれた。 今回の大会では総裁をはじめとする新役員が選出され、向こう3年間の党体制が固まった。

 UMNOは与党連合・国民戦線(BN)の中核を成すマレー人の政党で、言わばマレーシアの政治の屋台骨の ような組織である。同党は54年の歴史を有し、独立を勝ち取り、独立後も継続して政権を担ってきた。ラーマン、ラザク、フセイン、マハティールの四人の歴 代首相も皆UMNOから出ている。

 ところが、昨年11月の総選挙では大異変が起きた。与党連合・国民戦線は全体として予想を上回る、三分の 二以上の議席を確保して大勝利したものの、中核のUMNOがいくつかの州で汎マレーシア・イスラーム党(PAS)に大幅に票を奪われ、大きく後退したので ある。UMNOの危機(マレー人社会の分裂)が取り沙汰される中での今回の年次党大会開催であった。

 11日の初日、テレビ中継で開会式の模様を見た。マレー民族色一色に包まれた同大会は政治集会というより も、民族の祭典、民族としての一大イベントという感じがした。大会の中で 「untuk agama, bangsa dan negara/tanah  air (宗教、民族、そして国のため)」という言葉が何度も繰り返されたのが印象的だった。それはあたかも彼らが年一回、マレー民族のあり方、イス ラームのあり方、そして多民族の国家像を再点検し、マレー・コミュニティーとしての方向性を模索する民族の集いのように思えた。

 式典はまず、屋外でのUMNOの党旗掲揚から始まった。UMNOの旗は赤と白の地に黄色い円をバックとし た緑のクリス(マレー伝統の短剣)が描かれている。参加者は全員マレーの正装である。マハティール首相(UMNO総裁)とアブドゥラ副首相(同副総裁代 行)は揃いの淡い水色のマレー服にソンケット(金糸や銀糸を使った伝統織物)のサンピン(膝丈までの腰巻き)を巻き、頭には黒いソンコをかぶっている。女 性党員は赤と白2色でコーディネートしたマレー服に赤いトゥドゥン姿で服装を統一している。画像から明るさと華やかさと熱気が伝わってくる。

 9時半頃、2018人の党代表委員がMerdeka大ホールに集合し、大会が始まった。赤や黄色を基調と した華やかなバックドロップが目立つ。まず、議長の挨拶とMerdeka!(独立!)三唱、続いて首相府付き(宗教担当)のアブドゥル・ハミッド大臣によ るイスラームの祈り。国歌、UMNOの歌2曲、BNの歌の斉唱が終わると、マハティール首相の開会のスピーチが続いた。因みに、この開会式には、与党連 合・国民戦線の他の党首たちもオブザーバーとして、背広姿で最前列に参加していた。

 マハティールのスピーチは1時間45分にわたり、印象を一言で言うと、マレー人を叱咤激励する精神訓話の ような演説だった。国とUMNOの歴史から説き起こし、新経済政策がもたらしたマレー系国民の生活の変化やそれに伴うマレー人の意識の変化、現状の問題 点、グローバリズムと新植民地化の危険性、西洋批判、PAS批判とマレー社会分裂の危機、党内の金権政治批判など多岐に及ぶものだった。

 特に注目を浴びたのは、マレー人の志気を鼓舞する中で、世界一周単独航海を成し遂げたアズハー・マンソー ルの例を挙げたことである。彼の失敗を恐れない挑戦の精神、科学的な知識に基づく周到な準備、孤独に耐える強い精神、自助努力の姿勢など、かなりの時間を かけて賞賛した。「神に祈るだけでは事は成せない」、と自ら努力することの必要性を説いた。

 また、「マレー人(bumiputra)は華人からその商売のやり方や企業精神を学ぶことが出来る。彼ら から学ぶことは間違いではない。華人の蓄財方法や都市生活の能力を学ぶことでマレー人が非マレー化することはない」とも訴えた。このくだりは翌日の中国紙 でも「華商可成馬来人典範」などと大きく取り上げられ、注目された。

 長時間にわたるスピーチはアラビア語によるDoa(祈り)で締めくくられたが、これは異例のことであるとコメントした教授もいる。

 さて、同日行われた役員選挙の結果であるが、マハティール首相の総裁続投とアブドゥラ副首相の副総裁昇格が無投票で決定し、ポスト・マハティール時代の地固めができた。「Pak Lah(アブドゥラ副首相の愛称)に忠誠を!」が新聞の見出しとなった。

 3名の副総裁代理にはナジブ国防大臣(1289票、46歳、父親はラザク2代目首相)、ムハマッド前セランゴール州首席大臣(853票、54歳)、ムヒディン国内取引・消費者行政大臣(813票、53歳)が選出された。25人の最高幹部会議のメンバーも入れ替わった。

 また、10日に行われた婦人部、青年部の大会ではラフィダ国際貿易産業大臣(57歳)、ヒシャムディン青 年・スポーツ大臣(無投票、39歳、父親はフセイン3代目首相、祖父はUMNO創設者オン・ジャファー氏)がそれぞれ部長に選ばれた。ラフィダ女史は 1984年から1996年まで同ポストにあり、今回その地位を奪回した。全役員の任期は2003年までである。

 1998年9月アンワル前副首相解任後間もない時、ある日系企業のインド系マレーシア人の管理職が語った言葉が思い出される。「マレーシアは大丈夫でしょうか」との私の問いかけに、彼はこう答えたのだった。

 「UMNOはマレー人にとって母親の子宮のようなものなのです。彼らはUMNOが彼らの権利や特権を守 り、育んでくれたことをよく知っています。ですから、彼らはどんな事があってもUMNOを守ろうとするでしょう。そしての頂点にいるのは、(アヌワルでは なく)、マハティールなのです...。UMNOがしっかりしてさえいれば、マレーシアは大丈夫です。私は楽観しています」

 その後の情勢はこのインド系マレーシア人が予測したほど平穏ではなかったが、彼の「UMNO子宮説」は、マレーシアの政治を考える上で大きななヒントを与えてくれたように思う。

 21世紀、マレー人の多数派はUMNOの中で自己改革を重ねて発展し続けていくのだろうか。それとも子宮 から飛び出して、厳しい現実と戦いながら、新たな政治の仕組みを模索していくのだろうか。またこのマレー社会の変容は、他のコミュニティーにどのような影 響を及ぼしていくのだろうか。多民族イスラーム国家マレーシアの行方はまだまだ未知数が多い。


 Mikiko Talks on Malaysiaのホームページはhttp://www.02.246.ne.jp/~kiara/
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2000年05月26日(金)萬晩報通信員 園田 義明


 今、東京で上映されている唯一の映画館「渋谷シネマライズ」には、週末長い行列ができる。若者から老人まで幅広い層から人気を集めている。決して派手な 宣伝をしていたわけではないが、口コミで人気が広がったようだ。今年1月15日の封切りから5ヶ月を経てもその人気は衰えていない。

 ヴィム・ベンダース監督によるその映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」の主人公はキューバの老ミュージシャン達である。

 この映画誕生のきっかけとなるCDアルバムの話を持ちかけられるまでの数年間、靴磨きをして生計を立てて いた「ボレロを歌うのに最適な音域を持った」73歳のイブライム・フェレールや今年で93歳になるギタリストのコンパイ・セグンド、関節炎で演奏もできず 10年のあいだ家にはピアノもなかったという79歳のルベーン・ゴンザレスなど忘れられていたキューバのミュージシャン達が全編にわたってすばらしい演奏 を聴かせてくれる。

 彼らが演奏するキューバ音楽は、ラテン音楽の源流の一つでありながら冷戦時代の影響で西側の世界から閉ざされていた。冷戦崩壊後のキューバに単身乗り込み彼らを探し出したアメリカ人ミュージシャンがいる。

 ●♪ ライ・クーダーの世界

 ライ・クーダー(Ry Cooder)は、1947年3月15日、ロサンゼルスで生まれる。8歳のとき初めてギターを手にしたライは、驚くべき早熟ぶりを見せて、17歳の時ジャッキー・デシャノンのバック・ギタリストとしてデビューする。

 エレクトリックギター、アコースティックギター、マンドリンを巧みにあやつり特にスライドの名手として知られている。スライド・ギターは指にガラスや金属製のボトルをはめて演奏する奏法のひとつでボトルネックとも呼ばれている。

 多少なりともスライドもかじった経験からすれば、ライブの時などはひやひやすることも多い。単にスライドのテクニックでみれば、ライを超えるミュージシャンは多くいるように思う。ただ、この人にしか出せない独特の乾いたサウンドがあることは間違いない。

 数多くのオリジナル・アルバムも発表しているが、総じて売れたためしがない。専門家やマニアからは手放し の絶賛を受けるが、商業的には成功したとは言えない。せいぜいヒットチャート100位止まりではないだろうか。そしていつしかライはクレジットカードを キャンセルされ、電話局との言い争いも絶えることなく、一時はガスや電気も止められそうになる。妻のスーザンや息子のヨアキムのためにいつものサンダル履 きで向かった先がハリウッドであった。

 サントラ・アーティストとしてのキャリアは80年のウォルタ-・ヒル監督の「ロング・ライダーズ」から始 まった。その後「ボーダー」「ストリート・オブ・ファイアー」「アラモ・ベイ」「クロスロード」等を手掛け超多忙なスケジュールに追われることになる。そ の中で、「ベルリン・天使の詩」のヴィム・ヴェンダースと始めて組んだ作品が「パリ・テキサス」である。おそらくこの作品はライの才能を見事に引き出した 最高傑作のひとつだろう。

 経済的に余裕のできたライは再び旅を開始する。本やレコードでしか知ることのなかった幻のミュージシャン を訪ね一緒に仕事をする。そして、キューバに立ち寄りアルバム『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』を完成させる。結果的には、このアルバムがライにとっ ては世界で売上枚数150万枚以上の最大のヒットとなる。

 映画の中でライは「35年のキャリアがあるがオーディエンスの好みは謎だ」という意味のことを言う。彼のことを知るものにとっておもわず苦笑する場面だ。

 97年に公開された「エンド・オブ・バイオレンス」でヴェンダースはライと再びコンビを組む。アルバム 『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』のレコーディングを終えたばかりのライは、ヴェンダースにそのラフ・ミックステープを渡す。これが映画「ブエナ・ビ スタ・ソシアル・クラブ」の誕生のきっかけとなった。

 ●♪ 傷だらけのカセットテープ

 さて私の車のオーディオはいまだにカセットテープ式である。プラスティックのバスケットの中に、ケースも タイトルもないテープが何十本も折り重なって入っている。テープの種類と傷の付き具合で中身がわかる。特に汚れの激しいものは、海外放浪にもおつきあいし てくれたものだ。

 天気や行き先に合わせてテープを選ぶ。同じような曲ばかりに後部座席からクレームも入るが、おかまいなしに指でリズムを刻む。

 ライ・クーダーのテープはどれも傷だらけである。

 ライの音楽は、一応ロックの範疇で語られることが多いが、本人からすれば範疇などまったく気にしていないようだ。気持ちのいいサウンドを求めて世界各地を訪問し、民俗音楽や伝統音楽に溶け込んで帰ってくる。

 1976年発表の『チキン・スキン・ミュージック』では、テックス=メックス(テキサス=メキシコ)のア コーディオン奏者フラーコ・ヒメネスやハワイのスラック・キー・ギタリストのギャビー・パヒヌイやアッタ・アイザックスらと見事なセッションを繰り広げて いる。このアルバムにおさめられた『スタンド・バイ・ミー』でのアコーディオンの音色は、いまでも色褪せることはない。

 この時、ライは彼らのことを次のように語っている。

「彼らの音楽を聴いていると、やがて、それが音楽であることを忘れてしまうのです。それは常に『気』として 漂っているようなもので、音楽を超えてしまっているんです。さらに彼らの凄い点は、歳を取ると共に増々よくなってくることです。彼らのような存在には、本 当に勇気づけられますよ」

 当然私はアルバム『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』も発売当日に買ってしまう。

 ●♪ 沖縄とライ・クーダーとボノ

 ライはたびたび日本を訪れている。ライブ以外にぶらっと立ち寄るケースも多いようだ。行き先は、決まって 沖縄。オキナワ・サウンドがお気に入りのようだ。喜納昌吉やネーネーズなどとセッションしにやってくる。相棒であるペダル・スティールの名手「化け物」こ とデビット・リンドレーの影響だろう。

 日本でも一部に私のようなマニアがいるが、あまり知られていない。81年ごろのパイオニアのカー・ステレ オ・コンポーネント"ロンサム・カーボーイ"のCMの人と言えば思い出す人がいるかもしれない。アロハを着てチューインガムをふくらませていたのがライで ある。この時バックで流れていたのが、名曲『アクロス・ザ・ボーダーライン』だ。比較的最近では、アーリータイムスのCMでスライドギターを披露してい た。

 映画「エンド・オブ・バイオレンス」でライは「ジュビリー2000」の代弁者を務めるボノが率いるU2と一緒に仕事をしている。ヴィム・ベンダースが引き合わせたふたりのアーティストの視線がともに沖縄へと向けられている。

 ●♪ ふたりのアーティストの視線

 映画のクライマックスとなるのはニューヨークのカーネギーホールでの熱狂的なコンサート。夢に見た音楽の 殿堂に、不死鳥のようによみがえった彼らの演奏と歌声が、熱く哀感をこめて響きわたる。ステージにはライとその息子であるヨアキムの姿も見える。ライがス テージを去る時、聴衆に向かって深々と頭を下げる。押さえようのないものが込み上げてくる瞬間だ。

 ベンダースは次のように語る。

「彼らの音楽を知らない人には、すばらしい彼らの音楽についてしってもらいたいですね。そしてすでに彼らの アルバムのファンである人には、ミュージシャンの隠れた素顔と驚くほど豊かなキューバの文化の片鱗を観てもらいたいと思います。キューバは地球上のどこに もないような独特な場所です。しかし、この先、国際化あるいはアメリカ化されてゆくことで、単一的な文化の一部へと墜してしまう可能性があることは否めま せん」

 ライは、さながら民俗学者のようだ。彼はあらゆるタイプの音楽を何の偏見もなく、興味深く、そして価値あるものとして絶大な尊敬の念を持って接してきた。それが、人種や民族や国境や世代や宗教などを軽く通り越して世界中に響きわたっているのである。

 その方法は、ハワイのギャビー・パヒヌイが生前次のように教えてくれた。

「奴は(ライのこと)俺のファンだった。で、いい奴だったんで仲間に紹介してやったんだ。その時は一緒にプ レイするなんて思ってもみなかった。ところがいつまで立っても、奴は俺から離れないんだ。家までついてきて、じっと座って俺のギターを聴いているんだよ。 そしてある日、突然スラック・キーを弾き出したんだ。その時点で、既に完璧だったね」

 おそらくベンダースもその方法が知りたくてこの映画を撮ったのだろう。キューバの老ミュージシャン達の演奏に黙って耳を傾けるライの姿が見事に映し出されている。


 8、9月に老ミュージシャンたちのグループ「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」の日本公演が実現する。

 ●参考・引用
 「SWITCH」特集●ライ・クーダー五線符の荒野 1988年4月号
 日本経済新聞
 Ryo Keiki's Favorites http://village.infoweb.ne.jp/~ryokeiki/


2000年05月24日(水) 萬晩報主宰 伴 武澄


 いまごろ農村では田植えのシーズンである。滋賀県など早いところでは田植えが終わっているが、鉄道沿線にみる田植えの風景はたとえ機械植えであっても日本人に季節を感じさせてくれる数少ないシーンだ。

 2年前に書いた02月03日「偽りのリアリティー(1)コメ・ブレンド事件」(MSN ニューズ&ジャーナルでは=「驚くべきコメ流通の実態・消費者だましのテクニック」)に対して最近いくつかのメールをいただいた。福島県の有名な「安積ラ イスファーマーユニオン」安藤代表は産直新聞に萬晩報を転載いただくとともに生産車としてもコメントを寄せている。いただいたメールを参考に日本のコメ問 題について考えてもらえたらと思う。


 
 ●コメ流通に関する私見

 はじめまして、私はごく小規模な米の産直をしている福島県の稲作農家です。インター ネットを初めて、まだ一ヶ月ほどの初心者ですが、伴さんの「驚くべきコメ流通の・・・」を拝見して、本当に共感を覚えました。しかし、一方で私の見解と食 い違う点も多少ありましたので、メールを出したいと思っていましたが、なかなか出せないでいました。今回、私の産直で毎月発行している産直新聞に、伴さん の記事を取り上げさせて頂きましたので、原文のままお送りいたします。目を通していただき、ご指導いただけたら幸いに存じます。


 ★消費者会員の皆様へ★

 今年は立春(二月四日)を過ぎてから寒さが厳しくなってきたような気がしますが、ここ安積野では、相変わらず雪の少ない冬を過ごしています。強風 が吹いても、雪がなければ地吹雪にはなりませんし、吹き溜まりも出来ませんので、気温が低くとも暖冬のように感じます。先日行われた集落の総会の時にも、 こんな年は、種をまいてから大雪が降るのではないかなどと、心配する声も聞かれました。

 私がインターネットを初めてみたということは、先月号で紹介しましたが、たまたま閲覧したWEB(ウェブ)ページに、米の流通に関するおもしろい記事が載っていましたので、転載してみたいと思います。私から見ると間違っていると思う点も多々ありますので、《》で私の意見を述べさせて頂くと共に、最後に、なぜそんなことになるのかをまとめてみたいと思います

 ◆驚くべきコメ流通の実態・消費者だましのテクニック◆

 共同通信社経済部 B.T

 新聞記者は多くの"うそ"をみてきた。正確にいえば「うそ」ではない。オランダのジャーナリストのファン・ウォルフレン流にいうと「偽りのリアリティー」に手を貸してきたともいえる。

 1993年産米が不作で94年はコメ騒動に明け暮れた。まず輸入米と国産米のブレンドが問題になったことは記憶に新しいだろう。

 筆者は94年から95年にかけて農水省担当だった。農水省担当になる前は、ふつうの人々と同様「そんなバカな」と考えた。しかし、ことの真相を知ると、なぜ農水省が簡単に輸入米のブレンド販売を強行したか分かった。

 ●業界の常識は消費者の非常識

 この1年で分かったことは簡単である。コメの販売は「ブレンドする」という意味なのである。初めての人にはこの意味がぴんとこないかもしれない。

 だが、農家も、集荷業者(農協)も、系統組織(県経済連)、卸売り業者、小売店。誰に聞いてもコメを混ぜている。コメ販売のノウハウを聞けば、誰もが「品質の違うコメをいかに混ぜて味を保ちながらコストを下げるかだ」と答えた。

 コメの関係者は、輸入米が入ってきたときも同じことを考えた。タイ米が長粒米でジャポニカとはまったく異なるコメであることはどうでもいいことだった。

 だから、農水省が穀物検定で一生懸命、等級を付けても、工業品のようにそのまま消費者の手元に届くわけではない。農家すべてが出荷前にブレンドするとは信じたくない。だが一般的なのだ。

 《少なくとも私の地区では農家段階でブレンドが行われることはほとんどないと認識していますし、全国的にも農家段階でのブレンドはごく一部の地区や人たちと考えられます。》

 集荷時には60Kg入りの袋に入れる。その袋に等級が刻印される。しかし、その袋は流通段階でただちに破かれ、第2段階のブレンドが行わ れる。今度はふつう高い方の等級が新たな袋に刻印される。小売りでは同じことが繰り返される。もはや農水省が決めたややこしい「類別区分」や「品質区分」 などはまったく意味を持たなくなる。

《ただちに破かれ、第二段階のブレンドが行われるというと、一次集荷業者の農協で行わ れるような表現ですが、一次集荷業者の中でも少なくとも農協では、そんなことは行われていません。また、高い方の等級が新たな袋に刻印されるとあります が、食糧事務所の検査印は偽造しなければ押せません。印鑑証明が付いているわけでもないですので、一部の悪徳業者は偽造したり、前の袋に中身の違うものを 入れ替えたりすることはあるようです(時々摘発されている)。》

 秋田で直接、消費者にコメを販売している農家に取材したときは開いた口が塞がらなかった。「うちは良心的だから10%しか混ぜていない」と自慢したのだ。一番おいしい「あきたこまち」でも一番安い滋賀の「日本晴れ」が10%ブレンドされているのである。

《秋田のことは詳しくありませんが、滋賀の「日本晴れ」は、安い方のお米ですが、一番安いのは北海道の品種です。また、悪徳業者は輸入の短粒種も使っています。ちなみに、中米という屑米から選別されたお米を、精米業者が使うのは、業界では常識です。》

 近畿の中堅卸売り業者に入社したばかりの友人が打ち明けてくれた話はもっとすごい。「同じコメが違う表示の袋に詰められ、その逆もあるんだ。びっくりしたけど、びっくりしたことに会社の人が驚いていた」という。これではあんまりだ。

 東京の卸売業者の言い分はこうだ。「消費者にコメを売るには3種類の袋が必要なんだ。中身は同じでもいい。絶対2種類のコメを一度に買っていく人はいない。特に一番安いのはほとんど売れない。真ん中のが一番売れる。それが日本の消費者心理だ」。

 当時、コメには新米記者だった筆者が取材するだけでも「偽りのリアリティー」がぼろぼろ出てきた。

 ●あんたは誰の代表なの

 1995年は食糧管理法の廃止が決まった記念すべき年であった。「つくる自由と売る自由」が与えられたはずなのに11月、農水省は新しいコメ流通に移行することに対応した「検査・表示制度に関する研究会」報告を発表した。

 自由の引き替えに検査の強化が必要なのは金融機関でも同じである。しかし、農水省は相変わらず、コメがブレンドされないことを前提に議論していたのが可笑しかった。

 もっと首をひねったのは、日本生活協同組合連合会(生協)が、農水省の正式発表を待たずにマスコミ各社に「報告書への見解」なるものを ファックスしてきたことだった。内容が漏れたのは研究会に委員を送り込んでいた結果で仕様のないことではあるが、あまりにも出来過ぎていた。

 そのファックスには報告書が「消費者ニーズの多様化に的確に対応する必要性」を盛り込んだことを高く評価していたが、なんのことだか分からない。コメ販売の透明性を確保するため、流通段階での「コメのブレンド操作の禁止」ぐらいは要求すべきだった。

 また「輸入米の安全性確保の万全化」をうたったことも評価したが、諸外国の何十倍もの農薬を農地に散布している日本の農業に目をつぶって 輸入米攻撃に終始する姿勢はいただけない。経済協力開発機構(OECD)の報告書では、日本の単位面積当たりの農薬散布量は欧米の30倍なのである。「あ んたは誰の代表なの」と叫びたくなる。

《米は、高温多湿の日本の気候にあった作物なので、米に限ればそんなことはあり得ません。同じ欧米でも日本国内でも比べる地域により二~三倍の違いはありますが、一般栽培米でも平均で一~二倍くらいだと思います。》


 以上、全文を修正せずに掲載してみました。私の意見を入れさせていただいたところは、私は自信を持って私のほうが正しいと思っていますが、その他のところはほぼB.Tさんのおっしゃる通りなのが実状だと思います。

 では、どうしてそんな違法行為がまかり通っているのかといいますと、この安積野では何度か米の流通の難しさに触れたことがあるので、熱心な読者に はある程度ニュアンス的には分かるのではないかとも思います。新食糧法下におけるお米の表示問題の時にも触れましたが、簡単にいってしまえば、お米は見分 けが付かない商品だということです。

 新食料法になって、お米の産地・産年・品種の三点セットの表示が義務づけられましたが、人気の「魚沼のコシヒカリ」は、相変わらず日本中 の店頭に品切れすることなく一年中並べられています。相変わらず、生産量の数十倍が売られているようです。お米の流通の難しさを「魚沼のコシヒカリ」を例 にして述べてみましょう。

 消費者がなぜ、倍の値段もする「魚沼のコシヒカリ」を買うのでしょうか。それは、値段の高い「魚沼のコシヒカリ」は、おいしいはずだと 思っているからでしょう。一番高いお米を食べているんだということに満足しているだけならそれでも良いのですが、実際には、「魚沼のコシヒカリ」の中にも おいしいものもあればおいしくないものもあります。

 日本で一番人気があり高いのですから、平均的にはおいしいことは間違いないのでしょうが、「魚沼のコシヒカリ」の平均的な味よりおいしい 米は、日本中に数え切れないほどあります。昨年の秋に秋田県でおいしいお米の全国大会が初めて行われましたが、優勝したのは、米どころといわれる地域では なく、近畿地方(滋賀県だったかもしれない)の篤農家が作った名前も聞いたこともないような品種のお米でした。

 ここに正直な米屋さんがいて、魚沼から仕入れた本物の「魚沼のコシヒカリ」をそのまま袋に入れて販売したところ、消費者からおいしくない という苦情が来ました。しかし、正直な米屋さんはどうすることも出来ません。たまたまおいしくない「魚沼のコシヒカリ」当たってしまったのですから。

 一方、賢い?米屋さんは、魚沼から仕入れたコシヒカリを自分で食べてみたり食味計で計ってしてみたりしたらおいしくなかった。しかし、魚 沼のコシヒカリに味の保証は付いていませんので返品は出来ません。そこで味が良かった「福島のコシヒカリ」を「魚沼のコシヒカリ」の袋に入れて売ったら、 消費者からは、「やはり魚沼のコシヒカリはおいしいわね。」と喜ばれました。

 はたして、消費者会員さんはどちらの米屋さんが正しいと考えるでしょうか。これが業界の常識の裏側であり、農林省も生協の幹部の人も、こ れに答えを出せないのに、建前だけで正義を通そうとしているから、正直な米屋さんはつぶれてしまうのです。本当の正当論から言えば、お米に産地や産年、品 種など、絶対に保証できないものは一切記入を許さず、その小売店(または精米メーカー)の責任で、味によって価格を決め独自のブランドで販売させるべきな のです。

「福島のコシヒカリ」とか「宮城のひとめぼれ」という表示ではなく、「〇〇屋の特上米」とか「もち米【松】」という表示しか許されなくすれば良いわけです。以前はそういう流通だった時もあったのですが、産地ブランド人気が逆に流通の実体をねじ曲げてしまったようです。

 長くなりましたので、この辺にしておきます。ちなみに、私たちARUではもちろんブレンドは一切していません。ただし、同じ生産者や同じ 地区で作った同じ品種のお米でも味にブレがあるので、味を均一にするために同じ品種間の混合(ブレンド)はしています。長々とお読みいただき有り難うござ いました

 安積ライスファーマーユニオン代表  安藤嘉雄 aru@oregano.ocn.ne.jp


 ●少々、異議あり

  伴 武澄 様

                栃木県喜連川町 鈴木 一雄

 僕は、小さな兼業農家です、僕たちのような農家は農業所得を生活のかてにする事は出来ない時代になりました、でも永い時代をへた農民の血とでもいいますか、農業(米つくり)を止めて、田を荒らしておくことは出来ません。

 今日、「驚くべきコメ流通の実態・消費者だましのテクニック」を読み、「<だが、農家も、集荷業者(農協)も、系統組織(県経済連)、卸 売り業者、小売店。誰に聞いてもコメを混ぜている。」との表現にて、農家も別な品種のコメのブレンドに加担しているかのような記事を見て、"僕自身"とし ては納得いきません。

 なぜなら、僕の地域では、早稲は、早稲の時期に出荷してしまいコシヒカリはコシヒカリの時期に出荷してしまいますから、ブレンドするコメ がありません、また検査官は、コシヒカリかそうでないか判るとも言います。(もっともブレンドを見破れるかどうかは別でしょうが?)自家消費&縁故の方に 頼まれているコメは保管していますが自家消費&縁故米は、一番美味しいとされるコシヒカリを保管しますからブレンドうんぬんになりません。ちなみに僕自身 は、コシヒカリのみ作付けです。

 ただし、残念ながら、消費者の口に届くコメが、農家の出荷したそのままの単品かどうかは、疑いをぬぐえません。僕の町に、フィオーレ喜連 川という住宅地が出来ましたが、そこで知り合った方から、おコメは何処が美味しいですかと質問をうけ、通常僕たちの近隣で美味しいと言われる地域を教えて あげました。

 僕の水田もその地域のほぼ中心に位置してますので、宜しかったら食べてくださいと、少量ですが、贈呈いたしました。

 後日、美味しいので是非譲ってくださいとの連絡がありましたが30Kgしか譲れませんでした。保管米は自家消費の分しかなかったのです。 で、取り入れ前に保管しておくよう頼まないと一年分は手に入らない事コメは自然の産物なので、年によっては、腹白米等が入ることなど説明しました。

 ここで判ることは、農家から直接採れたままのコメは美味しいという反応が消費者からあったことです。

 僕はコメの流通については素人ですから、よく判りませんが、人づてに聞いた話しでは、コメ屋さんは、売れ筋の美味しいコメだけ購入出来な くて(コメの美味しさは、品種もさるものながら、採れた土地が大きく影響するのかも知れません。)抱き合わせで、美味しくないとされるコメも買わなければ ならないとか?これでは、コメ屋さんはブレンドしないと経営が成り立ちませんね。

 これは、質問ですが、小売のコメ屋さんに来る以前の流通段階での混ぜ米というのは無いのでしょうか。この辺が凶元といえませんか?(記事 のなかに混ぜものが有ると書いてありますね)僕も、自分と周辺の仲間の農家のことしか知りませんので自身をもって、全部の農家が混ぜコメについてシロだと は言い切れませんが、僕の狭い視野からは、農家が混ぜコメに大きく加担しているとは思えません。ちなみに僕たちの所は30Kの紙袋による出荷です。(農協 のライスセンターは別)後、付け加えますと、ご承知かと思いますが、コメの袋には生産者として自分の名前が書かれてます。でも、消費者にこの名前は届かな いですね。

 秋田の農家の方が「あきたこまち」に滋賀の「日本晴れ」を混ぜているのですか?それとも、秋田の自分の所の、別の品種を混ぜているのですか。流通段階で、農家が表示した物と別なものが混ざったりする事は消費者を愚弄にするのみならず、農家をも馬鹿にする行為に思えます。 この記事を読んで、コメの消費拡大は絶望的かも知れませんね、美味しいコメを消費者に届けられなければダメですから。この、文章のなかに、僕の無知、思い違いの部分、多々有ると思いますがお許しを、願います

 これからも、ご活躍の程、御期待申しあげます。kazsuzk@beige.ocn.ne.jp


2000年05月22日(月)南相木村医師 色平 哲郎


昨年10月1日から栃木県大田原市の国際医療福祉大学の医療経営管理学科で講師として教え始めたバブさんは、その最初の授業で学生たちに、開口一番、こう語りかけた。

「みなさん、世界の国々の実情を知ってください」

そして、スライドを見せ、自己紹介代わりにと、自分のたどった足跡を語り始めた。

「私が小学生のときに、お産をした女性が亡くなりました」
「日本に来ても労働者になってしまいました。けれども、そこから私の自分探しの旅が始まったのだと思います」
「フィリピンのレイテ島のことを知っていますか? 戦争の舞台になった所です」
「だれが悪かったとかではなくて、事実を知ってください」

バブさんを国際医療福祉大学に招いた紀伊國献三教授は、「日本の外の世界で五十億の人々がどうやって生き
ているのか、どうやって生きていけばいいのか、本当の意味での『国際化』とはなにか、そういったことを学
生に考えてほしくて、バルア先生に来ていただきました」と期待する。

私が若い人たちに望むのは「人間としてしっかりとした生き方をする」こと。
そして「人間として人間の世話をする」ことです。
金持ちよりも「心持ち」になってほしい。

いまの日本はいろいろなモノが溢れ、とても便利になっていますね。
でも便利になりすぎて、苦労をして生きていくことを忘れてしまいました。
この素晴らしい日本を築き上げてきたおとうさん、おかあさん、
おじいさん、おばあさんがどれほどの苦労をしてあなたを育ててこられたのか、
それを忘れてしまってはいけません。
ときには自分が生身の人間であるということすら感じにくくなってきています。
そう、生きている実感に乏しい社会になりつつあるんです。

そして、この現象は日本だけではなく、
経済発展した日本を目標としているほかのアジア諸国においても
都市部から農村部へと広がっています。

「発展」という名前の「病気」が「伝染」しているのです。
だから「伝染」しないように「予防」しなければなりません。
そのためには「病気」の発信源である日本で「予防」のための取り組みを始める必要があります。

「内面の豊かさ」の重要性について気づいていただきたい。
だから私は日本で日本の若者が本当の豊かさについて考え始めることを期待しているのです。

いまは電子レンジで「チン」とやればあたたかい食べ物が出来上がります。
昔は竈の前で火吹き竹を吹いて火をおこし食事を作ったものです。
しかし、こんなことは想像もつかない若い人々、写真でしか竈を見たことのない人々が
日本にも、ほかのアジアの国々にも増えてきました。
昔の人の生活の苦労も、生きていくための知恵も技も、なんにも残らない。
確かにサイエンス(科学)は大切ですが、
サイエンスに負けてしまって、使われてしまっては駄目なんです。

私がいたフィリピン大学医学部ではどんな病気なのかを
「聴心器」と聴診器だけで80%は診断できるようにならなければ卒業できませんでした。
「聴心器」とは、もちろん患者さんの訴えを十二分にお聞きすることです。
そして、聴診し、触診し、打診した上で、
一人の人間としてじっくりと接するように教育を受けました。

日本の病院では「頭が痛い」という患者さんにはすぐレントゲン写真とCTスキャンです。
異常が見つからないと「痛み止めを出しておきましょう。ではお大事に」で終わり。

お酒の飲み過ぎだったのかもしれない、
奥さんとけんかをしたのかもしれない、
会社を解雇されたのかもしれない、
せっかく手に入れた土地をだまされて他人に取られてしまったのかもしれない......。

そんな個人の背景はまったく考慮されずに機械の出した診断結果だけで判断されてしまう。
これも完全に機械に負かされて、判断を預けてしまっている状態です。

そんな話を医学生たちに話した後「お金持ちになりたくて医者になるのですか?」と尋ねるんです。
「人間として人間の世話をするのが目的でないのなら、
あしたからもう医者を目指すのはやめなさい。
経済学を勉強したほうがいい」と言ったこともあります。

私は、学生たちは気分を害しただろうなと思っていたのですが、
その年のお正月、200人ほどの受講生のうち80人から年賀状を頂きました。
きっと、なにかが伝わったのだと思います。

「白衣の壁」という言葉をご存じですか?
医師の診断に対して患者はなにも言えない。
これが「白衣の壁」。

もう一つの壁は、
近所の「○○ちゃん」も医学部を卒業して医者になると
「○○先生」と呼ぶことになってしまっている。
医師の権威が人と人の隔てになるんです。

こうした心の壁に気づいて、それを低くするためには、
医学教育を根本から変えて、医師を目指す若者の意識を変えていくしかありません。

いま医学教育には三つのことが欠けています。

一つは人間学です。医者も患者も同じ人間で、社会の一員です。
ですから人間というものがわからなければいけない。
人間の弱さ・ずるさも含めて、深いところで人々を理解しようと努めることが重要になります。
そうしなければ人間として人間の世話をすることができません。
だから医者を目指す人には人間学としての社会学を勉強してもらいたい。

二つ目は哲学です。
Philosophy of Life(生きる意味)、
Individual Philosophy(自分で選びとった生き方)が大切です。
ほかの人々の生き方、考え方を深いところで受け止めて学び、理解するための哲学と洞察力が必要です。

それから、あえて三つ目に挙げるとすればボランティアのこころです。
Voluntary Spirit(ボランティアの精神)、Mission(使命感)がなければ、
せっかくの人間学も哲学も活かしきれないでしょう。

医学にも科学技術にも、残念ながら人間としての哲学・精神の光が欠けています。
だから、政府のODAなど外国への開発援助の場面でも
「お金だけ渡せばいい」「モノだけあげておけばいい」という形だけの援助になってしまい、
内面の「開発」にまで届いていかないのです。

あるとき、小学校での講演で
カンボジアの子供が鉛筆一本をもらって手を合わせて感謝しているスライドを見せました。
そして「私も竹を削ったペンでバナナの葉っぱに字を書いて勉強したんです」と話すと、
後ろで聞かれていた一人のお母さんが「鉛筆がないのなら送りましょうか」と質問されました。

私が伝えたかったのは、自分のお子さんに物を大切にすることを教えていただきたいということです。
カンボジアやバングラデシュの子供たちがそうやって暮らしているのは現実です。
しかし「モノを送って援助」という発想が先に出てしまうんですね。
一緒になってなにかに取り組んでいこうという意識がそこにはありません。

レイテ島にいたとき、日本の学生さんたちを受け入れて、
現地の人々と一緒になってトイレを作ってもらいました。
みんなで木を切ったり竹を割ったりセメントをこねたりしながら、
一つずつ手作りのトイレを完成させていく。

自分たちで作って、みんなの役に立った。
学生さんたちの胸にそんな達成感が残ります。
これがNPO(非営利組織)の本当の姿です。
村人にとっても、だれかがやってきて勝手に作っていったという援助ではなく、
日本人たちとの大切な思い出になっています。

私の好きな、こんな詩の一節があります。

「本当に優れた指導者が仕事をしたとき、その仕事が完成したとき、人々はこう言うでしょう。
われわれ自身がこれをやったのだ、と」

医師にも、ボランティアにも、政治家にも、この感覚が大切なのだと思います。

 色平さんにメールはDZR06160@nifty.ne.jpへ

2000年05月19日(金)在独ジャーナリスト美濃口 坦


 石原慎太郎の「三国人発言」について冷静に考えるために発言をヨーロッパ的コンテキストに移す。ドイツの政治家、例えばベルリン市長が軍隊の駐屯地に赴き、兵士を前に次のような演説をしたとする。
 《・・・前回のオーデル・ナイセ川氾濫ではドイツ連邦軍の皆様方に甚大なる世話になりました、、、先程、 師団長の言葉にありましたが、来る9月3日に陸海空の3軍を使ってのこのドイツ国土を防衛する、災害を防止する、災害を救急する大演習をやって頂きます。 今日のドイツをみますと、東欧の旧共産圏から不法入国した多くのロシア人をはじめとする外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している。もはやハンブルク、フ ランクフルト、ベルリンといった大都市の犯罪の形は過去と違ってきた。こういう状況で、ライン川、エルベ川の洪水といったすごく大きな災害が起きた時には 大きな大きな騒じょう事件すら想定される、そういう現状であります。こういうことに対処するためには我々警察の力をもっても限りがある。だからこそ、そう いう時に皆さんに出動願って、災害の救援だけではなしに、やはり治安の維持も1つ皆さんの大きな目的として遂行して頂きたいということを期待しておりま す。・・・》
 政治家がドイツ、あるいは西ヨーロッパの国でこのような演説をすれば、多くの人々がびっくり仰天すると思われる。理由は日本と同じではない。

 ●兵士を前にして話すことの意味

 ヨーロッパの選挙演説会場で「外国人犯罪」を言及することは、オーストリアのハイダーに代表される「右翼ポピュリズム」の重要なレパートリーで、珍しいことではない。

 大衆に人気を博したいが、何も思い浮かばない。そんな時のナツメロみたいなもので、これを演奏すれば一部 の人々からの拍手が絶対期待できる。従って、上記演説を聞いた多くのドイツ人が苛立ちを感じるとしたら、それは内容以上に発言場所である。演説を聞いてい る相手が並の選挙民でなく、兵士であることは大きな意味をもつ。

 軍隊は国民の生命と財産を守り、国家が外国から攻撃されたときそれを阻止するために存在する。そんな役割 の軍隊に向かって、政治家が「隣国から不法にもどんどん人が入ってくる」「何か災害が起こったら、この不法侵入者が騒じょう事件、騒乱状態をひきおこす」 「そのときは軍隊にがんばってもらいたい」という意味のことを訴えれば、どのように理解されるだろうか。

 東欧隣国に対してドイツに間接侵略を企てていると非難していることにならないだろうか。そうなると、実際 災害が発生し、騒乱状況になれば、これは隣国とは「準交戦状態」でもある。ドイツに在住するこれら敵性国民は「一毛打尽で戦時捕虜にするぞ」という軍事的 威嚇発言を読むことできるのではないのか。

 冷戦が華やかなりしころ、西ドイツの政治家がこの種の間接侵略警告の演説をすることはあったかもしれない。しかしそれもはるか昔のことで、欧州の状況はすっかり変わってしまい、そのため上記発言を聞いた人は内容がピンとはずれと思うだけである。

 とはいっても彼らが感じる苛立ちは、この種の発言が「軍事的威嚇」と理解された記憶が残っているからであ る。そしてこのような読み方が一瞬たりとも脳裏を掠めないのなら、「平和呆け」という表現がふさわしいのかもしれない。このように考えると、自国の平和主 義者を「平和呆け」扱いすることは、自分の「平和呆け」の予防にならないことをしめす。

 ●「劇画の世界」に近づく

 日本は直接関係がない人にも「何かありましたらそのせつはよろしく」という社会である。だからピンと来な いのかもしれないが、ドイツでこの演説を聞いた軍人はかなり苛立ちを覚えると想像される。彼らの職務は昔から「不法入国者」とか、あるいは彼らが繰り返す 「凶悪犯罪」などとは関係ないからである。

 そこで、この演説を聞いた軍関係者のほうが誤解を招いてはいけないと感じて、発言を求めるかもしれない。 その人は、どのような法的手続きを経て、軍隊の治安出動が可能になるかを説明するであろう。その場合でも「外国人犯罪」とは無関係である旨を強調するので はないのだろうか。

 日本の自衛隊は国内で議論があるかもしれないが、外国から見たられっきとした軍隊である。歴史的にも政治的にもドイツ連邦軍よりきびしい逆境で育ち、やっとここまで来たこの自衛隊を昔の「警察予備隊」扱いにする政治家が現れたのは本当に残念である。

 また同じ政治家が自分の発言を正当化するために「自衛隊の治安出動について発言することが抑止力になる」 と後で言っているとすれば、これも本当に奇妙な考え方ではないのか。どうして「軍隊の治安出動に言及すること」が不法入国する外国人や、国際犯罪シンジ ケートに対して「抑止力になる」と考えることできるのであろうか。 

 ドイツの政治家が不法入国者や「ロシア・マフィア」に対する「抑止力」を持つためにオーデル・ナイセ川の国境線沿いにドイツ連邦軍戦車部隊の駐屯を提案したら、誰もが悪趣味なジョークとしか思わない。

 軍事「抑止力」についてこのように語る政治家がいれば、戦争が彼の意識のなかで「劇画の世界」の戦争ごっこになっていることにならないだろうか。

 極東ではヨーロッパと比べて冷戦終了後も軍事的緊張度はあまり下がっていないのである。それだけに、現実の国際社会と「劇画の世界」の区別がはっきりしないのは私には恐ろしいことに思われる。

 ●外国人はそのようにしか見えなくなった

 「不法入国した外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している」とか、また「彼らが災害発生時に大きな騒じょう事件を起こす」という発言に対して、大多数のドイツ人は呆れ、憤慨すると思われる。同時にもちろん賛成する人も出て来るが、日本と比べたらはるかに少ない。

 不法入国者の大多数は出稼ぎ労働者で円滑にお金をかせぎたい。だから警察にやっかいになることは避けよう とする。あるいは、落ち着いて悪いことをしようとする人はビザぐらいはとる・・・といったことが、人口10%近くも外国人のドイツに暮らす者に思い浮か ぶ。だから、これらの発言を奇妙に感じ呆れるのだ。

 次になぜ憤慨するかであるが、この発言が外国人に対してフェア-でないと思われるからである。「不法入国 した外国人」は実行した「不法入国行為」のみが処罰の対象とされるべきであって、将来(例えば災害発生時)犯すかもしれない不法行為まで詮議されるのは フェア-でない。

 このことは「後で悪いことをしますから、先に罰金を払っておく」という理屈が近代法の精神に反しておかし いのと同じである。「東京裁判は近代法の精神に反する事後立法でフェア-でない」という人々が自分のあまりフェア-でない言動に気がつかないのは本当に残 念なことである。

 次は日本社会にある「外国人観」である。私たちは「外国人」とは短期滞在者で「京都見物して立ち去るべき だ」とどこかで考えているのではないのか。本当は自国内に(半)永久的に住む居住者が「外国人」で、彼らとの関係こそ「外国人問題」なのである。というこ とは、日本社会にはこの意味での「外国人問題」が最初から存在することができない。

 「外国人観」はそれだけで存在しているのではなく、国民が国際社会のなかで自分自身をどのように眺めてい るかという問題と連結している。私たちの「外国人観」は「日本人とは外国旅行で出かけるかもしれないが、本当は日本で暮らすべきだ」と考えていることを映 した鏡でもある。すなわち私たちが閉鎖的で元気がない「日本人観」を抱くために「外国人問題」に対してこれほど無感覚・無神経なのである。

 どうしてそうなったかの答えも簡単である。

 明治の開国以来戦争に負けるまで、何百万単位の日本人がアジアや米大陸に出掛けていた。そこでは日本人が 「外国人問題」であったのである。米国での日本人移民排斥が当時の政治家を悩ましたことも、中国大陸での居留民の安全が武力行使に値する問題であったこと も、またアジアから多数の政治亡命者が我が国に滞在していたことも、当時の私たちの「外国人観」や「日本人観」が現在と別であったことを物語る。

 私たちは東京裁判で膨張主義のために非難されたし、敗戦につながりそうなことは、それが何であれ、厭なこととして私たちの記憶から駆逐したのである。その結果、「外に出て行くのはもうこりごり」というべき「日本人観」が戦後定着したのではないのだろうか。

 こうして「日本人対外国人」という区別を私たちは絶対的なものと感じてしまう。ドイツ人の多数が問題の発言がフェアでない思うのは国境を越えたら自分たちも「外国人」となり、「ドイツ人対外国人」の区別が絶対的でないからである。

 「歴史認識」と一口でいってもこのように錯綜としており、「東京裁判の呪縛をとく」などと張切っても自己批判の精神が欠如すると、かえってその「呪縛」に陥るようである。

 ●「右翼ポピュリズム」の言語

 インターネットで石原慎太郎氏の自衛隊員を前にした発言を読んでいて、思い浮かんだのは30年近い昔、三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地でバルコニーから自衛隊員にした演説であった。

 私の記憶では、あの時も自衛隊の治安出動が望まれていた。これが実現するべく、当時この作家から活躍が期 待されていたのは安保反対デモの左翼学生であった。ところが、彼らはこの期待を裏切ってしまい、この有名作家は自衛隊員に抗議のための「集団自殺」を呼び かけ、割腹してしまった。

 今度も治安出動が望まれるが、左翼学生の代わりをするのは「不法入国して、災害時に騒じょう事件を起こす外国人」である。

 あの時も今回も日本が戦争に負けたことが問題になっているのである。人気の高い石原都知事は、演目に困ってナツメロを演奏するヨーロッパの右翼ポピュリストと同じことをする必要がなかったと思われる。ところが、そうしたのは「敗戦」という厄介な問題のためである。

 私が子供の頃「日本が一等国から転落し、三等国どころ五等国になってしまった」と、海軍将校未亡人の祖母 が陸軍の東条英機を罵っていた。戦争当事国でもなく、従って本当は戦勝国民になりえない、我々より下だったはずの朝鮮人や中国人が不遜にも「戦勝国民面」 をしているという敗戦国民の怨念が「第三国人」というコトバに込められていた。

 石原慎太郎は聴衆に「敗戦後の50年間、実に見事に内側からも外側からも解体された」ことに怒りを感じて 欲しかったのである。だから、この怨念のこもった「第三国人」というコトバを用いたのだ。兵士を前に、具体的に隣国に住む民族を意味するこのコトバを使う ことは「差別」というような生やさしい問題でなく、軍事的挑発と解されることでもあるが、同時に敗戦後遺症である。

 ヨーロッパのメディアを通して見ていると、日本が「ノウ」といえず、「イエス」と言い続けているイメージは湧いてこない。米国に対して、日本政府は「ノウ」という「したたかさ」をもち、「ノウ」といったり、「イエス」といったりしてきたのではないのか。

 石原慎太郎氏をはじめとする「右の人々」の発言を聞いていると、私は自分の亭主の出世ぶりに不満を抱く勝気な女性を連想する。「亭主はお人よしで、上役のいいなりで、利用ばかりされている」「本当に弱腰で、会社で皆からバカにされてばかり」とかいった具合である。

 これが「右翼ポピュリズム」「劣等感と優越感の間を揺れ動く情緒不安定者」の言語で、どこの国でも同じである。

 但し、日本は敗戦、その後の目覚しい経済的成功、そしてその行き詰まりといった歴史的展開からも、また国際社会での孤立度からいっても、このような情緒不安定者が増加する要因が強いように思われる。その点私は少々心配している。


 美濃口さんにメールはTan.Minoguchi@munich.netsurf.de
2000年05月17日(水)萬晩報通信員 園田義明


♪ シアトルマンとダボスマンとお山の大将さん

 世界の巨大メディアは長期出張となりそうだ。

 7月21日から沖縄で開催される沖縄サミット(主要国首脳会議)の直前に、マイクロソフトのビル・ゲイツ氏らコンピューター業界の実力者や学識経験者が都内で一堂に会し、情報技術(IT)革命への対応を協議する構想が進んでいる。

 2000年1月31日付け萬晩報コラム「ダボスで語られる世界大再編の第2幕?」で描いた、世界の政財界トップを集めた世界経済フォーラム(通称「ダボス会議」)が開催されそうだ。

   日本経済新聞によると、会合後にデジタルデバイド(情報化が生む経済格差)の予防策を柱とした提言書を沖縄サミットの議長を務める森首相に手渡す予定で、首相周辺は「提言内容を極力、首脳会議本番の議論にも反映させていく」としている。

 2000年中の重債務貧困国40カ国が抱える約2700億ドルの債務帳消しを訴えるジュビリー2000を 中心に世界的に連携を強めるシアトルマン。今年1月のダボスで開催された年次総会で、このシアトルマンを批判し、参加者からもひんしゅくをかった人物がい る。今井敬経団連会長である。接続料問題でも主役を演じるガリバ-企業NTTと新生銀行(旧日本長期信用銀行)の取締役を兼任する日本財界のボスだ。

 政府と企業の関係についての討議に、パネリストとして参加した今井会長は、シアトルマンの活動について 「だれの利益を代表しているか分からない」と批判し、米シアトルで昨年開かれた世界貿易機関(WTO)閣僚会議でのNGOの大規模な抗議行動に対して「環 境や人権を過度に守ったり、国際機関の運営を難しくしたりしている」と語ってしまう。

 これに対して、ドイツ銀行の広報担当者が「NGOの役割や目的は明確であり、(活動内容など)組織の情報開示にも前向きだ」と反論し、米ベンチャー企業の幹部もNGOの活動を支持するなど会場は騒然となる。

 どうやら失われたのは10年どころではないようだ。

 ♪ 価値ある1兆1000億円に

 いつものように政府は無難にこなせる自信があるようだが、今回ばかりは通用しそうにない。「ミレニアム」 の重い十字架を背負っている。従って、イエスかノーの解答を迫られることとなる。予測される最悪の事態は、シアトルマンを強制的に排除することであろう。 その映像が巨大メディアを通じて世界に流れるとき、「これからも失われる100年」が始まることとなる。

 この事態を避けたい政府は、沖縄サミットで史上初の各国首脳とNGOの直接対話の場を設ける構想を発表した。5月29日に行われるジュビリー2000を含めたNGOと大蔵省国際局との政策対話で方向性が決まりそうだ。

 また、その対応についても4月10日の「重債務貧困国に対する債務救済に関する我が国の追加的措置につい ての官房長官発表」にて、政府は非ODA債券の削減率の引き上げ(90%→100%に)と国際金融機関への拠出額の上積みの追加措置を打ち出しており、事 実上全額帳消しを認めている。

 現在の焦点はその時期と方法をめぐるものとなっているようだ。日本政府は、「債務帳消しは債務国の自助努 力を損ないかねない」として40年間かけて債務と同額の資金を贈与する「債務救済無償方式」を主張しており、2000年中を主張するジュビリー2000と 食い違いを見せている。

 さて私は今怒っている。坂本龍一教授の『このような悲惨さを招いている債務を帳消しするのは、意外に簡単 です。日本人の一人ひとりが毎年ビールを一本飲むのをがまんすれば実現できるのです。』という言葉に対してだ。どのような計算方法で出された数字なのか さっぱりわからない。稼ぎの悪い私は、ディスカウント・ストアで購入する350ml缶を平日1本、休日2本に制限されている。

 おそらくこれが現在の庶民の実情であろう。数式の訂正を求めたい。そして、我々が負担する金額が価値あるものとなるように沖縄サミットでの私達に対する誠意あるメッセージを求めたい。それは政府とジュビリー2000とが共同で行うべきであろう。

 まもなく地球環境問題が国際政治経済上極めて重要な分岐点を迎えることとなる。開発援助と環境問題は表裏 一体のものである以上、「第3の道」を築く時期に来ているようだ。巧みに制度化された現在のアメリカン・グローバリゼーションもその基盤となる金融システ ム自体が揺らぎ始めている。その重大な欠点を補う意味でアメリカの合意をうまく引き出してほしいものだ。

 経済界も発言すべき時がきたようだ。「地球に優しい企業」がいま試されようとしている。


●日本経済新聞社 第3回(99年度)「環境経営度調査」製造業ランキング(1位~50位)

リコー/横河電機/キヤノン/東京電力/NEC/富士ゼロックス/松下通信工業/ソニー/シャープ/九州松 下電器/キリンビール/松下冷機/本田技研工業/富士通/アサヒビール/東芝/松下電器産業/三洋電機/日立製作所/キヤノン・コンポーネンツ/凸版印刷 /トヨタ自動車/三菱電機/サッポロビール/大阪ガス/日本アイ・ビー・エム/東洋ゴム工業/ローム/松下寿電子工業/大日本印刷/キヤノン電子/ダイキ ン工業/松下精工/松下電送システム/積水化学工業/NKK/神戸製鋼所/岡村製作所/愛知製鋼/沖電気工業/日本ビクター/島津製作所/松下電工/京セ ラ/TDK/日産自動車/クラレ/三菱自動車工業/中部電力/松下電子工業

●語句説明

「シアトルマン」--ポール・グルーグマン氏が呼んだ反グローバル化運動家
「ダボスマン」---ハンチントンが呼んだ世界経済フォーラム(通称ダボス会議)に高額の参加料を 払って
            駆けつけるグローバル資本主義の波に乗る世界の政財界トップ達
「お山の大将さん」-園田が命名。御自由に解釈下さい。

●参考・引用

日本経済新聞
重債務貧困国に対する債務救済に関する我が国の追加的措置についての官房長官発表 平成12年4月10日http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/kanbo/index.html
ジュビリー2000福岡-ニュースアーカイブhttp://www.windfarm.co.jp/members/jubilee/


 園田さんは東京在住のサラリーマン。国際戦略コラムでもコラムを執筆中
 園田さんにメールは yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp

2000年05月15日(月)南相木村医師 色平 哲郎


バブさんの講演録 2000年01月08日(土)1400-1600 東京大学医学部図書館三階にて
<自分のことを知る>

今日皆さんにお話するのは、私の人生での、いくつかの出会いやできごとについてです。
私たちは、先ず自分自身のことを知る努力をしなければいけません。

あなたのおじいさん、おばあさんがどのように苦労して、あなたのお父さん、お母さんを育ててきたのか。
そしてお父さん、お母さんがどの位に働いて、あなたを育ててきたかということ、です。
私の生きてきた道について、お話申し上げます。
私はバングラデシュのひどく貧乏な農村で生まれました。

あとで村の写真をスライドでお見せしますけれど、私の先祖の代々は農村で生活してきました。
このスライドの建物は、私の勉強した小学校です。

日本の医学生さんや子どもさん方にお話する時に、
「先生、これは田んぼの中に小学校があるのか、小学校のまわりに田んぼがあるのか、どちらですか?」
とよく聞かれるんです。皆さん想像してください。

私もこの、電気のきていない建物で勉強してきたんですよ。
雨季になると、背丈にもなる水の中を歩いて村から学校に通いました。
私の姉2人は、水の中を歩いて学校へは行けないので、私が勉強してきて、
後で勉強内容を姉2人に教えて、3人で一緒に教育を受けたんです。
そんなふうに育ってきました。

さあ、ここで、皆さんに質問しますよ。
皆さんは小学校時代、どんなところで勉強しましたか?

<人間として人間の世話をすること>

私の叔父さんは、仏教の家柄の23代目のお坊さんで、大僧正でした。
今、私の弟が24代目の僧侶になりました。
弟は東京大学に留学して仏教の勉強して、帰国しました。

この叔父さんが、私にいろいろなことを教えてくださったんです。
叔父さんは「何もないところから、自分がはじめなさい」と厳しくおっしゃいました。
「自分ができるところから、とりくみはじめなさい」という教えです。

どういうことかと言いますと、叔父さんは大きな孤児院を運営していました。
私は叔父さんに導かれて、孤児たちの体をきれいに洗ってあげることにとりくみました。
自分にできることからはじめてみた、というやりかたです。
この時から「人間として人間の世話をすること」をはじめました。

孤児たちは皮膚の病気でしたが、その後元気になりましてね。
とてもうれしかった。その後孤児のひとりはヨーロッパに留学しました。
私は中学生でした。
このとりくみは、その後の私の生き方に大きな影響を与えています。

<自分を探す旅>

私は、将来必ず医者になって、バングラデシュの村で村人のために働きたいと心に決めていました。
それで、村で働く医者になる教育をうけることができる、そんな医学校を捜していました。

2番目の兄が京都の大学で勉強していましたから、兄を頼って日本に来て、探してみました。
しかしいろいろ調べた結果、残念ながら日本の医学がとても専門的なものになっていることを知りました。
日本で医学を勉強しても、電気のきていない自分の村で働くことはできないのではないかと考えました。
がっかりしたというか、ショックを受けて、どうしたらいいかと考えこみました。

日本で私はいろいろな仕事やアルバイトにとりくみました。
学費を貯めるためでもありましたが、等身大の働く日本の人々と知り合いたかったからです。
学問研究の上では先駆者になれなかった私ですが、若い私はこのとき
外国人労働者としてのパイオニアになっていたのです。(笑)

地域の中で働きながら、日本のあちらこちらを訪れました。
仕事を手伝いながら、生きた日本語を勉強するようにしました。
友人もたくさん日本にできました。
そしてフィリピンに行ったり、マレーシアに行ったり、ソウルに行ったりして
アジア各国の大学医学部を訪ねました。
医学校で勉強して、その経験を生かして自分の村に入りたい、それだけを考えていました。

この写真は長野県で労働者をしていた時のものです。
この時の私の担当は、畑でじゃが芋を作ることでした。
じゃが芋がとても大きく育ったので、友人に「人間の先生になるよりも、じゃが芋の先生になりなさいよ」
と言われたりしました。でも私はあきらめませんでした。

日本で働きながら、自分のアイデンティティを探す旅がはじまりました。
感じたことは、「人間として人間の世話をする」為にはまず、人間を深く理解するべきであるということです。
「医者として」働きはじめる前に、人間を知ることを勉強し、
「人間として」人間の世話にとりくむ経験を持った方がよいと強く感じました。

ここから、はたちの私の旅がはじまりました。
人と人との出会いとつながりはとても大事です。仏教でいう御縁でしょうか。
人間を知った上で、人間として、人の心を大事にしながらお世話をするのが、
とても重要なことだと考えています。

<フィリピンで学んだこと>

フィリピンでのことを申し上げます。
その中から、ご自分で考えを発展させていく材料にしてください。
それがどうみなさんの今後の生き方につながっていくのか、どのように国際協力にとりくむか、
自分の仕事と関わっていくのか、みなさん自分で拾いあげてくださいね。

スライドのこの学校は、フィリピン国立大学医学部のレイテ校です。
フィリピンの医学部では、アメリカ式の教育制度で英語で医学や看護学を勉強しています。
それでフィリピンの大学を卒業してすぐにでも、アメリカ合衆国へ行って働くことが可能です。

1974年には、フィリピンで大学を卒業した医師や看護婦の70%以上が、
すぐにアメリカに行ってしまいました。
フィリピンは経済的に貧しいですから、折角の人材が都市へ、そして海外へと「頭脳流出」しまうのです。
そこで農村地域に実験的な医学校を作って、
なけなしのお金で育成した人材が都市へ流出してしまうことについて対処しようとこのレイテ校ができました。
PHCを担う人材育成との文脈で、WHOやUNICEFも設立に協力しています。
看護助産の課程と医学部課程が、直列につながったカリキュラムをもっているのが、レイテ校の特徴です。

最初に助産婦の勉強をして免許をとり、地域でしばらく働きます。
村人の推薦をもらって再び学校に戻り、正看護婦の勉強をします。
看護婦として村で働いた上で、一部の学生が学校に戻って医学部の勉強をします。

(日本と異なって)助産婦の勉強をしている間も週の半分は、自分の出身の村に行って働きます。
週末にも村に戻って、勉強した内容を村人と分かち合います。
助産婦の国家試験の後は、出身の村に戻って、実地に助産婦の仕事をします。
学校で習ったことを、村人のために使うのです。

看護学校で看護学を勉強し、その後(全員ではありませんが)医学の勉強をします。
日本での様に、看護学校と医学校が分離されてはいません。
「はしご状カリキュラム」と呼ばれています。
医学部の勉強は(日本の医学校とは異なって)午前中は講義に出て、午後からは実地のことにとりくみます。
病院で入院中の患者さんのために働いたり、村々を廻って往診したり検診したりします。
医学部の2年生になると、村の家に村人と一緒にしばらく住んで、
今まで助産婦としてまた看護婦として、習ったことを実践します。
3年生になったら、病院に戻って大学で勉強します。
4年生になったら、また村に戻り、現場で実践します。
このレイテ校で、私は全部で10年かけて勉強し医師になりました。

村人と一緒に勉強するのです。
大きな講堂で講義をするよりも、先生が後ろにいてアドバイザーとなり、小グループで勉強するのです。

今私が働いている日本の大学では、講義中に眠くなったり携帯電話が鳴ったりすることがありますが、
こういうところでは勉強中に眠くならないですね。

<村を知る>

村に入って一番最初にすることは、村を見わたしてみることです。

この村には何があるのか。小学校があるかどうか。井戸があるかどうか。
水質はどうか。村人の家の中にはどの位の持ちものがあるか。
そういったことを私たち学生は調べておかなければなりません。

村のリーダーと一緒に、私たち学生ふたりで村人にインタビューします。
各戸にトイレがあるかどうか。
トイレがあったとしても、使えるようになっているかどうかわからない。
ちゃんとトイレを使っているかどうかを聞く。
想像してみてください。
トイレがあっても見栄えのためになっていて、実際には使っていないこともあるんです。
お母さんたちにはいろいろ基本的なことを説明します。
私たちは可能なら、4人か5人の若いお母さん方をグループに組織して、
助言してサポートしながら一緒に仕事をします。

例えば、手が汚くなって外から子どもが遊んで帰ってきたら、
手を洗ってから食事をさせる、ということが大事です。
ひとつひとつ細かく説明をしないと、子どもが下痢になってしまいます。

地域に行くと、ひとりひとりの患者を診ることももちろん重要ですが、
村全体、地域全体のことを観る必要があります。
それでは私たちは何を重点的に、観察しなければいけないのでしょう?
考えてみてください。

例えば、村のお母さんたちが理解できる「ことば使い」で、
肺結核という病気のことを説明できなければ、地域で役に立たないでしょう。
国際協力の現場でも同じです。
あなた方が日本に戻ってきたら、それでプロジェクトは終わりです。
そういう経験をお聞きになったことがあると思います。
そうならないためには、その国のことを深く掘り下げて理解する必要があるのです。

この写真は96年にレイテ島の村で撮ったものです。
村の健康教室の光景です。小さい教会で村人が集まっています。
82年に私がやりかたを教えてあげたお母さんたちが、
今も毎月一回は集まって子どもの健康状態を看ることにとりくんでいます。

申し上げたいのは、たとえ私がいろいろ現場でとりくんでも、
私がひとりですべてを背負ってやっていたら、
私がいなくなった後、活動は続かなかったかもしれない、ということです。

しかし私たちは地域のお母さんたちと一緒に考えながらとりくみをはじめたので、
私がいなくなった後も、お母さん達は自分たちでできることを続けることができました。

<人と人の架け橋>

戦争がとてもひどかったフィリピンのレイテ島で、日本の医学生さんたちを受け入れてることにとりくみました。
ある時、村のおじさんが「自分が生きているうちは、日本人の顔を二度と見たくない」と言いました。
学生さんたちの受け入れ準備をしている間に、私は10回位このおじさんのところに通いました。

そうしたら、おばさんが、話してくれたんです。
「彼が小さいときに日本の軍隊がおじさんの目の前で、おじさんのお父さんを殺した」とのことでした。
この不幸な関係を是非作り直しましょう、とおじさんに私はお願いして、日本人の学生を連れていきました。

一週間くらい彼のうちにホームスティした後、帰るときになってこのおじさんは、
日本の学生と握手して、「戦争のことを忘れましょう。友達になりましょう」と言ってくれました。

国際協力は、人間と人間の架け橋だと思います。
機械があるから、お金があるから、やって来ましたというよりも、
人間として人間の世話をする、人として人のつながりが大事だと思わないと
なかなか続けることはできないと思います。

<バングラデシュ>

バングラデシュは、国民のほとんどを農民が占める国です。
ガンジス川の下流に位置し、土地の標高が低い。
洪水が毎年のようにやってきます。ガンジス川は長い川です。
上流のインドやネパールで大雨が降ると、バングラデシュでは天気がよくても洪水になってしまう時があります。
そうなると、水量が多く川の流れがとても強いので、家も家畜も流れてしまうんです。

このスライドでは鉄道線路の端にたくさんの家がありますね。
この一枚の写真から、ここに住む子どもたちは予防接種をしているかどうか、
トイレはどうしているのだろう、飲み水はどこから持ってきているのか、、、
こういったことに、考えを進めなければいけません。

国際協力で必要とされるものの見方は、このような想像力をのばして考えることです。
発展途上国を、調査団として訪れた場合を想像してみてください。
日本がどのような援助を、どこにいつしたら本当に人々の役に立つのか、こういう想像をのばしてほしい。
若い学生さんたちこそ、特にこういうものの見方の基礎を作らなければならない。
若いうちに旅をして、人々と出会い、お世話になってください。
現場で考えて、人々の生活を見る目を育てなければならないのです。

<一生の仕事>

私は若い人たち向けに教育講演をする時、私のおばあさんの教えを思いだします。
私が小さい時、毎朝「起きなさい、起きなさい」と言われました。
私は毎朝早く起きておばあさんと一緒に庭から花をとって、お寺にお参りするようになりました。

すると、次におばあさんが厳しく教えてくださったことは、
「自分で起きるようになったら、今度は弟たちを起してあげるようにしなさい」ということでした。

これは、当時の私には理解できないことでした。
単に弟たちを起して一緒にお参りすることだと思っていました。
今は分かります。
自分が何かできるようになったら、それを後輩たちにお伝えするのが次の仕事になる。
という深い意味がこの教えにはありました。
おばあさんは私に一生の仕事を与えてくれました。

<ネパールのお母さんと子どもたち>

ネパールでの出来事です。
山の村で聞き取り調査をしました。
お母さんたちに「いちばん近い診療所は、どの位遠いのですか」と尋ねたんです。

「すごく近い」といいます。実際には歩いて1時間かかります。
「ちょっとあります」というときは、歩いて2時間かかる。
車が普及している日本のお医者さん方にはいつもこの話をするようにしています。

勉強になったのは、お母さんたちにお目にかかってはじめて、
村人の本当の気持ちを知ることになったということです。

あるときは3日間かけて山を越えて、病人が私たちのところへ訪ねて来ました。
どんな想いで患者が医療機関を受診しているのか、想像力を延ばすことが重要だと思います。

これはネパールの村の子ども達です。
太陽の光が、後ろの方からきている写真で、朝の太陽の光です。
この子たちは今日の朝ご飯を食べたでしょうか。
笑顔の子どもたちです。
でも、一日一食のことがあるんですよ。
皆さん、想像してみましょう。

94年にこの写真を撮りました。
この子たちは学校に行く時間にここで遊んでいて、学校に行っていなかった。
6年後の今日、この子どもたちが学校に行っているかどうかはわかりません。
私たちはこの子たちに、学ぶ機会を与えなければならないのです。

<なにかにぶつからないと、本当のことはわからない>

五年ほど前、神戸で大きな地震がありました。
この悲劇の地震が起こる一年ほど前、私は神戸の高校の先生方の前で講演をしました。
スライドを使って、アジア各国の子どもたちの生活の様子をお話しし、きれいな水の大切さを訴えました。

講演のあと、ひとりの教頭先生が立ち上がって、
「日本人はそんなに頭の悪い者ではありません。一時間の講演で40分間も、
お水は大切なものです。お水は大切なものです。と繰り返す必要はありません」とおっしゃいました。
私はお答えができずに困ってしまいました。

そんなことがあって、大地震のあと、3週間ほど経ったある晩、私の自宅に電話がかかってきました。
最初は、「だれかなー」とわからずにいました。
「高校の教師ですが、バブさんですか?実は、きょうは謝りの電話です」
「えー。先生なんのことですか?」
「私は去年バブさんの講演会のあと、意見を言わせてもらった者です。覚えていらっしゃいますか?
私はこれまで毎日お風呂に入っていましたが、あの地震のあと今日までの3週間、お風呂に入れずにいます。
いま、本当にお水が大切であることをよく理解できました。
きょう、やっと電話が通じたので、まずバブさんに電話して謝りたいと思いました」とのことでした。
私はびっくりして、「先生、お身体は大丈夫でしたか?ご家族はいかがでしたか?」とお尋ねしました。

つまり、人間はなにか困難にぶつからないと気づかない、わからない、ということです。
病気になってはじめて健康のありがたみがわかる。
交通事故に遭わないと事故の怖さがわからない。

<洞察力>

「専門家」として看板を出す前に、学生時代に、自分で壁にぶつかりながら経験を積まなければならない、
ということを皆さんに特に強調したい。

「エキスパート」と称する人たちは、クーラーが入っている建物の中で論文を書いていて、現場を知らない。
エキスパートという看板を出す前に、自分でぶつかってぶつかってほしい。
学生さんたちにいつも申し上げていることです。

医者も患者も同じ人間で、社会の一員です。
ですから人間というものがわからなければいけない。
人間の弱さ、ずるさも含めて、深いところで人々を理解しようと努めることが重要になります。
そうしなければ人間として人間の世話をすることができません。
ほかの人の生き方を学びとる「洞察力」が必要です。

医学にも科学技術にも。残念ながら人間としての哲学・精神の光が欠けています。
だから、政府のODAなど外国への開発援助の場面でも「お金だけわたせばいい」
「モノだけあげておけばよい」という形だけの援助になってしまっています。

今日はたくさんの人が参加してくれて、本当に嬉しいことです。
どうぞ、私の今日の話の中から、考える材料をとりこんでください。
そして、みなさんで今後どのように国際協力にとりくんでいくのか、
どうやって関わっていくのか、みなさん自身で考えてください。
どうもありがとうございました。

 スマナ・バルア医師(バブさん)

 スマナ・バルア博士(44歳)は過去20数年にわたり、故郷バングラデシュの農村地域で、また医学生として過ごしたフィリピン・レイテ島他の各地で、女性の健康と出産、そして寄生虫学に関する地道な研究支援活動に、継続的にとりくんできた医師です。

 特にレイテ島に於ては、フィリピン国立大学医学部レイテ校に在籍しながら助産士として働き、村々を廻って215人の子どもたちの出産を介助する診療活動に従事しました。外国人として初めて、大学所在地パロ市の名誉市民として表彰されています。

 1993年、東京大学医学部大学院国際保健計画学教室に在籍してからの数年間は、論文執筆の傍ら日本各地 (埼玉県、長野県、神奈川県等)で外国人労働者女性への「医職住」の生活支援活動に、医療ボランティアとしてとりくみました。彼が副代表を勤めるNGOア イザックは、1995年タイ政府外務省から表彰を受けています。

 研究者としては、国連機関 WHOのコンサルタントとしてアジア各地(インドネシア、ミャンマー、ヴェトナム、ネパール、もちろんバングラデシュ)の現地を歩き、農山村で働く保健婦や助産婦への指導を通じて、村でのヘルスワーカーの育成にあたっています。

 この点でプライマリー・ヘルス・ケアの実践者として、「母子保健」分野と感染症対策の現場で確かな足跡を残した、との評価を研究者仲間から得ています。

 1999年、東京大学医学部より取得した博士号の論文テーマは「ミャンマーに於けるハンセン氏病への対処プログラム」です。

 現在日本各地の医科大学や看護学校他で学生や研究者向けに日本語と英語で教育講演し、アジア各国の母子保 健の現状と展望についての理解を一般に広げることに努めています。2000年4月からは国際医療福祉大学で講師として勤務する一方、東京大学医学部大学院 国際地域保健学教室で非常勤講師を務めています。


2000年05月12日(金)とっとり総研主任研究員 中野 有


 先日、国内の北朝鮮問題の専門家並びに、米国国防総省のシンクタンクであるアジア太平洋安全保障研究セン ターのスティーブ・ノーパー博士と意見交換した。ノーパー博士は、東京、大阪、名古屋で朝鮮半島問題について基調講演し、NHKに出演した。彼とは米国東 西センターで一緒に研究した仲間であり、北東アジア情勢の戦略的な動きについて本音で話し合うことができた。

 朝鮮半島問題が頻繁に日本のマスコミに登場するが、ほとんどが事実の羅列であり、未だに冷戦構造を温存している北東アジアの複雑な問題を米国、中国、ロシア、南北朝鮮等の外交戦略、そして国連機関等の動向を分析し、日本の役割を明確にした建設的なビジョンが皆無である。

 日本の専門家の話を聞いてもこの地域の複雑な現実や拉致疑惑問題がネックになっていることが理解できても、その先どうすればいいのか全く見えてこない。

 その点、米国や中国はなるほどとうなずけるだけのビジョンを有している。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)がミサイルや核開発による瀬戸際外交を継続させることによりどのような影響を及ぼすのか。まず米国は、TMDやNMDの迎撃用ミサイルの開発に拍車をかける。

 そこで迎撃用ミサイル開発には莫大な予算がかかることから、米国は日本等との共同開発を提案してきた。当 然、攻撃用ミサイルの開発と比例して、迎撃用ミサイルの開発が進み止め処もない軍拡競争の幕がきられる。これに対して北東アジアの軍拡を最も警戒している のは中国である。従って、北朝鮮の瀬戸際外交は中国の利益に反する。

 朝鮮半島の統一に向けた動きは何を意味するのか。韓国の宥和政策を受け入れる北朝鮮の条件は明確である。 「技術的」に戦争状態にある38度線に展開している国連軍、すなわち米軍の縮小や撤退である。朝鮮半島の安定は東アジアの米軍のプレゼンスの減少につなが る。沖縄の米軍然りである。

 中国が望むところは、東アジアにおける米軍の縮小にあるとすると中国と北朝鮮の利益は一致する。半面、米国国防総省は中台関係の不安定要因により米軍の重要性を説く。いずれにせよ北東アジアの問題の根っこは、米中間の勢力均衡の駆け引きである。

 昨年10月に中国の天津で第9回北東アジア経済フォーラムが開催された。前回の米子会議でも討論の中心であった北東アジアの開発金融に中国は熱心で、天津に北東アジア開発銀行を設立する提案を行った。

 また5月10-13日に天津で北東アジア開発銀行に関する専門家会議が開催されている。中国が北東アジア開発銀行設立に興味を示すのは、北朝鮮の瀬戸際外交が中国の利益につながらないとの判断と、統一朝鮮は日本や米国より中国に接近するとの考えからである。

 そこで日本は何をすべきであるか。日本の目指すべき方向性は、軍拡でなく協調的安全保障につきる。国際情 勢がどうであろうと朝鮮半島問題に最終的な決着をつけるのは南北会談である。日朝国交正常化交渉が成功した時、或いは成功させるためには、対北朝鮮の政府 開発援助(ODA)を日本の外交カードとして有効に使う必要ある。

 戦後補償問題を考え日本が北朝鮮へ2国間援助を試みた場合、その莫大な資金が北朝鮮の軍事的活動に転用される可能性も否定できない。そこで日本の対北朝鮮へのODAは多国間(マルチ)の援助で行う必要がある。

 例えば、北朝鮮への援助を直に行うことができなかった韓国は、1990年代前半から国連を通じ北朝鮮への 援助を行っている。この例は日本の北朝鮮の援助のあり方の指針となるだろう。日本が韓国の意向を尊重しなが対北朝鮮援助を実施させようとするならば、韓国 と十分な協議をしながらマルチのチャネルを開拓することが不可欠である。

 日本では日本人が総裁を務めるマニラを拠点とするアジア開発銀行がその役割を担うべきとの声が大きいが、 米国の政府系シンクタンクである東西センターは、年間1兆円という日本のODAに匹敵するほど巨大な北東アジアへの開発規模からいくと、アジア開発銀行で は対応できないと分析している。

 中国に北東アジア開発銀行が設立されることは、日本や米国にとってプラスになるのか。たぶん、北東アジアにおける米国と中国との利権争いを考えた場合、日本に北東アジア開発銀行が設立されることが現実的ではないだろうか。

 紛争が発生したら天文学的数字の犠牲が発生する。そこで紛争を未然に防ぐ予防外交の観点から北東アジア開発銀行設立を考えるだけの価値があるのではないだろうか。


2000年05月10日(水) 萬晩報主宰 伴 武澄


 ●100年前にオランダ人が始めた砂防工事

 滋賀県大津市の南東、信楽との境に田上山という禿げ山があった。二十数年前、大津支局に勤務してい たとき、一度登ったことがある。山肌の表土はぼろぼろで、樹木どころか草さえ生えていないという日本では異様ともいえる風景だった。山肌では近畿地建が階 段状に砂防工事をしていて、斜面にはシダ類が植えられていた。

 滋賀県庁の職員に聞いたところ、田上山の表土はバクテリアも生息しないほど破壊されていて「高等な植物は植えても成長しない。シダのような原始的植物から植えて土づくりをする必要がある」ということだった。

 いまでは緑がかなり回復していることをホームページで知った。この砂防工事は100年前始まった。オランダ人技術者ヨハネス・デ・レーケらの協力を得て明治政府が着工したもので、花崗岩の切石を20段の布積みに組上げた形から鎧(よろい)ダム 、通称オランダ堰堤とも呼ばれている。

 田上山は奈良時代に東大寺を造営した際に巨木を多く切り出した場所だったそうで、山肌に木 がないのは当時から植林を怠ってきたのが理由だとされた。ちなみに瀬田川の右岸にある石山寺はその当時、木材切り出しの拠点だった。直径数メートルのヒノ キは瀬田川から淀川を経由し、さらに木津川を遡って奈良にもたらされた。

 司馬遼太郎によると「日本人は植林を習慣としてきた世界でもまれな民族」ということだ。中 国大陸を旅して気付くのは「山に緑がない」ことである。華北が乾燥地帯となったのは「漢の時代、製鉄のためマツを切りまくり、その後、植林を怠ったため」 と『街道をゆく』に書いている。マツは火力が強いことから古代の製鉄に不可欠とされた。

 山陰地方の島根県に残る「たたら鉄」は豊富な森林資源が背景にあって初めて成り立ってき た。三つの山を順番に伐採しては植林するという歴史的営みの中で続いてきたともいえる。日本の山が緑を維持してきたのは、高温多湿という気候に恵まれてい るという要素もあったには違いないが、田上山の惨状をみてから、植林の重要さをあらためて認識させられた。

 その日本の森林の危機がさけばれて久しい。田上山のことを思い出したのは、永井直樹さんから4月23日に下記のようなメールをもらったからだ。

 ●天皇、皇后両陛下を迎えた大分・平成森林公園での植樹祭

 第51回全国植樹祭が4月23日、天皇、皇后両陛下を迎え、大分県の県 民の森・平成森林公園で行われた。陛下は式典で森林の今後の大きな課題について「山村地域の過疎化や林業に携わる人々の高齢化が進む中で、いかにして豊か で手入れの行き届いた活力のある森林を維持していくかであることを強く感じています」と述べた。
 郷里九州熊本に近い大分県で、全国植樹祭が開催された上記の記事を読み、疑問を感じ、その疑問を誰に問い掛けたら良いのかで、「萬晩報」へのメールを思い立った次第です。

 私が疑問を感じたのは、上記記事の天皇陛下のお言葉の抜粋です。恐らく陛下の読まれた原稿は、農林 水産省から宮内庁までの関係省庁があらかじめすり合わせをし、主旨の方向を決められたものでしょうが、高齢化の進む林業従事者や人工林への補助/助成への 国民の支持/肯定を促すような指針のもの、と私には受け取れてしまいます。

 数年前に私が帰省した際に、九州/阿蘇の山々で見たものは、それ以前の大型台風での倒木が 放置された無残な姿でした。そのほとんどが、無理と思える急勾配に植林された杉でした。所々では、復旧の手が入っていましたが、その復旧も倒木を片付けた 後に、同じ杉の苗木を植えるというもののようにしか見えませんでした。

 高齢化に伴う、林業従事労働力の不足などが叫ばれ、大形機械の導入や輸送効率の改善などが お題目で、林道の舗装化が進んでいるようですが、道路拡張のために削られた山腹では、伏流水脈の破壊/表土の流出/樹下植生の変化や自然動物の生存必要面 積の分断など、さまざまな問題が起こってます。

 何れもが、自然林を切り開き人工的に植林された続けた人工林が、現代になって維持できない問題への悪循環でしかないと感じます。問題の解消への視点を根本的に切り換える必要があると感じます。

 森林資源といいますが、今後の少子化の進む日本で戦後から高度成長期の時代のような、建築 木材の需要が見込めるのでしょうか?。長期的な木材需要の予測はされているのでしょうか?。少なくとも無理な植林で自然災害に被災した森林の復旧策として は、自然災害に強い本来の気候風土に適合した樹木の繁殖の推進/研究が必要ではないでしょうか?(落葉広葉樹や照葉樹)「森林資源」の考え方として、保水 や大気浄化としての価値に重きを置くべきで、木材資源第一主義的な林野事業には見なおしが必要だと思います。

 「手入れの行き届いた活力のある(人工)森林を維持」ではなく、「適切な森林資源の活用と、自然摂理に合った植生への回帰」が必要だと考えます。出来れば、「萬晩報」に集う識者の方々に議論/討論していただければと存じます。


京都大学森林生態学研究室ホームページ 森林生態学研究室田上山

日本林業技術協会編『森と木の質問箱』 土地の荒廃はどこでもおきる

森の贈り物 http://www.wnn.or.jp/wnn-f/keep/ke1/ke1003_l.html#topic9

滋賀大学 近江ゆかりの近代化遺産 大津市上田上桐生町の「オランダ堰堤(えんてい)」


2000年05月09日(火)萬晩報通信員 岩間 孝夫


 きのうは5月8日は八田與一の58年目の命日だった。

 八田與一がどういう人物かは萬晩報1999年7月18日号「台湾で最も愛される日本人-八田與一」(http://village.infoweb.ne.jp/~fwgc0017/9907/990718.htm)で主宰者の伴武澄さんが書いた。未読の方は是非この文章を読む前にお読み頂きたい。今回はその続編である。

 八田與一は明治19年(1886年)に生まれた石川県金沢の人である。東京帝大で土木工学を学び明治43年(1910年)大学卒業間もなく台湾総督府土木部の技師となった。時に台湾が明治28年(1895年)日清戦争後日本の領土となってから16年目の年である。

 日本の領土となった頃の台湾は約300万人の人口であったが、清朝も悩まされた土匪の抵抗、誰の支配も認 めない原住民の存在、阿片の風習、マラリアやコレラなどの伝染病、等の原因により、極めて近代化の遅れた土地であり、樺山資紀(初代)、桂太郎(二代)乃 木希典(三代)の総督時代(約三年間)は土匪(抗日ゲリラ)討伐に明け暮れた時代であった。

 そのような台湾の日本による開発が大いに進むのは第四代総督児玉源太郎が内務省衛生技官であった後藤新平を民政長官として伴って赴任した明治31年(1898年)春以降のことである。

 日本国内や満州での政務や軍務に忙しくほとんど留守であった児玉に代わり約9年間具体的行政を指揮した後 藤の辣腕により台湾の近代化は大いに進むことになる。しかしこのプラス面のみならず、後藤の始めた「警察政治」により後藤の就任から当初の5年間だけでも 処刑された土匪は当時の台湾人口の1%を超える三万二千人にも達したことは、歴史の一面として理解しておく必要があるだろう。

 ともかく、八田與一が台湾に赴任するのはその後藤時代が終了(1906年)した後のことであるが、後藤時 代に近代化が大いに進んだとはいえ、それは以前があまりにも遅れていたことでもあり、八田が精力を傾けることとなる土地開拓はまだまだ極めて遅れていた。 赴任後の八田の業績や夫妻の物語は伴さんの文章に譲る。

 毎年5月8日、八田與一夫妻の追悼式が台南県烏頭山にある八田夫妻の墓の前で現地の人々の手で行われると いうので一度訪れてみたいと思っていた。今年やっとその墓を訪問する機会を得たが、休みの関係で訪れたのは命日の日より三日早い去る5月5日であった。八 田の銅像と夫妻の墓は、烏頭山ダムを見下ろす小高い土地の一角にあった。

 八田與一の銅像と夫妻の墓の前に立ち、八田が先頭に立って作った広大で美しい烏頭山ダムを目の当たりにすると、あらためて八田の遺徳の素晴らしさと、その銅像と墓を50年以上守り続ける現地の人々の感謝を忘れぬ暖かい心に感動する。

 夫妻の墓は昭和21年(1946年)12月、嘉南大シュウ(土へんに川)農田水利協会により建てられた。 日本はこの前年戦争に敗れ、この年の四月には最終の引き揚げ船が出港している。すなわち夫妻のこの墓は、日本人が台湾を去り、日本統治時代の神社や記念碑 や銅像が次々に破壊されるなかで地元の人々の手で建設されたのである。しかも墓石は台湾にならいくらでもある大理石ではなく、日本人の風習通り御影石だ。 わざわざ高雄まで行き探してきたという。

 夫妻の墓の前に建つ八田與一の銅像が作られたのは烏頭山ダムの建設完了から一年後の昭和6年(1931 年)7月である。像は一般的によくあるような、正装し威厳に満ちた顔付きのものではなく、作業着で土手に腰を下ろし考え事をしている座象である。費用は八 田と共に働いた人々の寄付でまかなわれ、八田を慕う台湾人の工夫からも多くの寄付が寄せられた。

 銅像は最初昭和6年に建てられたが、戦争末期の昭和19年(1944年)、軍の命令で銅の供出が叫ばれる なかその姿を消し、誰もがその存在を諦めていた。ところが、戦後その銅像がたまたま嘉南農田水利協会により発見されたのである。しかし時代は日本色を一掃 し強権で台湾を支配化に置こうとした国民党白色テロの時代。そのような時に日本人の銅像を隠し持つことは命がけであった。そこで銅像は八田家族がかつて住 み当時空き家となっていた家のベランダに置かれたが、やがて嘉南の農民がこの家の前を通る時、人々は手を合わせて拝むようになった。

 この銅像が再び日の目を見たのは、蒋介石も既に亡くなり、台湾経済が豊かになり始め政治的にも民主化の芽 が芽生え始めた蒋経国時代の昭和56年(1981年)1月である。戦時下に持ち去られて以来37年ぶりに銅像は元の位置に復活した。台湾に残る唯一の日本 人の銅像である。

 烏頭山ダムを見下ろしながら建つその銅像と墓の前で、八田與一の命日から今日まで追悼式はただの一度も欠けることなく、誰からの命令や指示を受けることなく、地元の人々の手で続けられている。

 昭和54年(1979年)八田與一の長男晃夫氏が両親の墓参りのため訪れた時には、81歳になるという老 人が老妻に手を引かれ杖をついてわざわざ会いに来て「私は電気技師として烏頭山で仕事をしました。今でも八田所長の下で仕事をした事を生涯の誇りとしてい ます。一言、私の気持ちを息子さんにお伝えしたかった」と語ったという。

 私は五日に訪れたが、その前日の四日には石川県から八田與一に縁のある人や地域関係者が約100人訪れ、 現地の人々と共に追悼式を行ったとのことであった。そのため銅像や墓の周りは菊、百合、カーネーション、ガーベラ、グラジオラスなどをあしらった両国関係 者からの花輪が18個きれいに並べられており、銅像や墓は菊の花で包まれていた。嘉南農田水利協会が建設中の八田與一記念館は八割ほど出来上がり、間もな く完成する予定である。

 50年間の日本時代、その後55年間の国民党時代。そして今月20日には台湾で初めて国民党以外の政権が生まれようとしている。このたびの政権交代は台湾の歴史上極めて大きな意味を持つ変化の節目である。

 そのような台湾にあって、いかに政権が変わろうとも、事業完成後70年を経ても地元の人々から感謝を捧げ られ、死後約60年を経ても人々から神のように慕われる八田與一。我々は日本にそのような先人を持つことを誇りに思うと同時に、社会がますますグローバル 化する現代、他民族や他国との付き合い方を八田から学ぶべきであろう。


 参考文献 「台湾を愛した日本人」(古川勝三著 青葉書房)

 岩間さんにメールはkoyoyj@mail.nbptt.zj.cn


2000年05月08日(月)萬晩報通信員 園田 義明


 ♪ 「ジュビリー2000」のネットワーク

 7月21日から開催される沖縄サミット(主要国首脳会議)にNGO(非政府組織)が結集し、昨年12月の米シアトルでの世界貿易機関(WTO)の再現が行われそうだ。

 主導的なNGOは、英国に本部を置く「ジュビリー2000」。世界的ロックバンド「U2」のボノを中心 に、ダライラマ、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世、米ハーバード大国際開発研究所長のジェフリー・サックス教授、デビッド・ボウイ、マドンナ、坂本龍一など の著名人がインターネットで協力を呼び掛けている。

 目的は、2000年中に重債務貧困国40カ国が抱える約2700億ドルの債務を帳消しにすることである。

 1999年6月のドイツでのケルン・サミットでは、議長声明で重債務貧困国に対するODA債権の全額放棄、非ODA債権の90%以上削減の方針が打ち出された。しかし、実行されたのは5ヶ国に対する債務の一部免除にすぎない。

 「ジュビリー」とは、旧約聖書にしるされた50年に一度の「ヨベルの年」の英訳である。言い伝えによる と、失った畑は返され、奴隷も解放され、「免罪の年」とも言われる。 さらに2000年は、新たな千年紀「ミレニアム」の始まりと重なることから、沖縄サミットにかける意気込みは並み大抵のものではない。

 「ジュビリー2000」は、大規模な、しかし平和的な「人間の鎖」つくる名人らしい。1998年5月のバーミンガムでは7万人、1999年6月のロンドン、さらにはケルンのG8サミットではそれぞれ4万人を集めた。

 ♪ わかっていない議長国

 迎える日本に不安がよぎる。とにかくNGOの扱いにまったく慣れていない。無宗教が多数派の日本人には、 容易に理解し難いものの、もはや「キリスト教の世界の話」では片付けられない重みを持ってきている。今年3月30日に「ジュビリージャパン」が小渕前首相 と面会したが、チンプンカンプンな受け答えで「こんな人が首相であるということが、情けない」といわれる始末。

 日本が重債務貧困国40カ国に貸し付け中の債務総額は政府開発援助(ODA)と非ODAの合計で1兆1000億円強。最大の援助国、日本はいわば世界版"徳政令"運動の標的になっている。

 唯一救いは、昨今の「債務免除」の実績ぐらいのものだろう。

 時代錯誤から衝突などが起こらぬことを祈るばかりである。

 最後に知恵を授けよう。与党が打ち上げた公的資金による株価維持策に投入する金額って、確か1兆円規模でしたよねえ。結構この株価維持策、評判悪いようですね。

 皆様の御意見お聞かせ下さい。


 Jubilee 2000> http://www.jubilee2000uk.org/main.html
 JUBILEE 2000 JAPAN> http://www.ecolink.sf21npo.gr.jp/jubilee/
 ジュビリー2000福岡 >http://www.windfarm.co.jp/members/jubilee/
 坂本龍一さんのホームページにジュビリーのロゴが! >http://www.sitesakamoto.com/

 沖縄ITサミットの死角――NGO、ネットで政府動かす(風見鶏)

2000/05/01 日本経済新聞 朝刊 P.2 1540字

 〇...「この貴重なタイミングには、世界の期待にこたえるビッグなアイデアが必要
だろう。日本の皆さんに、それにふさわしい、とっておきのニュースをお知らせした
い。それはジュビリー2000と名づけられた、最も貧しい国が最も豊かな国に負っ
ている返済不可能な借金を一度すべて帳消しにしよう、というキャンペーンである」
 世界的ヒット曲を出し続けているロックバンド「U2」のリードボーカル、ボノが
七月二十一―二十三日の主要国首脳会議(沖縄サミット)に向けて発したメッセージ
だ。アイルランド出身で今年四十歳のボノ(本名、ポール・ヒューソン)は音楽活動
の一方、英国に本部を置く非政府組織(NGO)「ジュビリー2000」の代弁者を
務める。
 ジュビリーとは旧約聖書に由来する「聖年」。古代イスラエルでは五十年ごとに巡っ
てくるこの年に、すべての借金が棒引きになったという。約七十カ国に組織を持つジュ
ビリー2000は、二〇〇〇年中に重債務貧困国四十カ国が抱える約二千七百億ドル
の債務を帳消しするよう日本や欧米などに呼び掛けている。
 〇...デビッド・ボウイ、マドンナら欧米のスーパースターも賛同しているこの債務
帳消し運動の特徴は何か。それはインターネットを駆使するなど情報技術(IT)革
命と軌を一にしていることだ。
 ミュージシャンの坂本龍一はネットを通じ、日本語と英語でこう訴えている。「日
本の指導者にとって、七月の沖縄サミットはとても大切な会合のはずです。ぜひとも、
累積債務を全面帳消しにし、最貧国の人びとを救うために、サミットにおいて真剣な
話し合いをしてほしいと願います」
 日本が重債務貧困国四十カ国に貸し付け中の債務総額は政府開発援助(ODA)と
非ODAの合計で一兆一千億円強。最大の援助国、日本はいわば世界版"徳政令"運
動の標的になっているのだ。
 〇...ジュビリー2000の運動はカトリック教会などが中心で、先進国で唯一の
「非キリスト教国」日本の姿勢が問われやすい側面もある。同時に、重債務貧困国の
約八割はアフリカ諸国だけに「旧宗主国の欧州各国は日本に救済させ、自分たちの対
アフリカ・ビジネスを維持したいという利害も絡んでいる」とのうがった見方さえあ
る。
 だが、ジュビリー2000がサミット参加各国に大きな影響を与えてきたことも事
実だ。一九九八年五月、英国で開かれたバーミンガム・サミットでは、発祥地という
こともあって約七万人が「人間の鎖」で会場を包囲した。
 九九年六月のドイツでのケルン・サミットでも約五万人が「人間の鎖」で会場を囲
んだ。同サミットでは、議長声明で重債務貧困国に対するODA債権の全額放棄、非
ODA債権の九〇%以上削減の方針が打ち出された。
 〇...国際的に活動するNGOの数は現在、数万ともいわれ、その力はもはや軽視で
きない。昨年十二月の米シアトルでの世界貿易機関(WTO)の閣僚会議の際、労働
団体や環境団体などNGOが大規模な抗議デモを展開して混乱し、交渉が決裂したこ
とは記憶に新しい。デモ隊は現場で携帯情報端末を使って連絡を取り合っていたとい
う。
 「NGOのネットワークが世界中に張り巡らされ、これが政府や国際機関を突き動
かす新しい構図が生まれつつある」。民間国際交流団体「ピースボート」の設立者で
NGOに詳しい社民党の辻元清美衆院議員はこう指摘する。
 沖縄サミットに向けては、ジュビリー2000日本実行委員会が七月十九、二十の
両日、那覇市内で国際会議を開く計画で、「ボノが沖縄に来るかもしれないという情
報もある」(井上礼子事務局長)。同サミットの主要議題はIT革命だが、皮肉にも
議長国・日本は世界中とネットで連携しているNGO対策にも神経をとがらさざるを
得ない。 (編集委員 泉宣道)

 園田さんは東京在住のサラリーマン。国際戦略コラムでもコラムを執筆中
 園田さんにメールは yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp

2000年05月05日(金)萬晩報通信員 園田義明


 ★会社分割制度の概要

2000年3月10日に、会社分割を盛り込んだ「商法等の一部改正案」が国会に提出された。4月21日より 国会で本格的な審議に入っており、今国会で成立する見通しである。会社分割制度は、企業の事業部門を切り離して新会社を設立する「新設分割」と、分割した 事業部門と既存の別会社を合併させる「吸収分割」の二つのタイプが規定されている。

第一勧業、富士、日本興業の三行統合による「みずほファイナンシャルグループ」は、導入を見込んで今年10月の持株会社設立後の事業部門分割統合を発表しており法的基盤が実質遅れて整うかたちとなった。

会社分割制度の創設は経済界にとって、合併手続きの簡素化や株式交換制度導入に続く企業再編法制3点セット の「総仕上げ」ともいえる法整備となる。政府は早ければ今秋からの施行を予定しており、分離独立や不採算部門の切り離しがこれまで以上に簡素化されること から日本でのM&A&Dによる企業再編成が今後一気に加速するはずだ。

またこの会社分割制度は、一部にリストラ関連制度とも呼ばれることから、一般にとっても身近な問題として話題を集めそうだ。

 ★リストラクチャリングの誤った認識

M&A&Dとは合併(マージャー=merger)、買収(アクイジション=acquisition)、事業 分割(ダイベスティチャー=divestiture)の頭文字を組み合わせたもので、一般的にはM&Aと呼ばれている。今回の会社分割制度はまさしくこの 事業分割=Dを法的に規定したものだ。

そして失われた10年を象徴するリストラ(=リストラクチャリング)と事業分割=Dは切ってもきれない関係にある。

本来リストラクチャリングとは再構築、再編、編成がえを意味しオペレーショナル・リストラクチャリング(事 業再構築)とファイナンシャル・リストラクチャリング(財務再構築)に大別される。ファイナンシャル・リストラクチャリングは企業や金融機関が、自社株の 買い戻しや債券償還、スワップ、資産売却を通じて財務構成や収益率改善をはかるものである。

一方オペレーショナル・リストラクチャリングは企業や金融機関が事業部門別、製品種類別構成をグランド・ス トラテジーに対応して再編成することである。そしてその重要な手段がM&A&Dである。どうも日本国内では経営者も含めてリストラといえば人員削減の意味 と思い込んでいるようであるが誤った認識である。

オリックス・イチロー選手の「かわらなきゃ も かわらなきゃ」が最後に選んだ方法がM&A&Dである。その日産自動車の事例を取り上げたい。

 ★どう変わったか日産自動車

一般的にM&Aにおいては結果として期待どうりの成果が得られない場合に部分的なものも含め転売(=事業分割=D)したり、負債返済のために一部を売却(=事業分割=D)する。従って常にM&Aと事業分割=Dは堅く結びついているのである。

仏ルノー傘下の日産自動車は昨年10月に策定した「日産リバイバル・プラン」で、ノン・コア事業の分離による資源の活用を方策のひとつとして掲げており、本業である自動車事業への経営資源の集中を目的とした分割を実施している。

* 富士重株の売却益70億円(2000.4.13)
* 宇宙航空事業を石川島播磨重工に営業譲渡(2000.4.10)
* 携帯・自動車電話事業会社の株式を譲渡(1999.8.2)
* 焼結部門を日立粉末冶金へ譲渡(1999.7.29)
* NACCO、NMHG産業機械事業の譲渡について(1999.5.17)
この中で航空宇宙・防衛部門の石川島播磨重工への売却額は400億円強と予測され同部門の約860人の従業 員も引継ぐ見通しである。この営業譲受は、両社航空宇宙および防衛事業内容において、重複する部門が無く、極めて「効率的な補完関係」にあることから両社 のメリットが一致した。

こうした分割に対してカルロス・ゴーン当時最高執行責任者(COO)は4月18日のニューヨーク市内での講 演で、日産自動車が進めているリバイバルプランに基づき、現在所有している1394社の株式の売却を進め、3年後には最大で4社に減らす考えを明らかにし た。また同時に次の注目すべき発言をしている。

「富士重工業の株式をゼネラル・モーターズ(GM)に、日産の宇宙・防衛部門を石川島播磨重工業に売却したが、ベストの価格で売ることができた」と述べた上で「1394社のうち、300社について現在売却交渉を行っている」ことも明らかにした。

古くは1989年にソニーが米映画会社コロンビア・ピクチャーズ・エンターテイメントを買収したが、この買 収は当時コロンビアの株式の49%を保有していたコカ・コーラが業績の低迷と多発するトラブルから映画事業への興味を失い、ソニーに対して売却する交渉を 始めたことがきっかけである。異業種の組み合わせがシナジー効果をもたらし成功につながるのである。

日産とルノーは、昨年3月27日に提携合意に至った時点で、国際的に高い見識を備えた委員によって構成され るアライアンスのためのインターナショナル・アドバイザリー・ボードの設置を決定しており、2000年3月30日にその概要を発表した。このボードのミッ ションは、日産とルノーのアライアンスに関するグローバル戦略の指針となるべき考え方や視点、意見、知見を供することであり、塙義一 日産自動車(株)会 長兼社長兼CEOおよびルイ・シュヴァイツァー・ルノー会長兼CEOが共同議長を務める。10人の委員にポール・アレア・ゼロックス会長(米国)、フラン ク・N・ニューマン・バンカーズ・トラスト名誉会長(米国、ドイツ銀行傘下)、橋本徹(株)富士銀行会長などと並んでソニーの社外取締役を務める中谷巌/ 多摩大学教授が選任されたことに注目すべきであろう。

 ★日本における単純すぎるM&A議論

日本ではM&A=非友好的なものと解釈し特に海外企業が対象になった場合感情的な議論に陥ることが多い。「乗っ取り」や「買い占め」のイメージが先行しているからであろうが、M&Aの母国アメリカでも敵対的買収はさほど多くなく、友好的なM&Aが大半を占めている。

見落としている方が多いので1985年1月19日に発表されたアメリカ経済白(正式名;経済諮問委員会年次 報告「THE ANNUAL REPORT OF THE COUNCIL OF ECONOMIC ADVISERS」)を振り返りたい。 当時アメリカ国内でもM&Aの功罪について議論されており以下がその要約である。

「アメリカ経済の成否の鍵は、熾烈な経済競争の手の中にある。競争に打ち勝つために、経営者は、日進月歩で 進歩する技術、たえず変化する需要、不安定な資本市場に対応することを迫られる。競争のため、手にいれた地位はつねに脅かされ、経営者は現状に安住するこ とを許されず、つねに組織改革を行い、新しい資金調達手段を考案していかなければならない。要するに、競争の結果、効率的な生産形態が発展し、寿命のつき た製造方法や組織が消滅することにより、経済は成長していくのである。」とし「企業買収にたいする連邦規制を強化することは、時期尚早かつ不必要であり、 また、賢明ともいえない。」と結論付けている。

 ★再編の裏側

東京三菱銀行と三菱信託銀行の統合により金融再編の第一幕は収束した。今後収益性向上を狙った国内外証券、生損保などとの垣根を超えた第二幕が始まることとなるだろう。 この再編の裏側に各企業グループが公表した驚くべき数字がある。

 みずほグループ        6,000         
 三井住友銀行         6,300
 三和・東海・あさひグループ  4,504
 三菱グループ        現時点未公開
三菱グループを除くと合計16,804となる数字の単位は『人』である。それは各グループが公表した人員削減数である。

日産自動車も「日産リバイバル・プラン」にて、連結ベースで21,000人の人員削減を発表しており、すでに日本経済は待ったなしの状況に追い込まれているのである。

 ★歴史的転換期を迎える日本的伝統経営

日本銀行のまとめによると1999年の外国企業による対日直接投資は前年比3.4倍の1兆4千億円となり、 過去最高を更新した。仏ルノーによる日産自動車への資本参加に代表される国際的なM&A&Dが活発化している点が注目される。今年に入っても独米ダイム ラー・クライスラーと三菱自動車などの大形案件が発表されており、その勢いは止まりそうにない。金融再編による系列解体によりますます拍車がかかるものと 思われる。

現在まさに金融や自動車に象徴されるマーケットの成熟化や消費者ニーズの多様化、国際化、そしてIT分野を含めた情報通信革命によりますますスピードアップする産業構造変化に対応するにはM&A&Dは避けては通れない効果的な手段である。

確かに「寿命のつきた製造方法や組織」を分割する際に多くの場合人員削減につながるが、場合によってはソニー・コロンビアのように新たな組織のもとで再生・存続させることも可能となる。

本来ここに経営陣の能力が試されるべきである。

この失われた10年を謙虚にみつめれば、日本の政治経済システム自体の問題に起因していることがわかる。 『政治家や経営者が創造的破壊や組織改革や新たな資金調達手段などを無視して、どうすれば安住できるかしか考えなかったこと』が原因である。そしてまたも やその責任を曖昧にする日本的伝統思想も見隠れしている。

M&A&Dを大小問わずいかに日本的にアレンジしながら企業戦略に活用できるかがこれからのテーマとなろう。ベンチャー育成と同時に、事業分割を重視した高度な金融技術を有したM&A&D斡旋再生機関の出現も現在の日本にとって必要不可欠である。

ただしリストラに揺れる不健全な組織にしがみつくより、「自ら飛び出して見事に再生させて見返してやる」ぐらいの気概がこれからの日本を変えていくに違いない。


参考・引用

■ 日本経済新聞/毎日新聞/朝日新聞
■ 各企業ホームページ
 ・「M&A-20世紀の錬金術」 松井和夫 講談社現代新書
 ・1999年11月1日毎日新聞社 週刊エコノミスト臨時増刊「会計革命Ⅱ」


 園田さんは東京在住のサラリーマン。国際戦略コラムでもコラムを執筆中
 園田さんにメールは yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp

2000年05月03日(水)萬晩報主宰 伴 武澄


 きょうは憲法記念日。明治生まれのこんな役人がいたという話をしたい。祖父の話である。

 第二次大戦前のある年、岡山県津山市で大きな水害があった。津山税務署長だった祖父・伴乙衛は大胆にも被災地の農家に対して税金を減免した。農民から歓迎されたが、驚いたのは上級監督局だった。

 当時の税制では農地への地租が主たる財源だった。農家の収入に課税するのではなく農地の広さ(地価)によって納税額が決まったから、不作のときや災害時の農村は困窮した。

 そんな農村の困窮を予想したとはいえ、伴乙衛の取った措置は法律に反する行為だった。上級監督局はそれを「独断専行」と問題にした。伴署長の処分は大蔵省にまで上がった。

 ところが時の石渡主税局長(後の大蔵大臣)は「実情踏まえた適切な処置だった」と伴署長の取った行為を是認し、「むしろ法の不備を正すべきだ」として緊急勅令発動に動いた。クビを覚悟でやったことが誉められたのだから、驚いたのは伴乙衛本人だったに違いない。

 戦前は勅令という便利な法整備の手法があり、おかげでお咎めはなくなった。

 伴乙衛は民業を大切にする信念の人だった。開戦の前年の昭和15年、高知税務署長を最後に円満定年を迎え、高知商工会議所理事長に転じた。津山での税の減免はいまでも関係者の間で語り継がれる。

 ●50年続く最高裁の職責放棄状態

 国会の議論を聞いていてよく登場するのが「法制局長官」という人物である。法制局長官が「ノー」と言えば、憲法違反になったり法律違反になったりする。政府としての憲法や法律の見解を述べる「機関」となっていて、おかしなことに法制局長官はいまや「神の声」でさえある。

 だが法制局というのは、政府が新しく法律をつくるにあたって憲法や過去の判例から逸脱していないかをチェックするのが本来の仕事で、出来上がった法律が違憲であるかどうかを決めるのは最高裁の役割である。

 違憲訴訟でよくあるのが、選挙における「1票の重さ」である。だが過去の判決からみれば、東京と島根県の 「1票の重み」があまりにもかけ離れているのは「違憲だ」とされるが、選挙そのものが無効になったためしはない。最高裁は行政に対して再選挙を命じる権限 があるにもかかわらずこれを行使してこなかった。これは職務怠慢である。

 また自衛隊の違憲訴訟に関して最高裁はほとんどの場合、「高度政治的判断」を理由に「憲法判断」を避けて きた。とまれ、最高裁こそが憲法に対して政治を超えた判断を下せる唯一の存在であるはずだ。自衛隊というだれが読んでも憲法違反の組織が50年近くも生き 延びてきたのは最高裁が本来の職責を放棄してきたからにほかならない。

 そういう重要な判断を示す機関だからこそ、最高裁長官には公務員として首相を上回る最高の給与が支払われているのではないか。

 三権分立の原理は、憲法を最高規範として立法府と最高裁と行政が独立していることであるが、立法府が法律 をつくり、行政がそれを執行するという役割については理解されているが、最高裁による立法府や行政へのチェック機能についてはほとんど理解が進んでいない といわざるを得ない。

 ●法廷で違憲を立証すればいい

 さて本論である。果たして国民は法律は破ってはいけないのだろうか。憲法に違反したことを行政はやってはいけないのだろうか。答は「否」である。法律も憲法もどんどん破っていい。もちろん、法律が時代に合わなくなったと気付いたときに限ってである。

 法律を犯して、法廷で法律が憲法違反であることを立証すればいいのである。最高裁がその法律を違憲と認めれば、政府として法律を改正する必要が生まれる。問題はそんな判例が戦後、ほとんどなかっただけのことである。

 1952年、東京のレストラン主が従業員の給与から源泉徴収をしなかったことから所得税法違反に問われた 事件で、レストラン主は「企業経営者が強制される源泉徴収の経済的負担や苦役が憲法の財産権の侵害や法の下の平等などに抵触する」と違憲を主張した。レス トラン主は10年後の最高裁判決で有罪となった。その後一部で源泉徴収の違法性を問う問題提起が続けられたが所詮、独り相撲だった。

 サラリーマンの源泉徴収の違憲性を今日、最高裁に問うたらひょっとして違憲の判断が出るかもしれない。こ こらを続けてこなかった有識者や有権者の怠慢でもあるのかもしれない。古代ギリシャの哲人は「悪法といえども法は法である」と言ったが、今の時代はそんな に固苦しく考えなくともいい。法律は臨機応変変えていけばいい。

 ●首相が法を破れば救えた数千の命

 「村山首相はなぜもっと早く自衛隊を出動させなかったのか」-5000人の命を失った阪神大震災のとき、 国民のすべてがそう思ったに違いない。当時の村山首相は自衛隊の出動が遅れたことに対して「震災救助でも知事の要請がないかぎり、自衛隊は出動できない」 と法律の不備をついた。

 そのとき、われわれはその法律の壁に無力感を感じ「仕方なかった」という気分にさせられなかっただろうか。

 筆者は凡庸な政治家を首相に持ってしまった不幸を嘆きたかった。そして不遜にも「自分が内閣総理大臣だったら、最高司令官としてただちに自衛隊に出動を命じ、事後自ら法律に違反した責任を取って辞職するだろう」と考えた。

 憲法や法律はその時々の国家と国民との関係や、市民の権利や義務を定めたものでしかない。だから時代に即 応して改正されるべきものだと思っている。法律がそうした権利や義務を阻むものだったら、その法律が間違っているのである。まして何千人もの人命救助が法 律を楯に遅れるようなことがあっては何のための法律か分からない。

 法律にのっとり事務をこなすのは行政官(官僚)である。しかし、ときとして法律や憲法を乗り越えた判断を求められることがあるからこそ政治家という職業があるのだと思っている。

 あの時、村山首相が自衛隊を出動させたとして誰が法律違反を問うただろうか。仮にそうした議論が起きれば、自ら法の裁きを受ければいい。国難を救おうとする首相を罪に問える裁判官がいるはずもない。


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