2000年4月アーカイブ

2000年04月28日(金)雨漏り実験室の「チャ」


 新聞などでは、太陽光発電は発電単価が高く当分普及しそうにないという論調が多い。

 確かに、去年の年初ぐらいまでは太陽光発電関連の業界内でもそのような雰囲気があったようだが、この1年 ほどでその状況は急変した。日本の太陽電池の1999年の生産量は約8.5万kW(世界の42%)で前年比72%増、99年度の生産額(見込み額)は 573億円で前年比の56%%増と急激に市場が成長している。

 ブームと言われるデジタルカメラよりも成長の割合は大きい。生産額の573億円というのは太陽電池の部品としての額で、太陽光発電システム全体としてはその1.5倍以上の規模があり、ほぼ1000億円産業である。

 [99年の生産量] http://www.kc-solar.co.jp/frames/menu8.html
 [99年度の生産額] http://www.oitda.or.jp/sales99-j.html

 この産業の急成長を支えているのは住宅の屋根を使って発電する住宅用太陽光発電の増加である。政府の行っ ている導入補助には99年度は前年度の倍以上の約18,000件の申し込みがあったという。太陽光発電システムを導入するのは新築時が多く、すでに新築住 宅の100件に1件は太陽光発電付の家を建てていることになる。各太陽電池メーカーは5年後に新築の2割は太陽光発電付きの家を建てると予想し工場建設な どへの投資を活発化させる経営方針を打ち出している。

 三洋電機 http://www.sanyo.co.jp/koho/hypertext4/0003news-j/0331-1.html
 シャープ http://www.sharp.co.jp/sc/gaiyou/kaiken/kaiken2.html#3
 鐘淵化学 http://www.kaneka.co.jp/news/n991029.html
 (他メーカーも新聞などで投資計画を発表)

 マスコミは太陽光発電にそれほど注目しているわけではないのに、なぜこれほど太陽光発電の市場、特に住宅用太陽光発電が急成長しているのだろうか?

 住宅用太陽光発電システムの平均価格は前年に比べて1割ぐらい下がっただけであり、政府の太陽光発電に対する補助額も前年とそれほど違いはない。住宅取得減税で住宅建設が増えたことも少しは影響があるだろうが、その増加も1割ぐらいでそれほど大きな要因ではない。

 増加した最も大きな理由は、屋根材と一体型の太陽電池が認可され販売が開始されたためである。これによって、以下のようなメリットが生まれた。

 1.景観が今までに比べて良くなった
 2.導入者にとって経済的に利益になる場合が出てきた

 つまり、自然エネルギーにそれほど思い入れの無い普通の家庭も家を建てるついでに導入する場合が出てきたために導入件数が増えたのである。

 景観のほうは、なんとか普通の人の許容範囲になってきたというところで今後まだまだ改良の余地はあると思うが、経済性は屋根材と一体化することで以前に比べて格段に改善された。

 新エネルギー財団が公表している付属機器や工事費などを加えた太陽光発電システムの価格は、去年の12月~1月の申し込みで平均93.6万円/kWである。価格は年10万円ぐらいのペースで下がっているのでこれから導入する場合は90万円/kW以下が相場であろう。

 [価格の公表] http://www.nef.or.jp/moniter/moni11.htm

 日本の新築住宅の屋根の広さの平均は約100平方メートル。高効率の結晶タイプ(効率16%)の太陽電池なら一般的な切妻屋根(本を開いて伏せたような形)の片側(南側)全面に6kW以上の容量をつけることができる。

 屋根が東西に向いている場合は、日射量はわずかに(約13%)減るがどちらの側にも付けることができ、薄 膜(アモルファス)太陽電池(効率8%)を両面に付ければ同じ6kW以上設置できる。6kWで90万円/kWなら、540万円。99年度の政府補助は約 200万円なので、導入者の負担は340万円。

 メーカーによると太陽電池は20年経過しても定格の9割以上の性能ということなので、耐久性という点では 普通の(10年ぐらいで塗りなおしをしなければならい)屋根材よりは優れていて、高級な屋根材と同等である。高級な屋根材の工事費を加えた価格は200万 円程度であろう。

 仮にこの分を190万円として340万円からこの額を引くと実質的負担増は150万円(薄膜太陽電池を両面に付けた場合)。屋根が100平方メートル程度の二階建住宅は通常1500万円はするであろうから、家の建築費に占める割合は1割程度以下。

 結晶タイプの太陽電池の場合は、屋根の半分は従来の屋根材も用いなければならないので少し負担が増える。しかし、将来屋根を葺き替え太陽電池を下取りに出す場合、結晶タイプのほうが下取り価格は高いであろうから、全体としてどちらが得か断言はできない。

 6kWの太陽光発電システムは年約6,000kW時を発電する。一般家庭の昼の電力料金は25円/kW時 程度であり、6,000kW時は15万円に相当する。家庭内で使わない場合は電力会社に売電して現金が得られるので、導入者はほぼ確実に年間約15万円の 利益があることになる。10年では150万円の利益となり、導入時の負担分の利益が出ることになる。

 ローンの金利や維持費用は若干必要かもしれないがそれでも10年を少し超える程度で元を取ることができ る。電力自由化によって電気料金が安くなる可能性もあるが、今のところ安くなるのは大口契約や夜間の料金で、今後家庭にも季節別・時間帯別料金(東京電力 ではこの夏から開始予定のようである)などが導入されるとかえって昼(特に夏の昼)の電気料金は上がると思われる。とすると、この低金利時代に投資対象と しても魅力的だろう。

 これだけの経済的な利益があるのなら、景観がもう少し向上すればメーカーの予想のように今後新築住宅の2-3割に太陽光発電システムを付けるようになるだろう。その場合の市場規模は国内だけで1兆円以上。外国にも輸出するようになるだろうからかなりの巨大産業になる。

 太陽光発電システムの産業は補助金(住宅用の政府補助予算は99年度160億円, 今年度145億円)がなくなれば産業として成り立たないのではないかという人もいるが、私はそうは思わない。補助金は、現在は急激な市場の立ち上がりのた め工場の新規建設(各メーカー100億円単位)など初期投資にすべて使われている。市場が成熟すれば必要のないものであり、工場を新規に建設する必要が無 くなれば価格は現在の補助金の額ぐらいは下がるだろう。

 ここまでくれば、補助がなくともいずれは産業が立ち上がると思われる。しかし、近い将来1兆円をはるかに超える規模の基幹産業になる可能性があれば政府が少しサポートを強化して産業の立ち上がるスピードを速めても構わないのではないだろうか。

 日本政府の住宅用太陽光発電の補助制度は、「太陽光発電補助事業私案」にも書いているように若干問題はあ るが、新しい産業を創出しつつあるという点では大成功を収めている政策である。新規産業の創出だけでなく、これをきっかけにしてエネルギー革命が起こる可 能性も大いにあり、世界的に見ても歴史に残る政策になるかもしれない。


 [私案]http://member.nifty.ne.jp/shomenif/solar9910.html
 雨漏り実験室の「チャ」へのご意見ご感想はHGE00465@nifty.comまで。

2000年04月26日(水) 南相木村医師 色平 哲郎


 21世紀半ばには、この国の住民の3人に1人が65歳以上になるといわれる。ところが、私の暮らす南相木(みなみあいき)村では、現在、すでにそのような年齢構成になっている。ある意味で、「未来」を先取りしているのだ。

 今のところ、あまり老人介護の問題が顕在化することなく済んでいる。それは、むらの持つ含み資産としての「助けあい」の習慣や「お互いさま」の精神が生きているからだろう。

 ●いまも残る道普請

 むらには、かつて「若衆寄合(わかしゅうよりあい)」という組(くみ)があった。後に青年団や消防団に統合されていくのだが、結婚前の若い男衆(おとこしゅう)によって自律的に構成されていた。

 彼らの若い力に頼らざるを得ないような案件は全てこの若衆寄合に付託され、決定され、実行された。たとえば、どこかの家で御不幸があった 場合、亡くなった方の墓穴を掘る作業は若衆寄合でとりしきられる。むらの自治を尊重しない者に対しては、寄合が作業を拒むこともあり得る。それこそ火事に なっても、消火作業にあたってもらえなくなる。高齢化したこの山のむらにも、若い力がみちあふれ躍動していた時代が確かにあったのだ。

 こうした若衆寄合のような「自治」の組織が衰えていったのは、大正の末年ときく。第一次世界大戦後の戦後恐慌に際し、大正7年に政府から の補助金が、はじめて直接むらに届けられるようになった。自前の組織と努力をもって、むらを治め、守り育てる必要性が次第に少なくなっていった。この傾向 は第二次世界大戦後も一貫してつづき、現在に至る。

 ただ、むらにあっては、共同体の重要慣行として「自治」のとりくみは依然として生きつづけた。補助金がやって来る以前のむらのありようを 知るお年寄りが御存命であり、むらを治めることは彼らにとって、自分たちで自前でとりくみ、自らの手を煩わせること以外にはなかったからである。

 お年寄り方は誇りをもって、往時を追想する。

「むらの子どもたちの為に、自前で学校を建てた」
「金持ちは金を出し、そうでない者は、もっこをかついで整地作業にあたったもんだ」

 今もむらでは「道普請(みちぶしん)!」と声がかかる。季節の変わり目には、集落総出でむらの道々や川筋を手分けして廻り、ゴミをひろって大自然に手を入れる。他人任せにしないで「公共」を担う自治のとりくみが、数百年の歴史を経た今も、むらでは生きつづけている。

 寝たきりの年寄りなどは、妻、嫁、娘らが看るのが「当然のこと」とされ、モンダ主義とよばれる。

 「若者は・・・するモンダ」「女は・・・するモンダ」「年寄り隠居は・・・するモンダ」。むらに住み、むらで働く若者には「義務ではない、お役目?」として、消防団員になることが当然のように期待されている。

 長く消防署がなく、救急車のなかったこのあたりの地域では、消防団長こそむら最高の名誉職である。まさに「男のなかの男」であり、時に村長(ムラオサ)以上の声望であった。

 自分たちのふるさと、家々や里山を守って備える消防団。大水や山火事、子どもの川流れでは即時の出動になる。そろいの法被をつけての猛訓 練の様子、寒風の中の出初式(でぞめしき)のありさまに接して、直接には知らない、徴兵制のあった時代のこの国を追体験させていただいた。

 ●自助、互助、共助そして公助

 家庭内介護の一切の負担は、むらの女衆(おんなしゅう)に転嫁されていた。もし、世話をする女衆がいないときは、近隣や一族の家々で手助けを引き受けていく。それでも無理となったら、年寄りはいやいや都会の息子のマンションに引き取られて行く。

 根っこをしっかりお持ちになっている世代のお年寄りである。町に行くことには、自分の根をひっこ抜かれる苦痛をお感じである。私たち医療 関係者が「消える老人」と呼ぶ現象である。従来、施設ケアを指向することは、村内ではなかなか言い出すことのできない、憚りのある言説であった。

 私は、こうした共同体での慣行に、いわゆる「互助」「お互いさま」の精神を感じてならない。良いことばかりではなかったが、自前で取り組む以外にはなかった時代。後にアジア諸国から「おしん」の時代の日本、として知られるようになった時代からひきつづく慣行である。

 何か困った際の「助けあい」の理念は、大きく四つに分けることができるかもしれない。漢字で書けば、自助、互助、共助、それに公助であ る。ヨーロッパの「市民の社会」では、この四方向からの支援が、順番にしかもバランスよくそろっているものときく。先ずは自分の備え、次いで家族で、一族 で、そして地域の小さい組織(たとえば教会)で、との順番になろうか。

 狭い意味での「自助」とは、あくまで本人自身による努力である。自分で自分を救い上げるための、準備やてだてのことを指すのだろう。しか し、自分ひとりでは対処しきれない事態に立ち至ったからこそ「助け合い」が必要とされたのである。したがってここでは、広い意味での「自助」の登場が期待 されている。

 日本ではどうも、家族による家庭内の支えを含めて、広義の自助、ととらえていることが多いようだ。

「互助」とは、歴史的共同体のもつ上述のような「自治の力」であろう。隣近所や一族血族の団結によって、慣行として維持されてきた力であり「お互いさま」とのことばで象徴される、互酬(ごしゅう)感覚であった。

 自前で取り組む消防団活動、講とよばれる信仰の集い、村祭りを維持するいとなみ、そして雪かきや道普請など、各自の「時間」を都合しあってのとりくみなどになろうか。洋の東西を問わず、古来「支えあい」といえば、互助のイメージで語られてきた.

 「共助」というのは、各自の「お金」を出し合って、農業や漁業、林業等のむらの生業(なりわい)について、協同の組合組織を作ったりする こと。戦後にあっては、協同組合の力で低利の融資にとりくみ、村内の一部高利貸の横暴に対抗することもあったときく。また健康保険のような制度は、形のう えからいえば共助に入るだろう。歴史的には、比較的新しく出現した「支えあい」の形となろうか。

 そして、「公助」とは、各自治体のもつ公衆衛生や社会福祉のメニューである。誰もが受けることができる、しかし従来的には、おなさけの「恩恵」として、行政側から一方的に与えられるもの、とのイメージで受けとめられてきた支援方途であった。

 ●都市に欠ける共助の精神

 日本の都市部では、以上の四要素からなる「助けあい」図式上では、両端にあたる自助、公助ともにそろっている。しかし古来からの互助領域 については、もともと下町(の長屋)などではしっかりとしてあったはずの隣近所の付き合いが衰え、これに伴って、人と人とを繋ぐ関係性も衰えてしまってい るのではないか。

 近代的な共助領域についても、日本の都市ではいまだ未発達なのではないか。消費生活での生活協同組合の営みは画期的なものである。しかし 自発的市民のボランティア活動については仄聞する程度である。最近では、介護のための市民ボランティア組織NPOも出てきているが、まだまだ大きな力とは なり得ていない。

 農村部にくらす私であるから、なおさらそう思えるのだろうか。農村ではいまだ古来の「お互いさま」の人情味に支えられた手厚い互助が維持 されており、「お金を介さない」強固な人間関係の上に築き上げられて、豊かなものがある。共助も、戦後の協同組合法による各種組合や財産区入会(いりあ い)等の管理運営を通じて、確固とした基盤を築いている。

 しかし農村がいつまでも楽観的でいられる、というものでもないのだろう。確かにむらではいまのところ、現在の都市部で認められるような風 潮は一般的ではない。しかし一世代の後には、モンダ主義的「支えあい」としての、女衆の献身(的介護)には期待できなくなると、私は見ている。

 より正確には、近年の都市では自治のとりくみが衰えてきていて、「支えあい」(互助と共助)の部分でとりくむべき助けあいについては、自助「おかね」と公助「おかみ」の双方に押しつけて一応の解決をみることにする、との安易な方向に陥ってしまっているのではないか。

この典型例が、介護の分野であるように、私は思う。

 ●むらにあった「医者どろぼう」という言葉

 むらではかつて医療さえも、「自助」の枠内にあった。

 私の自宅のすぐ目の前に、江戸中期からの二百八十年の歴史を有する萱葺(かやぶき)の大きな農家がある。すばらしい構えの屋敷である。旧 道から急坂を登って土蔵、味噌倉を過ぎ、深井戸がある。内部はオクザシキ、オモテザシキ、コザシキ、ナカノマ、チャノマ、デードコとあって、周囲には廊下 を廻らしてある。囲炉裏端の主人の座からは、二頭の馬の顔が望め、中二階には蚕室がある。土間の高い所には、トキを告げるオンドリの住む小部屋もあった。

北向きの奥に、産室がある。産室には木の棒が渡してあり、そこに掴まって十世代からの女衆(おんなしゅう)は赤ん坊を産んできた。そんな時代のむらでは、産婆さんが取り上げきれずに母子ともに亡くなったことがずいぶんあったものだときく。

 集落のあちこちで、無医村時代の悲哀が語られる。昭和初年、32才の母親が6人目のお産の後、苦しみだした。産婆さんも手に負えないとい う。すぐに医者に診てもらわなければいけないのだが、むらには電話も車もなかった。駅のある町までいけば医者がいるが、急いでも2時間はかかる。むらの若 者に走っていってもらうことにした。

 しかし、お願いするには、なにかしなければいけない。そこで、どうしたか。若者に御飯をたらふく食べさせた。お金をあげる習慣はなかっ た。ご馳走(ちそう)してもらった若者は10キロほど下った町まで走って下っていった。しかし、なかなか戻ってこない。母親は苦しんでいる。やっと戻って きたのは7時間後、それも医者といっしょに車に乗って。このときむらびとは初めて自動車というものを見た。

 戻ってきた若者が言うには、最初に行った馴染(なじ)みの医者が不在だったため、川向こうの、ふだん付き合いのない医者を呼んできたとこ ことだった。馴染みの医者であればすぐに診療費を払う必要はなく、節季払いでよい。その医者は診察後「はい、40円になります」と言った。みんな、「往診 代25円」と「車代15円」との金額に圧倒された。

 手遅れだった。元気に生まれた男の子も、ヤギの乳を飲ませて育てたが、4カ月余りで死んだ。馬一頭が30円、郵便配達員の月給が16円の頃だ。昭和農村恐慌の渦中にあったむらはまゆ価が暴落し、収入源の養蚕も壊滅状態。母子を亡くした一家に借金だけが残った。

 現金で支払うべきものと、現金を必要としないものとが、当時のむらの生活にはあった。村内では、人と人の間にも、共同作業など「お金を介 さない」関係が成立する時代だった。医者を呼びにいってくれた若者に対するように。しかし、医者には、それは通用しなかった。現金化できるものは蚕と子馬 だけの時代。むらびとにとって医者を呼ぶことは、ぎりぎりのくらしの中で大きな負担だった。「医者どろぼう」ということばの生きていた、そんな時代だっ た。

 家族の病気やケガに関しても、すべてを自助と互助によって対処するより他にはなかった。自分たち百姓の健康を守ることなどに、貴重な現金 を費やすことはできないという、苦しい農村の実態があった。医療に自助努力を強いるとは、無理難題なのであったが、無医村の現実からは逃れようがなかっ た。

 これではいけない、ということで、医療に「支えあい」の概念を持ち込んだのが、無医村に組合診療所を建設する農民運動であった。やがて、 国民皆保険制度が導入され、むらに医師さえいれば、へき地であっても保険証一枚で医療にかかれるようになった。これが、むらにおける医療に関して、自助か ら近代的な「支えあい」(共助)実現への大きな流れである。

 ●割を食う小金持ち、中産階級

 では、介護の現場においてはどうであろうか。日本では、これまで介護といえば、家族で看ていくか、ケア付マンションなども含めて施設に入れてしまうか、医療保険をつかって入院させておくか、選択は三通りしかなかった。

 病気やケガが治るかあるいは症状が落ち着いても、家に引き取るのが大変だから、と病院に置いておく。この選択肢はいわゆる「社会的入院」 とよばれる方便だ。莫大な金額が費やされ、「福祉の医療化」とよばれる事態をひきおこした。4月から介護保険制度が導入されたのは、この点の「解決」策を 模索してのことだろう。

 従来の仕組みでは、大金持ちと低所得者はそれなりの介護が受けられたのである。大金持ちは資産にものをいわせて、低所得者層は公共の福祉 行政によって、それぞれに支援を得られる。つまり、自助と公助にあたるだろう。結局「支えあい」(互助、共助)の感覚が薄い社会で割りを食うことになるの は、国民のほとんどを占める小金持ち、中産階級である。

そして、今回、介護保険制度が導入された。

 介護保険とは、共助としての保険制度で、従来医療保険に転嫁されてきた負担に備えるというものだ。保険制度とはみなでお金を出し合って、不意の事態に備えようとする企てである。

 一部政治家は言う。「家族でご老人方の介護を担わなくなってしまったのは、まことに嘆かわしい風潮だ」。この言い方は、「だから介護保険 など意味がない!」という主張にまで発展してしまう。このような論調は、俗耳には入りやすい。しかし、私たち現場を知る者にとっては、まったくナンセンス な言い分である。

 それは、つらい現実が眼前にあるからである。昔なら、寝ついて数週間で亡くなっていたご老人が、今では医療技術の進歩もあってか、平均し て3年保つ。私のむらでは、18年間家で寝ついていた人がいた。平均3年とはいうが、渦中にいる介護の当事者(ほとんどが女性)にとってはエンドレスに思 える時間であろう。

 お年寄りが寝つく期間は、これからさらに長くなることが予測される。そうしたはてのない時間の中で「介護は自助で」「家庭内介護こそ親孝行」という議論は、到底無理な相談なのである。ここに、今回、介護保険制度が「共助」のとりくみとして導入された意義があるのだろう。

 ●期待したい互助の再発見

 今回導入された介護保険制度が最良の方策だとは、私はまったく考えていない。あくまで、古来から共同体の「自治と互助」の範囲で支えてきたことがらについても、現代の諸要請に応えて「共助」領域をはりだし、協同のいとなみとして支持していこう、との方便であろう。

 介護度の認定作業にも、ケアプランの作成過程にも、吹き出すであろうご不満への対応方途にも、今なお不分明な点が多い。ただ、この制度を 利用し、実態を知ることを通じ、地域社会に本来根ざしてあったはずの「互助の力」を見直し再発見することができる、そのきっかけたりうるのではないかと期 待している。

 介護の市場ができあがることで、いままで以上に多くの人々が介護の「実際」に関わる可能性が出現する。実体験が積み重ねられていくこと で、新たな「関係性」が生み出されてくることを期待したい。このときこそ、両親や自らのことへと立ち返り、共同体における新たな「支えあい」がどうあるべ きなのか、と自問することになろう。

 この問いをしっかり見据えながら、超高齢社会への対応戦略を、「未来」を先取りしたこの山のむらで考えつづけていきたい。

 ●最期の下(しも)のお世話

 患者さんの下の世話を医者が担うことは少ない。ふだんは看護婦さんまかせとなっている。しかしある特別の場面で、印象的な「大便(だいべ ん)様」との出会いがある。皆さんはご存知だろうか。それは亡くなった患者さんの御遺体の最後のケアする時である。最近では自宅で御老人を看取ることが少 なくなったせいだろうか、この大事なケアについて無頓着というか、御存じない家族に時々おめにかかる。

 度重なる往診に続いて、いよいよわたしたち医師があたまを下げたとき、どうしよう。つまり90歳代の御老人が、たとえば皆さんのおばあさんが、御自宅で息をひきとった際、皆さんならどう動かれるだろうか。

 しばらくの間をおいて、わたしは御老人の肛門に綿をつめ、女性であれば陰部にもつめ、鼻と口にも綿をつめて、下あごをきちんともちあげて 口を閉じるようにする。そしてからだをタオルで清めてから、両手を胸の上で組んで固定する。時には硬直がくるまでの間、紐で固定することもある。この一連 の「作法」を故人がよろこぶのかどうか、全く不明である。訊ねようもない。しかしある時、数時間家族まかせにして、ふとんが大便だらけになったことがある ので、わたしとしては、積極的にとりくまざるをえない。

 またわたしひとりでこの作業をすることは稀(まれ)で、ほとんどの場合その場にいあわせている、女衆(おんなしゅう)つまり動けそうな女 性方に声をかけて、いっしょにとりくむことが多い。何故女性に声をかけるのだろう。それは無難だからであるが、このうんちだらけになる作業がはじまるとき が、それぞれの家人と故人になった方との人間的なつながりのありようがよく分かる瞬間なのである。

 母親をしたう息子はすすんで身を乗り出して取り組むし、台所にかくれてしまう何人かもいるわけだ。故人と各人との長い長いつきあい、他人には容易に介入できない人生の総決算の時、とわたしは考えている。

 前後して、わたしは村の診療所にもどり「診断書」を書くことになる。大往生のときは、わたしなりの故人への思いで書き上げる。ひととなり を知る故人であればあるほど、書くのに手間どってしまう。逆にいえば、はじめて往診して看取ることになった方の場合など、思い入れなく書けるというもの だ。

 山の村では、出会いと同様、別れも個別のものである。


 色平さんにメールはDZR06160@nifty.ne.jp
2000年04月23日(日)萬晩報主宰 伴 武澄


 2000年04月10日付萬晩報の「世にも奇怪な森内閣誕生のプロセス」には数多くの方々からご意見をいただいた。倒れてからまだ1カ月が経たないのに世の中は完全に森新首相モードで動いている。この間、首相がお飾りで必要だったのは太平洋・島サミットだけだったと思う。この事件を忘却の彼方に置くにはまだ早すぎる。

 萬晩報の読者にだけはいつまでも「奇怪な政変」があったプロセスを覚えておいてほしい。


何時も楽しく拝読しております。今回の政権交代では分からない点がまだ
あります。 御指摘以外に、そもそも臨時首相代理は総辞職の権限を持っ
ているのでしょうか。憲法の70条の規定に基づくそうですが、総辞職の
権限そのものが、誰が持つかは書いて無い筈です。仮に法的に無効だから、
となればどうなるんでしょうか。(shigeki minami)

           ・―・―・―・―・―・

私の母も、去年の1月脳卒中で倒れ2月に亡くなりましたが、小渕さんと
状況は違うかもしれませんが話ができるような状態では有りませんでした。
視床下部という部位に出血があり意識は1時間ほど有ったのですが発語は
無理でした。

小渕さんは自分で気分が悪いと言ってライトバンで病院へ連れて行っても
らったらしいですが医師は何もしなかったのでしょうか。青木官房長官の
言うことが正しいのなら医師は刑事罰を受けなくては成らないのではない
でしょうか。国会での医師の喚問を希望します。(nagayishi)

           ・―・―・―・―・―・

4月10日の萬晩報、同感です。記事に加えて、テレビでの青木官房長官
の記者会見も妙でしたね。容態に関する質問には、まるで怒ったように答
えていました。突っ込まれてまずいことでもあったのでしょうか?

ただ、残念なのは、これがクーデターにしろそうでないにしろ、日本の基
本路線は変わらないだろうということです。株もほとんど動きませんでし
たし、アメリカのニューストークショーでも、政権移行が非常に滑らかな
点が話題になっていましたが、将来の日本の方向については議論がありま
せんでした。

いまだに日本の政治の人たちは、国の進む方向のためでなく、政権という
名誉のために争っていると思うと、これからの日本が心配です。(ヤスタ
ニカズヒト)

           ・―・―・―・―・―・

本当にそうだと思う。医療体制があまりにも不備真夜中であるのに番記者
が誰も気がつかないのはなぜか。<医師のにゅうてい  ライトバン> 
素人でも手の震え、激怒そしてあの沈黙ならなにかにそなえるべきだと思
う。(匿名)

           ・―・―・―・―・―・

はじめまして。いつも楽しみにしております。各界でご活躍の方々のご意
見、いつも「なるほど」と思ったり、「へー、そうなんだ。」と思ったり、
「え?そうかなぁ?」などと思ったりしております。今までに、涙した記
事もありました。伴 美喜子さんのマレーシアの記事です。「おじいさん
と広島-拙い日本語で語られたある日マ交流史」です。インターネットを
始めて間もない頃、メーリングサービスで萬晩報を取り始めた矢先のこと
でした。

この記事を始め、興味がある記事・興味のわかない記事等多々ありました
が、良心に訴えるような記事が多いことが、私の大好きな点です。最近の
新聞を読んでいても、またテレビの報道番組を見ても、全てを信じられる
のかどうか疑問を抱いているわたしにとっては、この萬晩報は、貴重な情
報源の一つとなっています。

今回の森内閣誕生についても、テレビ等ではもうすっかり、経歴や行動な
どを流して認めている口振りです。が、第一に、どうしても納得がいかな
いのは、脳梗塞で倒れて機械によって呼吸が保たれていて、面会謝絶な人
間がどうして、後継指名(というか、代理指名)が出来るのかということ
です。閣議も開かれず、密室で決まってしまった内閣を誰が応援できるで
しょう。

嘘によって成立した内閣は、解散総選挙までの繋ぎであるという以上の意
味はないのでしょうか。こんな子供だましの嘘が通用してしまう日本の政
界とはなんと愚かしく、子供の集まりのような国会とは、なんとくだらな
い所なのだろうかと思い、情けなく思いました。

きちんとした政治のビジョンを発揮するための政権争いなら、まだ納得で
きます。ですが、わたしには「お山の大将」になりたいがための大騒ぎと
しか、感じられません。もっと、ねじ曲げた真実ではない、まっすぐな真
実を伴さんのおっしゃるように主治医の方に会見していただきたいと思い
ます。

国民が納得出来る形で、密室ではなく内容をきちんと公開して、進めてい
ってほしいものです。これでは、世代が変わっても永田町のやり方は永久
に不滅です!と言っているようなものです。ジャイアンツじゃあないんで
すから。

素人のあさはかさながら、伴さんの記事を読み、私なりの意見を書かせて
頂きました。思いに任せての乱文、お許し下さい。今後とも、萬晩報を楽
しみにしております。心身とものご無事をお祈りいたしております。
(群馬県 神戸)

           ・―・―・―・―・―・


初めまして、伴様。興味深く記事を読ませていただきました。実は、私も
同じ考えをもっていて、小渕入院と報道されたとき、これは総選挙対策だ
と、インターネットに書きました。その後の急展開もすべて、選挙がらみ
でその準備で進められているように分析しています。

特に、幹事長に野中が就任したときに、それを確信しました。幹事長は、
党の金庫の鍵を握っていますから、公認候補への金のばらまきの権限を握
っています。以前の森では、党内の融和はできても、選挙戦略は立てられ
ません。

それにしても、マスコミの方は、順天堂の医師団に取材攻撃はできないの
でしょうか? 今回の事件の糸口をほぐすには、そこしかないように思え
ます。これからも記事を楽しみにしております。(宮崎県一読者)

           ・―・―・―・―・―・

あなたが、ブン屋なら明確に書いてほしい。青木は、主権者たる国民にう
そをついた。1000人程の権力(政府、官僚)者が、国民から付託され
た権限を私物化したのは明白です。政権が他の野党に移れば、前大統領の
刑事犯がされた朝鮮(南)の様になる。(早川)

           ・―・―・―・―・―・

萬晩報、いつも楽しみにしております。今回の総理大臣交代にやりきれな
いものを感じています。しかも、世論調査でそれをやむを得ないとする意
見が過半数だということを聞くと、ますますやりきれなくなります。
日本はどうしてこんなにでたらめな国なんでしょうか。そう思っていると
ころに萬晩報、わが意を得たりで、これからもご活躍を祈ります。(Paul KLEE)

           ・―・―・―・―・―・

まず順天堂病院は小渕前首相が入院していることを正式に発表すべきであ
る。大学病院であるなら公的機関であるからその義務はあるのではないか。
(近藤武)

           ・―・―・―・―・―・

今回の権力の継承に対しての追求は、極めて手ぬるいし、非常に危険な要
素から目をそらしていると思います。なぜ、誰も青木官房長官に正面切っ
て、「あなた(あなたたち)が、弑殺したのではないのか?」と詰問しな
いのでしょうか?
   
権力の継承がこんな形でよいなら、次はアクシデントではなく、本当の殺
害と簒奪が行われたとしても、止めようがないでしょう。(魚住耕司)

           ・―・―・―・―・―・

私も同感です。

小渕首相の入院のニュースが最初にあった時、「意識はしっかり・・・・」
という言葉が妙にひっかかりました。意識水準の程度は救急医療の現場で
まず最初に判断すべきことですが(特に脳外科領域では)、素人が意識は
・・・という言葉を真っ先に言うであろうかと感じました。心配した通り
経過はよくないようです。
   
緊急事態等に備え時間は必要であったかもしれません。しかし、「過労で
・・」「意識ははっきりしていた・・」「小渕首相に任命された」などこ
れが偽りであれば国民にうそをつくことに麻痺をしている政治の体質に大
きな問題があります。時間がどうしても必要であれば「検査中でまだ経過
はよくわからない」と言えばいいことです。
   
医師には守秘義務もありますが、倫理感も必要とされます。診断と治療に
関しては大きな責任をおっています。小渕氏は一国の首相であり、家族以
上に国民の意向に答えるべきと思います。国民に真実を語る義務が主治医
にはあると考えます。
   
この問題だけはうやむやにしないではっきりさせてほしいと思います。
(kuni)

           ・―・―・―・―・―・

仮にも一国の首相を勤めた方が重篤の状態にあるにもかかわらず、また既
に新首相が誕生し、新内閣が発足しているからと言って、主治医の記者会
見もないまま、今になってもその病状がほとんど闇の中にあるというのは
政治的な何らかの意図を感じてしまいます。
   
既に首相と言う立場から離れ、重篤な状態にあるためにご家族が記事にさ
れることを嫌っているのではないかとは思いますが、入院から現在に至る
まで、世間の人には小渕前首相の明確な状態は、「脳梗塞」という病名以
外は、ほとんど何もわかっていないのではないでしょうか?
   
私の家内も8年前に事故により脳挫傷から脳梗塞を患い、一命は取りとめ
たものの現在も障害が残っており苦労をしています。そのときの主治医の
話しのよると、脳梗塞を起してから1週間意識が回復しない場合は、その
まま植物状態になるか、仮に意識が回復しても重い障害が残る可能性が非
常に高いとのことでした。
   
小渕前首相の場合既に2週間以上経過しておりますので、ある意味状態は
安定してきてるはずですが、それでもなんの発表もないというのは、この
国の政治の不気味さを感じます。
   
ある週刊誌の外国人特派員によるコラムでは、小渕前首相は入院の翌日に
アメリカの一部のNewsPaperで「死亡」と発表されていると言っ
ています。日米の関係を考えると、日本の政治の状況を最も良く知ってい
るのが日本人よりもむしろ、米国の知識層ではないかと思っている私には、
ある種の信憑性を感じてしまいます。
   
また、ある別の週刊誌の記事では、野中幹事長が「沖縄サミットのときは
小渕前首相夫人に沖縄に遺影を持って行ってもらいたい」ということを言
ったとの報道もあります。
   
この記事では、小渕首相の亡くなった後のことまで考えているという締め
くくりを記者のかたはしておりましたが、記事の信憑性はともかく、はた
して重篤な状態にある同胞を前にして、そんなことが本当に平気で言える
としたら、人の生死さえも政治に利用する空恐ろしい人がこの国の舵取り
をしていると思うと、この国の将来に不安を感じてしまいます。
  
しかし、幾つかの数少ない記事や状況を考えると、不遜ですが本当はすで
に小渕前首相は脳死状態にあり、生命維持装置で生き長らえさせているだ
けで、選挙間近になって死亡を発表して、かつての大平元首相が亡くなっ
たときのように同情票をあつめて、選挙に有利にしようという猿知恵を働
かせているのではないかと勘ぐってしまいます。
   
もしも、万が一選挙前にそのような発表があるとしたら、本当にこの国の
政治はとても恐ろしい状況にあり、野中幹事長を筆頭とする自民党の首脳
部はかつての帝国陸軍参謀本部と同じことを繰返すのではないかという不
安がこみ上げてきます。
   
国民を犠牲にしてまでも、自らが所属する組織の存続を重視することが最
重要課題になっているのでしょうか?だとしたら本末転倒もいいところで
はないでしょうか?
   
そんなことがあれば、即刻今回の政治を左右した5人組には議員を退陣し
ていただくべきであると考えますし、貴社のようなメディアの方々がやは
りかつての戦時中のメディアによる報道とおなじ轍をふまないよう、くれ
ぐれも気をつけて見張っていただきたいと思います。(HiroshiKataoka)

2000年04月24日(月)マレーシア国民大学外国学部講師 Mikiko BAN


 ●あゝ、うるわしの日本

 私は今、マレーシアから一時帰国して郷里の高知にいる。居間の簾越しに名残の桜がひらひらと散ってゆき、新緑が萌え始めて春の息吹を感じさせる。突然踊り出てくる白いモンシロチョウにも心が動く、明るい日本の春だ。

 家のまわりの草取りを終えた母が、名も知らない白や黄色の草花を湯のみに差して、「はい、あなたにあげま す!」と差し出した。洗濯物をかかえ、下駄をつっかけて裏庭に出ると、一面蕗が茂り、「十二単」という名の紫色の花がドクダミの陰で可憐に咲いていた。何 とやさしい日本の春の風景なのだろう。

 「今年の春は、どうしても桜を見たい。あの潔く散る姿を見たい!」

 日本の春が近づくにつれ、マレーシアにあっても、そんな思いがつのって抑え難かった。その思いはどこかで半年前のあの悲しい出来事とつながっていた。私は弟の死というものをもう一度、桜と共に日本のやさしい自然の中で抱きしめたいと考えていたのかもしれない。

 4月6日に帰国した私は東京に一週間滞在し、九段界隈の落花の雪の美しさを見届けて、京都・奈良経由で、久しぶりに汽車を乗り継いで帰郷した。

 京都・賀茂川べりの桜は東京の桜に比べ、枝振りがのびやかで、レンギョウの黄や雪柳の白と和して、見事だった。いにしえの京の都に想いを馳せた。その後、奈良に向かい、神武天皇を祭った橿原神宮に寄り、飛鳥に辿り着いたのはもう夕暮れ近かった。

  聖徳太子創建の橘寺の正門はもう閉まっていたが、門前の桜の木を見上げると、弟がアフリカで天に上った日と同じような蒼天が広がり、半透明の上弦の月が掛っていた。

 松塚古墳や天武・持統天皇陵などをまわって、日没は石舞台古墳を見下ろす丘の上で眺めた。満開の  桜、ひんやりした静かな空気、鶯の鳴き声、空までが淡い桜色に染まり、さながら東山魁夷の絵のような美しさだった。西方浄土に向かって手を合わせると、哀しみの泉から一筋の涙がこぼれ、静かに頬を伝って流れた。

「春の野に霞たなびきうらがなしこの夕かげに鶯鳴くも」

 母が手帳を開いて、大伴家持の歌を教えてくれた。

 今回の小旅行は「外国で日本語や日本文学を教えていて『大和』という言葉を再発見した」と、熱っぽく報告した娘に、この機会に大和の地を踏ませてやりたいという母心が動いて実現したものだった。

 翌日は神戸で母方の祖父母の墓参りもした。

 僅か2日間に数え切れないほど乗換えをして、日本列島を南下した旅だったが、どこもかも桜が満開で、「自然のやさしい恵みを受けた麗しの日本」を今年ほど強く実感したことはなかった。

 ●「茶髪」ショック

 ところが、今回の日本滞在中、その印象とは正反対の大きなショックを受けたことも告白しなければならない。

 日本列島が「茶髪」や「金髪」で溢れていることの衝撃である。彼らは日本人であることを捨てたのだろうか!中には、ただ髪を茶色や金色に染めているだけでなく、髪型そのものが奇怪で、まるでマントヒヒのような人たちもいる。彼らは人間であることを放棄したのだろうか!

 いつの時代にも奇抜な格好をする者はいる。しかし、それは芸能人とか、芸術家とか、変わり者とか、あくまでも一握りの人たちであった。ところが、今回は「少数」でないところに、問題があるように思う。

 外見だけで人を判断してはいけないと自戒しつつも、民族衣装やイスラームのベールを着用することで民族のアイデンティティをはっきり打ちだし、矜持を持って生きている人々の間で暮らしている私には、この現象が「日本人喪失」に見えてならない。

 東京・原宿をタクシーで通った時は、あまりに茶髪が多く、ミュージカル「Cats」の出演者たちが集団で移動しているのだろうか、と錯覚するほどだった。

 関西のローカル線のプラット・ホームでは、茶髪の女子学生4、5人が学生服のまま、冷たいコンクリートの上で、車座になって胡座をかき、その澄んでいる筈の目を、濃いアイシャドウーで汚し、まだ初々しい紅の唇をメタリック色に塗りつぶしていた。

 旅の途中、私は何度も「茶髪」や若者の格好を話題にした。(私はまだどれが「ガングロ」だかわからない)「日本はどうして、こんなに茶髪が多くなってしまったの!?」を連発する私に、母は

「そう言われてみれば、そうね。まあ、あれも一つの流行だから・・・。数年したらなくなるんじゃないかしらね。若い人たちはエネルギーが有り余っているのよ。はけ口がないのよ。・・・でも、彼らは外見ほどイカレてはいないそうよ」と意外に寛大である。

「あれは『西洋崇拝』と関係があるのかしら」
「やっぱり、あるんじゃない? 大人たちも髪を染めているから、子供たちに何も言えないのじゃないかしら」

 そう言えば、よくよく見ると、大人たちの間でも、ヘア・ダイをしている人が多い。それは、一つの美意識で あって、少し色をかけた方が美しいと思っている人たちを批判するつもりはない。ファッションは個人の自由だし、事実、よく似合って若々しく見える中年婦人 もいるのだから。だが、日本人の美意識は次第次第に変りつつある(西洋的になりつつある)ということは言えそうだ。

 それにしても、この日本列島総茶髪化は、異国にあって、祖国を想う者にとって、大変気になる、うら悲しい情景である。

 日本人はもう「日本人」ではなくなりつつあるのだろうか。

「しきしまの大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」(本居宣長)の歌を思い出し、私の心配が杞憂であることを祈らずにはいられない。(MIkiko talks on Malaysiaから転載)


 【MIkiko talks on Malaysia】は http://www.02.246.ne.jp/~kiara/

 ご感想、ご意見は bmikiko@tm.net.myへ。


2000年04月21日(金) 台湾研究家 船津宏


 ●その1 赤貧之子

 陳水扁氏が台湾の第10代総統(大統領)に決定し、来月(5月)20日には就任式に臨む。1951年台南県官田郷西庄(荘)村生まれの陳氏は今年 49歳。50年前、大陸の共産党に追い出され、台湾に逃げてきた国民党の一党独裁支配を、初めて打ち破る快挙を成し遂げた。平和的な政権交代は、大陸の民 主化闘士にとっては、羨ましく、かつ自らの国の後進性を印象づける事件だ。

 日本の新聞論説に出ることはないが、「大陸の民主化進展を揺さぶる」ことは間違いない。大陸でも世界を知っている人は、台湾のような政権 交代が中共にも必要だと思っているはずだ。就任式1カ月前のこの機会に彼の足跡を辿ってみたい。彼のニックネームは「阿扁(あぴやん)」、夫人は「阿珍 (あちん)」。文中でも必要に応じてこの名称を使いたい。

 3月19日付「中時晩報」に「官田赤貧之子 締造緑色奇蹟」の見出しが躍った。陳氏の人生を端的に表現する色は、「赤」から「緑」。「赤 貧洗うがごとし」という言い回しがあるが、同氏は「赤貧の子」と形容され、そうした境遇の子供が不断の努力で社会の階段を駆け登り、「緑色の奇跡」を起こ したと表現される。

 陳氏の不遇な出生環境はそのまま、台湾の不遇な状況をイメージさせる。「台湾に生まれた悲哀」(李登輝)はまさにこれだ。

 民進党のテーマカラーは緑。リンカーンは丸木小屋からホワイトハウスへ入り、アメリカンドリームと呼ばれるが、貧しい生まれで、政治犯として刑務所に送られた人生を持つ阿扁は、今年「台湾ドリーム」を実現、人々に希望を与えている。

 貧農の出身。父親は小学校卒で小作農。ブタなども飼っていたという。母親は字もろくに読めない。生活保護レベルを示す「第3級」に認定さ れるほどの極貧ぶりだったという。家計は赤字続きで、母親は知り合いの家から毎月借金を重ねていく。小学校に入るまで文字の勉強さえできなかった陳少年 は、母親の借金の額を家の壁にチョークで書き遺すため、アラビア数字だけを覚えたという。先ごろ放映されたNHKスペシャル「(台湾)政権交代」では、阿 扁のこうした紹介が欠けていた。

 小学校に入った彼は、貧乏から脱出しようと勉強に精を出す。努力の成果を出し、成績トップに躍り出る。先生からも誉められ、表彰状をもらうような存在となった彼はさらに猛勉強を続ける。

 中学、高校と学校で一番の成績を取り続け、「台湾の東大」、難関中の難関とされる台湾大学に1969年に入学する。大学に入っても成績はつねにトップ。そんな彼についたあだ名が「第一名(あいつが一番、ミスターナンバーワン)」「永遠第一」だ。

 台湾中のエリートが集まる台大の中でも学友たちが「陳にだけは勝てない」「あいつは何をやらしても1番だ」というため息まじりのニックネームだ。

 そんな60年代から70年代にかけての時代、台湾国内では、国民党一党独裁の政治腐敗が進み、国民の不満が高まっていた。この当時、国民 党以外の政党活動はすべて非合法(党外と呼称される)。表立って台湾語をしゃべったり、蒋介石の銅像の前でシャドウボクシングをするだけでも警察につか まったりする時代だった。

 それでも国民党を抜け、民主活動に転じた黄信介氏ら、未来を信じる人々がいた。大学1年時に彼の演説を聞いた陳水扁は、法律・政治への関 心を高める。商学系経営管理を一旦退学し、翌年改めて難関の法律系を受験した。その成績が、全受験者中の最高だった。どんな困難も必ず満足のいく結果を出 して乗り越えていく彼の姿勢がここからより鮮明になる。

 翌年には、司法試験を受け、全国最年少記録を塗り替えた上、さらに成績トップで合格し、「第一名」のニックネームに恥じない快挙を成し遂げた。

 このころから、彼の人生は大きく好転を始める。ド貧乏から二宮尊徳風の努力でのし上がり、弁護士として働き始めた彼は、小中学校で同窓 だった呉淑珍さんと恋愛結婚。担当分野は海商法で、海運・航空大手、長栄(エバーグリーン)の仕事で評価され、高い収入を得るようになった。経済的にやっ と一息つける生活に近づいていた。

   ■陳水扁キーワード集

キーワード
解  説
台湾の子 震星出版から250元で発売の自著は、特製CD「少年台湾」付き。ドラゴンアッシュ顔負けのヒップホップ系、ラップ系、合唱組曲系ありの16曲入り。筆者は、デーブメイソン風泣きのギターが入る「歓喜看未来」がお気に入り。
呂秀蓮 副総統。カーター元米大統領と会談した時「あなたのおかげで台湾の発展が遅れた。台湾人に謝罪する気持ちはないか」と流暢な英語で詰め寄る。大国VIPにも堂々と物が言える女性政治家。カーター時代に米国は台湾を捨て、中国と手を組んだ。
民進党 13年前は非合法。「中華民国」へのこだわりなく、「台湾共和国」を志向。党旗は緑色で東洋のスイスをイメージし、十字の中に台湾を示す。
呉淑珍 大学時代夫人と恋愛結婚。雨の台北駅で立ち尽くす夫の姿に感動した夫人は将来を託すことを決める。
乾燥きゅうり 弁護士になって依頼者から台湾珍味「からすみ」をもらったが、貧乏な阿扁はそれまで食べたことも見たこともなかった。「乾燥したきゅうりをもらったけど」と夫人に語った。
大型冷蔵庫 夫人の家に入って白い大型衣装ケースを見た阿扁は「君の家にはりっぱな冷蔵庫があるね」と語る。乾燥きゅうりの話しとともに後に夫人がおもしろおかしく話したので有名。
黒金政治 民進党からみて国民党は暴力団(黒)と金権政治(金)の巣窟。改革のためには、国民党以外の人間が必要と訴えた。
228事件 1947年、外省人と台湾人との対立を決定的にした虐殺事件。97年から国民の休日(平和祈念日)になった。当時、台北市に滞在していた筆者は、国民の祝日が2日前になるまで決定しない事実に驚いた。今でもこの祝日を不快に思う旧勢力がある。

 ここで、ロマンスにも少し触れておきたい。車椅子のファーストレディーとなる奥さんの呉淑珍さんは、同じ台南生まれで二歳年下。同じ小中 学校に通う。ところが貧農の陳さんとは違って、父親は県内で広く知られるくらいの名医で資産家。台湾の50年代初頭で、居間にピアノがあり、娘にピアノと バレーを習わせ、家庭教師をつけて育てていた家庭は少なかったが、阿珍の家はそういう家だった。家庭教師の代金は、陳一家の収入と同じくらいだったとされ る。

 絵に描いたような貧乏と金持ち。そんな二人が出会ったのが、大学時代に行われた中学校の同窓会のビンゴゲーム大会だったという。夫人は 「夫は、ミネラルウオーターのようなものなの。最初は薄くて、味も何もあったもんじゃない。けれど飲み続けるとその滋味が分かってくる。永遠の滋味なの よ」と新総統となる夫を評している。

 貧乏で遊ぶことを知らない陳氏は、最初デートもしっくりいかないが、やがて持ち前の誠実さが彼女のハートをしっかりとつかむ。大学時代も 金がなかった阿扁は、夫人との食事でも、大学食堂に誘ったという。そこで清水の舞台から飛び降りた気持ちで注文したのが「学食Aランチ」。大学に入って一 度も注文したことのない最高の値段のメニューだったという。涙が出てくるような話しだ。

 固い気持ちで結ばれた二人は、やがて結婚を決意するが、当然のように夫人の父親は反対する。娘には医大出のしかるべき人物と結婚して、病院経営を継いでもらいたかったのだ。

 親の反対を押しきった二人は、新婚旅行も3年後と決め、質素なパーティーだけで済ましてしまう。普通の家庭でも二、三百人と親戚を集めて披露パーティーをするのが常識の台湾では極めて簡素なものだった。

 海商法の弁護の仕事は順調で、陳氏の収入も着実に増えていった。2人がこのまま進めば、それはそれで何不自由ない円満な家庭が築かれていたことだろう。

 しかし、人生は突然の事件で大きく変わっていく。美麗島事件だ。

   ■陳水扁キーワード集

謝長廷 永遠のライバル。高雄市長。陳と実力伯仲。94年台北市長選では、民進党内で候補を競い合い、党内を二分。面子を捨て陳に道を譲った。「長扁の盟」として記録される。文部省奨学金を得て京大留学の親日派。
林義雄 民進党主席。98年台北市長選など連続で負けたことで敗軍の将と呼ばれていたが、今回の総統選で雪辱果たす。年下の陳候補を立てて、自らは裏方に回る手法は玄人筋に好評。家族を暗殺されたが、逆境の中、立ち上がる。
許文龍 ABS樹脂の世界トップメーカー、奇美実業創業者。三菱レイヨンなどとの取り組みの後、独自の技術開発で世界に躍り出る。「釣りバカ」社長として も知られ、天気の良い日には釣りをしていて会社には出ないとか。老荘思想(無為)を体現し、経営。週1回、社員に無料でマンドリン教室を開催する音楽愛好 家。
台南 台湾の古都で、港町。陳夫妻、許文龍、連戦も皆ここの出身。地元紙では「200年ぶりに政権が南に戻る」との大袈裟な見出しもみられた。小北夜市の屋台村や、度小月(ラーメン屋)は全国的に知られる。350年前、鄭成功はここで決起、オランダ人を追い払う。
蓬莱島事件 1984年 陳が社長の雑誌「蓬莱島」に載せた論文が有罪に。台北市議を辞職し抗議「光栄入獄 陳水扁」のタスキをかけて刑務所へ行く。出所後、台南県長選に立候補。

 ●その3 美麗島事件

 「美麗島(フォルモサ)」はポルトガル人が台湾をみつけた時に名づけた美称だが、この名前をつけた月刊誌が70年代末の台湾で評判を得て いた。政府を真っ向から批判する内容は、不満の鬱積していた台湾人の心に明るい灯火を点していた。言論による台湾の改革だ。「80年代」という雑誌も同様 に評判を呼んでいた。

 しかし、その内容に腹を立てたのが国民党。圧力をかけてきた。「美麗島」出版の黄信介氏は、当局の弾圧に反抗し、79年12月10日、台北市に次ぐ第二の大都市、高雄で無許可デモを決行。

 警官隊との衝突で流血の騒ぎに。主要メンバーは反乱罪として、次々に逮捕されていった。今回副総統となった女性政治家、呂氏もこの時逮捕され、投獄された経験を持つ。独裁国家に言論の自由はなかったのだ。そして、裁判が開始される。

 その裁判の弁護依頼が、よりによって陳水扁のところにやってくる。事の重大さに躊躇する阿扁。そこに夫人は「あなたは何のために弁護士に なったのよ。これは台湾の将来を決めるかも知れない大事な裁判。これをやらずして何を弁護すると言うの。できないなら弁護士などやめてしまえばいいのよ」 と叱咤激励する。

 裁判の被告席に座らされているのが、大学時代法律を志すきっかけを作った演説をした台湾民主化のリーダー、黄信介氏だったのだ。この人を 助けずしてどうするのか。阿扁は燃える。今回の大統領当選後のニュースで、線香の煙たなびく中、墓参りしている陳氏の姿が放映されたが、それがこの黄氏の 墓なのだ。

 ●約束された将来捨て、弁護に立つ

 夫人にしても、それが何を意味するかは分かっていた。国民党独裁支配の下、政府に目をつけられた弁護士になど仕事は回ってこない。さらに 徹底的に干されることは分かっていた。このまま弁護士家業を続ければ、豊な将来は約束されていた。それを夫婦二人で敢えて困難な道に進もうとした。

 法廷で、謝長廷氏ら有能な弁護士とともに戦った陳氏の論理明解な弁護は評判を呼ぶ。しかし、一般に予想されたように、政府側の一方的な勝 利となり、月刊誌編集者たちは監獄へ送られてしまう。ただ、陳氏の弁舌は、際立っていた。「俺達といっしょに台湾の民主化に取り組まないか」月刊誌「美麗 島」関係者から声がかかり、陳氏は法律から、政治への道を踏み出すことになる。この集団がやがて、現在の民進党へと脱皮していく。

 この当時、蒋介石がこの世を去り、息子の蒋経国時代になり、政策は変わり始めていた。「ニクソンショック」が原因だ。米国が台湾と縁を切 り、中国と手を結ぶ動きに出た。このままでは台湾が危ない。蒋経国総統は、民主国家としての生き残り方を考え始めていた。一方で、既存の弾圧も継続してい た。

 台北市会議員選挙に立候補した阿扁は、最高得票でトップ当選。またしても「第一名」だ。蓬莱島事件の後、続いて南部の重要地区である台南 県長(知事)選に挑戦した阿扁は、そこで人生を変える事件に再び遭遇する。この地区は日本でいえば、京都や大阪など関西地区のようなもので、国政上も重要 な地区。台湾の重要地区で民進党知事が誕生するとは、自民党政府からみて、大阪で共産党知事が誕生するかどうかというような切羽詰まった状況だったろう。

 選挙中、ありとあらゆる嫌がらせが仕向けられる。選挙結果は高得票ながら僅差で落選。台湾では落選した候補者が、「謝票」といって有権者にお礼しながら行進したり、大会を開いたりする習慣がある。

 この習わしに従って、台南県内を謝票行進していた時に事件は起こった。何者かに雇われたと思われる男は、農業用の三輪改造自動車(三輪鉄 牛車)で阿珍を引き倒した。「まだ死んじゃいねえのか」気味の悪いことを口走った男の車は、バックしてもう一度夫人の身体を踏みにじった。この事件の黒幕 は未だ明らかになっていない。

 阿扁はたまたま少し離れたところにいたため、夫人が狙われたのかも知れないし、気落ちさせるためわざと家族を狙ったとも推察される。

 このひき逃げ事件で、夫人の声はしゃがれ、足腰の自由を奪われ、車椅子の生活を余儀なくされた。瀕死の重傷から生き残り、車椅子のファーストレディーはこのような経緯で生まれた。悲しいが、不屈の闘志を感じる物語だ。

   ■日本への外国人入国者数(1998年)

国名(多い順) 来日人数 人口 人口/来日人数
台 湾 84万人 2200万人 26.19
韓 国 72万人 4500万人 62.50
米 国 67万人 2億5000万人 373.13
香 港 30万人 600万人 20.00
中 国 27万人 13億人 4814.81

 ●その4 ついに台北市長に当選

 数々の事件にも負けない。すでに書いたように蓬莱島事件で、今度は自身がブタ箱に入れられる。「光栄入獄・陳水扁」の反抗的なタスキをか けて入所する写真が有名だ。入獄中、夫人が代理で立候補し、国会議員(立法委員)に当選。台南県長選には失敗するが、その後の立法委員選挙に当選する。

 立法委員として実績を積んだ後の1994年、台湾の事実上の首都(憲法上ではまだ南京だ)、台北の市長に当選する。文字どおり画期的であ り、台湾人にとっては夢の勝利だった。台湾全体では本省人(台湾人)の比率は85%。外省人(中国人)は13%程度だ。ところが台北では、外省人の比率は 40%くらいに跳ね上がる。

 圧倒的に国民党が強い。この時期までに李登輝総統の時代になり、民進党も合法化されるなど、民主化が進んでいた。しかし、なんといっても国民党の総本山、首都台北で市長の座を取れるかどうかは、最大の政治の焦点だった。

 阿扁は、交通渋滞の緩和、暴力風俗業の取り締まりなどで成果をあげる。4年後の98年の市長選も当然、続投するつもりで、本人も支持者も思っていた。しかしここで、李登輝の必殺技が炸裂する。「新台湾人構想」だ。

 「台湾に元々居た人も、後から来た人もこれからは同じ新台湾人なのだ。わだかまりを捨てて新時代を開こう」と呼びかけた李総統は、国民党の若手のエース、馬英九氏(外省人)を対抗馬に市長の座奪還を企ててきた。

 「新台湾人構想」は、94年、宋ソユ氏が外省人として台湾省長に立候補した時に李総統が使い応援したもので、宋氏自身もよく使っていた。しかし、実際に大きく広まったのは98年の台北市長選挙時のテレビCMだった。

 馬氏は、長身でスマート、顔は俳優並み。女性票も大きく期待できた。台湾大学からハーバード大学へ進み文句のつけようのない学歴。父親は国民党幹部で、何不自由なく育った。蒋総統の英文秘書を勤めるなど政治経験も申し分ない。

 対する阿扁は、背が低く、顔も木訥。台湾の政治家は大抵、欧米の大学に留学し、博士号など数々の肩書きを自慢する。選挙公報をみても、ほ とんどの政治家がそうだ。しかし、阿扁だけは書く経歴がない。学力はあっても金がなく、ハーバードやエールに行く余裕などなかったのだ。

 だから、台湾大学卒業と書いて、必ず「第一名」と書いてある。経歴欄を埋めるため文字が「第一名」でもあるようだ。

 漫画「巨人の星」に喩えると、馬英九が花形満で、阿扁は星飛雄馬。98年の台北市長選対決は、あまりに劇画チック、映画ばりの構図だった。

   ■誤って使われている用語集

用 語 正しい日本語訳
一つの中国 中華民国なのか、中華人民共和国なのか、はっきり定義できる人がいますか。はっきり言えないことなら、議題に乗せて話し合うべき。
一国二制度 植民地経営の新名称。香港に次いで台湾という植民地がほしいだけの猫だまし理論。そもそも国とは制度のこと。違う制度なら別の国だろう。
極悪の台独分子 独立がどうして悪いのか、説明不足。反対に台湾にとって統一のメリットがまったく話題にされないのはどうしてか。中国共産党は世界に分かるような説明をするべき。民族自決は世界の流れ。

 ●敗戦演説会で阿扁総統コール

 98年の市長選は、馬氏が逆転勝ちする。ここ一番では負けることを知らなかった阿扁がついに負けた。本人にも支持者にもショックは大きかった。この時、台大医院など多くの病院に、深刻なノイローゼ状態となった陳支持者多数が来院、話題になった。

 「永遠第一」の神話が崩れたのだ。さすがの陳水扁も、老練な李登輝が一枚上手だった。台湾人としてのアピールで売れて来た阿扁が、新台湾人という新しいアピールにやられてしまった。

 悪い事は重なるもの。この時、夫人の父親が危篤となり、一家は里帰りする。その機中で、阿珍夫人は落胆する夫に「台北市民はあなたを台北 市長に当選させなかった。なぜだか分かるかしら。目標は2年後の2000年。あなたに総統になってもらいたいと思っている人が多いからよ」と語り掛ける。

 例によって、謝票のための敗戦演説会を開いた阿扁のムードは暗かった。「皆様の応援を無駄にして申し訳ない」鎮痛なスピーチが続く。

 しかし、敗戦演説会場の端から、聞こえてくる声があった。「阿扁総統!」 「次は阿扁総統だ!」。声は伝播し、大合唱になっていく。台北 市長に落選したからこそ、次の総統選に挑戦できる。これは神様がわざと落選させて、大統領にするための試練なのだ。??何という都合のいい解釈だろうかと 悲観的な日本人なら思う。台湾人の楽天的性格というか、バイタリティーというか感心するほかない。

 しかし、現実はその通りになった。この台北市長選敗北のシーンは、今回の総統選CMでも使われている。荘重なクラッシック音楽のBGM で、白黒画面が敗戦演説会場を映し出す。深々とお詫びする民進党首脳部。泣き叫ぶ聴衆。「扁帽」をかぶった若者。負けたことを逆手に取る強かな戦術は、日 本人にはなかなかできない手並みだ。

   ■陳水編キーワード集

李遠哲効果 ノーベル賞受賞者。キュリー夫人は「研究は先進国でしかできない」と言い捨てて、弱国ポーランドを離れ、フランスに居着 いてしまったが、李遠哲は台湾に帰ってきた。弱い立場の祖国を見捨てず帰国したことで、国民の熱い支持。 「彼が帰るのなら私も」と有能な若手が帰国し台 湾の科学技術振興に多大の効果。選挙戦終盤で、阿扁支持を表明したことから、陳を過激な政治家と敬遠していたインテリ保守層も「李遠哲が支持するのなら大 丈夫」と安心して投票に向かう。
扁帽(ぴゃんまお)
オリーブドラブ色でアウトドア感覚、阿扁(Aーbian=あぴやん)のロゴ入りニットキャップ。98年不況の台湾で、ベストヒット商品に。扁杯(ぴゃんぱい=コップ)など多数の関連商品を生む。支持者のマストアイテム。
台湾新幹線 シンガポールなどに比べお世辞にも奇麗とは言えぬ台湾の都市。なぜそうなったのかと言えば、「所詮、台北は仮の首都。いずれ大陸に帰るのでインフ ラは不要」との意識があった。鉄道はその最たるもの。2005年完成の新幹線は1兆円規模の投資で、インフラ整備に本腰を入れたことを端的に示す。

 ●その5 選挙当日の動き-まるで祭り

 TVBSや民視、中視、華視など台湾テレビ局の選挙前日から翌日までのビデオを取り寄せて、一気に見たが、やはり台湾の選挙はお祭り騒ぎだ。主要三候補の「増勢会場(立ち会い演説会)」が三元生中継されるが、それぞれの候補者の個性が出て面白かった。

 連戦氏(国民党)の会場(中正紀念堂)は、「公務員の顔」をした人が多い。李登輝が声を枯らして連戦への投票を呼びかける。80、90歳とも思われる老人が車椅子から演説する。音楽は古い歌謡曲風で年寄り向きなのは明らか。

 以前、李登輝が連戦バンザイと両手の平を広げて応援していたが、ちゃちゃを入れた反対者が「李は手の平を広げて五本指を出しているだろ う、あれは実は立候補番号5番の陳水扁を支持している証拠だ」と言ったことがあったが、投票前日の増勢会場では、ちゃんと二本の指で(連戦の立候補番号は 2番)Vサインをしながらバンザイしているのには、思わず笑ってしまった。最初から最後まで両手を挙げる時はVサインだった。

 宋楚瑜氏(国民党から除名され独立立候補)の会場(台北体育場)では、さすが演説得意の宋さんは、マイクを握って話さない名口調。面倒見の良さそうな顔で人気があるのが分かる。会場は、「田舎から出てきました」みたいな人が多い。

 陳氏(民進党)は、台北サッカースタジアムを会場にした。ここは3年前マイケルジャクソンが公演したことでも有名な巨大会場。ここでは、最後の場面になるまで陳本人がまったくステージに出てこない。演説するのは、作家、医者、弁護士、教育者、学者など知識人が多い。

 外省籍二世の著名人も多く出てきて、陳イコール台湾人という構図はもう終わていて、外省籍の人も支援していることが分かる。そうでないと、当選するはずがない。それぞれ有名な人ばかりらしく、陳水扁がいかにいいかを語り尽くす展開だ。

 ある応援者が「朱鎔基のようなヤクザのいいなりにならず、陳水扁を選ぼう」とやった時の会場の盛り上がりが面白かった。

 人本教育文化基金会の代表はこう語る。「子供がテレビを見ていて聞くんだ。『このやくざみたいなおじさんは誰なの。外人のくせに、なぜこんなに偉そうに台湾のことを話しているの』 テレビには朱鎔基が映っていました。」(会場爆笑)

 また、女性の代表はこう言った。「朱鎔基に脅されて、支持を変えますか。そんな父親、母親がどうやって子供に正しい行いを教えることができるのでしょうか。脅されて信念を変えるような人に、子供の教育はできません」と。

 「朝日」など新聞の論調で欠けているのはこの部分だ。「国連常任理事国の体制は..」「一つの中国は..」「アジアの安定のため..」などいろいろ言うのは勝手だが、虐げられる台湾の子供たちの人権はどうなるのか。

 日ごろ、殺人者や過激派、日本在住の不正入国外国人の人権には必要以上ともいえる配慮をみせているのに、中国の発言によって心のケアが必要となる台湾の子供たちへの配慮は「朝日」にはまったくない。

 政治バランスの理屈だけで、論評するのはいいかげんにしてもらいたい。「統一か独立か」の争点だけで選挙が行なわれたように報道された が、決してそうではない。人間、金がもらえるかどうかだけで人生を決めているだろうか。愛やプライドや、将来の夢を満足させてくれるかどうかが、むしろ問 題ではなかろうか。夢のあるリーダーを台湾の人たちは選んだといえる。

 ●選挙CM合戦も相当面白い

 テレビCMや新聞CMも面白かった。敵方が批判してくれば、すぐさま翌日には対抗CMが出る。有権者は面白がって見ている。

 連戦側の「陳さんが言うから戦争へ行こう」のネガティブキャンペーンはやはり暗い。陳水扁の長男が来年軍隊に行くのを当てこすったCMも あった。知能のある人がこういう宣伝を見せられると侮辱されたと思うだろう。実際そういう人が反連戦になった。中国の軍事威嚇も同じ。こんな奴等を相手に するのなら、やはり台湾人の気持ちに立ってくれる人がいいと民衆は思ったはずだ。

 それに比べ民進党のCMは、米国大統領選キャンペーンCMとも比較できるさわやか調の仕上がり。自転車に乗り、笑いかける少女や、一家円満の家庭、水田で遊ぶ子供など台湾の風景が連続する。CMの前半で登場する人物は実はすべて陳氏の親戚だという。

 第二バージョンでは、ノーベル賞受賞者李遠哲が、「類は友を呼ぶのです。彼らはこういう連中と仲間なんです」と呼びかけ、連氏や宋氏の演説会場の端に移っている悪人物を赤丸で囲んで指摘するネガティブキャンペーンなのだが、仕上げがスマートだ。

 第三バージョンは、支援する有名人がワンカットずつ登場するもの。パソコンのトップメーカー、エイサーの施社長などが登場。ABS樹脂で 世界のトップメーカー、奇美実業の許文龍社長が、バイオリンを優雅に弾きこなす姿で終わるのが何とも渋い仕上げ。許氏は日経新聞の表彰などで日本の実業界 でも知名度が高い。日本の政見放送の無味乾燥と比べ、違いに驚く。

 でもなんと言っても良かったCMが「艱困中成長的人 有最美好的理想(困難の中で成長する人には、美しい理想がある)」というたった二行 だけの選挙宣伝文。陳水扁の映像は出てこない。それでもテレビを見ている人は誰もが理解する。資産20億円で、中華民国一の美女、ミス・チャイナを嫁に取 り、悠々自適の生活をしている連戦や、長男の口座に数億円も振り込ませていつも金払いのいい宋楚瑜などが、「困難の中で成長する人」だとは誰も考えはしな いからである。(了)


参考資料
「中国時報」「台湾時報」「自由時報」「中時晩報」2000年3月19日付
「台湾の歴史」 喜安幸夫 原書房
「台湾の主張」 李登輝 PHP
1998年台北市長選・民進党パンフレット「陳水扁物語・乾燥キュウリと大冷蔵庫」
「台湾の子」 陳水扁 晨星出版

船津さんにメールはando@sen-i-news.co.jp


2000年04月17日(月)在独ジャーナリスト美濃口 坦


最近、現代日本文学を研究するドイツ人の友人と久しぶりに会って、長々と話し込んだ。彼と私は学生時代しばらく住居もいっしょで親しかったが、遠くの町の大学に就職してしまったので数年に一度しか会わない。

 彼は日本語が達者であるが、私が関西弁を話すせいか、会話はドイツ語になりがちである。昔も今も彼とは通り一遍の話しにならないで、特定のテーマに集中する。今回は日本とドイツの新聞の相異についての議論になった。

 ヨーロッパには昔から社会のエリート層に読まれ発行部数が低いクォリティー・ペーパー(高級紙)と、発行 部数が何百万もある大衆紙の区別がある。よくいわれるが、読売新聞とか、朝日新聞とかいった日本の日刊新聞はこのヨーロッパ的区別があてはまらない。ヨー ロッパから見ると分類不可能な、本当に日本的な存在である。

 彼にとって専門外の発言であることから実名を出さない条件で、話した内容をここに書くことに承諾してくれた。彼を便宜上オットー君と呼ぶ。

 ●「充分な現場取材して、、、」という考え方

 オットー君によると、日本の新聞には「ナイーブなリアリズム」というべきイデオロギーがその根底にあっ て、これが組織、紙面の作り方、個々の記事の評価、取材の仕方に反映しているという。彼はこのイデオロギーと、昔丸山真男がいった「実感信仰」とはかさな る部分があるともいう。

 「そのために、日本の新聞には現場至上主義というべき考えがある」と彼にいわれているうちに、私にもわか らないことはないという気がし始めた。というのは、私も「現場」という考えが日本の新聞記者の頭をいかに強烈に支配していいるかについて、一度驚いたこと があるからである。

 それはかなり前のことで、欧米社会には珍しくない「アウシュビッツの嘘」を肯定する原稿を掲載した雑誌が日本で問題になり、廃刊になったことがある。

 当時日本の雑誌を読んでいると、ある元新聞記者がこの「アウシュビッツの嘘」を肯定する原稿の著者を批判している。批判することに文句はないが、「現地に行って充分な現場取材をしないで書いた」とするこの人の挙げる理由に私は正直のところ驚いた。

 というのは「アウシュビッツの嘘」という話しは「現場に行って事実を検証したら真相がはっきりする」筋合いのものではないからである。この記者が元気に主張するように、現場に行って事実検証を始めたとする。チクロンB残余量の化学検査もその例である。

 ところが、そんなことをすることが「アウシュビッツの嘘」を肯定するとして非難されているのである。というのは、対立そのものが「歴史的事実」対「犯罪学的事実」とい性格があるからだ。

 この「歴史的事実とは何か」という厄介な問題を含めて「第三帝国」について半世紀以上も議論してきた歴史学の蓄積に重きを置かないという点では「アウシュビッツの嘘」を肯定する日本人著者も、またそれに反対するこの高名な新聞記者も私には同じように思えた。

 どちらも強制収容所という「現場」に謎を解く事実を見つけることができると考えているからである。事実が現れて白黒の決着つけてくれるとする考え方をオットー君は「ナイーブなリアリズム」と形容しているのである。

 ●「事件‐現場‐当事者」という図式

 いずれにしろ、半世紀以上前の犯行現場がそのまま残っていないし、当時の証言者の証言も、歴史家によって編集されたり、あるいは裁判所の証拠書類というかたちで残っている以上、「現地に行って現場取材をする」とは、具体的には何を意味するのだろうか。

 本当は、図書館に行って今までこのテーマについて書かれた文献の一部にでも眼を通し、種々の論拠についてじっくり考えてみるほうが良いかもしれないのである。

 私には「事件‐現場‐当事者」という図式が、「現場取材」を至上とする新聞記者の頭のなかにすっかり根を 降ろしているのだと思われた。彼はアウシュビッツ生還者に会って、すでに歴史家や検事に話したことを自分に対しても繰り返してもらう程度のことを考えてい たのではないのか。

 でもその当事者に会って証言を繰り返してもらうことで何が明らかになるのだろうか。多分話しをしながら彼の表情や様子を観察できるかもしれない。恐らく「ガス室に言及された途端、彼の顔に深い悲しみ色が漂った」という文章を書ける瞬間が来るかもしれない。

 ところが、この時この記者は何について取材をしたのであろうか。彼は「アウシュビッツの嘘」に怒ったり悲 しんだりする被害者を取材したのである。でも最初、原稿の著者を「充分な現場取材を怠った」といって批判したときには、「『アウシュビッツの嘘』に悲しむ ユダヤ人を充分取材しなかった」ために非難したのではなかったはずである。もしそんなことを書けば自分でも変だとすぐ気がついたと思う。

 私が指摘するこの相異は「現場の事実がすべてを解明してくれる」と考える人々にとってどうでもよい些細なことであるのはいうまでもない。

 ●「現場」とは何か

 私が当時雑誌を読みながら考えたことを思い出し、オットー君が主張する「ナイーブな現実主義」とか「現場至上主義」を理解しようとした。

 それでは「現場」とはいったい何なのか。もちろん事件が起こる空間が現場であり、ニュースとはこの現場という空間で知覚・選択された事実が発信されるものである。例えば、どこかで地震が起こればそのニュースは多くの人々が知りたいのである。

 どんなお高くとまったヨーロッパのクォリティー・ペーパーにとっても「事件」とか、その「現場」は絶対重 要である。紙面も事件を中心に組まれている。その点ではどこの国の新聞も似たり寄ったりである。そこで、日本の新聞との相異をはっきりさせるために視点を ずらしてみる。

 なぜジャーナリストがどこの国でも落ち着かない生活をおくっているのだろうか。いつも「事件現場」にむかって駆けつけるからであろうか。

 ところが、たいていは「事件現場」でなく、事件が発表される現場に赴くから忙しいのである。言うまでもな く「事件そのもの」と「事件について(思い出して)語ること」は別々のことであるように、「事件現場」と「事件発表現場」は峻別されるべきものである。 オットー君によると「現場至上主義」とはこの二つの相異なることを区別する意識が乏しいことになる。

 「政治部」とか「経済部」とかいった具合に分野別に組織されている点で日本の新聞社もドイツの新聞社も似 ている。ところが、日本ではこの部が更に「事件現場=発表現場」ごとに分けられている。これが日本独特の「記者クラブ」制度である。ドイツのほうは日本的 呼名でいうと部員はすべて「遊軍」ということになる。

 日本の新聞社の「現場」に基づく組織形態が「現場至上主義」の反映であると同時に、紙面の作り方にも、また記者の意識にも影響を及ぼし、「現場至上主義」を強化するのに役立ったことはいうまでもない。

 ●記事のタイプの多様性

 日本の大新聞の「現場」に基づく組織形態は、人員を一番投入している主要活動が「現場」からのニュースの発信であることの反映でもある。日本で現役の記者とは「現場」から発信している記者である。

 反対に、ドイツの新聞はこのタイプのニュース記事は通信社の記事で間にあわせる。この相異は、日本の新聞の発行部数が高く、それだけ人員をかかえているためである。ドイツの新聞の発行部数が低く、私が発行部数を聞くのがはばかれるほど小さい新聞である。

 クォリティペーパーではドイツ最大発行部数を誇る「南ドイツ新聞」でも35万部で、常勤記者は三百人を超えない。毎日平均80ページ以上の紙面と、競争が激しく種々のニーズに答えるためにどの新聞も付録週刊誌を2、3冊は出している。

 慢性的人員不足の彼らから見ると、「事件発表現場」に自社ライターを常駐させる「記者クラブ」は理解しに くい。ニュース記事の外部発注に慣れた彼らは、このように巨大な新聞社を見て、ネジもホースもバルブも部品の大部分は自前でつくった旧共産圏の自動車メー カー・コンビナートを一瞬連想するようだ。

 ところが、これも高度資本主義国家日本のイメージに合わない。そこで、手狭になった新聞社が家賃の高い東京でコスト節約のため役所から事務室の便宜給与を受けていると思い込んでいる人々も多い。

 彼らが全力投球するのはニュース記事でなく、他のタイプの原稿である。重要なテーマであれば、自社の記者に臨場感にあふれたルポを書かせたり、評論的な記事を書かせたりする。要するに色々なタイプの原稿で読者の需要に応じようしていることになる。

 コラムからはじまって政治や経済についての抽象度の高い分析的な評論まで原稿のタイプの多様性こそ、日本 の大新聞とドイツの新聞の一番大きな相異であると私には思われる。書くのが好きで記者になる人にとってはドイツで就職するほうが日本より色々なタイプの原 稿を書くチャンスがまわってくる。

 ●社会現象はこの図式で収まらない

 日本でもルポ的な原稿、評論的ものを自社の記者に書かせることがある。ところが、記者数が多く頁総数が少 ないために個々の記事に与えられる紙面が小さ過ぎるのが残念である。「現場至上主義」イデオロギーの結果、聞いたことでなく、「地の文」を綴るにあたって 抽象的なことを書くことに病的不安を覚える記者が少なくない。

 具象レベルを離れることは彼らの意識の上で「現場」を離れ、「抜かれる」危険にさらすことに等しいからだと思われる。「死んでもラッパを離さなかった昔の日本兵を思い出す」とオットー君はいう。

 読者に本当に面白い部分は同僚との会話や個々の記者が頭のなかで考えた部分にあって、紙面にあらわれない のではないのか。オットー君も私も新聞学などとは縁がない。私のほうは、以前調べものがあって1944年から46年ぐらいまでのスイスを代表する「ノイ エ・ツリュヒァー・ツァイトゥング」に目を通したことがある。

 当時は朝刊、夕刊だけでなく正午にも新聞が出ていたのに驚いた。また紙面も現在の日本の新聞に近いという印象をもった。ヨーロッパの新聞はテレビの勃興とともに差別化戦略をとったのに対して日本の新聞はあまり変わらなかったのではないのであろうか。

 社会で重要な現象の多くは「現場至上主義」的図式に収まりにくい。収まりやすいはずの犯罪事件でも半世紀経過すると問題が生じる点はすでにしめした。重要なことは、5年、10年、あるいは20年、30年といった歴史的展開のなかでしか理解できないことが多い。

 議会制民主主義で立法化は重要である。このルール化という抽象的作業に重要なのは社会内部に並存する種々 の価値であり、これらの価値と事実とが関連づけられて賛成もしくは反対の論拠がうまれる。ここで重要な価値も「事実」も「事件-現場-当事者」という推理 小説的図式に収まらないことが多い。

 日本の新聞の政治記事に関してオットー君が批判するのもまさにこの点である。個々の例外があるにしても、 これら記事の多くは「現場至上主義」的図式で書かれていると彼は主張する。政治家が「等身大」で描かれ、その結果「事件の当事者」として読者の親近感ある いは反感の対象になるだけで終ってしまうことが多い。

 ところが、こうして政治議論の内容がはっきりしない状況が生れることこそ、議会制民主主義の機能不全をひきおこす原因の一つであるとオットー君は考える。


 ホームページはhttp://home.munich.netsurf.de/Tan.Minoguchi/

 美濃口さんにメールはTan.Minoguchi@munich.netsurf.de


2000年04月14日(金)萬晩報通信員 園田 義明


 ●ソニーのネット銀行参入

ソニーは3月30日の取締役会でインターネット銀行参入を正式に決定した。資本金は375億円を予定してお り、出資構成はソニー株式会社が300億円(80%)、メインバンクであるさくら銀行が60億円(16.0%)、J・P・モルガン15億円(4.0%)と なる見込みである。

同日午後、会見した出井伸之社長は、新インターネット銀行で「便利な支払い手段や質の高いバンキングサービ スを提供したい」と語り、伊庭保・副社長は、ネット銀行は来年前半の開業を目指し、開業後3年で単年度黒字、5年で累積の黒字化を目標とすることを明らか にした。また、預金量は5年で1兆円を予定している。

同席したさくら銀行の岡田明重頭取は、「(新銀行の)成功する確度は100%」と期待を示した。おそらく現実のものとなろう。

その背景にはモルガングループとソニーとの強力なパートナーシップがある。

 ●ソニー躍進の背景

今年2月2日にジャパン・ソサエティー主催でソニー創業者、盛田昭夫氏をしのぶ会がニューヨークで開かれ、 新生銀行(新生長銀)の取締役に就任したデビッド・ロックフェラー氏、ヘンリー・キッシンジャー元国務長官、そしてソニーの社外取締役であるピーター・ピ -タ-ソンCFR議長などアメリカのエスタブリッシュメントが勢揃いした。

このソニー創業者である盛田氏の人脈は1969年3月のJ・P・モルガン国際委員会役員就任にさかのぼることができる。この「モルガン人脈」こそがソニーの発展を陰で支えたのである。

その後盛田氏はモルガン系企業との連係により新事業参入にも乗り出す。1972年モルガングループの中核 IBMの子会社WTC社の取締役就任、1979年プルデンシャル生命保険と折半出資でソニー生命の前身であるソニー・プルデンシャル生命保険設立(取締役 会長就任)、1980年パン・アメリカン航空の取締役に就任する。

同時に日米賢人会議、経団連などの財界活動により日米財界人との交流を深めていくのである。モルガングループのGM(自動車トップ)のいすゞ自動車への大口株式所得やテキサス・インストゥルメンツ(TI-IC最大手)の日本進出にさいして仲介役を務めた。

 ●モルガングループの構成

モルガングループの中核を担うJ・P・モルガンはモルガン・ギャランティー・トラストの持株会社でジョン・ピアポント・モルガンにより1861年に設立された。法人、機関、富裕家族などの顧客サービスに特化した名門ホールセール(純粋卸売)バンクである。

現在その運営は執行役員(Management)、取締役会(Board of Directors)、国際委員会(International Council)、諮問委員会(Directors Advisory Council)の4部門で行っている。

最高意志決定機関である取締役会は18名で内2名が内部取締役で16名が社外取締役で構成されている。

現在のダグラス・ワーナーCEOは自ら総合電機最大手ゼネラル・エレクトリック(GE)と総合エンジニアリング最大手ベクテルの取締役を兼任しておりモルガングループの結束を担っている。

GE、ベクテル以外にもモルガンと歴史的に関係が深いゼロックス、ハネウエル、テネコ、デュポン、フェルプ ス・ダッヂなどのCEOおよび元CEOが外部取締役として参画している。特に注目すべきは1999年に合併した国際石油資本最大のロックフェラー系エクソ ン・モービルのリ-・レイモンドCEOが名を列ねている点であろう。

盛田氏が役員を務めた国際委員会には後任として小林陽太郎富士ゼロックス会長が選任されている。会長はジョ-ジ・シュルツ元国務長官が務めシンガポールのリー・クワン・ユーやダイムラー・クライスラーのシュレンプ会長など世界を代表する政財界人が集結している。

注目はロイターとの結合関係である。実質ロイターとJ・P・モルガンは相互に役員を交換しあう緊密な関係にある。

 ●ロイターに集うモルガン人

ロイターのクリストファー・ホッグ会長がJ・P・モルガンの国際委員会役員に就任している。

またロイターの取締役会にはまもなく退任するJ・P・モルガンのロバート・メンド-サ副会長、モルガン・ス タンレ-・インターナショナルのデビッド・ウォーカー会長、モルガン・スタンレー・ディーン・ウィッターのロバート・ボーマン社外取締役、ドイツ・モルガ ングレンフェルのジョン・クラーベン会長が結集しており国境を超えてグローバルに展開しているモルガングループの政策発信基地としても機能している。

ロイターは国際的なニュース配信ソースとして有名だが、実際には金融情報通信企業である。電子決済取引シス テムはロイターの「ディーリング2000」とJ・P・モルガンを中核とした「EBS」の寡占状態になっている。実質J・P・モルガンとロイターが連係しな がら現在の巨大電子金融市場における絶対的な覇権を実現させたのである。

J・P・モルガンは1933年の銀行・証券業務兼営禁止を規定したグラス・スティーガル法成立によりいった んは商業銀行業務に専念するが、1935年に投資銀行業再開の為にモルガン・スタンレーを分離設立した。このモルガン・スタンレーは1997年にロンドン 拠点としてモルガン・スタンレ-・インターナショナルを設立する。1997年にはディーン・ウィッターと合併しモルガン・スタンレー・ディーン・ウィッ ターとなり現在も名門投資銀行として第一線にある。

J・P・モルガンの前身であるロンドンJ・S・モルガン商会から派生したモルガン・グレンフェルは、1903年にJ・P・モルガンより分社したバンカーズ・トラストとともに現在はドイツ銀行傘下にある。

 ●モルガン戦略=マイクロソフト分割

2000年2月に世界最大のイギリス携帯電話サービス企業「ボーダフォン・エアタッチ」とドイツ通信・エンジニアリング大手「マンネスマン」の合併が正式に決定した。合併規模は1800億ドルで同1月のAOLとタイムワーナーに次ぐ史上2番目の大形合併となる。

当初敵対的TOBからスタートしたこの合併劇の裏側には国家をも巻き込むモルガングループの世界再編戦略がある。

ボーダフォン・エアタッチはアドバイザーにゴールドマン・サックスとウォーバーグ・ディロン・リードを起用、対するマンネスマンは防衛アドバイザーにモルガン・スタンレー、メリル・リンチ、J・P・モルガン、ドイツ銀行の4社からなる強力な布陣で臨んだ。

ボーダフォン・エアタッチは電子証券取引のパイオニアとして有名なアメリカのディスカウント・ブローカー 「チャールズ・シュワブ」と関係が深い。両取締役会にはアラン・サリン/ボーダフォン・エアタッチCEO、チャールズ・シュワブCEO、ドナルド・フィッ シャーGAP元CEOの三人の役員を相互に兼任しあっている。

このチャールズ・シュワブの取締役会にはジョージ・シュルツ元国務長官と若手女性政治学者コンドリーツァ・ ライス/スタンフォード大学教授が参画しているが、前述のように両人ともJ・P・モルガンの国際委員会の役員であり特にシュルツ氏はその会長を務めるモル ガン人脈の頂点に立つ人物である。

この最終的な合併合意の背景には『モバイル・ネット時代』に向けた株主らの期待感と両社にまたがる英米モル ガン人脈によるドイツ国家に仕掛けた『「市場主義」対「伝統経営」』の戦争の構図がある。そしてこの戦争の勝因は前哨戦とも言うべき「ドイツ株式会社」の 心臓部ドイツ銀行内部へのモルガン・ウィルス(モルガン・グレンフェルとバンカーズ・トラスト)の侵入にある点を見落としてはならない。

『伝統経営』にこだわるドイツの反撃が始まった。ドイツ・シュレーダー政権は今回の合併をきっかけに企業合 併・買収の法規制に乗り出した。外国企業による敵対的な買収に対抗するため政府による直接介入も検討している。支持基盤である労働組合などへのパフォーマ ンス的政策にどこかの国の姿が重なる。

 ●きたるべきモバイル・ネット時代の力学

ボーダフォン・エアタッチとマンネスマンの合併は『モバイル・ネット時代』に向けた本格的な再編成の第一歩 に過ぎない。その後4月になってボーダフォン・エアタッチは米地域通信最大手ベル・アトランティックと米携帯電話事業の合弁会社「ベライゾン・ワイヤレ ス」を発足させた。

その余波はついにATT、ブリティッシュ・テレコム、マイクロソフト提携に発展した。

ATTの1996年の再分割でファイナンシャル・アドバイザーを務めたのもモルガン・スタンレ-であり、今後旧ATT企業(ATT、ルーセントテクノロジー、NCR)やGE、IBMなどを巻き込んだ再統合も十分に予測される。

また世界が注目するマイクロソフト分割も司法省はアドバイザーとしてニューヨークの投資会社グリーンヒルを指名している。グリーンヒルはモルガン・スタンレ-のロバート(ボブ)・グリーンヒル元社長が設立した情報通信分野を得意とするM&A専門企業である。

先行するNTTグループへの追撃体制の輪郭が見え始めた。そして可憐に演出するのはモルガングループである。

 ●「モルガンお雪」がとりもつ縁

J・P・モルガンと日本との最初の出会いは1920年の対中国借款であった。J・P・モルガンの歴史に残るリーダーであったトマス・ラモントとの交渉にあたったのは日本銀行総裁であった井上準之助である。

とされているが実際の最初の出会いはジョン・ピアポント・モルガンの甥ジョージ・モルガンと芸者加藤ユキとの恋物語のようだ。

1951年2月に越路吹雪によって上映されたミュージカル『モルガンお雪』は戦後途絶えていた日本への再上陸に少なからずとも影響を与えた。

そして1961年J・P・モルガンによってアメリカで日本最初のADR(アメリカ預託証券)を発行したのがソニーだったのである。

またこの時モルガン側が実際の株式を預ける外国銀行決定に際し、東京銀行に打診したところ「日本のしきたり」に違反するものとして猛烈に抗議したのが三井銀行(現さくら銀行)である。

 ●『次なる標的』

モルガングループは21世紀に向けてアメリカのリーダーシップを担うべくグローバル・マルチメディア(グローバル・インフォメーション・インフラストラクチャー)の構築に動き始めた。

J・P・モルガンを中核にモルガングループ各社は時には競い合いながらも高度な情報と金融技術を提供しながらM&A&A(買収、合併、提携)を実行している。特にモルガングループの「アメリカ株式会社」の国益を最優先にした企業再編手腕は日本でも見習うべきであろう。

モルガングループはグリーンスパンFRB議長に代表されるように社内外役員をホワイトハウスや主要閣僚、連邦準備制度理事会、世界銀行などの政府機関に送り込み「アメリカ株式会社」の権力中枢に絶対的地位を確立している。

次なる標的は日本である。すでにボーダフォン・エアタッチはJ・フォンへの出資を完了している。そして新生銀行、新生日債銀、ソニー銀行。その前哨戦はすでに完了している。

『モルガンお雪』を彷佛させるスティーブン・スピルバーグ監督の最新映画『メモワール・オブ・ア・ゲイシャ(邦題「さゆり」)』も絶妙なタイミングで公開されそうだ。スピルバーグはクリントン大統領の友人で、民主党への大口献金者としても知られる。

ソニーはDDI(第二電電)、KDD、IDO(日本移動通信)の3社合併による新DDIグループにも出資している。今まさにモルガングループの首脳陣は世界地図をひろげ「アメリカ株式会社」にとって最適な組み合わせを考えているに違いない。


2000 J.P. Morgan & Co. Incorporated  1999 ANNUAL REPORT
Management  http://webrun.jpmorgan.com/ar/management/management.jsp
Board of Directors  http://webrun.jpmorgan.com/ar/management/board.jsp
International Council  http://webrun.jpmorgan.com/ar/management/intl_council.jsp
Directors Advisory Council  http://webrun.jpmorgan.com/ar/management/dac.jsp

Charles Schwab Corporation 1999 ANNUAL REPORT
Board of Directors http://www.aboutschwab.com/annualreport99/cinfo.htm


 園田さんは東京在住のサラリーマン。国際戦略コラムでもコラムを執筆中

 園田さんにメールは yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp


2000年04月12日(水)萬晩報通信員 松島 弘


 雨風しのぐ

 曲がりくねり うねりうねる 道を登りつめれば
 新陳代謝で 汗がふきだす
 ひざが笑い つかの間の 木陰で腰おろす
 ふいに鳴き出した 蝉 かまびすし

 雨風しのげる家がある 山の上 山の上
 商いの荷物の舟を出す 川下る 川下る

 季節めぐる歌 歌え
 昔から変わらぬ歌 歌え
 「街路樹の剪定」と称して、あちこちで木の枝がバサバサ切られている。若い枝が葉っぱごと切り落とされ、枯れ木のようになる。切り口が角ばっているのでとても人工的だ。見ていると指をつめられたような気持ちになる。

 枯葉が道に散らばらないように、そして虫が発生しないようにやっているのだろう。だがはなはだ不快だ。そして痛々しい。

 私の友人たちはたいてい不快に思っている。と思ってたら、「切った方がいい」と思っている人もけっこういるのだ。私の父親もそう。「枝を切れば日当たりがよくなるし、枯葉も掃除しなくてすむ」と言う。

 我が家のとなりの畑では先日、所有者のおじいさんとおばあさんが畑を軽く耕した後に、まわりの背の低い松の木の枝を、さみしいくらい切り落として行ってしまった。松ぼっくりもたくさん落ちていた。

 ある程度の年齢以上の方たちは、木を切ることにあまり抵抗がないように思える。かつて、木はたくさんあっ たから、木が切り倒されることに「開発→発展」を感じるからなのだろうか。もしそうだとすれば、熱帯雨林の乱伐も、同様になされているのかもしれない。で もそれじゃ、まずいでしょ。

 逗子に住む友人が一時期、逗子の森を守る署名活動をしていた。しかし実際に森の中ほどに家を建てている人を訪ねると、署名を拒否された。「森の中は湿っぽくて、いろいろなものが腐りやすかったり、家が傷みやすかったりするから森は好きでない」のだそうだ。

 たしかに住んでみればそうなのでしょう。だから森がなくていい、というのはまずいでしょう。

 だいたいあまり枝を切りすぎると、木は本当に枯れ木になってしまう。地中から水分を吸い上げにくくなるか らだ。木が水分を吸い上げるシステムは、主に2つの現象によっていて、ひとつは浸透圧(※)で、もうひとつは葉の蒸散作用だ。蒸散作用は、葉の表面が水分 を蒸発させるシステムで、これにより水分を吸い上げる力を助けることになる。

 また、森の中などがすずしくてさわやかな感じがするのも、この蒸散作用のおかげであり、葉を渡る風が空気 を冷却するのだ。葉っぱごと枝を切り落とすと、蒸散作用がまったく行われなくなり、水分吸収力が鈍るのだ。余談だが、二酸化炭素を分解して酸素を吐き出す 光合成も行われなくなる。

 我が家のとなりの枝を切られた松は、枝の切り口をよく見てみると、一生懸命吸い上げた水で濡れていた。この水の行き場はない。そのうち切り口は枯れて、湿ることはなくなるだろう。こういうものを見るのが痛々しいのだ。

 細野晴臣氏は若い頃、「アスファルトの道の下に植物の種があったら、芽はどうなるのだろうか?」と思い始 めたら、つらくてしょうがなくなっていた時期がある、と言っていた。それに続けて「元気な人、強い人は、そういうことを考えても大丈夫なのかもしれない が、僕はその時とても気弱だったので、その考えに打ち負かされた感じになってしまった」とも語っている。

 でも、その「元気だから平気な人」が、その後もずっと「平気だから」、ついに木々を切り始めてしまった、 という気がしてならない。どこでも平然と木が切られている。木を切られないようにするには、もう街路樹をすべて桜の木にするしかないのではないか(日本人 は桜は切らないだろう)。

 やはり少しは「木を切ることがつらい」という気持ちを持ち合わせるべきだ。だって、犬の脚だったら切らないでしょう?

 締めの文句。木をやむなく切ったら、薪にするか、それで何か作るべし。同様に、やむなく動物を殺すときは、食べましょう。死を、ムダにしてはいけない。

 モザイクアフリカ

 心の中には モザイクのような
 織り込まれた 昔の記憶がある
 それは時々 顔を出して
 炊き込み御飯のように 湯気をたてるよ

 食べることも 歌うことも 愛することも
 生き物の醍醐味
 食物連鎖 適者生存 生き物の織り成す
 モザイクアフリカ

※浸透圧の説明を書こうと思ったのですが、私が把握していた内容が不正確でした。
松島のおすすめとして、下記ページを参考にしてください。

森田保久の高校生物関係の部屋  http://village.infoweb.ne.jp/~yasuhisa/hisa1.htm

松島さんにメールはkutaja@parkcity.ne.jp


【萬晩報評】街路樹の剪定は本当に悲しいことです。とくに紅葉を間近に控えたイチョウ並木が 丸裸になる姿は痛ましい。驚くべきことに街路樹の剪定は多くの場合、地域住民の苦情でやっているということです。自然に感謝すべきところ、「苦情」ですか ら開いた口が塞がりません。日本人のこころの貧しさを象徴する行為だと思います。(伴 武澄)

去年書いた下記のページを読んで下さい。
1999年09月21日 社員全員に「木を植えた人」を贈った社長


2000年04月11日(火)とっとり総研主任研究員 中野 有


 政府は、北朝鮮へ10万トンの米支援を決定した。これには賛否両論がある。拉致 問題を掲げ、ミサイルを発射する国にどうして支援する必要があるのか。また、田中 真紀子代議士のように10万トンの支援では、庶民に届かないのならば、100万ト ンの支援を行うべきだと主張する人もいる。

 北朝鮮への経済制裁を高め孤立化を狙うのか。或いは、北朝鮮の希望を叶え湧き水 の如く支援を継続させるのか。「All or nothing」の意見を聞きアフリカでの開発援 助の経験が脳裡をよぎった。

 冷戦中、米国は西アフリカのリベリアに米支援を行った。理由は、人道援助と社会 主義への移行を警戒するためであった。米国からの米は、「米」の国あらず家畜の肥 料となるような安い米であった。勿論、リベリア人は、安い米国の米を競うように買 いあさった。

 おりしもリベリアでは、グリーンリボリューション(緑の革命)が推進されている 時期であり、農業振興が重要な国家政策であった。皮肉にも米国の米支援により、海 外から安い米が入ってくるので自国での生産の意義が薄れた。一度大規模な食糧支援 を受けた国は、自立できなくなる。これが真とするなら、米国は米支援を通じ、リベ リアをコントロールしたことになる。したたかな米国の外交である。

 このような環境の下、国連の専門家としてリベリアで、工業や農業の人材育成と、 自主生産性を上げる支援に従事し、技術協力が如何に重要であるかを学んだ。北朝鮮 に対し、米の支援が叫ばれているが本当に重要なのは農産物の生産性を上げるための 支援ではないだとうか。

 16年前、日本が文化交流を禁止している南アフリカに2年間滞在した。目的は、 アパルトヘイト(人種隔離政策)を体験し、アパルトヘイトをなくすには何が必要か 研究することにあった。当時、現在の北朝鮮に対する政策と同じように経済制裁を行 うか、米国が推進する建設的関与、即ち南アへの投資促進策であった。歴史はレーガ ンの政策が正しかったことを証明した。その後、7年の歳月を経てアパルトヘイトの 幕は閉じた。

 ここで重要であったのは、経済制裁で一番打撃を受けるのは、特権階級より庶民で あると言うことである。当時、南アの白人と黒人の共通の利益の合致点は、黒人の教 育水準を上げることにあった。米国の外資系企業は、黒人に雇用の機会を提供すると 同時に大学への機会を提供した。これがアパルトヘイト廃止に効力を発揮した。

 北朝鮮への支援がどうして不可欠であるかは、経済制裁で被害を被るのは庶民であるからである。北朝鮮を国 家単位で考えれば、支援に値しないかもしれない。しかし、北朝鮮以外の国を知らない庶民に手をさしのべなければ、いつまでたっても拉致問題の解決どころか 国交正常化の埒が明かないだろう。そして、支援も農業技術の移転が大事であると思われる。

 韓国の金大中大統領の対北朝鮮政策(太陽政策)は、イソップ物語の「北風と太陽」の現代版である。北風と 太陽が勢力争いをして、結局、太陽が北風に勝ったのは、旅人に無理強いをしなかったこと、つまり、包容力のたまものであった。この処世訓は、北風(経済制 裁)、太陽(食糧支援)、又は、北風(迎撃用ミサイル配置等の軍事的挑発)、太陽(経済協力)のあり方を示唆している。

 韓国では、日本の10倍以上(約300人)の行方不明者があると言われている。更に金大中大統領自身、拉致された身であり、拉致問題の解決困難なことは見通している。韓国は、拉致疑惑問題や民族のわだかまりを超越し、北朝鮮と融和しようとあらゆる努力をしている。

 日本こそ韓国の太陽政策に並ぶ日の丸政策で、北朝鮮の厚いマントを脱がせる努力に傾注し、ペリープロセスの下で、日韓連携を強化すべきである。イタリアに続きオーストラリアが北朝鮮との国交を結ぶ運びである。

   4月早々には平壌で8年ぶりの日朝国交正常化交渉が再開される。楽観的に見れば、今世紀に起こった問題は今世紀中に解決するのも夢でないようだ。7月の 沖縄サミットでは、サミットのアジア唯一のメンバー国日本は、議長国として北東アジアの平和と安定に資することへの熱い期待が寄せられている。


 中野さんにメールはnakanot@tottori-torc.or.jp
2000年04月10日(月)萬晩報主宰 伴 武澄


 4月8日の朝日新聞の天声人語に「小渕前首相幽閉説」が載っていたから、読んだ読者も多いと思う。筆者が電車の中で思いついたのはこんな風景だ。

 小渕さんの病状が好転してある日、退院して、世の中の変わり様に驚嘆し、「俺は青木さんを首相臨時代理に指名した覚えはない。森内閣は法的正当性を欠く」と官邸の明け渡しを求めた。電撃的な首相交代劇は巧妙に仕組まれたクーデターだったのである。

 一方の森さんは「私は国会の正式な手続きを経て首相に指名された。手続きに瑕疵はない」と発表して、居直った。首相臨時代理の青木さんが国会に首班指名を求めたのだから当然だが、当然ながら世の中は騒然となった。

 ●語り部は青木官房長官たった一人

 多くのマスコミ情報を総合すると小渕さんの病状はかなり深刻だということであるから、実際はありえない空想である。だが、そうだからといって密室の中で起きた「首相臨時代理の指定」への疑いが晴れたわけでなない。

 青木官房長官は3日午前11時の会見で「2日午後7時に小渕首相を見舞ったとき、首相から『有珠山対策など一刻もゆるがせにできないので、検査の結果によっては青木官房長官が臨時代理の任に当たるように』指示を受けた」と発言した。

 語り部が青木官房長官だけというのも不思議な話である。小渕さんが倒れてからだれも病院に見舞いに行って いないのである。しかも女房役の青木官房長官が見舞ったのは入院を知ってから10時間以上も経っている。不思議なことばかりである。刑法だったら、裁判所 がこんな「やりとり」を証拠として採用するはずもない。

 森新内閣は、小渕さんが入院してからたった3日で誕生した。手回しのいいことにその2日後には所信表明演 説まで終えた。ものすごいすごいスピードである。正確にいえば、青木、野中、森、村上、亀井という自民党の5人の幹部によって入院の24時間後には森さん を後継首相にすることまで決まっていたのだから驚く。

 この1週間多くの疑問が頭をよぎった。まず考えたのはこの決め方のスピードが異常だったことである。

 首相臨時代理を置くことはなにも特異なものではない。首相の外遊の際には必ず、臨時代理が置かれるのであ る。たとえ小渕さんが病床で青木さんに「検査の結果によっては青木官房長官に臨時代理の任に当たってくれ」という指示があったとしても、臨時代理指定がた だちに首相交代にはつながるわけではないはずだ。

 一部の報道で「小渕脳死説」が出たとき、青木官房長官は「心外だ」と激高したのである。その舌の根も乾かないうちに森内閣が成立するのだからやはりどこかおかしい。しかも永田町のだれもが「政治の空白」を錦の御旗に沈黙してしまった。これも分からない。

 青木官房長官が臨時代理として首相の任に当たれば「空白」などは生まれないし、逆説的にいえば日本という国家は首相が1カ月やそこら入院して国家機能がマヒするような権力構造にはなっていないことを誰でもが知っているはずだ。

 ●臨時代理指定への晴れない疑問

 不思議なことは、内閣法に首相が臨時代理を指定しないで「死亡」もしくは「意識不明」になった場合の規定がないことである。1980年に大平首相が在職中に倒れるという例があったにも関わらず、法整備を怠ってきたのは歴代内閣の過失である。

 森内閣では早期に臨時代理を指定しておくそうだが、ぜひとも法改正が必要である。

 だがその前に、明確にしておかなければならないのは「臨時代理の指定」があったかどうかである。少なから ぬ専門医たちは青木官房長官が病院を訪ねたとされる2日午後7時の時点で、小渕さんが意志を明確に表現できるような状態にあったはずはないと言っている。 そもそも青木官房長官が小渕さんと面会できたかどうかさえ疑わしいというのである。

 内閣法9条には、あらかじめ首相臨時代理の指定がなかった場合のことは規定がないが、常識的に考えて、官 房長官なりが閣議を開いて相談すべきものではないだろうか。実際に閣僚には首相に閣議を求める権限はあるが、召集する権限はない。だが、そもそも法律に規 定がないことを行うのだから、たった5人による密室での謀議よりは格段に国民の理解を得られるというものだ。

 ●野党は主治医を国会に喚問すべきである

 万が一、青木官房長官が虚偽の会見をしていたのだとしたら、当然ながら森首班の正当性が問われることになる。いくら国会で首班指名を受けたとしても、その前提となる内閣総辞職が無効だから、法律的には小渕内閣が現在も生きていることになる。

 クーデターでもないかぎり、現実にそんなことが可能なのかどうか分からない。だがこの一週間に日本で起きた政変劇にはそんなことまで国民に心配させるような疑わしさがつきまとうのである。

 ではわれわれはもはやこうした疑念を晴らすチャンスには恵まれないのだろうか。いやそうではない。

 実はすべての真実を知っているはずの語り部がいる。小渕さんの主治医である。この主治医が真実を語ればす べては白日の下に晒される。本来、小渕さんの病状はこの主治医の口から語られるべきものである。昭和天皇が危篤になられてからだって担当医が記者会見して 天皇の病状を逐一マスコミに公表したのである。主治医があくまで記者会見をしないというなら、野党はぜひこの主治医を国会で証人喚問すべきである。


■内閣法

第4条【閣議】
(1)内閣がその職権を行うのは、閣議によるものとする。
(2)閣議は内閣総理大臣がこれを主宰する。
(3)各大臣は、案件の如何を問わず、内閣総理大臣に提出して、閣議を求めることができる。

第9条【内閣総理大臣の臨時代理】
内閣総理大臣に事故があるとき、又は内閣総理大臣が欠けたときは、その予め指定する国務大臣が、臨時に内閣総理大臣の職務を行う。



2000年04月06日(木)萬晩報主宰 伴 武澄


 小渕前首相の急病による政権交代で森内閣が生まれていたころ、規制緩和に逆行する政府の会議が開かれてい た。お酒の販売免許の許認可が今年9月に一部撤廃されるのを前に、未成年の飲酒防止策などを図る総務庁、公正取引委員会など関係省庁連絡会議の初会合が あったのである。

 ●言い出しっぺは武藤元総務庁長官

 未成年の飲酒防止などという誰もが反対できないスローガンを挙げているが、実は酒販業界が新規参入を阻止し、お酒の安売りをやめさせようと謀っているにすぎない。

 具体的にいえば、新たに酒屋を店開きするときに既存の酒屋と一定の距離が必要とされる基準の廃止を3年間延期させようとしているのだ。

 言い出しっぺは武藤嘉文元総務庁長官である。自民党の一部が「規制緩和が行き過ぎだ」と「種類販売の不当廉売防止策」を求めた。自民党にとっても選挙を控えて支持基盤の酒屋のおっさんどもの協力を得る強力な武器となる。

 問題はこの有志の会の「日本経済を活性化し中小企業を育てる会」という名称である。一見変哲もない名称であるが、会に主旨からすれば、守ろうとしているのは中小業者だけであって「日本経済の活性化」は付録のようなものである。

 武藤氏は「弱肉強食の行き過ぎを是正したい」と主張しておられるようだが、果たして日本で規制緩和は進ん だのだろうか。萬晩報から見れば、規制緩和は中途半端どころか、目標だけが掲げられて実際には多くの規制がそのまま生き残っているところに日本経済の隘路 があると言わざるを得ない。

 日本という国の問題点は景気が回復基調に入ると自分の病状をすっかり忘れて、暴飲暴食に走るところにあ る。これまで何回規制緩和がさけばれて、何回緩和を先延ばししてきたかしれない。平成の大不況と経てようやく日本も自らの患部にメスをいれるのかと思って いたら、この体たらくである。

 もう一つ問題があるのは、自民党の単なる有志の会の提言を政府が総がかりで対処し始めたことである。そも そも武藤氏は規制緩和を押し進める元締めの元総務庁長官であると同時に自民党の行政改革推進本部庁である。これまで行革で培った人脈を使って、自ら判断し て決めたはずの総務庁行政を逆行させようというのだから度し難い。

 ●タクシーの規制緩和にも魔の手

 この育てる会は、タクシー業界の規制緩和についても近くもの申す方針だ。まがりなりにも同一地域複数料金 が実現し、今年から新規参入や増車を自由化する段取りになっている。京都では路線タクシーなどという新しいアイディアまで出ている。多くの市民は競争が激 化して業界のアンシャンレジームが淘汰されることを望んでいる。

 実は守っても欲しいと考えているのは業界団体だけで、票が取れると誤解しているのは自民党議員だけである。

 意欲ある企業はそれぞれに規制緩和に対処した経営方針を考えていたはずだし、心ある自民党議員はもはや旧来の支援団体は頼りにならないことを知っているはずだ。

 いずれにせよ、タクシー業界の規制緩和の実施延期が運輸省中心に語られる日が間近に迫っていることだけは確かだ。


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