1999年4月アーカイブ

1999年04月28日(水)萬晩報通信員 南田寛太

小論02号「壮大なる中国の混沌--国営企業の民営化」は筆者の予想以上に反応を頂戴した。(03号に抄説)それは、簡言すれば、中国の国営企業改革とは言われるが、実態は日本には伝わらず、その一部を垣間見たことによると思う。

 実は、中国の「国営企業改革」は、今に始まった事ではなく、この数年、各国営企業の自己責任体制の確立、 杜撰で破綻している金融状態の整理、社会習慣化していた三角手形(融通手形の一種)の禁止、経営陣及び企業員による株の持ち合いによる「株式会社化」「協 同組合所有化」、、、等様々な改革が試行錯誤されてきた事は「知る人ぞ知る」であったが、その全てが殆ど効果無く、中国の経済改革には、ゆっくりと措置す る時間がもはや無く、「国営企業の身売り」という民営化が、強行されつつあると言う事であると思う。

 私は経済学徒でもなく、経済研究組織にも、中国研究組織にも加わらない、一企業人に過ぎないので、自分の 目で見、耳で聞く範囲の知識しか分からず、したがって全体の流れ、全国的統計等の収集、紹介は、他の方の情報を待つ者であるが、今年になって、幾つか関係 する記事に出会ったので再論したい。

 一つは「中国ノンバンクは破産処理ー香港経済に波紋広がる」(産経99.01.18)という記事である。 これは、広東省の国営・広東国際信託投資公司(GITIC)の破産の波紋についての記事である。XX国際信託投資公司という組織は中国特有の企業体である が、広東省、遼寧省、大連市、というような各省、特別市毎に、恐らく数十は有ると思われる、国営の投資会社であり、同時に海外からの資本誘致の窓口的役割 を果たし、相当の資金力と投資育成力を兼ね備えた組織である。

 このXX国際信託投資公司が、主に香港資本と、合弁で中国国内の合弁企業を陸続と創業してきたし、中国国 内の国営企業、新興企業に対し、銀行に代わって投資、融資も、行ってきた。一時は、中国経済の発展の隠れた主役として期待されてきのであるが、ここに至っ て、これら中国版国営ノンバンクの膨大な不良債権が明るみにでてきた。

 広東国際信託投資公司が、邦貨約2000億円の債務超過で破産し、他の広東省のノンバンク奥海企業集団も邦貨約3000億円の巨額債務が明るみに出ている。その他、広州国際信託投資公司、大連国際信託投資公司、など破綻の噂が絶えない。

 これら破綻した国有ノンバンクにたいする資金供与は、主に香港金融資本があたっており(実は香港の銀行団 だけでなく日本の都銀も、かなり貸し越しており、恐らく不良債権化するだろうと思われる。ー某都銀から現地の某国際信託投資公司に検査に訪中してるバン カーと懇親した経験による)香港金融監督局によると「香港に拠点を置く金融機関が昨年十月時点で、中国国内の全ノンバンクに対して保有するエクスポー ジャー(リスクを伴う債権)は、総額約3200億香港ドル(約4兆8000億円)に達する」という。

 これらの不良債権は、「死に体」の国営企業が最終債務者であるならば、まず回収不能と見て善く、いずれ大 きな経済問題化するのは、まず間違いない。つまり近い将来、中国の国営ノンバンク群は相当に破綻し、それに連動し香港の金融機関も深刻な状況に陥る事を余 儀なくされていると思われる。

 次に、以上の反映であるが、「中国四大国有商業銀行ー中国工商銀行、中国農業銀行、中国建設銀行、中国銀 行の4つ」の不良債権も全貸付けの25~40%、金融機関全体の不良債権は国内総生産の20%に達するとされ、(香港金融筋)、深刻な「貸し渋り」と、ア メリカのS&L処理をモデルとした破綻処理が発動されているが、その実効性は疑問視されている。 この中国国内での「貸し渋り」は、国営企業の膨大な破綻、倒産が、目前に迫っていると予想される。

 中国政府は従来から「人民元切り下げ」を否定してきた。それは1994年の33%切り下げが、それ以後、 「中国は輸出を大きく伸ばした」効果の反面、東南アジアの通貨危機の間接要因になったとされ、今度人民元を切り下げるならば、世界恐慌の引き金にならない とも限らないからである。

 しかし、国有企業の改革に伴い、既に「農村を加えた余剰労働力は1億3000万人に至って」いるという現 在、8%の持続的成長を維持することは、雇用確保の絶対条件である。つまり国内経済の成長維持と雇用確保、不良債権の解決には、「人民元を切り下げ」輸出 産業を伸ばし、海外からの投資を促進させる政策が必須であるが、他方、それが引き金に世界恐慌が荒れ狂っては元も子もない。

 というジレンマ状況が現状であった。それが年が明けると、「政府の否定にも関わらず今年は人民元の切り下げをするだろう」と「切り下げ説」が現実のプログラムとして論じられ始めた。

 この真偽については、私は判断の材料を持たぬし、また「為替切り上げ、切り下げだけは嘘をついても許される」と言われるほど高度の政治的判断なので何とも言えぬが、中国国内の切り下げ圧力は客観的には最高に達してる事は間違い無い。

 こうして見ると、日本の金融再生の課題と並んで、順調のように見える中国も世界恐慌への大きな時限爆弾を 抱えている事がわかり、慄然とさせられる。そして、例え日本のデフレ不況が回復し、金融再編が、成功裏に進行したとしても、隣で時限爆弾が爆発すると、日 本だけ避けられない事が恐ろしい限りである。(なんだ・かんだ)

 本情報につきまして、皆様からのご意見ご感想をお待ちしております。
 南田さんへメールはryoone@geocities.co.jp

1999年04月26日(月)萬晩報主宰 伴 武澄

 サマータイムの導入について以前から考えていた。4月4日付日本経済新聞の「エコノ探偵団」に導入の是非をめぐり論議が詳しく解説されている。しかし、こんな議論、あんな反論があることを羅列しているに過ぎない。つまり「導入提言」にはなっていない。

 反対論の先鋒は「残業が増える」というものだ。次に「一般の人にとっても年に2回、各家庭に平均十数個あ るといわれる時計の針を調整する必要がある」という議論を展開している。お年寄りは大変だというのだ。世の中でも同じような枝葉末節な部分での堂々巡りと なるのだろうと考えている。

 今回のサマータイム論議は、そもそも1997年12月に開催した地球温暖化に関する京都会議で、日本が二 酸化炭素などを1990年水準から6%削減することを公約したことがきっかけだ。つまり省エネに効果があるというところから始まったした。だが、日本での 組織の議論というものはいつだって否定論から始まり、サマータイムにもすでに1年半の時間が浪費されている。

 明るいうちから仕事の後のビールを飲にたいし、なにより明るいうちに家にたどり着く可能性だって悪くな い。それくらいの軽い気持ちから議論をスタートできないものだろうか。やってみてだめだったら元に戻せばいい。憲法を変えるわけではない。それくらいの気 持ちで政策変更があってもいい。

 萬晩報は何よりも社会を変えるきっかけとして「早起き」も悪くないと考えた。筆者は勤務の都合で3日に1回は午前5時半に起床する。慣れれば大したことではない。さすがに冬の暗い朝はつらいが、夏場はいつもさわやかである。

 霞ヶ関の官僚たちは宵っ張りであるため、朝は遅い。午前10時に職場のメンバーがようやくそろうなんてこ とは日常茶飯事だ。だから午前中は仕事にならない。サマータイムに一番反対しているのは、霞ヶ関なのだろうと考えている。だって多くの高級官僚は朝のラッ シュアワーを経験する必要がないほど霞ヶ関の近くにお住まいなのだから。

 シリコンバレーの八木博さんからアメリカでのサマータイムの効用について書いておられるので紹介したい。


 ●早起きが報われる社会

 米国では、朝早くから店はやっています。パン屋さん、家庭メンテナンス道具屋は朝7時には開いていますし、車の点検、エンジンオイルの交換も8時には店 を開けています。本屋も8時から開いている店は多いです。銀行はATMが24時間ですしCNNも24時間ニュースをやっていますから朝早く起きるというこ とでは、あまり不便はありません。

 また、たいていのホテルは朝6時からは朝食がとれますし、早起きは決して無駄にはならないシステムが出来 ています。私の職場でも、製造ラインは夕方の出荷にゆとりを持って対応するために、8-17時の勤務を6-15時の勤務に変更しましたが、従業員からはと ても喜ばれました。その理由は通勤のときの交通渋滞を外していることと、家に早く帰れることです。

 そう言えば、シリコンバレーの交通渋滞はハイウェイを中心として午前6時に始まります。毎日毎日渋滞のた めに浪費時間が増えるといわれて、とても評判が悪いです。これは、また別のところでご報告しますが、サマータイムの背景は早起きを実施している社会で、し かもそれを容認するところにあると考えています。

 それと、意外なことですが夜遅くまで開けている店が多いのです。有名な本屋のBurns and Noble'sは11時まで店を開けていますし、大体夕方は8-9時までは開けているのが普通です。もちろん24時間のスーパーやコンビニは一晩中店を開けています。

 ●サマータイムの経済効果と背景

 サマータイムの経済効果は、基本的には太陽の動きに合わせた生活をすることと考えていいと思います。すなわち、明るくなったら起きて、暗くなったら寝るという生活です。夏の間は1時間早めましょうということです。

 ですから、本来なら夜の時間が1時間早くなり、夜間の照明の節減効果があります。その他には、家に早く帰る分、家族との外出が増えて、外食産業やスーパーの売り上げが伸びます。また、健康ジムなどの参加や、帰宅後のスポーツなどが盛んになります。

 その時、家族との会話がないとすると、これは結構地獄になる要素もあります。そんな意味で、サマータイムを支える要素は、退社後の生活そのものがポイントになります。

 カリフォルニアでの退社後の生活を見ていると、地域の活動や家族でのレクレーションなどが盛んで、そのための公共施設は、無料か照明代程度で利用できるケースが多いようです。

 そして、多くの人が余暇を利用して、活動をしています。また、退社後の時間を利用して、仕事の範囲を広げたり、レベルを上げたりする学校に通う人もいます。(これは、サマータイムとは直接の関係ありませんが)

 ●サマータイムから考えること

 サマータイムになって考えるのは、夕方が遅くまで明るいということです。夏には夜9時頃まで明るいのは、かなり普通でして、退社後から夜9時までといえ ば、そこそこまとまった時間が取れるわけです。そこでは、家族としての時間が重要になるわけで、米国人は常に家族に向かい合うような生活を選択していると いえます。

 こちらで初めてサマータイムというのを体験したときには、生活の背景とのつながりはあまり見えませんでしたが、2回目のサマータイムではさすがにそれを支えるバックグラウンドが見えてきまして、これは簡単に時計を1時間進めるだけの話ではないと思いました。

 サマータイムが終わると、ハロウィーンというお祭りがありまして、これを終えると秋がほぼ終わります。そうすると米国の庶民の生活は一気にクリスマスになって行くのであります。(やぎ・ひろし)

 八木さんへhyagi@infosnvl.com

1999年04月24日(土)萬晩報主宰 伴 武澄

 カンボジアで小学校をつくっている高松のボランティア組織、セカンドハンドの新田恭子さんから「キリチョンコ小学校2棟目の校舎完成」と題する「セカンドハンド通信No.16」が届いた。村人1000人が参加した開校式に出向いた様子が紹介されている。

 完成したのは6教室1棟の新校舎。建設費約460万円。日本だったら家1軒建たないが、カンボジアでは立派な校舎が建つ。千葉の「カンボジアに学校を贈る会」が建設したが、費用のほとんどはセカンドハンドの支援金でまかなわれた。

 以前にも紹介したがセカンドハンドは読んで字のごとく、家庭で不必要になった衣服や家庭用品を販売、収益金でカンボジアに貢献してきた。イギリスに古くからある同様のボランティア組織から運営方法を学んだ。

 1998年04月27日付萬晩報「カンボジアに3つ目の学校を建てたセカンドハンド 」を参照。

 完成式には日本からは新田さんほか、高松を中心に募集した「スタディーツアー」のメンバー13人が同行し た。僧侶のお祈りの後、新田さんが「この学校の建設のために協力して下さった方々やセカンドハンドのボランティアスタッフのためにも、みなさん仲良く、 しっかり勉強して下さい」とあいさつした。

 駐カンボジア日本大使館の山本公使、同国政府のソックアン官房長官からもスピーチがあった。セカンドハンドはこれまで支援した小学校は4校6棟目。ソックアン閣下から3つ目の国家復興功労メダルが授与された。

 「セカンドハンド通信」の中から、このカンボジア・スタディーツアーの参加した人たちの感動を少しだけ紹介したい。

 ●カンボジア・スタディーツアー日誌から

 2月23日(火) プノンペン到着。
 空港内で機織りが実演されていた。ものすごく手間暇かけて作られていた。機織りの女の人の右手は小児マヒのために使いにくそうだった。この国ではワクチ ンが打てないがために、このような病気にはる人は多いらしい。ああ、せめてワクチンが受けられたらいいのに・・・。(掘上)

 2月24日(水) ワッタン作業所を見学。
 セカンドハンドの資金援助で建てたブルーノ建物の中では、義足をつけた人が足踏みミシンで商品を作っていて、隣には色鮮やかな手工芸品が並べられていた。

 2月26日(金) バタンバンへ。
 ランチャナ・ハンディクラフト(女性の自立を支援するNGO)を訪問。バタンバンの特に川沿いの風景は、とても懐かしく感じるものがあった。小さい頃、よく遊んで育ったところとよく似ているこの町を、私はすぐに好きになった。(青野)
 香川大学のミシンがラッチャナで使われていた。日本のミシンであのきれいな衣装を作っているのかと思うと、嬉しくなってきた(植田)

 ホームステイ
 まったく言葉が通じないのでとても不安だったが、ステイ先のみなさんはとても優しくて親切な人たちだった。電気はまったく通っておらず、食事の時も数本のロウソクで明かりをとった。もちろんシャワーもなく、水瓶にためた水をおわんですくって水浴びした。
 家のまわりは何もなくてはっきり言ってジャングルのような所だった。電気がなくて何かをするにはあまりにも不便だったけど、びっくりしたことは、街灯がないぶん月光や木の影がとてもきれいだったこと。日本では絶対に体験できないことだ。(相澤)

 2月27日(土) プノンペンへ。
 カンボジア女性開発協会代表・キエン・セレイバンさんと会食 カンボジア女性開発協会は女性の生活向上を目的として識字クラス、職業訓練、衛生教育など を行っている。人身売買や売春の問題にも取り組んでいる。世界的に活躍している彼女は、私たちが同席しても良いのだろうかと気が引けるくらいのすごい人 だ。
 彼女から売春婦についての話を聞いたが、内容があまりにも残酷だった。人を買ったり、売ったり、誘拐したり・・・。人権尊重の意味、大切さがわからない のか? またはわかった上でそういうことをしているのか? 彼らに人権について教育することは、かなり困難かもしれない。(桑原)

 2月28日(日) トゥルースレイン博物館見学。
 ポルポト時代、収容所として使われていた元高校。建物内には独房が当時のままも残され、収容されていた約1万人の顔写真が壁面いっぱいに展示されている。当時、カンボジアでは人口750万人のうち主に知識人200-300万の人々が虐殺された。
 今は日本では当たり前のように平和な暮らしをしているが、いつ、どうなるかわからない。ポルポトのように悲惨な歴史を繰り返さないためにも、歴史をよく 学ぶ必要が大切だ。平和は自然とやってくるものではない。努力が必要である。このことをカンボジアから教えてもらった。(掘上)

 3月1日(月) タケオへ。
 キリチョンコ小学校へ移動。1棟は98年3月、2棟は99年3月開校。どちらの小学校とも大勢の人が集まっているのに驚いた。彼らにしてみれば、自分た ちの村に日本人という外国人が来るということのすごさと、もう一つ、それだけ誰もが学校教育を意味あるものと考えているのだと感じた。そして、セカンドハ ンドの活動のすごさを改めて実感した。(植田)

 3月2日(月) キリチョンコ小学校第二校舎開校式。
 朝5時すぎに起床したが、すでに村の人たちは自分たちのために食事の準備や水くみなどをしてくれていた。自分も水くみバケツ(約20キロ)を持ったけど 重たくて歩けなかった。この村の人々はいつも、子どもを含めて、1日に何往復もするらしい。僕たちのために水をくんだり食事の用意をしてくれた人々に感謝 したい。(小峠)

 朝から、どこからともなく人が集まり、式にはたくさんの人が出席していた。本当に、みんなの学校が出来るのを心待ちにしていたんだろう。(小玉)

 子どもたちの笑顔は忘れられない。日本の子どもと目の輝きがまったく違うように感じられた。きれいに澄ん だ目が生き生きとしていた。カメラを向けると笑ってくれる子やびっくりしたような表情になる子など様々だったけど、みんな今日はうきうきしているみたい だった。もう少し、子どもたちと一緒にいたかった。(川崎)

1999年04月21日(水)萬晩報主宰 伴 武澄

 急増する移民に着目して銀行を設立した住友

 大阪府守口市にぽつんと四国銀行の守口市店がある。高知市に本店を置く地方銀行の支店がなぜこんなところにあるのか不思議に思った。尋ねると「明治時代に土佐の大工が多く移り住み、郷里に送金していた時代のなごりです」とのことだった。


 銀行が支店を置く背景に、ヒトの動きがあることが分かって興味深いエピソードだと思うのは、最近、また同 じような例をみつけたからだ。加州住友銀行というサンフランシスコに本店を置く銀行があった。昨年ユタ州のZions Bancorpに買収され現在 California Bank & Trust と社名変更したが、アメリカの金融機関として1925年に設立され、70年余の歴史を有した。

 この銀行の設立経緯がおもしろかった。やはりアメリカに移り住んだ日本人たちのために住友銀行が現地法人 を設立したのだった。実はその9年前の1916年に布哇(ハワイ)住友銀行を設立している。支店でなく現地法人という形態をとったのは、当時ハワイの銀行 条例が支店開設を認めなかったからである。

 しかも現地の法律では株式会社の設立には現地の居住者が役員に入る必要があったため、ハワイ住友銀行は株式会社ではなく、当主である住友吉左右衛門が全額出資する個人銀行からのスタートとなった。

 ●ハワイの人口の4割が日本人だった
 ハワイには明治時代から多くの日本人移民が渡ったことはだれもが知っていることだろうと思う。だが驚いてはいけない。「住友銀行百年史」によれば、1918年のハワイの日本人は11万人に達し、総人口の4割を占めていたという。

 西洋人が持ち込んだコレラなどによって最盛期30万人を数えたハワイ人の人口は激減し、サトウキビやパイナップルのプランテーション労働者としてやってきた日本人が人口のマジョリティーを占めるようになっていたのである。

 ハワイ移民は広島、山口、福岡など西日本出身者が多く、西日本に比較的強い支店網を持っていた住友銀行への期待も大きかったといわれる。日本に残した家族に送金するニーズに着目した当時の住友銀行の当時の経営感覚はさすがである。

 カリフォルニアでの日本人の勢力もハワイに負けず劣らずだった。20世紀初頭の西海岸の経済は南北に二分 されていた。南部の中心地サンフランシスコでは総人口45万人に対して日本人7万人。北部のシアトルでは同30万人に対し、日本人3万人。人口の 10-10数%を占めていたのである。しかも当時の住友銀行の報告書では、ハワイと併せてその貯蓄力を1500万ドルと推定している。

 この状況は、1990年代に入ってからのフィリピンの状況に似ている。というのは同国の年間予算が約800億ドルであるのに対して、420万人の出稼ぎ労働者による海外からの送金が100億ドルに及んで、同国の財政や国際収支に多大な貢献をしているからである。

 ●理由のないことでない日本人排斥
 第一次大戦以降、ハワイやカリフォルニアで日本人が排斥の的となったのは理由のないことではない。東海岸中心だったアメリカにとってカリフォルニアはま だ僻地で、日本人の急増が突出していた。大量の移民がヨーロッパ大陸からアメリカに押し寄せていたが、日本からの移民はハワイとカリフォルニアに集中して いたから、当然である。

 最近、歴史は必然でもなんでもないということを思い知らされることが多い。アメリカの歴史で日本人の人口増が政治化した時代が厳然としてあり、アメリカで政治問題化させるほどのパワーをかつての普通の日本人たちが持ち合わせていたことを併せて考えると興味深い。

 ハワイはポリネシア系のハワイ人がもともと住んでいた土地であるが、プランテーション主などによって、最後の女王となったLilioukalaniが廃位に追い込まれ、1898年にアメリカ領土に組み込まれた。米西戦争でスペインからフィリピンを奪取した前の年である。

 ハワイは1959年、アラスカと共に50番目の州に昇格した。筆者が幼少時代を過ごしたアメリカ国旗の星の数は今よりふたつ少なかったはずである。第二次大戦で日本が奇襲攻撃したパールハーバーは当時、まだ単なる海外領土で実はアメリカ本国ではなかったのだ。

1999年04月18日(日)Silicon Vally 八木 博

 米国では、PCバンキングという、家庭にいながらにして、預金口座から各種支払い、振り込みなどができる 方式が広まっています。口座や家計管理をするソフトも多く売れていて、Intuit社のQuickenというソフトは、大ベストセラーになりました。日本 でも最近PCバンキングを始める銀行が出て来ています。やり方を比較してみたいと思います。

 米国の銀行は、ただでソフトをくれる

 米国の銀行は、自分の口座にアクセスするソフトをただでくれます。そして、銀行の口座にアクセスして自分の口座の状況や、支払いなどをします。もちろん 家計管理の出来るソフトを購入してもそれが可能なわけです。私が入手したアクセス用のソフトはIntuitのQuickenno古いバージョンで機能が限 定されているものでした。

  PCバンキングに必要なのは、銀行につなぐための番号と、自分の口座にアクセスするパスワードです。そして、手数料は一日3回以内のアクセスであれば、無 料です。これは、以前にもご紹介した、ATMの引き出しで、365日24時間いつでも手数料を取らないシステム(預金残高は私の口座のある銀行では 3000ドル以上必要ですが)と合わせて考えると顧客側に有利なように見えます。

 日本の銀行は、ソフトを購入させ、口座手数料をとる日本で同じことをしようとすると、どうなるか調べてみ ました。私の口座のある銀行では、PCバンキングを始めようとすると自分で1万円以上もするソフトを購入し、自分の口座のある支店に、PCバンキングの開 設許可をもらいます。毎月1000円支払って、PCバンキングが出来ることになります。もちろん電話料金は自己負担です。

 米国系の銀行はインターネットで対応する私は、米国系の銀行で最近預金量を伸ばしている銀行がどうやって いるかも調べました。ここは、インターネットを利用して、口座管理、支払いが出来ることが分かりました。利用料は、無料です。ここも、手数料無料のために は、口座最低残高がありそれは30万円でした。電話料金はここでも自己負担です。

 ●なぜ、その差が起きるのだろうか?

 以前に、休日のATM払い出し手数料のことで日米の差を書いた時に、日本の銀行の方からなぜ、手数料がかかるかと言う説明のメールを頂きました。内容 は、払い出しコストに対して、手数料でもまだ赤字になるという考え方を教えていただきました。これは、払い出しに関する部分は確かに、その通りでしょう。 ですから、米国系の銀行は預金最低限度量と言うのがあって、制約を設けているのかもしれません。

 しかし、最低限の金額が3000ドルとか、30万円と言うのがそのコストをカバーするのでしょうか。ある いは、日本の場合でも預金残高を考えてみると、口座に常時30万円以上ある人は少なくないと思います。何せ、日本の預貯金の総額は数百兆円といわれていま すし、預金者の受け取る利息など、本当にわずかなものです。個人を見ればビルゲーツのような個人の大金持も多くありませんので、平均的には日本人の預金額 は少なくないでしょう。

 戦略的PCバンキングとは何だ?

 ここで、単なる目先の収支ではない戦略的顧客対応と言うことが出てきます。今の銀行は、顧客資産をすべて把握し、運用することを狙う囲い込みに動き始め ています。金融業界の障壁などどんどん取り払われて、業域が広がっています。それを見据えた時に、銀行が顧客にするべきことが見えてきます。

 すなわち、いつでもお客にぴったりとつく、と言うことです。それは、顧客の一人一人を見つめることで初め て成立する内容です。その為に、PCバンキングであろうと、ATM無料化であろうと実行しているのが米国の銀行の動きです。コスト+適正利潤=価格(手数 料)と言う構図は、すでに崩れているのです。その中でどのように自分達のビジネスを進めるのか、この日米の対応の差にも大きなポイントが見えているように 思いました。(週刊シリコンバレー情報 Vol.052)

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1999年04月14日(水)萬晩報主宰 伴 武澄

 首相の諮問機関である経済審議会が時期10カ年計画に盛り込むべき課題として「移民労働力の受け入れ」を掲げた。実現への道のりは遠くハードルはまだ高いが、有識者の意見として明示できたことは勇断だ。

 ●福祉の負担担う外国人に感謝したい

 10年ほど前にドイツの労組幹部にインタビューをしたことがある。くだんの幹部氏は「外国人労働力なしに西ドイツの1960年代の成長神話はなかった」 ことを打ち明けた。当時の西ドイツはユーゴスラビアやイタリアだけでなくトルコといった周辺諸国から多くの労働力を導入した。

 労働力として西ドイツに渡った人たちははやがて家族を呼び寄せた。結婚し、子どもを生み、定住するように なった。いまでは外国人が労働人口の一割を超えるようになっている。単なる労働力として受け入れたはずだった外国人が増えることによってドイツとしてのア イデンティティーの問題も浮上した。

 だが幹部氏はこうもいった。「日本では高齢化が急速に進み、若年層による将来の負担増が問題になっている が、ドイツでは住み着いた外国人もまた年金など高齢者に対する負担を担ってくれている。感謝しなければならない」。子沢山のトルコ系の人々がいなかったら ドイツでも高齢化のスピードが日本並みになっていたはずだとも語っていた。

 当時、日本経済はバブルの頂点で、このままだと労働力不足で経済成長力を失うとの危機感が産業界にあっ た。担当していた労働省でも産業界でも外国人労働力導入をめぐる論議が盛んだったし、論壇でも西尾幹二早大教授と評論家の石川好氏がその賛否をめぐって興 味深い論争を展開していた。

 ●移民受け入れは先進国としての責務

 13日に発表した経済審議会の政策課題では少子化に伴う労働力不足の解消という観点から、永住を含む移住労働力の受け入れを積極的に検討すべきだとして いる。このなかで富士ゼロックスの小林陽太郎会長は「日本経済の富裕さが多くの人を引き付ける結果として、移民をある程度受け入れるのは責務」と先進国と しての自覚を促している。萬晩報としては、これに「異文化なものとの出会いが社会の進歩や活力を生む」という視点を付け加えたい。

 労働省は1997年末の外国人労働力について不法就労を含めて66万人と推定している。大阪商工会議所の 副会頭である小池俊二サンリット産業社長は「在日朝鮮・韓国人、正規の就労ビザ取得者に不法就労者を合わせると100万人を超す」と推定する。いずれにし ても人口規模でいえばドイツの10分の1でしかない。

 日本は外国から先進の知識や技術を受け入れて発展してきたが、移民の大量受け入れは白鳳時代まで遡らなけ ればならない。日本ほど民族的に純粋培養が進んだ国家は世界でも稀だ。多くの外国人受け入れを反対する多くの意見は民族の融合より民族間で起こるであろう トラブルにばかり目を奪われるが、小林陽太郎氏がいうように、ある程度の受け入れはもはや豊かな国際国家としての義務である。

 ●求められる異質なものを受け入れる度量

 ここ数年、日本は景気低迷の長期化でかつてない雇用問題に直面しているが、一方で中小企業では慢性的な人不足が続いている。かつて3Kと嫌われた作業現場や長年の修行を必要とする熟練労働にはもはや人が集まらないという事情もないわけではない。

 外国人が日本で多く働くようになれば、彼らはまず日本語を取得しなければならない。日本の文化もある程度 理解しなければならない。日本に合わせることが彼らの義務となる。もちろんあつれきは生まれるが、結果的に日本への理解が進むことでもあり、日本語を語る 人口が増えることでもある。

 異文化との出会いは日本人にとって悪いことではない。外国語を流暢にしゃべれるようになることだけが国際化ではない。まして日本人が外国へ出かけることではない。いま日本に求められているのは国内に異質なものを受け入れる度量を身につけることなのだ。

1999年04月12日(月)萬晩報主宰 伴 武澄

 韓国車が再びアメリカ市場で爆発的に売れ始めている。3月の韓国車のアメリカでの販売は前年比50%増の 2万3770台。年間ベースで試算すると30万台に迫る勢いである。1988年、ヒョンダイのポニーエクセルが北米上陸、数年で売り上げナンバーワンを記録した快挙を再現するとの期待が高まっている。

 日本で発行している韓国系の東洋経済新聞によると、韓国車の3月のアメリカでの売り上げは、ヒョンダイ (現代)が1万1870台、起亜1万1400台、昨年9月に初上陸したばかりのデーウ(大宇)は1400台。韓国自動車業界の話として「このすう勢でいけ ば年間28万台も可能だ。絶好調だった87、89年の年間26万台の記録も塗り替えられそうだ」と伝えている。

 ●日本車水準に引き上がった韓国車!

 韓国車は日本ではほとんど走っていないため存在感はないが、ヨーロッパやアジアではではよくみかけることができる。多くの自動車雑誌がフォルクスワーゲンのゴルフやマツダの323(ファミリア)などとの性能比較をしているから日本での評価と違う。

 ただアメリカ市場では、低価格路線で80年代後半に高水準の売り上げを上げたものの「中古価格が安い」「故障が多い」など苦情も多く、韓国車のイメージが極端に下がり、販売が低迷していた。

 東洋経済新聞によれば、メイド・イン・コリアに対する不信が除去されたのが大きな背景と解説する。ニューヨークタイムズやワシントンポストといったマスコミが「韓国車は日本車水準に引き上がった」と報道した効果も大きかったようだ。

 また自動車メーカー自身もヒョンダイが無料の補修・修理期間を従来の3年3万マイルから5年6万マイルに引き揚げるなどサービス体制の向上に努力していることも消費者に歓迎されているはずだ。

 韓国車のアメリカ輸出が軌道に乗れば、韓国経済にとってこの上ない朗報だ。自動車は非常にすそ野の広い産 業分野である。自動車部品だけでなく、タイヤ、ガラス、プラスチック、空調、オーディオなどにまたがる。97年の通貨危機以降、意気消沈していた景気の底 入れにつながるに違いない。

 ●受け入れられた6000ドルという破壊的価格

 1970年代、韓国の自動車の年間生産はたった1万台だった。80年代に入ってもまだ5万台程度と低迷していた。これが85年には25万台を超す水準となり、その後は倍々ゲームに生産力を増強、1994年には230万台を超えた。

 北米での成功を納めたポニーエクセルは三菱自動車の旧型ランサーをベースにした小型車だった。当時 6000ドルという破壊的価格がアメリカやカナダで受け入れられた。エクセルが勝ち抜いたジャンルはトヨタのカローラやゴルフが競っていた大衆車である。 激烈なその市場に参入してわずか数年で並みいる世界の名車を出し抜いたのだから、世界の自動車関係者たちは目を見張った。

 ただ日本の自動車業界は韓国車の潜在力を認めず「安いだけの車」と真正面からの評価を避けた。確かにエクセルは2年でシェアを落とし、事実上、北米市場から撤退したが、90年代に入ってヨーロッパでしっかり市場価値を見出していたのだ。。

 ところが韓国では、ヒョンダイのポニーエクセルの北米での成功に引き続き、国内の乗用車販売に火がつい た。先進国側の自動車アナリストたちが見通しを誤ったのは韓国内での自動車販売だった。70年代まで年間わずか数万台だった市場規模は80年代には10万 台に乗せ、85年以降は年間10-20万台ずつ上乗せし、ピーク時には250万台にもなっていた。

 20万台という数字は並大抵の数字でない。近代的な自動車工場の年産能力に等しい。韓国の自動車産業はそ の後も生産能力を拡大し続け、ヒョンダイは年産300万台体制への移行を宣言、参入を表明していた財閥大手の三星が生産を開始した98年には年産500万 台にも達するとされた時期があった。

 しかし、97年夏、シェア2位の起亜産業が倒産して国家管理に入り、秋以降は東南アジアの通貨危機が韓国 にも波及して、韓国経済全体がどん底に落ち込むことになる。金大中(キム・デジュン)新大統領のもとでの財閥再編で自動車業界の大再編に取り組んでおり、 生産能力の過剰やメーカー間の過当競争の問題はいずれ収束に向かうものとみられている。

 95年秋の東京モーターショーでは韓国車が本格参入し、いくつかの独創的なデザインの乗用車やRVが展示された。韓国車がいつ日本に上陸するか不明だが、近い将来、玄界灘を越えて大挙してやってくることは間違いない。

1999年04月04日(日)元国土庁審議官 仲津真治

 日本は、多くの指標で世界的地位を占めながらも、真の先進国足り得ず、発展途上段階や復興・高度成長期のシステムを大きく残しており、国際的に存在感も薄い。 その中で、経済が低迷・劣化し始め、高齢・少子化が急速に進行し、十年も経ない内に人口の減少期を迎える。

 かつて老大国化したイギリスを指して、英国病という言葉が生まれたが、日本は、現状のまま推移すると、も とより七つの海に君臨するようなこともなく、 衰微し始め、いわば半端な国として、歴史上その役割を終えることになってしまうであろう。そうならずに、21世紀へ向かって日本が再発進し、先進国として 成熟し、世界的に重みのある国となり、活力を保つ存在となるには、どう考え、何をなすべきかを考えたい。

 ●ユーラシアの西と東で進む二つの対照的な国際的試み

 世界の現実は大くくりに見ると、グローバル化と国民国家の疲労に代表される。グローバル化は、世界全体の 単一市場化に代表される大きな流れで、否応なしに進んでいく性質のもの。これに対し、近代法制を骨格とし、国旗と国歌に象徴される国民国家は、不調と変容 をきたしており、市場と国家の関係も市場優位に変わる中、多様となりつつある。

 この大きなトレンドの中で、二つの対照的な国際的試みが、ユーラシアの西と東で進んいる。しかし、日本はその中に入ってはいないし、別の試みも行っていない。この二つとは、EUの統合と、ASEANの伸展である。

 EUは、各国の通貨主権を放棄、ユーロという共通通貨の制度化にまで進み、不可能と言わと言われたことを 実現、成功に自信を深めつつある。それは単なる経済同盟でなく、基盤はギリシャ・ローマの文化・文明とキリスト教にあり、二度の世界大戦による欧州の悲惨 な経験と衰えが危機感を醸成し、戦争の抑止も大切な役割となっている。

 EUの深化、拡大が進む中、当面、英など四カ国のユーロ導入、旧東欧などへの拡大、併せて政治・法制面の統合が課題であるが、次いで、回教国トルコ、アジアにも領土を持つロシアの加入が、将来の大テーマとして、登場して来るであろう。

 この中で、特に、ロシアが大きな鍵であり、事がなれば、ローマ帝国の東西分裂以来の意義をもつ、統一ローマの再現に相当する歴史的を画する変化となろう。

 対照的に、ASEANは、個々の独自性を尊重した国の連合のアプローチ。もともと、反共連合として出発したが、中越戦争等国際的枠組みの激変やベトナムの加盟などで変容しつつある。

 欧州のような共通の基盤に乏しく、国の歴史が概ね短い下で、ゆるやかな集まりを形成しているが、その連合の方式や自主性を重んじた決定と実施のノウハウが APECへ活かされつつある。ARFやASEMの結成発展など、日本が及ぶべくもない外向的成果を上げている。

 ユーラシアの東はなお不安定であり、戦後なお終わってはいない。中国が加わってG9となる時代が来るか、 日本の外交課題は、極めて大きいものがある。EUにおけるドイツのように、日韓関係の充実・成熟を始めとして、友達をつくる努力を地道に進めるべきであ り、それがやがては、東アジアの平和で安定的な枠組みの構築に役立っていくであろう。

 ●典型的国民国家日本はどうすべきか

 明治以来の近代化で中央集権の国を創り、曲折を経るもアジア初の巨大化を達成した。 戦後五十年は経済国家の建設に邁進し、多くの指標で世界的な国となる。反面、極端な官製の一極集中となり、民間と地域の主体性、特性が失われてきた。バブ ルとその崩壊は経済社会を陰鬱な低迷に追い込み、その最たるもの、金融の危機は、実体経済まで蝕んでいる。構造的措置や改革を欠いた景気対策の限界も露呈 している。

 現代は、幕末維新の時代と同様、危機を活かす発想と取り組みが大事と思われる。歴史に学べば、日本のダイナミズムが再発見出来る。それは、複数の重心とハイブリッドの形成と考える。

 日本は、複数の重心をもち、一極集中によらない国の発展・再生を行ってきた。むしろ、現代が特異といえよ う。京、鎌倉、室町、江戸などと、西に東に、国のいろんな力が移動・分散し、時代を転換してきた。現在調査進行中の首都機能移転は国全体の改革に意義をも ち、人身一新の効果を有する。それは、各地域の力や特性を活かす大きな契機となりうる。

 ハイブリッド合金のようなもの、良いものと別の良いものを組み合わせてもっと良いものを、日本は、独自性や伝統を失わずに、外国の文化、制度、文物を選んで取り入れ、より優れたものを生み出してきた。

 典型例は、漢字の音訓両方を使い、ひら仮名とかた仮名を生み出した日本語がそうであり、世界初のハイブリッドカーも、工業分野の代表例である。

 これからのハイブリッドをいかに生むかが大切。構造を変えることは、全てを捨てることではない。優れた特性は、製造業の強さ、雇用重視と勤勉、教育の高さと普及、社会の安定にあり、問題点は、縦割り、競争力の弱い産業分野が大半、内と外の区別など多岐にわたる。

 そこで、例えぱ、製造業と農業、メーカーと銀行、行政と経営などの連携や融合により、また、公共・民間の 共同投資、会社・NPO・個人や外国の人・企業の各分野への参加・参入などにより、ハイブリッドは、醸成されていくと考える。多少の失敗や混乱はあろう が、恐れてはならない。

 この認識の下、とるべき道は、将来の希望が開け、活力が養われる方途である。

 まずは、巨大な日本経済の低迷・劣化に緊急対処する。 金融問題の整理と解消は欠かせない。なお、施策の現状は何でもありの観を呈し、問題多く、中長期的再生の視野に欠けている観がある。

 そこで、プログラムが必要であり、活力の源、民間更新投資を促す減税と金融施策や、大学教育の全年齢層化、給付型に代わる試験雇用方式の導入、年金の改革などよるセーフティネットが大切と考える。

 また、施策には財源と負担の考え方をセットにすることを制度化ないし習慣化すべきであろう。単なる陳情型は、依存と無責任を助長する。  国は、基幹的・国家的機能や外交に純化し、民間と地域の主導の体制に切り替える。一言で言えば、元気で育つ民間、小さく生き生きとした政府というところであろうか。そのために、

① 税財政の仕組みを大転換し、納税者への還元の視点を重視する。
② 文化や文明の主な担い手である都市を重視し、今なお見劣りする住宅・社会基盤の整備を進め、豊かな自然を活かす環境政策や防災対策を進める。
競争力ある農業に再生するため、参入を自由化した再農地改革を進め、農産漁村と都市住民の連携を図る。
③ 高度道路交通システムのように、賢い社会資本づくりを進める。
④ 社会の流動化に対応し、参加・参入の自由と、負担者と受益者が分立しない、お互いに支え合う相互性の社会へ切り替えていく。
⑤ 各地域、とりわけ伝統と蓄積があり、なお魅力とパワーを秘めている関西を活かす。 その合理性、進取性、文化や言語の豊かさ、新規ビジネスを生み出す土壌などは、東京一極集中の現代において、貴重な存在で、大いに活かすべきである。

 仲津さんは元国土庁審議官。現在、立体道路機構理事。エズラ・ヴォーゲル氏との対談集「ハイブリッド国家 日本の創造」(1997年12月、ぎょうせい)などの著書がある。仲津さんへメール
1999年04月02日(金) 元中国公使 伴 正一

第九  戦い敗る

 ●焦燥

 それから1時間、2時間「どうも様子がおかしいぞ」ということになります。第一次攻撃隊の戦果が判明していい時刻なのに、入電なし。

 敵空母は沈めなくていい、甲板を使えなくすればいい。知りたいのはそこなのにウンともスンとも言ってこない。

 そうこうしている中にこちらの方に被害が出て参ります。視認距離にある空母祥鶴から黒煙が上がる。旗艦大鳳の沈没したことがわかる......というわけであります。

 第一次攻撃隊の報告がないということは、攻撃失敗と断ずべきなのですが、そう考えたくないからでしょう。「どうもおかしい」で頭の働きが止まっている。

 ついさっきまで、この1年半の頽勢挽回に気負い立っていた我々にしてみれば、戦場心理として無理からぬことで、このときのいたたまれぬ気持ちは生涯を通じ比べるものがありません。

 ●万事休す

 そうこうしている中に、一次も二次も攻撃は失敗に終ったことが判明、翌20日夕刻近くの邀撃戦が終る頃には艦隊空母機のほとんどはマリアナ海域の空に散っていたのであります。

 やがて水上部隊を挙げて敵機動部隊に突入、夜戦を決行することが全軍に布告されます。

 「勝負はついた。あとは帝国海軍の死に花を咲かすのみ」というあたりが、ひょっとしたら小沢第一機動艦隊司令長官の秘められた胸の中だったのではないでしょうか。

 満天の星の下、旗甲板で涼みがてらについうとうとしていた私......。

 それがどれくらい経ったでしょうか、ふと目が覚めると南十字星が逆さになっているではありませんか。

 ちょうど横にいた後宮水雷長にききました。

  「どうしたんですか」
  「柱島から、再起を期して沖縄中城湾に帰投すべし
  と言ってきてなあ。夜戦決行は取りやめだよ」

 気が抜けたというのでしょうか、「もう少し生きるのか」という気持ちもあるにはありましたが、考えることなど何もできないで美しい夜空を見ていただけだったように思います。

 ●退き潮

 一夜が明けます。

 航空戦力をなくして機動部隊の実を失ったとはいえ、水上部隊としての大艦隊はなお無傷のまま、針路を北へ、静かな航海を続けて行きます。

 要衝サイパンの運命は決まった。サイパンと共に、広ぼう果てしない西太平洋の制空、制海権が一挙に敵の手に落ちる。

 次はもう真っ直ぐに朝鮮海峡ではないか。すっかり明治に戻ってしまうではないか。

 しかもその退き潮の、何と無残に急なことよ......

 20になったばかりの私が、祖国の命運を体で感じる初の、しかも生涯で最も衝撃的な体験でありました。

 万事休すであります。降伏が考えられない当時の私に思い浮かぶことは、栄光の滅亡でしかありません。最後まで勇敢に戦って、桜の散るように美しく。努力目標はもうそれしかありませんでした。

 ●東条幕府を倒せ

 沖縄中城湾で仮泊の後、瀬戸内海の柱島へ。霜月はそれから、戦況奏上に参内する豊田連合艦隊司令長官坐乗の大淀を護衛して横須賀に向かいます。

 横須賀で上陸を許された私はその足で、経理学校時代に商法を教わった石井照久先生を訪ねます。いったい日本はどうなるのかお話を聴きたかったからです。

 すると生徒時代に受けた温厚な印象とは打って変わった興奮の面持ち。そして「東条を倒さなければいけません」と語気を強められるのです。

 「太平洋の制海権が危なくなっているのに、飛行機の資材配分は陸海軍半々です。こんなとき陸軍に我慢させるくらいの決断ができなくて内閣総理大臣が勤まりますか」

 最近の内閣の公共事業費配分そっくりですね。政治家に決断力がなくなったのは平成の今に始まったことではない。昭和のかなり前から、あの国家存亡の時にさへこの体たらくだったのです。維新直後のあの決断力はどこへ行ったのでしょうか。

 その時、もう一人海軍技術大尉の方を訪ねましたが、ここでもえらいことになっていました。「実は、島田海軍大臣の暗殺計画を練っているんです。東条の言うなりでは国が滅びる。東条の言いなりになっている島田をまず殺さなくては......」という話を聞かされるのです。

 艦への帰艦時間がなかったら、私も血の気の多い方でしたから「仲間に入れて下さい」と言い出していたかもしれません。

 幕府さながらで倒す手立てがないとまで言われた、さしもの東条内閣もその後間もなく総辞職、島田海軍大臣の暗殺計画はどうなりましたか。

 第十  戦争収拾

 ●打つ手なし

 マリアナ沖海戦の後、まだ日本に勝算があると思っている者は、恐らく全艦隊中に一人もいなかったと思います。それくらいのことは当然、大本営特に海軍上層部には分かっていたに違いありません。

 内閣の更迭もあり、戦争収拾に動く重要な節目ではなかったでしょうか。
 陸軍はインパールで作戦部隊が壊滅していました。
 だが、当時そのような動きがあったのかどうか。

 チャーチルが連合国側の主導権を握ってでもいたら話は別だったでしょうが、無条件降伏一点張りのルーズベルトが主役では、たとえ仲介役にふさわしい国があったとしても、こちらから和平工作の手が打てるような状況ではなかったように思われます。

 日露戦争の時のように事が運ぶ客観情勢は全くありませんでした。

 更にもっと日本にとって不幸だったのは、政治の中枢に明治時代の外交感覚が全く欠如していたことです。

 ●天晴れ日清戦争の幕引き

 戦争の収拾について、最近読んで感心させられたのは日清戦争の収拾です。
 旅順を落した山県有朋は一気に北京を突こうとするのですが、大本営の中に強引に割り込んできていた内閣総理大臣伊藤博文は「絶対にまかりならん」と強硬な反対論を展開します。

   「いま北京を攻略して清朝が滅びでもしたらどう
   するんだ。誰を相手にこの戦争を収拾するんだ」

というのが伊藤の論拠です。

 列強が鵜の目鷹の目で見ており、どんな干渉が入るか分からない。そんなときに、あくまで清朝を戦争収拾の相手と見定め、勝ち戦さで鼻息の荒い軍を制止したシビリアン伊藤の指導力は、絶妙というほかはありません。そのお蔭で、日清戦争では泥沼に入らすに済んだわけです。

 ●日露戦争の収拾も見事

 次の日露戦争では、もっと複雑な状況がありました。その中で何とも感動的なのは、満州派遣軍で参謀長の要職にあった児玉源太郎が、奉天(現在の瀋陽)大会戦の後、素早く東京に戻ってきて「もう続かん。万難を排して戦争を収拾してくれ」と政府に訴えたことです。

 奉天の戦いでは、こちらが勝っていながら、敗走する何万というロシア兵に向かって撃つ弾丸がなくなっていたと言われます。日本の戦力がぎりぎりの限界点に来ているのが児玉源太郎の目の前にさらけ出されている。

 その緊迫した一瞬を押さえる機敏さ、聡明さが日本政府にも軍人側にもあったということが素晴らしいではありませんか。

 ●見劣りのする昭和の国家運営

 それでは昭和日本はどうだったかといいますと、日支事変の場合、始まって一年も経たないうちに近衛内閣は「蒋介石を相手にせず」という声明を出してしまいます。

 ここが日清戦争とは大違いのところです。

 あの広い中国大陸で蒋介石を相手にしなかったら誰を相手にするのですか。汪精衛を担ぎ出して南京政府を作らせるのですが、これは小細工の域を出ません。

 こうして日支事変はすっかり泥沼に足を突っ込んでしまうのです。

 南仏印進駐だって迂闊な話でした。それが日本の命取り、アメリカの対日石油禁輸につながろうなどとは夢にも思わず、近衛首相も後になって事の重大さに驚いたというのですから話になりません。

 戦後の極東軍事法廷でインドのパル判事は

   「あんな締め付け(対日禁輸やハル・ノート)に遭えば、
   ミラノのような小国だって立ち上がったであろう」

と日本の開戦行動を弁護してくれましたが、そのきっかけが南仏印進駐にあったとすれば、その軽率さは、国家、国民に対して罪万死に値すると言わなくてはなりません。

 第十一  嗚呼、分水嶺

 ●戦争を避け難いものにした運命の分岐点

 アメリカとの戦争は、ある段階からは何をやっても阻止できなかったのかもしれません。

 もう少し早く手を打つべきだったと言っても、どの時点でどういう手を、というところまで踏み込まないとまともな論議にはなりません。

 そこで、それに該当しそうな時点は何時かを突き詰めて考えておりますと、どうも第一次大戦中の対中国21カ条要求にまでは遡らなくてはならないように思えるのであります。あるいはもっと前に運命の岐路、東アジア史の一大分水嶺があったとも考えられなくはありません。

 ●太平洋を挟む二大勢力の登場

 アメリカ、ドイツ、イタリアの三国は、日本の明治維新とほぼ時を同じくして、世界の主要国に列する体制固 めを成し遂げます。アメリカは南北戦争の収拾で難局を克服、ドイツはビスマルクの登場でドイツ帝国を形成、イタリアが統一国家になるのもこの時期で、いず れも19世紀後半の出来事です。ヨーロッパに二つ、太平洋に二つの強国が誕生したわけであります。

 その中で、ドイツとイタリアが帝国主義の戦列に加わるのは、何となく分かるような気がするのですが、日本とアメリカの場合は分かりにくい。

 アメリカは19世紀末ハワイ王国を併合、米西戦争ではスペインからフィリピンを割譲させています。

 日露戦争の講和で仲介の労を取ってくれてはいますが、それはそれ、アメリカはフィリピンまで出てきておいて、その上になんでアジアの大陸部分(満州)にまで手を伸ばそうとするのだ。欲張り過ぎではないか、と小村寿太郎あたりが考えたとしても不思議ではありません。

 ポーツマス条約締結に関連してアメリカが南満州鉄道の共同経営を申し入れてきたとき、日本はもう少しのところでそれを受け入れるところだったのですが小村の反対でご破算になります。

 実はここらあたりから、極東における日米の利害が対立し始めるのです。日本の帝国主義化と目されるようになった、アジアでの権益拡大がアメリカの不快感を増幅させるという構図が定着していくのです。

 ●両雄並び立たず

 日露戦争直後の時点でもし日本が、朝鮮半島を確保できたのだから満州は独占しなくてもいいという発想に立っていれば、それ以降の日米関係はすっかり違ったものになっていたかも知れません。

 いまいましい話ではありましょうが、満州の経営についてアメリカに片棒を担がせてさえいれば、同じアング ロサクソンの手前、英国も満州のことにそれほど口を挟むのを控えたでしょうし、ロシアもそう易々とは手を出せなかったに違いありません。そのような安定し た国際関係を築くことができていたら、アジア太平洋地域であんな大きな戦争が起こる可能性はずっと少ないものになっていたのではないでしょうか。

 しかし、日本はアメリカを満州経営から完全に閉め出してしまった。それ以降日米両国は海軍力の増強を競 い、太平洋の覇権をめぐって、両雄並び立たずとも言うべき、誠に不幸な対立基調にはまり込んで行くのでありまして、こういう枠組みが出来上ってしまった以 上、日米関係は、いづれいつの日か雌雄を決しなくてはならない宿命の下にあったということができるのかも知れません。

 分水嶺の課題はこんな雑駁な話ではとても済まされないアジア史の大課題でありまして、只今申し述べましたところは序の口にもならない内容のものでありますが、私のひとつの思い付きとして、頭の隅においていただければ幸いに存ずる次第であります。(完)


 伴 正一氏へのメールihouse@mb.infoweb.ne.jp
 ホームページ「魁け討論 春夏秋冬」は「http://ss5.inet-osaka.or.jp/~take0505/

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