1999年6月アーカイブ

1999年06月27日(日)萬晩報主宰 伴 武澄

 4月上旬、遅番の勤務で家の片づけをしていたら、「ばんさーん。すんまへん」と隣りの谷さんの声がした。

 玄関にでると、回覧板を持った谷さんが立っていた。

 「今月から町内会の世話役になりました。よろしうに」
 「そうそう、この町内会は順番でやってますさかい、来年は伴さんが世話役ですから」

 そういって回覧板を渡して帰っていった。

 谷さんは70を少し超えた年で、病気の奥さんを一人で面倒をみている。2年も隣りに住んでいながら、以前なにをしていたのかも聞いたことがない。時々「おすそわけです」といって果物や惣菜をもってきてくれたり、旅のおみやげを持っていくうちに親しくなった。

 清廉な人柄で、毎朝、うちの前の庭まで掃き清めてくれるから、頭が上がらない。たまに早起きして谷さんの家の前からその向こうの駐車場の前まで掃除することがある。といっても30メートルにすぎない。

 いつもお世話になっているから、当然のことだが、谷さんに会うと「いつもすんまへんな」といって頭を下げる。これがたまらないから京都では早起きの癖がついた。

 最初は京都人特有のブラックユーモアかと思っていたが、それは思い過ごしだった。いつまでたっても谷さんの態度に変わるものがない。日々のご近所の会話ってもはこんなにすがすがしいものか。そんな思いで日々が過ぎ去った。

 京都ですぐ気付いたのは、家の周りを掃き清めているひとを多く見かけることだった。祇園だとかお寺さんだとか文化財に指定された周辺の話ではない。ごくふつうの住宅地での風景である。

 次いで、賀茂川にごみが落ちていないことにも驚いた。大都会の真ん中を流れる河川は得てして生活用品の廃棄場と化している。ジュース缶どころか、発砲スチロールのかたまり一つ見当たらない。

 不思議なことだと思っていたら、まもなく町内会から「賀茂川清掃の集い」の案内をもらった。ははーん、そういうことかと納得した。賀茂川を散策すると、そんな町内会の人々が河岸のごみを拾っている姿を目にするだろう。

 ここまで書くと多分に感情移入に違いないと批判されそうだ。だが、歴史が長いということは、土地に対する 愛着につながり、だれからともなくみんなで町をきれいにしようという発想が生まれてくることだけは間違いない。京都に住んでいた時は、誰が何といおうとそ う一人合点していた。

 東京から遊びに来た友人にそんな話を何遍もした。「ちょっとおまえも、朝のすがすがしさを味わえ」といって家の前の掃除を強要したこともある。だいたいは東京といっても下町ではなく、ベッドタウンに住んでいるから「箒なんか持つのは何年ぶりだ」と言って喜んでいた。

 我が家に泊まったのは男たちばかりであり、そもそも朝ぎりぎりまで寝床に入っているくせのついた人種ばかりであるから、翌朝、箒を持った友人は一人もいなかった。

 ●賀茂川から緑を奪った京都市の浚渫事業

 京都のバスもまた、どこの都市のバスとも同じように「吊革におつかまりください」「移動中の席の移動は危険ですから」などアナウンスがくどい。ただひとつ違うこんなアナウンスがあった。

 「みんなの力で京都を世界で一番美しい町にしましょう」

 町内会が偉ければ、行政もなかなかなものだと思っていたら、どこの自治体でもやっていることらしい。上京して渋谷のハチ公前で待ち合わせをしたら、そこでも同じような文言が電光掲示板で流れていた。そこでも印象は「無駄なことをやりおって」というものだった。

 2年間の京都住まいで一番頭にきたのは、京都市が賀茂川を浚渫するというニュースだった。賀茂川は日本の河川ではめずらしく、市内を流れる河床が階段状になっていることだ。

 数百メートルごとにある段差から水が流れ落ちる様子はひとつの風情で、ところどころにある洲には葦などの植物が生えていて、鳥や魚の絶好の生息地となっている。この洲がじゃまだというわけである。増水時の川の流れの妨げになるというのである。

 マスコミが取り上げ、環境団体が反対したが、この4月から北大路から南の賀茂川で浚渫は敢行された。行政 というものは不思議な組織だ。緑が繁る洲とシラサギの乱舞は、賀茂川の風景の一部である。観光資源にもなっているその賀茂川の美をブルドーザーで踏み荒ら したのだから、なかなかのものである。京都市役所の言い分はこうだった。

 「じきにまた土砂が堆積して洲ができ、緑も回復しますよ」

 筆者は邪推する。景気回復のための公共事業予算が大幅に上積みされ、予算の処理に困った挙げ句、「賀茂川の浚渫」という妙案が担当部署で出て「ええやんか」となっただけのことである。行政の困るところは1度、予算がつくと来年もまた同じことを必ずするということである。

1999年06月24日(木)メディアケーション 平岩 優

 ●97年の規制緩和で動き出す

 最近、NEC、三越、日商岩井など業界大手の企業が大規模なリストラを表明し、いよいよ本格的な雇用調整が始まった。また、ここ数年、多くの企業が合併 や不良採算部門の切り捨て、企業同士による事業部の統合などに取り組んでいる。そのため、人材は能力の有無より、企業組織の変化やコストパフォーマンスの 観点などから、リストラの対象にされるケースが多い。長い間、日本の雇用形態の特徴とされてきた終身雇用は、その良し悪しが議論される以前に、崩れつつあ るようだ。


 しかし、このように離職者が増えるなか、日本には雇用の流動化に対応できる労働市場が未発達である。その 原因の一端は、国が原則として民間の有料職業紹介業を禁止してきたからである。つまり、離職者は原則的に、職安(ハローワーク)の窓口を通じてしか職業を さがすことができなかった。

 それが97年4月に、従来、有料職業紹介業が特別に扱うことが許されていた職種が拡大され、ホワイトカ ラー職種も取り扱えるようになった。しかし、あくまでも特別であり、自由化ではない。この規制緩和を受け、ビジネスとして成立するようになったのが、「ア ウトプレースメント」と呼ばれる有料職業紹介業である。現在、その数は約30社、市場規模は80~100億円といわれている。

 ●人材の不良資産化

 その一つである日本能率協会マネジメントセンターのキャリア・カウンセリング研究所を訪ねた。ここに登録している再就職希望者のスペースには、パーティ ションで区切られたデスクが並び、置かれた電話やパソコンは自由に使うことができる。壁には求人情報のペイパーが何十枚か貼られ、内容をみると従業員20 人、200人と規模も業種もまちまち、業務も営業、経理、技術系とバラエティに富んでいる。

 案内してくれたカウンセリング部の杉本敬三部長によるとこうだ。

 「技術系の求人が多いと思うでしょうが、そんなことはない。たとえば技術に自信はあるがマーケティングの 人材がいないなど、求人内容は千差万別。給料は下がりますが、将来性のある中小企業もありますし、受け入れ側も経験豊かなな大企業の人材が獲得できると前 向きです」という。
 実はこの杉本部長も昨年、リストラ対象となり、ここでカウンセリングを受けたことがある。大手エンジニアリング会社時代にはいくつもの海外プロジェクトの責任者として活躍し、肩をたたかれたときは寝耳に水だったという。

 それだけにショックも大きく、屈辱感も味わった。しかし、カウンセリングを受けるうちに、名刺の肩書きを はずし、自分の価値やキャリアを客観的に評価し人生を前向きに捉えられるようになり、再雇用の仲介業の必要性を痛感したという。その結果、杉本氏は「修羅 場の経験を生かして、皆さんの手助けができれば」と、この1月から現職に転職した。

 そのカウンセリングの一つに、「自分の棚卸し」がある。いってみれば、商品としての自分を再点検すること だ。履歴書を書くことはやさしいが、自分の中に蓄積された売り物を棚卸ししてリストを作るとなると、誰もが困惑して作業が進まないという。そうだろう。自 分にあてはめて考えても、いや日本人は一般的に、商品としての自分をプレゼンテーションすることが苦手なのでないか。

 この事業部は97年4月に発足し、求職者数は累計で250人、平均52.5歳、そのうち再就職を果たした 人は190人にも上る。再就職が決まるまでの平均期間は約3カ月という。リストラ計画を進める企業が、一人につき150万円を支払い、同事業部が再就職が 決まるまでカウンセリング・教育を含め求職希望者の支援を行うというシステムだ。

 企画推進部の高松健司部長によるとリストラにはこんな背景もある。

 「たとえば金融機関が100人のリストラを条件に融資をするというような企業事情もあり、リストラの対象者は個人としての能力を否定されたわけではない。パフォーマンスと賃金が合わないからリストラが発生するわけです」

 「しかし、もし、そうした人材の市場がなければ、債券や土地のようにキャリアを持った人材が『不良資産化』します。民間の職業紹介事業がそうした市場を活性化する役割を担うのです」

 ●中小企業にチャンス
 当初、「首切り屋」と揶揄されたというアウトプレースメントも、現在では徐々に社会から認知されてきている。しかし、こうした有料職業紹介業者を利用できる離職者は転職援助におカネを出せる大手企業に限られている。

 なぜなら、有料職業紹介業は個人から料金を徴収することが禁じられているからだ。といって、無料の職安の職業紹介では、キャリアに見合う再就職先を探すことが難しいのは、いまや常識である。

 欧米では「temp to parm」(派遣から雇用へ)という雇用スタイルがある。派遣会社に登録し派遣されたスタッフが、そのまま派遣先の企業の正社員に移行することで、欧米ではごく普通に行われているという。

 「temp to parm」が成立したときには、派遣会社は、受け入れ企業から移籍料が徴収できるので教育訓練コストを回収できる。しかし、日本では派遣業者が職業紹介を目的に人材を派遣することは認められていない。

 その日本で「temp to parm」の手法を取り入れている企業がある。大手人材派遣業パソナの子会社である人材交流システム機構は「キャリアインターン」システムにより、大企業 から優良中小企業への人材の橋渡しをしている。人材を送り出す企業は人材交流システム機構に出向という形で人員を送り、同社にその人員の年収の15%をコ ンサルタント料として支払う。

 そして、同社はその人材のキャリアを生かせる企業を探し、コンサルタント業務委託という形でその企業に人材を送る。受け入れた企業は自社給与水準から算出された業務委託料を支払い、6カ月から1年のインターン期間働いてもらい、双方が合意すれば正式採用となる。

 人材交流システム機構は93年に発足、現在は年間250-300人の人材の橋渡しをしている。パソナの実 績を活かし、人材を送り出す大企業300社、受け入れ企業3000社とのネットワークを構築していることも強みである。また、97年からは個人も同社の契 約社員として契約し、業務委託の形で受け入れ企業に送り出している。その数は累計1000人を超え、民間の職業紹介業としては、個人を扱う初めてのケース といわれている。

 「不況下でも、新しい風を入れたいので違う発想ができる人材が欲しいとか、店頭公開するので広報課を新設 したい、マーケティング部を新設するので部署の責任者が欲しいなどニーズが寄せられています。以前なら、ヘッドハンティングでしか採れないような人材が、 自社の給与水準で獲得できるのですから、受け入れ企業にとってはチャンスです」(渡辺尚・人材交流システム機構取締役)
 受け入れ側が求めている人材もマーケテイング・営業が4分の1、人事総務・経理などの間接部門が4分の 1、エンジニアが4分の1と幅広く、正式採用される確率も高い。なかには役員に就任するような例もある。渡辺取締役は「今後も雇用のミスマッチを解消し、 中小企業にどんどん優秀な人材が流れて欲しい」と抱負を語る。

 ●求人、求職のミスマッチで膨らむ失業率、社会コスト
 このように再就職希望者、採用する側の企業もそれぞれニーズは多様化している。すでにこうしたニーズに職安だけで応えることは不可能となり、民間業者の きめ細かいサービスが求められている。こうした中で、労働省では現在、有料職業紹介の原則自由化を検討している。そのたたき台となる私案では就業後一年未 満の新卒者を含めたホワイトカラーの職業紹介を全面解禁すること、事業者の新規参入時の要件緩和、個人情報を漏らした事業者への罰則を設けることなどを打 ち出している。

 われわれは、人間や労働を商品として考えることに、どこか後ろめたさを感じる。マルクスの剰余価値説の影響もあるのだろう。しかし、気がついてみれば、先程の棚卸しが苦手なように、買い手から声がかかるのに任せるしかないような状況になっていないか。

 そのための労働市場も未整備なままだ。労働省の推計によれば、ことし1-3月期の失業率4.6%のうち、3.2%は求人と求職のミスマッチによるものだそうだ。そうこうしているうちに、失業保険などでかかる社会コストもどんどん膨らんでいく。

 政府は雇用創出のために中高年を公立学校のパソコンや外国語の教師として臨時採用するプランを検討中などといわれるが、要は規制緩和を進め、もっと根本的に人材の流動化を促すような政策を押し進めるべきである。

 平岩さんへメール yuh@lares.dti.ne.jp

 環日本海経済情報のURLは、http://www.lares.dti.ne.jp/~yuh/index.html

1999年06月22日(火)萬晩報主宰 伴 武澄

 戦前の計画が踏襲されて優先された名神の建設

 1963年、日本の高速道路は栗東ー尼崎間の71キロが開通して以来、36年間に供用した総延長距離は6450キロを超える。南北の幹線である東北縦貫道、東名道、名神道、中国縦貫道、九州縦貫道がノンストップでつながった。


 首都圏から放射状に常磐道、関越道、中央道が広がり、関西圏からは日本海側を結ぶ北陸道、近畿道などが整備され、1980年代以降は幹線を交差するような枝線の建設が佳境に入っている。最終的には1万1520キロの高速道路を建設する計画である。

 東名、名神道の建設には面白い逸話がある。そもそも日本が初めて「高速道路」に取り組んだのは1940年のこと。旧内務省が「全国的自動車国道計画」を作り、北海道から九州まで日本を縦断する道路網が描かれた。1943年に東京ー神戸間の建設調査が実施された。

 戦争の最中である。政府部内からは「戦局の苛烈化のおりから、狂気のさただ」と批判され、当然ながら建設 は差し止められた。その調査では「東京ー神戸間で、最も緊急の課題とされたのが名古屋ー神戸間」だった。軍事関連の生産が神戸と名古屋に集中していたから なんの不思議もない。

 逆に役人の発想というのは簡単だ。いったん、つくられた計画は周りの事情が変わって遂行されるのだ。戦後 なぜ東名道ではなく、名神道が先に建設されたのか。単にその10数年前の計画が名神優先だっただけのことなのだ。多くの日本人が疑問に思っていた疑問が氷 解する逸話でもある。

 また当時、ドイツでは世界初の自動車専用道路であるアウトバーン建設が着々と進んでいた。ドイツに遅れま いとする内務官僚の心意気が感じられるだけではない。この「全国的自動車国道計画」は中国から中近東を経て欧州に到り、一方ではカムチャッカからアラスカ を経由して米国にもつなげるという壮大な夢もはらんでいた。

 ●後ろ向きの投資を許したプール制の導入
 日本の高速道路建設の中心的役割を担ってきたのが日本道路公団だ。現在の資本金は1兆452億円。8900人の職員を抱え、年間の予算規模は約5兆 3000億円。建設費用はその25%でしかない。30数年間に20兆円を超える建設費が投入されているため、6割以上を過去の借入金の返済に充てている。

 大まかにいうと、公団の純粋の収入は2兆1000億円の通行料しかない。あとはほとんどが借金である。郵便貯金からの間接的な借金は2兆1000億円である。こんな経営が何年も続いている。経営の破綻は目に見えている。

 日本の高速道路は通行料で建設費を賄い、償還後は無料開放するはずだった。名神高速道路は1963年の全 線開通からすでに30年を過ぎ、本来ならば無料開放が始まる時期となっている。しかし、政府は高速道路の通行料金制度を1975年から「プール制」に変更 した。プール制は、通行量の多い幹線道路の収益で新たに建設する地方路線をも維持するという考え方だ。その時から無料開放の「無期延期」が決まっただけで なく、通行料の値上げも相次ぐようになった。

 もちろん建設費の高騰は大きな理由となった。しかし根本には、採算性の低い地方路線の建設工事が次々と始 まったことによる影響が大きかった。本来ならば、30年間の通行料で償還できるはずのない路線には、違う料金体系を導入するか、国や自治体の補助金をつぎ 込むかしないかぎり有料道路として成り立たない。プール制の導入によって、地方路線の建設が進めば進むほど幹線道路の通行料を値上げしなければならないと いうジレンマに突き当たることになった。

 さらにプール制は、幹線の収益で地方路線の建設を進める一方で、渋滞が増す幹線道路の拡幅工事が後回しになり、結果的に経済活動の非効率的さを増すという後ろ向きの効果ももたらした。

 ●夢でないアジアとつなぐ日本の高速道路

 すでに述べてきたようにかつての高速道路の建設は、欧米の最新技術を日本の道路建設に導入し、国際入札など多くの合理的な制度をもたらす効果を果たしてきた。しかし、現在の日本の高速道路建設は巨額な予算を消化する利権集団の場に化している。

 日本道路公団自体では8900人の職員で構成しているものの、多くの子会社や孫会社を抱え、どれだけの人員の雇用の場になっているかさえ明らかにしていない。公団組織の非効率性が国民的批判を浴びるようになっているのだ。

 高速道路の建設は国民に「速く、遠く、自由に」というモータリゼションの夢を与え続けてきた。だがいつま でも「安く」という夢はお預けのままである。政府や建設に従事してきた技術者たちも「夢を追及」する時代は過ぎ、高速道路建設を「生活の糧」とする時代に 入っている。首都高速道路など大都市圏の高速道路は渋滞時には「有料駐車場」と化しており、いつのまに高速道道路は「遅い」「高い」ことが国民的課題と なった。

 一方、世界では公共事業を効率的に進める方法として1980年代後半から民間委託のBOT(ビルト・オペレーション・トランスファー) 方式によるインフラ整備が世界的に注目されはじめるなど公共事業をめぐる新しい世界が開けつつある。

 中国南部の珠河デルタをめぐり香港ー広州ー珠海をつなぐ計画のハイウエーは、香港の財閥ホープウエルが中心となって建設を進めている。バンコク首都圏の高速道路建設でも日本の熊谷組によるBOT建設がスタート台となった。

 国に資金や技術が集中していた時代には、インフラ整備は政府の役割だったが、21世紀には競争原理が最も高い水準の技術と安い資金を世界中から導入し、かつての国の役割を果たすようになるだろう。

 これまで日本の高速道路の建設技術は政府開発援助(ODA)を通じて開発途上国で役立ててきた。しかし、こんどは学ぶ時代である。「まずコストに見合った技術」そして「スピード」である。

 3月訪れたマレーシアの高速道路ではカードを利用したノンストップの料金ゲートが随所にみられた。欧米の一部ですでに導入されているシステムである。日本でも年内に一部の高速道路でスタートすることになっているが、渋滞を防ぐ先進技術の導入がアジアにも遅れた事実をわれわれは反省しなければならない。

1999年06月18日(金)萬晩報主宰 伴 武澄

 一度は日本で導入された国際入札

 名神高速道路の建設に当たって、米国や西ドイツ(当時)などから最新技術も導入された。国際的に当時の日本の建設技術に対する不安もあっても仕方のない 時期である。とにかく1950年代当時の東京ー大阪間の国道1号はほとんどが砂利道で、土煙を上げながらの走行が普通だったから、時速100キロでカーブ を曲がるような高速道路の設計技術の蓄積をもっているはずもなかった。


 道路の設計では西ドイツのドルシュ博士、舗装などでは米国のソンデレガー氏が中心となって協力した。ドル シュ博士はドイツのアウトバーン建設に携わった技術者の一人でもあった。当時の日本では、高速道路などは単なる土木技術の延長で建設できると考えていた が、ドルシュ博士などが持ち込んだ線形技術などに日本の技術陣は驚愕した。明治時代の黎明期と同様、高速道路の建設もまた、海外からの技術習得がその後の 日本の基礎となったのである。

 また、世銀からの融資が決まると、発注業者の国際入札も決まった。いわゆる透明性の高い入札制度の導入を 求められたわけだ。名神と東名の建設工事は当時としては巨額のプロジェクトであったため、世界的関心を集めたが、結局、外国勢が受注したのは東名の1区間 だけに終わった。しかも不思議なことにこの業者も結局、工事を完成させないうちに撤退し、途中で日本の業者に工事の権利を譲渡した。

 日本の公共事業に外国勢が参入するのは90年代に入ってからである。89年からの日米構造協議によって日 本市場の閉鎖性が指摘され、関西空港建設などで一部、風穴が空いた。しかし、外国勢といえども透明性の高い入札で勝ち取ったというより、政治の力で受注 し、JV(ジョイントベンチャー)の分け前をもらっているにすぎない。残念ながら日本の高騰した公共事業費を押し下げるまでにはいたっていない。

 当時、外国勢の進出を阻んでしまった詳しい背景はうかがい知れないが、せっかく透明性の高い入札制度を設けながら、有効に運用できなかった日本の建設行政はその後、指名業者間の談合や建設費の高騰という高いコストを支払わされることになる。

 なんで最低速度が必要なのか

 それでも名神高速の栗東ー尼崎の開通は日本のモータリゼションにとってひとつの事件だった。まず馴染みのない「最低速度」という概念が持ち込まれた。米 国の連邦道路局の「遅い車も事故の確率が高い。一番事故率の低い速度は昼間で90-115キロ。夜間は75-110キロ」という報告が波紋を呼んだ。

 名神の多くの部分は最高速度120キロで設計されていたため、最高速度の100キロはすんなり決まった が、「最低速度50キロ」という道路交通法の規則は決定までに「なぜ最低速度が必要なのか」など多くの曲折があった。当時は専門家の間でもスピードに関す る認識はその程度のものだった。

 また、そもそも国産自動車が本当に時速100キロものスピードで長時間走れるかという、自動車の耐久性も疑問視された。1961年には完成した京都市郊外の一部区間で130日にもわたって国産自動車による高速走行試験が繰り返されたというから笑うに笑えない。

 日本の高速道路の設計者は先見性がないとの批判が絶えない。いまでこそ名神高速道路の京都-大阪間の渋滞 を解消するために拡幅工事が行われ、天王山付近は片道2車線から4車線になっている。しかし筆者もまた20年前、名神が2車線しかなかったことを公団をな じったことがある。

 そのとき、こんなやりとりもあった。

 「アメリカの高速道路では片道4斜線や5車線が常識なのになんで、名神は2車線で設計されたんですか」
 「昭和30年代に日本に本格的なモータリゼーションがやってくるなんて想像できた人がいたら、その人の顔を拝みたいものですよ」
 「当時の日本でそんなもんだったんですか」
 「そんなもんって、ふつうの国道は郊外に出れば砂利道がふつうでしょ。それから3輪トラックなんていう不安定な車がそこら中走っていたんだから」

 閉鎖された道路での事故の通報体制や高速警察隊によるパトロールなど関係者には初めて体験する多くの課題の解決が求められた。

 とにかく36年前、砂利道万能だった関西に突如として鏡のような高速道路が出現した。いまの自動車では考えられないオーバーヒートや擦り切れタイヤによるパンクなど車両の故障が事故の大半を占め、インターチェンジ出口からの逆行なども頻発したという。(続)

1999年06月16日(水)萬晩報主宰 伴 武澄

 速さが夢と希望を与えた名神高速道路

 日本で初めて高速道路ができたのは35年前の1963年7月だった。神戸と名古屋をつなぐ名神高速道路190キロうち、まず尼崎市と滋賀県栗東町の間の第1工事区間71キロが開通、日本のモータリゼションの幕開けとなった。


 高度成長の最中とはいえ、マイカーという言葉が生まれたばかり。サラリーマンにとって安い軽自動車でさえ年間所得の10倍以上もしたし、今日のようにだれでもが手軽に週末のドライブを楽しむようになれるとは思っていなかった時代である。

 以降、高速道路の建設は全国で着々と進み、現在、総延長距離は日本道路公団が管轄する高速道路だけでも6000キロを超えている。

 1960年代に着工したのは、名神だけではない。中央高速と東名高速、そして東京と大阪それぞれ首都高速道路と阪神高速道路の着工も始まっていた。日本経済が急角度で成長し、ヒトやモノの高速でしかも大量移動が求められた。

 ほぼ同時期に完成し、世界一速い鉄道となった東海道新幹線は「夢の超特急」と名付けられた。東京オリンピックや大阪万博など国際的イベントも多く、国土建設が急がれるなかで「速さ」が国民に夢と希望を与えていた。

 日本の高速道路史で特徴的なのは、初めから有料道路制を導入したことだった。有料道路はいまではアジアを 中心にかなり普及し、当たり前のように考えられている。しかし、当時の先進国のアメリカの州をつなぐ高速道路やドイツのアウトバーンには料金を徴収する発 想はなかった。

 日本では戦後復興期には、一般国道の建設さえままならず、苦肉の策として道路財源にガソリン税を充てることが決まっていたが、あくまで国道の建設資金で、高速道路に国費を使うという発想はなかった。

 ちなみにガソリン税を道路建設費に充てるための法律名は1953年の「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」である。この法律は「臨時」だったため、58年に廃止され、同年成立した「道路整備緊急措置法」に引き継がれ、現在にいたっている。

 萬晩報が再三指摘してきた戦後日本特有の「臨時」や「緊急」といった法律の概念が40年を経たいまでもガソリン税の考え方の中に生き続いていることを指摘しておきたい。

 ともかく、本来、無料であるべき道路の通行に「お金を取る」ことに対して国民からの反発は予想以上だった。

 1956年、日本で初めて有料道路となった静岡県の「伊東道路」では通行料徴収ゲートではこんなやりとりもあったという。

 「おまえら、なんでこんな山の中で追いはぎみたいに金を取るんだ」
 「国の法律できょうから有料道路になりましたので」
 「法律ったあなんだ。何の法律だ」
 「道路整備特別措置法です」
 「バカ。そんな法律は聞いたことのねえ」
 「とにかく、お金を払っていただかなければここを通すわけにはいきません」

 40年前の国民の有料道路に対する認識はこの程度だったのである。もっとも道路整備特別措置法では、有料といっても30年たって建設資金を返済しおえたら、一般国道と同様に無料で開放することになっていた。

 ●建設を支えた世銀資金と郵便貯金
 そんな国民の認識の一方で、高速道路建設に対する緊急性も高まっていた。高速道路に関しては日本の道路事情を酷評したアメリカの「ワトキンス報告」が決め手となった。

 「工業国でこれほどまでに道路網を無視してきた国はない。統計によると日本の一級国道であるこの国の最も 重要な道路の77%は舗装されていない。この道路網の半分以上は、かつて何の改良も加えられたことがない。しかし、実際の道路は統計よりももっと悪い。悪 天候では通行不可能な場合もある。交通はたえず、自転車、歩行者、荷牛馬車により阻害されることがはなはだしい」
 事実、幹線だった東海道は当時ほとんどが未舗装だったから、日本の道路事情がこのように酷評されたとしても不自然でない。

 高速道路の建設での課題は、有料制といってもどこから資金を調達するかという問題だった。まず郵便貯金の貯金を財源とする財政投融資があてがわれ、不足分は国際的支援を仰ぐことになった。そして路線ごとに30年で借金が返済できるように通行料金が決められた。

 戦後の日本の国土建設にこの財政投融資が果たした役割は計り知れない。いまでこそ銀行はサラリーマンの住 宅資金として30年内外の融資をするようになっているが、当時の普通の銀行には、国がつくる高速道路とはいえ返済期限が30年などという長期の融資はな かった。そもそも戦争で国家に金を貸して貸し倒れになった痛い経験をしたばかりだった。郵便貯金という「国営銀行」が豊富な資金供給源となってはじめてイ ンフラ整備ができたという側面も否定できない。

 世銀からの借り入れは苦労の連続だった。1957年、ブラック世銀総裁が来日した際に電力や鉄鋼、高速道路の建設に280億円(7800万ドル)の融資を申し出たのが始まりだった。

 ワトキンス氏によるこの「信じがたいほどの悪さ」という報告が日本の道路整備の緊急性を訴えた形となった という。結局、名神高速では総建設費1148億円の25%に当たる288億円(8000万ドル)を世銀に頼ったし、東名でも同3425億円のうち4次にわ たり総計1080億円(3億ドル)の融資を受けた。ご存じのように当時の為替レートは1ドル=360円だった。

 当時の世銀の資金規模や貨幣価値からいえば、日本の高速道路に対する4億ドル近い融資は「かなり冒険的」だったようで、融資に際して多くの条件がつけられたのは当然のことである。(続)

1999年06月13日(日)萬晩報主宰 伴 武澄

 昨年8月にチャンドラ・ボースと新宿中村屋のもう一人のボースについて書き、続編をという反響をたくさんいただいた。今回はチャンドラ・ボースの周辺に 出没するハリマオという人物について紹介したい。ハリマオは中年以上の方は石森章太郎のマンガやテレビ番組を通じてよく知っている少年時代のヒーローの一 人のはずだ。

 1998年08月26日付「新宿・中村屋がかくまったもう一人のボース
 1998年08月15日付「スバス・チャンドラ・ボースと遺骨返還
 1998年08月14日付「杉並区の蓮光寺に眠り続けるボースの遺骨

 少年時代、筆者はハリマオは単なる物語の人物だと信じていた。だが、25年ほど前、父親から藤原岩市著「F機関」という1冊の本を渡され、本の中で実在したハリマオに対面した。

 「F機関」については上記にすでに記した。太平洋戦争のマレー南下作戦のためにつくられた英印軍に対する謀略機関である。戦前の日本の機関としては傑出した「謀略機関」だったと思っている。

 ●色白の小柄な美少年だったハリマオこと谷豊
 少年時代の物語「怪傑ハリマオ」の舞台は東南アジアだった。ヒーローはハリマオと名乗り、国籍は不明。サングラスをかけ、頭に黒い布を巻き付け、ズボン はラッパだった。そんなハリマオが悪党を次々と打ちのめす、いまはなき勧善懲悪のドラマだった。不思議なことにドラマに登場する悪役はだいたいが中国人か 白人だった。

 ところが、写真で見る実在したハリマオはまったく違っていた。色白の小柄な美少年だった。本名は谷豊。れっきとした日本人だった。若かった筆者の心をと きめかせたのは、藤原岩市氏がハリマオについて、「マレー人3000人を配下にジャングルを縦横無尽、英国の富をかすめてはマレー人に尽くすという義賊」 として描いていたことである。

 戦前のマレーシアで日本人が数多く住み、生活していたことも大きな驚きだったが、そんな日本男児が当時、マレーシアにいてマレー人たちの信頼を勝ち得ていたということであった。

 谷豊は1910年、福岡県に生まれた。父親は谷浦吉。若いころから海外雄飛の夢を抱き続け、いったんはアメリカに渡り、理髪の修行を積み、やがて結婚して東海岸の寒村だったクアラトレンガヌという町に移り住み、バーバー・タニを開業する。

 浦吉がトレンガヌに渡ったのは1911年だから、豊はまだ1歳である。当時のトレンガヌには日本人が30人ほど住んでいたという。バーバータニはそこそ こ繁盛し、谷一家は現地社会に融和しながら平和な日々を送っていた。当然ながら、日本人学校などというものがあるはずもなく、豊は3人の妹と弟とともに、 マレー社会にどっぷりつかり、成長した。

 そんな平和な生活を破ったのは満州事変だった。1931年である。日本が中国大陸で仕掛けた戦争だったが、華僑が多く住む英領マレーにも日中対立がもた らされ、華僑による日本人襲撃が少なからず起きていた。中国大陸と違ってマレー半島には日本人を保護する軍隊はいなかった。

 翌1932年、トレンガヌでも起きた華僑暴動で、谷家の末娘の静子が暴徒に惨殺されるという痛ましい事件が起きた。逃げ遅れた静子が理髪店の二階で殺された上、首を切られたのである。

 ●3000のマレー人を配下にした義賊?
 「F機関」などによると、妹の死に直面し復讐を誓った兄の豊は、忽然とジャングルに消え、数年後には数千人のマレー人を組織する盗賊団としてイギリス側 から恐れらるようになったとされる。マレー人たちはだれかれとなく豊をマレーの虎であるハリマオと呼ぶようになっていた。一説によるとイギリスはハリマオ の首に懸賞金をかけたが、マレー人には義賊に映っていたから捕まることはなかった。

 ところが、ここらの事情もどうも正確でなかったようだ。ハリマオの足跡を克明にたどった中野不二男著「ハリマオ」によると、静子が虐殺されたとき、豊は日本の徴兵検査を受けるため日本に来ており、マレーに戻ったのはその2年後となっている。

 「復讐を誓って忽然とジャングルに消える」にしては時間の経過が長すぎるのだ。

 パスポートの発給記録から、2年後の1935年以降に日本を出国し、シンガポールに向かったことだけは確かなようだが、豊はトレンガヌに帰ることなく、マレーのジャングルに忽然と消え、マレーに帰国後のF機関に見出されるまでの6年間の足跡は定かでない。

 歴史は突然、第二次大戦の開戦前夜に飛ぶ。「3000人のマレー人を配下に置いた日本人義賊」の存在は当然、陸軍参謀本部の知れるところとなり、バンコクにあった参謀本部の出先機関によるハリマオ探しが始まるのは1941年秋である。

 参謀本部の意向を受けた神本利男という民間人がバンコクに潜入し、ハリマオ工作を開始する。当時、ハリマオは部下の無銭飲食の責任を取らされてタイ南部 シンゴラの監獄に放り込まれていた。幸いにも、その人物がハリマオだと知っていたのはマレー人たちだけだったからイギリス側に引き渡されることもなかっ た。

 神本利男は中国の武術である武当派拳法の達人で中国人の黒社会にも名が知れていたため、東南アジアでの活動は容易だった。神本は、タイ側から鬱蒼たる ジャングルを超えて、国境近くのカンポン(村)にマレー人社会の長老だったマホマッド・ヤシンを訪ねる。ヤシンはメッカ巡礼を終えたハジだった。ハリマオ の所在を聞き出し、タイの監獄から救出する。

 ハリマオのことを書いた本はいくつかあるが、ハリマオの救出劇を描写した書籍は1冊しかない。マレーシア在住の土生良樹氏が書いた「神本利男とマレーの ハリマオ」(展転社)だけである。民族を超えた義侠心の世界が登場し、まゆつばかと思わせるが、まさに三国志や水滸伝の講談本に出てくるようなやりとりは 痛快である。

 ●歴史に60日だけ登場したハリマオ
 とにかく神本利男という男の説得で、マレー人として生きることを決めていたハリマオが日本軍に協力することになったことは事実のようである。ハリマオ工作を指揮した藤原岩市氏の「F機関」にも出てくることである。

 ハリマオが3000人ものマレー人を配下に置いていたというのは白髪千丈のたぐいだが、ハリマオという日本人がマレーの長老たちから非常に信頼されていたことはまんざらうそではない。

 マレー南下作戦で、ハリマオと配下のマレー人たちに与えられた任務はジャングルを先回りしてイギリス軍が橋やダムに仕掛けた爆破装置を解除することだっ た。F機関の任務は英印軍内インド兵を日本側に投降させることが一番大きな任務だったが、ハリマオ工作もまたジャングルに不案内な日本軍にとって重要だっ た。

 ハリマオたちの戦果がどれほどだったかは戦史は一切明らかにしていない。そのハリマオはシンガポール陥落の直後の1942年2月、マラリアのためジョホールバルで急死する。日本との関係はたった2カ月だった。

 ハリマオの存在が初めて日本にもたらされたのは、1942年4月3日である。遺骨が藤原岩市氏の手で福岡に帰国していた家族のもとに届けられた時からで ある。その日から日本の新聞はトップ扱いでハリマオこと谷豊を国民的英雄に祭り上げ、翌年にはハリマオの映画まで上映された。

 日本でのハリマオ伝説はその日に始まるため、戦時中の国民への戦意高揚を目的にしたことは否定できない。もちろん国の宣伝工作に使われた面は否定できな い。それでも筆者がハリマオにこだわるのは、戦前の一時期ながらマレー人に成りきった日本人がいて、マレー社会のなかで信頼されて生き抜いていたという事 実である。

 先に講談本と書いた「神本利男とマレーのハリマオ」は、著者の土生良樹氏がマレーシアのタイ国境近くに住んでいたアブドル・ラーマンという長老からの聞 き語りが柱となっている。ハリマオのかつて部下で最後まで行動を共にした人物であるだけに、ハリマオの真相に迫っている。

 ラーマン長老はもはやこの世にいないが、マレー人が語るハリマオ証言を読むと、やはりハリマオ伝説は本当だったのではないかという気がしてくる。戦後、アジアで経済的に成功した日本人は数多い。だが、ハリマオのような存在をいまのアジアで捜すのは難しい。

1999年06月01日(火)共同通信記者 大辻一晃

 アメリカに住んで1年近くになるが、日本で聞いていたのと最も落差が大きいのが、アメリカの航空事情だ。

 「規制緩和の優等生」「自由競争で活性化」--1978年に始まったアメリカの航空自由化について、日本では肯定的な受け止め方が多く、「アメリカに比べ日本の航空会社はなってない」という論調も多い。

 しかし、実際にアメリカの航空会社を利用してみると、理想とはほど遠い姿に愕然とさせられる。むしろ、航空自由化は「市場の失敗」ではないか、と思えてくる。

 日本の航空政策への影響も大きいアメリカの事情を紹介する。

 ワシントン-シカゴが1000ドル以上

 ワシントンDCは、「世界のリーダー」を自認するアメリカの首都であるばかりか、IMF、世界銀行など国際機関も本部機構を抱える「国際首都」である。 このため、全米はもとより、世界各地から政治家、行政マン、民間経済人、研究者、報道関係者、さらに観光客が集まり、国際会議やシンポジウムも頻繁に開催 される。

 ワシントン圏には、市街地からタクシーで10分程度のところに主に近距離線の「ロナルド・レーガン・ナ ショナル空港」、専用ハイウエーを抜けて1時間弱の「ダレス国際空港」の2つの空港がある。鉄道が日本ほど発達していないアメリカでは、ワシントンから国 内各都市や外国に行く場合、どちらかの空港を使うのが一般的である。

 ワシントンは人の往来が極めて活発であるため、ワシントン発着の航空便は満席状態であることが多く、2つの空港とも常に混雑を極めている。

 「需要と供給」の関係で言えば、供給に比べ、需要が圧倒的に多い状況である。となると、何が起きるか。

 答えは「価格上昇」である。

 東京-大阪に相当するワシントン-ニューヨークのシャトル便は、正規料金で乗ると400ドル以上する。土 曜日を挟む日程で3週間前に買うと150ドルぐらいまで割り引かれるが、この区間を利用するのは主にビジネス客だ。仕事の予定がこんなに早くから立つこと はないし、経路変更の可能性も考えなくてはならない。それに、週末を出張先で過ごすことも少ない。

 私は仕事、プライベートを含め、毎月のようにニューヨークに行くが、たいてい正規料金か、それに近い金額 を取られている。東京-大阪は確か、正規料金でも3万5000円ぐらいで往復できるはずだ。2万円前後の割引料金もあったかと思う。1ドル=120円とす ると、アメリカは日本に比べ3-4割高い感じだ。

 ワシントン-シカゴはもっとひどい。飛行時間2時間と東京-福岡程度のフライトなのに、正規料金は1800ドル。一週間前に買っても1000ドル強する。3週間前に行き帰りの日程をフィックスして初めて、350-400ドルまで下がる。

 実は、ワシントンから鉄道で1時間のところにもう一つ、ボルチモア・ワシントン国際空港(BWI)という 比較的新しい空港がある。地理的に便利が悪いため不人気な空港だったが、最近は航空会社から取る空港利用料金を引き下げ、中小航空会社を誘致して「低料金 空港」という特徴を打ち出し、そこそこ人気が上がってきている。

 ここからシカゴまで、何と250ドル程度で行ける。逆に言うと、航空会社はコスト的には250ドルでも元が取れる、ということだ。いくらナショナル空港の利用料金が高いと言っても、1000ドルもかかるはずがない。航空会社は恐らくボロもうけだろう。

 しかし、仕事でBWIを使うのは難しい。鉄道の本数が少ない上、時刻表があてにならず、相当早い時間に出 なければならない。また、BWIのフライトは出発時間が朝早く、到着が深夜になることが多い。節約は疲れる。ただでさえパソコンなど手荷物を抱えたいへん な出張では、ついついBWIを敬遠しがちだ。

 西海岸も同様に高く、ワシントン-サンフランシスコは2000ドル以上する。どういうわけか、ワシントン-ロサンゼルスは500ドル前後の割引券が比較的潤沢に出回っていて、割と直前でも買える。ただし、時間や経路の変更はきかない。

 ●独占で価格釣り上げ
 「なぜ、ワシントン-ニューヨーク間がこんなに高いんだ」と聞くと、アメリカの航空会社は「需要があるからだ。この値段でも、満員じゃないか」と返答する。

 一見、もっともらしいが、航空サービスは「ふつうの商品」ではない。なぜなら、空港という設備の収容能力に限界があり、いくらでも供給できるわけではないからだ。需要が増えても、それに見合う供給増には限界があり、過小供給となってしまう。  ワシントンの場合、ナショナル空港で発着枠を確保できれば、その時点で「競争の勝者」となれる。いくら高い料金を設定しても、ライバルが参入してくる心配はない。

 航空運賃の不公正な実態にメスを入れようと、米司法省は先日、アメリカン航空を独占禁止法違反で提訴し た。アメリカンは、拠点空港のダラス・フォートワースで、低料金で新規参入してきた中小航空業者を締め出すため、これらの業者を狙い撃ちする形で増便、価 格引き下げなどを仕掛けた。

 日本でも大手航空会社が新規参入組のスカイマークなどに対抗し、競合路線の運賃を大幅に下げて締め出しを 図っていると聞くが、アメリカンはその「先駆者」だったようだ。日本の場合、中小業者が締め出されるかどうかの瀬戸際だが、アメリカではこうした競争の結 果、中小業者の多くが既に主要空港から締め出された。例えばダラス・フォートワースの場合、アメリカンが旅客便の70%以上を占有してしまった。

 その次に、どう出たか。

 ライバルを追い出した後、アメリカンは料金を元の高値に戻した。空港の発着枠を独占できたのだから、もう低料金の新規業者に脅かされる心配はない。安心して客から搾り取れるわけで、司法省はこうした行為に独禁法違反の疑いをかけた。

 今、アメリカの国内航空業界は大手による寡占体制がほぼ出来上がり、国際的な「寡占」作りが次の課題となっている。国内でしこたま儲け、これを原資に国際線で値下げ競争を仕掛け、外国競争会社をぶっつぶすか、傘下におさめてしまう構想だ。

 ユナイテッド航空(UA)、ルフトハンザを中心とする「スターアライアンス」に全日空が組み込まれ、アメリカン航空、エールフランス連合に日本航空が取り込まれつつあるのは、その流れだ。

 ワシントン-シカゴが割り引きでも1000ドルもするのに、ワシントン-東京は6月なら600ドルで買え る。経路変更はきかないし、日時もフィックスだが、出発の直前まで買える。UAのシカゴ経由ワシントン-東京便を割り引きで買い、シカゴで降りる。シカゴ -東京は捨てて、そのままシカゴからワシントンに帰ってくる。この方が、ワシントン-シカゴを買うより安い、という、とんでもない矛盾が現実にある。

 「需要と供給の関係で価格を決める」ことが「自由化」であるとすれば、航空業界に「自由化」はなじまない。

 やがて国際線の寡占体制が構築されれば、ワシントン-東京も値上げされてしまうのは間違いない。JALやANAには、がんばってもらわねばならない。

 ●劣悪なサービス
 料金は高くてもサービスがいいのか、というと、そんなことは全くない。

 昨年末、ニューオーリンズに旅行に出掛けようとしたら、あいにく前夜からの大雪で空港がふさがれた。ほとんどの便が遅延またはキャンセル。

 天気が悪いのは仕方がないが、ここからが最悪。午前9時半の便に乗るため、ナショナル空港のカウンターに 8時半から並んだが、列が進まない。9時すぎ、不安になってボードを見ると、出発時刻が昼の12時半に変更されている。さすがに3時間もあれば余裕だな、 と思ったが、甘かった。

 昼前、客の行列をよそに、カウンター内の航空会社職員が次々と昼食に出る。残っている職員も、動作は緩慢だ。日本なら係員が列のところに来て、トランシーバー片手に頭を下げながら案内するところだろうが、客がイライラしても職員は動じない。

 チェックインできたのは12時20分。急いで搭乗口に向かったが、今度はセキュリティーでまた行列。ようやくゲートに着くと、そこでまた「席決め」の行列。何だか様子が変なので係員に聞くと、「おまえの飛行機はたった今、飛んでいった」。

 航空会社と空港の都合でチェックインが遅れたのに、飛行機はしっかり定刻に飛び立っていた。職員とかけ合 い、相手の不手際を指摘し次の便に変更してもらうのにひと苦労。夜7時半離陸予定だったその便はキャンセルされ、指示に従いバスでBWIに。最終的に ニューオーリンズに飛び立ったのは翌日未明だった。

 この日はたまたま大雪だったが、アメリカでは航空便の遅延、キャンセルの多さが社会問題化している。次期 大統領選挙に立候補を表明しているゴア副大統領は、遅延などの際の情報開示、顧客への休憩所や飲食料の提供を航空会社に義務付ける方針を表明し、議会とと もに作業に入っている。

 なぜこんなに遅延やキャンセルが多いのか。その一因として、オペレーション・コストを切り詰めるため、航 空会社がハブ(拠点)空港に航空機や設備、人員を集中し過ぎている事情がある。ハブ中心の運営のため、どこかで天候不順などがあると玉突き式に影響が広が り、予定通り飛べなくなってしまう構造になっているのだ。

 日本でも航空会社が自由化時代を生き抜く術として、オペレーション集中を取り入れようとしているが、コストが下がる代わりにサービスが大きく低下する懸念があることを知っておいた方がいい。

 先日の某新聞コラムに「日本の航空会社はサービスが悪い」旨の記述があり、アメリカでは西海岸-東海岸の 国内線で食事や飲み物が出るのに、日本の国内線は...、と批判されていたが、西海岸-東海岸は5時間もかかる。こんな「国内線」は日本にはなく、比較不可能 だし、値段もアメリカの方が圧倒的に高い。

 離陸時、田中角栄の元秘書がシートを倒したままであることを乗務員に注意されたのに聞き入れず、出発が遅 れた問題でも、このコラムは「日本の航空会社はマニュアルに忠実すぎて、顧客の快適性を重んじない」というが、まったく的外れ。アメリカで元秘書と同じこ とをしたら、その場でつまみ出された上、損害賠償請求を受けるだろう。

 UAの夜行便で空いていた時、4人掛けのシートに横になったが、少しでも乱気流に入ると乗務員が「起きろ」と尻を叩いて回り、ゆっくりできなかった。日本の航空便で同じ姿勢でいた時は、ここまで激しく注意されなかった。

 ●航空行政のあり方
 もちろん、日本の旧3社体制が良かった、というつもりはない。アメリカの航空自由化に「いいこと」がなかったわけでもない。確かに、自由化で中小航空業者の参入が進み、一時は低価格便が増えた。競争に伴うサービス向上もあった。  しかし、航空業界の特殊性を考えると、単に自由化して問題が済むわけでなく、常に競争状態を人為的に作る「競争政策」が求められることが、アメリカの経験で分かった。

 アメリカは、独占禁止法の強力な運営で自由化の弊害を克服する道を取ろうとしているが、日本には強力な独禁法も、競争政策当局も存在しない。

 日本は今、アメリカの航空自由化のまねをし、「低価格」を売り物とするいくつかの中小業者の新規参入が実現した。そして、大手がこれを潰そうとしている--、ここまではアメリカの歴史と酷似している。この先、どこに行くのか。

 アメリカとの違いは、一つは、大手に体力がないことだ。一足先に自由化を体験したアメリカの航空会社は、 当時は国際線でもうけながら、国内で中小潰しをした。これに対し日本は、今、国際的な「格安競争」の真っ最中にいる。同時に、国内でも自由化が進められて いる。日本の大手3社はどこも外国系の手中に落ち、「国際寡占」の片棒をかつぐことになりかねない。

 一方、国内の自由競争は、中小業者が青色吐息で早くも暗雲が差している。アメリカのような独占禁止法的な対応が困難な日本で、どう競争を維持するのか。

 「アメリカの航空自由化は手本」という幻想を捨て、日本は航空政策を根本から考え直す時期に来ているのではないだろうか。

 大辻さんにメールotsujika@kyodonews.or.jp

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