1998年10月アーカイブ

1998年10月29日(木)萬晩報事務局長 岩間孝夫


 前身の太洋ホエールズ以来38年振りにリーグ優勝を果たした横浜ベイスターズが、その勢いを駆って日本シリーズも制し、今年のプロ野球は幕を閉じた。

 野球の盛んなアメリカと日本で、同時に今年ほど話題が盛り上がった年も少ないだろう。アメリカではマグワイアとソーサの両選手が、37年振りにロ ジャー・マリスの持つ61本のホームラン記録を塗り替えた。世界が注目する中で、ソーサは66本、マグワイアは70本という夢のような新記録を打ち立て、 アメリカンニューヒーローとなった。日本では横浜ベイスターズが、前回の優勝からプロ野球史上最長記録となる38年振りの優勝を勝ち取り、長年優勝を待ち わびたファンの人々を喜ばせた。

 ●シーズン最終日に見せつけられた見たくないシーン
 そのプロ野球レギュラーシーズンが終了する最後の日に、日本の野球ファンはまたまた見たくもないシーンを見せつけられてしまった。

 今シーズン、パリーグでは西武の優勝が決まった後もロッテの小坂選手と西武の松井選手が最後までし烈な盗塁王争いを続けていた。10月12日のシーズン最終日を迎え、小坂選手の盗塁数は43、松井選手は42。そして両チームは最終戦で対戦した。

 小坂が盗塁数で1個リードのまま迎えた7回表、小坂は左前安打で出塁した。盗塁のチャンスをうかがう小坂に対し西武の投手芝崎は牽制球を投げたが、一塁 手が取れぬほど大きくそれた。しかし小坂は悠々と二塁に進めるにもかかわらず、コーチの指示に従い一塁にとどまった。このケースでは二塁に行っても盗塁に ならないからだ。ところが驚いたことに芝崎は、今度は故意にボークをし、盗塁のしにくい二塁に小坂を無理やり進塁させてしまった。一塁から二塁の盗塁より も二塁から三塁の盗塁がはるかに難しいためだ。

 更に、二塁に進塁した小坂に対し、西武の遊撃手松井は二塁ベース上に仁王立ちして小坂をマーク。それでも三塁に走った小坂であったが、やはりその三盗は 失敗に終わった。そして松井はその7回裏に盗塁を決め、98年度パリーグ盗塁王のタイトルは43個でこの2人が分け合った。

 ●ボールを投げてもブーイングが起きた大リーグ
 一方海の向こうのアメリカでは、シーズン終盤にマグワイアとソーサが62号の大リーグホームラン新記録への先陣争いをしている時、マグワイアの所属するカージナルスとソーサの所属するカプスがカージナルスの本拠地セントルイス・ブッシュスタジアムで対戦した。

 両選手がバッターボックスに立った時、敵味方にかかわらず、ピッチャーが(ストライクではない)ボールを投げただけで観客のブーイングが起こったのには 驚いた。もともとピッチャーに逃げる気配はなかったが、これでは更に真っ向から力一杯勝負をせざる得ない。その熱気のなかマグワイアは新記録となる62号 のホームランを打ち、球場を埋め尽くした5万人の大観衆と両チームの選手達は心から同選手を祝福した。

 この試合で両選手に対しフォアボールはなかったが、同じようなケースなら自チームの選手の為ライバル選手に対し全て敬遠もしくは敬遠気味のフォアボール を与える日本のプロ野球を今まで何度も目の当たりにしていた私には、衛星放送を通じて接する大リーグのファイティングスピリットは大変新鮮かつ刺激的更に は感動的でさえあった。

 スポーツ大会での開会式の選手宣誓で、最もよく使われる言葉は「スポーツマン精神に則り、正々堂々と戦うことを誓います」だろう。日本のプロ野球選手や監督、コーチも、子供の頃から耳にタコが出来るぐらいこの言葉を聞いているに違いない。

 松井が今回のようなやり方で得たタイトルは、テストでカンニングをして取った百点と同じようなもので、西武はあまりにも目先の成績にこだわり取るべき手 段を誤った。最高のパワーと技量に溢れアマチュアには出来ないハイレベルなプレーを観客に見せることこそがプロスポーツ選手の職分であり、それであるが故 にマグワイヤ、ソーサやマイケル・ジョーダンらのように人々に夢と感動を与えることが出来るのだ。タイトルは逃したが今シーズンのソーサの活躍を人々はい つまでも忘れないだろう。

 今やインターネットや衛星放送で世界の出来事が即時に世界中に伝わる時代だ。こんなせこいやり方はもういいかげんにして欲しいと思う。スポーツマンらしく、いさぎよく爽やかに正々堂々とやろうじゃないか。たかがスポーツ、されどスポーツ。

 そして10月28日、その西武・松井がパリーグの最優秀選手に決まった。(Takao Iwama)


1998年10月25日(日)萬晩報主宰 伴 武澄


 1月24日、25日と「西太平洋で国際語になりかけた日本語」を書いた。戦前のかなり長い間、日本語が太平洋の島々で「国語」として使われていた「驚き」の歴史を振り返った。興味のある方は以下のホームページで読んでほしい。

 http://www.yorozubp.com/9801/980124.htm
 http://www.yorozubp.com/9801/980125.htm

 国境というものが今日ほど明確でなく、アジア・太平洋の多くの地域では国という概念すら希薄だった時代があり、そこに西欧列強が陣取り合戦を始め、やが て日本も陣地取りの仲間入りをするようになっていた。特に南洋群島は第一次大戦に日本が参戦した結果、国際連盟の委任統治領として苦もなく日本に転がり込 んだ。

 ところが戦後の日本史は、そうした陣取り合戦の後の支配のあり方を植民地支配の一言で忘却のかなたにしまい込み、北海道、本州、四国、九州、沖縄に閉じこもった。言い悪いではなく、閉じこもった結果、戦後の日本人は世界が見えなくなった。

 ●歴史は「植民地支配」の一言で一方的に消し去れない
 日本人の行動範囲はそんなに狭かったわけではなく、植民地支配のずっと以前から民間レベルの接点があった。今のように企業戦士として海外勤務したのでは なく、それこそ新天地を求めて雄飛したのだった。もちろん植民地として日本が支配した地域で悲惨な出来事も多かったが、日本人が残した足跡は、支配された 側にとってはもちろん日本人側にとっても「植民地支配」の一言で一方的にすべてを消し去れる性格のものではない。

 そうしたなかに支配地域での日本語普及があった。学校では「国語」として教えられた。もちろん日本のためであった。日本語教育が、植民地支配のツール だったことは否定できないが、東南アジアで英語が普及しているのはイギリスによる植民地支配が長く続き、戦後は実質的にアメリカがその地位に取って代わっ た結果であるのと変わりはない。

 1月のコラムでは、25年にわたる日本語教育が西太平洋の島々で行われていた「驚き」を書いたが、最近、法政大学教授の川村湊氏による「海をわたった日 本語」(青土社)という本を見つけた。表紙の写真がなんとも面白い。ハワイアンダンスで馴染みの葦の腰巻きを巻いた上半身はだかの子供たち10人とTシャ ツ姿の日本人の先生らしき男性が写っている。

 副題は「植民地の国語の時間」「幻の日本語共栄圏」とあるが、実はタイトルも副題も内容と大分ずれがある。南洋群島、台湾、シンガポール、フィリピン、 ビルマ、朝鮮、満州、北海道・樺太で行われた日本語教育の実態を、当時、植民地で日本語教育にたずさわった作家らの言動と過去の資料をもとに日本語教育の 流れを追った評論である。

 川村氏の視点は二つある。一つは日本語が国語として植民地に強要されたという視点。もうひとつは戦後活躍した著名な作家の多くが植民地で「日本語=国 語=日本の精神」といった皇国史観のお先棒を担いでいたという見方である。後者については、まったく同感である。著名な作家たちだけでなく、多くの学者、 評論家、マスコミが敗戦を期して即席「民主主義者」に変貌したことは歴史的事実である。

 ●ヤップからオロチョンまで日本語を教育した国家
 だが、たとえ日本語教育がたとえ植民地化の手段だったとしても、こんな広範囲地域で日本語が教えられていた事実は驚きだった。北の樺太ではアイヌだけで なく「ギリヤーク」や「オロチョン」といった少数民族がいて彼らにも日本語教育がなされていた。南洋群島での日本語教育の事実は知っていたものの、ほとん どはだか同然のこどもたちの授業風景写真を突きつけられると新たな驚きとならざるをえない。

 アイヌは「土人」と表記され、南洋群島の住民もまた「土人」と呼ばれた。一方で「日本人」と教え込まれ疑わなかった「朝鮮人」や「台湾人」も少なからずいた。川村教授はそうした事態を次のように結論付けている。

 大東亜共栄圏の共通語として日本語を海外に進出させようとする日本語官僚たちは、軍事力を背景に植民地台湾、朝鮮、南洋群島はもとより、満州国、蒙疆地 域、中国占領地、そして東南アジアと太平洋の諸島へと日本語を進出させようとした。しかし、海を渡っていった「日本語」が軍事力という現実の背景がなくな ると、瞬く間に消え失せてしまったことを、私たちは戦前から戦後への変動の過程で見てきたのである(もちろん、植民地として50年あるいは35年のキャリ アを数える台湾、朝鮮、南洋群島などでは「日本語」は、特殊な世代的な文化として生き残っている面もある。だが、それは陸封魚のようなものであって、新た な進化や進展の期待できないものであり、それは本質的に言語としての生命力を失っている)。
 だが、日本人が残してきたものもある。柳田国男の弟で海軍軍人だった松岡静雄氏は、1914年10月7日、ドイツ領のミクロネシアのボナペ島に上陸し、初代のバナペ守備隊長となったが、海軍大佐で軍人を辞め、学者として10冊におよぶ南洋群島関係の著作を残した。

 「太平洋民族誌」「ミクロネシア民族誌」「チャモロ語の研究」「中央カロリン語の研究」「マーシャル語の研究」「パラオ語の研究「ボナペ語の研究」 「ヤップ語の研究」などミクロネシアの言語研究書を相次いで刊行、南洋研究のパイオニアとなった。以後、太平洋諸島を本格的に研究した戦後の学者は聞いた ことがない。


1998年10月23日(金)萬晩報主宰 伴 武澄


 東京や大阪などの石油業者が輸入粗油(そゆ)を重油と偽って軽油取引税を脱税した事件が今週、日本列島をを駆けめぐった。すぐに親しい石油会社の友人に電話して「輸入された粗油は日本の油種でいうA重油に近いはず」と聞いてはピンと来るものがあった。

 この事件の分かりにくさは、ディーゼルエンジン用燃料に「軽油」と「A重油」の二通りあり、前者が課税され、後者が非課税となっている点に凝縮される。 そして「A重油」が基本的に農漁業用であることがさらに問題をややこしくしている。いずれにせよ、どちらでもディーゼルエンジンが回るから、トラック業者が非課税燃料を欲しがるのは当然だ。

 萬晩報は石油会社の代弁者ではないが、燃料に異常に高い税率を賦課してきた日本の税制が変わり、さらに課税燃料が公道を走るトラック向けで、非課税燃料 が農漁業向けという差別も解消しない限り、脱税事件はいつでも起きる。分かりやすくするため、萬晩報は「A重油」を「非課税軽油」と呼びたい。

 ●産業優遇が複雑怪奇にした石油税制
 原油を精製すると精製温度の違いからまず、「ナフサ」と「ガソリン」が出てくる、つぎは「灯油」と「ジェット燃料」、その次が「軽油」と「A重油(非課 税軽油)」。最後に「B、C重油」が出て「アスファルト」が残る。すべて燃料や工業原料に使用される。英語で重油は Fuel Oil といい、日本以外の国でA重油やB重油という区別はない。日本でA重油と呼んでいる燃料は外国では存在しない。日本の油種分類は複雑怪奇なのだ。

 第一分類の、ナフサ(Naphtha)は専門用語で「軽質ガソリン」という。化学工業の原料である。多くのプラスチックはナフサを分解したエチレンから 生まれる。ナフサが無税であるのに対して「重質ガソリン」であるガソリンは1リットル=53.8円のガソリン税が取られている。ちなみにガソリンが実質的 に輸入禁止されてきた1995年までもナフサの輸入は自由自在だった。かつて通産省に反旗を翻したスタンド業者が1986年に輸入したガソリンが輸入統計 で「ナフサ」に化けた経緯もある。ここらの事情は02月25日「 ガソリンの価格破壊を10年遅らせた通産省の策謀」で書いた。

 第二分類の灯油とジェット燃料と灯油(Kerosine、Heating Oil)は基本成分はまったく同じである。"贅沢"とされた航空産業には1リットル=26円課税され、個人の暖房需要とされた灯油は非課税である。

 ●農耕用に使えば還付される軽油取引税
 第三分類である。軽油(Gas Oil)の需要はだれでも知っている。ディーゼル車の燃料だ。一方、A重油というと真っ黒い油を想像しがちだが、そうではない。萬晩報が非課税軽油と呼ぶ だけあり、成分は軽油に極めて近く、赤みがかった透明な油である。漁船のディーゼルエンジンや大型トラクターなど農漁業向けだ。軽油に1リット ル=32.1円課税、A重油は非課税だから、漁師と農家が最大の受益者である。

 業界の人には「トラック用ディーゼルはA重油で回る」という事実は常識の部類だ。ただ、質問すれば誰もが「長く使うとエンジンを駄目にする」とその事実 をオブラートに包むことを忘れない。ヤンマーディーゼルにA重油の話を聞いたことがある。彼らは「ヤンマー重油」を売っている。

 「A重油の用途はなんですか」
 「船載用と大型農機です。いまの3馬力、4馬力の小型の農機は軽油使用を前提にエンジン設計されています」
 「それにA重油を入れるとどうなるのですか」  「A重油は軽油より炭素分が多いですから、炭素がエンジン内たまったり、排気ガスに炭素がより多く出ます」
 「それくらいなら、課税される軽油を使わないでA重油を使うケースが多いのでは」
 「だからわれわれはヤンマー重油を売っている。クボタさんもやっています。軽油とA重油の中間成分で、これは農業用ですから非課税です」
 「ちょっと、待って下さい。それって脱税にならないんですか。大丈夫です、そもそも軽油を農耕用に使用した場合、領収書を都道府県の税務事務所に持っていけば、軽油取引税を還付してくれます。農耕用は軽油でも非課税になるのです」

 真相はこの会話に近い。萬晩報は、軽油とほとんど同じの油種を非課税にするために通産省があえて「重油」という名称をかぶせたのだと疑っている。

 ここでトラック業界だって産業だ、同じ産業向けなのに軽油だけ課税されるのはどうしてかという疑問が当然湧いてくるはすだ。役所その理由を聞けば「軽油 取引税は地方の道路建設のための財源となっているから」という説明を受けるだろう。だが、道路財源になったのは故田中角栄の時代で、軽油取引税が創設され た1956年当時、政府にとってトラック業界などはただの"雲助集団"に過ぎなかった。トラック輸送が増え始め、取りやすいところに課税しただけである。

 問題の粗油だが、通産省の油種分類に粗油などは存在しない。大蔵省の通関分類にあるのみである。「その他油種」とする方が分かりやすい。輸入業者は ディーゼル用燃料つまり Gas Oilを輸入したはずである。日本語で軽油である。軽油を粗油と認めたところに大蔵省の怠慢がある。

 ●日本にしかない脱税阻止のため添加物クマリン
 軽油取引税の脱税事件は、これまで主に国内的事情で起きていた。トラック業者が非課税のA重油を購入、これまた非課税の灯油を混ぜて使用する事犯が絶え なかった。A重油の成分が軽油とほとんど変わらないところに「脱税の温床」があったため、通産省は、ごく少量の「試薬」を入れると混合油が「着色」する識 別剤の添加を義務付けてきた。現在使用されている識別剤は、化学物質のひとつで「クマリン」と呼ばれる。

 笑ってはいけない。業者側もこの「識別剤」の効果をうち消すような添加物を次々と「開発」してきたため、「開発」と「摘発」はいたちごっごとなってい る。精製した油種はどれも1リットル=20-30円程度のコストである。一方、税金は30-50円と商品価格を上回る。業者にとって脱税のメリットは小さ くない。脱税のための新物質開発が止まらないのも当然だ。

   軽油取引税は、地方税だから自治体が思い出したように業者を摘発してきた。今回の事件も自治体が財政難を背景に全国規模で脱税摘発に動き出した背景がある。だが今回は、輸入粗油だったからクマリン効果がなかった。


1998年10月19日(月)Silicon Valley 八木 博


 ●米国はインターンシップで単位

 米国での、学校教育の中でビジネスを単位に加算するシステムがあります。インターンシップと呼ばれるものですが、なかなか合理的で、しかもビジネススピ リットを学にはとても良い機会だと思いました。そして、自分でベンチャービジネスを起こした英国人からは、英国にはもっと違うシステムがあるよとも教えら れました。話を聞いてみて思ったのですが、日本の現在の経済的な閉塞状態を打ち破るためには、日本の教育の中にも取り入れられる要素も多々あるのではない かと考えました。

 米国の大学では、インターンシップという制度があります。これは学生が、実際のビジネスで実習をすると、それが学校の単位になるというシステムです。通 常ですと3ヶ月から半年程度、会社に勤めて実習しつつ、ビジネスを学びます。会社は、あまり高くないですが、賃金をその学生に支払います。学生の立場から は、お金をもらってビジネスが学べるという形になるわけです。これは、学生が自分のしたいビジネスを選べば、その後のビジネスをはじめるに当たって、人の ネットワークが作れたり、しくみを自分で変えたりして、とても良い機会になるのは、間違いありません。

 これは、英国でベンチャービジネスを起こした人と話していて聞いた話です。英国では、大学の4年間のうち1年間は、ビジネスに従事して、そして大学の単 位がもらえるという制度が、だんだん広まってきているそうです。このシステムでは、学生の希望に応じて、会社を変えながら過ごすことも、一つのところにと どまっていることも可能だそうです。ですから、製造メーカーで実習した後に、販売メーカーに行って、作ることと売ることを学んだり、あるいは、一つの会社 内の各部署を見るということも可能になるそうです。英国では、このシステムが大学の間に広がっているそうです。そして、彼が言うには、ヨーロッパでは国に よって、遣り方が違うというのです。

 ●日本でのシステムはドイツ系か?
 ヨーロッパでは、ドイツが比較的アカデミズムという意識が強く、これらの制度は進んでいないと、英国人は言っていました。日本は、このような明確なビジ ネス教育をしないというのは、明治時代に入ってきたドイツ式の大学制度が一つの理由かも知れません。英国人の起業家は言いました。英国の教育システムは、 「自発的学習」に時間を取ることを要求する。授業時間は多くはないけれど、自分でやるべき事が多い。それに比べると、ドイツの教育は「時間拘束が多い」と 言っていました。正確な数字が確認できていないので、何とも言えませんが、自分で何かをすると言うことでは、英国もシリコンバレーも発想は同じだと考えら れます。

 一時、日本の大学では、産学協同と言う言葉が、マイナスの評価を受けた時期がありました。そして、その時に行われていたのは、企業からの委託研究という 形が多かったと思います。しかし、研究形態と、目的とスピードからすると、大学の研究はジェネラル(幅広い)方が良いでしょうし、企業の研究は具体的で、 スピードが速いものが良いのだと思います。そして、その二つの違いの中で、学生が両者を学べるとすると、広い視野から、ビジネスを学ぶということが出来る のだと思います。

 ●不況時ほど大きい政府の役割
 政府の役割というのは、国の経済が正常に機能しているときには、それほど重要ではないのですが、経済の停滞や、異常事態が発生したときにはとても重要に なります。それは、国家や地方自治の予算を使いながら、技術レベルを向上させるたり、新規マーケットを開拓する推進役を担うことも多いからです。米国でも レーガン大統領のときに、経済停滞を打破するために、中小企業に対して、連邦政府が研究を委託するシステムを採用しました。研究テーマについては、政府機 関から提示して、それに対して中小企業が応募し、連邦政府は明確な選定基準で、採否を決めるというものです。これにより、連邦政府機関ごとのテーマが、低 コストで開発されているという事例が出てきています。

 現在の日本は、日本を訪れた外国人に言わせると、どこが不況なのという様子をしています。これは、日本の経済のもつ奥深さの結果といえると思います。そ れでも、現状の政府の見解でも経済は、非常に厳しい状況といわれるようになりました。その認識があれば、次の手は考えることが可能になります。新しいビジ ネスを起こしやすくする制度と、政府主導の産業活性化がどうしても必要なのです。経済の仕組みが、今までと違う分野への発展となっている現在、既存のしく みや、制度の維持に視野を向けさせるのでなく、どうしたら新しいものが育つ仕組みになるのか、産、官、学、そして個人が考え、行動するときになっていると 思います。


1998年10月17日(土)萬晩報主宰 伴 武澄


 9月27日付萬晩報「ヨーロッパで常識化した地方分権の新しい力学」のコラム対してフランス在住の読者からメールがあった。イギリスで起きている地方分権の動きを「ヨーロッパの」と一般化した論法が稚拙であるとのご指摘があり、最近のフランスで地方分権の動きや地方自治体の語源について解説して下さった。

 ●中央集権のフランスでも対等となった国と地方

 まず筆者が日本の自治体について語るとき「高知県」とか「高知市」ではなく、「高知県政府」とか「高知市政府」の呼称を使うことを呼びかけたのに対し「無理だ」との論旨を展開した。

 我が国の地方制度は明治初年に、大陸諸国(主として中央集権国たるフランス)における当時の制度を下敷きにして設計され、それに戦後、アメリカの制度を 継ぎ足したものである。こうした歴史的経緯を踏まえず、突如として「英語」で言うところの「地方政府」と「地方自治体」を比較されようとする立場には無理 がある。

 フランスの場合、「地方政府」に相当する用語は 「collectivite territoriale」。日本語に訳せば「地方団体」。英語なら「regional entity」 となる。どこにも「政府」なる言葉は現れない。

 そもそも、地方レベルの行政体に対して「政府」の名称をあてるのは英米法体系の特徴だ。英米法体系おいては、歴史的に中央集権体制がとられず、連邦制型 の制度が取られてきた。アメリカ、イギリスの場合、歴史的に地方行政体は、中央政府と同等ないしは、それ以上のものとして観念され、これらに対して政府の 名称を与え、中央政府と対置させるのはいわば、当然のこと。

 日本の地方制度のモデルとされたフランスの場合、フランス革命を契機にあらゆる封建制度を廃止した、中央レベルから強制的に「department (県)」を設立し、県の管理のもとに市町村を設定した。こうした経緯を持つがゆえに、中央政府と地方行政体を対等なものとして扱う慣行も、論理も存在しな い。

 しかし、その中央集権のフランスでも、1982年以降、抜本的に地方分権改革が行われ、地方行政体は中央政府とまったく対等な立場に立つことになった。 でも旧来からの名称である「collectivite territoriale」は変わっていない。政府の名称が与えられていないからといって、地方分権が行われていないわけではないのだ。

 ドイツは元々連邦国家。州ごとに首相がいる。イギリスでもフランスでも地方への権限委譲がどんどん進んでいるということならば、地方分権はヨーロッパど ころか世界的趨勢と呼んでいいのかもしれない。古代メソポタミア文明と黄河文明が同時期に繁栄し、日本の武士がヨーロッパの騎士団と同じころに登場したよ うに東西の歴史は不思議な連関性を持っている。そうなのだとしたら、日本に地方分権の波が押し寄せるのは当然視されていい。

 ●日本人の思考回路に織り込まれたお上意識
 「地方自治体」という名称の語源についても非常に示唆に富む解釈を述べて下さったので、これも紹介したい。

 この名称は、現行憲法の制定にさかのぼるものと思われる。地方自治制度に一章割かれているのを思い出してもらいたい。当然のことながら、日本側が作成し た用語であり、原文=英語では「local autonomous entities」などといった"不思議な用語"が用いられていないはずだ。お確かめのほどを。

 このことは、シャープ勧告を読んでも鮮明に現れている。英語で「local governements」となっている部分を、日本語では「地方自治体」と訳されている。日本語をまず読み進めた上で、英語の原文を参照すると大きな驚 きを感じるはずだ。一部には、旧内務省の陰謀だとの説もある。

 つまり、占領軍を背景にしたアメリカ側は「地方行政体」は「地方政府」とはまったくの対等の存在であるとの認識のもと、日本国憲法を草起したものの、そ うして実際に成立した憲法では、文言上は「地方自治体」と「中央政府」は法的に対等とされているにもかかわらず、その名称においてはあえて「地方政府」と の名称をあてず、「地方自治体」との名称をあてることにより、中央集権の要諦を維持しようとしたというものだ。

 この辺りのことは、様々な文献を漁って調べるしかないが、「地方自治体」という名称は、戦後の日本人の思考回路に「中央政府」こそが「地方行政体」を指導すべき上位の立場にあるものとの認識を自然のうちに織り込ませることに役立ったとしかいいようがない。
【憲法8章 地方自治】
第92条 地方自治の基本原則
 地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。
第93条 地方公共団体の機関、その直接選挙
 (1)地方公共団体には、法律の定めるところにより、その議事機関として議会を設置する。
 (2)地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選ぶ。
第95条 地方公共団体の権能
 地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する機能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。
第96条 特別法の住民投票
 一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければならない。
1998年10月14日(水)萬晩報通信員 松島 弘


 10年ほど前、友人たちとアラブ音楽の演奏を始めた。その中に岡田さんがいた。カーヌーンという琴のような楽器を担当していた。シリアのダマスカスに2 年もいたことがあり、アラブ世界にも詳しかった。日本にアラブ音楽を紹介しようと、いろいろな曲を編集したテープを作った。純粋な民族音楽ではなく、アラ ブのコンテンポラリーなシンガーソングライターのものを多く入れていた。

 ●被占領地パレスチナのアーティスト
 あるとき、岡田さんが「サーブリーン」というグループのテープをみつけて来た。伝統的アラブ音楽と比べると明らかにポップで、新しいさがあった。どちら かと言うとブリティッシュ・フォークのようなみずみずしいアコースティック感にあふれ、懐かしささえ感じさせた。ウードやカーヌーンなどのアラブ楽器を使 い、澄んだ声の女性ヴォーカルはとてもうまい。ことばはもちろんアラブ語。

 「どこの国のアーティストなんだろう?」最初はそれすら分からなかったが、やがて彼らはパレスチナの、それもイスラエルの被占領地である東エルサレムの グループであることが分かった。アラブ諸国ではパリでデビューするアーティストが多い。レコーディングからCDやテープの発売までの流通が整備されていな い国が多いからだ。そんなアラブ世界で最も音楽活動が難しそうな被占領地パレスチナにみずみずしい感性を持ったアーティストがいたことが驚きだった。

 私の中で、ニュースの戦争報道でのイメージしかなかったパレスチナが、僕らと同じく音楽を奏で楽しむ奴らがいるパレスチナになってくる。1本のテープか ら彼らがどういう日々を過ごして、どんな音楽を聴いているのだろうなどということを想像しながら、外国のとある街角の輪郭が浮かび上がってきた。

 岡田さんは、サーブリーンの「望みについて」を演奏しようと提案した。やってみると難しい。ヴォーカルは岡田さん。サーブリーンたちと比べると数段へた くそな「望みについて」がやっと演奏できた。この曲はずっと僕らのレパートリーになったが、演奏はその後もあまりうまくはならなかった。

 ●チンドン屋に弟子入りしてサックスを習った篠田昌巳
 篠田昌巳というサックス奏者がいた。80年代前半に現れて、当初はフリージャズ的な強烈なアドリブ演奏で話題になった。彼の懐深い音楽性は、みんなにす ぐ知れるところとなり、シンガーソングライターやら個性派グループから共演を申し込まれ、どのグループでも絶妙な味を出していた。

 サックス奏者篠田昌巳を最も有名にしたのは、本当のチンドン屋に弟子入りしてチンドン屋のサックスを習い、街頭のチンドン行列でも演奏したことだろう。 チンドン屋の音楽を「研究」ではなく「実践」したミュージシャンがかつていただろうか。そこらが篠田自身のドラマであると同時に、それに驚く我々もがその 時点でドラマに巻き込まれている。ヤボな評論はする気はない。「東京チンドン」というCDを残してくれたことは評価したい。

 1991年、私は沖縄のネーネーズのマネージャーをやっていた。東京のオムニバス・ライブへの出演のためのリハーサルの時、スタッフから「どうしてもサックスが欲しいなあ。篠田さんにお願いできないかな」という声があがった。

 その足で、私は篠田氏のコンサート会場に駆けつけ、楽屋で「ぜひとも一緒に出演お願いできませんでしょうか」と頼み込んだ。篠田氏は満面の笑みで「光栄 です。でも今はとてもいそがしいのです。ネーネーズさんとやるなら、ちゃんとやりたいと思うのです」と答えた。なぜかそこはかとない哀しみをたたえた、穏 やかな笑みだった。

 結局篠田氏は不参加ながら、ネーネーズは無事コンサートを終えた。ネーネーズのマネージャーを降りた後も、篠田氏に何度か会ったり、彼の演奏を間近で見る機会にも恵まれ、篠田氏の音楽のありようが、少しずつ分かってきた。

 彼は果てしなくやさしい人だった。やさしい人は、他人の喜怒哀楽を受けとめてしまう。受けとめた人には分かっている。人の喜びの骨格には「哀しみ」が 入っていることを。この「哀しみ」は、遠い地平線を見つめたときの、胸に風が流れるような気持ちとつながっている。彼のサックスの音色は、「やさしくて、 力強い人」ならではの「哀しみ」をたたえている。彼の出す音は同時に風なのだ。風がもたらす「なにがしか」は、音楽を豊かにするだけでなく、その場の空気 も豊かにした。

 ●ロックからアラブに根差した音楽へ
 話はサーブリーンに戻る。1992年4月、岡田さんは東エルサレムの地に立っていた。サーブリーンの日本招聘が目的だった。もとは映画監督ミッシェル・ クレイフィ氏の作品上映会だけの企画だったが、クレイフィ監督の作品『石の賛美歌』の音楽を担当しているサーブリーンも呼んでしまおうと、映画とコンサー トでパレスチナの今を伝える企画にふくらんだ。

 サーブリーンは、岡田さんたちを大喜びで迎えた。「遠い日本から、自分たちをアーティストと知って、訪ねて来る人があるなんて」と彼らは思ったろうか。 彼らは、借りたアパートに、パレスチナで唯一のレコーディング・スタジオを建設中だった。そこは彼らの発信基地になるばかりでなく、子供たちへの音楽教育 の場にもなるのであった。

 サーブリーンは、世界の多くの若者と同じく、英米のポップスやロックにあこがれて育った。エレキ・ギターでレッド・ツェッペリンのコピーなどもしたこと があった。いつしか自分たちの地(血)に根差した音楽を志すようになり、模索の末、伝統的なアラブ音楽とはスタイルを異にしながらも、自分達にしっくりく るオリジナリティにあふれる音楽を生み出したのだ。

 彼らは、いろいろな意味を込めて自らの音楽を「アラビック・ブルース」と呼んでいる。と言葉にすると重々しいが、音楽産業もなく、メディアも発掘してくれない地で、とにかく自分たちの信じる音楽をやり続けている。

 ●コンサート直前のハプニング
 岡田さんは帰ってから大忙しであった。コンサート会場の手配、チケットの手配、チラシの制作、取材の要請、プロモーターとの折衝。いくらでもやることが あった。来日にあわせてサブリーンとして最初のCDをリリースする話も進行した。もちろんミッシェル・クレイフィ監督の来日と上映会場の手配も同時進行 だ。

 12月のコンサート&上映会は刻一刻と近づいていた。タイトルも「豊穣な記憶-パレスチナ・インティファーダ世代の音と映像」と決まった。会場は、京都 は京大西部講堂、東京は渋谷ジァンジァンの上にある山手教会に決まった。京都では日本のバンドとのジョイント・ライブとなり、なんと東京のコンサートには オープニング・アクトに篠田氏率いるコンポステラが決まったのである!

 私も東京コンサートを心待ちにした。ところが、どうゆう運命のいたずらか、つまらぬ事で右足首を骨折してしまい、当日会場に足を運ぶことができなかった。コンサート当日の「素晴らしきこと」と「悲しきこと」を岡田さんらから聞くことになった。

 悲しき事から先に書いてしまおう。東京のコンサートのほんの数日前、オープニング・アクトの篠田氏が、信じられないことに急死してしまったのだ!篠田氏 は心臓をわずらっていたが、死の前日まで篠田氏は元気で、誕生日のその日、恋人とディズニーランドに行っていたのだそうだ。そこに突然来た死。

 私は彼の葬儀も終わってから彼の死を知った。しばし部屋で茫然とした。彼とそんなに多くの話をしたわけでも、多くの時間を過ごしたわけでもないのに、こ の果てしない寂しさは何だったのだろう。彼はつねに控え目にさりげなく僕らのそばにいて、豊かななにものかを与えていてくれたのだ。その彼がいなくなって 初めて気付く、あまりにも大きな欠如感!多くの彼を知る人が、同じ思いをしたはずだ。

 ●そして、ついにサブリーンがやってきた
 突然のオープニング・アクトのアーティストの死に、サーブリーンはこう語った。

 「被占領地に住む僕らは、突然友人を死で失うことがたびたびあった。シノダに会うのは楽しみにしていた。アーティスト シノダに最大級の敬意を払いたい」

 さて、サーブリーンのコンサートは予想をはるかに上回るすばらしさだった。私は現場に居合わせていないので、岡田さんの文章をそのまま抜き書きさせてもらう。

 『そして1992年12月4日、ついにサーブリーンがやって来た。個人的にはそれまでの準備でヨレヨレになった状態で、彼らを出迎えた。「ナリタ」の地 下で都心に向かう電車を待ちながら、できたばかりのCDを渡した。サーブリーンたちは、とても喜んで受け取ってくれた。「気にいってもらえた」と思ったと たん、そのプラット・フォームで僕の緊張の糸は、多分切れた。頭のどこかで「もう、ぶっ倒れてもいいか」と思った。しかし、数日後、京都での初演に立ち あって京都大学・西部講堂に彼らの音がはじけた瞬間、「ぶっ倒れないでいて良かった」と心底思ったことを、今でも鮮明に覚えている。』
 コンサートは大成功した。岡田さんは、サーブリーンのステージに圧倒された。家で寝ていて、ただ悔しいだけだったが、私にとっても忘れがたいコンサートであった。

 被占領地で、僕らと同じく音楽を愛するサーブリーンたち。風のようなサックスの音色を僕らの耳に残してくれた篠田氏。出会うべき2つのアーティストは現 実には出会わなかったが、私の頭の中では出会っている。人生には、喜怒哀楽のどの感情にも属さない不思議な思いがよぎる事がある。何か日々の暮しとは違う ところに流れる大きなものからのメッセージであるようなのだが、悲しいかな、言葉としては聴きとれない。だが、このコンサートに携わった多くの人は、確か にこのメッセージを心で聴き取ったような気がするのだ。


1998年10月11日(日)萬晩報主宰 伴 武澄


 窮余の景気対策のとして商品券を国民に配る構想が浮上し、是々非々の論争が始まっている。筆者の職場では約1カ月前から話題になっていた。もちろん景気 対策などというちんけな発想ではない。ことのおこりは香川県引田町の商工会に勤務する友人からファックスしてきた京都新聞のコピーだった。

 「伴ちゃん、ひさしぶりやね。ぼく前の職場辞めて引田町の商工会におるねん。いまファックスした件なんやけんどな、うちの町でもやりたいんや。なんぞ情報あったら教えてほしいねん」

 ●京都府園部町で始まった商品券販売
 京都新聞のコピーは、京都府園部町で町内だけで使える商品券を発行した経緯が書いてあった。園部町は野中官房長官のお膝元で、実弟が町長を長年やってい る。町主宰のお祝い事の引き出物に商品券を送ることをことを昨年から始めた。あまり役に立たない引き出物よりは、商品券の方が実質的だし、商店街の振興に もなるというのが発行の背景にある。町民の結婚式や葬儀などでも活用してもらおうと、ことしからは商品券を一般にも販売する。9月町議会で正式決定した。 京都に住みながら不覚にしてこの記事を読んでいなかった。

 「使用地域を町に限定しているけど、これって町の通貨になるんじゃないの」
 「だけど、そんなことよく大蔵省が許したな」
 「新聞に書いてあるけど、官房長官を通じて大蔵省にご意向を聞いたら、無理ですといわれたらしいよ」
 「それでもやるってところが、けっこう骨っぽい」
 「やっぱり身内に官房長官がいたからやれたんじゃないか」

 そんな議論をしていたら、タイミング良く山口支局から「敬老慰労金の代わりに商品券」という原稿が「敬老の日」向けに届いた。記事を書いた記者は「東京 都の港区や台東区でもやっているそうなのですが・・」と電話してきたが、当方は盛り上がっていたから、「いや、これはおもしろいから全国流しだ」というこ とになった。結果はけっこう多くの地方紙の紙面を飾ることになる。

 ●商品券は金券(有価証券)である
 園部町では、町が商品券を販売する動きで、山口県での敬老慰労金は自治体が贈与する金券(有価証券)である。どちらにしても地域限定の使用となっている が、他の地域の業者が受け取りを歓迎したらどうなるのだろう。中国では香港ドルの流通を認めていないが、広東省を中心にホテルでも商店でも受け取りを拒否 しない。拒否しない返還後の情勢は知らないが、返還前までは、中国元による支払いより歓迎された。

 おかげで、香港ドルの3分の1は中国で流通するという事態が起きていた。現代の通貨(紙幣)は、金や銀の兌換性がない。あるのは発行体である国家や政府 への信用だけである。いまの日本でそんな信用がある自治体があるのだろうかという議論もあろうかと思うが、国によって発行する国債の金利が違うのは、信用 度の格付けが違うということである。自治体の信用度が同じでいいはずはない。

 借金の多い少ないや、返済能力の高い低いは当然あるはずだから、自治体の発行する地方債だって金利が違うのが当然である。商品券発行という園部町での小さな出来事からいろいろなことを考えた。結論がある話でないことはいうまでもない。

 ●小渕政権は日本に二つ目の紙幣を流通させるのか
 月が変わると、今度は国が商品券を発行するという風向きとなったから驚いた。だが、萬晩報は「自治体が発行するのとはちょっと違うのではないか」と考え る。「減税をしても貯金に回ってしまう」という議論は数年前からあった。そんなことから公明は「商品券」というアイデアを持ち出した。

 国家にはれっきとした通貨がある。以前09月05日「ドル紙幣はアメリカ政府に対するニューヨーク連銀の借金証書」 で説明したように「紙幣(notes)」は国家の信用をもとに流通する疑似通貨である。国家が商品券を発行する行為は、二つ目の「紙幣」を発行するに等し い。景気のためとはいえ、「日本銀行券」という紙幣を持ちながら、商品券の発行をするのは自ら政府の権威を自ら否定するようなものである。

 国家は、百貨店やスーパーと違うのだ。園部町が商品券を発行するのと訳が違うのだ。

 先週、大阪で乗ったタクシーの運転手さんに「どう思うか」聞いたところ、即座に「町の金券ショップが繁盛するのとちがいまっか」ときた。そういうことですよ。小渕恵三総理大臣閣下、商品券配布の効果は知れている。金券ショップをもうけさせるだけである。

 それより、やがて金券ショップで売られることになるだろう。「平成商品券」の値段が「伊勢丹」の商品券より安かったら小渕恵三首相はどう申し開きをするのだろうか。


1998年10月09日(金)萬晩報主宰 伴 武澄


 今日は萬晩報を始めて9カ月目の記念日に当たる。9カ月の軌跡と少々自慢話を聞いてもらいたい。

 1998年1月9日、インターネットで「萬晩報」(よろずばんぽう)という名のコラムを発表し始めて9カ月が経過した。経済、政治、環境など日本が抱え る構造問題にメスを入れてきた。たった20人への配信から始まったこの萬晩報の読者は10月8日には6547人を数えた。経済記者として日本という社会の 制度疲労をみつめてきて15年。新聞記事にできなかった文章がワープロにたくさん蓄積していて、なんとか発表の機会はないかと考えていた。1996年10 月に上梓した「日本がアジアで敗れる日」(文藝春秋社)の続編の構想もあった。

 だが、始まった実際の経緯は単純である。今年の正月に四国新聞の論説委員をしている友人の明石安哲氏を訪ねて、コラムの質低下をなじった。

「あんたのコラムは最近は精彩がない。一向におもしろくないぜ」
「とにかく毎日書くということは大変なんや。それほどいうなら自分でやってみい」

 売り言葉に買いことばである。

「よっしゃ。やってやろうじゃないか」

 たんかを切ったその翌日から萬晩報が生まれた。

 遊びのつもりでつくったホームページはすでにあったから、内容を衣替えするだけですんだ。誰も知らないホームページに「発表」しているばかりでは反応も ない。とりあえず友人のメールリストから選んで20人にコラムを送りつけた。送り先は少しずつ増やしたが、メールリストは50人分しかない。

 突然、毎日メールが届くようになった友人たちはとまどったに違いない。メールコラムの真意を知っているのは明石氏一人である。三日たつと明石氏から返信のメールが届くようになった。

「三日坊主かと思ったら意外とやるやん」
「おお、続々届く萬晩報。勉強するぞ!勉強するぞ!勉強するぞ!」
「明日は震災三周年。日本は何があっても反省せん国やなあ。寝ぼけ眼のコラムニスト」

 明石氏からのメールが「継続する驚き」から「内容に関する感想」に変わっていったのが嬉しかった。

 10日も経つと不思議なことに友人以外から「おもしろい」「目からうろこが落ちた」というメールが舞い込むようになった。とにかく100本を目標にコラ ムを書き続けた。1カ月後、読者は100人になっていた。100本のメールを送るのはけっこうな手間だったが、100人の読者を得たことに密かな誇りが あった。

 そこへ東大の最学院に学んでいるという一人の読者から「まぐまぐ」という無料で配信してくれるサイトがある。毎日の配信作業は大変でしょうから利用するといいですよ」と親切な助言があった。

 半信半疑ながらさっそく「まぐまぐ」に登録した。翌日メールボックスを開くと、なんと100通ものメールが届いていた。「なんだ、これは」と驚くと同時に天にも昇る気分になった。一夜にして読者が倍増したのだから当然だ。

 しかし、このメールコラムがマイクロソフトのサイトの一つであるMNSニューズ&ジャーナル編集者である田中宇(さかい)氏の目にとまらなかったらその 後の萬晩報はない。この編集者は共同通信社を退社した経済部の後輩だった。「世界を見る目」というホームページを一年前から書いていてネット上でスカウト されるという奇異な体験をしていた。

 MNSニューズ&ジャーナルとしても無償でコラムを書いてくれる人材を捜していた矢先だったという。マイクロソフトのサイトに小生のコラムが掲載される 度に萬晩報の読者数はうなぎ登りに増えていった。3月4日、考えもしなかった1000人という大台を超えた。目標の100本目のコラムを書き上げた4月 17日に読者は2590人にも達していた。

100日間に書いたコラムは400字詰め原稿用紙に換算すると500枚を超えていた。それだけの分量を書いたという達成感もあったが、読者からは「もっと 続けて欲しい」という要望が舞い込んでいて、果たして続けようか迷った。「萬晩報はもはや公器である。だから続ける義務がある」とのメールには「なるほ ど。公器か」と感心させられた。

 10日間ほど休んで「パート2」としていけるところまで続けることに決めた。何人かの読者とはメール交換するほどの中にもなっていた。東京の中小企業の 元経営者の山名さんは毎日、感想を送ってくれたし、米国シリコンバレーに住む八木さんからは「一緒に日本を変えていきましょう」と励まされた。古巣の東京 外大の中嶋嶺雄研究室では萬晩報を印字して回し読みしてくれた。学生時代の友人にも「あのときの伴くんですね」とメールをもらった。

 萬晩報には海外に住む日本人からの反響が多い。日本の情報に飢えている人たちが探し当ててくれたに違いない。モンゴル、ホンジュラス、ギニアといったと ころからメールが来れば返事を出さずにはいられない。とにかく内外から3000通を超えるメールが来ている。萬晩報を運営していて、この2年で世界の情報 通信は一変していることに気付く。インターネットのお陰で文字通り、情報の国境はなくなった。それどころか萬晩報には最初から国境がなかった。

 6月に大阪で読者の会を開いたら、札幌、東京など遠隔地からも多くの参加があり、萬晩報の発行を支援する「萬傘会」(ばんさんかい)が発足した。9月か ら萬晩報はコラムを書いてくれる通信員を募集。70人を超える応募があった。経歴をみるとミーハーはほとんどいない。しかも3分の2が海外である。どれほ どの情報が集まるのか不安はある。しかしながら、20人の友人向けにたった1人で始めたメールコラムが、すでにひとつのネットワークを形成しつつある。そ んな手応えを感じている。

 すでに各地に住む通信員からのコラムの掲載も始まっている。その国、その土地にいなければ書けないコラムも多い。萬晩報の読者は、単なる「立ち読み」と 違う。能動的読者といってもいい。「萬晩報のライターみなさん」というメールが最近届いた。そんなふうにコラムを読んでくれている読者がいることが嬉し い。

 萬晩報は、素人のライター集団だけに「誤報」もあるかもしれない。筆者が1人で書いていた時代に、「てにおは」「文字化け」はもちろん、内容の誤りも何 回かあったが、数時間のうちに間違いを指摘するメールが舞い込むことになる。訂正とお詫びは迅速に行うことにしている。また、どこをどのように訂正したか も後で分かるように、訂正前のコラムのそのまま残しておくことにしている。これはニュースコラムとしてはけっこう斬新な試みではないかと思っている。

 忘れそうになっていた過去の友人との再開の橋渡しをしてくれたのも、国境を超えた人々との共感を育んでくれたのもインターネットだった。インターネット をよく知らない人が、顔の見えない交流を「おたく」だとかいって批判する向きがあるが、実際のインターネットの世界はそうではない。個人が社会に対して果 たし得る領域がとてつもなく広がったというのが正直な印象だ。

 明治時代後半、土佐の黒岩涙香が東京で「萬朝報」を発刊し、瞬く間に発行部数が日本一になった。アジア主義者も社会主義者も包含した新しい日本を考える 逸材も多く輩出した。萬晩報が近い将来そんなネットワークになるのではないかと夢見ている。こんな夢を抱いているのは筆者一人ではない。インターネットの お陰で同様のネットワークが各地に生まれているはずだ。二一世紀を待たずして日本にも大きな地殻変動が訪れることは間違いない。(霞山会の月刊誌「東亜」 10月号に掲載されたコラムに加筆しました)


1998年10月08日(木)メディアケーション  平岩 優


 形成される日系人コミュニティ

 昨年、11月に浜松市を訪れた。浜松には約1万人の日系ブラジル人が生活し、日本で最もブラジル人が多い町だ(総人口57万人)。名古屋入国管理局浜松 出張所では日系人が毎月、平均250人増加を続けている。浜松は仕事があることに加え、気候が温暖で、日系人のコミュニティが形成されているからだ。

 最近は家族連れで来日するケースも多く、定住志向も強い。市内には日本で唯一のブラジル銀行の主張所もあり、ブラジル人向けの託児所、食品店(市内に 10軒)、レンタルビデオ店、レストラン、ポルトガル語教室(子どもが母語を忘れるため)、ポルトガル新聞(週刊)などがあり、生活がしやすい。ちなみ に、ポルトガル語の新聞は全国で3紙あるが、2紙が浜松で発行されている。

 その発行元の一つセルヴィツー・グループの社長・増子利栄ジョンさんは日系の3世で、新聞の他にもレストラン、食品・衣料販売、パンなどの食品製造、ポ ルトガル語教室、ビデオレンタル店などを経営する。増子さんは経済大国・日本に興味を持ち1988年に来日した。当初、なんとか日本とブラジルの架け橋に なるような仕事がしたいと考えていたが、そのうち入国管理法が改正され来日する日系人が増加する。

 日本での彼らの一番の悩みは食事だった。日本食がのどを通らず、身体を壊して帰国する人もいたという。そこで、増子さんは93年にブラジル人向けのレストランを開業するが、そこに子どもの教育、資格の取り方、保険からゴミの捨て方までさまざまな相談事が寄せられる。

 増子さんは日系人弁護士による無料法律相談室を開き、「日系人ブラジル人が母国と同じように生活できるよう、手探りで問題を解決しようとした」結果、事 業は次々と拡張していった。現在では店舗での年商は3億円、さらに中古車の販売も始め、共働きの日系人家庭のための冷凍食品製造や広告代理店も計画中であ る。まさに、困りごと、悩みごとにビジネスの種があるといった、ビジネスの原点をみる思いがする。

 1万人の日系ブラジル人が1人年50万円消費するとどうなるか、そこに50億円の市場が成立する。そうした経済効果はさておいても、日本にはない異質な 文化や思考法がこの地域に根付けば、新しい混成文化や発想の発信地になれる可能性がある。長い目でみれば、こちらのほうが直接的な経済効果より、はるかに 大きなムーブメントといえよう。

 たとえば、戦後に限っても在日コリアの人たちが、スポーツ、芸能、アート、食など戦後文化に与えた影響ははかりしれない。今年のサッカーW杯に優勝した フランスチームのメンバーをみても、10番のジダンがアルジェリア生まれ、アンリ、テュラムがカリブ諸島、その他にも、太平洋のニューカレドニアやアフリ カ出身の選手が名を連ね、優勝候補だった南米のブラジルやアルゼンチンを凌ぐ、ダイナミックなサッカーをみせてくれた。

 日系人の国保加入問題

 休日は車で郊外に出かけバーベキュウ・パーティ、人が集まればお祭り騒ぎ、ポルトガル新聞を開けば、スポーツ欄はサッカーとF1情報。金曜日の夜には 1000人もの日系ブラジル人がディスコに集結する。かれらの生活は静的な日本文化にはない、開放的な明るさを発散させている。

 そうはいっても、日系ブラジル人の生活環境にはさまざまな問題も発生している。

 浜松市は海外拠点をかかえる企業が多く、その帰国子女の対策に取り組んでいたところから、学校などの外国人の受け入れ体制が整っている。市の国際交流セ ンターも駅前にあり、相談室、語学教室などでよく利用されているようだ。そうした中で最も大きな問題は雇用形態と健康保険の問題である。浜松市では外国人 と企業との直接雇用は2-3割で、残りは仲介ブローカーが介入している。コストダウンに苦しむ下請け業者などでは社会保険を負担する余裕がなかったり、日 系人自体が加入したがらないため保険の加入率は1割といわれる。

 こうした中で、問題になっているのが日系人の国民健康保険への加入である。浜松市(静岡県)では1991年の就業者は社会保険に加入するようにという厚 生省の通達を楯に、日系人の国保加入を認めていない。しかし、日系人にすれば、「税金を払っているのに、何の権利もない」という意識が強い。近隣の豊田 市、太田市などや、大阪、三重などでは国保の加入が認められているになぜ、という疑問もある。

 増子氏は「かって、おじいちゃんがブラジルに渡ったとき、ブラジル政府は土地を与え、子どもたちに教育を施し、健康保険にも組み入れてくれた。社会保険 の問題だからと放り出すのではなく、もっと考えて欲しい。ことは命の問題なのだから」と訴える。こうした中で、ロータリークラブや医師会が無料診療にのり だしたり、幾つかの病院が通訳を配置したり、相談室を設けたりしている。が、年金の問題なども含め、かれらの本国の保険や年金の制度とリンクさせるなど、 柔軟な対応ができないものか。

 地方に期待される「内側からの国際化」

 とりあえず、3K仕事の受け皿として認知されてきた日系ブラジル人であるが日系人自身にとっても受け入れ地域にとっても、そろそろ第2ラウンドを迎えて いる。外国人労働者から住民としての在日外国人への移行である。住民として受け入れるには定住と権利を保証しなければならない。そこで浮上するのが、在日 外国人の教員、自治体職員への採用や地方選挙権の問題である。先年、川崎市が外国人に職員採用の途を開いたように、こうした問題を前向きに捉える自治体も 少なくない。

 話をうかがった浜松市の職員の方も、行政の視点から行われる対応、サービスと外国人の立場とのギャップを、常に考えている人であった。それに対し、中央 では国民と住民を使い分け、在日外国人のこうした権利獲得を力でねじ伏せているのが現状である。もっといえば、日本はまだ、70万人といわれる在外日本人 が選挙権を行使できない国なのである。

 こうした中で、個人一人ひとりが「内側からの国際化」に向かうことが大切であるが、地方自治体の役割が重要になる。なぜなら、外国人を隣人として受け入 れ、共存するのは地域の住民だからだ。所詮、中央は国家の枠組みを保守し、その枠を食い破るのは地域の国際化の動きしかない。それは日本だけではなく、世 界に共通している。

 しかし、多くの自治体(浜松市ではない)が考える国際化の目玉はいまだに、国際見本市会場、コンベンションホール、ホテルといったハコモノばかり。20 年前の幕張、横浜など首都圏の発想と同じだ。同じ宿泊施設ならアジアの若者が格安で泊まれるホテルの建設、外国人向けの医療費補助あるいは留学生交換制度 の充実などにおカネを使ったらどうだろう。なぜそうできないのか、それは行政が見せかけだけの国際化で住民を惑わし、「内側からの国際化」を提示しないで 保身を計っているからではないのか。

 そんなに国際化を叫ばなくとも、今や欧米の金融資本は日本の資産をターゲットに大挙して押し寄せている、といわれるかもしれない。そのうち、東京の金融街は兜町周辺ではなく、金融外資が集まる溜池近辺に移るとの噂も聞かれるほどだから。

 しかし、考えてみれば、日本の明治以降の近代の中で、国際化は黒船とアメリカ進駐軍に無理矢理こじ開けられたものであり、今度の金融ビックバンも「内側からの国際化」がないままに、ご開帳である。

 浜松市で発行されるもう一つのポルトガル新聞「フォーリア ムンジアル」の編集部で、若い日系人の記者の中川英子さんに会った。彼女はブラジルで銀行、 貿易商社に勤めていたが、1991年に妹と来日。以後、キャディなどしながら東京、大阪、浜松に移り住む。彼女に今後、日本に住み続けるのか、ブラジルに 帰国するのかと訊ねたところ、「日本でもブラジルでもない。やりたいことがあるところに移り住む」と答えた。

 その日はたまたま、金曜日で、「日系人のことはディスコに行かなければわからないよ」といわれ、彼女の最大のニュースソースでもあるディスコに誘われたが、残念ながら都合がつかずにいけなかった。今度、浜松に行ったら、ぜひのぞいてみたい。


●MSNニュース&ジャーナルに『「詐欺」としか思えなかった労働基準法の改訂』と題して転載されました
1998年09月05日(月)萬晩報主宰 伴 武澄

 久しぶりの「読者の声」です。08月23日「労働省で『詐欺』と叫んだ独自ダネ記事の顛末」には過酷な実態の報告やいろいろな角度からの問題提起がありました。

 コラムで触れた、大企業の週40時間労働労働は製造現場レベルでは達成しましたが、ホワイトカラーでは「うそ」でしたし、いまでも「うそ」が続いています。「勤務時間を正確につけない」サービス残業が慣行化しているからです。

 そもそも週法定労働時間は「現場労働者」のためにつくられたものです。19世紀のヨーロッパでの炭坑など現場労働の過酷な労働条件を改善するのが目的で した。ホワイトカラーの労働と労働時間とは無縁とはいいませんが、オーバーラップしないのだと思います。多くの国ではホワイトカラーには裁量労働制がとら れ、賃金も時間ではなく、成果に対する報酬を求める考えが導入されています。日本では、そこらも非常にあいまいに済まされています。

 問題の中小零細企業ですが、経済原則からいえば、労働集約でしか成り立たない企業は1ドル=100円時代の日本では業種や業態を代えていくしかないのだ と思います。空洞化の論議にも、雇用の論議にもなるのでしょうが、為替が自由化された時代では、労働集約型の企業が無理をすればするほど通貨価値が上がる という悪循環に陥ります。

 1985年のプラザ合意は「日本は何から何まで作って輸出しないでそろそろ労働集約型の産業は途上国に譲りなさい」というサインでもあったはずです。個 々の企業レベルでは異論も多いでしょう。多少、感情論になるかもしれません。ですが、いまの日本を「非常時」ととらえるのではなく、ここらを乗り越える必 要が日本人に求められているのだと思います。(伴 武澄)


 ●nice report
MSN経由で拝見しました。大変よい記事だと思います。なお、労基法を含め労働省の作る法律のザル性については、法曹や業界人の間では常識です。現在衆議 院を通過している労基法改正も、一歩間違えるとホワイトカラーの長時間労働を悪化させるばかりか、悪用されれば労働時間法制を壊滅させかねない危険性を 持っています。詳細は長くなるので書きませんが・・・。その辺は、労働省の職員団体が詳しいでしょう。では、今後も鋭い記事を期待しておりま す。(Tatsuya Haryu)
 ●中小企業が順法できなかった理由に触れてもらいたかった
 いつも萬晩報興味深く読ませていただいております。質問と意見がいくつかありますのでメールを送らせていただきます。

 まず、時短の件ですが法律の施行などに関する点では、私も同様にその他の法律についても似たり寄ったりで泥縄としかいいようのない場合が多いように思います。しかし中小企業が順法できなかった理由にもぜひ触れていただきたいと思うのです。

 大企業は法律よりも先行して既に時短が定着していたにもかかわらず、なぜ当時急激な時短をすすめなければならなかったかという点です。つまり貿易摩擦に よる外国からの圧力の矛先が労働時間問題に向けられたということです。確かに外国に比べて法的に未整備または遅れていた点を明文化することで外国からの圧 力を回避するという効果はあったとは思います。

 しかし大企業の下請企業はもとより、その他の業種のほとんどの中小企業は時短前の労働時間を前提として事業を行ってきており、労働者の生産性向上がなけ れば事業の継続は不可能でした。そこで経営者は機械化などの工夫により何とかここ数年は乗り越えてはきましたが、昨今ではもう限界といえます。しかし問題 は当時予想されていたとおり、現在の中小企業労働者がかつての勤勉第一という時代を忘れ、労働者の権利だけを要求するという昔の大企業の労働組合のような 意識になってしまったところにあります。

 現在の大手労働組合は雇用の確保と企業の競争力という労使一体ともいえる方針で海外との競争に対処していますが、ほとんどすべての中小企業では自分の権 利を主張することが当然というような空気ができてしまったのです。いま経済社会は非常時ではありますが中小企業の労働者で非常時という意識をもっている人 がどれだけいるでしょうか。

 しかし彼らに責任があるわけではありません。政府・官僚が場当たり的な法律改正により社会習慣まで無理に急激に捻じ曲げたことに原因があると思います。ところで彼らに質問したいのですが労働省はじめ全ての公務員が全員基準内労働時間を守っているのでしょうか?

 つぎに先日の堺屋太一経済企画庁長官についての件です。私も就任直後のコメントには少なからず失望し官僚エゴのすさまじさに嫌悪感を覚えたものでした が、最近はそれほどでもなさそうに見えます。実際はどうなっているのでしょうか。ぜひ「堺屋長官奮戦記」などをお願いしたいと思います。(矢田均)


 ●年間3220時間も拘束されています
 初めまして。いつもためになる「萬晩報」のメールを頂戴しまして感謝しております。さて、私は従業員6名の小さな事業所に14年ほど勤めておます。事業内容は、食肉小売り・卸です。しかし、最近では食肉小売業は不振で、実質的に食肉卸業といえます。

「萬晩報9月23日号」で、日本では、働き過ぎ論議もすっかり影を潜>め、週法定労働時間が正式に40時間となったいまも多くの除外業種や除外事業 所規模が多く残っている-との結論でしたが、私達の事業所は正にこの典型です。私は朝6時50分に出社し、退社は早くて午後5時30分、遅いときは午後7 時、平均午後6時です。土曜日も同じです。定休日は日曜日。月に一度の公休が貰えます。昼休みは食事時間を入れて40分ほどです。勤務時間中に休憩時間は 全くありません。

 そうしますと週の労働時間はいかほどになりましょうか。おそらく昼休みを除外して63時間ほどになるかと思います。盆正月の休み(それぞれ日)を除いて年間3220時間も拘束されていることになります。

 勤務時間外手当の考えなど経営者には全くありません。そもそもこのような小さな事業所では労働協約など存在せず、雇用契約がまとまる際にも口頭で勤務時間を言われるだけです。雇われるものはその際、残業手当が出るのか出ないのかなど考えても見ないのです。

 「商売をやっているのだから、勤務時間が長いのは当たり前だ」。これが経営者の口癖です。私自身商人の倅ですから、あまり苦痛には感じませんが、入社してくる若い人はすぐ辞めていきます。残るのは40過ぎの人ばかりです。

 たしかに同業者の事情も似たり寄ったりで、私の勤務先ばかりがこのような劣悪な事業所ではないのですが、労働省がどの程度こんな実情を把握しているのか知りたいものです。歳のせいかグチになってしまいました。失礼しました。(寺島 章=横浜在住)


 ●「労働省で「詐欺」と叫んだ独自ダネ記事の顛末」を読んで
 いろいろ感想を書かなければと思いつつも、あまり不正確な情報を出す訳に行かず調べているうちに、私よりよく知っている人がいろいろ書いていらっしゃる ようで、たまにあります「読者からの手紙」を読みながら、これを言いたかったんだよと、同意したりしております。最近は頻繁に配信されているようで、大変 ご苦労な事だと感謝しております。

 さて今回のネタは私にも身近に感じられる事で、すぐ意見を書く事ができました。半年前まで日本で仕事をしていました折り、感じた事を言わせてもらいます。

 私が就職したのはバブルがピークに達する少し前でした。入社一年目は残業など気にせずほぼ定時で帰宅できました。2年目になると、さすがに業務量も増えてきて経験の浅いものにとって時間内に業務を遂行する事ができなくなり、残業時間が徐々に増えてきました。

 5年目頃バブルがはじけ(急激に受注が落ちて)、就業時間を厳しく管理するようになりました。この頃、時短論議が始まったように思います。就業時間に制 限が加えられ、残業時間も規制始められたものですから、それまで納得いくまで仕事していたものとしては、改めて時間の使い方を考えなければなりませんでし た。自分なりに無駄な時間を削減し、(私は技術者ですから)実験計画をベッドの中で考えたりしながら、なんとか会社の設備をフルに使えるように工夫しまし た。その甲斐あって、作業効率が格段に進歩したのですが、時間短縮には何の効果もありませんでした。

 どうして効果が無かったかというと、マンネリズムによる時短の阻止に会ったのです。どういう事かというと、今日は仕事がはかどって、早く終わり定時に帰 えろうとすると、呼び止められ他の人の仕事を手伝ってくれといわれました。大義名分には、全員で協力し合おう、という事でしたが、何の工夫も無く今迄通り に時間を気にしないで仕事をしている人の手助けをどうしてしなければならないのでしょうか。また、最近早く帰る私に、製造部門の人達が、最近仕事をしてな い、といった言い方をしました。

 技術部門がなにをやっているかよく分らない事もあり、遅くまで仕事をしている人=仕事をやっている人という図式が彼らの頭にはあるのです。時間無制限に やれるなら、私も徹夜でもなんでもしますが、私たちは時間に縛られています。36協定に引っ掛かるぞと脅かされれば、仕事を放棄して帰らなければなりませ ん。

 高度経済成長下で、時間を気にせず仕事ができた人たちは、時間制約がある今の技術者の状況をよく理解できないようです。早く終わると仕事を増やされ、残 業ができないのでボランティア残業する人もいます。(ボランティア残業:ホントはどういうのか知りませんが、時間を申告しない為、タイムカードを打ってか ら残業する事。空残業の反対語)

 また、日本的な組織において、時間を節約するという事は、非常に困難なように思います。雑多な決済を上司に求めなければならないし、客先にFax一つ打 つのにも上司の承認印を貰わなければなりません。ただでさえ多忙な上司を捕まえて、内容を説明し、承認印を貰うという作業が非常に時間を使います。決済書 類箱に入れておけばなかなか決済されないし、急ぎの場合はやはり直接談判して印を貰わなければなりません。

 こういった事は、日本にいる時は強く感じませんでしたが、アメリカにきて、煩雑な手続きが無くなったので(その分個人の責任はずっと重くなりますが)初めて意識するようになりました。

 労働時間短縮は、法的な制約を設けるだけでは全くザル法にする以外方法はありません。全員がそれを必要と思っていないからです。特に、高度成長世代の人は、遅くまで残っていることが即仕事をやっていることと勘違いしている人が多いと思います。

 伴さんの論調では、労働基準法改正が余り効果が無かった様に感じておられるようですが、バブル世代といわれる私たちの中では、言い換えると時間を気にせ ず納得いくまで仕事が出来た事を知らない世代の中には、確実に就業時間規制に対する何らかの対応策を持ち始めていると考えます。ひいては、真の時間短縮が 実現される下地を形成し始めたと考えます。(Tiger Nishino=South Carolina)


 ●朝8時30分から、午後10時まで仕事
 労働基準法に関するページを拝見致しました。私は中小企業の電子部品製造業に従事しております。毎日、朝8時30分から、午後10時まで仕事をしてお り、土日曜、祭日も休日出勤が多く、月に2、3日の休日しかありません。会社のリストラで、社員が減る一方、生産量は増えています(生産単価は減額)。週 の労働時間が、46時間など完全に無視されております。政府、経営者の行っている「詐欺」の被害者です。 (Shori Mochizuki)
●サービス残業は労働基準法違反
 興味深く読みました。中小企業はもとより日本を代表する大企業の殆ど全てがサービス残業を常態化させ、過労死があとを絶たぬ悲劇が続いています。日本の ホワイトカラー生産性はアメリカと比べて極端に低いのですがその大きな理由が「コストがただである」サービス残業にあると考えられます。かつては、生産効 率アップの経営努力をするより、従業員のサービス残業に頼るほうがはるかに楽でかつ効果的だったのでしょう。80年代後半から始まったアメリカのPC革命 によって、相対的にサービス残業のメリットが小さくなったにも関らず、惰性が続いていると思えてなりません。

 サービス残業を放置した、法定労働時間の議論は無意味です。法定労働時間を決めるより、サービス残業が労働基準法違反であり、厳重に取り締まることに よって経営者に残業代全額を支払わせれば、悪名高い日本の長時間労働は直ちに是正されるのでは無いでしょうか。産業界は猛烈に反対するでしょうが、国会が 市民を代表するものならば、労働基準法を政府が遵守するべくしっかり監視してほしいものです。(Inoue, Tooru)


 ●労働者の首をしめている
 労働時間や有給休暇、最低賃金これらをなぜ政府が決めなければならないのだろうか。働く人とお金を払う人この単なる二者間の取り決めを、政府がなぜ介入 しなければならないのだろうか。今、どんなに不況であっても、この労働基準法に載っている労働者の権利だけが当たり前のように残っている。経済は当然好況 と不況の波があるわけだから、好況の折は労働者の条件は売り手市場になり、当然よくなるはずだ。10年ほど前に、ある会社が1年間働いたものには「車を与 える」といった話が、報道されていた。

 真偽はどうかわからないが、不況の折は、上記のような基準があれば、この不況だからビジネスを興したいと思っている人--好況の時はとても採算があわな かったので--も当然仕事を手がけない。そうなると不況が永遠につづき、日本は失業者だらけになるであろう。経済行為に規制や基準を設けないで、市場原理 を取り入れないと、不況は永遠に続き、結果的には労働者の働くチャンスがなくなる。労働省の皆さんが一生懸命がんばってやろうとしている事が、結局労働者 の首をしめている事に気がついてほしい。(黒川一雄)

 ●嫌なら残業をしなければいい
 私はバブル前後に大手のデザイン会社に勤めた経験があります。私のいた当時はまだ残業が出るシステムだったのですが,今は定給制になって,残業代はまったくでないそうです。

 残業が出ない長時間労働者の方がのお嘆きの声がたくさん載ってました。多くの方の意見は取締りを強化して私達の残業代を出してほしい・・・。と言うことに要約されると思います。

 私はこれに対して不思議な感じを受けました。残業がいやなら残業をしなければ良い。この一言に尽きます。まったくなにもわかっていないと思われるかもし れませんが,大体利潤を追求する企業がわに彼らにとって不利な法を守れ,僕達をおうちに帰して,騒いでもたところでい方ないと思いませんか?彼らには彼ら なりの法律を破っても利益を追求したい性質があるのです。自分の健康を過労死から守りたいのなら,残業をせずにうちに帰れば良いのです。それでも終わらな い仕事はもしかしたら工夫次第で能率が上がるかもしれません。また工夫しても変わらないかもしれません。

 まるで日本の企業やお役所は詐欺だみたいなことを行ってますが,定給制はアメリカの企業はオフィスワークのフィールドでは一般的だし,私の友人の多くは 何時間も残業してもしなくても毎月同じ給料をもらっています。それでは彼らはその状態に不満ならどうするか?転職するのです。

 日本は資本主義社会です。あたかもチームワークを大切にし,みんなの「輪」を大切にしているなんて言っているのはそのほうが企業にとって都合が良いから です。でも結局は利益が私達の「輪」をコントロールしているだけです。生産性の低い職員、とりわけ企業にとってのコスト性の低いと言われる女性は職場の清 算向上力を高める価値が低まると退職を勧められ,抹消されていきます。良いじゃないですか。無能でだらだら残業するだけが能のあなた達でも男性と言うだけ でとりあえず職場に残れる。そして役所に残業を取り締まれと騒ぐ。子供が幼稚園の先生に一歳年上の餓鬼大将がおもちゃを取ったから怒ってやってくれと言っ てるようなものです。

 いやなら残業をしなきゃ良い。いづらいからやめるとか情けないことを言ってないでしぶとく職場に居座れば良い。そういう個人の態度がサービス残業をなくし生産性をあげ,自分の健康を守り企業からの搾取を押さえることのつながるのではないでしょうか?(Mitsuko)


1998年10月04日(日)  松野 周治


 1996年6月のある日、娘2人が通っている小学校で「運動会」があるというので、夫婦で見に行った。1年間のイギリス滞在の中で、学校教育の違いをさまざまな面で感じさせられたが、「運動会」(スポーツ・デイ)もその一つだった。

 ●プログラムはなく、「天国と地獄」もかからない
 プログラムは事前に配られない。競技種目を手書きした紙が、観客席のパイプ椅子の上に置かれてあったのだろうが、風で飛んで地面に落ちている。少し汚れ ているがそれを見ると、競技は短距離走と縄跳び走の2種目で、それぞれ個人とリレーの部、予選と決勝があるらしい。団体演技は無い。

 一面緑の広いフィールドは普段とほとんど変わっていない。本部テントや入場門、生徒と観客を分けるロープは見あたらない。いつもと違うのは、観客用の椅 子が並べられていること、少し波うってはいるもののまっすぐの白線が芝生の上に引かれていること、ラインの向こう側(生徒と観客の反対側)に一つの机と椅 子が置かれてあり、そのそばに自動車が1台置かれてあることくらいである。

 椅子には一人の先生がマイクを持って座っており、マイクのコードは小さな自動車につながっていて、小さなスピーカーが我々の方に向けられていた。

 椅子の先生が、種目の名前と、これから走る子供の名前を一人一人紹介すると、「運動会」は始まった。入場行進、来賓挨拶等は全くない。「天国と地獄」等のレコードもかからない。

 ●リレーも含めて競技へのエントリーは自由
 校長先生は、生徒と一緒に応援している。少し発音しにくそうだったが、我が家の上の娘も名前を呼んでもらって走った。上位者は、「ファイナリスト」の ワッペンがもらえる。彼女は個人、リレーの両方に出て、たくさんつけてもらったが、おかげで短時間で何回も走ることになった。そのワッペンは彼女のアルバ ムに大切に貼られている。

 後から本人に聞いたが、リレーも含めて競技へのエントリーは自由で、生徒の希望によって決まったそうである。イギリスで「運動会」は強制でなく、競技に参加しない自由があった。そして、参加すれば決勝まで行い、個人の成績ははっきりさせる。

 全ての競技が終わっても閉会式はなく帰ろうとすると、「スポーツ・デイ」はまだ続いている。今度はフィールドのあちこちに子供たちが分かれて、わいわい 言いながらさまざまな「運動」をしている。ウサギ跳び、幅跳びなどは我々にもおなじみだが、ジャガイモを入れる麻袋に両足をつっこんでのジャンプレース、 同じくジャガイモのスプーンレースなど、お国柄が出ているのものある。

 しかし、単なる遊びではなく、子供たちはめいめいカードを持っていて、それぞれの種目について自分の記録を書き込まなければならない。ただし、全部の 「運動」ではなく、自分がやりたいものを最低3つ以上、とのことである。計測係は先生だけで足りず、父母のボランティアも加わるが、子供同士でもやってい た。

 ●とにかくリラックスしている
 気がつくと、フィールドの端に机が出ていて、子供たちがジュースをもらっている。のどが渇くと飲みにいけることになっていたらしいが、別に時間は決めら れていないようだ。一人1回のはずなのに、何回も飲ませてもらった男の子がいたらしい。そういえば、前半の競争の時にも、観客席のおじいさんが孫を呼びと め、「エネルギー補給や」と言って、何回もチョコレートをあげていた。

 子供たちは、走るときは必死だが、とにかくリラックスしている。生徒席と言っても椅子はなく、疲れてくると芝生に寝そべり、顔だけ上げて応援している子 供たちが増えてくる。先生が注意するのは、前に出すぎて競技の邪魔や危険になる場合だけである。ロンドンから1時間かけて義姉が、姪たちの様子をビデオカ メラに収めに来てくれていたが、友達その他が集まってきて、カメラを覗く。中にはカメラを使わせてもらった子供もいたらしく、ビデオの一部は芝生や雲の画 像になってしまった。

「運動会」は全校一斉ではなく、高学年が午前中、低学年が午後であった。それぞれ半日は普通の授業が行われていたが、休憩時間にはフィールドに出てきて見 物していた。全校生徒が約300人という規模も関係しているが、「運動会」の時間は高学年で約2時間半、低学年で2時間弱であった。

 ●簡素化が必要な日本の学校行事
 9月中旬に帰国すると、子供たちにはすぐに日本の運動会が待っていた。残暑の中、連日の練習、とりわけ団体競技は短期間でみんなに追いつかなければなら ない。入場行進、準備体操を含め、どうして日本の学校では、軍隊まがいの団体行動訓練、音楽や笛に合わせた一斉行動の練習をいまだに重視しているのだろう か。

 その一方で、子供たち一人一人の存在や意志は重視されていない。個人競技であっても、我が子がどのレースに参加しているのか、近くに走ってきて胸のゼッ ケンを見るまではわからない。挙げ句の果てには、一つのレースが半分すむかすまない内に次のレースのピストルがなり、トラックの上で何組も走らされてい る。回転寿司と同じにされてはたまらない。もちろん、競技や演技に「参加しない自由」はない。

 もうそろそろ「運動会」のあり方を見直されなければならない。戦時経済、高度成長期の団体行動万能主義の時代はすでに終わっている。一クラスの人数の削 減や、フレキシブルな教員組織の導入も視野に入れた先生の数の増大とともに、学校行事を思いきって簡素化し、先生も子供も不必要なストレスを減らし、本来 の社会目的である学習にもっとゆとりを持つてあたるべきではないのか。(Matsuno Shuji)


 筆者が30年前、通っていた南アフリカの英国教系のミッションスクールの運動会も同じでした。静かで簡素でも、母親たちの差し入れのケーキやクッキーはおいしかったように覚えてます。(伴 武澄)
1998年10月02日(金)バンコク通信員 櫛田 一夫


 タイではIMF指導のもと、公務員削減が急務となっているが、半面、存在意義の誇示や収入源確保の動きが出てきた。今年になって活発になったのが税関の特別チームによる企業の抜き打ち査察である。

 ●違法が慣例化していたタイの通関
 輸出企業の主だったところに突然訪れ、通関関連書類を押収する。査察チームだけではなく現地警察官が同行し、捜査礼状を示したところもあるらしい。

 査察チームがチェックするのは経理上で海外向けに支払い処理がされているのに、正式な通関が行われていない部品である。例えば、空港で手荷物で持ち込まれたり、一般的に通関処理をしないDHLやEMSなどのクーリエで届く部品、業者修理での持ち込み交換部品などである。

 言い訳のように聞こえるが、これらは正式に通関しようにも簡単には出来ない仕組みになっている。タイ国の通関法そのものが非常に古く、現代の、スピード を必要とした企業経営には対応できていないのである。第一に、空港で正式に通関しようとしても係官が面倒がって裏金ですませてしまう。当局側も守らせるた めの現場指導や現実に則した規制緩和などは行ってこなかった。

 これらのことにより、違法状態であるのを知りつつ、多くの企業がやむを得ず、こういった処理を長年やってきていたのである。

 書類を持っていって1ヶ月ぐらいたつと、数年前までさかのぼった関税未払い分や課徴金の算定が提示されるのだが、これが4-7倍という高額なペナルティ が加算されている。例えば年商数億バーツ程度の企業でも、数千万バーツ(1バーツ=約3.3円)という数字を提示される。

 さて、ここからが問題だが、脱税の証拠を示した後、担当官が交渉をはじめる。「この金額ではあなたの会社もたいへんだろう。我々も要望に応える用意があ る」というわけだ。だいたい、最初の提示額の50-20%ぐらいで決着する例が多いという。担当官の方も企業の財務状況を大筋でつかんでいるようで、この へんは露店での値段交渉とあまり変わらない。

 支払い額がきまると、担当官の指導により、後から見てつじつまの合うような偽装インボイスを数通、作成させられる。領収書は発行されるが、もちろん、納税の領収書ではない。

 ●「アメリカ人は攻撃的なので苦手だ」
 もうひとつの問題は、査察の対象になったのは日系企業が圧倒的に多いことだ。日系企業が多く集まっているある工業団地では、日系企業の約半数が半年間の間に次々と査察に入られた。

 バンコク日本人商工会議所でも会員からの訴えにより実態は把握していたようだが、理事会は「脱税している会社にお見逃しをして欲しいというようなことをタイ政府に意見出来るわけがない」と腰砕けだ。

 理事会の言い分はまさに正論で、代表的日本人組織の反応なのだが、タイ国では順法精神がちょっと違うと筆者は考えている。この国では、相手の出方によっ て法律の運用を変えるのは間違いではない。従って時には強く出ることも自分の財産を守るのには必要なことである。個人で強く出れば個人的に嫌がらせをされ るから、所属団体を通じて抗議してもらう方法が有効なのである。

 しかし日本人組織は自分たちに非があると思ったら一切、口をつぐむのを美徳としているかのようだ。日本人のその独特の正義感もいいが、結果としてその精神構造が、日系企業に集中する「たかり」的な状況を許しているのではないだろうか。

 タイ当局の人と話する機会があったが「アメリカ人は攻撃的なので苦手だ」とその人は話していた。お金の無心をしたとき、すぐに自国政府を持ち出してけん か腰になる人たちよりは、法律を楯にすればしぶしぶでも払ってくれる人たちのところに査察が入るのは自然な感情だろうと思う。

 今回の事件は、日本人のあいまいな倫理観を見抜かれ、利用された代表例だと思う。(Kushida Kazuo=バンコクの日系製造業勤務)


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