1998年11月アーカイブ

1998年11月30日(月)とっとり総研 主任研究員 中野 有


 ●報道される飢餓に苦しむ北朝鮮の姿はなかった

 先日、中国の琿春で開催された国連工業開発機関(UNIDO)主催の投資フォーラムに、UNIDO東京事務所の団長として参加した。琿春でのフォーラム に参加した後、琿春から80kmの日本海に位置する北朝鮮の羅津先鋒を視察した。羅津先鋒を訪問するのは3年ぶりであったが町の様子や田園風景には注目す べき変化は見られなかった。北朝鮮の図們江の河口にある羅津先鋒は、風光明媚な風景、中国の国境への道には、広大なトウモロコシ畑が広がり、日本のテレビ で報道されているような飢餓に苦しむ北朝鮮の姿はなかった。

 すべてとは言わないが、多くの日本のマスコミによる北朝鮮の報道は、現在の北朝鮮が秘める明と暗のバランス感覚が欠如していると思われる。事実、北朝鮮 は、経済危機と食糧危機に直面しながらも、ミサイルや人工衛星という世界の最先端技術の開発を進めている国である。ここでは北朝鮮という国を知るためにも 日本の報道機関が描かない北朝鮮の官僚の姿について触れてみる。

 ●7年の歳月を忘れさせてくれた出会い
 「中野さん覚えていますか」と外交官らしいスマートな物腰のある30代の北朝鮮の紳士が英語で話しかけてきた。すぐには思い出せなかったが見覚えのある 顔であった。「7年前、ウイーンで交渉したでしょう」との言葉と同時に懐かしさがこみ上げてきた。私は、当時、ウイーンに本部のあるUNIDOのアジア・ 太平洋の担当官として、北朝鮮や図們江流域の開発に携わっていた。この北朝鮮の紳士は、かつてウイーンの北朝鮮大使館の一等書記官の金氏であり、私の国連 の事務所に頻繁に訪れ、図們江開発等について意見交換したものであった。

 私は、その後、国連を去り、日本側から北東アジアの開発に関わったのであるが、金氏は、大使館からUNIDOの投資促進の担当官になったのである。金氏 は、UNIDO本部の担当官として、ウイーンから羅津、先鋒に遙々来たのであるが、お互い7年の歳月を忘れさせてくれるぐらいに話が弾んだ。勿論、図們江 の開発のみならず北朝鮮のミサイル実験についての話も行った。まさに国連という世界平和という壮大な目的に向かって協議する場に席を置いたということで、 日本・北朝鮮という壁を超え超国家的な一体感の下で建設的な話に花が咲いたのである。

 ●北朝鮮情勢の分析に不可欠な人脈の構築
 北朝鮮を出国してから知ったのであるが、なんと金氏の父は、北朝鮮の外務大臣を先月まで務め、現在は金正日国防委員会委員長の側近であり、私があった金 氏も将来最も有望な外交官であるそうだ。私は、偶々、UNIDOのオフィサーとして北朝鮮を担当し、国連を通じ北朝鮮の高官との人脈を築くことができたの であるが、今後とも、北東アジアの開発問題に関与するにあたり、この国連の人脈を大事にしていきたい。

 日本の北朝鮮ウォッチャーの多く、特に、北朝鮮問題を断片的に分析する者は、北朝鮮の入国がスムーズにできないと聞く。「百聞は一見にしかず」の言葉通 り、北朝鮮の現状を知るには現地に赴き、できる限り現地を見ることが重要である。加えて、交渉のできる人脈を構築することでより正確な北朝鮮情勢の分析が 可能になると思われる。

 国連時代に北朝鮮の高官と接し感じたことは、核疑惑等で国際社会から叩かれるが故に北朝鮮の外交官は鍛えられるということ、また、国家が孤立している場 合、外交官が努力する姿に同情が生まれるということである。国連機関、米国政府系シンクタンク、地方政府のシンクタンクにて勤務し、また、アジア、アフリ カ、ヨーロッパ、米国等で十数年生活し多くの人々に接してきたが、国際的な視点で見ても本当に北朝鮮の外交官は優秀だと思う。北東アジアの開発、特に北朝 鮮問題を分析する場合、多角的視点による分析、即ち幅広いネットワークを通じ、国連、米国、日本、鳥取等から北朝鮮の動向を包括的に分析することが重要で あると思われる。


1998年11月29日(日)萬晩報主宰 伴 武澄


 1977年10月7日、元陸軍軍人で自衛隊の将官もつとめたOBらが訪中した。OBの立場から日中の軍人の交流の可能性を探るのが目的だったが、予期も しなかったトウ小平との会見が実現した。この時の会談内容はいまだ公的に語られたことはない。あまりにも衝撃的であるからだ。

 ●日本は共産軍を助けたことになっている

 人民大会堂で行われた会談の重要メモを入手したので萬晩報で公開する。中国側の出席者はトウ小平、廖承志、王暁雲、孫平化、金黎、単達析であった。

 両国は100年間は喧嘩したが、いまは共通の問題がある。過去、中国人民は日本の軍国主義に対抗してきたが、毛主席は常にこう言われた「過去のことは水に流そう」と。

 しかし、実際は、日本は中国(共産軍)を助けたことになっている。

 日本が攻め込んできたので、われわれを包囲していた蒋介石軍が後退した。当時のわれわれ八路軍の兵力は3個師団3万人のみだった。日本が蒋介石を重慶ま で押し退けてくれたので、われわれは日本軍の後方で勢力を拡大した。8年後に3万人の兵力は120万人にまで増えたし、さらに数百万人の民兵組織までつ くった。

 第二次大戦の後、米国は蒋介石軍400万を整備し、蒋介石はこれでわれわれを攻撃したが、われわれは120万の兵力をもって3年間で蒋介石軍を打ち破った。それゆえ、みなさんだけを責めるのは不公平と思う。

 かつてジンギスカンが日本を攻撃したが、全軍が壊滅した。だから、日本に迷惑はかけなかった。長期的にみれば、文化交流があり人民の間は友好的だった。第二次大戦後、日本の立場は変わった。それ以降、両国の人民の交流は良い方向にある。

 日中の交流は、漢の武帝の時に始まったといわれるがそれから約2000年、短くみても1500年になる。100年は喧嘩状態だったが、1400年は友好 的だったのだ。100年の喧嘩は長い間におけるエピソードにすぎないと言えよう。将来も、1500年よりももっと長く前向きの姿勢で友好的にいこう。今後 の長い展望でも当然友好であるべきである。

 特に言っておきたいことは、両国とも同じ方向から脅威を受けていることだ。われわれは軍人だ。だから緊張緩和に望みをかけていない。第二次大戦後32年になるが、この間も決して安寧ではなかった。

 毎日のように緊張緩和にが叫ばれているが、そんな単純なものではなく、この間に核兵器、通常兵器ともものすごく発達した。それ故に私は緊張緩和を信じない。

 永久平和があるとは信じない。戦いはいつの時かは実現する。私たちはヨーロッパやアメリカや日本の友人に備えをすべきだと言っている。

 ●センチメンタルな反戦主義者ではなかったトウ小平

 日本側が「先の戦争では申し訳なかった」といった内容のことを述べると、トウ小平は発言をさえぎるようにして「われわれは日本軍をそんなに悪く思っていませんよ」というような意味の発言をしたのだから一行はあっけにとられたに違いない。

 絶対に見間違ってならないのは、トウ小平はセンチメンタルな反戦主義者ではなかったということである。冷徹な戦力家であり、前線で戦ってきた野戦軍人だったのである。

 中国共産党は1930年代に入っても、国民党の蒋介石軍に対して劣勢で、江西省の山岳地である井崗山(せいこうざん)で包囲されていた。共産党軍は井崗 山から脱出すべく、長征の途についた。目的地の陝西省北部の延安までは中国の辺境といわれるチベットとの境界や青海省などの峻険な山岳地帯が選ばれた。こ の途上、毛沢東が本格的に共産党の主導権を握ったとされる。

 だが、延安にたどりついたときは気息奄々、共産軍は全滅寸前だった。ところが日中戦争が始まり、西安を訪問中の蒋介石は張学良に捕らわれ、国共合作を余 儀なくされ、共産党がかろうじて生き延びる道が開かれたのである。張学良はもともと満州を支配していた張作霖の長男である。

 ●江沢民主席はなぜ!

 江沢民中国国家主席は日本に来て以来、何回過去の歴史に言及しただろうか。1989年に胡耀邦総書記が亡くなるまでの中国はこうではなかった。もちろん 国際環境はいまとは異なっていたが、過去の日本をこれでもかと批判し続ける江沢民主席の姿勢にはなにか品性を欠くものがある。

 江沢民主席が仙台を第二の訪問地として選んだのは魯迅が学んだ足跡を自分の目で確認したかったからである。魯迅が終生慕った藤野先生の子孫に会いたがっ ていたとの説もある。その江沢民が過去の歴史にあまりにも固執した背景に、日本訪問に関して中国国内でなにか不都合でもあるのかと勘ぐりたくなる。

 関連ページとして1998年06月06日「日中戦争のおかげで全滅を免れた中国共産党-トウ小平語録」があるが、メールマガジンとしては配信していない。萬晩報はこのコラムのもとになった会談の一問一答を入手した。関心のある方はどうぞ。


1998年11月28日(土)萬晩報主宰 伴 武澄


 見たくない構図が見えてきた。萬晩報はこれまで国債の大量発行は必ず金利上昇を招くということを指摘してきたが、金利が上がらないのは金融機関が大蔵省の言うがままに国債の入札に応じてきたからだと思っていたが、事態はもっと深刻である。いつのまにか国が買っていたのである。

 「すべて、公債の発行については、日本銀行にこれを引き受けさせ、又、借入金の借入については、日本銀行からこれを借り入れてはならない。但し、特別の事由がある場合において、国会の議決を経た金額の範囲内では、この限りでない」

 財政法の第五条である。

 「引き受け」は禁止でも「保有」はOK!

 11月27日発表された日本銀行の1998年度上半期の決算によると、日銀の総資産は78兆円。1年で41%も増えたそうだ。問題は日銀の国債保有残高 である。引き受けてはならない国債を48兆円も保有しているのである。信じられないことに48兆円は発行残高の約2割にあたる。年間の新規発行額の2-4 倍でもある。しかも1年間に8兆円増えたもようだ。これは禁じ手である。

 引き受けてはならない国債を日銀が保有していることに疑問を感じ、問い合わせると、日銀の情報サービス局広報課から「財政法で国債の引き受けは禁じられ ており、日本銀行が保有している国債は市中から買い入れたものであることをお知り置きください」との返答が返ってきた。萬晩報読者の丹野さんがメールで質 問した。

 日銀のクイックレスポンスには驚いたが、この回答はほとんど修辞学の世界だ。以前、日銀幹部から聞いた説明は「日々のお金の出し入れの際、金融機関から 企業の社債や国債を担保に預かる場合がある。あくまで短期資金だから保有といっても短期的でしかない」というものであったが、48兆円も保有していること になると話は違う。

 国民からすれば「引き受け」と「保有」の違いなど分からない。財政法の精神からすれば国が発行する国債を同じ国の機関である日銀が引き受けると言うことは「タコが足を食う」ようなもので絶対にあってはならないことであろう。

 その同じ精神からすれば「保有」だっていけないはずだ。日銀が総資産の6割を国債で持っている姿は尋常でない。東大法学部を出た頭脳明せきな人々がやっ ているのは、国家による粉飾である。粉飾というのはこそこそやり、やがて経営が行き詰まってばれるが、堂々と粉飾を公表しているから日銀は大したものだ。

 だが、大手マスコミはどこも日銀の粉飾を指摘しない。11月28日の各紙の見出しを列挙する「日銀資産、劣化の恐れ(毎日新聞)「日銀剰余金が半 減」(読売新聞)「日銀総資産4割の増える」(朝日新聞)「剰余金7.4%減8447億円」(サンケイ新聞)。どこもピントが外れている。知的怠慢でもあ る。

 81兆円もの国債を保有する資金運用部

 日銀の国債保有が1年で8兆円増加していることはさきに述べた。だが資金運用部に比べれば増加の規模はまだかわいい。資金運用部は郵便貯金や厚生保険な どを運用している政府の部門である。日本道路公団とか日本開発銀行といった政府系機関に貸し出している。1998年3月末の長期国債保有は81兆円。1年 間に17兆円も増えている。ちなみに昨年度は運用利ざやはたったの0.14%。

 1998年3月末の国債発行残高は257兆円。このうち日銀が48兆円、資金運用部が81兆円だから計129兆円を政府が保有していることになる。日本の国債の半分は「タコ足」状態という戦慄すべき状況がここにある。

 しかも日銀の増加分8兆円に資金運用部の17兆円を加えた25兆円は、昨年度の新規国債発行額13兆円を大きく上回る。なんのことはない、新規国債のすべてを実質的に政府が引き受けて、さらに過去の国債も買い増しているに等しい。

 今年度は、税収不足に加え、一次、二次の超大型景気対策のため40兆円もの国債を発行することになるが、これも最終的には日銀と資金運用部が引き受けることになるのだろう。

 第二次補正予算を発表した宮沢喜一蔵相が「大量の国債発行でも市中消化に問題はない」と胸を張った背景にはこんなからくりがある。いったん銀行などで構 成するシンジケート団が引き受けた国債は政府が再び買い戻す。そんなところに市場原理など求める方が無理だ。かくして金利上昇の不安がなくなるのである。


1998年11月25日(水)萬晩報主宰 伴 武澄


 ●無力感のなかで感じる「職場に花を」というメッセージ

 11月19日に「職場に花を-横浜MM21の朝に立つ花屋台」と 題して掲載した近藤萬右衛門さんの「お花の萬奮闘記」は実にタイムリーなコラムでした。銀行への60兆円にも上る巨額支援、景気対策の名のもとに発表され た超放漫財政、二大政党の育成を目指した小沢・自由党の自民党合流、国民が期待した日本再生の期待感がこの1カ月、相次いで崩壊しました。そんな無力感のなかで「職場に花を」というメッセージが多くの人々の感動を呼び覚ましました。

 一夜にして20通を超えるファンレターが近藤さんの元に届きました。一つひとつ読ましていただきました。萬晩報にもこんな読者層がいてくれたのだという新たな思いがありました。筆者の近藤萬右衛門さんに感謝します。

 萬晩報と近藤さんとの出会いについて、まず一言述べ、近藤さんへのファンレターを紹介したいと思います。

 近藤さんとは11月15日、「Think Japan」を 提唱する埼玉女子短大講師の大塚寿昭先生らの「坂本竜馬の命日の京都墓参ツアー」に参加したことが出会いとなりました。シリコンバレーの八木博さんもその 仲間の一人で、もう一人のリーダー的存在の杉原郁夫さん(人築夢街企画室代表)は、高知桂浜の竜馬記念館建設の旗振り役だったにもかかわらず、実は竜馬の 墓参りをしたことがないということが分かり企画されたそうです。

 最初は数人だった京都墓参ツアーはメールを出しているうちに、人数が増え、最終的には25人にも膨れ上がりました。顔を合わせるとほとんどが中年の熱血 漢でした。女性はただ一人でした。そのなかに近藤さんがいました。大塚さんからは近藤長次郎にあやかって「饅頭屋」と呼ばれていました。

 異彩を放つ中年集団は墓参の後、ただちに待ち合わせの京都祇園の高級クラブに集結。密会の後、別働隊となって市内を神出鬼没、「Think Japan」のコンセプトを全国に広めるべく熱く議論しました。高級クラブ「アラカルト」のママは長崎出身、二軒目の串揚げ屋「花ぎおん」は中岡慎太郎に ゆかりのある女性が経営していました。

 同じ「萬」のよしみで肝胆相照らした翌々17日、「お花の萬奮闘記」の創刊号が届きました。(有)花器屋萬右衛門の繁栄を祈りたいと思います。

 【上嶋さんから】
 新規開店の花屋さん、開店おめでとうございます。「職場に花を」のご提案、私も早速実行したいと思っています。実は当方も12月1日新会社を発足させま す。私は社長を命ぜられ、一日中その準備に追われています。新会社は千葉市稲毛にありまして、週日単身赴任になりますが、花があれば和むと思います。職場 と住居に花を飾る習慣をつけましょう。

 【牧口さんから】
 花屋台の奮闘記をとても楽しく読ませていただきました。実は、私は昨年よりフラワーアレンジメントの学校に通っています。いつかは友人の結婚式にブケー を作ってあげられたら...と思っています。週に一回花に触れますが、その時だけは日ごろのストレスがうそのように消えてゆき、自然の力が偉大だというこ とをあらためて実感します。たった一輪の小さな花でも、大輪のバラでもその力は同じこと。(個人的には、「職場に犬を」なんていうのもよいと思うのです が...。)毎日の生活の中で花を見つめる心のゆとりを持った人々が増え、花屋台が日本の町角に立ち並ぶ日も近いかもしれませんね。

 【狩野さんから】
 お花の萬奮闘記を萬晩報でみました。素晴らしい試みですねえ。ぜひ頑張ってください。これで取り上げられれば、見るべき人が必ずみています。私は、今は 東京に住まっていて、横浜には滅多に行かなくなりましたが、そのうち行ってみたくなりました。続報などございましたら、是非拝見させてください。

 【ヤスエさんから】
 こんにちは、「萬晩報」であなたの文章を読み ました。これからも配信をしてほしいと思ったのでメールを送りました。個人的にはお花のちょっとしたコラムみたいのも書いていただけたらいいなあ、と思い ます。たとえば、この季節にオススメのお花や長持ちさせる秘訣等です。ということで配信よろしくお願いします。

 【ガープさんから】
 読ませていただいてコンクリートの街の足早に 歩く人たちの中にある花の屋台を想像しました。花が浮き上がってとてもきれいだろうなあと思いました。毎日たくさん売れますように!私は10月からインド ネシアのバンドンで生活しています。こちらにはそういえば生花屋さんはほとんど見かけないですね。暑いと花持ちが悪いのでしょうか?

 【上岡さんから】
 萬晩報11月19日号にて拝見いたしました。 「職場に花を-横浜MM21の朝に立つ花屋台」(有)花器屋萬右衛門 近藤萬右衛門 お花のよろずプロデュース業の奮闘記、購読をお願いいたします。茨城 県つくば市にて私も商売をしております。証券、ミサワホーム、住友不動産、ノンバンク日栄、などを経て29歳で会社を始め今年で4年目になりました。結婚 をしようようかと迷いに迷った相手が花やの仕事をしていたこともあり私事で勝手なことを書いてしまいましたが、心に触れるものを感じました。今後ともご商 売の発展とますますのご繁栄をお祈りいたします。

 【Koedaさんから】
 お花の萬奮闘記を、萬晩報で読みました。 私は、97年にサラリーマンをやめ ドイツに自分のマーケテイングの会社をこしらえて、世界中を飛び歩く仕事をしています。 ほとんど毎月 日本へは行くのですが、この所にほんの貧弱さを痛切に感じます。 バブル全盛には、お金でアメリカまで買い取りそうな傲慢さを持っていた人たちが嘘のようです。こういう時こそ、一輪の花をデスクにかざりゆとりを持って仕 事をしたり、 有名レストランで慣れない洋食を彼女に振る舞うより、 一輪の花でも捧げてもらいたいものですが、、、花屋台が、どのように発展して行くのか大変興味があるところです。 がんばってください。

 【toyozumiさんから】
 はじめまして。札幌に住む(あまり花を愛でるココロのない)者です。お花の萬奮闘記、萬晩報を見て興味を持ちました。ぜひ配信して下さい。横浜は暖かいのでしょうね。北海道で生花を屋台売りしたら、今時季あっというまに凍っちゃいます。それでは・・・。

 【Kunimitsuさんから】
 配信を希望しますので、よろしくお願い申し上げます。「湯上げ」の仕方を出来たら詳しく教えて下さい。

 【みしまさんから】
はじめまして。萬晩報で奮闘記を拝見いたしました。私も自宅のマンションのベランダでガーデニングをしております。家は名古屋ですが、機会があればぜひ MM21の屋台を拝見したいと思います。ぜひぜひ会社と自宅あてに奮闘記を配信していただけますでしょうか?下記宛によろしくお願いいたします。それで は、とりあえず取り急ぎご連絡まで。
 「お花の萬奮闘記」の配信を希望します。桜木町駅前の携帯電話の屋台があるあたりですね。来週パシフィコに行く用事があるので、立ち寄らせて下さいね。よろしくお願いします。(真鶴在住)

 【城戸さんから】
 お花の萬奮闘記の配信希望。頑張って下さい。以上。(松山市)

 【喜多さんから】
 萬晩報で拝見しました。大変興味深く、配信お願いします。ところで売上1号はもうありましたか、あまった花はどう処分していますか。

 【maturikiさんから】
 こんにちは はじめまして。【お花 の萬奮闘記】配信希望いたします。この間の、しし座流星群、がんばって起きて見ました。感動しました。そういえば、星空ばかりでなく、あまり青空をぽーっ と眺めたり、雲なんか、ゆっくりみてなかったなあと思いました。ここ多摩川に、こんなに朝早くから集まってきた人たちもきっとぼくと同じなんだろうと思い ました。そしたら、「花」ということで、【萬晩報】というメールマガジンで、「職場に花を」というテーマで紹介された、貴メールマガジン、よろしくお願い します。たのしみにしています。

 【池田さんから】
 前略。お花の萬奮闘記配信希望します。今朝の花 の屋台はいかがでしたか?横浜といってもやはり寒いのでしょうね。お疲れさまでした。私は現在関西に暮らしていますが、昨年の夏までは鶴見区、その前は戸 塚区に住んでいました。MM21、ランドマークタワー、なつかしいです。花の屋台、遠くから応援します。会社に花を咲かせてください。本当に花一輪で心が 和みますよね。私もたまに安い切り花を買いますが組み合わせにうんと悩んで時間をかけます。(立ちすくんで熟考します)そんな人も許してあげてください ね。

 【Kaoru Kuboさんから】
 花は、心の代弁者です。会社や大切なお客様を訪問するときは、いつもその会社の雰囲気やお会いする方のイメージを反映するようなお花をお持ちします。私の心からのご挨拶です。See you 桜木町の歩道の上で! with smile(Kaoru Kubo)

 【金子さんから】
 「萬晩報」で「お花の萬奮闘記」???伴さんが 副業で花屋?でも近藤萬右衛門ってだれ??? てな感じで読み始めました。どの様な経緯で、「お花の萬奮闘記」と「萬晩報」がつながるのかは分かりませんが「創刊号を読んでしまったからには続きが読み たい!!」「最初のお客はどんな人」「花屋台の店先から見る企業(女)戦士達ってどんな感じ」「近藤萬右衛門て本名?」「なぜに横浜MM21で花屋台?」 等々、興味は尽きません。
 伴さんの紹介なので「まぐまぐ」かと思い探してみたのですが無いみたいなので直接メールすることにしました。始めたばかりでも「まぐまぐ」を使ってしま いましょう。多分便利だと思いますよ。その内には上に書いた色々な疑問の答えが明らかになると思って楽しみにしています。それでは、今後の配信、がんばっ て続けて下さい。

 【木下さんから】
 メール配信希望です。はじめまして。私は、9月 から花屋でバイトを始めた20歳の男です。萬晩報、拝見しました。うちの店でも湯上げはしていません。それどころか水切りしていると「えらいねー」といわ れたりします。まだまだ分からないことだらけなので、どんなことでもお教えいただければ幸いです。

 【小林さんから】
 はじめまして。私は萬晩報を配信していただいて読んでいる者です。花はいいですね。苦中に楽というか、忙中の閑というか、動中の静というか心に余裕の無くなってくる時代だからこそ本当に必要なものだと思うのです。
 私も家で母にもらったポトフだかポトスだかいう花の咲かないやつを育てております。あと、人にもらったなんだかよく分からないのもふたつのほど育てております。今まで何個か枯らしてしまいました。植物ってとてもデリケートなんですね。
 でも、全く枯れる氣配を見せないのもあります。それが上記のポトフだかポトスです。花は咲かないですが、その強さはいつも人生の大きな励みになります。 小学校の卒業アルバムの寄せ書きに恩師が書いてくださった言葉が「雑草のごとく」です。私は26歳ですが、最近ようやくその言葉の意味が分かるようになっ てきた氣がします。たとえ花が咲かなくても一生懸命に生きることこそが重要なのですね。
 もしよろしければ、「お花の萬奮闘記」をこれからも配信して下さいませんか? よろしくお願いします。ところで、その後売れ行きはいかがですか?今後の奮闘陰ながら応援しております。

 【高橋さんから】
 近藤萬右衛門さま。はじめまして。高橋と申しま す。萬晩報11月19日号より「お花の萬奮闘記 98年11月17日創刊号」を楽しく読ませていただきました。お花の屋台は見ているだけでもきっと幸せな 気分にさせてくれることでしょう。お仕ことの成功をお祈りします。頑張ってください。


 【大澤さん】
 「職場に花を-横浜MM21の朝に立つ花屋台」。拝読させていただきましたと申します。パソコン入力未熟の為、先ず誤字脱字お許し下さい。
 毎日、暗めの話が多い中で突然我に返りました。早速、我が家で寝たきりの痴呆気味の義母に花束を買って帰りました。私、56歳の老人にとって花屋さんの 敷居は高く、更に花を買うとなると大変勇気の要る作業でした。過去にも、この作業にチャレンジしたことが何度かありました。
 昔、京都先斗町の飲屋のママに、数年前ホームステイの外国人帰国の前夜に、結婚以来20年目、何を血迷ったか1度だけ愛妻に。回数が少ないだけに、その時の相手の喜ぶ姿は鮮明に記憶に残っています。
 お蔭様で今回も義母の口から「きれいだね、部屋が急に暖かくなったようだね」と意味の通じる言葉を聞くことが出来ました。 痴呆になると記憶がだんだん幼い頃に帰るのでしょうか呼ぶ人の名前は、姉妹、戦死した兄、今は無い父母、近所で子供の頃に遊んだ幼馴染・・。元気に仕事をしていた頃の幻覚「ジャガイモを掘って来たから煮て食べよう」......・
 こんな会話を繰り返す義母とは別人でした。
 実の娘に(とは言っても50歳)老後傍目にも羨ましい程の介護を受けています。永く生きて欲しいと思っています。花の便り是非お願いします。

 【Jinno Tomokoさん】
 こんにちは。萬晩報の「お花のよろずプロデュース業の奮闘記」読みました。
大阪の都会育ちの私には、花というもの自体がピンとこない、遠い存在です。(今でも)「奮闘記」を読んだあとの、あの、ふわふわ感はなんだったのか、はっきりとはわからないけど、もしかしたら、職場に花があると、同じふわふわ感を味わえるのかな、と思いました。
 25日号に掲載されたみなさんの反響を読んで、私も涙が出てしまいました。(職場で!)その場はドライアイのふりをしましたが、すぐウルウルしてしまって、読むのに2日ぐらいかけてしまいました。
 近藤さんの奮闘記が私の心の花になるとうれしいなと思います。

 【Futoshi Nakajimaさん】
 お花の萬奮闘記の配信をお願い致します。横浜に行ったら、是非のぞかせていただきたいと思います。頑張ってください。

 【けいこさん】
 こんにちわ。配信希望のメールを早く出そうと思いながらずいぶん遅くなってしまいました。改めて、配信希望します。
 私は、四国の香川県高松市に住んでいますが、こちらでも、たま~に自転車を改造した屋台の花屋さんを見かけます。でも、花はほとんど仏さん花と云おうか 菊ばかりでお仏壇に生ける花ばかりです。売ってる人もおばあさんだし・・・。がんばってください。お花ってホント心をなごませてくれる不思議なもの。今後 の発展、祈ってます。

 【拓植造園土木さん】
 「お花の萬奮闘記」配信希望いたします。

 【Hisao Murakamiさん】
 陰ながら応援しています。

 【松島弘さん】
 萬晩報11月19日号を読んでからメールを出すのがすっかり遅くなってしまいました。松島という者です。
 11月19日はちょうど会社であらゆるトラブルに見舞われた日で、ほとほと疲れていた日でした。すると「職場に花を-横浜MM21の朝に立つ花屋台」と いう文章が配信されていて、「あ、そうだ、今日は花を買って帰ろう」と思いました。たった1本のガーベラを買い、家に帰って小さな水差しに入れて、食事を しました。この週はいろいろと精神的にまいっていた週なのですが、この時はじめて心が和みました。妻もうれしそうでした。
 花をたった1本買うのは妻のくせで、私にもうつりました。1本なら、花も高くないものです。妻は、花束にもかすみ草とか入れるのが好きではありません。花は、ちょうどぴったりの量があれば良い、とでも思っているのかもしれません。
 私は趣味で音楽をやるのですが、ガーベラで心が和んだ時、ああ、こんな音楽をできると良いなあと思いました。
 友人でプロの音楽家がいて、その人は一時期音楽をやめていたのですが、その間は花の市場で働いていました。彼からの話で、花の市場はかなりの肉体労働だと聞いていたので、仕入れの大変さも、ちょっぴり想像できます。
 昔いた職場に、若い男の子で、自分の机に花を生けたり、普通のネクタイではなく蝶ネクタイをしてきたりする子がいました。彼はいろいろと職場に不満が あって、レジスタンスのうちの一つとして、そういう事をやっていたようです。私は、面白いな、と思ってましたが、彼は結局辞めていきました。でも花が職場 の雰囲気を変えるかもしれない、という観点はなかなかだった気がします。こういう人がいたのを、すごくひさしぶりに思い出しました。
 とりとめのない文章ですいません。今後の展開を応援しております。お知らせ等あればメールをいただけますとありがたいです。

 【Emiko_Umejimaさん】
 はじめまして"萬晩報"で奮闘記たのしく拝見いたしました。私も最近のガーデニングブームとやらに影響されてか自宅の狭いベランダでほんの少々ですがプランターを持ち込み花を育てております。
夏の暑い時期に元気に咲く花たちもかわいかったのですが、初冬をむかえ冷たい木枯らしの中、けなげに花をつけるパンジーには愛おしさを感じ、朝どんなに寒くても早起きをしてベランダにでていってしまう今日このごろです。
水揚げがうまくできないせいか、生花のアレンジは苦手でその辺のプロの技のエッセンスをご伝授いただければ...と思っております。
花の屋台にもこんど遊びにいきます 頑張ってくださいね。

 【yasuko inoueさん】
 福岡県宝珠山村の井上と申します。「萬晩報」の愛読者です。「お花の萬奮闘記」配信をお願いしたくメールしました。よろしくお願いします。

 【大井明子さん】
 先日の「お花の萬奮闘記」拝見させていただきました。確かに、生命あるものが部屋にあると心がなごみます。この春退職したばかりですが、「疲れた」「忙しい」が口癖の同僚たちをやや哀れにも感じます。職場に花は必要です。配信楽しみにしております。

 【平島 拡史さん】
 (有)花器屋萬右衛門・近藤萬右衛門様。突然のメールで失礼します。お花の萬奮闘記配信希望します。萬晩報で知りました。

 【Yutaka HISAMATSUさん】
 こんにちは,はじめまして。久松というものです。
 萬晩報を通じて、「お花の萬奮闘記」に出会いました。実は、実家が農家で、両親がトルコギキョウを作っており、(JA信州うえだのトルコギキョウ、ご存 知でしょうか)また、弟も最近脱サラして、ゆくゆくは花屋を開くため、花関係のバイトをしながら花屋さんの学校に通っていることもあって、何かちょっと親 近感を覚え、メイルをしたためております。
 私自身も両親の仕事の手伝い程度のことは時々するので、ことトルコギキョウについては、生産者の目から見る分には、ある程度のことはわかるのですが、流 通・販売については、ほとんど素人です。「会社に花を咲かせましょ」というのは大変よいですね。子供の頃は、学校に自分の家の庭に咲いたバラやチューリッ プを時々持っていっていたことを思い出しました。花は見るだけでも十分いいのですが、香りがまたすばらしい。花の香りのする職場なんていいじゃないです か。出かけるときに花を持っていくなんて、ここの所すっかり忘れていた気がします。今度会社に花を持っていってみようかななんて考えています。
 商売のほうはいかがでしょうか。さすがに景気がよくないので、花がなくても死ぬわけじゃないなんて思う人もいるかもしれませんし、売れて売れて困るとい う状況はなかなかないかもしれませんが、花を飾って喜んでくれる人がいる限り是非がんばってほしいと思います。実は先ほど書いた弟ですが、横浜(ちょっと 田舎の方)に住んでいて、花関係の仕事を始めようとしていますので、もしかしたらどこかで見かけたりすることもあるかもしれません。久松という苗字はそれ ほど多くないので、もし見かけたらその時には何かお話ができるといいですね。

 【Mellyさん】
 開店おめでとう!今朝一番に頼もしいお便りでホンワカ気分、楽しく拝見。凄いエネルギーに乾杯!突如出現した花屋さん、嬉しい驚きで皆のにっこりが伝わってきますよ、目に馴染んでくるにつれファンが増える事でしょう。次号を楽しみにしています。

 【Sudoさん】
 北海道に住む須藤というものです。萬晩報で知りました。素敵ですね。ぜひ購読させてください。

 【辻田充司さん】
 萬晩報で拝見いたしました。自然との調和を考える日本に。花はこころにゆとりを与え、漢方のように効果がじわじわと現れる人間関係の薬です。ひいては、 景気回復にもつながると思います。笑う門には、福来る。生かされている自分を知るには、花はふさわしく思います。頑張って下さい。

   【Yoshinori Shiraiさん】
 shirai@広島です。はじめまして。「お花の萬奮闘記」配信希望いたします。今日配信された萬晩報11月25日号であらためて読ませて頂きました。 しばらく花を飾ったことが無かったのですが、久しぶりに買ってみようかなと思いました。カミさんと子供がどんな顔をすることか...。これからも、ガンバッテ ください。

 【tomomiさん】
 はじめまして。まぐまぐで「お花の萬奮闘記」を見つけたときはお花が好きなのでなんとなく登録したメールマガジンでしたが読み物として、とてもおもしろかったです。これからの更新、期待してます。

 【大沢 隆さん】
 始めまして、大沢と申します。mag2 で見つけました。私、新潟の田舎者です。もうすぐ雪に埋もれた生活がやってまいります。趣味で(ボランテイアと言うのは恥ずかしいので)公民館の花壇など をいじくっております。花がないより有ったほうがきれい! と言う程度のものですが。創刊号とのこと、これから楽しみに待っています。頑張ってください。簡単ですがご挨拶まで。

 【KAYOKO NISHIOさん】
 前略、先日の萬万報のコラム「お花の萬奮闘記」拝見させていただきました。
 私は海外在住のものですが、日本のオフィスにお花を・・・という貴殿のメッセージに暖かいものを感じました。私も常に花を身近に置くよう心がけており、 そうすることによっていつもより一段階、心がやさしい自分になれるような気がするのです。また生命を持ったものがそばにあるというのは大事なことだと思っ ております。自分から水を飲みに行けないお花たちを、いい状態で保ってあげる、そんな花への思いやりが心をやさしくしてくれるのかもしれません。
 また続編を楽しみにしておりますので、是非配信をお願いします。これから寒くなりますが、心は常に温かくありたいものです。これからもお仕事がんばってください。

 【Hisayuki Tatenoさん】
 萬晩報で「お花の萬奮闘記」拝見いたしました。会社員づとめのしがない独り者ですが、これを読んで花を持っていこうかと、考えております。自分が毎日通う場所ですからね。今後もがんばってください。横浜に行ったときに見つかればお邪魔したいと思います。
配信希望します。
花って、鏡なんですね。当たり前の日常の中でふっと、「あっ、生きてるんだ」と、気づかせてくれます。
座右の花。感謝が生まれます。創造が始まります。ありがとうございます。

  ●【近藤萬右衛門です】
 この度は拙文「お花の萬奮闘記」創刊号に対しまして日本全国・世界各国から熱い応援メールを頂戴いたしまして、感涙の極みです。皆さんから頂戴したメー ルをじっくりと拝見させて頂くうちにはからずも涙が出てしまいました。感動しましたというお声を多数頂きましたが、一番感動したのはこの私です。皆さん本 当にありがとうございました。また、こころある方々からは転載のお申し出まで頂きまして、この場をお借りしてお礼申し上げます。

 そして、奮闘記を書く勇気を与えてくださいました京都の伴さん、どうもありがとうございました。

 さて、創刊号と言うからにはこの後も続くんだろうな、1回だけなら許さんぞ、こんにゃろ!というお声も沢山頂きました。もちろんずっと続きがあります。 何しろ、毎日毎日面白いことがいっぱいあります。感動もあります。道行く人の声援もいただいてます。おとうさんが会社飾りにと買って行きました。おまわり さんも来ました。メールを読んで探してきてくださった方もいらっしゃいます。

 早くもランドマークタワーの各お店では噂の花屋になっているようです。そんなこんなを今後も皆さんにお伝えしていきます。どうか今後の動向をきにしつ つ、貴方の会社でも、家庭でも花を飾ってみてください。ほんの少しでいいんです。どーしたの?と聞かれても"別に"と謎の微笑みを振りまいてみてくださ い。その笑顔が日本を元気にさせます。それでは次回をお楽しみに。


1998年11月22日(日)マレーシア国民大学講師外国語学部 BAN Mikiko


 私が教鞭をとっているマレーシア国民大学の学生は、マレー系、中国系、インド系、少数民族など多民族で構成されている。日本語を履修する学生は圧倒的に中国系が多い。その中国系マレーシア人の言語生活はこんなふうである。

 国立大学であるから、入学試験は国語であるマレー語で受けて入学してきている。授業も基本的にはマレー語だ。しかし友だち同士の会話は相手により中国語(マンダリン)、マレー語、英語を巧みに使い分ける。

 新聞は中国紙を読む者が多く、テレビのニュースや番組も中国語で聞くことになる。家では出身の広東、福建、客家などの方言を使う。彼らは4つないし5つ目の言語として日本語を勉強しているのだ。

 私は授業を英語で行っているが、そのことについて、大学側に事前に断ったこともない。授業を進めていく上で支障を来したこともない。英語で説明を聞いた学生たちはそのまま英語でメモをとる者もあれば、中国語やマレー語に「変換」して理解している者もいる。

 試験はマレー語で行うので、翻訳の練習はやはりマレー語から日本語となる。学生の注意を喚起するために中国語を使うこともある。言ってみれば、私のクラスの授業は言語的には「チャンポン」なのだ。

 実はこのチャンポンが楽しい。学生たちと日本語を英語、マレー語、中国語など、同時に複数の言語との比較の中で観察していくと思いがけない発見がある。私にとっては日本語が、学生にとってはそれぞれの「母語」が世界のさまざまな文化の中で相対化されて見えてくるからだ。

 学生たちに日本語学習の動機を尋ねたことがある。「いまの時代、日本語を話せると有利だ」「将来、日系企業に勤めたい」など実利的な目的を上げる者がい る一方で、すぐに役立たなくとも日本人への尊敬の念や日本文化に対するあこがれから、日本語に興味を抱く者も少なくない。

 ハッとさせられるのは、新たな言語を学ぶことを通じて異質なものに触れることが、自分たちを高め、豊かにするのだという成熟した考えを持つ若者が多いことだ。

 マレーシア人はスピーチ好きな国民だが、聴衆に他民族が混じっていると愛嬌で、あいさつなどにその民族の言葉を織り混ぜることがよくある。これは他者に 対し、「あなたの存在を意識していますよ」「あなたに関心を持っていますよ」という意志表現であり、多民族国家マレーシア式の心遣いでもあり、思いやりで もある。

 マレーシア人の心根の優しさやマレーシア社会が持つ包容力は異なった文明の言語を学ぶという地道な苦労や、身につけた言葉をためらわず積極的に使おうとする努力の積み重ねの中で培われている。  マレー文明、イスラム文明、インド文明、中国文明、そして西洋文明を背景にしたマルチ言語社会であるマレーシアという国で生きていると、単一言語の世界にどっぷり浸っている日本との対比が鮮やかになってくる。(BAN Mikiko 在マレーシア6年)


 BAN Mikiko氏は、国際交流基金の駐在員としてクアラルンプールに赴き、4年半の勤務の後、同基金を退職、日本語教育のためにクアラルンプールに留まり、マレーシア国民大学のタイバ女史の要請で現在、同大で教べんをとっています。
1998年11月21日(土)ジャーナリスト 宮本 天


 日本のゴルフ界の一角で「異変」が起こっている。大学ゴルフ界で「常勝軍団」だった日本大学ゴルフ部が今年に入ってから、ある地方の新興大学に大きな試合で立て続けに破れている。その大学とは仙台にある東北福祉大学という大学だ。

 日大ゴルフ部といえば倉本昌宏や湯原信光、丸山茂樹など、日本のプロゴルフ界を代表するメジャー選手を数多く輩出してきた文字通りゴルフ界の「登竜 門」。そのガリバー・日大を一度ならず連続して打ち負かしているのだから、東北福祉大の快挙はもはや「奇跡」ではない。そしてそこからは「無名の新設大 学」が有名大学にも負けない強力な存在になり得る方法が見て取れる。

 「われわれは自分の意志で入ってきた学生たちにそれなりの環境を揃えてあげて、あとは本人たちのやる気に任せてるだけです」-東北福祉大 ゴルフ部の阿部靖彦監督はあるゴルフ専門誌のインタビューでこう答えている。阿部氏のいう「それなりの環境」が実は圧倒的な程すごいのである。

 阿部氏によればキャンパスのすぐ近くの校有地に練習用のグリーンやバンカーが整備され、地元には300円で打ち放題をさせてくれる練習場や、ラウンド練 習をさせてくれるコースが複数あって、選手たちはこれらの施設を存分に使い練習漬けの毎日を送っているという。これは他の大学のゴルフ部の学生にはうらや ましさを通り過ぎて考えられないくらいの充実ぶりらしい。

 大学時代ゴルフ部に在籍し選手として活躍していた経験を持つ友人がいっていた。彼の大学は東京の私立大学だったが、練習費やラウンド費、 遠征費や交通費などで月々10万円近い出費だったという。部員の大部分は練習場の球拾いやゴルフ場のキャディ、プロのトーナメント運営の手伝いなどゴルフ 関係のアルバイトをして賄うのだという。ちなみにキャディのアルバイトは日給1万円程度というから、きつい仕事だが割はいいようである。

 東北福祉大ゴルフ部が常勝日大を倒すまで強くなった秘密はどこにあるのか。結論からいえば、それは「経営戦略」の成功に他ならない。この 場所の強みは何であり、それを生かして何ができるか(あるいは、こういうことをするためにはどこの場所が適当か)、そしてそれを実現するためには何にどれ だけの投資が必要か。まさに「マーケティング」「事業投資」の視点である。

 東北福祉大は大学の運動部にありがちな「セレクション」、つまり有力選手のスカウトは一切行っていないという。「有名私大」ではないこの大学に全日本学生選手権に優勝するような有力選手が集まり始めているのである。大学の目論みは見事に成功している。
 
 エースの3年生、星野英正君がいう。「これだけの環境が整っている大学が他にありますか。いろいろな大学の話を聞いているけれど、こんなところはまずない。大学にそれだけ歴史があっても、結局やるのは自分ですから。そういうのは関係ないです」。

 そして彼はこうもいっている。「完成されたチームでやるより、自分たちで一から作り上げていくという方が楽しいじゃないですか。僕は高校生の時から、大 学に行ったら自分が率先してチームのレベルを上げて、団体戦で日本一になりたいと思っていました」-したたかではないか、たくましいではないか。

 最近の「優秀な」若者は、自己実現のために最適な場所を探すことになかなかどん欲であり、彼らは出来合いの先入観に影響されることはほと んどなどない。自分の目で確かめ自分の頭で判断する。大人のアチチュードである。星野君は高校生時代から「未完の大器」として全国的に注目されていた逸 材。

 ゴルフ界には「十年に一人の才能」という専門家もいるほどで、当然有力大学からセレクションの誘いがいくつもあったことは想像に難くない。その星野君が東北福祉大を選んだのはそこが「ゴルフをするために最適な場所」だったからに他ならない。

 バブル当時、専門学校が大学経営に進出するなどして全国で相当数の新設大学がお目見えした。だが、少子化時代に入りただでさえ学校経営が 難しくなりつつある環境下、大学間の学生獲得競争は熾烈を極め、有名大学ですら試験科目を減らすなど「ハードル」を下げてきているなかで、知名度の低い新 設大学がただ「入試がやさしい」というだけで生き残ることは不可能である。すでに一部では破綻する学校法人が出始めているが、それらは魅力的な特徴を創出 する自助努力をしてこなかったところといえるだろう。
 
 新設大学は存在をアピールするための「作戦」を練らなければならない。何かひとつでいい、経営者が自分たちはこれで有名大学を駆逐するという ターゲットを決め、その目標を達成するために必要な投資を集中的に断行する。大学である以上その素材は「学問」に求めるのが本来は好ましいが、「経営」の 観点から当座はそれにこだわらなくてもいいだろう。

 東北福祉大や駅伝マラソンですっかり全国区になった山梨学院大学が実証しているように「スポーツ」も有効な切り札になり得る。学問のように学会の権威的 序列や学閥のしがらみに翻弄されることがなく純水に結果勝負である分、スポーツの方が材料として扱いやすいかもしれない。

 東北福祉大や山梨学院大はすでに「目指される大学」として「権威ある一流のポジション」を確立した。永遠に序列変化が起きることなどない であろうと思われていたマンネリそのものだった日本の大学界で、ほんの一角ではあれ、確実に新陳代謝が起こり、猛烈な勢いで進んでいる。「体制」を破壊す るのは常に「ベンチャー」であり、それは大学界も例外ではなさそうだ。

 そういえば今年のプロ野球日本シリーズの覇者である「横浜ベイスターズ」の佐々木投手も、東北福祉大の出身だそうである。(MIYAMOYO Ten)


 宮本天氏は、通信社勤務の傍ら、8月にホームページ「視点」を立ち上げ、経済を中心とした視点から日本を見直すコラムを書き始めている。
1998年11月19日(木)(有)花器屋萬右衛門 近藤萬右衛門


 これは、お花のよろずプロデュース業の奮闘記です。

 ●横浜のMM21地区に花の屋台現る

 98年11月10日。たった二人のわが社の設立記念日に桜木町の歩道上で花を売り始めた。第2期のスタート日の朝7時半に開店。その前の週の金曜日早朝、東京の大田市場へ花の価格調べに行き、揃える花を決める。そして前日の月曜日に仕入れである。

 大田市場には仲卸会社がずっと軒を連ね、本棚のような棚にスパゲティーの麺を並べるようにして花が並んでいる。同じ花があちらの店では50円、でもこち らは70円。この違いは何だろうと一生懸命考える。生産地が違うから、長さが違うから。よく見ると、いい顔をした花とそうでもない花もある。

 みな競うようにしてあちこちの花を見ながら買っている。安くていいモノはすぐになくなってしまう。生鮮品のよさだなー。大量生産だといつでもどこでも手に入るから、その善し悪しも判断することすらしない。ガーベラが欲しい。沢山欲しい。あちこち走り回って、確保する。

 次は色あわせ。欲しいものが無かったので、ガーベラに合う花と色を探す。野草系のかわいい小花もほしい。でも最近の流行なのでなかなか数がない。ウ~ン困った。こんなことの繰り返しで何度も何度も往復する。

 全部揃って10時ころ市場を後にする。3時間もうろうろしていた。しかもずっと歩きっぱなしだった。朝早いし、これはかなりきつい。でも仕入の主体は私ではなくもうひとりのスタッフの女の子であるから、彼女はもっときついはずだ。

 ●湯揚げで元気を取り戻す花

 外での販売であることを念頭に"湯上げ"することにした。花は人間と同じで急な熱いお湯に敏感に反応し、植物の体内官が大きく開くのである。湯上げの後、すぐ水に浸けるとキューッと水を勢いよく体内深く吸ってくれるので、元気になる。

 実は湯上げをやっているお花屋さんは少ない。きっと面倒くさいんでしょうね、バイトの子たち。それで、すぐ枯れると買ったお客さんのせいにするのである。

 「お水あげました?」とか「置き場所が悪かった」とか、こんなお花屋さんへは行かない方がいいのだ。こんな時は「すぐ変わりのお花をあげなさい」と私はいつも言っている。そんなことを思っている間にもうひとりのスタッフの女の子はさっさと仕事をしているのである。

 ●そして、開店

 什器、花桶、ペーパー、セロテープ、釣り銭、パラソル、プライスカードあれこれを車に積み込んで朝7時に現地に到着。入居しているシルクセンタービルは 6時45分頃しか空かないので、暫く外で待っていた。寒かった。現地まではほんの5分。セッティングに30分で、7時30分には開店しているような雰囲気 が出来た。

 場所はランドマークタワーの手前。JRと東横線桜木町駅から連なる幅約15メートルの歩道上。通行量は凄い。とにかく凄い。こんなに沢山の企業戦士達が 毎日同じ道を通っているのである。そこに突如現れた花だらけの屋台に通行人は皆振り向く。注目度100%である。微笑んで見ていく人が多い。立ち止まる人 もいる。「カワイー」という声がする。でも売れない。「なんで朝も早から花売ってんの?」という感じなんだろうか。

 「会社に花を咲かせましょ」。これが今回のコンセプトである。殺風景な会社に花が少しだけでもあれば、いい感じになるのである。小学校のころ、クラスに 必ず花を持ってくる女の子がいたもんだが、会社でもそうすればいいのだ。こういう時代だからこそ、花一輪の持つチカラが心にいいのである。そんな女の子も またいいし、花の似合う女は無条件にいいのである。そんなお客さん第一号はまだこない。【お花の萬奮闘記 98年11月17日創刊号から】


 【お花の萬奮闘記】ご意見・ご声援メールもお待ちしております。(有)花器屋萬右衛門/近藤萬右衛門  
 【萬晩報から】
 どういうわけか吉永小百合の「寒い朝」の歌詞を思い出しました。筆者は最近、男やもめの一人暮らし。庭に咲く茶花を一輪、床の間に挿す風雅を楽しんでいます。花の似合う男だって悪くありません。念のために(伴 武澄)

 【上嶋さんから】
 新規開店の花屋さん、開店おめでとうございます。「職場に花を」のご提案、私も早速実行したいと思っています。実は当方も12月1日新会社を発足させま す。私は社長を命ぜられ、一日中その準備に追われています。新会社は千葉市稲毛にありまして、週日単身赴任になりますが、花があれば和むと思います。職場 と住居に花を飾る習慣をつけましょう。(11/19)

 【牧口さんから】
 花屋台の奮闘記をとても楽しく読ませていただきました。実は、私は昨年よりフラワーアレンジメントの学校に通っています。いつかは友人の結婚式にブケー を作ってあげられたら...と思っています。週に一回花に触れますが、その時だけは日ごろのストレスがうそのように消えてゆき、自然の力が偉大だというこ とをあらためて実感します。たった一輪の小さな花でも、大輪のバラでもその力は同じこと。(個人的には、「職場に犬を」なんていうのもよいと思うのです が...。)毎日の生活の中で花を見つめる心のゆとりを持った人々が増え、花屋台が日本の町角に立ち並ぶ日も近いかもしれませんね。(11/20)


1998年11月17日(火)萬晩報主宰 伴 武澄


 11月16日、20兆円と言われていた第二次景気対策が24兆円に決まった。同じようなことが半年前起きた。1998年03月26日「 昨夜の10兆円が朝方12兆円、夕方に16兆円となった」で書いた。1988年度一般歳出44兆円(一般会計は77兆円)に加えて、2回の景気対策で事業規模40兆円、国費ベースで20兆円をつぎ込むことになった。日本政府はほとんどやぶれかぶれである。

 宮沢喜一蔵相は「常識では考えられないことまでやる必要がある」と述べたことがあるがまさに非常識の大判振る舞いである。さきに60兆円の資金枠を確 保、銀行救済につぎ込むことを決めたばかりである。総計100兆円は日本のGDPの4分の1に当たる。ドルベースで言えば8000億ドル、単純比較はでき ないが、超大国アメリカが最大の赤字に陥った1993年度でさえ赤字は3900億ドルである。繰り返すが日本の場合、追加額である。

1992年8月総合経済対策 10兆7000億円 公共投資8兆6000億円
1993年4月新総合経済対策 13兆2000億円 公共投資10兆6200億円
1993年9月緊急経済対策 6兆2000億円 中小企業対策1兆9100億円、94項目の規制緩和
1994年2月総合経済対策 15兆2500億円 公共投資7兆2000億円、減税5兆8500億円
1995年4月緊急・円高経済対策 7兆0000億円 阪神復興3兆8000億円
1995年9月経済対策 14兆2200億円 公共投資12兆8100億円
  計   66兆5700億円 
1998年4月総合経済対策 16兆6500億円 公共投資07兆7000億円、減税4.6兆円
1998年11月緊急経済対策 23兆9000億円 公共投資08兆1000億円、減税6兆円超
  総計   108兆2200億円 

 これまでの1992年度から8回目の景気対策を列記した。95年までの計66兆円の景気対策が景気浮上になんら効果がなかったことは多くの経済評論家が 語っている通りである。政府は、今回の景気対策について「2.3%のGDP浮上効果がある」と試算しているが、民間では「1%程度しかない」という論評も 出ている。政府としてはなんとかプラス成長に持ち込むために景気対策の事業規模を水増ししたのである。

 ●通念の3倍の公共事業は消化不可能

 そもそも「2.3%の浮上効果」というのもおかしな話である。事業規模24兆円がすべて使われたら、500兆円弱という日本のGDPの規模から見て単純 計算で少なくとも5%程度の押し上げ効果があっておかしくない。しかも4月24日の第一次景気対策発表時には「16兆円で2%のGDP押し上げ効果があ る」と胸を張っていたのだ。相乗効果を加味すれば、2桁台の試算が出てくるのが常識だ。

 萬晩報の見通しではこんな規模の事業を現在の日本で年度内にこなすことなど不可能だ。当初予算の公共事業費は9兆円弱で、一次の追加分が7兆7000億 円、二次分8兆1000億円であるから、年間の公共事業費は通年の3倍となる計算である。いずれ、来年度予算とのからみでどこかに雲散してしまう可能性が あるのだ。

 消化する唯一の方法は、前払いでゼネコンに建設資金をつぎ込んでしまうことである。次に起こるだろうことは競争原理を逸脱した入札がそこかしこで出現するかもしれないという懸念である。消化できない予算を無理に消化しようとすれば、以上の二つの方法しかないからである。

 問題はいくつもある。ゼネコンへ前払いした場合、ただちに土木労働者に賃金が支払われず、当面の資金難に陥っているゼネコンのバランスシート修復の役に 立つだけに終わりはしないかという疑念さえある。そうなったら景気回復どころではなくなる。単なる国によるゼネコン経営救済にしかならない。

 ●ただちに日本国債の格付けを引き下げたムーディーズ

 いずれにせよ、これだけの資金を市場から調達することになれば、債券市場の急上昇は免れない。萬晩報の持論である金利高騰が日本を襲うことになる。11月17日、ムーディーズはさっそく日本の国債の格付けランキングを最上級から引き下げることをことを発表した。

 当たり前の話である。信用力なしに巨額の資金調達をすれば、円安になるか金利高騰を招くのが市場原理というものだ。60兆円が銀行経営救済なら、24兆 円の多くの部分はまさにゼネコン救済対策といえるのかもしれない。そうほうとも企業会計の負の遺産を政府=国民負担に切り替えたに等しい。

 最後に思い出した。萬晩報の読者は、60兆円の銀行救済策で影が薄くなった旧国鉄債務問題では、28兆円の借金が国鉄清算事業団から国へと付け替えられていることもよく覚えておくべきだ。


1998年11月16日(月)萬晩報主宰 伴 武澄


 商品券の配布の代わりに消費税割引券を国民に配ったらどうかというアイデアを公表しているホームページに出会った。非常にすばらしいアイデアではない か。住宅は無理にしても自動車など高額な耐久財にも消費が広がる可能性が高い。最も景気刺激策は終わった後の反動、つまり後遺症が恐い。萬晩報はいまの日 本経済は入院加療が必要な時期で、将来のために絶対安静に入るべきだと考えているのだが、政府がどうしてもしたいというのだったら、おもちゃ業界より基幹 産業への波及効果が大きい施策の方がいいに決まっている。筆者に了解を得て萬晩報に転載する。

 商品券と消費税

 子供と高齢者に商品券を2万円づつ配ることになったそうである。高齢者に2万円配っても孫におもちゃを買い与えるという人が多いとのこと。

 もともと商品券構想は景気刺激策として出てきたはずである。しかし、これによって恩恵を受けるのはおもちゃ業界ぐらいだけではないだろうか。

 それに数千億円もの税金を使う必要があるのだろうか。

 これがあまりにも効果がなさそうなので、消費税をゼロにするという案も出てきている。せっかく消費税が少しづつ根づいてきているというのに今消費税を一 時的にでもゼロにしてしまったらもとの木阿弥である。一時的と言ってもそれで景気が回復しなければ元に戻すのを延期しなければならなくなるだろう。再び消 費税を復活させるのに時間がかかって、その間に財政はますます悪化していく。

 商品券を配ったり消費税をゼロにできるのだったら、この際、消費をしたら消費税分を還元する割引券を配るのはどうだろうか。たとえば、以下のように。

  1. 国民全員に消費税割引券を1人あたり2万円(40万円分の買い物が割り引きになる)を配る。割引き券の最小単位は100円。つまり2000円以上の消費をした時に使うものとする。
  2. 店で買い物をして割引券を提出したら、店はその割引券の額を買い物した人にその場で支払う。
  3. 店が消費税を納める時に割引券を提出すればその分の消費税の納付が免除される。
  4. 割引きの期間は1年間とする。
 2万円の消費税割引券を1億2000万人に配って、これがすべて使われた場合は、48兆円の消費になる。これは個人消費の額としてはかなり大きい。

 たとえば夫婦と子供2人の家族では160万円分の消費に対する割引券が渡ることになる。2000円以下の細かな支出を含まずに160万円の消費をすれば、お金をため込む額も少しは減るのではないだろうか。

 家族が多いところでは割引券を使い切れない家庭も出てくるかも知れない。

 その場合は金券ショップに売ることになるだろう。しかし、金券屋にとっては商品券と比べると魅力がなく、その換金割合はかなり低くなるであろう。そのため、商品券よりも本来の目的で使われる割合は多くなるであろう。

 これは一時的な景気刺激策でり、あまり積極的にやってほしくない政策ではあるが、商品券の配布や消費税をなくす案よりはずっと景気に対する効果は大きい。(雨漏り実験室のチャ)

 筆者のホームページは http://member.nifty.ne.jp/shomenif/index.html

 関連ページは1998年10月11日 やがて金券ショップが格付けする平成商品券の価値


1998年11月15日(日)萬晩報主宰 伴 武澄


 宮沢喜一氏は、平成の高橋是清を標榜して二度目の大蔵大臣に就任した。失礼ながら高橋是清とは格が違う。ともに首相を経験しているが、高橋是清が2・26事件で暗殺されたときは7回目の蔵相だった。一番違う点は宮沢氏の周辺に暗殺されるという危機感がないことである。

 明治36年(1904)12月、日本銀行副総裁だった高橋是清は曾弥荒助蔵相に呼ばれ日露が開戦した場合の戦費の調達方法を相談された。高橋是清はただ ちにロンドンに向かい、翌年2月のロシアへの宣戦布告を控えてイギリスの銀行団に資金調達を持ちかけていた。日本は自前の予算で戦争できるほど国力はな かった。2億円の増税と7億円の国債発行に加えて、イギリスとアメリカ、ドイツから8億円借金をした。

 最初の1000万ポンドの外債発行は1905年5月だった。すでに戦火は開かれていたから泥縄である。不思議な国家といえる。500万ポンドはイギリス の銀行団、残りの500万ポンドはニューヨークに拠点を置く金融業クーン・レープ商会の総支配人ジャコブ・シフが引き受けた。

 銀行団の最初の300万ポンドの発行条件は年利6%、額面100ポンドに対して発行価格は92ポンドで5年返済だった。平均利回り8%程度である。2回目は1200万ポンド。3回目3000万ポンド、4回目3000万ポンド。計8200万ポンドが調達された。

 2回目以降はクーン・レープ商会が引き受けの中心となった。ユダヤ人が日本に協力的だったのは理由がある。ロシア国内のユダヤ人が迫害され、戦争ではい つも戦闘の第一線に立たされ多くの犠牲者を出してきた。ただ同じユダヤ系でもロスチャイルドは別の理由で日本への協力に消極的だった。

 そのときの担保はびっくりすることに、日本の関税収入だった。「専売のたばこ収入を担保に」という話まであった。戦費の半分を戦いながら調達していたと いう日露戦争ときの日本政府の悠長さにはあきれるほどだ。カネもないのに当時の一流国に宣戦布告した悠長な日本の外債が飛ぶように売れたそうだからこれも 不思議な話である。

 1904年5月17日の東京朝日新聞は日本の外債発売のニューヨーク、ロンドンでの人気ぶりについて次のように伝えた。

 「新募日本公債はニューヨークにおいては5000万円の募集に対し、2億5000万円の応募高、即ち需要額の5倍にして、ロンドンにおいては5000万円に対し、15億円、即ち需要額の37倍なる旨昨日入電ありたり」(三好徹著「明治に名参謀ありて」)

 三好徹によると、高橋是清とシフとの出会いは、第一回目の500万ポンド分の外債発行が決まったパーティーの席上だという。銀行団よりも確実な一人のユ ダヤ人金融業として紹介された。高橋是清はシフに目標額が本当は1000万ポンドであったことを打ち明けていた。翌日、シフから500万ポンドの外債発行 引き受け受託の連絡があった。

 二人の間にどんな会話があったか知らない。だが、一夜にして500万ポンドの引き受けを決断できる男と極東の危機を双肩に担った明治人は肝胆相照らした に相違ない。人が国際情勢を動かしていた時代であるが、現代日本人は明治時代における日本とシフというユダヤ人との関係が並大抵でなかったことを記憶に留 めておくべきだ。

 明治時代の国家がより私的だったし、国際関係もまた私的だった。だが21世紀末の世界政治を揺り動かす国際金融資本もまた、本音の部分では依然として私的であるからだ。


1998年11月14日(土)萬晩報主宰 伴 武澄


 ホワイトナイトだった西陣の旦那衆

 「京セラの稲盛さんが言っていたんだが、京都には旦那衆ってのがいて若いころ本当に世話になったそうだ。いわゆる祇園とか先斗町とかのお茶屋遊びを支えていた人たちだ」
 「大蔵省の中島義雄のように飲ませてもらったという話じゃないんだ。困ったときに投資してくれたらしい」
 「多くが西陣の経営者でいまで言うとホワイトナイト。ベンチャーキャピタルだ。京セラの場合は事業が軌道に乗って、当時の投資が何百倍にもなって恩返しになったんだ」

 そんな先輩記者からの話を聞いて、1994年に台湾でハイテクランドである新竹科学工業区を取材した時の話を思い出した。半導体設計会社、Weltrendの会長である蔡焜燦氏が語った創業のきっかけである。

 「台湾には小金持ちが多いんですよ。アメリカ大手企業で半導体設計をしていた親戚を呼び戻して企業をつくろうということになって仲間10人が出資したん です。当初の資金を少し多めに出したため、私が会長を務めることになりました。ウナギの稚魚を日本に輸出する仕事にかかわっていたので、会長と言っても本 当は半導体のことなど分からないのです」。

 Weltrendの配当率は当時としても30%と高率だったが、昨年、蔡さんが来日して語ったところによるといまでは60%に達しているらしい。なるほ ど台湾ではホワイトナイトがそこかしこにいて、新しい投資話に華を咲かせてきた。多くは在郷の地主層だ。台湾経済がアジアの通貨危機以降も成長路線を崩し ていない理由もここにある。(蔡さんの話は1998年02月26日「 「老台北」台湾に生き続ける50年前の日本人のDNA 」)

 シリコンバレーの八木博さんから聞いた話でも同じだった。シリコンバレーにはベンチャー企業とベンチャーキャピタルをつなぐ専門家集団がいくつもあっ て、技術と資本と経営がうまくかみあっているという。とうも昨今の日本ではカネやアイデアがあっても起業につながらない。化学反応で言えば「触媒」、生体 でいえば「酵素」が欠如しているようだ。

 京都府福知山で"植物インスリン"を売りだそうと日夜奮闘しているユーステクノの松山太さんが語ったことがある。

 「最近の貸し渋りでどこの金融機関も金を貸してくれない。だが銀行がカネを貸さないのはまだいい。でもベンチャーキャピタルってのはもっとひどい。投資 を申し込むと審査がすごいんだ。バランスシートとか担保だとかばっかり話題にして、こちらのアイデアの部分には一向に耳を貸してくれないんだ。いかに僕の ところに投資すれば失敗するか、あらばっかり捜しているのがよく分かるんです。バランスシートがよければ銀行がカネを貸してくれますよ」。

 1990年代の日本はどこもかしこもそんな状態だと思う。

 投資から投機に変質した1970年代

 なぜそんな日本になったのか考えた。いまのところ仮説でしかないが、全国各地にいたはずの旦那衆がホワイトナイトを辞めてしまった理由が証券市場の改革にあったのだと思っている。

 日本の証券市場で時価発行が登場したのは1970年代である。それまでは額面主義だった。多くの企業はいまでも額面は50円だが、時価発行が認められる までは株価が80円になっていようと100円でも増資の時は、割り当て増資といって既存の株主に対して優先的に50円で新株を購入する権利があった。

 配当が1割あり、新株が"原価"で買えるのだから誰もが割当増資に応じた。額面主義は日本特有だったが、それなりに個人株主を育む意味合いがあった。配当の1割は上場基準のひとつだったから、1割=5円配当は上場企業にとって守るべき最低のルールだった。

 ところが、時価発行制度を導入した際、配当基準だけは額面時代の「1割配当」が残った。新株発行が企業にとって圧倒的に有利となり、投資家には不利なこ ととなった。2000円で新株を発行しても配当は5円しかなかったら投資家は市場から逃げ出すに決まっている。日本の証券市場での個人投資家の比率が減少 し始めるのはこの1970年代である。時価発行が始まってからの証券市場はますます企業だけものものになった。

 投資家が着目したのは土地である。故田中角栄首相の登場でときあたかも土地投機時代を迎えていた。企業への投資より有利な"商品"が出現したのである。 土地への投資でもうけたのを全面否定するわけではない。しかし、土地投機では開発に群がるブローカーがあちこちに出現した。

 一方で日本の証券市場を支えてきた旦那衆たちは日本経済の東京一極集中で自営業が傾き、投資の余裕をなくしていた。だから、土地投機には政治家もやくざ も入り乱れた。特に時価発行増資により潤沢でしかも配当負担の軽い資金を手にした企業もまたこの新規市場に参入した。つまり戦後日本経済を支えてきた出演 キャストの入れ替えが順次起きたのではないかと考えた。

 開発予定地への土地投資はトリプルA

 企業への投資は株である。失敗も成功もあったが、土地の場合、値上がりは全国的に波及した。一カ所だけが上がることはなかった。銘柄は開発予定地であ る。だから右肩上がりであるかぎり投資対象として株式より"安全"だった。開発計画を事前に知りうる立場にある政治家が絡めばなおさらだった。格付け機関 にたとえれば開発予定地への土地投資はトリプルAだった。

 1970年代が多くの意味で戦後日本の転換点だったことはこれまでも指摘してきた。キャストの入れ替え説を唱えるのは初めてだ。メザシと緊縮財政で有名 になった故土光経団連会長が酒席でよく話していたのは「経済人も官僚も政治家はいまもむかしも料亭に入り浸りだが、少なくとも昭和40年代までは天下国家 が話題となっていた」ということだ。どうも高度成長の次の世代を支えるステーツマンが日本では育っていなかったらしい。

 話が回り道にそれた。企業への投資の妙味を忘れた1970年代以降の日本に戻す。時価発行制度を導入したときの上場基準である。1984年ころ京セラの 年間配当は50円と日本企業としては群を抜いていた。ある決算発表の席上、経理担当役員が「うちは100%配当をしています」というようなことを言ったの に対して、「100%といっても株価が8000円では1%の配当率にもならないではないですか」と反論したことを思えている。

 店頭登録した化粧品のノエビアの友人が「株式公開前から社員株主制度があって、毎月1万円で200株もらえた。配当が1株5円だから、1000円の配当 金になった。でも公開後は同じ1万円で5株しかもらえなくなり、配当はたった25円にしかならなくなった」としみじみ話した。

 町の旦那衆だって、社員だって、国際的投資家だったみんな同じだ。株式投資はハイリスクハイリターンが原則だ。リスクだけ負わせてリターンがなければだ れも投資しない。それよりゲーム感覚で起業家層を育んできた町の旦那衆を疲弊させた日本経済こそが問題なのかもしれない。


1998年11月09日(月)萬晩報通信員 市川 徹郎


 Jリーグの横浜フリューゲルスが横浜マリノスとの合併で消えようとしている。そもそもの原因はスポンサーの一つである佐藤工業が撤退する事にある様だ。 同社は富山に本社のある建設業の会社であり、バブル崩壊の影響で業績は低迷している。この不況下にスポンサー名も出ないJリーグにいつまでも出資していら れないというのは、企業論理としては良く解るし、個人的には仕方無いかなと思う。今回の騒動で佐藤工業の知名度が一気に高まってしまったのは皮肉と言えば 皮肉だ。

 しかしフリューゲルスの熱狂的なサポーターにとってはそうでは無かった。先日もサポーター側とクラブ側が徹夜で話し合ったがお互いの主張は平行線を辿っ たままだ。企業側からすれば不採算部門を切り捨てようとしているだけであり、そこに幾ら感情論で存続を訴えても通る筈がない。企業と交渉する時には企業論 理をもってするのが最も効率的であろう。

 そこまで考えて思い付いた事がある。

 結論から言おう。フリューゲルスのサポーターが共同出資して佐藤工業の株を取得するのである。熱狂的なサポーターのうち、ある程度の出資が出来る人がど の位いるのかは解らないが、横浜という都市の規模からして数千人は下らないだろう。仮に4000人として、一人あたり10万円ずつ出資すれば4億円であ る。前述した様に佐藤工業の業績は低迷しているので株価も安くなっている。

 最盛期には800円を越えていたのに今では二桁である。100円で買ったとしても400万株、もし80円で買えれば500万株である。五500万株は佐 藤工業の全株式の約2%に当たり、株主としても五番目の大株主という事になる。会社である以上、これだけの大株主の意向をおろそかにはできまい。

 ひとり10万円は高いと思われるかもしれないが、これは寄付ではなく投資である。スポンサーがコケたらサポーターだって困るだろう。順調に業績を伸ばし てもっとJリーグの発展に貢献して欲しい、その為に会社を応援するというのも立派な投資の理由ではないだろうか。フリューゲルスのサポーターが安定株主に なってくれれば会社も助かるだろう。そうして業績が好転してくれば元を取るどころか、何倍にもなって返ってくる可能性だってあるのだ。もちろん逆の場合も 有り得るのだが。

 要するに、サポーター側からすれば、フリューゲルス存続の可能性はぐんと高まるし、うまくいけば出したお金も何倍にも増やせるという夢の様な話である。 佐藤工業側にしても、安定株主が増え、話題性から宣伝効果も上がり、更に今回の騒動によるマイナスイメージを払拭する事もできるだろう。

 もちろん良い面ばかりではない。もし佐藤工業の業績が極端に悪化すれば、今度こそフリューゲルスの存続は絶望的、出したお金も返ってこないという最悪の 事態も有り得る。危険な賭けといえなくもない。しかし、徹夜で交渉するエネルギーがあるのだから、多少のリスクを負う事も可能なのではないだろうか。

 サポーターの方々、如何だろう。私自身はフリューゲルスのサポーターではない。今回はあくまでも提案をしただけで、実際にやる、やらないはサポーターの 皆さん一人ひとりが自分自身の判断で決めて頂きたいという事を念の為申し添えておく。(Tetsuro ICHIKAWA・長野市民病院臨床病理科)


 【萬晩報から】筆者も思いつかなかった非常に面白い問題提起だと思う。しかし、2%の株式取得では経営を動かす力にはなれないし、実は年収億単位のJ リーグ選手がいるなかで、4億円ではクラブの1年間の経費も賄えないという切実な問題がある。万単位のサポーターが10万円を出資しようということになれ ば、事情は変わってくる。佐藤工業の経営が立ち直るまでのつなぎとしてサポーターが資金面で支えるという発想は生きてくると思う。(伴 武澄)

e-mail address: ichikawa@hospital.nagano.nagano.jp
another: hanumahn@po.cnet.or.jp


1998年11月07日(土)  萬晩報主宰 伴 武澄 


あなたは目の読者です。
 
 ●4分の3に落ち込んだ日本人のGDP 
 アジアの国々の一人当たりのGDPを下の表に示した。下段は世界銀行による統計で、購買力平価ベースで積算されている。購買力平価とは各国の物 価を基準に富の大きさを計算したもの。為替ベースの統計が名目の豊かさとすれば、購買力平価ベースは、実質的豊かさとみることができる。 
 

  中  国   韓  国   台  湾   香  港 シンガポール インドネシア   タ  イ マレーシア   日  本
1995 584 10,037 12,214 22,618 28,570 1,039  2,830 4,221 41,075 
1996 670 10,548 12,683 24,429 30,942 1,140 3,018 4,690 36,521
1997  733 9,511 13.070 26,355 31,036 1,055 2,535 4,545 33,248
                             
1997 2,500 13,000  13,510 27,500 22,900 3,500 6,900 9,800 21,300
  上3段は為替レートによるGDP(経済企画庁)。下は購買力平価によるGDP(世界銀行)。 
 
 為替ベースでみた日本の豊かさは1995年の41,075ドルから2年間で33,248ドルにまで落ち込んでいる。われわれの名目的豊かさはい つの間にか、4分の3に落ち込んでいることが分かる。そして、順調に成長を続けてきたシンガポールや香港はいつのまにか日本の水準に近づいているのだ。
 

 次に、日本とシンガポール、香港を購買力平価ベースで比べてみると、いつの間にか日本が抜かれていることになっている。日本の国民一人当たりの実 質的富がアジアでもはや第3位でしかない現実を直視すべきだろう。もちろんシンガポールや香港は都市国家だから、1億2000万人の平均値と比べるわけに はいかないかもしれない。

 マレーシアがほぼ1万ドルという数字にどう答えていいのか分からない。クアラルンプール在住の知人によると「衣食住のコストは日本とは比べものにならない。 いま不況の最中だが自家用車が必需品であることに変わりはない。首都圏に住むふつうの人々が自家用車を乗り回している社会になっている」。もはや貧しいとは言えない。

 日本では、1ドル=80円台の超円高だったときも、円安だといわれる今日も購買力平価ベースの為替は1ドル=180円程度で計算されてい る。土地が異常に高いという特殊要因もあるが、基本的に通貨高による輸入物価の低下がいまだ十分に消費者に還元されていないことを示している。 

 輸入物価がどこの国でもただちに消費者物価に反映するとは限らないが、ふつうの国の経済だったら、だんだんと購買力平価に反映されていく はずのものである。通貨高が国民に富をもたらす経済の常識がこの国では一切、機能してこなかったのは、素材から最終製品まで輸入品を排除してきた企業論理 と消費者意識が災いしているのだと思う。 
 

  ●円は高すぎ、逆に安すぎるアジア通貨
 1997年の為替レートベースの各国のGDPと、購買力平価ベースのそれとを比較すると、香港や台湾は金額がほとんど変わらないのに対して、日本は3分の1、中国は3.5倍、マレーシアも2倍と逆の傾向を示していることが分かる。 

 日本の1997年時点での為替レートが国内の物価からみてと高すぎ、逆に中国やマレーシアは安すぎるということになる。昨年来、アジアの 通貨はさらに下落しているから、中国やマレーシアの為替レートは国内物価水準からみてますます安い水準に落ち込んでいることは明白である。 

 にもかかわらず、中国元の切り下げが取りざたされるのはどうしてなのだろうか。普通、通貨が暴落すると、国内物価は急騰する。インドネシ アや今年の夏のロシアのようにハイパーインフレに見舞われるのがふつうだ。だが、マレーシアやフィリピンで狂乱物価が消費者の生活を襲ったという報道はな い。
 
 多額の不良債権の問題はあるものの、アジアの国々が日本のような巨額の財政赤字を抱えているわけでもない。通貨下落までのアジア各国の財政はむ しろ黒字の国の方が多かった。ここへ来て財政的に困窮しているのは、通貨下落による国内経済破たんで税収が大幅に減少しているからだ。

 昨年の夏以降、アジアの国々の経済破たんが通貨売りを誘引したような報道が相次いだが、実態は逆で通貨下落がアジアの経済的困難を加速させたといってようだ。

 ●ヘッジファンドが思うがままにした為替市場
 為替レートを決定付ける要素は多くある。1980年代前半は貿易収支が用いられた。80年代後半以降は金融取引が急増したため国際収支にとって代わられ たが、いまではトレーダーたちの関心事ではない。アメリカの貿易収支が急速に悪化し、逆に日本の黒字が急増しているのに円安が進展したのがその証拠だ。

 金利動向が語られた時もあった。金利が高い国に世界のお金が集まるのは自然の理といえよう。金利動向はいまだに為替市場で重要な要素だ。金利はまさに市場原理が働く部分だが、すべてが市場で決まるわけではない。中央銀行の姿勢が大きく左右する。

 だが、筆者が、かねてより注目しているのが購買力平価だ。その国で売買している商品価格、つまり消費者物価こそが、通貨の価値につながるからだ。長期的に為替は購買力平価に近づくと思っていたし、いまでもそう思っている。

 1990年代に入ってからヘッジファンドが巨額の資金を動かすようになると、もはや為替市場も金利すらも彼らの思うがままとなった。ヘッジファンドの狙 い目は市場原理が働きにくい国家だ。90年代前半に日本の円を買い上げ、95年からは売りに転じた。この間、日本経済は不況色を深めるばかりで景気の明確 な転換点があったわけではない。

 まさに日本のような国こそが彼らの能力が十二分に発揮できる市場だった。売りには買いを、買いには売りで真正直に対抗しようとするからだ。ただ、ことし の8月までは日本の円は円安基調をたどり、物価ベースでようやく"並みの国"に近づきそうだと思っていたら、思わぬ伏兵が待ちかまえていた。

 ロシア経済の崩壊でヘッジファンドが巨額の損失を被り、ドル売り円買いに転じた。またもや日本は一人当たりGDPの水準を実力以上にかさ上げすることになった。


1998年11月03日(火)萬晩報主宰 伴 武澄


 萬晩報はたまには芸術を語りたい。今日は奈良に出かけ、東大寺の二月堂から荘厳な夕日をみてきた。

 二月堂は以前から奈良で一番好きな場所である。特に生駒山系に沈む夕日がいい。東大寺の森に霞がたなびき、その向こうに陽が沈む様はなんともいえない。

 欄干に寄り添って隣りで同じく夕日を見つめていたご婦人が「見ていてごらんなさい。陽が沈むとカラスが巣に帰り始めるんですよ」とつぶやいた。本当にそ うなった。どこにいたのだろうか、たくさんのカラスが空に舞い上がり、群をつくって次々と若草山の方に向かい始めた。しばらくして西の空から満月が昇り、 東大寺境内は静寂の世界に戻った。

 ●桐生の名を世界に広めた新井淳一氏
 奈良を久しぶりに訪れたのは、世界的な布のデザイナーである新井淳一氏を訪ねるのが目的だった。奈良市の元興寺極楽坊で「想像の布」という布の展覧会 (10月27日-11月8日)が開催中だ。新井淳一は自らをテキスタイルプランナーと称し、そして仲間たちは「産業主義を超えた職人」または「日本織物界 の奇才」と呼ぶ。

 といっても新井氏の生み出す布を見ない限り、その感覚は分からない。筆者が新井氏の工房を桐生市に訪れたのは12年前。パリコレクションのデザイナーたちが桐生詣でをしているという情報を耳にして新井淳一の名前を知った。

 当時、新井氏は「布は切って縫うものではない。まとうものです。布そのものに価値があるのです」と語っていた。世界中を歩き回り、多くの民族がつくり出 す布の発掘に精を出していた。三宅一生もまた「まとう」ということを言い出していた。きっと新井氏に影響を受けたのだと思った。

 いまではコンピューターで織物をつくり出す作業は当たり前だが、1986年当時、コンピューターで生地の図柄を設計するなどということは日本広しといえ ども桐生だけだった。織物の世界にコンピューターを導入したのも新井氏が先駆だった。彼の誇りは桐生から世界に発信するということだった。桐生がすごいの ではなく、新井淳一氏が桐生を世界に広めたのだからすごい。取材していて、悲しかったのは地元の人たちが新井淳一の世界的価値を十分に理解していなかった ことだった。

 ●布の市から想像の布へ
 新井氏は、12年前から「布の市」と称して地方都市で布の展覧会を開いていた。「ファッションは素材にある」ことを訴えるために、あえて旅芸人よろしく 地方巡業を重ねた。東京ではなく、中小の地方都市こそが情報伝達のジャストサイズだったのだ。その姿勢はいまも変わっていない。新しい「想像の布」展を奈 良からスタートさせた発想もそこにある。

 今日、新井氏から2時間ほど、最近の活動を聞いた。その最中に、富山県からきていた和紙の博物館の館長がやってきて、ドイツからも客人が訪れた。「想像の布」展の目玉はいくつもある。新井淳一のコンピューターによる織物はより進化していた。

 「インターネットではないが、これからの織物はいくつもの流通を経て消費者の手に渡る時代ではない。消費者がテキスタイルデザイナーになれる時代たやってきた」
 「いまわれわれが桐生で始めたことは、布のデザインを織物屋に持ち込めば24時間でどんなものでも織り上げるという手法です。質のいい素材で自分だけのデザインの生地をより安くで供給する。そんなことをやってみたいのです」

 筆者が、インターネットの登場で感じてきた同じ発想を桐生の世界的布デザイナーも感じていたことに正直驚いた。インターネットの登場でいま、いろいろな 業界で新しい模索が始まっている。ただ、新井氏にとって、コンピューターもインターネットも創作のツールでしかない点にも注目しておく必要がある。「手わ ざの魂を知らずして、なんのハイテクノロジーか」というのが持論である。

 新井氏の最近の作風の特徴は、世界各地から集めた民族衣装のデザインを基にした素材だ。オーストラリアの先住民族アボリジーニやアフリカのピグミーの衣 装のデザインをスキャナーで読みとり、コンピューター加工してデザイン化した作品がいくつか展示されていた。その哲学は「自然と人工が共存している。言い 換えれば手仕事とハイテクノロジーの共存。さらに言い換えれば古いものと新しいものの融合である」。

 もう一つの目玉は、新素材だ。新井氏は3年前から、金属繊維を考案。ブリヂストン・メタルファが、ステンレス繊維を現実のものにした。1-2ミリほどの ステンレス繊維は3400本もの極細のステンレス繊維を撚ったものだが、風合いはとても金属とはいえない。ステンレス繊維で織った衣装はこの夏、イギリス でシェークスピアの戯曲「マクベス」ですでに使われた。

 新井氏いわく「黒人に肌に実によく映えるんです」

 このステンレス繊維はしなやかさと不燃性が特徴だが、用途はまだ開発途上だ。しかし欧米ではすでに認知されているらしく、10日からニューヨークでティファニーとの商談があるそうだ。

 織物を芸術に昇華させ、こんどはその芸術をふつうの消費者にまとわせようというのが、最近の新井氏の魂胆なのだ。今週、奈良を訪れる予定の読者はぜひ元興寺と近くの奈良町物語館を訪ねて欲しい。寺院と布がマッチしている姿を目にできると思う。

 新井さんのホームページは http://www.kiryu.co.jp/arai/


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