1999年1月アーカイブ

1999年01月29日(金)マレーシア国民大学講師外国語学部 BAN Mikiko

 8年前、私は国際交流基金の駐在員として期待と不安を胸にマレーシアに赴任した。クアラルンプールに到着 して2、3日後だった。深夜にホテルのテレビをつけると、マレー人の男性歌手が「Sejahtera Malaysia」(平和なマレーシア)という歌を歌っていた。意味は分からなかったが、メロディーが優しく、そよ風のように心に響いた。

 その後、コーランの一節が朗読され、続いてテンポの速いマレーシア国歌が流れて1日の放送が終わった。この曲を聴いたその夜、私は「この地でなら仕事も生活もうまくいく」との確信と安らぎを抱いて眠りについた。

 この第二の国歌ともいうべき「平和なマレーシア」はロングランを続け、今も毎日テレビやラジオからそのメ ロディーが流れている。この8年だけでもいくつかのバージョンができた。それぞれの民族衣装をつけた5人の女性歌手のコーラスは特に印象的だった。音楽が 人々の心を高揚させ、人々の心をつなぐものだということを知った。はたして今の日本にそんな歌があるのだろうか。

 数年前、10年近くマレーシアに滞在する日本人とこんな話をした。

 「こんな平和で安全な国、世界のどこにあるのでしょうね」
 「そうですよね。複雑な多民族国家で本当に不思議なことですよね」

 話はハリラヤ・アイディルフィトゥリ(断食明け)の首相官邸のオープン・ハウスのことである。

 マレーシアでは、ハリラヤに首相、閣僚、各州知事たちがオープン・ハウスをすることが恒例となっている。場所や時間のリストが前日と当日の新聞に掲載され、だれでも参加できるのだ。

 マハティール首相夫妻は、例年ハリラヤ初日に国王と同王妃と朝食を共にし、国王とともに国立モスクでハリ ラヤの祈りを捧げた後、官邸に戻って10時からのオープン・ハウスに出席。オープン・ハウスは昼の休憩をはさんで延々午後6時まで続く。正装よし、普段着 よし、ちょっと親戚を訪ねるような気分で、緑に包まれた小高い丘の上の首相の家に車を乗り付ける。人々は大広間で迎える民族衣装の首相夫妻と握手し、時に は言葉を交わす。

 その後、野外に用意された飲み物やハリラヤのお菓子を存分に堪能する。警備はほとんど気付かないほどで、 ボディ・チャックははおろか、持ち物検査もまったくない。来客は断食の「行」を終えたマレー系ばかりでない。首相夫妻を心から慕っている中国系やインド系 国民、そしてもの珍しそうな外国人たちが入り交じって行列をつくるのだ。

 昨年のハリラヤのオープン・ハウスは経済危機の最中だった。国民の不安や不満が高まって訪問者が減ったり、警備が厳しくなっているのではないかと案じたが、まったくの杞憂に終わった。

 緑の美しい丘陵には例年通り、平和で牧歌的な風景が広がっていた。首相夫妻にあいさつする人々の笑顔、首相の手のぬくもり、落ち着いた表情、穏やかな物腰もどれもなんら変わっていなかった。

 私は、今まで自分の中にあった「国」という概念を問い直さざるを得なかった。マレーシアは「国家」という より、1つの村、大きな家族のようなものではないだろうか。そして首相は内閣の首長という厳めしいものではなく、さしずめ「頼りになるオヤジ」といった存 在ではないだろうか。私はこの国に漂うゆるやかな一体感を感じ始めていた。

 あれから、また1年。マレーシアは新国際空港の開港、英連邦競技大会、APEC首脳会議の開催など歴史に 輝かしい足跡を残す一方で、さらに激しい暴風雨に見舞われた。経済の低迷、ヘイズ(煙害)、酷暑による水不足、近隣諸国の政治的不安、そして決定打はマ レーシアの21世紀を担うはずだったアンワル副首相の解任。その後の信じられないアンワル氏の性スキャンダルの裁判劇。

 海外のメディアと一部のマレーシア人はマハティール首相を権力にしがみつく醜い独裁者と酷評した。国民は戸惑い、私などはマレーシアというこの南洋に浮かぶ小舟はいままさに転覆するのではないかとさえ危惧した。

 今年のラマダーン20日目、つまり西暦1999年1月8日、4カ月間空席だった副首相のポストが埋まっ た。日本人の血を引く奥さんを持ち、「Pak lah」(ラーおじさん)と愛称で呼ばれるアブドゥラ・バダウイ氏が副首相に指名された。多くの人々はこの決定を賢明な選択として冷静に受け止め、安堵し た。

 南国の月日の流れは清濁を飲み込んで、今年のハリラヤを迎えた。恒例通り、首相官邸ではオープン・ハウス が開かれた。何も変わっていなかった。違っていたのは例年をはるかに超える人々が集まり、首相官邸が大変な混雑だったということだった。「押すな」「泣く な」(小さな子どもに向かって)「暑くてかなわん」「どうして警備を出さないのか」。

 いくつもの言語が飛び交う中、新調した服をもみくちゃにされながら大広間にたどり着くとマレーの民族衣装を着た私服の警備係が速く前に進むよう来客を促していた。待った割にはあっけなく終わった今年の間はマハティール首相との握手だった。

 その夜もニュースの後、テレビから「平和なマレーシア」のメロディーが流れてきた。


 BAN Mikiko氏は、国際交流基金の駐在員としてクアラルンプールに赴き、4年半の勤務の後、同基金を退職、日本語教育のためにクアラルンプールに留まり、 マレーシア国民大学のタイバ女史の要請で現在、同大で教べんをとっています。まだメールが出来ないので、ご意見がありましたら萬晩報経由でFAX送信します。
1999年01月28日(木)萬晩報主宰 伴 武澄

 1999年01月25日付萬晩報「国債という日本の打ち出の小づち(1)」の続編である。

 ●だれが国債を買っているのか
 1965年に初めて国債が発行された当時、国債は銀行を中心としたシンジケート団(シ団)が引き受け、証券会社が国民に売った。国が国民に借金を負って いたのである。国が発行する債券であるから不払いはなく安心感があった上、1968年4月からは少額貯蓄の金利所得にかかる税金が免除される「マル優」が 50万円までの国債保有に適用された。いわゆるインセンティブの導入である。

 ここらの事情については1998年12月07日付萬晩報「国債窓販のチャンスを自ら返上した銀行団」に詳しい。

 いまも昔も金利で一番有利だったのは郵便貯金、次いで銀行預金、そして国債と続いていた。それぞれにマル優枠があり、家族全員の名義で貯蓄すれば、数千万円まで利子が非課税となっていたから、郵貯、銀行、そして国債という順序で国民は資産形成していった。

 また当時は発行額も少なかったため、国債発行で今日懸念されている「市中消化」にも問題はなかった。大蔵省とシ団が金利など発行条件を交渉し、その条件でシ団がすべて「引き受けて」いたから、売れ残ることなどあり得なかった。すべてが市中消化されたのである。

 もちろんすべての国債を国民が保有したのではない。銀行や生保などシ団も多額の国債の保有を余儀なくされた。ただ国民にとって有利な貯蓄商品であっても金融機関の運用手段としては不利だった。国債金利は貸し出しに比べて格段に低かったからである。

 そこで「金融機関は国債の売却をひかえ、そのかわりに発行後1年以上経過した国債は、日銀の成長通貨供給 の見返りとして日銀の資産勘定に移る」(日本経済新聞社「昭和経済史」)ことになったのである。1960年代からすでに日銀による国債保有を可能とする制 度改革が始まっていたのである。

 「昭和経済史」の中で田中直毅氏は日本の国債発行の特異な点について「こうした御用金思想のもとでは、国債の借り換えや発行条件をめぐって、欧米諸国が苦労した国債管理政策の困難さを経験することはなかった」と指摘している。

 国債発行が今日的課題として本格的に浮上したのはオイルショック後の1975年の補正予算以降である、ま たしても大幅な「歳入欠陥」が発生したのである。日本政府は再び巨額の「赤字国債」の発行を余儀なくされ、以降、日本丸は国債大量発行、国債依存症という 病に悩まされ続けることになる。

 こんどこそは市中消化難が本格化し、「市中消化」を促す施策が「金融自由化」の美名の下に段階的に打ち出されることになる。

 1976年 大蔵省が通達で実質的な国債先物である「現先取引」を公式認知。
 1982年 中期国債で、発行条件を決めた上で 応札希望額を募る「定率入札」を導入
 1983年 国債の銀行窓口販売解禁
 1987年 資金運用部引き受け ・金融自由化対策資金引き受け導入
 1987年 超長期国債、中期国債、割引短期国債に公募入札制を導入
 1988年 国債の郵便局販売
 1988年 マル優廃止
 1989年 国債募集引き受け団(シ団)で10年利付国債の40%に価格競争入札を導入
 1990年 上記方式を60%に拡大

 国債の大量発行は国債流通市場の拡大を促し、市場での売買の増大によって発行の際の金利決定にも市場原理 が導入されるようになった。77年1月、初めて5年物中期国債が発行され、78年6月、日銀は入札方式による市中の国債を買い入れる「国債オペ」を実施、 9月大蔵省は郵便貯金などの資金を運用する資金運用部による国債買い入れを決定するなど相次いで国債金利の高騰を押さえる策を打ち出した。

 それでも国債金利は下がらず、80年5月、国債の応募者利回りはついに8.888%と史上最高の金利をつけ、国債市場では6.1%国債の流通利回りが12.422%にも達したのだった。

 逆説的に言えば、1970年代後半から80年代前半には、大量発行イコール金利高騰という市場原理が十分働いていたといえよう。90年代に入ってこの原理が働かなくなるのは、日銀と資金運用部という政府部門が市中の国債をどんどん吸収していったからである。

 日銀が発行する経済統計月報98年10月号によると昨年6月末の国債(政府短期証券を含む)残高は315 兆円。このうち資金運用部が81兆円、日銀が54兆円、郵便貯金32兆円。実に6割弱を政府部門が保有している勘定だ。一方、民間は金融機関120兆円、 信託26兆円、保険32兆円、証券5兆円となっており、個人保有ははたったの5兆円でしかない。

 国民に保有してもらうはずだった当初のもくろみとは裏腹に国債は金融機関の資金運用のツールと化し、やがて国が発行して国がみずから買うというタコ足経営に陥ってしまった。(タコ足=空腹のタコが自分の足を食べること)

 日本の借金はその規模が大きすぎ、増え方が異常だということはだれもが指摘してきた。そして借金が増えれ ば返済が大変になるのぐらいは小学生でも分かることである。ところが、借金が増えると金利が上がり、金利上昇によって景気を鎮める逆効果が現れるという当 たり前の経済現象にはつい最近までだれも言及してこなかった。次回は「国債大量発行の矛盾」である。

1999年01月28日(木)萬晩報主宰 伴 武澄

 1999年01月25日付萬晩報「国債という日本の打ち出の小づち(1)」の続編である。

 ●だれが国債を買っているのか
 1965年に初めて国債が発行された当時、国債は銀行を中心としたシンジケート団(シ団)が引き受け、証券会社が国民に売った。国が国民に借金を負って いたのである。国が発行する債券であるから不払いはなく安心感があった上、1968年4月からは少額貯蓄の金利所得にかかる税金が免除される「マル優」が 50万円までの国債保有に適用された。いわゆるインセンティブの導入である。

 ここらの事情については1998年12月07日付萬晩報「国債窓販のチャンスを自ら返上した銀行団」に詳しい。

 いまも昔も金利で一番有利だったのは郵便貯金、次いで銀行預金、そして国債と続いていた。それぞれにマル優枠があり、家族全員の名義で貯蓄すれば、数千万円まで利子が非課税となっていたから、郵貯、銀行、そして国債という順序で国民は資産形成していった。

 また当時は発行額も少なかったため、国債発行で今日懸念されている「市中消化」にも問題はなかった。大蔵省とシ団が金利など発行条件を交渉し、その条件でシ団がすべて「引き受けて」いたから、売れ残ることなどあり得なかった。すべてが市中消化されたのである。

 もちろんすべての国債を国民が保有したのではない。銀行や生保などシ団も多額の国債の保有を余儀なくされた。ただ国民にとって有利な貯蓄商品であっても金融機関の運用手段としては不利だった。国債金利は貸し出しに比べて格段に低かったからである。

 そこで「金融機関は国債の売却をひかえ、そのかわりに発行後1年以上経過した国債は、日銀の成長通貨供給 の見返りとして日銀の資産勘定に移る」(日本経済新聞社「昭和経済史」)ことになったのである。1960年代からすでに日銀による国債保有を可能とする制 度改革が始まっていたのである。

 「昭和経済史」の中で田中直毅氏は日本の国債発行の特異な点について「こうした御用金思想のもとでは、国債の借り換えや発行条件をめぐって、欧米諸国が苦労した国債管理政策の困難さを経験することはなかった」と指摘している。

 国債発行が今日的課題として本格的に浮上したのはオイルショック後の1975年の補正予算以降である、ま たしても大幅な「歳入欠陥」が発生したのである。日本政府は再び巨額の「赤字国債」の発行を余儀なくされ、以降、日本丸は国債大量発行、国債依存症という 病に悩まされ続けることになる。

 こんどこそは市中消化難が本格化し、「市中消化」を促す施策が「金融自由化」の美名の下に段階的に打ち出されることになる。

 1976年 大蔵省が通達で実質的な国債先物である「現先取引」を公式認知。
 1982年 中期国債で、発行条件を決めた上で 応札希望額を募る「定率入札」を導入
 1983年 国債の銀行窓口販売解禁
 1987年 資金運用部引き受け ・金融自由化対策資金引き受け導入
 1987年 超長期国債、中期国債、割引短期国債に公募入札制を導入
 1988年 国債の郵便局販売
 1988年 マル優廃止
 1989年 国債募集引き受け団(シ団)で10年利付国債の40%に価格競争入札を導入
 1990年 上記方式を60%に拡大

 国債の大量発行は国債流通市場の拡大を促し、市場での売買の増大によって発行の際の金利決定にも市場原理 が導入されるようになった。77年1月、初めて5年物中期国債が発行され、78年6月、日銀は入札方式による市中の国債を買い入れる「国債オペ」を実施、 9月大蔵省は郵便貯金などの資金を運用する資金運用部による国債買い入れを決定するなど相次いで国債金利の高騰を押さえる策を打ち出した。

 それでも国債金利は下がらず、80年5月、国債の応募者利回りはついに8.888%と史上最高の金利をつけ、国債市場では6.1%国債の流通利回りが12.422%にも達したのだった。

 逆説的に言えば、1970年代後半から80年代前半には、大量発行イコール金利高騰という市場原理が十分働いていたといえよう。90年代に入ってこの原理が働かなくなるのは、日銀と資金運用部という政府部門が市中の国債をどんどん吸収していったからである。

 日銀が発行する経済統計月報98年10月号によると昨年6月末の国債(政府短期証券を含む)残高は315 兆円。このうち資金運用部が81兆円、日銀が54兆円、郵便貯金32兆円。実に6割弱を政府部門が保有している勘定だ。一方、民間は金融機関120兆円、 信託26兆円、保険32兆円、証券5兆円となっており、個人保有ははたったの5兆円でしかない。

 国民に保有してもらうはずだった当初のもくろみとは裏腹に国債は金融機関の資金運用のツールと化し、やがて国が発行して国がみずから買うというタコ足経営に陥ってしまった。(タコ足=空腹のタコが自分の足を食べること)

 日本の借金はその規模が大きすぎ、増え方が異常だということはだれもが指摘してきた。そして借金が増えれ ば返済が大変になるのぐらいは小学生でも分かることである。ところが、借金が増えると金利が上がり、金利上昇によって景気を鎮める逆効果が現れるという当 たり前の経済現象にはつい最近までだれも言及してこなかった。次回は「国債大量発行の矛盾」である。

1999年01月25日(月)萬晩報主宰 伴 武澄

 不遜ながら今日の日本経済新聞の1面コラムに抜かれた。萬晩報ごときがと言われるかもしれないが本日付用 に準備していた話を大手マスコミといえども先に書かれるのは悔しいことである。というより年末に読者の一人から紹介されていたのに今まで掲載を延ばしてき た責任は小生にある。

 「日本経済が破綻するまで動きつづけるリアルタイム財政赤字カウンタ」http://etude.math.hc.keio.ac.jp/~ken/fin/

 という恐ろしげなホームページがウェッブ上に出現した。デジタル表示で1秒ごとに62万円ずつ金額増えていく。金額は日本国の借金が目の前で刻々と増え続け る様は異様でもある。アメリカの共和党のホームページにも同じようにアメリカの財政危機を訴えるサイトがあるらしい。国会と霞ヶ関だけでなく、企業や学校 でも掲示すべきだと思う。

 ●国家はなぜ国債を発行するか
 昨日に続き日本の借金の問題を取り上げたい。1998年11月28日付萬晩報「そうだったのか国債って国が買っていたんだ!」 に、なぜ日本銀行が国債を持ってはいけないかという素朴な質問をいただいた。萬晩報の主張がおかしいという意見もあり、一方でもっとかみ砕いて説明してほ しいという要望もあった。3回続きで日本の財政的危機をおさらいしたい。第1回のテーマは「国家はなぜ国債を発行するか」である。

 戦後、日本が最初に国債を発行したのは1965年である。それまでの日本の財政は借金なしでやってきた が、当時としては未曾有の不況に見舞われ、予想した税収が集まらなかった。これを歳入欠陥という。発行金額は2000億円だった。あくまで一時的な措置 だった。そこで収入に応じて歳出を減らしておけば、今日のような事態にならなかっただろうが、国の財政は各省庁のなわばりもあってなかなか歳出を減らすこ とは難しかった。

 借金のうまみを知った政府はやがて毎年のように国債を発行して不足する財政資金を賄うことが当たり前と なった。財政法では、基本的に国債の発行で財政を運用することを禁止しているが、公共事業についてはその限りでないことを記してある。道路やダムは後世に 資産として残るものだからという考え方である。それをよいことにしばらく経つと公共事業は国債発行で実施するものだという常識が登場した。はっきりした時 期については確かめていないが、少なくとも1970年代後半はそうだった。

 同じころ、景気対策に公共事業の上積みを図る施策が導入された。多くが追加予算という臨時支出である。元 手があるわけでないから当然、財源は国債発行となった。ところが1970年代後半のオイルショックで日本は再び未曾有の不況に落ち込み、再び歳入欠陥に 陥った。1965年の時もそうだったが、年度を締めてみたら税金が足りなかったのだ。

 本来、公共事業以外には国債を発行してはいけないが、単年度で収支を合わせる必要があったため、制度をね じまげて「特例国債」という法律でいわゆる「赤字国債」を発行した。その年に限ってという措置である。ところがこの「特例」も1回で終わらなかった。20 年前に叫ばれた財政再建はこの赤字国債の発行を辞めようというもので、ようやくストップがかかったのが、バブルの最終局面の1990年だった。

 歳入欠陥で始まった国債発行が、やがて公共事業の財源と化し、景気対策の資金源に発展し、1990年代には減税の財源にもなっている。いまや国債は政府の打ち出の小づちなのだ。すべてが1年限りのつもりで始まりやがて気が付くと恒久化しているのだ。

 問題は公共事業という名の建設事業が、多くの地域で「産業化」してしまったことである。かつては農閑期の 産業だったものが最近では「通年化」している。農村部ではもはや公共事業という産業を抜きにして人々の生存が不可能になっているのだ。日本経済の不況が長 引けば長引くほど多くの地域で公共事業増額を求める声が高まるなんとも悲惨な段階に達してることは知っておく必要がある。

 34年前たった2000億円だった国の借金が1999年3月末には300兆円を超える水準にまで膨張して きた歴史を短時間でたどるのは難しい。とにかく90年代に入ってからの増え方は尋常でない。92年度からの景気対策は100兆円を超えているのだから。 おっとここまで書いているうちに(1時間強)日本の借金のカウンターは89億円も増えてしまった。急がなくてはならぬ。次回は「だれが国債を買っているの か」である。

1999年01月24日(日)萬晩報主宰 伴 武澄

 1998年11月28日付萬晩報「そうだったのか国債って国が買っていたんだ!」を書き、金利上昇の懸念を指摘した。1カ月後、実際に国債相場など長期金利が上昇し始めて大手マスコミや経済評論家もようやく金利上昇の危機を指摘し出した。この2カ月に寄せられたメールを掲載します。

 【長年の疑問が再確認できた】前略、長年の疑問が11/28号で再確認できました。節約、我慢を忘れた国民・政府はどうなってしまうのか考えると、恐ろしくなります。金利は?物価は?円 ドルレートは?失業率は?年金は?48歳にして経済の事はよく解らない男の将来への不安な思い。偉い人を信用できなくなってきたが、どうも偉い人が狭い了見で世の中を動かしているような気がします。今後の「萬晩報」に大いに期待致します。(伊藤)

 【政府の市場介入は再評価されている】「萬晩報」11月28日号を拝見いたしました。確かに、収益性を考えない財政投融資のこれからというのは恐ろしい問題になってくるような気がいたしますし、また欧米というモデルを失った日本が官民協調主義でやる時代は終わったとも思っております。

 しかしながら、金融・財政政策に関しては必ずしも市場主義がよいとは限らないのではないでしょうか?おそらく、現在の日本の金融・財政政策は、政府が積極的に市場を管理するケインズのマクロ経済政策の流れを引いているのでしょうが、これが悪いとは必ずしも言 えないと思います。

 現在は、クリントン政権がレーガン以来の自由市場主義を否定しているように、自由市場主義が見直されてお ります。各国が効果的な金融・財政政策を暗中模索している現状で、政府の市場への介入は再評価をされているように思います。ただ政府の民間に対する説明と いう点では不親切で国民を軽視している風がうかがえますので、この点は非常に問題ではないかと思っています。(土屋)

 【いまいち分かりません】こんにちは。国が発行した国債を国や日銀が保有するというのはどういうことになるのかいまいちよく分かりません。もし続編を書く予定があるようでしたらもう少し説明を入れていただけると理解できるのですが。(川崎)

 【財政改革法のどこが間違っていたのか】日 本の財政危機の深刻さを具体的数値に基づいて改めて痛感しました。事態がいっそう深刻なのは、こうした財政構造の実体と、今後の日本経済にもたらす問題点 がほとんど論議されないままに、短期的視野での景気浮揚政策が論議され、それが国際公約(対米公約)となってしまっていることです。財政改革法には賛成で きませんが、法律作成過程でなされた論議はどうなったのでしょうか。

 軍事支出の拡大と戦後のインフレーション(人々の富の収奪)に対する反省から制定された財政法第5条の今 日的意義、財政均衡主義をめぐる今日までの論議の経過、財政改革法のどこが間違っていたのか、なぜそのような誤りが生じたのか、諸外国の国債発行システム と保有システムはどうなっているのか、こうした点について考えてみようと思います。(松野)

 【恐ろしいこと】恐ろしいことです。このことと、将来への禍根、例えば悪性インフレの可能性などについて、言及をお願いします。(harikai)

 【多くの人にこの異常な事態を認識してほしい】こ の異常な事態を多くの人が認識してくれることを願ってます。そして、財政法の趣旨に反することがどんな事態をもたらすのかを良く考える必要があります。私 自身まだ考えがまとまっていませんが、例えば、日銀の国債保有は日銀券の発行で賄っている。このハイパワードマネーの増加は、大きなインフレ要因です。今 は景気が悪いから貨幣の流通量は小さいが、一旦景気が好くなればインフレが大発生する可能性がある。

 第2に、さらに財政法の趣旨を議論するべきだと思います。日露戦争のいい加減さや太平洋戦争悲惨の教訓を良く調べ、原則をきちっと守る方向へ持って行くべきだと考えます。

 いくつかコメントします。
 (1)国の機関みたいなものですが、一応、日銀は株式会社で、通貨の番人として政府からの独立性を持っているのでは?けれども、これだけ国債を保有して いれば、大蔵省の言いなりでしょうね。そして、「タコが足を食う」ことの危険性とその予防措置の重要性をもっと調べるべきでしょう。これは欧米では常識で しょう。だから、国債の格が下がった。こうした認識が無いと、「日本は債権大国で貿易黒字国であるのにおかしい。アメリカの陰謀だ」という議論がまかり 通ってしまう。
 (2)では財政法を改正すれば、OKだろうか?自分の考えとしては、やはり財政法の趣旨を守る意義やそれを破った時の災厄があるからこうした事態は避けるべきという議論の方が建設的だと思います。
 (3)債券市場の誕生からして市場原理が働き難い環境ですが、市場原理が働かないととても困ると思います。アメリカの80年代の財政赤字では、金利が上 昇し、それによって財政赤字を削減しようというコンセンサスが出来上がったと思います。これでは安い費用で借金できるからドンドンやれということになりま す。
今回の記事は大蔵・日銀の国債大量保有の事実を明らかにする目的だと思います。ですから上のコメントはちょっときつかったかもれません。

 一つ要望があります。伴さんの記事にはウエッブのリンクが張ってありません。これは読みやすさからいいと 思います。けれども,提示した資料のほとんどが、日銀や大蔵省のウエッブページから確認できるので、萬晩報のページの中に「資料コーナー」とか「落ち穂拾 い」みたいなのもを設けたらいかがですか?そうすれば読者も自分で確認することができるし、自分で考える材料になったり、新たな資料を発見することができ ると思うのです。これは新聞などと違うインターネットの新しい使い道だと思います。そこまでやる必要はない、興味があったらサーチエンジンで調べろという のもありますが。(丹野)

 【予想される危機は回避できるが!】私 も、先日新聞を読んで呆気にとられたものの一人です。同じ疑問を持ちました。しかし、現在日本の国と地方の粉飾は総額どのくらいになるのでしょうか。この 情報が、知りたいのです。金融機関の持つ不良債権から考えると、バブルの時期に参入した地方の抱える不良債権(第三セクターなど)のがくは、投資資金の全 額を超えているのではないかと思うのですが。まず、現状を開示することが大切なことです。

 そして、冷静にそれに対処することを考えることです。ジャーナリズムは、現状を開示することは得意です が、冷静に対処することは苦手のようです。しかし、不良債権問題は、総合的な開示が行われていないため、日本の火薬庫になっていると思います。予想された 危機はたいてい回避されているという、歴史の教訓と照らすとき、これらの危機を、国民に予想される危機として、提示することは必要なことと思いま す。(cygn)

 【タコの足食いとは?】はじめまして教えて下さい。タコの足食い状態とは?日銀が10000円札をどんどん印刷して国債を買うということでいいんですか。(森川)

 【オープンな情報さえ報道しない新聞】初めてお便りします。貴台の記事を読み、そうか国債にはこうしたからくりがあったのかと納得しました。赤字国債、建設国債等々、年間予算の数倍もの資金がどうして、青息吐息の銀行に引き受けられるのか。

 また、個人で国債を買える人がそんなに多数いるのだろうか?といつも漠然と感じておりましたが、記事によれば、日銀や資金運用部の保有の定義のすり替えのカラクリがあったのかと改めて日本政府というのはまさしく官僚の書いたシナリオで動いているのだなあと、感じました。

 こういったオープンな情報さえ報道しない新聞の公器としての立場は一体どういうことなんだとムカツキま す。過去数年にわたり超低金利政策で銀行に多くの内部留保をさせても、結局、長銀に続き日債銀も事実上破綻しましたが、銀行幹部は過去の役員、現在の役員 も含め、誰も責任を問われないというのはまったくナンセンスというしかありません。つぶれる銀行はつぶれるべきでしょう。

何となれば、大銀行は優秀な大学を優秀な成績?で(ペーパーテストでは)卒業した人たち、いわゆるエリート の受け皿として、いい思いもしたのでしょうから、苦しくなったからと言って、親方日の丸に援助交際を求めるというのは虫が良すぎるじゃありませんか。 1999年の年頭にあたり、貴台のますますの健筆を期待します。(大森)

 【背景をまったく知りませんでした】長期金利が2カ月で3倍になったのは国が国債の買い入れを止めたためというニュースは読んでいましたが、勉強不足で伴さんの書かれたような背景はまったく知りませんでした。

 しかし、私は最近安定化資金等の名目で国の資金が貸し出しを緩めていることに多少驚きと喜びと不安を持っ ていたのです。又、大手ゼネコンが金融機関に数千億円もの不良債権をカットするよう堂々と求め、銀行がそれに応じているのはおかしいと思っていました。誰 が考えても公的資金の導入で、ゼネコンを救済しているのと変わりないからです。この二つの事は、お金のばらまきであり、又新たな不良債権をつくり出すもと ではないかとも思えたのです。

 さて国が国債を発行して、銀行が引き受け又それを国が買いもどしていたようですが、この行き着く所はどう なるのでしょうか?単純にインフレになると考えられるのでしょうか。又、ここに来て銀行から買い入れをしないと言っていますが、これは方針変更なのでしょ うか。ご教示頂ければ、幸いです。(大塚)

1999年01月21日(木)萬晩報主宰 伴 武澄

 京都の西部に松尾神社にいたとき、後ろの方でお父さんが子どもに誇らしげに語りかけていた韓国人の会話が聞こえてきた。

 「この神社は京都でも由緒ある神社で、大昔このあたりに住んでいた秦氏が祀っていたんだよ。秦氏というのは韓国からやってきた渡来人たちだから、松尾神社は韓国の神様でもあるんだ」

 そのむかし、西日本から朝鮮半島の南部にかけて同じような風俗を持ち同じような言葉を話していた人々が住んでいた。当時の歴史を知る上でそう考えると分かりやすいことになる。故司馬遼太郎氏はそんなことを「街道をゆく」の中で書いていた。

 中世以降の日本で影響力を誇った重要な神社が関西に6つあり、そのうちの5つが京都にある。賀茂、松尾、八坂、稲荷、石清水八幡宮。あとひとつは奈良の春日大社である。

 桓武天皇が京都に新しい都を建設したとき、いまの京都盆地である山城国葛野(かどの)に勢力を張っていた のが、賀茂氏と秦氏だった。三方を山に囲まれた葛野の地には二つの水系が支配していた。賀茂川と桂川だ。二つの川は京都の南で合流、さらに南方で琵琶湖か らの宇治川(上流は瀬田川)と奈良から来る木津川と一緒になり、淀の大流となって瀬戸内海に注ぐ。

 ちなみに賀茂川と桂川の合流地点には巨大な水がめがあり、葛野の西半分は湿地地帯でもあったのだ。賀茂川 は当時、現在の堀川を流れていて、この流域の北東部を支配していたのが賀茂氏で、西部を抑えていたのが秦氏であった。賀茂神社は字のごとく賀茂氏が祀って いた神様で、松尾神社の方は秦氏の祭神。秦氏はのちに豊穣を祈って伏見に稲荷大社を祀った。伏見稲荷である。

 だから5つの重要な神社のうち、2つが渡来系の神さまということになる。西日本には朝鮮半島からの渡来人に由来をたどる多くの地名が残っているから、いまさらどうしたということになる。

 神社のルーツや皇室の起源を朝鮮関東に求める歴史家も多くいるぐらいだから、それこそ古代史の素人がいまさらなんだ、とのそしりを免れないが、韓国人が「松尾神社が韓国の神さまでもあるんだ」と語っていた会話に言いも言われぬ思いがこみ上げてきた。

 太古に同じような信仰をしていた人々が同じ中国の影響を受けながら片や儒教一辺倒の国家になり、もう片方 は神仏混合へと向かい、まったく異なった国民性を育んでいった。その神仏混合の国が明治維新で神社信仰に里帰りし、満州民族が支配していた清国と朝鮮半島 の領有を競った。

 神仏混合の国はやがて儒教の国を併合し、神道でひとつの国にまとめようとした。古来、民族の興亡に宗教が複雑に関わっていた。支配された民族は必ずと言っていいほど被支配民族の宗教を強要された。だから神道の国も同じようにしようとした。

 だが、儒教の国の人々を神道で染める作業は失敗した。失敗どころか逆に「恨」の念を植え付けてしまった。1500年の歴史はそれぞれに異なる風俗と言葉をもたらし、食生活にいたるまでまったく違う民族を生み出していたのだった。

 「松尾神社が韓国の神さまでもあるんだ」という会話はそんな長い歴史を飛び越えて、故司馬遼太郎氏が表現した太古の日本と朝鮮半島の世界に私をタイムスリップさせてくれたような気がした。

1999年01月20日(水)萬晩報ロンドン通信員 山下 容寛

1998年10月19日付萬晩報「イギリスで広がる学生の年間ビジネス研修」(八木博)を読んで、ああそう云えばと、膝を叩いた。僕の勤務する日系メーカーの英国支社にも、取引先や知人から息子や娘を預かってくれないか、という申し入れが結構ちょくちょくあるのだ。

 「大学生でマーケティングを専攻しているんだが、半年か一年、面倒見てくれないか」
 「いや、もちろん、無給でいいんだ、無給で。迷惑はかけない」
 「仕事? 何だっていいんだ、コピーでも、倉庫の整理でも・・・」
 「どちらかと云えば、家内に似てね、まあ親がこう言うのも何だが、器量はいいし、何しろ良く気のつく娘でね」

などどたたみかけるかなり熱心な親が多い。

 ●断りにくい取引先からの依頼
 本来なら学業に関連ある専門分野でビジネス実習を行えば、これこそ生きた学問となるのだろうが、一般の大学生たちにとって研修先の企業を探すのは大変な ことらしい。大学や教授の紹介や推薦なども有るだろうが、狭き門に違いない。日本で身近なコネクションを利用しようと思えば、親の取引先なども研修先の候 補に上げざるを得ないのだろう。

 もっとも社会に巣立つ前の大学生達、どこの企業であろうと、社会勉強という意味なら全く構わないのかも知れない。コピーであれ、棚卸しの手伝いであれ、ビジネスの一端は、少なくとも身体で感じ取れる。

 学生のビジネス研修は英国で盛んなようだが、ドイツ人やフランス人から同様の申し込みを受けることもあり、詳しいことは知らないが、多少、制度上の差異はあるにせよ、同じようなビジネス実習による単位取得は可能なようだ。日本の親たちのセリフは決まっている。

「息子は(娘は)、英語が得意でね。いわゆるバイリンガルという奴だから、そっちの方で役に立つと思うよ。なあ、半年でいい。使ってやってくれよ。」

 欧州で一番の大都会、ロンドンで暮らしたい、という大学生の本音もあるだろう。その上、英国の研修経験は、ビジネス英語に支障がないことを意味するし、 日系企業など外資系で研修したと云えば、豊かな国際感覚有りと受け取られるので、大学卒業後の就職に有利という計算も働いて、申し込みが相次ぐのだ。企業 側にも有難い話には違いない、しかし、大歓迎という訳でもない。

 先ず、取引先の子弟をあずかると、相手にビジネス上の秘密が漏れる恐れが有る。次に、いくらコピーだけと親が云っても、大事な取引先の子弟に、半年も1 年も雑用だけやらせている訳にはいかない。「パパ、この会社、本当に何もやらせてくれないんだよ」てなことを言われかねない。そうなると、親との取引に支 障が出る。さらに、不要な職務・ポジションを削りに削って人減らしをする、この時代に、短期の研修とは云え、ひとり採用するのは、雇用政策上、組合対策 上、まずいケースも有り得るだろう。

 「いや、いろいろ考えたんだが、息子さん(娘さん)みたいな優秀な学生だったら、むしろウチの会社より、ヨソの方が・・・」と、縁談みたいな断り方をすることが多い。

 と云っても、企業側に何らかの義務や責任、費用が発生する話ではないので、相手とタイミングによっては「どうぞ、どうぞ」ということになるケースもある。

 ●日本の大学生にもビジネス研修のチャンスを
 さて、以上のように、学生の年間ビジネス研修は決して特別なことではなく、当地では、ごく当たり前のことだ。産学協同とよぶべきケースもあるのだろうが、一般には、大上段に構えた研修と云うより、社会勉強というイメージが強い。

 大学にはほとんど顔を出さず、一年中アルバイトに精を出す学生など見かけぬ当地では、企業研修という方法で、実社会に触れる機会を、学生に与えているのだろう。そうでもしないと、教室と図書館と寮で、浮世離れした学問にどっぷり浸りきる学生が多いのだろう。

 それにしても、この研修制度、八木さんがご指摘の通り、とても良いアイデアだと思う。

 仮に企業研修の中身が社会勉強であれ、単位取得の一過程として、実社会に触れるのは良いことだ。学生自身が、専攻科目との関連で、ビジネスを捉えるチャ ンスになるだろうし、視野を広げて現実的に学ぶことが出来る。アルバイトではなく、科目履修の一形態としての研修だから、個々のビジネス体験が、大学の先 生達や研究陣にもフィードバックされる。

 その上、特別なコストもかからず、これといった要件もなく、どこでも良いからヨソの釜の飯を食って来い、的な手軽さが良い。知り合いに頼んで半年か一年修行させてもらえば良いのだ。やろうと思えば、すぐに出来そうだ。

 日本でも、大学によっては同様の企業研修制度が導入されているかも知れないが、このシステムが広がり、英国のように一般的になれば、「大学」や「勉強」が社会性を伴って、若者にとり、今よりずっと有意義なものになるだろう。

 言葉の壁があるので、先の話になるかも知れないが、日本の大学生が海外で企業研修を行えれば、つまり外国の会社に半年でも一年でも席を置き、単位が取れ るようにでもなれば、ますます面白くなる。「留学」とはひと味違った形で、より実践的に、グローバルな物の見方や考え方を体得する、良いチャンスになるは ずだ。

 海外は、実学を求める場所なのだと、日本の大学生達の意識が変わったら、団体でロンドンやミラノへ押し寄せて有名ブランド品を買い漁るのは、昔話になると思うが、どうだろうか。(やました・やすひろ)

 山下さんへYasu_Yamashita@msn.com

1999年01月19日(火) 萬晩報通信員 佐藤 嘉晃

 それは、正月の三が日も過ぎた4日の午後、妻の実家からの帰路、高速道路を避けて国道12号線を札幌に向け走っていた時の事だ。時々雪がちらつく程度の路面は、発進・停止に多少気をつければよい程度の快適と言っていい状況であった。

 ちょうど、国道では日本一長い直線道路(30km弱)と言われる道の途中で、上り坂になっている頂上付近 を過ぎたあたりでふと、対向車線の車に目がいった。こちらから見て右手前方が凹んだようであり、さらに運転席のドアの下には運転手のものと思われるジャン パーのようなものがはみ出していて、慌てた様子が見て取れた。

 とっさにこれは事故かもしれないと思い、その車から1mほど過ぎたあたりで車を停めると、その車のすぐ後 ろ、歩道と車道の間くらいのところに、小学生くらいの女の子のように見える人が倒れていた。どうやら事故直後らしく、はねたと思われる車の運転手と同乗者 が慌ててその子を抱き起こそうとしていた。

 その様子を横目で見ながら大急ぎで携帯電話で119番通報した。事故現場はちょうど「南砂川郵便局」の真 ん前だったのだが、繋がった消防本部は岩見沢市にあった。電話に出た担当者は開口一番「携帯電話ではなく、近くに公衆電話はありませんか」と言った。さら に、公衆電話から今から言う番号(管轄の砂川市の消防本部)に掛け直すようにとのこと。

 子供の命がどうなるかという緊急時に、何を言い出すのかと思ったが、携帯電話からでは管轄消防本部には繋 がらないという。しかしまわりを見渡しても公衆電話らしきものも見当たらず、番号を控えるにもペンの持ち合わせがない事などを告げ、とにかくそちらから管 轄の消防本部へ電話して欲しい旨を説明し、ようやく救急車の手配を終える事が出来た。

 電話を終えた頃には、郵便局の職員らも駆けつけ、出来る事はここまでと車を発進させたが、どうも釈然とし ない思いが残った。冬の北海道では、仮に運良く公衆電話を見つける事が出来たにせよ雪に埋もれたボックスの雪を払い除けてからでしか使えない訳で、とても 緊急連絡用として重宝出来る代物ではないのだが・・・。

 街中でこれ見よがしに会話を楽しむのも携帯電話なら、まさにこのような状況で、そしてここ北海道のように 広大で、公衆電話ひとつ見つけるにも苦労するような場所の緊急連絡用として活用してこそ価値があると思っていただけに、今回のような緊急時のお寒い対応に は縦割り行政の愚かしさを感じると同時に、なんとも言えない憤りを憶えずにはいられない。

 もっと血の通う、人が主体の行政をと心から望む次第である。

 後日改めて契約している携帯電話会社に問い合わせてみたところ、110番通報に関しては"都道府県単位" で対応しており、国内においてはどこから掛けても管轄の警察署に通報可能であるという。また、119番通報に関しては"市町村単位"で対応する事になって いるが、現在携帯のキー局からの回線をそれぞれの自治体が負担する事になっており、その負担を拒否している所が通じないそうで道内においては全体を11個 所のブロックに別けたそのどこか最も近い消防本部には繋がるようにはなっており、それで今回のようなケースが起るという説明であった。

 現在のところ、救急車や消防車の必要がある時でも、まず110番に通報するのが最も手っ取り早い方法であ るとも説明された。最後に、同じ通信員の中にも、またこれを御読みになっている方々の中にも、海外に居住されている方々もいらっしゃるかと思いますが、そ ちらではこのような場合はどう対応されるのでしょうか。また、国内におられる方々は、どのような感想をお持ちになったのでしょうか。(さとう・よしあき)

 佐藤さんへysa@voicenet.co.jp。ホームページはhttp://www.voicenet.co.jp/~ysa/

1999年01月18日(月)萬晩報通信員 南田寛太

 私は中国の東北地方で合弁企業に関係しているが、現地で見聞した日本人には意外と知られていない興味深い現実がある。

 中国政府は朱鎔基(しゅようき)が総理になり、上海閥が実権を確立して以来、なりふり構わぬ非常に大胆な資本主義化を推し進めている。その中で、中国政 府が最も頭の痛い課題は、国営企業の措置だろう。ご存知のとうり、社会主義中国は、元来、全ての事業体が「国営」であり、極小さな個人商店を除き、私企 業、民間企業、は無かった。

 しかし、トウ小平の「社会主義市場経済」政策の中で、個人企業、集団企業(複数の人間が株を持ち合う、株式会社に類似した企業形態)を認め、奨励した。 これは「社会主義市場経済」の新たな担い手の創造、「欲望」刺激による経済発展の実験だったのであろうが「予想以上に」うまく行った。

 元来が商業民族として、天賦の才能のある漢民族であるから、政府が「自由に商売をやってよい」「利益を上げる事は良い事だ、国家に貢献する」とお墨付き が出ると、もう猫も杓子も個人商店を始める。公務員も、国営企業の構成員も、休日には、路上で個人商店を勝手に開くし、時間外の夜や休日には「内職、副 業」に精を出す。

 ひどい例は自分の職場の製品、備品、を「国営企業だから、国家の物は人民の物」と盗んで売り出す始末である。国営企業は賃金が抑えられており、月に 5000円から10000円と低いが、休日、夜間に「副業」をするとその、数倍の収入になる。これでは、真面目に「国営企業の本業に努力する」意欲が出る はずが無い。役人は自分の立場を利用し「便宜を図る」内職に余念無く、国営企業の幹部は「事業展開」という副業に精を出し、一般国営企業員は、休んでも内 職、副業に目の色を変える。

 その結果、従来から生産効率が悪い国営企業は一層生産効率が落ち「開店休業」「死に体」企業が続出している。その様な状態に対して国営企業であるから誰 も責任を感じないし、責任を取らない。(これは、日本でも同じである)。雑駁な言い方だが、国営企業の8割か~9割が赤字企業か、「死に体」と言われてい る。

 それを見て、朱鎔基総理が打ち出した政策は、「宝山製鉄、大慶油田など500余りの超大企業を除き、全ての国営企業を民営化、株式会社化する」という政 策であった。そして各地方政府は、政策を理解する暇も無く、その地方の国営企業の売り出し公告を公表し出した。その内容は、該当企業の資産、負債、財産明 細と借り入れ明細、生産能力と実績、従業員規模など。販売対象は、外国企業、中国国内の新興企業家、香港資本、そして従業員有志による株の持ち合いによる 株式会社化である。

 しかし、ちょっとその地方の該当企業の事情に詳しい者の目から見ると公告内容は実態から大きく相違していた。倒産寸前の休眠企業も「正常稼働中」であったり、負債は少な目に、資産は多目に公表された。昨年3、4月には、地方ではこの話題でもちきりであった。

 そして半年経って「どうなったか」と聞くと結局、まともな買い手はつかない。売りに出された国営企業(数百の超大企業を除いた全部)では、ますます労働 意欲が低下し、倒産、休眠、半休眠が続出している。 それはそうだ。自分の国営企業が売りに出されて、今まで通りに勤労意欲を出せ!と言う方が無理な話しだ。

 そして、倒産、休眠状態の国営企業は、整理ポストに入り、それを安く買いたたき、土地を分割し転売したり、倒産工場の機械設備を中古市場に売りまくる 「サバンナのハイエナ」が活躍する。サバンナではハイエナも掃除人であり、中国でも有意義なのかもしれない。国営企業を買うと、従業員に対し雇用の継続責 任が伴うが、倒産企業であるとその必要が無くなるという訳である。

 朱鎔基総理は、単に「国営企業の株式会社化、民営化」を想定し政策を打ち出したのか、それとも、生産性が低すぎて、中国発展の阻害要因になりつつある国 営企業を、市場の原理で、解体させ、世話するべき膨大な従業員を市場原理で「おっ放り出し」、強引に処分する事まで想定して、政策を打ち出したのか。私 は、恐らく後者であると想像している。

 中国5000年の歴史の中では、いつも何百万、何千万人の流民が出てきているが、いまや、朱鎔基総理の「国営企業の株式会社化、民営化」政策は、億を超 える流民を生むのではないかと思われる。これは、今後の中国の政治経済のみならず、世界の重大な不安定要素になるのではなかろうか。

 新聞やテレビに取り上げられない中国経済の底辺の流動化から目を離すわけにはいかないようである。 (5通巻02号 ナンダカンダの中小企業・ベンチャー通信)

 本情報につきまして、皆様からのご意見ご感想をお待ちしております。南田寛太 ryoone@geocities.co.jp
 ホームページはナンダカンダの中小企業・ベンチャー通信

1999年01月17日(日)萬晩報主宰 伴 武澄

 1998年11月29日付萬晩報「トウ小平が自衛隊OBに語った日中戦争の新解釈」には多くの反響メールが届きました。内容が刺激的だったためもっと強い反発が多くあるものだと思っていましたが、少々拍子抜けでした。

 筆者は文化大革命直後に学生時代を送り、中国語を学び、その後も中国に関心を寄せてきました。アジアの安 定には日中の良好な関係が不可欠であることはいまも当時も変わりません。ですが、今でも「日中友好」という表現は嫌いです。あまりにも空虚な言葉です。 「米中友好」なんて表現がアメリカと中国との間に頻繁に使われるわけではありません。

 個人ベースの関係にまで国家関係が入り込んでくるのはおかしな話でしょう。日韓友好とか日米友好なんて表現を使ったら笑われますよ。なのに日本と中国の間だけは「踏み絵」のように友好人士であるかどうかばかりが問われるのです。

 筆者の心の中には、いつになったら中国政府が「日本軍国主義」と言わなくなるのだろうかという不安がわだかまりとしてずっとありました。そんな日本人の一人として、中国の要人の日本に対するあるいはアジアに対する姿勢をずっと見続けてきました。

 あえてこのコラムを発表したのは第二次大戦における中国での日本の侵略行為について正当化しようとしたも のではありません。戦争は悲惨なものです。ですが、人類はその悲惨な戦争を繰り返し、いまも続けています。残念ながら世の中に戦争があるのだという現実に 立ち返って国家間のことを考えざるをえないのです。

 国家間の戦争もあれば、血みどろな内戦もあります。そして戦争には勝ち負けがあります。一時的に仮想敵国をつくらなければならない時もあります。

 表面的ではあったかもしれませんが、1980年代の日中関係は非常に良好でした。故トウ小平氏と胡耀邦総 書記は微妙な中国の国内情勢を抱えながら、過去へのこだわりを乗り越えて、ガラス細工のような日中関係を修復しようと努力したのだと思います。大変なこと だったと思います。

 そこには「なんとしても日中間に刺さった棘を引き抜かないかぎり、極東の政治的安定は訪れない」という当 時の中国上層部の思いがあったのだろうと思います。ですが、江沢民氏に過去のどういう思いがあったにせよ、今回の訪日は日中間に育まれつつあった相互の尊 敬の念をぶちこわしたのだと思いました。トウ小平氏や胡耀邦総書記の努力を無にするものでしかありません。

 人と人の関係と同様に、あるいはそれ以上に国家間の関係は微妙です。国家のトップの認識がこれほど国家間の関係を揺るがした事件はないと思いました。

 以下にいただいたメールを掲載します。ただひどい中傷を含んだメールは掲載を控えました。


 【やはり違うと思う】中国 らの留学生です。伴武澄様の文章を読んで、やはりちがうことを考えます。トウ小平氏の話は本当。日本の侵略戦争を感謝することではなくて、ただの歴史立場を立て、中日友好のことを考えるてある。いくら日本の侵略戦争をかけて共産党は中国の政権を取るの結果になってもあくまては共産党一党の利益だけのことで ある。逆にこの侵略戦争の中でわれわれ中国は何百万人を殺されて、何億ドルの財産がなくなて、なんと言ってもこの戦争に関して日本に感謝するわけない。  同じ考えると、アメリカの原子爆弾のかけて、日本は戦争を負けて;軍国主義を改めて、いまの民主主義の道を選らんだ。そう言えば伴 武澄 様はアメリカの原子爆弾を感謝しますか。広島と長崎の原子爆弾で殺されただの人々と彼たちの家族は原子爆弾を感謝しますか。 だから、江沢民が過去の歴史にあまりにも固執ではなくて、ただあの侵略戦争の責任のことを明めて、この基楚の上に友好のことをはなすこと。もし江沢民さん は本当に伴武澄様 言だような日本の侵略戦争を感謝すると、侵略戦争の中で殺された何百万中国人と家族たちはどの感じますか。(中国からの留学生)

 【さまざまな見解を好ましく思う】ト ウ小平が自衛隊OBに語った日中戦争の新解釈"をたいへん興味深く読ませていただきました。最近日本のアジア侵略や太平洋戦争について、さまざまな見方が 発表されることを嬉しく思います。戦争は各国の経済・政治・文化・宗教が複雑に絡み合っておこるはずなのに、これまではなぜか日本が一方的に悪いという見 解しか表に出てきませんでした。教育の場でもこのような新解釈を教え、議論させることが必要だと感じます。(佐藤)

 【中国語の原文が読みたい】萬晩報を毎号愛読しております。今回(11・29号)は特に興味を抱きました。引用された(6.06号)も再読しました。お願いとしては中文の原文コピーを 読んでみたいと思います。恐縮ですが便宜をお計らい頂けませんでしょうか?なお私は中文ソフトはChinese Writer V4、通信ソフトはOutlook Express 97を常用しております。IE4.0の多言語の簡体字、繁体字も読める設定にしております。Faxでも結構です。利用は私個人の閲読目的に限定することを お約束いたします。一方的に勝手なお願いをする非礼をお許し下さい。(飯田)

 【萬晩報】みなさんから原文が読みたいという要望をいただきましたが、日本語の原文しかありません。しかも掲載した分がほとんどなのです。

 【こんな事公表していいのかな】「ト ウ小平が自衛隊OBに語った日中戦争の新解釈」を拝見しました。いやいや、こんな事公表しちゃっていいのかなと思いました。実は私、台北に義務教育を9年 間、北京に仕事で3年間、そののこりを日本ですごしましたので、大抵の事情は分かっているつもりですが、公的に書かれるとちょっとショック。しかし、今こ ういう事を書く(書ける)って事は、なにかあるのか??ってつい疑ってしまう。そろそろ、日本もほっていけないっ事か?ちょっと恐いなですね。まあ、別に 僕はいいですけどね、ハイ(konko)

【思わず何か書かなければならない気になった】ば ん様。はじめまして、僕は一人の在日中国人です。MSNのニースページに掲載された伴さんの文章を読んで、思わず何か書かなければならない気になりまし た。江沢民の来日中に演じた「無戦略の外交」を残念に思う在日中国人は少数ではないようです。中国は欧米またロシアと韓国に対する最近の外交戦略がなかな かのものなのに、なぜ日本だけ・・・。

 国内の旧勢力あるいは江沢民氏の個人のつらい経験のせいもあるかもしれませんが、もう一つの重要なことは 無視できないと思います。  だいたい、欧米との首脳会談は中国側が必ず民主・人権問題で批判されているが、日本だけそれについてなにも言わない(言えない)。なぜというと、歴史認 識問題があるからです。中国政府は、歴史問題で日本を牽制すれば、日本側にも決して簡単に譲歩してくれない古い勢力が強いから、結局、歴史問題の口喧嘩に 止まってくれるではないかと見ているでしょう。

 今回江沢民の訪問を見て、これからの日中関係を悲観視する日本のマスコミがかなりあるようですが、中国と 付き合う場合は、そんな悲観視しなくてもいいと私個人が思います。品性の欠く外交ゲームは実うんざりですが、日本の外交戦略も検討すべきところが残されて いるでしょう。これから、日本政府は中国の経済建設に協力すると同時に、国際責任を忘れずに中国の民主人権問題もちゃんと言えるような立場になっていただ ければ、ありがたいと思います。

 歴史認識問題は両国の世帯交代とともに、解決されるでしょう。以上はあくまでも個人の意見です。では、伴さんの次回のインターネット発信を楽しみにしています。(一人の在日中国人・劉)

 【毛沢東も日本軍を評価していた?】29 日付け「萬晩報」拝読。77年の自衛隊OBに対するトウショウヘイ発言のオリジナル・テキスト入手とか。大いに興味あります。大兄の御尊父の玉稿も拝読。 ただし、共産党が日本軍を評価していたという話は毛沢東も言っていたような気がします。いずれにせよ、大兄の原稿の元になった発言稿はどうすれば読めます でしょうか。教授願います。(濱本)

 【トウ小平氏の認識も、江沢民氏の認識も真実】はじめまして,私は大学に4年+α通っている落第生です。最近昭和時代の戦争の評価,特にマスコミに出るものが右に左に両極端に振れ、コインの裏と表がどちらがコインの真の顔かを争うような様相に危うさを感じています。

 歴史の評価はどちらが本物というものではなく、両方真実,両方にある程度の真実が含まれるものと思ってい ます。ですから、トウ小平氏の日中戦争の認識も、江沢民氏の認識もどちらも真実であると思います。国権の最終的発動である戦争、武力の行使というものは多 様な価値,利益が包含されるものです。昭和の大戦においては一面では欧米からの植民地開放という面もあり、また他方では、日本の植民地化の推進もあったで しょう。このうち、どちらかの面を強調するものは一方を真実とし、一方を誤りとするでしょう。

 このバランスの欠如が物事をややこしくするのです。言うことは言う、謝ることは誤るという姿勢が人間関係においても、国家の関係においても重要です。

 いつまで日本は謝れば言いのだ、日本はずっとぺこぺこしないといけないのか、といった意見があります。こ れはナショナリズムの側に立てばもっともであります。しかし,東南アジア諸国は別として中国、朝鮮半島との交流の年月を考えれば、まだ戦後半世紀しか経っ ておりません。この程度の年月ではお互いの傷は癒えないと言えます。最低でも三世代約百年の年月をお互い平和に友好に交流を続けていけば、今よりよい関係 が作り上げれると思います。

 歴史事実の評価を下すための資料は時とともに散逸するため収集を急がねばなりませんが、その評価を下すの はある程度のときをおいて心を静めて行わねばなりません。トウ小平氏の発言は歴史の一資料として重要ですが、これによって一概に歴史評価が下せるものでは ありません。このことを日本の言論人に心にとめて欲しいと思います。だらだらと脈絡なくつづってしまったことにお許しを。(徳田)

 【自身の責任で共同通信で明言せよ】ま ず貴記事の姿勢に自立の人格が読み取れない。トウ小平がこう発言したからこうだ と言うのではふらふらと 日和見をきめ 巧みに世論を操作したい悪しき手法とでもいえないでしょうか。また 江沢民が過去に固執... で品性を欠くとはーならば 貴兄はまず 自身が過去をどのように とらえているのか 自身の責任をかけて 明言し共同通信にて世界にとうべきではありませんか。(宇野)

 【小公望著「中南海の最高機密」を知ってますか】こんにちは。いつも萬晩報を拝読させていただいております小林という者です。今回のテーマに関する事が、小公望著「中南海の最高機密」(小学館)という本に書いてありました。ご存知かもしれませんが、一応ご連絡まで。では、失礼します。(KOBAYASHI)

 【大変感心しました】この記事大変感心しました。NIFTYーSERVEの中のメロウーフオーラムの会議室で江沢民の訪日時の言動で議論がでています。この記事を転載したいとおもいますがご了解いただけますか?(亀井)

 【青年報では日本謝罪せずと報道】「共 同宣言に謝罪明記せず」について中国青年報が報道。5日の中国青年報紙によると、中国抗日戦争史学会の劉大年会長は4日、先の江沢民国家主席の訪日につい て「日本は共同宣言に中国人民に対するおわびを盛り込まず、1つの歴史的機会を逸した」と論評。また「日本はできることをせず、中国とアジア人民に、また 歴史を再演しようとしているのかとの疑念を抱かせた」と批判した。 これは北京・廬溝橋にある抗日戦争記念館で開かれた江主席訪日を総括する学者、専門家約50人の座談会での発言。劉氏はさらに「日本は2回失敗した。1回 目は戦場で、2回目は道義上の失敗だ」などと厳しい調子で発言したという。これまで中国国内の一般報道は、日本政府が共同宣言への謝罪の盛り込みを拒んだ 事実をはっきりと伝えておらず、異例の報道といえよう。

 中国の公式報道とされる新華社電は劉発言に触れておらず、江主席が訪日中に行った歴史問題についての講話 については、座談会参加者が「中日間に歴史を鏡として未来を切り開き、21世紀に向けた友好関係を発展させる礎石となる、歴史的かつ現実的意義を有するも の」と一致して評価した点を中心に報じた。(Kosaka)

 【おれたちかんけーねーよって気持ち】拝啓、はじめてお便りさせていただきます。オーストラリア在住の消化器医です。1959年生まれ。毎回、論点の鋭い切り込みに目から鱗の落ちる思いをすることがあります。

 今回、12月9日付の朝日新聞でこんな記事を目にしました(上記)。ふと思うのはまず、たかが50人の座 談会でこれがでたからといってなんの影響力があるのかということですが、次に思ってしまうのは、この場所になぐり込んで(参加して)、徹底的にふだん思っ てることを議論のネタにしてみたいということです。今だったら中国よりも韓国の方がおもしろいかもしれません。

 当地では、何かにつけて自由な感じはありますが、その実は本邦以上に政治的、マキャベリスティックである ように思います。これはオーストラリアの話ですから、英国やその他のヨーロッパ諸国にいたっては、もっと目に見えてだれにでもわかる方法が浸透しているの ではないでしょうか?

 昨今の主にアジア諸国のに本邦に対する発言内容は、多分に"もうあんなに古い昔の出来事だったと、わかっ ててなんでするの?"的な事柄が多いように思います。"なんか悪い事していったっけ?"(それも死んだ叔父さんとか爺ちゃんの世代)?それって僕らにとっ ては、正直言って、"おれたちかんけーねーよ"って気持ちに近いと思うんですが・・・。

 将来的には日本も韓国の統一経済圏には行っていくのでしょう(新八紘一宇と僕は呼びます)。そこにでEU ならぬAU的な観念も当然含まれてくるでしょう。そうなる可能性があるのはわかってるのに、今更僕らの知らなかったこと(知らなかったことを新たに覚える ことも大切だとは思いますが)、ことを一歩通行でメディアに取り上げられることが続くのも気持ちよくありません。

もしもそんなひがみ根性だけで(と、あえていうならば)、何かを発言されたり発言したりするならば、それに 対して大きな声できちんと反論することも必要なのではなかろうか。そのためにも、私にもチャンスがあるならばいつでも声を大きくして、はなしてみたいと思 います。(Kosaka)

 【何を言いたいかさっぱりわかりません】次 長様。私は中国からの留学生です。たまたま貴殿の評論を読ませていただきましたが、何を言いたいかさっぱりわかりませんでした。 私は中国と日本が仲良くしていかなくてはならないと思いますが、貴殿のような考えを持つ日本人とは仲良くなりたくない気持ちです。トウ小平が日本軍が中国 共産党を助けたと言ったなどのことを持ち出して、何の証明になるのか。その戦争は日本軍が中国共産党を救うために起こしたとでも言いたいのですか。

 私は日本にきてもうあれこれ八年にもなります。深く付き合っている日本の友人は何人もいます。その友人ら とは昔の戦争の話は一度しかしていません。しかし、一度だけで、彼らは心の中でその戦争について正しい認識があると私はわかりました。その後みな一緒にい るときは誰でも戦争の話は持ち出さない。残念ながら、彼らはみな年寄りです。

 一人の中国人として、その戦争について日本人を責める気持ちが少しも有りません。しかし、それは日本人が その戦争について正しい認識がある上での話だと思います。国家レベルの話になると、一人の中国人対一人の日本人と同じだと思います。日本の国家を代表する 内閣の役人さんが政府の宣言などに背いて変な発言をしたりするから、江沢民主席が国家政府を代表してそのようなことを無いようにと念を押すのは当たり前と 思わないですか。(Yang)

1999年01月14日(木)ジャーナリスト 宮本 天

 日本におけるアジア研究の最高機関だった「アジア経済研究所」が昨年7月、日本貿易振興会(ジェトロ)に吸収合併され、その歴史にひっそりと幕を下ろし た。行政改革の一環として進められてきた特殊法人の整理統合メニューのひとつで、既定路線通りの計画実施ではあった。だが、日本の人文科学研究界、とりわ け言語学界にとってアジ研が消滅したことはあまりにも重大な損失であることを筆者は改めて訴えたい。

 行革の必要性に議論の余地はない。大部分の特殊法人が、これといった機能も持たず、単なる官僚の天下り先と化していることも事実である。そういう特殊法 人が整理されるべきでもあることはいうまでもない。だが、アジ研は数少ない存在価値の高い特殊法人だった。特に研究者の希少なアジア圏の特殊言語の研究で は、日本で最高の研究機関だった。受け皿となったジェトロにどれほどの存在意義があるのか。ジェトロこそ整理されるべき特殊法人ではないか。

 特殊法人の統廃合について、それらを管理監督する各省庁の官僚たちは「安直な数合わせ」と抵抗した。彼らの本音が天下り先の減少への抵抗であることは見 え見えだ。だが少なくともアジ研に関しては、官僚連中と同じ表現を使うのはしゃくに障るが、「安直な数合わせ」以外の何物でもなかった。「新アジア世紀」 とさえいわれる21世紀を前に、アジア研究の専門機関を潰してしまったは場当たり的で軽率な判断としかいいようがない。

 特殊法人は特別の法律によって設立される公益性の高い法人。政府が直轄事業とは別に企業原理を導入して営んでいるもので、「公庫」や「公団」、「事業団」などさまざまある。日本道路公団や住宅・都市整備公団、日本開発銀行、日本輸出入銀行、住宅金融公庫などが有名だ。

 すでに民営化された国鉄や電電公社、専売公社に代表されるようにその数は漸次減っており、1975年には113法人あったが、95年には92法人になっ ている。アジ研とジェトロの統合は村山内閣当時の95年春に打ち出されたもので、輸銀と海外経済協力基金の統合などもこの時に決められている。

 傘下の特殊法人の数減らしのノルマを課された各省庁は、天下り先としてキャパシティの大きい大規模な組織を残し、そこに中小機関を吸収する形で統合案を 作った。アジ研のジェトロへの統合も、この発想で通産省が叩き出した結論だった。通産省のある幹部がいっていた。「所帯の小さいアジ研はどこかとくっつけ ることで決まっていた。くっつける先はどこでもよかったが、ジェトロがさらに大きな組織になるのは悪い形ではない」。大きな組織は初めから温存させるつも りだったようだ。

 「われわれは完全な学者集団ですから、本省からするとまったく旨味がない組織なんですよ。役所の人がこっちに来ても仕事なんてありませんから。もっとも われわれが向こうに行ったって何もできませんけどね。本省からすれば守り甲斐がないんでしょうね。後ろ盾がある機関じゃないんです」

 統合議論が出始めた当時、あるアジ研の役員は筆者にそう説明してくれた。

 同氏がいう通り、アジ研は学者集団である。主要大学の大学院の有力な研究室と密接なパイプを持ち、博士課程を修了した優秀な研究者を安定的に採用、アジ ア地域の言語や文化・風習から政治・経済・社会情勢に至るまで、極めてハイレベルな調査・研究を行ってきた日本屈指の公的シンクタンクである。基礎研究機 関として、日本のアジア外交に大いに貢献してきた。アジア地域が経済圏として世界的に重要度が増すなか、その役割はますます大きくなっていた。

 一方ジェトロは、結論からいえばもはや完全に「無用の長物」となっている。ジェトロは80年代半ばまで「輸出振興」をキャッチフレーズにしていた。世界 約80カ所に出先を設け、調査・収集した現地情報を日本の会員企業向けにに提供してきた。だが、その後企業の海外進出が急速に進み、今やその存在意義は風 前の灯火である。

 政府の通商政策の転向に連動して、80年代半以降は看板を「輸入促進のジェトロ」に180度ひっくり返し組織の温存を図ってきたが、ニーズの衰退はくい 止めようもない。ここ数年はインターネットに代表される情報通信技術の発達が一層拍車をかけた。貿易商社のレゾンデートルが問われているが、構図自体は まったく同じである。

 ジェトロが発行する定期刊行物に「通商弘報」という日刊紙がある。海外事務所発の「生」の海外ニュースを売り物にしているが、実際には現地の新聞や雑誌の「パクリ記事」ばかり。代表的な「ジェトロ白書」も大蔵省の貿易統計などの再構成でしかない。

 現地事務所のサービス体制もお粗末なようで、ユーザー企業からは、「情報らしい情報をほとんど持っていない」「訪ねていってもまともに相手にしてもらえない」「アポイントを取らないと面会してもらえない」など「お役所根性丸出し」の対応に不満の声が多い。

 「ビジネスサポート機関」を標榜しているジェトロだが、これでは「まったくサポートになっていない」(電機大手貿易業務担当者)。会員企業からは「通産 省の手前むげにもできないから会員を続けているが、会費やなにやらで結構な出費になっている。完全に無駄な経費で、本当はすぐにでもやめたい」(自動車 メーカー)とすっかり不評を囲んでいる。

 だが、最大の問題はこのような行政全体に及ぶ横断的な問題をも省庁間の「なわばり原理」のなかで解決しようとする姑息な発想そのものにある。アジ研を ジェトロとくっつけるくらいなら、ジェトロを輸銀とくっつける方が役割論からしてはるかに有意的だ。だが輸銀が大蔵省の管轄であるがゆえにはなからそうい う絵が描かれない。

 いらないものはさっさと潰すべきだが、百歩譲っていきなりそこまではできないというのなら、せめて現状より少しでも役に立つ形に改め、国益の向上につなげる努力くらいしろといいたい。「省益」の保存を前提にした行革など、あり得えるはずがない。

 セクト主義でがんじがらめになっているあり様そのものを改める。「国民の生活向上に資する観点から最適な形」にすることである。形とは枠組みもさること ながら規模も、なことはいうまでもない。その意味ではすでに決まっている省庁再編計画も、「最適な形」とは到底いえない。『ガラガラポン』になっていない のだ。

 ジェトロの一部門に組み込まれてしまったアジ研。今年秋には現在ある東京・市ヶ谷から千葉・幕張に追いやられる。

 「ジェトロの仕事が何なのか、同じ組織の人間になってもまったくわからない。あってもなくても、どうでもいい組織。それでいて結構な給料をもらっている。日銀の高給が問題になったけど、ジェトロだって相当なものですよ。これで行革っていうんですから、笑っちゃいますね」

 あるアジ研職員が率直な感想を打ち明けた。今となってはジェトロのモラール低下にアジ研が毒されないことを祈るしかない。(みやもと・たかし)

 ホームページ「視点」から転載。宮本さんへ:ZXB02601@nifty.ne.jp

1999年01月13日(水)米東西センター上級研究員 中野 有

 1カ月前の米英によるバクダッドへの攻撃の翌日、新聞にカルハ地区の水道管が破裂した写真が載っていた。その鉄管は17年前にイラクの都市開発プロジェ クトに従事した際に敷設したものであり、またバクダッドからライブで中継される映像を見ていると走馬灯のように当時の様子が思い出された。

 1981年10月のイラク-イラン戦争の最中のバクダッドへメーカーの駐在員として赴任した。会社90年の歴史で新入社員が海外駐在するケースはなかっ たと聞いていたが、紛争地に行く物好きな社員がいないので海外に雄飛したいという希望が叶いユニークな経験を積むことになったのである。

 チグリスやユーフラテス川が流れるイラクはメソポタミア文明の遺産もありアラブの情緒が漂い非常に魅力的な地であった。広大な砂漠に水道管が敷設され、 それが夕日とラクダのシルエットに映える光景は今でも目に焼きつている。このようなロマンティックな中東の思い出のみならず、戦争の怖さも味わった。イス ラムの休日にあたる金曜の午後、チグリス川のほとりをジョギングしていた。

 そこには家族連れでのんびり休日を楽しむ姿があった。まさかと思ったのだがイランの戦闘機が上空に現れチグリス川の堤防に並ぶ高射砲が一斉に火を噴いた のである。その爆音たるや想像を絶するものがあり恐怖におののき木の下に隠れ「頭隠して尻隠さず」の姿勢をとった。テレビで見る爆撃のシーンと違いそこに は「本物の戦争」があった。その時、世界は想像していた以上に不確実性が高いとひしひしと感じた。

 イラク政府を相手に仕事をし、また毎夜サダムフセインの勇姿をテレビで見ているとどうしてもイラク寄りにならざるをえなかった。そんな時、イスラエルは イラクの核兵器の製造疑惑のある工場に突発的な空爆を行ったのである。イスラエルの空爆に対しアラブ諸国のみならず国際世論も強硬に非難した背景もあり、 率直にイスラエルの攻撃には納得がいかなかった。

 その8年後に湾岸戦争が勃発し多国籍軍の勝利で幕を閉じた。もちろん、歴史には「もし」は存在しないが、イスラエルの攻撃がなければイラクは核兵器を保 有した可能性が強く、そうなれば湾岸戦争の雲行きも変わっていたかもしれない。歴史はイスラエルの空爆が正しかったと評価した。

 今回の「砂漠の狐」作戦が決行された時、米国国防総省のシンクタンクの朝鮮半島の専門家と電子メールのやりとりを即答で10回以上行った。なぜなら中近 東と朝鮮半島の動向は直結しているからである。米国は中近東と朝鮮半島を世界の火薬庫と考えており、最も懸念しているのがこれらの地域で戦争が同時発生し た時の対応であったからである。

 北朝鮮は12月からミサイル実験を再び行う体勢を整えており、北朝鮮は米英の攻撃を注意深く見ていたものと思われる。今回のイラクへの攻撃は湾岸戦争の ように多国籍軍を構築することができず、またトマホークミサイル等では地下の核施設を破壊するのは容易でないことから北朝鮮は米国の軍事力を過小評価した とも考えられる。

 イラクへの攻撃が示すように米国は核や化学兵器の査察に関し北朝鮮に強硬な姿勢で臨むだろう。米国内の政治的な思惑にも影響されると考えられるが3月か 5月頃には北朝鮮への攻撃の可能性も否定できない。このような朝鮮半島の国際情勢が混沌とする中、日本の果たすべき役割を明確にする必要がある。

 軍事に関しては日米同盟の基軸を強化するのが肝要であるが、朝鮮半島の信頼醸成を構築するにあたり軍事ではどうしても対応できない分野がある。その分野 は地理的・経済的な意味においても米国よりも日本が得意とする分野である。紛争を未然に防ぐあらゆる努力、すなわち多国間の協力により北東アジアに自然発 生的経済圏を構築するこを推進することだろう。従って、北東アジアの開発を安全保障の要因も含めシンクタンク的な研究・分析を強化することが不可欠である と考えられる。(なかの・たもつ)

 中野さんへnakanot@tottori-torc.or.jp

1999年01月12日(火)マレーシア国民大学講師外国語学部 BAN Mikiko

 南国の夜空に新月がキラッと最初の光を放つと、ラマダーン(イスラム暦9月)の到来である。その翌日から世界の10億人とも12億人とも言われるモスリム(イスラム教徒)たちが一斉に1カ月の断食に入る。

 富める者も貧しき者も、イスラーム教徒であれば皆一様に、夜明け前から日没まで食べ物も飲み物もタバコも一切口にしない。その間、肉体的、精神的欲求を制御するのだ。

 イスラーム暦は西暦に比べ約11日間短いので断食の開始、終了時間は年により、また日により、あるいは場所により異なる。クアラルンプールの場合、ラマダーン22日の断食は午前5時50分から午後7時19分までである。

 夕暮れ時、1日の「行」を終えた人々は、それぞれの家庭あるいはレストランや屋台で「7時19分」という時間を待つ。そして、その「とき」を告げるア ザーンがモスクから流れ始めると、一斉に目の前に用意してある甘い飲み物を口にし、渇き切ったのどを潤して疲労した体を癒す。「感謝」という感情が知らず 知らず泉のように湧き出る。

 私は断食中。数日試みただけであるが、モスリムたちはこれを1カ月続ける。未明の食事をするために早起き、日中の欲望コントロール、決まった時間の夕食など規則正しい生活を強いられる。

 マレーシアは多民族国家であるから、ラマダーンは国民の半分を占めるマレー系やその他のイスラーム教徒に限ったことで、その他の民族や外国人はお構いなしに自分たちの生活を続けている。

 会社で昼休みに昼寝をするマレー人が多くなるし、大学の食堂はいつもよりすいている。夕方にはマレー系運転手のタクシー数も減る。町の風景は多少違って くるが、基本的には日中はいつもと同じように世の中は動いていく。多民族国家マレーシアでは断食中だからという甘えは許されない。

 しかし、ひとたび夜の帳が降りると、それぞれの民族はその民族のそしてその文化や宗教の「巣」へと戻っていく。

 モスリムにとってラマダーンの夜は神秘的で美しい。アッラーを畏敬せよ、自然との絆を忘れるな、生きる意味を深く考えよ、という空気に満ち満ちている。 夜空に月を捜し、その形で「時」の経過を知る。1日の「務め」を済ませ、気分的に満ち足りた食事を終えた後はモスクや近くのスラウ(礼拝所)へ特別の礼拝 に行く者も多い。

 普段は運転手付きのベンツを乗り回し世界に股を掛けるビジネスマンもこの時ぐらいはと思うのだろう。白いイスラーム帽にサロン(腰巻き)とサンダル姿で いそいそと夜のお祈りに出かけていく。まるで夕涼みを楽しむかのように。英語で雄弁に外国人とやりあうエリート女性たちも他の保守的なモスリムとまったく 同じように白い装束に身を包んで、しおらしくモスクでアッラーに祈りを捧げている。

 この時期、彼らは精神的に満たされ、イスラームであることの誇りを強く意識しているように思える。弱者への思いやりが芽生えるのもこの時である。「まわ りの非イスラーム教徒が何をしていようと私は目もくれない。私はマイ・ウエイを行く。モスリムとして生まれ、これからもイスラーム教徒ととしてしっかり生 きていくのだ」-一人ひとりがそう主張しているかのようだ。

 昨夜、クアラルンプール郊外をドライブした。ブルー・モスクがライト・アップされ、ひと際美しく目に飛び込んできた。何百というモスリムたちがアッラー を通じて心をひとつにして祈っていた。異教徒を寄せ付けない神秘的で不思議な時空間を意識した。羨望と尊敬の念とそして長年マレーシアに住む私の心を一抹 の淋しさがよぎる。「自」と「他」を意識し、彼らとの距離感を知らされる時である。

 ラマダーンも半ばを過ぎると、テレビから流れる音楽も宗教色の強いものから断食開けを祝う明るいトーンに変わっていく。「ハリラヤ(断食明け)おめでとう」というカードが行き来し、町にはハリラヤを祝うイルミネーションが灯る。

 主婦は家を飾ったり、クッキーを焼いたり、オープン・ハウスの準備に大わらわである。「もういくつ寝るとお正月」ならぬ「もう何回断食すればハリヤラ」である。断食期間中とは打って変わってハリヤラは他民族をも巻き込んでのマレーシア最大のお祭りとなる。

 ハリラヤ・カード(Maaf Zahir Batin)の決まり文句は「目に見える形で、あるいは見えぬ形で犯した過ちや失礼がありましたら、どうぞお許し下さい」というもの。英語の「メリー」ク リスマスや「ハッピー」ニューイヤー、中国語の「恭喜発財」、日本語の「昨年はいろいろお世話になりました。今年もどうぞよろしくお願いします」などと比 べるとそれぞれの民族色が出ていて興味深い。

 イスラームの国々は暑いところが多い。まだまだ貧しい国もある。しかし彼らは「目に見えぬ」心の高貴さを大切にして生きている人々であることを忘れないでいたい。

 今年の断食明けは1月19日の予定である。世界中のモスリムのみなさん、断食明けおめでとう!(BAN Mikiko 在マレーシア6年)


 BAN Mikiko氏は、国際交流基金の駐在員としてクアラルンプールに赴き、4年半の勤務の後、同基金を退職、日本語教育のためにクアラルンプールに留まり、マレーシア国民大学のタイバ女史の要請で現在、同大で教べんをとっています。
1999年01月10日(日)萬晩報主宰 伴 武澄

 北海道は「日本語が通用する格好の投資先」というのが、萬晩報の北海道独立論のきっかけだった。経済を中心に考えてきたが、国家建設には理念が不可欠である。経済的利益だけを共有する集団が長続きするはずもない。集団を構成する一人ひとりの情念に訴える何かが中核として欠かせない。もちろんリーダーシップも生まれない。そのことを議論したい。

 歴史上、宗教を求心力にした国家は多くあった。仮想敵国をつくり団結を強要した国もあった。ソ連は20世紀に社会主義という理念で国家統一を図った。銃 口を背景にしながらも理念で国家経綸を図った国は初めてだった。アメリカは民主主義を標榜して超大国となった。ともに多民族を擁し連邦制という形態をとっ たが、ソ連は自由を認めず自壊し、アメリカはアメリカン・ドリームを生んだ。

 何が一番違っていたのか考えた。ソ連は平等主義を掲げながら不平等社会をつくり、アメリカ社会が初めから貧富の差を認めながら豊かな企業社会を形成した 点ではないか。平等を目指した社会は結局、失敗に終わった。社会も生命体であり、栄枯盛衰を繰り返してきた。適者生存、弱肉強食という生命の基本を忘れた 社会は長続きしない。半世紀近い東西冷戦の結果、われわれが学んだものはそれではないかと思う。

 そこで21世紀を展望して北海道に見えるものは何かという模索が始まる。金融や通信、製造業といった経済分野ではグローバル・スタンダードが勝利したこ とは1980年代後半からの歴史で証明された。世界的な度量衡の統一が、レッセ・フェール、言い換えれば弱肉強食という経済原則のなかで世界史上初めて成 し遂げられようとしている。独立北海道も当然、グローバル・スタンダードの渦の中に巻き込まれるはずだ。

 ●オランダと西ドイツで生まれた緑の党
 環境というキーワードがいつ生まれたのか考えたことがあるだろうか。1989年、フランスのパリで行われたアルシュ・サミット(先進国首脳会議)の共同 宣言でサミットととして初めて「環境と経済の調和」が謳われたのである。たった10年前のことでしかないが、1990年代を通じて政治経済のキーワードの ひとつになり、ドイツでは緑の党が連立内閣を担うまでになった。

 サミットのその取材の最中「なぜ環境というキーワードが突如として浮上したのか」に聞いたことがある。外務省の欧州専門家の話によると、日本がバブル経 済に酔っていた当時、ヨーロッパで「緑の党」が多くの国で国会の議席を確保しつつあった。勢いが強かったのはオランダと西ドイツだった。

 オランダは国土の多くの面積が海面より低い。勤勉さをもって古くから海岸に堤防を構築し、農地を広げるという地道な努力を続けてきた。この国では、大気 中の二酸化炭素濃度が高くなり、地球温暖化が進行することは国土の喪失を意味していた。そんな中から環境問題を重視する緑の党の国会議員が多く生まれ、欧 州連合(EU)によるヨーロッパ統合の議論にも影響を与えつつあった。

 もう一つの話は、西ドイツのシュツットガルトの森の酸性雨被害である。山の木々が酸性雨で次々と枯れつつあった。原因は石炭火力発電所が排出する硫化化 合物だった。特にポーランドの古都クラコフにあった巨大な発電所群は、価格の安い泥炭を使用していたため、甚大な被害を近隣諸国にまき散らしていた。西ド イツで緑の党が勢力を拡張した発端のひとつが酸性雨問題とされているのだ。

 西ドイツにとって環境問題は東西の軍事対立並みの課題となっていたのである。環境問題の浮上は実は、ベルリンの壁の崩壊の遠因のひとつともされている。 効率の悪い発電システムは東欧諸国にとっても甚大な健康被害をもたらしていただけでなく、西ヨーロッパ諸国にも被害を拡大させていたのである。

 ●目指すは天然エネルギー王国
 「緑の党」の存在は単なる環境運動ではない。環境問題が人類の生存と共生に強い関わりを持ち始めたという認識がヨーロッパではすでに根付いているのだと思う。残念ながら日本ではまだまだ、環境問題は「市民運動」の域を出ていなかった。

 だが環境を「資源」という言葉に置き換えるなら日本のいまでも十分に政治の重要課題になりうる。世界的な爆発的人口増への対応としてエネルギーと食糧問題は21世紀の人類生存に不可欠な課題となるであろうことは誰もが否定できない。

 1970年代初めのオイルショックが日本にもたらしたものは、自動車の燃費の大幅改善や家電製品の省エネである。日本製品が世界に対して洪水のような輸 出攻勢をかけられたのは、実はこの省エネ技術によってもたらされていたのだった。省エネ対応という商品改良がひいては製品の高品質をもたらした。

 当時の日本人たちの努力は高く評価されていいものだと思う。だが、その後の日本のやりかたは固定観念に固まりすぎている。米スリーマイル原発やロシアで の原発事故への反省からヨーロッパではエネルギーの安全性の議論に移っていた。1985年からの原油の価格急落も背景にあったはずだ。にもかかわらず、日 本では「原発こそが将来のエネルギー問題を解決する唯一の道」であるとの考えから脱しきれなかった。

 1980年代には太陽光発電など代替エネルギーの開発で世界の最先端を走っていたはずの日本は、代替エネルギーへの転換努力で一周遅れになっている。特 に風力発電ではデンマークが世界をリードし、アメリカでも商業発電が大規模に始まっているのに、日本では通産省や電力会社の動きが鈍い。

 独立北海道では風力や地熱、太陽光エネルギーの開発に力を入れて、世界に先駆けて人々の普段の生活に取り入れられるような政策を強力に推進することを柱にしたい。

 ●経済原則から遊離した日本農業
 食糧問題も人類が21世紀に向けて克服しなければならない大きな課題だ。戦後日本農業の失敗は、小規模農地でも農業経営ができるよう努力したことだ。特 にコメは経済原則から遠く遊離した作物となってしまった。野菜や果物も見栄えを重視するあまり、世界的にコストの合わない商品と化してしまった。もちろん 世界との価格比較を日々難しいものにした背景にとんでもない円高もあった。

 もうひとつの欠陥は、化学肥料と農薬の大量投入で、農地そのものを破壊したことだ。農地の汚染は河川を汚し、その被害は生態系や人々の生活にまでおよんでいる。一部の篤志家が有機農業の必要性を叫んでも、農業改革のパワーになり得ていない。

 いまアジアで大規模営農が可能なのは中国の東北地方と北海道だけだと思う。特にロシア国境を流れる黒龍江流域は広大な未開発地があり、戦前に満蒙開拓団 が入植し、広大な湿地地帯を大穀倉地帯にしよう夢見た。その努力は、いまも中国に引き継がれ、人口問題を研究するハワイの東西センターからも「将来の穀倉 地帯」として注目されている。戦後も経済協力を通じて、この地域の排水など農地改良事業に新潟県の故佐野藤三郎氏らが尽力したことは記憶に値するべきこと がらであろう。

 同様に石狩川流域の湿地地帯を農地に転換した北海道の先人たちの技術も「将来の穀倉地帯」の開発に役立つのだと思う。アジア農業の技術輸出拠点と位置付けることができるなら、北海道の農業にも光が差す。

 ●超越したい人種と民族間のあつれき
 こうして考えると「北海道建国」の理念としてふさわしい回答が「環境」であろうことは間違いない。将来のエネルギーと農業問題に回答を生み出すような国 家づくりなら、誰もが夢を持つことができる。萬晩報はさらに「五族共和」も挙げたい。もはや国境というものが意味をなさない時代とはいえ、人種や民族間の あつれきを超越した国家はない。

 北海道は、日本、南・北朝鮮、ロシア、中国、アメリカに隣接する。1980年代後半からこの6カ国にモンゴルが加わった官民による「北東アジアフォーラ ム」(事務局・ハワイの東西センター)の議論が続いている。筆者はもちろん、豆満江流域に国境を越えた経済圏を構築しようとするこの構想に諸手を上げて賛 成したい。

 戦前の満州国建国は、五族共和を理念として挙げながら日本が国益だけを最重視したため、つまずき、中国の反感を買う結果だけに終わった。だが、北東アジアフォーラムが目指すものはそうでなない。相互互恵の精神が底流にある。

 萬晩報はこの1年、「北海道建国」の理念について考え続けてきた。そして、たどり着いた結論が「環境」と「五族共和」である。北東アジアフォーラムの構想実現にはまだまだ時間がかかる。北海道でその理念を先行させて実現するという発想はどうであろうか。

 五族共和に関しては、1998年03月08日付萬晩報「北海道に託す新五族共和の夢」http://village.infoweb.ne.jp/~fwgc0017/9803/980308.htm」で一部書いた。

 アメリカが民主主義を理念として、その分身を世界に広げていったように、北海道建国で打ち上げた理念が100年かけて、アジアに広がるという風景を想像することは1999年の初夢として悪くない。

1999年01月05日(火)萬晩報主宰 伴 武澄

 1999年4月には統一地方選がやってくる。新しい風がまた吹くのではないだろうか。風が吹けばまた何かが変わる。昨年4月2日付萬晩報「5年前の興奮を思い起してもう一度わくわくしよう」で参院選への期待を書いた。変化への期待感を抱けることが暗い世相を明るくするのだと思う。景気が回復したら世の中明るくなるのではない。人々が明るさへの期待を抱くから景気が回復するのだ。

 ●過去のしがらみからの決別

 新しい風が吹くだろうという考えに根拠がないわけではない。昨年の参院選では大方の予想に反して投票率がアップし、既存勢力が惨敗した。まだ参院選でし かないが、有権者は「投票に行けば政治が変わる」ことを知った。有権者の心の中ですでに大きな変化が起きているのだと思う。

 昨年末には神奈川県逗子市長選挙で31歳の市長が誕生した。これも変化の前兆である。長島氏は筆者が農水省を担当していたとき、フジテレビの記者として一緒に仕事をした経験がある。まだ荒削りだが、市民は過去のしがらみのない候補者として1票を投じたのだと思う。

 さらに一部では住民運動が新しい動きを示し始めている。昨年の神戸市の空港建設をめぐる住民投票条例制定の署名運動は2万人を超す市民が運動に直接参加 し30万人の署名を集めた。既存の政党を超えるビッグパワーが出現した。徳島県の吉野川堰建設でも既存勢力に対抗するパワーが生まれている。

 いま悪いのは、戦後日本の政治劇を演じてきたキャストたちである。どんな経歴を持っていようと今となっては過去のしがらみが多すぎる。いまキャストを入 れ替えることに不安がないわけではない。しかし、新しいキャストたちも数年経てば経験を積むことになる。少なくともしがらみがない分だけましなのではない かと思う。自治体レベルで新しいトレンドが生まれれば、次の国政選挙がさらにわくわくできるようになる。

 ●無くしたい無投票選挙

 正月の朝日新聞を読んでいて驚いたのは、無投票で選ばれた市町村長が4割もいたことだ。全国3255市町村のうち1346人の首長が無投票だと言うこと だ。愛媛県の一本松町などは4代12回、つまり48年間選挙がなかった。三重県河芸町にいたっては米倉智町長が7期28年間にもわたって町政を担ってきた そうだ。

 こんなのは民主主義ではない。これは絶対に住民が悪い。98年4月30日付萬晩報「独立北海道では大統領や知事は3選禁止」で長期政権の弊害を語った。

 大統領も自治体の首長も任期は、2期8年までとし3選は禁止すべきだと考えた。任期についてアメリカ大統領の2期8年を参考にした。日本の企業でも社長 の任期は3期6年がほどよく、最長でも4期8年が限界とされている。それから3人以上の候補者がいて、投票総数の過半数を得られない場合にはフランス大統 領選のように上位2者による決選投票を実施すべきである。

 知事や市長といった住民の直接選挙で選ばれる首長はアメリカ大統領と同じで絶大な権限を持つ。もちろん制度的には議会が行政のチェック機構として機能する仕組みにはなっているが、国と違って地方行政には強力な官僚軍団もない。

 そんな首長が、10年も20年もトップの座につけば自治体行政は半ば「独裁化」する。高邁な理念と行動力を持っていればなおさら求心力が強まる。「求心力」と言えば肯定的で、「独裁」だと否定的な表現となるが、政治力学的にいえば「求心力」も「独裁」もあまり違わない。

 そんな強大な権力を持った自治体首長の当選をわれわれは無投票で許してきたことを大いに反省しなければならない。誰でもいいと言うわけでもない。若けれ ばいいというものでもない。だが政治や行政の経験は実はしがらみそのものなのだ。長期政権や無投票が続く市町村だけでない。ひとも勇気ある若者の出現を期 待したい。

このアーカイブについて

このページには、1999年1月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは1998年12月です。

次のアーカイブは1999年2月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

月別 アーカイブ

ウェブページ