1999年3月アーカイブ

1999年03月31日(水) 元中国公使 伴 正一

第七 大戦争の中の長閑な日々

 ●遠洋航海

 私が逆にもう2年遅く卒業していたら、「のどかな帝国海軍」など知る由もなかったでしょう。在りし日の大海軍、連合艦隊の威容を目の当たりにすることもなく戦争を終えていたに違いありません。

 しかしミッドウェーで帝国海軍が致命的敗北を蒙った後でもあの戦争には、まるで嘘のような静かな時間帯があったのです。

 卒業後、初めて乗った戦艦山城で、遠洋航海と称するトラック島までの研修航海が始まります。兵科、機関 科、主計科、合わせて600名近く、卒業したての候補生が2隻の戦艦と1隻の巡洋艦に乗って悠々、トラック島を目指しました。海軍3校卒業生の8割くらい をゴッソリ、たった3隻の艦に満載して行くわけですから無用心もいいところ、まだ太平洋西半の制海権に自信ありと言わんばかり、大胆不敵の行動です。

 トラック島からの帰りに艦内新聞で知るのですが、東の防衛最尖端、マキン、タラワが玉砕します。

 ヒットラーはその直前に
「友邦日本は、数千マイルの彼方に敵を峻拒し続けている」
と演説していましたが、それで気をよくしていたのですから、負けることを頭から考えない国というものは恐ろしいものです。

 マキン、タワラ玉砕の後も、それで緊張が高まるというわけでもなく、平穏な航海、以前と変らぬ艦内生活の日々が暮れていきます。

 ●二度目のトラック島

 やがて新候補生全員は皇居参内、拝謁を済ませ、私は横須賀で修理中の巡洋艦愛宕に着任、第2期研修に入ります。

 昭和18年の暮れ、空襲警報が鳴ったという記憶もありません。中岡前艦長戦死後いくばくも経っていない愛宕の一室で、静かに吉田松陰講孟箚記の筆写をしながら大晦日、満20歳誕生日の感慨に耽っていたのであります。

 まもなくトラック向けに出撃、勇ましく出航用意のラッパが鳴り響きます。「椿咲くかよあの大島を越せば黒潮渦をまく」歌の文句の通りであります。

 トラックには武蔵、大和以下連合艦隊の主力が、広大な環礁一杯に錨を下ろしていました。

 覚えているのは夜、煌々と電気をつけ、甲板上での夕涼みよろしく、乗り組み下士官兵のため映画を上映していたことです。太平洋のど真ん中トラック環礁は、昭和19年の正月明け、まだまるで温泉地か保養地のようなリラックスムードだったのであります。

 当然ながら風紀も、うぶな私にはどうかと思われる状況でした。先輩たちの女遊び見ていて、こんなことで戦争に勝てるだろうかと思ったものです。

 でもその中には、ラバウルなど南の前線から帰投してホッとした、束の間の骨休めであった人、生きて再び帰ることのなかった人も少なくなかったはずです。

  [思いを祖国の明日に馳せ、今日の戦さに散る]

 そんな日が何時やって来るかも知れない。時にはそんな日の連続でさえある、熾烈な南太平洋の戦闘海域と、中部太平洋に位置していた根拠地トラックとはやはりどちらが欠けてもいけない持ち合いの相互関係だったのでしょうか。

 戦争が始まって2年と少し経っていた頃のことです。

 そんなトラックである日、紛れ込んできたような感じの敵偵察機を打ち漏らしてしまいました。

 トラックにいた連合艦隊の主力が一斉にパラオへ移動します。

 敵機動部隊の初攻撃で、残った艦船部隊が壊滅するのが、それから僅か10日後、同期から最初の戦死者も出ました。

 中部太平洋の楽園はこうして一挙に、それまでの連合艦隊前進基地としての地位を失い、我が制海権すれすれの最前線と化してしまうのです。

 ●パラオ恋しや

 突如トラックを襲った悲運をよそに、移った先のパラオはというと、昨日までのトラックそっくり、敵機の姿を見ることもない平和の別天地でありました。

 私にとってのパラオは、今思い出しても「パラオ恋しや」の舟歌が洩れてくる、そんな桃源郷だったのです。

 愛宕艦内にも平時の海軍の面影が残っていました。その一つに、今の日本人の戦争イメージからは想像もつかないような昼どきの風情がありました。

 司令長官(後の"栗田艦隊"の栗田中将)が昼食の箸をとると、軍楽隊の演奏が始まるのです。勇ましい軍歌ではありません、荘重なクラシックなのです。

 マキン、タワラが玉砕し、トラックがあれほどの打撃を受ける状況下に、海軍では第二艦隊の旗艦愛宕にまだ軍楽隊を乗せていたのです。

 毎日のように軍楽隊の演奏のもとで食事をとる風景、みなさん想像ができますか。私のように音楽の素養のないものでも優雅な気分にだけはなったものですよ。

 在りし日の海軍、その威容を語る懐かしの風景でありました。

 休みの日がこれまた傑作、パラオで一番大きいコロール島の山登りが楽しみでした。余分におにぎりを作ってもらって、"お腰にさげて"という気分で出かける。パラオの子供たちがぞろぞろついてくる。まるでパイド・パイパー、日本流だと桃太郎の絵図です。

 今になって思うと、その子供たちの中から大統領や閣僚が生まれているかも知れないんですね。パラオの子供たちにはいい思い出ばかりです。

 第二艦隊艦隊会議の記録係もさせて貰って、戦局の大きな動きも頭では分かっていながら、こんなパラオにいては長閑な気分をどうすることもできません。

 やがて太平洋戦争の天王山、空前絶後の大海戦の舞台になる海域にありながら、私はいかにも平和なパラオの雰囲気の中で、副官事務と庶務主任の仕事に精出していたのであります。

 戦争というのは、戦国時代にあっても大名たちが毎日戦闘していたわけではないんすね。インターバルがある。その間に何年もの「平和の時」が入っていることさえ珍しくはなかったはずです。

 日本の歴史でも世界の歴史でも、小説家が描くものに影響され、戦争と言えば戦いの連続のように思いがちで すが、現実の戦争はそういうものではありますまい。国民全部が戦争をひしひしと身近に感じた大東亜戦争末期の主要都市無差別爆撃は、半年近く切れ目無く続 きましたが、あれはもう、勝負が決まって止めを刺す行動の時期だったと見るべきではないでしょうか。

 そのパラオも私が転勤命令を受けて去った直後、アメリカ機動部隊の猛攻撃を受けることになります。

 私は幸か不幸か、そういう戦争の苛烈な場面をすり抜けてきた格好になっていまして、命を長らえていることが申し訳なく思うことが今でもよくあるのです。

 私が乗った5つの艦艇のうち4隻が沈没し、後任者はみんな戦死しています。その4人が私を生かすために私の死場所だったはずのところへ転勤して来てくれたようなものなのです。

 第八  この一戦

 ●一路決戦場へ

 パラオで愛宕を退艦し、長崎で艤装中の駆逐艦霜月へ。佐伯沖での訓練が終わるのが、頽勢を挽回して戦局の一大転換を図ろうとした「あ」号作戦発動の直前でありました。

 「タウイタウイ島向け出撃すべし」という命令なのですが、「おい、タウイタウイってどこだ」とガヤガヤ子供のようにはしやいでいた初陣霜月の出撃風景、私にとっては、咲く花の匂うが如き青春の一こまです。

 タウイタウイ島を目指してフィリピンのスールー海に入った時、シンガポールに近いリンガ泊地を出撃して北上中の我が大艦隊に合流できました。

 霜月は早速空母瑞鶴の直衛を命ぜられます。

 全艦隊が燃料補給のためギマラス泊地に到着したころ、「あ」号作戦は既に発動されていて、関連軍機書類を旗艦大鳳へ貰いに行きます。

 艦長のお供は、副官でもある主計長職務執行の私です。こうして私は最高の機密書類を艦長の次ぎに見ることのできる立場にいたのです。

 分厚い軍機書類に目を通して作戦の全貌が分かって行く、その興奮といったらありません。敵撃滅の後、我が第一機動艦隊はラバウルに進出するとまで書いてある。血湧き肉踊らずにおられましょうか。

 ●敵機動部隊を求めて

 翌朝はいよいよ敵を求めての 艦隊出撃 ギマラス泊地発進です。

 名は第一機動艦隊でも実質はほとんど連合艦隊そのもの、海軍をこぞる大小の艦艇が次々と泊地を出て行く、その光景は壮観の一語に尽きます。

 それまでに駆逐艦は随分消耗していましたが、戦艦や巡洋艦は昭和19年6月の時点では大部分が健在だったのです。空母もいったんミッドウェーで壊滅状態に陥ったものの、その後大鳳が竣工し、瑞鶴、祥鶴に仮装空母も加えると、かなりの規模のものに戻っていました。

 それが陣容を整えて、いよいよ敵撃滅の壮途に就くのですから、万葉の歌さながら「御民われ生けるしるしあり」の思いに心が弾んだのも無理はありません。先程引用した

  [想いを祖国の明日に馳せ、今日の戦さに散る]

というのは、この時の武人としての心境を50年後に回想し、第1回の戦史講話で披露させて頂いた自作の短句であります。

 ●皇国の興廃この一戦に在り

 いよいよ6月19日、決戦の日がやってまいります。

 真っ青な空、真っ青な海の中を行く空母瑞鶴、その飛行甲板上に次々と艦載機が運び上げられ、キラキラと朝日を浴びて輝きます。そして一機また一機と紺碧の空に舞い上がっていく。

 各空母の艦載機が発艦を終え、艦隊の上空を覆い、やがて幾重にも銀翼を連ねて視界を去る。第一次攻撃隊の発進であります。

 「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」の指示を表すZ旗が揚ります。

 明治38年5月27日帝政ロシアのバルチック艦隊を迎え撃った日本海海戦から38年目、同じ旗流信号が旗艦大鳳の上に翻えるのであります。

 さあ次は第二次攻撃隊です。発艦作業開始。艦隊上空での勢ぞろい。200機はいたでしょうか。艦隊全員の期待を背にして乾坤一擲の壮途に就きます。

 その瞬間には神ならぬ身の知る由もなかったことですが、この偉観は私にとって、勝利への希望に輝いた眼で見る最後の海戦絵巻となったのであります。(続)


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1999年03月29日(月) 元中国公使 伴 正一

第四 少年の心に映った戦前昭和史の一こま

 ●青年将校とマルクス学生を動かせた共通のもの

 昭和11年、中学の入学試験に合格した直後のことです。2・26事件が起りました。はっきり覚えているのは、そこらの路地を歩きながら、姉の亭主になる義兄が「あの人たちの動機は純粋なんだ」と言っていたことです。

 これは国民全般とはいかないまでも当時の多数日本人の本音に近いところではなかったでしょうか。

 政党政治の腐敗という言葉が、かすかに幼な心に刻まれていました。田舎の小学校を転々としていた私に は、"貧しい農家"のイメージが同級生たちの服装や弁当から実感として伝わってきていました。それだけに、娘が売られるというような、子供には分かりにく い話も、まんざらこの世の外のこととは思っていませんでした。

 それが、子供たちが漠然と話に聞くのと違って、一人前の陸軍将校の立場になっていればどうでしょう。自分が"陛下からお預かりしている"兵士から、妹が売られていると聞いたら、義憤に燃えずにいられるでしょうか。

 昭和の歴史はその初頭の世界恐慌を抜きにしては語れないのでありますが、そのシンボル的事例としての"娘が売られる"という現象に、多感な青年の目が鋭角的に注がれたとしても不思議ではありません。

 最近になって思うことなのですが、5・15事件や2・26事件の青年将校たちが、もう少し家計にゆとりがあって(旧制の)一高や三高に行っていたら、マルクス・レーニンに走っていた可能性は多分にあると思います。

 逆に、旧制高校でマルクス・レーニン主義に傾倒し、ブタ箱入りで殉教者気取りにさえなっていた天下の秀才たちが、もし陸軍士官学校あたりに入っていたらかの青年将校のような行動に走っていたかも知れません。

 一高生や三高生がどれほど秀才だったとしても、果たしてきちんとマルクスを勉強したのかどうか、勉強はし てもよく分かったのかどうかは怪しいものです。大まかに言えば"マルクスかぶれの風潮に染まって行った"と見るのが正解で、それを原体験的に支えていたの が、当時全人口の半分を占めていた貧しい農村の姿ではなかったでしょうか。

 ●海軍の風潮

 私が旧制中学から海軍経理学校に入学したのは2・26から5年目の昭和15年の暮れでした。海軍の学校で 一番怖いのは一号生徒と呼ばれる最上級生で普段の日はこてんこてんに鍛えられましたが、日曜日に外出している間だけは人が違ったような優しい兄貴になる。 そういう中で一号生徒から5・15事件の三上卓が作った有名な[泪羅の淵に波騒ぎ......]の歌を教わったのですが、その際一号生徒は「二番だけは外で歌うな よ」と注意してくれていました。「財閥富に奢れども」という悲憤の下りです。一つのバランス感覚として面白いではありませんか。

 それが私が2年生から3年生になる頃になると、今にして思い当たることなのですが、海軍にもナチスかぶれの傾向がそろそろ現われ始めていたように思います。

 海軍省で戦時国際法の権威だった杉田教官の講義では、捕虜待遇の個所などきちんと教えてくれていました。 ところが生徒の中からは「教官の言うようにしていたら戦争は負けるよ」とか、「何でもいいから一人でも多く敵を殺すんだ」とかいう反発の声がチラホラ出て いたのです。兵学校では、軍歌「上村将軍」のうち、沈み行く敵艦リューリック号の乗員救助を命じた次の一節を歌わせない分隊もあったそうです。

   恨みは深き敵なれど
   捨てなば死せん彼らなり
   英雄の腸(はらわた)ちぎれけん
   救助と君は呼びけり

 総力戦を強調しただけとは思えない。日本古来の思想でも、楠木正行の敵兵救助は天晴れ武士の鑑とされてきたではありませんか。そんなことを考えると、これはどうもナチスの影響でもあったように思えてなりません。

 第五 いい加減だった戦争目的

 いま振り返ってみて全く解せないのは、あの戦争の3年8カ月間、前半は海軍生徒、後半は南太平洋転戦ということでありながら、戦争目的が語られるのを耳にしたことがないということです。

 それだけに唯一の例外、東大橋爪教授の講義から受けたショックが忘れられません。

 「この戦争は祖国防衛戦争ですよ」と言われる。ピンとこない。それどころかひどい違和感を覚えたものです。「アジアの解放」が目的と信じて疑うことのなかったところへ「そんな呑気なもんじゃありませんよ」と水をぶっ掛けられたんですから無理もありません。

 「東亜侵略百年の野望をここに覆す」と国中が高らかに歌っていたご時世、まだ日本が負けるなんて思っても みなかった時期ですから、戦争の大義名分に掲げられていた謳い文句を、そっくりそのまま、戦争で達成しようとする具体的 戦争目的 と取り違えていた。ど の国にだってあり勝ちなことではありますが、我々軍人を含めて国民全体が戦争目的の意味が分かっていなかった。それを橋爪先生が衝いてくれたのだと思いま す。

 その橋爪教授が薦めてくれた本に「戦争指導の実際」というのがありました。分厚い本でしたが、卒業後も軍艦に持ち込んで読み耽ったものです。

 第一次世界大戦の時、陸軍からのフランス派遣観戦武官だったこの本の著者は「戦争目的」について、実に目の覚めるような見事な解説をしてくれていたのです。

 「戦争を始めるには目的がはっきりしていなければならない。また戦争目的を達成したと思ったらすぐに止めるのが戦争指導の鉄則である。」
 「人間は愚かだから、戦争目的が容易に達成されそうだと思うと、つい目的を広げてしまう。こうして戦争を収拾する折角のチャンスを逃し、泥沼に入ってしまい勝ちなのである。」
 「逆に目的を達成できそうにないことが分かったら、いつまでも目的にこだわっていてはいけない。すぐさま戦争目的を縮小し、素早く手を打たないと大変なことになる」

 「戦争指導の実際」は私が今までで最も愛読した本の一つですが、著者の目から見れば日支事変も大東亜戦争も、目的がはっきりしないままだらだら続けた戦争だったに違いありません。

 第六 戦争の"陽"の半面、勝ち戦さ

 ●幕末生まれの伯父の生涯

 海軍生徒として娑婆気もすっかりぬけたころ、退役陸軍少将で日清戦争では功三級をもらったという伯父が亡くなりました。大東亜戦争で日本が勝ちまくっていたさなかでした。私とは随分と年の違った伯父でしたが、その伯父が死ぬ2日前に言った言葉がとても印象的なのです。

 「英国は滅亡だ」という。

 伯父にしてみれば、幕末に生まれ、日清戦争で初めて鴨緑江を越える。

 爾来国運いよいよ隆盛に向かい、大東亜戦争の緒戦で海軍は英国太平洋艦隊の旗艦プリンス・オブ・ウェールズ号を撃沈、陸上ではマレーの虎と勇名を馳せる山下奉文の兵団が、アジアにおける大英帝国の牙城シンガポールを衝こうとする。

 そこまでを見届けた伯父の一生は、明治建軍から登りつめて頂点まで。それをすっぽりきれいに生身の視界に収めきった生涯でした。  そんな生涯の幕を勝ち戦の中で閉じた伯父の最後の言葉が、先に述べた「英国は滅亡だ」であったのです。

 ミッドウェーの敗戦を知らずに息を引き取った黄海海戦(日清戦争)生き残りの提督がいたとしたら、維新この方敗れることを知らなかった大海軍の面影を、一点の曇りなく心に収めて世を去ることができたに違いありません。

 私が素朴に羨ましいと思う伯父の生涯をこんなところで引き合いに出したのは、今の日本人には分かりにくい勝ち戦さの実感を、多少なりとも後世に伝えたいと思うからです。

 戦争とは負けるものだというような、一方的思い込みの感覚で軍事を論じていたら、世界の常識からかけ離れた珍論になりかねないし、世界の歴史そのものの理解も怪しくなります。

 「治にいて乱を忘れず」しかも、物事を見る目は陰陽の両面、戦さで言えば勝ち負け双方の局面に向けられていなくてはなりません。陽にしろ陰にしろ一面しか知らないでいることは物の見方を偏(かたよ)らせる基になるのであります。

 ●先輩たちの勝ち戦さ

 というわけで勝ち戦さの話をもう少し続けましょう。

 外務省の先輩で最後にはフランス大使を務められた力石さんがジュネーブ在勤中のことでした。私が出張して のある酒の席で話がインド洋作戦に及んだことがあります。カルカッタやコロンボの空襲などはほんのつけ足りで、元気一杯に洋上作戦を展開する南雲艦隊の有 様が力石さんの口を衝いて出てくるのには、こちらがすっかり当てられてしまいました。同じように勝ち戦さしか知らない人でも、海軍生活の印象がよく、戦後 もずっと陽の当るところにおられたから、平気でそんな話もできたのだと思いますが、とにかく痛快でした。「もう2年早く卒業していたらなあ」と力石さんが 羨ましかったものです。

 もう一つは昨日のことです。日銀出身の岡田さんという方にロータリークラブの会合でお会いし、先方から「海軍出身でしてねえ」と自己紹介されました。

「どこにおられたのですか」
「インドネシアです」
「今村大将がおられたでしょう」
「立派な方でねえ......」
「そのころの印象はどうでしたか」
「いや、アメリカが日本を占領していたときと同じようなもので、日本の威勢 がよく、随分いい思いをしました。」

 そんなやりとりでありました。

 私にとって勝ち戦さは、生徒時代に一般国民と同じように新聞やラジオで聴くだけ。たまに先輩がパール・ハーバーの話をしてくれるぐらいで体験したことがない。つまり新聞を通じて知る勝ち戦さでした。しかしそれもミッドウェーの海戦を境に一挙に怪しくなっていくのです。

 ●勝ち戦さの終り

 ミッドウェーといっても若い人にはピンとこないでしょうが、維新この方、負け戦さを知らぬ帝国艦隊が、圧倒的に優勢な兵力でミッドウェーに襲いかかった、勝つのが当たり前の戦さです。

 それが何ということでしょう。運命の五分間、いわば一瞬の判断ミスで大敗を喫し、主戦力の空母四隻を失ってしまうのです。

 それこそ卒業が私より二年早い青木先輩に、戦艦榛名艦上からの目撃手記があります。要約してみましょう。

    着艦するに母艦なし!
    洋上機動作戦の華、錬達のパイロットたちは、搭乗機も無傷、燃料に
    不足もないのに、空しくハンケチを振りながら海の中に突入して行く。
    何たることぞ。その無念やいかに。

 こうして太平洋上における我が海軍破竹の勢いは頓挫し、その勢いを取り戻す夢は遂に実ることがなかったのであります。

 この後、勝ち戦さらしいものといえば、愛宕時代に仕えた荒木艦長ご自慢のツラギ夜戦くらいのものではなかったでしょうか。

 戦さというものには完全ゲームから引き分けまで、色々の勝ち負けがありますが、どんな場合でも双方にミスが続出するのがむしろ常態だと言えます。

 そして、ミスが相手のミスで救われたりもしながら、総じてミスの少ない方が勝つ。戦さはこういう感覚で捉えると実感が出てよく分かるのでありまして、どう見ても勝つはずの戦さでも、やはり敗れることはあるのであります。

 戦争は外交の延長であり、それを締めくくるのも外交ですから、作戦用兵だけで勝負が決まるわけではありませんが、もしもミッドウェーであんな番狂わせがなく順調に勝ち進んでいたら、戦局はどう展開していたでしょうか。

 それは日露戦争での奉天大会戦か、日本海海戦直後の段階に少しばかり似通ったものになっていたかもしれません。

 そんなことを考えておりますと、勝ち目のないという点では日露戦争だって大東亜戦争とどっこいどっこいではなかったのか、という気がしないでもないのであります。


 伴 正一氏へのメールihouse@mb.infoweb.ne.jp
 ホームページ「魁け討論 春夏秋冬」は「http://ss5.inet-osaka.or.jp/~take0505/
1999年03月27日(土)萬晩報主宰 伴 武澄

 3月17日付萬晩報「夢に終わったコンビニのレジでの現金引き出し」 には各地からさまざまなメールをいただいた。「もっと勉強してから書け」「踏み込みが足りない」といった指摘があった一方で、アメリカでの実態報告は筆者 のコラムの足りない部分をかなり補足していただいた気分です。すべてを紹介できないのは残念ですが、できる限り掲載しました。(伴 武澄)
 ●香港では便利すぎるぐらい便利
はじめまして。貴殿の記事を読み非常に同感しついキーを打っている次第です。日本に大仰にも、デビットカードなる先進国ならどこにでも有るものがようやく1月から出来たとは初めて知りました。

 私は香港に住んで3年になります。はずかしながら香港は日本ほど先進国的でないという先入観がありまし た。しかしいざ住んでみて驚いたのはその銀行カードの便利さでした。残高に関わらず24時間毎日ATMは使用でき、手数料無料、アメリカのようなキャッ シュアウトなるものはないのですが、日本で言うところのデビットカードなどずいぶん前から日常化していたようです。

 地下鉄、バスなど香港中の乗り物に共通の乗り物カードがあるのですが(地下鉄の窓口などでそのカードにお金を振り込んでおくようなもの)これも簡単に銀行カードから振り替えが出来るようになっています。

 暗証番号も自分でATMで自在に変えられますし(今は日本もそうかな?)VISA提携の同銀行カードの中 に複数の口座を連携させて、簡単に24時間ATMで振り替え、引き出し、入金が出来るようになっています。もちろん手数料などはありませんが、VISA連 携カードなので年会費はかかります。

 ほとんどの支払い、たとえばVISA,MASTERの支払い、光熱代、携帯電話代などは電話1本ですむようになっています。万が一銀行の窓口などに行って支払い、入金、振り替え等などしなければいけない場合も記入は窓口の人がやってしまうので面倒くさくありません。

 特筆すべきはATMの横に付録のようについている残高確認機でカードを溝にスライドさせるだけで、その口 座の残高が見れます。もし複数、たとえば3つ4つ違う同銀行の口座を連携させている場合(例えば小切手の口座や定期預金の口座など)は順次みれるように なっています。ATMでいいじゃない?などと思ってしまうものですが、いざ使うと非常に便利で、買い物途中にはたと思いつき近場のマシーンでスライドさせ ます。もし1時間前にデビットカード機能で買い物した場合は、実際の残金と、1時間前の金額が差し引かれる使用可能残金とで表示されます。

 また連名口座というものも有るので夫婦二人の名前で一つの口座も作ることができ、二人でキャッシュカード に共有もできるので夫婦には非常に便利この上ないものです。ちなみに銀行から大きいお金を借り入れる場合、たとえば家の購入なども連名で借入も出来、連名 で家主になることが出来ます。

 香港は税金の支払いは毎月ではなく年に一回なのですがこれもATMで簡単に出来るようになっています。もちろん電話1本で支払いも出来ます。たぶんまだまだ非常に基本的かつ便利な機能は有るのだと思いますが、残念ながら私の勉強不足でこの辺までしか思い浮かびません。

 面白いところでは競馬と口座を連携させることも出来、電話で購入し自動的に口座から引かれ当たれば口座に入るようにも出来ます。これも特別なカードではなく手持ちの口座で大丈夫です。

 以前初めての外国暮らしのイギリスで、24時間手数料無しでATMが使えることや、スーパーで奥さんたち がごく当たり前に、カードで買い物をしているのに非常に感動し、先進国(もしくはそうでない国でも)ではしごくとうぜんのことだと認識するまでだいぶ時間 があったように覚えています。それもこれも日本の銀行機能の不便かつ遅れ、手数料などという悪質なものを当たり前だと思っていた不幸に、貴方の記事を読み ながら、うんうんとうなずくばかりでした。(Tong Sasaki Narumi)


 ●誘蛾灯にみえる日本のATM
 大変良い記事を拝読させていただきました。今の銀行は、私たちにとって、ATMという誘蛾灯にみえます。細かい引出しは銀行にとっては煩わしいこととは 分かりますが、全国にATMをばら撒くように設置して、手数料稼ぎをしているのです。僅かな金利の支払いですました預金から高額の手数料をとっているので す。手数料でなく、収入源の一部分としていることは承知できないことです。庶民殺しの実態を知らされて、その銀行が資金導入して、のうのうと生き延びよう としていることは許しがたいことです。濡れ手で粟とはいまの銀行に当てはまる、まさしく金言であります。

 猛省を促す諫言をさがさなくてはなりません。アルバイト代を楽しく預金していた若いころの銀行のロビーが 懐かしくおもいだされます。少なくともせっせと預金していたものにとって、銀行は庶民の味方でした。通帳には利息はあっても、手数料の項目はありませんで した。一万円預金して年5円の利息。そして千円引き出すごとに105円、210円の時もあります。サービスでなく営業誘蛾灯です。利口な虫は二度と寄りつ かなくなります。(筒木龍夫)


 ●コラムは踏み込みが足りなかった
 カリフォルニア在住の中村と申します。「夢に終わったコンビニのレジでの現金引き出し」はちょっと踏み込みが足らなかったのではないか、という感想を持ったのでメールさせていただきます。

 疑問  銀行ATMの手数料100円は、銀行の懐に入るだけか?これはNTTデータが運営するVANにも ネットワーク利用料として支払われているのでは ないでしょうか?そのネットワークは開発されて以来20年以上経過し、償却はとっくの昔に終わっているはずですし、NTTの回線利用料金はどんどん値下が りしています。物価水準が変わったとはいえ、20年前と現在と料金が変わらないというのも解せない話です。つまり、
 ・そのネットワーク利用料金がいくらで
 ・ATMサービス開始以降どのように料金体系が変化してきたか
 まで突っ込んでみて欲しかったです。「利権確保」が金融業界だけに見られる体質ではない、ということがわかるのではないでしょうか。

 指摘  たしかにアメリカの銀行では自社ATMでの手数料は徴収しません。が、他行のカードを利用する場 合は、両社それぞれが1.5-2ドル程度の利用料を徴収します。つまり最低で3ドル、最悪4ドルの手数料がかかるわけです。20ドル(通常のATMでの最 低引き出し額)で4ドル取られるのは結構ショックです。

 アメリカ企業を見ていて「商売がうまいなぁ」と思うのはまさにこのあたりで、「お得意さん」と「そうではない人」への対応が実に異なるのです。

 例えば電話。ご存知と思いますが、この国の長距離通話業者は日本では想像もつかない競争状態です。私は MCIという業者を選択しています。長距離通話をする分には、全米どこでも1分10セントという低額が保証されます。しかし、旅行先で利用した電話が AT&Tのものだったりすると、AT&Tからは1分あたり6ドルもの通話料金請求がやってきます。逆に、AT&Tの顧客はMCIの電話を使うと高い料金を 請求されるわけです。

 既得顧客からは薄い利益率で(市場をでかくすることで)利潤を確保し、そうではないお客からは「取れる限 り取る」という方針が上記事実から読み取れます。ということで、伴さんの主張される「現金引き出しや振り込みなど、コンピューターの初歩的操作を収益源と しているかぎり、日本の銀行に未来はない」という指摘には素直には賛成できません。  「取れる所からは手数料を徴収する」という行為と「お得意さんは大事にする」という行為を両立させることこそが、大事な話ではないでしょうか。ただ、そ れ以前に監督省庁の通達というものをなんとかしないとだめだ、という大問題があるのも事実なんでしょうけどね。(なかむらまさよし)

 ■萬晩報誰からも高い手数料を取る日本の銀行を批判したつもりです(伴 武澄)


 ●もっと調査してから書いて欲しい
 大蔵省のデビットカードに対する取り扱いは、この記事の通りと思いますが、米国と日本の銀行商品の比較については、もっと調査してからもの申して欲しい。

(1)米国銀行は一般に当座預金や普通預金口座の平均残高が一定金額(2000ドルとか5000ドル等)未満は、口座維持手数料(minimum charge)を取られます。
(2)ローンを借りる時、日本では印紙税・登録免許税等、借入額の2%前後を税金として取られますが、米国には印紙税がない代わり弁護士手数料(契約書の 作成料)やファイナンシャル・フィーの形でとられます。すなわち、借り手にとっての負担はあまり変わらずに、その支払い先が国か民間の違いがあります。

但し、今後とも大蔵省の陰険なやり口や、情報公開を回避する態度を追求して欲しいと思います。(Koichi Saito)

 ■萬晩報minimum chargeについては言及したつもりですが(伴 武澄)


 ●ATM導入は窓口業務の効率化が目的だったはず
 こんにちわ29歳商社マンです。まったく腹立たしいですね。銀行のATMの手数料については前から思ってましたが、自分の金を下ろすのになぜ金をとられ るのか。基本的にATMの導入は窓口業務の効率化が目的であって顧客の都合より銀行の都合のはず。手数料とはもってのほか。しかも各行そろって今まで継続 しているなど理念が無さ過ぎる。キャッシュアウトの話もびっくりです。銀行局長の通達でわれわれの生活の利便性が減るのは許しがたいですね。この他にもわ れわれが知らない同じような事例がたくさんあるんでしょうね。つい共鳴して怒ってしまう記事でした。(Saiyo Hyuga)
 ●玉ねぎの皮むきをするような規制
 ATMのFeeのみならず、日本のすべての銀行はドル建て口座に、ドルを入出金する場合、出入り両方で手数料を取る。先進国の銀行で、このようなことを しているところはない。従って、我々は海外銀行の日本支店に口座を持ち、日米間でドルを動かすしか効率的なネットワークが組めない。今回の金融自由化と 言っても、個人の口座は海外に持てるが、企業の口座は、海外の証券会社に口座を持って、金融投資をすることは出来ない。 相変わらず「玉ねぎの皮むきをす るような」規制を作っている。日本に本当の金融自由化は来るのでしょうか。大いに疑問です。(米国在住/村上)
 ●コメントの一部が不正確
 いつも楽しく読まさせて頂いております。本日は下記のコメントの一部が不正確だと思い連絡しております。『昨年、日本でもデビットカードが解禁されると 聞いて、銀行のATMがすたれるだろうと考えた。近くのコンビニに飛び込んで現金が引き出せるようになれば、もう夜間・休日や他行からの引き出しで手数料 をとられなくなる。アメリカでの実態を聞いていたから、ごく普通にそう考え、楽しみにしていた。』

 コンビニでデビットカードを使う私の場合は2種類あるのですが、一つはコンビニ内のATMにて引き出す場合とキャッシャーでデビットカードを使用して支 払いとキャッシュアウトする場合があります。しかし何れの場合も手数料を支払っております。デビットカード使用で手数料がかからない場合としては、実際の 口座を空けた銀行では無料ですが同行の支店での使用の場合も手数料はかかります。以上、ロサンゼルスでの実例です。(koyano)


 ●インターネットでクレジット決済は今一番進んでいる
 LA在住の大岩ともうします。現在、LAでクレジットカードプロセスの仕事をしております。米国と日本でのクレジット決済の諸事情に違いの驚かされま す。まだまだ、日本ではクレジットカードを使用することに、躊躇する方が多いと思います。クレジットカードの使いすぎによる問題も多いため、デメリットが 強調されているせいかもしれません。こちらでは、クレジットカードの長所を生かして、上手に使用しているようです。

 買い物をした場合、クレジット決済ですとすべてのお金の流れが明白ですし、不満があれば返品してクレジットバックしてもらうのが当たり前のようになって います。不正に利用された場合でも、カードの持ち主が、毎月送られてくるステートメントを見て、不正使用がわかった時点で、クレームを出しますと、引き落 したお店が確かに購入したという証拠と署名を提出できなければ返金しなければなりません。 もし、このお店が無視をした場合でも、強制的にお店の口座から 引き落してお客様に返金します。さらに、万が一このお店が無くなったとしても、プロセシング銀行が保証しております。

 このように、消費者が業者だまされないように保護されているので、安心して通信販売やTVショッピングができるのではないでしょうか。米国では、クレ ジットカードプロセスの手数料が安いのと、個人でも簡単にマーチャントアカウントがもて、クレジット決済が自宅でできるので、益々普及しています。

 とりわけ、インターネットでクレジット決済は今一番進んでいると思います。日本では、この分野が大変遅れているのではないかと思います。デビットカードの件に関しても、お知らせしたいのですが長くなりますので次回にいたします。

 今一番進んでいる、カード決済のホームページをご紹介します。http://www.ecx.comに入っていただきQ-Commerceをクリックしてください。メンバーのいID Nameを ecxtest とし パスワードを ecxtest として入ってみてください。

 この画面はデモ画面ですので実際にチャージされることはありません。バーチャルターミナルといいます。全世界どこからでも、自分バーチャルターミナルを 利用してその場でクレジットカードで決済ができます。お金は、2、3日後に米国の自分の口座に振り込まれます。(Kenny 大岩)


 ●どの程度ATM手数料を収益源にしているのか
 本コラム楽しく拝読させていただきました。デビッドカードの件についてはおっしゃる通りだと思います。但し、以下の2点については、もう少し詳細な資料を加えて説明して下さったほうが誤解が少ないかと思います。

 1.邦銀がどの程度ATM手数料を収益源にしているのか。全体収益に対する割合は如何程なのか。またあTM関連投資に対する手数料収益の収益率は如何程なのか。
 2.米銀の口座は、邦銀のそれと違って、様々な条件(最低残高等)を満たさないと月次で手数料を取られる点、預金通帳が存在しない等、日本のユーザーには不便と感じる点もあります。

 ジャーナリズムは物事の片面だけを捕らえがちで、且つジャーナリストの私見が頻繁に記事として読者に認識されてしまうことがあります。この点は欧米の模 範的なジャーナリズムと比較して、日本のそれが大きく見劣りする点だと思います。本来のジャーナリズムの役割は事実を事実として読む側・聞く側・見る側に 認識させ、考えさせ判断させる点にあると思います。感想文としてはすばらしくても、このような観点からコラムを拝読させていただくと上記点に関する疑問が 出てきました。単にコラムを貴方の感想文として書かれたのであれば、当方の誤解でした。但し、メディアを担うジャーナリストの記事として書かれたのであれ ば、関係する全ての人(読者も含めて)に対し、公平になるように注を加えるべきでしょう。

 もしこのような、あたりまえの認識を日本のジャーナリズムが絶えず持っているのであれば、某TV朝日が犯したような失態は防げたのではないでしょうか。 ある側を悪者にするのは簡単ですが、事実として存在する以上、どちらかが絶対的な悪でどちらかが絶対的な善ということはないと思います。また善悪の区別は 同じ事実をもとにしても、見方によって変わることもままあります。私はジャーナリズムに歪んでいない事実を伝える役目を期待します。

 事実のみならず私見としては善悪をコラムとして載せるのも結構ですが、どうせなら貴方が悪と認識した事象を如何に善に導くのか、如何に解決するべきなの かについての方法論についても言及して欲しかったと思います。初めてのメールでこのような失礼な表現をしてしまい申し訳なく思います。期待の裏返しだと認 識していただいて結構です。また限られた紙面でのコラムに限界があるのもまた事実だと思っております。(間部 芳治)


 ●キャッシュアウトは無料だが口座使用料に20ドル
 わたしは、今現在、アメリカのテキサス州ダラスの大学院に通うもので、毎回、Internetを通して伴武澄さんの記事をいつでるかと毎回楽しみにして いるものです。今回も大変面白く読ませていただきました。特に日々の生活でデビットカードサービスを使っているため、なるほどと思いながら読ませていただ きました。一つ気になる点がありましたので意見を述べさせていただきたいと思います。

 私は、今 Wells Fargoというアメリカでも比較的大きな銀行に口座を持っております。もちろんCash Out の際は、何時でもWells FargoのCash Machineなら手数料を取られません。しかし、毎月口座使用料みたいなもでので20ドルちかく引き落とされています。もちろん5万ドル以上預金してい るものは使用料は取られません。

 これを、日本の銀行と比較した場合に、日曜日にCash Outするときや送金や振り込み時に手数料は取られますが、口座維持費みたいのは取られていないと思います。これを考えると、果たして本当に日本の銀行の ほうがアメリカの銀行よりも、がめつく手数料に依存しているのかと疑問に思ったしだいです。

 ちなみに、自分は銀行関係者でもないし、どちらかというと日本の銀行は大嫌いな者といことをお伝いしておきたいと思います。(乗富 裕)


 ●アメリカは小切手の社会
 いつも興味深く拝読させて頂いております。私は現在アメリカで勉強中しているいささかトウのたった自費留学生です。今日は3月17日配信された萬晩報 990317号「夢に終わったコンビニのレジでの現金引き出し」に関して少し間違った現状認識があるようなので、アメリカでのデビットカード及びATM利 用に関する事情を書いてみます。

 まず、アメリカでは銀行口座を開設すると、通常その口座を維持するための費用が毎月必要です。1ヶ月の平均預金残高がある一定基準より下まわるとある一 定の手数料が掛かったり、毎月決められた手数料を支払うような口座もありあます。(日本でもシティバンクなどのアメリカ系の銀行はこの口座維持料が必要な はずです)

 要するにいわゆる普通口座でも何種類かがあって、それぞれ利率が違ったり享受できるサービスが違ったりしていて、利用者は口座開設時に自分のスタイルに あったものをチョイスします。ですからアメリカの銀行はATMが24時間使用できて、尚且つ手数料が要らないといっても、他の部分で口座維持手数料が必要 だったりするわけで、単純に日本との比較でアメリカのほうが優れているとゆう比較は出来ないのではないかと思います。

 そうはいっても、24時間ATMが手数料なしで使えるのはありがたいものです。しかし、他銀行のATMを使って現金引出しをした場合は手数料をとられることがままあります。

 そして少なくともある程度の規模の街であればATMは至るところにありあます。その数の多さは日本の比ではありあません。設置されているところも、コン ビニエンスストアーはもとより、スーパー、デパート、学校、病院、ファミリーレストラン、からバーにいたるまで、ちょっとした人が集まる公共のスペースに はほぼ間違いなくATMが設置されています。

 それなのに何故デビットカードやクレジットカードがこれほど普及しているかとゆうと、これはもう安全性に関することに尽きるとゆっていいと思います。つ まり多額の現金をもっているとゆうのは危険であるとゆうことです。この場合の危険とゆう意味は落とすとかつい使い過ぎてしまうとゆう日本的な発想とは勿論 違います。つまり身の危険です。このへんは最近日本が物騒になってきたとゆってもアメリカのそれとはまだまだ較べることが出来ないと思います。

 ですからみんな手軽にどこででもATMが使えるのにも拘わらず現金ではなくデビットカードやクレジットカードもしくはパーソナルチェック(個人用小切手)を活用するのではないかと思います。

 ここでパーソナルチェック(個人用小切手)にふれておきますと、日本では小切手を個人で使う人とゆうのは大変少ないと思いますが、こちらではみんな普通銀行口座を開設したときにその銀行口座のパーソナルチェックを作ります。

 アメリカでは公共料金(電話、電気、ガス、水道etc...)の請求書が送られてくると、普通支払いにはこのパーソナルに金額と宛先を記入し、サインをして 郵送で送ります。他にもクレジットカードの支払も銀行引き落としではなくパーソナルチェックが使われます。ちなみに多くのクレジットカード会社ではカード の年会費が無料です。

 こちらでは、銀行自動引き落としとゆうのはあまりポピュラーではないようです。そして勿論このパーソナルチェックは先ほど上げた所でのほとんどの買い物にクレジットカードやデビットカードと同じように使用できます。

 以上をまとめるとアメリカではお金を払う方法として、クレジットカード、デビットカード、パーソナルチェック、そして現金と4通りの方法があるわけでで す。そして多くの店では20ドル札より高額の現金とゆうのは嫌がられたり、受け付けてくれなかったりします。やはりこれも安全性や犯罪の問題でしょう。

 そもそも日本国内でデビットカードを使うアドヴァンテイジがどれほどあるのでしょうか?クレジットカード利用との明確な差がどこにあるのでしょう?自分 の持ってる金額以上の買物をすることができない。つまり支払い不能に陥ることがない。逆にいえば銀行/カード会社が確実に回収することができる。ただそれ だけです。自己管理を出来ない人が銀行やカード会社に管理を任せられるとゆうだけのことだと思います。

 そもそも文化的背景や思想、生活スタイル、治安、所得格差、人種差別、偏見、とあまりにも大きな社会生活の上でのギャップがある日本とアメリカを同じス テージにのせるとゆうこと自体がナンセンスだと思います。つまり日本の銀行及びカード会社はもっと日本の風土、慣習にあったサービスを顧客に開発提案すべ きでしょう。なんでもかんでもアメリカが優れているわけではないのですから。もっと独自の視点で物事を見る必要があるのではないのでしょうか。一番日本の 企業に欠けているものがそれではないでしょうか。もっと、日本人は自分自身に自信をもっていいはずです。

 いろいろと支離滅裂な内容になってしまい、本来の論旨とはかけ離れた内容になってしまいましたが、兎にも角にも、スーパーで買物をして、支払い時にカードを出すと、デビットなのかクレジットなのかいちいち聞かれるのも面倒くさいものです。

 最後に、日本でアメリカのことが報道されるほど、アメリカで日本に関する報道はされていません。それに引き換え、多くのアジアの国々の人達は日本に注目しています。それがどうゆう意味なのか、もっと深く考える必要があるのではないのでしょうか。(フロリダより八木規仁)


 ●フランス、ドイツには存在しない
 Gobusata desu. "Oubei dewa atarimae" to osshai masuga, france, germany ni sonzai shinai joukyou dewa, "oubei dewa" towa ienai to kangaemasu. somosomo, europe wa "smart card" de shirarete iru hazudesu.

Kiden no kiji no ronshi niwa ooini sandou itashimasuga, itazurani jouhou wo yugameru nowa ikagakato kangae masu. kokusai hikaku wo nasaru sai wa, juubun gochuui asobasaremasu you./.(Yasuaki.Giovanni)


 ●ロスアンゼルスでは cash back と言う
 当地(ロスアンゼルス)では cash back と言っています。おそらくアメリカではどこでもこう言うと思われますが、なにか違う意見が聞かれたら機会を見て教えてください。(松沢)

 ■萬晩報ヨーロッパではスマートカードといったりしているようですが、アメリカではcash outでもcash backでのどちらでもいいのでしょう!


 ●サランラップや、テイッシュペーパーなど要らない
 伴さん いつも 大変興味深い記事を読ませってもらっています。ATMに関する記事を読んで、一言言わせてもらいます。税金で経営を立て直さなければ行けない銀行がある事自体が情けないというか、 平和というか、 まったく競争社会でないことが再確認されました。

 ご存知のように、アメリカでは、70年代の後半に日本と同じように銀行破綻がありました。その後アメリカの銀行は、コストをいかに軽減して競争力を付けるかということで今日まで生き延びてきております。

 まず 窓口業務が日本ほど重要でないことから、銀行の窓口業務にあたる人間の質が、大変低い!。ロスでは、唇にまでピアスをしているメキシコ系の人間までいます が、これで驚いてはいけません。最も、銀行の窓口に出向かなくてはいけない人は、 俗に言う Low incomeの人たちです。チェック、カード、 Online Bankingが、 浸透しているので 窓口に出向かなければいけない人は、 低所得者で、俗に言うその日暮らしに近い人が多いわけです。

 また、日本では信じられないでしょうが、銀行強盗もかなりの数で発生しているので、うかうかと銀行に足を運ぶと危ない目に会う可能性が多いわけです。 よって、 銀行の窓口業務に 至れり尽くせりのサービスも必要でないし、 窓口業務の人員にもお金をかける必要がないわけです。"銀行"が、日本とアメリカでは、違った意味合いを持っているわけです。

 日本もそろそろ、アメリカ的銀行への道を歩かなくては行けない時期に来ているように思われます。しかしながら、日本のスピードは、アメリカに比べて少な くても10倍ぐらい遅いので、2010年ぐらいには、カード社会になっており、銀行員の給与もまともな大学卒(短大卒)は、見送るぐらい低いものになって いるのではないでしょうか? 勿論、銀行の中でも、 ファンドマネジャー的仕事をする人は、現状の平均銀行マンより所得は多くなると思います。訳の分からない、部下の作成した書類にはんこを押したり、接待ゴ ルフをするだけのおっさん達は、銀行に入られなくなるのではないでしょうか?

 長くなりましたが、 まだまだ 銀行の体質が、日本とアメリカでは違いすぎるので、アメリカのサービスと同じ物を日本で期待するのは無理ではないでしょうか。ちなみに、ドイツでは、XX 銀行 Directという口座が開設できるようになりました。このDirect口座は、通常の口座より手数料が少ないこと、また利率が通常よりいいことなど得点 があります。 どうしてこういう事が出来るかというと、お客が Onlineを使い(Internet)直接 Direct Bankingをするわけです。 そしてこのDirect Bankingの部署は、すべてパートタイマーが24時間体制で働き スーパーバイザー一人が正規の職員というローコストオペレーションだから出来るとのことです。このように世界の銀行では、リーンなオペレーションで最高の サービスを提供する動きにあります。

 このようになる為には、私たち一人一人が「俺は客だゾー」いう態度を改めて、サランラップや、テイッシュペーパーなど要らないから根本的改革を銀行に要求した方がいいのではないでしょうか。(koichitoyozumi)


 ●デビットカードで現金が引き出せるのは知らなかった
 伴 武澄さんのコラム本当に勉強になります。報道が取り上げない、専門的な情報をとてもわかりやすく説明いただき、感謝しております。今回のコラム、全 然知りませんでした。デビットカードの手数料がどうなるのか気になっていたのですが、現金を引き出せるのは知りませんでした。

日本の銀行が、こんなの許すことは考えにくいですね。インターネットバンキングまで有料にしようとしますから。あさひを使っていますが、今のところは無料 ですが、有料化にする予定だそうで、そうなったらつかいません。どうも日本は、変な平等意識があるようで、30万円以上の顧客にはサービスを良くするとか いう発想は、顧客差別とかいわれそうで出来ないんでしょう。困ったものです。これからも、たのしく役に立つコラム楽しみにしています。(山田裕之)


 ●アメリカはキャッシュレス社会
 日本の銀行の様々な不便については、わたしもかねてから問題だと思っていました。特に日本のシティバンクと比較し、サービスが劣っていると考えていまし た。今も基本的な認識は変わりませんが、アメリカで「本物の外銀」を日常的に使うようになり、いくつか日本の方が優れているとみられるところも、目につく ようになりました。

 前にもご報告したかもしれませんが、シティバンクの場合、確か1500ドルの残高があれば、どこの銀行のキャッシュディスペンサーでも手数料無料で24 時間、現金をおろせます。しかし、日本のように夜中に老若男女が町をうろついてるわけではなく、殺風景な場所の店舗など治安の問題もあり、夜中の稼働率は さほど高くないようです。NYのミッドタウンなどではそこそこ人がいますが、基本的にキャッシュレス社会なので、クレジットカード、小切手でたいていの用 が足ります。夜間、カネをおろす必要性が日本に比べ格段に低いので、その程度の頻度のサービスなら無料で提供してもさほど銀行には負担にならないと思われ ます。

 ただ、一日の引き出し可能額はたった500ドルです。日本円にして5、6万円です。これ以上の現ナマが必要なことも(特に外国人は)たまにあり、不便で す。平均残高が1万ドルぐらいを超えれば、ATM利用も小切手の引き落としも制限がほとんどなくなるのですが、それ以下では、月当たり回数制限がありま す。

 家賃、光熱費、電話代等、銀行からの自動引き落とし制度はなく、すべてチェックを切って相手に郵送しなければならず、回数制限にひっかかって手数料を取 られないために、私などは日々の買い物や支払いではなるべくチェックを使わないようにしています。クレジットカードは勝手に法外なチップを書き込まれるな どトラブルのリスクが高いので、余り頻繁に使いたくありません。となると、現金が必要になりますが、その引き出しが日本ほど便利ではないのです。無料と いっても、限度額や回数制限は意外にやっかいです。

 こちらの人は、数ドルの支払いでも平気でクレジットカードを使います。トラブルは日常茶飯事ですが、その対応にも慣れきっていて、私にはちょっとなじめません。

 日本の銀行が各種手数料を無料化する代わりに、引き出し限度額などの制限を厳しくし、自動引き落としなどの決済サービスもやめてしまい、残高の少ない客 から口座保管料を取るのがいいのか。今のサービスを見直す必要はあるにしても、アメリカの銀行と同じでいいのか。ちょっと考えさせられます。(大辻)


 ●カナダでは少額預金者に様々な手数料
 カナダ・オンタリオ州在住の安宅と申します。先ほど配信されました「 夢に終わったコンビニのレジでの現金引き出し」についてコメントです。アメリカとカナダでは事情が異なる、あるいは北米として事情は似通っていても銀行に よって、口座の種類によってサービス内容が異なる、ということなのかもしれませんが、私が使っている銀行では、キャッシュカードで1日にChecking accountからおろせる現金の額は一日C$300まで、となっています。従いまして。

「もしATMの有料の夜間や休日サービスの時間帯にコンビニで何万円も引き出されたら」

という「何万円」には、あるていど上限があります。このような一日におろせる現金の上限と同様に、

「口座に30万円程度の残高があればATMからの引き出しで手数料をとられることはないからだ。」

を裏返せば、こちらの銀行は少額預金者からは実に様々な手数料(日本ではまずあり得ない「小切手利用料」といったものもあります)を徴収しているわけで、 こちらでもそれなりに、日本ではないような銀行に都合のいい条件がいくつもついていることを忘れないわけにはまいりません。あるいは銀行関係者から同じよ うな反論が来ているかもしれませんが、日本では少額の預金しかされていない、コストだけがかかる口座(これも、日本独特のつきあいで作られたものが結構あ るのかもしれませんが)が結構あるように思われます。

 また、実にいろいろな種類の口座があって、ニーズに応じて選べるという利点もあるのでしょうが、今の日本で同じことをやろうとすれば、一般の人にはわか りずらい、といった事態も起こるのではないでしょうか。日本の利点は、だれでも均一なサービスを得られるというところにあるわけです。配信される文面上で は自ずと制限があると思いますが、もう少し日米の差について包括的まとめていただかないと、手数料ビジネスに関する議論の本題をそれてしまうような気がし ます。

 ちなみに私は、銀行やそれらを管轄する大蔵省などとは縁もゆかりもありません。昨今の金融不安については一貫して、金融・行政の関係者に怒りを覚えております。あしからず。(Yamato Atagi)

1999年03月25日(木)萬晩報主宰 伴 武澄

 マツダは4月1日から営業拠点を東京から広島の本社(府中町)に移転、東京には広報の一部だけが残る。ア メリカのフォードからやってきたジェームズ・ミラー社長が生産と販売の一極化を提案し、ようやく20年前の姿に戻った。フォードからやってきたミラー社長 が決断したいいニュースだと思う。

 取材した後輩記者の話だと現場でのミラー社長の評判がすこぶるいいらしい。もちろんフォードの世界戦略の 中でのリストラはあるのだが「フォードの役員は現場の声を大切にする」というから驚きではないか。われわれは日本的経営こそが「現場の声を大切にしてき た」のだと信じて来たのではないだろうか。

 こんな逸話もある。経営会議は日本語から英語が混ざるようになった。10億円は英語で「ワン・ビリオン・エン」だが、マツダ流英語では日本の桁取りにならって「テン・オクエン」という。日本人に分かりやすいよう工夫されたという。

 ●80年代に東京へラッシュした関西企業
 これまでの日本人経営者は東京で記者会見をし、東京でニュースを発表したがった。発想の軸を東京に据えることが「一流企業」になる条件だと信じていた。おかげで土地も人件費もばか高い東京の価値はさらに上がり、広島の地盤はどんどん沈下した。

 1982年から85年の間、筆者は共同通信大阪経済部の名刺で取材していた。住友金属工業、武田薬品工業、ダイエー・・・。多くの関西系企業が民族の大移動のごとく東京に経営の軸を移していったことに寂しさを感じた。

 10年経つと、関西に経営トップが常駐する有力企業はわずかとなり、広報の主力部隊も東京に移った。「関西の空洞化」が懸念され、財界人は「関西復権」を声高くさけんだ。だがその財界人の出身母体企業が次々と東京を目指していたのだから、矛盾した話だった。

 関西企業が東京を目指したのは、政府があり、業界団体があったからだ。当時、多くの役員たちが「大阪にい ては情報が取れない」と漏らしていた。彼らは「霞ヶ関の役人」と「業界団体」を情報源と勘違いした。規制緩和がさけばれていた時代に官庁にすり寄ろうとし たのだから、大いなる勘違いである。

 地域から世界的に発想するのはそんなに難しくない。京都府長岡京市に本社を置く村田製作所は地方での経営 のメリットとして「業界団体活動に時間を割かれないですむ」ことを一番に上げている。同社はセラミックコンデンサーなど世界的な電子部品メーカーである。 横並びの経営を続けてきた企業には無理だが、企業に活力があり、魅力があれば、世界の目がその地方にフォーカスされるのだという。

 ●日本人経営者にやってもらいたかった広島回帰
 マツダの広島回帰はすでにいい影響を地域に与えている。大手のマスコミにとって、これまで東京まかせだったマツダの取材が、広島駐在記者の仕事になった。これまでほとんど縁のなかった「国際標準」などという表現が地方の若い記者の口から出るようになった。

 自動車業界は裾野の広い産業だし、販売先も国際化し、記者にもグローバルで幅広い視点が不可欠。これまで はそんな勉強は不必要だったが、これからはそうはいかない。トヨタ自動車の動向はもちろん、フランスのルノー社による日産自動車の株式取得といったニュー スにも当然、関心を持つようになる。

 本当は、地域活性化は日本人経営者にやってもらいたかったが、警察取材と夏の原爆取材が中心だった広島に新たな取材源が生まれることを記者として喜びたい。

1999年03月22日(月)とっとり総研主任研究員 中野 有

 国会では日米ガイドラインや安全保障の論議が盛んに行なわれている。気骨のある政治家が、周辺諸国の動向 を分析し建設的な話し合いを通じ日本の役割を明確にするのは肝要であり、また健全な姿である。このような論議が沸騰する背景には、朝鮮民主主義人民共和国 (北朝鮮)の地下核疑惑施設やミサイルによる軍事的挑発行為がある。

 日本は、米国の共産主義封じ込め政策の恩恵を受け、米国の傘の下で守られてきた。よって、国防や外交につ いての真摯な議論から距離を置いてきた。しかし、冷戦構造が依然として残る朝鮮半島において、今、大きな変化が起ころうとしている。韓国の太陽政策、米国 の予防防衛が示すように「抑止と対話」による具体的な包括政策が北朝鮮に提示され、北朝鮮も前向きな姿勢を示しつつある。

 では、日米韓の連携を強化することを前提に、日本はどのような役割が期待されているのだろうか。筆者は、 米国政府系シンクタンクである東西センターから、とっとり総研に出向し、北東アジアの発展の可能性を重層的かつ複眼的に研究している。北朝鮮情勢の変化に 伴う米国や韓国の動向を分析し、日本並びに鳥取県等の役割を考察してみたい。

 北朝鮮のミサイル危機に対する対応を考えるに、37年前のキューバ危機に対するケネディ大統領の対応が参考になるのではないだろうか。ケネディは、キューバにおけるソ連製攻撃用ミサイル基地が米国にとり重大な危機であるとし、海上封鎖や軍事による強硬な意志を表明した。

 また、ケネディは、軍事による抑止策を行うのと同時に発展途上国への技術移転を目的とする平和部隊やアジ ア・太平洋の文化や経済協力を主眼とした研究所(東西センター)の設立を推進した。要するに、ハード(軍事的関与)と、ソフト(経済開発・経済協力)を同 時に推進したのである。  約5年前の北朝鮮の核開発に対する米国の対応は、カーター元大統領の調停もあり、飴と鞭の飴が強調されたソフトランディング政策がとられた。それが北朝 鮮の核の軍事的転用を断念する見返りとして、食糧やエネルギー支援並びに朝鮮半島エネルギー開発機構の設立に繋がった。

 しかし、その間、結果的に北朝鮮が交渉を有利に進めてきたり、昨年8月のミサイル実験の影響もあり、米国 の対北朝鮮政策の再考が行われた。ペリー元国防長官が対北朝鮮調整官として任命され、精力的に関係諸国を回り韓国や日本との調整を終え、北朝鮮問題への最 終的な解答ができつつある。

 この包括的政策には、飴と鞭の両方が強調されており、北朝鮮が建設的な対応に応じない場合は、昨年のイラ クへの米英の攻撃が示すような断固たる措置を取ることもあり得るとのシグナルが含まれている。それに対し、北朝鮮は米国の対北朝鮮政策が議会を中心に強硬 路線に転じる可能性があると察知し、米朝施設査察で合意すると同時に、北朝鮮は実利的見返りとして食糧支援等を獲得した。

 韓国の金大中大統領の提唱する交流と協力を通じ北朝鮮を開発する太陽政策は、米国の路線と連携したもので あり、米国の軍事的な盾があってこそ効果的に機能すると考えられる。韓国は、北朝鮮の金剛山への観光や、北朝鮮の経済特区への投資促進等を通じ、南北対話 を推進している。また、米国は国際機関を通じた食糧支援に留まらず二国間の農業技術協力を進めている。

 そこで日本の役割だが、北東アジアの天然資源、労働力、資金、技術協力が相互補完的に機能することにより自然発生的経済圏が構築されるとの前提に、日本の資金・技術的な支援と協力を通じ北東アジアの信頼醸成を構築することにあるのではないだろうか。

 日米韓の包括的アプローチにより、朝鮮半島の雪解けの兆しが見えてきた今、昨夏の第八回北東アジア経済 フォーラム米子会議で提唱され北東アジアのインフラ整備と北東アジア開発銀行の必要性や北東アジア天然ガスパイプライン構想等に関する実現可能な論議を行 う絶好のタイミングである。安全保障の問題を検討し、北東アジアの信頼醸成に関する日本の役割を明確にした場合、環日本海の交流の重要性が見えてくるので はないだろうか。(1999年3月17日 なかの・たもつ)

1999年03月17日(水)萬晩報主宰 伴 武澄

 ●アメリカではキャッシュアウトは日常的風景

  日本でも1月4日から銀行のキャッシュカードで買い物ができるデビットカードサービスがスタートした。今使っているカードがそのまま使用できて便利がいい が、口座に残高がなければ買い物はできない。クレジットカードのように使いすぎることがないから、筆者のような浪費タイプには安心である。


  だが、鳴り物入りで始まった日本でのサービスにはデビットカードが本来持つ貴重な機能が外されている。驚いてはいけない。欧米では買い物をするついでにレ ジで現金引き出し(キャッシュアウト)ができるのが当たり前。スーパーのレジで買い物代金の支払いと同時に「50ドルキャッシュアウト」などと言うのは日 常的風景なのだ。

 昨年、日本でもデビットカードが解禁されると聞いて、銀行 のATMがすたれるだろうと考えた。近くのコンビニに飛び込んで現金が引き出せるようになれば、もう夜間・休日や他行からの引き出しで手数料をとられなく なる。アメリカでの実態を聞いていたから、ごく普通にそう考え、楽しみにしていた。

 だがなぜか日本に上陸したとたんにこの便利な機能がなくなっていた。またしても日本国民は先端的金融サービスの恩恵を受けることができないことになったのだ。

  デビットカードは郵便局を含め、多くの都銀や地方銀行、信用金庫までが参加、西武百貨店やローソンなど8つの企業グループの店頭での買い物が可能になっ た。年内にはさらに多くの金融機関やサービス業が参加するものとみられ、全国に3億枚あるといわれている手持ちのキャッシュカードの有効活用がうたわれて いる。

 クレジットカードの場合、カード会社のコンピューターに買い物情報が 送られ、月末の決められた日に消費者の口座からまとめて引き落とされるのに対して、デビットカードは店頭のカード端末がそのまま金融機関のコンピューター と直結していて、店頭で買い物をしたとき、カードの暗号番号を打ち込めば、瞬時に消費者の口座から金融機関に買い物代金が引き落とされる仕組みとなってい る。

 デビットカードのサービスは銀行のATMがスーパーや百貨店のレジに進出したと考えれば分かりやすい。コンピューターの進化がなせるわざである。

 ●大蔵省が禁止していた銀行の外部とのオンライン化
  日本の法令には「なになにをしてはいけない」という禁止事項は少ない。逆に「やっていい」ことのみが記されている。金融サービスも同じだ。デビットカード の解禁がなにによってもたらされたか同僚記者が調べてくれた。実は昨年の春までは「金融機関以外の外部のコンピューターとのオンラインを禁じる措置」が あった。数少ない「やってはいけない」法令だ。

 いや正しくいえば法令ではな く、単なる大蔵省の銀行局長通達である。なんの法的根拠もない「通達」を守らないとほかでいじわるされるから業界にとっては法令そのものである。その措置 を解除する銀行局長通達が昨年春に出たため、スーパーやコンビニのコンピューターへの接続が可能になった。つまりデビットカード解禁となったのである。

  デビットカードの早期導入を阻んでいたのは一片の銀行局長通達だったということもできる。だが、問題はその後である。「日経ビジネス」(1999年3月8 日号)の高橋圭介記者の記事によれば、「金融監督庁はキャッシュアウトをやってはいけないとは言わなかった。代わりに『やりませんね』と念を押した」とい う。

 日本デビットカード推進協議会は金融当局の強い意向を感じ取って会員規 約に「加盟店は釣り銭として顧客に現金を渡してはならない」という一文を盛り込んだ。国が禁止しているのではなく。推進する業界団体が自主規制したかたち になっているのがみそだ。これは当局の完璧な責任逃れである。消費者から不満がでた時に「民間がかってに禁止している」と言い逃れができるようになってい る。

 ●ATM手数料に依存するような銀行に未来はない
  デビットカードの手数料は利用額の1%で、最大100円となっている。これは店舗側が負担することになっている。もしATMが有料の夜間や休日サービスの 時間帯にコンビニで何万円も引き出されたら、銀行は「手数料」を取りはぐれる。時間内でもコンビニなら複数の銀行と契約しているから「他行からの現金引き 出し手数料」も取りはぐれる。

 こんなそんなシステムを銀行自ら始めるはずがない。アメリカで可能なのはそもそもATMの数が少ないうえ に、口座に30万円程度の残高があればATMからの引き出しで手数料をとられることはないからだ。しかも24時間いつでもである。日本の銀行は決して口に しないが、休日や夜間の手数料と他行からの引き出し手数料は付加的サービスではなく、すでに大きな収益源になっているのだ。

 80年代後半からの金融の自由化で各行が言い出したのは「フィービジネス」だ。つまり手数料。だが日本の 銀行は為替手数料やコンピューター端末の利用をフィービジネスと勘違いした。アメリカ流のフィービジネスは大口顧客の資産運用で高い利回りを実現する対価 であったり、事業の提携やM&Aの仲介の手数料のことを差す。

 口座手数料にしても一定の金額があれば無料だし、まして、コンピューターの利便性は銀行の経営合理化に役立つことであって、顧客から利用料を取ろうまどという発想はないはずだ。だが、いったん収益源となってしまった日本の銀行が自ら利権を放棄するはずがない。

 デビットカードの導入はそんないびつな日本の銀行のフィービジネスを打破する格好のチャンスだった。巨額 の不良債権問題で屋台骨が揺らいでいる時期であることは確かだが、現金引き出しや振り込みなどコンピューターの初歩的操作を収益減としているかぎり日本の 銀行に未来はない。

1999年03月14日(日)日中フォーラム 山田 修

 北朝鮮の食料不足を援助する「日中恊働『飢民』支援フォーラム」が1月30日、東京ウィメンズプラザで 「中朝国境の避難民に関する緊急報告会」を開催した。長野県の内科医、色平哲郎さんが問題提起し、山田修さんの「訪中報告」、新潟の僧侶、野口法蔵さんに よる「一日断食デー」の提唱があった。
 最後に山田さんを伴って訪中された野口法蔵さんからの呼びかけ文を掲載した。緊急報告会呼びかけ人: 色平哲郎、大島ふさ子(東京都)、橘 雅彦(埼玉県、大学教員)。以下はその報告である。

 私にとって今回ははじめての訪中でした。韓国の『民族助け合い仏教運動本部』(KBSM)の呼び掛けに応じ、1999年1月半ばの8日間、中朝国境を越えて中国領に入った北朝鮮食料難民の実態を調査しました。

 KBSMは韓国の仏教界が主催する南北支援組織で、アメリカで設立した別組織を通じて北朝鮮咸鏡北道の羅 津・先鋒特別区でも食料救援事業にも取り組んでいます。中国人4名を駐在させて、現地の人々が20人ほどで食料の炊き出しや、保育園児向けの栄養食となる トウモロコシ食品の調理などに取り組んでいます。

 事前の情報では、国境地帯では人身売買をはじめ、難民がらみの犯罪が少なくなく、中国の公安に見つかり次第、北へ強制送還され、北へ戻った後は北の警察に所持品、金品を没収された上、暴行を受けるというものでした。

 延吉市は吉林省延辺朝鮮族自治州の州都。朝鮮語でヨンギル、中国語でイェンチーと呼ぶ。北朝鮮に最も近い都市で難民が多くいるといわれています。同自治州は、人口200万人のうち朝鮮族が40%を占め、北朝鮮とのルートとなる橋も7カ所あります。

 延吉市へは北京から寝台列車で27時間かかります。中心部には高層ビルが建ち並び、中国というより、韓国 の地方都市に見間違うくらいハングル語の看板が林立しています。同一民族でつながりのある人も多いため、韓国資本の進出がすざまじく、市場にも韓国製品が あふれる活気のある街です。

 市内の延辺大学には日本人留学生も多く、中学校では3年間日本語を勉強するそうで、カタコトの日本語を話す人も少なくはありません。

 街にはトヨタやニッサンの車、それも比較的新しい車が多いのに驚きました。北京では中国で生産したプ ジョーやシトロエン、フォルクスワーゲン、それに韓国のヒュンデやデェウーといった車が多いのと対照的でした。これらの日本車はほとんどが北朝鮮からの密 輸車で、最近は公安の取り締まりも厳しくなり、数は減ったそうです。

 延吉市では、北の難民の子ども2人、難民保護をしている宗教者、北朝鮮の兄弟に面会に行った74歳の男性、近郊農村の56歳の朝鮮族農民の男性、農村に隠れ住む食料難民の奥さん、北と取引のある現地の経済人の7人にインタビューすることができました。

 ●国境を越えれば食べ物がある
 まず二人の難民の子どもです。18歳のA君は慈江道の出身で、もうひとり16歳のB君は両江道の出身です。いずれも中国国境に近い山岳地域の出身者です。この二人は身長は160cm位ありますが、体つきが貧弱で、見た目には中国人の12才児と変わりがない印象でした。

 私は写真でしかみたことがありませんが、日本の終戦直後の戦災孤児を思わせる顔つき、体つきをしています。たとえていうなら、ふかしたてのジャガイモにハシで孔をあけて目鼻をつけた、とでもいうような、今の日本にはいなくなった素朴な顔つきです。

 彼らはいずれも故郷ではご飯が食べられず、B君は母親だけが故郷に健在ですが、他の家族は病気や飢えの為 に体が衰弱して亡くなり、あるいは行方不明。北朝鮮の中で列車にタダ乗りし、物乞いや盗みをして放浪していたそうです。彼らの話では故郷の村では村人の多 くは亡くなったり、離村したりで、今では半分は空家になっているとのこと。

 「放浪しているときに仲間となり、孤児たちの噂で『国境を越えて中国へ行けば食べ物はある』と聞いて、国 境の川である冬の図們江が凍った時に歩いて中国へ密入国してきた。最短で30m位の川幅です。中国に入ってからは言葉の通じる朝鮮族から食べ物や着る物を 恵んでもらったり、バスの運転手の好意でタダで乗せてもらったりで、めぐりめぐって延吉市へ着いた。街を徘徊している時にキリスト教の信者らに保護され、 最初は教会でかくまわれた」

 何度か訊ねているうちに少しずつわかってきたことですが、彼らは実ははじめての中国ではなく、自発的に北朝鮮へ帰ったり、あるいは中国国内にいる時に公安につかまって強制送還されたりで3~4回は国境を出入りしているのです。

 「中国公安に『飢民』として強制送還される場合は、まず留置所に2週間入れられ、男女10人くらいずつマイクロバスに乗せられ、延吉市から車で1時間ほどの図們市に行き、図們江にかかる国境の橋を渡って、北朝鮮に送られて行くのだ」

 A君「北の警察へ引き渡された時は所持品を没収され、かなりひどく殴られた。身寄りがないので孤児院へ入れられ、3度の食事には茶碗一杯のぬかと身の入っていない塩汁が出された。慣れないうちはのどを通らなかったけれど、慣れたら全部食べられるようになった」

 「中国から「北」へ向かう道中、公安のマイクロバスの中で居合わせた大人の難民たちは次々と走るバスの中 から飛び降りて逃げ、「北」へ送られたのは子どもばかりになった。妊娠した若い女性が途中で飛び降りた時は、目の前で着地に失敗して頭を打ち、意識不明で 図們の病院へ送られた」

 後から聞いた噂では、その女性を病院に連れていったが、入院費用を公安が負担しなければならず、その予算 がなく、公安も困っているらしいと。最近では増える食料難民を留置し続ける予算も中国側にはなく、つかまっても犯罪でもおこさない限り「悪いことをしない と約束すれば、釈放する」と説教され、半日か1日で釈放された人もいるとききました。

 以上のききとり結果について少し考えてみました。延吉にいれば言葉もナマリさえ直せば、朝鮮族にまぎれて暮らせるし、善意の人からお金や衣類、あるいはうまくいけば仕事や住むところの提供を受けることもできる。ではなぜ自発的に戻ろうとするのだろうか。

 ●難民にもひそむ望郷の念
 第一に望郷の念があります。延吉でひっそりとくらせば行動の自由こそ限られているものの、物乞いしてでもお金は入手できます。しかしある程度たまると北 に残っている家族や親戚にお金や衣類を渡そう考えて帰ろうとする。あるいは行方不明の肉親を探しに帰るということがあります。A君は後者、行方不明の兄を さがしていました。

 B君は母親にお金を届けました。中国の100元札と500元札を筒状にまるめ、ラップでくるんで、尻の穴 の中へ入れる。少額は靴底の内へ入れるなどして、すぐに相手に渡して逃げるための分も分けて持つようにするなどのやり方を彼らからききました。北朝鮮では 中国元は北朝鮮のウォンに両替でき、現金さえあればヤミ市で食べ物も買えるとのことでした。

 第二に、延吉市にいては「住む所がない」。衣食の提供はあっても住まいまでは、短期間ならともかく、長期 には難かしい。以下のように罰金制度まであるとききました。延吉ナマリを器用に話し、世渡りの上手な人でもないと公安に密告されたりする。かくまってくれ る人がいても公安にバレると5000元(約7万円)の罰金を支払わなくてはならず、この5000元という金額は最貧困層の年収の約2年分弱に相当するもの です。

 第三に身分が不安定なところへもってきて、人身売買や差別、仕事についても中間搾取などの人権問題、いつ強制送還されるかわからない不安や見えない圧迫感があるようです。

 ●キリスト教会に行けば助かる!
 次は難民の保護をしている宗教者の話です。延辺朝鮮族自治州にはキリスト教の教会が200ヶ所以上あり、延吉だけでも十数ヶ所、非公認の小さいものもい れると50カ所以上とききました。80%がプロテスタント、20%がカトリックだそうですが、それぞれ横のつながりはないとのことで、信者が街で見つけた 食料難民を連れてくる。あるいは「教会へ行くと助けてもらえる」と口コミで難民が来る。

 難民が来るとシャワーを浴びせ、新しい服を着せ、多くは皮膚病や肺病を持っているので、その場合は病院へ 連れていく。その後仕事を紹介したり、住む所を見つけ、子どもには読み書きを教えたりする。公安のトップには難民が衰弱している場合には人道的に3~4ヶ 月であれば面倒みさせてほしい、と黙認してもらっているが、年に数度ある「難民送還キャンペーン」の時には他の土地へ逃れさせる。

 公安にはこのキャンペーンの時にはつかまえた人数に応じてボーナスが出るらしいとのはなしをききました。 2年前に衰弱した27才の女性がはこびこまれてきた時、病院で点滴注射して治療してもらったが、3日後に死んでしまったそうです。教会が殺人罪に問われそ うになったが、遺体を火葬する前に検死してもらい、助かったこともあると。教会の多くは似たようなことをしているようですが、表だっては動けないので、 はっきりした全体像はわからない、とのことでした。

 ●1晩で食べ尽くした25kgのコメ
 今度は平安南道の地方都市に住む弟に面会した延吉市内の74才の男性の話。弟さんは元炭坑労働者で現在は定年退職して、奥さんと娘さんの3人家族。97 年に手紙で「食べ物がないので送ってほしい」と連絡があり、すぐに国境の図們で25kgのコメ袋を5つ買って国境バスで北へ入ったそうです。コメは中国国 内では1.5元/斤(42円/kg)の値段に対し、北の税関で1元/斤(28円/kg)が課税されました。

 北の肉親に会うにはいつ、どこで会うかを申請しなければならないそうですが、許可が下りるのにとても時間 がかかったそうです。また、北の国内の列車運行は列車の部品不足などから、時刻表通りではなく、一日の行程が四日かかるなど、国内の移動や手紙のやりとり もスムーズにいきません。親戚訪問であれば北朝鮮国内のどこへでも行けるという中国人もいますが、ごく短時間、しかも国境沿いの街でしか親族訪問の許可が 下りないようです。

 面会は図們の対岸の街の民家で一泊する形であったそうです。あくまでも親戚訪問の形式なので、その民家が 親戚であったことにして、縁のない人に頼んで泊めてもらうことにした。弟の話では定年者には配給と年金はなく、かなり衰弱していた印象でした。 弟とその 娘、そして泊めてもらった家の家族8名の合計10人で、25kgのコメを一晩で食べ尽くしたことにこの男性は驚いていました。

 前述の通り北の国内の列車事情がかなり悪いので、4袋のコメをとても家へ持っては帰れないだろうと心配したそうです。話の様子からは日本の終戦直後の買い出し列車のようなスシ詰め状態らしいと想像しました。

 ●延吉なまりを覚えれば定住も!
 延吉近郊の朝鮮族30世帯(人口110人)の農村でのインタビュー。56歳の朝鮮族農民の男性です。

 「延吉市内の親戚が17歳の難民をかくまっていることをたまたま伝え聞き、本人がケガをしていたので、農 繁期にこの村に2カ月間居候させました。家族同然にうちとけ、良く働いてくれたが、ナマリがひどく、密告の危険があると考え、延吉市へ帰しました。家の小 さい娘は「兄さん」といって慕っていたんです」

 「村には今も26歳と27歳の難民の青年がいるが、村のナマリにすぐなれた。完全に村人にとけこんでいる ので、密告さえなければバレることはないであろう。27歳の青年は家長と一度ケンカして家を出たが、すぐ戻ってきて謝り、一緒に暮らしている。村人は宗教 を持たないが、善意から彼らをかくまっているし、彼らは田畑を良く手伝ってくれるので、助かっている」

 「この村の1人当たり年収は約1400元(2万円)で、一家族4人だと総収入は5600元になる。過去に 公安に見つかり、18,000元(25万円強)をとられた農民や、一晩かくまっただけで5000元(約7万円)の罰金をとられた人もいる。村には年2度は 公安がキャンペーンで難民を探しに来るが、村長が気骨のある人で『難民はいない』と言い、みんなで協力してかくまった」

 北京でのある国連関係者によると、今中国では都市と農村の経済格差が大きくなり、農民には年金も支給されていない。農村でかくまわれている難民と一般の村民とでは、日常生活における国の保障面では(うまくまぎれこんでさえいれば)この先もそれほどの差はない。

 違いがあるとすれば身寄りのない天涯孤独のさみしさと、居候あるいは養子としての肩身の狭さがある。あと 中国の制度では、申請すれば田畑を30年間無償で借りられ、その後は本人の土地になる、という制度があるが、難民には法律上はこれができないので、一生小 作人として終わるということです。

 ●一番の心配なのは北にいる両親
 次は延吉市から車で3時間程離れた農村で、その村に住む親戚を頼って、1年前に中国に逃げてきた20代後半の主婦の話。一緒に逃げて来たのは当時3才の 男の子と夫の母、夫の妹の5名。現在母親は夫の妹、つまり自分の娘を人身売買したことで村にいられなくなり、行方不明。夫は北へ残った親戚を訪問中で留 守。インタビューは留守を守る奥さんでした。

 出身地は咸鏡北道。夫は北では鉱山の建設労働者で、今も親戚の紹介で中国の鉱山で働いている。北では給料 は安く、また配給食料がはほとんどなかった。食べられないので、家族総出で山へ柴刈りに行った。一日全員で働いて70ウォン(一北朝鮮ウォン=0.7円) の収入があったが、ヤミ市場ではトウモロコシが44ウォン/kgで生活は苦しかった。

 「今の村での生活は村人みんなから良くしてもらい、衣食住とも北にいた時からみれば信じられないくらい快 適である。ただ、これほどみんなに良くしてもらって、北に残してきた肉親のことを思うと申しわけなく、逆にかなしくなることがある。今一番困っているこ と、心配なことは、北にいる肉親」

 後はただ泣かれるばかりで、それ以上の質問はできませんでした。

 ●北朝鮮に食料はあるが国民は買う金がないだけ
 最後のインタビューは北とのパイプをもつ現地の企業家。彼の意見は以下の如くです。

 「北朝鮮内部には食料は十分ある。ただ国民はそれを買う金がないだけです。だから支援するなら米よりも現 金を直接手渡す方がベター。資金や食料を現地へ運ぶのを北とパイプのある中国人に依頼することは可能ではあるが、たかり体質になってしまい、今後の商売が しにくくなると考える」

 NGOなどの効果的な支援方法をたずねたところ、以下の返答。

 「卵をあげるか卵を産むニワトリをあげるか、どちらが有効か考えてみてはどうか。例えば咸鏡北道の鏡城と いう所では良質の陶土が産出されるし、陶磁器をつくる工場もある。しかしエネルギー事情や食料事情がわるく、稼働していない。そこへ外国の企業が投資して 現地人へ給料を払えば直接現金が渡せるし、継続的に支援がつづけられる。日本のTOTOやINAXなどへ産出した陶土を輸出したりするとか、検討の余地は あるのではないか」

 「あるいは北朝鮮は工業化が進んでいない分、雄大な自然が多く残っている。観光面でバックアップしてもよいし、水がうまいのでミネラルウォーターの工場を作ってブランド品として売るなら低資本ですむ。以上の様な支援も検討してはどうか」

 ●印象深いふたつの出来事
 さて、私が直接あって話を聞けたのは以上の7人の人達でしたが、他に印象深い2つのことがありました。ひとつは国境の町図們でのことです。国境は250m程の橋を隔てているだけですが、記念撮影をしていたら、中学生くらいの子どもが二人寄ってきて、何か言っています。

 現地の人に通訳してもらったら、彼らは凍った川を歩いて渡って来た目の前の対岸の村の19歳と16歳の子 どもで、「中国の金をくれ」と言っている、とのことでした。見た目はジーパンにブランド物の上着で北京や日本にいる若者と大差なく、血色もよかった。通訳 してくれた人がからかってポケットの中を探ったら洋モクが出てきました。このように国境地帯では交易のためか比較的豊かそうでした。

 もうひとつは北京に帰る寝台列車の中のことです。延吉駅を出てすぐ私の斜め向かいに、15才くらいの男の 子が座りました。その後すぐ車掌が検札に来て、その男の子は無賃乗車がバレ、また中国語が話せなかったので、私の前に座っていた朝鮮族の女性が通訳したと ころ、やはり難民の子どもでした。彼はすぐ次の駅でおろされ、公安に引き渡されましたが、車掌も公安もけっして手荒なことはせず、その点はA君から聞いた 通りでした。少なくとも中国国内では特別なことでもない限り、ひどい目にあうことはないというところが確認できました。


 ●お願い-「一日断食デー」
 今年1月5日より25日まで中朝国境を訪れて参りました。北朝鮮北部と中国の国境で中国側へ越境してきた人々と接してきました。飢餓の状態は大変ひどいもので、飽食の日本が思われてなりませんでした。

 日本では今、不況対策として地域振興券が交付されますが、食生活は相変わらず飽食で、食べ物も残して捨て てしまっています。もし、ここに善意、そして人としての同情をお持ちの方があれば、広くお金、地域振興券(分の日本円)のご協力を求めたいと思います。日 本円を中国元に替えて現地に届けたいと考えています。 又、私自身も現地で三日間の断食をしました。世界の飢えているものの為に、当面は中朝国境の食料難 民の為にと考えています。毎月の初日の一日の三食を断食し、その分の食費として千円を集めて持っていこうという、修行と同情を兼ねた行為です。こういった 行為は現地の人を感動させます。百人の行為を目指しています。皆さんのご参加をお待ちしております。(野口法蔵(僧侶)新潟県)

 ※会計報告・事務連絡
 1月30日の集会参加者からいただきました資料代とカンパから、資料制作費用と会場使用料を差し引きました残りの28,900円を、今後の活動に使わせていただきます。どうもありがとうございました。

 当座の活動費用をプールするために、郵便貯金総合口座(記号10120、番号42319171 口座名"日中恊働『飢民』支援フォーラム")を開設いたしました。振替口座については開設準備中です。また当面の連絡先は、ファックス:048-831-9512、電子メール:mtachiba@jca.ax.apc.org(橘)とさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。(事務担当:大島、橘)

 ●おわりに
 「北爆」の意図が迫るなか、我々はこの冬中国側から中朝国境に足を運ぶことができた。そして子どもを含む二百数十人の避難民に直接救援する方途を確立し た。我々は十名ほどで「日中恊働『飢民』支援フォーラム」を結成した。覚悟ある人士の参集を求めたい。(医師 色平哲郎) 


日中恊働『飢民』支援フォーラム第2回公開報告会のお知らせ

  「日中恊働『飢民』支援フォーラム(以下「日中フォーラム」)」は、中国吉林省と遼寧省に国境を越えて 流入してくる食料難民(中国政府の表現では「飢民」)に心を寄せ、子どもを含む越境者への医療・食料そして「魂のケア」についての支援を行うことを目的に して集まった、市民の集まりです。現在、日中フォーラムには、中国、韓国、日本の市民が集まっております。

 日中フォーラムでは、1999年1月に中国吉林省延辺朝鮮族自治州にて野口法蔵を団長とする第一回の現地 踏査を実施、二百人規模の食料難民を直接救援することが可能ないくつかのルートを開拓して、帰国いたしました。今はまだ細いルートながら、これを生かして 少しずつ直接支援の輪を広げていきたいと考え、各方面への働きかけや、小規模な説明会などを実施しております。

 そこで、今年2月に続いて第2回目の公開報告会を、下記の要領で開催することにいたしました。
 ご関心を持たれるみなさまのご参集を呼びかけます。

             

 日 時 1999年4月17日(土)午後6時15分~8時40分
 場 所 エポック10(豊島区男女平等推進センター)
      豊島区西池袋1-11-1 メトロポリタンプラザ10F
      池袋駅西口下車3分 事務室Tel 03-5954-1015
          map
 内 容 ・現地報告(現地で撮影したスライドを交えて)
     ・討論 共感と支援の輪を広げるために
 報 告 野口法蔵(僧侶・日中フォーラム共同代表、新潟県)
     山田 修(日中フォーラム訪中団参加者、東京都)
          討 論 李 仁夏(イ・インハ=在日大韓基督教会・元老牧師、日中フォーラム共同代表、神奈川県)
     色平哲郎(いろひら・てつろう=医師・日中フォーラム共同代表、長野県)
 司 会 橘 雅彦(埼玉大学教員・日中フォーラム事務局長、埼玉県)
 主 催 日中恊働『飢民』支援フォーラム、ぐるーぷ・迎春花
 共 催 一日断食をする人々 from KOBE
 問合せ Fax: 048-831-9512 mtachiba@jca.ax.apc.org

1999年03月10日(水)お花のプロデューサー 近藤 萬右衛門

 1998年11月25日付萬晩報で紹介した近藤さんの花屋台が横浜MM21に帰ってきた。筆者も妻と一緒 にクリスマスの朝、訪れたが「クリスマス・イブの夜に売り切れてごめんなさい」ということで有名な花屋台を目にすることはできなかった。わくわくするよう な話がまた聞けるようになるのが嬉しい。

 みなさん春ですよ。コーヒーでも沸かして、ゆっくりとお読みください。休んでいるのかと思ったら横浜の2000社に突撃セールスをかけていたのだからすごいです。きっとこういう話が日本を明るくするのだと思います。お花の萬奮闘記の第一号はhttp://yorozubp.com/9811/981125.htmです。3月7日号を転載します。


 ●オフィス街を歩く赤いリヤカー

 桜木町での認知度は思いのほど高くなり、固定客がかなり出来たのである。あの、冬の寒い朝から歩道に立っていた甲斐があり、がんばれがんばれと熱い声援 を頂けるようになったのである。差し入れを頂いたり、通りすがりに笑顔をくれたり人それぞれ様々なカタチで気持ちを表現してくれる。

 こんなカタチでコミュニケーションがとれる商売は私自身今まで経験したことがないので、ものすごいことだ なと思う。でも商売はこれが基本だとつくづく感じるのである。会社の営業でもそうでしょ?まして今は価値観が流動化して、大きな会社の偉い人たちほど何が 正しいのかも判断できなくなってしまったりしてませんか。

 そんな状況の中で単純明解なコンセプトを掲げて安い商品を単純に売る。誰にだって出来る事だけど、なかなか出来ない。でもこれからはそういう時代なのである。

 次の作戦を実行する時がきた。リヤカーに花を一杯積んで横浜を歩こう。顧問税理士がどこからかボロボロの リヤカーを探してきてくれた。何でもそこの会社の先代が使っていたリヤカーらしい。「上等上等」。これをかわいくして自分達で作ろう。材料を市場に拾いに 行こう。市場のごみ捨て場には廃棄処分のコンパネやリンゴ箱や角材が山のように積まれてますよ。

 野菜や魚のパッケージなんだけど、新品のベニヤ板とか一杯ある。これを拾って、ホームセンターでペンキを買ってサビ取りを買って、釘を買って屋台を作るのだ。相棒と二人で棚を作ってペンキを塗ってそれなりの屋台ができた。これに花を一杯積んで歩きたい。早く歩きたい。

 ●目線がビックリマーク

 よし、今日から花を積んで歩くんだ。花桶を20個くらい積んでそれに花を入れて出発だ。色とりどりの花の屋台はそりゃーカッコイイですよ。出会う人はみなビックリして立ち止まる。不思議そうな顔をするのである。

 山下公園から神奈川県庁付近、横浜市庁舎から中区役所、地方裁判所から郵便局前。なにしろこのあたりはそういう街だからPR効果はきっとすごいぞ。そう勝手に思い込んでどんどん歩く。関内から馬車道そして桜木町へ。

 このプロモーションは疲れるけど面白いのである。みんなの反応がダイレクトにわかるのである。何日も歩く と反応がいいところと悪いところも風で感じるのである。もはや私の体は歩道販売員の体になってしまったのか と思うほど辻々で感じる雰囲気というものがある。やっぱり営業は足で稼げというのはそのとおりかもね。

 ●一輪の花を会社に配ろう作戦

 桜木町以外でのPR作戦の次の手は会社とお店にチラシと花をくばる作戦なのだ。ガーベラ1輪をラッピングしてランドマークタワーから馬車道、関内、山下 町、元町のすべての会社を回るのだ。チラシは手作りと印刷の2種類。印刷チラシはA4・三折りで1枚5円。それにガーベラを1輪ずつ。時間はランチタイム を狙って、2人で総攻撃なのだ。

 チラシを配り終わった後の事を想像すると、その日はどこの会社にもガーベラが1輪飾ってある。どこの店も飾ってある。それを相棒とイメージ擦ると、楽しくなってくる。まさに「会社に花を咲かせましょ」なのである。しかもそれを自分達で実践するのだ。

 この作戦は面白い。オープンドアーのランチタイムに「ダダダ」と会社に入って行って花とチラシを置いてくる。インパクトありますよ。バスケットに溢れる花を持った謎の2人組ですからね。

 でも、調子に乗ってたら、警備員に通報されてしまったのだ。そこのビルの一番うるさい会社に突入したら、 会社の人に「なんだおまえ達は!すぐに出ろ」と言われ、警備員を連れてきた。そこのビルの大家さんだったのね。その会社。えーと名前は○菱電○だったっ け。えっと財閥系の。八木先生(注)ごめんなさい。FMヨコハマの人はみんないい感じだったのにね。

 ●花屋台復活セール

 1月後半から2月一杯をそんなことを目一杯して過ごし、3月2日に桜木町に復活したのである。復活セールはガーベラ10本500円。ガーベラだけをリヤカーに満載して、このシルクセンターを朝7時半に出発。

 朝早くからは大変だからと相棒は9時出勤にしてもらって1人で出発。いやー、でも暖かくなったよ。あのころ寒かったもん。桜木町まで行く途中にOLさんが聞いてくる。

 「これ売ってるんですか」
 「はい、そうですよ。10本500円です」
 「え~、ホント?じゃあ20本ください」

 信号で止まってたらまた女の人が10本くださいって。

 30分かかってホームタウンの桜木町についた。ここ、ここ。この場所のこの匂い。50日くらい来てなかっ ただけなんだけど、懐かしい。この雑踏が懐かしい。なんだか嬉しい。帰ってきたんだという気持ちだ。なにより嬉しいのは相棒もちゃんとそこに来てくれてる ジャン。笑って立ってるジャン。嬉しかったなー。

 そして次々と懐かしい顔がいっぱい。どうしてたんですかー。もうやめちゃったと思いましたよ。嬉しい事を言ってくれるんですよ。常連さんたちの笑顔を見て今までの50日が報われた気がする。

 そして夜。午後4時半にシルクセンターを出発する。相棒と二人で。むこうから信号待ちだったおばちゃん2人が走ってくる。

 「なに積んでるかと思ったらお花じゃない。オランダはみんなこうなのよ。ラッピングもいいわねー」
 「そうなんです、それを目指してるんです」
 「あらそう、素敵ね」

 こんな言葉がわれわれ2人にはいちばん嬉しい。だんだん桜木町に近づいてきた。ドキドキする。みんなの反応が心配だ。信号を渡る。定位置に着いた。いつも隣にいた携帯電話屋さんも笑顔で迎えてくれた。2人で桜木町商店街と勝手に言っていた仲だし、この場所の先輩だし。

 さてさて久しぶりの夜の桜木町。どうなんだろう、売れるだろうか。常連さんは来てくれるかな。やってきま したよ。「久しぶりですー」「どうしちゃったかと思った」。そんな声ばかり。結局この日何十人も来てくれて、満足の結果だった。午後8時に終わってまたリ ヤカーを引いて帰る。

 でも足取りは軽い。2人でかわるがわるリヤカーを引いて夜のヨコハマを歩く。楽しいよ。自分達のやりたい事をきちんとイメージして、コツコツ地味にいろいろ準備して。復活セールのチラシは手作りで事前に会社に配ったりして。

 事務所に戻って乾杯しました。また明日からお花屋さん改革の闘いが始まるのだ。こんな仕事をいやな顔一つ せず何でも一緒にやってくれる相棒に感謝します。冬の寒い朝4時起きでがんばってくれて多分睡眠時間は4時間くらいだったと思うけど、本当にありがとう。 相棒の鈴木真理子さん、これからも宜しくお願いします。(こんどう・まんえもん「お花の萬奮闘記」3月7日:第4号)

 (注)文中の八木先生は萬晩報の執筆陣の1人である八木博さんです。


 ご意見・御感想をお待ちしていますhanaya@ryoma.gr.jp。「お花の萬奮闘記」はメールマガジンとしてインターネットの本屋さん『まぐまぐ』で配信しています。http://www.mag2.com/


 【読者の声1999年3月11日】朝、 いつものように楽しみにしている萬晩報に目をやると何だかいつもの雰囲気と違う文章が飛び込んできて少し戸惑っていました。読んでいるうちに花を一杯積ん だ手作りのリヤカーが横浜の街をのろのろと進んでいる情景が浮かんできて気持ちがほっとしました。たいした話じゃないんですが(ごめんなさい)読んでいる うちに涙が出そうになりました。

 最近私は変わることのできない(変わる気が無いのかな?)この日本が本当に嫌になり失望感で一杯でした。 この文章を読んだ時何故涙が出そうになったのか分かりません。しかしこの文章の中の人達はただ"「会社に花を咲かせましょ」なのである。しかもそれを自分 達で実践するのだ。"と言いつつリヤカーに花をいっぱい摘んで寒い町の中を歩いているのです。

 変わりたくない政府や、無責任な大企業のトップ、自分達の利権しか考えない官僚達・・・そんな低レベルな 人間にはできない自分にしたいこと、自分にできることを精一杯自分の意志で行なっているのです。そしてそこに何より社会性が存在するのです。今の日本人に 最も大切なことではないでしょうか。

 きっと、井深さんも本田さんも出発点は同じ思いだったのではないでしょうか。これを読んで私自身、日本の 社会に必要以上に失望感を持ったり諦めたりすることが恥ずかしくなりました。大切なのは自分自身がどうやって社会に溶け込むかではなく、自分が社会に何を 与えられるかを考えていくことだと思いました。

 こういう人達がいる限り、日本は大丈夫です。気持ちの良い文章ありがとうございました。日本中の会社に花を咲かせて下さい。私も頑張ります。(河辺佳朗)

1999年03月08日(月)とっとり総研主任研究員 中野 有

 時の一滴一滴が新たな歴史の扉を開く。将に1999年から2000年に変わる今年の大晦日の一瞬は最もこ くのある最高級の赤ワインのような一滴に相応しい。そんな千年に一度の歴史的瞬間に巡り会うことができるとは何と幸運な事か。この大世紀末の一瞬を歴史の 刻印を刻むに相応しい所でどのように過ごすのか。夢が膨らむ。とにかく哲学や歴史や宗教について、ひいては「日本のこころ」に関しじっくりと問い直す絶好 の機会ではないか。

 世紀末には普段考えないことに思いを馳せるようだ。さてその世紀末でも千年前はどんな世相だったのだろう か。歴史の旅をすることにより日本の生地が見えてくる。藤原道長の「この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思へば」に表現されるように宮廷 貴族の時めいた世の中であった。

 この宮廷のあでやかな装いや雅やかさの裏で展開される恋物語を清少納言の枕草子や紫式部の源氏物語が伝え ている。一方、疫病が蔓延し社会諸階級層の危機意識と不安感が高まり人々の間に末法思想が広がり、諸神諸仏への信仰をかき立てた。地上に浄土を現出しよう と財をそそぎ心を砕いたのであった。

 この平安中末期の世相は、現在と多くの共通項がある。バブル経済の絶頂期には日本は世界を相手にこの世の 望月を謳歌した。その反動により社会不安や老後の不安が重なり経済が萎縮し、有効需要の創出を唱い地上に浄土を現出すべく公共事業に財を投げうった。そし て末法思想の如くいくつかの新興宗教も出現した。

 何時の世も「盛者必衰の理を顕はす」の如く繁栄と衰退の波が訪れる。その振幅が大きくなるのが世紀末の特 徴であり、宗教心や普遍的なものへの探究に駆り立てられるのが現在の世相ではないだろうか。その意味でも現在の歴史のリズムから洞察すれば、論議されてい る遺跡問題一つをとってみてもルーツを探る意味で保存の重要性が認識されるだろう。

 世界各地で生活して思い当たることは、現在の日本の弱点は明確なビジョンの欠如であり、夢のある発想が渇 望されている。確固たるビジョンは哲学や宗教心の基盤があってこそ生み出されるものであるとすると、今、世界に一目置かれるための「日本のこころ」換言す れば、現代人が忘れてしまった「大切なサムシング」を考究する必要がある。

 明治初期、岩倉具視を団長とする革命の英雄豪傑たち50人ほどが1年9ヶ月あまり欧米視察を行った。目的 は新生国家のデザインを描く旅であり、世界史のどこを見ても国家のかたちを創る中心人物たちがこのように長期間の世界漫遊の旅に出た例は見られないとい う。伊藤博文がサンフランシスコで英語でスピーチを行った。これは日本人が、公式な場で最初に行なった英語のスピーチだといわれている。

 伊藤博文は、この「日の丸演説」にて、日本の政府および国民が熱望していることは、欧米の科学・技術・文 明の最高点に達することであると欧米へのあこがれを謙虚に述べると同時に、一滴の血も流さず成し遂げられた明治維新に触れ、日本の精神的進歩すなわち、 「日本のこころ」が物質的進歩を凌駕すると熱弁を奮った。米国の聴衆は、日本を知り万雷の拍手をおこし、しばしそれは鳴りやまなかったという。

 現在、我々の先祖が熱望した欧米の科学・技術の最高点に達することはすでに成し遂げられた。しかし、世界 が一目置いた「日本のこころ」の焦点がぼけてしまった。この大世紀末に、高い志を持って歴史的な大変化の時代に立ち向かった先人の足跡を見つめ世界から喝 采される21世紀の日本の針路を描かなければいけない。たぶん、2999年の宇宙空間に生きる時代においても「日本のこころ」について語り継がれているだ ろう。(なかの・たもつ)

  中野さんへnakanot@tottori-torc.or.jp

1999年03月05日(金)萬晩報主宰 伴 武澄

 1月から各地で配布が始まった「地域振興券」が地域に異常な騒動を巻き起こしている。昨年10月11日付萬晩報「やがて金券ショップが格付けする平成商品券の価値」でそのばかばかしさについて論評した。残念ながらまだ金券ショップに出回るまでには到っていない。

 一番こどもに不必要なお金がばらまかれた

 先週末に妻とこどもが住む世田谷区の東京の我が家に行って驚いた。3人のこどもは順番に15、13、8歳。幸運にも3人分6万円の地域振興券が我が家に転がり込むものだと思っていた。だが稼ぎ人である筆者への幸福の配当はなかった。

 2月28日の金曜日が世田谷区の振興券の配布日だった。こどもたちは当然のように振興券を自分のふところ に入れ、土曜日の夜に我が家にたどり着いたときはすでに「内需振興」が始まっていたのだ。家庭教育が悪いと言われればそれまでだが、学校でもみんな「そう している」というのだから驚く。

 いま日本のいたるところで、同じような現象が起きているのだと思うと背筋が寒くなった。15歳以下のこどもたちに2万円は大金である。そんな大金がある日突然、国家からプレゼントされる事態は異常以外のなにものでもない。

 マスコミはいま、自治体や事業者でまちまちの地域振興券の使われ方に焦点を当てて批判記事を書いている。 大阪市ではNTTの料金に使えるのに京都で使えないのはどうしてかなどといったことは枝葉末節である。振興券が各地で巻き起こしている問題をあまりにも矮 小化している。

 そもそも、こどもたちにお金が配られる理由が分かるはずもない。こどもたちに教えるべきことはお金を稼ぐための「勤労の価値」であり、使うときの「倹約の精神」ではないのか。ばらまき行政の悪弊をこどものころから教え込むことはそもそも教育上、問題がある。

 いまこどもたちに必要なのはお金ではない。家庭の愛であり、先生との信頼、それから友だちとの友情や地域のいたわりでしょう。よりによってこどもたちに一番不必要なお金をいま与える教育上の配慮を自民党は考えたことがあるのだろうか。

 世界のコミュニティー通貨は労働が対価

 MSNニュース&ジャーナルで田中宇さんが、世界に2000種もある地域振興券について優れたレポートを書いている。多くの地域の通貨単位が「アワーズ」(hours)だというのが興味深い。

 彼らのシステムは、日本の地域振興券とは大きく異なる部分がある。地域の振興を目的にしている点は同じな のだが、日本の地域振興券が「役所から住民への贈り物」つまり「下々がお上からいただくもの」という位置付けであるのに対し、アメリカのコミュニティ通貨 は「失業者が技能や働く気を持っているのに働けないのはもったいない」という考え方からスタートした「市民の相互扶助システム」である。日本では消費のた めに発行したが、アメリカでは稼ぐために発行されている。
 ニューヨーク州の小さな町であるイサカのコミュニティー通貨「イサカアワーズ」(Ithaca Hours)は1991年の設立だという。お金を稼ぎたい人に行政が仕事を紹介し、1時間ごとに「1アワー」ずつの代金を得る。単位はあくまで労働時間なのがユニークだ。

 働き口は行政サービスだけでない。イサカが運営するホームページによるとこのお金はレストランや映画館、スーパーなどで使える。住宅ローンやアパートの家賃支払いに使える場合もあるらしいから完全な通貨だ。ホームページにはお札の写真まで紹介しているのでぜひ閲覧をおすすめする。

 イサカアワーズを始め世界のコミュニティー通貨には学ぶべきものがありそうだが、日本の地域振興券にはまるで哲学がない。飽食の日本列島で強引にお金を使わす以外に目的がない。100歩譲って景気刺激に必要だとしてもこどもまで巻き込む必要はなかった。

 萬晩報が一番、心配するのは学校で密かに広がる「カツアゲ集団」が必ず、この振興券に目を付けるだろうことである。全国の15歳以下のこどもたち全員がいま2万円の手にしているのである。親のお金をくすねさせるよりずっと簡単に大金を手にすることができるからである。


 みなさんの身近で地域振興券にまつわる面白い話やけしからん話がありましたらぜひ教えて下さい。ぜひ続編を書きたいと思います。
1999年03月03日(水)日本貿易振興会(ジェトロ) 赤坂 あおい

宮本天さんが書いた1月14日付萬晩報「アジ研のジェトロ統合は知的財産の喪失」にジェトロの幹部から間接的に「事実と違うので反論を載せたい」との依頼がありました。内容的にあまり「反論」にはなっていないような気がしますが、政府機関のひとつから萬晩報に正式な「反論」が届いたことを喜んでいます。【伴 武澄】
 私は現在ジェトロに在職している者です。1月14日付「萬晩報」に掲載された「アジ研のジェトロ統合は知的財産の喪失」につき、このたび、知人からその記事を知らされて読ませていただきましたが、その内容に一部事実誤認があるようで、アジ研ならびにジェトロ を正しく理解いただきたく発信する次第です。

 ◆アジ研との統合について
 アジ研は確かに「独立した法人」ではなくなりましたが、ジェトロの附置研究機関として位置付けられ、呼称も存続しています。今回の統合では、今までアジ 研が持っていた基礎的・総合的な研究事業とジェトロのカレントな調査や幅広い貿易・投資促進活動の機能を融和・発展させることを基本としており、それぞれ 単独では成し得なかったような成果を挙げていくことを大きなねらいとしています。

 事実、双方が持っているアジア諸国の人材ネットワークを活用した共同シンポジウムや研究会を開催したりし て統合のメリットを十分活かした事業を実施していると思います。また、海外に派遣されているアジ研研究員の研究が一層効果あがるようジェトロ海外事務所と の連携を強める方針だとも聞いています。

 ですから私共は「ジェトロとアジ研の統合は知的財産の喪失」と言われないよう、そして、皆様から統合して良かったと言われるような組織にしようと一生懸命努力しているのです。

 ◆ジェトロについて

 ジェトロは設立後20年ほどの間は政府、産業界、民間企業などと協力して輸出の振興に努めましたが、1980年代に入って貿易黒字が定着したこともあり、方向を大きく転換し、現在は輸入促進事業を活動の大きな柱としております。

 すでに過去10年にわたって欧米各国の政府や貿易振興機関などにわが国の輸入専門家を長期間派遣し、日本 市場で有望とみられる製品を発掘したり、現地企業に対し対日輸出に有用な情報提供やアドバイスを行っています。この人たちの活動は現地政府関係者だけでな く、日本国内でも高く評価されています。

 さらに、海外から対日輸出有望商品の販路開拓を目指して訪日するミッションやビジネスマンの受け入れや、 商談などをその都度セットアップし、これらの仕事に若い職員が情熱を燃やして取り組んでいます。また、消費者の方の手の届きやすい価格帯の輸入自動車を展 示した輸入車専門のショウルームやカナダ、北欧を中心とする輸入住宅の展示場を運営し、消費者に輸入情報をお届けしています。

 昨年、経済危機に見舞われたアジア諸国に対しても、緊急産品買い付けミッションをタイ(食品、アパレ ル)、インドネシア(家具・インテリア用品)、フィリピン(家具・インテリア用品、食品)、韓国(電気・電子機器)等に派遣しまして、これら諸国の方から も、それに参加した多くの日本の中小企業の方からも大変感謝されました。

 輸入促進だけではありません。日本への外国投資を増やすため米国や欧州へ対日投資誘致ミッションを派遣したり、対日投資関心企業を日本に招き、投資環境に関する各種情報提供、コンサルタントを実施しています。

 また、わが国特定地域と海外の地域との産業交流を支援するための事業を行っており、例えば、石川県とイタリア・コモ地域の繊維業界、秋田県と米国ミネソタ州との電子機器業界、長崎県とドイツ3市との環境機器業界などではすでに地域対地域の産業交流が進んでいます。

 すべてをご紹介することを割愛させていただきますが、このほか産業・技術交流、発展途上国の工業化支援、国際交流・相互理解促進など幅広い活動を行っています。

 私どもに対するご批判、ご意見は、私はJETROの一層の改善のためのよい刺激になると思います。限られ た予算、定員のなかで皆様の期待に応えられるよう私を含めて多くの人が毎日遅くまで一生懸命努力していることを是非ご承知おきいただきたいと思いま す。(あかさか・あおい)

 ペンネーム赤坂さんへメール

1999年03月01日(月)萬晩報主宰 伴 武澄

 本州の北の大きな島を「北海道」と呼ぶようになったのはそう昔のことではない。明治以降、この地を正式に日本の版図に加えることになり、新たな呼称が必要になった。

 大日本帝国は1869年(明治2年)、古来からある南海道、東海道という地域名にならって「北」の「海道」だから「北海道」と呼ぶことに決めた。日本人にとって、それまではあの広大な地域を総称する呼称がなかったことは驚くに当たらない。

 名付けの親は松浦武四郎である。江戸末期にエゾ地の探検家として名を馳せた。「近世蝦夷人物誌」などという著書も残している。北海道をくまなく歩き、挿し絵とともに和人に虐げられるアイヌの人々の苦難を愛情をもって描いている。

 明治政府の役人としての最初の仕事が後世に「北海道」という名をのこしたのだから大変な名誉である。武四 郎が選定した呼称に「日高見道」「北加伊道」「海北道」などがあったとされる。このうち「北加伊道」が採用され、「加伊」(かい)が「海」に代わった。カ イとはアイヌが自らの地を呼んだ呼称でもあった。

 古来、「北海道」はエゾ地とか、北州、十州島などと呼ばれていた。旧10国が置かれ、渡島(おしま)、後志(しりべし)、胆振(いぶり)、石狩、天塩、日高、十勝、釧路、根室、北見の地名はあったが、この島は単に「エゾ地」と呼ばれた。

 室町時代以降、本州の商人がアイヌとの貿易のため移り住んだが、箱館に藩が置かれたのは江戸時代。エゾ地 が徳川幕府の関心を呼び起こすのはロシアの南下と密接に関連があった。ここらの事情に関しては船戸与一の冒険小説「蝦夷地別件・上中下」(新潮社)に譲 る。フランス革命と同時に北の果てで蜂起したアイヌの英雄伝は涙なくして語れない。

 それでもロシア人がエゾ地にやって来て日本に通商を求めるまでの北海道の歴史は数行で書くこともできる。当時の日本人にとってエゾ地への関心は程度はそんな程度だったはずだ。ひょっとしたら今でもその程度かもしれない。

 漠然とした概念では日本だったものの、箱館周辺の松前藩の外側は、中国風にいえば「化外の地」だったのである。アイヌが居住する地は征服するには自然が厳しく、江戸時代までの日本人にとって興味の対象であってもニシン漁以外に損得勘定がはたらく空間ではなかった。

 当時、国境線がさだかでない「化外の地」は世界にいくらでもあった。 極東では樺太や千島列島、中国にとっての台湾も似たようなものであった。アラスカはロシア帝国が探検していったん獲得した版図を「化外の地」として米国に売却した話はだれもが知っていることであろう。

 いまさら、100年以上も前の話をしても仕方がないかもしれない。しかし、19世紀の帝国主義時代に突入する以前の世界の国境の概念には現在では考えられないほどの無邪気さがあったのだ。

 話を戻す。明治維新後、政府はエゾ地に新たな呼称を必要とした。新政府が、広大な未開拓地を新行政区に加えたからだ。正式に北海道とされたのは1869年である。たった130年前のことなのだ。

 開拓のための役所を設置しようとしたとき、いい呼称がなかった。とにかく「北海道開拓使庁」という役所がこの年、設置された。そして旧佐賀鍋島藩主の鍋島直正が初代長官に就任した。

 続いて1886年、政府直属の行政機関、北海道庁が置かれた。

 驚くなかれ、北海道には開拓使庁は置かれたものの、実は知事がいなかった。それも戦後、地方自治法が施行 されるまで、中央政府の長官が北海道を監督した。戦前の知事はいまのように選挙で選ばれることなく、政府が任命したから実体はそんなに変わるものではない が、どちらかといえば総督府が置かれた植民地の台湾や朝鮮と似たような地位に置かれ続けた。1948年、北海道はようやく本土の都府県並みの自治体となっ た。

 「化外の地」について述べたのは、北海道が歴史的に他の日本の地域と違う扱いを受けてきたことを強調しておきたかったからだ。

 松浦武四郎の著書「近世蝦夷人物誌」は、更級源蔵・吉田豊共訳「アイヌ人物誌」(1981年、農山漁村文化協会)に詳しい。

 萬晩報の関連ページは以下の通り。
 1998年02月09日昔の貧乏人がお金持ちになって、金持ちが貧乏人になって
 1998年03月08日北海道に託す「新五族共和」の夢

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