1999年12月アーカイブ

MCMXCIX年XII月XXIX日(水)萬晩報主宰 伴 武澄


 西暦2000年をはじめに迎えるのは南太平洋のトンガ王国である。日本時間で31日午後7時に2000年 の午前0時を迎える。地理的にはニュージーランド・チャタム諸島東方の人口55人のピット島が人が住むところで一番乗りとなるのだが、トンガが夏時間を採 用してビット島をかわした。キリバスはこれに対抗して国の中央を走る日付変更線を東端に変更して「日の出一番乗り」という勇み足をすることになったそう だ。

 西暦がキリスト誕生を起点とした年代の数え方で、グローバルスタンダード化しているの は事実である。悔しいがミレニアムが大きな時代の区切りであることも確かだ。一つぐらい騒がない国があってもいいのではないかと思いながら、萬晩報として もミレニアムに少々知的刺激を付け加えたい。

 ●ルネッサンス期の数字はまだローマ表記

 2000年はローマ数字で「MM」と表記する。どう書くのだろうとずっと考えてきた。 答は意外なところでみつかった。百科事典と広辞苑である。ちなみに1999年は「MCMXCIX」で、1998年は「MCMXCVIII」と書く。少々解 説を加えると「1、5、10、50、100、500、1000」をそれぞれ「I、V、X、L、C、D、M」と表記する。なんとローマ数字は5進法だった。

 ただそれだけのことであるが、有史以来この表記が使われてきたわけではない。ヨーロッ パにはそれ以前にギリシャ数字があり、その前にはメソポタニアとエジプトの数字が伝わっていた。中国では漢字による表記だったし、インドでは「ゼロ」を含 む10進法が古くからあった。イスラム教徒たちが、10進法をヨーロッパに伝えたため「アラビア数字」として使われるようになった。

 インド数字がヨーロッパに伝わったのは13、14世紀といわれるが、実際に市民たちが使っていたわけではない。インドで数字が現在の算用数字のように書かれるようになったのは15世紀だから、ヨーロッパの市民が算用数字を使うのはそのずっと後になるはずだ。

 イエズス会のフランシスコ・ザビエルの石碑がマレーシアのマラッカにあるが、その年代表記はまさしく「MD・・」で始まるローマ数字だった。グーテンベルクの印刷術によって広まった当時の書籍に書かれた年代もローマのままだった。

 イエズス会が発足した時、ヨーロッパではルネッサンスは始まっていた。ルネッサンスではまだローマを引きずっていたことになる。ヨーロッパはアラビア数字という新しいパラダイムを普及させるのにさらに数百年かけることになる。

 ●まだ500年足らずの西暦の歴史

 だが、こんなことで驚いてはいけない。ルネッサンス期のヨーロッパでは1000年をかけた別のパラダイムが進行していた。「西暦=キリスト紀元」という概念である。

 イエス・キリストが生まれたのはアウグストゥスが支配したローマ帝国が全盛だった時代のエルサレムである。その少し前にカエザルがエジプトから太陽暦を導入しユリウス暦と称した。これは現在われわれのグローバルスタンダードとなっているグレゴリー暦の基礎となっている。

 だが、まさかイエスが「おぎゃー」といった瞬間に「はい西暦です」となったはずがな い。ローマ時代に採用していたのはローマ建国紀元暦であるから、ローマ暦752年の12月25日に生まれたはずである。キリストの生誕日に関しては諸説あ るし、そもそもユダヤ人たちはローマ暦を使ったかどうか分からない。ユダヤ暦で言えばアダムとイブの創世記から3952年となる。

 キリスト教徒の方には申し訳ないが、イエスの誕生は近しい家族だけの出来事だったはずだと思う。 キリスト教がローマ帝国によって公認されるのはローマ暦1065年(AD313年)、コンスタンティヌス帝の時代である。そしてローマ帝国の国教となるのが79年後のローマ暦1144年(AD392年)ということになる。

 実はキリスト紀元(AD)=「主の年」(anno Domini)から何年という年号の数え方はローマの修道士、ディオニシウス・エクジグウスが発案した。キリストが生まれた年を元年として逆算して、その 年をAD525年とした。このスキタイ生まれの修道士が新しいパラダイムを生まなかったらいまごろ、歴史をどのように学んでいたのか考えると不思議な気持 ちにならざるをえない。

 ●イエス誕生525年に発案されたキリスト紀元

 キリスト紀元がADとなったのはさらに後のことで、ディオニシウスは当時、新しい年号 の呼び方をAB=「主の体現より(ab incarnatione Domini)」と呼んでいた。岡崎勝世埼玉大学教授の「聖書vs世界史」(講談社現代新書)によると当時、ローマでは多くの暦が使われていたそうだ。

 一番日常的だったのはローマ皇帝の治世何年という呼び方だったはずだが、過去の歴史を記述するにはローマ建国暦やオリンピアド紀元があり、キリスト教の聖職者たちは歴史を語るのに創世記を使っていた。

 ディオニシウスがキリスト紀元を編み出したきっかけはキリスト教最大のお祭りであるイースター(復活祭)の日程である。復活祭は春分の日の後の最初の満月の次に来る日曜日と決まっている。

 毎年移動するこの祭日の日取りは早くから計算されて表になっていたが、ディオニシウス がこの表を作成する必要に迫られた525年には表の残りがあと6年となっていた。次の表をつくる必要からイエスの復活の年を逆算した。イエスの復活は30 歳のことであったから、さらに30年遡って、生誕のその年を「元年」と呼ぶことに決めたということである。

 ●中国との出会いが生んだ「BC」という概念

 ところがこのADが定着するにはさらに1000年の月日が必要だった。キリスト教の世 界で歴史の始まりは天地創造だから、そこから前に歴史は存在しない。カトリックの聖職者たちはエジプトの古代文明もメソポタミア文明もなんとか天地創造か らの歴史に押し込めることに成功していた。だが、どうしてもそれよりも長い歴史があることを認めざるをえない事態に直面した。

 中国との出会いである。16世紀初頭にはポルトガル人が東洋にやってきて、中国人がつづった歴史の長さに驚いた。年代が極めて正確に記され、どうしてもノアの洪水伝説以前に、遡る必要が生じたのである。

 ここにもう一人のディオニシウスが17世紀に登場する。オルレアンのディオニシウス・ ペタヴィウスである。歴史上初めて、BC(キリスト前)で歴史の記述に用いた。この概念をさらに敷衍したのがフランスの思想家ヴォルテールだった。著書 「歴史哲学」では、BCは「通俗紀元前」(avant notre ere vulgaire)として、また紀元後はADをつけずに数字だけで表記する手法を用いた。

 年代から「キリスト」とか「主」という概念を取り払って単なる年代的符号化したことは後世からみるとコペルニクス的発想の転換ともいえよう。

 ●数え切れない世界の紀元と暦

 さて西暦2000年1月1日である。この1カ月、人に会う度に各国の暦について尋ねた。西暦とイスラム暦ぐらいだろうと考えていたのが間違いだった。

「日本では平成12年元旦。戦前に皇紀2600年を祝ったはずだよな」
「2000年1月1日はイスラム暦で1420年9月24日だ。太陰暦を採用している国ではそもそもまだ新年ですらないんだ」
「エチオピアでは公文書にはエチオピア暦というのが併記されていたんだ」
「台湾は1911年の辛亥革命で中華民国元年を正式に宣言した。来年は民国89年になる」
「そうそう韓国の壇君暦って古いんだ。北朝鮮は最近、1911年の金日成の誕生日から換算して主体という年号を始めたのを知っているかい。モンゴルでもチンギス・ハーン紀元というのが生まれているらしい」

「タイの仏教暦は意外と知られていないはずだ」

 こんな会話が延々と続いたが、だれも確証をもっていなかった。

 日本には昭和とか平成という元号があり、かつては神武天皇即位を紀元とする年代記とし て皇紀があった。日本が元号を初めて導入したのは中大兄皇子の時代の「大化」(西暦645年)である。皇紀が使われだした時代はまだ調べていないが、明治 の初めにすでに教科書に使われていたようだ。明治7年に小学校用に編纂された「世界史」のオリエントの項目にアダムとイブの伝説に触れ「紀元前およそ 4000年(神武天皇紀元前3250年)」とある。

 朝日新聞12月16日の家庭欄に「実は知らない西暦の話」という特集が組まれ、東京新聞の12月26日のサンデー版に「世界の紀元と暦」という特集があった。参考にしてほしい。

 本号が1999年最後のコラム。来年は1月6日からの予定です。みなさんよいお年を!

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世界の紀元と暦(1999.12.26東京新聞から転載)
紀元の名称
西暦
由来
ユダヤ紀元(創世紀元)
BC3761
ユダヤ教での天地創造の年(神話)
壇君紀元(韓国)
BC2333
朝鮮の開祖、壇君の即位(神話)
オランピア紀元(ギリシャ)
BC776
古代ギリシャの第1回オリンピック開催を起点
ローマ紀元
BC753
ロムレス王によるローマ建国(説)
ナボナッサル紀元
BC747
ナボナッサルによるバビロニア建国(説)
神武皇紀(日本)
BC660
神武天皇即位(神話)
仏滅紀元(タイ)
BC543
シャカが亡くなった年(説)
セレウコス紀元
BC312
アレクサンダー大王の武将セレウコスによる建国
ビクラム紀元(北インド)
BC57
北インドを支配した王を記念
西暦
1
イエス・キリスト誕生(ディオニシウス・エクシグスが525年に決めた)
エチオピア紀元
9
エチオピア建国
サカ紀元(インド)
78
インドのサカ続が北西インドを征服
イスラム紀元
622
マホマメッドがメッカからメジナへ聖戦
ビルマ紀元
638
ミャンマーに仏教が伝わった年
フランス革命暦
1792
王政廃止を共和国元年。1806廃止
中華民国暦(台湾)
1911
辛亥革命の成功で宣言
主体暦(北朝鮮)
1912
1997年に金日成の誕生日に遡って制定

西洋の暦の変遷

 
ロムルス暦
(BC753)
ヌマ暦
(BC710)
ヌマ暦改暦
(BC153)
ユリウス暦
(BC46)
ユリウス暦
(AD8)

ローマの開祖のロムルス王が制定。1年=12カ月 ローマ皇帝ヌマが改暦し、2カ月加えた。 改暦し、年初にJaniariusを持ってきた ジュリアス・シーザーがエジプト太陽暦にならい制定。4年ごとに閏月 アウグストゥスが12カ月の配分を変更。8月に自分の名を付ける
1 Martius (軍神) Martius 31日 Janiarius Janiarius Janiarius
2 Aprilis (美の女神) Aprilis Februarius Februarius Februarius
3 Maius (豊壌の神) Maius Martius Martius Martius
4 Junius (結婚の神) Junius Aprilis Aprilis Aprilis
5 Quintilis (ラテンの5) Quintilis Maius Maius Maius
6 Sextilis (ラテンの6) Sextilis Junius Junius Junius
7 September (ラテンの7) September Quintilis Julius Julius
8 October (ラテンの8) October Sextilis Sextilis Augustus
9 November (ラテンの9) November September September September
10 December(ラテンの10) December October October October
11 名無し Januarius (門神) November November November
12 名無し Februarius (償いの神) December December December

1年304日
355/377または378日
同左
365/366日
365/366日

1999年12月25日(土)Conakry発 齊藤 清通信員


◆12月23日朝(現地時間)から、コートジボアール=象牙海岸共和国の首都アビジャンで、正規軍による発砲騒ぎが始まりました。テレビ・ラジオ局も軍の指揮下に置かれ、音楽だけのプログラムに移行していました。

 BBC、CNN等は、「もう少したっぷりケーキが食べたい」ことが、彼らの要求であると伝えていました。流血の事態はなく、町は平静で、単に空へ向けての威嚇射撃のみが続いていた様子です。

◆そして、本日24日朝、国会は現大統領の解任を決議し、ゲイ参謀総長が大統領に就任した、という確度の高いニュースが入ってきました。

◆象牙海岸共和国は、西アフリカでは、というよりもアフリカでは、最高に安定した政治状況にある国と信じられていた国のひとつです。

 しかしながら、来年の大統領選挙に向けて、野党のリーダー・ワタラ氏(元首相)が立候補を宣言したため、 現大統領は野党リーダーの国籍についての疑義攻撃し始めていました。つまり、彼はブルキナファソ共和国の市民であって、大統領候補にはなれない、という指 摘がされていました。これに関連して、ワタラ氏のブルキナファソ国籍確認のための密使が、氏の故郷とされるブルキナファソのある町に派遣され、賄賂を贈っ て書類の捏造を依頼し、その場でブルキナファソ当局に身柄を確保された、というニュースも伝わっていました。

 ただ、今回の動きと、それらの裏の動きが直接につながっているとは断定できません。

◆そのような状況下で、現(前)大統領 Henri Konan Bedie 氏は、クリスマスのために故郷の村へ戻って、首都を留守にしていた間に、大統領を解任されたという状況です。現時点では、首都へ戻る動きをさせられている ようですが、その身体には格別の問題は起こらないと考えられています。

◆首都アビジャンは平静で、この事態に対して多くの市民は好意的だと聞こえてきています。[Conakry 11:30 GMT]

◆ゲイ参謀総長のスポークスマンが、ラジオを通じて、政府、国会、最高裁等の国権の機関の機能を一時停止させたこと、獄中の政治犯すべての解放を指示したことを表明。あわせて18:00-05:00の外出禁止令を発表した。

◆エールフランス、サベナ、エールアフリックの各航空会社は、アビジャンへの国際便をすべてキャンセル。

◆現(前)大統領 Henri Konan Bedie 氏は、ラジオフランス、BBCを通じて、現在の状況は国際機関の協力で更正されるべきであり、そのために抵抗する、とアナウンス。時刻と場所は不明。 [Conakry 17:15 GMT]

*この時刻まで、コナクリのプロバイダーから海外へのアクセスがうまくいっていません。今日はことにコナク リ側が不安定なことと、日本側のサーバーにも問題がありそうで(?)、二重の越え難いハードルに苦しんでいます。つながりしだい発信します。コナクリのラ ジオは、まだこの様子を伝えていません。 [Conakry 18:45 GMT]


1999年12月22日(水)ジャーナリスト 北 まさひろ


 わが大阪府の知事だった横山ノックさんが、きょう(99年12月21日)、選挙運動期間中の女性運動員に 対するセクハラ問題で、前日の検察庁の府庁捜索という強制捜査を受け、急きょ入院した国立循環器病センターから辞表を提出した。数日内に開かれる府議会臨 時議会で同意の承認を受け、2期目半ばにして知事を正式に辞任することになる。

 ノックさんといえば、ご存知、「パンパカパーン、今週のハイライト」を売りに、一世を風靡した漫画トリオのリーダーであり、漫才をやめて参議院議員に なってからも上岡龍太郎さんと組んで視聴者参加の番組で司会を務めた人気タレントであり、政治的には長く旧民社党に属した人である。

 大阪では、西川きよしさんと並んで、選挙に出れば、圧倒的な票を集め、自民党をはじめとする既存政党は、参議院選挙では戦う前から、ノックさんを指定席と勘定し、残る議席を争うことを前提としなければならないほど、強い候補だった。

 大阪ではなぜ、そんな「お笑いタレント候補」が強いのかと言われれば、昨今の「吉本人気」を思い出してもらえれば、わかってもらえると思う。40代半ば の私もそうだが、私の中学時代の同窓生の男子といえば、土曜の授業が終わると、家で昼食を食いながら、吉本新喜劇のテレビ番組を見ていた者が多いのであ り、なにわの庶民の町を舞台にした、肩の凝らない、ギャグ連発の喜劇を半ば楽しみにし、チャンネルを合わせていたのである。

 横山ノックは、新喜劇には出ていないタレントではあるが、同じにおいをさせる庶民派の「おっさん」タレン トであり、選挙期間中でもそうした自分の強さを忘れることなく、自転車で回る「パーフォーマンス」に、「ノックさん、頑張りや」という声をかけた主婦も多 かったことは想像に難くない。

 そのノックさんのセクハラ問題の発端は、当選間違いなしの選挙運動期間中に起きた。得意絶頂のさなかのことである。ふと、魔がさしたのかもしれない。人 は、調子がいいときほど危ない--という人生教訓をそこから学びとるだけしかないほどの、極めて「個人的な事件」であった。もっとも、お笑いタレントであ り、人気者であるノックさんには、知事としての力量を求めるというよりも、「とりあえず、ノックでもいいやないか。だれがしても、この財政赤字の府政、た いして変わらへん。

 大阪にはなじみの薄い高級官僚出身者にしてもらうより、なにわの舞台で育ったノックさんでいいやないか」 という気持ちも大阪の有権者にあったことは間違いなかった。そして、実像のノックさんは知らないものの、ブラウン管や舞台のノックさんから、庶民的で話の わかる「おっさん」としてのノックさんに期待をかけ、ともすれば汚職疑惑がささやかれる人もいる議員さんたちや、庶民とはほんとに縁遠い労組や企業の「お 偉いさん」とは違うことへの共感もあって、21世紀へつなぐ大阪府政の行司役を任せたのである。簡単に言ってしまえば、「ノックさんで、ええやんか」と。

 ノックさんでもいい。ノックさんでもできる。ノックさんしか私ら知らんし。大多数の雰囲気は、つまり、そんな具合であったのだ。ノックさんは、有権者にとって、まさしく「でもしか教師」ならぬ「でもしか知事」であったのだ。

 で、ここで、わからないことが一つある。それは、なぜ、ノックさんは知事になったのだということだ。有権者側からではない。有権者の大多数の意識は、多 少、支持政党への「お義理」や「熱い心情」から、対抗馬に票を入れた人があったとしても、そんな人でも多くは「ノックさんで、いいやんか」という気持ちで あり、政党各会派の議員さんたちも、本音はそんなところであると言っても、そんなに的外れではないと私は思っている。大阪人の融通無碍のところは生まれな がらのものである。

 いわゆる世間が言う「偉い人」を、「偉い」とは思っていないことでは最たる「県民性」でもあり、高級官僚 よりはノックさんの方が好きなのである。で、私の疑問は、ノックさんの心の中にある。つまり、「なぜ、ノックさんは知事になったのだろうか」、あるいは 「知事になりたかった」のであろかということである。ノックさんは、担ぎ出されたというより、自分から出てきた人であった。

 単なる名誉欲だけだったのであろうか。知事報酬や政治献金が目的だったのか。本当の心情からにじみ出る政策ビジョンはなかったのか。 いよいよ辞職ということなり、記者会見などで、セクハラについて反論したときの表情を思い出すのは、私だけではなかろう。

 知事は、顔を紅潮させて、相手はうそをついていると主張したのであり、演技とすれば、スキのない迫真力で あった。一瞬、本当にだましているのはどっちなのだろか--と思ったほどである。多分、今後、予想されるのは、うそ付き呼ばわりした人が、うそを付いてい たという結果である。大阪の庶民は、そんな場合、その人のブラウン管への「再登場」を許すだろうか。

 来年2月に予想される選挙では、もう、タレント候補はごめんだ--という声も出てくるだろう。ノックの次はだれか。大物国会議員か。それとも、また、お 笑いタレントか。あるいは、既成政党と距離を置いた第二の「橋本大二郎」か。今のところ、だれが最終的に出て来るか、予想もつかない。


 北さんにメールはwinocean@yo.rim.or.jp
1999年12月21日(火)Gold News from Guinea 斉藤 清


 ◆豊富な水資源

 ギニアは西アフリカの水瓶、給水塔とも称されるほど、天然の水に恵まれた国です。ナイジェリアの首都ラゴ スから大西洋に流れ込む大河ニジェールも、その源流はシエラレオーネ国境に近いギニアの山の中ですし、ガンビアの首都バンジュルから大西洋に流れ出るガン ビア川も、その水源はギニアのフータジャロン山塊にあります。

 海岸ギニアには湿地を開拓した水田地帯がたくさんあり、二期作も可能な自然環境です。また森林ギニアのキシドゥグ地方には山間の水田が多く、昔から米作が盛んで、フランスの文献には「コメの民・キシ族」として登場します。

 中部ギニア地方では山岳地が多いために、田んぼはわずかで、山の斜面を利用した陸稲の栽培が一般的です。高地ギニアは、地形が平らかですから、ニジェール川支流の広大な氾濫原を利用した水稲栽培が可能です。

 ◆なだれ込む輸入米

 適度な雨量と肥沃な土地が、フランスの植民地であった時代には充分に活用されて、「フランスの食糧庫」と 呼ばれていました。独立後は、残念ながら急速に農業生産が衰退して、コメの大量輸入国と成り果てました。それも安いというだけの理由で、アメリカ、アジア からの砕米が集中的に入荷します。

 コクゾウ虫がうごめいているコメは、まだしも安全な証拠ですけれど、高温多湿の長い船旅に耐えられるよ う、彼の地でポストハーベストをたっぷりと振りかけられたくず米も存在するはずで、それがまったくのチェックなしで市場に流れる様は壮観です。なにしろ、 安ければ、ヨーロッパで廃棄されたいわく付きの肉でも、日本では使用禁止の農薬でも、すべて鷹揚に受け入れる寛大なお国柄ですので。

 ◆自給作戦

 それで、我が現地スタッフたちは、昨年に引き続いて今年も自家米の生産をくわだててました。土地は、とい えば、鉱区の一部のフィエ川の氾濫原。共同出資でコメを作るから一口のってくれ、ということで私めもウィスキー1ダース分ほどの金額を出資させられて、そ の時のくどき文句では、1haあたり少なくとも1tは穫れると言っていましたけれど...。

 さらに、肥料分を上乗せすればもっと収量が上がるはずで、という誘いには、どうせ氾濫原が冠水すれば肥料もさほど役には立つまいに、と答えて、無肥料の大雑把な栽培方法-というのも恥ずかしいくらいのいいかげんさなのですが-を希望しておきました。

 雨季の間の留守番役を司るギニア人鉱山技師の選択は、水没に強いという評判の現地の在来種ケメとディスウ レの2種を2ha、そしてハイリターンを狙ったものらしく、多収穫品種としてシャンガイ(上海)を2ha。都合4haの田んぼ(単なる氾濫原)に3品種を 直播。西アフリカ起源の「オリザ・グラベリマ種」とアジア伝来の「オリザ・サティバ種」の競演となりました。

 ◆アラーの神のおぼしめし

 むろんその前に土地を耕したわけですけれど、それは山で使っているブルドーザーにリッパー(地面を引掻く 爪)をつけて走らせ、そのあとをいくぶん手直しした程度の荒っぽい作業で、とても農作業などといえた代物ではなかったようですが、それでも、本業のお百姓 さんには申し訳ないものの、鉱山技師の余技としては上々といわざるを得ません。

 ところで、実りの秋の結果です。多収穫を狙ったアジア種は、今年は川の氾濫が例年になく早かったため、充分に成長する前に水没して全滅。残りの在来種の分が、あわせて1.5tほどの収穫だった由。

 採算は、ブルドーザーの燃料などを計算に入れればマイナス、ということになるのでしょうが、キャンプで食 べるコメの一部が化学肥料なし農薬なしの、しかも味は折り紙付きの――なにしろ甘味があります――素性の知れた天然米ということになっただけでも、キャン プの留守番役の余技に感謝しています。

 ◆農業奨励

 ここ数年でしょうか、噂によれば大統領が周囲の人間に農地の拡大と生産量の増大を勧め始めたらしいので す。確かに、ご本人自身も現在では海岸ギニアに広大な農園を所有していて、毎週末、何はさておき、その郊外の農園へ足を運んで作業の陣頭指揮をとるのが習 慣となっている様子で、そこでは、大型の農業機械が揃った理想的な大規模農業経営が進行しています。

 各大臣もそのほとんどが週末は村へ帰って――主要な大臣は大統領と同じく皆海岸ギニアの出身者ですから――農業に励み、その風を目一杯に受け止めた地方の県知事たちも、本業そっちのけで、各人の領地を拡大することに奔走し始めました。

 例えば、先日当事務所にふらりと立ち寄ったマンディアナの県知事は、「今年は230haの田んぼをやっているから忙しくてね」と、コメの収量の皮算用をしながら、満足げにタバコをふかしていました。

 海外からの農業援助で手にした、ブルドーザー、トラクター、その他の大型農業機械を、一部の人間だけが 「役得」として使っている現状は、あまり美しいものではありませんけれど、それでも、食糧自給率が41%になってしまってもなお、既存の農地をつぶそうと 努力しているかに見える故国の農政を思うと、まだギニアの方がましなのかな、とも思ってしまうのです。

 ◆蛇足ですが

 それにしても、1960年代の末、東京のある学校の講堂で聞いた講演を今でもはっきりと想い出します。曰く「日本人はコメを食うから馬鹿になり戦争に負けたのだ、これからはパンを食え、そうすればあのアメリカ人のように強くなれる」と。

 港区あたりにある私立K大学の医学博士H氏(作家Kでもあったようです)が、田舎から出てきたばかりの、 ほとんどコメばかりを食べて育ってきた、西も東も良く知らない若者たちに向かって、あふれ出る自信を大きな身振りで掬いあげながら、黄河の流れよろしく滔 滔とまくしたてたのですから、これはショックでした。

 あとで知ったことには、当時は、アメリカとそれに首っ丈の御用文化人たちが、八方手を尽くしてこの手のデマを飛ばして歩いていたようですけれど。それが最近では、その馬鹿の元凶といわれたコメを、買え買えと迫る厚顔無恥ぶり。

 そのうえ、国内での生産を削減させてまで、ええよろしゅうござんす、と手をこすり合わせる同朋の姿を見せつけられていると、あの日のショックの後遺症がいまだ癒えていない小心者としては、コメという音のかすかな響きにも、やたらむきになってしまうのです。


◇電子メール書店の老舗「まぐまぐ」で配信している『金鉱山からのたより』1999/12/19 第25号から転載しました。
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1999年12月19日(日)萬晩報主宰 伴 武澄


 12月15日、韓国投資セミナーがに参加した。生まれ変わった韓国がテーマだった。通貨危機以降の韓国は IMFの管理下に入り、欧米の国際金融資本による支配の悲哀を相当ひどく味わった。そこで出てきた結論がアジアへの回帰ではないかと思う。このセミナーで 感じたのは韓国が日本に投げかける熱い視線である。

 ●韓国が決断した対日門戸開放

 このセミナーを取り仕切った都銀に勤める友人は数ヶ月前からしきりに「日韓提携論」を言い出していた。このセミナーの準備のため足繁く韓国に通ううちに考え出したに違いない。その後に中国、台湾も続くのだが、まずは「日韓」であるという。

 ドル、ユーロに続く第三の通貨がアジアに必要だというのがこの友人の持論である。11月、マニラで日中韓 の首脳会議が有史以来初めて開かれた。これまでのアジアの不幸は、日本と韓国、中国がそれぞれ一定の経済規模を持ちながら、「共同通貨」を語るフォーラム さえ持てなかったことである。いつも過去の歴史的経緯が融和に向かうとするお互いの心を阻害してきた。

 その一角である韓国がここ一年、日本に対して大きく門戸開放に動き出した。まず、日本文化の門戸開放であ る。長年禁止されていた日本の歌謡曲や映画が解禁され、次いで家電や自動車など耐久消費財の輸入を事実上禁止していた「輸入先多角化制度」が廃止され、段 階的だが輸入が始まっている。

 日本文化の門戸開放は金大中(キム・デジュン)大統領の就任に始まった。昨年、鹿児島で行われた小渕首相 と金鍾泌首相による日韓首脳会議は、非常に密度の高いものだったと信じている。政治的に対立していた両国が韓国から伝わった陶器という文化を媒介として日 韓の将来を語り合ったはずである。

 先週の日韓セミナーで韓国の鄭徳亀(チョン・ドック)産業資源部長官は「新しいミレニアムには韓日が真の 同伴者として生まれ変わらなければならない」と日韓の第二の協力時代を訴えた。そのためには「人の要素」が重要であるとし、お互いに「心の扉を開く」必要 性を強調した。鄭長官によれば「韓日はWin-Winの関係。お互いに手を取り合って世界市場に乗り出せば、他のどの国よりも競争力がある」ということ だ。

 ●なくなった日韓台の生活格差

 もともと日本の通産省はアジア指向だった。10年前、アメリカ抜きのAPEC(アジア太平洋協力会議)を 画策した経緯がある。怒ったのがブッシュ政権のべーカー国務長官だった。表向きこのアジア経済協力の構想を持ちかけたのはオーストラリアのホーク首相だっ た。アセアン諸国、中国、韓国、台湾の了解を得つつ日本に向かっていたが、出迎えた日本で、構想がとん挫した。国務省からの圧力を受けた外務省が「アメリ カ抜き」に強行に反対したからだ。

 当時の日本の経済はバブルのピークに達し、アジアは日本を先頭にした「雁行型経済」的発展の中にあるとの 認識が広がっていた。当時の日本の経済的実力はアジアで突出しすぎ、アジアが独自の経済圏を形成するには未熟だったかもしれない。そもそも日本にアメリカ の圧力を跳ね返す勇気があったとな思えない。

 それから10年。アジア経済には一段の飛躍があった。日韓台でみるサラリーマンの生活水準の格差はほぼ解 消したとみていい。97年には通貨危機に見舞われたものの、今年前半から再び力強い回復をみせている。アジアは雁行型から水平型協力への移行期にも差し掛 かっている。そしてなによりも大きな変化は97年の通貨危機で欧米の国際金融資本の力をまざまざと見せつけられたことである。

 韓国の回復を示す具体的数字をいくつか挙げると、まずことし第三四半期のGDPが12.3%に達した。海 外からの直接投資はすでに100億ドルを突破し、年末までに150億ドルに達する見通しである。慢性の貿易赤字体質から脱却し、ことしは700億ドルの貿 易黒字に達し、IMFから借りた134億ドルの構造調整資金はすでに返済済みである。この結果、金大中大統領は12月3日に「経済危機終了」を宣言した。

 ●アジア提携へ向け必要な戦略的準備

 そこで日韓である。すでにサッカーのワールドカップの2002年共同開催は決定している。この意味すると ころは大きい。前回のワールドカップ予選の際、背水の陣にあった日本代表に「一緒にフランスに行こう」と声援を送ってくれた韓国に、新しい時代の到来を感 じたのは筆者だけではないと思う。

 NHKが大分前に放映していた若者のファッションを扱った番組で、高校生が好む渋谷のファッションの多く がMade in Koreaであることが分かった。1カ月、週単位で移り変わるファッションの変化に日本のアパレルメーカーがついていけないということだった。小回りの利 くソウルのメーカーにどんどん発注が向かっているのだそうだ。

 この番組の中でアナウンサーが女子高生にインタビューし「この洋服、Made in Koreaってあるけど、どう思う」と聞いていた。くだんの女子高生は「韓国製でなにか悪いことでもあるの」と問い直していた。アナウンサーの意識が旧世代に属しているだなと感じた。

 話をセミナー会場に戻す。休憩時間にコーヒーを飲んでいた韓国人の通訳をちょっと話す時間があった。「専 門用語が大変です」といっていた。韓国側は個別商談会向けになんと70人もの通訳を用意していた。果たして日本が韓国へ出向いてこれだけの韓国語通訳を準 備できるか不安になった。

 日韓だけでなく、中国や台湾も参加した日中韓台の提携時代に入ると、共通語はきっと「中国語」になる。通貨は円が基軸になるだろうが、言語となるとそうはいかないだろう。日本もそろそろそんなところから戦略的な準備を国家的に始めなければいけない。


 Win Winについては、八木博さんが書いた
 1999年02月05日付萬晩報「アメリカで台頭する Win-Win という価値観」を参照してください。

1999年12月17日(金)とっとり総研 主任研究員 中野 有


 インターネットと古典は両立するのか。例えば左翼と右翼の両方を知ってよりバランスのとれた政治感覚が養 え、またジャンボジェット機は左翼と右翼の幅が広い故、安定した飛行が可能となる。このような視点により一見相反する現在の文明の利器であるインターネッ トと先人の知恵の宝庫である古典との両立に関し考えてみたい。

 インターネットはビジネス、学校、家庭を問わず日々加速度的に普及している。インターネットは、もはや情 報、コミュニケーションの分野のみならず金融、生産、流通におけるビジネスのコアに不可欠である。恐らく21世紀のイノベーションの怪物はインターネット であると歴史に刻まれるであろう。

 しかし、インターネットは便利な故マイナス面もある。情報の洪水を浴びるほど、仮想現実の度合いが増し、 現実に接した時の新鮮な心が躍る感動が薄れる。これは巷に溢れる情報誌に則り予測できる旅の味わいより、あまり情報に頼らず未知への遭遇を期待した自由な 旅の方が夢があるのと似ている。

 コンピューターの普及に伴いモンブラン等の高級万年筆の売り上げが上昇する現象は面白い。キーボードばか り打っているとペンを走らせる感覚が懐かしくなり、サインだけでも高級万年筆ということになるのであろう。NHK情報ネットワークの加藤和郎さんから拝受 するFAXは達筆で書かれた上に季節にマッチした挿し絵が描かれており、いつも心が踊る。

 インターネットでは得られない情報に興味がそそられる。インターネットの情報は枝葉のような気がしてなら ない。物事の本質や真髄を探求しようと思えば古典にのめり込む。ミレニアムの大きな歴史の狭間の中で、自分の存在は古より永遠に亘る日本的生命の一断面で あると考えると、「人生・日本・世界・宇宙とはなんぞや」と哲学的かつ神秘的な問題に興味をそそられる。

 また、過去の日本・世界を知らずして今日の日本を察することはできない。ましてや明日の日本や世界情勢を 洞察し、ビジョン構築のためには歴史や国史をつぶさに学ぶ必要があると痛切に感じる。したがって今や寝てもさめても古典を通じ先人の知恵や東洋思想を吸収 することに余念がない。

 コンピューターが瞬時に情報を提供してくれる便利なインターネットが主流の世の中において、今時、古典に どうしてそんなに夢中になっているのかと、いぶかしがる知人もいる。しかし、古典との出会いは、神田の古本屋で何気なく手にした中江兆民の一冊の本がきっ かけとなった。

 兆民はこの三酔人経綸問答の中で混沌とする19世紀末の国際情勢の中で世界の中の日本を多角的視点で分析 し、日本の進路をユーモアを交え描いているのである。度肝を抜かれたのは、兆民が100年後、即ち現在の国際情勢を協調的安全保障の時代だと予言している ところにある。兆民にかかれば今世紀の動きは既に展望済みであったのである。

 更に兆民の弟子であった幸徳秋水が「兆民先生」の中で兆民が坂本竜馬を崇拝していたことを述べている。竜馬への尊敬の念が一致することから、ますます兆民が身近に感じられた。秋水の名文を引用する。

 「坂本竜馬君を崇拝していた当時の一少年(兆民=筆者注)は、将来、ほんとうに第二の坂本君になろうとし ていたのであった。坂本君が、薩・長二藩の連鎖となって、幕府転覆の気運を促進することと同じように、自由・改進の二党を打って一丸とし、それを持って藩 閥を絶滅するのは、先生が終生の事業とするところであった。そして、坂本君が成功し、先生は失敗した。成功と失敗の分かれるところは、天であるのか。ある いは人であるのか」
 友人、人生の師匠、そして良書に出会うことにより人生が豊かになる。良書とは時代を超越した人生の師匠で もある。先日神田の古本屋を良書を求めくまなく歩き、コンピューターでは得ることができない深遠且つ精魂なる知恵の宝庫に巡り会った。また、たぶん世界で もまれなる煩雑なる古本屋である鳥取市の吉方温泉町の岡垣書店では、神田の古本屋でも見つからない良書を見つけることができた。そして、戦前のハルピンで 10年生活された店主の岡垣宏隆さん(84歳)から、北東アジアについての高尚なる講義を路上に座して受けた。

 2000年を前にして古典が妙に新鮮である。古典は未来を照らす鏡である。インターネットで刻々と変化す る内外の情報をタイムリーに掴む。大局的な歴史のリズム即ちセンチュリー・ミレニアム単位の歴史の趨勢を古典で学ぶ。両者に精通することにより確かな未来 が見えてくるのではないだろうか。


1999年12月14日(火)萬晩報主宰 伴 武澄


 3メートル足らずの「THINK」という小さな電気自動車がノルウエーでこの12月発進した。この車両は1回の充電で85キロしか走行できず、最高速度も90キロでしかない。

 価格は日本円で190万円(139,000NOK)で、このほかにバッテリー・パッケージとして、月額1万5000円(1095NOK)の5年間のリース費が加わるから価格も維持費も決して安くない。

 しかし通勤や買い物など日常の走行には短距離の性能があればいいと割り切ったところに製造会社の 「THINK Nordic AS」のコンセプトがある。3年間の生産計画は5000台。来年からはスウェーデン、デンマーク、フィンランドへの輸出も始める。環境にうるさい北欧の人 々にこの新しいコンセプトが受け入れられるかどうか注目したい。

 ●コミューターカーとしての実験

 THINKはプラスチックのボディーをアルミのフレームで補強したものだが、メーカーによると欧州の安全基準をクリアしているということである。電池はニッケル・カドニウム・バッテリーで耐用年数は10年。充電は家庭だけでなく市内のスタンドや駐車場で簡単にできる。

 THINKのもう一つの目玉は「部品数の少なさ」である。「廃車の際にもリサイクルを容易にしている」といかにも北欧らしい主張をコンセプトの折り込んでいある。

 THINKはJan Otto Ringdal氏が1990年に PIVCO Industries Ltd(Personal Independent Vehicle Company) を設立したことから始まった。80年代後半の環境問題の高まりを受けてただちにプロジェクトがスタートした。93年にはプロトタイプ2号を完成し、94年 のレレハンメルオリンピックで初めて公道を走る電気自動車としてテストされた。

 95年のスカンジナビア電気自動車ラリーではプロトタイプ3号が優勝し、アメリカのサンフランシスコで 1995年から98年にかけて行われたBART(Bay Area Station Car Programme)計画にコミューター・カーとして44台が送り込まれた。

 BART計画は都市における「Park and Ride」の実験である。公的交通機関と駅前にプールした電気自動車をリンクさせ、最寄りの駅まで電気自動車で乗り付け、降りた駅でまた違う電気自動車で会社まで通うこのプロジェクトにThinkもまた参加していた。

 しかし、THINKの生産車が完成し、オスロ郊外のオウルスコグの工場での生産が決まった時点で財政的に 破たんし、今年、フォードの資本参加をあおいだばかりである。フォードのナッサー社長は買収に当たって「電気自動車が採算にのるかどうかは発想の転換にあ る。PIVCOによるプラスチックボディー製の電気自動車のユニークな開発はフォードの電気自動車開発に新たな発想をもたらす」と絶賛した。

 ●レンタカー会社ハーツとの提携

 おもしろいのはレンタカーの世界的チェーンであるハーツ社がこのTHINKを大々的の扱うことを宣言した ことである。普通のレンタカーとしてはもちろん、リース車としても扱うことになった。「電話一本でご自宅にも会社にもTHINKをお届けします」というの がうたい文句である。そして点検やサービスの間は必ず代替車が用意されるため「車がない時がない」そうだ。

 また週末や休暇の家族旅行の時、THINKでは物足りないと考えたときはハーツが特別価格で大型のファミリーカーを用意してくれるサービスも加味されているそうだ。

 日本でもコミューターカー・システムの導入に向けた実験は大手自動車メーカー各社が取り組んでいるが、ノルウエーの実験ではレンタカー会社と連携すれば、新たなインフラを作らずにコンセプトを導入できるのだということを示している。 車を持つ時代から車を使う時代が北欧から始まるのだと思う。

 THINK Nordic AS http://www.think.no/mainframe.htm


 まぐまぐで配信している「ノルウェーニュース」12月1日発行「Vol 5」に「ノルウェーで初の国産車EV THINK が発進」という興味深いコラムを参考にさせてもらった。感謝します。
 ●ノルウエー通信 http://www.mag2.com/m/0000017771.htm
 ビジネス、暮らしに役立つノルウェー発の最新情報。環境、福祉、海洋など北欧の産業、制度、文化を紹介します。日本にはほとんど伝えられていない北欧の最新情報で、一歩先をいく意識と発想が生まれます!

1999年12月08日(水)萬晩報主宰 伴 武澄


 高松の明石安哲さんと、晩秋に信州奥深くある南相木村(みなみあいきむら)に色平哲郎医師を訪ねた。明石さんは高松の四国新聞の論説委員である。平地では紅葉の盛りだったが、山の木々は冬枯れである。

 色平さんには萬晩報に何回か北朝鮮の難民問題を書いてもらっている。メールで知り合い気心は分かっているような気分になっていたが、実は会うのは初めてだ。この村の初代診療所長として赴任し、家族5人で暮らしている。

 ●信州の山間で語る日本

 南相木村は東京から行くと清里、野辺山を越えて日本列島の分水嶺を越える。北側は佐久盆地で、千曲川の上流に当たる。日航機が墜落した御巣鷹山の長野県側といえば分かりやすい。最近ではオウム神理教の移転騒動があった川上村の隣でもある。

 人口1300人で小学生が70人しかいない。日曜日だったせいかもしれないが、村で歩いている人に会うことはなかった。

 色平医師の診療所は役場の裏にあった。失礼ながら村の風景には似つかわしくない堅牢な近代建築だった。その東隣りが色平医師のマイホームで奥さんは畑で野菜つくりもしている。

 この村はそのむかし平家の落人たちが入り、南北朝の時代に菊池氏がやってきて切り開いた。いまでこそ山間の寒村だが、自由民権運動の流れを受けて明治17年に起きた「秩父事件」では、多くの運動家が秩父連山を越えてこの村に逃げてきた。

 むかしからこの地を武州街道が貫き、関東へのアクセスとなていた。戦前までは養蚕が盛んで、生産された生糸は人の背にかかえられてこの武州街道経由で東京に運ばれていったそうだ。

 色平医師の多くの患者は村のお年寄りである。「老人たちの死を見守る」のが仕事であ る。高齢化を迎える近い将来の日本をみるようだった。老人たちに語りかけ、語り継がれる村の歴史を聞く。よもやまのなかに出てくる歴史の断片を組み紐のよ うにつなぎ合わせ、次の世代に伝えるのも色平さんの役割である。

 「交通弱者」である高齢者世帯や独居老人の家には車がない。そこで休日や夜間も、こちらから出向いての対応が求められる。このムラは一昨年春、私が初代の診療所長として赴任するまで、長く無医村だったところだ。

 村営の診療所にはポツンポツンと「お客」が来る。お客のほとんどが村のご老人で ある。待合室にはずいぶん腰の曲がった高齢の方が目立つが、元気ではつらつとした表情の老人が多いことに驚かされる 。冗舌な方はあまりいない。基幹産業である農業を現役として担っている方が多いので、自分に自信があるのだろう。簡単には弱音を吐かない「野生の」老人た ちだ。

 そんな患者さんたちとつきあっていると、都市とムラとではずいぶん違うものだと 感じた。たとえば「痛み」について、、、都会では十の痛みを百通りの言葉で表現する方が多いのだが、こちらムラでは十の痛みは一ぐらいにしか訴えていただ けない。重大な病気を見落とさないためには、ちょっとしたしぐさや訴えに注意することが重要となる。患者さんの表情や、言葉になる以前の表現を読み取ろう として、日々努力することになった。

 「辛い仕事でしょう」と奥さんに問いかけると「毎日がけんかです」と笑っていた。そんな山村でも色平さんのこども3人が明るく健康に育っているのが印象的だった。

 ●自分を捨てて村のすべてを受け入れてごらん

 となりの北相木村には峰尾さんといってチェリッシュのベースを引いていた人が家具職人として入植していた。村の分校を借り上げ、仲間とともに注文で家具を製作している。佐久にはもう木材はなく遠く北海道にまで資材を求めに行くそうだ。

 いまでは村に溶け込んで顔役なのだが、住み始めたときは「なんだあいつは」ということでプロパンガスも売ってくれなかった。

 いまでは年に4組、5組と東京から「Iターン」(アイターン)がやってくる。外からやってくる人々は自分たち同士でかたまる傾向が強い。峰尾さんはそういう人たちに「自分を捨てて一度村のすべてを受け入れてごらんなさい」と勧めるそうだ。

 「そうして自分で出来ることと出来ないことを判断すればいい。最初から村の生活を拒否したのでは何のために村に来たのか分からないでしょ」。なかなかの哲人だ。

 別れ間際に峰尾さんの長女が村営バスを下りて帰ってきた。この村には中学校がないので隣6、7キロ離れたの小海町まで通っているのだ。これから長い冬が始まる。色平さんや峰尾さんを慕って若者が都会から多くやってくる。若者との議論につき合うのも二人の仕事だ。

 翌々日峰尾さんからメールが届いた。

 「ここ2、3年、テレビ、雑誌などで「田舎暮らし」を余りにも軽く扱っている物があります。都会人の無い物ネダリを「田舎」へと向けさせ、それがあたかも新しい人生の幕開けようにし向ける、そこには「田舎に暮らす」と言うことの本当の姿が見えていません」

 「今、田舎では『新・田舎人』との間に少しずつ、すきま風がふき初めています。それは、都会と田舎の『生き方』の価値観の違いから始まっているように思います。私は、常々『ピュアーな日本人』『日本人のアイデンティティー』がどこから生まれてきたものか?」

 「その答えは田舎に見つかるのではないかと考えています。今、田舎に必要なこと は、わずかに残った文化や生活感、『生き方の哲学』を誰が受け継いで行くのか、『新・田舎人』は、その事を受け止め守って行けるのだろうか?このことがこ れからの「田舎暮らし」の大事なテーマだと考えています」

 物見遊山で行ったわけではないのだが、考えさせられた信州の1日だった。
1999年12月05日(日)萬晩報主宰 伴 武澄


 【日本が優れていたのはアメリカ技術のおかげ】い つも大変素晴らしい記事を読ませて頂き感謝しています。私事、元日本人でアメリカには25年程住んでいます。1982年頃、こちらの大学へ通っていました が、授業の中で製鉄技術の話になり、ちょうど、その頃、私は日本は親元を訪問した後だったのですが、日本訪問時にNHKの教育プログラムTVで日本の優れ た製鉄所の番組を見たばかりでした。アメリカに較べていかに日本のものが進んでいるか、と云った内容でした。

 それを真に受けた私は、授業の中で、アメリカの製鉄が日本の製鉄に押されるのは技術革新の努力が足りないからだ、と云う様な発言をし ました。つまり自動車の様に日夜研究と研鑚に務めるべきだ、と云った様な内容の事を発言しました。そうしたら、日本の製鉄所の技術が優れているのは、終戦 後アメリカがその時点で最も優れた技術を敗戦後の日本へ持って行き、その技術を応用した施設を作り上げたからで、アメリカが技術革新を怠ってる訳ではな い、と云われ、赤恥をかいた事があります。

 だって、NHKの教育番組ではそのような事は一言も云わなかったので、その番組を見た人達は全て私の様な間違った知識を得た事と思い ます。情報がいかに大切か、日本にいると、日本を中心とした物の考え方で日本を中心にお日様が上がってくる様な感じですが、アメリカの場合、その点、世界 中の人間が寄り集まっており、ロスだけでも70数ヶ国語が話されて、世界の縮図がここにある様に思います。『日本産業の中枢の情報収集力が著しく低下して いることこそが問題だといいたい』とのご意見に両手を挙げての賛成です。その為にも今後共引き続き素晴らしい記事を書いていただきたく存じます。(山岡幸 雄)


 【処方箋について知りたい】萬晩報の読者です。韓国と日本の鉄鋼業界の現状大変おもしろかったです。よりくわしく鉄鋼業界の将来にある問題点、その処方箋について知りたく思いました。どのようなものから読んでいけばよいのか、また筆者のご意見をお教え下さい。(浅井しげる)
 【POSCO光陽製鉄所のシステム開発をしていた】初めまし て。小岩井と申します。「萬晩報」を拝読する度に、自分の知らないことがこんなにあるのだと痛感してしまう会社員です。991203付けの萬晩報のタイト ルを見て、ふとなつかしく思い出したことがありました。 私は現在、とある健診機関でコンピュータ処理関係の業務に従事しています。しかし以前は、独立系 の小さなソフトウェア・ハウスに勤めていました。

 そのソフトウェア・ハウスでは、主にプロセス制御(工場の製造ラインや発電所等の制御)システムを得意分野としており、私も入社以来 約4年間、製鉄所の圧延ライン制御のシステム開発に携わってきました。色々な製鉄所のシステムをやらせていただきました。時には長期出張して製鉄所の現場 に赴き、脚半やヘルメットを着用して現場作業員と同じ格好をして、プログラムのテストを行なったりしました。ちょうどバブル絶頂期の頃で、仕事が次から次 へと入ってきました。

 そして最後に関係した製鉄所の仕事が、POSCO光陽製鉄所のシステム開発だったと記憶しています。このときは、さすがに韓国までの 出張はなく、私の直属の上司のみが元請会社の人たちと一緒に行きました。ですから、光陽製鉄所がどのようなところか全く想像もしていませんでしたが、「萬 晩報」を読み、今世紀最新の設備をもった製鉄所と知り驚きました。

 光陽製鉄所のシステム開発を最後に、製鉄所関係のシステム開発の仕事は無くなりました。その後は、電力関係のシステム開発などに従事していましたが、バブル崩壊の影響は甚だ深刻で、私もそのソフトウェア・ハウスを辞め、現在の会社に転職しました。

 今にして思えば、私にとって「POSCO」とは、「バブル経済の終焉」に結びつく言葉または名前だったというわけです。(小岩井)


 【NKKは本社を福山に移籍するしかない】私は今年の3月、横浜から広島県福山市に転勤しました。職業は大手スーパーの販売員です。そう、福山はNKK最大の製鉄所の城下町です。 おわかりの通り、NKKの業績.株価に正比例して福山の街は瀕死寸前です。もともと質実剛健の土地柄、その上NKKの毎年のすさまじいリストラと残業カットで消費が全く伸びません。

 勿論、我々を含めて商売が時代の変化に追い付いていないことも原因です。しかし、今尚2万人の従業員を抱える大企業ならば地元経済へ の影響も考えるのが筋ではないでしょうか?市の責任も重大です。何もしなくても毎年法人税がたくさん入った時代に計画.実行された「ハコモノ(公共事業) が財政に重くのしかかっています。失業対策は勿論、地方自治体の本来の責務である公共サービスが非常に疎かになっています。

 暴論ではありますが私見を申し上げますと、NKKは本社を福山に移籍するしかないと思います。いずれにせよ、この街が閉塞的状況から抜け出すのは容易ではありません。(東出真一)


【日本の技術をマスターした韓国が優位に立つのは当然】突然のメールで失礼します。いつも「萬晩報」では楽しませて戴いております。さて「新日鐵を追い抜いた韓国のPOSCO」を読んで事実はその通りで予想されていたこととの想いを新たにした次第であります。特に
   きっと多くの鉄鋼マンはまだそんな事実さえ知らないのだと思う。
> 親しい鉄鋼マンを非難しているのではない。日本産業の中枢の情報
> 収集力が著しく低下していることこそが問題だといいたい。
とお書きになっておられますが、ひょっとして設備投資を押さえて技術でカバーすることを得意とした日本人の国民性が継続していたのかも知れないという感じがしました。

 韓国企業も人件費が当時よりも上がっていますが、設備の減価償却が進むにつれ、技術力の確立と相俟ってコスト競争力もピークにあるの かも知れません。POSCOはどの様に出来たかを知っている者には予想されていたことだからです。HYUNDAI(現代造船)の造船に関しても同じことだ と言えましょう。

 オイルショックの後の日本の鉄鋼・造船業界は韓国から仕事を受注しながら敵に塩を送る商売を続けていたのです。何もないと言ってよい 韓国企業に設備と製品(部品)の仕事を貰いながら、最新の設備と技術を彼らに提供してきたのでした。それが受注する、生きていく手段であって今はそれで凌 ぐしかないとの思いであったのです。

 POSCOOの高炉とその付帯設備は日本の鉄鋼メーカ-と国内の鉄鋼設備メーカーである大手造船会社や重電機メーカーの技術で設計さ れ製造されたのです。現代造船は日本の造船会社に製品を発注しながら技術や管理に関する実習を続け、中にはその後は造船会社が発注していた外注メーカーに 直接発注するという方法さえ採ったのです。

 日本の企業は仰るように旧態設備を部分改良して最新技術を確立していたのですから何れは韓国企業が日本の技術をマスターすれば優位に立つことは明確に予想されていたのです。

 蛇足ですがこんな事実もありました。設備の部品に20トンの鋳物がありました。日本では老朽化した工場でそれを製造していました。 20トンの鋳物を作るのに鋳物砂や鋳枠を含めると約40トンの揚重能力のクレーンが必要で、日本の鋳物工場では30トンと20トンのクレーンで天秤という 吊具を介して吊っていたのです。(当時の日本の鋳物工場ではそれが珍しいことではなかった)

 そこへ上記の韓国の発注会社の鋳造専門技術者が実習にきました。彼等は朝早く出てきてその天秤を詳細にスケッチしていました。 それを見て「貴方方の鋳物工場ではクレーンの揚重能力はどうなっているのか」と尋ねてみると「この鋳物を作る工場は100トンと50トンのクレーンがある」と胸を張って回答していました。

 天秤のスケッチは全く要らないことでもっと鋳型の作り方や鋳物砂の性質とか管理方法などを何故学ばないのだろうかと話したものでした。

 その後調べてみると当時の日本中探してもない最新鋭の設備の鋳物工場が建設されていたのです。安い賃金で最新鋭の設備をもって日本の 製造技術を習得したらとても日本は太刀打ちできないだろうと言うのが当時の我々の感想でした。「敵に塩を送る」ことの悲哀が当時認識されていたことは間違 いない事実です。(成田 勝彦)


 【かつて鉄鋼マン、いまはトライアスロンショップ】いつも楽しく伴さんの記事を読まさせて頂いています。自分の興味のある本しかを読んでいないので、伴さんの記事を読んでいるといかに自分の知識が偏っているか思い知らされます。知らない世界を知る為、又、違う視点からの見方いつも教えてもらっています。

 今回メールを遅らせて頂いたのは、昭和63年まで私は神戸製鋼の神戸製鉄所で、技術職として働いていました。鉄鋼が不況 (約15年程前)になって一時期連鋳で働いていた事が有り、非常に懐かしく思い出されたのです。

 現場の者は、本当に頑張っている人が多かったのですが、トップの人達がもっと将来を考えて実行してくれればと思っていました.マー、 色んなしがらみがあって出来なかったのでしょうね。こうなるのは前から判っていた事なのに経営陣は自業自得ですが、色々な事が有り11年前に会社を辞め自 分が好きだつたトライアスロンの店を始めました。

 その後、自転車業界の人がトライアスロンの知識が全く無いので自分でアメリカ等から、競技用部品を個人輸入し始め現在は、競技用の卸 をさせて頂いております。最初はアメリカ人の友人から色々助けてもらい、平成2年の冬に英語を勉強しに43歳でSDの学校に2-3ヶ月行きました。 お陰 でブロークン英語で何とか商売できております。色々な素晴らしい友人に助けられて何とか競技用(ロード)では皆さんに知って頂けるようになりました。

 仕事がら(それを言い訳にして)色々の国に行くのですが、いつもバックパックを担いで観光客が行かないような所を歩き回っています。 東欧も時々行くので向こうの活気には将来性が楽しみといつも思っています。チェコのビールは本当にうまいし、地元の人が飲んでる居酒屋はメチャ安いですよね。

 又、4年程前からアジアにはまり、商売柄冬は暇なので、よく旅行に行きます。観光名所などは余り興味が無く、子供や、お坊さんのキラ キラと輝く目を見るのが一番の楽しみです. とくにミャンマーやベトナムが好きで、ベトナムは今までの日にちを合計すると三ヶ月ぐらい滞在しています。  サイゴンの人々のいい加減さや、活気と言うかザワメキというかそんな中で、ビールを飲んで眺めているのが大好きです。

 今年も正月休は2週間程サイゴンでビールを飲もうと思っています. 夕方サイゴンの町中をランパンでジョギングをしてから食事をしビールを飲むのが最高です。

 私事ばかり思いつくままに書いて申し訳ありません。今後とも伴さんの記事を読まさせて頂きながら、世界の色々な事や、世界に思いを馳 せたいと思っています。行きたい国がドンドン増えそうです.マア、人生一回だから頑張って知らない国を旅します。今後とも記事を楽しみにしています。 本 当に有難うございます。(中原敏一)


1999年12月03日(金)萬晩報主宰 伴 武澄


 日本の製鉄業界が一息ついている。というよりフル生産である。日本経済が浮上したからではない。アジア経済が再び成長路線に戻り、鉄鋼需要が旺盛になっただけである。

 ●10年前のリストラに失敗したつけ
 アジアで鉄鋼の輸出余力があるのは日本と韓国だけである。1980年代、アジア市場は日本の鉄鋼業界の独断場だった。だが90年代に入り、韓国が設備を 増強して競争に加わった。日本の鉄鋼の3分の2のコストで生産できるとされる韓国勢の参入で日本勢は厳しい価格競争を強いられることになる。

 90年代前半、つまりバブル経済が崩壊した上に円高が進んだことも日本の製鉄業界のコ スト押し上げ要因となった。日本の鉄鋼業界のリストラの目標は「世界一の競争力に追いつくこと」となった。口には出さなかったが韓国のPosco(浦項総 合製鉄)の影がひたひたと迫っていた。

 大手各社は相次いで大規模な人員削減を含むリストラ計画を発表した。日本の産業界に とって衝撃的だったのは、これまで「出向」という形で関連会社に出向いていた人員がついに「転籍」されることになったからだ。企業経営、特に労務対策でい わばお手本的存在だった鉄鋼業界がいよいよ終身雇用にストップをかけたのだった。

 ●日本の最新鋭製鉄所は20年以上も古い!
 1993年6月、われわれは朝鮮半島南部の光陽製鉄所にいた。前の年の秋に立ち上がったばかりの世界最大の製鉄所である。全貌を見渡せる高台から、仲間の一人で鉄鋼業界に詳しい記者がうめいた。

 「うぉー。日本の最新の製鉄所は20年前の新日鐵大分だったよな」

 日本の鉄鋼記者会のメンバーが初めて取材団を韓国に送り込んだ瞬間である。「世界最新鋭の設備を見ないでこれからの鉄鋼は語れない」という酒席での議論が高じて2カ月後には訪韓団が組まれた。前年の11月にこの光陽製鉄所が稼働を始めていたのだった。

 光陽製鉄所はわれわれが見てきた製鉄所と根本的に違うレイアウトだった。原料ヤードから高炉、圧延ライン、出荷バースまでがきれいな一直線を描いていた。

 日本の製鉄所はもちろん最新技術の粋を集めてはいるが、全体的に継ぎ足しの感はまぬが れない。だから、レイアウトは複雑に入り組んでいる。分かりにくいといえば、分かりにくい。ところが、どうだ、この光陽製鉄所は素人にも簡単に製鉄の工程 を説明できるレイアウトになっている。

 それがどうしたといわれれば、元も子もない。

 80年代に入って世界の製鉄所は日本が開発した連続鋳造という方式に変わっている。そ れまでは高炉でできた銑鉄をトピーカーで転炉に運び、酸素を注入して「鋼」に変え、いったんビレットという鉄鋼のかたまりにしてから、圧延工程でもういち どそのビレットを暖めて板に延ばしていた。

 いったんビレットにするのは、どろどろの液体状の鉄を圧延工程に流し込めなかったからである。それを可能にしたのが連続鋳造である。だが冷えたビレットをもう一度、1000度以上に暖めなくてならない。壮大なエネルギーロスである。

 製鉄所のレイアウトが一直線になれば、このロスがなくなることは分かっていたが、日本の入り組んだ古い構造の製鉄所ではむりな要求だった。製鉄所を新しくつくれば可能だが、日本での需給を考えるとそれはもっと不可能なことだった。

 きっと30年前にアメリカの製鉄業界が日本の最新鋭の製鉄所をみて同じ印象を抱いただろうことは想像に難くない。

 ●著しく低下している日本産業の情報収集力
 1980年代後半の円高時に目指した「9000万トン体制で利益を出せる体質」へのリストラが成功していればいまごろ韓国勢におびえる必要もなかったもかもしれないが、10年以上経ったいまも、利益をあげるには1億トンの生産が必要な体質のままである。

 筆者が1996年に上梓した「日本がアジアで敗れる日」(文芸春秋社)で「数年以内にPoscoが粗鋼生産で新日鐵を追い抜く」と書いたが、まさに1998年にその日がやってきた。新日鐵の王座は残念なことに1970年の合併以来30年続かなかったことになる。

 1998年03月17日萬晩報に「構造問題の保守本流-日本の鉄鋼業界」 というコラムを書いたらアメリカで勤務している日本の大手鉄鋼マンから「われわれを侮辱するのか」という抗議めいたメールをもらった。「ちゃんと鉄鋼業界 のことを取材してから書け」という主旨だった。筆者としては萬晩報の黎明期だったこともあって「おうおう大手鉄鋼マンにまで読んでもらっている」と感動し た一コマである。

 春先に大手鉄鋼マンと話をしていたときに新日鐵がPoscoに抜かれたことが話題に なった。その際「それよりPoscoの去年の税引後の利益が1000億円もあったのは知ってる?97年の通貨危機で韓国経済がどん底に落ち込んでいたとき だぜ」。その鉄鋼マンが絶句したのはいうまでもない。

 きっと多くの鉄鋼マンはまだそんな事実さえ知らないのだと思う。親しい鉄鋼マンを非難しているのではない。日本産業の中枢の情報収集力が著しく低下していることこそが問題だといいたい。


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