1998年6月アーカイブ

1998年06月30日(火)アジア国際通信主宰 神保 隆見


 多様な人種が同じ商品を購入

 イギリスでは、鉄道は都市と都市とを結び、すでにそこに住んでいる人々を大量に輸送するために建設された。しかし、アメリカの鉄道は、開通すれば利用する人口が生じるだろうといった希望の下に建設され、「出発点も終点も不明確なままに走る」こともしばしばあった。

 ちょうど南北戦争の時期に、鉄道は西部をめざましい速度でおおっていった。鉄道は人々を引きつけるのに成功し、また人々が必要としたり生産するものを輸送することによって繁栄した。

 1919年、イギリスの経済学者アルフレッド・マーシャルは「工業製品に対するアメリカの需要の同質性」に強い印象を受け、「アメリカの生活においてほ とんど支配的な要素となっている人種的な多様性さえも、この同質性を少しも減じてはいない。感覚、生活様式、さらには職業においてさえ、スカンディナヴィ ア人はイタリア人と、あるいは土着のアメリカ人はポーランド人と、非常に違っているとはいえ、それでも彼らはほとんど同じ商品を購入している。もとより気 候の相違が酌量されているが、彼らは同じような衣服、家具、器具を買っているのである」と指摘している。

 『ワード』や『シアーズ』の顧客から成るこの消費社会は,南北戦争終了時にはまだ存在さえしなかったが、半世紀そこそこの内に数百万人の顧客を数えるまでになった。

 20世紀中葉には、『シアーズ・ローバック社』はこの国最大の小売業者となっている。明らかにワードの事業から影響を受けず、まったく別の道をたどりな がら、ワードよりさらに大規模なものになる「通信販売事業」に乗り出したのが、リチャード・ウォーレン・シアーズであった。この若者は、他人の資本の利用 および組織、とくに鉄道の活用の仕方について鋭い洞察力を備えていた。

 鉄道駅長の時シアーズはチャンスを見出した

 1886年にシカゴの宝石会社が送った時計の包みが、近くのレッドウッドフォールズで宛先人により受領を拒否されるという出来事が起こったが、鉄道駅長のシアーズはここに彼のチャンスを見出した。

 当時、卸売り業者が小売商人に委託販売用の商品を送ることが一般に行われていた。実際に卸売り業者は注文を受けていない商品を発送して、在庫品を処分し ようとすることが時々あった。あるいはまた彼らは虚偽の住所に故意に荷物を送り、鉄道の駅の係員が配達不能と連絡すると、係員にその商品を「半値」で提供 したいと申し出たりした。この方式にしたがって、シカゴの宝石会社はシアーズに「半値」で売りたいと申し出て来た。

 6ヶ月間におよそ5000ドル儲けて、シアーズは駅長の職を辞し、ミネアポリスに『R・W・シアーズ時計会社』を設立した。彼の独創的な販売方法の1つ に「クラブ計画」というのがあった。これは38人がクラブを作り、各人が毎週1ドルずつ供出し、毎週クジで1人が時計を手に入れる。それを全員に行き渡る まで38週間続けるというものだった。こうした「クラブ・メンバー」が全国に2万人を超えるようになっていた。

 満足していただけなければ返金いたします

 最初から彼は、利ざやは小さいが大量に売り、資金の回転を早くする方式をとった。これはすべて、絶えず拡大する消費社会に大々的に宣伝することにより可 能となった。時計製造業者で端物印刷業も営んでいたアルヴァー・カーティス・ローバックの助力を得、宣伝の才能を発揮した。彼の商売は、「満足していただ けなければ返金いたします」といった良心的で誠実な保証と、「この商品は世界で最良の品」であり、「永久に使えるでしょう」といったけばけばしい大げさな 主張とを織り交ぜたカタログをもとに築かれた。

 1893年,『シアーズ・ローバック会社』という社名が用いられるようになり、衣服、家具、ミシン、乳母車、楽器などを含む広範な商品を扱うようになり、カタログも196ページの厚さになっていた。

 巨大な通信販売機関の発展に伴い、カタログは消費者社会の急速な成長を促進する新しい出版物の役割を演じた。消費者を説得し、引きつけなければならな かったので、商品に関する情報提供以上の内容が盛り込まれ,やがてカタログは「アメリカの文化」にまで成長していくことになる。

 人々の手にカタログを行き渡らせることが最初の課題であった。この点、「地方無料郵便配達制度」が大きな恩恵をもたらした。シアーズが成功を収めた企画 の1つに、カタログの配布作業を引き受けた人々に24冊まとめて送る方式があった。「配布人」がカタログを配った新しい顧客の購入については30日間記録 がとられた。配布人は購入を促進した額に応じて報酬を受け取った。

 カタログ配布量が驚異的に増加

 カタログの配布量は、1897年(数量の明らかな最初の年)のおよそ31万8000部から1904年春季カタログの100万部以上,翌年春季の200万 部以上、1907年秋季の300万部以上へと驚異的なまでに増加した。カタログの配布量はその後も着実に伸び、1920年代後半には各季について700万 部に達した。

 1927に『シアーズ・ローバック』は1000万通の回状,1500万部のカタログ、2300万部の中間特売カタログ、その他の特別のカタログを発送 し、その総計は7500万部にのぼった。配布部数の増加とともに、カタログはいっそう大きく,鮮明になった。1903年にシアーズは専用の印刷所を設立 し,カタログの質は年毎に改善されていった。カラー印刷ができるとともに軽くて郵送料が安くてすむ新しい紙を製造しなければならなかった。

 カタログは「農民のバイブル」「子供達の教科書」

 植民地時代以来,アメリカ人はしかつめらしい論文よりは年鑑、新聞、雑誌、手引き書といった分野で優れた手腕を発揮してきた。体系だった不朽の労作よりは,当面の問題に関連したトピック的なその場限りの出版物の方が、アメリカの生活をいっそう端的に表現していた。

 信心深い農村の消費者が後ろめたさを感じることなくカタログを「農民のバイブル」呼んだのは、決して偶然ではなかった。カタログは新しい農村消費社会のバイブルとなり、多くの農民が聖書よりもワードやシアーズの大冊子にいっそう親しんで生活するようになっていった。  小さい子供が日曜学校の先生から、十戒はどこにのっていますかと質問された時、躊躇せずに「シアーズ・ローバックです」と答えたという話はよく知られている。

 今や農村の子供達は新しい消費社会のバイブルを通して勉強していた。農村の学校で,子供達はカタログを使って読み書きを教えられ,注文用紙をうめたり、項目を足したりしながら図画の練習をし,郵便配達区分地図を見ながら地理を習得した。

 子供用の本がほとんどない家庭の母親の多くは、カタログの絵を見せて子供をあやしたりした。アメリカ農村の子供達は、シアーズやワードの大きなカタログを現実の世界のあらゆることについて学び取れる本と考えた。

 アジア国際通信 アメリカ特集 5 (NO.167,97/6/1)から。
神保氏のホームページ  http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2070/
1998年06月29日(月)萬晩報主宰 伴 武澄


 5月4日付萬晩報「ペットボトルで毎年1兆円を捨ててきた日本人」には多くの激励と批判のメールをいただき、5月9日付で【読者の声】に掲載したが。その後も感想が届いている。なかでも筆者を勇気づけてくれたのは「飲料業界に従事している」という方からの5月21日付のメールだった。

 お金のかかる作業をお金をかけて作り出しお金をかけて捨てている

 「飲料業界に従事している」方のメールはまず、

「記事に相違ないと考えられます。なぜならば、私もその飲料業界に従事しいているからです。ペットボトルで毎年1兆円を捨ててきた事が、来年はもっと加速して行くのが現状と思います」

とし、その理由として下記のように述べている。

「2年前までは、1.5-2リットルの大型ペットボトル主体で生産もあまり多くありませんでしたが、昨年から小型ペットボトルの登場で、今年の生産数量は昨年の1.5-2倍が予想されます」

「一部には飲料業界の成長が鈍化傾向にあり、容器変革による注目度アップと小型ボットルの飲み残しやすさが消費者に受け入れられたと業界では分析していま す。そしてまだまだ来年については、生産工場の増加とペットボトルメーカーへの供給量のアップを指示しているしだいです」

「私は、飲料業界に従事しながら、缶飲料が増えれば缶処理設備を作りリサイクルし、同じようにペットボトル飲料が増えればペットボトル処理設備によるリサ イクルとなる状況について、まさしくそれなりに"お金のかかる作業をお金をかけて作り出しお金をかけて捨てている"とつくずく考えさせると思いです。来年 は、軽く1兆円を超えると思います....。」

といった内容が続く。

 水量り売り1.5リットル=100円の生協

 萬晩報のコラムに対する批判はまず「アメリカの使い捨ては日本以上」「容器持ち込みでジュースが買えるようなところはない」という事実関係に誤認がある との指摘があった。確かに筆者のワシントンでの体験はアメリカ全土で行われている売り方ではないかもしれない。一部での現象を「アメリカでは」と書いた部 分については拡大解釈と反省している。

 実は5月から京都生協がミネラルウォーターの充填(じゅうてん)自販機を店頭に設置し始めたことが分かった。ペットボトルを持ち込めば機械が充填してくれるのだが、驚いたのは水道水を濾過しただけの水が1.5リットル=100円という価格である。

 空のペットボトルを繰り返し利用する発想には拍手を送りたいが、はるばるタンカーで輸入した原油を精製して売るガソリン価格が30円強(ガソリン税は53円)でしかない時代にあまりにも暴利をむさぼる商法としかいえない。これでは環境もへったくれもない。

 宝酒造がスタートさせた量り売りの試み

 6月20日、京都の宝酒造が焼酎の量り売りを開始するというニュースを共同通信が配信した。地方紙に掲載されてお読みになった方もいるかもしれない。昨 年8月から青森県で試験的に量り売りを導入したところ好評だったため、東日本の18都道県で7月から実施することになった。

 酒屋には1キロリットルのステンレスタンクで配送し、店頭でお客が持ち込んだビンかペットボトルに入れて販売するという。同社は「焼酎でうまくいったら他のお酒にも量り売りを拡大していきたい」としている。

 そもそもは、東京都八王子市内の酒屋である「ジャックル浦島屋」が始めた酒の量り売りに触発されたのがきっかけだ。電話取材によると、「ジャックル浦島屋」ではビールまで量り売りをやっているいて、全国の酒屋から問い合わせが殺到しているらしい。

 日本も捨てたものではない。ただ浦島屋によると、4リットル入りのペットボトルの価格は240円もするそうだ。

 全国を探せば、このような例がいくつもあると思うので、ご近所で見つけたときはぜひ、萬晩報にご一報下さい。おおまかな住所と店の名前が分かればけっこうです。


1998/06/28 山中和

 梅雨の始まりを告げるような雨の中、第1回萬晩報FORUMが6月21日(午後2時から7時)、大阪で開催されました。このページでは会の様子や雰囲気、またどんな会話や議論がなされたかを中心に紹介したいと思います。どうぞくつろいでご覧下さい。
会場の様子
 36人の出席となりました

 
 やはり日頃インターネットを使っている人が集まっているためか、コンピュータ関係、プログラム関係の仕事をしている人が多かったのですが、その他にも記 者・医師・製造業・出版業・研究員・学生など、多彩な職業と年齢層の人達が、北海道、東京、埼玉、三重、大阪、京都、兵庫、岡山、香川から集まりました。

1.開会

1-1 司会者挨拶
<14:10、ほぼ定刻通りに発起人である岩間さんの挨拶で始まりました。>

「この会を呼びかけたそもそもの発端は、大変興味ある面白い記事を 100回もありがとう、という気持ちからです。あんなに面白い記事を、しかもただで(笑)読ましてくれた伴さんありがとう、ということで後ほど堅苦しいお 話でなくて結構ですから、皆様から一言ずつ伴さんに頂く時間も用意しております。・・・」

岩間孝夫さん
 

<伴武澄さんの経歴についての説明>
    http://village.infoweb.or.jp/~fwgc0017/rireki.htm

<田中宇さんの経歴についての説明>
    http://tanakanews.com/i1.htm News&Journal編集部

<明石安哲さんの経歴についての説明>
    四国新聞論説委員

 
1-2-1 祝辞

明石安哲さん(四国新聞論説委員)より

「はじめまして。今日は日本で一番小さな県である香川県から、世界で一番値段の高い橋を渡ってやってきました。伴さんとは18年前に、伴さんが共同通信の高松支に勤務していた時代に知り合ったのですが、ある種同志的な思いがあります。...」

 
「...今年の1月初め、高松にやってきて、当時私は四国新聞のコラムを1人で担当していたのですが、伴さんが、お前のコラムは最近つまらん、と言われまして、そして私が毎日書くのは大変なんだぞ、お前だってやってみろ、と言ったところ俺だって書ける、と言われたのが萬晩報のそもそもの生い立ちだった訳です。...」

明石安哲さん
 

1-2-2 祝辞2

田中宇さん(マイクロソフトNews&Journal編集部)より

「この中でマイクロソフトネットワークをご覧になって萬晩報にたどり着かれた人っていうのはどれくらいいらっしゃるのかな。(約半数が挙手)いますねー。...」

 
「...僕んとこはいつも2人でなんとか記事を書いているのですが、やっぱりどうし ても休みたいときがあって、そうすると誰か外の人に原稿を頼まなくてはならないけど、お金がかかるんですね。最初は高いお金を払ってたんですがアメリカの 本社の方からお前ら金の使いすぎだ-、というのがきまして、誰かただで書いてないかなと、そこで見つけたのが先輩の伴さんだったんですね。...」

 
「...こうして集まって横のつながりが広がることによって、今までなかったような人脈・情報がどんどん多様化していく、しかもお金のやりとり無しで、というのは全く新しい動きだと思います。...」

田中宇さん
 

1-3 本人挨拶

  伴武澄さん 共同通信

 「先日はサラダ記念日じゃなくてヨロズ記念日でしたが、今日は最も感激すべき日だと思います。昨日の夜に配信したのが約4300通、ヒット数は今頃9万の大台にのっていると思います。日によって、書いた材料によって伸び率は違うのですが、MSNNews & Journalのページに載った日の伸び率がやはり大きくて、メディアはやはり強いということを感じます。...」

 
「...インターネットの社会衝撃というのは基本的にただの世界だろうと思っています。サーバーを持っている企業や大学から発信すれば市内電話の回線料金もいらない。アメリカのネット社会が何故成功したかというと市内回線が基本料金しかいらないという事実があります。これはバンコク、香港でも同じです。ヨーロッパの事情を私は知りませんが、日本は相変わらず時間ごとに10円が加算されている世界です。いままではこの10当たり前だったのですが、ネット社会を大きくするためにはこれが障害になります。今まで知らなかったことが、日本社会が不都合になることによって新たにそうだったのかと驚くことがここ4、5年たくさんあります。...」

 
「...実は100日のうち1日だけ記事を書けなかった日があるのですが、これは肩書きに企業名を入れてくれるないわれた日です。最近は共同通信記者ではなくて、萬晩報主宰と書いているはずですが、社内の上からその声が来た日には深酒をして書けなかったそういうこともありました。...」
 

「...100号良く書けますね、とみなさんがおっ しゃられますが、これは10年くらいの間に考えたり取材したことがフロッピーにありまして、そこを見れば使えそうな材料があるんですね。実はそのメモが種 明かしだったんですが、使えそうな物はこれまでに8割方使い果たしてしまってですね、この先材料が少なくなってしまったんですよ。そうなると萬晩報を続け るにはどうするか、ということになりまして第2部から外部筆者にただで原稿をお願いしたり、読者からの論文を掲載してなんとかやってきた訳です。・・・」

 
「そこで皆さんにお願いなのですが萬晩報を支えて頂くために、萬晩報に対する感 想文もうれしいんですが、ご自身の周りで起こっているようなことや、世の中の共感を得るようなことがいっぱいあると思うんですね。これはおかしいんじゃな いかといつも考えている事、そういう事に対する原稿を私に送ってくれないかと、そしてそれを私の個人的な見方で取捨選択させていただく、という形になれば 当面の次の目標である1年を達成できると思います。みなさんに、原稿の方も書いていただきたいとお願いして、挨拶にかえさせて頂きたいと思います。」

伴武澄さん
 

1-4 伴さんへ一言

<もともと一言だという主 旨だったのですが、皆さんやはり主張したいことをたくさん持っておられる方達が大勢集まったということもあり、予定の3時を大幅に越えて4:30頃まで食 い込んでしまいました。ここではそうした皆さんの声の中のごく一部を抜き出して紹介したいと思います。>

 
「これからも無理してがんばって欲しいです。」

「いつも目を開かれます。」

「初めてこのページを見つけた時は3時間ほど仕事ほっぽらかしで読みふけってしまいました。」

「札幌から時空を超えてやって参りました。」

「表現力を高めて頂きたい。」

「切り口が斬新です。」

「今までご苦労さまでした。」

「新鮮な印象を受けます。」

「形はどうであれ末永く頑張って頂きたい。」

「こういう世界もあるのか、・・・」

「伴さんは社内では最もデスク(いわゆる管理職に近い立場)らしくないデスクです。」

「共感を覚えます。」

「萬晩報(よろずばんぽう)をなんて読むのか今日まで知りませんでした(笑)。」

「魂が入っていると思います。」

「視点を頂いています。」

「髭面でバイタリティーの固まりのような人というイメージを持っていましたが、実は優男ですね。」

「ありがとうございます。」

「すばらしい。」

「データに裏付けられた論理的な文章を書いて欲しい。」

「業界を越えて情報発信ができるのがうらやましい。」

「体に気をつけて頑張って下さい。」

「共感を持ってる人がどんな人か会いたいと思ってやって参りました。」
 

2.意見交換「萬晩報の今後のあり方について」
 

<まず、有料であるべきか、無料であるべきかという議題がたたき台として挙げられました。以下はこの意見交換の時間でなされた会話の要約です。>

 

現在費用ははどれほどかかっているのか?
現在、伴さんの執筆エネルギーを除くと、継続的にかかっている費用はプロバイダーへの接続料金と電話代だけ。
それだけならなんとかなるが、毎日発行しようとすると、誰かに執筆を頼まなくてはならず、ただで頼むのは心苦しいのでせめて3~5万の原稿料の支払いをしたいが、そうすると費用がかかる。
ということで有料の議論が発生した。
         -素案-1、一月500円程度の会費を半年ごとに徴収

2、ホームページの読者に対してはただで、メール配信の人に対しては会費をとり、特別会員とする。しかしその代わりにFORUMの開催のお知らせなどの配信などで差をつける。

3、完全に寄付制にする。

4、ヒット数を増やして広告をとり、収入を得る。そのために読者はホームページランキングに投票する。

 
<などの案が出されましたが、有料化するために生じる問題点もたくさん浮上してきました。>
 

       -有料の場合の問題点-

1、5,000人以上の名簿、会費徴収の管理が低コストで可能なのか?徴収係の人件費は?

2、現在無料のページを使っているが、お金を徴収しているとなると、プロバイダーへもお金を払わなくてはならなくなる。

3、有料にして、100円でもとると、権利関係が発生して、とどかないじゃないかという声が出る。

4、今まで会社の資源を使って蓄えてきた情報・著作物を使ってお金を稼ぐのは問題あり。(日本では著作権は会社に帰属する)

 
<などなど、お金を強制的に徴収するのは不可能なのでは、という観点から広告を取るという案と寄付を募るという案が残されました。また、続けていればただでも書くという人が現れるんじゃないか、という意見も出ました。しかしここで議論は新たな展開を見せます>
 
そもそも毎日の配信にこだわる必要は全然ないのではないか?
毎日だと質が落ちるのでは?
私は伴さんの記事が読みたいのだから他の記事は必要ない。
 
<読者がいる限り命を懸けてでも毎日書くべき、という意見もありましたが、毎日である必要は全然ないというのが多くの意見でした。ところが>
 
伴さんはどうお考えですか?
どのような形であれ、毎日または1日おきに配信しないと怠けてしまう。2、3日空けるとそれは4、5日もすぐに同じになり、どんどん怠けてしまう。
 
<というご本人の強い主張があり、>
 
これはそもそも伴さんのページなのだから伴さんが好きにすればいい。
そうだそれが当たり前なんだし
そしてその伴さんの作業のうちで、原稿の執筆も含めて例えばネットに関する知識など、お手伝いできることがあればしていこう
これからのFORUMの場は伴さんと読者、そして読者同志の意見交換・歓談の場所の提供を目的としていこうではないか
 
<という結論に一通りの収束を見ました。>
 

2.懇談

 ここからはビールを交え、立食形式(と言ってもスナック菓子などのおつまみがあるだけなのですが)で各人自由に伴さんや他の参加者との懇談が始まった訳ですが、この場でいつの間にか今回のFORUMの名称が決まりました。その名も傘 会(ばんさんかい)。「さん」の字に関しては「参」・「賛」・「三」などの候補(中には「酸」「惨」「散」などもありましたが)の中から、ちょうど当日が 雨であったこと、また某企業で広報部長をしておられる方が、これは「いろんな意味に取れていい!」と強く推薦されたことなどから「傘」が最終的に採用とな りました。
 

また同時に今回発起人となりお世話して下さった岩間さんを傘会大阪支部長とし、東京支部長の選任も岩間さんに任するということが満場一致で採択され、東京での開催、果てはロサンゼルス分科会の開催(会長も決定!?)にまで話は果てしなく広がりました。

歓談の様子
最後に記念写真

<そして1時間半程の後、午後7時
 

「萬晩報をみんなが使える共有の場とすれば長続きもするだろうし、そうしたい。そうすればここから新たな情報発信ができるのではないか。これからも末永くおつきあい下さい。」というさんの言葉で会は閉会の運びとなりました・・・。

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=====================<編集後記>=========================

 今回はなるだけ、萬傘会ではどのような発言がなされたか、またどのよう な雰囲気で催されたのかを参加できなかった皆様に伝えようと構成するつもりでした。しかし発言内容・会話の流れはともかく、雰囲気がやや堅めに伝わってし まったかなと反省しております。内容にご不満の方もいらっしゃるかとは思いますが、ご容赦下さいませ。
 

 反省ついでに少々付け加えさせて頂きますと、今回は本当に手作りのFORUMでした。おつまみや紙コップなどは岩間さんが手配、配られた缶ジュースは田中宇さんが入口横の自動販売機で地道に1本ずつ買われたもの、ビールは伴ファンの1人で大阪市内の居酒屋「かぼちゃ」の女将からの差し入れ、最後の片づけも参加の皆さん自身でと、至る所に手作りがちりばめられた会でした。なんとなく雰囲気に対する印象を和らげて頂けました?

 私自身は、今回参加された方達だけでなく、お会いできなかった読者の皆様とお会いするためにも、今回の「晩傘会」が「最後の晩餐」とならぬよう、これからも出来る範囲でのお手伝いをさせて頂きたいと思います。

1998年06月27日(土)アジア国際通信 神保 隆見


 南北戦争後、アメリカへの移民が激増した。ヨーロッパ各国からの農民がそのほとんどであった。

 これら農民達が味わった「天から地への重力を一身に引き受けざるを得ない『孤独感』」は、「水平線の満ち溢れた世界観を共有する日本人」には決して理解 できない性格のものであろう。孤絶した環境に耐えなければならなかったアメリカの農民達にとって「通信販売」のカタログが果たした役割はバイブル以上のも のであった。

 「カタログ通信販売」に「妻を求める」注文も

 ワシントン州のある客はワードに、「あなたは人が欲しているあらゆる物の販売広告をしていますので、私はお手紙を書こうと考えた次第です。私は妻を求めております。どのようなことをしていただけるかご一報下さい」と書いていた。

 またある農民は「どうぞ私に良い妻を送って下さい。良い主婦で、家事がすべてできる女性でなければなりません。また背丈が5フィート6インチ,体重が 150ポンド,皮膚の色は薄くても濃くてもいいですが、黒い髪の毛と茶色い瞳の女性でなければいけません。私は45歳で、6フィートの背丈があり、容貌は 良いといわれています。髪の毛は黒く、瞳は青色です。大量の家畜と土地を所有していますが、独身生活に飽き、いっそう楽しく居心地の良い生活をしたいと望 んでおります。どのようなことをしていただけるかお知らせ下さい。お願いします」。

 ワード会社はこれらを「変人の手紙」などと処理したりはせずに、「郵便で妻を選んだりするのは賢明なことではない」と忠告する一方、「良い奥さんを見つ けたら、衣服や家庭用品が必要になるでしょう。その節は十分にお役にたてることと思います」と付け加えた。19世紀後半に、大規模なアメリカの鉄道網は他 の諸要素と結びついて、遠隔地の農民やその家族を新しい消費社会に引き入れていった。

 これを達成したアメリカの"新しい制度"が「カタログ通信販売」であった。

 カタログによる小売り販売を意味する「通信販売」(メール・オーダー)という表現は、20世紀初頭までに一般に用いられるようになったアメリカ産の言葉 だった。この国の鉄道の中心地シカゴは、広大な農村の後背地に進出する際の自然の要地であり、巨大な全国的規模の「不在販売企業」の首都となった。

 客の手紙にきちんと目を通し、客からは心のこもった返信が届いた

 ここでのパイオニアは精力的な若い旅行者アーロン・モンゴメリー・ワードであった。

 初期の「カタログ」には、創立者や、会社の幹部、さらには個々の部門の買い手の写真が載っていた。これらの人々は、商品に対するカタログの保証を裏書き する役割を果たしていた。客はこうした「容貌の立派な人々」と取引できて、どんなにうれしいかを手紙に書いて寄越したりした。

 ワードは客からの通信にきちんと目を通した。かつて植民地時代には、南部の農園主がロンドンの問屋に書物や衣料を選んでくれるよう手紙で依頼したり、中 には、適当な妻を送ってくれるよう頼むことも時たまあったように、今や遠隔地の農民はあらゆることをワード氏に依存するようになっていた。

 赤毛の細君の誕生日の贈り物に帽子を選んでくれるようワード氏に頼んだ夫もおり、また夏の下宿人を見つけてくれるよう依頼する女性客もいた。

 客の中には、なぜ最近ワード氏に手紙を書かなかった説明しなければいけないような気になる者もいた。

 「秋以来なぜ私が何も注文してこなかったのか、貴殿が不思議に思われているのではないかと推察しております。実は牛に蹴られて腕が折れてしまい、妻も病 気にかかり、医者に治療費を払わなければならなかったからです。しかしお陰様で現在では支払いも済み、私たちはすっかり良くなり、それに丈夫な男の赤ん坊 まで生まれております。それでどうか29b8077番のフラシ天のボンネットを送って下さい。...」

 この人なつっこい客は、心のこもった返信を受け取った。それには腕の骨折の見舞いと奥さんが全快したことへの喜びの言葉、息子さんが成長して立派な人に なるだろうという祝福の言葉が書かれ、ボンネットの注文の件は承知した旨を伝えるとともに、「蹴り癖のある牛のための器具をカタログに載せてあるのでご覧 になるように」とつけ加えてあった。

 カタログは木版のさし絵で魅力的に

 ワードは1843年ニュージャージー州の小さな町で生まれた。14歳で樽工場やレンガ工場などの職工を皮切りに、長じて布地の卸売り業者のための行商人 となり、西部の農村地帯を旅行して雑貨店を利用している農民の問題を学び取った。彼は,もしも製造業者から現金で直接大量に仕入れ、現金で直接に農村の消 費者に売れたら、小売り価格を引き下げることができるのではないかと考えた。これが「通信販売」の構想の萌芽であった。

 1872年、ワードはシカゴの貸馬車屋の2階を店にして、注文の説明を記載した1枚の商品価格表を発行した。2年も経たぬうちに、価格表は8ページの小冊子になり、次いで72ページのカタログとなった。

 うちわ、パラソル、便箋、針、刃物類、トランク、馬具、その他多くの商品について、ワードは仲介業者を排除することにより40%の節約を約束した。カタログはますます厚くなり、同時にさし絵などによりいっそう鮮明で魅力的になった。

 1880年代ごろには、ほとんどすべての商品について木版のさし絵がついた。2400ドルの資本で開業してからわずか10年後の1883年に、カタログ には50万ドルにのぼる商品が満載されていた。1884年度のカタログは240ページに達し、ほぼ1万項目の商品を載せていた。

 「グレンジ」への正式な供給機関に

 モンゴメリー・ワードの商売は、会ったことのない売り手に対する買い手の「信用」に依存していた。最初からワードの店は、一般に「グレンジ」として知ら れる広範囲にわたる農民組織『パトロンズ・オブ・ハズバンドリー』(農業保護者)への正式な供給機関という利点を有していた。

 「グレンジ」は1867年に結成され、「独占体」と闘い、仲介業者を排除することにより、「農民が購入する商品の価格を引き下げること」を目的の1つにしていた。ワードの商売はこの目的に完全に合致していた。

 見知らぬ者が経営する商店から、まだ目にしていない商品を農民に買わせることは、農民の購買慣習に革命的変化を起こさせる大仕事であった。村の古いなじ みの店から、そこにある物を十分に吟味して買うのが農民の習慣になっていたからである。つまり、アメリカの農村部に新しい消費社会を創り出すことを意味し ていた。そのためワードは、友好的な信頼感を作り上げるためのあらゆる努力を払った。

 客が売り手を信用しなければならなかったように、会社も会ったことのない客に信頼を置かなければならなかった。遅滞ない返金、品物の交換など、会社は消費者の友人であることを各人に繰り返し確信させるために努力を払った。

 「特別な消費社会」を必要とた孤独な農民達

 これは、移動性の強い者、成り上がり者、互いにファースト・ネームで呼び合う人々などから成る「地域的な社会」から、アメリカが現在的な全国的銘柄商品の互いに見知らぬ「消費者社会の国」へと移り変わっていった物語でもあった。

 アメリカの農民は生活のいくつかの事情により隣人と近接して住むことが困難な傾向にあったため、「特別な種類の社会」を必要としていた。例え ば,1862年の自営農地法により、開拓者は土地の所有権を完全なものにするために5年間その土地に居住することを要求されていたが、これはアメリカの農 民の生活に、村落に住み、毎日耕地に出かけていく旧世界の農民の生活とは非常に異なった性格を与えた。

 『ノースウェスト・イラストレイテド・マンスリー・マガジン』誌の編集者であるE・V・スモーリーは1893年、次のように述べている。

 「これらの人々は陽気な小さい農村から来た。故郷の生活は困難で苦しかったが、孤独ではなかった。教会や学校があり、青い入江には漁船が浮かび、高くそ びえ立つ緑の山脈や雪の草原を見渡せる、ノルウェーのフィヨルドの白い壁と赤い屋根の村落から、ダコタの平原の孤独な丸太小屋に移住したことがどれほど大 きな変化であるか、ちょっと考えてごらんなさい。多くのスカンディナヴィア系の人々が精神的均衡を失ったとしても驚くにあたらない。気候や地形により孤独 はいっそう強められ,耐えるのが困難にされた。

 ...ここでは短い暑い夏の後に,長い寒い冬が訪れ、自然の中に思考を刺激するようなものもほとんどなくなってしまう。...厚い氷の下で小川の流れも聞こえ ず、雁や野鴨が南方に去った後は鳥もいなくなる。死の静寂が広大な自然をおおい包む。それが破られるのは建物や裂け目を求め、そこから乾いた粉雪を吹き込 んでくる暴風が荒れ狂っている時だけである。

 農場が遠くかけ離れており、また人々に同質性が欠けているため、隣人の訪問といったことはあまりない。彼らは語り合うべき共通の過去がなく、この新しい 土地に来たときには互いに見知らぬ他人であり、仕事の際にもあまり一緒になることがない。...アメリカ人とは種々の異なった国より来た人々から構成されてい るのである。...新しい平原諸州の農夫と彼らの妻の間に,精神異常の状態が驚くべきほど多く発生している」。(続)

 アジア国際通信 アメリカ特集 5 (NO.167,97/6/1)から 神保氏のホームページhttp://www.geocities.co.jp/WallStreet/2070/


1998年06月25日(木)萬晩報主宰 伴 武澄


 6月25日は参院選の公示日。どうも盛り上がりに欠ける。共同通信大阪支社のあちこちでそんな会話が聞こえている。政治に新しい風が吹いている実感がないからではないか。そんな感想も聞かれた。

 1996年10月の総選挙は、小選挙区制の導入があり多少の新味があった。新進党が躍進するかもしれないという淡い期待感もあった。今回は菅直人が率い る民主党があるではないかという反論もあろうが、民主党に大同団結のイメージはなく、労組臭を色濃くする烏合(うごう)の衆ではないかというマイナスイ メージが強すぎる。

 白票は無効という現行制度の矛盾

 毎日新聞は24日付朝刊から政治面で「投票に行こう」というキャンペーン記事の連載を始めた。作家の石川好氏が呼びかけ人となって「投票に行こう勢」運動を開始した。

 初回の呼びかけは「政治に不信なら白票を」だ。「有権者の2割が不信任の白票を投じれば1900万票で第2党どころか第1党に肉薄する『巨大なノー党』になる」というのが趣旨だ。

 筆者も前回の総選挙で3枚の投票用紙を白紙で投票した経験がある。その前の選挙で投票した人物が当選直後に党籍を変更した。筆者は人物に投票したのでは なく政党に投票したつもりだったから「こんな不合理があっていいものか」と怒りが収まらなかった。それなら「白票」で不信任の意思表示をしようと考えた。

 ところが、日本の選挙法では用紙にいたずら書きをしようと白票のまま投票しょうと候補者名が書かれた用紙以外はすべて「無効票」としてカウントされる。 現行の制度下では、だれにも投票したくないという選挙民の選択肢はないに等しい。集計方法の欠陥のひとつではないかと思っている。

 街角で「オーレ、ジャポン」

 ところが、この白票による選挙民の意思表示は一部の行動ではない傾向が現れているのだ。1996年の総選挙では政治部の選挙報道班に参加して貴重な体験をさせてもらった。北信越ブロックを担当して、気が付いたことだが、無効票が異常に多い選挙区がいくつか散見された。

 開票の結果、なんと「無効票」が社会党から党名変更した社民党の票数を上回っていた選挙区が何カ所もあったのである。マスコミは投票率が選挙の度に下が るのは「無関心層」が増えているからだと報道している。確かにその一面がないとはいえない。しかし、投票するに足る候補者が見当たらないという側面を見逃 してはいないだろうか。

 もし、投票場の注意事項に「投票したい候補者がいない場合は投票用紙に『×』と書くように」とでもあったら、石川氏がいうように「×」の票数は「第1党 に肉薄する」どころか第1党を凌駕するかもしれない。「×」と書くためにもっと多くの人が投票場に足を運ぶかもしれない。そうなれば「×」票が確実に自民 党を上回るはずだ。

 萬晩報は04月02日付けコラム「 5年前の興奮を思い起してもう一度わくわくしよう」を書いた。「国民がわくわくすれば景気もよくなる。」という言葉で締めくくったことを思い出した。参院選が面白くないなら面白くしたらどうだろうか。

 わくわくするには「白票」を投じることだろう。「白票党」が第一党にのし上がれば、選挙の勝者は自民党でも民主党でもない。有権者が勝者となる。マスコ ミも開票日翌日の一面トップに「無効票が○○%、選挙に不信任!」の横見だしを付けざるを得なくなる。街角で「オーレ、ジャポン」の歓声が上がるに違いな い。


1998年06月22日(月)萬晩報主宰 伴 武澄


 久しぶりに東レの前田勝之助さんに会った。10年社長在任の後、昨年から会長となり、経団連の副会長になった。経団連の会長や副会長の年齢が高すぎるこ とを暗に批判したら、「そうだ、自分のような年寄りが若い方なのだから」と機先を制され、矛先が鈍ったが、経営は人だというかなり前の感慨を思い出した。

 1993年正月明け早々、富士通の関沢義社長(当時)が日本橋の東レ本社を訪れ、前田勝之助社長に「不況の素人が不況の玄人に学びに来ました」とあいさ つした。電機や自動車など1980年代の日本経済を引っ張ってきたハイテク産業が初めての減量経営に直面し、恥を忍んで合繊企業の門をたたいたのだ。

 合繊業界が好業績を上げていたからではない。二度のオイルショック、そして円高不況と度重なる苦境をくぐりぬけ、これまで生き抜いてきたノウハウの伝授をたまわりにきたのだ。1980年代に時代を謳歌したハイテク産業が東レの門をたたいたのにはそれなりの理由があった。

 まず1990年代初めの不況でも収益ダウンを最小限にとどめており、なかでも東レは減益ながらも1993年3月期決算で10年ぶりに繊維業界で収益トップに躍り出ることが確実視されていたからだ。

 みんなが大量採用に走った時、東レは人員圧縮した

 東レはバブル時代、他産業が大量採用に走る間に従業員の大幅圧縮を実現した。1万3000人だった社員は1万人に、しかも平均年齢を1、2歳下げていた。前田社長は人員削減に当たって、当時は当たり前だった出向という方式を採らなかった。

 対照的に、大手鉄鋼の人員削減は子会社や関連会社への出向で人員削減の帳尻を合わせた。いずれ好景気になれば本社に戻せると考えていた。あとになって人事担当の宮崎副社長(当時)は「出向にしたことが後々の人件費補てんという重荷になった」と述懐した。

 大手鉄鋼の1992年のの出向者への人件費補てん額は新日鐵で年間500億円、神戸製鋼所400億円、住友金属鉱業300億円と巨額に膨れ上がっていた。当時の経常利益をはるかに上回る金額だった。

 前田社長が重視したのは「在籍者を減らす」ことだった。東レに籍を置いたままの減量では本当のリストラにならない。1987年に前田氏が社長になる前の東レでは減量といえば「出向」が常識だった。ほかの日本の会社と変わらなかった。

 珍しかった45歳からの早期退職制度

 前田方式が画期的だったのは、早期退職制度の拡充の方法だった。今では当たり前だが、早期退職金割り増し制度の対象年齢を45歳まで下げた。レイオフでも勧奨退職でもない、退職しやすい環境をつくる当時としては珍しかった制度だった。。

 50歳代では難しいが、40歳代なかばからならば再スタートが切れる。その結果、系列の転職斡旋会社などを通じて多くの社員が外資系企業や地方の優良企 業にトラバーユした。もちろん東レにとって有為の人材も会社を去った。東レの一課長から外資系企業の副社長におさまった例もあった。当時はバブルの最中 だったから、東レの人材は引く手あまただった。

 おかげで東レはいまも景気の厳しい浮沈からあまり大きな影響を受けない経営体質となっている。もちろん、東レにとっての幸いは不況のたびに経営を支える 新製品が登場してきたことだった。オイルショックのときは人工皮革のエクセーヌに期待が集まり、1980年代の円高不況では炭素繊維が注目された。 1990年代にはインターフェロンが柱に育っていた。

 前田氏は「次に向けて技術開発の芽が育っているかどうかが企業の実力だ」と言ってきたが、本当は好況時の経営モラル維持が不況時の経営を支える最大の要素なのではないかと思う。東レは少なくとも10年間、リストラを必要としてこなかった。


1998年06月21日(日)外国船級協会 中村 巧(プサン在住)


 ロンドンから関空経由でプサンへ帰ってきた。会社の会議の後で同僚のノルウェー人たちと喫茶店で語らっていたとき「なぜ日本はアメリカとあの無謀な戦争をしたのか」という話題に発展した。

 ●1938年に日本海軍が驚いたアメリカの膨大な海軍拡張計画
 全員が造船学の専門家だから「そんな話は始めて聞いた」と私の説明にびっくりした。私は、アメリカが27000トンの空母「エセックス」の公試運転(完 成)が1942年の12月31日であったことから説き落とした。この船の起工は少なくとも1938年には始まっていた。当時の軍艦の工事期間は最低でも4 年掛っていたはずだからである。

 戦争中に「エセックス」クラスの空母は20隻造られ、太平洋戦争での日米海軍に決定的な戦力差ができた象徴的出来事だった。つまりこの後、日本がアメリ カにこの戦争に勝つ可能性が全くなくなったと言う事だ。真珠湾攻撃は1941年の12月8日だから、アメリカの海軍軍拡が真珠湾攻撃で始まったわけではな くはるかその以前に始まっていたことを物語る。

 1938年ごろの時点で帝国海軍は、1944年になれば日本の海軍力がアメリカの3割以下になることが分かっていたはずだった。なぜアメリカが日本海軍 の予想もしない大軍拡を始めたのかといえば、それはひとえに1935年に日本側が一方的にワシントン、ロンドンの海軍軍縮条約を破棄したからだ。その後支 那事変や第二次世界大戦の勃発によって当時の上院議員であったカールビンソンやスタークによってアメリカ海軍大軍拡計画が始まった。

 ●風化させてはならない米国を見くびった50年前の失敗
 1941年になると中国大陸をめぐって日米交渉が始まり、その年の9月には陸軍の仏印進駐により対米開戦が避けられそうになくなったとき、陸軍の横車に 逆らって海軍としては戦争が出来ませんとはいえなかった。何しろあの軍縮条約破棄のときに陸軍は心配して「本当に大丈夫だろうな」と念を押していた。海軍 としては、アメリカの拡張案にびっくりして陸軍以上の軍事予算を取っていた手前、いまさら「見込みが外れた」と言うわけにはいかなかった。

 海軍が自らの失敗を隠す手段は戦争に突入して、いちかばちかの掛けをする以外になかった。1941年の時点では日本海軍力のほうが少しばかりアメリカ海軍より有利だった。ただしたった1年間の猶予だった。

 アメリカは日本と戦争をしたがっていた。日本と戦争したらこの圧倒的な戦力差で勝つに決まっていた。ドイツと戦っているイギリスを助けたかったが、ルー ズベルト大統領の選挙公約によってアメリカからドイツに宣戦布告できる状況にはなかった。日本の陸軍も戦争をしたがっていた。そして海軍が戦争に乗り気で ないのも知っていた。海軍だけが戦争を始めても勝つ可能性が極めて低い事を知っていたが、この間の事情によって陸軍の開戦の要求に同意してしまう。陸軍の でたらめさはさておき、アメリカの艦船建造能力を見誤った海軍軍人の頭の構造はどうなっていたのか疑わざるを得ない。

 そしてこのことを国民に何一つ公表しなかったマスコミの責任も重たい。ワシントンとロンドンの軍縮条約締結のとき加藤寛治以下の艦隊派と呼ばれた強硬派 とそれに結託した犬養毅、鳩山一郎以下の政治家とさらに彼らのちょうちん記事を書き続けた大新聞のおかげで例の言葉が一人歩きし始めた。「統帥権干犯」。 当時の新聞記事を読むと犬養毅の口からこの言葉が出てきているのにはびっくりした。彼もまた亡国の政治家だったのだ。

 この強行派たちは対英米6割で飲まされた条約に不満で堪らず、対英米7割でないと国は守れないといって国を滅ぼしたわけだ。いかにアメリカの国力を侮っ ていたかあきれるばかりだ。司馬遼太郎氏は「この国のかたち」という本の中で、主に陸軍参謀たちの出鱈目ぶりをこの統帥権に関して述べているが、日米開戦 になった決定的な要因は海軍軍人の無責任さにあったと私は思う。

 しかし当時のマスコミもその罪は決して許されるものではない。陸海軍人と言う官僚たちは消えてなくなったが、マスコミと政治家がこの間の責任を追及されたとか自己批判したなどとは寡聞にして聞いた事がない。

 以上の話は主に池田潔氏の「日本海軍はなぜ敗れたか」と、五味川純平氏の「御前会議」を参考にした。太平洋戦争は50年前の出来事とはいえ、その失敗の体験はわれわれ日本人にとっては決して歴史のかなたに忘れていいことではない。


1998年06月20日(土)萬晩報主宰 伴 武澄


 06月15日(月)付け萬晩報 「大阪で浮上している第三セクターへの懲りない投資」への読者の声を掲載します。


 大阪トランスボート」の経営実態を調べて
 [大阪で浮上している第三セクターの懲りない投資 ]を拝読いたしまして、大阪の住民として怒りをとまらない。つい、第三セクターの「大阪トランスボート」の経営実態を調べたらどうかなと思いついて、市民、国民の共鳴を起こされるかな。一読者【shangjie】
 一駅路線延長での1500億円回収は不可能
 私の聞いた話で似たような話がありました。奈良市が奈良新聞社へ発注したホームページの管理料が、確か700万円もあり、地元業者に不当に高いと訴えら れていたと言うものです。どういう経緯でこれほど高価なホームページが出来たのかわかりませんが、当事者たちはこんなもんなんだと疑問に思わなかったのか も知れません。地下鉄を3キロ掘るのにどれほどの経費がかかるのかわからないので、1500億円が妥当なのかそうでないのか判断できません。しかし、 1500億円を地下鉄の営業収入で回収するのに、一駅路線延長したぐらいでは、不可能な事は私でさえわかります。担当者の採算感覚が疑われます。【サウス カロライナのTiger Nishino】
 米国の住民投票も含めて、今後紹介して!
 「自治体予算にマスコミのチェックを期待するのは的外れ」という認識に、全くの同感です。政府、公共サービス産業分野を中心に、日本における第三者や住 民によるチェック機構をどのように制度化するか、今後の重要な課題です。英国滞在の折りに、よくWatch Dogという言葉を聞きましたが、記事で言及されている米国の住民投票も含めて、今後紹介していただければと思います。【立命館大教授】
 許されない大韓航空路線引き留めのための大分県の補助金
 初めてアクセスして楽しく拝見させていただました。つい最近、ワシントン州シアトルから日本に帰ってきました。そして、地元大分県の(大分県知事の)お 金の使い方に呆れてしまい、「だめな国だなぁ」とため息をついてしまいました。大して利用客もない大韓航空路線を大分に引っ張り、採算が合わないと撤退し た彼らに県が補助金を出す。それでも次のワールドカップまでは続けると言う。一体誰の許可を得て投入するのでしょうか?私学の誘致についても県が補助を出 す。許される行為なのでしょうか?アメリカなら間違いなく引きずり降ろされます。文句を言う人が8割以上存在するのに、選挙になると8割以上の票で当選し てしまいます。日本全国で、このような時代劇に出てくるような御代官の暴挙がまかり通っているのならば、今のこの状況も仕方のないところですね。日本人な のに「反日感情」を持ってしまうのは、悲しいことです。これからは、毎日読ませて頂くことにします。【CyberMohawk】
 愛知万博と新名古屋国際空港は何のため?
 はじめまして、脇田といいます。いつも伴さんの記事を楽しませていただいております。さて今回の「大阪で浮上している第三セクターの懲りない投資」につ いてですが、全くそのとおりで腹立たしい限りです。私の住む愛知県でも同様の無駄なプロジェクトが進行中です。愛知万博(愛知県瀬戸市)と新名古屋国際空 港(愛知県常滑市沖)です。何の為に開催するのか結局よくわからないまま、地元の環境団体の反対を押し切り、挙句には住民投票の要求も撥ね付けて開催する のは誰のためなのか。殆ど毎月どこかで何がしかのイベントがある今のご時世、万博の経済効果ってそれ程ある様には到底思われないのに。それから常滑市沖の 新空港、現在の空港(愛知県小牧市、西春日井郡豊山町)では捌き切れないからといいながら、英国航空(BA)が撤退したのはつい先日。この不景気に巨額を かけてすぐやらねばならない事は他にあるはずなのに結局、愛知万博に間に合わせたいだけで見きり発車間近です。大阪と東京で充分だと思うのですが。つい、 力が入ってしまいました。もし機会がありましたら私の住む愛知県のこの様な無駄遣いについても取り上げてくださると嬉しいと思います。これから鋭い切り口 の記事を楽しみにしております。【愛知県在住】
 大阪府民はオリンピックの招致に反対なのではないか
京阪沿線に住む者として、大変驚きました。信じられない思いです。たかが3.1kmに1500億円とは・・・。それでなくても近年値上げの激しい京阪電 鉄、きっと本線の値段の方にツケが回ってくるのでしょうね。私鉄だからといって、そんなに勝手が出来るものなのでしょうか?大阪オリンピックの招致が決ま れば、と言いますが実際ほとんどの大阪府民はオリンピックの招致自体に反対なのではないかと思います。なみはや国体のときの負債も残したまま、一体どこに そんなお金があるのでしょう。「しっかりしてよ!」と言いたいですね。【京阪沿線住民】
1998年06月18日(木)萬晩報主宰 伴 武澄


 6月17日夜、日米政府が久々に為替市場に協調介入し、円安は当面鎮静化した。この日は日本にとって「忘れられない日」になるかもしれない。橋本首相ととクリントン大統領という両大国のトップが為替問題で緊密に連絡を取り合ったなどということは前代未聞である。

 いずれにせよ「円安」が現在の日本の経済の重大な不安材料となっている。1993年もまた未曾有の景気後退期といわれた。本気で日本がアジアに敗れるの ではないか考え始めた。5年前の取材ノートを読み返して思い出した。当時はバブル崩壊の初期症状で、いまは末期的症状にある。違っているのは当時は「円 高」が不安材料になっていて、いまは「円安」が悪玉となっている点である。

 日本経済にとって円高がいいのか、円安がいいのか、悩むところだ。どちらに進んでも悪いということは円安も円高もまったく景気とかかわりがないほど硬直 した経済社会となっている証左である。ともかくこれだけ円安になって逆に物価が下がるということはこの10年、日本は何も変わらなかったに等しい。こうし たことを前提にいくつかの思いが頭をよぎった。

 円高でも円安でも悲鳴を上げた日本

 経済学的にいえば、自国に通貨が高くなることは歓迎すべきことである。外国から見て国民の持っている資産の価値が上がったのだし、輸入品が安くなるのだ から消費者は嬉しいはずだった。ところが、数年前まで日本は円高に悲鳴を上げていた。日本の産業が崩壊するとまでいわれた。だが円高で日本は崩壊しなかっ た。

 5年前、悲鳴を上げていたのはトヨタ自動車とか松下電器産業といった輸出産業だった。つまり輸出産業が悲鳴を上げていたのである。輸入品はそれほど安くならなかったが、海外旅行は確実に安くなった。国民はどちらかといえば円高を享受していたはずである。

 今回の円安でこうした輸出企業は大きな為替差益が転がり込んで国内の不振をカバーしている。企業社会は悪くないときには黙っているものなのである。悲鳴 を上げているのは金融関連と不動産、ゼネコンである。新聞の見出しに悲鳴を上げる業界や企業名まで書かないから、多くの読者は日本はずっと不況から抜けき れないでいると考えているかもしれない。だが、95年までとそれ以降とでは不況の中身がぜんぜん違うのである。

 韓国やインドネシアと同じ運命をたどることになる日本

 日米による今回の協調介入は2年10カ月ぶりだ。1995年8月は円高がピークにあったときである。その直前に為替は瞬間的にだが1ドル=79円に突入 していた。はじめに「忘れられない日になるかもしれない」と述べた意味はここにある。うがった見方をすれば国際金融資本はもう十分に円安で儲けたことを意 味するのかもしれないということだ。

 為替の乱高下のたびに日本の資産は振り回されてきた。これは前山一証券の中堅幹部から聞いた話だが、アジア投資に最初に着目したのは英国で、次いで米国 資本が巨額のアジアファンドを組んだ。遅れて日本が出て行ったときには「高値づかみ」を余儀なくされたという。国際金融資本がアジアで十二分に収益を上げ たときと、円相場が円高トレンドから円安トレンドに移行する時期とが奇妙にも一致するのである。

 円高で日本産業が国内の空洞化を迫られ、10年かかってようやくアジア投資が一巡したと思ったら、こんどは為替は円高から円安の時代に突入していた。この時期も不思議と一致する。

 これまでアメリカ政府は日本の度重なる協調介入の要請にも関わらず、介入に消極的だった。それがなぜ急きょ方針転換したのか。新聞は「円安が国際金融市 場の不安要因になるとアメリカが判断したからだ」と説明するが、原因を作っているのが国際金融資本なのだから説明になっていない。しかも円安防止ごときで アメリカのサマーズ財務副長官が前触れもなく日本に来るはずはない。

 20日にはG7(先進7カ国蔵相・中央銀行総裁会議)代理たちが東京に乗り込んでくる。自分で自分を改革できない日本に厳しい要求を突きつけることになる。まもなく日本は韓国やインドネシアと同じ運命をたどることになる。


 【環日本海経済通信】1998年06月18日(金)立教大学博士課程 李 鋼哲

 金大中氏が大統領に選出された後、朝鮮半島の南北間関係は改善の兆しを見せており、相互交流や往来も増えてきた。これは、金大中氏が「平和、和解、合作」という、北方に対する「陽光政策」を取っているのと深く関係ある。

 赤十字会が積極的に斡旋

 南北朝鮮の赤十字会の交流はいままで絶たれたことがなかった。昨年、韓国は赤十字会を通じて北朝鮮に2回の食糧援助を提供した。今年3月、南北赤十字会 は北京にて第3次食糧援助について合意し、韓国は4月から2ヶ月かけて、北朝鮮に合計5万トン相当のトウモロコシを支援した。5月2日、韓国の赤十字会代 表李柄雄氏が、第1便の援助物資とともに仁川を発って北朝鮮の満浦に到着した。そして、双方の赤十字会代表が北朝鮮内での会合を実現した。今後の南北赤十 字会の接触は板門店を通るホットライン電話や北京飯店のみに限られず、その内容も物資支援に限らないであろうと推測されている。

 鄭周永氏が「不帰橋」を3回渡る

 双方の経済交流や貿易の分野も拡大している。1988年に韓国政府が民間企業の北朝鮮との経済貿易活動を許可して以来、10年間に393人の企業家達が 北朝鮮を訪れた。今年に入って、韓国政府は北朝鮮への投資額基準(最大500万米ドル)制限を撤廃したことを受けて、韓国企業家は北朝鮮への直接投資に前 向きの興味を示した。特に注目されるのは、現代グループの名誉会長鄭周永の意味深い訪朝である。

 鄭周永氏は現代グループの創業者であり、1989年に既に2回も訪朝した。その際に、北朝鮮側と会談し、金剛山の開発、船舶修理工場と自動車組立工場の 設立など、三つの項目に投資することで合意した。ところが、その後の南北関係の後退で実現できなかった。今回、彼は高齢で身体が不順であるにもかかわら ず、まだ決着が着いていない前回の投資案件について話し合うために、自ずから再度の訪朝を決意した。彼の訪朝は既に韓国政府によって許可されている。同時 に、鄭氏の訪朝を前後に、韓国政府は対北朝鮮支援策を強化することで支援制限を緩和した。つまり、戦略物資以外の全ての物資を支援でき、戦略投資項目以外 の全ての分野で投資できる、という決定を発表した。

 鄭氏は訪朝を前に、北朝鮮に1万トンの食糧と1000頭の耕牛を支援することを決定し、故郷の北朝鮮に対する無償援助のお土産としている。南北赤十字会 の協力を通じて、1万トンの食糧は既に北朝鮮の元山港に着いた。他に1000頭の耕牛は、板門店の「不帰橋」を通って50台のトラックに乗せて北朝鮮に運 ばれるという話しもある。

 平和の使者が文化交流を促進

 南北間の文化交流も盛んになりつつある。現在、韓国は北朝鮮のテレビ番組の視聴への制限を緩和したので、韓国の国民は直接に北朝鮮のテレビ番組を見るこ とができるようになった。北朝鮮も韓国の文化界や新聞界の訪朝を受け入れるようになり、韓国の新聞や刊行物には北朝鮮の名勝古跡や綺麗な大自然を紹介する 写真や報道が増えている。

 他の消息によると、北朝鮮の錦湖で軽水炉建設(KEDO)現場で働いている韓国の労働者は、今年の夏より付近の療養所で療養や魚釣りができるようになっ たという。最近、韓国の小天使芸術団は北朝鮮を訪問し、首都の平壌で3回の公演をした。また北朝鮮の名勝である金剛山を遊覧したという。韓国文化財団と北 朝鮮アジア太平洋和平委員会との協議に基づいて、北朝鮮の万寿台少年宮少年芸術団は今年の秋期に韓国のソウルを訪問し、公演する予定であるという。

 観光の面で、韓国と北朝鮮との間では、北朝鮮の羅津・先鋒地区に「観光特区」を共同で設立し、韓国の観光客が羅津・先鋒を経由して中国に入り、中国や第 3国の観光客も羅津・先鋒を経由して韓国に行けるような「連続旅行」(韓国の速草-北朝鮮の羅津-中国の延吉を結ぶ観光ルート)を実現するための交渉が行 われている。

 別れは簡単だが、逢うのは難しい

 現在、南北朝鮮の離散家族は1,000万人近くいるという。そのなかには二世と三世が含まれている。韓国の推計によると、現在韓国には北朝鮮生まれの人 口が約41.7万人いるが、これは韓国総人口の約1%を占める。この人たちは既に年をとっており、北の家族や親戚と再会することを強く望んでいる。南北赤 十字会は離散家族の問題で100回以上の協議を重ね、数回にわたって協定を結んだ。しかし、1985年に双方合計151人が板門店を通って相互訪問を実現 して以来、政府或いは赤十字会の協定に基づいた相互訪問は停止されていた。

 離散家族の再会を促すために、韓国は赤十字会を中心に、新聞社や研究機関が参加した「民間団体協議会」を発足した。この協議会は離散家族の再会事業を推 進するために、情報を交換し、諮詢を提供するほかに、離散家族の調査団を随時に派遣できるような準備を進めている。今年の3月に、北朝鮮の安全部にも離散 家族の査詢処が設けられた。

 北朝鮮の「労働新聞」の報道によると、この査詢処が設立して間もなく、多くの人からの親戚捜しを依頼する手紙を受けているという。しかし、査詢処の仕事 は韓国にいる親戚の依頼を直接に受けいれるのが不可能で、北朝鮮の人は第三国を通じて韓国にいる親戚と交信や面会が可能である。とにかく、北朝鮮当局は南 北の親戚が第3国で逢うことを黙認している。今後の1年以内に、1985年のような離散家族の再会の盛況が実現できるのかどうかは予測できないが、親戚再 会の機会は増えていくだろう。

 祈願は実り難い

 朝鮮民族は単一民族であり、第二次世界大戦後の冷戦により、半世紀近く分裂と対峙の状態が続いた。これは一つの民族の不幸であり悲劇である。金大中氏は 大統領当選後、対北朝鮮政策を発表し、「武力行使を許さない、吸収統一を求めない、南北間の相互交流と協力の拡大に努力する」という3原則を打ち出した。 最近、朝鮮労働党総書記金正日も、民族大団結の5項目方針を打ち出した。つまり、民族自主の原則、双方の関係改善、民族大団結の実現、外部の干渉を反対、 南北交流の拡大である。南北朝鮮の主張の共通点と食い違いは一目瞭然である。朝鮮半島で、今世紀中に分断状態を終わらせることは難しいが、民間による南北 間の交流の拡大は、半島の安定と平和、さらに統一に向けての希望を与えているであろう。 (李氏は延辺朝鮮族自治州の出身で、現在、立教大学経営学博士課程)


 メディアケーション(東京都、代表平岩優)とNEAR総合研究機構(島根県、川口耕一代表)のホームページ
 【環日本海経済通信】より掲載しました。

1998年06月17日(水)萬晩報主宰 伴 武澄


 日本経済新聞論説委員の吉野源太郎氏が日経ビジネス98/05/01号で「日本の指導者こそ落ちこぼれだ--見えない消費主導経済の本質」というコラムを書いている。萬晩報に執筆している八木さんが絶賛しているので全文を掲載したい。


 昔の山仲間から『妻と二人の山歩き』という新刊書をもらった。中高年向きの地味な山々を紹介した本だ。

 ガイドブックにしては簡単で山に無関係な話も交えた内容だが中高年登山ブームのおかげで初版4000部が順調に売れているという。読んでみると読者の共感が分かるような気がする。

 著者の小浜浩三氏は千葉大学山岳部のOBでヒマラヤ遠征の経験もある、いわば登山のプロだそうだ。その人が自ら志して素人の中高年登山者の仲間入りをし たのである。外資系石油会社を50歳で早期退職してから夫人と一緒にやさしい山登りを始めた心境を序文の中で小浜氏はこう書いている。

 「私のこれまでの山登りはあまりに偏っていた。この先残された人生はせいぜい20年。これからは自分のためにやり残したことをしたい」

 この言葉の中の「山登り」を「社会生活」に置き換えれば、今、大量の中高年が同じことを考え始めている。

 公共事業か「遊びや買い物」か

 祝日を月曜日に移す祝日3連休化法案が立ち消えになりそうだ。この構想は景気対策としてにわかに注目された。3連休が年に何回もあれば旅行やサービス需要は盛り上がるに違いない。財政負担もほとんどない。

 というわけで、年間14日ある祝日のうち4日を月曜日にする野党案が今国会に提出されたのだが、対する与党案がまとまらない。自民党の長老に根強い反対 があるからだそうだ。各祝日には歴史的根拠があって景気対策などのために変えてはならないというのが反対の理由らしい。だが、そうした根拠よりも気になる のは長老たちが消費主導経済の本質をまったく理解していないように見えることだ。

 最近ある経済閣僚から信じられない言葉を聞かされた。「所得税減税をなぜ渋るのか」との質問に彼は即座に言い切ったのだ。

 「公共事業に比べ遊びや買い物の効果などあてにならない」。

 十数年前「ズボンのすそが広くなったり狭くなったりすることで景気が左右されるようになった」と嘆いていた当時の経団連会長、稲山嘉寛氏の顔が思い出さ れた。設備投資と輸出主導で突っ走ってきた日本経済の頂点に長年君臨したのが稲山氏が率いる新日本製鉄だ。稲山氏の嘆きは当然だった。

 しかし時は移り今日の社会になったというのに、3連休化を非難する日本の指導者にとって依然、消費は悪であり遊びは恥ずべきことなのだ。

 昔と変わらないどころか指導者の質は退化したのではないか。粋人として知られた稲山氏ほどの感性があれば、夫婦で山に登る中高年たちの姿に時代の変化を 読み取ることができただろうにとも思う。稲山氏のような信念や哲学もない指導者に垣間見えるのは骨の髄までしみ込んだ大衆蔑視である。彼らの目には小浜氏 のような人たちはおそらく落ちこぼれにしか映らない。

 大衆蔑視の現代版豊田商事

 この国では1200兆円の個人金融資産は日本版ビッグバンの中で金融機関が奪い合う対象としてしか話題にならない。特に老人はたくさんの金融資産をため 込んでいる。大衆を蔑む人たちが語るこうした話はどこか豊田商事事件を思い起こさせる。老人や中高年が遊びや買い物にカネを使ってしまっては現代版豊田商 事の計算は狂う。

 貯蓄に励んできた老人や中高年の多くは、一方で土地やマイホームのために汗水流して多額の借金を返し続けてきた。人生の目的は「器」ではないと気づいた からこそ山登りを始めた人たちである。市街化調整区域にセカンドハウスを立てさせようという経済対策は官製の原野商法に見える。

 高齢時代の到来は決して暗い話ではない。しかし時代を明るくするには指導者に品性と見識が必要だ。豊かさの意味を問い始めた中高年の心の動きを、時代の 転換としてとらえる見識である。若者はとっくに時代に適応してしまった。本当の落ちこぼれは自分たちなのだと指導者が気づけば日本はまだ救われるかもしれ ない。


1998年06月15日(月)萬晩報主宰 伴 武澄


 大阪の泉佐野コスモポリタン、宮崎のシーガイア、北海道の苫小牧東部開発。第三セクターによる地域開発の破綻が昨年来、新聞紙上をにぎわしている。官と民との共同出資という経営責任のあいまいさが巨額な負債を生む土壌となった。

 地下鉄たった1駅に1500億円をつぎ込む発想

 この事実はもはや自明の理となっているが、ここ大阪で性懲りもなく第三セクターによる鉄道建設計画がいくつも浮上している。まず近畿日本鉄道が、関西文 化学術研究都市(京阪奈学術都市)と大阪都心を結ぶ京阪奈新線(生駒-高の原、12.2キロ)の建設を計画しており、今年中にも事業主体となる第三セク ターが設立されることになっている。総事業費は1600億円、第一期の生駒-登美ケ岡間の8.7キロは2005年に営業開始される見通しである。

 一方、京阪電鉄は地下鉄中之島線(天満橋-玉江橋)のたった3.1キロに1500億円をつぎ込む計画。着工は2005年の予定だが、大阪へのオリンピック誘致が決まれば着工時期を早めるとしている。阪神電鉄も負けじと大阪市内に新線を計画している。

 市民の足である鉄道は都営や市営があるのだから自治体が民間の電鉄会社と共同出資の会社を設立してどこが悪いと言ってしまえばおしまいである。投資額に 注目して欲しい。近鉄の年間の営業収入は2500億円で、京阪は1100億円でしかない。そんな企業が第三セクターとはいえ1500億円前後の設備投資を しようというのである。しかもほんの短距離である。

 民間鉄道が単独事業として経営不能の新線を自治体となら建設できるという発想自体がもはや過去のものであるはずなのに、京阪奈新線には、1998年度の 政府予算に調査費が計上されるなど関係者の間では建設にゴーサインが出たとみられている。中之島新線の場合、特にひどいのは、現在、淀屋橋まである地下の 線路を二つ手前の駅である天満橋から別のトンネルで掘り進むことになるが、実質的に淀屋橋から駅がひとつ延長されるにすぎない。ちなみに玉江橋周辺は大阪 の外れである。多くの通勤客は淀屋橋で降りる。重ねて言う。そんな新線に1500億円を出費しようというのに批判の声は一切聞かれない。

 自治体予算にマスコミのチェックを期待するのは的外れ

 そのたった一駅のために1500億円のお金をつぎ込めば、40キロ以上ある現在の淀屋橋-京都間の運賃に跳ね返ることは必至である。アメリカだったら住 民投票で建設の可否を問うような巨額投資がいつのまにかどこかで決定してしまうのが悲しいかな日本の行政の意思決定手法である。

 経済分野を専門とする経済担当記者が記事化する国の予算の場合でもチェック機能が働からいていないのに、まして自治体の予算となればほとんどノーチェッ クだ。言葉は悪いが、1億円以上は10億円でも1兆円でも「巨額」でしかない社会部記者が受け持つ自治体行政にマスコミのチェックを期待する方が間違い だ。

 日本だけではないと思うが、マスコミは事件になって初めて報道される。金融機関の不良債権問題でも破綻して初めて記事になる。第三セクターによる新線計画などは格好の"抜き合い"の対象となる。書かれた記事に採算性を問題視する姿勢はまったく見られないから始末が悪い。

 問題は、マスコミだけでない。自治体の中で、議員や役人といえども採算性を疑う発想を持ち合わせていない。自治体の官官接待の実態を暴いたのは、マスコミでも議員でもなかったことをよく覚えておこう。


1998年06月14日(日)米Silicon Valley 八木 博

 米国企業では、業績が良くてもレイオフをすることがあります。そして、もちろん業績が悪ければなおさらですが。このような状況の中で、レイオフさ れた人にとってはずいぶん精神的に参るのではないかと思うのですが、私の知っている人達は、そんなに深刻にはレイオフを感じていないように思えます。今回 は、そのメカニズムとロジックを検証したいと思います。

 二日酔いや居眠りは立派な解雇理由

 レイオフの時の理由で、実際に多いのは「あなたの現在携わっているポストは、経営の観点から廃止されます」という通告によるものです。これは、人によって携わる仕事が明確になっているので、その仕事が無くなれば、誰が失業するか明確になるわけです。

 そして、経営者はその仕事のもつ意味や価値をきっちり押さえることができるので、経営方針の変更や業績への反映などができます。そして、場合によっては その部分の仕事を、よその会社に持って行くこともあります。それが、米国での普通のレイオフです。ここでは、個人の能力については、一切触れられていない ことに、ご注意ください。

 それ以外にも厳密にレイオフではないが、解雇される場合があります。もちろん、勤務態度が悪ければ、当然クビになります。そのためには、上司(たいてい はマネージャーですが)は常に部下の勤務態度をチェックして、悪いところがあれば、注意します。そして、何回か続けて起ると、Letter of Warning(警告書)という、どこが悪いかを具体的に記述した文書を本人に渡します。

 そうすることで、勤務態度が悪いと言うことを、文書で示します。もちろん部下は、内容が間違っていれば訂正を要求できますし、それをしないということ は、内容を認めたことになります。これは、なかなか日系企業では実施されていないらしいのですが、こちらでの雇用継続の評価手段として良く使われていま す。

 これとは異なる面ですが、日本人にとっては意外かもしれないのは、二日酔いで出社することと、勤務時間中(会議中ももちろんですが)に居眠りをするの は、立派な解雇の理由になります。二日酔いになったときにはどうするか、それは会社を休むことなのです。米国企業で勤務を考える方は、十分ご注意くださ い。

 レイオフの対象ではない人種や性別、個人の特質

 レイオフも差別は含んではいけません。ですから、正当な理由が無いレイオフは、従業員から訴えられることがあります。人種や性別、個人の特質などはレイオフの対象にはできません。そのために、企業は従業員を随時評価しています。

 そして、従業員は自分のボスに対して、最近の自分をどう思うとか、仕事の報告やコンタクトを増やします。ただ、仕事の内容と責任が明確になっているの で、自分の仕事の進捗や結果がわかれば、ある程度自分の処遇と言うのも推定できることも事実です。その意味で、常にプロとしての技量を磨き、仕事に集中す るのは当然と考えられています。

 レイオフされないためには、成長する企業に入るのが一番です。そして、そこの新分野で頭角をあらわすことが一番の早道だと思います。勤務態度が悪いのはどうしようもありませんが、自分のプロとしての技量を上げるにはいろいろな方法があります。

 まずは、就業時間後に行ける、Community CollegeやAdult Schoolがあります。それ以外には、インターネットの大学、セミナープログラムなどそれはそれは数多くあります。米国では、会社に入ってからも人々は どんどん勉強します。MBAも会社に所属しながら取ると言うのが普通ですから、社会人でも勉強します。

 そして、その時に会社以外の人とのネットワークも作られ、それがその後のビジネスで役に立つことも多いそうです。それにしてもプロとしての仕事でしか評価されない社会ですので、一般的には年上の人のほうが仕事に詳しくなります。

 典型的な例としては、新聞記者があります。記者としてキャリアーを積んでゆくことを選ぶ人も多くそのため、署名記事という記事を書く記者のなかには、社 会的な尊敬を受ける人達も少なからずいます。ここは、日本の昇進制度とは大きく違います。すなわち専門性の進化も昇進であり、管理部門はひとつの機能とい う位置付けであり、そこは管理のプロがする領域なのです。

 レイオフ後も続くネットワーク

 レイオフされても、会社からの都合だったのですから、会社の友人とのおつきあいは継続します。そして、レイオフされている間にも、学校に行ったりして技 量を磨きできれば、再就職口には、もっと良いところを狙います。ですから、会社を辞めさせられても、もとの会社に出入りする人は多いですし、そこで培われ たネットワークはいつまでも大切にされます。

 それは、ある会社の傘の下で肩を寄せ合った人達が、別の傘のもとに入って行く姿でもあり、そこで見えてくるのは、傘はあくまで傘であり、いつまでもいられるものではないと言う認識と、別の傘に入っても、個人同士は相変わらず友人関係を保てると言う、社会風土です。


6月08日「移民が支える起業家精神」
1998年06月13日(土)萬晩報主宰 伴 武澄

 6月08日付コラム「移民が支える起業家精神」への読者の声を掲載します。インディアンへの弾圧などアメリカ史の影の部分への言及が足りないといった意見もありましたが、Suoth Carolinaの西野さんが語った06月11日の「奨学金を30も受給したことが誇りとなるアメリカの高校生」にみられる奥深さはやっぱり見習いたい【萬晩報】。 


 レンタカーの旅でアメリカびいきになった友人

 いつも楽しく、私の場合は、うなづきつつ拝見しています。「『アメリカ礼賛にすぎる』という指摘のメールをたくさんいただいています」とのことですが、私は、萬晩報の日頃の基調に賛成しております。アメリカをしっかりまねて、向こうのいいところをちゃんと吸収していかないと、日本が駄目になるという考えを私個人は持っています。

 もう何カ月も前になりますが、私の日頃の言動を「アメリカ寄り」だと親しみをこめつつも批判的に言う友人をつれて、ロスに観光旅行に行きました。向こうにいたのはたった1週間でしたが、彼は私以上にアメリカ礼賛になってしまいました。

 以下のような複数のエピソードの結果、彼は、すっかりアメリカびいきになってしまいました。

(1)空港からすぐにレンタカーを借りました。早朝、すぐに立ち寄ったコンビニエンスストアの店員のスマイルと「グッモーニン!」という明るい声に感動しておりました。それにひきかえ、我が同胞のなんと無愛想なことか。

(2)ロスから南へ、海岸沿いを車を走らせました。途中、ビーチに降りて散歩していたら、浜辺をランニングしていたおじさんに即注意を受けました。我々が 歩いていたコンクリート舗装の道は歩道ではなく、自転車用兼ランナー用のものでした。そこを歩き始めてから、注意の声が聞こえてくるまでほんの10秒程 度。友人いわく「公共の場所での我が同胞は、ルール違反を見てみぬふりするのが普通。アメリカは、なんとまともな国であることよ」。

(3)あちこち走っているうちに、近くのタコスなどを置いているファストフード店へ。ところが、そこが、なんとなく雰囲気が悪いと彼が言う。たしかに目つ きの悪い人たちがこっちをにらむ。あわてて出たところで、ガソリンが少なくなった。自分で給油し、クレジットカードで自動支払い。そのレシートを見て驚い た。よけいなサービスがないからといって、ここまでガソリンが安いとは。

(4)スタンドから出ようとすると、夕方で交通量が相当増えてきました。日本と同じように、車の流れがとぎれたところで出ればいいと出かけたところが、あ たりの車がすぐに停車し、スタンドから車道に出やすくなるよう配慮してくれました。このときは、運転していた私も、唖然。東京には20年以上住んでいます が、絶対にあり得ない光景です。

(5)運転中はさらにフレンドリーな経験をいっぱいしました。別に、旅行者なんてどこにも書いてないから、これが普通のマナーなのでしょう。地図くびっぴ きでうろうろしている車のうしろから、クラクションを鳴らすこともなく、しっかり待ってくれています。車線変更でも、親切に間に入れてくれる。東京では絶 対に経験できないことを、何回も経験します。逆に、アメリカ人が東京にきて運転するとどんな気持ちになるか想像すると、恥ずかしくて顔から火が出そうにな ります。東京を少し運転すればすぐにわかることですが、幹線道路走行中、陸橋が近くなったので、変更可能なところで右に車線変更をしようとしてウインカー を出しても、入れてくれない乗用車やタクシーなんてあたりまえ。

 あのカリフォルニアから来たばかりの米国人が、国際免許でこの東京の道を2時間走ったら、いったいどういう気持ちになるか。「習慣が違う」とか、「他に も日本にはいいところがある」といっても、気休めにしかならないでしょう。そういう日本の社会を我々は作り、なおかつ維持しています。

 短い観光旅行でしたが、普通の人と同じ目線でものを見た方がいいと思って車を借りて移動しましたが、結果的に、自動車の運転を通して、あの国の危なさも わかりましたし、あの国の懐の深さというか、マナーという言葉の本当の意味を感じました。英語ができない人とクレジットカードのない人は、あの国では正当 な扱いを受けるのが難しいということも経験しました。しかし、それは、表面的には、語学の知識と個人の経済力の問題であって、日本で感じる人種差別的な言 動とはかなり異なったものではないかと二人で話し合いました。

 例の友人は、最近は、政治や経済の話をするたびに、「日本は、アメリカの州の一つになればいいのに」とまで言うのです。困ったやつです(笑)。もっと も、私も「いや、アメリカの1州になって銃も入ってくると、日本人は根が凶暴ですぐに切れるから、向こうよりも極端な凶悪犯罪が起きて、大変なことになる よ。やめたほうがいい」といって大笑いします。ここまで言うと、ちょっと・・・・でしょうか。【Katsuro Miyakoda】


 私の娘たちはトリリンガル

 私は駐在員として米国に通算12年滞在しております。「万晩報」について意見を述べさせて頂きます。「道路から下水道にいたるまで当事国民の税金で賄われるサービスを当然のごとく受けている」と 言いますが、我々は決して税金を払っていない訳ではありません。駐在員として合法的な移民であり、給料を貰って生活をしています。すなわち、米国連邦税、 州税、固定資産税(屋賃を家主に払うことで間接的に税を納める。これが直接に教育に使われる)などは当然の義務として納めております。よってサービスを受 ける権利を有するものと思います。

 「大人にも子供にも日常生活に"異なるもの"を受け入れる度量が求められている」という主張に同感です。私は娘二人を地元の中学校に通わせております が、教育を受ける権利はアメリカ人同様与えられており、むしろ移民の我々から受ける刺激を吸収してくれる度量があります。日本人に限らず移民の子は大抵バ イリンガルで、純粋のアメリカ人と比べ学校の成績は良いようです。私の娘達は中学で第二外国語をかなりの努力を強いられて取っていますがトリリンガルに なっています。これは文化的にあらゆることを受け入れられる素養を将来は持つことを意味しています。12、3歳の子供が三つの言葉を理解するなんて愉快 じゃありませんか?【米国在住12年】


 ●地域限定で「国際自由村」はいかが
 いつも楽しみに読ませていただいています。ページを見に行くの(仕事場で毎日、昼休みに)が楽しみで、貴ページのメール配信の登録は行っていません。 きっとそういう人も多いと思います。ページが更新されていない日は残念ですが、ぜいたくは言いません。 これからもがんばってください。

 「幕末の江戸の活力も薩長土肥から...」はなるほどと思いました。以前から、江戸時代と明治以降の歴史の歩みの落差に、大きな違和感を持っていました。薩長土肥からの人たちを移民ととらえる視点は、私にとって目からウロコの発想です。

 しかし、アメリカの移民の状況、移民と難民の違い、やくざの話は、問題提起としては読めますが、外国人労働者の受入れ、移民と日本の活路の問題の視点としては、妥当でないと思います。

 例えば、アメリカインディアンの視点からアメリカの移民を見ますと、侵略者そのものであり、現在もその状況に変りは無い訳で、いわゆる文化的な生活を与えられたところで、彼らがそれを望んでいるわけではありません。

 日本人にアメリカインディアン並み(もちろんアメリカインディアンを貶める意図はありません)の立場になる覚悟なりがあり、それでも日本社会の活路を求めるため移民的な要素を受入れる、というのであれば賛成です。

 薩長土肥の人たちも江戸にきて、自分たちは薩摩人、長州人ではなく、日本人であるとして、江戸を東京とし、日本を一つの国としたのではないでしょうか。アメリカの移民も多くはアメリカ人になるつもりでアメリカに渡ったのではないでしょうか。

 それに対し、外国人労働者あるいは移民の日本人になるつもりを期待できるでしょうか。その気を持たせられない日本社会の問題(これは大きな問題ですが) は別として、移民を受入れる国、他国民が移民を望む国には、歴史的、地理的な必然があるように思います。現代の日本は基本的に移民(あるいは外国人労働 者)を受入れるべきフェーズではないと思います。

 だからといって、このままでは日本社会の閉塞状態を打破できず、活路が見出せないわけです。

 そこで、(広い意味での)移民を日本の全体で受入れるのは無理がありますが、地域を限って受入れてみることが考えられます。  例えば沖縄県(もちろん沖縄の人たちの意見にもとづき、また沖縄の大幅な自治を実現しての話ですが)で、自由経済区を決め、外国人を受入れる。あるいは 外国人が原則自由に住めると言った意味で長崎県で「出島」を復活させる。東京都の湾岸地域を国際自由地域とする。北海道は・・・・と地域毎に受入れしない ことを含めて自由化するというのはどうでしょう。

 地元に文字どおり国際自由村があって、外国人が農場を経営しているなんてのは、考えられないでしょうか。【香川・浦山 国光】


 アメリカの歴史の影の部分も見て
 毎回楽しみに読んでいます。私はアメリカのオープンな感じ(大都会だけと聞きますが)が好きですし、男女、出自、年齢に関係なくよいものを認めようという努力を続けている点では日本も学ぶべきだと思っています。

ただ「花開かせる話は枚挙にいとまがない。アメリカ=移民社会なのだ」と書き始めてしまうことで、そこがもともとはネイティブアメリカンの国であったこと、まさに移民が彼らを排撃し利用していまのアメリカがあるということ、それがうやむやになってしまうという危険を感じます。

 そういうこともご承知の上での論であるとは思いますが「アメリカ礼賛」という批判には、アメリカの歴史の影の部分を見ていない、底の浅さを指摘している ものも(無意識にかもしれませんが)ないとは言えないのでは? アメリカのそんな光と影を的確にとらえた書籍として「イシ 最後の北米インディアン」(クローバー著、岩波同時代ライブラリ)をぜひおすすめします。もし すでにお読みになっていたら、私の言いたいことがわかっていただけると思います。【GOGA】


 バブル全盛のころには夜郎自大
 いつも卓見と視点の広さに感心しながら拝読しています。6月8日号について感じたことを2つ3つ申し上げます。1つは、外国のことばかり ほめるな。お前は外国かぶれか(アメリカかぶれかといった国名がはいることが多い)、日本にもよいところが沢山ある、または日本の方が優れていると語気荒 く申される方に今日でもしばしば遭遇することがあります。日本の攘夷根性、言い換えれば世界から孤立した独善主義は何百年たっても変らぬものと暗然と致し ます。バブル全盛のころ夜郎自大精神は最高に達し、今やアメリカ、いや世界から学ぶ事はなくなったと嘯いたのもこんな方々ではなかったかと思います。当時 小生は広報担当役員をしており、こんな風潮では日本もろくな事にならないと憂慮致しまして,季刊の広報誌にアメリカの強さ(みくびってはいけない)という 特集をやりました。確か、教育(特に大学教育のすごさ)、スポーツ(いうまでもありません)、巨大エンジニアリング(勝手に「メガエンジニアリング」と 言ってますがーたとえばあの年代で驚異だと思うエンパイヤーステート ビルからジャンボジェット機、スペーステクノロジー等)、だったと記憶しています。

 外国アレルギーを払拭するために、ドイツで取り入れられたように、企業のエグゼキュテイブは国際ビジネス語を使う事が条件だくらいの、荒療治が必要なの かもしれません。政府の役人も同じです。ヨーロッパ各国との会議でも今や同時通訳は居ても、おかまいなく英語ですましてしまい、かえってお互いの親近感が 増して、一種のクラブ雰囲気になるのを経験しています。日本はこの「クラブ」から疎外される訳ですから、その損失は計りしれないものがあると愚考していま す。この辺のところを大いに述べて頂きたく思います。今後とも複眼的卓見を期待しています。【ueno】

1998年06月12日(金)共同通信社記者 大辻一晃


 公共事業を中心とする16兆円の総合経済対策の評判が良くない。新聞各紙は一斉に「公共事業より減税や構造改革を」と訴えている。多くのエコノミストも同意見のようだ。

 私も、減税が望ましい政策であることには同意するが、ここまで日本経済がおかしくなってしまった以上、公共事業なしで、減税や構造改革だけでこの不況を乗り切れるだろうか。私は、不可能だと思う。

 景気の足取りがおぼつかないのに、無理な財政引き締めに踏み切ったため、日本経済は未曾有の危機に直面した。ここは手段を選ばず、ともかく「死なない」 ことに全力を尽くし、元気になってからしかるべく構造改善を進めるほかない。具体的には、政府は今回の経済対策に続き、恒久減税を柱とする中期的な経済再 生プランを早急に打ち出してほしい。

 1997年度予算案がつまずきの始まり

 1996年、日本経済はバブル崩壊後の不況から脱したかにみえた。しかし、これは6兆円の所得減税、公共事業の追加を含む大型経済対策に下支えされたもので、本調子を取り戻したわけではなかった。

 少し景気がよくなると、大蔵省はすぐに「財政再建」を持ち出す。チャンスがあれば支出を切りつめ、収入を増やそう、というのは「金庫番」として当然の発 想だが、多くの論者が指摘するように、金庫番の発言力が強すぎるのが我が国の最大の問題点である。金庫番の発言力を支えている(要するに、大蔵省の論理に 洗脳されている)政治家やマスコミ、エコノミストの責任も重い。

 大蔵省は、1997年4月から消費税率を予定通り3%から5%に引き上げるのは「当然」として、さらに、2兆円の特別所得減税の打ち切り、医療費負担を増やすなど、9兆円もの国民負担増を求め、政治家も簡単にのんでしまった。

 これらの負担増を含む1997年度予算の政府案が閣議決定された1996年12月末、外国人投資家は日本株と円を一斉に売り浴びせた。これが、今回の「恐慌」の序章だったと私は考えている。

 97年度予算では、国民に負担増を押し付ける一方、将来の支出につながる整備新幹線の新規調査費が確保され、政府米価の引き下げの見返りに農協に不透明な助成金を支給するなど、歳出の「構造改革」には手を付けない内容だった。

 「予算案に失望、市場は橋本政権のノー」--私は、こんな見出しの120行の記事(「表層深層」というタイトルで共同通信が配信)を書いた。本来、歳出 の見直しを優先し、「無駄を切りつめてもどうしても足りないので、国民の皆さんに負担をお願いします」と要請するのが、政治の正しい順序ではないか。歳出 の利権構造を温存し、打ち出の小槌を振るかのように国民に安易に負担を求めるのは最悪の選択。これでは外国人投資家が「日本売り」に走るのも当然だ--そ んな思いから記事を書いた。

 大蔵省は支出を切り詰めたがりながら、「カネをばらまいてやる」という優越感には固執する。だから、本当に必要な予算がつかず、不要でも利権に直結する (要求官庁や政治家が喜ぶ)予算を切ることに躊躇する。「僕らは反対だけど、センセイ方が決めたことですから」と逃げる。利権政治家に喧嘩を売るような大 蔵官僚は出世しない。

一概に新幹線が悪いとは言わないが、例えば秋田新幹線を作るなら、あの立派な(行ったことのある人は分かると思うが)、国際線がほとんど飛ばないのに税関 付きの第2ターミナルビルがある「国際空港」はいらない。そんなカネがあれば、首都圏第3空港や関西国際空港の拡張に使うべきだ。少なくとも、グランドデ ザイン無きローカルプロジェクトは凍結してほしい。

 財源となる税収も、取りやすいところから確実に取る方法(=消費税、所得税の源泉徴収)を好む。97年度予算案は、そういう大蔵省と政治家の「もたれ合い」の構造が前面に出てしまった。

 どうしても消費税率を上げたいなら、せめて特別所得減税は継続し、医療費にも手をつけるべきではなかった。歳出も、景気に配慮して一定の公共事業を確保するのも仕方ない。総額的には97年度予算でも足りない。もっと事業費を増やしてもよかったぐらいだ。

 事業総額を確保しつつ、新幹線、米価など経済効果に比して「歳出の構造見直し」の象徴的な意味合いがあるものを思い切ってカットし、ともかく「日本は変わろうとしている」という印象をアピールすることが重要だった。

 実際、ソロモンブラザーズのストラテジストだったロバート・フェルドマン氏は、米価を例に挙げ「日本は変わらなければならないのに、変わろうとしていな い」と断じた。内外の金融市場で著名なフェルドマン氏らの発言の影響力は大きい。外国人投資家の「日本売り」を誘発するなど、彼らには簡単なことだ。

バブル崩壊後の地価下落で不良債権を膨らませていた日本の金融機関は、97年度予算案をきっかけに、大量に保有する株の含み益減少という「重荷」を新たに背負わされた。

 財政構造改革が追い打ち

 この時点で政府が失敗に気づき、政策をあらためればまだ間に合ったが、特別減税の復活を忌避し、逆に、「財政構造改革」という暴挙に出た。

 財政構造改革というのは、公共事業、社会保障、防衛など事業分野ごとに歳出伸び率の上限を設定するなど、財政赤字の削減を法的に義務づけるものだ。財政赤字の削減が将来の日本のため必要なのは言うまでもないが、問題は、そのやり方とタイミングである。

 景気が最悪の時期に歳出を抑制する、つまり、病人が死ぬかもしれない時に「薬を投与しすぎると中毒になってしまう」といって何も処置しない、というよう なことがあってはならないのは、子供でも分かる話だ。したがって、アメリカなどでも財政赤字の削減をする時は、諸情勢に配慮して柔軟にやるのが通例だ。

 実際、アメリカのレーガン政権もイギリスのサッチャー政権も、多額の財政赤字を抱えているのに、まず減税で民間活力を高めようとした。レーガンは「強い アメリカ」にこだわって軍事費の削減を遅らせたため、双子の赤字を膨らませ、「レーガノミックスは失敗だった」という意見も日本では少なくない。しかし、 減税で供給サイドを刺激するという考え方が正しいのは、今日の米英の経済復興を見ると明らかである。

 経済のダイナミズムを重んじるなら、97年度予算案の評判が悪かった時点で、政府は所得税、法人税の減税を実施し、供給サイドを刺激すべきだった。ところが、大蔵省はこの時点で、歳出を抑制するという縮小均衡を目指した。

 歳出抑制自体は、悪いことではない。「官」の仕事を減らし、「民」が担う部分を増やすのは、経済の成熟した国家では当たり前のことだ。ただし、歳出抑制とともに公務員の削減、規制の撤廃・緩和が同時に行われないのでは、意味がない。

 これらを三位一体で打ち出せばよかったのだが、ここまで大蔵省に求めても不可能だ。政治家がリーダーシップを発揮するほかない。

 しかし、橋本龍太郎首相は、歳出を各項目ともまんべんなく、景気の状況など一切考慮せずに毎年着実にケチる、という大蔵官僚のレールに乗ってしまった。

 財政構造改革が論議された前後から、野村総研のリチャード・クー氏は、「今は歳出削減の時期ではない。長期金利が歴史的な低水準にあるのは、市場が財政 再建を求めていない証左だ。こういう時期にむしろ、必要な社会資本整備(情報通信、電柱の地中化など)を重点的に実施しておくべきだ」と語っていた。

 私はクー氏のインタビュー記事を1996年秋に書いた。しかし、「財政再建を進めないと、日本はおかしくなるぞ」と大蔵官僚の論理をまじめに説く人があまりに多く、愕然とした記憶がある。

 1997年春以降、増税の影響で個人消費は急速に落ち込んだ。「日本売り」は止まらず株価は低迷、金融機関の含み資産は底をつき、「絶対潰れない」と言われた山一証券や北海道拓殖銀行が破綻した。こういう状況の中で、財政構造改革法が国会を通過する--。

これは異常な事態だ。なぜ大型減税、公共事業の上積みを早くしなかったのだろうか。多くの国民は、「財政再建」というおまじないに洗脳され、不況に対処することを忘れていた。

「財政面でも、金融面でも、何もできない。手詰まり」という説が多かったが、その後、減税や30兆円の金融安定化対策が可能だったのに、なぜ、秋の時点で「財政は手詰まり」と断じたのだろうか。私には理解できない。

繰り返しになるが、1996-97年の時点で「財政構造改革」は米価、新幹線など象徴的なものだけ手を付け、バラまきと決別する姿勢を示すことから始める べきで、無理に歳入と歳出の帳尻を合わせる必要はなかった。むしろ、一時的に財政赤字が増えても、減税や規制緩和により供給サイドを刺激すべきだった。

 そして中期的に、景気が自律回復を取り戻してから、公務員削減を伴う歳出カットに手をつけ、税収規模に見合った「小さい政府」を作るのが、正しい処方だった。結果的に、政府はその逆をやってしまった。

 つまり、利権に切り込まず、要不要の吟味なしに一律に予算を減らす。9兆円の国民負担を押し付け、財政の帳尻を合わせる。好況でも不況でも、この政策スタンスは変えない。公務員の削減=小さな政府の道筋は示さない...。

 これでは国民は将来に展望を見いだせない。不要な歳出のため果てしなく増税を求められ、必要なところにはカネが回ってこないのでは、「生活防衛」せざるを得ない。

 経済オンチだった自民党幹部

「減税しても、国民は貯蓄に回すだけで、景気刺激効果はない」--加藤紘一自民党幹事長の持論だ。橋本首相が減税表明した後も、このせりふを吐いた。そういう行為自体、国民のマインド、内外の投資家の評価を悪化させていることを、なぜ考えないのか。不思議でならない。

 「減税しました。頼むから使ってください」となぜ言わないのだろうか。よほどの経済オンチだとしか思えない。

 では、小沢一郎自由党党首がいいかと言うと、そうとも思えない。彼が操った細川政権で何があったか。思い出してほしい。そう、国民福祉税構想だ。

 あれは、年6兆円の所得減税を3年先行するものの、消費税の名前を変えて税率を7%にするというものだった。これは、9兆円近い増税になる。年3兆円もネット増税を確保しようとした人が今、減税を主張しても説得力がない。

 消費税は社会保障に必要というが、年金だって厚生省の言うように破綻するとは限らない。女性も高齢者も働ける社会を築いて働き手を増やし、世帯単位の加入を個人単位にあらためる、という選択肢もある。

先日、新聞に「年金に関する有識者調査」の結果が載っていた。「年金料のアップ、支給の削減もやむを得ない」という見出しだったが、この調査には問題がある。

 実を言うと、私もサンプルの一人だったが、設問から、厚生省の主張に誘導する意図を感じた。前提条件を勝手に設定し、限られた選択肢から「どれがマシか」を選ばせたにすぎず、とても国民の声を反映する内容とは思えない。

 話がそれたが、有力政治家は皆、大なり小なり、圧倒的な情報を有する官僚に取り込まれている。

 橋本首相は評判が散々だが、私は、曲がりなりにも官僚の思考から脱し、アメリカの圧力かもしれないが、年末から減税を二度にわたり表明するなど、政策転 換した点を評価したい。できれば兵力を逐次投入するのでなく、一気にやってもらいたかったが、「減税は効果がない」などと言う人よりはましだと思う。

 公共事業についても、今は非常時である。構造改革をする余裕はない。マイナス成長から脱する見通しがつかず、失業率は4%を超えた。 円は1ドル=140円台に下がった。

 坂道を転げ落ちる物体を止めるには、坂道で物体を押し上げるよりはるかに大きな力が必要だ。あの事業はだめ、とか選別する余裕も今はない。拓銀が潰れた北海道など、企業やら娯楽施設やら次々倒産し、恐慌状態である。

 土木・建設事業に頼りすぎるのは問題だが、今、これを減らしても受け皿がない。とにかく、すべては血を止めてから、だ。極端なことを言うと、穴を掘って埋めるだけでもいいから、公共事業が必要だ。

 「止血」に全力を挙げながら、21世紀の展望を示す作業も同時に求められる。政府には、(1)財政構造改革法を廃止し、所得税と法人税を合わせて5兆円 程度の恒久減税を98年度予算で実施する、(2)21世紀初頭をめどに税収に見合う小さな政府の構築を目指し、新たに規制緩和と公務員削減(例えば郵貯民 営化、食糧庁廃止)を含む行革プログラム(=真の財政再建計画)を作る、(3)女性、高齢者の雇用促進、個人単位加入への移行を柱とする年金・福祉政策を 早急に打ち立てる--の3点を求めたい。

規制緩和して指導行政から検査行政に以降すると、捜査関係の公務員の増員が必要で、かえって公務員が増える、という人もいるが、経済犯罪は凶悪犯とは違 う。何も片っ端からしらみつぶしに摘発する必要はない。「悪いことをすると市場から退場させられる」、という規律が確立すれば、ある程度は自律メカニズム により犯罪抑制が図られると思う。

今般の金融犯罪に例えると、「関与した金融機関との取引を控える」(例えば、外銀に取引を移す)というような消費者のムーブメントがもっと普及することが重要である。


 大辻一晃さんは現在、共同通信社外信部記者。最近まで経済グループに属し、財政や金融を中心に取材していた。秋からワシントン勤務の予定。大阪市出身。mail addressはotsujika@kyodonews.or.jp。
1998年06月11日(木)米South Carolina 西野智雄


 私は、今年からアメリカ駐在になりました、若輩のサラリーマンです。物理的な年齢は32歳ですが、ずっと技術畑の人間だったので、社会的な見識とか知識 は20代になったばかりかなと考えています。初めての海外生活、それもアメリカ東海岸に4ヶ月住んでみて、アメリカについて驚く事がいくつもありました。

 「いやー、こっちの高校の卒業式でさ、奨学金をもらう事になった生徒とか発表するんだけどさ、すごいやつは30ぐらいもらってたぞ。」

 そのひとつが、先日地元の高校で卒業式だった。息子が地元の高校に行っていた日本人がこんな感想を洩らしました。日本の奨学金制度や日本人のお金の使い方に対して考えさせる内容でした。私たちのアメリカ論議が始まりました。

 私たちは、この話で奨学金をもらう事が発表される事に驚き、その数の多さに驚きました。

 日本の奨学金制度で私たちが知っているのは日本育英会です。ただ育英会の選考基準に保護者の収入が入っています。そのせいとはいえないかもしれません が、奨学金は貧乏な子(差別用語ですがもっともイメージが合うので使わせてもらいます)がもらうものだと、奨学金をもらう事に少し引け目を感じていまし た。また企業奨学金もありますが、これは給料の前借り若しくは借金のようなもので、いずれにしろ余りイメージの良いものではないようです。

 街角のピザ屋の親父が奨学金を出す世界

 しかし、アメリカ社会では奨学金を貰えるのは、その生徒が優秀であるからにほかならず、両親や親戚がどうのこうのは関係ありません。そういった意味で卒業式に奨学金の受領の発表があることは、その生徒の優秀さをまさに賞賛しているのです。

 また、アメリカの奨学金はほとんどの場合返却する必要がありません。これも奨学金を貰いやすい理由の一つになっています。

 多い生徒で30種類、全員で30人ぐらいの生徒が貰うのですが、こんな3万人ぐらいの片田舎の町の高校で300種以上の奨学金が配布される事は驚きで す。しかし、よくよく話を聞いてみると、結構個人で出されていて、地元のピザ屋の親父とか普通の人が奨学金のドナーとなっています。

 金額も500ドルからあり、それなら俺だってと思わせるものです。しかも地元の人が集まっている高校の卒業式で、「XXピザから1000ドル」とやるの ですから、ちょっとした広告です。このような寄付は、アメリカでは無税で必要経費と同じ扱いになります。アメリカは税金が高いので、税金を払うぐらいな ら、奨学金に出してあわよくば店の評判も上がってと考える経営者はごまんといるでしょう。

 息子の奨学金で浮いた教育費で他の学生に奨学金

 また、自分の子供が奨学金で大学に行ったりすると、その親は浮いた金で、自分の子供以外に同じように奨学金を出してやろうかと考えます。そしてそれは無 税です。年収10万ドルの人は3000ドルぐらい簡単に出すでしょう。現に私も500ドルぐらいなら出すよな、と思いました。こういった人に金を与えやす い風土なのです。

 将来この子供たちが大きくなった時、財政的な余裕がある生活が出来るようになったら、やはり無償の奨学金を出すでしょう。

株の配当も同じような考え方なのでしょう。株主を儲けさせてやれば、次の資金集めの時また金を出してくれると考え、株主はこいつに出しておけばまた儲けさ せてくれると思うのでしょう。金は動かしてこそその価値を見出せる事を知っているのでしょう。日本みたいに1200兆円の預金をただ黙って取っておくの は、経済上変だと思います。

 日本の株取引は、面倒くさくて手数料が高くて、小金持ちにはあまり手が出せません。結局使い道が無くなった金が銀行や箪笥の中に眠るのでしょう。企業の資金繰りが銀行に押さえられることになります。

 「情けは人の為ならず」と言う諺があります。本来の意味は、情けをかける事はその人の為だけではなく、まわりまわって自分に帰ってくる、と言う意味です。

 しかし最近では、情けをかける事はその人の為にならないから甘やかしてはいけない、と言う意味に変わってきていると聞いた事があります。(いつになった ら帰ってくるかわからないくらい)将来的な損得を見詰めていた目が、目先の損得にだけにこだわるようになった、捻じ曲がった合理主義に、日本人はいつから 変わったのでしょう。(1998年6月5日South Carolina Myrtle Beachにて)


西野智雄氏は長崎県長崎市出身。1965年生まれ。現在アメリカ、サウスキャロライナにてマーケティングの仕事をしている。
Mailaddressはheha@geocities.co.jp。
   四国新聞紙面から転載 1998年06月11日(木)萬晩報主宰 伴 武澄


 香川県の県紙である四国新聞の6月11日付一面のコラム「一日一言」に萬晩報のことが報じられた。「新聞紙のある風景」と題して取り上げてくれた。俵万智の「サラダ記念日」ではないが、「きょうはヨロズ記念日」。コラムを転載させてもらう。

 ●一日一言(6月11日付四国新聞)「新聞紙のある風景」

   「新聞のある風景」という写真コンテストが作品を募集している。日本新聞協会主催で今年が2回目。昨年のグランプリは駅のホームで新聞を読む若い女性だった。こんな風景が懐かしくなる時代がくる▲ほかの受賞作は雨中の新聞配達バイク、新聞紙で包んだ花束を持つ老女、というものだった。いずれも「新聞」 というよりは「新聞紙のある風景」。しかし新聞が紙である時代もやがて終わると予感する出来事が続いている▲明治から大正にかけて人気を集めた新聞に「萬朝報」があった。翻案小説でも活躍した黒岩涙香が創刊し、一時は日本最大部数を誇った。今年、その名を思い起こさせる「萬晩報」が創刊され、ひそかに人気になっている▲創刊といっても、流行のインターネット上でのことだから、新聞と呼べるかどうかは分からない。しかし毎日、毎日、何か新しい情報が自分の メールボックスに届けられてくるというシステムはまさに日刊新聞そのものだ▲編集発行人は共同通信社経済部デスクの伴武澄さん。アジア経済専門家としてすでに3冊の著書があるが、もっと読者と議論したいと今年1月、インターネット「萬晩報」を創刊した。名前は先輩への畏敬を込めたパロディ▲毎日、毎回、ほぼ2000字の原稿を書き続け、最初は友人、知人20人に配信した。余技だからもちろん無料。アジア経済や日本の構造問題に関する研究を深められれば、く らいの軽い気持ちだったが、1カ月で希望者が1000人を超えて本人も驚いた▲創刊から5カ月目の昨日の配信希望者は4114人。こんな事例がほかにも増えている。伝えたいことがあり、伝える意欲さえあれば、だれでも世界中に伝えられる。そんな時代がもうきている。「新聞のある風景」写真に、新聞紙が登場 しない時代の足音が聞こえる。


   四国新聞紙面から転載 1998年06月11日(木)萬晩報主宰 伴 武澄



 香川県の県紙である四国新聞の6月11日付一面のコラム「一日一言」に萬晩報のことが報じられた。「新聞紙のある風景」と題して取り上げてくれた。俵万智の「サラダ記念日」ではないが、「きょうはヨロズ記念日」。コラムを転載させてもらう。

 ●一日一言(6月11日付四国新聞)「新聞紙のある風景」

   「新聞のある風景」という写真コンテストが作品を募集している。日本新聞協会主催で今年が2回目。昨年のグランプリは駅のホームで新聞を読む若い女性だった。こんな風景が懐かしくなる時代がくる▲ほかの受賞作は雨中の新聞配達バイク、新聞紙で包んだ花束を持つ老女、というものだった。いずれも「新聞」 というよりは「新聞紙のある風景」。しかし新聞が紙である時代もやがて終わると予感する出来事が続いている▲明治から大正にかけて人気を集めた新聞に「萬朝報」があった。翻案小説でも活躍した黒岩涙香が創刊し、一時は日本最大部数を誇った。今年、その名を思い起こさせる「萬晩報」が創刊され、ひそかに人気になっている▲創刊といっても、流行のインターネット上でのことだから、新聞と呼べるかどうかは分からない。しかし毎日、毎日、何か新しい情報が自分の メールボックスに届けられてくるというシステムはまさに日刊新聞そのものだ▲編集発行人は共同通信社経済部デスクの伴武澄さん。アジア経済専門家としてすでに3冊の著書があるが、もっと読者と議論したいと今年1月、インターネット「萬晩報」を創刊した。名前は先輩への畏敬を込めたパロディ▲毎日、毎回、ほぼ2000字の原稿を書き続け、最初は友人、知人20人に配信した。余技だからもちろん無料。アジア経済や日本の構造問題に関する研究を深められれば、く らいの軽い気持ちだったが、1カ月で希望者が1000人を超えて本人も驚いた▲創刊から5カ月目の昨日の配信希望者は4114人。こんな事例がほかにも増えている。伝えたいことがあり、伝える意欲さえあれば、だれでも世界中に伝えられる。そんな時代がもうきている。「新聞のある風景」写真に、新聞紙が登場 しない時代の足音が聞こえる。


  『新聞研究』1998年6月号から一部修正して転載 1998年06月10日(水)共同通信社記者 畑仲哲雄


 前日のコラム「肩書きはずしノウハウを伝えあう記者と編集者のサイトを提案(1)」の続きです。

 つながりを生かして不正暴いた市民団体

 話は少々脱線するが、数年前から官官接待が大きな話題になっている。報道各社もこぞって税金の無駄遣いを批判する論陣を張ったが、ずっと気になっていたことがある。それは、食糧費などの公的情報を取った多くが、市民のボランティア部隊だったことだ。

 彼らは特殊なことをしたわけではない。情報公開制度に基づく市民的権利を行使したのである。しかも、グループ同士の横のつながりを生かし、ノウハウを伝えあいながら公費の乱用を次々暴いていったあたりは、どこか、アリゾナ・プロジェクトに似ていないだろうか。

 そうした市民グループの中には、ジャーナリストのあり方を批判する声が強い。「情報公開法を求める市民運動」の奥津茂樹事務 局長は『メディアと情報公開』(花伝社、97年)のなかで「本来はマスコミがやるキャンペーンを、一般の市民やボランティア的献身に委ねることになってし まう」と書いている。平たくいうと《あなたたち記者は、素人集団に抜かれたのですよ。そんなことではいいのですか》と、私たち記者たちの存在意義を憂慮し ているのだ。

 奥津氏をはじめ、官官接待を追及した市民運動団体の多くは、記者たちに情報公開を使って調査報道をすることを強く望んでいる。

 だが、記者たちの多くは記者クラブにからめ取られているのが実情だ。

 クラブは外から見れば情報優遇装置だが、内部にいるとキツネとタヌキの化かし合い的な面もある。昼間は大っぴらに聞けない情報は、夜回りで得なければならない。発表が相次ぐ昼間にクラブを空けて「情報公開に行って来ます」というわけにはいかない。

 情報公開などよりも、当局とのパイプを太くしたり、未発表の情報やヒントを教えてくれる夜回り先を開拓しているほうが上司の覚えもよい。

 しかし、私たちは牧歌的な時代を生きているのではない。いやな言葉だが、私たちの世界に「マルチメディア」が流れ込んできて いる。新聞経営者たちは、それが業界にどんな打撃を与え、どんな新商売ができるのかといったことに頭を悩ませている。そして、これまで言論活動と無縁だっ た巨大資本がこの業界に大挙して進出してきた。

 海外に目を向けれると、ホワイトハウスや、EU、英国政府も《電子政府》のような公的情報の電子データベースをネット上に公開し始めた(EU =http://europa.eu.int英国の電子政府 = http://www.ccta.gov.uk/)。それに呼応するように欧米の記者たちが、コンピューターで公的情報を検索・分析するテクニックを互いに教えあっている。

 日本の記者だけが、時代に取り残されているような印象を私は抱く。

 もう1つの公的情報

 私たちの本来の仕事は、公共の福祉に関わる情報(公的情報)を手に入れて、わかりやすく正確に、しかも早く伝えることである。  公的情報は大きく分けて2種類ある。1つは記者クラブや官報、企業報などで発表される情報。もう1つの公的情報は、市民グループが報公開制度で引っぱり出したような情報だ。

 従来の記者活動では、発表される公的情報と、それに付随した夜回り情報に軸足をおかれすぎて、後者の公的情報をおろそかにしすぎてきたのは否めない。

 その反省は、立花隆氏の田中角栄金脈報道のときからある。当時の立花氏は自治省政治資金課に日参し、請求すれば当たり前に閲 覧できる公的情報を丹念に拾い、精査した。この手法を使えば、だれでも金脈の全ぼうをつかめたはずだが、当時の記者はそれを怠った。このたびの官官接待と 同じ構図だ。

 今後、記者が、立花隆氏や市民団体から"抜かれ"ないようにするには、請求すれば得られる公的情報をきちんと請求することかもしれない。

 幸い、昨今の市民団体や立法府の動きをみていると、公的情報が広く公開される方向に進んでいる。欧米にならって、それが次々 と電子化されていくのは時間の問題だろう。昼間に記者クラブを抜け出して役所に足を運ばなくても、ネットを通じてできるようになれば、しめたものである。

 先人たちは、なんの法的根拠もないところから、苦労して記者クラブを作ってくれたのかもしれない。だが、情報公開が進めば、 従来型の記者活動だけでは太刀打ちできなくなる場面が、いま以上に増えることは必至だ。そんな時代に、私たち1人ひとりの記者になにができるだろう。

 まず手弁当で小さな作業から

 一足飛びにIREのような組織を作るというのはあまりに現実離れしているが、冒頭で書いたように「○○社の」という肩書をはずして、小さな勉強会を催すくらいはできるのではないだろうか。

 遠く離れた場所で働いている専門の違う記者となら、日々の仕事で競合することもない。雑誌編集者やフリーライターにも参加を 求めるのもいい。電子メールを使えば、距離や時間の制約は受けずに情報交換ができる。肩書をはずしたジャーナリスト同士で非営利サイトを運営することも不 可能ではない。

 最初はデータベースの使い方や、すでに明らかにされている情報源の所在を教えあう程度でもいい。小さな作業だからこそ、手弁当で始められる。

 こうした趣旨で、すでに何かを始めている記者・編集者、あるいは、やってみたいと思っている記者・編集者がおられるようなら、メールをいただきたい。


 畑中 哲雄氏は共同通信社大阪支社ラテ部記者。1997年からホームページ Press Roomを主宰。辛口コラムと内外の報道機関、統計などへのリンク集が好評です。OfficialMailは press@ing.alacarte.co.jp
 『新聞研究』1998年6月号から一部修正して転載 1998年06月09日(火)共同通信社記者 畑仲哲雄


 どんな仕事をされているのですか? 初対面の人に尋ねられると、かつてなら「○○社の記者です」と答えていた。しかし近ごろ「○○社の」を省略して答えることが多くなった。企業の枠を超えた人と人の関係性を模索するためである。
 こんなことを言うと、「貴様のような愛社精神のない奴はクビだ」としかられそうだが、あえてそういうことを冒頭で書いたのは理由がある。


 ●社を超えたIREの試み
 IREという組織をご存じだろうか。朝日新聞のリクルート報道を陣頭指揮した山本博氏に賞を授与した米国の団体といえば、思い出す人もいるのだろう。 IRE=Investigative Reporters and Editors Inc. 直訳すると、調査報道をする記者と編集者。調査報道記者編集者会議とも訳される。この団体は、私たちの仕事を考えるうえで実に示唆に富んでい る。

 私がこの組織に強い関心を抱いたのは、知人のフリーライターから勧められた

『アメリカ・ジャーナリズム』(下山進著、丸善ライブラリー、1995年)がきっかけだった。内容は、文藝春秋の社員が米国コロンビアジャーナリズムス クールに1年間留学したときに取材した話をまとめたものだ。正直、なにを今さらという気分で読み始めたのだが、この団体の生い立ちや活動内容を知るにつ け、自分の無知と怠惰さに赤面せざるを得なかった。

 IREに参加したこともない私に多少の知ったかぶりを許していただき、インターネットのホームページ( http://www.ire.org/)と関連書物から、簡単に紹介してみたい。

 アリゾナ・プロジェクトという伝説

 IREは企業内の仲良しサークルでも、記者クラブのような団体でもない。手短にいうと、あらゆるメディアで働く調査報道ジャーナリストが、取材テクニックについて情報交換をする草の根の非営利団体である。

 産声を上げたのは1975年。捜査機関の汚職を暴露してピュリツァー賞を獲得したインディアナポリス・スターの記者たちが、米全土の検察・警察の腐敗を 調べるため、各地の地方紙と共同取材したという。このとき22歳の記者が、他の地方紙の記者と報道の手法を教えあう場が必要ではないか、と提案した。これ がきっかけで、わずか4人の会合が開かれ、IREの母体が生まれた。ワシントンポスト紙のウォーターゲート報道の興奮が冷めやらず、全米各地の新聞社が調 査報道班を続々と編成していた熱い時代の話である。

 象徴的な事件が翌76年に起きる。設立メンバーの1人でアリゾナ・リパブリック紙のドン・ボールズ記者が、地元の政財界や官僚とマフィアとの黒いつなが りを取材中に暗殺された。事件は、IREがインディアナポリスで第1回大会(創立総会)を開く数日前に発生したこともあって、IREは急きょ、ボールズ記 者の遺志を継ぐ計画を練り、全米の記者たちに参加を呼びかけた。

 やがて、各地から有志の記者がアリゾナに集う。ニューズデイ紙のロバート・グリーン記者を核に、28の新聞・放送局から延べ38人がプロジェクトに参加 した。とはいえ、参加者全員が全期間を通じて参加できたわけではない。ニューズデイ紙などは全面的に協力したようだが、中には、休暇を利用して参加するな ど、時間的なやりくりが大変だった記者も多かった。なぜならこのプロジェクトは、無報酬のボランティアだったからだ。

 半年にわたる取材の成果は、77年に23回のシリーズにまとめられ、ニューズデイや参加記者の所属新聞社、それにAPなど通信社を通じて全米に伝えられ た。取材の過程で、マフィアとアリゾナ当局ののつながりが暴露され、ボールズ記者を殺害した容疑者も逮捕された。こうしてアリゾナ・プロジェクトは、記者 仲間の弔い合戦という性格も手伝って、伝説として語り継がれることになった。

 ただ、忘れてならないのは、その背景に、企業の枠を離れた記者たちの熱意と、それに理解を示した会社の懐の深さがあったということだ。

 IREは、このプロジェクトだけで役目を終えたわけではない。その後も会社を超え、メディアを超え、フリーランスを含めて毎年大会を開き、取材手法を伝 えあう息の長い活動を続けている。そこで訓練を受けた記者の中からは、ピュリツァー賞を獲得するようないい仕事をしている人も多い。

  コンピューター補助報道の試み

 IREが最近もっとも力を入れているのは、CAR(Computer-AssistedReporting =コンピューター補助報道)だ。記者がパソコンを使って、ネット上などで公開されている各種データを読み解き、数字の向こう側ある事実を浮き彫りにする。 こうした手法は、近ごろ米国で注目を集めており、IREでは、ミズーリ大学ジャーナリズム学科のNICAR( National Institute for Computer-AssistedReporting )と共同で、89年からCAR訓練を実施している。

 NICARのホームページ( http://www.nicar.org/ )によると、電子ファイルの扱い方から、各種データベースへの接続方法、電子データを表計算ソフトなどを使って分析する方法などが、段階別に細かく設けられている。ミズーリ以外の土地でキャンプをしたり、ネット上でもセミナーを開くなど活動は活発のようだ。

 『日本の情報化とジャーナリズム』(桂敬一著、日本評論社、95年)でも、そうしたIREの調査報道例がいくつか紹介されている。例えば、オハイオ州の クリーブランド・プレイン・ディーラー紙の例。同紙は、公立学校に給食材料を納入する業者の価格決定、食品検査、少数民族の差別雇用などをスクープした が、それが可能だったのは、連邦や州食料薬品局の関係文書から、業者の決算書・納税書類、入札記録にいたるまで、実に多様なデータが電子ファイルとして公 開され、それらをコンピューターで分析できたためだ。

 対照的な日本記者事情

 ここまで書き進めて、私は軽い脱力感を覚えざるを得ない。

 記者は企業間競争からなかなか逃れることができず、1つの企業内でも、政治部、経済部、社会部が、縄張りをめぐり、あるいはアプローチの違いから反目し あうことは珍しくない。コンピューターはもっぱら合理化の道具として導入され、調査報道の武器にしたという成功例もほとんど聞かない。そればかりか、コン ピューターを毛嫌いする人はまだ多い。

 ただ、誤解してもらいたくないのは、日本のジャーナリストもIREを見習いましょう、などという簡単な結論を導き出そうとしているのではないということだ。

 日本とアメリカでは文化的背景が大きく異なる。記者に限らずホワイトカラーの多くが当たり前のように転職する雇用風土があり、愛社精神の質も違うだろ う。そればかりか、日本では公的な文書やデータ類の電子化がそれほど進んでおらず、電子化されているものにしても、役所や企業はそういったデータを簡単に 公開したがらない。見習おうにも見習いようがない。

 『新聞研究』編集部から原稿依頼を受けたときも、正直、ずいぶん悩んだ。  そこで、恥をしのんで自らの歩みを振り返り、少し希望的な提案をしてみたい。  私は1985年に毎日新聞社に入社した。広島・京都両支局で先輩たちから記者としての基礎訓練を受け、大阪社会部に異動後、病気や生活困窮などのため退社した。その後、日本経済新聞社系の出版社で、月刊誌の編集者としての仕事を学び、共同通信に再転職した。

 新聞社時代は、正直、鼻持ちならない会社人間だった。毎日新聞を愛し、毎日新聞の栄誉のために尽くすべく働いた(つもりだ)。競合紙の記者の前で取材手 法に関する話題は努めて避けたし、記者クラブの問題点につても、頭ではわかっていながら「仕方ないじゃないか」と開き直っていた。

 だが、月刊誌『日経トレンディ』編集者になり、ものの見方が変わった。記者クラブという便利な場所が利用できず、記者会見にも出られない。夜回り用のハイヤーなど使えるはずもない。

 頭ではわかっていたつもりだが、このときほど新聞協会加盟社の記者の特権の大きさを痛感したことはない。いや、私などまだましなほうだ。フリーライターの生活は過酷である。公的な情報を得るときでさえ、ずいぶん遠回りをしなければならないことがあるのだから。

 その後、私は縁あって共同通信社に転職し、経済部に配属された。再び記者クラブの日々を送ることになる。毎日のように官庁や企業が発表する素材を記事に するしなければならなかった。そんなとき、いつも胸をかすめたのは、雑誌時代に感じていた疑問――あらゆるニュースが協会加盟社の記者を通して国民に伝え られている。そして、その他のメディアで働くジャーナリストは後回しにされるか無視されるかのどちらかだ。これは、この国全体の情報の流通にとって、好ま しい状態なのだろうか――という疑問だ。 (続)

   畑中 哲雄氏は共同通信社大阪支社ラテ部記者。1997年からホームページ Press Roomを主宰。辛口コラムと内外の報道機関、統計などへのリンク集が好評です。OfficialMailは press@ing.alacarte.co.jp


1998年06月08日(月)萬晩報主宰 伴 武澄


 萬晩報が「アメリカ礼賛にすぎる」という指摘のメールをたくさんいただいています。「日本には日本のいいところがある」「まねばかりしまくてもいい」といった意見でした。もっともな意見だし、日本を全面否定しようとしているのではない。

 筆者は京都に住み、箱庭と紙と木の文化をこよなく愛している。休日の古寺巡礼を趣味とし「日本文化礼賛者」のひとりとして人後に落ちないつもりである。

 だが1998年02月27日付萬晩報「 職務に忠実なアメリカの高校カウンセラー」などで主張し続けてきた「大人にも子供にも日常生活に"異なるもの"を受け入れる度量が求められている」という問題提起は、袋小路に追い込まれた日本が活路を見出すための最低限の提言なのだ。

 カーネギーもデュポンも元は移民

 アメリカの活力の源は、移民であることはだれもが否定しない。世界中からやってきた起業家や学者がアメリカという土壌で花開かせる話は枚挙にいとまがない。アメリカ=移民社会なのだ。

 インテルの創設者であるアンドリュー・グローブはハンガリー出身だし、パソコン製造で一時期、全米有数のベンチャーだったATSは今では韓国のサムスンエレクトロニクス(三星電子)の傘下に入っているものの、元はパキスタンや香港からやってきた学生が創業した企業だ。

 サン・マイクロシステムズ、オラクル、シーラスロジック、ラム・リサーチといったハイテク企業も移民エンジニアリングを中心につくられている。シリコンバレーを支えているのは中国人とベトナム人技術者だといわれたこともある。

 そもそもアメリカで鉄鋼王と呼ばれたアンドリュー・カーネギーはスコットランドからの移民。ナイロンを発明して化学業界のトップに立つデュポンの創立者 であるエルセール・イレネ・デュポンはフランスからの移民だ。フィリップ・モリスなどは会社ごとロンドンから引っ越してきてアメリカという土壌で世界一の たばこ会社にのし上がった。

 移民者であっても、アメリカでは大統領以外のあらゆる職種に就ける。オルブライトもキッシンジャーも移民である。言うまでもないが、二代目からは立派な アメリカンである。もちろんアメリカはアングロサクソンが基礎をつくった国家である。政治的には、アングロサクソンでも、経済、特に金融はユダヤが牛耳 る。ロンドンやハンブルグ、パリからやってきたいくつかに家系にはいまだに強いシンジケート的つながりがある。彼らは、国際通貨基金(IMF)や連邦準備 銀行、財務省に人材を送り込み、影響力を行使してきた。彼らもまた移民だった

 幕末の江戸の活力も薩長土肥から移民が生み出した

 明治時代が活力があったのは、長州や薩摩、土佐といった西国の人たちが江戸に乗り込んで新しい"常識"を東京に造りあげたからだと考えている。江戸時代 の藩は独立王国である。外来語が多く伝えられ、科学から哲学まで多くの概念が次々と日本語に翻訳された。明治期には山の手言葉という新たな言語まで生まれ た。

 文化のぶつかり合いが次世代の発想と生み出すと考えれば、いま日本に必要なのは異人種交流である。出会いが衝突を生み、その摩擦熱が社会の温度を上げる。社会の活力にとってこの摩擦熱は不可欠である。

 ここで移民と難民との違いを指摘させておかなければならない。政治的、経済的理由で本国を脱出するまでは、母国を捨てるという意味で違いはない。しか し、移民の多くは少なくとも本国で売り払った財産を持って新天地にやってくるのに対して、難民は着の身着のままである。移民は新天地での当座の生活を賄う 最低限の資金があり、新天地で成功しようという強い意志がある。この違いは小さくない。

 バブル期に日本が労働力不足となり外国人労働の導入の是非が論議された。その時から筆者は、積極的な導入論者である。当時、野村証券の会長だった田淵節 也氏はある講演で「アジアの人々からみる日本はハチミツがいっぱいのきれいな花だ。ハチミツにミツバチが集まるのを遮ることはできない」というようなこと を話した。考え方にはひどく同感した記憶がある。

 日本のやくざだって世界に迷惑をまき散らしている

 当時、筆者は日本人ビジネスマンが50万人も60万人海外で働いているのなら、少なくとも同程度の人数の外国人を受け入れてもいいのではないかと主張し た。アメリカでもアジアでも日本人ビジネスマンとその家族が当事国の世話になっている。道路から下水道にいたるまで当事国民の税金で賄われるサービスを当 然のごとく受けている。だから日本だって受け入れる義務がある。

 だが反論はいつもこうだった。「犯罪が増えたらどうする」「町ににおいがつく」。「日本人はホワイトカラーが行っているが、日本に来たがっているのはブルーカラーだ」と職業の違いを理由に反対する人も多かった。

 筆者はすかさず、反論できる材料を持っていた。「ハワイで日本のやくざがアメリカ社会に迷惑をかけていませんか」「じゃぱゆきさんを日本へ送り込むため フィリピンでやくざが暗躍していませんか」。においの問題では「日本人が住むと家が醤油くさくなるといわれたことだってあるんですよ」。

 実は1950年代に、炭坑労働者として多くの日本人が西ドイツに渡り、カリフォルニアには農業研修生と称して少なくない数の日本青年が出稼ぎに行ったのである。

 唐の時代の長安や奈良時代の平安京にさかのぼるまでもない。カリフォルニアに国際国家はいつだって多くの国籍や人種の人間でにぎわっていたのである。

1998年06月07日(日)萬晩報主宰 伴 武澄


 古いコラムですが、4月14日「 ボーダーレス時代の日本人の"保身術"」、4月13日「「ドメ」が誇りだった日本のエリート官僚たち」に寄せられた貴重なご意見を掲載します。
 ご意見がありましたらメールをご本人に転送します。


 大学院までいって秘書だとか事務員ってどういうこと? 【英国在住】

 最近は、自信喪失気味の日本で、アメリカ=英語礼賛の声が強くなるのを批判するページが出てきています。それにはもっともな理由もあり、私も外国人の崇拝などはお断りですが、日本の現状を考えれば、時々日本非難はやむをえないなとおもってしまいます。

 英国人に「たくさんの日本の女の子を教えているんだけど、みんな知的で大学院にまでいって専門を磨いているのに、将来について聞くとみんな会社の秘書とか事務員とかいうんだ。これってどういう事だい?」とよく聞かれるのは私だけでしょうか。

 結構はじめからすべてをあきらめているけど、ただ数年外国の空気を味わいたい為に留学する人はたくさんいます。英国人の教官達が「あの子たち、ただ結婚の飾りを取りにきてるだけよ」などと言う陰口を小耳に挟んだこともありますが。彼らを責められるでしょうか?

 日本に帰った後、外国で得たものを生かそうとすると、目の前にとてつもない見えない高い壁があるのであれば、みななんとなく楽しく時をすごそうと言う考えをするのを私は責めません。

 留学している日本人の友達が、日本に一時帰って日本分野の学問についての質問を、外国人が建てた大学で働いている教授にしたら「外人なんかに教わってい るヤツには学問はできん」と強烈ないやみとともに追い出されたそうです(奥さんが謝りにきたそうですがね、外面と肩書きは立派な人)。

 もちろん親切な教授達に巡り合った彼女は研究を完成できそうなのですが、こういう手合いは(東大出てなければ学問はできないなどと言う人も)決して少なくない。外国では実名で悪口が出回っている有名な人はたくさんいるようですよ。

 よく留学体験を「生意気だ」押しつぶしているようですが、アジア人の学生にも同じ事をやれば、「二級白人(日本人)に馬鹿にされるのであれば白人の国にいく」となるのは当たり前なのではないでしょうか。


 必要なのは外国人の制度的認知 【匿名】

 日本人がこのような外国人に対して、恐れと嫌悪感を持ち続けている事に関してですが、役人が古い法律をメンテナンスするのを忘れていてそれを今更持ちだした事件よりも、日本人がこれからどうしようかです。

 アジアの国々で、ある程度の社会的な地位にいる人間は、母国語のほかに外国語を1つ以上は話せるとのことだけれども、それは日常的に外国人が生活に溶け 込んでいるところが大きいと思います。マレーシアで、シンガポールで、中国語 マレー語が不得意な人間がいたとしても現地の人間は驚きもしません。日本で日本語が不得意な見た感じが外国人がいたら、今はそれほどではないとしても奇異 の目で見られているでしょう。

 もし、ボーダーレス社会を目指して、外国人をもっと社会に大幅に取り入れようとするならば、外国人の法律的地位をどうするかを考えなくてはいけません。 今日本では外国人労働者は制度的に認知されていない状態で放置されています。議論はあくまで外国人労働者を受入れるのか受入れないのかでとどまっていま す。

 私は外国人労働者受け入れには反対の立場なのですが、その理由は現地にいればある程度の知識階層の人間に日本で皿洗いをさせるのは発展途上国を途上国の ままにとどめておく働きがあると思ったからです。そのため日本の道としては海外への工場移転と技術移転を積極的に進めることが日本のためにも外国のために もなると思っていました。

 そのような考え方とは別に日本にも、必要とされる人材を広く海外からも集め、新しい価値観・論理を導入しようというならば、外国人労働者を特例的なもの から、行政的に許可申請を行うものにする必要があると思います。そのような形で、外国人をちゃんとした形で認めようとするならば、いつまでも日本には原則 として外国人労働者はいない、などという原則論を持ち上げていないで、就労許可証の発行と管理をきちんとする体制を構築すべき時期に日本はもうきているの ではないでしょうか。



 グリーンカード取得者と米国籍取得者の温度差 【熟年キャンピングカー】

 「ドメ」派は役所ばかりでなく、一般の国民の中にも存在し、国際派と対立する存在になっています。北海道を旅行をして気が付いたのですが、年輩者ばかり でなく、若い人たちも旅行で知り合う人は、海外旅行の経験が少ないことに驚きました。たまに海外旅行の経験があっても1,2度のパック旅行程度で、ほとん どの人は未経験です。一方で海外旅行の良さを知ってしまった人は国内旅行や国内で遊ぶより海外を選ぶようです。

 この「ドメ」派に国内の観光インフラの未成熟さを指摘したり、欧米礼賛をすると、かなりの疎外感を味合う結果になります。  昔はこんなことはありませんでした。海外旅行が珍しかった時代やテレビで海外の報道が少なかった頃は、海外の話は興味を持って聞く人が多かったような気がします。

 東大生のある座談会で、ある話題に関して、「アメリカのようになってしまう」という否定的な発言があり、それに異議を唱える意見はなく、おおむね参加者が同意しているような雰囲気でした。

 大学生や大卒の若い人たちでも男子は意外に海外経験が少ないのにも驚きです。テレビや新聞などで海外の情報は豊富に手にはいるようになり、誰もが知っている気になっているというのが原因でもあります。

 しかし、海外旅行の経験があるといっても、それで全てがわかるわけではありません。実際にアメリカで生活をしている人でも、必ずしもアメリカを理解して いると限りません。アメリカ在住の日本人で米国籍を取得している人と、そうでなく、グリーンカードで日本国籍の人ではかなり理解度に差があります。

 留学生にしても、はじめの半年か1年は、アメリカの社会に対して反発するようです。英語が上手く使えず社会にとけ込めない。身体的コンプレックス、日本とは全く別の文化に違和感を感じる、などが原因のようです。

 実際にアメリカで留学生に感想を聞いても、アメリカの良さを認める意見は、必ずしも多くありません。日本の実社会の経験が無く、社会の矛盾にそれほど関 心がない、観察力が身に付いていないなどが主な理由であろうと推測しています。間断なく変化するアメリカの社会現象がエキセントリックに感じたり、リーズ ナブルな選択の結果をいい加減と感じたり、アメリカの社会の本質を理解するのは容易では ありません。

 読み書きを重視する英語教育が、書籍や論文によって海外の知識を吸収するという時代の発想が最近、ようやく改善されつつありますが、まだ試行の段階です。せめて英語ぐらいは第二国語くらいの扱いをするべきでしょうが、いつのことになるやら想像さえ出来ません。  欧米でも全ての人が外国語を使えるわけではありません。アメリカでは母国語を喋れないで生活している人の割合は日本よりはるかに多いはずです。

 ヨーロッパで列車旅行をしたとき、ファーストクラスに乗っている人たちは、例外なく数カ国語を使えることに気が付きました。一方でエコノミークラスでは 旅行中の学生をのぞき、現地の人は全く外国語が喋れませんでした。ヨーロッパでは数カ国語を操る人がファーストクラスに乗れるという、実際的な社会になっ ているのです。

 伴さんの云う外国語を喋れない人が行政や政治、企業の支配しているという日本の社会の特殊性は、正しい知識を持った人たちが有効に活かされないという、人事面における社会効率の低下の現れとも言えるのではないでしょうか。


 官僚機構を変えなければ日本は世界の孤児 【中南米在住】

 毎回拝読させていただいております。「どめ」という言葉は初めて知りました。官僚機構の問題点ですが、もっとストレートにざくっと指摘していただいた方がいいと思います。なにか、奥歯にものが引っかかったような感じで。

 在外のこと、特命全権大使のことが述べられていますが、「お笑い 外務省機密情報 =テリー伊藤」の本が、この辺のことがかなり詳しいです。まだでしたら、ご参考までご一読を勧めます。

 大使館のおかげで、どれほど日本の印象が悪くなっているか。出世レースからはずれたら、意地悪しかないのですか。アメリカ、欧州の大使館に赴任できない 人たちは、出生はあり得ず、屈折してしまう人が多いそうです。社会党が政権を取ったとき、官僚機構が大幅に変わるかと期待したのに、なにも変わりませんで した。官僚機構を変えなければ、日本はいつまでもこのままで、世界の孤児になるのではないかと思います。日本の将来のために、官僚機構に風穴をあけてくだ さい。
1998年06月06日(土)   伴 正一


 1979年6月19日、古井法務大臣が北京にやってきた。日中国交回復にたいへん貢献し、中国では大事にされた。古井氏が法務大臣になり、錦を飾るよう な格好で、最高裁判事、法務省幹部、弁護士会首脳などを従えた訪中だった。鄧小平との会見が実現し、席上、居並ぶ人々をびっくりさせた発言があった。中国 が経済改革開放路線をとるために外資法を作ったばかりの時だった。

 外資法などは法律じゃない

 「実は外資法というものを作りましたけど、あんなの法律じゃありません」

 自分で法律を作っておいてあんなの法律じゃないという。なにを言い出すのかと思ったらこういう説明をした。

 「文化大革命の10年余、中国全土で法律を教えていた大学は一つもなかった。その間、中国では一人の法学徒も育っていない。そんな中国でみなさんにお目 にかけられるような法律が作れるはずはないでしょう。しかし、外国の方々が中国に投資なさろうとするときに、ガイドライン程度のものでもあれば、ないより はましだろうと思って公布に踏み切ったのです」

 こんなことをほかの政府要人がいったら、翌日にはパージだ。日本だって大問題になる。しかも言論統制が厳しい共産国家の国だ。ところが鄧小平という人はそんなきわどいことをぬけぬけという人物であり、というより言えた人なのだ。

 鄧小平が会見に出てくるとき、運良く大使が出張していたり、日本に帰っていたりすると、公使である私に会見立ち会いの役が回って来る。北京在任中、7、 8回お鉢が回ってきた。その都度、世界の鄧小平から世にも痛快な話が聞けたわけだから、男冥利に尽きるというものであった。

 次の話は私が一緒に聞いた話ではないが、いかにもトウ小平らしい内容なので紹介しよう。

 日本軍をそんなに悪く思っていませんよ

 元陸軍で自衛隊の将官もつとめた人が5、6人で訪中し、北京の日本大使館を訪れた。何日もしないうちに一行がすっ飛んできて、予期もしなかった鄧小平との会見が実現し、しかも大変な内容のことを発言したのでお耳に入れたいというのである。

 日本側が「先の戦争では申し訳なかった」といった内容のことを述べると、鄧小平は発言をさえぎるようにして「われわれは日本軍をそんなに悪く思っていませんよ」と切り出した。あっけにとられた一行を前にした鄧小平の説明はこうだった。

 「あの戦争が始まる前、われわれは井崗山(せいこうざん)から、長征の途についた。延安にたどりついたときは気息奄々、靴もちびはて、人数も2万人に 減って、全滅寸前でした。ところが日中戦争が始まり、われわれを包囲していた蒋介石軍は日本軍によって次第に南部に押されていく。袋のネズミだったわれわ れはそれで息を付くことになり、日本軍の後ろに回って、着々と工作をしていった。そして戦争終結時には数百万の正規軍を擁する軍事勢力にのし上がった」

 西安に旅行したとき、周恩来が隠れていた地下指令室を見学した時のことを思い出した。展示されていた古い雑誌に、日本軍が蒋介石軍を破って南京に迫って ゆく様子を「形勢好」と表現してあった。「形勢はいいぞ」という意味だ。当時は「へんなことが書いてある」といった程度の認識だったが、国共合作で友軍に なったはずの蒋介石軍が負けていて「いい」ということもなかろうにと考えた。

 とにかく1936年秋の西安事件までは、蒋介石は日本とことを構えるより、共産党制圧を第一目標にしていた。それが西安事件で順番が逆転する。そうしなかったら捕らわれの身だった蒋介石は殺されていただろう。

 それにしても鄧小平はよくもこんなきわどいことを日本の軍人たちに言ったもので、その度胸には度肝を抜かれた。

 そんな鄧小平だから、日本のお偉方は総理級といえども太刀打ちできない。まるで子供が相撲取りがにかかっていくみたいで、当時、訪中した日本政界や経済界の人々は正直なところ、ひどく見劣りがした。

 全方位外交を面白半分にからかった鄧小平

 こういう話もあった。やはり総理級の大物政治家が「日本は全方位外交」を得意になって振り回していた。どことも仲良くというわけだ。しかしソ連と対峙していた中国から見れば「嘘をつけ」ということになる。アメリカと軍事同盟を結んでおいて、なにが全方位だ。

 「そんないい加減なことは休み休みいったらどうだ」と言いたかっただろうが、鄧小平はそんな失礼な言い方はしない。

 「われわれも同感ですよ」と日本のお偉方を持ち上げておいて、やおら面白半分に技をかけてくる。「けれどもですね」とつなぎの言葉を入れ、「こっちが同 じように仲良くしようと思っても、国によっては反応が違うということがある。中には(暗にソ連を指して)軍用機を貴国の領空すれすれに飛ばし続けるような 国もある。となると向こうの反応が違うんだから、こっちも違った対応をする・・・」

 これで全方位を言い出した日本側は顔色を失った。鄧小平の言う方が筋が通っているから反論できないし、さりとて賛成もできない。話題を経済にすり替えて 格好をつけるさまは、聞いていて耳が赤くなった。いまの日本に「西郷隆盛クラスの人物がいたら」とどれだけ思ったことか。

 鄧小平の話相手に西郷や大久保利通のような人物がいて共にアジアを語り、世界を語っていたら、日中関係はどれほど深まっていただどうと考えると。残念でならない。

 伴 正一氏は元外務省官僚。1972年から青年海外協力隊事務局長、1977年から1981年まで北京の日本大使館で公使などを歴任。現在、高知市で政治フォーラム「アイハウス」を主宰。
 ホームページ「魁け討論-春夏秋冬」はhttp://ss5.inet-osaka.or.jp/~take0505/


1998年06月05日(金) ジャーナリスト 松田 健


 マニラの北西80キロに位置するスビック湾は1844年からスペインの軍港だった。自由港として経済開発が進んだ現在でも一角にスペイン風の建物が残 る。スペインが去り、1900年からは米海軍スビック基地となり、ベトナム戦争中に増強された。92年11月にフィリピンに返還され、基地の町はスビック 湾都市開発庁(SBMA)のもとで自由貿易港に変貌した。

 旧米軍スビック基地の1万8000ヘクタールを中心に、基地に隣接するオロンガポ市や周辺地域を含む約6万7000ヘクタールがスビック湾特別経済自由港地域(SSEFZ)として指定され、1998年3月時点でフィリピン企業を含む300社が進出している。

 基地労働者の雇用を取り戻したゴードン長官

 軍事基地を経済基地として生き返らせたのはひとえにSBMA長官であるリチャード・ゴードン氏の強い指導力による。SBMA職員の多くはゴードン長官が 6年後の大統領選で大統領に選ばれると信じているが、エストラーダ新大統領に罷免させられる可能性が高いといわれている。ゴードン長官は基地返還前には地 元オロンガポ市の市長だった。「雇用が無くなる」と返還反対運動に取り組んだが、基地返還が決まってからは「海外への出稼ぎに行かせたくない。地元で職場 を確保させたい」と経済基地作りに力を注いできた。米軍の撤退で3万3000人の基地労働者が解雇されたが、ふたたびスビック基地には4万人が働くように なり、この点ではすでにゴードン長官の夢は実現している。

 1992年まではゼロだったSBMAへの外国投資は、93年の3億5397万米ドルから96年の6億3839万米ドルまで急速に伸びた。97年は96年 比で3分の1以下の1億7219万米ドルに落ちこんだが、SBMAでは「昨年は調整期」と、97年の投資減は気にしていない。外国企業の投資申請、手続き のすべてが基地内で行えるサービスも実施している。

 突出する台湾からの投資
 スビックの開発が始まった92年の日本はバブル経済の崩壊直後で元気を失っていたため、日本はスビック開発にまったく乗り遅れた。動きが速かったのは欧 米や台湾、マレーシアなどの企業であり、真っ先にスビック基地に乗り込み、米軍が残した建物、石油貯蔵施設などを含むインフラの利用権を取得した。台湾の 李登輝総統が専用機でスビック基地を訪問したなど、台湾は「国」をあげてスビック湾に進出、基地内のホテルには台湾のビジネスマンや観光客の姿が目立って いる。

 中心的な工業団地である「スビック湾工業団地」は台湾が作ったもので、スビック基地の一等地である300ヘクタールを開発した。進出している最大の企業 が台湾最大のパソコンメーカーであるエイサー。パソコンの基盤であるマザーボードの組み立てを行っている。同社は95年4月に進出を決めそのたった2カ月 後には操業を開始、97年9月には3階建ての新棟も完成した。現在、2000人弱の従業員数(内85%が女性)を抱えているが、将来的に6000人の工場 になるという。この台湾系団地の管理棟には台湾の国旗が高々を掲揚され、台湾日立も九八年六月の竣工を目指して工場を建設している。

 ロケーション悪い日本造成の工業団地

 もう一つあるのが日系のスビック・テクノパーク社(STEP)の工業団地で開発総面積は60ヘクタール(内工業団地39ヘクタール)。川が海に注ぐ山に 囲まれた谷間を切り崩して開発中である。ここは飛び飛びの土地になっており、管理棟がある部分と工業団地が離れている。面積で見ても台湾系団地に比べて5 分の1の広さしかなく、ロケーションも悪い。海外経済協力基金と経団連のメンバー企業132社を株主とするJAIDO(日本国際協力機構)、東京三菱銀 行、川鉄商事、SBMAなどの合弁会社である。

 このSTEPに進出を決めた数社の中で最大の工場を構えるのはオムロン。このスビック進出前に、世界の数十カ国の投資環境を調査、アジアではミャン マー、ベトナムなども検討した。この結果、インドとフィリピンを二候補に絞ってからスビックに最終決定した。現金自動支払機やカードリーダーを生産する計 画。6000平方メートルの第一期工場が完成、98年4月に本格操業した。整流素子という電子部品のメーカーである日本インターも7月から操業開始する。

 日系企業にとって抜群の投資環境

 スビック基地内には国際空港が95年4月にオープン、香港、高雄、クアラルンプールと直行便が就航、米国フェデラル・エクスプレス社はアジアのハブ空港 にしている。また、2000戸に近い住宅、ホテル、レストラン、ゴルフコースやカジノを含む娯楽設備、医療施設といった米軍の置き土産を有効利用してい る。スビック基地内に進出した企業にかかる法人税、個人所得税とも5%。賃金はマニラより2割ほどは安い。

 特筆すべきは独自のやる気に満ちた警察があって犯罪がないことである。SBMAにはフィリピンとは別系統の警察組織が存在するからだ。万一の事故が発生 した場合、レスキュー隊が3分以内に現場に駆けつけるシステムを完備している。治安面が気になる日系中小工場の海外進出先として、日本の経団連が経営する 団地もあるスビック湾は抜群の投資環境だ。

 オーストラリアの著名なヨット・ハーバーの開発会社のパシフィック・マリナス・ディヴェロップメント社が建設した、300隻の大型ヨットが停泊できる ヨットクラブもオープンした。ヨットのクラブハウスとしてフィリピン最大の豪華な建物があり、99年の完成を目指して72戸のコンドミニアムの建設も開始 中。今後五つ星ホテルも建設していくという。

 伐採1本につき植林3本を義務付ける環境政策

 96年11月にはAPEC(アジア太平洋経済協力会議)の首脳会議がスビック基地で開催されたなど、スビック湾の開発はこれまでに成功してきたといえ る。だが、ここへきて新たな問題点も浮上してきた。スビック基地に早くから進出したフランス資本の電話機メーカーであるトムソンのトップは、マレーシア、 インド、シンガポール人の3人だ。アジア事業の現地化が進んでいる同社だが、「97年は従業員の3割が転職した」ことが悩みだ。今後スビックへの進出企業 が増えるに従ってスピンアウトの悩みは他のアジアに共通するだろう。

 スビック基地内で働く労働者はゲートで身分証明書をチェックされる。SBMAではこのIDカードの発行するにあたって、かつての労働組合での活動歴を個 別調査している。フィリピンには労働争議が多いが、争議が多発してスビックの人気が落ちることをSBMAは懸念している。そして組合運動がない地域である ことをスビックのセールスポイントにしており、労働組合が組織されている会社はない。「ゴードン独立国」と言われる〝自治〟を誇っているスビック湾だが、 今後もずっと労組嫌いを続けていくのは難しいのではないだろうか。

 スビックは、深い山に囲まれた地形と米軍が残した水道インフラから水道水がそのまま飲めることもセールスポイントにしている。スビック基地内には1万 1000ヘクタールの原生林があり、ゴードン長官はこれまで、スビック湾の開発ではたった一本の木も伐採しないで開発していくと言明してきた。だが、マニ ラからオロンガポ市を通過しないで基地に入る道路の建設や、日系の工業団地の建設現場などで山が切り崩され木が伐採され始めた。しかし一本の木の伐採に対 して基地内の他の場所で三本の植林を義務づけることで免罪符にしている。このような環境面の監督を行っているのがSBMAエコロジーセンターで、スビック への投資企業にとって口うるさく煙たい存在である。スビック湾にはマングローブや珊瑚も自生しているためその環境保護に熱心なのだ。


 松田健氏は元日刊工業新聞の記者。退社して3年前から精力的にアジア経済を取材、経済誌に記事を執筆している。


1998年06月04日(木)萬晩報主宰 伴 武澄


 大阪証券取引所がある北浜クラブを担当する同僚がやってきて、「いやあ。驚きました」といって全国証券取引所協議会が1997年10月発行した「配当状況調査」という変哲もない資料を差し出した。

  同僚の説明では、ニューヨーク証券取引所に上場している960社のうち、10年以上連続して増配している企業は349社もあり、うち20年以上が133 社、30年以上は52社もある。これに対して、東京証券取引所に上場している企業では10年以上の連続増配企業はたったの4社しかないという事実を淡々と レポートしている。

 「君、これを読んでどう思った?」

 「日本の企業は、長期的視野から経営しているから、アメリカのように短期的な利益の増減で配当を上げたり下げたりしないと言い続けてきたんですが、これはうそです。われわれはずっと騙されていたんじゃないですか」

 「そうなんだ。俺はアメリカの企業決算をもっとよく研究した方がいいなんて主張してきたんだが、これほど株主に利益還元していたとは思わなかったよ」

 「それにですね。重要なのはアメリカ企業が増配し続けてきた間、必ずしもずっと増益が続いてきたわけでもないという事実です」

 「俺がこの15年見続けてきた日本の企業は、増益のときは将来のため内部留保が必要といい、大幅減益のときや赤字決算になればただちに減配してきたんだ。言っていることとやることが違っていた。それで日本の増配企業はどこだ」

 「旭ダイヤモンド工業とセブン・イレブン・ジャパンが連続17年増配、そしてニッショーとMr Maxがそれぞれ10年。日本じゃこの4社以外は優良企業とも呼べないかもしれないですよ」

 ●利回り5%といった日本企業にあぜんとしたマレーシア人

 こんな会話のあと、はたと考えた。20年、30年前っていうのは1970年代や60年代のことで、日本企業で国際的の名の通った企業はソニーぐらいしかなかった。そんな時代から増配が続いている企業がこんなにあったことに少なからぬショックを覚えた。

  資料を詳細に読むと、最近日本企業が重視し始めた株主資本利益率(ROE)はアメリカ企業の場合、1986年からほぼ12-18%を上げているのに対し て、日本はバブル時の高いレベルでも7%台、それ以降下落曲線が続いていて96年にはたったの2.9%まで落ち込んでいる。

 90年代前半にマレーシアの財閥総帥から聞いた話を思い出した。

  「日本企業に共同事業を提案すると、日本側は5%の利回りしか上げられないというんで話になりません。われわれは30%を要求しているんです。税金を支 払って借金の金利を払い、株主に配当しなければならないんですよ。5%の利回りなら銀行に預けていた方がよっぽどましだ」

 当時は、日本の企業家の意欲のなさを嘆いたが、ROEが15%ということは税引き前利回りが30%は必要ということになる。マレーシアの財閥総帥の話はほらでもなんでもないことがようやく分かった気分になっている。

 最近の日本の株式市場は低迷したままだが、ドルベースでみた日経平均はすでに90年代で最低の水準にまで落ち込んでいる。大蔵省は次なるPKOを考えておいた方がよさそうだ。


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