1999年9月アーカイブ

1999年09月30日(木)会社経営 西本延子

 9月のある週末、宮崎県の都城でとてつもなく面白いものをみてきました。其れはこの5月にできあがったば かりの北泉橋ですが、驚く無かれバルセローナも真っ青な超楽しいオブジェとなっている橋なのです。橋の路上に画を描くという発想はあまり聞いたことがあり ません。都城出身の画家、又木啓子さんがデザインしたものです。あまりに感動して以下の手紙を都城市長に出しました。

 岩橋都城市長殿。はじめまして。私は大阪市に住む会社経営者です。

 実は都城出身の画家、又木啓子さんとスペインでおよそ20年ほど前に知り合ったことがあり、今回暑中見舞いで北泉橋のことにちょっと触れてあったのに興味を持って、福岡で行われた部下の結婚式のついでに足を伸ばしました。

 正直言ってびっくりしました。失礼ながらこんな地方都市で、橋を物の見事にアートにしてしまうなんて。しかも立派に生活に密着した場面でです。正直感激しました。

 又木さんは古い友達ですが、私は芸術とは全く畑違いの医療機の販売をしていますので、そんなに、彼女の仕事に詳しくありませんでしたが、これほどの夢のある仕事を成し得た彼女と市のパワーに脱帽してしまいました。

 そして思わず、スペインのバルセローナの町を思い出してしまいました。バル セローナには聖家族教会で有名な建築家ガウディの作品が町の中に点在しています。公園のような公共建築であったり民間の住居であったり、その形や用途はさ まざまですが、それゆえに町の個性となってそれぞれがバルセローナの町のランドマークとなっています。

 この北泉橋をみてもっと他にもそんな夢のある建築やオブジェやアートがあれば九州、いや日本のバルセローナになるのではと思い巡らした次第です。

 青空、川の流れ、水辺と田畑の緑、そして遊び心一杯のタイルワーク、元気のでる黄色を大胆に使い切って、さまざまの色と形のコラボレーションで、橋を歩く一人一人が亘り切るのガ惜しくなるようなこんな橋なら、私の町にもぜひ欲しいと思ってしまいました。

 企業でも町でも同じだと思いますが、活性化とかアクティブに活動している源 は情報発信、それも文化の発信をできるかどうかにかかっていると思います。これだけすばらしい橋を作り上げた都城市ならこの橋をきっかけに大きなムーブメ ント、俗にいう町おこし的なもの以上のものにすることも簡単なことだと思います。私も公私の分け隔てなくこの橋を大いに宣伝するつもりです。

 又木さんは近くスペインへ帰られるそうですが、戻られた後こそあの橋を町のパワーで大いに活用するうでの見せ所ではないでしょうか。

 まず持って、本当にすばらしいものをつくっていただいてありがとうございました。今後の都城市の発展を心よりお祈りしています。おいしいコーヒーショップもありましたし、又是非訪れたいと思っております。(大阪市 にしもと・せいこ)

 西本さんにメールはSEIKO_NISHIMOTO@elk-nishimoto.co.jp

1999年08月28日(火) 文 彬

 小稿「悲しむべき東洋民族間の憎しみ」が 掲載されて以来、多くの方々から貴重なメールを戴いた。筆者だけしか読めないのが大変勿体無いと思われる程のご意見ばかりなので、ここで一部を公開させて 頂く(事前にその旨を夫々の方に通知した)。また、メールを公開することによりご迷惑を掛けることのないように実名を伏せた。

 考えてみれば、たどたどしい日本語の文章にも拘わらず小稿が皆様の関心を引き寄せた のは、筆者が提起した問題は皆様も良く考えている問題だからだと思う。グローバリゼーションが進む中、特に最近のインターネットの目覚ましい普及により、 普通の人でも簡単に外国人と外国文化に接する機会が増えた。又、これに伴って人々は今まで以上に外国の歴史、外国と自国との歴史を考えるようになってき た。とりわけ、中、日、韓三ヶ国の関係について考えなければならないのは、もはや政治家や研究者だけではない。

 「日本に対する感情はなぜほかの国々で特視されているのでしょうか。また、日本の国はなぜドイツのように公にそれらの国々に誤らないのでしょうか。」

 【3】、「『昔の日本人』と『今の日本人』が違うことを、なぜ理解してもらえないのでしょうか。」

 【4】と日本人は考えるし、韓国人や中国人も冷静に思索するようになっている。少なくとも筆者の意見は、中国人の中でも決して孤立した意見ではないと言えよう。

 中、日、韓が欧米諸国以上に特別の感情的葛藤にかられているのは、西洋の国 々は中国から、遠い国であると共に、東洋民族でないことが上げられる。「敗戦から50年も経ているのに、何故日本が何時までも、恨まれるのかは、東洋民族 同士の「近親憎悪」にもあるのではないか。要するに遠い国の、異人種の犯罪等など、50年も立てば、忘れてしまっても不思議はないと思う。」

 【9】。そもそも、国と国の関係は隣人関係と似たところが多い。距離的に、 或いは文化的に近いほど、感情的な摩擦が多い。テレビで見た欧米人のパフォーマンスが格好良い。しかし、同じパフォーマンスをしたのが隣国の人なら、なん となくわざとらしく、ぎこちないと感じたことはないだろうか。

 中、日、韓三ヶ国の間には感情的な問題は多い。感情的な問題を感情的に議論 しても感情が高ぶるばかりで問題の解決にはならない。良い隣人同士の秘訣は摩擦が起こらないのではなく、摩擦があっても、素直に自分の非を認める。また、 一歩譲って相手の立場を考えることにある。「中国人で、当時日本兵の残虐行為を知っている人なら、50年たっても忘れないのが普通だと思う。」【9】とい うような相手への理解でしこりが解ける。

 中国の諺「煉瓦を投じて玉を引き寄せる」の通り、筆者の幼稚な文章にこれだ けの貴重なご意見を戴いたことは本当にありがたい。ただ、やや物足りないと感じているのは、小稿は日本語で書いた関係もあるだろうか、メールを下さった方 全員は日本人である。同胞の中国人をはじめ、その他の国々の方のご意見も是非聞きたいと思う。

 上海の日本人駐在員と思われる方から強烈で、且つ感情的なご意見も寄せていただいた。余程何か不愉快なことがあったとしか考えられないが、「I have dream.」志向の読者には向かないと思うので省かせて頂いた。


【1】文さんの桜の文章はとても意表をつくものでした。日本人の心だと思っていた桜がこのような一面をもっているとは・・・。東洋民族間の友情と憎しみについて深く思いをはせました。(M.Bさん マレーシア)
【2】文章を拝見し、深く感銘を受けました。物事は様々な角度から考えて見る必要があると痛感しました。国の歴史を超えた、一人の人間として素直になって、日、韓、華の問題を見つめたいと思います。(H.Hさん 米国、サンディエゴ)
【3】日本に対する感情はなぜほかの国々で特視されているのでしょうか。また、日本の国はなぜドイツのように公にそれらの国々に誤らないのでしょうか。(J.Tさん CA 92630USA)
【4】主題の貴見拝読させて頂きました。日本人に対して冷静な判断をされている文章に触れ嬉しく思います。

私は、シンガポール・インドネシア、そして現在は香港と海外勤務を続けているサラリーマンです。過去の出来事(太平洋戦争)で嫌な思いをしたこともありますが、それより現地の友人を持てたことが喜びです。

かねがね感じているのですが「なぜ今の日本人が嫌わなければいけないのか」と いうことです。過去の日本人が行った蛮行、非道な行為は非難されて当然です。しかし、それは過去の日本人が行ったことで「今の日本人」「私」がやったので はありません。アジアの人たちは、なぜそこを理解してくれないのでしょうか。自分なりに分析してみました。

第一に、行政トップにいる人の考え方の違いです。日本人も戦争でひどい目に遭 いました。原爆やシベリア拘留などです。日本のいいところは(敢えてそう言わせてください)、アメリカ人や旧ソ連人を憎むのではなく、戦争を憎むように教 育方針を持ったことです。戦争を仕掛けて敗れた国としては、そう進めざるを得ないでしょうが。

一方、日本を憎むアジア諸国は、いまだに戦争よりも日本を憎むような教育を行っています。戦後50年以上経っています。この時間が長いか短いかは国民感情によって違うでしょうが、「昔の日本人」と「今の日本人」が違うことを、なぜ理解してもらえないのでしょうか。

閣僚が靖国神社へ参拝することに対し、アジア諸国はとても否定的です。戦犯者が奉られているのは別問題として、靖国神社に奉られているのは母国のために命を落した方々です。戦争崇拝ではなく、母国のために亡くなられた方々の冥福を祈ることが、問題なのでしょうか。

第二に、天皇問題です。実際に戦争を指導したのは大本営本部で天皇ではありません。しかし、当時の国民は「天皇のために」戦争に駆り出されました。その天皇は、国民に対していまだに謝っていません。むしろ行政は、象徴天皇をより推進しています。

日本の習慣では、部下が行った犯罪などに対して、「管理不行き届き」というこ とで上司が責任を取ります。たとえプライベートなことでもです。この習慣がいいか悪いかは、問題ではありません。とにかく日本人の習慣なのですから。これ に従うなら、天皇は当時の日本の最高責任者として、何らかの責を負うべきだと考えます。

憲法で天皇は日本の象徴ということになっています。つまり「戦争時の最高責任者で、戦後何の責任も取らず、国民に謝りもしない天皇」が日本(人)の象徴なのです。

第三に、補償問題です。日本政府の主張は「補償問題は解決済み」で一貫してい ます。私はそれを信じたいと考えています。今日本に補償を求めている人たちは「国と国の問題は解決済みかもれ知れないが、国と個人の問題は未解決」という 主旨のようです。「国と国の問題は解決済み」なのですから、今訴えを起こしている方々は自分の国に訴えるべきではないでしょうか。

一方、行政に携わっている人の訴えもあるようです。彼らは「XX問題は含まれていない」とか「あれは旧XX、前XXが合意したことで、国民の合意ではない。間違っている」というような論調です。補償問題の解決は、ある面で「国と国との駆け引き」。

今ごろになって補償問題を取り上げるなんて、国民の人気取りという印象を拭うことが出来ません。

この項、私自身が「合意書」を読んだわけではないので、間違っているかもしれません。個人の意見としてお考え下さい。

日本人の人種差別、これも問題です。東洋の中で、日本人が優れているなんてこ とはありません。勤勉?いえいえ、中国人やタイ人の方が日本人以上に勤勉です。繊細?いえいえ、日本人に中国の緻密な芸術作品を作るような繊細さはありま せん。 なのに、自惚れた日本人は「東洋人の中で、日本人が一番優れている」なんて思い込んでいます。恥ずかしいことです。

残念なことに、この思想がいまだに会社に残っていることです。現地従業員の中 にも、会社に忠誠心を持つ優秀な人材が沢山います。ところが「現地人任せにしたら、ロクなことにならない」のぼせた日本人は、現地人の前で平気な顔をして そんなことを言います。情けない話しです。個人の力なんて知れてます。しかし「今の日本人」を理解してもらうべく、行動していこうと考えていま す。(H.Sさん 在香港)


【5】[「恨屋及烏」(人を憎めばその人の住家の屋根にいる烏をも憎む=この訳は適切ではないが、名訳が浮 かべない)は人間の感情......] ここをもし、慣用句的なもので表現をするのなら、「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」といったところでしょうか。既に お気付きだろうとは思いますが、念のため、メール致しました。 東アジアの隣人同士が真に信頼に基づいた近所付き合いが出来ていない状態は、もちろんのこと、日本人の中での外国人差別が根強く残っているのは悲しい限り だと思います。私は25歳ですが、我々若い世代を含め、地道にこの困難な問題を解決して行きたいと思っています。(K.Aさん)
【6】「悲しむべき東洋民族間の憎しみ」を読ませていただきました。全くその通りだと思います。マスコミ・ ジャーナリストは、本当に報道の姿勢やその目的や使命というものを考えなければならないと思います。特に韓日間の問題に関しては、慎重にならなければなり ません。まだまだ残る戦後処理の問題。国を動かせる術はないのでしょうか?国民の責任。国の責任。歯がゆいです。(I.Hさん 大阪)
【7】萬晩報 で、貴方の書かれた記事を読ませていただきました。一人の日本人として、感想を書かせていただきます。私はいわゆる戦後生まれですので、戦争中の不幸な出 来事には直接関与しては居りませんが。でも、自分はそのとき生まれていなかったからといって、「知らない」とも言えないですよね。

倪萍さんの「私は桜が嫌い」という文章を読んで、考えてしまいました。我々一般の日本 人の感覚では、50年も前のことはすでに「歴史」に属することであり、その行為の責任については、もし謝罪をする必要があるとするならば、政府が公人とし て行えばいいのではないかと言う気持ちがあるろうに思います。

でも、韓国や中国の方たちで、自分が直接その体験をされた方たちにとっては、 「自分の体験した過去の人生経験」なんですよね。そこのところがわかっていない日本人が多いと思います。かくいう私も、さきの中国首相の日本における発言 には、若干の抵抗を感じた一人なのですが・・・。

一人一人の心の中には、何年たっても過去の出来事は「歴史」にはならずに残っているという事で、ただ、それは被害を加えたほうよりも、被害を受けられた方のほうがより強く残るという事なのでしょうか。

私も心情的には倪萍さんの言われることはよく判ります。でも、「時が癒す」という事もあると思うのですが。それを、政府やマスコミが意図的に「過去を忘れない」として行うのはどんなものでしょうか・・・。

最近の韓国については、金大中大統領の方針によってかなりよい方向になってい るようで、非常に我々一般の日本国民にとってはうれしいです。大統領自身に日本人の友人が多かったことも、このような成果に結びついたと思いますが、一般 の韓国の方たちにとっては、やや釈然としないものが残るのではないかとも思っています。が、むしろ心配なのは中国の方かもしれませんね。

中国首相があのような発言を繰り返したという事は、その国民の中に、(我々が思っている以上に)根強い「過去へのこだわり」があるということなのでしょうか。

中国残留孤児のかたがたに与えた、中国の国民の人道的人間愛を見て、今まで中国の方のほうが韓国の方に比べて「過去へこだわり」が少ないように思っていた日本人も多いと思います。

でも、我々日本人は、理性と感情は別という「当たり前」のことを、見落として いるのかもしれませんね。特に日本人は「過去にとらわれない」というか、「過ぎたことはすぐに忘れて、未来にばかり顔を向けたがる」傾向があるようです し・・・。やはり、これからの草の根の信頼醸成のプロセスが大切なのだと思います。(M.Hさん)


【8】すばらしいエッセイだと思いました。しかし、一つ疑問があります。お名前から察して、中国人の方です か? 本文中にもそのような表記があったと思いますが。おかしな質問かもしれませんが、もし中国人の方なら、こう言た立場を取られる事で他の中国人の方に 責められたりすることはないんですか?私は日本人ですが、この文章を読んでひどく感動しました。これは私が日本人だからなんでしょうか?(H.Kさん)
【9】「私は花が好き、但し桜は嫌い」。中国人で、当時日本兵の残虐行為を知っている人なら、50年たって も忘れないのが普通だと思う。私は67才の日本人の男子であるが、やはり春の桜の花は好きだが、、桜に碇に代表される、軍国主義を思い出す。朝鮮半島・中 国・東南アジアを苦しめたあの侵略戦争である。

桜は日本を代表する花であることは事実である。国旗国歌法案が話題になっているとき に、高名な評論家が、国旗を桜にし、国歌は箏曲の桜を取り入れたものが良いと、インターネットで流していた。私は反対意見を入れたが、日本人の我々でも、 桜にたいしての考えが、かなり異なるのも事実である。

当時ヨーロッパの強国も中国を侵略したが、中国人は恨んでいないとおっしゃいますが、これらの国々は中国から、遠い国であると共に、東洋民族でないことが上げられる、犯罪行為が、日本の方が残虐であったのが、原因のひとつではないかと思う。

敗戦から50年も経ているのに、何故日本が何時までも、恨まれるのかは、東洋 民族同士の「近親憎悪」にもあるのではないか。要するに遠い国の、異人種の犯罪等など、50年も立てば、忘れてしまっても不思議はないと思う。なんと言っ ても、敗戦の時に「終戦」等とごまかしていないで、ハッキリと世界に降参して、相応の謝罪をしなかったから、いつまでも尾をひくのではないか。


【10】憲法で天皇は日本の象徴ということになっています。つまり「戦争時の最高責任者で、戦後何の責任も取らず、国民に謝りもしない天皇」が日本(人)の象徴なのです。(H.Sさん 香港)
 文さんへメールはbun@searchina.ne.jp
 中国情報局のホームページはhttp://searchina.ne.jp/

1999年09月26日(日)雨漏り実験室の"チャ"

毎日新聞のwebページに高速道路をタダにしたらどうかという討論のページがある。また、日本道路公団の経営改善委員会でもこの話が議論されているよ うである。このような議論はもっと盛んに行ったほうが良いと思う。私は、高速道路を無料化する(あるいは現在の通行料金を1/10以下にする)のに賛成で ある。ただ、現実問題として、今の高速を完全に無料にするのにはいろいろ難しい点もある。そこで、以下のようにある程度の距離まで100円均一の通行料を 取るようにしたらよいのではないだろうか。
▼[参考] 米国の高速道路の状況
米国では、多くの高速道路は無料であるが、有料道路もある。有料 道路は都市部の混雑するところかあるいは逆に交通量の少ない田舎の道路である。田舎にある有料道路は、観光を目的に作られたものもあるが、州と州を結ぶ幹 線道路もある。これらは、一般のフリーウェイに比べると舗装がきれいで走りやすい。高速料金は都市部は区間ごとに50セントぐらい、田舎の高速道は、距離 や場所によって異なるが、100kmあたり1ドル程度かかる。
■日本は100円の通行料に

日本の高速は、米国のフリーウェイより道路の舗装状態、道路表示、サービスエリア(トイレなど)の質が高く、田舎の有料の高速道に近い。この道路を利用する人が受ける利益分は、米国の有料道路のようにある程度お金を取ったほうが良いと思う。

たとえば、最初に高速への入る料金として小型車は100円、大型車はその倍を徴収し、その後長距離を走る場 合高速の途中(100~200km間隔)に料金所を設けてさらに100円(あるいは200円)づつ徴収するようにしたらどうだろうか。高速道路には特別な サービスは要らないから無料にしてほしいと言う意見が多数を占めるようになれば、道路公団を解体して高速を無料にしても良いのだが、私はさしあたってはき れいなトイレなどを使う料金として100円を払っても良いと思う。

100円玉なら、米国のようにコインを投げ込む自動徴収器があればかなり大きな料金所でも徴収する人は1人か2人ですむ。高速を出るときは首都高のように料金所を通過する必要はない。

東名・名神高速なら、東京-静岡間、静岡-名古屋間、名古屋-大阪間でそれぞれ100円を徴収する料金所を設けるとすると、東京-大阪間は400円。現在の通行料の1/20以下。

このようにしたら、最初はみな高速に押し寄せて大渋滞になるかも知れない。しかし、ある程度時間がたてば渋 滞になるときは運転を控えるようになるだろう。高速の全体の交通量は増えても3割ぐらいではないだろうか。3割ぐらいでも高速道路の交通量が増えれば、市 街地の交通量は確実に減る。それによる市街地の排ガス、騒音の低下(特に夜間)の効果が期待できる。市街地の環境が良くなるのであれば、多少高速が渋滞し ても構わないのではないだろうか。

全体の高速の交通量は2~3割ぐらいしか増えないかもしれないが、100円なら、あるインターから次のインターまでといった短距離利用がかなり(倍以上)増えると考えられる。また、サービスエリアの利用も増え、テナント料も増えるだろう。

現在、全国には7300万台の車があり高速・有料道路の通行料金収入は年間約2.1兆円と のことなので、平均すると1台あたり月2400円支払っていることになる。月1200円の区間を1回往復利用していることに相当する。もし、料金を上のよ うにした場合、1回あたりの平均の利用額を130円、月1.3回程度往復利用するとすると、7300万x2x1.3x130x12で約3000億円にな る。 現在でも、有料道路の維持・運営に使われているお金は3000億円程度。道路公団は高速道路の維持・運営会社として十分採算が成り立つはずである。

観 光地の有料道路はともかく、一般の高速は公共のために利用される道路であり、高速道の建設費や借り入れの返済は税金でなされるべきだと思う。高速料金が安 くなって車の利用が増えれば車関係の税金も増え、高速道の建設費などを税金から支出することもできるのではないだろうか。

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★高速道路の無料化の議論について 毎日新聞のメールディベートのページでは、結構反対意見が多いようである。主要な反対意見は以下の2点である。

▼ただにすれば高速道路の建設費は税金から出すことになって車を持っていない人にとって不公平になる。

幹線高速道路は一般の道路と同じようにさまざまな目的に使われる公共の道路である。一般道路が税金で建設・ 維持・運営しているのなら、高速道路も同じようにすべきである。そのほうが道路がより有効に利用されるようになり、バスなどの交通費や運送費が安くなる、 市街地の渋滞が少なくなり排ガスや騒音が低下する、など車を持っていない人にも利益になるはず。

また、車を持っている人は、持っていない人に比べて税金を多く払っている。自動車登録税、消費税、重量税、地方税、ガソリン税など。年間1万kmぐらい走る人なら年間10万円以上税金を払っていることになる。日本には自動車が7300万台あるという。1台あたり年間10万円としても、7.3兆円。この税金を、有効に使えば、道路の建設・維持・管理をできるのではないだろうか。

高速道路をタダにした場合、反対意見にもあるように車の数やガソリン消費が何割も増えるわけではないが、そ れぞれ1割ぐらいは増えるのではないだろうか。つまり、車関係の税金は1~2兆円増えることになる。また、流通やレジャーなどの活性化による税収増も期待 できる。高速道路の建設や借入金の返済の額は約1.8兆円であるから、それと同程度の税金が増える。これを使えば、高速道の建設や、借入金の支払いを行う ことができる。

また、物流コストは確実に下がる。といっても実際の物流コストに占める高速料金は1~2割ぐらいかも知れな いが、それで物流量が数パーセント増えれば、運送の効率も上がり、運送費は確実に2割は下がる。さらに、レジャーに行く回数も1~2割ぐらい増えるはずで ある。そうすれば、レジャー施設の料金も安くなり、さらにレジャーに行く回数が増える。

現在の料金収入分以上の経済的効果は必ずある。

▼エネルギー消費の増大にになる。渋滞がひどくなる。

一人の人間が車を運転する時間は高速道路が無料になったからといって倍とかに増えるわけではない。ガソリン代が日本の1/3以下でほとんどの高速が無料の米国でも車に乗る時間は日本とそれほど変わらない。(走行距離は倍以上だが渋滞などで止まる頻度が少ない)

高速道路の通行が増えれば、一般道の渋滞は減る。そうすると、車が止まったり発進したりする回数が減り、一般道を走る車の単位走行距離あたりの燃料消費率は下がる。排ガスも減る。人が暮らしている市街地の排ガス・騒音などの環境は良くなるはず。

一方、高速道は今より渋滞しやすくはなるだろう。でも、極端に渋滞が増えれば運転を控え、電車などを利用す るだろう。また、高速の全体の交通量が増えれば、高速を走行する車の平均時速が少し低下する。車は100km/h以上で走る場合と90km/hで走る場合 とでは、90km/hのほうが燃料消費率は少ないはずである。

つまり、単位走行距離あたりの平均燃料消費率は確実に下がる。車全体の総走行距離がたとえ2割増加(高速道 路は数割増加)したとしても全体の燃料消費量は1割ぐらいしか増加しないだろう。ハイブリッド車や低燃費車が普及すれば、その分の増加は抑えることがで き、将来は今より運輸のためのエネルギー消費量は減るはずである。

家族がレ ジャーにいく回数が増えてエネルギー消費が増えるからレジャーを控えろという意見もあるが、家の中にこもっていても最近はかなりのエネルギーを消費する。 たとえば、真夏の休暇に自宅にこもってクーラーを2~3部屋で使えば、風呂や料理に使うガスとかも電力で換算して合わせると一日40kWhぐらいは消費す るのではないだろうか。

40kWhでは電気自動車なら200kmぐらいは走ることができる。何もしないで家にいるのと、200km ぐらい離れたところに1泊キャンプしに行くのとエネルギー消費は変わらない。家族が一週間ほど避暑地に出かけるほうがエネルギー消費が少ないかもしれな い。そのほうが健康的でもある。

車は製造するのにも多くのエネルギーを要する。今のように高速料金が高くて車の運転を控えれば、せっかく作った車が有効に利用されない。これは、現在のほうが車の製造に要したエネルギーを無駄に消費しているということではないだろうか。

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高速道路の無料化は、流通やレジャー産業が活性化したり企業が地方に進出したりすることによって、地方が活性化するという多大な効果が期待できる。それが日本全体を活性化することになるのではないだろうか。

以上、まとめると、
 ◎高速道路を無料にしても高速道路建設の費用は主に車関係の税金の増加で賄うことができるため、車を持っていない人が不利益になることはない。

また、メリットとしては
 ◎運送費が低下する。
 ◎車を持っている人は、レジャーに出かける頻度を多くすることができ、それによってレジャー施設の料金の低下が期待できる。
 ◎地方が活性化する。
 ◎市街地の道路の渋滞、排ガス、騒音が減る。

デメリットとして、
 ◎都市部の高速道路での渋滞が少し悪化する。
 ◎燃料の消費が少し増加する。

これらのデメリットは渋滞しているところの道路の整備や、低燃費車の導入によって解決が可能なものである。とすると、高速道路の無料化(あるいは通行料を100円に下げること)はメリットのほうがはるかに多く、ぜひとも実施してほしい政策である。


雨漏り実験室の"チャ"
昭和3X年生まれ。性別:男。現住所は茨城県。所帯持ち。茨城県内の某国立研究所(独立行政法人化により統廃合される予定)に勤務する研究員。仕事は、実験装置を試作して実験を行うこと。
年1・2回海外に出張。趣味はいろいろあるが、最近は全く時間がとれない。

ホームページはhttp://member.nifty.ne.jp/shomenif/


1999年09月24日(金)萬晩報通信員 高橋 吉紀

 2002年のEU正式加盟を目指すポーランドは、近年外国企業の市場参入も盛んで、グッドイヤーやミシュランといった主要タイヤメーカーの進出に代表されるように、旧国営企業が外国資本に吸収される動きが活発化している。

 豊富な労働力(労働人口約1500万人)と高い教育水準(8年制の義務教育)、低い労働コスト(平均月給 約4万円)、地理的優位性(ロシア=ヨーロッパ市場の中心)、国民の約9割がローマ=カトリックであることにより宗教的対立も無いに等しく、ヨーロッパ屈 指の経済特例を設けて国も誘致に積極的だ。

 ●張り出されたい1枚の声明文
 私が勤務する会社は、ヨーロッパ市場をターゲットとした事業のさらなる展開を目指し、現地法人を設立して、自社製品の生産委託という形でポーランドの企業と資本提携を結んだ。相手はワルシャワ証券取引所に一部上場し、地方都市に拠点を置く製造会社だった。

 約1800人のワーカーのほとんどは地元採用、社員の平均勤続年数は何と22年で、社会主義の遺影を今だ 色濃く残している印象を受けた。市場は競争原理に傾く一方で経営理念は旧態依然であったため、資本と共に人材も送り込み、いわば「日本式」経営を範とした 二人三脚体制がスタートした。

 経営再建策として人員削減を含むリストラを断行しようとしていた矢先、工場に一枚の声明文が張り出され た。社内に2つある組合のうちのひとつ、「連帯」系の組合が発表したものだった。全体の趣旨は「解雇反対」という至極当然なものだったが、その文中には日 本人への抗議文も含まれており、本旨よりもこの部分が波紋を投げかけることになった。

 ●神、名誉、祖国の意味
 日本人スタッフは、しばしばポーランド人を侮辱するような言動を取っていると抗議する要旨も十分刺激的だったが、何よりその随所にイデオロギーを散りば めてきたことに私たちは当惑したのだった。声明文の最後は「ここで働く日本人はポーランドの歴史を勉強することを提案したい。そうすれば、ポーランド人に とっての「神、名誉、母国」という標語の意味を理解できるだろう」と結ばれていた。

 無論、本意ではないにせよ、私たち日本人の言動が不快な印象を与えたことが事実なら十分反省しなければな らない。しかし「神、名誉、母国」という言葉が労使間協議のキーワードに持ち出される事態は、職場にイデオロギーを持ち込んだ経験のない私たちに少なから ず驚きをもたらし、同時に胡散臭いものを感じさせた。

 ポーランドでは、過去に「連帯」運動の中心的役割を果たした労働組合であっても、当時のような「労働者擁 護のための闘争」という単純な図式はもはや通用しなくなっている。外国からの資本参入を待つ旧国営企業は多く、投資を得られないまま倒産に追い込まれる ケースも多いのが実態だけに、強硬路線から協調路線へ転換し、会社そのものの存続を優先する選択を余儀なくされている。

 ●埋めきれない文化的断層
 私たちのケースも例外ではなく、日本からの資金援助無くして存続はあり得ないというのが実情であって、いくら「連帯」系の保守派労働組合といえども迂闊 な言動はできないはずだった。それにも関わらず、神を持ち出してまで日本人を排除しようとする意志に直面した私たちは、どのように対処すべきなのか動揺を 隠せなかった。

 無論、経営に参画している以上「金は欲しいが日本の流儀はいらない」という主張は到底承服できない。しかし、理論だけでは埋められない文化的、思想的断層を目の当たりにして、果たして自分たちの哲学で対処しきれるのかという不安を拭い去ることはできなかった。

 過去の経験から言えば、海外で民族や人種、宗教、教育レベルの低さという問題に直面しても、日本の流儀を持ち込み、金と時間を注ぎ込んで何とか形にしてきたのだった。しかし、その方法論は、相手がそれを受け入れる文化的素養を持ち合わせていて初めて体を成す。

 その事実は、何よりも戦後の日本が実証している。だが、日本は良くも悪くも盲目的に資本主義を追従した一 方、ポーランドの「闘争の歴史」はそれを許さないだろう。ポーランドは魅力溢れる投資対象国だが、どのような進出形態をとるのが得策なのか、日本企業に とっては難しい選択となるように思う。


1999年09月23日(木)マレーシア国民大学講師 Mikiko BAN

コンドミニアムの敷地の中で、マネジメント・オフィスのイップさんに会った。 

 「あら、今日は大学へ行かないの?」
 「今、学生たちは試験中、もうすぐ休みなの」

 「休みは日本へ帰るの?」
 「そうね、10月に入ったらね。両親の顔も見たいし・・・・」

  「日本はどんな季節?」

  「秋よ・・・とてもいい季節。なんというのかしら、気分が澄んでくる季節ね・・・」
 「ふぅーん」

  「マレーシアはとってもいい国で、何ひとつ不自由しないけど、この『四季』だけはとても恋しく思うことがあるわね」

  ・・・・・・・・・

  「初めの頃は、季節がない方が煩わしくなくていいと思っていたし、多彩な文化に目を奪われて退屈することはなかったけれど、5年を過ぎた頃かな、日本の四季がとても恋しく思えてきたの・・・」

  「私は日本の友人に『日本の四季は神様みたい』だって、いつも言っているのよ。イスラームの人がアザーン(イスラーム教徒に祈りの時間を知らせる呼びかけ)の声を心のふるさとと感じるように、日本人は精神的に四季とともに生きているのよ」

  「常夏の国にずっと住んでいても、私にとって4月は単に4番目の月じゃなくて、厳しい寒さから解放される『春』で、命が甦る希望の月だし、10月は酷暑の後の安堵感に満ちた『秋』、生死を繰り返していく人間や自然の命の循環を考える、哲学の月なんだわ」

  「この、季節の循環を1回「パス」する度に、私は日本から、そして日本人であることから離れていっているような気がするの・・・。モスリムが断食やお祈りをさぼった時の感じと似ているのではないかと思うんだけど・・・」

  気がついたら、一人芝居をやっていた。南国の木陰で、私は相手には理解し難いノスタルジアに浸っていたのだ。

  濃淡が美しい緑の葉たちが、さわさわと昼下がりの交響曲を奏でていた。そして、遠くではショッキング・ピンクのブーゲンビリアの花びらたちが華麗に揺れていた。

  「ところで、マレーシアにも『秋』があるのよ。わかる?」
 「・・・・・」 

  「『中秋節』!!少し早いけど、今夜、となりのプランギのプールサイドで"Mid-Autumn Festival"があるのご存じ?月餅と中国茶の食べ放題、提灯行列、中国伝統音楽の演奏もあるわ。是非、いらしてよ!もちろん、無料。夕食は出ませんけどね」

  今年の中秋節(旧暦8月15日)は9月24日にあたる。マレーシアではTanglung(灯篭)Festivalともいい、中国系コミュニティーにとって、中国正月に次ぐ大切な祭りだ。

  8月末頃から、ショッピング・センターやスーパーなどの一角には中秋節 コーナーが出来、月餅や中国茶を売っている。異文化間の交流が深まっている昨今では、モスレムの人たちも食べられる「ハラール」の月餅も出回るようになっ た。ハラールとは、イスラームの教義にかなった食べ物のことで、この場合は豚の油など使っていないものを言う。

  そう言えば、数日前には、学生から"Happy Tanglung Festival!"という動画のe-mailカードが届いた。古代中国の女性が月の上で月餅をパクパク食べているユーモラスなアニメーションで、横でう さぎがちょこんとすわって悪戯をしていた。いくつかある、中秋節の伝説をもとにしたものだ。

  伝説1 ・・・ 大昔、太陽は10あった。人間は暑さで苦しんだ。弓師のHou Yiが太陽たちを制御することになった。しかし、Hou Yiは天の命にそむいて、9つの太陽を矢で射ってしまった。罰を受けたHou Yiは人間となって、地球に追放された。妻のChang Erも後を追った。

  ある日、Hou Yiは一人で飲めばどこでも飛んでいけ、二人で飲めば永遠の若さと命を与えられる妙薬を手に入れた。地球に来てからのHou Yiの貪欲さに絶望したChang Erはその薬を飲み、一人天に戻って、荒涼とした月の人となってしまった。今も人々は月を見ると、Chang Erを想う。

  伝説2 ・・・ 1352年、漢民族は「元」の支配に対し 反乱を計画した。決起の日は8月15日と決められたが、問題は蒙古人に知られずに、そのことを仲間に伝えることだった。ある者が、その時期皆が食べる月餅 にそのメッセージを入れることを提案。この案は見事に成功し、漢民族は戦いに勝って、明の時代を成立させた。

  夜、コンドミニアムのプールサイドで催された中秋節を覗いてみた。美しい 熱帯植物や噴水に囲まれたプールサイドがライトアップされ、日本人や欧米人などの家族連れをはじめ、マネジメントの人たち、フィリピンやインドネシアのメ イドさんたちも加わって、賑やかに夜祭りが繰り広げられていた。

  こってりした餡のお菓子と「春露」という名の中国茶の香り、中国琴や胡弓の物寂しい音楽、提灯を手にした子供たちの喧騒、人種、世代を超えた人々の混在。ふと天国の風景を思わす、平和な光景だった。

  その夜、月はまだ半月だったが、心なしか、ひときわ冴えて見えた。帰り道、私は阿倍仲麻呂の歌を口ずさんでいた。

  20歳の時、遣唐使留学生として中国に赴いた仲麻呂が、30年後、帰国の途中で暴風雨にあい、安南(ベトナム)に漂着、船上で詠じた歌である。

  天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも

  中国人の民族としての「郷愁」の念に私自身の想いが重なり、中秋の月を抱く夜空は深い碧色の大海原に見えてくるのだった。


参考:Hou Yi=後い(「羽」の下に「サ」)、Chang Er=(嫦蛾)。
   Yiの字がJISコードにないのでアルファベット表記しました。

   マレーシアで、太陽暦とともに併用されている太陰暦については
   「マレーシアでなお息づく中国の農暦新年」をご覧ください。


1999年09月21日(火)萬晩報主宰 伴 武澄

 1995年の年賀状で「去年読んでおもしろかった本」として3冊を上げたことがある。その1冊にジャン・ジオノの「木を植えた人」と書いた。南フランスのプロヴァンスの荒れ地に毎日100個ずつ木の種を植え、森をよみがえらせた老羊飼いの話である。

 こぐま社の「木を植えた人」の初版は1989年だから古い本である。いくつのも出版社から翻訳され、ビデオもできたというからすでに読んでおられる読者も少なくないだろう。

 森がしげると雨が地中にたまり、やがて川となり、人々が住み着くようになる。たった一人の地道な努力でも何十年続けることで、自然が変わり、町までができてしまう。そんなおとぎ話のような話だが、きっとどんな人のこころにも慈雨のようにしみ込むことだろうと思う。

 先日、資生堂の広報の人と話をしていて、この「木を植えた人」が話題になった。福原義春会長が、社長だったときにこの本にいたく感動して、自費で社員全員に配ったというのだ。

 福原さんは資生堂の創始者の孫に当たる方だが、父親は経営を引き継がなかった。だからどこかの会社のよう な二世、三世社長ではない。実力で社長になった人だと信じている。アメリカ資生堂の立ち上げで食うや食わずの苦労をし、社長に就任した直後に、販売子会社 につけ回していた大規模な在庫を買い戻した英断で80年代後半、マスコミでも取り上げられた。

 その時の言葉は忘れたが「子会社に在庫を押しつけて親会社の決算をきれいに見せかけても仕方がない」とい うようなことだったと思う。今年から日本でもようやく導入された連結決算という考え方を10年まえからすでに持っていた。おかげで資生堂は大規模な減益決 算を余儀なくされ、当然ながら連続増益記録も途絶えた。バブルの真っ最中の出来事である。

 90年代には化粧品の値引き販売が始まり、河内屋の樋口社長らにより価格拘束という独禁法違反で告発された。カネボウやコーセーなども同時に告発されたが、トップ企業と言うことで矢面に立たされた。当初、資生堂は裁判で徹底抗戦する構えだった。

 福原さんは筆者が取材を通じて知った経営者の中で数少ない信頼できるトップの一人だった。それまで正義の 福原が一転マスコミでたたかれる対象となるのだから、構造改革というのはむごい部分もある。そんな感慨を持って、福原さんの真意を問うためにインタビュー を申し入れたこともある。

 会社経営がすべて善行によって行われるとは思っていない。社会的規範も時代のすう勢によってどんどん変わ るから、前の時代に当たり前のことであっても、当たり前でなくなることも多くある。1990年代は日本という国の中で企業経営に対する価値観が恐ろしいほ どに変わっていった。そんな時代だったのだと思う。

 企業の経営とは、そんな価値観の変化をどう先取りしていくかが問われる役割であるはずだ。日本がバブルに酔っていた直後に、この「木を植えた人」を社員に読ませていた社長がいたということは嬉しいことだった。

 萬晩報は福原さんに断りもなく、「木を植えた人」を贈るに際して社員にに添えた一文を転載したい。

私たちの資生堂は間もなく120年の誕生日を迎えます。人生と同じように、会社も好調のとき、苦しいときを何回も何回も経験しながら、大きく育ってきました。

1987年には経営改革のスタートを切り、1年前の1991年2月5日には21世紀の発展を見据えたグランドデザインを策定し、いまその軌道を走るスピードを上げつつあります。

このときに、皆さんとともに1冊の本をあらためて読んでみたいと思いました。

ことばは心を運びます。私はこの「木を植えた人(ジャン・ジオノ著)」という本をかりて皆さんに私の心を贈ろうと思います。そして私自身がこの本を大切に「木を植えた人」の心を考えつづけます。

この本を私とともにはたらく全社員のみなさんに贈ろうと考え、そのことを出版社であるこぐま社の佐藤英和社 長さんに相談しました。佐藤さんも私の気持ちに感動してくれたのです。私から言えば、この本を見つけ、苦労して版権を得て日本語の出版をした佐藤さんも 「木を植えた人」の1人です。

私たちもいっしょに、まず会社に中に木を植え、そして会社のはたらきを通じて社会に木を植えていきたいと思うのです。お元気で。  福原義春


 【読者の声】日本の経営者に 資生堂の福原義春会長のような心を持つ人がいることに感動しました。自分の思いを「木を植えた人」という本をかりて社員全員に自費で配るとは、なんて素敵 な人でしょう。私もあの本がとても好きです。私は、福原会長の事を、目先の利益だけを考えるのではなく、もっと先の事も考えることの出来る素晴らしい人だ と思いました。

 世の中のトップには、目先の利益にとらわれている人や、不正をしている人、などが多いのに、福原会長のよ うな間違った事をただす勇気を持つ人がいてくれることに安心しました。私は、あと数年で社会人になるのですが、こんな人の下で働けたらいいなと思いま す。(京都橘女子大学 岡田清美)

 【読者の声】今日は、ジャ ン・ジオノの「木を植 えた人」懐かしいです。秋篠宮殿下ご成婚の時、妃殿下の愛読書として有名になった本ですね。出来れば、桜を植え続けてた車掌さんの本でも読んでそちらを有 名にして欲しかったと思った思い出があります。おかげさまで 多くの学校で図書館に蔵書されました。『一生懸命な姿って素敵ですね』(岩室)

 【読者の声】いつも面白く拝読しております。21日の「木を植えた人」、実は私も読んでみたいと思いながらまだ読んでいない本です。というのは、ちょっと手元に資料がないのですが、出久根達郎さんがこの本について書いていた一文を目にしたからです。

 もとはといえば逢坂剛さんご夫妻(最初は奥さんがこの本を見つけてきてご主人もすっかりはまってしまい、 しまいには南仏まで著者と作品背景の土地を訊ねたということでした)が本書について熱烈な一文をものされ、その逢坂さんの本書についての思い入れを見て出 久根さんもこの本に惹かれた、ということでした。

 こうして考えてみると、本自体の読み次がれ方も、まるで作品のテーマと同じように人の心と様々な機会をつ ないでいることが興味深く思われます。少なくとも読み手に行動を起こさせる良書のようですね。ただ、出久根さんが一読しての感想は以外に肩すかしだったと のこと。逢坂さんの文章を読んで期待を膨らませ過ぎたことが原因だったかと自己分析されていました。(酒井 泰介)


1999年09月19日(日)萬晩報主宰 伴 武澄

 為替レートが先週から円が買われ1ドル=110円を超え、15日には一時103円前半を付けた。大蔵省・日銀は円高阻止のためアメリカに協調介入を懇願するなど危機感を高めている。「せっかく立ち直りかけた景気の腰を折ることになりかねない」というのが共通した認識だ。

 だが、1ドル=100-110円という水準が政府が狼狽するほどの円高なのだろうか。答は否である。

 ●構造改革が進むとの期待感があった5年前の円高
 円ドルレートが1ドル=110円を突破したのは93年である。95年の数カ月だけ、80円台という超円高の期間があったが、96年9月までほぼ3年間90-110円の間で比較的安定していた。

 忘れてはならないのは、株価は95年7月の1万4000円台をボトムに96年6月には2万2666円という戻り高値をつけ、この為替水準で日本の景気も一時持ち直していたのである。

 確かに93年は産業界は円高に困窮していた。自動車産業は「110円を超える円高では内外のコスト競争力が逆転する」とし、鉄鋼業界もまた「105円で日韓の鉄鋼生産の競争力が逆転する」と悲鳴を上げていた。

 しかし、一方で流通業界を中心に「価格破壊」が進んだ。衣料を中心に食品など輸入品の価格低下が消費者に大きなメリットをもたらした。あこがれの輸入車も相次いで販売価格を下げ、身近な存在となったことは記憶に新しい。

 デパートの主力商品だった紳士服はロードサイド店に売り上げを奪われ、ディスカウンターの登場でビールを中心に酒類の定価販売が崩れた。消費者は円高でようやく日本の構造改革が進むと円高を歓迎するムードもあったはずだ。

 産業界は、"円高"を避けられないものと観念し、製造業がアジアへの生産移転を本格化するのもこの時期だ。同時にアジア経済もまたピークを迎え、短かったがこの世の春を謳歌した。

 ●金融不安の前の水準に戻っただけの円ドルレート
 その後、円ドルレートが急激に円安に転じたのは、銀行の不良債権問題に端を発する金融不安が日本国内を覆ったからだ。引き金は第二次橋本内閣の元でス タートした「不良銀行の淘汰」策だった。銀行が現実につぶれだしたことが日本経済への不安を増幅し、ピークの昨年8月に円は1ドル=147円の水準まで売 り込まれる展開となった。

 60兆円にも及ぶ公的資金の供給が決まり、いまでは貸し渋りもなくなり、金融不安の当面の危機は乗り越え たことになっている。そうであるならば、為替水準が金融不安が台頭する前の水準に戻ったところでなんの不思議もない。 まさか日本経済は90年代前半の構 造改革の断行という決意を忘れたわけではなかろう。

 アメリカの好景気を見るまでもなく、強い通貨を持てば世界のカネが集まるのである。世界のカネが集まって いれば、日本の銀行が貸し渋りをしても日本企業はここ数年経験したような資金ショートに陥らなかったかもしれない。外資系銀行が潤沢な資金を供給できただ ろうというのが、萬晩報の「たられば論」である。

 ●榊原氏が目指した円安誘導は100-110円?
 萬晩報が現在の為替水準を狼狽するほどの円高でないとする根拠はもうひとつある。大蔵省の榊原英資氏国際金融局長(その後財務官)が円安誘導で目指した為替水準ではないかと推測できるからである。

 円ドルレートが80円台の超円高に陥ったとき登場した大蔵省の榊原英資氏が、実施したのは強引な市場介入 によるドル買い円売りだった。この介入手法についてはいろいろ批判もある。だが、榊原氏が目標にしたのは1ドル=100-110円までの円安誘導だったよ うだ。このことはその後の榊原氏の発言のなかから容易に想像できる。

 95年9月8日、日銀のドル買い円売り介入で円ドルレートは早くも1ドル=100円にまで戻っていた。だが、榊原氏は翌々日、榊原氏は一部の市場関係者との会合で「円安の動きはこんな程度ではない」と発言した。

 96年11月7日、日経金融新聞のインタビューで「円安誘導終焉」を宣言した。この時のレートは110円近辺である。

 97年5月8日、国会で「103円発言」。榊原発言で為替レートは1ドル=125円から急騰した。このときこう言ったのである。
 「過去10年の為替レートの変動の平均を取りますと、1年間に大体23円変動しています。今年の円の最安値が127円50銭ぐらいまで行っていますから、23円ということでありますと、過去の例から言いますと103円まで円高になる可能性があるということでございます」

 1ドル=80円台の超円高から政府が目指した円安誘導の水準がまさに先週から大騒ぎしている円ドルレート の範囲内ということならば、日本としては為替動向に付和雷同することはない。そもそも政府が大騒ぎする割に産業界は比較的冷静である。6年前に1ド ル=110円を突破した時の騒ぎとはまったく別物であることを付け加えておきたい。


1999年09月16日(木)文 彬

 中国の中央テレビ局(CCTV)の人気司会者倪萍さんの自叙伝風著作「日子」(日々、作家出版社)に「愛花」(花が大好き)という章がある。その副題に「私は花が大好き。ただ桜が嫌い」とある。

理由1:桜の色、咲き方等が自分の性分に合わない。
理由2:青島にある桜は植民時代、日本人が植えたから、桜が日本の象徴であり、桜を見るとあの憎むべき歴史を想起される。
 理由1についても色々書いたが、「嫌桜情緒」は主に理由2に起因することだというは倪萍さん自身も隠さな い。だから「桜には罪がないが、仕方がない」とある。また「桜」を憎む裏付けとして、梁実秋は青島の桜が大嫌いだというエピソードも引出した。勿論、ここ でいう桜は植物としての桜に止まるものではないことをわざわざ強調する必要は無い。

 「恨屋及烏」(人を憎めばその人の住家の屋根にいる烏をも憎む=この訳は適切ではないが、名訳が浮かべな い)は人間の感情世界のものなので、理解できないことでもない。また「前事、忘るべからず」も納得する。しかし、戦後50数年が経っても、はたしてこのよ うに「景に触れば情け生ずる」必要があるだろうか。

 ある花屋さんのホームページを見たら、イギリスとポルトガルの国花はバラ、オランダはチューリップ、ドイツはヤグルマ菊、フランスはアイリス、スペインはカーネーション......とあり、どれも愛らしい花だが、こちらの国々はどれも中国を侵略した憎むべき歴史がある。

 今も北京の郊外に散在している圓明園の生々しい廃虚はその証拠である。しかし、我々中国人は(倪萍さんも そうだと思うが)、こちらの花を見る時、憎むべき歴史への連想はない。桜だけは運が悪い。この欧米諸国に対する感情と日本に対する感情は何故このように違 うかは別の機会で触れたいが、ここで筆者が言いたいのはこれらの愛らしい花を見てあの「憎むべき歴史」を連想しないと同じような気持ちで桜を鑑賞すること はできないだろうか。

 青島の桜が大嫌いという梁実秋の亡国への鬱憤も当然尊敬すべきだが、「桜花賦」をしたためた郭沫若氏の心 も大切だと思われる。郭氏は権力に迎合する所謂「応酬の作」が多かったとしばしば見下げられる傾向があるが、少なくとも「桜花賦」を書いた時の郭氏は聊か の権力によるプレッシャーもなかったし、節を屈してまで桜を謳歌する必要はなかった。ましてや、倪萍さんがいうように旅先で主人に対する礼儀からではない と思われる。

 ここで少し話が逸れるが、今月初めに韓国のマスコミを賑わす「金嬉老事件」があった。30年前に静岡県で 暴力団員2人を射殺し、人質13人を取って立てこもった罪に問われた在日韓国人、金嬉老さんが7日、千葉刑務所を仮出獄した。逮捕から31年、最高裁の無 期確定から24年ぶりの身柄拘束解放だ。同日釜山に到着した金嬉老さんは、「愛国同胞の帰国歓迎」といった横断幕や韓国国旗を持った人々、仏教会婦人合唱 団、女子高校の吹奏楽団などの、国民英雄さながらの盛大な歓迎を受けた。

 そして、韓国のマスコミは金嬉老さんの仮出獄が確実になった8月下旬からも連日競って大々的に関連ニュー スを報道してきた。感情的な対応を避けようとする姿勢も見受けられるものの、感情が先に立つ雰囲気が圧倒的な優勢で、結果的に国民感情を偏った方向へ煽っ たこととなった。

 「金嬉老事件」は民族差別に起因した事件で、今振り返ってみても金嬉老さんの悲惨な運命に胸が痛む。しか し、冷静に考えれば「金嬉老事件」の金嬉老さんは被害者と加害者であっても、決して英雄ではないことはいうまでもない。それが英雄扱いされたことの底流に は、韓国人の日本人に対する言葉では言い尽くせない憎しみのセンセーションがあると敢えて言いたい。そして、このセンセーションを必要以上に煽りつづけて きたのは紛れもなくジャーナリストとマスコミだ。筆者がわざわざ「金嬉老事件」にまで筆を走らせた目的もここにある。

 つまり、民族間にあった「過去」は憎むべく、忘れるべきものではない。しかし、過去の如何に拘わらず、 ジャーナリストを含む文筆業に従事している人々は民族問題を扱う時は、安易に感情に走るのではなく、事実を如実に伝えると同時に大衆の感情的な高ぶりを冷 静にそして未来志向に導くことに努めてもらいたい。残念ながら、中韓日のマスコミの現状を見ると憂慮すべき現象がまだ非常に多い。

 報道陣に対し「日本人の中にも人情のある立派な人がたくさんいる。そうした人と差別する人を同一視してはいけない」という金嬉老さんの発言は、彼の悲壮な半生の血と涙の結晶として受け止めたい。

 倪萍さんの本には、桜を青島に植えた日本人は桜の木と同じように永遠に青島に居残り、永遠に青島を占領し たかっただろうと推測して、益々憎々しさが倍増するという意味の文章がある。しかし、次のように全く逆の発想の方がもう少し夢があり、我々の乾燥した気持 ちにちょっとした潤いを与えることが出来るのではないかと思うのは私だけだろうか。

 戦争のため青島に駆り立てられた学徒出陣の日本人青年とその学友達は、郷愁を凌ぐために八丈嶺に桜の木を 沢山植えた。そして間もなく青年は戦死した。学友達は毎年のように満開した桜の木の下に集まり、戦死した学友を偲び、戦争が早く終わり、帰国できるように と祈っていた。

 これは筆者の独り善がりの牽強付会だろうか。


 文 彬さんへメールはbun@searchina.ne.jp
1999年09月12日(日)Feature Press 形山 昌由

 ここのところ米国で気を吐く日本人スポーツ選手が目立つ。杉山愛選手が全米オープンテニスのダブルスで優 勝、メジャーリーグの伊良部や野茂も順調に勝ち星をあげている。そして忘れてならないのがペンシルバニア州で開かれた少年野球のリトルリーグ世界大会で、 大阪の枚方リトルが23年ぶりに世界チャンピオンに輝いたことだ。

 ●荒木大輔以来のリトル世界制覇
 元阪神タイガース外野手の亀山努氏が監督を務める枚方リトルは、国内大会と極東大会を勝ち抜いたのち世界大会へ出場、決勝でフェニックスシティー(米国 アラバマ州代表)を5対0で破り、優勝した。のちにヤクルトスワローズ投手となった荒木大輔投手がいた調布リトルが1976年に優勝して以来のビッグ ニュースだ。

 それにしても枚方チームは安定した強さを誇っていた。開会式直後に行われたブリティッシュコロンビア(カ ナダ)戦では、5回まで相手打線を無安打に抑え、あわやノーヒットノーラン試合かと思わせた。(リトルリーグは6回戦ゲーム)。一番の強敵とされたプエル トリコとは2度戦い、一度は1点差で負けたものの山崎投手が11三振を奪う力投を見せ、2度目の対戦ではコールド勝ちを収めた。優勝を決めたフェニックス シティー戦ではエースの炭山投手が相手打線を2安打に抑え、2塁ベースを踏ませぬ投球内容だった。

 スキのない攻守といずれ劣らぬ速球を持つ4人の投手、それに試合運びを見ていると、とても13歳の子供が やる野球とは思えない。亀山監督の采配の上手さもあるに違いないが、世界大会中のエラーわずか2個という数字は、何より日本のリトルリーグのレベルの高さ を示している。監督自ら「この年齢の野球では日本が世界一」というよう、トップクラスには違いない。

 日本チームはこの23年間、極東大会で台湾の壁に阻まれてきた。台湾チームは96年までの27年間で17 回の世界チャンピオンという脅威的な強さを誇り、日本チームは世界大会へ進めずにいた。ところが台湾チームが3年前から世界大会への出場登録を取りやめた ため、極東代表として日本が3年連続して世界大会へ駒を進め、3位、2位、そして今年の優勝を勝ち取った。

 ちなみに調布リトルが優勝した翌年の77年から昨年までの22年間で極東代表が世界チャンピオンとなったのは、台湾、韓国の両チームで実に14回。リトルリーグの世界ではアジアが米国を抜き、世界ナンバーワンの地位を占めている。

 この年齢の子供では人種的な体力差が大人ほど見られないため、とくに日本の場合、お家芸ともいえる細かい技術野球が効果を発揮する。守備力の差などは他国の代表チームと比べて歴然としていた。

 ●全米にテレビ中継された決勝戦
 今回、世界大会を取材して驚いたのは米国のリトルリーグ人気だ。大会はペンシルバニア州の田舎町ウイリアムスポートで毎年開かれているが、まず球場が素 晴らしい。リトルリーグの野球ルールに合わせて作られた専用球場で、観客収容能力は4万人以上ある。以上というのは、外野席が球場外部とつながった芝生席 で自由に出入りができるためだが、これがいい。

 皆、気軽に野球観戦ができるようになっている。照明設備やダッグアウト、記者席、カメラマン席などはプロ野球の球場と遜色がない。球場のすぐ横にはリトルリーグの世界本部と博物館があり、ここで豊富な資料とともにリトルリーグの歴史を学ぶこともできる。

 大会開催中はウイリアムスポートの町全体がお祭り気分に包まれ、各試合とも大勢の人が観戦に訪れる。今年 の決勝戦には、同市の所属するライコミング郡の人口の約3分の1に当たる4万2千人が詰めかけ、報道陣もAPを始め各社がズラリと陣取った。試合の模様は 日曜のほぼゴールデンタイムに全米中継されるなど、人気の高さは甲子園の高校野球並だ。

   枚方チームに随行した日本リトルリーグ野球協会事務局長の小篠菊雄さんによると、国内大会では決勝戦でさえ観客の大多数は関係者だという。日本では中学 まで軟式野球が主力になる(リトルリーグは硬式球)という事情があるにせよ、日米のリトルリーグ人気にはかなりの隔たりがある。

   もっとも高校になると状況は逆転する。米国の高校野球は一般からは関心度も低く、観客も数千人だという。野球王国の空白地帯のようなものだ。米国人ス ポーツ記者はその理由として、高校になると一番人気のアメリカンフットボールやバスケットボールなどへ転向する選手が多いことをあげる。5万人が集まる日 本の高校野球の話をすると、信じられないという顔をされた。

 ●楽しむ野球と根性の野球
 試合を観戦して日本との違いを最も強く感じたのは楽しみ方だ。満員の観客席ではイニングの合間に係員が記念のTシャツを観客めがけて投げ、キャッチした 人がもらえるゲームなどのアトラクションが行われる。メジャーリーグの試合でおなじみの「テイク・ミー・アウト・トゥ・ザ・ボールゲーム」の合唱もある。 ジュースやポップコーンの売り子はリトルリーグの試合らしくすべて子供だ。

 グラウンドでは動物のぬいぐるみをかぶったマスコット人形が試合前やイニングの合間に選手や監督、審判など誰彼構わず誘い、陽気に踊りまくる。観客も立ちあがってリズムに合わせる。

 「始めははずかしかった」(山崎選手)と尻込みしていた日本の選手たちも、決勝戦のころには自ら踊りに加わりだした。亀山監督がYMCAを踊る姿はなかなか様になっていて、それを見た観客がおおはしゃぎするシーンもあった。

 こうした余興を楽しみながら、それでいて試合中はもちろん集中して一球一球に見入り、真剣に歓声や拍手を送る。子供の野球だからといって手抜きをして見るようなことは決してない。決勝戦や米国チーム同士の戦いになると声援もすごい。

 たまたま隣り合わせになった国内大会の実況を経験したことがあるという日本のテレビ局スタッフは「日本と全然違う。こんなに楽しいとは思わなかった」と目を輝かせた。確かにこの雰囲気の中にいるだけでウキウキしてくる。

 それにしてもこの野球の楽しみ方の違いはなんなんだろうと考えてしまった。私も学生時代に野球を経験した ので分かるが、日本の野球は精神鍛錬に通ずる部分あり、一種の野球道を形成している。アニメ「巨人の星」をイメージすれば分かりやすい。中核をなすのは根 性論だ。「日本リトルリーグの歌」の最初のフレーズは「汗と涙とほこりと泥と」。日本野球を象徴的に示している。

 一方、米国で野球定番の歌「テイク・ミー・アウト・トゥ・ザ・ボールゲーム(私を試合に連れてって)」 は、彼氏に野球場へ行こうとねだる熱狂的な女性野球ファンの歌で、歌詞からは試合を心から楽しむ気持ちが読み取れる。米国人は野球をナショナル・パスタイ ム(国民的娯楽)といい、野球場をボールパーク、すなわち公園の一種と表現する。

 ●地球の裏側にあるもう一つのベースボール
 その国の文化を背景としたスポーツスタイルになるのは当然だが、野球は米国から日本に伝わって100年以上経つ間に随分と変わってしまったようだ。かつて「地球の裏側にもう一つのベースボールがある」と言い残して帰国したメジャーリーガーがいる。

 野茂選手は日本人として初めてメジャーリーグオールスターへ出場を果たした時、子供のような笑顔を見せた。イチロー選手も今年春先のシアトルマリナーズへのキャンプ参加で「野球をしていてこんなに楽しい気持ちになったのは久しぶり」と話している。

 たかが野球といわれればそれまでだが、この日本人と米国人の思考の底流に流れるものの違いは野球だけに留 まらない普遍的な問題でもある。そう考えると、近づいたように思える日米の距離が実はまだまだ遠いことに気づく。果たしてお互いを理解し合える日がいつか 来るのだろうか。少なくとも枚方チームの14人の少年たちは、大舞台での貴重な経験を通じてその違いを知ることだけはできたと思いたい。


 形山さんのホームページ Feature Press

 形山さんにメールはkatayama@featurepress.com


1999年09月10日(金)色平哲郎 アイザック事務局長(佐久総合病院内科)

 長野県東南部、人口1300人の南相木(みなみあいき)村。鉄道も国道もない山の村に初代の診療所長として家族5人でくらしている。

 自家用車が普及するまで、人は最寄りの鉄道駅小海(こうみ)まで3里の山道を歩いたという。養蚕や炭焼きなどの山仕事しか現金収入のなかった時代だ。今は村営バスが走り、農作業も機械化されたが、患者さんのほとんどは、そんな村の歴史を知るお年寄りたちだ。

 診療の合間にその口から語られるのは遠い記憶である。今はない分校に子どもたちの歓声が絶えなかったこと。足ることを知り、隣近所が支えあったくらしぶり。山に生かされた日々であった。

 しかし天保7年の飢饉では村の餓死者120余人。明治30年7月の赤痢、寺への収容者250名中、死者40余名。今も村に残る篤い人情に感激する一方で、ひもじさと感染症流行の生々しい記憶があった。

 分け隔てのなさ、生活の楽しみ、笑い、目の輝きの一方に、みてくれ、ぬけがけ、あきらめといったムラ社会の狭さがある。このような二面性は、かつて放浪し、へき地医療にとりくむきっかけになった東南アジアの村々を彷彿とさせた。

「地域というものは、外からの援助では決してよくならない。そこに実際に住んで日々のくらしを送っている者が自らつくっていかなければ、決してよくならないんじゃ」
 宮本常一氏のことばである。

 「風のひと」としてこの村に移り住んだ外来者である私たち家族は、隣人である「土のひと」たちに日々大変 お世話になっている。700年の歴史をもつ自然村相木郷(あいきごう)の包容力に感動しつつ、進行する高齢化と過疎化の波にムラの自治の将来を案ずる医師 としての日常がある。

 毎年、百数十人の日本の学生、社会人をムラに受け入れて、消えゆくムラの確かな何かをお伝えすべく地域の友人たちととりくんでいる。

 巨大開発としての長野オリンピック狂騒曲によって90年代初頭の信州は地域と環境に大きな負荷を受けた。 例えば長野新幹線と高速道路網の整備に総額1兆7000億円の投資がなされ、鉄道や道路の建設現場には外国人男性の、飯場わきのスナックには外国人女性の 姿が目立っていた。

 現場の課題にとりくむべくNGOとしての「佐久地域国際連帯市民の会」ISSAC(アイザック)は誕生し た。ムラおこしにとりくみつつ、外国籍住民の「医職住」の生活相談にあたり、日本の若者が日本のムラとアジア各国のムラを往復することで現場体験いただく ことをサポートしている。

 日々のとりくみに於て次第に保健医療の枠を出て、市民的公共性について考えざるをえなくなり、平和学の課題である国際金融の構造的暴力の諸作用を身近に自覚させられることになった。

 皆さんこんにちは。私たちは外国人の「医職住」に関する権利を守ることを目的として集まった民間のボランティアです。私たちは様々な市民、弁護士、医師が集まっています。
 もしあなたが雇主に虐待されたり、仕事をクビになったり、賃金を払ってもらえなくなったり、売春を強要されたりしたら、また医者にかかるのが不安だった り、アパートが見つからなかったりしたら、私たちに電話して下さい。電話での相談は無料です。私たちはできるかぎりの援助をします。もちろん秘密厳守で す。 [アイザック いろひら・てつろう]
 迫害や飢えを逃れていくつかの国境を越えた難民たちが日本列島に至り、バブル景気が例外的に続いていたこ こ信州で彼らに出会いそして別れることになった。アフリカ人の体格のいい男性がHIVに感染して体重が半分になり、鼻血を出しながら結核の治療に入院し た。或るタイ女性は亡くなる時、つくづくと「タイのお坊さまにお会いできないことが残念です」と言い遺していった。

 このことをきっかけに友人のパイサン師というタイ人仏僧に来日いただき、佐久地域のタイ人コミューニティ を行脚いただいて、善光寺まで一週間歩いての頭陀(すだ)修行にとりくんでいただいた。現在のアイザックは、足元の地域、世間で人間として人間の世話をし 続けることが、何かしら世界という大きな海につながっていることを日々に体験しつつとりくみ続けている。


 色平さんの1999年05月03日付コラム「野辺山での飢餓と飽食--白頭山追想

 色平さんへメールは DZR06160@nifty.ne.jp


1999年09月04日(土)萬晩報主宰 伴 武澄

 8月19日、日本経済新聞が夕刊で「興銀、第一勧銀、富士銀の統合」をスクープし、各社が後追いした。お陰でその日、"遅番勤務"についた筆者は忙しかった。

 運動部から報道部にきているF記者がつぶやいた。

 「おれたちの若いころには考えられないよな。こんな大きな銀行がみんな一緒になるなんて」

 メガトン級のニュースであることは認めても「なるほどそういうことなのか」と納得できるニュースでも、「よかった、よかった」と歓迎するような明るい出来事でもない。かといって「こんなことは絶対許さん」と記者魂を揺さぶるほどの怒りもない。

 ただ漠然と「なんでこんなことができるのか」という実感のない演劇をみるような気分だったのだ。ニュースが大きすぎるのだ。

 「1990年代に入ってアメリカを中心にとんでもない企業統合がおきているだろ。あれが日本にも上陸したんだ。つまりアメリカでも日本でも独禁法というものがもう機能しなくなっているんだ。これってけっこう恐いんだぜ」
 「そういう解説をしてくれるとよく分かるが、どこでも書いていないな」
 「アメリカを中心に欧米で起きている考えは、市場のグローバル化だよね。国内に市場が限定されている時代だったら、その国の独禁当局が目を光らせていれ ばよかったんだ。問題はグローバル化の時代にだれがその役割を代替するか答が出ていないうちに企業が走り出していることだと思うよ」

 その後、以上のようなやりとりが続いた。

 ●巨額化する欧米のM&A
 1980年代のアメリカで始まった企業買収(M&A)がこのところ勢いを増し、グローバル経営の台風の目となっている。筆者が80年代にM&A企画で取 材したときでも「巨大な変革が企業社会を包み込んでいる」などと驚きを表現したが、ここ数年は件数、規模とも桁違いとなっている。

 米トラベラーズ・グループによるシティーコープの合併は700億ドル(8兆円)、エクソンとモービルに到っては800億ドル(9兆6000千億円)である。

 世界のM&A市場をリードするゴールドマンサックスの1998年のアメリカでも仲介実績は7,785億ドル。ヨーロッパでは1,736億ドル。合計すると9,500億ドルに及ぶ。実に約120兆円であり、日本の国家予算をはるかに上回る金額である。

 2位のモルガン・スタンレー・ディーン・ウィッターは計7,650億ドル、3位のメリルリンチでも 6,500億ドルの規模のM&Aをこなしたのである。M&Aは金融機関に巨額の手数料収入をもたらす。日本の一部の金融機関もこうした「投資銀行」を目指 しているが、残念ながら実績はゼロに等しい。

 ●トラストが"善"だった100年前
 実は100年前にも同じような事態がJ・P・モルガンらの手によって行われていたのである。J・P・モルガンは19世紀末からトップ銀行のひとつで、ア メリカで相次いで設立された鉄道会社への投融資で財をなし、バクチ相場となりつつあったニューヨークの金融市場で企業統合を進め、「業界に秩序を回復」し たことで知られる。

 ロン・チャーナウ「モルガン家」(日本経済新聞社)によると「新しい20世紀の幕開けとともに、アメリカ史上初の大規模な企業合併の波が押し寄せてきた」のだ。

 「電話、電信、それに運搬手段の発達に促されて、地方の各市場が、地域的、全国的な一大市場に組み込まれた。(中略)企業合併の数は1897年の69件から99年には1200件を超すにいたった」
 「大きな企業合併の波が勢いを増すにつれ、ウォール街の各一流銀行の目は鉄道から企業合同(industrial trust)へ移っていった」
 「企業合同では参加各企業の株主が、その上に設けられる持株会社の発行する企業合同証券(trust satificate)と交換に株式を信託するのが普通だった」
 「企業統合を認め、厄介な反トラスト法を発動させなかったマッキンリーは、経済界にとって都合のよい共和党大統領だった。1901年のUSスチール社の 誕生は1900年の大統領選挙における共和党の圧勝の後を受けて、政府規制が非常に緩やかだった当時の空気と切り離して考えられなかった」
 ●USスチールの14億ドルの資金調達
 数々の企業合同の中でもUSスチール社の場合は規模が桁違いに大きかった。100万ドル台の株式発行でも大事とされた時代に14億ドルの資本金で発足した。いまの金額にして230億ドルといわれ、売上高は欧米列強の国家並みとされた。

 モルガンのお陰で4億8000ドルでカーネギー製鋼の株を手放したアンドルー・カーネギーは「世界一のお金持ち」になり、鉄鋼関係者には大富豪が何十人も生まれた。

 この時代を前後して、乱売合戦が続いていた大西洋航路では2社体制が確立した。同じように巨大なアメリカ ンタバコが生まれ、スタンダード・オイルも石油利権を独り占めにした。いま流に言えば、世界で初めて産業界に巨大なM&Aを導入したのがJ・P・モルガン だったのである。

 当時もちろんM&Aという言葉もなかっただろうし、反トラスト法はあっても後世われわれが教科書でならうことになる「カルテル=悪」という発想も今ほどに強くなかった。逆に政財界には「過当競争はよくない。共倒れになる」という論調の方が強かった。

 よくいわれるように「企業は独占を目指す」という考えはそのころからある。「競争原理は弱肉強食である」という言い換えもできる。グローバル化時代を迎えて、いままた世界中で企業統合が礼賛されているが、まさに100年前の世相と生き写しなのである。

 「モルガン家」の表現になぞらえると、1990年代は「新しい21世紀を前にして、史上初の世界的な企業合併の波が押し寄せている。大きな企業合併の波が勢いを増すにつれ、ウォール街の目は製造業や流通業から金融合同へと移っていった」ことになる。  モルガン家のことを書き続けているうちにアメリカでその後に起きた「反トラスト気運」について書く余裕がなくなった。いずれ続編として反トラストについても言及したい。


 【世界に君臨した4つのモルガン】ロン・チャーナウ「モルガン家」(1993年、日本経済新聞社)は19世紀後半、ジュニアース・モルガン(J・S・モルガン)とピアポンド・モルガン(J・P・モルガン)父子がニューヨークとロンドンを中心に世界的金融帝国を築く物語である。

 当時、モルガン一族はロンドンにJ・S・モルガン商会(後にモルガン・グレンフェル商会)、ニューヨークにJ・P・モルガン商会、フィラデルフィアにデュレクセル・モルガン商会、そしてパリにモルガン・ハージェス商会の4つの会社を持っていた。

 多くの世界的な銀行は19世紀の後半に生まれた。株式を公開せず、何人かのパートナーが最終責任を負うパートナーシップという経営形態を取った。日本にはないシステムで共同経営とでも訳せばいいのだろうか。

 モルガン父子の各地の商会もそうだった。4つの商会の関係は親会社でも子会社でもない。それぞれ独立した 法人である。いまも欧米の金融機関にはこうした経営形態は色濃く残っている。クリントン政見のルービン前財務長官の前職は今はときめくゴールドマン・サッ クスのパートナーの一人だった。

 100年後のいま、モルガンの各商会は株式を公開したり、M&Aを通じてそれぞれが違った生き方を歩んで いる。ロンドンのモルガン・グレンフェルはドイツ銀行に買収されて、ドイチェ・モルガン・グレンフェル銀行となったが、ニューヨークのJ・P・モルガンは モルガン・ギャランティーの持ち株会社として健在であり、パリの商会はJ・P・モルガンから投資銀行として分かれたモルガン・スタンレーの子会社となって いる。

1999年09月01日(水)萬晩報主宰 伴 武澄

 ●計り知れない経済効果

 民間の研究機関である日本リサーチ総合研究所が、このほど事業が破たんした北海道・苫小牧東部開発地域に沖縄の普天間飛行場を含む沖縄のアメリカ海兵隊の基地機能を移転させるという報告をまとめた。一石二鳥、一挙両得、妙案だと思う。

 普天間飛行場は、1996年の日米特別行動委員会(SACO)最終報告で返還が決定したが、移転先のめどは立っていない。大分県の平松知事が一部を受け入れてもいいというような発言があったが、話がすすんでいるようではない。

 この報告によれば、移転する施設は普天間飛行場、キャンプ桑江、牧港補給地区など6施設。苫東地域への移 転に必要な土地面積を1200ヘクタール、建設工事費は3000億円としている。一方の苫東地域は国家プロジェクトとして推進されたが、事業を進めてきた 第3セクターは1800億円の借金を抱えて経営的に破たんし、1万ヘクタールの広大な用地が遊んでいる。

 大規模空港が近くにあり、港湾設備も整っている。基地の経済効果は計り知れない。基地の後方支援から何万人もの海兵隊の家族の生活を支えるインフラ整備は首都機能移転に匹敵する経済効果をもたらすに違いない。

 この報告書は、政府系のシンクタンク、総合研究開発機構(NIRA)が民間に委託したもの。研究所は「あくまで一つの想定だが、議論が活発化するきっかけになればと思う」と涼しい顔だが、政府関係者は突飛な発想に当惑気味らしい。

 ●沖縄に限定していない普天間の代替地
 日本には横須賀、横田、座間、岩国、三沢などいたるところにアメリカ軍基地がある。なかでもとりわけ規模の大きいが沖縄である。

 沖縄の基地問題が浮上する度に思うことは、小さな島にアメリカ軍が集積しすぎているという事実である。そ もそも沖縄が要塞化したのは日米の合意に基づくもでも何でもない。戦前の沖縄に日本軍の大規模な施設があったわけではない。戦後の講和条約を過ぎてもアメ リカが居座って拠点基地化したからに過ぎない。

 そもそも普天間基地の移転問題は95年のアメリカ兵による少女暴行事件に端を発する。4年もたったいまとしてはこの事件もかなり風化してしまっている。だが日本におけるアメリカ軍基地と住民との関係は本土と沖縄戸では決定的に違う。

 戦後27年間、アメリカは沖縄を「海外領土」と位置づけてきた。72年の返還後もその意識が続いているところに大きな問題がある。その認識をあらためてもらうためにも北海道への移転はいいことなのだろうと思う。

 基地の効率的運用のため、アメリカとして移転先が沖縄にあってほしいと考えるのは当然である。しかし日米 特別行動委員会(SACO)最終報告では普天間基地の移転先について、代替地を沖縄に限定しているわけではない。日本政府がアメリカの意向をおもんばかっ て、沖縄にその代替地を求めようとしている。

 萬晩報は、小渕首相が沖縄を来年のサミット会場に決めたことは英断だと考えている。だが、サミット誘致と普天間基地移転とを取引材料にしているのだとしたら、大きな問題だ。

 苫小牧東でなくともいい、下北半島でもいい。普天間基地の移転先はいったん沖縄から外して考えるべきだ。


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