1999年5月アーカイブ

1999年05月30日(日)萬晩報主宰 伴 武澄

 04月14日付萬晩報「移民受け入れで活性化を提唱した経済審議会」には厳しい意見が多かった。どこの国でも観光目的以外の外国人の受け入れには保守的なものだが、萬晩報を読んで下さっている読者の中にもやはり、外国人の導入にはハードルが高いということなのだろうか。

 でもよく考えていただきたいのは、スポーツの世界では、もはや外国人なしには試合が成り立たないのが実情。大相撲でさえそうだということを先の夏場所は教えてくれたのではないだろうか。

 武蔵丸が横綱に昇進したことで、小錦が初優勝したときのことを思い出した。ドライでヤンキー気質かと思われた小錦が優勝杯をもらいながら涙をしたのである。長い間の精進を積み重ねるうちに、日本人としての気質まで吸収していたのかと少々感動した。

 外国人受け入れの議論では必ず、単純労働者が問題にされるのだが、単純労働者であってもやがて熟練し、い つかは指導的な立場に立つはずであるし、お金を貯めてベンチャー企業を打ち立てる可能性だってないわけではない。その子どもたちにいたってはますますその 可能性が大きいのかもしれない。

 萬晩報は、人間を単純に知的労働と肉体労働に分けて考える立場には立ちたくありません。いまの日本ほど異質なものとの出会いを必要としている時はないと思います。


 ●移民受け入れは先進国としての責務
 いつも萬晩報を読ませていただいています。移民の受け入れは正規に受け入れる時期に来ていることに同感である。我が国の国民が日本が先進国であると自覚 するのであれば、特にアジアからの移民を仲間として受け入れることは戦後50年たっても根強い日本に対する意識を改善するためにも有効だと思う。

 萬晩報が述べているように、日本国内で日本人と共に生活し、日本語を話し、日本文化を直に受け入れる人たちが増えればきっと長い目で見ればアジアの国々に今の日本に対する理解が浸透していってくれる要因になってくれると思う。

 さらに、今国内にすむ不法滞在者を含め移民が正規に労働すれば、納税し、年金を納めてくれるようになるはずだから、21世紀の年金政策に大きく影響するはずである。(移民が年金を受給するのは20年以上先でしょうから)(大越雅也)

 ●受け入れるべくは知識労働者
 発展途上国から労働者を受け入れるということは先進国の責務だとは思いますが、特殊技能や知識を持った労働者と、低賃金の単純労働をする人とは分けて考えるべきです。私は、低賃金の労働力を確保するために外国人を受け入れるということには賛成できません。

 低賃金の労働者を受け入れると、差別意識などが高まってしまうように思います。また、低賃金の労働者が増えても税金や年金など福祉の負担を担う人が増えるとは思えません。

 受け入れる必要があるのは、発展途上国のなかでもトップクラスの知識や技術を持った人々です。そのような外国人が大学の先生、会社経営者、医者、高給サラリーマンなどの高額所得の労働者として日本の国内に入り込めば、その人たちが福祉の負担を担ってくれると思います。

 発展途上国から来た大学生などに日本や米国で接する機会がありますが、選ばれてきただけあって一般的に日本や米国の学生に比べて優秀でやる気があります。彼らの中には大学や大学院を卒業して日本で働きたいと希望する人が多くいます。

 今の日本の制度では一部の人の受け入れは可能ですが、外国人が就くことのできるポジションは3年毎に更新しなければならいといった制限があって不安定です。また働くことのできるポジションが少ないために優秀な学生が日本に来たがらないという問題もあります。

 技術や知識を持った人々は低賃金の単純労働者に比べて日本人と接する機会もはるかに多く、異文化との交流 が促進されるはずです。また、日本の平均的な人よりも優秀な人々との交流なら、外国人に対する差別意識なども少なくなるでしょう。(今は国の推薦を受けた 人でさえアパートの入居を拒否されるという差別を受けます)

 また、トップクラスの知識や技術を持った人々が本国に戻れば、その国に対する貢献度も低賃金労働者よりは はるかに大です。たとえば、米国では、韓国、中国、台湾、インドなどからトップクラスの人材を受け入れてきました。彼らは、米国内で活躍し、米国の経済や 財政に多大な貢献をしているだけでなく、一部の人は本国に戻って本国の経済発展にも大きな影響を及ぼしています。

 これに対して、米国ではメキシコなど南米から低賃金労働者を受け入れてきましたが、低賃金労働者が本国の発展に及ぼした影響は韓国・中国などの場合に比べてはるかに小さいのではないでしょうか。

 中小企業の労働力不足の問題は、外国人受け入れと切り離して考えるべきです。中小企業などで低賃金のだれ にでもできるような単純労働力が不足しているならアルバイトを雇えば良いのではないでしょうか。そのようなところでアルバイトがしやすい環境を作るべきで す。たとえば失業者や退職者がそこでアルバイトする場合政府が補助するとか。(そう簡単には行かないかもしれませんが)

 また、熟練労働者や3Kなど皆が嫌がる仕事の人材が足りないならその給料を上げてそれらをプロフェッショナルの仕事とするべきです。その給料が日本人の平均以上になればそこに外国人を受け入れても良いと思います。

 このようにすると、結果としてプロ(熟練労働者)とアマ(単純労働者)の賃金格差は広がりますが、企業が支払う全体の賃金はそれほど変わらないと思います。

 私事ですが、中国から米国にやってきた友人夫妻が米国の市民権(国籍)を獲得したということで、明日、そ の祝いのパーティーに出席します。最近は、市民権を得るということが非常に難しくなっており、彼らが十数年の苦労の末に市民権を獲得したということが地方 紙で写真付きで大きく取り上げられたそうです。

 また、今、別の中国から来た人の米国の永住権を取るための推薦書を書いています。今までは、それほど有名 でないコックとか米国で博士号を取得し何度か学会に論文を出した人でも永住権がとれていましたが、今後は世界的な著名人や専門家団体の中でも抜きん出た才 能の持ち主しか申請ができなくなるようです。

 外国からの人の受け入れに寛容と思われている米国でも、外国人が永住権や市民権を得るのは非常に困難な時代になってきました。(米国の南部の町より「雨漏り実験室」のチャ)

 ●なぜマイナス面についても指摘しないのか
 外国人労働者の積極的移民政策には反対です。ドイツの例を書いていますが、ドイツではトルコ系住民に対し帰国資金を援助してまでも帰そうとしていたはず です。それほど問題が大きく生じていたはずです。詳細なことは調べればすぐ分かるはずです。なぜマイナス面についても指摘しないのですか。

 知らないとすれば勉強不足です。故意に隠していたとすればこれも問題です。先進諸国も移民政策を積極的に 受け入れているから日本も従うのがよい、という議論にはあきれました。国によって社会的背景、歴史、利害関係すべて違うのです。スイスではどのようにして 外国人労働者をあつかっているか、調べてみてください。

 アジアのマレーシア(シンガポール?)も外国人労働者をどのように扱っているか調べてみてください。人権問題に発展するような事をしているのですよ。それほど自国を守っているのです。きれいごとだけでこの問題を書かないでもらいたい。(Eiyu Yshiki)

 ●日本人どんどん国外に出ていく方が世界の為には良い
 御無沙汰しております。毎回いろんな方面の記事を頂き楽しく拝見させて頂いております。今回の話に関して、私には非常に引っ掛かることがあります。

 御指摘のように日本は世界にも類を見ない単一民族国家だと思います。そのせいか外交が非常に不得手な民族 でもあります。異文化に接したり異民族に接したりすることにより、日本人の精神レベルがより高次に成長する事は間違いありません。しかし、移民受け入れが そのまま世界の為になるかと考えると、違うような気がします。

 その根拠は、日本の中に見ることが出来ると思います。東北地方の人の出稼ぎが、東北地方の為になったのでしょうか。労働力を借りるとか移すという事は、それを持っていかれるところに対して補償をしていかなければならないのです。

 今の日本人が国境の壁を乗り越えて、そこまでの指導力を発揮できるのか。(私はそういう事が出来るかと聞かれると、自信がありません)

 単に日本の労働力不足の解消の為だけに、近隣諸国から搾取するだけでは、やはり将来日本が孤立してしまう原因になると思います。

 ここは、逆に日本人や日本の企業がどんどん国外に出ていくことの方が世界の為には良いのではと思います。これは、現在のような一時的な海外進出ではなく、その土地に自分の子孫を残すといる断固たる決意による海外進出です。それが本当の国際化だと思います。

 日本にいてアラブの人と親交があったからと言って、アラブ人の考え方が理解できるかというと、不可能だと思います。それは現地の気候・風土に触れて初めて分るものだと思うからです。

 うまく言葉に表すことも例を示すこともできませんが、短絡的な労働力受け入れは間違っていると思います。(Tiger)

1999年03月10日(月)萬晩報主宰 伴 武澄

 先週、スコットランド議会の選挙があり、大英帝国からの分離独立を求める国民党(SNP)と労働党の一騎打ちになったが、労働党が過半数を征し、独立派を抑えた。7月には東チモールの独立の是非を問う住民投票がある。

 バルカン半島では血で血を洗う戦闘が絶えないが、20世紀の世紀末を迎え、国家の枠組みは問い直す動きが世界のあちこちで起きている。21世紀に向けて国家に関する概念ががらがらと崩壊しているような気がしてならない。

 読売新聞国際部の濱本良一さんが東京外語大の中嶋ゼミ誌である「歴史と未来」に興味深いレポートを書いているので紹介したい。題して「プエルトリコと台湾」。奇しくも昨年、独立の是非と問う住民投票が実施され、まったく逆さの結果が出たのだそうだ。

 ●いずれの選択肢も支持しなかったプエルトリコ
 プエルトリコでの住民投票は「アメリカの51番目の州になるかどうか」について5つの選択肢から選ぶものだった。
 (1)アメリカのの51番目の州になる
 (2)自治領であり続ける
 (3)独立
 (4)主権国となった上でアメリカと自由連合を結ぶ
 (5)いずれの選択肢も支持しない

 結果は「いずれの選択肢も支持しない」が50.2%と過半数を占め、「アメリカのの51番目の州になる」が46.5%と次いで多く、「独立」はたったの2.5%。「自治領であり続ける」はわずか0.1%だった。

 濱本さんの解説では、プエルトリコの与党・新進歩党はアメリカの51番目の州を主張したのに対して、野 党・人民民主党が「より独立性の強い自治領化」を主張した。だが、人民民主党の主張は投票の選択肢から外されたため同党は「いずれの選択肢も支持しない」 への投票を呼びかけた。

 与党が主張する「51番目の州」が過半数を得なかったとのは「住民には完全にアメリカの一部になることへのためらいがあり、『いずれの選択肢も支持しない』が過半数を得たのは『より独立性の高い自治領化』への住民の願望が強いことを示したものだ」と分析している。

 自治政府の実施した住民投票だから自分たちに都合のよい選択肢を提示するのは当然としても「いずれの選択 肢も支持しない」という項目があったのは新鮮だった。日本の国政選挙でも地方選挙でも「いずれの候補者も支持しない」という項目があったら、きっと多くの 選挙区で高い比率をえるのだろうなどと考えてしまった。

 いずれにせよ、「独立」を選択した人々がたったの2.5%というのは驚きである。「51番目の州」と「独立性の高い自治領」がプエルトリコの人々のほとんどの希望なのだとしたら、かなり都合のいい選択肢だったということである。

 プエルトリコは、1898年の米西戦争でアメリカがスペインから割譲され、1952年に自治領に昇格した。住民はアメリカの市民権を持っており、アメリカへの移民も自由であるそうだ。大統領選と上下両院の選挙権はないが、連邦住民税がない。

 参政権などなくとも自由が享受でき、ドル経済圏のなかで生きられるのならば不満はないということで、 ひょっとしたら世界でも同じように生活さえ安定しているなら、民主主義の根幹であるはずの「参政権に固執しない」と考える人々もいるのではないかという気 がしないでもない。

 ちなみにアメリカの信託統治領だった太平洋諸島のミクロネシア連邦とマーシャル諸島共和国、パラオ共和国は独立してアメリカとの自由連合を選択、北マリアナ諸島連邦は住民投票で自治領を選んだ。グアム島とウェーク島はアメリカが占領したままである。

 ●与えられた選択肢を選択できなかった台湾市民
 分裂国家の片割れである台湾の場合はそんなに悠長ではない。昨年12月、統一地方選と同時に実施された台南市での台湾初の住民投票は、「大陸(中国)に 統治されることに反対」が78%を占めたものの、投票率はわずか25%と日本の国会にあたる立法院選挙の投票率42%の6割しかなかった。

 濱本さんは「投票結果を恐れて遠慮したのか、一都市レベルでの住民投票に意義を認める住民が少なかったからなのか不明である」としている。中国は台南市での住民投票について「ごく少数の危険分子による祖国分断活動で、危険な火遊びである」と激しく非難したそうだ。

 経済的に繁栄する台湾の人々の本音は「独立」であるといわれている。だが、台湾にとって「独立」という文 字はいわば禁句に属する。中国というスーパーパワーが台湾の武力解放を放棄していないだけに、「大陸」という存在が「見えない圧力として住民の意識を左右 している」としても不思議でない。

 台湾生まれとして初めて総統に選ばれた国民党の李登輝は「中華民国」の「台湾化」を進めており、「独立」という表現こそは使わないが、「中国と対等な政治実体」と台湾が国際社会に認められるべき主権国家であるとの立場を鮮明にしている。

 中台をめぐる緊張の度合いを端的に示したのは、1996年3月、建国以来初めて実施した総統選挙の最中、中国軍が台湾近海にミサイルを打ち込んだという事実だ。発足当時、台湾独立を標榜していた野党の民進党も最近では「独立」という表現を一切避けるようになった。

 台湾の人々は「独立を望んでも、そう簡単には許されない」という冷徹な国際関係を身をもって感じ取っているに違いない。経済的な繁栄を享受していても常に政治的緊張を強いられる小国の悲哀を感じないわけにはいかない。

1999年05月03日(月)医師 色平哲郎

 信州の山の村に家族5人でくらしながら、村の医療にとりくんでおります。

 3年前に村に赴任して、野辺山高原の吹雪の冬、氷点下25度の地吹雪を幾度か体験いたしました。冬山の厳しさ、恐ろしさを知るとなおさら春の芽吹きがなつかしくなります。新緑のからまつ林、白樺林が風にゆれる高原の初夏が、とても待ちどおしくなりました。

 標高1350メートルにひろがる野辺山高原を、佐久甲州街道の分水界にあたる平沢峠から、眼前に一望しま す。裾野が巨大にひろがる八ヶ岳の峰々の上を、白い雲が流れていきます。白い雪を頂く八ヶ岳の岩峰から甲州信州の県境、県界尾根をすべり落ちて、雪解け水 が足下の渓谷に流れ下っていきます。

 この野辺山高原は中国東北地方、旧「満洲」から追われて引き揚げた日本全国の開拓民が敗戦後再度の入植を したところです。長く米のとれない無人の荒野だったところで、戦時中は海軍航空隊の基地が「本土決戦」のために設営されていました。松代大本営と同時期 の、朝鮮人を大量動員しての造営だったとききます。

 信州は「神州」とされ、今次大戦末期には信州各地に日本軍の研究所や施設が地下工場として疎開していました。戦後払い下げられた原野には、二度目の入植で切り拓らかれた高原野菜畑が一面に広がっています。

 ●十の痛みを一ぐらいしか訴えない村人
 村営の診療所にはポツンポツンと「お客」が来ます。お客のほとんどが村の御老人です。待合室にはずいぶんと腰の曲がった高齢の方が目立つのですが、元気ではつらつとした表情の老人が多いことに驚かされます 。冗舌なひとはあまりいません。

 村の基幹産業である農業を現役として担っている方が多いので、自分に自信があるのでしょう。簡単には弱音を吐かない、「野性の」老人たちです。そんな患者さんたちとつきあっていると、都会と農村とではずいぶん違うものだと感じました。

 たとえば「痛み」について。都会では十の痛みを百の言葉で表現する方が多いのですが、こちら村では十の痛 みは一ぐらいにしか訴えていただけません。重大な病気を見落とさないために、ちょっとしたしぐさや訴えに注意することが重要になります。患者さんの表情 や、言葉になる以前の表現を読み取ろうとして、毎日努力することになりました。

 日々の外来診療で、「沈黙の証言」に耳をかたむける瞬間があります。年配の患者さんの変形した腰や膝の骨に刻まれた、歴史と時代の証言です。関節に水がたまった彼女たちの背中とおしりをさすりながら耳をそばだてます。

 すると、つぶれた背骨とすりへった軟骨がひとしきり語りかけてきます。機械にたよることのできなかった時 代、牛馬とともにあった村の生活ぶり。隣近所で助けあうしかなかった当時、「結い」とよばれた農作業の有り様を想像することになります。養蚕と炭焼き以外 にはほとんど現金収入のない、手作業の時代でした。自動車はもちろん、ガスも電気もない。後にアジア諸国から「おしん」の時代の日本、とのイメージで知ら れるようになった生活のありようです。

 ●往診のすきまに語られる人生の記憶
 往診の際の、ちょっとしたすきまの時間。ひとりひとりの人生の記憶の一瞬が、輝いた肉声で語られます。兵隊に行った時の苦労。「国費の海外旅行」でなぐ られ続けたこと。「肉弾」となって死んだ戦友の想い出。ビルマ戦線の200人の部隊で戦病死60人。本当の戦死は2人で、あとは栄養失調で死んでいったこ と。

 峠を越えてお嫁に来た時の驚き。長持をたずさえて馬に乗り、再び生家に戻ることの難しい村境をヨメとして越えた想い出。「新宅」とよばれる分家のヨメとして、本家の庄屋にいびられ続けたこと。村内の親戚筋には語れない思い。

 「あの姉さんには、泣かされた」。たぶん村外者の医者相手には、話しやすいのでしょう。

 百十余年も前の秩父困民党の蜂起と、村をふたつに割った酒屋、庄屋への「うちこわし」の喚声。その後の官憲の追及と弾圧。「口減らし」で子守り奉公に出された想い出。子守りに追われて小学校に3日しか行けず、中退したこと。

 幼い女工として親からはなされて集団で寄宿舎で過ごした「籠の鳥」の生活。しかし、そこの寄宿舎で文字の読み書きを習うことができたこと。戦前の紡績工場でストライキが闘われたこと。読み書きを教えてくれた姉さんが、争議のリーダーとして解雇追放されたこと。

 薪炭を村から汽車で出荷した先、上野駅の傍の問屋で、住みこみで丁稚修行をしてお得意先廻りをしたこと。東京市神楽坂、帝大の文学博士の家に女中奉公に出されていて、ラジオで聞いた戒厳令布告、雪の「2・26事件」でした。

 今はなき、こどもたちの歓声絶えることのなかった山の村の分教場跡。トロッコに乗って、かくれて遊んだ森林鉄道の軌道跡。今は朽ち果てた鳥居ばかり残る部落の神社で、盛大な祭礼がなされたこと。

 関東大震災で被災し、歩いて信州に逃れてきた峠越えの一団。村の消防団員が峠で彼らを迎え、竹槍をかまえて「五十五円、五十五銭」と発声を強いる。濁音が発音できない者は、「井戸に毒を入れて歩く朝鮮人」である!

 ムラの有為の青年たちを、数次の帝国主義戦争の戦場に送り出した、村境の「別れの松」。この松の樹下に は、赤ん坊を背負い子どもの手を引いた女性が、出征する兵士となった夫を見送る立像がひとつ。空襲下の東京から焼け出され逃れてきた、痩せた「縁故疎開」 の一群の家族。生活基盤と農業経験のない彼らの、村での肩身の狭い想い。ひもじさの時代でした。

 戦後の村を大混乱におとしいれた、農地解放をはじめとする戦後改革の大波。没落する地主と正義感あふれる 青年団活動。日本共産党による「山村工作隊」が歌った革命家とと農民運動の高揚。しんぼうにしんぼうを重ねた彼や彼女のからだに刻まれた時代のうねり。こ れらの痕跡を日々感じ取り、聴き届けるのが私の村医者としての仕事です。

 ●遺骨の代わりに石ころを安置し続ける老女
 自分の娘の顔を見ても、誰だかわからなくなってしまった老いた女性。嫁いで60年にもなる嫁ぎ先の家の間取りをすっかり忘れてしまう。まるで子どもにも どってしまっていて、「ごちそうになりやした。」と言う。食事が終わると、自分の生まれた隣村の実家に帰ろうと帰り支度を始める。

 「学問もねえからよくわからんだども、、、おまんま食って、、、いつでも食べたい時に食べられる。こごとがなくて、家じゅうにけんかがなく、気楽だ。おこることもなく、達者だ。家でよく寝て、あんどに暮らせる」
 「幸せなんですね」
 「あんまり幸せすぎて、いったいどういうことだ、と考えこんでしまう」

 南方フィリピンへ「出征」して、帰ってこなかったひとり息子。息子の名前は、告げられた老いた女性の意識 を呼び覚ましていきます。この家の仏壇には、レイテ島から届いた骨の代わりの石ころが入った骨壷が安置されています。難聴で、惚けてしまっているはずの彼 女が「ものがたり」はじめます。「事実」ではないのかもしれません。

 しかし「銃後」と長かった戦後の彼女を支えた「真実」がほとばしるひとときです。「死んではいない。」彼 女は半世紀たっても、惚けてしまっていても、骨になったはずの息子の帰りを待ち続けています。同じフィリピンから帰ってこなかったひとり、23歳で戦死し た詩人竹内浩三の「骨のうたう」を掲げます。

戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
遠い他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や

白い箱にて 故国をながめる
音もなく なんにもなく
帰っては きましたけれど
故国の人のよそよそしさや
自分の事務や女のみだしなみが大切で
骨は骨 骨を愛する人もなし
骨は骨として 勲章をもらい
高く崇められ ほまれは高し
なれど 骨はききたかった
絶大な愛情のひびきをききたかった
がらがらどんどんと事務と常識が流れ
故国は発展にいそがしかった
女は 化粧にいそがしかった

ああ 戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
こらえきれないさびしさや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や

 苦労を苦労と自分にも他人にも感じさせず、必死に生き抜いて世紀末の現代日本を迎えるに至った人々です。 首のうしろにザクリとえぐれた刀傷が残っていた女性がいました。フィリピンのミンダナオ島ダバオからの引き揚げ体験を、ひとことだけ語っていただいたこと があります。銃剣の傷というものをはじめて見ました。詳細に問い直すことが、わたしにはできませんでした。侵略側の一民衆としての彼女が受けたこの傷は、 現地民衆の受けた、これに数十倍する苦難を彷彿させるものです。

 ●寝たきりで目の見えない高齢の女性が「昔語り」をする日
 寝たきりで目の見えない高齢の女性がいました。すっかり呆けてしまっていて、うんちおしっこが垂れ流しになる日があります。しっかりしていて、「昔語 り」をする日もあります。「満洲」からの引き揚げ者でした。御本人と、本人を介護する高齢の娘さんからポツリポツリと伺います。

 「わしゃ、むかしもんだから、、、よくわからんだども、、、」と彼女は語りはじめました。

 分村して集団で満洲にむかう前、信州の山の村では電気も水道もない生活だったこと。信じられないほど貧乏 で、海外で一か八かの運試しをしてみることになったこと。満洲の入植地での、考えられないほどに恵まれた生活。生まれてはじめて白米を食べる生活になった こと。はじめて自分の土地というものを持った感慨。

 しかし何故か、既に開墾してあった土地に「入植した」こと。主に山東省出身の中国人から武力でとりあげた 開墾地を、日本人向けにへ提供し直したものであったこと。使用人として朝鮮人と中国人を使っていたこと。朝鮮人には米で、中国人には麦で給料を払ったこ と。こどもたちの友達にも朝鮮人や中国人がいて、みんな混じって各国語でしゃべって遊んだこと。

 「紀元は2600年、ああ一億の胸は鳴る」

 ところが「五族協和」の筈なのに何故か、列車や駅が次々に「馬賊」に襲撃されたこと。身代金を求める拉致事件まで伝わってきて、恐ろしかったこと。周囲の中国人が「ひとさらい」に見え始めたこと。匪襲に対抗した日満軍警の英雄的「討匪行」の報道。

 「満洲国」の治安対策として中国人部落には連座制が敷かれ、通匪者が出ると全村に責任が転嫁され、検挙されるとの噂。「満蒙は日本の生命線」

 ●抑留されたシベリアから生還した男性
 別の、引き揚げ体験をもつ女性。往診すると、自宅の神棚に写真がひとつ。3歳で収容所で死んだ末娘の写真でした。極東ソ連軍の侵攻で東安省千曲郷から山 のなかを西へ逃げたこと。食料を善意の中国人に分けてもらい、夜だけ歩いて迷いながら満鉄線沿線にたどり着いたこと。敗戦後ソ連軍に捕まってからの、収容 所での長くて暗い危険な夜のはなし。

 零下25度の冬、夜のうちに亡くなった人のからだが室内でたちまち凍ってしまう。しらみたちが周囲の暖か いほうへ逃げ出して来る。生きている人のからだへ乗り換えてくるしらみたちのたてる、音にならない音。それはまた、「朝になれば死者から余分の衣類がもら えるな。」ときこえる音でもあった。

 発疹チフスで、周囲の子どもたちがどんどん死んだこと。錦州から葫蘆島を経て日本に引き揚げたこと。ソ連侵攻直前に召集されて、結局シベリアから帰ってこなかった夫を待ちながら、3人の息子を育てあげた

 抑留されたシベリアから、生きて帰った男性が語ります。何故あんな深い長白山の森の中に、抵抗する「匪 賊」がいるのか、見当もつかなかった。昼は「満洲国」通化省だが、夜は匪賊の支配する「遊撃区」になってしまっている。「治安不良地」では満洲国と匪賊の 双方から、民衆に働きかけがなされているようだったと。

 日本人と(漢奸と呼ばれる)日本人に協力する中国人からなる「満洲協和会」は、中国農民のなかへとけこんで「工作」にあたっていた。

 或る日本人協和会幹部は「村人のよろこびや悲しみ、なげき、それは一体何であるか、それを正しくつかみ、それに応えるために立てた方策、それ以上の方策がどこにあるか。この地球上にそれ以上の方策があるか」と日頃語っていたという。

 一方「遊撃隊」の男女は、小さなパンフレットやビラをもって村々を廻っていた。文字の読めない人々のためには歌をうたって、工作に入っていった。

 「歌がわたしの最初の先生かもしれない。小学校に行ったこともない山の村の、無学の少女だった。民間に伝わる独特の節まわしを利用して、そこへ反日本帝国主義、反封建主義の歌詞をつけてあった」

 「満人」には警察から「良民証」が発行されるようになった。住んでいた家から、3日以内に出て行くように言われた彼ら「良民」の村。ひとつひとつの村が脅かされ、つぶされ燃やされた。強制移住させられて、高い土塀や木の柵の中に封じこめられた農民たちの「集団部落」。

 出入口には警備員がいて、四隅の望楼から四六時中の警戒監視がなされていた。「良民」との接触を隔てて無人地帯を作り、匪賊の糧道を断って飢えさせて包囲する、との満洲国軍政部方針だった。

 入植地周囲の深い森「千古斧鉞(ふえつ)を加えざる原生林」に討伐のための道路が開かれていく。山中に孤 立して暮らしていた農民の村がどんどん強制的に里に下ろされる。共産匪をはじめ「満洲国腹中の癌」といわれた中国人、朝鮮人の匪賊リーダーの生首が、役場 前や警察署前にいくつも晒し物にされていた。

 彼らの死顔や遺留品の写真が新聞でくりかえし報道された。仲間を裏切って満洲国に帰順し、討伐隊の先達を つとめる土匪もいた。満洲国の存在を否定し、日本の支配に武力で抵抗するゲリラたちであることを、当時全く知らされていなかった。戦後ずいぶんたってか ら、反満抗日のたたかいを担った「東北抗日連軍」(抗連)とよばれる男女であったことを、はじめて知った。

 ●満洲で死んだ或る日本兵の遺書
 戦後「星火燎原――中国人民解放軍戦史」としてまとめられた本の中に、「抗連」14年の苦闘についての記載がある。その第4巻、李延禄将軍の文章に、この頃満洲で死んだ或る日本兵の遺書の全文が写されてあった。

 親愛なる遊撃隊の同志のみなさん。
 わたしは、あなたがたが山あいにまいた宣伝物を読み、あなたがたが共産党の遊撃隊であることを知りました。あなたがたは、愛国主義者であり、また国際主義者でもあります。
 わたしはあなたがたにお会いし、ともに共同の敵を打倒したいと、切に思っています。しかしわたしはファシストのけだものたちに取り囲まれていて、あなた 方のところへ行くことができません。わたしはみずからの命を絶つことにしました。わたしが運んできた10万発の弾薬は、あなたがたの軍隊に贈ります。どう かみなさん、日本のファシストをねらいうちしてください。わたしの身は死のうとも、革命の精神は生き続けます。神聖な共産主義の事業の一日もはやい成功を 祈って。

 関東軍間島日本輜重隊 日本共産党員 1933年3月30日 伊田助男

 ●白頭山と似ている野辺山高原の風景
 毎日の食卓がまるでお正月のようになった、幸せいっぱいの日本列島。毎日毎日ご馳走がならんでいる現代の日本にあって、腹にひびく「ものがたり」を大事 にききとろうと努めながら、日々の診療にとりくんでおります。そして伊田助男の自死した満洲国の東辺道、長白山脈の山麓地帯について。

 15年前に一度だけ訪れたことのある中国と朝鮮の国境の山、朝鮮民族の聖なる峰です。朝鮮人は白頭山、中 国人は長白山と呼んでいます。広大な裾野をもつ山塊で、周囲は「千古斧鉞を加えざる原生林」。私は中国側から登りましたが、長く地図上の空白地域として残 り、「白色地帯」と呼ばれていました。

 標高2744メートルの白頭山は、八ヶ岳とほぼ同じ高さです。ただ緯度がずいぶん北にあり北緯42度とい いますから、北海道の襟裳岬付近に相当します。深い針葉樹林におおわれた太古の森の奥に聳える休火山で、頂上に「天池」という青い大きな湖がありました。 1000年ほど前の大噴火では、当時麓にあった渤海という国が滅び、噴火の噴煙と火山灰は海を越えて日本列島、現在の青森県の津軽十三湊に届いています。

 古く白頭山一帯は漢の楽浪郡、次いで高句麗に属し、渤海の滅亡後は遼(契丹族)、金(女真族)、元(蒙古族)とさまざまな民族の支配を受けていました。現在の中国と朝鮮を隔てている二つの川、鴨緑江と豆満江の源流地帯にもあたります。

 中国側を流れるもうひとつの大河黒龍江(アムール川)の上流、松花江の源流のひとつにあたる二道白河は天池から流れ出しています。天池からしばらく下ったところで大きな滝になって、ゴオゴオと水煙を上げていました。李朝の時代に、白頭山は明と朝鮮の国境になっています。

 白頭山の東北、海に下る豆満江の北側が渤海の故地、上京龍泉府や東京龍原府のあったところです。渤海は豆満江の河口、現在のウラジオストク付近から海を渡って、日本列島の能登や敦賀の港と交易をしていました。

 現在の中華人民共和国吉林省の東端に位置する延辺朝鮮族自治州の場所にあたり、朝鮮人たちは「北間島」と呼びならわしていました。ちなみに白頭山北麓、伊田助男自死の地あたりは「西間島」と呼ばれています。

 秀吉の時代になると、半島を突き抜いた加藤清正の軍勢が豆満江を北に渡って、現在の延辺自治州の龍井市にまで攻め入っています。現在の延辺自治州では、人口240万人のうち約40パーセントが朝鮮族と呼ばれる人々です。

 もともとこの地には朝鮮民族が多く住んでいましたが、今世紀になって更に南からの流入をみることになりました。日本が朝鮮半島を抑えにかかることによって、豆満江の南側、咸鏡道以南は日本の軍事制圧下におかれ、朝鮮人であることを否定される時代を迎えたのです。

 ●朝鮮人たちが「北間島」と呼んだ延辺朝鮮族自治州
 半島部を植民地化された朝鮮人の一部は豆満江を北に渡って「北間島」に逃れ、或いは押し出されて脱出し、中国領で暮らすようになりました。この頃中国も清から中華民国になり、軍閥そして国民党と共産党が割拠して、骨肉相食む抗争の動乱期を迎えます。

 中国東北部では、北へ脱出した朝鮮人たちを追うかのように、シベリア出兵の時も含め、日本軍が何度も何度も「北間島」「西間道」を軍事占領します。そして最終的には日本軍の自作自演「満洲事変」によって、山海関から東の全東北地方が中国本土から切り離されてしまう。

 中国人の愛国者が血涙をもって憤った、忘れられない屈辱と亡国の1931年「9・18」事態です。蒋介石の国民党政権はたたかうことなく東北失陥を許し、日本の関東軍の後ろ盾により、帝政がひかれます。この地は大日本帝国の傀儡、満洲帝国の間島省にされてしまいました。

 中朝国境の北のこのあたり、「北間島」龍井市に生まれた日本とつながりの深い人物に、詩人の尹東柱(ユ ン・ドンジュ)がいます。第二次世界大戦のさなか日本に留学していた時、朝鮮語で詩を書いたことから、朝鮮独立運動に関与したとの嫌疑で特高警察に捕まり ました。懲役刑をうけて福岡刑務所に服役中の1945年2月、若くして獄死しています。彼の「序詩」を掲げます。

死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
わたしは心痛んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。
今宵も星が風に吹き晒される。
 この尹東柱の故郷龍井を訪ねる旅を、私ども「日中恊働「飢民」支援フォーラム」はこの8月22日から29 日まで企画しております。白頭山や延辺朝鮮族自治州の歴史にご関心をお持ちの方に広めたく存じます。詳細はフォーラム事務局まで tel/fax 048-831-9512
 フォーラムのホームページはhttp://www.jca.apc.org/~mtachiba/kimin/
 色平さんへのメールはDZR06160@nifty.ne.jp
1999年05月01日(土)メディアケーション 平岩 優

 もう6~7年前になるが、表面的ではあるが都下や東京周辺の都市を回ったことがあった。市の商工課を訪ね ると、判で押したように鉄道駅に近い昔からの商店街の衰退が問題になっていた。主な原因はどこも同じで、駐車場がないために主要道路沿いにできたロードサ イドのDCに客を奪われているとのことだった。

 その頃、わたしの住む杉並区の西荻窪という地域も例外ではなく、駅前の小さな商店街は歯が抜けるように、店を畳む商店が増えていった。


 瀬戸大橋のたもとで見た商店街の荒廃


 昨年の11月、瀬戸大橋の出入口にあたる倉敷市の児島市に出かけた。ここには瀬戸大橋ができた89年頃に訪れたことがあり、約10年振りになる。その時はこの児島駅から瀬戸内海に下った下津井という地域で街並みの保存が行われていて、その様子を見にきたのである。

 下津井は、昔、北前船の寄港地で栄えたところで、老朽化し傷んではいたが、ニシンや昆布を貯蔵していたな まこ壁の蔵などが残っていた。当時はこの下津井地区も含めて児島には、瀬戸大橋をバネにした観光誘致の熱が漲っていた。たとえば、児島と下津井を結ぶ市電 に世界中の市電を集めて走らせようなどと言うプランもあった。

 全国津々浦々で、リゾート構想が熱病のように蔓延していた時代である。しかし、10年振りに降りた児島駅の周囲は閑散とし、聞けばその市電も廃線となったという。駅の近くには大型店舗が何軒か出店していたが、人通りも少ない。

 用事が済み、時間が余ったので、駅から15分ぐらい歩いたところにある、この辺の塩田王といわれた野崎家 の旧宅を見ることにした。野崎家の屋敷は水琴窟まであり、なるほど文化というのはこうして財のあるところに、塩のように結晶化するのだなあと、感心した。 野崎家から出てすぐに、大きなアーケードが覆う大きな商店街がある。

 しかし、足を踏み入れると、そこは長い坑道のように暗い。抜けるのに10分以上もかかるような大きな商店 街は、3分の2以上の店舗が表を閉ざし、本来なら買い物客が群がっているウイークデイの夕方5時頃であるのに、人が歩いていない。異様な風景だった。ふと 全国の地方都市でこのような風景が広がっているのではないかと、思えた。

 10年ほど前、この児島駅に降りたとき、塩田の跡地に新しく建てられた街並みということもあるが、まるで 模型のように温もりがない街だとおもった。当時、倉敷市で街並み保存と現在の暮らしを両立させることに尽力している「古民家再生工房」という建築家グルー プがあり、その方たちに、模型のような街並への疑問をぶつけてみた。

 このグループは家屋の外装はそのまま保存し、室内は現在の生活に支障がないように改築するという手法で、 いい仕事を手掛けていた人たちである。彼らは、この新しい街並みについて、「ここに住んだこともない中央からやってきた人たちが、何回か足を運んだだけで 再開発のプランを作るから、ああいう街ができる」と答えた。

 場所というのはそこに暮らしている人たちの生理のようなものが滲んでいて、いい加減なプランは街を立ち枯 れさせるし、よそものの発想でも、その生理と拮抗するものであれば、街を繁盛させると思う。寒々しい商店街を歩いていて、模型のような街づくりと廃れた旧 商店街が交錯していた。もちろん、商店街の衰退はそのせいばかりではないのだろうが。

 10年前、倉敷のアイビースクェアのホテルに宿泊し、その居心地のよい空間に感心した。明治に建てられた 倉敷紡績の工場跡をアイビースクェアとして再生したのは、著名な建築家の浦辺鎮太郎氏で、聞けば地元出身である。初めて観る大原美術館の収蔵作品も印象派 からアメリカの抽象表現主義までと幅広くコレクションされ、素晴らしいものだった。

 当時、その倉敷の中心街からタクシーに乗り、水島コンビナートを通って、下津井に行った。車窓から初めて 見る水島コンビナートにも圧倒された。おそらく100年経ち、もしこのコンビナート跡が残っていれば、産業博物館として倉敷最大の観光名所になるのではと 思ったほどである。

 水島コンビナートから下津井に至る海岸線は舗装道路が走っていた。リゾート、リゾートと言っているが、日本の各地ではすでに道路が海岸線を消し潰し、海浜リゾートのロケーションなどないではないかと考え、滑稽であり何やら悲しい気分になった。

●ドン・キホーテはDC版路地の商店街
 だいぶ前に、博報堂生活総研の関沢英彦さんという人にシルバービジネスについて話をうかがったことがある。オモシロイ話が聞けたが、なかでも印象に残っている話がある。島根県あたりは日常茶飯に抹茶を飲む習慣があるという。

 そこで、関沢さんは高齢化時代にも、たとえばおいしいお茶と和菓子のマーケットがあり、若い人のように量をたくさん食べないから、少量でも贅をつくした高価な和菓子が有望かもしれないと言った。

 いま思うと、これが庶民文化ではないか。お茶もお菓子も、若いときからおいしいものを食べていなければ、味がわからない。それは地域の文化にもつながるものであろう。

 一方、会社の帰りに必ずコンビニに寄る若い女性に聞いた話によれば、アイスクリームやチョコレートは毎回のように新製品が並び、1週間も行かなければ、ラインアップが代わり、2度と見かけないものもある。

 そこで、200円ぐらいの少額なので、強迫観念に追い立てられるように毎日、新しいものを試してみるそう だ。まるでテレビではないか。見なければ済むのに、スイッチを入れれば、さまざまなフレーバーで包まれているが、食べてみれば同じようなものを、飽きもせ ずに口に運ぶことになる。

 もし、これを新しい庶民文化と呼ぶのであれば、商店街を形成する個人商店が生き抜くのは難しいかもしれない。いや、それは庶民文化ではなく、平準化された消費文化といった方がいい。

 それでは消費文化のなかに商店街再生のヒントはないのか。エスニックタウンと言われる新宿の職安通りの近 くに、不況下でも売り上げを伸ばしているというDCのドン・キホーテの店舗がある。この近辺には中国や韓国など食材の店があったり、何か自由な空気が流れ ているようで、よく出かける。褒められたものではないが、南米のおねえちゃんが豪快に万引きしているのにも出くわし、変に元気づけられる。

 ドン・キホーテものぞいてみるが、いつも客で一杯である。店内は迷路のように先が見えず、両側を商品に囲 まれた通路を進んでいくと正面に商品が積んであって行き止まりだったりして、一度店内入ると出口にたどり着けない。その迷路の奧で、若いカップルがキスを していたりする。

 なるほどと思った。つまり、この空間はかって路地のような場所にあった商店街の再現ではないか。休日や暇 なときに、家族で狭い商店街をそぞろ歩いて、特別欲しくないものでも、目に付いたらなんとなく買ってしまうという買い物の楽しみである。10円玉を握りし めて、駄菓子屋をのぞき込んだいた子供の心境に近いかもしれない。

 しかし、現在ロードサイド店に車ででかけ、必要な食品、日用品を買い出しする消費者が、こうした買い物の楽しさを思いだし、商店街に回帰する前に昔の商店街はもう存在しないかもしれない。

 ●商店主にもニューウェーブ
 ところが、ここ1、2年でわたしが住む地元商店街にニューウェーブとも呼べそうな新しい自営業者がぼつぼつあらわれてきた。これは地価が下がったからで ある。たとえば、「ごはんや」という和食とお酒の店は、まだ出店してまもないが、20代の女性店主が看板メニューのごはんや魚、野菜料理に腕をふるい、繁 盛している。

 本棚の間にテーブルと椅子をセットし、コーヒーやお酒をだす古本屋もある。ビールやコーヒーを飲みながら古本を手に取る客も多く、詩の朗読会なども催され、中高年から若者までに評判ががいい。沖縄のお菓子を製造販売する小さな店もあり、ここにも固定客がついている。

 これらの経営者はまだ、20代から30代前半の若い人たちで、たぶん自分の店を持ちたいと頑張ってきた人たちであろう。だから既成観念に捕らわれず、商品やサービスに工夫があり、商売に熱心である。

 また、わたしが利用している酒屋さんも、こちらは後継者であるようだが、近くの同業者がコンビニに転身、 廃業する中、ワインの品揃えに力を注ぎ、若いお客さんを集めている。店の奧にはワインクーラーを設け、休みを利用して夫婦でフランスのワインの蔵を訪ね、 現地の写真を添えてお薦め商品を陳列するなど工夫もこらす。

 最近、若い人に聞くと、将来、自前の店を持ちたいという人が多いように思える。とくに、女性に多く、目標 を定め勉強したり、修行している。この人たちはアントンプレナーなどと呼べないとは思うが、興味のあることを(趣味ではない)生業として、組織に属さず自 活していきたいと考えている。

 しかし、バブル崩壊までは、こういう人たちが店舗を借りて、商売できるような地盤は都市部には用意されて いなかった。ところが商店街が寂れ、廃業する商店が増えたいま、彼らにチャンスが巡ってきた。また、この人たちは商店街にとっても、再生の切り札になるよ うな気がする。

 現在、多くの商店街では高齢化が進み、昔ながらの商売のやり方から抜け出る気力も体力もない。だから、す でに崩壊した地縁などあてにせず、商品とサービスで勝負する新しい外の人材を導入しなければならない。既得権益を守るために同業者の出店を嫌うようでは、 活気は戻らない。

 むしろ、新しい外からの人材に運転資金を融資し、育成するぐらいの気持ちがなければならないだろう。空き 店舗があれば、商店街全体で若いテナントを募集し、事業計画を審査し、無尽のおカネを融通するぐらい度量があってもいいのではないか。そこから根腐れした 古い地縁に替わる新しい地縁が生まれるチャンスもあるだろう。

 わたしの生家は自営の商店であったが、当時一般的であったように、子供たちは外に出て誰も跡を継がずに、 10年以上前に廃業した。父親は戦後すぐに新開地である、その土地に店をもった。ちょっと頑張れば、みんな店をもてた時代である。今はよっぽど特殊な地域 でなければそうではないだろうが、小学校の級友の半分以上は商店の子供だった。

 だから、家の生業によって、魚屋、下駄屋、自動車修理業、電気工事業ならゴムの臭いと子供たちに匂いが あった。当時、高度成長期に入り、東京の端の街にも変化が訪れ、住宅不足を解消するために、公団住宅が次々と建てられ、街は一変した。当時の言い方では東 洋一の団地だった。

 余談であるが当時の日本には東洋一がたくさんあった。わたしの級友の一人もそんな団地に住んでいて、遊びにいったことがあるが、鉄筋の建物はもの珍しかったが、団地サイズの空間がひどく窮屈に感じた。

 亡父がそうした団地について、「町はいろいろの職業の人が住んでいるから町なので、同じ職の人が集まって住んでも、町ではないよ」と語ったことをいまでも覚えている。街というのは、異質な人同士がブレンドされてその土地柄を醸し出し、だからいかがわしい面もある。

 別にノスタルジーから、こんなことを言っているのではない。子供や若い人に、東京の有名大学にいって一流企業に就職するという選択肢しか示さなかった、ここ何十年かの日本社会を異常と感じるからだ。

 そして、車でDCにでかけ同じような商品を大量消費する。商店街は自分たちの怠慢も省みず、地域振興券を大型店舗で使えないようにと地方議員にねじ込む。こんなことでは老後、おいしいお茶と和菓子を楽しむような生活はできないと危惧するからである。

 平岩さんのホームページ 環日本海経済通信は、http://www.lares.dti.ne.jp/~yuh/index.html
 平岩さんへメールはyuh@lares.dti.ne.jp

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