1999年8月アーカイブ

1999年08月27日(金)とっとり総研主任研究員 中野 有

 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は、本当に人口の1割(220万人)の餓死者が発生するほど飢餓に直面しているのであろうか。

 軍事的鎖国国家である北朝鮮の情報はベールに包まれており、現実の姿が伝わってこない。それゆえ各国の思惑が交錯しており、またマスコミによる情報にも偏りがあり、食糧援助一つをとってみても焦点が定まらない。

 そこで、技術協力の基本に戻り、単なる食糧援助ではなく、食糧増産の技術協力、言い換えれば魚を与えるのではなく、魚の釣り方を指導することが肝要であるのではないか。

 一方、北朝鮮は国際社会からの食糧援助に頼りながら軍事に重点を置くのではなく、農業の自給自足率を高め る努力が不可欠である。これにより、国際社会は北朝鮮への技術指導を通じて北朝鮮の現実を把握することが可能となると同時に、北朝鮮の持続可能な発展に貢 献できると考えられる。

 80年代後半に国連機関の技術援助の仕事を通じ、西アフリカのリベリア奥地の電気や水道が整備されていな い土地で2年間生活した。幸い、リベリアは緑豊かな土地で農作物の問題はなかった。しかし、当時の東アフリカのエチオピアなどは、雨が降らず本当に飢餓の どん底であった。

 飢餓は雨が降らないから起こるのである。水、土地、太陽、労働力のあるところは耕作が可能であり、北朝鮮は少なくともそれを備えていると思われる。

 北朝鮮の場合、5年前の大洪水以来、深刻な食糧難に直面しているとの報道があるが、アフリカの1部の地域に比べ最悪の事態とは考えられない。3年前と半年前の2回、北朝鮮の北東部を訪問したのであるが、飢餓の状況は多くのマスコミ報道ほど深刻とは感ぜられなかった。

 最近、北朝鮮を訪問した国連開発計画の専門家によると、1995年以来、餓死者が3百万人発生したという 報道は誇張されており、食糧事情は悪化しているが飢餓は回避されていると伝えている。加えて、食糧援助は解決策でなく、国際社会の農業技術指導を通じ、北 朝鮮の食糧自給を高めることがカギになる、と述べている。

 北朝鮮を国際社会に融合させる方法として、中曽根元首相は、金正日総書記に世界漫遊を通じ、国連などの会議に招待するのがいいとマスコミのインタビューに答えている。北朝鮮はトップの意向ですべてが動く社会であるから、これは的を射た考えだと思う。

 同時に、「鎖国から開国」に向かうプロセスにおいて、その激流によるショックを緩和するためにも、北朝鮮の庶民と国際社会との接点を築くことが重要であると考えられる。

 例えば、北朝鮮が望む食糧援助に、農業の技術指導を含めることで国際社会と庶民の交流が成り立つのではないか。

 北朝鮮政策に対する国際社会の大局的な流れとして、包括政策に代表される韓国の太陽政策や、米国のペリー元国防長官の予防防衛を通じての朝鮮半島の信頼醸成の構築がある。

 また、米国のシンクタンクは、既存の朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)に匹敵する、北朝鮮の農業技術協力を主眼とした朝鮮半島農業開発機構(KADO)の設立の重要性を提唱している。

 そこで、北朝鮮に対する日本の役割だが、日本海側諸県の農業技術は豊富であることを念頭に入れ、国際社会と歩調を合わせた農業の技術協力を推進できないだろうか。北朝鮮情勢が進展するに伴い、農業の技術協力を含む環日本海交流が推進されるであろう。

 北東アジアにおけるユーゴスラビアのような危機を回避するためにも、北朝鮮を国際社会に融合させる努力がさらに必要となる。それは、人と人との交流を伴う農業技 術支援がきっかけになるのではないだろうか。

 中野さんにメールはnakanot@tottori-torc.or.jp


1999年08月25日(水)萬晩報主宰 伴 武澄

 取材したわけではない。昨年秋、2回長崎に旅した。驚いたのは市内を走る路面電車の安さである。全区間100円。しかも乗り換え自由である。地元のタクシー運転手に聞いたところ、路面電車を再評価する動きがあって全国の自治体からの視察が増えているというのだ。

 住んでいた京都のバスは220円で、地下鉄の初乗りは200円だった。妻と「いまどき100円で買えるもの」は何があるのだろうかと考えた。子どもの買う駄菓子屋を除外すると「ヤクルト」程度しか思い浮かばなかった。

 関西に帰ってから「長崎の市電はたった100円でしかも黒字経営らしい」という話をよくした。いつか取材 にいってみたいと思いながらチャンスを逃した。たまたま東京新聞が8月22日の日曜版で「復権するか路面電車」という特集を組んでいて、全国の実態が大雑 把ににつかめた。

 一時期といっても戦争前のことだが、日本には65の都市に82の路面電車が走っていた。いまではたった19都市20社に減っている。4分の1である。

 ●北野天満宮詣でのため生まれた日本初の路面電車
 日本に初めて路面電車が登場したのは京都である。1895年だから日清戦争の終戦の年である。北野天満宮詣でのための列車で、現在の堀川通りの堀の東側の細い路地を走っていた。

 京都ではこの路面電車を走らせるために琵琶湖疎水の京都川の出口の蹴上げに日本最初の発電所をつくった。日本の電気の始まりは路面電車を走らせるためにあったという話は面白い。このとき関西電力などという会社はない。

 話はそれるが、戦前からある多くの電鉄会社は自前の発電所を持っていたのである。それらが分社化して電力 会社として独立し、やがて戦前の業界統合により巨大な電力会社「日本発送電」が誕生する。戦後の10電力体制は財閥解体で生まれた産物であるから、電力会 社が地域独占できるのは戦争とアメリカによる占領のお陰なのである。

 ●値下げすれば乗客が必ず戻る公共交通
 長崎でなぜ路面電車が100円で採算が合うのだろうかと考えた。きっと乗る人が多いからだろうというのが結論だった。長崎の路面電車は市の形に沿って南 北に長く走る。まず利用可能な人口が多いのだろう。それにしても人口30万人の町で毎日6万に近い人が利用するのだから利用頻度はすこぶる高い。みんなが 乗るから料金値上げの必要がない。安いからみんなが乗る。そんな好循環が続いている。

 長崎の路面電車は、値上げして利用者離れが進み、やがて道路の邪魔者扱いされて撤去された多くの都市の路面電車と対極にある。下の表を参考にしてほしい。

      路面電車 延長Km     運  賃  利用者数
札幌市交通局 8.5  170  23,853
函館市交通局 10.9 200-250 21,214
東京都交通局 荒川線 12.2 160  59,439
東急電鉄 世田谷線 5.0 130 49,226
富山電鉄 富山軌道線 6.4 200 13,000
加越能鉄道 万葉線 7.9 160-450 3,171
福井鉄道 福武線 3.3 180 4,800
豊橋電鉄 東田線 5.4 150 8,200
名鉄 岐阜市内線等 23.9 160 15,328
京阪電鉄 石山線等 21.6 160- 46,044
京福電鉄 嵐山線  11.0 180-230 46,622
阪堺電気軌道  18.7 200 30,267
岡山電気軌道 東山線 4.7 140 11,500
広島電鉄 市内線  18.8 150 118,000
土佐電鉄 市内線など 25.3 180 21,428
伊予鉄 松山市内線 6.9 170 22,000
西鉄 北九州線 5.1 160-210 20,500
長崎電気軌道 11.5 100 58,000
熊本市交通局 12.1 130-200 29,476
鹿児島市交通局 13.1 160 28,677

 やはり、一番安いのが長崎電気軌道の100円だった。次は東急電鉄の世田谷線の130円だが、これは短い。3番目は広島電鉄の140円。1日の利用者を みれば、1位広島電鉄で、2位は東京都交通局、3番目が長崎。東京都内は人口が圧倒的に多いから除外するとして、料金と利用者の関係は一目瞭然であろう。

 長崎では全国の廃止路線でいらなくなった電車を走らせていた時期があるため、長崎の路面電車が安いのは「中古電車だからだ」と揶揄する人もいないではない。そんな人は一度、長崎を訪ねるといい。最新鋭の電車も数多く走っている。

 広島電鉄は、熊本に次いで今年6月からドイツ製で超低床式のバリアフリー車を一部で導入するなど設備に対する意識も高い。

 もちろんこうした公共交通機関に対する自治体の補助がないとはいわない。公共交通機関を安くするには、多くの乗客が必要で、逆に安くすれば乗客は集まる。ただそれだけのことである。

 つい最近の話だが、7月から西日本鉄道が福岡市の中心部でバス料金を180円から100円に値下げした。 とたんに乗客が7割近く増えた。1日平均5万人が利用しているという。西鉄は「乗客が8割増えないと収入減になる」といっているそうだが、筆者はまだまだ 乗客は増えると思う。

 同社がバスの中で実施したアンケートでは「これまでまったくバスを使っていなかった人が36%もいた」と いうから非常に興味ある実験だ。宣伝や広告でいくら「公共交通機関を利用しよう」とさけんでも乗客の減少に歯止めがかからなかったものが「100円玉」商 売に切り替えたとたんに7割も乗客が増えるものなのだ。

 萬晩報はいったん廃止した路線電車を無理に復活させよといっているのではない。バスでも電車でも、タクシーでも経営の要諦は「価格を下げることにあり」といいたかっただけのことである。


1999年08月26日(木)萬晩報主宰 伴 武澄

 【長崎の市電はサービスも十分】長崎市に住む浦井と申します。長崎市の路面 電車は、長崎電気軌道社の地道な努力により100円という低運賃が維持されています。確かに、全国の廃止路線の路面電車を譲り受けていた時期もありました が、新造車(低床式)も導入されており、旅客サービスも十分に行った上での100円です。ですが、長崎は道路が非常に混み合い、また職場に駐車場がない会 社が多く、結果多くの人が通勤の足として電車・バスを使っており、会社側もそれを推奨しています。これが集客の最大の理由であると思われます。また、電 車・バスの一日乗り放題乗車券も550円で販売されており、これは、観光客の方にとても便利だと思います。長崎市内の名所には電車とバスで行くことができ ます。

 以前、北九州市に住んでいましたが、バスの初乗りが170円と高い上、北九州市では、比較的職場の近所に 駐車場を確保することができ、通勤は車を使うことが大半でした。公共交通機関の運賃が安ければそちらを使うのですが。貴方のおっしゃる通り、集客には、運 賃の値下げが一番と思う次第です。(Naohiko Urai)


 【勉強会で会員に紹介したい】沖 縄で路面電車友の会を組織してワイワイやっている高江洲と申します。来月、長崎へ行く予定がありましたので、非常に楽しくうきうきしながら読んでました。 電車については、いろんな観点から考えさせられる事があります。沖縄は交通行政が立ち遅れてまして、戦争のドサクサで鉄道は消滅、1マイルの国際通り (行った事あります?)の交通量はなんと1日二万台、バスが約2千台、タクシーはその約三倍程度・・レンタカーも増加の一途・・。

 ピーク時には渋滞の通りを、数秒置きにバスが黒い排気ガスを吐いて行きます。客待ちタクシーはエンジンを 止めず、クーラーを入れた状態で違法駐車で何十台も道を占拠してます。車中心の街になってしまいました。古き良き、正しかった時代・・電車の復興はそれを 象徴する感じがします。良いレポート、有難うございました。今度の勉強会で会員へ紹介したいと思います。(仮称)沖縄路面電車友の会 高江洲よしみ


 【市内の公共交通で乗り換えも可能に】こ んにちは。いつも興味深く拝読しています。さて。[萬晩報はいったん廃止した路線電車を無理に復活させよといっているのではない。バスでも電車でも、タク シーでも経営の要諦は「価格を下げることにあり」といいたかっただけのことである]とのご意見、まったくもって同感です。さらにバスに対する要望として は、「トランスファー・チケット」を発行して欲しい、ということです。

 以前、カナダに滞在していたとき、市内を縦横無尽に走るバスにも驚きましたが、市内一律料金だったことに も驚きました。どこまで行っても一定料金。乗り換えるときは、「Transfer ticket,please.」これで済むのですからね。素晴らしいシステムだと思いました。

ただ、これは単一のバス会社だからなせるものなのかもしれません。日本(特に都市部)のように、複数のバス会社が運行している地域では難しいかもしれませんね。「バス共通カード」でも紆余曲折があったようですし。

 また、小型バスの運行も注目を浴びていますよね。東急トランセや、東京都武蔵野市のムーバス。ムーバスも 確か一律100円の料金システムで、利用者も増加しているようです。料金を下げて利用者が増加、という好循環は、京王電鉄にも当てはまりませんか。井の頭 線では確か、一旦値上げしたものの、再度値下げしたような記憶があります。(N.Tanaka)


 【ヨーロッパの市電は動く芸術】興味深い読ませていただきました。子供の時、京都の市電が廃止されたとき、烏丸車庫でその様子を見ていたことが思い出されました。ウイーン等のヨーロッパは、市電を大事にしてますね。市電は、動く町の芸術だと思うのですが(中野 有)
 【長崎が記事になるのはうれしい】8・ 26の路面電車の記事読みました。夏の時期に原爆関係以外で、長崎のことがのるのは、うれしいです。路面電車の件ですが、予想ですが。安い原因の一つとし て、観光面での役割が多いと思います。平和関係の見学地の近くを走り、観光地までの交通機関としても、電車が一番。一日乗車券(一定料金を払えば、その日 一日は、何回も乗車自由)制度を作って、観光客、修学旅行生は、それを利用してます。料金については、たぶん、長崎市の観光課の助成があると思います。

 長崎市の者としては、車と路面電車の衝突事故をよく見かけます。あってよいものだけではありませんね。時々電車なかったら、車が走りやすいのにと思うこともしばしばです。(わたなべ きくこ)


 【特筆すべきは地方の私鉄の黒字経営】拝啓、いつも「萬晩報」を配信して頂き有り難うございます。
 今回の長崎県の路面電車の件について、楽しく拝読させて頂きました。基本的には筆者のおっしゃる通りですが、黒字の要因は100円均一であると言う箇所 について、若干異議が有りますので筆を取らせて頂きました。なお、若干記憶違いが有るやも知れない事を、予めお断り致します。

 長崎県の場合、長崎電気軌道という民間会社が経営をしています。いまでこそ黒字経営ですが、今から20年 (?)程前に会社の経営危機が表面化しました。この当時は電車とバスの兼営でしたが赤字経営が続き、最終的に電車の運行を守るべくバス部門を切り離す大な たを振るいました。そして労使紛争を乗り切り、今の電車専業に落ち着きました。この決断があるからこそ、今の黒字経営が成り立っていると思います。

 もう一つは、警察の協力により、軌道内への車の乗り入れが禁止されている事です。これにより、渋滞に巻き 込まれる事は無く、定時運転率が非常に高い事で、乗客が増えていると言えると思います。もちろん軌道内への車の乗り入れは、市民の理解が無ければ絶対に実 現不可能です。路面電車の廃止された理由の多くが道路渋滞の解消で有る事を考えると、恐らく電車を守ろうという意識が高かった事が背景に有るはず思いま す。同じく黒字経営の広島電鉄でも、広島市内の軌道線内は車の乗り入れが禁止されています。因みに大都会で生き残っている路面電車のほとんどは専用軌道或 いは、線路に車が乗り入れ出来ない状態にしている所が殆どです。

 従って、料金設定(=企業努力)、定時運転の確保、利用者の意識、これらが連動して初めて利用者が増えるので、単に料金を安くするだけでは駄目では無いかと考えます。

 なお、長崎電気軌道、広島電鉄共に地方の中小私鉄であり、何らかの自治体からの補助が有るにせよ、大都市 圏に比べて遙かに不利な条件下で有るにも係わらず黒字経営が続いている事は特筆に値すると言えます。一部の会社の様に、"利用者減→値上げ"を繰り返して いる企業や公営交通に少しは見習って頂きたいと思います。次回の「萬晩報」を心待ちにしております。(江戸川区・細木 秀一)


 【長崎は自転車の違法駐輪もない】4 年前まで仕事で長崎に住んでおりました。長崎では「電車」というと、路面電車のことを指します。ちなみにJRは「汽車」。それだけ市民の生活に根付いてい るということですが、理由の一つに長崎市では自転車を利用する人がほとんどいないことがあると思います。他都市では、駅前や銀行、スーパーの周辺という と、おびただしい数の自転車が留め置かれ、歩行者が通り抜けるのに一苦労、といった状態が当たり前になっていますが、長崎市内でそういう光景に遭遇するこ とはまずありません。どこへ行っても急な坂道ばかりで、自転車は日常の足になりえないのです。自転車を購入しようとしても、自転車屋を見つけることさえ困 難なほどです。こうした地形上の事情と低運賃であることから、電車が日常的に利用され、結果、鉄道会社は黒字経営で100円運賃を維持できると好循環が続 いているわけです。つらつらと感想とは言えない、思いつくままのことを書き連ねました。失礼しました。(本村 亜希子)
 【路面電車の弱点は路線変更が難しい点】はじめまして。函館に住んでいるものですが、この街においては、市電の利用が年々減少し、大変な赤字経営となっています。利用者は車を所有していない、老人と子供くらいなものです。

原因は、値上げによる客離れではなく、路線に問題があります。路面電車は人口が減少している旧市街地を走っ ているため、人口が増加している新市街地に住んでいる多数の住人が利用できないという面があります。人口が多く、交通量が多いところを走れば、値段にあま り左右されずに利用はされるように思います。現在、路面電車が走っている道路は車の交通量も少なく利用が少ないのもあたりまえのような気がします。バスの ように需要の多いところに路線を簡単に変更できない点が路面電車の最大の弱点ではないでしょうか。(函館の市民)


 【香川では100円以内でうどんが食べられる】初めまして。京都に住む別府と申します。いつも「萬晩報」を興味深く拝見しております。さて「萬晩報」990825号の中で、ちょっと気になる所が有りましたのでメールを差し上げた次第です。同じようなメールが届いていると思いますが、お許し下さい。

 京都の最初の路線は、1895(明治28)年1月31日、京都電気鉄道株式会社により京都駅前~伏見京橋 間に運転されたのが日本で最初の電車です。これは議論の余地はなかったと思います。北野線はゲージの狭い路線として市電の中で最後まで残った区間ではあり ますが、最初に出来たものではありません。また、電車を走らせるために発電所を作ったという訳ではなく、当初は余剰電力の消費先として路面電車が計画され たはずです。北野線の最初の区間が開業したのは1895(明治28)年9月の「堀川中立売~堀川下立売」間でして、北野まで延びたのは1912(明治 45)年の5月とだいぶ遅いです。

 それと、長崎電気軌道が健闘しているのには100円の運賃はもちろん大きな要因でしょうが、警察と一体に なった軌道敷への自動車進入全面禁止などの施策を取り、市内交通の中で一番定時制が確保されているという点も見逃してはいけないと思います。そのため、電 車右折車に走路妨害される、といった光景はほとんど見られません。

 他都市は、自動車の交通量が増えると軌道敷への進入を認め、結果道路渋滞の影響を路面電車も大きく受け、 時間が掛かる事から利用者が減り、廃止へと繋がったケースが多いです。自動車進入全面禁止については、広島も徹底的にやっていますよね。話に聞いただけで すが、かなり徹底的に取り締まりを行ったそうです。広島、長崎共に公営ではない所が面白いですね。

 ちなみに、これはまったくの余談ですが、香川では100円以内でうどんを食べられう所がたくさんありま す。私が食べた中で一番安かったのは70円でした。長くなってしまい申し訳有りません。今後も「萬晩報」が届くのを楽しみしておりますので、無理せず頑 張って下さい。(別府護)


 【連日の独創的なアイデアはどこから】前 略,はじめまして。小生は、阿蘇で火山を研究している大学院生です。いつも、「萬晩報」を楽しく拝見させていただいております。さて、特に今回のコラムの 内容についての感想ではないのですが、このところ連日のように「萬晩報」が届き、しかも内容のレベルが落ちておらず、取り上げている話題やその観点が独創 的な点が多いので、感嘆しております。いったい、どうしたらそれだけのアイデアが次々と涌いてくるのかをお尋ねしたいくらいです。ともすると、世の中の事 に疎くなりがちな研究生活を送っておりますので、「萬晩報」は良い知的刺激になります.これからもますますご活躍されますことを期待しております。( Makoto Nakaboh)
 【ハワイのバスはどこまで行っても1ドル50セント】萬 晩報をいつも拝見しております。先日ハワイに行きホノルルの市バスに何度か乗ってみました。料金は一律大人$1、子供$0.5で、島の端から端まで乗って も均一とのことでした。オアフ島の北海岸と南側を結ぶ路線は一周4時間だそうです。利用客が多く、私が乗った区間は繁華な地区であったとは思いますが、常 に満席でした。便数も多く十分当てになります。ハワイは鉄道がないので、公共交通はバスに頼らざるを得ない面もあるのでしょうが。

私の住むシカゴもニューヨークほどではありませんが、アメリカでは公共交通機関が発達している方です。市バ ス、地下鉄、エル(高架鉄道)は共通の乗車券(プリペイドカード)で、一律料金の$1.50です。オヘア空港からダウンタウンまで地下鉄で45分ほど掛か りますが、やっぱりそれでも$1.50です。均一料金というのは発券、改札等のコストを省く上で、メリットが大きいのではないかという気がします。万事シ ンプルなアメリカ式も、時には日本でも検討されてもよいのではないでしょうか。たまに日本に帰ると、近距離移動の電車賃の高さに驚かされます。(藪 直人  シカゴ在住)


1999年08月23日(月)萬晩報主宰 伴 武澄

 武蔵野市は10月から市内で建て替え中の住宅・都市整備公団の桜堤団地に生ごみ処理機13台を設置し、団地で出る生ごみのたい肥化を進めるという報道に接した。

 朝日新聞の東京都内版によると、この団地には2300世帯が住み、第一期の建て替え住宅に入居するのは600世帯。生ごみをすべて処理すると年間60トン近くなる。生ごみ処理機は公団が購入して、武蔵野市に無償で譲渡され、管理・運営するそうだ。

 武蔵野市の発想はなかなかのものだが、萬晩報はさらに考えた。

 これくらいの規模の団地ともなれば、1世帯4人が住むと仮定して人口は1万人程度になる。併せて自家発電装置も設置すればさらに面白い実験になると思う。

 1世帯3キロワットの発電能力として2300世帯だと7000キロワットあれば、ほぼ全世帯の電力消費を賄える。1万キロワットで発電して余剰分を東京電力に売却すればいい。

 発電は当然ながら、天然ガスを利用したコージェネレーションを導入し、予熱は団地内の給湯に利用する。

 2300世帯も住んでいれば、電力関連に勤めていた退職者もいるだろう。そうした人々を雇用すれば「団地内地域振興」にもなる。

 だれがお金を出すのか。団地内で出資を募ればいい。1世帯10万円の出資で2億3000万円を超える。後は借金すればいい。団地内に発電装置を設置すれば土地代はいらないから、10億円もあれば1万キロワット程度の発電装置は購入できるのではないだろうか。

 コストが高いとされる風力だって、700キロワットの発電機1基が約1億円で設置できるのだから、1万キロワットのコージェネが10億円で設置できないはずはない。

 乱暴な計算だが、1世帯当たりの年間の電気代と給湯費を25万円とすると、4、5年で減価償却が終わり、それ以降、この団地では電気代と給湯費は半分になる計算だ。

 ついでにNTTのOBで地域通信会社をつくって団地内の電話とインターネットを無料にするアイデアはどうだろう。

 問題は公団がそこまでコーディネートしてくれるかどうかだ。いまの住宅・都市整備公団にはそうした能力はないだろうが、分譲事業を辞めることになった公団の次の仕事としてぴったりではないだろうか。

 だめならベンチャーの登場を待つしかない。

 萬晩報の真夏の夜の夢である。可能性があるのかないのか、読者の中に専門家がいたら教えてほしい。


1999年08月22日(日)マレーシア国民大学 Mikiko BAN

 17日にトルコで起きた大地震の惨事の報道に接し、多くの人が1995年1月17日の阪神大震災を思い出したことと思う。

 私も当時クアラルンプールで、このニュースを知り、大きな衝撃を受けた。しかし、今日はその恐ろしさ、悲惨さの話ではなく、あの時、南の国々から日本に対し寄せられた暖かいこころについて、是非みなさんにお伝えしたい。

 事件から何日たった日だったかは覚えていないが、あるパーティーで国立美術舘舘長のワイラ女史に会った。

 私はいつものように、「How are you?]と在り来たりの挨拶をした。すると、どうだろう、相手からは意外な返事が返ってきたのだ。

 「落ち込んでいるわ」

あまりにも浮かない顔をされていたので、 思わず、

 「えっ、お体のお具合でも悪いんですか。」と聞き返した。
 「そうじゃないの、神戸の地震・・・」

私はそれでもピンと来ず、重ねて聞いた。

 「えっ、神戸に誰かお知り合いの方でもいらっしゃるんですか」
 「そうじゃないけど、とても悲しいじゃない・・・」

 私はあの時ほど自分の愚かさを感じたことはない。阪神の震災に対し、この日本人以上に悲しみと同情を寄せておられたワイラ女史を前に、私はなんと浅はかなことを一度ならず、二度も言ってしまったのだろう。今考えても、冷や汗が出る思いである。

 私の驚きはこの一件に留まらなかった。事件から4日後の日付けで教育省傘下の教育管理研究所所長イブラヒ ム・アフマッド・バジュニッド氏から一通の手紙が、当時私が勤務していた国際交流基金クアラルンプール事務所に届いた。ほかの用件は全くなく、純粋に日本 で起きた大惨事に対し、お見舞いの気持ちを伝えるものであった。

 1月23日にマレーシア戦略国際問題研究所の会合(同センター日本研究所に対する経団連の助成調印式)があったが、ここでもステファン・レオン所長の呼びかけで200人あまりの出席者が数分間の黙とうを捧げた。

 マレーシア人の暖かいこころと日本への親しみを示すこの出来事は、あれ以来私の心に強く焼き付いている。

 今年3月、4月、マレーシアの一部地区で豚を媒介とする日本脳炎が猛威を振るった。その事件について報告した「イスラーム国で起きた日本脳炎と豚騒動」 のなかで、私は、「救救猪農、快快行動!」という華字紙の呼びかけが胸を打った、と書いた。新聞は事件の悲惨さを大袈裟に報道したり、当局の不手際を書き 立てるのではなく、ひたすら「みんなで救おう!」というキャンペーンを張った。

 大口の寄付はその贈呈式の模様が大きな写真で報告され、30リンギット(900円)、50リンギット(1500円)と集まってくる貧者の一灯は、寄付者の名前を紙面に記載する形で報告された。連日、紙面からは、熱いものが伝わってきた。

 4月18日の南洋商報は一面を割いて、同社に集まった寄付金が300万リンギット(9千万円)を超えたこ とに対する謝辞を発表し、4月30日のニュー・ストレーツ・タイムズは、マレーシア華人協会に集まった寄付金が900万リンギット(2億7千万円)にの ぼったと報告した。

 私はこの一件を通じ、この社会に漂う、Caring and Sharing Spirit を改めて強く感じたのだった。

 話を阪神大震災に戻そう。大分後になって、ふと目にした記事などで知った事だが、あの時、「暖かいこころ」を示したのは、マレーシアだけではなかった。

 フィリピンでは、「震災で苦しむ人たちを助けよう」という活動が次々と始まったという。国軍の救援チームの待機(確か、アルジェリアでもそのような話があったと聞く)、

 中国系大物実業家による自社のミネラル・ウオター5万本の提供、そして「愛の1ペソ(1ペソは当時4円)募金」等など。

 普段私達にあまり馴染みのないチュニジアでも、こころ暖まるエピソードがあったという。10トンの地中海マグロの缶詰が被災地に送られる話が持ち上がった時、駐日大使の経験を有する親日派の外務大臣から缶詰よりマグロの刺し身を届けたいとの提案があったそうだ。

 被災地での冷凍施設の問題などがあったため、この案は実現せず、結局は当初案通り、マグロの缶詰がチュニジアの軍用機で関西空港に運ばれたという。

 これらの話を紹介した方々が感じたことは、私も含め、普段は援助する側が、援助を受ける側にまわった驚きと、普段は援助される側にある人々が証明した彼らのこころの豊かさであった。

 今、日本はトルコに対し何が出来るだろうか。日本は4年半前の経験を生かして、迅速に対応しているのだろ うか。日本の新聞を購読していないので詳しいことはわからないが、今こそ、世界で有数の親日国トルコに対し、そして世界に対し、日本人として「ご恩返し」 が出来る時ではないだろうか。

 家族で考えていただきたい。


 Mikiko Talks on Malaysia http://www.02.246.ne.jp/~kiara/ より転載しました。

 BANさんへメールはbmikiko@tm.net.my




1999年08月19日(木)萬晩報主宰 伴 武澄

 きょうは故江守喜久子さんのことを書きたい。亡くなってから21年も経っているが、日本とインドをつなぐ 架け橋を担った人だった。戦前から表参道に住んでいた。表参道といっても当時は、ファッションの町ではない。青山に陸軍の練兵場があったぐらいだから、牧 歌的な土地柄だったはずだ。

 1943年、インドのチャンドラ・ボースがシンガポールに自由インド仮政府を樹立し、インド国民軍の訓練を開始した。将来の幹部候補生として45人のインド青年が陸軍士官学校と陸軍航空士官学校に送り込まれた。

 45人のインド人留学生にとって、1945年8月15日の日本の敗戦は大きな戸惑いだった。目標を失っただけではない。3日後の8月18日には尊敬してやまないチャンドラボースの訃報も重なった。全員が死刑になるという風説も広がった。

 自由インド仮政府は連合国側に正式に宣戦布告をしていた。日本は無条件降伏しても自由インド仮政府はまだ降伏していなかった。「敵国」の日本占領が始まると、45人のインド人留学生は微妙な立場に立たされた。

 出身母体の自由インド仮政府の屋台骨が揺らぎ、頼っていた日本という国も当事者能力を失っていた。その時、留学生の生活の面倒を見、心の支えとなったのが江守喜久子さんだった。

 江守さんとインド人留学生との交流は、敗戦の前の年に「陸軍の偉い人がきて、インドから来た青年たちに紅茶をごちそうしてやってくれ」と頼まれたのが縁だった。

 スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー(事務局長・林正夫氏)が刊行した「ネタジと日本人」に手記を寄 せた江守喜久子さんは「彼らは何れも印度の独立と祖国愛に燃えていたのですが、日本の敗戦とともに、その夢も破れ、連合軍の日本占領によって罪もないこれ らの留学生たちが銃殺刑に処せられるという噂が拡がりました」と書いた。

 江守さんは茫然自失する敗戦間もない日本にあって、インド人留学生の嘆願運動に奔走するかたわら、彼らを 家の近くのアパートに収容して世話をした。当時の食料事情からすれば、自分の家族が生きることすら困難だった。そんな時代に16歳から23歳の異国の青年 たちに食べさせることは並大抵ではなかったはずだ。

 やがてインド人留学生たちが帰国する日が来た。11月3日である。帰国といってもインド国民軍の幹部候補 生である。戦争捕虜並みの扱いで、まずマニラに移送されて、イギリス軍に引き渡され、その後は香港のスタンレー刑務所に収容され、年が開けた1946年1 月さらにインドのマドラスの収容所に転送され、2月に晴れて開放された。

 彼らが日本を離れるにあたって江守さんの懇願したのはチャンドラ・ボースの遺骨の供養だった。

「おばさん、ネタージは僕たちの希望と光でした。どかネタージの供養をつづけてやって下さい。おねがいです」

 ネタージというのは「指導者」とかいう意味であり、チャンドラ・ボースへの尊称である。ちなみにマハト マ・ガンディーの「マハトマ」は「偉大な魂」という意味。インド独立運動でこのような尊称が与えられたのはボースとガンディーだけだ。いまでもインドでは ネタージといえば、チャンドラ・ボースのことである。

 以来、ボースの慰霊祭は毎年、遺骨が眠る杉並区の蓮光寺で営々と続いている。江守喜久子さん亡き後は娘さんの松島和子さんが母親に代わって日本とインドとの架け橋役を担っている。

 ボースの遺骨返還運動はスバス・チャンドラ・ボース・アカデミーの手で細々と続いている。しかし関係者は すべて高齢である。事務局長の林正夫さんは86歳である。筆者は先人たちが築いた日本とインドとの信頼関係をこのまま風化させてはならないと考えている。 なんとか次の世代が引き継がなければならない。

 きのうはスバス・チャンドラ・ボースの45回目の命日だった。蓮光寺でネタージの慰霊祭があり、80人ほどの参拝者があり、中には駐日インド大使の顔もあった。

 「昨年はネタージ生誕100周年でニューデリーの国会議事堂でネタージの銅像の除幕式がありました。しか しインドではまだ、ネタージが死んでいないという伝説もあり、遺骨を迎える雰囲気ではありません。時が熟するまで慰霊祭を続けていただけるようお願いしま す」と挨拶した。


1998年08月26日 新宿・中村屋がかくまったもう一人のボース 伴 武澄
1998年08月15日 スバス・チャンドラ・ボースと遺骨返還 林 正夫
1999年08月15日(日)萬晩報主宰 伴 武澄

 ここ数カ月から日本人に伝えなければならないと思っている事実があった。マレーシアに滞在する姉から知ら されていたのだが、マラッカにある国立の独立宣言記念館に展示してある「Japanese Occupation in Malaysia 1941-1945」という文書である。

 筆者は3月その地を訪れて、マレーシアという国の日本に対する基本姿勢に表現しがたい熱いものを感じた。 観光でマラッカを訪れた人は多いと思うが、この文書を目にした人はまだ少ないと思う。記念館の館員にこの文書の写しを求めたが「そんなものない」というの が答だった。そっけないといえばそっけない。日本の博物館のように高価な目録やらおみやげの派手なコーナーはない。

 幸い、姉がその文書を書き写して、先日ホームページに原文を掲載した。すでにご覧になった読者もいるかも知れない。

 まだの方はMikiko Talks on Malaysiaで読まれたい。

 ●列強のほとんどが足跡を残したマラッカ
 マラッカはマレーシアの独立運動の発祥地である。ポルトガル、オランダ、中国、イギリス、そして日本。この町にはアジアを支配した国々のほとんどの足跡がある。明の時代にやってきた中国人は土着化し、イギリス人は2度やってきた。

 イギリスはナポレオン戦争でオランダが占領されたどさくさ時から、オランダ領マラッカを事実上支配した。 戦後の1825年、英蘭による条約で東南アジアを2国で分割統治する約束をした。ジャワにあった英領の植民地と引き替えにマラヤ半島の要衝を手中に収め た。ボルネオ島のど真ん中に国境が引かれたのもその時である。

 イギリスはペナンの開発に着手し、シンガポールという新たな半島の拠点もあり、以降、貿易拠点としてのマラッカはあまり意味があったとはいえない。だが、その後のスズ鉱山経営という観点からみれば、クアラルンプールへの出入り口を抑えた経済効果は小さくなかった。

 ●4年後に戻ったイギリスが感じた違うマラヤ
 マラヤ人にとってイギリスによる百数十年の支配が植民地のすべてだった。そこへ1941年疾風のごとく「北からの黄色い支配者」がやってきて、4年後には再びイギリスが戻ってきた。

 マラヤ人にとっての第二次世界大戦はマレー半島を舞台にした日英の衝突だった。どちらもがマレー半島の支配者だった。違うのは日本が統治した時間が圧倒的に短かったため、破壊のみで建設する時間がなかったことだ。

 日本軍政が終了した後、イギリスもまた軍政を敷いた。合点がいかないのは、人様の領土を踏みにじった歴史 はどちらも誉められたものではないはずなのに、戦後は日本が悪でイギリスが善となった。一つだけ言えるのは、日本がマレー半島を手にするのに血が流れ、イ ギリスがそれを取り戻すのに血を流す必要がなかったことだ。太平洋で日本がアメリカに敗れたため、棚からぼた餅で元の領土が戻ってきたのだ。

 イギリスにとっての不幸は、マラヤ人が4年前の従順なマラヤ人でなくなっていたことだった。チャーチル首 相がヤルタ会談で「インドはイギリスのものである」と断言したように、シンガポールを含めたマレー半島の海峡植民地は再びイギリスに富をもたらす土地とな るはずであった。

 だが「invinsible=絶対不敗」だったイギリスが日本に敗れる様を見た後のマラヤ人はもはや元と同じような目でイギリス人を仰ぎ見ることはなかった。

 筆者は、以前から「国家機能」のひとつに「歴史編纂」という大事業があると考えてきた。これまでアジアのほとんどの国は西洋の歴史観ををそのまま導入して自らの歴史編纂を怠ってきたのではないかという問題意識を持ってきた。

 どうやら戦後50年以上を経て、マレーシアで新しい歴史観が芽生えているようだ。マラッカにある国立独立宣言記念館の文書を翻訳して以下に掲載する。

 マレーシアにおける日本占領 1941-1945

 1941年12月8日、第二次世界大戦で日本軍がコタバルに上陸作戦を敢行した時、マラヤもまた影響を受 けたが、イギリス軍が残したものは跡形もなく破壊された。戦艦プリンス・オブ・ウェールズとリパルズが撃沈されたことは強さを誇ったイギリスの軍紀に大き な痛手を与えました。

 1942年2月15日、パーシバル将軍に率いられたイギリスが正式に日本軍に降伏し、アジアの国による新たな植民地化が始まりました。日本軍の占領によってマラヤは社会的、経済的な被害を受けましたが、政治的に言えばマラヤ人々にとって覚醒ともいえるものでした。

 マラヤ人はイギリスは無敵の存在と考えてましたが、そうではないことが分かったのです。言い換えれば、日本の成功が西洋列強からの独立の精神を呼び覚ましたということもできます。

(略)

 日本の占領が多くの人々に経済的苦しみを与えたことも事実ですが、彼らの登場と成功によってアジア人に自らの自覚が生まれました。アジア人たちは西洋人に対する自信を取り戻し、偶像化することも少なくなりました。

 日本の力が増し、日本の影響力が強まることで、マラヤ人の独立に向けた闘争は早められましたのです

 1946年2月22日、クアラルンプールのビクトリア協会(?)での降伏の儀式で、板垣将軍はマラヤの司令官となったマサヴィー中将に刀を捧げ、ほかの幹部たちも続きました。

 日本による軍政が経済的社会的な苦難を伴ったことは確かですが、その軍政がある意味ではマラヤ人に劇的な 政治変化をもたらしました。日本がたった70日という短い期間でイギリスを打ち負かしたことを見たマラヤの民族主義者たちにイギリス植民地主義は無敵でな いことを植え付けました。

 日本は負けましたが、日本の占領はマラヤ独立闘争を続ける火種を植え付けたのです。(国立マラッカ独立宣言記念館)

1999年08月09日(月)Silicon Valley 八木 博

 小沢征爾の、最近の活動はいろいろありますが、日本では1992から始まったサイトウキネンフェスティバル松本が定着しています。今年も8/29から9/12まで行われます。 詳しくはhttp://www.icon.pref.nagano.jp/usr/aoba-hotel/saito.htmをご覧ください。今年の目玉オペラは、ベルリオーズの「ファウストの劫罰」です。

 さて、話は変わりますが私が、小沢征爾という人を見ていて思うのは、縁を大切にしているということと、重要なことに集中しているということです。これは、すべて行動でしか証明できないことであり、それを実行し、持続するのは容易なことではありません。

 ●縁を大切にすること
 小沢征爾の、初めの縁というのは指揮者コンクールを通して、S.ミュンシュやカラヤンなどの人々との出会いです。また、バーンスタインのところにも顔を 出します。そこで小沢征爾は、すべてを学ぶ姿勢を取ります。もちろん才能があり若かったので、それぞれの人は一生懸命教えてくれるわけです。かれのその才 能は学生時代、斎藤秀雄から開花されたものなわけです。

 そのきっかけを利用するのは、本人であるのは当然ですが、それをどのように生かすか、あるいはそのきっか けで作られたものを、どのように維持するのか、と言うところに彼の人間性と、そして国際性があるように思います。一つは、縁を大切にすること、そして次は その縁によってきた人々とさらに、縁を深めて行くことです。

 その例が、斎藤秀雄の縁をもとに、その門下生を集めて編成されたサイトウキネンオーケストラです。サイトウキネンのメンバーは日本在住の人だけではなく、世界各地に住むメンバーが多く入っています。かれの行動様式の典型的なパターンだと思います。

 ●国際的な視野を持つこと
 小沢征爾は、才能の豊かさゆえに国際的な視野を持たざるを得なくなったと思います。理由は日本の中には、お手本が無いからです。その時に頼らなければな らないのは、自分自身であり、そして国際的に、人間の考えることは、ほぼ同じであるということだと思います。後者は、成長したがっている人に対し、経験 や、知識を持っている人達は、支援してくれるということではないかと思います。

 それは、世界の標準かどうかは解りません。何故なら、限られた指揮者のポストを沢山の人が争う時に、経験 や知識を教えることは、ライバルに武器を与えると考えることも可能だからです。しかし、彼の接し方か、人間性かをもとにすると、それぞれの巨人達は、小沢 征爾に実に沢山のことを教えてくれたわけです。(「ボクの音楽武者修業」 新潮文庫)

 ●東洋的なものの持つ価値
 小沢征爾の活躍を見ていると、縁を大切にするという点が非常に明確なのと、みずから働きかけて道を開くという点が、飛びぬけていると思います。行動から始めてそれをきっかけに縁を作る。それを維持して行くことで、限りなく人生を豊かにしている。

 それが、結果的には社会や、後から続く人達も育てることにつながっている、ということになります。その事 は、実は東洋の思想の中核になるところではないかと思っているのですが、まさしく、縁を核に人々とつながってゆくことそのものです。そのきっかけになる、 他の人への最初の働きかけをする行動は、とても重要ですし、日本語の中にも、蛮勇を振るってとか、乾坤一擲(けんこんいってき)などという、素晴らしい言 葉となっています。

 これを、所信表明などの美辞麗句でなく、行動原理にした時に、新しいうねりを起こす行動が出てくるのだと思います。そして、小沢征爾は、それを見事にやり遂げたということが出来ると思います。

 ●現在に生かせ、東洋の叡智
 東洋は、現在経済的には苦しい状況にあると思います。しかし、これを乗り越えるのは東洋の叡智ではないかと思います。西洋と同じ事をしていても、資源の 問題や、環境の問題などすでに見えてきたしまった限界は数多くあります。私は、情報通信というのは追いつくべき技術だと思いますが、それ以外は、もっと もっと東洋を生かす形で考えるべきだと思います。

 それにつけても、縁ということで世のは動いている部分が沢山あると思います。この一つの使い方だけで、人々の行動様式が大きく変わるのではないかと、考えさせられます。

 小沢征爾の行動を見ていて、そのようにおもいました。(やぎ・ひろし)

 本情報につきまして、皆様からのご意見ご感想をお待ちしております。  八木さんにメールhyagi@infosnvl.com


1999年08月04日(水)マレーシア国民大学 BAN Mikiko

 マレーシアの日本語学習者にとって、年に2回「力試し」の機会がある。「夏」の「日本語弁論大会」と「冬」の「日本語能力試験」である。

 日本語能力試験は毎年12月の第1日曜日に世界各地で一斉に実施されるもので、マレーシアでは例年2千人 前後の人が受験している。実施地はクアラルンプール、ペナン、イポーの3か所。1993年の統計では日本国内を除き,世界で8番目に受験者数が多かった。 マレーシアの人口が約2100万人しかないこと、「半」非漢字圏であることを考慮すると、いかに日本語学習熱が高いかが窺える。

 ある年は実施機関のスタッフとして、またある時は受験者の引率者として、何度も試験会場につめたことがあるが、受験者たちの緊張した姿を見るにつけ、こんなにも多くの老若男女が日本語を勉強しているのかと感動したものだ。

 日本語弁論大会の方は、幾多の変遷を経て、今年で第15回を迎える。国際交流基金が中心となり、クアラルンプール日本人会、マレーシア日本人商工会議所、日本大使館等の協力により実施されている。

 1995年のマレーシア日本語弁論大会全国大会は、日本留学予備教育プログラムの学生(当時3つのセンターの在籍者は合わせて700人近く)やクアラルンプール、ペナン及びイポーの地区予選を勝ち抜いてきた者が一堂に会し、日本語の技を競い合った。

 会場のコンコルド・ホテルには公・民を問わずあらゆる日本語教育機関の関係者や応援団が大勢集まり、盛況を極めた。大会が大きくなりすぎてか、現在では「予備教育課程の部」と「一般の部」に分かれて別の日に実施されている。

 参加者たちの日本語能力はこれまで年々高くなってきた。また、その内容も胸を打つものが多く、日本人にとっては、マレーシア人の考え方を知る良い機会で もある。過去の大会で印象に残った作品のタイトルの一例をあげると「夢」「虎のような強い意志をもって!」「日本人の忘れ物」「文字」「愛が心に与える 力」「私が見た日本の国際化」「それでも人生はすばらしいですね」など。

 マレーシアの青年はきれいごとを並べるばかりで、社会問題に対する関心や批判精神にかけるとコメントした方もいるが、この複雑な多民族国家の内情を考え ると、私には彼らの竹のような素直さと、物事をポジティブに見る明るさが、すがすがしく感じられるのことの方が多かった。

 そんな中で今も8月になると、思い出すスピーチがある。1992年に私が初めて事務方として経験した日本語弁論大会の優勝作品で「おじいさんと広島」と 題するものだ。拙い日本語で語られた素朴なものだったが、彼女の豊かな表情ととも今も忘れられない。原稿が手元に残っていたので、本人の了解を得て、以下 にご紹介しよう。

 ●おじいさんと広島

 みなさん、こんにちは。私はクアラ・セランゴールから来たジュリア・イスマイルです。今、クアラルンプールのパン・パシフィック・ホテルのけやきと言うレストランで働いています。1990年4月から1991年の2月まで日本の広島女学院高校に1年間留学しました。

 日本に行く1週間前に、私はおじいさんとおばあさんのところへ行きました。

 「おじいさん」
 「なんだ」
 「私は外国へ留学しますよ」
 「そりゃ、いいね。で、どこの国だね」
 「日本です」
 「それはいけない。だめだ。日本は悪い国だ。マレーシア人は戦争の時、日本人にひどい目にあわされた。日本軍は北の方から突然せめてきた。みんな林の中 に隠れて生活した。特に可愛い女の子のいる家は、絶対に見つからないように逃げ回った。それでも彼らは見つけ出して悪いことをした」
 「私の妹はお腹に赤ちゃんがいたから、見つかって殺されないように林の中に隠れていた。すぐそばを日本の兵隊の靴音がして、とても怖かったが、息を殺して隠れていた。私の友達は勇敢だったから、ひとりで刀を持って飛び出して、銃で撃たれて死んだんだ」

 「おじいさん、それは昔の話ですよ」と、父が言うと、

 「若い者に何がわかるか!人生は楽しいことばかりじゃない。辛いこともある。私はあの時のことを忘れない。ほかの孫にも絶対に行かせないぞ!」と言いました。

 マレーシアでは年上の人に口答えをしてはいけないので、私は黙って聞いていました。

 「あれは昔のこと。ジュリア、行って来なさい」と言う父の言葉に励まされて、飛行機に乗りました。

 日本に行く前、私は日本の文化について何も知りませんでした。私が知っていたのは、マレーシアのテレビで見た「おしん」と言うドラマの中の日本人でした。日本の食べ物はおにぎりで、服装は着物でした。今も同じだろうと想像していました。

 ホーム・ステイ先の家で初めて食事をした時、「あれっ、おむすびじゃない!」と思いました。その日は鶏肉のスープやいちごなどいろいろな食べ物がテーブ ルの上に並んでいました。ちょうど私の18歳の誕生日で、ホスト・ファミリーはプレゼントを用意して私を迎えてくれました。私は嬉しくて、初対面の時から 涙を見せてしまいました。

 うちから学校まではバスと汽車で一時間半かかります。朝5時に起きて、帰りは7時すぎです。私はこの通学の時間をとても楽しみにしていました。朝はとてもすがすがしく、夜は家々の灯かりがポツポツと汽車の窓から見えます。何とも言えない気分になるほど、美しいのです。

 4月から広島女学院に通いはじめました。みんなが、
「平和公園に行ったことある? まだなら、いっしょに行こうか」と、言いました。

 私は、広島に原爆が落ちたことも知りませんでしたから、もちろん平和公園の意味もわかりませんでした。普通の公園だと思いましたから、
 「いいよ、いつでも行くよ」と答えました。

 5月に初めて原爆資料館、公園と川、そして原爆ドームを見ました。それでも、まだよくわかりませんでした。

 私は海外の人たちに8月6日のことをラジオで伝える国際プロジェクトに参加し、8月6日にまた平和公園に行きました。たくさんのおじいさんやおばあさんが花や折り鶴を持って公園に来ていました。川のそばに立って、ひとりで泣いている人もいました。

 私のところへ一人のおじいさんが来て、
 「どこからきたん」と、尋ねました。

 「マレーシアからです」と言うと、おじいさんは、

 「ごめんなさい」と謝りました。私は何のことだかわかりませんでした。

 夜、灯篭流しを見ているうちに突然たくさんの質問が浮かんできました。

 「私は東京や横浜や北海道ではなくて、どうして広島に来たんだろう。これはどういう意味なのか。この公園で私は何をしたらいいんだろう。ドームの修理や保存にどうしてあんなにたくさんお金が集まるのだろう」

 そして、また突然、答えの手がかりがひらめいたのです。さっき会ったおじいさんは戦争の時、日本がマレーシアにしたことを「ごめんなさい」と言ったんだ。

  私は、灯篭を一つ流しました。その灯篭にはこう書きました。
 「この灯篭はマレーシアに行きます。おじいさん、おばあさん、わかってください。平和公園で私は日本人と一緒にお祈りをしました。私たちの心は一つです」と。

 「2月に私はマレーシアに帰ります。今度はきちんとおじいさんとおばあさんに答えられると思います。今、日本は違います。あれは昔のことです。この写真を見て下さい。広島でもたくさんの人が死にました。赤ちゃんや子供もいます。

 今でも原爆症で死んでいる人もいます。日本人はマレーシア人と同じ気持ちです。私は、他の都市ではなく平和都市広島でホームステイをしたお陰でこのことがわかったような気がします」と心の中でつぶやきました。

 地図をみると、マレーシアと日本はとても近いです。でも、お互いにもっと理解しなければならないことが、まだまだたくさんあります。私は新しい世代のひとりとして、マレーシアと日本の友情のために役立ちたいと思っています。

 私は日本の広島で会った人たちといっしょに学んだことを決して忘れません。どうもありがとうございました。


 ご感想、ご意見は bmikiko@tm.net.myへ。

 ホームページ「Mikiko Talks on Malaysia」http://www.02.246.ne.jp/~kiara/

1999年08月03日(火)九州大学法学部 今里滋

 九州大学法学部の今里滋(いまさと・しげる)です。現在、ニュージーランドはウェリントンにて在外研究ですが、いつも『萬晩報』をたのしく拝読させてい ただいております。さて、8月2日号の「よさこい祭り」の記事に関連し、私が昨年の今頃、西日本新聞に執筆した囲み記事を思い出しましたので、参考までに 送らせていただきます。

 ●「祭り」文化の創造

 いま世界も日本も地球最大のお祭り=ワールドカップに湧いている。フーリガンとかいう馬鹿者共はいるにせよ、世界中の人々が喜怒哀楽もあらわにサッカーに熱中しつつ世界的平和及び一体性の尊さを実感できることの意義は大きい。

 博多の街にも長法被が闊歩している。7月15日の追山へ向け見えない熱が確実にたぎり始めた。博多祇園山 笠は中世から住民が守り通してきた自治と伝統文化があってはじめて成り立つ祭りである。また、逆に、山笠があったからこそ博多の自治と文化は守られてきた といってよい。祭りと自治と文化は密接不可分に結びついてきたのである。

 日本の祭りには博多祇園山笠のように長い歴史をもっているものが多い。しかし、歴史の浅い都市で住民の自 治によって創造されかつ独自の文化と発展しているものもまたれっきとして存在する。その代表格は札幌市の「YOSAKOIソーラン祭り」ではなかろうか。 この祭りは、北海道大学に在学中だった長谷川岳さん(27)が高知で「よさこい祭り」を見て感動、「よさこい祭り」と「ソーラン節」を組み合わせた斬新な 祭りを道内の学生だけの手作りで実現したものだ。

 7年後の今年、全道212市町村の半数を超える市町村と道外10都府県から280チーム、2万9000人 の踊り子が参加、200万人近い観客動員を誇る。大勢の若者がオリジナルのダンスを力の限り青空にぶつける姿は、今の若者がよくぞここまでという意味もこ めて、とても感動的だ。今年からは、学生中心の実行委員会に代わり札幌商工会議所が主体となった組織委員会が運営に当たることとなった。文字どおり全市を 挙げた祭りへ成長したのである。

 そういえば、本家本元の「よさこい祭り」も、1954年に商店街の人々が地域経済の浮揚を願って誕生させ たものであった。それが、70年の大阪万国博覧会を契機に全国に広がり、現在では、29都道府県・57カ所で各地域の文化と融合した新たな「よさこい文 化」が生まれているという。文化は歴史的に継承されるものであるだけでなく、祭りによって創造され進化していくものでもあるのだ。

 昨年8月初め、第11回筑後川フェスティバル福岡大会・水の感謝祭が開催された。約3分の1(約70万 人)の住民が筑後川の水で暮らす福岡都市圏。そこの市民有志が、筑後川の恵みに感謝し自らの義務として水源を守り育てることを宣言したこの「祭り」は「共 生と連携」の文化創造への力強い一歩であった。

 そして、今年の8月初め、この市民有志が中心となって「福岡・水の感謝祭」を開催しようとしている。そこ では感謝の対象は筑後川から「人間が命を長らえ、日々の暮らしを営むにはかけがえのないもの」(『趣意書』より)としての水一般へと拡がっている。水が人 々のもとに届くまでには実に多くの自然の恵みと人々の努力や犠牲が介在している。

 そのことに感謝する心を年に一度の「祭り」というかたちで表現し、思いを共有する人々をつなぎ、そうしてできた感謝の心の輪を大きく広げていこうという市民の手作りの行事。しかも、祭りの少ない福岡市西部にあって福岡を代表する祭りになれば...。実行委員会の夢は大きい。

 彼らがいうように「水をありがたいと思う心は、必らず自然や見知らぬ人々の努力に感謝する気持ちへと広 がってい」(同上)くとすれば、そうした心で満たされる祭りは新たな水文化創造の場になるにちがいない。水と人間との関わりに新たな次元を開こうという企 図は「よさこい」や「YOSAKOI」とも通底している。

 行政の発案と誘導による祭りではなく市民の自発と参加による祭りの成否は、NPO法の成立で新たな段階を迎えている日本の市民セクター発展の試金石かもしれない。(西日本新聞1998年6月21日朝刊1面掲載)


 今里さんへメールはimasato@law.kyushu-u.ac.jp
1999年08月02日(月)萬晩報主宰 伴 武澄

 ことしも8月9-11日の「よさこい祭り」に合わせて高知市に帰省する。筆者がというより子供たちが帰りたいという。よさこい祭りを一言で表現すれば 「日本のリオのカーニバル」となる。30年来、そう思ってきたが、旧来の発想から脱却できないNHKがなかなか全国中継をしてくれないから全国ブランドに ならない。

 そうこうしているうちに、北海道の青年たちがよさこい祭りに感動して札幌に「YOSAKOI-ソーラン祭り」というのをつくって、そちらの方が全国ブランドになってしまった。地方の時代の発想と合わせて考えさせられることが多い。

 ●思い思いの衣装とリズムに若者が集う
 よさこいまつりは1953年、阿波踊りをモデルにつくられた夏祭りである。歴史は古くないと思っていたがあと4年で50周年である。ペギー葉山が流行ら せた「よさこい節」のアップテンポバージョンが基本メロディーで、鳴子をかき鳴らしながら、ところどころで「ヨッチョレヨ、ヨッチョレヨ」のお囃子を入れ る。

 元の歌詞のさわりを紹介するとこんな調子だ

 こうちの城下(じょうか)へきてみいや
 じんばもばんばも、よう踊るー、鳴子両手によう踊るー
 とさーのこーうちのはりまや橋で、坊さんかんざし買うをみーた
 よさこい、よさこい、ヨッチョレヨ、ヨッチョレヨ
 「ヨッチョレヨ」というのは「じゃまだ。どけどけ」といった意味合いである。

 ほかの夏の踊りと違うのは、連(踊り子隊)ごとに振り付けが違うことと、メロディーは同じでもリズムは自 由自在なことだ。1970年代からはロックやラテンが加わり、最近ではソウルやラップまでなんでも来い。思い思いの衣装を身につけ一部では露出度もエスカ レートし、大分前から日本的情緒を逸脱していた。このまま行くと「日本のリオのカーニバル」になると信じた。

 そんな踊りを嫌うお年寄りも少なくないが、若者にはバカ受け、一度踊ったら必ず来年も踊りに来たくなる。筆者も大学時代、友人を引き連れて3回ほど参加した。

 市内に十数カ所の会場があり、主にその会場で整然と踊るのだが、会場の接待場で振る舞われるビールやお酒 を飲み、はたまた踊り続けるうちに市内は興奮状態はピークに達する。いまの青年たちはどうだか知らないが、25年前はやりたいほうだい。飲屋街を踊れば、 飲み屋のネェチャンたちが、気に入った青年をバーやスナックに引きづり込み、酒をついでは激励し、一部の連では"無礼講状態"になったらしい。

 閉塞状態の若者たちにこの祭りが受け入れられないはずはない。東京や京都で学ぶ高知出身の大学生が仲間を 募って「連」が生まれ、1カ月前から練習を重ねて、高知に乗り込んでくる。昨年は県外から北海道、沼津、宮崎など13チームがやってきた。異色だったのは 東京ディズニーランドのミッキーも踊りに参加して子供たちを興奮させたことだ。

 ●大学教授も評価する祭りの先見性
 都市研究の一環として「祭り」が学術研究の対象になっているとは知らなかった。東京大学で文化人類学を専攻する伊東亜人(あびと)教授がよさこいにぞっこん惚れて、昨年「高知の人はこの祭りを生んだことをもっと誇りにすべきです」などとマスコミに語っていた。

 「形式や伝統、宗教にとらわれることなくスタートし、市民主導で自由に柔軟に発展してきた。参加の形態も極めて多様で、主体的かつ民主的。地域に根差したカーニバル的要素を取り入れ、時代を先取りする先見性にも富んでいる」

 学者に誉められた数少ない「祭り」であろう。なにやら面はゆい感じもしないではないが、とにかくこの伊東教授もまた、毎年「ヨッチョレヨ、ヨッチョレヨ」のお囃子を聞かずにおれなくなっているだけのことなのだ。

 なにを隠そう、伊東教授の奥さんが高知の出身で、北海道の「YOSAKOI-ソーラン祭り」の創設にあたって学生による実行委員会の顧問を務め、毎年、審査員として祭りに関わっているのだ。

 高知の観光資源は坂本竜馬と四万十川しかないと考えている高知のお役人やマスコミを刺激するためにも、暑い暑い高知市を一度訪ねてほしい。祭りが進化するとこうなるという実物を見てほしい。

 そういえば、今年の春はプロ野球キャンプの松坂と野村ブームで高知県経済はそうとう潤った。


 【投稿0802】 「祭り」文化の創造 九州大学法学部の今里滋(いまさと・しげる)です。現在、ニュージーランドはウェリントンにて在外研究ですが、いつも『萬晩報』をたのしく拝読させていた だいております。さて、8月2日号の「よさこい祭り」の記事に関連し、私が昨年の今頃、西日本新聞に執筆した囲み記事を思い出しましたので、参考までに送 らせていただきます。

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