2000年3月アーカイブ

2000年03月31日(金)萬晩報主宰 伴 武澄


100年前、「電話の番組表」というのがあったそうだ。オーストリア・ハンガリー帝国の首都、ウィーンでの 話である。「プレジャー・テレフォン」という事業があったという。アメリカのグラハム・ベルが電話を発明したのは1876年だが、創生期に電話がどのよう な使われ方をしたのか実はわれわれはよく分かっていない。

 ●プレジャー・テレフォン

 「プレジャー・テレフォン」事業は、テレビはおろかラジオという言葉もない時代に貴族の邸宅と劇場を専用回線で結んで娯楽番組を「配信」していた。当時のヨーロッパにはコインを入れると音楽やニュースを聞くことができる「電話装置」もあったというから驚く。

 今様にいえば、インターネットそのものである。

 長いこと、電話回線は個人と個人とをつなぐメディアで、電波はマスのメディアの領域だった。インターネットの登場によって1990年代に、この境界がなくなり、単なる電話回線が「IT革命をもたらすネットワーク」に大きく変身したと考えられている。

 だが果たして電話回線は変身したのだろうか。そんな疑問をもっていたところに「100年前の電話番組表」 の話を知って、われわれの思考が100年間、停止していただけなのだと合点した。思考が停止していたのは多くの国で電話回線が国家管理に置かれていたから からなのだろう。そんなことも考えた。

 ●解かれた国家独占の呪縛

 「電話回線」の面白活用が始まったのは、各国での電話電信会社の民営化と付合している。これは偶然ではな い。インターネットの始まりは1960年代のアメリカでの軍事情報の分散管理にあると説明されているが、本当のところは、電話回線が国家の呪縛から解かれ たところにインターネットの原点がある。

 国営電話会社の民営化の背景にはもろもろの事情がある。アメリカはAT&Tという民間企業が電話事業を行っていたが独占事業で、ほかの先進国の国営とあまり変わりのない運営だった。回線の利用には多くの規制があった。

 その間に、多くに民間企業が独自に「専用回線」を持つようになっていた。公衆回線の料金が高すぎたため、1980年代後半には電話料金がかさむ多くの大手企業にとって専用回線の利用が不可欠になり、衛星を利用した回線の使用も進んだ。

 国家独占の市場にいつのまにか「専用回線」という形で多くの民間企業が参入する形態が出来上がっていたといってもいい。

 4、5年前に電気通信の専門家に「民間の専用線ってのはひょっとしたらNTTに匹敵する通信容量をもって いるのではないか。第二電電を含めればNTTなんてマイナーになる可能性がある」と質問したことがある。答は分からないということだったが、電力会社、 JR各社、民鉄は大規模な光ファイバー網を持つし、大手事業会社や商社は衛星も含めた巨大なネットワークを持っている。

 問題はその巨大な通信回線が容量的にも時間的にも十二分に活用されていないということだった。ここでもわれわれは「NTTの独占」という偽りの情報に惑わせられていた。NTTが独占していたのは「最後の1マイル」と呼ばれる「市内回線」だけだったのである。

 ●半額になってもおかしくない市内回線料

 ここにも大きな幻想があった。2年前に郵政省は「公-専-公」という通話を開放した。つまり民間の余っている回線の両端を公衆回線につないで金儲けをしていいということだった。公衆回線とは市内回線ということである。

 これを利用すると国内に専用回線網を持つ企業はみんな電話会社の長距離線を使わずに、外部の顧客と通話が出来るはずだった。背景にはいかに多くの専用線が無駄に使われないまま放置されていたかという日本的問題があった。

 しかしせっかくの「公-専-公」開放というチャンスだったが、その後、「公-専-公」でもうけたという話は一切聞こえてこない。多くの企業が参入したものの、市内回線への接続料があまり高く、メリットはなかったということのようである。

 日本は通信革命で出遅れたといわれているが、光ファイバーの敷設が遅れているわけでもなんでもない。その原因をたどると「市内回線」の高さにたどり着く。

 インターネットの利用でNTTの市内回線の利用は倍増しているはずである。電話は回線に微弱な電流が流れているだけで、回線の利用に応じてコストが増えるわけではない。倍増しているならば、利用料金は半額になってもおかしくない。3倍増ならば3分の1で済むはずである。

 日本ではNTTの呪縛が続くのである。


 1999年07月01日 NTT再編(1)--不揃いの人員配置
2000年03月29日(水)萬晩報通信員 園田 義明


2000年3月21日に大口電力の小売自由化が始まった。その直前である3月16日に日本電信電話 (NTT)と東京ガス、大阪ガスの3社は共同で国内電力小売事業に参入することを正式に発表した。すでに丸紅=仏ビベンティ、三菱商事、米エンロン=オ リックス、英蘭ロイヤル・ダッチ・シェル、米テキサコが参入を表明しているが、いよいよ本命が動き始めた。

 ●単なる序章

今回の『通信』と『ガス』の組み合わせ。そして世界的な再編が加速している自動車業界とエネルギー業界、そ して電機業界。間もなくこの20世紀を代表する基幹産業による垣根を超えた本格的な再編成が始まることになろう。そのすべての視線の先には最後の切り札と 呼ばれる燃料電池がある。

 ●燃料電池とは

燃料電池は1849年にイギリスのグローブ卿が考案した。水の電気分解反応の逆反応を用いる。水素と空気中の酸素を化学的に反応させ、水と同時に電気を発生させる。その特徴として主に次の4つにまとめることができる。

1 低温での理論発電効率が高い。
2 廃熱の利用が容易であり、総合エネルギー効率を高めることができる。
3 環境性が高く、低騒音・低公害発電システムである。
4 小形で高効率が実現できる。
燃料電池の種類には電解質に用いる材料の違いにより、リン酸型、溶融炭酸塩型、固体電解質型、アルカリ水溶 液型、固体高分子型等がある。この中で今一番注目を集めているのが固体高分子型燃料電池(Polymer Electrolyte Fuel Cell=PEFC)である。固体高分子型燃料電池は電解質にイオン伝導性の高分子を使うことで、柔軟なセル設計が可能で常温でも高出力が得られる。初期 のフッ素樹脂系イオン交換膜は米化学最大手デュポンにより開発され、アメリカ宇宙開発のジェミニ計画で採用された。その後米ダウ・ケミカルによってより高 性能な交換膜が開発され、その技術はカナダのベンチャー企業、バラード社(Ballard Power Systems)に引き継がれる。

 ●ダイムラー・クライスラ-=バラード・グループの豪華な布陣

現在バラード社に対しダイムラー・クライスラ-は資本参加し2名の取締役を送り込んでいる。またフォードも 1名の取締役を送り込んでおり自動車主導でその取締役会は構成されている。またバラード社を中心に燃料電池車を商業化するためにカリフォルニア州が進めて いる「California Fuel Cell Partnership」にはホンダと独フォルクスワーゲン社が新たに参加した。同パートナーシップは99年4月に結成された。当初の参加企業は,自動車 メーカーがダイムラー・クライスラーとフォード,エネルギー関連企業が米ARCO 社,Shell社,Texaco社である。

また最近になって米アウトドア大手コールマンがポータブル燃料電池分野での提携を発表し近くプロトタイプの製造を行う。

荏原はバラード社と89年に日本国内での定置型発電システムにおける独占販売・サービス・製造を行うことに 合意し荏原バラード株式会社を設立している。燃料電池の燃料開発及び燃料供給についてはダイムラー・クライスラーは99年10月、三菱自動車工業より一足 先に日石三菱との提携で合意している。

 ●ダイムラー・クライスラ-=バラード・グループに対抗する強者連合

バラード社の燃料電池スタックのブラックボックス政策に対抗してGMとトヨタが中核となり強者による結集が始まっている。燃料電池の研究開発には1千億円を超える投資が必要となることから従来のGM=スズキ連合に富士重工が新たに参加しホンダも触手を伸ばしている。

この連合に国際石油資本トップのエクソンが参加する。98年10月に25年以上も協力関係を維持してきたトヨタとエクソンが長期的な次世代技術提携に合意した。

 ●リフォーマーが決め手に

燃料電池開発テーマは燃料電池スタックから水素を取り出す為のリフォーマー(改質器)へと移行しつつある。 水素そのものを燃料として使用すると最も高効率だが、供給面で限界がある。水素吸蔵合金の可能性も検討されているが重量や同じく供給面で課題が山積みされ ている。従って現在化学反応により水素を取り出すことが主流となる。そのリフォーマーの開発に日米欧の電機メーカーと化学メーカーによる生き残りをかけた 熾烈な競争が進行中だ。 その燃料については分子式に『H』が含まれていれば理論的には可能である。

現在候補にあがっているのはメタノール、天然ガス、LPG、ガソリン、軽油等である。中でもダイムラー・ク ライスラ-=バラード・グループは現時点で技術的に完成しつつあるメタノール改質で優位に立っている。しかしメタノール自体のインフラ構築に有効な戦略を 打ち出せていない。また天然ガスからメタノールを精製できるとはいえ石油業界との利害をめぐる軋轢が生じている。

もともと石油と自動車は相互に協力し合いながら20世紀を主導してきた。現在もその図式は変わっておらず自 動車メーカーの取締役会には必ずといっていいほど国際石油資本の役員が参加している。ダイムラー・クライスラ-も例外ではなくBPアモコのCEOである ジョン・P・ブラウン卿が取締役会に参加している。技術そのものより国際石油資本との合意をいかに引き出すかに注目が集まっていた。ガソリンからの水素を 取り出すリフォーマーの開発が技術的に不可能と思われていたからだ。

 ●変わる勢力図

1998年頃からガソリンから水素を取り出すリフォーマーの開発に明るい兆しが見え始めた。まだその耐久性 が解決されていないようだが、国際石油資本が一斉に動き始めた。現在リードするのはユナイテッド・テクノロジー=東芝連合である。合弁でインターナショナ ル・フュエル・セルズ社(IFC)を設立し燃料電池開発を総合的に開始した。

改質時の環境性を高める努力と耐久性の向上に期待が集まる。今後GE、デュポン、ダウ・ケミカル、旭化成等の動向も気になるところだ。ダイムラー・クライスラ-も方向修正が避けられないだろう。

 ●エジソンの夢

自動車メーカー主導で行われている燃料電池開発にもう一つの側面がある。自動車メーカーは自動車の為だけに研究開発投資を行っているわけではない。住宅用分散型発電への転用を常に視野に入れているのである。

かってエジソンはGEの前身にあたる会社を設立したときに安全性と送電ロスの問題から直流配電を強く主張した。最終的には当時変圧技術が存在しなかった為見送られた。燃料電池による住宅用分散型発電はエジソンの夢の実現に他ならない。

 ●NTTと燃料電池

NTTは早くから燃料電池に注目していた。NTT及びNTTファシリティーズは三洋電機と共同でりん酸形 1kW可搬形燃料電池の開発・商品化を進め、この技術をベースに民生用固体高分子形燃料電池(1kW可搬形電源)を98年10月から販売を開始している。 またバラード社と提携している荏原とも燃料電池ユニットを用いたコジェネレーションシステムのフィールドテストを東京ガスの技術的サポート体制のもと実施 する。

NTTグループは将来的には2大都市ガス企業の一般家庭への天然ガス供給網に燃料電池を組み入れ自家発電による電力供給を行う計画かと思われる。ガソリン改質と比較し天然ガス改質による水素発生はすでに技術的には完成目前となっているからだ。

共同開発先である三洋電機では99年12月に都市ガスを燃料とする家庭用燃料電池コジェネレーションシステムの開発を発表した。システム容量は1KWで従来型と比較しCO濃度低減にも成功している。

NTTグループが開発にかける理由として通信機器は直流機器が多く、燃料電池を用いる事でインバーターが不 要になる。将来的には自社交換機電源のすべてを燃料電池にしていきたい意向を打ち出しており電力供給事業に加えて自社製品の特性上のメリットが高いため だ。そしてもうひとつの重大な狙いが隠されている。

 ●マイクロに拡大する燃料電池

今年1月19日携帯電話メーカー世界第2位のモトローラは、ロスアラモス国立研究所と共同でメタノールを使 用した現在の充電式電池より10倍も長持ちするマイクロ型燃料電池を開発したと発表した。この燃料電池を利用すれば携帯電話は1ヵ月以上、ラップトップは 20時間以上もつという。現在の電池の全てを置き換えてしまう可能性があるこの燃料電池の製品化は2003年頃を予定している。

日本での電力自由化は3年後の2003年をめどに一般家庭向けへの拡大が検討されることになっている。

住宅用とIT、通信関連のDC機器用の燃料電池はあと3年もすれば世界同時に登場することになる。コスト低 減の為にはある程度の量産化が避けられないからだ。その絶対的数値背景から自動車分野との連動に期待が集まるが移動型での技術確立はいかに自動車メーカー といえどもたやすい事ではない。従って燃料電池自動車は2010年以降の発売となりそうだ。

 ●変わる電力コスト背景

こうした中朗報が届けられる。2000年3月3日に政府は、原子力発電所の使用済み核燃料を再処理する際に 出る高レベル放射性廃棄物の処分を進めるため、必要な費用の負担を電力会社に義務づける「高レベル放射性廃棄物処分法案」を今国会に提出した。2015年 までの推計で保管容器4万本分の廃棄物発生が予想され、電力各社は地下深くに埋めるため必要な資金3兆円程度の積み立てが必要になる。通産省はこの負担を 電気料金に上乗せすることを容認する方針としている。

ただし今なお高レベル放射性廃棄物の処分方法は確立されておらず、不透明なまま新たな公的資金につながりかねない状況はしっかり監視する必要がある。

NTTに対抗すべく関西電力が通信事業拡大を発表した。しかし放射性廃棄物という大きなお荷物をかかえたまま何ができるか楽しみである。

結果として劇的な変化が待っている。これまでのAC社会からDC社会への移行は電気製品そのものを変える要素があるからだ。

欧米の政治レベルでの支援体制はすでに固まりつつある。さて日本はどうだろう。


2000年03月27日(月)繋船舎 関 悦子


3月6日から、全国でほぼ一斉に、キャッシュカードがデビットカードとして使えるようになりました。

「デビットカード(Jデビット)」は、私達が普段使っている金融機関のキャッシュカードを、金融機関の ATMではないところ、例えばデパートやコンビニや交通機関、ふつうのお店などで使えるというものです。キャッシュカードを端末機にのせて(または差し込 んで)、いつもの4桁の数字の暗唱番号を打つと、買い物の代金が自分の口座からお店の口座にお金が入るというしくみになっています。

お客である私達は、そこでお金に触れずに支払うことになります。

ただし、東京三菱銀行、東海銀行、いくつかの信用金庫、いくつかの信託銀行は現段階でデビットカードのシステムを実施しないそうです。

これで、お財布に持ち合わせがなくても、口座に有る残高の範囲であれば、支払いを済ませられます。近くにATMがないときでも、あわてなくてすみます。また、金融機関によって違いますが、休日や夜遅くなど、ATMの動いていない場合でも、使えることになります。

そして、少ない金額の場合でも使えるため、小銭をジャラジャラさせることもなくなります。これが浸透すると、お店側はおつり銭の心配がいらなくなりますし、現金を数え間違ったり、盗まれたりすることがなくなります。

 デビットカードのリスク

逆にどういう危険が起こりうるのでしょうか。

キャッシュカードは、これまでは監視カメラがあるなどごく決まった場所で使っていた訳ですが、端末機を用意するお店や場所がふえると、どこでだれがどんなカードを使ったかが解りにくくなります。不正に使用されても突き止めにくくなります。

もし総合口座ですと、普通預金の口座にお金がなくなっても、定期預金の90%まで普通預金の方に回して使えるようになっていますから、不正使用されたときは定期預金まで使われる可能性があります。

また、このカードは偽造が簡単に出来るとテレビなどでのレポートを見たことがあります。秋葉原などの専門店街では、そんな機械が売られているそうで、多少その道に詳しい人の手にかかれば、とても簡単にできるのだそうです。

いまのキャッシュカードは見える、見えないの違いはあっても、磁気テープにデーターを記録してあり、72文字だったか、22文字だったかの情報が入れられるそうです。これは約30年前にできた古くからあるシステムです。

私達はこれを暗唱番号によって、他人に使われないよう守られています。しかし、暗唱番号は4桁だけの、数字だけです。本人かどうかを確認するのは、この4桁の番号だけです。

クレジットカードも、現在はキャッシュカードと仕組みは同じですが、不正使用がわかると、決まった期間内に手続きをすれば、保護される保険がついています。また、引き落とされる前に、使用明細が届き、間違いないかどうかを事前に、自分で確かめることができます。

しかしキャッシュカードでは、不正に使われても、保険を付けて、私達を保護してくれるところはほとんどないようです。金融機関によってはつけているところもあるかもしれません。その場合も、300万円以上は保護してくれないというケースを耳にしたことがあります。

それじゃあ、それ以上のときはどうするというのでしょう。「ご自分で払って頂きます」というのがその回答です。よーく確かめなければいけませんね。

使いかたがわからないからといって、お店の人に代わりに番号を打ってもらったり、また、だれかに見られてしまいそうな所での番号の入力は、しないように気をつけなければなりません。自己責任と危機管理の自覚が必要になるのです。

 私の対処法

窓口に、届け出た印鑑と通帳と身分証明をもってでかけました。「私はデビットカードの機能を使いたくないので、その機能を停止するための手続きをしたい」といいます。
理由をきかれることもあります。
所定の用紙に記入、捺印し提出。
窓口担当者が自分の判など押します。
「自分の控えがほしい。コピーでもかまわない」というと、応じてくれました。
「いつから停止が実施されるか」を確認。

危ない期間があるときは一時的に引き出して、安全な口座に移したり、被害にあってもあきらめのつく程度の金額にしておく、など..。 ほかに、デビットカードの取引規定をもらって、今後のためによくわかっておくとよいでしょう。停止手続きをしない場合こそ、必要ですね。

郵便局は「ぱるる」という口座だと機能停止ができませんでした。
方法はないかきいたところ、口座番号は変えずに、普通預金口座にする手続きをとれば、これまでのキャッシュカードとして使える。ただし、「ぱるる」では口座からの送金ができたが、普通預金口座の場合はできない、とのこと。

理由をきかれたときには、つぎのように答えました。
「今の磁気テープによるカードでは、セキュリティー(安全性)に問題があると思う。偽造事件も多いときいている。不正に使用されたときに保護されないので あれば、自分ではそのリスクを負ってまで、利用しようとは思わない。そのリスクは負いたくないから、機能を停止したい。」

 抗議したいこと

まずキャッシュカード利用者すべてに新サービス開始を告知すべきです。同時にデビットカードの取り扱い規定を届けるべきです。また万が一の被害にあったときのための保険をつけるべきでしょう。デビットカードにはなんらかの保護が必要です。

なんの通知もなしに、使用方法も、利点も、起こりうる危険と対策の説明も、なにもないままに、知らないうちにほとんどの全国民を巻き込んでおいて、もしものときは被害の保証もしない。金融機関は税金をたっぷり使って身を守っておいてです。

なぜ、こんなに準備期間もなしに、大事なことをしてしまうのでしょう。
「インターネットでの取引との関係は」
「犯罪が起こったときの法律は」
「相応に罰せらるのでしょうか。警察の対応は」
「保護、保証は」「責任は誰が」
大量に不正が行われたら、どうなるのでしょう。

重大な問題がおこったときに、誰かが辞職して片付けられるのでは困ります。

私がデビットカードの実施を知ったのは、2月上旬の朝日新聞の記事です。銀行などの店頭でもそのような告知は目に入りませんでした。

デビット機能停止を相談に行っても、窓口での対応はテキパキとは行かず、とくに初めのころは、うろたえて偉い人が出てきたり、どこに聞いたらわかるのだろうかと内部で相談し、本部とやらに電話で問い合わせる場面にも遭遇しました。

私はたまたま、仕事がその方面に近い分野の職場なので疑問に思ったわけですが、普通の人、たとえば私の親、姉妹なら、たぶんあまり心にとめることではなかっただしょうし、興味があっても便利さだけに目がいったでしょう。

余談ですが、私が郵便局で上記の手続きをしてきた折りには、すでに1年近くも前から、自分のカードがデビットカードになってしまっていたことを知りました。(被害にはあっていません)

 デビットカードは悪者か?

いいえ、きっと便利でいずれ普及して行くことでしょう。なにが問題なのか?磁気による30年前のセキュリティーシステムだから危険が多いと心配されるのです。

今、「ICカード」という、キャッシュカードと見かけはほとんど同じですが、カードの中に、とても小さなコ ンピューターが入っているようなものができています。この情報量は磁気テープとは比べ物にならないもので、それを利用してもっと偽造されにくいシステムを つくり、本当に本人であるかどうかの確認がもっと高度にできるようになどと、日夜、研究が進められ、一部では使われはじめています。

世界的な基準をどのようにするかという取り組みが専門家たちによって進められています。ここ数年のうちにはもっと身近になってくるらしいです。法律の面が整備され、間違いも極めて少なく分かりやすく安全性の高いシステムができれば、話しは違うと思います。

悪知恵はどんどん発達しますから、守る側といつもイタチゴッコ。安全性に絶対ということはないといわれています。でも、すこしでも危険が減らせるようにしなければなりませんし、おおよそ安全といえなければ、普及させるのは納得がゆきません。

それにしても、どこまで便利になれば気がすむのでしょうとも思います。


 関連コラム1999年03月17日「夢に終わったコンビニのレジでの現金引き出し
 関さんにメールはCQA12203@nifty.ne.jp

2000年03月24日(金)萬晩報主宰 伴 武澄


 山王パークタワーという溜池に2月オープンしたビルを訪問した。NTTドコモ本社が移転し、三菱信託銀行の本店もある。建設中の新首相官邸に隣接しているため、警備上いろいろな工夫がされているという注目のビルである。

 ビルの外壁のコンクリの柱が外側に幅をもたせてあったり、斜めから見たときに曇りガラスになる特殊な窓の構造になっていて、官邸を直接見下ろせないよう工夫がされているということだったが、どうも真っ赤なウソであることが分かった。

 特殊な曇りガラスは確かにあったが、160センチほどの高さまで、それから上は普通のガラスになってい る。ちょっと背の高い人や普通の背丈の人でも台の上に上がれば曇りガラスの効果はない。それこそ官邸は丸見えなのである。ゴルゴ13ばりの射撃手ならば、 窓越しに官邸にいる要人を狙うことは不可能でない。

 ●財政危機でも止まらない建設

 日本の危機管理のお粗末さがここでも垣間見られたのだが、筆者はまるっきり違うことを考えていた。

「官邸が隣のビルから丸見えであろうとそんなことはどうでもいい。日本は首都移転を議論している最中に、首相官邸を新築しているのだ」

 山王パークタワーから見下ろす新首相官邸の建設現場をみながら、そんなことを思い起こしていた。

 調べてみると新官邸建設費は本館だけで435億円である。遅くとも再来年のいまごろに本館は完成する見通しである。

 いま日本は金融機関の不良債権問題と景気の長期低迷、それに財政の危機に立たされている。その一方で首相 官邸を新築するのだそうだ。1998年度の第3次補正予算で278億円もの建設費用が計上され、去年6月から新首相官邸の建設が着工しているのだ。確か第 3次補正は景気対策である。

 4年前に、首相官邸の新築計画が浮上したときに「なんでこの時期に」と記事を書いたことがある。阪神大震災の直後で首相官邸の機能強化がさけばれていた時期でもあった。実は災害時を想定した官邸機能は多摩地区ですでに機能しているのだ。

 官邸の新築の閣議了解はいまを遡る13年前だが、実質的に始動したのは村山政権のときである。橋本内閣のときにゴーサインが出て、小渕内閣が実際の予算をつけて建設が始まったのだ。この間、だれも首都機能移転との矛盾を指摘してこなかった。

 ●新官邸は10年の使用が前提?

 そのとき、取材に応じた官僚の言葉が忘れられない。言葉尻は正確には覚えていないが、後輩記者は以下のように報告したのだった。

「新しい官邸は新首都移転までの暫定的なもので、10年程度の使用を前提に設計を進めている」

「ほぅ、この国はプレハブ官邸を建てようとしているのか」。建て替えの最大に理由は官邸の老朽化だったはずである。黒を白と言いくるめるのがうまい官僚の言いそうな文言だった。

 去年12月、2000年度予算を編成していたとき、国会等移転審議会が首都機能の移転先を決められずに3 地域を並列して答申したことは記憶に新しい。移転先を諮問された審議会が移転先を決められないのならば、審議会の意味をなさない。委員たちはただちに辞職 すべきだったがそんな議論も起きなかった。

 自分の目が黒いうちに首都移転が実現するなどと考えている人は霞ヶ関周辺にはいない。マスコミもどだい無理な話だと思っている。思わせぶりな記事は、真面目に誘致に取り組んだ自治体の職員を踊らせただけでに終わるのだろう。罪な話だ。

 ちなみに一般に「首都機能移転」と考えられている首都移転論議の、政府の正式な名称は「国会等移転」である。実は誰も「首都移転」といったことはない。あくまで「首都機能」であり、移転を議論しているのは「国会等」となのだ。

 国会等移転審議会は1年以上も前、新しい国会議事堂や低層の建物群を田園風景に配置した「新首都」の最終 的なイメージ図を盛り込んだパンフレットを作成し、ホームページに公開した。だが、審議会での議論をつぶさに読んでみると、このような新首都が出来上がる のは30年も先の話なのだそうだ。

 そういえばマレーシアの新行政都市プトラジャヤの建設は通貨危機の間も休まず続けられ、新首相官邸は去年6月すでに引っ越しを終えているそうだ。


2000年03月22日(水)在独ジャーナリスト 美濃口 担


 3月2日と3日の二日間に渡って「2000年シンポジウム‐大学の未来」がミュンヘン大学で開催され、姉妹大学関係にある東京大学とミュンヘン大学の先生がグローバル化した世界で変貌する日独の大学を語った。当時話しを聞きながら思いついたことを今から書く。

 ●居心地がよいドイツの大学

 19世紀から20世紀の前半までドイツの大学は人文系の分野でも科学・技術の分野でも、また世界をリードしていた。当時数え切れないほどの多くのノーベル賞受賞者をこの国の大学はうみだしたが、今や昔日の面影はない。ドイツの大学も本当に色々な問題を抱える。

 昔は大学進学率が低かったのであるが、現在では40%近くまで上昇した。学生数が増大して大衆化の波が押 し寄せてきたのに、大学のほうは輝かしい伝統があるために考え方を変えることができない。教育と研究を区別する意識が希薄で、学生はフンボルト以来の「大 学の自由」という名のもとにほったらかしにされる。授業料もただ同然で居心地が良いために、平均卒業年齢が隣国と比べて27歳半と飛びぬけて高い。

 この事情を、数年前当時のヘアツォーク大統領が演説のなかで「我が国では大学卒業後数年でミドルライフ・ クライシスに突入する人々が多い」と茶化した。また卒業には他国の基準で大学院卒に相当する知識や能力が要求される。そのため卒業資格を取らずにやめる学 生の割合が半分近くで、これも色々な「お免状」を用意する方式のほうが良いと批判される。

 ●温存された講座制

 研究面でもどこか時代錯誤的である。職人の世界にマイスター(親方)がいるように、大学には教授資格がある。この教授資格論文が受理されないと一人前の学者として扱われない。19世紀以来のタコツボ型講座制が温存されていて、これを審査受理するのは長老教授である。

 その結果、長老に40歳近くまで徒弟奉公のできる性格の持主が大学に残る傾向になる。今でも時にはドイツ人がノーベル賞をとることがあるが、こんな大学内職人制度を嫌って外国に流出したドイツ人学者であることが多い。

 今回のシンポジウムでは、大学活性化の方針として縦型の講座制を打破する学際研究を奨励する点で日独出席 者の見解が一致した。この事情は、明治の日本がドイツ型大学制度を取り入れたので、日本の大学にも類似した縦型構造が残っていて、活性化となると学際研究 という横の関係をいじるしかないからである。

 大学教育の時代への対応という点では、日本のほうが遥か先を進んでいる。ドイツの大学改革議論で大学独自 の入学試験や授業料、また大学教育でのカリキュラムの導入が特効薬として提案される。教育に自腹を切る伝統がないこの社会でも私立大学の育成が要求される ようになった。しかし今まで設立されたのはわずか一校である。どれもこれも日本では昔から実現していることばかりである。

 数年前ハイデルベルク大学で年間邦貨で一万円あまりの授業料導入で学生の反対デモがあった。取材で出掛けた私から日本の大学授業料の金額を聞いて学生達が本当に困った顔をした。

 ●「独立行政法人化」

 周知のように、日本ではこの一年間国立大学の「独立行政法人化」が議論されている。日本側のこの現状報告に対して、アンドレアス・ヘルトリッヒミュンヘン大学学長は

「幸いなことにミュンヘン大学は法的執行能力をもつ法人で、不動産も所有できるし、今私達がいる建物も大学の所有物である。小さいながら森までミュンヘン大学はもっているし、、、」

と日本側を同情するようにコメントし、大学が所有する不動産を自慢げにならべはじめた。

「、、、そういえば、州議会の建物も大学のものである。大学のなかで審議しているのだから予算面でもう少し大学に親切になってくれれば良いと私はいつも思う」と冗談をとばした。

 私には日本の大学関係者に知人や友人が多く、「独立行政法人化」に反対している人がたくさんいる。確かに これは財政赤字減らしの一環であり、また去年文部省が急旋回したのもナワバリを失いたくない文部官僚の意図が見え透けである。とはいっても、ドイツ側の 「これはあきれた」という顔が物語るように「独立行政法人化」推進派の論拠のほうが通りやすい。

 ●日本の「国立大学」

 正直いって、私はこの議論が起こるまで日本の国立大学が法人でなかったことも知らなかったし、その「国立」が何を意味するかもあまり考えなかった。

 日本の大学には国立‐公立‐私立の区別がある。この区別をドイツに適用すると公立大学しかないことになる。というのは、分権国家のドイツでは教育主権が州にあり、大学も州立で公立大学ある。日本の国立大学に相当するのは軍隊の将校を養成する国防大学しかない。

 分権制であるために中央と地方の区別がはっきりしていない。この国に、ベルリン大学を中央の大学と見な し、例えば地方都市のハイデルベルク大学を「地方大学」と見なす奇妙な人はいない。ベルリン大学はベルリンの町の「地方大学」なのである。とするとこの国 には「地方大学」しか存在しないことになる。

 ドイツの大学は近代国家成立より遥か昔に地域とむすびついて生れた。それに対して、日本の国立大学は上か らの近代化という国策の所産である。とすると、「国立」とは「国策」ということである。法的に見て国立大学が文部省の出張所のような存在であって、それが 自明のことにされてきたのも、恐らくこの事情を物語ると思われる。

 ●分権化と絡めて

 ヨーロッパで見ていると、この数年来進行中のグローバリゼーションは国家という単位が弱くなることであ る。いっぽうこの国際化圧力に対して「地域性」とか、地方自治体とか、いずれにしろ今まで国家より下位にあった公的単位の重要性が強調され、このグローバ リゼーションに伴う変革に方向性をあたえる。これは、もしかしたらナショナリズムがもたらした愚行をくりかえしたくないヨーロッパ人の知恵が無意識に働い ている証拠かもしれない。

 遠くから日本を見ていて、私が不安を覚えるのはこの点である。というのは、人々の意識のなかで強力なのは中央官庁と企業で、ヨーロッパで人々の拠り所となる地域性といった、国家より下位にある公的単位が弱いからである。

 以前、久しぶりに会った国立大学に勤務する友人が「文部省の役人は高等教育予算など、娘息子に手渡すお小 遣い程度にしか考えていない」と嘆いたことがある。このような文部省が言い出した「独立行政法人化」に対して「絶対反対」で行くべきではないと思う。この 問題はすでに日本で進行している分権化の議論と絡ませるべきではないのか。

 教育や研究の業績査定となると、当然その基準と、基準を解釈運用する査定委員会のメンバー選考が重要であ る。この基準設定でも地域性重視を盛り込むことができるし、またメンバーの選定にあたっても大学関係者、中央官庁、更に地方自治体の声が均等に反映する仕 組みをつくることもできるのではないのか。「条件闘争」を拒む「無条件闘争」こそ、「無条件降伏」につながるのである。

 すでに述べたように、ドイツの大学にも問題は山積みしている。改革も少しづつしか進まない。それでも世論 とかメディアでの議論は盛んである。かなり前から、毎年いくつかの雑誌で「大学ランキングリスト」が発表されるようになった。すべての大学が、授業内容・ 仕方から始まってその大学町の家賃に至る多数の項目を網羅するリストのなかで主要学科ごとにリストアップされ、点数をつけられる。

 このようなリストを作成するためには該当大学の学生にインタビューするなど大規模な調査が必要であるが、 雑誌のこの号はよく売れるといわれている。この種のリストは大学を選ぶ参考になるだけでなく、世論の関心を大学内で行われることに向けるのに役立つことは いうまでもない。

 教育にしろ研究にしろ、大学内部で起こることは社会の未来に重要である。大学ランキングで「偏差値」ばかりに気を奪われるのはそろそろやめるべきかもしれない。(みのくち・たん)


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2000年03月20日(月)とっとり総研主任研究員 中野 有


 坂本竜馬なら現代の難局に如何に取り組むだろうか。司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」の影響が大きいのか、人生のターニングポイントに接したとき常に「竜馬ならどうするのだろうか」と自問してきた。

 1933年に中央公論社から出版された「非常時国民全集・外交編」の中に竜馬が登場する。司馬氏が竜馬を 描く30年以上も前である。今時こんな本を手にする人はいないと思うが、たまたま東京神田の古書店で見つけた。その本の中で「竜馬なら戦前の難局をどう乗 り切るか」のヒントがあった。この本には、時の外務大臣の広田弘毅、国際連盟脱退の演説をした後の松岡洋右など、日本の命運を左右した先人の論文が数多く 掲載されている。

 歴史を学ぶ最善の方法は、本人直筆の論文から現場を経験した行動に伴う思想やビジョンを読みとることであ る。そこには教科書や抽象的一般論からは得ることができない歴史の潮流が潜んでいる。非常時国民全集の中に鶴見祐輔氏の「世界外交の危機1936年」とい う50ページにわたる論文の結びに竜馬は現れれる。論文の結びだけが小説風である。この傑作を以下できる限り原文にそって要約する。

 懐手をして海を見ていた男が、くるりと後ろを向くと、「どうだ、おもしろい世の中になってきたね」と爽快な南国弁で大きく言った。どこか見たことのある顔だ。そう、坂本龍馬だ。

「ほう、お手前もそのとこを考えていたのか」と、これは歯切れのいい江戸弁だ。勝海舟だ。

「もう一遍桂浜に帰りたいなあ。我々はちと早く生まれすぎたな。あの時分は、ご一新と言っても、なにしろ舞 台が小さかった。それがどうじゃ。今度は世界が相手、徳川でも新撰組でもない。相手は世界の一等国ばかりじゃ。この大きな舞台に出て潮に乗る今の若い奴等 がうらやましい。生活難とか不景気とは、つまらんことを言いおるが、我が輩共の当時の生活を考えてごらんなされ。ま、まるで話にもならん贅沢な暮らし じゃ。一体、今の日本に何が欠けているのじゃ」

 まるで喧嘩腰で、竜馬は海舟に詰め寄せた。

「今の日本に勇気と見識が必要じゃ」と海舟は冷然と答え更に続ける。

 1936年は単純な海軍競争でも陸軍競争でも、一国と一国の争いでもない。全世界の根本的見直しの序幕 じゃ。上手な作者は、序幕を先に書きおらん。まず一番おしまいの第5幕を書き下ろす。つまり、どう幕切れを付けるか芝居のねらいどころじゃ。日本民族の千 年後の結論をどこに持っていくか、それが大切なのじゃ。

 日本民族の大仕事は、太平洋文化の建設じゃ。東洋と西洋の文化を悉く取り入れて、日本精神をもってこれを 大きな新しいものに作り変える。それが日本民族の運命・使命なのじゃ。日本は東洋でも西洋でもありはせん。日本は日本なのじゃ。だから東洋と西洋とを我が 大腹中に包み込む気迫がなくてはいかん。

 21世紀は米国と中国の対立が生じる可能性が高い。日本の役割は、米国と中国との仲人か。沖縄サミットの重要議題は、発展途上国支援、紛争予防などである。アジアで唯一のサミットのメンバー、議長国日本は、どのように中国の意向をサミットに反映させるのか。

 サミット前の5月に天津で、北東アジアの多国間協力や北東アジア開発銀行構想の会議が開催される。中国や韓国は北朝鮮の瀬戸際外交を、建設的なアプローチで包括させるだろう。その背景は、中国や韓国の米国主導の迎撃用ミサイルへの反発がある。

 北朝鮮は、イタリアのみならず、オーストラリアやフィリピン等との国交正常化を急務と考えている。その延 長線上に米国や日本がある。日本も日朝国交正常化交渉を再開させる。北朝鮮の戦争賠償に伴う資金協力に対し日本はどのように対応するのか。今夏の沖縄サ ミットでは、日本の役割を発揮できる最高の環境が整ってきた。

 まだまだ千年のシナリオの第2幕が始まったばかりである。竜馬なら、沖縄サミットで、発展と紛争の可能性を秘めた北東アジアにどのような奇策をぶつけるのであろうか。(3月15日日本海新聞「潮流」掲載=なかの・たもつ)


 中野さんにメールはnakanot@tottori-torc.or.jp
2000年03月19日(日)萬晩報主宰 伴 武澄


 3月18日、台湾の総統選挙で陳水扁氏が勝利し、国民党の公認候補の連戦氏が惨敗した。いろいろな思いが去来した。萬晩報はこのところ、月・水・金を定期配信日としてきたが、きょうは「萬号外」である。

 ●台湾で途絶えた辛亥革命の血縁

 まず思いついたのが「国民党時代の終焉」という言葉だった。この日は中国にとって、辛亥革命の発火点となった1911年10月10日の武昌蜂起以来の歴史に転換点になるのだろうと漠然と考えた。

 台湾の暦で今年は「民国89年」。辛亥革命・中華民国成立から89年目という意味である。共産党は民国という年号を1949年に捨てたが、中国の一部である台湾にはずっと公式の年号だったし、大陸でも「民国」という年号は革命の起点として歴史的に重要視されてきた。

 中国が清朝の支配から脱却したのは辛亥革命によるもので、国民党はその革命の中から生まれ、中国共産党もまた同根である。国民党と共産党とは革命の異母兄弟として生まれ、「合作」と「対立」を繰り返してきた。

 だが、この日、ついに国民党による政権はなくなることが決まり、5月には民進党というまったく遺伝子の違う政権が台湾生まれることになった。

 4年前の台湾総統選挙で李登輝総統は勝利宣言の中で「中国有史以来初めて民主的に選ばれた政権」であることを強調した。だが李登輝総統の胸のなかには「国民党が銃剣から生まれた政権政党」であるとの意識は強く残っていたはずである。

 それが今回はすっかり様相が変わったのである。昨夜、中国の国務院台湾事務弁公室は「台湾の新政権の言動を見守り、両岸関係をどのような方向に導こうとするのか注視する」と比較的穏やかな調子で陳水扁政権の誕生を論評した。

 だが民進党候補の勝利は大陸の江沢民政権にとっては最悪の選択肢だったのだろうと思う。国民党は一度は大陸に覇を唱えた政権政党ではあるし、蒋介石、蒋経国父子は「中国と台湾が異なった政体である」などと考えたことはなかった。

 また海外華僑などを通じた地下水脈における国民党と共産党との非違公式な交流は戦後ずっと続いていたはずである。

 だが、民進党にはそのいずれもない。大陸と台湾は、つまり共産党と民進党は、道理的に考えてまさに大陸が嫌がる「国家対国家」の関係により近づかざるを得ない。台湾において、中国・辛亥革命の血が途絶えた日といっていいのかもしれない。

 ●野党総統誕生を育んだ李登輝

 国民党主席としての李登輝総統は総統選挙の結果について「民主政治の成熟を十分に証明できたことを喜びたい」と他人事のように論評した。

 この選挙を通じて興味深かったのは、台湾生まれでありながら国民党の党首である李登輝総統の心情と民進党の陳水扁の主張が一番近いとされたことである。陳水扁勝利を一番喜んだのが李登輝総統だったとしてもなんら不思議でない。

 民進党のもともとの綱領は「台湾独立」だった。陳水扁氏自身も過去に「台湾はすでに独立主権国家である」と語るなど心情的には「台湾独立派」といっていいのかもしれない。

 昨年7月、李登輝総統が「国と国」を提起したとき、「総統の主張は賛成だが少し挑発的で刺激的すぎる」と 穏健に論評し、今回の総裁選挙では「独立宣言は国名変更はしない」ときっぱり「台独」を否定するなど大陸との関係に関してかつてほど「台湾」を全面に押し 出していない。

 李登輝総統の方がよっぽど台湾独立に傾いているといってよいのかもしれない。国民党総統と民進党との対大陸政策のねじれ現象がここにある。

 だがここに忘れてはならないことがある。1980年代後半に大陸の親族訪問する「探親」を解禁したのは前総統の蒋経国氏だったということである。国民党以外の野党の結成を解禁し、戦後、ずっと続いていた戒厳令を廃止したのも蒋経国だった。

 蒋経国は父・蒋介石の後を継いで1978年に台湾総統に就任するが、その翌年アメリカが中国を承認し、そ れ以降、政治的に世界の孤児となる不幸に見舞われた。陳水扁氏の人生を変えた美麗島事件はまさに蒋経国時代に起きたのだが、晩年の蒋経国は台湾民主化の端 緒をつくり、大陸との対話を開始したという点で歴史的に再評価されるべきであろうと考えている。

 そして蒋経国の最大の功績は、野党候補による総統誕生の土壌を育んだ李登輝をその後継者として選んだことだった。

 当然のことながら、国民党内では連戦氏の惨敗の責任を李登輝に問う声が高まっている。歴史の経綸に触れる問題だが、未来の台湾史は必ずや台湾の民主化の道を切り開いた歴史家として蒋経国と李登輝の名前が記されることになるだろう。


2000年03月17日(金)萬晩報主宰 伴 武澄


 1月から中公新書で「フロイス日本史」に復刻版が出版されている。まだ2冊しか手にしていないが、12月まで毎月1冊ずつ上梓されるというから大著である。最後まで読めるかどうか不安である。

 ●歴史家松田毅一のライフワーク

 原書はキリスト教の布教のためはるばる日本にやってきたイエズス会の宣教師ルイス・フロイスが描いた 400年前の日本紹介の書である。不幸なことにこの膨大な著作は当時のマカオのイエズス会から「あまりにも文章が冗漫過ぎて、しかもキリスト教の布教には 役立つものではない」と烙印を押され、ポルトガル語で書かれた原本はフロイスの死後、マカオで焼失した。

 400年後にそれが蘇ったのは、3年前に亡くなった故松田毅一の功績である。功績というより執念といった 方が正確かもしれない。焼失したフロイスの「日本史」の写本があることを知った松田毅一は数十年かけて世界に散らばった写本を集め、全編の活字化に取り組 んだのである。これは歴史家のライフワークである。

 イエズス会というのは日本人なら誰でもが知っているザビエルらバスク人たちがつくった当時の新しい教団だった。バスク人はいまでもスペインとフランスの国境に住み、独立を目指す人たちである。

 16世紀、ドイツでルーターが、またスイスでカルビンがプロテスタントを起こし、キリスト教に新風を送り 込んでいたころ、スペインの北方で異端視されていたバスク人たちが起こした教団が伝えたカトリック教がアジアで新鮮な宗教として受け入れられたのだから歴 史は皮肉である。

 いずれにせよ現在のポルトガル人にとっても難解な400年前の旧ポルトガル語から日本語訳して活字化した松田毅一の偉業は歴史的な業績であるはずだ。20年以上も前に出版された「フロイス日本史」全12巻は1981年に菊池寛賞と毎日出版文化賞を授賞した。

 当時、横浜国立大学経済学部で松田毅一にスペイン語を学んでいた作家の沢木耕太郎氏は著書「深夜特急」の 中で「450年前のどこかの国の宣教師が書いた本の翻訳に一生を賭ける熱をあびた」と若手学者だったころの松田毅一氏を紹介している。沢木耕太郎はさら に、松田毅一に学ばなかったらアジアや世界への旅にも出なかったかも知れないと2年余前に出た松田毅一の追悼集に書いた。

 ●大村市にできた「南蛮文庫」

 筆者もまた学生のころ、松田毅一が書いた南蛮関連の著書を何冊か読み、刺激を受けた一人である。5年ほど前、友人を介してその長男である松田健さんと知り合いになったから縁とは奇なるものである。

 筆者が知った松田健さんは日刊工業新聞の記者を辞めて、経済ジャーナリストとして独立したばかりだった。 「インターネットでアジアの記事を書くんだ」と話をしていた。「何を夢のような」と思ったが、あっという間のそれが当たり前のこととなった。健さんはいま も年の半分以上はアジアにいる。

 その健さんから最近、長いメールをもらった。亡くなった父親の「松田毅一南蛮文庫」が長崎県大村市にできて、寄贈した5,400点におよぶ蔵書・史料が市立図書館で2月18日から一般公開されたという知らせだった。

 「松田毅一南蛮文庫」には、ルイス・フロイスが手書きで執筆した「日本史」の写本だけでなく、松田毅一が取り組んだ仕事に関するすべての史料のほか、大阪の天王寺中学生の時に執筆した「台湾・沖縄の旅」などの珍しい本も納めてあるという。

 大村市と松田毅一の関わりは長く深く、若い学者だったころ、1954年に当時の大村純毅市長の依頼により「大村純忠伝」を執筆したほか、最近まで同市で開催されて講演会や天正少年使節などに関するシンポジウムにも参加していとということだった。

 豊織時代は幕末とともに日本史のなかでも最もドラマに満ちた時代だった。生涯をこの豊織時代の解明に尽く した松田毅一の文庫が南蛮ゆかりの長崎県に生まれたことを喜びたい。健さんは「蔵書目録は、京都の長岡京市の書斎で父がとっていた分類方法が採用されてい るため、父の書斎がよみがえった感じです」とメールを結んでいた。


2000年03月15日(水)メディアケーション 平岩 優


 台湾の総統選挙が間近に迫っている。隣国の最高政治ポストをめぐる選挙であり、しかも、東アジアに大きな 影響をあたえる台湾と中国の統一(独立)問題にもかかわる政治的なイベントでもある。にもかかわらず、日本のマスコミ報道ではアメリカの大統領予備選の影 に隠れて目立たない。

 選挙の方は国民党が候補者選びで分裂したため、野党・民進党候補を加えた3人の候補者が横一線に並び混戦 が続いているようだ。一方、前の総統選挙でミサイル発射のデモンストレーションによりかえって反感をかった中国は、武力行使の条件に「無期限の統一交渉引 き延ばし」(台湾白書)を追加するなどにとどめ、今回は実力行使は控えている。

 ところで、その総統選を前に、統一問題を考えるための優れた著作が出版された。以前から私が敬愛している 名古屋大学経済学部教授・とぅ(にすい+余)輝彦氏の『台湾の選択』(平凡社新書)である。本書はなぜ台湾が独自の通貨を持ち、独立した関税地域でありえ たのかなどを問い、台湾という存在がいかにきわどい偶然の積み重ねの中で存続してきたかを検証している。

 また、統一問題を考える際に、一国二制度の香港のケースの成り行きが重要なポイントであることは当然とし て、東ティモール独立のケースも大きなインパクトを与える可能性があると指摘している。こうした問題について興味のある方は著作に当たってもらうとして、 私が著作に触れて感じたことは、われわれの台湾に注ぐ視線がどこかおかしいということだ。

 ●切っても切れない日台関係

 台湾は誰もが知るように、日清戦争の結果から1895年~1945年まで日本の植民地であった。そして、 第二次世界大戦敗戦を受け、ポツダム宣言では「日本は(台湾を)放棄するとだけ書いてあったらしい」。中国に返却するとか、国連が統治するとか、いろいろ 処理の方法があったのに、つまり、あいまいなままに置かれた。1951年、戦勝国と日本の間で結ばれるはずであったサンフランシスコ条約からは中国が除外 され、もちろん台湾も入れなかった。52年には台湾と二国間で日華平和条約が調印される。しかし、この条約は72年、日中国交正常化がなると「日華平和条 約は存続に意義を失い終了した」(大平外相の共同声明における記者会見での表明)。それ以降、現在まで日本は台湾に対して、いってみれば政経分離の政策を 適用している。しかし、日台の経済関係はきわめて密接であり、しかも、日本は台湾から毎年、年間約170億ドルの黒字をつくりだしているという(とぅ先生 は日本の外貨準備の4分の3は台湾から稼いだと述べている)。

 だから、今、日本の企業や私たちは中台関係はこのままのあいまいな形でよいとし、経済的にもこのままの方が望ましいとどこかで思っていないか。つまり、本当を言えば台湾という地域やそこに住む人たちへの関心が希薄なのではないか。

 とぅ先生は、日本は終戦後台湾の処理にかかわることができなかったが、50年間統治したのだから、台湾とは切っても切れない関係にあるとしている。だからこそ、日本外交は台湾問題を迂回し、経済的利益の追求にのみ始終すべきではないと。

 もう10年くらい前になるが、とぅ先生と初めてお会いしたときに履歴についてうかがった。先生は日本統治 下の台湾で生まれ、「村岡」を姓として育った。しかし、日本の統治から開放された時、ご尊父から本当の姓は「とぅ」であると打ち明けられた。台湾でも日系 植民地企業の経営サイドと現地雇用者との間に入る現地人の管理職には創氏改名が強要されたようだ。

 その後、台湾大学を卒業し、東京大学に留学。折しも大学紛争の中で、書き上げた論文が『日本帝国主義下の 台湾』(東京大学出版会)であり、矢内原忠雄以来の著作と評価されたという。そして、日本の公立大学への就職が決まった72年、台湾という国は存在しない ことになる。とぅ先生は仕方なく就職するために日本の国籍を取得し、「父親がつけた姓」だからと「村岡」姓を名乗る。したがって本来の本姓「とぅ」は今は ペンネームである。

 『台湾の選択』は冷静、客観的に分析された著述であり、大国の間で翻弄された小国に育った人のルサンチマ ンは感じられない。しかし、「日本語にしてわずか一九文字の見解(大平外相談話)によって、戦後二〇年も続けられた交流の枠組み、「正常な」日台関係は一 瞬にして「終了」することとなった」

 という一節だけには、当時、とぅ先生を襲った行き場のない怒りと悲しみがひそかに反映しているような気がする。

 日本は元宗主国、日本人だから台湾問題に責任を感じなければいけないと、言いたいのではない。
 われわれは祖父母、父母から体ばかりか文化や習俗を綿々と引き継ぎ、深く歴史と関わっている。だから歴史の経緯を振り返って見て、大きな問題を抱える隣 国の人々に人として関心を払うのは当たり前のことではないだろうか。もちろん台湾だけでなく、中国の人とも隣人として信頼感を醸成しなければならない。

 「アジア共通通貨圏」だの「アジアは一つ」だの最近、また聞こえるが、アジアはヨーロッパよりもむしろ多 様な文化や価値観を持った国々が混在している。地道に一人一人が隣国の人たちと信頼関係を構築していくことが、こうした構想の前提条件となるだろう。ま た、民間レベルでの信頼感が醸成されることで、あるいは日本が台湾と中国の間の調停役を演ずることも可能となるかもしれない。

 ●北朝鮮も同じアジアの隣人

 そのことは台湾だけでなく、また北朝鮮に対するわれわれの見方にも当てはまらないだろうか。もちろん来月 から始まる日朝交渉には冷静に慎重に対応しなければならない。しかし、日本人と朝鮮族の付き合いは、一方的な併合を含めて長い。古代から近世まで、さまざ まな文化や技術が朝鮮族を通して、日本にもたらされた。

 だから、われわれまでが太平洋の向こうのアメリカと同じように冷酷に突き放して北朝鮮をみることはおかし くないか。同じアジアの隣人ではないか。北朝鮮関連の書籍も随分出版されているが、下司な覗き見のような内容のものも多い。また北朝鮮は独裁国家だから危 険であるといったところで、肯定するわけではないが、日本もついこの間まで、現人神を元首に仰いで国際的孤立と軍備拡張の悪循環を繰り返していたのではな かったか。

 もう6年ほど前のことであるが、韓国の釜山駅前の喫茶店に入り、そこの主人の金さん(従業員はオヤジと呼 んでいた)にたまたま朝鮮戦争の話をうかがったことがある。金さんは内戦勃発当時20代後半で中尉、もちろん日本語教育を受けた世代だ。「内戦だから老 人、女、子どもが随分殺された」というように壮絶な戦いであったことを改めて認識した。

 「八路軍(中国)は手榴弾と竹槍を持ち、靴を履いていないから足が凍傷になって可哀想だったよ」などという話から金さんの人柄も知れた。しかし、「武器といえば日本軍が置いていった三八銃だけだから、使いものにならなくて、一時は釜山まで追いつめられた」とも語った。

 その時、私はなんだか申し訳ないような、恥ずかしいような気になった。そうか、わが日本が35年間も朝鮮 を統治していて、逃げるように立ち去る時に後に残したものは使いものにならない三八銃だったかと、ふと思ったからだった。もちろん事実はそうではなくて、 功罪を抜きにしていろいろなものを残したのだろうが。

 話は脱線したがとぅ先生は『台湾の選択』のあとがきでこう書いている。

「2000年に入って以降、台湾の総裁選(3月18日)を皮切りに、ロシアの大統領選(3月26日)、韓国 の総選挙(4月)、日本の総選挙(夏までの見通し)それにアメリカの大統領選(11月)が矢継ぎ早に設定されている。ある意味ではアジア通貨危機(97年 7月)以降の、そしてそれについての政治的決算が行われようとしているのである。それはまた、21世紀のアジアと世界の門出に新たな鼓動を意味するかもし れない。台湾の総裁選をそのなかに位置づけると、アジアの鼓動と世界の潮流(モメント)がここにオーバーラップしてすでに始まっているのではないか、と いってよいかもしれないのである」

 つまり、私たちは祖父母や父母の生きた時間を継承しながら、今、こういう時間を生きているのである。


 平岩さんにメールはyuh@lares.dti.ne.jp
2000年03月13日(月)新亜総研 鈴木 雅子



『政治家がバカだから......』

 自自公による在日外国人の地方参政権法案が審議されている。次の国会では成立する可能性がある。しかし私 は、この自自公案に強く反対する。理由は簡単、無知な議員たちによる矛盾だらけの欠陥法案だからだ。もし、これが国会を通過した場合、全国で裁判が続出す るだろう。しかも国連人権規約委員会から「さすがはサミット参加国唯一の人権後進国・日本のやることだ」とボロクソに言われ、確実に大恥をかく。

 ■国交のない国の人って誰のこと?

 この法案の一番大きな問題点は「国交のない国の人」には選挙権を与えないというものだ。国交のない国とはいえば北朝鮮であり、ついで無国籍者の存在も浮かび上がる。

 どうも、政治家だけでなくマスコミも勉強不足のためか、無知極まりない誤解がまかり通っている。それは在日朝鮮人=朝鮮総連=北朝鮮の国民という図式だ。これが「朝鮮人=北朝鮮の手先」というイメージを作り、日本国民の偏見と差別を招いている。

 日本の敗戦後、朝鮮半島出自の日本人(植民地政策)は「あんた達は昨日までは日本人だったけど、今日からとりあえず(当面という言葉を使っている)朝鮮人にします」とされ、それが今に至った現実を、政治家や官僚たちは都合よく忘れてしまっている。

 現在、在日外国人約100万人のうち60万人が在日コリアンだが、うち20万人ほどが「朝鮮人」のままだ。残りは韓国の発展や、海外渡航、留学、ビジネスなど、パスポート業務の便宜性から韓国籍を取得した在日韓国人。

 では、朝鮮人20万人のなかで、北朝鮮を信奉すると言われる総連シンパ(実は総連内部でも、ごくごく一部 しかいないのだが)がどれほどいるだろうか。簡単な計算として、全国の朝鮮学校の生徒数が約1万人だから家族を含めて4万人とすれば、最低、これだけの総 連系住民がいるものと一応は推測される。

 しかし、私は父兄などともざっくばらんな話をするのだが、子供を朝鮮学校に通わしているのは、単に言葉や 文化を覚えさせたいという理由が多かった。国籍ではなく、民族としてのアイデンティティを身につけさせたいとの思いである。だから、在日韓国人の子供が朝 鮮学校に通う例もけっこうある。

 朝鮮籍のホンさんは、子供のころに学校から金日成の写真を家に飾れと渡されたことがある。すると親は「こんなもの、捨てろ」とゴミ箱に放り込んだという。

「ただ単に韓国籍に切り替えるのが面倒くさかっただけなんですよ。自分は朝鮮半島出身だからこれでいいやと...。それで今日までそのままです」というのは黄さん。

「韓国も北朝鮮もイヤ。韓国は昔軍事国家だったし、片や社会主義でしょ。どっちかに属するのではなく単なる朝鮮人でいい」という洪さん。

 こうした人たちすべてを、自自公の政治家たちは北朝鮮のシンパと位置付けてしまった。しかも「オイラ北朝 鮮なんか嫌いだからさ、アイツらには選挙権なんか与えたくないだよな~」と素直に言えず、「国交のない国の人」というまどろっこしい言い方をしたもんだか ら、無国籍者もまた選挙権を得られない公算が強くなってしまった。

 無国籍者は確実に増えている。父親は日本人だけど認知してもらえず、しかも母親はオーバーステイ。人身売買で連れて来られた女性が例えタイ人だとしても、母親は旅券を業者に奪われて国籍証明が出来ない。あるいは捨てられた子供たち等など。

 ところで、南北の在日コリアンは歴史的経緯を鑑み、特別永住許可証を持っている。その殆どが日本生まれの 2世、3世、4世などとなり、1世はもはや全体の5~6%でしかない。日本の中の在日という新たなアイデンティティを身に付け、日本の一員として、あるい は日本で暮らす隣人として地域社会で生きている。

「差別がイヤなら帰化すればいい。日本は日本人の国だ。外国人にゴチャゴチャ言われたくない。日本がいやなら出ていけ」

 こういう考えの日本人が多い。実は、私もこれに近い考えをかつて持っていた。

「さっさと帰化してコリアンジャパニーズになるべきだ。選挙権どころか立候補して政治家になって、日本を中から改革すればいいじゃないか。なぜ国籍にこだわるのか?」

 しかし、数年前、自分の身の上にアメリカ移住という話が持ち上がったとき、私は日本人である自分というものを考えざるを得なかった。その時の候補地は、未だに日本人が1人も住んでいないというアメリカ中西部の町。

「日本というバックボーンを捨てて完全なアメリカ人になれるのか。日本との縁を100%切れるか」

 私には無理だった。国籍を取得したとして、背負った文化は日本のものである。完全なアメリカ人は決してなれない。アメリカに住み、日本と繋がって行き来してと、イイとこ取りをするのならいざ知らず、自分の根っこ、ルーツを捨てるのは容易ではない。

 ■国家論理も理解できないの?

「北朝鮮シンパの総連系なんかに選挙権はやらないよ~」というのは与党の勝手。しかし、裁判の場ではアホな 法案を作った当事者ではなく、日本政府自体が法案を正当化できるだけの答弁を行わなければならない。矛盾が無ければ良いが、今回の場合は、国家論理として の体をなさない恐れがある。

 それとともに、総連系でもなく民団系(韓国)系でもない在日コリアンが全国各地で訴訟を起こすことを想定 しなくとも、国家としての体面にかかわる問題がまだある。それは朝鮮籍のコリアンに特別永住許可をすでに与えている点だ。韓国籍であっても、もともとは朝 鮮籍。つまり、朝鮮籍という存在しない「国籍」を日本が認めている事実にかかわってくる。

 ご存知のように北朝鮮と日本は国交がない。国交がないということは、交流も人の行き来もない、というのが国家としての常識である。

「国交のない国の人間が、すでに日本に20万人も住んでいる」ことなどありえないはずなのに、日本政府が彼らを一律に北朝鮮と位置付けた時点で、世にも奇妙なパラドックスが出来上がる。

 このパズルを日本政府はどうやって説くのだろう。

 さらに言えば、北朝鮮との国交交渉再開が間違いなく始まるという瀬戸際にあって、これを北朝鮮にどう説明 するかという問題も発生していまう。国交回復で北を国際政治の舞台に上げることでしか、あの国の住民をはじめ、日本人妻、帰国した在日同胞、拉致された人 々を救う手立てがない以上、国家対国家として、互いの立場を尊重しての交渉に入らざるを得ない。

 その一方で、朝鮮人を北朝鮮の国民とみなした上での敵視政策。

 もう一つ大事なことがある。

 今回の選挙権付与法案は、最高裁の判決によるものだったが、自自公はすっかり忘れてしまっている。これはもう重度の痴呆症と言わざるを得ない。最高裁の判決を簡単に言うと「外国人も地域住民であり、地域と密接に結び付いた地方自治に参加できる」というものだった。

 ユーロだけでなくこの日本でさえも「国政は本国、地方は居住地で」という時代になってきた。海外に住む日本人の国政選挙参加が昨年やっと実現し、今年からとりあえずは比例区だけとはいえ、海外からの投票が可能となった。

 また、韓国では2002年をメドに、在韓外国人の地方参政権を認める方向で動いている。当然、韓国に住む日本人や華僑には地方参政権が付与されよう。ユーロの場合、域内人のみ対象としたものを、域外人にも認める方向で検討を始めた。

 このように「地方参政権は地域住民の権利」という人権意識が常識となってきた。しかし、自民党法案は流れ に逆行して過去の蒸し返しという事態になりつつある。それは、地域住民の権利であるべきところに、国籍という、最高裁判決とは全く別のロジックを持ち出し てしまったからだ。彼らはこの不整合を、いったいどう解決するつもりなのか。一日本人として非常に気にかかる。(すずき・まさこ)


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2000年03月10日(金)Conakry萬晩報通信員 斉藤 清


 ギニアのアントワープとも呼ばれる首都コナクリの一角の、とあるカフェの片隅でひろいあげた、ダイヤモン ド原石商人たちの業界情報。「永遠の輝き」が生み出される前の、プリミティブな世界の動きを、ダイジェスト版にしてお送りする特別企画「A DIAMOND IS FOREVER」です。

 ◆「茶房サントラル」より愛をこめて

 大統領府からまっすぐ東へ伸びる「革命通り」を、4ブロック過ぎてから右へ曲がると、歩道をさえぎるように張り出した囲いがあって、ここが茶房サントラル。コナクリでは数少ない、ケーキの製造・販売をもしている貴重な店です。

 パリあたりのカフェであれば、歩道にテーブルと椅子を並べて、そこが外気と接した開放的な客席になるのでしょうが、ここは直射日光が強力で、ほこりっぽくて、そしてとにかく蒸し暑いコナクリです。通りに面したテラスでお茶を楽しむという雰囲気にはなれません。

 茶房サントラルは、空調のきいたガラス張りの温室から表の通りを眺めつつ、また別の世界の話に興じ る・・・、そのためにぴったりの空間です。奥のいくぶんか薄暗いホールには、テーブルが10脚ほど並んでいるものの、それは無視して、歩道に張り出した明 るい方の、質素な6脚のテーブルのどれかに席を取れば、それなりに快適な視野と、至福の時間が楽しめます。

 この店自慢のフランス仕込みのケーキと、シトロンティーでも頼んで、地元のタブロイド新聞をひろげ、コロニアル風の建物がまだそのまま残っている交差点あたりをぼんやり眺めながら、店内の会話に耳を預けてみるのも、茶房サントラルの、この席ならではの趣向です

 ◆ダイヤモンドの情報センターにて

 この辺りは、実はギニアのアントワープ・・・ダイヤモンド街で、テレビカメラを玄関に設置した原石買取り 業者の事務所や、すべての窓を鉄枠で厳重に防護した建物があったり、路上で下級ブローカーと話しこむ現地人がいたりと、なにやら胡散臭さを感じさせてくれ る、少しばかりいかがわしい雰囲気の場所なのです。

 とはいえ、茶房サントラルが、ギニア人ダイヤモンドブローカーの情報交換のメッカであることは、一部の関係者以外にはあまり知られていません。

 ここで話される言葉はマリンケ語が主で、時折フラ語が混じり、むろんこの国の公用語・フランス語は、その 間を縫うようにして適宜折りこまれ、会話の流れを滑らかにしています。ついでに書けば、スースー語を母語とする人間は、ここには存在できません。スースー 族一般の商業道徳がかなり異質なものであることが、その主な理由らしいのですけれど。

 一見の客は、ウェイターがさりげなくホールの方へと導いて、この空間へは入り込めないのですが、グラン・ ブーブーと呼ばれる、布地をたっぷりと使った金糸・銀糸の刺繍も立派なアラブ風の服を着流した恰幅のいい紳士たちがあつまって、大声で会話をしているだけ でも、近寄りがたい空気を周囲へ送り出していることは確かです。

 私はといえば、まったくの無関係者ではあるのですが、そこはそれ、白くはない異邦人(むしろ、どす黒い)であることと、ひたすらケーキにうつつを抜かす人畜無害の風体が、さほどの警戒心をいだかせないのかもしれません。

 ◆シエラレオーネの叛乱勢力

 ギニア国内で、ダイヤモンド原石についてのニュースが発生すれば、その翌日には、ここ茶房サントラルで必 ず話題にのぼります。そのうちのいくつかのエピソードもお届けするつもりですけれど、まずは、隣国シエラレオーネの現政権に、鉱山担当・副大統領待遇とし て迎えられている、叛乱勢力RUFのリーダー・サンコー氏の最近の動きを、かいつまんでお伝えしなければなりません。

 氏は、永年、叛乱勢力のリーダーとして君臨し、特にシエラレオーネ東部のダイヤモンド産地を完全に支配している(おそらくは現時点でも)人間なのですが、昨年の和平合意の際に、公式に、副大統領待遇のポストと鉱山に関する権限をすべて手中にしました。

 この和平合意を受けて、国連の平和維持軍は、叛乱勢力の武装解除を進めてダイヤモンド産地への影響力を消 滅させるため、計11,000人の兵を投入しつつあります。西アフリカ経済共同体の平和維持軍ECOMOGも、ナイジェリア兵を中心に、おそらくは 5-6,000人の兵をシエラレオーネ国内に残留させています。

 ギニアからも国連軍へ合流する支援の兵を送りこんでいるわけですが、1月14日、100人を超える完全武 装のギニア兵が、合流ポイントの首都フリータウンへ向かう路上で、小さなゲリラグループにブロックされ、ロケット砲を含むすべての武器と車両を取り上げら れています。1月31日には、国連軍としてフリータウンから国内の配置場所へ移動する途中のケニア兵20人が、別の叛乱勢力にホールドアップされて、武器 や所持品を奪われました。

 ◆叛乱勢力リーダーの困った反逆

 このような現状を前にして、副大統領待遇のサンコー氏は、和平合意に基づく武装解除の実現を、政府や国連関係者に再び約束したうえで、国内の視察に出かけたわけですが、茶房サントラルで聞こえた解説は、「あれは原石を引き取るため」。

 その後、象牙海岸へ行くと言い残して2月14日のガーナ航空機に乗ったサンコー氏は、外野の予想通り、南アフリカのヨハネスブルグに姿を見せて、原石を売り捌くという「ビジネス」を実践してくれた様子です。

 コンゴのカビラ大統領、リベリアのチャールズテイラー大統領、そしてサンコー氏と、彼らに共通のひとりの「友人」が、ダイヤモンド原石を市場に流し、資金を調達する手助けをしているといいます。今回の氏の動きも、いつものパターンに沿ったものでした。

 しかしながら、あわてて不満を表明したのが国連。本来、叛乱勢力RUFの幹部は、海外渡航を禁止されています。サンコー氏は現政権にとり込まれているとはいえ、今でも厳然とした叛乱勢力のリーダーです。

 武装解除を陣頭指揮する役目を負っているはずの責任者が、国連関係者と大統領を煙に巻いて、南アフリカへ ダイヤモンドを売りに行き、そこで平然としている、というのはあまり見栄えのいい図ではありません。国連はすぐに、「至急戻れ」との指示を出しました。国 連の関係者が報道陣に対して、氏の「ビジネス」にまで言及しているところを見ると、外野の情報は正しかったのでしょう。

 ◆傭兵部隊とダイヤモンド

 シエラレオーネには、南アフリカのアパルトヘイト時代の殺し屋グループを傭兵に仕立て上げ、ダイヤモンド鉱山のガードマンをさせて、紛争の最中に採掘に励んでいる鉱山会社グループがあります。

 このグループは、ロンドン、バンクーバー、ヨハネスブルグに関連の事務所を持っていて、その実態はよくわ からないのですが、紛争中の政権に近づいて鉱業権を取得し、自ら雇っている私兵を派遣して叛乱勢力からの攻撃に備え(時の政権の保護は期待できないわけで すから)、産出した原石は、独自のルートで市場に流しているといわれます。シエラレオーネの外、コンゴ、アンゴラでも活躍していて、紛争国の政権側を、お そらくは資金的にも助けているもののようです。

 例えば、コンゴ(旧ザイール)のカビラ大統領の場合、氏は、コンゴの豊かな地下資源の利権を担保に、近隣 諸国も含めたダイヤモンド資金を使って叛乱を起こし、モブツ前大統領を追い出しました。そしてその後、自分自身が旧ザイールを支配する立場になったわけで すが、今日現在では、また状況は変わり立場も入れ替わって、「正規ではないルート」のダイヤモンド原石を資金源とする別の叛乱勢力に、カビラ政権自身が脅 かされています。

 ◆業界の雄・デビアス社の憂鬱

 1998年のデビアス社・中央販売機構(CSO)の原石販売実績は、公式発表によれば33億ドル。また、 デビアス社は、全世界規模での年間生産量をおよそ66億ドルと推定していますから、その数字をもとにすれば、この年は、世界の全生産量の半分が、デビアス 社の販売機構に乗って市場に流れたことになります。

 コンゴ、シエラレオーネ、アンゴラを主体とした紛争国の、「正規ではないルート」から市場に流れるダイヤ モンド原石は、ベルギー・ダイヤモンド業界の総括団体HRDや、国連の発表する数字をもとに試算すると、極力安く見積もっても20億ドル、あるいは50億 ドル程度にまでなるのかもしれません。これらの地方の漂砂鉱床から産出される原石は、大粒で上質なものが多いことから、市場で歓迎されることはあっても、 排斥されることはありませんでした。「正規ではないルート」は、付加価値の高い貴重な原石を手に入れる周知のルートでした。

 また、ダイヤモンドの価格を維持し、「永遠の輝き」を失わせないために、「正規」に生産されたものはすべ てが、「正規ではないルート」で入ってきた原石も当然にそのかなりの量が、アントワープのどこかで再びデビアス社に買い上げられ、在庫調整のため中央販売 機構(CSO)の金庫に収められます。

 現在のように、これだけ供給過剰の状況になってくると、ダイヤモンドの値崩れを防ぐためには、プレミアム をつけてでも市場から原石を吸い上げなくてはなりません。つまりは、デビアス社の価格統制システムによって、紛争地域からの「正規ではないルート」の原石 の価格も間接的に保護され、戦闘を継続させるための燃料は、絶えることなく供給される結果となっていました。

 アフリカ各地の紛争を、攻める側と守る側の両面で支えていたのは、もとはといえば、「ダイヤモンドは永遠の輝き」の守護神・デビアス社であったわけです。もっとも、長期にわたる多額の資金負担は、デビアス社にとっても耐えがたいものになっていたはずですが...。

 ◆不買宣言

 そこで阿吽の呼吸で、英国・米国からのプレッシャーに後押しされた国連が、まずデビアス社の幹部と公式に会い、原石の不買運動への協力を要請しています。

 つまり、紛争地域で産出されたダイヤモンド原石は買わないようにして欲しい、との公式の申し入れをしたわけです。当然のこととしてデビアス社は、「正規のルート」を回復するために国連軍は最大限の努力をする、という保証をとりつけています。

 これが根拠となって、例えばシエラレオーネへは、国連軍兵士が異様に大量派遣され、同時に、米国の強い要請を受けたナイジェリア軍も兵員を増強しているわけです。

 英国政府と米国ユダヤ資本との協調関係を軸に、粘り強いロビー活動を展開していたデビアス社にとって、これは戦果の第一歩でもありました。世界銀行は、このオペレーションのために、1.3億ドルの供与を決めています。

 その流れに沿ってデビアス社は、シエラレオーネからの原石は、1980年代に事務所を閉めて以来、直接的にも間接的にも買っていない、アンゴラの叛乱勢力Unitaからの原石も、けっして買わなかったし、買うつもりもないとアピールを始めました。

 (最近のアピールは、下記のWebで参照できます)

 http://www.debeers.ca/files/sierrangola.html

 しかしながら、あまりにも恰好よく見えを切られてしまうと、それまでの流れをすでに耳にし目にもしている天邪鬼な私めとしては、(笑ってしまった後で)いやはや、まったく悪い癖ですけれど、眉につばをつけて、少しばかりからかってみたくもなるのです。

 マラリア蚊が耳元で羽音を響かせる程度のごくささやかな呟き、そしてかなり不謹慎な反応であることもよくわかってはいるものの...。

 ◆それでもなお、ギニアの場合―その1―

 ギニアはシエラレオーネと陸続きです。そのために、紛争の煽りを受けたシエラレオーネの避難民が、国境近 辺のギニア側難民キャンプに大勢生活しています。もっとも、これは一般の住民の場合で、何らかのコネを持ったある程度裕福な人たちは、戦乱が最高潮の時で もコナクリへ自由に出入りし、叛乱勢力の幹部ですらコナクリの町を車で平然と走り回っていました。

 手元に、すでに公になった手紙のコピーがあります。日付は1997.6.14。

 その宛て先は、その年の5月にクーデターで大統領の席についたばかりの軍人コロマ氏と鉱山省次官。内容 は、鉱山省次官からの依頼に応える形で、新大統領への賛辞と、今後の協力関係を確認した後、次官の奥方がコナクリへ到着した際に投宿すべきホテルと、その すぐ傍にある事務所の場所を示して、携帯電話の番号を記し、「ご持参のダイヤモンドは責任を持って評価し、ドルで買い上げます」と締めくくっていました。

 この手紙の差出人は、ギニアのダイヤモンド採掘会社のゼネラルマネージャー。この叛乱で追い出された大統領はこのときコナクリに避難していましたが、その翌年に復帰し、現在に至っています。

 この会社は、森林ギニアで年間50万カラット程度を掘り出していたオーストラリア資本のダイヤモンド鉱山を数年前に買収し、現在は「試掘調査中」ということで冬眠させています。いってみれば、生産調整でしょうか。

 それでいながら、今年1月、その会社の従業員がコナクリ空港から南アフリカへ帰る際に、輸出の申告をしないで持ち出そうとしたダイヤモンド原石が40数個、その評価額200万ドルが、たまたま空港税関で差し押さえられるという出来事もありました。

 この会社には南アフリカとカナダの資本が入っているというのですが、すべて孫会社、曾孫会社名義ですから、その実態は不明です。

 ◆それでもなお、ギニアの場合―その2―

 茶房サントラルが、幾日にも渡って騒然とした熱気に包まれていたのが、1998年のアンゴラ・ダイヤモンド事件でした。

 127カラットの原石が、ギニア人ブローカーの手でアンゴラからコナクリに持ち込まれ、それだけのことであればごく日常的な動きで、さほどの興奮はもたらさないわけですけれど、この時だけは格別でした。

 同じ年に、475カラットの原石が森林ギニアで発見されたときも、昨年7月に1,006カラットのダイヤが、やはり森林ギニアからコナクリに届けられたときも、これほどではありませんでした。

 時はちょうどワールドカップの最中。ひとは皆、試合の結果だけが最大の関心事で、まさに浮き足立っていました。価格交渉のために127カラットの石を預けられたレバノン人業者も預けた当人も、まずはテレビ観戦が優先事項だったといいます。

 数日後、「石が盗まれた」ことが判明し、こうなるとさすがにフットボールどころではなくなって、それらしい関係者が逮捕されたり解放されたりと、かなりあわただしい動きがありました。

 結果はうやむやで、原石を預かったレバノン人業者が、いくらかの損害賠償金を支払うことで決着がついたのではありましたが、茶房サントラルでは連日議論が続いていたことでした。

 何カ月かして、マリ共和国の原石業者がその石を持っていることが判明し、石の流れは見えてきましたけれ ど、原石がひそかにこれだけの大旅行をするとなると、その原産地を特定することなどは至難の技であることが理解できます。ましてや小粒の一般品ともなれ ば、その出生地を問うことは時間の無駄となってきます。

 ◆それでもなお、ギニアの場合―その3―

 戦乱のために、隣国のフリータウン国際空港が閉鎖中は、レバノン人の原石商人がヘリコプター便でコナクリまで商品を運んできました(片道15分ですから)。

 これは、ギニアの買い入れ事務所を通して、当然のように国際市場へ流れていったはずですし、もしアントワープで売却されたとすれば、アントワープの業界団体HRDは、ギニア産の石の輸入として集計したはずです。

 フリータウンの国際空港がオープンしている現在は、副大統領待遇のサンコー氏が小さな包みを抱えてこっそ り南アフリカへ出かけたように、制裁を受けない国を中継させれば原産地名は消えてしまうわけですから、紛争国からのダイヤモンド原石の不買運動がどの程度 の効力を持つものか、はなはだ疑問ではあるのです。業界は、大粒の高級品という魅惑には抵抗できないでしょうし...。

 ◆永遠の輝きを守る戦い

 その反面、叛乱勢力を力で押さえ込むことができれば――政権がその国をまともに統治できるようになれば、 すべての鉱山は国家の支配に従うことになるわけですから、その政権の支援を受けて、ある特定の目的で、現在稼動している鉱山を買い取ることもそれほど難し くはなくなるでしょう。鉱山を買収してそれを眠らせれば、アントワープの市場でプレミアムをつけて吸い上げるよりも、ずっと安上がりに、ずっと確実に供給 を減らすことが可能になるはずです。

 国連軍が強力に推し進めている、アフリカの紛争国での叛乱勢力との戦いは、ダイヤモンドを支配する戦い ――原石の生産を減らすための戦いにほかなりません。デビアス社の掲げる「ダイヤモンドは永遠の輝き」とは、なかなかに皮肉っぽい響きを持ったすぐれた キャッチフレーズです。(Gold News from Guinea『金鉱山からのたより』 第29号を転載。さいとう・きよし)


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2000年03月08日(水)萬晩報通信員 園田 義明


2000年3月2日、役員改選が行われた日本長期信用銀行は「新生銀行」として新しく生まれ変わることとなった。

 新役員は日米エスタブリッシュメント・オールスターズとなっており、世界中のコンスピラシー・セオ リー(陰謀理論)支持者の注目を集めるものとなっている。この分野からもさまざまな考察が行われる事が予測されるが、ここではあくまでも企業・政治戦略上 の見地に立ちそのメカニズムに迫りたい。

 注目すべきは米国インナー・サークルの頂点に立つ3人の役員就任である。

 ●デビッド・ロックフェラー氏の参画

 筆頭はデビッド・ロックフェラー氏である。スタンダード・オイル創業3代目の誰もが認めるロックフェラー家の継承者である。ロックフェラー一族が管理する財団、基金の事実上の責任者でもある。

 1969年から1980年までチェース・マンハッタン・バンクのCEOを務め、辞任後もヘンリー・キッシ ンジジャー氏と共に同銀行の国際諮問委員会の会長として支えている。また米外交政策立案機関として有名な外交問題評議会(CFR)議長を長く務め(現在は 名誉会長)欧米主要政財界人で構成されるビルダバ-グ会議や欧米日三極委員会(TC=トライラテラルコミッション)を主催している。

 民間企業の役員就任は1980年以後20年ぶりとなる。昨年から就任要請の噂は絶えなかったが、今年85歳という年齢的問題からも実現するとは考えられなかった。

 またシニア・アドバイザー就任のふたりもロックフェラー氏同様にビルダバ-グ会議や欧米日三極委員会、外交問題評議会の役員を務める大物である。

 元連邦準備制度理事会議長であるボルカー氏は富士銀行やトヨタ自動車のアドバイザリーボード(社外顧問 会)メンバーに就任しており日本財界に以前より強いパイプを有していた。また社外取締役として参画しているネスレはヨーロッパ財界団体であるヨーロピア ン・ラウンドテーブルの会長を送りだしており、欧米日にまたがる取締役兼任ネットワークのコア(中核)となっている人物である。

 バーノン・E・ジョーダン,Jr.氏はAkin, Gump, Strauss, Hauer &Feldのパートナー(弁護士)として活躍しユダヤ系投資銀行のラザ-ド・フレール以外にも多数有力企業の取締役を兼任している。クリントンス キャンダルのキーパーソンとしてマスコミにも再三登場した。クリントン大統領の公私にわたる友人のひとりである。

 当初ここにもうひとりの大物ロバート・ルービン前財務長官(元ゴールドマン・サックス会長)が加わる予定だったが辞退したようだ。現在共同会長を勤めるシティーグループにおいて長く会長を務めた米財界の重鎮ジョン・リード氏退任でそれどころではなかったのであろう。

 ●歴史的に関係が深い三菱とロックフェラー

 この大物3人の起用は槙原 稔氏(三菱商事株式会社取締役会長)の要請によるものと推測される。以前より 欧米日三極委員会や外交問題評議会において旧知の間柄であり1995年からのリップルウッドと三菱商事との資本関係から願いでたものと思われる。本人は演 出に徹していたかったようだが八城氏に説得され就任に至ったと思われる。また日本財界人からもかなり反発されたようだが府立一中の同級生である今井敬氏を 口説いたのも八城氏である。

 三菱商事の社長であった藤野忠二郎氏はかってチェース・マンハッタン・バンクの国際諮問委員会に就任していたこともあり、歴史的にもロックフェラーグループと三菱グループとは比較的関係が深い。

 (日本企業でもアドバイザリーボード(社外顧問会)や国際諮問委員会を設置する企業が増えているが顧問的 役割にとどまっている。米国ではチェースにしろJ・P・モルガンにしろその権限は取締役会に匹敵する。アメリカン・エクスプレスなどは国際諮問委員会に キッシンジャー氏を招き対中関係強化に向けた取り組みを行っている。)

 他にも米国屈指の経済学者であるマイケル・J・ボスキン/スタンフォード大学教授もクリントン政権のアドバイザーを務め次期政権入りが噂されている。

 今回の引受先の選定に際し長銀再生委員会は有力投資銀行であるゴールドマン・サックスに委託したが、この 担当者ユージン・アトキンソン氏はその後リップルウッドの副社長として移籍し、今回取締役に就任したJ・クリストファー・フラワーズ/エンスターグループ 社副会長もゴールドマン・サックス出身である。

 ●新生銀行に殺到する国際金融資本

 リップルウッドは他の金融機関などとともに持ち株会社「ニュー・LTCB・パートナーズ」(オランダ)を設立。この会社を通じて1200億円を出資して「新生長銀」をこの持ち株会社の100%子会社にする。

 出資する金融機関には米証券最大手メリルリンチやモルガン・スタンレー・ディーン・ウィッター、ペイン・ウエバー、GEキャピタル、シティートラベラーズグループ、メロンバンクとABNアムロ(蘭)、ドイツ銀行、ロスチャイルド銀行(英)などである。

 再建後はいずれかの金融機関との合併もあり得るが今のところシティー・グループとチェ-スグループと東京三菱銀行あたりが一歩リードしている。当然のことながらそのアドバイザーの選択に困る事はなさそうだ。

 いずれにせよ再建に向けては八城政基氏の手腕にかかっている。「日本企業初の専門的(プロフェッショナル)経営者」としてこれまでの経験がどう生かされるか世界の注目が集まるだろう。

 また公的資金投入額は4兆円に達しており、日本国民に対してもっとディスクロージャーを徹底する努力は必要ではないだろうか。樋口廣太郎氏の屈託のない解説を期待したい。

 さてここまでの内容だけで先の3人が登場するわけがない。21世紀に向けた国家レベルの再編統合の姿が見隠れしている。米日合併構想が果たして実現するのか見物である。

 東海村臨界事故による原子力政策の事実上の崩壊とアラビア石油の破談によるエネルギー政策の抜本的な見直 しが迫られ、会計基準の世界的決定権限を握っている国際会計基準委員会(IASA)の指名委員会からもはずされている。IMF専務理事等は全く世界から相 手にされていない。社会的にも相次ぐ公職者の不祥事が連日報道されまさに現在の日本は危機的な状況におちいっている。

「アイデンティティーなるものは勝者にのみ与えられる」世界の常識にいまだ気付いていない人がここにきて増殖している。このままでは対等ではなく吸収統合される日も近いような気がするのは私だけだろうか。

 『新生銀行新役員一覧』
(いずれもこれまでに就任した実績があることを重視しており、現時 点でのものではないことをご了承下さい)

【取締役】
経  歴
Bilderberg
Group
Trilateral
Commission
Council on
Foreign Relations
八城政基会長兼社長 元エッソ石油社長、元シティ コープ在日代表 ×
槙原 稔 三菱商事会長、IBM取締役  ×
樋口廣太郎 アサヒビール名誉会長、経済戦略会議議長 × × ×
青木 昭 元日銀理事 × × ×
今井 敬 新日鉄会長、経団連会長 × × ×
森 秀文専務 前弊行副頭取 × × ×
山本輝明常務 前弊行参与  × × ×
ティモシー・コリンズ リップルウッドCEO × × ×
C・フラワーズ エンスターグループ副会長 × × ×
マイケル・ボスキン スタンフォード大学教授 ×
小川信明 弁護士 × × ×
ドナルド・マローン ペインウエバー会長 × × ×
マーティン・マックギン メロン銀行会長 × × ×
D・ロックフェラー 元チェース・マンハッタン銀行会長
シニア・アドバイザー        
ポール・ボルカー 元FRB議長
バーノン・ジョーダン ラザード・フレール社長 ×

             ×/所属せず  ○ /メンバー   ◎ /幹部メンバー

2000年03月6日(月)萬晩報通信員 園田義明


 ユシームはインナー・サークルの形成時期を1970年代前半から1980年代初頭としている。企業収益率の急激な低下や環境政策をめぐる政府規制の強化などが財界にとってかってない危機意識を呼び起こし、財界結集の形で形成された。

 ●従来型とは異なる日本の経済人脈

 見事に復活を遂げたアメリカの姿とは対照的に日本は1990年のバブル崩壊以来出口の見えない平成不況が続いている。今の日本のおかれた状況がアメリカインナー・サークルの形成時期と非常に重なって見える。

 コーポレイト・ガバナンス改革論のなかで日本でも確実に取締役兼任制によるネットワークが形成されつつある。

 『財界』1999年8月24日号にて上場企業を対象に社外取締役採用状況の調査を行っている。その結果採用している会社はわずか35社のみである。ただしこの中には明らかに従来の財閥型、金融グループ型とは異なるインナー・サークル型結合関係が見られる。

採用企業
社外取締役
 
富士ゼロックス 宮内義彦オリックス社長 経済戦略会議
三和銀行 鈴木哲夫HOYA会長  
NTT 今井敬新日本製鉄会長
小林陽太郎富士ゼロックス会長
経団連会長
経済同友会
経済戦略会議
21世紀日本
オリックス 宮原明富士ゼロックス副会長
田村達也A・T・カーニー会長
 
ソフトバンク 藤田田日本マクドナルド社長
宮内義彦オリックス社長
重田康光光通信社長
村井純慶大教授
大前研一
 
ソニー ピーター・G・ピーターソン
末松謙一さくら銀行常任顧問
中谷巌一橋大非常勤講師

 
アサヒビール 竹中平蔵慶大教授
岡本行夫岡本アソシエイツ代表
経済戦略会議
 
          (21世紀日本は「21世紀日本の構想」懇談会の略)

 アサヒビールについては2月19日日本経済新聞の朝刊会社人事掲載内容をもとに追加した。アサヒビールでは役員改革の一環として取締役の数を現在の四十人から社外取締役を含めて十人にする方針でそれに伴う人事としている。

 アサヒビールの社長、会長を十三年間務め、同社の躍進の立役者となった樋口広太郎氏が同社取締役を三月末 で退くことになる。アサヒビールには名誉会長・相談役としては残るが、樋口氏は今後、「経済戦略会議」議長など産業界の代表としての活動に専念する意向と のことである。樋口氏は孫正義氏の「ナスダック・ジャパン」及「新生長銀」の経営にも参加する予定である。

 新生長銀の経営陣には、日米の著名な経済人がずらりと並んだ。CEOには八城政基氏元エッソ石油社長、前 シティバンク在日代表が就任する。八城氏を社外取締役としてサポートするのは今井敬経団連会長(新日本製鉄会長)、樋口広太郎アサヒビール名誉会長、P・ ボルカー前米連邦準備理事会(FRB)議長、クリストファー・フラワーズ、ティモシー・コリンズの面々である。

 新生長銀がエスタブリッシュメント的人事が強く出ているが、孫正義を中心とする新興経済人の活躍にも注目が集まる。

 ●小林陽太郎・孫正義・宮内義彦

 『財界』では日本国内での調査しか行われていない。この点を補足しながら今一番の注目である「富士ゼロックス」と「ソフトバンク」と「オリックス」のネットワークを分析したい。

 富士ゼロックスの小林陽太郎会長はアメリカゼロックス本社取締役でもあり他にアセア・ブラウン・ボベリ、 エアー・プロダクツ等の取締役も兼任している。日米欧三極委員会日本会長。経済同友会会長。外交問題評議会(CFR)国際諮問委員会メンバー。スタン フォード大学、ペンシルバニア大学、慶応大学、日本国際大学理事。そして今は亡き盛田昭夫氏(ソニー会長)の後任としてジョージ・シュルツ元国務長官が会 長を勤めるJ・P・モルガン・インターナショナル・カウンシルのメンバーにも選ばれている。

 この小林陽太郎氏は2000年1月1日付け日経新聞の「新経営創造」にて非常に興味深い発言をしている。

 「宮内(義彦・オリックス社長)さんらに入ってもらって役立っている。宮内さんにネットビジネス拡大やプリンター参入などの話をしても『コア(核)に近いところからきちんきちんとやっていくべきだ』とアドバイスを受けている。地道な人だと思う」

 「産業界全体が一度、大きく米国流に振れるべきだ。ゼネラル・エレクトリック(GE)やIBMなど勢いの よい企業に共通しているのは、異質な目を絶えず意図的に取り入れていること。優秀なトップを外部から招いたり、競争力のある他社を買収することによって強 い刺激を受け、組織がいつも変質している。組織は『化学反応』しなくてはいけない」

 ソフトバンクの孫正義社長はナスダック・ジャパン設立合意から国際派の仲間入りを果たせたようだ。

 フランク・G・ザーブ(Frank G.Zarb)は、1997年にNASDの会長兼最高経営責任(CEO)に就任した。NASDは、証券業界最大の自主規制機関であり、The Nasdaq-Amex MarketGroup, Inc.と NASD Regulation, Inc.の親会社である。

1994年6月から1997年1月まで、Alexander & Alexander Services, Inc.の会長、最高経営責任者(CEO)、社長を務めており以前には、The Travelers, Inc.の副会長兼グループ最高責任者を務め、1988年にはTravelers子会社のSmith Barney で会長兼最高経営責任者(CEO)に就任していた。また現在、Credit Suisse First Bostonの取締役会のメンバーでもある。

 1974年から1977年には、米国政府のエネルギー関連事業すべてに携わる高官を務めた。大統領の諮問 機関に匹敵するエネルギー資源審議会の最高責任者、連邦エネルギー局局長、エネルギー問題の大統領補佐("エネルギー問題担当長官")を務めた。1973 年から1974年に連邦政府行政管理予算局の副局長、そして1971年から1972年には副労働長官の職責にあった。こうした役職を歴任する間に、ニクソ ン、フォード、レーガン、ブッシュ、そしてクリントン政権に仕えている。

 オリックスの宮内義彦社長は二人と比べると一見地味にみえるが打ち出す内容は豪快である。電力卸売りでア メリカ最大手であるエンロン社と提携し日本での電力自由化に向けた準備を着々と始めている。既得勢力による独占市場に果敢に挑む姿勢は見事である。まだこ の先どうなるかわからないIT分野に参入するよりビジネス上の確実性を重視したしたたかさを感じる。

 ◆最近のニュース
 2月14日 日債銀の譲渡先としてソフトバンク、オリックス、東京海上火災保険などの企業連合に内定。
 2月14日 「世銀のジェームス・ウォルフェンゾーン会長」と「ソフトバンク孫正義社長」は発展途上国でのインターネット普及に向けた合弁会社「ソフトバンク・エマージング・マーケット(SBEM)」の設立を発表した。

 初めての株主総会の時に、二人の創業者の写真をポケットにしのばせて臨んだ出井伸之ソニー社長もゼネラル・モーターズの社外取締役に就任している。将来の日本の為にもう一歩踏み込んだ活躍に期待したい。

 ●「21世紀日本の構想報告書」より

 『日本人が「日本のよさ」を誇るにしろ、それは特異に閉じこもることではなく、普遍へと開かれたものでな くてはならない。そのためには、立ち止まって日本のよさをあげつらうよりは、世界の未来に向かって、全身をあげて参加することがまず大切ではないか。それ によってこそ、時には矛盾に苦しむことはあっても、日本人のよさ――われわれでさえ未知の潜在力も含めて――が普遍性をもつものとして磨かれるのではなか ろうか。こういう態度で生きていけば、日本の「(ニュー・)フロンティア」は日本の中にあることが見えてくる。』

 内閣法では首相を除く閣僚の数は20人以内とし、憲法はその内過半数が国会議員でなければならないと定めている。つまり現在の法律のもとでも半数近くの民間人の起用は可能である。

筆者の手元のリストには世界で注目を集める日本人政治家の名前は存在しない。

「ニュー・フロンティア」はこのページの中にある。

経済戦略会議

 

メンバー
 

議長代理
議長 

井手 正敬   
伊藤 元重
奥田  碩
鈴木 敏文
竹内 佐和子  
竹中 平蔵   
寺田 千代乃  
中谷  巌   
樋口 廣太郎  
森   稔   
JR西日本会長
東京大学教授
トヨタ自動車会長
イトーヨーカ堂会長
東京大学助教授
慶大教授
アートコーポレーション社長
一橋大学教授
アサヒビール
森ビル社長
協力者 出井 伸之
奥谷 禮子
小林 陽太郎
新宮 康男
立川 敬二
根本 二郎
宮内 義彦
ソニー社長
ザ・アール社長
富士Xerox会長
関経連会長
NTTドコモ社長
日経連会長
オリックス社長


 

「21世紀日本の構想」懇談会

 
 
 
 

懇談会メンバー
 
 
 
 

幹事

浅海 保
天野 曄
五百旗頭真
翁 百合
川勝 平太
小島 明
小林陽太郎
佐々木 毅
中村 桂子
船橋 洋一
星野 昌子
三善 晃
向井 千秋
山崎 正和
山本 正
中央公論新社編集局次長
日本小児科医会会長
神戸大学法学部教授
日本総合研究所主任研究員
国際日本文化研究センター教授
日本経済新聞社論説主幹
富士ゼロックス会長
東大法学部教授
JT生命誌研究館副館長
朝日新聞社編集委員
日本NPOセンター代表理事
作曲家・東京文化会館長
宇宙飛行士
劇作家・評論家・阪大名誉教授
日本国際交流センター理事長
国内ヒアリング先 飯村 豊
大城 常夫
榊原 英資
笹森 清
孫 正義
野上 義一
比嘉 良彦 
山代 元圀
外務省経済協力局長
琉球大教授
慶大教授・前財務官
連合事務局長
ソフトバンク社長
外務省外務審議官
沖縄県政策参与
UNI-ASIA会長兼CEO


2000年03月03日(金)萬晩報主宰 伴 武澄


 繰り返すが、サミットが始まったのは1975年である。戦後、戦勝国がつくった国際機関である United Nations(連合国=国連)は安全保障理事会の常任理事国として5大国が議論を牛耳るはずだった。だが冷戦構造が進む一方で、アジア・アフリカの新興 国が多く加盟し、アメリカにとって国連はもはやアメリカの利権を思うがままに動かす場ではなくなっていた。

 サミットは国連に代わる主要国による新たな国際問題を討議する場となった。ここにアメリカの世界戦略の大きな転換点を見出すことができる。その一角に敗戦国の日本とドイツが入り、当然ながらソ連と中国は排斥された。

 母胎となったのはパリにあるヨーロッパを中心とした西側先進国の経済フォーラムである経済協力開発機構(OECD)である。基本的にOECDでいったん論議されたアジェンダがサミットに上程されるという仕組みが出来上がった。

 ●サミットが打ち出した構造改革

 そんな時に始まったサミットの命題は、まさに自由主義経済圏の復権であり、活性化だった。いわば自由主義経済圏の集団指導体制の確立と言ってよいだろう。いまはやりの規制緩和も「構造調整の必要性」をうたったサミット経済宣言に端を発するとい言ても言い過ぎではない。

 いまやアメリカはドット・コムを中心とした情報関連産業の活況を背景とした好況のなかで切れ目のない経済 成長を謳歌しているように見えるが、つい7、8年前までは「インフレなき経済の持続的成長」という表現は長く、サミットや先進七カ国蔵相・中央銀行総裁会 議(G7)の共同声明に欠かせない枕詞となっていたのである。

 1970年代の西側経済はそれだけインフレと成長の鈍化に悩まされていたということになる。そうした経済的隘路を打破するには「抜本的構造改革」が必要とされたのだ。

 欧米にとって構造改革は「規制緩和」を意味した。棲み分けが進んだ産業分野に、新規参入を許すことは産業 界に波風を巻き起こすことでもあった。また新規参入者たちがただちに立ち上がるというものでもなかった。だから規制緩和は効き目が出るまでに時間がかかっ た。加えてヨーロッパでは市場統合という新たな実験を開始したから、活性化までさらに多くの時間を要した。

 イギリスでビッグバンが起きたのは、エズラ・ヴォーゲルが「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を上梓した時 期である。日本が「日の昇る国」として「落日」の欧米を眺めていたころ、サッチャーが規制緩和による国家改造を始めていた。財政再建のための国有企業の民 営化にの着手し、英国航空、ブリティシュ・テレコム(BT)、ブリティシュ・ペトロリアム(BP)などが相次いで上場を果たした。ただちに経済活性化には つながらなかったもののイギリスは国有企業の株式売却で後に財政の黒字化に成功した。

 ●特安法と産構法でカルテル化した日本列島

 当時、そんな規制緩和の意味合いを十分に分かっていた日本人はほとんどいなかった。日本での構造問題の議 論はサミットでの議論とはまったく逆の方向に進んだ。規制緩和ではなく、大企業によるカルテル化の必要性が叫ばれた。繊維業界に始まった共同設備廃棄や生 産調整は「構造改善事業」と呼ばれ、ついに第二次オイルショックの最中の1978年、「特定不況産業安定臨時措置法」(特安法)によってカルテルが制度化 された。

 まず政令でアルミ精錬、ナイロン長繊維など六業種四候補を「特定不況業種」に指定、その後、繊維、石油化 学製品、セメント、ソーダなど主だった素材産業に指定が拡大した。5年間の臨時措置だったが、1983年からは「特定産業構造改善臨時措置法」(産構法) に引き継がれ、大企業カルテルはつい最近まで続いてきた。

 遅効性が弱点だった欧米流の規制緩和に対して、日本産業のカルテル化は即効性があった。ただ即効性の反動としてカルテル依存症という副作用が大きく、2000年を迎えた今になっても政府依存症が抜けきらないでいる。

 日本の産業の6、7割がなんらかの形で規制がかかっているといわれるのは日本の産業界の伝統でも文化でもなんでもない。石油ショックから脱却するために国家が広範囲にカルテルを認め、産業界がそのうま味を離さずに経営できなくなっているだけだ。

 ●中曽根民活の落とし穴

 日本のNTTやJRなどの民営化は、当時の中曾根首相がサッチャー政権に見習ったものだったが、民営化のスピードが遅く、NTTの場合は15年をすぎた今も株式の放出を終えていない。サッチャー流民営化と大蔵省流の民営化の最大の違いはあまりに大きい。

 まずイギリスでは民営化は株式の100%放出を原則としたの対して、日本の場合はNTTは3分の1、JTにいたっては3分の2も政府が持つことになっている。それぞれ放出株式の比率を法律で定められており、民営化後も大蔵省が影響力を温存できるようになっている。

 二番目の違いは民営化でリストラが迫られる国営企業に株式の売却益を還元しなかったことである。イギリス では、まず国営企業の従業員を対象に自社株購入を募り、放出株式の一部を従業員に有利な価格で放出した。分かりやすく言えば、リストラの落とし前をちゃん とつけたということになる。日本では、社員に対するインセンティブは一切なく合理化だけが待ち受けていた。


2000年03月01日(水)萬晩報主宰 伴 武澄


 作家の村上龍さんが主宰するJMMというメールマガジンで最近「戦後転換期はいつか」という質問を読者に呼びかける興味深い試みがあった。

 2月6日までに寄せられた回答は32で、その結果をおおまかに分類すると以下のようだったという

 1.1970年代
 2.1972年 ニクソンショック
 3.1985年 プラザ合意
 4.1989年 東証最高値記録からのバブル崩壊
 5.1997年 拓銀、山一証券の破綻

 ●アメリカの退潮が鮮明になった時代

 多くの読者が「1970年代」に注目したのは炯眼であると思う。いまから考えれば信じられないかもしれないが、60年代後半から70年代は東西冷戦構造の中でアメリカの退潮が鮮明になった時代であった。

 70年代を象徴した出来事は「アメリカのベトナムからの撤退」である。まもなく「ニクソンショック」によ るドル暴落の時代が始まる。西側を次に襲ったのはオイルショックである。ソ連を中心とした東側陣営が軍事宇宙で優位に立ち、ドルの優位が揺らぎ、アラブま でもが反逆したのである。

 日本の経済的台頭もアメリカとって脅威のひとつだったはずであるが、あくまでも日米安保の範囲内での出来事だった。ニクソンショックは日本からみれば1ドル=360円という固定相場が終わった時代である。

 問題は、当時の日本に円高をプラス思考で考える人がいなかったことである。オイルショックは日本経済に大きな影響を及ぼしたことはまぎれもない事実だが、一時期1ドル=200円を下回った円高によって原油価格の高騰が相当程度吸収されたことは意識されなかった。

 国際的にみれば西側の退潮が鮮明になるなかで西側経済のエンジン役をはたし得たのはひとえに円高のおかげ なのである。にもかかわらず「円高は悪」という認識が広く日本全体を覆い、いまだにその認識が改められていない。通貨暴落で苦しむ国は枚挙にいとまがない が、日本以外に通貨高を恨んだ国家はない。

 歴代の政治リーダーは「輸出こそが国力だ」と考え、円高を矮小化してきた。歴史の転換点にあって歴史観を持たないリーダーを抱え続けた日本の悲劇である。

 ●ソ連の追い上げで大きく揺らいでいた西側陣営

 萬晩報は「戦後日本の転換点」について1998年04月17日付「日本経済を変質させた石油危機とサミット」で取り上げた。戦後日本社会の「変質」を説明するにあたって「石油ショックを契機にカルテルが容認された」ことに重きを置いたコラムである。

 フランスのディスカールデスタン大統領の提唱でサミット(先進主要七カ国首脳会議)が始まったには 1975年のことだった。第一回会合はフランスのランブイエだった。なぜサミットが必要だったかという問いかけについては、冷戦対立が深刻化するなかで西 側自由主義経済の絶対的優位がソ連などの追い上げで大きく揺らいでいた点を見逃すわけにはいかない。

 特に軍事・宇宙など最先端技術の追い上げは急ピッチに見えた。アメリカにとって核技術だけでなく、ミサイ ルにつながる宇宙ロケット、情報探査に役立つ地球衛星など広範囲なハイテク分野での競争でますます脅威にされされた。ロシアがサミットの一員として招かれ る今日から考えればウソのような話だが、サミットという枠組みがソ連への対抗上生まれた事実は忘れてはならない。

 1970年代のアメリカは、ベトナム戦争の泥沼化で経済的に疲弊した。1971年、ニクソン大統領はドル の金兌換を一方的に廃止し、2年後の73年には主要各国の為替は変動相場制に移行した。戦後世界を位置づけていたアメリカによる軍事と経済の絶対的優位が 崩壊した分水嶺となった出来事だった。

 先進国経済の秩序とバランスが崩れるなかで起きたのが、1971年末の石油輸出国機構(OPEC)による 原油価格の大幅引き上げだった。石油ショックは主要先進国のインフレと財政赤字に追い打ちをかけ、経済力の序列が大きく変わった。ただ経済復興に成功した 西ドイツと日本の経済的プレステージは上昇したものの、アメリカに取って代わるほどのパワーを持ち合わせていたわけではない。(続)


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