1999年7月アーカイブ

1999年07月31日(土)とっとり総研 中野 有

 人生には「上り坂」もあれば「下り坂」もある。さて、人生にはもう一つ重要な「坂」があるけれど、何か分 かりますか。と禅問答のような問いかけをNHKの名チーフプロデューサーの加藤和郎さんから受けた。坂の上に雲があっても、その雲の彼方にどんな坂がある のか分からなかった。その答えは「まさか」だと教えてもらった。

 人生の順風の時には「まさか」に備え危機管理をしっかりしておくことも大切であるが、一方、人生には一発逆転の「まさか」が起こるからおもしろい。まさに人生のダイナミズムは「まさか」の連続だと思う。

 この「まさか」は手前味噌だが、典型的な「まさか」を経験した。昨年の4月に評論家の竹村健一氏が日本海 新聞主催の政経懇話会にて講演をされた。講演が終わり、会場からの質問を求められたが、誰も手を挙げる人がいなかったので、緊張しながら思い切って手を挙 げ、竹村先生にユニークな質問をした。

 その質問にインパクトがあったのか、どういう訳か、竹村氏のホテルの部屋にて2時間ほど思う存分、日頃考 えている北東アジアの開発等の話をする機会に恵まれた。それがきっかけで、竹村氏のラジオ、テレビに出演し、また雑誌等の対談に載せてもらった。また、そ の影響で先日、自民党本部で中山太郎元外相や外務、通産官僚の前で、北東アジアの動向につてプレゼンテーションする機会に恵まれた。

 もし、竹村氏に質問してなかったら一介の研究員が政府に対し、意見を述べることはできなかったであろう。また、竹村先生の目に留まったのは、世界中を回り多角的視点で現在最も注目されている北東アジアの開発に関わっていたからだと思う。

 しかし、これだけでは「まさか」は、起こらなかったと思う。世の中の空気が、新世紀を前にして新たなるパラダイムを求めているからだと思う。では、そのパラダイムとは、どんな形態であるのであろうか。

 まずは、安全保障の観点から展望することとする。早稲田大学の多賀秀敏教授は、安全保障の形態には、覇権 安定論、勢力均衡論、集団的安全保障、協調的安全保障の4つの形態が存在すると指摘する。冷戦中は、米ソが対峙することにより覇権安定がもたらされ、現在 のヨーロッパはNATOにより集団的安全保障が形成されている。

 現在の北東アジアは、勢力均衡型であるが、ヨーロッパで見られる集団的安全保障は存在していない。昨夏、米子で開催された北東アジア経済フォーラムが目指すところは、協調的安全保障である。

 安全保障の面で最も進化した形態が協調的安全保障であるなら、北東アジアにおいては北東アジア経済フォーラムが追求する理想と現実のギャップは、明白である。しかし、市民が平和のため貢献できる可能性があるのは、協調的安全保障だけであるだろう。

 では、市民がどのような形で国際貢献の仕事に関与できるのであろうか。大まかに4つのカテゴリーに分類で きる。政府関係や国際機関を通じて行う「官」、企業を通じた「民」、組織に属さず個人で行う「私」、そして問題意識を持ったグループを形成し活動する NGOやNPOを代表する「公」がある。

 国会で日米安全保障体制の充実強化を念頭にガイドラインに関する議論がなされているが、市民の認識からほ ど遠い。そんな状況の中、鳥取のソイル工学の山村社長は、中国、北朝鮮、ロシアの国境に流れる図們江流域の高速道路建設や、楽市楽座風の市場経済の導入の 重要性を提唱している。

 これらの実体経済を主眼とした環日本海交流の活動は、企業の枠を越えて問題意識を持ったNGO等で推進されることにより成果が得られると考えられる。

 台湾の李登輝総統は、問題に直面した時、決して直線で考えないこと、目的地への直線を引くのをやめ、むしろ回り道を見つけだそうと努めるべきだと述べている。鳥取のすぐ近くに世界で最も不確実性の高い朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の存在がある。

 ミサイルの抑止のためのTMD構想も重要であるが、少し回り道をして市民が国際貢献のために参加できる環日本海の交流について真摯な議論を交わすことも肝要でないだろうか。

 経済交流が経済圏を生み出し、北朝鮮が経済圏の一員となり、軍事的挑発の必要性がなくなるのが真とするな らば、環日本海交流と安全保障には密接な関係があると考えられる。それぞれが、平和のために努力する。21世紀は、協調的安全保障、即ち、市民参加型の PEACE BY PIECESが潮流となるだろう。(なかの・たもつ)


中野さんへメールはnakanot@tottori-torc.or.jp
1999年07月28日(水)Feature Press 形山 昌由

 暴動という形で幕を閉じた伝説の野外ロックコンサート「ウッドストック」の影に隠れてしまったが、この時 期、もうひとつの野外コンサートがニューヨークで開かれていた。コンサート・イン・ザ・パークスと呼ばれ、ニューヨーク・フィル・ハーモニックが年に一度 無料演奏会を開く催しで、1965年から開かれている。今年30周年のウッドストックより歴史が長い。

 マンハッタン、ブルックリン、ブロンクスなどニューヨークの各地を転々とし、5日間に渡り演奏を続ける。今年はドボルザーク、チャイコフスキーなどをおよそ2時間に渡り演奏した。

 セントラルパークで開かれた回に足を運んだが、これがなかなかすごい。夕方ごろから続々と人が押し寄せ8時の開園時にはその一角は満員。足の踏み場もないほどに混雑している。数千人はいるだろう。ちなみにサマータイムのため、8時半ごろまではだいぶ明るい。

 みな楽しみ方が自由だ。会社帰りのグループや家族づれ、カップルなど集まる人々も様々で、芝生の上にタオ ルを置き、お弁当とワインで談笑しながら音楽を楽しむ。ライトがないために9時ごろになるとだいぶ暗くなるが、用意したキャンドルを付けるなど準備も周 到。いつもならこの時間にセントラルパークへ足を踏み入れることなどとても危なくてできないが、この日だけは特別。ニューヨーク市警も警備に協力して、い たるところに警官が待機している。

 クラシックだからといって肩に力など全然入っていない。この時期のニューヨークはかなり蒸し暑いためタンクトップかランニングに短パン姿が一般的。芝生の上に寝転がって音楽とおしゃべりを楽しむ。雰囲気としてはコンサートというよりピクニックに近い。

 10時前に演奏は終わり、最後に行われる打ち上げ花火に歓声を上げながら帰途につく。別にクラシックファ ンというわけではないが、それでもとても優雅に時を過ごしたような気分になる。何よりもクラシックが身近な場所にあるということに、西洋文化の奥行きの深 さをみたような気がする。

 このイベントはタイムワーナー社がスポンサーになり、ニューヨーク市が協力している。長い歴史のなかで延べ1300万人が訪れているという。野外クラシックコンサートはアメリカではそう珍しくなく、ロサンゼルスでも大規模なものがある。

 こういうイベントが日本であったかな、と思う。夏になると山奥で若者を集めたロックフェスティバルがときどき行われるが、身近で開かれ、しかも子供からお年寄りまで楽しめるものはあまり聞いたことがない。

 例えば日比谷公園にNHK交響楽団を呼び、アフター5にあわせて無料コンサートを開くというのはあまりな じまないのだろうか。別にクラシックがダメならほかのジャンルでもいい。喜多郎のような音楽なら割と年齢に関係なく解けこみやすいと思う。極端な話、音楽 でなくともいい。日頃、なかなか見る機会のない日本の伝統文化をこうした場所で披露していけば、少しは身近なものとして感じるのではないだろうか。

 こういうことを考える企画マンがいないのか、それとも効果がないとはなから決めているのか。企業としても 文化活動のスポンサーになれば社会的イメージがあがるはずだ。仮にこの種の企画が金にならないと思っているのだとしたら、近視眼的だと思われても仕方がな い。生活の豊かさとは所得の多さだけでは決してきまらないことをよく考えて欲しい。(かたやま・まさよし)


 形山さんへメールkatayama@featurepress.com
 Feature Press http://www.featurepress.com
1999年07月26日(月)萬晩報主宰 伴 武澄

 07月20日付萬晩報「沖縄電力に匹敵する神鋼の発電事業の能力」の続編です。

 神戸製鋼所はすでに自家発電用に53万キロの発電能力を持っているからこの会社の発電能力は新規の140万キロワットを加えれば、すでに沖縄電力をはるかに凌駕しているといっていい。

 ちなみに50万キロワット以上の自家発電を持っている企業は東ソー、王子製紙、新日鐵、川崎製鉄、神戸製 鋼所、大昭和製紙、JR東日本である。新日鐵は大分と君津などで共同火力(電力会社と共同出資)を持っている。合わせて238万キロワット。自前の60万キロワットを加えると300万キロワットである。

 鉄鋼大手が巨大な電力会社でもあることは以下の表をみてもらえば分かる。


自家発電能力
共 同 火 力など
合  計
新 日 鐵
60万Kw
238万Kw(君津95 堺15
       戸畑78 大分50)
300万Kw
川崎製鉄
54万Kw
 61万Kw(水島61)
115万Kw
N K K
47万Kw
 70万Kw(福山70)
117万Kw
住友金属工業
29万Kw
170万Kw(鹿島140 和歌山30)
200万Kw
神戸製鋼所
53万Kw
140万Kw(卸売りIIP)
193万Kw
合 計
 243万Kw 679万Kw
925万Kw

 上記の表は火力原子力発電技術協会の統計と日本電気協会発行の資料に基づいて萬晩報が独自に作成したものである。

 電力会社の発電能力は東京電力の5100万Kwを筆頭に、関西電力(3535万Kw)中部電力(2665 万Kw)九州電力(1620万Kw)東北電力(1150万Kw)と続き、6位の中国電力は995万Kwだから、鉄鋼大手5社の潜在能力は中国電力に匹敵するといえる。ちなみに中国電力の売上高は1兆円である。

 ●外販できるのは新規の発電装置だけという片手落ち

 これまで述べた鉄鋼業界の発電能力はあくまでビジネスとしての数字ではない。1995年から始まった電力の自由化が問題なのは、電力会社に売ることができるのはあくまで「新しい発電設備」による発電に限定した点である。たとえ製鉄所内の需要を上回る発電能力があっても「外販」できないのである。

 そもそも鉄鋼大手が発電能力するようになったのは、千数百度という高炉の余熱利用が最初である。鉄鋼を薄 く引き延ばす作業である「圧延工程」では何回も鉄の塊りを暖め直す必要があり、その際にとてつもない電力を消費する。製鉄所内の余熱利用でコストダウンを 図ってきたのである。

 鉄鋼大手の製鉄所は一番新しいものでも20年以上の年月が経っている。減価償却を終えた設備から生み出される電気のコストは、われわれが日ごろ電力会社から買わされている電力料金と比べて桁外れに安いはずだ。鉄鋼大手は昨今もてはやされている設備過剰を抱える最たる業界である。川崎市にあるNKKの扇島工場には広大な遊休地があり、これからの鉄鋼業界のリストラを前提に考えれば、鉄鋼業界における発電能力の潜在性は相当に高いはずである。

 自家発電の余力が出てくるのは鉄鋼業界だけではない。紙パルプ、ソーダ、石油化学やひょっとしたら繊維業界だって余力がでてくるかもしれない。

 公営企業としての電力会社は国民の将来の電力需要に対して責任があるとの立場を取り続け、通産省も同じス タンスである。しかし、巨額の投資をして、しかも遠隔地から高いコストの電力を消費地に運ぶ手間を考えれば、これからの電力需要の増大に積極的に関与すべ きなのは電力会社ではなく、設備過剰に悩む素材産業であることは歴然としている。(続)

1999年07月24日(土)Silicon Valley 八木 博

 小沢征爾の件につきましては読者の方々から、リアルな情報を頂きまして、その中味のリアリティーに驚いて います。インターネットの持つ瞬時性、グローバリズムが実感できました。ある方からは、若い頃に、ボストンのお寿司屋でアルバイトをしていた時の情報をい ただきました。その時に小沢征爾が時々お昼を食べに来たそうです。

 周囲は彼に静かに食べてもらおうと、気を遣いながら、遠巻きで対応するような状態だったそうです。食べ終 わって、帰る時はあの笑顔にななって挨拶をしたそうです。そして、その時に小沢征爾のオーラを感じたそうです。で今回は、小沢征爾の持つオーラあるいはカ リスマ性について、考察してみたいと思います。

 ●サイトウキネンオーケストラの存在
 サイトウキネンオーケストラというのは、1984年に結成されました。世界中で活躍する斎藤秀雄の門下生で、ある期間を限って構成されました。米国、欧州で講演旅行をして、大変高い評価を受けました。それから、2、3年おきに講演旅行を行って、高い評価を受けています。

 それをまとめたドキュメンタリーを見て私は、小沢征爾の持つ斎藤秀雄に対する師弟感と、斎藤秀雄門下と言うまとまりの中での先輩格の小沢征爾の果たしている役割が、とても感動的だったことを覚えています。

 このような活動は、彼のリーダーシップ、それも彼が持つ「想い」「情熱」をいかに人に伝えるのかというところから発生しているように見えます。参加する一人一人が自ら納得するような話し方をしているのです。

 1992年からは松本市でサイトウキネンフェスティバルとして、サイトウキネンオーケストラとしての定期活動が日本でも開かれることになりました。今年から、このフェスティバルのHPも開設されましたので、興味のある方は次のURLをご覧ください。

 http://www.matsumoto.ne.jp/user/skf/index-j.html

 ●オリンピック金メダルを2つもらった、小沢征爾
 オリンピックの長野大会で、開会式に第九を演奏したのが小沢征爾でした。それが米国でも非常に評判になりました。そして、長野大会が終わって、2ヶ月後、小沢征爾がボストンに戻って、ボストン交響楽団の演奏会がありました。

 その時に、オリンピック女子アイスホッケーの優勝チームのメンバー2人が演奏会場で、小沢征爾に金メダル を贈呈しました。San Joseの新聞にも載ったくらいですから、結構大きな話題でした。小沢征爾は、地元でもものすごき人気があるんだというのを、まざまざと見せ付けられた出 来事でした。

 そうです、オリンピック金メダルを彼女らから授与されたと言うわけです。ここにも、彼の持つ親しみやすさというか、人をひきつける魅力があると思います。そして、民族の枠を超えているということを証明していると思います。

 ●重要なことに集中することの大切さ
 ここで忘れてはいけないのは、小沢征爾がデビューしたてにの頃にNHK交響楽団員との間にトラブルが合ったことです。その時の事情は今更お話してもしょ うがないと思いますが、彼はそれから後、ますます海外で腕を磨きます。そして、自分からチャンスを求めてチャレンジします。そして、最後には世界の頂点へ と向かうことになるわけです。

 もし、彼がN響とのトラブルに振り回されていたとすると、そのエネルギーは今のようには発揮出来なかったかもしれません。彼の行動の結果を見ていると、ここに人の生き方として大きなポイントがあるように思えます。

 すなわち、自分にとって重要なことを決めたら、ひたすらそれに集中すべきであるということです。それを持続すると、集中した結果は、とんでもない姿で現れるのではないでしょうか。少なくとも私は、そう信じています。

 ●グローバルという視点
 もう一つ、彼がとった方法はグローバルな立場から始めたことです。世界に通用することを初めに考えていたのです。(才能があれば当然の結論になります が) そう考えると、日本で起こったトラブルは、実は問題でなかったということになるわけです。すなわち、自分が進む方向のうちに、これはおのずと解消してしま うのですから。これが彼のグローバルという視点で到達した結論だと思います。

 このことは、実はソフトウェアの世界でも、証明されています。マイクロソフトのWordと一太郎との戦いもそうでした。また、ブラウザの世界ははじめから、グローバルな設計になっているのです。それでなければ、始まらないということです。

 それを考えると、視点と実際の位置を、グローバルにするということの持つ重要性がおわかりいただけるので はないでしょうか。そして、小沢征爾は日本人として、とんでもなく素晴らしいことを達成してくれたということが、言えると思います。(週刊シリコンバレー 情報 Vol1067から転載)

 本情報につきまして、皆様からのご意見ご感想をお待ちしております。
 八木さんへメールは hyagi@infosnvl.com

1999年07月22日(木)BAN Mikiko

 毎年7月、常夏のマレーシアに「日本の夏」がやってくる。クアラルンプール日本人会が主催する恒例の盆踊 り大会が7月17日、シャーアラムにある松下スポーツ・センターで開催された。今年で23回目を数えるこの"Bon Odori"には在留邦人ばかりでなく、多くのマレーシア人が参加し、この季節の風物詩としてすっかり地元に根づいている。

 今年は、過去最高の4万5千人の人出があったそうだ。1998年の在留邦人の数はマレーシア全体で11,726人、クアラルンプール及びスランゴール州で7,638人であることを考えれば、いかに多くのマレーシア人が参加したかがわかるだろう。

 昨年は、来マ中の弟と参加した。私が住んでいるコンドミニアムは日本人が多いこともあり、マネジメント・オフィスが往復のバスを仕立ててくれた。会場ま で車で1時間もかからないが、駐車の心配をせずに済むのが有り難かった。同乗者は日本人よりもマレーシア人や外国人の方が多かった。

 7時ごろ着くと、会場は既に熱気に包まれていた。入り口で一人ひとり団扇をもらい、中に進むと、電光掲示 板には「BON ODORI」の大きな文字が見え、演奏中の曲目もその都度表示されていた。グランドの中央には立派なやぐらが建ち、その周りには幾重にも人の輪ができて、 皆楽しそうに踊っていた。浴衣姿も多く、まるで日本にいるような錯覚を覚えた。

 踊りの輪の外では、人々が三三五五ぶらついたり、ビニールを敷いてお弁当を食べたりしていた。日本食の出 店も繁盛していた。歩いていると、焼き鳥や寿司をつまんでいる大学の教え子や、青年海外協力隊の日本語教師に引率されて、遠くコタバルから夜行バスでやっ てきたレジデンシャル・スクールの生徒たちにも出会った。

 私たちはビールを買ってスタンドに座り、この不思議な日マの民衆の輪=和を飽きずに眺めた。 年輪のように年ごとに大きくなっていくこの友情の輪は、これまでの日マ交流の努力の結実でもあり、また両国の民衆レベルでの絆の強さを物語っているように思えて、感動的だった。

 1977年に始まったこの盆踊りは、当初日本人学校の校内行事として行われていた。1984年に日本人会との共催となり、会場も国立競技場に移った。1992年(当時のマレーシア在留邦人の数は7千人余り)からは松下スポーツ・センターで行われるようになった。

 1995年の情報であるが、松下グループはマレーシアに17社を有し、従業員は約3万人。全マレーシア輸 出総額に対する同グループの輸出比率は3.8%に及ぶ。約2万坪のスポーツ・センターは従業員とその家族の福祉向上と地域社会との交流の目的のため、 1991年に建設されたものである。

 これまでクアラルンプール日本人会主催で行われてきた盆踊りは、今年からマレーシア側の文化芸術観光省と の共催に発展、後援も従来の日本大使館、日本人学校、同PTAの他、東方政策留学生同窓会が加わった。運営費用(昨年は18万リンギット、約540万円) は日本人会の予算と企業等からの寄付でまかなっている。

 1993年からは、日本大使館、国際交流基金等が主催する 年一度のJapan Festival in Malaysia の一環となり、過去にはマレーシア側より副首相、日本側より八代亜紀や九州地方の郷土芸能などが参加している。正に、日マ交流の最大イベントともいうべき 行事である。なお、この盆踊りは在留邦人約1,500人が住むペナンでも開催されている。

 Mikoko BANさんへメールはbmikiko@tm.net.myへ。
 ホームページ「Mikiko Talks on Malaysia」http://village.infoweb.ne.jp/~fwnp3224/mikiko.htmです。

1999年07月20日(火)萬晩報主宰 伴 武澄

 先日、神戸製鋼所のアルミ事業担当の役員から、オーストラリアの電力料金は1キロワット時=1円だと聞いた。カナダでも同じらしいのだが、日本の10分の1だそうだ。もちろん工業用である。

 アルミ事業は電力のかたまりである。日本は国策として1960年代に国内でのアルミ精錬を目指した。財閥系列ごとに精練会社が生まれたが、結局80年代にギブアップした。自前の水力発電を持つ日本軽金属の蒲原工場以外、日本ではアルミ精錬はなくなった。

 1980年代前半の円の価値は今より安く、1ドル=250円前後だったから、当時でも日本とオーストラリアの電力料金の差は5倍はあっただろう。

 アルミ精錬からの撤退が日本にとって正しい選択だったことは、プラザ合意以降の円高をみれば分かる。エネルギー資源を持たない日本の電力料金が高い仕方のないことだと長いこと考えられてきたが、どうもエネルギー源の輸入だけがその原因ではないことが分かってきた。

 ●神戸の半分の需要をまかなえる神鋼

  通産省もようやく電力事業の自由化に重い腰を上げた。1995春からの電力事業の自由化をきっかけに発電事業に他業種から多く参入の声が上がっている。神 戸製鋼所は、70万キロワットの火力発電所を2基建設して2001年から販売を開始することを決めた。都市に立地する大型発電所の建設は久しくなかった。 なかでも神戸製鋼所の火力発電は最大規模である。

 神戸製鋼所が電力をつくり、関西電力に販売するいわゆる電力卸売り業である。業界ではIPPという。その卸売り業が顧客に直接販売できるスキームもことしできた。来年から導入され、ようやく電力業界にも競争の時代がやってくる。

 まず神戸製鋼所の140万キロワットという規模である。大型の原子力発電所1基が100万キロワットであるから、その程度と思われがちだが、実は沖縄電力の総発電能力に匹敵するから、並大抵でない。

 沖縄電力の総発電能力は144万キロワット。3カ所の火力と2カ所のガスタービン、さらには離島に14カ所のディーゼル発電をしている。これで県民80万人の電力需要をまかなっている。

 神戸製鋼所の140万キロワットが稼働すれば企業向けを除いた150万人の神戸市の半分の需要をカバーできる計算だ。

 エネルギーの分野は、発電規模やら投資金額やらがとてつもなく大きく、われわれ素人にはなかなか分かりにくかった。だが、ひとつひとつの発電所の能力とそれを使う側の人口規模がわかれば、そのコストがおおまかにつかめるのではないかと思う。

 神戸製鋼所の発電能力が沖縄電力のそれに匹敵するという話は最近聞いた。うそだと思って実際に調べてみると話にうそはなかった。

 ●日本の電力料金の半分は送電コスト

  神戸製鋼所が神戸に発電所をつくるメリットはまず、土地代がいらないということである。次に消費地に近いことだ。われわれが支払う電気料金の半分は遠隔地から電気を運んでくる送電コストである。遠いところだと電気そのものの価格とほぼ同等であるから、消費地のすぐ近くで発電すればコストは半減する。

  余談だが、何年も前に、東京電力が100万ボルトの送電技術の完成を自慢していた。遠距離送電には欠かせない技術だとされ、世界ではロシアにしかない技術 だといっていた。なんてことはない。後で分かったことだが、発電所と大消費地が何百キロも離れているのは日本とロシアだけだった。

  発電所を大都市圏の持ち込むと環境問題が発生すると異常反応する向きもあろうが、今どきの発電所にそんな心配はほとんどない。とにかく東京電力など既存の 電力会社は消費地の近くに土地を持っていないが、鉄鋼などリストラが進んだ素材産業は遊休地の活用に四苦八苦しているのが現状だ。

 その遊休地を利用できる素材産業に電力をつくってもらえば、日本の電力需給の将来は安泰だし、送電コストもほどんどかからないということになる。

  問題は総投資額である。当初2500億円とされたが、最近のこの投資額を500億円圧縮すると発表した。とまれ、技術が数年で進んだわけでもないのに、なんで500億円もスリム化ができるのか。筆者の勘ではあるが、ウオン安の韓国企業に発注すれば、さらに半額になるのだと信じてい。(続)

1999年07月18日(日)萬晩報主宰 伴 武澄

 八田與一といっても日本ではだれもピンとこないだろうが、台湾ではいまも農業用水建設の恩人として人々の 心の中に生き続けている。台南県烏山頭にはいまもこの明治生まれの日本人の銅像が残り、台湾農業に尽くした逸話は中学校の歴史教科書『認識台湾』に登場 し、学校教育の場でも語られ始めている。

 6月21日の北國新聞に小さな記事があった。6月20日、台湾の嘉南農田水利会(徐金錫会長)の一行11 名が金沢市を訪れ、八田與一記念資料室をつくるため、八田與一の故郷である金沢市に資料収集など協力を求めてきたという。資料室が入る建物は同水利会が約 1億6000万円をかけて購入した円形三層の建物である。日本側は石川県の「八田技師を偲び嘉南と友好の会」(代表・長井賢誓県議)が協力することになっ たと書かれたあった。

 ほとんど感情移入のないおもしろくもない記事である。八田與一という故郷の偉人を県民に再認識させる格好 の機会を逸したのではないかと思い、北國新聞に代わって八田與一について書くことにした。八田與一については萬晩報事務局長の岩間孝夫さんが、以前から 「いつか俺が書く」といっていたが、続編をまつことにしたい。

 ●アジア最大のダム・用水路建設
 八田與一は1886年、金沢市に生まれた。東大の土木工学を卒業後、ほぼ同時に台湾総督府土木局につとめた。56歳で亡くなるまでほぼ全生涯を台湾に住み、台湾のために尽くした。

 初めは台北の上水道建設や桃園県の水利事業などに参加したようだが、彼の名前が後世に残るのは、当時アジ ア一といわれた烏山頭ダムと1万6000キロにおよぶ灌漑用水路の建設にあたり、人情味のある現場責任者として農民に慕われたからである。1920年に着 工10年の年月を費やし1930年に完成した工事で、巨大な建設機械がなかった当時としてはとんでもない大規模土木事業だった。しかも場所は植民地であ る。

 烏山頭ダムは、台湾西部の嘉南平野の東方の山地にある。渓流をせき止めた堰堤は1600メートル以上ある。セミ・ハイドロリックフィルという、石や土を組み合わせてコンクリート以上の強度を生み出す石積み工法を用いた。

 嘉南平野は台南市や嘉義市を含む台湾最大の平原である。鄭成功が明末に拠点を開き、その後オランダも城を築いたかつての台湾の中心地である。肥沃の地と思われがちだが、平原を流れる河川が少なく、しかも急流だったため、水利としてほとんど機能してこなかった。

 このため20世紀になるまで嘉南平野はサトウキビすら育たなかったといわれる。この嘉南平野は八田與一が建設したダムと1万6000キロにおよぶ網の目のような用水路のおかげで台湾最大の穀倉地に変わった。

 中華民国新聞局が発行する「中華週報」の最新号によると、烏山頭ダムから轟音をたてて躍り出た豊かな水 は、嘉南平原に張り巡らされた水路に流れこみ、みるみる一帯を潤した。当初半信半疑であった農民たちは、眼前を流れる水に「神の恵みだ、天の与え賜うた水 だ」と歓喜の声を上げたそうだ。

 ●夫と一緒に妻もまた台湾の土に帰った
 嘉南平原の隅々にまで潅漑用水が行きわたるのを見とどけてから、八田與一は家族とともに台北に去った。八田は太平洋戦争の最中の1942年、陸軍に徴用されてフィリピンに向かう途中、乗っていた船がアメリカの潜水艦に撃沈されて、この世を去った。

 3年後、戦争に敗れた日本人は一人残らず台湾を去らなければならなくなった。烏山頭に疎開していた妻の外 代樹(とよき)は、まもなく夫が心血を注いだ烏山頭ダムの放水口の身を投げて後を追った。外代樹もまた金沢の人だった。享年46歳である。嘉南の農民たち によって八田與一夫妻の墓がその地に建てられた。作業着姿の銅像とともにいまも農民たちの手で守られて、命日の5月8日には現地の人々によって追悼式が行 われている。

 5年前、八田與一の名前を司馬遼太郎の「台湾紀行」(朝日新聞社)で知った。明治の日本人のスケールの大きさについてはもはや語りつくされているのかもしれないが、司馬遼太郎が書く明治の土木技師たちの姿には圧倒される。

 八田與一の東大の恩師の広井勇教授がいった言葉である。「技術者は、技術を通じての文明の基礎づくりだけ を考えよ」。札幌農学校で同窓生だった内村鑑三は66歳で亡くなった広井に対して「明治大正の日本は清きエンジニアを持ちました」と弔辞を読んだそうであ る。八田與一もまたそんな明治人だったはずである。

 嘉南農田水利会の徐金錫会長は金沢市で、八田與一の遺した嘉南大用水路について「約70年の歳月を経たいまも、平野に飲料水や農・工業用水を供給し続けている」と感謝の念を表明した。

 斎藤充功著「百年ダムを造った男-土木技師八田與一の生涯」(時事通信社)によれば、台湾の李登輝総統もまた「台湾に寄与した日本人を挙げるとすれば、嘉南大用水路を造り上げた八田技師がいの一番に挙げられるでしょう」と語っている。

1999年03月15日(木)Silicon Vally 八木 博

 前回は、斎藤秀雄と言う小沢征爾の先生についてまとめました。今回は、小沢征爾の家族について、知る範囲 でまとめてみたいと思います。小沢征爾は1935年、満州の奉天で生まれています。その時の父親の行動などは、当時の日本人の思想とも深く関わっており、 その活動は小沢家の人々との活躍とは今日的に見ると、相反するようなところが見受けられます。いくつか私なりに検証してみたいと思います。

 小沢開作というのは、小沢征爾の父親です。歯科医師でした。当時の満州国は、関東軍が幅を利かせていて、改作は時の陸相板垣征四郎と、石原莞爾関東軍参謀に心酔し、この両名から1字ずつもらい、1935年に生まれた小沢家の三男に征爾と名前をつけたと言います。

 そして彼自身は、1928年に勃興する中国ナショナリズムに対抗して、邦人で同年に満州青年同盟を結成し て、満州、河北で滅共思想戦を提唱し、満州国作りを、民間から支援していた経歴の人です。(現代日本人物辞典 朝日新聞社)どうやら、かなり民族主義的な人だったようです。そして、開作は太平洋戦争が始まる前に日本に帰国し、戦争中は立川に住んでいたそうです。そ して1970に亡くなります。

 小沢征爾の母親は、さくらと言う名前の人でクリスチャンであったそうです。日本に戻ってからは母親の指導で4人の兄弟たちで、讃美歌を良く歌っていたと言います。そして、家が戦後貧しかった時でも、ピアノを手放さずに征爾にレッスンを受けさせていたそうです。

 そして、家庭には笑いが絶えなかったと言う。父親の経歴と比較してみると、やや違和感があるけれども、これは「僕の音楽武者修業」に出てくる内容です。

 四人兄弟の長男は克己は彫刻家(故人)で、二男俊雄は、ドイツ文学者で筑波大の副学長を勤めた学者、そし て弟の幹雄は俳優ということで、芸術や文学の関係の血筋が濃くでています。その意味では、個人個人の個性を伸ばすことが重要な分野であることは、間違いな いと思います。

 もちろん、この乏しい情報だけで私の判断などと言うものは当てになりませんが、信念を持って自分の道に進むことが、自立して生きる上で重要なことを表わしているのではないかと考えてしまいます。

 きっとそうだ、信念を持つことと、自分を磨くことを同時に行うと、個性のある人間が育つのではないかと思 いたくなります。あえて、こじつけてしまうと、父親の信念を受け継いだので征爾は音楽の分野の中で、指揮者の道を選んだと言うことがいえるのかもしれませ ん。これはあくまでこじ付けですが。

 家族はあまりTVなどには出てこないけれど、征爾は大変家族を大事にしていると思います。ボストンに住み ながら、日本の家族への配慮を欠かさない姿をNHKの番組で見たことがありました。これは、彼自身の生い立ちから体得したものなのかもしれないけれど、日 本の一般的な家庭よりも、家族の中の親密度が高いように見えました。

 それでも、世界中を飛び回る彼の忙しさからすると並大抵のことではないと思うけれど、一瞬一瞬を大切にする姿勢をとても強く受けます。

 そして、地元(現在はボストンですが)に根を下ろしながら活動する、世界的指揮者という姿が出てくるのです。これは、矛盾するような話ですが、ローカルでありながらグローバルということを表わしていると思います。

 これもまた、こじ付けと言われるかもしれませんが、インターネットはグローバルでありながらローカルな面 を持つと思います。このインターネットの時代に小沢征爾が活躍をすると言うのは、何やら偶然ではないような気がします。この二面性が、矛盾していないと言 うことを理解すると、毎日の生活の中から、広い地球を意識した行動と言うのが生まれるように思います。


 ■お詫び
 前回、徳永二男さんが亡くなったと書いてしまいましたが、これは私の誤りで二男のお兄さんである兼一郎氏がガンで亡くなったことの誤りでした。大変うか つな間違いをしまして、申しわけありませんでした。ここに慎んで訂正いたします。また、この件で読者の方々からも沢山のご指摘メールを頂きました。
 中には、二男氏が飲み屋に行っている!というリアル情報をお送りいただいた方もありまして、インターネットの情報の広がりを感じることも出来ました。ご 指摘いただきました方々には、この場をお借りしまして御礼申し上げます。(週刊シリコンバレー情報 Vol066より転載)

 本情報につきまして、皆様からのご意見ご感想をお待ちしております。
 八木さんへメールはhyagi@infosnvl.com

1999年07月11日(日) とっとり総研 中野 有

 山陰地方は、高齢化の割合から見ると高齢者先進地域である。日本の平均寿命は世界一であり、国内でも山陰地方の人口に占める高齢者の割合が高い。これは 世界から見ると、山陰地方には老人パワーなる妙薬や高齢者を惹き付ける魅力があると映るだろう。山陰地方は、高齢化社会に関し世界から一目おかれた立場で あるという逆発想が成り立つのではないだろうか。

 日本では高齢化社会というと、何か人生の黄昏を加速させるような暗いイメージがつきまとう。しかし、考え方によっては職場等の社会的制約から解放 され、人生を思う存分エンジョイできる人生の黄金期ではないだろうか。高齢化新人類なる粋な老人の登場が期待される。ウイーンとホノルルで学んだ楽しい老 後の過ごし方の一端に触れてみたい。

 ウイーンの国際機関のドイツ人の上司が定年した時の満足感あふれる笑顔は忘れられない。定年後に人生のピークが到来するように設計された彼の仕 事納めには、夏休みを待つ子供のような純粋な躍動感がみなぎっていた。ヨーロッパの人間は充実したホリデーの過ごし方に熟知している。例えば、国連機関の 場合、毎年4-6週間の休暇を取る。長期休暇は、定年後の予行演習のようなものである。また、それは健康、文化、教養の充電の一翼を担っており、人生のダ イナミズムを高揚させるのに役立っている。

 一方、日本の休暇は、せいぜい1週間の海外旅行が限度である。それ故、定年後、何をしたらよいのか分からなくなってしまうようだ。日本 は、ヨーロッパ型のバカンスを推進すべきだ。そうすることによって休暇の延長線上としての夢のある定年後の設計を描くことが可能となるだろう。また、長期 休暇が経済的競争力を弱めるのではなく、新たなサービス産業の創造に寄与すると考えられる。
 
 人生の醍醐味は、世界中に友人の輪を広げ、人生の友とのネットワークを構築することである。国連の仕事を通じ世界各国の親友を持つことができ た。その中でも、ドイツ、スウェーデン、フランス、スイスの友は格別だ。彼らとこんな約束をした。定年した時、家を数カ月ごとに交換するというものであ る。

 老後は芸術・文化にどっぷり浸かろうと考え、音楽の都ウイーンにアパートを購入した。ウイーンは人気のある地で、友人が集まってくる。友 人と一緒に過ごし、家の鍵を交換すれば経済的負担を最小限に世界を旅しながら友人と人生の醍醐味を味あうことができる。そう考えると、定年後、新たな夢が 開花するようだ。

 先日、ハワイに1カ月滞在し、ゴルフを通じハワイの高齢者のコミュニティーに接した。ハワイの高齢者は、日本でゲートボールを行うような感覚で ゴルフを楽しんでいた。ハワイのパブリックコースでは約500円でプレーが可能である。18ホール回れば6-7km歩いたことになる。歩くことは健康に良 い。ハワイ州から見れば、ゴルフを通じ医療にかかるコストを最小限に抑えることになる。

 日本の高齢者は通院し薬漬けになっている人が多いと思われる。日本が学ばなければいけないのは、ゴルフ等を通じ健康維持ができる予防医療 だと思う。将来、ハワイのように安くプレーできるパブリックコースが鳥取にできないだろうか。そうすれば、温泉とゴルフのセットで粋な高齢者が鳥取に集 まって来ると思われる。

 ホノルルにボーダーズという本屋がある。本屋の中に喫茶店があり新刊の本を自由にゆったりと読むことができる。また、ミニコンサートも開催され る。本屋が心地よいコミュニティー形成の場となっている。ゴルフのみならず読書による適度なアカデミックな刺激が精神衛生上良い。

 このように、ウイーンやホノルルでは高齢者に元気を与える環境が整っている。花鳥風月のある鳥取にて、欧米をも惹き付ける魅力ある環境を生み出すための知恵が期待されている。山陰地方は、世界に自慢できる高齢者の先進地域であるのだから。(なかの・たもつ)

 中野さんにメールはnakanot@tottori-torc.or.jp

1999年07月09日(金)参議院議員 浅尾慶一郎

 高齢化社会の問題は先進国共通の課題です。一昨日、この問題でピーター・G・ピーターソンさん(元米国商 務長官、ニューヨーク連邦準備銀行副理事長、現ブラックストーングループ会長)の話を聞く機会に恵まれました。データに基づく非常に示唆に富む話でしたの で、多少長くなりますが、以下にご紹介します。

 今、世界の人口構成は二極化の動きを示している。先進国は押し並べて人口が減少し、高齢化が進む傾向にあ る。これに対して発展途上国は先進国より出生率が遥かに高いので、高齢化は進まない。結果として、1950年と2050年で世界の人口の最も多い12カ国 を比較すると、1950年には12カ国中、5カ国が先進国、7カ国が発展途上国であったのに対し、2050年には唯一米国のみがこのリストに入り、残りの 11カ国は発展途上国となってしまいます。

 米国が人口を維持出来るのは、出生率が他の先進国より高く1.9%を維持し、しかも移民を受け入れているからです。

 人口高齢化に伴う問題の中で、比率的に増えているのは85歳以上の超高齢者である。(一般に65歳以上の 方を高齢者という。85歳以上の方を超高齢者と日本語で言うのが正しいかどうかは知りませんが、彼はold-oldと言っていた)米国では次の50年間で 85歳以上の方が6倍に増えるという。そして、米国ではこの超高齢者一人に係る医療費はその他の高齢者の2.5倍に達するそうである。

 人口構成の高齢化のもたらす問題は年金と医療費の問題につきる。年金だけ見ても先進7カ国全体で、財源の 手当のされていない債務が35兆ドルあります。(ご案内の通り、殆どの国で年金は、多かれ少なかれ、現在の加入者が支払った年金資金を受給者に渡す形が取 られており、支払った資金が将来の受給の為に運用されてはいません。)これに、将来発生するであろう医療費を加えると財源の手当がなされていない債務が 70兆ドルになります。

 これだけ巨額の資金をすべて借金で賄うことは不可能ですが、少しでもお金を調達しようと先進国間で借金競 争が始まるかもしれません。但し、いずれにしても年金と医療費の問題は各国で改革の必要な分野であることは間違いありません。解決策は以下の5点、あるい はその組み合わせの中にしかありません。

  1. 徐々に定年を引き上げる
  2. 労働人口を増やす(女性や移民を労働力としてより活用)
  3. 子供の数を増やす
  4. 年金や医療費の額を減額(自己負担分を増額)する
  5. 貯蓄率を高める(個人の貯蓄率上昇、政府の借金の減額)
 定年の引き上げについては、面白い発言をしておりました。平均寿命の延びに応じて、定年の年齢をインデッ クス化してはどうかということです。つまり、30年前の60歳と今の60歳では違うと思われるから、平均年齢が伸びれば、比例して、定年も引き上げてはと いう提言でした。

 労働人口の増加政策は日本においても、真剣に検討すべきことかもしれません。米国経済が好調な理由の一つ は、自由で誰にでも可能性を与える社会の雰囲気に引かれて、優秀な技術者も含めて世界中から移民労働力を引き付けている点にあります。日本は、基本的には 単一民族による意志疎通のしやすさをベースに発展をして参った訳ですが、世界に門戸を開いて世界中から英知を集めることも研究すべきかもしれません。

 政策のみで子供の数を増やそうとするのは難しいかもしれません。スェーデンが出生率の引き上げに成功しま したが、これは同国の政策とともに、家事全般に渡って男女が共同して行うという社会的な風潮(国民性)にもよるところが大です。年金や医療費の政府負担額 の減額は非常に大きな抵抗が予想されます。もちろん他に対策がなければ致し方がありませんが。

 貯蓄率の上昇或いは政府の無駄使いを無くすことは重要でしょう。さて、こうしてみると政策の選択肢として は上記の1、2、3、5を組み合わせて極力負担増を避ける努力をすることだと思いますが、それぞれに問題を抱えているので簡単ではありません。まず、大切 なのは、多くの方にこの問題について問題意識を持ってもらうことだと考えます。


参議院議員 浅尾慶一郎氏が主宰する「あさお慶一郎国政レポート」1999年7月1日付「世界的な高齢化の流れ-次なる競争?」から転載しました。

浅尾慶一郎氏のホームページはhttp://island.qqq.or.jp/hp/kei_ASAO/
ご意見、ご質問はe-mailtk201505@fsinet.or.jpで。ご意見お待ちしております。

1999年07月07日(水)  仲津 英治

 私は日本野鳥の会に入会して十数年になります。岡山、東京、香川、福岡、大阪等各地で日本野鳥の会のベテラン指導員に教わりながら、バードウォッチングを楽しんでまいりました。

 1997年3月22日、JR西日本がメーカー等の協力を得ながら、開発して きた500系新幹線電車が営業に供されるようになりました。最高時速300キロ運転を行っており、これは世界最高例の一つです。この電車をもって新大阪- 博多間を今までの「のぞみ」の2時間32分から2時間17分に短縮しました。1997年11月29日からは、東京に1日3往復乗れ入れました。

 私は1992年3月から1995年6月までWIN350の走行試験の責任を担っておりました。主たるテーマは、いかに速く走るということより、いかに静かに走るかということでした。そこで野鳥の飛翔、姿形から学んだことを披露します。

 ●フクロウの飛翔と低騒音新幹線電車

 高速走行の最大の課題は一に安全で次いで、鉄道事業者に取って世界一厳しい、日本の騒音環境基準をクリアーすることです。現代技術の発達のおかげで、速く走るということはそう難しいことではなくなり、いかに静かに走るかと言う課題の方が難しいのです。

 環境庁の要請値では、市街化地区で25メートル離れた地点で75ホン以下に 騒音レベルを下げるように要求されています。街の交差点での騒音を見聞きしている方はご存じと思いますが、75ホンというのはかなり静かなレベルであり、 信号が青に変わって車がいっせいに発進すると、交差点の騒音計は軽く80ホンを越えます。

 新幹線騒音の音源は、低速域では車輪とレールの動接触から発生する転動音が主体で、その音源の強さは、列車速度の2乗に比例します。ただし時速200キロを越える高速域になると、列車速度の6乗に比例する空力音が主体となります。

 電気車では空力音の発生源の中心は動力源である電気を架線から取る集電装置であるパンタグラフです。私たちは、角材が2本並んでいるような在来型パンタグラフでは低騒音化に限界があると考え、鳥の翼を参考に翼型パンタグラフの開発に着手しました。

 1990年5月、日本野鳥の会大阪支部の室内例会で矢島誠一先生から、初めてフクロウの仲間が鳥の中で一番静かに飛ぶと教わりました。ノネズミ等を捕らえるのに極めて静かに、飛びながら獲物に近づくために自然が与えた知恵なのです。

 フクロウ類の低騒音飛行の秘密の1つは翼の羽根にあり、初列風切羽の外縁部 に普通の鳥にはない、小さなのこぎり歯のような羽毛が多数突き出ています。肉眼でも確認できるこの鋸歯状<ルビ:きょしじょう>の羽毛(英語でセレーショ ンといいます)が、空気の流れに小さな渦(ヴォルテックス)を生じさせます。空力音は、空気の流れのなかにできる渦により発生する音です。

 この渦が大きいほど音は大きくなるようです。そこでごく小さなのこぎりの歯 のような突起を多数翼につけると、大きな渦の代わりに小さな渦が発生します(ヴォルテックスジェネレーター)。すると空気抵抗も減り、空力音も小さくなり うるようです。小さな渦が大きな渦の発生を防ぐのです。これがフクロウ類の羽根の低騒音飛行の有力な理論的説明です。

 私たちは大阪天王寺動物園の紹介でフクロウの剥製をお借りして、風洞試験も 行いました。途中なかなか思うように成果が出ず、一時、やはり時速300キロの新幹線には時速70キロ程度のフクロウは当てはまらないのかと、あきらめか けました。平行して翼型パンタグラフの開発で苦労したのは揚力の克服でした。翼は飛行機のごとく浮き上がるためにあります。

 ところがパンタグラフがあまり揚力を持ちすぎますと架線を押し上げすぎて、 問題となります。この課題は矢島先生の紹介で一緒に開発に加わっていただいた、当時全日空整備ご勤務のの宮村元博先生の提案で、パンタグラフの舟体の翼を 一部形状変更して、解決できました。そして世界で初めて翼型パンタグラフを試作し、時速320キロの試験走行に成功しました。

 この翼型パンタグラフは、普通の在来型パンタグラフより数段静かです。とこ ろが、さらに翼型パンタグラフの支柱部から音が出ていることが風洞試験で確かめられました。その支柱部の低騒音化にフクロウ類のセレーションの原理が使わ れました。さらに一段の低騒音化に成功したのです。

 前述のヴォルテックスジェネレーターの断面形状、取り付け位置等の最適なも のを、JR西日本の若い技術者が粉骨砕身各種実験を重ねて実現してくれました。JR西日本は、翼の形をした翼型パンタグラフをもって、時速300キロ域で 十分環境基準を満たす新幹線電車の見通しを立てることができました。この事実をもって技術者の一人である私は「自然に学ぶ」という気持ちが大変強くなりま した。

 ●カワセミの水中飛び込みと新幹線電車のトンネル突入

  山陽新幹線はトンネルが多いことでは世界一です。全線の半分はトンネルです。列車が高速で狭いトンネルに突入すると空気の圧力波が立ち上がり、これがだん だん成長して津波のように音速で伝わり、トンネル出口側で反射して帰ってきます。このトンネル出口で一部の圧力波が放出され、その際、パカーンと破裂音を 出すことがあります。

 圧力は大気圧の0.1%以下のものなので、トンネル微気圧波と呼んでいま す。原理図は図3に示す通りです。列車の断面積が大きいほど、トンネルの断面積が小さいほど、また列車速度が高速になればなるほど(速度の3乗に比例)、 この圧力波はトンネル出口付近の方々に、音と振動でご迷惑を掛けることとなります。しかし、今さらトンネル断面積は変えられません。

 まず地上のトンネル入り口側に緩衝工(かんしょうこう)と呼ばれる圧力波緩和装置を設けて対策を打ち、成果を上げてきました。ただこの緩衝坑は夜間工事等のために大変な工事費がかかります。勢い車両側に対策が求められました。

 車両の断面積を減らすことと、先頭形状を出来るだけ、鋭く、滑らかにするこ とにより、この微気圧波問題をかなり克服できます。500系電車の前の試験電車のWIN350は先頭車両の断面の変化している部分の長さが10メートルも あります。一車両の長さは25メートルですから、四割近くが変化部分です。これでもトンネル微気圧波が問題となりました。

 私はこの課題を克服するべく、関係者と検討を重ねている過程で、自然界にも同様のものがあるはずと思い巡らしているうちに「カワセミ」のことが頭に浮かびました。列車のトンネル突入と同様、急激な抵抗の変化を経験している生き物、そうカワセミなのです。

 小さい流体抵抗の空中から、大きい流体抵抗の水中へ、捕食のため、飛び込む 姿。結局時速300キロの営業用電車の先頭形状はカワセミなみにしなければならないのかなと思い関係者にも伝え、平行してスーパーコンピューターを使って 徹底的なトンネル走行シミュレーションも行なわれました。結果、我がニュー新幹線電車500系の先頭車の変化部分は長さ15メートルにもなります。

 カワセミにそっくりとなって来たのです。スーパーコンピューターによる長時間の解析の結果の答えが、自然界のカワセミのくちばしから頭部にかけての姿に近似してきたと言えるでしょう。

 カワセミの嘴(くちばし)と頭部の形状はやはり、鋭い流線形です。鉄道総合 技術研究所、九州大学の研究から、理論的にも実験的にもトンネル微気圧波の緩和策として、先頭形状には断面積の変化率が一定である、回転放物面体あるいは くさび形がベストであることが確かめられました。

 カワセミの嘴は、よく観察すると上嘴と下嘴がそれぞれ、三角形に近い断面をしており、合わせるとひし形に近い形をしています。断面積の変化率はほぼ一定でしょう。

 そして新型の500系新幹線電車は、トンネル微気圧波のみならず、対抗列車と自らに対しても圧力変化による影響も問題なく、毎日走っています。

 ●生命体の持つ形状、機能の意味 -自然を大切に
 野鳥だけでなく、自然界の生き物は人間も含め、生きんがためにまた命を伝えんがために、その形状、機能を発達させて来ています。フクロウとカワセミはそ の中でも私にとって貴重な情報源となりました。自然の中に答えがありうる、あるいはヒントがある、とつくづく思うようになりました。

 若い技術者にも自然をもっと観察するように促しました。一般の方々にも機会があるたびにこの事を伝えています。「一木一草、一鳥一魚、皆我々の輝ける永遠の教師であろう」。『飛行機設計論』の中にある著者の山名正夫、中口博両先生の言葉です。まさに名言と思います。

 そしてさらに私は、自然を大切にしなければいけない、地球上で一人勝ちの人 類は、自然環境のためにもっと謙虚に生きる必要がある、という信念を持つに至りました。「地球に謙虚に」という姿勢・心掛けが、新幹線の走行試験から得た 筆者の生活信条となったのです。(なかつ・えいじ)

 仲津さんは、1995年6月までJR西日本技術開発推進部試験実施部勤務、現在、JR西日本情報システム株式会社の社長さんです。メールはnakatu_e@mve.biglobe.ne.jp

 この文章は日本機械学会誌の学生向け情報誌である「メカライフ」1995・12月号に記載されたものを加筆訂正したものです。

1999年07月05日(月)Silicon Valley 八木 博

 私はかねがね、小沢征爾という人の行動や、考え方に注目してきました。2002年からウィーン国立歌劇場 の音楽総監督の地位を約束されました。ここ10年間空席だった、世界最高峰の指揮者の地位です。彼が自分の道を進んでいることを知るのはとても楽しくまた 勇気づけられることが沢山ありました。

 特に、彼が育ってきた環境や彼自身の周囲の人への思いやりなど、日本人の素晴らしい面や、情熱の為し得る力など一人の人間の素晴らしい生き様を見ることが出来ます。今回、私の知る範囲で小沢征爾とその周りについてまとめてみたいと思います。

 ●斎藤秀雄の父 斎藤秀三郎
 小沢征爾は桐朋学園で斎藤秀雄の教えを受けました。そして、その時に彼の音楽に対する目、自分の音楽に対する関わり方が決まったと言われています。その 斎藤秀雄のお父さんと言うのは、英文学者の斎藤秀三郎です。この斎藤秀三郎という人は英語の慣用語法の解明に情熱を傾けた人だそうです。彼が集めた慣用語 の集大成は、時の英米の文学者すら驚くほどの蓄積だたそうです。(これは、私の父から聞いた話です)

 その辞典は今でも岩波書店から発売されていて、熟語本位 英和中辞典として、続いています。初版は1936年で今でも旧仮名遣いのままで出版されています。私は、ここに明治の気概を見ることが出来ると思います。夏目漱石も同じ時代の人でした。

 ●斎藤秀雄
 斎藤秀雄はもはや日本のクラシック音楽会には絶大な影響を与えた人だと思います。文字どおりその薫陶を受けた人達が、世界中で活躍しています。彼がそれ を成し遂げたのは、ドイツに留学して、チェロの科学的な奏法を修得して日本にもどり、それを教えていったからだと言われています。もちろん情熱を傾けつつ 教えると言うことが、技巧だけでなく、生きることへの関わり方にまでつながっているのではないかと思えます。

 その教え子の中に、小沢征爾がいるわけです。そして、以前TVで見たのですが、小沢征爾が恩師の斎藤秀雄 を語る時のあの表情は、なんとも言えずに、師弟のもつ尊敬の念と感謝の念が入り交じり、見ている私までがジーンとしてしまう、迫力がありました。優れた師 の技術だけでなく、その情熱までも引き継いだ弟子という感じがしました。

 この話とつながると思うのですが、やはり斎藤秀雄の教え子で徳永二男という方がいました。彼は、N響の首 席チェリストでしたが、1996年にガンで亡くなるのですが、その死の直前までチェロに対する情熱を失わずに、ガンが転移してもコンサートに出演し、チェ ロを弾き続けました。そして自分の入院しているホスピスでもコンサートを開くわけです。

 このような活動を見ていると、私は「人間って素晴らしい!」そして、その素晴らしいことを知ることが出来た自分がうれしくなるのです。生命体としての人間も大切ですが、それを生かしきる、意志としての人間に、不滅のものを感じるからかもしれません。

 ●そして小沢征爾
 若い頃の小沢征爾の活動を書いた本に、「ボクの音楽武者修業」というのがあります。今でも新潮文庫から発売されています。これは、ホンダのバクに乗り、 日の丸の鉢巻きを締めて世界に駆け出した頃の小沢征爾が描かれています。今の時代に考えても、とんでもない行動なのですが、彼の音楽に賭ける情熱の強さを 感じることが出来ます。

 たとえ分野が違っても、いまのベンチャーを始める人達にも相通ずるものがあるのではないかと思います。こんな事を考えつつ、日本人が持つ良さを、世界の中で生かすにはどうしたら良いか、小沢征爾の活動を通して考えてみたいと思 います。(文中、大先輩方に敬称をつけませんでした。僭越なこととは思いますがお許しください=週刊シリコンバレー情報 Vol065より転載)

 本情報につきまして、皆様からのご意見ご感想をお待ちしております。
 八木さんへメールはhyagi@infosnvl.com

1999年07月01日(木)萬晩報主宰 伴 武澄

 ●競争力を落とす地域通信会社

 NTTがきょうから再編されて通信業界は大競争時代に入ったという。マスコミはきょうの紙面で大きく取り扱っている。いくつか問題がある。第1はNTT は分割されるのではなかったのかという問題である。第2は連結決算の時代に突入した今となっては、この程度の「再編」ではNTTの経営は何も変わらないと いうことである。株式の59%を大蔵大臣が抱えたまま、何が競争かという基本的問題もある。


 今回の再編を分かりやすくいえば、NTTが営業部隊を3つに分けて子会社化しただけのことである。基本的 にはDDIや日本テレコムなど第二電電にならい、まず長距離電話部門を「NTTテレコミュニケーションズ」と名付けて分離、残りをNTT東日本とNTT西 日本に分け、研究所はNTT本体に残した。

 問題は、この分け方である。13万8000人の職員の分け方はあまりに不揃いである。以下の図を見てほしい。2000年3月期の人員と売上高見通しである。

N T T
1兆7010億円
3500人
NTT東日本
NTT西日本
NTTコミュニケーションズ
2兆1100億円
2兆0700億円
1兆1000億円
6万1000人
6万8000人
6600人

 3子会社の売上高費が大まかに2:2:1となっているのに、職員比は61:68:6である。宮津純一郎NTT社長は今後、3万人のリストラをするといっ ているが、これではあんまりだ。事業内容が違うのだから職員の数だけで単純比較できないが、仮に売上高ベースでみるかぎり、NTTコミュニケーションズは NTT東日本の5倍の競争力であることになる。


 今回の再編の最大のポイントは、長距離分野でDDIや日本テレコムなどと直接的に競争関係となる分野でそれ相当のスリム化を果たすことだった。この結果、どうなったか。独占分野のNTT東日本と西日本はその分、相対的に競争力を落とすことになったのだ。

 NTTグループに中で競争力を増したのは、研究所を抱えたNTT本体とNTTコミュニケーションズだけである。出来のいい生徒による少数精鋭教室をつくって、その他大勢の出来の悪い生徒を分離させる最近の私立学校のようなものである。

 そもそもNTTはリストラを繰り返してスリム化した欧米の通信企業と比べて、とんでもない余剰人員を抱え ている。どれくらい過剰かは分からない。半分でいいという話もある。主要都市のいたるところにあるNTTビルをみれば、資産も過剰である。東西の地域会社 は当然、こうした資産も引き継ぐことになるのだろうが、電話の使用度数は"民営化"から14年で何倍にも増えているのに、NTTの収益構造が格段の改善を 見せなかったのはひとえにこの人員過剰にある。

 NTTが再三にわたって地域料金値下げを拒否する構造はここにある。NTTグループ内で試算すれば、アメリカに比べて高い市内電話との接続料金はきょう以降、さらに高くなるはずだ。

 ●ようやく"実現"した17年前の答申

 今回のNTT再編の軌跡をおさらいしてみよう。そもそもの分離論は1982年7月に遡る。17年前である。第二次臨時行政調査会が、電電公社(当時)の 中央会社と複数の地方会社への分割を答申したが、85年4月に電電公社が民営化してNTTとなったとき、分割論は無視され、全国一社体制が堅持された。

 NTTの今日のような再編が提言されたのは90年3月。郵政大臣の諮問機関である電気通信審議会がNTTを「長距離と地域会社に二分割する」と答申したが、政府は「95年度中に結論を得る」として先送りを決定。

 96年2月にもまた、同じ電気通信審議会が「NTTを長距離通信会社一社と、東西の地域通信会社二社に分離・分割」と答申したが、政府はまたもや結論を先送りしてきた。NTTが政界と労働界を巻き込んで、分離を阻止してきたというのが真相である。

 しかし、世界的な通信の大再編が進む中で、NTT分離問題は96年12月にようやく決着した。なんと持ち株会社の元に長距離通信会社と東西の地域通信会社に分離するという玉虫色の「分離・分割」となった。

 このとき、政治的には「分離」という言葉が使われ、郵政省、NTT双方に顔を立てる決着方法だった。勝利したのはNTTである。持ち株会社の下での事業の分割などは連結決算が重視される今日では単なる社内の再編でしかないからである。

 もっとも電気通信審議会の答申通りに分割が決まっていたら、3社間で資産と人員の分け方で収拾のつかない争いとなっていたに違いない。

 ただ、17年間のも間、分割論議を放置してきたつけは決して小さいものではない。ものごごろがついた子どもが就職するような長い年月である。

 アメリカの巨大通信会社、AT&Tが独禁当局の命令で分割に応じたのは1984年である。日本が85年の電電公社民営化の時点で分割していたらどんなにか世の中変わっていたかと考えるといたたまれなくなる。

 複数の地域会社と長距離会社に分離されたAT&Tは、世界有数の頭脳を持つといわれたベル研究所もまた分 割の対象となった。ベル研究所はルーセント・テクノロジーと会社名を変え、世界的なハイテク企業として君臨しており、AT&T自身はここ数年に始まった通 信事業の世界的な提携・合併の渦中にある。(続)

 参考:1998年01月15日付萬晩報「大蔵大臣が3分の2を所有していても民営NTT」は
 village.infoweb.ne.jp/~fwgc0017/9801/9801152.htm

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