1998年8月アーカイブ

1998年08月31日(月)萬晩報主宰 伴 武澄


 08月29日「国際標準の名が泣く日本限定の「cdmaONE」携帯電話」には日本人が知らない世界の携帯電話の詳しい具体例をいただきました。以下紹介します。


 ●中国でも使える台湾の携帯電話って知っていますか
 いつも興味ある記事を読ませて頂き有り難うございます。今回の記事に関して、今更と思いご返事いたします。私は輸入の仕事をしており、度々ヨーロッパに 参ります。そこで他の地域のエージェンと一緒になります。必要があると、インドネシアやタイの人から彼らの携帯電話を借りて日本に電話をします。私の携帯 電話が日本を出たら何の役にも立たないものである事はとうに思い知らされております。

 台湾の携帯電話は中国でも使える事をご存知ですか?表面では波風も立っておりますが、実利の面では両者ともしっかりしております。役に立つ事はとうに実 行しております。知らないのは日本人だけではないでしょうか。高い電話料金を払い、しかも不便だ、なんて人を馬鹿にした話ではありませんか。日本でしか使 えない方式に拘って大きな物を失い、あるいは失いかけているのは携帯電話だけではありません。ハイヴィジョンなどその最たるものでしょう。国際化とよく口 にしますが日本の官僚は省益あるいはメンツのために見えるはずのものが見えないのではないかと思います。今後ともご高説楽しみにいたしておりま す。(ashizawa yoshinobu)

 ●日本でもローミング可能な香港テレコムの新しいシステム「1010」
 まったく同感です。私は海外によく出かけますが、日本の空港までしか使えない日本の携帯電話は旅行中にはただの重いプラスチックの箱と化し、邪魔になる だけで腹が立ってきます。最近、香港に10日間ほど滞在しましたが、GSM方式の電話機を日本の業者から高価なレンタル料金で借りて出発しました。レンタ ル料も通話料も高かったのですが、その電話機は国番号が86でしたので中国登録でした。

 中国での携帯電話の価格は今ここでわかりませんからそのレンタル業者がどれだけ儲けているのかわかりませんが、ご高尚の通り香港ではそれほど高価なもの ではなく、下から二番目の料金プランで月額HKドル300程度です。基本料にはプランに応じて最高通話時間が付帯しており、ユーザーはそれを超えた通話時 間分の料金を追加負担する仕組みです。

 簡単な暗算での試算では年間3ヶ月以上の滞在でトントンくらいです。しかも、香港テレコムの新しいシステム「1010」は日本でもローミング可能です。 これを契約して日本で使うとローミングの為に発信にも受信にも料金がかかりますからコストが高くなりますし、かける相手にも料金的な迷惑をかけますから実 際には使えません。しかし、海外に出る機会が多い諸氏には香港テレコムのこのシステムはオススメです。

 とにかく、日本の電話会社に世界観がないばっかりに国民が大きな損失を被っているのです。今問題になっている金融機関だって同じことが言え、外為取引の 手数料など最たるものです。円-米ドル取引の場合、邦銀は1ドル当り片道3円で国内シティバンクが片道1円の手数料ですが、香港のシティバンクでは片道 39銭でやってくれます。しかも国際フリーダイヤルでテレフォンバンキングできますから、融資を伴わない個人取引の金融機関に限って言えば、もう邦銀を利 用する必然性はどこにもなくなりました。毎日スーパーで買物した代金もクレジットカードで海外口座から決済できます。為替リスクが伴いますが、片道39銭 の手数料で外為を動かしていれば買物代金の為替変動差損など吹き飛ばせます。

 まだまだ日本には奇妙な部分が多く、私は実に不思議な国だと思っています。海外から見て奇妙な国だと思われるのは仕方ありません。ロシアで重大事態が起 こったり、円・株の東京市場が大幅安になっても国会での審議は一向に進展せず、単に与野党のメンツ争いに明け暮れています。

 産業空洞化の次は資本流出、その次は人材どころか国民が日本国籍を離脱して海外へ流出します。難民の国となる日がやってきてもおかしくありません。重税 を課し、介護保険を徴収し、それでいて住みにくくて幸せな人生など夢にも想像できないこんな国に住民登録していては一生の不覚ではないでしょうか。今後も 厳しい問題提起をお待ちしております。(Kimura, Tamotsu)

 ●世界を知っている日本人がなぜシステムに異議を唱えないか
 いつも興味深く読ませていただいております。携帯電話の問題、とても興味深く読ませていただきました。正直、日本はグローバルスタンダードという意識が少なすぎるのではないかと思います。

数年前、モトローラ社が日本の携帯電話市場、電波割り当てに意義を唱えた時、郵政省はNTT擁護に走り、結局、日本人はコストが高くて世界で使えない携帯電話を大量に持たされる結果となりました。

 GSMの話題が以前取り上げられていましたが、NTTグループ、郵政省は日本方式をくずさず、結局携帯電話市場の世界的ローミングと流れにみごとに乗り 遅れました。日本は携帯電話のデジタル化過渡期にPHS方式採用という愚行にでて、結局、PHSユーザーは携帯電話に乗り換えにはしり、PHS市場は惨敗 状態。

 来年、電話番号の大幅変更による、電話器のユーザーの電話器買い替えが起こることが予想されますが、これを機会に電波割り当ても含めて国際化できるような法体系に整備してぜひとも移行し、日本だけでしか通用しないような理不尽なシステムは辞めてもらいたいものです。

 日本が世界的な規格に賛同すれば、日本の携帯電話メーカーも国内、輸出向けで製品の使用を大幅に変える必要もなくなるので、開発費などのコストも押さえられるものと思われるのですが。

こういった世界スタンダードでなぜ日本だけが?というのが多すぎると思います。デジタルテレビかり。こういった話題、ぜひとも取り上げて欲しいです。

 あと、NTTに関しては電話料金がなぜ欧米並みに安くできないのか、取り上げてもらえませんか?

Internet とくアメリカ、カナダを含めた諸外国では市内通話は基本料金でカバーされており、Internetを一日中、使い続けても電話代が膨らむことはありません。また欧米ではISDN電話回線とアナログ回線の基本料金が同じなのに、日本はこれも割高です。

少し前に世界の電話料金比較なるものがニュースで取り上げられ、"日本はそれほど高くない"といった結果が出ていましたが、市内通話1分30円という点に は一切触れられず、諸サービスのみの比較(キャッチホンとか転送サービスなど)のオプション料金が比較されたものでした。

 これだけ国際化、海外旅行などで世界を知っているはずの日本人がなぜ、日本だけがおかしい、といえるシステムに意義を唱えないのか本当に不思議です。(ペンネーム モナカ)




1998年08月27日(木)萬晩報主宰 伴 武澄


 萬晩報の読者の一人でもあり、筆者のインターネットの先生でもある畑中哲雄氏の処女作「スレイヴ」(ポット出版)が8月22日、発刊された。本人はコン ピューター推理小説などといっているので、スーパーマンのようなハッカー探偵が事件を解決するような華々しい物語を期待しがちだが、そうではない。

 どこにでもいそうなパソコン音痴の平凡なサラリーマンが「スレイヴ」という手のひらパソコンを入手し、それを自分の奴隷(スレイヴ)にすべく悪戦苦闘した挙げ句、電脳作家になってしまうという汗と涙の物語がけっこう読ませる。

 Web上に復活させた「お代は見てのお帰り」方式

 この小説を紹介しようと考えたのは、単に友人が処女作を書いたからではない。そんなことをしたら「身内びいき」として批判される。たとえ身内であって も、作品の発表の仕方がとてつもなく面白いと考えたからだ。畑中氏は「著作権フリー」といっているが、筆者に言わせれば「ネットワーク時代の新しい出版形 態」を暗示させるからである。前者は別として、いくら「著作権フリー」だといっても、出版社がよくWeb版の同時公開を許したものだと思う

 「スレイヴ」を開いてきっと気付くことだろうと思うが、この本は二つの点で新しい。まずは著者が印税を取っていないことだ。もう一つは紙の本が出る前に、Web上でTextFile版とHTML版の2種類の「スレイヴ」を公開したことだ。

 Web版でただで読んだ読者には「気に入っていただけたなら200円でも500円でもいいから、郵便為替か切手を送って、わたしを勇気づけてください」 と訴えている。ちゃんとした小説だから10分や20分で読みこなせるものではない。もし最後まで読み終えたのだったら面白かったということで、読者はエン ターテインメントの代償を支払うべきだ。

 そのむかし、お祭りで芝居小屋がやってくると呼び込みが「いらっしゃい。いらっしゃい。はいはい、親の因果が子に移り・・・。お代は見てのお帰り・・・ 面白くなかったら金は要らない」なんてやっていた。記憶にある読者もいることだろう。Web版「スレイヴ」はまさに芝居小屋の「お代は見てのお帰り」方式 を復活させたものだ。

 見て、面白かったら代金を払って下さいというのは古い発想のようでそうでもない。立派な商慣行だ。どこでも、お金は先に払うものだと考えていたら大間違 いだ。日本では先払いが横行して、何も思わなくなっているが、世界広しといえども、食堂で食券を買わされるのは日本だけだ。ふつうの国のレストランでは、 食べ終わった満足度に応じてチップの額だって変わろうというものだ。

 いまはアジアでも普及してしまっているが、プリペイドカードなどもふざけた制度だ。NTTの電話カードの場合はまだ電話料金の割引があるが、JRのオレ ンジカードにいたっては一銭の割引にもならない。どんな家でも使い残した度数のカードが何枚もあるだろう。アメリカで発達したクレジットカードは完璧な後 払いだ。本来、金銭の授受は後払いが常識なのだ。その証拠に日本だけしかない手形はちゃんと後払いになっている。

 筆者は「スレイヴ」の売り方について、消費者の良心に寄りかかった古くて新しい「代金後払い方式」と評価している。

 うたかたに消えた著述業の夢

 ウインドウズ95が売り出されたのはまだ2年半前のことだ。なんだか分からないけどインターネットが新しかった。筆書も分からないながら「インターネッ トはただの世界が限りなく広がる時代だ」などと吹聴し、業界団体から講演を頼まれたり、原稿執筆を依頼された。その時、考えて話した内容に、畑中氏と同じ 発想があった。

 「日本がアジアで敗れる日」という本を出版したばかりだった。定価1400円の本に対して印税は140円。初版8000部で筆者には直ちにその140倍 の印税が振り込まれた。110万円強の収入はアルバイトとしては悪くない。「俺もいっぱしの著述業で生きていけるかもしれない」。そんな不遜なことを頭に 浮かべてほくそ笑んだが、「ちょっとまて」と考えた。

 仮に独立して執筆業だけで生きるには、取材費も込めてこんな本を毎月のように書かないと今のサラリーマンの収入は確保できない。それは物理的に不可能だ。そんな計算をして、著述業の夢はうたかたに終わった。

 2万部売れば成功といわれる世界で、8000部も印刷してくれる本はいい方だとも聞いた。1400円という本の定価は決して安くない。もしその本が3分 の1で買えるのならもっと多くの読者が得られるかもしれない。印刷代も紙代も問屋である中継ぎ手数料もなくなれば、筆者はより多くの執筆料を稼ぐことがで き、読者も格安で書籍が買える。どこかで「インターネットはそんな時代をもたらす」ともしゃべった。

 「インターネットで販売すれば一石二鳥だ」なんてことは筆者でなくとも考えるだろう。だが多くは、電子マネーがまだ十分に機能してない昨今では実現は遠 い先と考えがちだ。だが時代のスピードはわれわれの常識を超える。2年前の講演で「僕のような素人だって半年も勉強すればホームページぐらいできるように なるでしょう」などというねぼけたことを話していた。そんな筆者は8カ月前からだれの世話にもならずネットコラム「萬晩報」を発刊できた。インターネット が普及し、2年前の非常識がいまの常識となる時代なのだ。

 畑中氏の「スレイヴ」から大分、横道にそれた。

 実は「スレイヴ」は昨年春には完成していた。畑中氏が執筆業を目指していたのだろうことは以前からうすうす感じていた。「スレイヴ」は内容がパソコン業 界を揶揄しているだけに「マイクロソフトに逆らうような本を出版してくれる会社はないぜ」という否定的な意見や、「こんなの小説じゃないよ。やめろやめ ろ」という厳しい批判をいくつも浴びた。

 それがインターネットとの出会いの中で、このたび新しい"出版"形態となって世に出た。アメリカの大手メディアであるCNNニュースはテレビ放映中、詳 しくは「インターネットで」の表示と共にCNNのurlが示される。バックグラウンドや関連記事が山のようにあり、シリコンバレーの八木博氏によると「そ れをみた立花隆がCNNのインターネットには1本の記事から何冊もの本が書ける情報が詰まっている」と語っているそうだ。

 いつか、萬晩報も「お代は見てのお帰り」方式にしてみたいが読者はどう考えますか。


 畑中氏の「スレイヴ」出版にいたる詳しい経緯は自筆の「『スレイヴ』出版について」でお読み下さい。
 畑中さんへのメール
1998年08月23日(日)萬晩報主宰 伴 武澄


 夏休みに、自治やイギリスの政治制度に関して何冊かの本を読んだ。面白かったのはイギリスの首相の選ばれ方だった。意外と知られていないこの制度を紹介したい。日本国憲法では、内閣総理大臣の決め方がきっちり決まっている。国会が内閣総理大臣を指名して、天皇が任命するようになっている。イギリスでは国会ではなく、女王が決めるのが慣習なのだ。

 負けた党首が、野党党首を次期首班に推挙する風景

「サッチャー回顧録」(日本経済新聞社)の冒頭に書かれていた首相就任の風景は興味深い。

 1979年5月4日の総選挙の開票日、保守党勝利の選挙結果が入ると
「午後2時45分ごろ、バッキンガム宮殿から呼び出しの電話が保守党本部にかかってきた」
「女王からの組閣の命を受けるための拝謁だ」
「拝謁の後、私の新しい主席個人秘書官ケン・ストウが私をダウニング街まで連れていくべく待機していた」
「ケンはほんの1時間前、退任するジェームズ・キャラハンをバッキンガム宮殿に連れてきたばかりだった」
「夫と私は首相公用車でバッキンガム宮殿を後にした」
そしてダウニング街10番地の首相官邸に入った。

 また北海道大学の山口次郎教授の「イギリスの政治・日本の政治」(ちくま新書)によれば、ブレア首相の就任は以下のようになる。

  1997年5月1日の総選挙の翌日、保守党の大敗が確定するとメジャー首相はバッキンガム宮殿に女王を訪ね、首相辞任を伝え、後継首相に労働党のブレア党 首を推挙。次に女王はブレアを宮殿に呼び、首相に任命した。ブレアは参内の時は労働党の車を使い、帰りは政府公用車でダウニング街に向かった。

 山口教授は「イギリスには成文憲法を持たない国なので、首相の指名について日本のようなはっきりした制度がない」とする。女王が首相を任命するのも"慣習"なのだが、面白いのは負けた方の党首が、野党党首を次期首班に推挙する点だ。

 それからサッチャーもブレアも選挙の勝利が確定したその日、直ちに首相になった。英国の政権交代は「実に速やか」(山口教授)なのである。なるほど英国に長く続く"慣習"では、選挙民による選択肢が直ちに政権交代つながる。

 総選挙ではないから、直ちに比較はできないが、先の参院選で橋本政権が大敗し、橋本竜太郎氏が首相を辞任してから「自民党の総裁選」を経て、ようやく 「特別国会での首班指名」するなどというややこしい手続きはない。うらやましく思うのは、第一党が選挙で敗れた時、第一党が潔く第二党に政権を譲るという 良き"慣習"がイギリスでは存在し、日本では存在しないということだ。

 1996年秋の総選挙で選挙民が選択したのは橋本竜太郎率いる自民 党であって、小渕恵三率いる自民党ではない。党首をすげ替えるのなら、もう一度、国民に信を問うというのが政権の常道であるはずだ。政治の空白をつくって はならないというなら、そもそも自民党総裁選だって必要ない。橋本竜太郎がそのまま政権を継続すればいい。

 また新大臣は一から担当省庁の行政を勉強しなければならないから、内閣総辞職そのものが政治に空白をつくることになる。身内の総裁選は政治の空白にならないで、「総選挙が政治的空白をつくる」などという理由は屁理屈でしかない。

 連立内閣がないイギリス

 もう一つ興味深かったのはイギリスでは連立内閣がないことである。イギリスの「首班指名」の"慣習"について興味を覚えたのは、イギリスの選挙で二大政党のどちらも過半数を取れなかった場合、どうなるのかという疑問があったからだ。

 イギリスでも興味ある課題として論じられているようだが、どうもイギリスの選挙民はこれまで"慣習"の盲点をつくような選択をしてこなかったようなので ある。山口教授によれば、過半数に達しないのはジェファリー・アーチャーの「ダウニング街10番地」という小説の中にしかない。イギリスで連立内閣がな かったのは単なる結果でしかないのだが、イギリスの政治システムそのものに二大政党を維持する機能が内包されているようだ。

 まず政党自身に政権奪取を目的とする意志が常にあることだ。反対政党として自己満足してついに自壊した日本の旧社会党のような、時代に遊離した発想を持たないことが選挙民の信頼を勝ち取ってきた点に注目するべきであろう。

  ブレア労働党は1994年、党首就任すぐにイギリス労働党綱領の第4条改正を断行した。産業の公有化を目指した条項である。第4条こそが労働党が労働党た るゆえんだった。日本にとって日本国憲法8条にも似た条項であった。政権奪取のためとはいえ、これまでの歴代の党首が手を付けられなかった条項を破棄した 快挙を選挙民はちゃんと評価したのである。

 次にイギリスでも日本のように政党助成金制度があるが、助成の対象が野党だけというのが特徴である。与党に助成金が必要ないと考えたのは、政権に就くだ けで自らの政策をアピールできるからだ。政党助成金制度が導入されたのがいつだったか知らないが、そもそも法律は政権政党によって作られる。その政権政党 が、一見自らに不利な助成金制度をつくったのだからすごいと言わざるを得ない。

 こんな公平で平等な制度ができたのは、自らが野党に下った場合のことを考えたからだろう。利権を牛耳ることで与党にしがみつく日本の自民党にはできない決断だと思う。

 さらに、イギリスでは野党がシャドー・キャビネットを"組閣"し、常に国会で与党と対峙する。ふつう保守党と労働党以外ではシャドー・キャビネットはない。イギリスではこの二党だけが政権獲得を目指す自覚を持ち、選挙民もそれを理解しているのだ。

 そして一番重要なことは、マスコミが党派色を出して政治に参画することである。ブレア政権誕生では、いつもなら保守党を支持するタイムズ紙が選挙の最終局面で労働党支持に回ったことが大きかった。山口教授によると、以下のようなことが起きるのである。

 「イギリスの新聞は選挙の時には、論説で特定政党への支持を明確にする。・・・(中略)・・・労働党支持の新聞は、世論調査の結果を基にして、保守党候 補と野党候補が接戦を演じている選挙区について(保守党候補を倒すため)、A選挙区では保守党の現職に対して自民党候補が迫っており、労働党支持者も自民 党に投票すべきだ。B選挙区では労働党候補が保守党候補に迫っているから自民党支持者は労働党に入れようといった具合だ。・・・(中略)・・・戦術的投票 を行うべき選挙区の詳細なリストが載っていた」

 結果的に、イギリスでは二大政党による政権交代が可能なシステムを作り上げている。日本でも本当は読売新聞が自民党寄りで、朝日新聞は反自民党的論調を にじみ出している。二大新聞がもっともっと政治色を出せば、選挙は面白くなるし、政治もよくなるはずだ。マスコミが「不偏不党」であることが日本の政治状 況を必要以上にややこしくさせているのかもしれない。 


1998年8月15日Subhas Chandra Bose Academy事務長 林 正夫


 以下は4年前、Subhas Chandra Bose Academy事務長の林 正夫氏から4年前に預かった貴重な手記である。ボースの遺骨を50年以上にわたり守ってきた老人のインドに対する思いを込めた手記である。なぜインド人は インド独立の獅子の遺骨を引き取らないのか。悲痛な手記である。できればインド人にこの手記を読んでほしい。


 印度独立運動の志士、スバス・チャンドラ・ボースが昭和20年8月18日、台北松山飛行場に於て不慮の事故死を遂げてから、今年は仏事で50回忌を迎えることになる。

 印度独立の待望のためには世界の大勢と印度の立場からガンヂー、ネルーとも離れ、断食によって仮出獄をして遂に印度からベルリンへの決死的脱出を決行 し、日本軍のシンガポール占領にともない、印度洋上独逸潜水艦より日本の潜水艦へ劇的な移乗を決行してまで、日本を信じて日本と共に戦い、しかも悲運な戦 局に至るも、最後まで信念を変えることなく逝ったボースの遺骨が、今もなお母国に還ることもならず異国に在ることは、ボースを知る者の一人としてもどかし さを感じてならない。

 「ネタージ」(インド語で指導者)の遺骨は遭難後荼毘に付され9月東京に送られた。遺骨を渡された印度独立連盟のラマ・ムルティとアイヤー両氏はお寺に 預かって貰うことにしてお寺を探したが,終戦直後の不安な世相ではどのお寺からも拒絶された。途方に暮れている時、蓮光寺の先代住職の快諾を得て安堵の胸 をなで下し、預けたまま今日に至っている。以来、蓮光寺では8月18日の命日には毎年慰霊祭が継続されて来た。

 昭和25五年サンフランシスコ平和条約の頃になると、印度大使館よりチエトル氏、外務省からは儀典課長田村幸久氏が来寺し、引き続き5月頃にはボンベイ から情報官のアイヤー氏、さらに印度大使館よりチエトル氏、改めてラウル大使も来寺するやら、印度側の関心が深くなって来たことを感じてくる。

 昭和28年11月先代住職はネール首相に大使、遺骨の処置について問い合わせの手紙を出したところ、翌29年1月ネール首相の代理として大使館より2名の使者が来て『遺骨は大切に預かって今後も大切に回向してくれる様に』との返事が有ったことを伝えた。

 昭和31年5月、第1回死因調査団が来日した。団長がシャヌワーズ・カーン将軍であることを知り最高に嬉しかった。私がマレーからラングーン、さらにイ ンパール戦線、イワラジ戦線と常に行動をともにした信頼する将軍である。帝国ホテルで顔を見合わせた時、お互いに無事であることを喜び、堅く手を握り合っ た感激は忘れることは出来ない。

 そして苦心の末、歓迎会を日石の南元荘で催すことにした。出席者はシャヌワーズ団長、ネタージの実兄サラット・ボース氏、アンダマン・ニコバルの司政官 マリク氏の三名。日本側から河辺正三氏、桜井徳太郎氏、光機関長だった磯田三郎氏それに金子昇、遠藤庄作、林の元機関員、日石から福島、山崎の両氏で岩畔 豪雄氏は都合が悪くて欠席された。暫し話がはずんだ後で愈々遺骨の話になった時、シャヌワーズさんは『遺骨は飛行機か巡洋艦で迎えに来たい』と打ち明けら れ、吾々は喜び合ったことを忘れることは出来ない。

 しかしその後、調査団の帰国を羽田空港に見送りに行った時、岩畔さんと私に向かってサラット・ボース氏が『ネタージは死んでいない』と言いだしたのに唖 然とするばかりであった。怒ったシャヌワーズさんとマリク氏は別れを告げて先に階段を降りていったが、サラット・ボース氏は出発時間ギリギリまで『ネター ジは死んでいない』と言い張っていた。

 この時の『ネタージは死んでいない』との発言の真意は、肉親の情や複雑な印度国内事情を反映したものと思われるが、この時の調査団の不一致がその後第2第三の調査団の派遣を繰り返すことになり、現在に至るも解決出来ない要因であろう。

 この第1回調査団の結果は、10月になって外務省より報告書が来た。

 要約すると『委員会は本事件に関する殆どすべてを網羅しているので承認されるべきである。要するにボース氏は台北で飛行機事故のため不慮の死を遂げ、現 在東京都蓮光寺にある遺骨は、同氏の遺骨であると認められる。そのボース氏の遺骨を将来インドに持ち帰り、適当の地に記念塔を建立する必要がある。ここに 永年にわたり大いなる崇敬の念をもって遺骨の保護に当たってこられた蓮光寺住職に対し深甚なる謝意を表したい』と。

 この外務省からの報告書によって印度側では死因を認め遺骨を引き取ることを認めていることが判るのにその後の経緯は殆ど進展しないのは不可解である。

 昭和32年10月には、ネール首相は愛娘インデラ・ガンヂーを連れて蓮光寺にお参りして署名もしている。翌33年10月にはブラサド大統領もお参りして署名している。

 昭和33年1月23日、ネタージの誕生日を記念してスバス・チャンドラ・ボース・アカデミーは発足した。そして遺骨を一日も早く母国に返還することに力 を注いだのも虚しく歳月の経過はこの間に初代の渋沢敬三会長に続いて、昭和40年には河辺最高顧問のご逝去、更に橋本事務長の逝去と悲報は続く。

 二代会長に就任された江守喜久子女史は熱心に運動を進めるため、高岡大輔氏の協力を得て、昭和42年12月、江守会長と高岡氏、林の3人が三木武夫外相 (当時)を外務省に訪ね、協力を懇願した。これが縁となり、外務省南西アジア課長にも再三懇願することになる。その後、江守会長は印度独立記念日にイン ド、カルカッタのチャンドラ・ボース・アカデミーより特別に招待を受けて印度を訪問した。

 旧INAの幹候たちと会見して遺骨返還を細部にわたり話し合ってきた。一方、藤原岩市氏は印度に於いて遺骨返還のため遂に当時のラオ外務大臣に直接話しを進めていることを知り、解決近しと喜ぶもその後の情勢は遅々として進展なし。

 昭和50年になると林も印度に渡り、経済企画長官に就任したシャヌワーズさんを訪ねて印度の状況を聞く。情勢は変わらねど将軍の情熱は決して変わらない ことを知り安堵して帰る。こうした状況下に歳月は過ぎてゆく。昭和53年33回忌に江守会長の病いは重く入院されて間もなく還らぬ人となり悲しみは深くな る。

 第三代に就任された片倉会長は年齢的なことを考慮して金富与志二氏の尽力により、藤尾政調会長を動かし、安倍外務大臣に片倉会長が面接する機会に恵まれ た。翌年の四月には中曾根総理の印度訪問が決定したことで、藤尾政調会長の斡旋により、高倉会長、金富、林の三人は総理の執務室で経過を説明し返還の実現 を頼み込んだ。

 同時に外務省南西アジア課長川村氏や鈴木茂伸氏にも再三請願するも空しく終わる。前年林が印度に渡航した際、シュヌワーズさんから『目下、大統領に話を 進めているので今度は実現できると思うから、日本の方々にこの話を伝えて欲しい』と聞いた私は飛び上がる程喜び勇んだ。帰国早々、会長や会員の方々に伝え て吉報を鶴首している折り、シャヌワーズさんの死亡を知らせてくる。私の落胆はどん底になっていく。

 年は移り、平成2年の春、林は心臓手術で入院中、金富さんの力添えで海部首相の訪印に際し遺骨返還を印度政府に要請することが出来たのは何よりであった。

 同年8月、45回忌を迎えるに当たり、故江守喜久子会長の次女の松島和子さんから永代供養の申し出があった。この機会に記念事業として蓮光寺境内にネ タージの胸像を建立し、『ネタージと日本人』の本も出版することが出来た。更に印度からネタージと関係の深かった9名を招待することが出来て予想以上の盛 大な行事であった。

 この45回忌と同じくして先に海部総理に請願した返電が印度政府から外務省宛に届いた。『印度国内に於いてネタージの死を否定する訴訟が行われており、 その裁判の結果が出たのち遺骨返還を前向きに検討する』。吾々は公式の返事であるからこの返電を大切に拝受することにした。

 その後の経過は、片倉会長のご逝去、続いて高岡大輔氏も亡くなり、間もなく有末精三氏にも別れ、悲しみは続いて平成6年に移る。そして春が来たら印度から思いもよらぬ人が来た。一人はネタージの妹の息子のアシス・レイさん。もう一人はプラデップ・ボースさんである。

 レイさんとは会えなかったが、プラデップさんに会って驚いた。40年前第1回の調査団で『ネタージは死んでいない』と言い続けたサラット・ボース氏の息 子である。私は『貴君の父が反対したため半世紀になっても未だ解決出来ないのだから、君が解決する様に努力してくれ』と頼んだ。まだ色々と話をしたかった が、彼は『朝日新聞と会う時間が来た。いずれ手紙も出すから』と別れたまま、未だに何の連絡もない。

 そして今年の50回忌の打合せで蓮光寺に行き住職に会ったら『アシス・レイという人が大使館から通訳が来て「遺骨が真物か偽物か調べたい。出来れば顕微 鏡で確認したい」と言った』ので、住職は『日本政府と印度政府の許可がないと駄目だ』と返答したことを聞いて私は腹が立った。

 そして若し顕微鏡まで持ってきて確認せねば信用出来ないというのであれば持っていってくれなくても良い、日本人が今日まで大切にしていた真心を何と心得るのだと言う私の言葉に住職も同意してくれた。

 要するに遺骨の返還が半世紀を経て未だに解決出来ぬ原因の一つは第1回の調査団の時のサラット・ボース氏が『死んでいない』と反対したことである。

 第二はネール首相が政敵であったネタージに対して多少憎しみがあったことで遅れたと思っている。日本軍がビルマに進駐したとき、中立的立場に変わったガンヂーに反して親英的なネールは抵抗するため中国まで飛び援蒋ルートに力を尽くしたことでも明白である。

 更に問題になったラマ・ムルティ氏から渡されたネタージの宝石箱を発表することなく秘密裡にしていたことでも判る。後半デサイ内閣になってこの宝石箱の ことが発表されたが親日的であった静的ボースに対する何らかの感情が有ったと思うのは偏見だろうか。(1994年8月18日記)


1998年08月14日(金)萬晩報主宰 伴 武澄


 8月15日。この日が近づくと毎年、日本人は総懺悔する。3年9カ月のわたった戦争は日本人だけでなくアジア人にも忘れさせることのできない悲痛な思い を想起させる。筆者は毎年8月18日には、東京都杉並区にある蓮光寺に参拝してきた。インド独立の父の一人であるスバス・チャンドラ・ボースの遺骨が54 年間、異境で眠り続けているからだ。

 チャンドラ・ボースはガンディー、ネルーに次ぐ巨頭だった。インド国民会議派の議長を務めていた1938年、ガンディーの方針に背いたことから議長職を 解任され、独自にフォワード・ブロックをつくった。急進的なインド即時独立論者として英国から最も危険視された。41年、英国による軟禁状態から脱出、ド イツに逃れ、やがてシンガポールに現れる。そしてインドの武力解放を目指して"同盟軍"としてインパール作戦に参戦する。終戦直後、ボースはソ連への亡命 の途上、台北市上空で航空機事故のため死去。遺骨は蓮光寺に仮埋葬されたままなのである。

 インド人将兵の勝利だったシンガポール陥落

 第二次大戦中、杉原千畝領事代理がビザを大量発行してユダヤ人救出したことが後世、評価された。同じようにインドのカルカッタやパキスタンのパンジャブ 地方に行ってインド国民軍(Indian National Army=INA)やチャンドラ・ボースのことを話題にすれば、日本人はどこでも歓迎されるはずだ。日本ではほとんど知られていない故藤原岩一氏は、イン ド独立の父として「メジャー・フジワラ」(藤原少佐)の名でいまでも語り継がれている。いまやだれも語らなくなった太平洋戦争の秘史の部分といってもい い。

 第二次大戦の緒戦、マレー半島のジャングルで「F」のマークの腕章を付けた一群の日本人とインド人の姿があった。F機関といった。軍服はきているものの 火器は携帯しなかった。機関長、藤原少佐の主義だった。彼らの目的は、開戦と同時にマレーのジャングル奥深く潜行、英印軍内のインド将兵を寝返らせること だった。

 英印軍が火力と兵力で圧倒していたにもかかわらず、日本のマレー進行作戦が電撃的に成功したのは、ひとえに英印軍内インド将兵が次々と投降したからであ る。英国から見ればインド人中心の部隊編成だったことが敗因である。ここのところを間違えてはいけない。婉曲にいえば、マレー作戦はインド人将兵の勝利 だった。

 1942年2月15日のシンガポール陥落後、投降したインド人将兵は5万にも上っていた。10人足らずのF機関がたった2カ月でインド人将兵の心をたく みつかんだ。戦争用語でいえば「謀略」に成功したことになる。F機関は彼らに「インド独立」を約束した。参謀本部はまったく違う思惑を持っていたが、イン ド人将兵は現場レベルの約束を信じた。それまで大英帝国を守る忠実な番犬だった英印軍は「インド国民軍」に再編成された。

 インドにはガンジーやネルーが20年以上にわたって反英闘争を続けていたが、ついに軍事組織を持つにいたらなかった。東南アジア在住100万人のインド人は、逆にインド国民軍の創設を積極的に協力、多くの私財を提供した。

 インド国民軍裁判が英国に迫ったインド放棄

 モハン・シン大佐がその再編成の役割を担った。インド国民軍創設の目的はただひとつ、「インド独立」だけだった。英印軍による180度の転身だった。1 年後、ベルリンからスバス・チャンドラ・ボースを招いてインド国民軍はさらにインド解放を目指す実践部隊に生まれ変わる。

 彼らの合い言葉は「チェロ・デリー」(デリーへ)だった。米英はインド国民軍を日本軍の傀儡とみた。インパール作戦は前線で指揮した牟田口廉也中将の発案でインドから重慶への援蒋ルートを断ち切るのが目的だったが、ボースの念頭にはインド独立しかなかった。

 戦後、英国政府が真っ先にしたことはインド国民軍将兵を「反逆罪」で裁くことだった。デリーのレッド・フォートがその法廷となった。戦争中はボースに冷 淡だったインド国民会議派は、インド国民軍を愛国者として迎え、デサイ博士を筆頭とする弁護団をレッド・フォートに送り込んだ。弁護団は「隷属される民族 は戦う権利がある」という主張を貫いた。

 この動きに全インドがハイタル(ゼネスト)で応えた。ボンベイ(現ムンバイ)にあった英印海軍の艦船は一斉にボンベイ市内に大砲の筒を向けて反英の意志 を露わにした。全インドが初めて英国に牙をむき、レッド・フォートを包囲した。反英闘争はかつてない高まりをみせ、裁判を有利に導いた。起訴されたインド 国民軍将兵は有罪となったものの、「刑の無期執行停止」を勝ち取った。英国は当初、戦後もインド植民地支配を続けるつもりだったが、インド国民軍裁判でイ ンド放棄を決断した。1946年1月のことである。

 ここらの経緯は日本の教科書には一切書かれていない。カルカッタやパンジャブ地方の人々には「チャンドラ・ボースは死してインド独立を勝ち取った」という思いがある。カルカッタはボースの故郷であり、パンジャブ地方はインド国民軍将兵を多く生んだシーク族の故郷である。


 チャンドラ・ボースの遺骨が蓮光寺からインドに移されない経緯は複雑だ。戦後、ボースの遺骨を守り続けた林正夫氏の手記に譲りたい。林氏の手記は明日配信します。
  「堺屋太一氏は経企庁に抗議して長官を即刻辞任すべきだ」を読んで
 1998年08月09日(日)ジャーナリスト 朝倉 渓

 8月1日の堺屋氏の経企庁長官辞任すべしは、極めて同感です。あのニュースに接して、官僚機構の強さよりも人間の欲深さを感じていました。市井の評論家・作家として昨日まで毅然と行政を批判していた人間が、長官となるや人格の喪失と引き替えに守るべき地位とは何か。

 単体の民間組織から国家まで権力構造の上位に上るに従って、自分であり続けるための信条を易々と売り払える人間性の不確定さ。しかし堺屋氏の精神構造と行動を自分レベルに置き換えた時、多かれ少なかれ誰でもが持ち合わせている精神構造であり、行動であるはず。

 批判は簡単だ。己は批判を受けない場所を確保した上で、批判の対象となり得る者への批判を許されている事実そのものが民主主義を物語っており、また批判を受けるのは権力を持つ者の当然の責めなのだろう。

 深い見識と博学に裏打ちされ、政府の愚挙、蛮行をペンの力で、ある時は講演で指摘していた物書きとして民間人の雄たる堺屋氏であっても、国の側に身を置き、権力を手にした瞬間に投げ売りできるほど人間の信念や理念など極めて脆弱なのもなのだ。

 戦後民主主義に培われてきた偽りの性善説に、日本人は生きる拠り所を求め、己を平和主義者と信じることで気持ちよく生きようとした。「私は性善説に立っ ている」なんて凡そ馬鹿でも無い限り口に出来ない言葉を平気で発言する輩が学識経験者などと言って発言している姿に、何故嫌悪を感じないのか。性善説であ り、平和主義者を疑問無く口にできる輩は無責任主義者でしかないように思われる。

 そして日本版ビッグバン、日本版ブリッジバンクと同様のまがい物の日本版デモクラシーは、大衆が感じている本音を隠し、国を批判することでガス抜きをさ せる巧妙な手口で、国民を操る政略なのだろう。何故、日本人は気づかないのかと問えば、戦後の平和享受に疑問すら抱かない我々の敗北であると言わざるを得 ない。

 そして堺屋氏を批判し、「信じていたのに、裏切られた」と思うことで、自らの類似性を無意識下で否定し、正義を語った振りをしているのが大衆ではないだ ろうか。所詮、堺屋氏が見せた人間性は、私たちと五十歩百歩であることを正直に認められないのは、堺屋の裏切りを認知した上で批判したら、その批判の矢は 己に向き返り、少なくとも自分自身の内面性に気づかされるからである。だから自分とは遠く離れ、責任のないたところで堺屋氏を批判するぐらいが、大衆の本 質なのではないか。

 報道のどのページに、伴さんが書くような本音の解説なり批判記事があったろうか。社会の木鐸などと偉そうなことを言いながら、その実は行政なり、企業なりに取り入ってネタを貰うのがせいぜいと言った日本の報道に本当のことなど書けるはずがない。

 萬晩報は既に趣味の域を超えています。そして読む者を納得させる力を持っています。萬晩報の最後があるとすれば、これまで通り出版という形で終焉するのですか。伴さんの近い将来について願わくば、「萬晩報を超えて・・・」ということです。

 では。

1998年08月07日(金)萬晩報主宰 伴 武澄


 政府統計への不信感は、1998年02月20日の「 西友物価指数とつかみ損ねた価格破壊」で書いた。今回はコメの話をしたい。総務庁が発表する消費者物価指数は、調査項目と調査地点が国民の実際の消費とあまりにもかけ離れていることから信頼性が揺らいだ。コメの作況指数は調査数値をそのまま発表せず、集計段階で鉛筆をなめている可能性が否定できないのだ。

 湧き出てきたないはずの国産米

 「ほんまにコメがそんなに出来とんのか」-。1993年の凶作から一転して1994年産米は大豊作だった。しかし、農水省が発表する作況指数に対してコメ流通業者から「去年は低すぎたし、今年は高すぎる」「政治的意図を感じる」など疑問視する声が出ていた。

 作況指数に政策的意図が入る余地はないか、どこまで収穫量を正確にとらえているのか、不満が噴出する背景を取材して記事にしたことがある。1994年11月のことである

 どうして作況指数に関心を持ったかといえば、農水省を担当していた1994年6月ごろ突然、コメの卸業界から「国産米が次々と湧き出てきた」という話が出ていたからだ。

   いうまでもなく前年は「作況指数74」というとてつもない凶作だった。普段の年の74%しか収穫できなかった。この「74」という数字に対して「10ポ イント、量にして100万トンぐらい違う」「農水省はコメ輸入解禁のショック療法に低めの数字を出したに違いない」。こんな声まで出ていた。

 1993年はウルグアイラウンド(多角的貿易交渉)の最終年度で、日本は12月までのコメ市場開放の決断を迫られていた。結果的にミニマムアクセス(最低量輸入)という選択肢を取り、国内のコメ不足も相まって日本は1994年からコメの輸入を解禁することになった。

  政府発表では、3月の時点で食べ尽くしていたはずの国産米がその後も市場にあり、6月になると「湧き出した国産米」によって60キロが5、6万円にも高騰 していた卸売り価格が見る間に下落に転じたから、流通業界が前年の「作況指数74」を疑ったのも自然の成り行きだった。

 県レベルで操作される可能性ある作況指数

 本当に、農水省はコメの需給を操作するために、政策的に作況指数を調整する可能性はあるのだろうか。そんなところから取材は始まった。

 作況指数はそもそも、年度の収穫量をはじくために計数。現在の方式になったのは1951年からだ。農水省の地方統計情報事務 所が全国3万カ所の田んぼを実際に坪単位で刈り取り、収穫量予想を8、9、10月の3回のわたって計測、平年作との比較を指数化する。10月の段階では農 林水産統計観測審議会という長い名前の審議会の農作物作況決定部会にも諮って発表する。

 まず卸業界でうわさされた「94年の作況指数に関しては農水省の統計情報部内部で作況論争があった」との疑惑に、大河原農水相は「政策的意図が入る余地はあり得ない」と断言した。コメを主管する食糧庁でも答えは同じだった。

  農水省の統計情報部は「われわれの調査の精度の誤差はは0.4%以内」と疑いを一笑に付し、ないはずの国産米の流通については「作況指数で落とされる規格 外米が市場に環流しているのではないか」ともっともらしい回答だった。卸業界が言っていたのは100トンである。規格外米が収穫の十数%もあるとは思えな かった。

 しかし、県レベルとなると話は違った。1993年11月、福井県農協中央会は「従来から福井統計情報事務所の調査方法に疑問を 持っていた。10月15日時点の福井県の作況指数89は高すぎる。実際の指数は10ポイント下回る」などと修正を求めていた。数字を調整できないはずの作 況指数に修正を求めていたということはどういうことなのか。

 関係者から「県レベルの作況指数の決定には都道府県の農業委員会や農業試験 場、農協代表などの意見を取り入れるため、調査結果から1、2ポイント動くことはある」との証言を得た。一部の農家からは「大抵の場合、作況指数による予 想収穫量よりも実際の収穫量の方が多い」との本音の声も聞いた。

 取材が十分だったとは思わないが、県レベルで作況指数が調査結果から変動する可能性は分かった。農水省で数字を操作することはないち抗弁しても、県レベルで操作されていたのでは指数の信憑性は薄れる。

 作況指数は、コメの市況に敏感に反映するため、農家や卸売り行にとって例え1ポイントでも深刻だ。結果として、1993年の 需給見通しを見誤った食糧庁は政府在庫として緊急輸入米90万トンの余剰を抱えることになった。足りないはずのコメが出てきたから輸入米が余ったのであ る。

 コメ凶作、コメ市場一部開放、緊急輸入、そして大豊作と激変した1993-94年の日本の食糧管理。新食糧法の導入でコメの国家管理は基本的になくなったが、逆に作況指数は重要視を増している。山種産業の役員が漏らしたことを思い出した。

 「農協も市場も、もう農水省の作況指数を信じていない」。


1998年08月05日(水)萬晩報主宰 伴 武澄


 むかし、福田赳夫という政治家がいた。大蔵官僚から政界に転じ、「財政の福田」と名乗った。ひげを生やせば当時、テレビドラマで人気だった「水戸 黄門」に似ていたから「昭和の黄門」とも呼ばれた。大蔵省出身だからみんな財政の専門家と思っていた。1965年の証券不況時に日本が初めて国債を発行し たときの蔵相である。国債発行で1965年度の日本の財政は"赤字がゼロ"になったから、国民はみんな福田蔵相に救われたと思った。

 特例でスタートした日本の国債発行

 福田蔵相が発行したのはたった2000億円である。不況で税収が予定通り入らなかったからその穴埋めに国債を発行した。つまり借金である。そのときは建設国債ではなく、いまでいう赤字国債だった。

 財政法という法律では、公務員の人件費などに充てる費用のために国債を発行してはいけないことになっている。だから「特例国債」とか「赤字国債」と呼ばれる。あくまで特例なのだが、戦後初の国債発行が特例からスタートしたことが日本の不幸の始まりだった。

 ちなみにその後の財政改革で大蔵省が掲げたのは「赤字国債発行ゼロ」目標でしかなかった。国債発行の減額にはつながるが、サッチャー元英首相が1980年代後半に実現した「国債発行ゼロ」とは質的に違うのだ。

 橋本政権が一昨年末に掲げて、いままさに小渕政権が旗を降ろそうとしている「財政改革法」の中身もまた赤字国債の削減でしかない。日本では「赤字国債はいけないが、建設国債はいくら発行してもいい」といった程度の認識しかないのである。

 借金の元本を返したことがない大蔵省

 話を元に戻すと、1965年以来33年間、日本の財政は借金(国債発行)なしでは回らなくなった。それより見逃されている重要な事実は、国債の元金がほとんど返済されたことがないという現実である。

 いつの世でも、個人や企業の借金は返済するものだが、この国の常識ではそうでもないらしい。大蔵省の官僚たちは基本的に33年間、国債の利子だけを払い、涼しい顔をしてきた。頭のいい大蔵省の官僚たちはインフレが起きれば、相対的に返済する負担が減ると考えた。

 国の借金のうち、大部分は長期国債と呼ばれる10年物の国債で賄われてきた。確かに10年後にインフレでお金の価値が下がり、相対的な返済負担は減った。しかし、問題は国債の償還日がきても大蔵官僚たちが返済すべきお金を準備していなかったということだった。

 ここからが大蔵官僚らしい。「そうだ。まるごと借り換えればいい。金利もいまのまま払い続ければ大した負担でない」。ところが、借り換えた年もまた借金 に依存した予算を組んでいたから、借金は雪だるま式に増えた。財政の専門家たちは来る年も、来る年もそんなことを繰り返してきた。

 でも官 僚たちはまたいつかインフレが来るだろうと高をくくって心配することはなかった。いつのまにかこの国では、国債発行は未来永劫に返さなくていい借金の意味 となった。財政の専門家というのはこんな犯罪的な予算編成を苦もなく続けられる精神構造を持った人々のことを言う。

 今日のようにたくさん の借金をしなければ予算を組めなくなったのは1970年代の後半の第二次オイルショックからである。ピークの1979年には年間予算の55%しか税収が確 保出来ず15兆円もの国債発行を計上した。実はそのころの借金の2度目の借り換え時期がいま来ている。1979年当時の15兆円は89年に借り換えられ、 来年にまた借り換え時期が到来する。

 大蔵省が毎年末に発表する次年度の一般会計予算は新しく借りる国債の金額だけが計上され、過去の借金の借り換えについてはほとんど言及されない。いつの間にか国債の残高が増えているのはこんな背景があるからだ。

 来年度の国債発行額は70兆円?

 1998年度予算ベースでの国債発行額は15兆5570億円。来年度の予算ではもっと増えるだろう。これに小渕政権が公約したばかりの7兆円の減税が加 わる。さらに金融機関救済の30兆円枠があり、これに過去の借換分が15兆円控えている。合計すると年間の予算に匹敵する金額である。元金を返済してこな かったつけがこうやって経済危機を増幅しているのである。

 冒頭に福田赳夫氏の話を持ち出したのは、今日的意味合いで財政の専門家というのは「どうすれば国の歳入不足を穴埋めできるか」を知っている人のことをい うようになっているからだ。専門家ぶって難しい財政用語をまくしたてられると素人は黙らざるを得ないが、素人に分からない財政など何の意味もない。

 本来、財政の玄人はお金を使わないという鉄則を守る人ではないか。足りない時に借金をするのはだれにでもできる。だけどいつまでも借金を増やし続けることができるのだろうか。個人や企業だったら、とっくの昔に銀行から見放されているはずだ。

 国だから借金を踏み倒しはしないだろうと考えるのはあさはかである。第二次大戦のときの大量発行した国債が戦後、紙屑になった。そんなに昔の話ではない。北朝鮮は借金を返済しなくなったから国際社会は10年前から、だれも相手にしなくなったのである。

 景気浮揚のために減税が必要だという議論は間違いではない。だがその財源となる国債を買っているのはだれなのだろう。答えは金融機関である。ふつうの市場経済では国の借金が増えれば金利が上がるのが道理だが、この国では一向に金利が上がる気配にない。

 なぜ、金融機関はこんな金利の少ない国債を唯諾々と買い続けているのだろうか。理由は簡単である。日本の金融機関がすねに傷を持っているからである。国に押しつけられてきたともいえる。

 だが金融機関といえどもいつまでも日本の財政につき合ってばかりいられない。いつかない袖は振れないときがくる。来年あたり、新規国債どころか過去の国債の借り換えを認めないことになれば日本の財政はどうなるのだろうか。考えるだけでも恐ろしい。


【財政法4条】(1)国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない。但し、公共事業、出資金及び貸付金の財源については、国会の議決を経た金額の範囲で、公債を発行し又は借入金をなすことができる。戻る
1998年08月03日(月)萬晩報主宰 伴 武澄


 7月27日号「スタンフォード大が育んだハイテク都市(1)」の続きです。シリコンバレーの八木博さんの帰国講演会から。

 Dog Yearを体得するシリコンバレー

 八木さんは、シリコンバレーでの1年は通常の7年分の速さで過ぎていくという。ビジネスの速さが違うそうだ。東西40キロ、南北60キロの中で毎日のように新しい成功者が生まれ、成功物語を語るセミナーがあちこちで開催される。

 社会人でも学生でもそうした会場で、直接、功を成したCEOと直接対話でき、また新たなビジネスが生まれる。日本で1カ月とか2カ月は十分にかかるよう なビジネスが、ここでは「明日、会社に来ないか」というような形で進み、1、2日で片付くことさえある。相手が単なる学生であってもそうらしい。

 バーで飲んでいても「おもしろそうな話だね」とこれまた出会い頭のビジネスに発展する。特徴的なのはそこに年齢や人種の壁がないということだ。八木さん によれば、「まず多くの人がカリフォルニアのゴールドラッシュのパイオニア精神を持った人々の子孫であること。それから、ここに住む人々は東海岸(イース トコース)へのライバル意識はあっても西(アジア)への違和感が少ない」ということになる。

 世界中からアイデア、人材、資金が流入してスピード感あるビジネスが展開され、まさにイヌの1年の成長が人間の7年分にあたるというドッグ・イヤーの世界がここに実在する。

 特異なことはネットワークの形成だ。しかも従来型の垂直ではなく水平型だという。重要なのは企業と企業の関係ではなく、個人と個人のネットワークであ る。人的ネットワークの拡大に貢献したのは後に述べるスマートバレーというNGO(非営利団体)の存在だ。多くの企業はすべての業務を社内に抱え込むので はなく、逆に社外に放出する。アウトソーシングは1990年代のアメリカ企業のキーワードとなっているが、シリコンバレーでは企業戦略までアウトソーシン グする企業も多く出現している。

 ベンチャーキャピタルの成功率は「10に3つ」

 日本でベンチャーキャピタルは、単なる投資家だが、シリコンバレーに着目するベンチャーキャピタルは「技術に投資する」。つまり技術者たちに経営ノウハ ウを伝授し、財務の経験のない場合は有能な経理担当者を派遣するなど至れり尽くせりのサービスがある。営業のプロだって集める能力を持っている。経営コン サルタントに人材派遣業をも加味したノウハウを持たないと、ここでは一流のベンチャーキャピタルとはいえないようだ。

 普通、ベンチャーキャピタルの成功率は「1000に3つ」といわれているが、シリコンバレーの場合の確立は「10に3つ」とされ、ここ数年、投資が投資 を生む土壌となっている。ベンチャーキャピタルという経営のプロ軍団が技術者を常にサポートしてきた成果であるともいえる。

 こうして次々と生まれるベンチャー企業のほとんどでは、従業員にストック・オプション制度を導入している。ベンチャーキャピタルがベンチャー企業にチャ ンスを与え、今度はベンチャー企業が従業員に業績アップのインセンティブを用意するというわけだ。そして、こんな「賃金体系」のとばっちりを受けるのが日 系企業となる。

 八木さんの会社は、従業員にまでストックオプション制度を導入していない。社員を募集しても誰も応募してこない。それでなくともシリコンバレーの雇用は逼迫している。

 スマートバレーが目指した「Quality of Life の向上」

 好景気に沸くシリコンバレーも1992年ごろは不景気のどん底にあった。民・官・個のNGO「スマートバレー」がこの年、発足した。5年間と時間を区 切って21の自治体が協力して意識改革に乗り出した。掲げた目標は「地域経済の活性化」と「Quality of Life の向上」である。リーダーたちは規格統一や手続きの簡素化に奔走し、部門ごとの壁をぶちこわしていった。

 官民一体は日本語にもあるが、シリコンバレーでは私利私欲や名声を目的とする人々は次々と排除された。残ったのが個人レベルのネットワークだった。

 経済的にシリコンバレーが変わったわけではないが、参加した人々にとって「情報の共有」や「人脈の拡大」が大きな成果となった。八木さんによれば「シリコンバレーが競争と協働するコミュニティー」に生まれ変わったという。

 そのスマートバレーは役割を終えて年内に解散する。


1998年08月01日(木)萬晩報主宰 伴 武澄


 1998年8月1日朝刊のトップニュースは堺屋太一経企庁長官の「経済見通し修正発言撤回」事件であるべきだった。

 小渕内閣で唯 一民間から選ばれた閣僚として「国民にうそをつかない行政」を第一声にしたことが7月31日夕刊で伝えられ、日本経済新聞は1面トップに掲げて歓迎した。 それなのに半日後には「撤回発言」である。官僚の圧力がかかるなと思っていたらその通りになった。うそつき官僚の中に入ってせっかく勇気ある発言をしたの だから、官僚の抵抗にあったらその官僚を更迭するか自ら退くしかない。

 「偽りの政府経済成長見通し」こそが日本経済ダッチロールの元凶

 もし堺屋太一氏が官僚の抵抗を理由に組閣の翌日、即刻辞任していたら第一級のニュースである。マスコミは、そんなニュースを発信した堺屋氏の1日経企庁長官に大きな紙面を提供したはずだ。国民ももう一度堺屋氏に大きな拍手を送っていたに違いない。

 官僚の意のままに動く堺屋氏の姿はもはや見たくないし、そんな経企庁長官を続けるのならば、サラリーマンの圧倒的支持を受けてきた「市井の物書き」として堺屋氏の生命ももはや終わりだ。

  共同通信が配信したニュースに沿って2日間の堺屋氏の発言を追うと、就任直後の記者会見では「今日の経済状況を、正しく思惑を挟まず正確に伝える」 「1998年度の1.9%という政府の経済成長見通しの実現は無理」「4-6月期の国内総生産(GDP)速報が出たら、それを元に成長率を検討したい」な どと発言し、政府が昨年12月に決めた経済成長見通しを修正する方針を打ち出した。

 実現不可能な見通しを元に経済運営はできないし、まさにこの「偽りの政府経済成長見通し」こそが、90年代の日本経済をダッチロールさせてきた元凶でもあっただけに堺屋氏の就任会見は専門家から好感をもって受け止められたのである。

 経済成長見通しを年度途中で修正した例は過去にほとんど見当たらないし、修正作業は政府の税収見通しの変更につながり、大蔵省としては年度予算の見直しを不可欠にするだけになんとしても避けて通りたいのは分からないわけではない。

 だがよく考えてみれば、税収が当初予想通り入りそうにないことが分かった段階で歳出の抑制は避けられないはずである。一般の家庭で来月から収入が減りそうだと分っていていままでの生活を続けるような人はいないだろう。

  予定していた家族旅行をやめたり、大型消費財の購入計画を断念したりするのは当然のことである。国家だけが「当初計画だから」といって当てに出来ない収入 を元に支出し続けていいのだろうか。まさに堺屋氏はこの点をついて「うそをつかない行政」を第一声にしたのではないのか。筆者も90年代に続けてきた「偽 りの政府経済成長見通し」からの脱却という英断に拍手を送ったのだ。

 金融監督庁が緊急発表した目くらましのニュース

 しかし、7月31日には政府部内でもっとすごいことが起きていた。大蔵省の付属機関と化している金融監督庁が夕方、大蔵省の接待汚職事件に関する贈賄側 の大手9銀行と4証券に対する行政処分を発表した。予定にない緊急発表である。こうした発表が夕方から行われるのはまさに異例である。

 筆者は、大阪支社経済部にいてこのニュースの第一報に接した。「堺屋氏の前言撤回に持ち込んだ官僚批判からマスコミの目をそらすために、第一級のニュースを発表したに違いない」と直感した。後輩記者もすかさず「目くらましですね」と同感した。

 記者発表の席上で官僚と記者との間にどんなやりとりがあったかは知らないが、これは大蔵省の暴挙である。

 官僚が閣僚発言を訂正させた例はこれまでにもいくつかあったが、今回の堺屋発言撤回は事件である。起こしたのは大蔵官僚である。それ以外に考えられな い。そして自ら起こした事件の存在を覆い隠すために新たなニュースを発表したのだとしたら、これは犯罪である。国民に対する背任行為である。

 だから堺屋氏は、1998年7月31日に経企庁内で起きた官僚とのやりとりをすべてさらけ出して即刻、長官を辞任すべきなのである。


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