1998年4月アーカイブ

1998年04月30日(木)萬晩報主宰 伴 武澄


 4月12日投票の京都府知事選で無所属の森川氏に投票した。あえて共産党系と分かって投票した。結果は惨敗だった。投票した理由はただひとつ。保守系の 荒巻現職知事が3選目の選挙だったからである。3選されると12年の在職期間が保証される。これはいかにも長いと考えたからだ。

 四国新聞・論説副委員長の明石さんが、太田知事に会ったというから印象を聞いたことがある。
 「大統領だね、あの態度は。実に堂々としている。県民に直接選ばれただけあって自信に満ちている」。
 筆者は太田知事をじかに見たことも会ったこともない。しかし基地問題で日本国とわたりあった直後だったから、官僚がいないとなにもできない日本国の首相が逆に見劣りした。地元ではいろいろいわれる太田知事だが、テレビに映るパフォーマンスは際だっていた。

 直接選挙で選ばれる知事の地位はすぐれて独立色が強く権限が集中している。そんな知事職が長期政権化する弊害は首相の比ではない。

 ●首相をもしのぐ知事の権限集中
 独立北海道では、大統領も自治体の首長も任期は、2期8年までとし3選は禁止すべきだと考えた。任期についてアメリカ大統領の2期8年を参考にした。日 本の企業でも社長の任期は3期6年がほどよく、最長でも4期8年が限界とされている。それから3人以上の候補者がいて、投票総数の過半数を得られない場合 にはフランス大統領選のように上位2者による決選投票を実施すべきである。

 荒巻京都府知事は3期目を目指して立候補していた。知事や市長といった住民の直接選挙で選ばれる首長はアメリカ大統領と同じで絶大な権限を持つ。もちろ ん制度的には議会が行政のチェック機構として機能する仕組みにはなっているが、国と違って地方行政には強力な官僚軍団もない。

 そんな首長が、10年も20年もトップの座につけば自治体行政は半ば"独裁化"する。高邁な理念と行動力を持っていればなおさら求心力が強まる。「求心力」と言えば肯定的で、「独裁」だと否定的な表現となるが、政治力学的にいえば「求心力」も「独裁」もあまり違わない。

 そんな制度に組み込まれた権限集中とは別に、日本の地方の場合、政令指定都市がある都道府県を除いて、「自治体」が最大の事業主である場合が多い。売上 高規模でも(予算と言い直してもいい)、従業員数規模でも他を圧倒している。いわばガリバーである。金融機関、土木会社といった経済界から教育界、警察、 はては場末の飲み屋まで県を頂点としたピラミッドに組み込まれているのが現実だ。

 ●長期政権は知らないの間にイエスマンを取り巻きに残す
 同僚記者が数年前、ある大手合繊企業とマスコミの立食会の席上、不思議な光景に遭遇した。社長がたばこに火を付けたとたんある役員が灰皿を持ってきて吸 い終わるまで灰皿を持ち続けていたというのだ。彼が、びっくりしたのは60歳を前にしたその役員の行動ではなく、この間平然としかもマスコミの前でたばこ の灰を灰皿に落とし続けていた社長の感覚だった。この社長も在任中は名経営者の誉れが高かったが、長期政権の間にそんな取り巻きばかりになり、社長自身が 常識感覚を失っていったのだろう。

 名社長として10年間資生堂の舵取りをした福原義春氏から、かつてインタビュー後で打ち明けられたことがある。「会社のがんはこの階なんですよ。意味が 分かりますか」。エレベーターまで筆者を送ってくれ、役員室のあるフロアを差して、役員質でのインタビューでは本音を語れなかったというような意味の言葉 を耳元でささやいた。安売りの河内屋が資生堂を独禁法違反で訴えていたときのことである。

 福原さんはそんな束縛から逃れるため、昼食と称して銀座の役員室から姿をくらましたことがある。秘書連中は「困ったもんだ」と嘆いていたが、福原さんからすれば「そうでもしないと世間のことが分からなくなる」のである。

 長期政権は知らず知らずの間にイエスマンだけを取り巻きに残すことになる。自治体の首長だけの話ではない。

 ●首長の任期として短くない2期8年
 本人からすれば、首長の任期として8年は短いのだろうが、決してそうではない。まず第一に、霞ヶ関の常識でも局の筆頭課長が事務次官になるのに10年は かからない。このことは自治体でもあまり変わらないだろう。一番身近な秘書課長が定年で辞めてしまっているのに知事はまだ現役で「やり残したことがある」 というのでは示しがつかない。

 次に、経済や社会の変化は意外に速いものであることを首長は身をもって知るべきであろう。今年の8年前は1990年だ。日本経済はバブルの頂点で、最大 の債権国として日本の閣僚はサミット(主要国首脳会議)やG7(先進7カ国蔵相中央銀行総裁会議)など国際会議で肩で風を切っていた。地方ではリゾート法 による開発が盛んだった。第三セクター方式が多く、そのほとんどが自治体の不良債権化している。日米経済も8年間で立場が180度逆転した。「たった8年 間の間に」と考えるのか「8年もたてば」と考えるのか。もちろん後者の考え方が常識である。

 バブルをつくった人がバブル崩壊の後始末をするというのもおかしな話だ。業績悪化や社内不祥事を追及された時の企業トップの常套句があった。「いま私に 課せられた責任は経営の建て直しである」。就任直後ならいざしらず、業績悪化の責任者はただちに新しい人に道を譲るべきである。王様だって20年もすれば 後進に譲るのが常道だ。まして市井の人間が行政をそんなに長く牛耳るわけにはいかない。


1998年04月27日(月) 萬晩報主宰 伴 武澄


 「だいだい色の屋根とクリーム色の壁って緑の木々にマッチするんです」。ボランティアを始めて、三つ目の学校がカンボジアにできた。2月末、カン ボジア政府から復興功労メダルをもらった。新田恭子さんは、フリーのアナウンサー。高松市に住み、香川県からアジアや日本を語る。カンボジアにかかわり始 めて、日本や日本人の在り方が気になりだした。

  教員養成大学の図書館に本がなかった

 アナウンサーになってから年4回ぐらい海外に行く。日本にない話題を探すのが目的だった。カンボジアは1994年に初めて訪問した。日本ユネスコ連盟主 催の青年ワーキングキャンプに参加した。アンコールワット教員養成大学の学生と一週間寝食を共にして、図書室の修復を手伝った。 

 なんてことはない。土木作業員なんですよ。でもね。図書館がきれいになったのはいいのだけれど, 本がないのよ。それで本はどこにあるのって聞いたんです。「校長室にあります」っていうんで、校長室に行きました。本棚にあったのにはオックスフォードの英英辞典と衛生に関する本が数冊だけ。愕然としました。

 ポルポト時代に本という本はみんな焼かれたっていうんです。帰国の前日に「あなたの本を送って欲しい」って言われました。その人は英語の先生で「I is fine」なんて平気で教えているんですよ。それでも日本人より会話はうまんですけれどね。でもなんとかしなければならない。そう思ったんです。

 新田さんは、かつて訪れた英国でOXFAMというチャリティーショップがあったのを思い出した。リサイクルショップの収益でカンボジアのこどもたちに本を送る資金を稼げるかもしれない。帰国して新田さんはすぐ動き出した。

 OXFAMは51年の歴史を持つ英国最大のチャリティーショップだ。全英に800店舗を持つ。時間が余っている主婦とか高齢者がボランティアでリサイクルショップを経営するシステムで、収益は福祉に使う。

 本当はそんな店とは知らずに買い物をしたんです。1993年末に再度、英国に行ったときにマネージャーに取材しました。頭の中でなにかがガラガラ崩れていくようなショックを受けました。日本にない発想だと思ってラジオの番組で紹介した。

 3カ月のボランティアにつもりが5年目に

 2カ月後の1994年5月、高松市内の繁華街に「セカンドハンド」という日本で初めてのチャリティーショップが開店した。バブルが崩壊して空き店舗がた くさんあり、飛び込みで家主に「ただで貸して欲しい」と申し入れたところ、主旨を理解してくれた。本当にただで貸してくれた。市民が家で使わない不要品を もってきてくれた。それが信じられないように売れた。店員はボランティアたちが集まってくれたから、店舗運営にお金は一切かからなかった。

 ただ家主との契約は3カ月だったし、新田さんもそんなに長くやるつもりはなかった。その年の8月、約束通りカンボジアの教員養成大学に百科事典など50冊の本を届けた。千葉県柏市にある「カンボジアに学校を贈る会」にも40万円を寄付できた。

 ところが3カ月もたつと「セカンドハンド」はマスコミや口コミで高松市民のほとんどが知るところとなり、新田さん一人の考えでやめるにや められない状況になった。「カンボジアに学校を贈る会」からも協力の要請が来た。日本にNGOはたくさんあるが、自前で資金調達までできる団体は数えるほ どしかない。「セカンドハンド」はたった3カ月でその代表選手になってしまったのだ。

 えいままよと続けて早5年目を迎える。店舗も丸亀市、岡山店と3つに増え、手伝うボランティアも100人を超えた。昨年の売上高は2500万円にもなった。商品はただだから、ほとんどが収益である。

 「セカンドハンド」の驚嘆すべきところは、この種の団体にありがちな会計の不明朗さがまったくないという点である。年4回発行する「セカ ンドハンド通信」には収支だけでなく、カンボジアへの寄付や学校建設の状況を詳細に報告、しかも2500人の協力者に対して送付している。

 まもなく、4つ目の小学校の建設に着手する。この人と出会って人間にできることに限界はないということを知らされた。最後に新田さんのボ ランティアが長続きするわけも分かった。生活にも会話にも「気負い」というものがない。親友の新聞記者に「新田さんは香川の宝だ」といったら、「いや、日 本の宝かもしれない」と返事が返ってきた。

 セカンドハンド 高松市田町12の4 087-861-9928



1998年04月17日(金)萬晩報主宰 伴 武澄


 エズラ・ヴォーゲルが「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を上梓したのは1980年代前半。日本の生産技術が欧米にようやく追いつき、日本の工業製品が世 界市場を席巻し始めた頃だった。日本が「日の昇る国」として「落日」の欧米を眺めていたころ、イギリスで起きていたのがビッグバンだった。

 金融革命といわれる金利自由化や市場参入規制の自由化が進み、金融機関の大胆なリストラと再編が始まった。サッチャー首相は財政再建のため、国有企業の 民営化に着手した。イギリス航空、ブリティシュ・テレコム(BT)、ブリティシュ・ペトロリアム(BP)などの株式が証券取引所に相次いで上場。当時、ま だ経済活性化は進まなかったもののイギリスは国有企業株式の売却益で財政の黒字化に成功した。黒字化というのは国債発行に頼らない財政のことである。

 ●ソ連の追い上げで大きく揺らいでいた西側陣営

 もう少し時代を遡った1975年、フランスのディスカールデスタン大統領の提唱でサミット(先進主要七カ国首脳会議)が始まった。第一回会合はフランスのランブイエだった。

 冷戦対立が深刻化するなかで西側自由主義経済の絶対的優位がソ連などの追い上げで大きく揺らいでいた。特に軍事・宇宙など最先端技術の追い上げは急ピッ チに見えた。アメリカにとって核技術だけでなく、ミサイルにつながる宇宙ロケット、情報探査に役立つ地球衛星など広範囲なハイテク分野での競争でますます 脅威にされされた。ロシアがサミットの一員として招かれる今日から考えればウソのような話だが、サミットという枠組みがソ連への対抗上生まれた事実は忘れ てはならない。

 1970年代のアメリカは、ベトナム戦争の泥沼化で経済的に疲弊した。1971年、ニクソン大統領はドルの金兌換を一方的に廃止し、2年後の73年には 主要各国の為替は変動相場制に移行した。戦後世界を位置づけていたアメリカによる軍事と経済の絶対的優位が崩壊した分水嶺となった出来事だった。

 先進国経済の秩序とバランスが崩れるなかで起きたのが、1971年末の石油輸出国機構(OPEC)による原油価格の大幅引き上げだった。石油ショックは 主要先進国のインフレと財政赤字に追い打ちをかけ、経済力の序列が大きく変わった。ただ経済復興に成功した西ドイツと日本の経済的プレステージは上昇した ものの、アメリカに取って代わるほどのパワーを持ち合わせていたわけではない。

 ●サミットが打ち出した構造改革

 そんな時に始まったサミットの命題は、まさに自由主義経済圏の復権であり、活性化だった。いわば自由主義経済圏の集団指導体制の確立と言ってよいだろ う。いまはやりの規制緩和も「構造調整の必要性」をうたったサミット経済宣言に端を発するとい言ても言い過ぎではない。「インフレなき経済の持続的成長」 という表現は長く、サミットや先進七カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G7)の共同声明に欠かせない枕詞となる。

 1970年代の西側経済はそれだけインフレと成長の鈍化に悩まされていたということになる。そうした経済的隘路を打破するには「抜本的構造改革」が必要とされたのだ。

 欧米にとって構造改革は「規制緩和」を意味した。棲み分けが進んだ産業分野に、新規参入を許すことは産業界に波風を巻き起こすことでもあった。また新規 参入者たちがただちに立ち上がるというものでもなかった。だから規制緩和は効き目が出るまでに時間がかかった。加えてヨーロッパでは市場統合という新たな 実験を開始したから、活性化までさらに多くの時間を要した。

 ●特安法と産構法でカルテル化した日本列島

 当時、そんな規制緩和の意味合いを十分に分かっていた日本人はほとんどいなかった。日本での構造問題の議論はサミットでの議論とはまったく逆の方向に進 んだ。規制緩和ではなく、大企業によるカルテル化の必要性が叫ばれた。繊維業界に始まった共同設備廃棄や生産調整は「構造改善事業」と呼ばれ、ついに第二 次オイルショックの最中の1978年、「特定不況産業安定臨時措置法」(特安法)によってカルテルが制度化された。

 まず政令でアルミ精錬、ナイロン長繊維など六業種四候補を「特定不況業種」に指定、その後、繊維、石油化学製品、セメント、ソーダなど主だった素材産業 に指定が拡大した。5年間の臨時措置だったが、1983年からは「特定産業構造改善臨時措置法」(産構法)に引き継がれ、大企業カルテルはつい最近まで続 いてきた。

 遅効性が弱点だった欧米流の規制緩和に対して、日本産業のカルテル化は即効性があった。ただ即効性の反動としてカルテル依存症という副作用が大きく、1990年代後半の今になっても政府依存症が抜けきらないでいる。

 日本の産業の六、七割がなんらかの形で規制がかかっているといわれるのは日本の産業界の伝統でも文化でもなんでもない。石油ショックから脱却するために国家が広範囲にカルテルを認め、産業界がそのうま味を離さずに経営できなくなっているだけだ。

 ●中曽根民活の落とし穴

 日本のNTTやJRなどの民営化は、当時の中曾根首相がサッチャー政権に見習ったものだったが、民営化のスピードが遅く、10年近い月日を経た今も途半 ば。株式市場の活性化どころか、民営株売出しのたびに市場の活気を冷え込ませているのが実情だ。サッチャー流民営化と大蔵省流の民営化の最大の違いはあま りに大きい。

 まずイギリスでは民営化は株式の100%放出を原則としたの対して、日本の場合はNTTは3分の1、JTにいたっては3分の2も政府が持つことになっている。それぞれ放出株式の比率を法律で定められており、民営化後も大蔵省が影響力を温存できるようになっている。

 二番目の違いは民営化でリストラが迫られる国営企業に株式の売却益を還元しなかったことである。イギリスでは、まず国営企業の従業員を対象に自社株購入 を募り、放出株式の一部を従業員に有利な価格で放出した。分かりやすく言えば、リストラの落とし前をちゃんとつけたということになる。日本では、社員に対 するインセンティブは一切なく合理化だけが待ち受けていた。


1998年04月16日(木)萬晩報主宰 伴 武澄



 ●アジア華僑は4000万人
 NIESの4カ国・地域のなかで、韓国を除く台湾、香港、シンガポールが中国系を中心とした社会を構成する。華僑社会の形成は17世紀にまで遡らなけれ ばならない。貧しさゆえ、あるいは一攫千金を狙って郷里の大陸を後に新天地を求めた。アジアに根づいた中国人は、それぞれの土地で地縁・血縁を中心に中国 的社会を作り上げていった。

 土着した中国社会に戦後、さらに押し寄せたのは中国共産党の支配を嫌った人々だ。台湾には共産党との内戦で敗れた国民党とそこ家族を中心に数百万単位が 移り住んだ。着の身着のままとはいえ、食べること以外に価値観を持った比較的裕福層もしくは、知的レベルが高かったりで、古い世代の華僑とは趣きを異にす る。

全世界に散らばる華僑の人口は約4000万人といわれる。韓国やタイ一国に匹敵する人口である。その過半が東アジアを拠点に活躍している。台湾のほとんど が福建省からの移民で2000万人、香港は600万人、シンガポール260万人。インドネシアは300万人、マレーシア200万人と推定されている。現地 経済を牛耳ってきたことはまぎれもない。

 一口に華僑といっても出身地によって言語、習慣など細かい違いがある。広東省と福建省の出身が最も多く、広東省の場合はさらに細かく海南島、潮州、客家 など地域に分かれる。中国南部は山がちな地形で山一つ越えると話す言葉も違うほどの多言語国家である。中国自身が数千年にわたる抗争の歴史を繰り返してき ただけに血のつながりや出身地という共通の価値観に求心力を求めてきた。このため彼らが出稼ぎのため海外に渡るときも地縁・血縁を頼りにした。

 そうした意味で、東アジアに点在する華僑ネットワークは西洋民主主義では計り知れない強力な人的つながりを維持してきた。特に香港という土地柄は、母国 である中国が社会主義化したため華僑にとっては特別な意味合いを持つようになった。大陸のほんの小さな土地だが自由経済が唯一認められた母国とつながりの ある空間だった。戦後、しばらく東アジアは政治経済ともに不安定だったため、蓄財や資金運用の場としても英国が保証した自由香港はかけがえのない経済活動 の拠点だった。

 ●浮上する福建省系ネットワーク
 アジアで活躍する華僑経済を子細に分析すると、福建系の華僑リンケージがことのほか大きな広がりを持っていることに気づくだろう。インドネシアの華僑 300万人のうち実意55%が福建系。マレーシアも200万人のなかで45%を占める。フィリピンにいたっては90万人中90%が福建系となっている。マ レーシア、インドネシア、フィリピンへの投資額が1990年代前半のある時期までまで台湾がトップだったことは、ASEANへの投資の火付け役が台湾資本 であったことを物語る。

 このほか対岸の福建省やベトナムではいまだに台湾からの投資がダントツのトップである。タイで台湾勢の進出が少ないのは、タイの華僑社会の中核をなしているのが潮州華僑であることと無関係ではない。

台湾の人口は現在2000万人程度。対岸の福建省は3000万人。東南アジアには800万人の福建系華僑がいると推計され、合計すると約6000万人。戦 前の日本よりはやや少ないが、英国やフランスを上回り、統一ドイツに匹敵する。台湾企業のアジア投資が拡大し、現地華僑社会との結びつきを強めることにな れば、好むと好まざるとを問わず南シナ海に6000万人を擁する仮想国家「台湾リンケージ」が確立することになる。華僑の強みはこんな断面でも見られるこ とができる。

 アジア通貨危機を発端に、台湾政府が年初から閣僚級人材を各国に派遣し、経済的支援を武器に存在感を高めようとし、中国も対抗措置に出ている。しかしこの勝負ははじめから見えている。福建語を仲介としてアジアと台湾は太いパイプで結ばれているからだ。


1998年04月15日(水)萬晩報主宰 伴 武澄


 マーガレット・ミッチェルの「風とともに去りぬ」の最後に主人公のスカーレット・オハラが「タラへ帰ろう」と叫ぶ場面がある。南北戦争ですべてを失った スカーレットが曽祖父が入植して大農場主になった地名だが、アイルランド人にとって「タラ」という地名には特別の思い入れがある。ダブリン西北36キロに あるタラはアイルランド古代神話の時代から大王の居住する聖地だった。現在は何の変哲もないむらだが、巨石時代の遺跡が発掘されている。

 元アイルランド大使の波多野祐造氏著「物語アイルランドの歴史」(中公新書)を読んだ。アメリカはたかだか200年の歴史しかないと考えていたことが、そうではないことが分かった。住み着いた人々の背後に2000年の歴史がある。浅薄な歴史認識にずいぶん反省した。

 現在のアイルランドの人口は350万人の小さな国だが、世界各国にアイリッシュ系といわれる人々は7000万人を超す。その多くがアメリカ在住で、これ らの人々が誇りを持って「アイ・アム・アイリッシュ」と自己紹介する。そんな人々がやってきたアイルランドの国の由来を知らないことはアメリカを知らない ことにも通じる。

 ●760年間も続いたイギリスの支配
 ジョン・F・ケネディが1961年、アメリカ大統領に就任したことは世界のアイリッシュ系人口にとって福音だったはずだ。アングロサクソン系の支配が長 く続いた国でようやくアイリッシュ系大統領が誕生した意味合いは、われわれがケネディ大統領の就任演説に感動するより重いものだったのだろう。そのあたり の話は司馬遼太郎氏の「愛蘭土紀行」に譲る。

 アイルランドの独立は1937年だ。それまではどうだったか。英国の支配下に長くあった。ヘンリー2世の時代にイングランドがアイルランドに派兵し、 1175年のウィンザー条約でイングランドの支配下に入った。ヨーロッパは中世であり、日本でいえば源頼朝が鎌倉幕府を開く30年以上も以前の話である。 実に760年間もイギリスの支配が続いた。

 驚くべきことに、アイルランド人は760年間も間、イングランドに同化しなかった。この間、混血も進んだ。しかし、アイルランド人は逆にイングランド人 たちを同化した。16世紀のヘンリー8世によるイングランド教会設立後もカトリック教を守り抵抗運動を続けてきた。北アイルランドではようやくカトリック と新教徒との和解の糸口が見えているが、いまもこの地は連合王国の一部だ。

 日本人だったらとうの昔に血が薄くなっていたかもしれない。民族の誇りという点ではユダヤに次ぐのではないかと思う。

 ●音楽とダンスと黒ビール
 この4、5年、アイルランド音楽を演奏するともだちが何人かできた。アイルランド人だけでない。アメリカ人、カナダ人、英国人、そして日本人。人種はい ろいろだが心は音楽でつながっている。ある女性はダブリンにいってしまった。筆者は楽器はできないが、アイルランドが心の中で気になる存在となっている。

 アイルランド音楽は、悲しいアジア的響きがある。それでいて足踏みを鳴らしたくなるリズムがある。ダンスのステップはそうとう難しい。マンドリンだとかリュートだとか多くの楽器も生み出した。ウエスタン音楽に欠かせないバンジョーもアイルランドで生まれたそうだ。

 ちなみに、いまアイルランドは経済も好調だ。10年ほど前、取材した在日アイルランド人は故郷で「大学を卒業しても働く場がない」と日本企業に就職して いた。外資導入で経済を立て直したのは英国よりも長い歴史がある。そしてアイルランド産のギネスの黒ビールが最近、とみに流行っている。日本だけでない世 界各地でアイリッシュ・バーが相次いで生まれている。


1998年04月14日(火) 萬晩報主宰 伴 武澄


 ●やがて習慣となる過去を隠す保身術

 ドメの話を続けたい。03月08日付け萬晩報「 北海道に託す「新五族共和」の夢」でハワイ大学東西センター副理事長の趙利済氏が日韓英中語を駆使して豆満江開発の夢を語った話を報告した。

  その「北東アジア開発フォーラム」が1995年2月、新潟市で開かれたとき驚いたのは、韓国の元総理やビジネスマン、学者がみな英語で プレゼンテーションしたことだった。会議は英語、パーティーでの日本人との会話は日本語だった。それぞれ流暢に操っていた。今どき、こんなことに驚く方が おかしいという読者のお叱りが聞こえそうだ。

  最近ソウルで取材したとき、大手財閥で課長昇格の必須条件は「日本語」ということだった。台北で大手企業トップにインタビューしたときは、事前に秘書から電話が入り「何語でインタビューするか」聞かれた。

  アジアで一定以上の地位にいる人は母国語プラス最低で英語、そのほかにもう一つぐらい外国語ができるのが当たり前なのだ。そうしたことが常識でないのは日本と中国ぐらいのものだ。

  理由は簡単だ。長い間、植民地にあった国や地域では学問の基礎が植民地側の言語でなされてきたため、家で使用する言語と学校で使う言語が違っていたという長い歴史があるからだ。

  二カ国語の使用を余儀なくされた歴史はある時代までは苦悩だったが、ボーダーレス時代の到来とともに、他言語を操ってきた生活環境が逆 に強みとなっているといえよう。しかし、日本にとって「そうだったのか」と簡単に済まされない今日的課題となって跳ね返っている。多くの国が参加している パーティーで日本人だけが阻害されるという風景はまだまだ随所にある。

  日本人が特殊だという主張はまだまだ多く語られる。国内にあって国際的素養を身につけた人は、一部の例外を除いて社会的に高いポストを得られない。外国語をぺらぺらとしゃべれる人が「中味がない人間」のように語られたのは過去のことではない。

 外国に留学したり、外国で働いてきた人々がやがて気が付き、誰もが習慣とすることは自分の過去を隠すという保身術だ。
ドメを装うことが重要な職務を与えられる早道で、昇進を勝ち取る最前の手法であることを経験的に学び取るのだ。ドメの仲間入りを果たしたかつての国際派はもはや元に戻ることなく、後進にも同じ道を強要するようになる。

  ●運輸省が犯してきた不無作為犯罪
 そんなことを考えながら新聞をみていたら、4月14日付日本経済新聞の朝刊にやるせない記事が出ていた。「船舶法の国籍条項、取締役就任を阻 む」という見出しで、商船三井がアメリカン・プレジデント・ラインズ(APL)の前会長であるジョージ・ハヤシ氏を役員として招請しようとしたところ、船 舶法の国籍条項に抵触することが分かったというストーリーである。

  六法全書を紐解くとあった。船舶法第一条【日本船舶の要件】として三項に「日本ニ本店ヲ有スル株式会社及ヒ有限会社ニ在リテハ取締役ノ 全員カ日本臣民ナルモノノ所有に属スル船舶」とある。99年前、日清戦争直後の明治32年に制定された。19世紀の遺物がまだ生きていた。

  外航船舶業界は国内市場を持たない日本で唯一の業界で、内外という概念すらない。公海上で各国の船会社が裸で競争しており、政府が運賃 を許認可していては成り立たない。船籍のほとんどがパナマやリベリア。船員もほとんどが外国人。本社が日本籍であるだけでオペレーションまで海外で行って いる企業もある。

  商船三井は運輸省を通じて内閣法制局に見解と質したが「法律が規定している以上、取締役就任は無理」との回答だったという。「国際的人事交流を阻む時代錯誤的な法律」として運輸省に同法改正を申し入れた。当然だ。

  一番驚いたのは「臣民」なる法律用語が日本国憲法下で50年以上も生きていていたことである。運輸省がこれまで知らなかったのなら職務 怠慢であり、知っていて放置してきたのだったら「不無作為犯」である。法改正を求める前にこの法律の憲法違反こそを問うべきなのではないだろうか。ドメが 支配する霞ヶ関にこの道理が分かるかな。


1998年04月13日(月)萬晩報主宰 伴 武澄


 ●国際派がトップになることがないシステム


 霞ヶ関の官庁で大臣に次ぐナンバーツー事務次官だが、実は対外交渉のためのもう一人のナンバーツーがいる。大蔵省だけは財務官と呼ぶ。通産省は通産審議 官、農水省も農水審議官。外務省だけが政治担当と経済担当の二人の外務審議官がいる。官僚の組織には、課長と局長の間にも多くの審議官がいるためややこし いが、大蔵省以外は省庁の名が付く何々審議官はナンバーツーで別格だ。

 英語では事務次官はvice-minister、何々審議官はdeputy-ministerと訳しており、翻訳すればどちらも大臣の次に偉いようだ が、官僚の世界では絶対的重みが違う。日本社会がこれほど国際化し、日常的に交流しているにも関わらず、外国との交渉に当たる国際派の官僚がトップに上り 詰めることは決してない。システムとしてありえないのだ。

 国際派に対して「ドメ派」という官僚言葉がある。「僕はドメでね」と自慢げに言う官僚が少なくない。国際感覚がないことがさも偉いかのようなそぶりで、 外国経験が少ないことがまるでけがれがないかのような言い方である。経験則で言えば、外国との詰めた協議は出先の大使館ではなく、本省から出向いた官僚が 取り仕切るから無理もない。

 在外公館の人々は何をしているのか。ふだんの情報収集が第一で、会議や交渉がある場合には「ロジ」(logistics)といってもっぱら、段取りや会 場の設営役に徹する。大使といえども日本からやってくる国会議員ら賓客のもてなしで忙しい。この傾向は外務省とて例外でない。いまでも大使の正式名称は 「全権大使」である。本当の全権はすべてドメ側にあるのだ。

 ●二度目の海外赴任は次官レースからの脱落
 外務省以外の省庁でもキャリア官僚は若いときに一回ぐらいは海外の在外公館に赴任する。しかし二度目の赴任となるとだれもが二の足を踏む。辞令がでれ ば、多くの場合、40歳台中ばでも大使に次いで偉い公使という肩書きをもらう。任地国ではナンバーツーとして度々、大使の代役を勤めるなど華々しいキャリ アなのだが、その時点で「自分は事務次官レースから外された」と自覚することになる。

 だから、この辞令は官僚にとっての最悪の人事として受け止められる。次官レースに勝ち残るためのポストといわれる総務課長や会計課長、秘書課長に就任す る時期に国内にいないことは決定的にマイナスだからである。レースから脱落するだけでない。もちろん例外もあるが、帰国して局長になることすらまれとな る。

 事務次官になれなくとも、何々審議官、つまり対外交渉の責任者として海外経験が生かされるのならまだ救いようがあるが、省内の「国際派」は deputy-ministerに上り詰める年次までに一掃されてしまうのが一般的だ。だから対外交渉の責任者も「ドメ派」(国内派)が勤めることにな る。日本の官僚組織が硬直的で、世界から取り残される原因のひとつに以上のような背景がある。

 対外交渉において国益優先が貫徹されるのは当然であるが、だからといって世界の変化やアジアの変化に鈍感であっていいはずはない。どこの国でも正式な対 外交渉は通訳を介して行われることになっているが、正式会談以外の場でも政府高官の背後で通訳がうろうろしているのはやはり日本ぐらいのものではないか。


1998年04月12日(日)萬晩報主宰 伴 武澄


 ●起亜買収には現代グループが優位

 起亜自動車の去就が世界の自動車業界の耳目を集めている。起亜は韓国第三位の自動車メーカーでありながら昨年夏、倒産し、政府の管理下にある。フォード が筆頭株主で日本のマツダも上位株主として名を連ねている。その起亜自動車の買収に三星グループが名乗りを上げたところに3月22日、トップの現代自動車 も買収の意志を表明した。傘下におさめようと激しく応酬している。

 三星グループは稼ぎ頭だった三星電子が過去最高益を上げた1995年、自動車製造への参入を宣言、日産自動車の協力で釜山郊外に年産20万台規模の工場 を立ち上げたばかりだ。自動車業界への参入は李ゴンヒ会長の悲願で、巨額の先行投資をしてきただけに「なんとか起亜を傘下におさめてビッグスリーの仲間入 り」を果たしたい。

 一方の現代グループも自動車製造への特化を目指すためには、なんとしても起亜をグループ化したい意向のようだ。起亜の負債である9兆ウオン(約8100億円)の肩代わりも辞さない考えと伝えられている。

 韓国では現在、財閥に対して業種交換などの再編を求めている最中で、起亜自動車の帰趨は、ひとえに政府の腹にかかっている。金大中新政権は、三星に「エ レクトロニクス産業に特化する」よう求めているといわれ、いまのところ現代グループの起亜買収が優位に立っているようだ。ただ現代としては、起亜を買収す ると国内シェアが66%を超え、韓国の独禁法に抵触する恐れがあるという弱みがある。

 ●年産能力430万台にも達していた韓国
 韓国の自動車業界がどれほどの実力を持っているか知っている日本人は少ないはずだ。「ヒョンダイ」「デーウ」「キア」のブランドはドイツや英国の自動車雑誌などですでに欧州車の対抗車種として紹介されており、低価格、高品質を武器に着実にシェアを伸ばしつつある。

 そんな自動車王国にのし上がった韓国から自動車がほとんど日本に輸入されないことは不可解なことだが、欧州やアジアを旅行すれば、どこか日本車に似たデザインの車を見かけているはずだ。

 今回の韓国経済の危機であらためて分かったことは、韓国自動車業界の年産能力が430万台にも達していたことである。ピークの国内販売は240万台で輸 出は100万台だった。オーバーキャパシティーということはたやすい。しかし日本だって600万台の国内市場に1200万台の年産能力を持っていた時期が ある。輸出依存型であるのは日韓とも同じ体質なのだ。

 韓国にとって自動車産業はもはや産業の柱だ。製造業の売上高の9.6%を占め、雇用の7.5%を占めるようになっている。経済危機以降、国内販売は半減 したが、輸出はウオン安のため好調で、韓国自動車工業界は「今年の国内販売は120万台、輸出は150万台」と予想している。

 ●アメリカ資本の支配下に入る韓国自動車業界
 日本の自動車業界が起亜自動車の帰趨に無関心でいられないのは、フォードの動向だ。フォードは起亜の筆頭株主で、社長を送り込んでいるマツダも株主上位 に名を連ねている。財閥の再編中とはいえ韓国政府といえどもフォードの意向を無視した解決はありえないというのが通説だ。仮にフォードが現代をパートナー として認知することになれば、極東にフォード-マツダ-現代-起亜という巨大グループが誕生する。

 フォードが三星に肩入れをすれば、これがフォード-マツダ-三星-起亜となり、提携関係にある日産自動車は完全に用済みとなる可能性が高い。すでにゼネ ラル・モーターズは第二位の大宇自動車の株式の50%取得に乗り出しており、起亜が現代と三星のどちらかについても韓国自動車業界はアメリカ資本の支配下 に入ることは間違いないようだ。


1998年04月11日(土) 萬晩報主宰 伴 武澄


 1998年04月03日(金)付の萬晩報 「サインで銀行口座をつくってみよう」には海外からも多く感想をいただきました。読者のみなさんへの参考にその中からいくつかを掲載します。

  ●はんこの方がサインより書類を偽造しやすい
 はんこ社会で生まれ育った日本人にとっては、自らの書類に自らはんこを押す場合には、少なからず、それに伴う責任を意識するものだと思います。 「サインに比較してはんこの方が書類を偽造しやすい」ということではないかと思います。はんこさえ手許にあれば、社長にお伺いをたてることなく社長名の書 類を作成することができてしまうということです。

  思い出したことがひとつあります。それは、大学の法学部での授業中に聞いた話なのですが、日本の警察は、普段、はんこなどを持ち歩いて いるひとが多くないのをいいことに、スピードや駐車違反で捕まえたひとたちから指紋を集めているのではないか?ということです。拇印がはんこを持ち合わせ ていない場合の代用でしかないにも関わらず(刑事訴訟規則61条1項)、「はんこがありますから、はんこ押します」と言っても聞き入れてもらえず、なにが なんでも拇印を求められるようなのです。
 実際に、自分で試してみたことがありませんので真偽のほどは分かりませんが、これが本当だとすると、人権に関わる大きな問題ではないかと思って います。なにかの折りに、これについても調査して、また、萬晩報に掲載して戴ければ幸いに思う次第です。それでは、これからも私たちが気づかない話題を、 鋭い視点からえぐっていってください。【マレーシア在住】

 ●スイスで体験した日本企業の印鑑の話
 4月3日付けの、いわゆるハンコ社会の問題について、こちらで最近経験したことをお知らせします。

  ある日本の中堅企業の欧州現地法人がスイスで社債を発行することになったのですが、この場合、欧州資本市場向けの書類(目論見書)に当 然代表取締役である日本の本社社長の署名(サイン)が必要になります。ところが現地の日本人取締役達はこの欧文の書類に、なんとか日本の社長印だけでいけ ないものかと、こちらの弁護士などに特例の履行を求めているのです。

  なぜサインではなく、印鑑にこだわるのかという理由なのですが、日本の本社社長にサインを求めると、改めて案件を検討し、せっかく立案 した各種の条件に無意味な無理難題を吹っかけてくるかもしれない、というおそれがあるのだそうです。社長印を借りて押すだけならこういう問題はないとのこ とです。

  このことから「ハンコ社会」の心理を読み取ってみると、サインの場合、署名有資格者の個人的判断、責任が明確になるために慎重な判断が 要求されるが、印鑑の場合責任の所在が(少なくとも心理的には)あいまいにできる、ということのようです。役職者の本来の個人的経営能力の高度化、市場参 加者の自己責任という考え方が重要になってきている今日、日本国内でサインを通用させていこうという試みに賛成です。

  商法をどう読んでみても、捺印はあくまでも署名の代用なのですね。これは日本の民法典がほぼドイツの民法典の移入から出来しているとい う事実からして、当然のことと思います。ただし欧州にも古くから印章の伝統がありますので、ロンドンなどでは日本企業の社長印が特例として通用しているよ うです。【チューリヒ在住】

  ●サインで買い物するクレジットカードの申し込みにも印鑑
 私はクレジットカード会社で仕事をしています。クレジットの申込も捺印が要るのはご存知だと思いますが、「サイン」「サイン」という業界が変な 話だと思います。銀行預金は曲がりなりにもサイン預金がありますが、クレジットの申込みはサインではできません。銀行系のクレジットカード会社は概ねそう です。

  記名捺印の議員立法に明治政府が反対したとは驚き。時の政府より当時の議員が印鑑を選び、そしてそれが今も永久的万古普遍の制度のようになっている。明治の人は議員にしても政府にしてもみずからの考えで行動したかのように見える。

  (本当はどうか分かりませんが)現在もみずから考えているのでしょうが、今ある制度を無条件にあるいは嫌々ながら肯定することばかりと 思います。不便なものは変えていいんじゃないでしょうかね。もっとも今の制度で利益を得ている人の巧みなすり替えと制度を利用する側の奴隷根性(言い過ぎ ですかね)の両方が支えているのでしょうか。

  民法では口頭、署名のみでも契約は成立。といっても後々の争いを考えれば署名捺印、記名捺印が無難ですね。ただ印鑑証明という制度は戸籍と同様に人間を縛る制度と思います。いわゆる日本的ですね。【あずいち】

  ●電子印鑑システムなんて日本だけ?
 「さて日本ははんこ社会をどう変えようとしているのだろうか。法務省とかどこかで考えている人がいれば日本は救われる」とありました。

  いえいえ,こんな障害くらいでは旧来の慣行は簡単には変わらないんですよ。おそらく日本だけだと思いますが,電子印鑑システムというの も開発されています。(^_^) グループウェア上で稟議制をシミュレートしてしまうものもあるようです。こんなソフトを開発されられる技術者が気の毒で すが,それだけ顧客からの強い要望があるんでしょう。

  残念なことに,多くの日本企業では既存の組織や業務慣行を改革するのには消極的なようです。グループウェア導入によって業務のやり方を 革新するのではなく,いつの間にか導入自体が目的となっています。他社がやるからうちもやる,というのもあるかもしれません。グループウェア自体はせいぜ い電子社内便としてワープロ文書を添付ファイルとして運んでいるだけという事例も少なくないでしょう。

  なぜかと言えば,グループウェアの本格活用で業務の革新を行うということは,間接業務部門や中間管理職の存在意義そのものを脅かすこと になるからです。そして,現在の彼らはグループウェアを社内でどう活用するかという方針へ強い影響力を持っています。当然ながら,彼らの防衛本能がグルー プウェアを骨抜きにしてしまうというわけです。

  もっとも,さすがに昨今の厳しい情勢ではこんないい加減なことをしているようではグローバルな市場での競争力を維持することすら難し く,企業自体の存続が脅かされてしまうでしょう。早く目が覚めて生き残るか,そのまま沈没するかの分水嶺にいるのかもしれません。このテーマは,ほとんど そのまま国の行政改革・政治改革にも当てはまりそうですね。日本社会のあらゆるシステムが同様の問題を抱えているような気もします。【大阪市在住】

  ●最終判断をするのは、主権者である国民だ
 「法務省とかどこかで考えている人がいれば日本は救われる」。法務省の方は、何に基づいて行動するのでしょうか?日本は法治国家であり、法務省 の役人がいかなる政策を考えようと、最終判断をするのは、主権者である国民ではないでしょうか。さらに申し上げれば、法務省の役人にどのような政策を考え させるか、それは主権者である、国民ではないのでしょうか。【無名】


1998年04月10日(金) 萬晩報主宰 伴 武澄


 この7年間、67兆円もの追加景気対策にもかかわらず、日本経済が長期低迷を余儀無くされている。原因を探ると市場経済を無視した政府の関与に行き着く。

  ●ビタミン剤、強精剤から覚醒剤投与への歩み
 1970年代、日本経済はオイルショックを迎えると長期不況に陥った。原油価格が1バレル=3ドルから30ドル以上にまではねあがり先進国経済を揺さ ぶった。日本政府は公共事業など財政の出動に加えて政府主導の産業構造転換策に出た。具体的にいえば素材産業でカルテルが復活し、ハイテク産業でも政府が 業界を引っ張る形の研究開発体制がとられた。

 いわば税金を使った産業育成が図られたわけだ。国債残高が300兆円に迫るなど現在の財政を圧迫している根源はこの1970 年代後半からの国債増発に端を発する。国債発行額は急カーブで増え、なかでも赤字国債が初めて発行されたのは76年度からだった。あとで詳しく述べるが翌 年度の法人税を先取りして財政を歪めたのも77年度からだった。

 やがて国債=借金という「強精剤」が効き始め、日本経済は再び走り出し先進国の優等生となった。その後も不況に陥ると「ビタ ミン剤」を飲み、強烈な円高でも「覚醒剤」を打ち続けた。自然治癒という手法をとらない薬物の投与は劇的効果を発した。1980年代ジャパン・アズ・ナン バーワンと呼ばれ経済閣僚も経営者も鼻高々だった。やがて90年代に入るとその副作用がやってきた。日本経済はバブルが崩壊した後、どんな刺激も効き目の ない体になってしまった。

  ●スクラップ帳をめくって記事を書けば「独自ダネ」
 にもかかわらず現在の経済界の反応をみると「対応が不足」「対応が後手」となりふり構わぬ。薬物汚染されている日本経済にさらに強力な強精剤や覚醒剤を 打てといっているに等しい。本来、こうした患者にもはや打つ手はないはずだ。強制入院による長期のリハビリなしには回復不能といってよい。

 本来ならば、苦しくとも薬の助けなしに生活できるよう長期療養に入る覚悟が必要なのだ。 なぜ、日本経済は薬物汚染状態に陥ったか。経済官庁が過去の経済対策の効果や副作用について反省するはずはないが、残念なことに経済学者も経済評論家も検証しようとしていない。

 実は、市場経済の基本があまりにもおろそかにされていたのだった。これまでの経済対策といえば「公共事業増額」と「減税」、 それに「公定歩合の引き下げ」。10年間の経済対策を振り返ってみれば分かる。生活関連とか情報通信を重視するといったところで金額的には微々たるもの。

 総額が違うだけで中身はほとんど同じなのだ。マスコミが新たな経済対策を予想するとき、スクラップ帳をめくって記事を書けば「独自ダネ」として紙面を賑わすことができるという笑い話があるほどで、政府が考えることは完全にマスコミに先読みされているのだ。

  ●覚醒効果がやがてもたらす鎮静効果
 確かに「政府による過去の景気対策の速効性は高かった。しかし公共事業増額と減税とも国債の大量増発を伴う。国債発行は国民への借金である。市場経済学 的には、公債の大量発行は金利上昇を誘う。金を借りたい人が多ければ、貸し方が優位に立ち市場金利が上がるのは素人目にも分かる経済原則である。

 にもかかわらず、この経済大国日本では金利の市場原理が機能してこなかった。過去の日本の景気対策では、逆に公定歩合を引き 下げて金融機関に市中金利の低下を強要した。覚醒剤を打ちながら鎮静剤を飲むに等しい。1980年代のアメリカの高金利は「強いドル」を求めたレーガンの 経済政策にもよるが、赤字財政による国債の大量発行にこそ最大の原因があった。

 日本がバブルに酔い、経済成長を謳歌していた時代に欧米諸国が経済政策の手詰まりを起こしていたのはまさに赤字財政が誘因する高金利にあったと言ってよい。

 国民経済的にいえば国債依存による公共事業の上積みや減税は一時的には「覚醒効果」をもたらすが、行き過ぎると、国債の大量 発行=金利上昇という「鎮静効果」を引き起こす。人間に覚醒剤と鎮静剤を同時に打つような医者はいないが、1985年以降の景気対策は公共事業の大規模増 額と公定歩合の大幅引き下げを連動させたもの。これがバブル経済という「錯乱状態」をもたらし、今回は市場の無反応という「手詰まり状態」を引き起こして いる。

  ●大量に発行でも未消化とならない日本の国債市場
 問題は、国債の発行が金融機関による入札制度をとっているにもかかわらず、未消化という事態が発生しないことである。発行条件は当然ながら短期金利動向に左右される。しかし、その短期金利市場への参加者は基本的に都銀など有力金融機関に限られる。

 ここでも市場の閉鎖性が市場機能を阻害している要因がある。国債は残高300兆円に迫る。郵便貯金などを活用した財政投融資 残も300兆円に近づいている。なにしろ国の息のかかった金融商品は合わせて600兆円もある。だから公定歩合の調整という国の政策意図の大枠の範囲内で しか市場機能は反映しない。

 金融機関は不良債権問題で首根っこを押さえつけられており、国債の発行市場でも金融機関は大蔵省の意のままといってよい。


1998年04月09日(木) 【創刊3カ月記念号】  萬晩報主宰 伴 武澄 



 ●独禁法導入でできなくなった金利の談合 

 日本が「臨時・暫定・特定国家」であることは02月11日付萬晩報「租税特別措置法で2倍払わされているガソリン税」で述べた。「臨時」という呼称をつけた法律も多く存在する。国家経営に「臨時的措置」は不可欠だが、何十年も臨時のままでは法律体系として美しくない。 

  国際的な紛争や大規模災害時などに直面した場合、一時的に市民権の抑制があっても仕方ないが、臨時措置が恒常的に続くことなど本来考えられない。にも関わらず、日本では長期間の"臨時"が多く続いている。 

  「君は日本で一番長く続いている臨時法ってなんだか知っているかね」 
 「知りません。なんですか、教えて下さい」 
 「臨時金利調整法なんだよ。終戦後まもなく昭和22年に制定された法律だから、もう50年以上を経ている」 
 「規制金利時代の根拠法って臨時的措置だったんですか」 
 「1990年代に入って銀行金利が段階的に自由化されただろ。それまでは日銀の政策委員会が公定歩合の上げ下げの度に市中金利の最高限度を決めていたんだ」 

  なぜ「臨時」的措置となったか知らない人も多いだろう。臨時金利調整法は「独占禁止法」の成立と密接に関係がある。日本が戦争に負けて、米国が占領政策で一番最初に打ち出したのが独占禁止法の導入だった。独禁法と財閥解体は対の占領政策であった。 

  実は戦前の預金金利は金融機関が"談合"して決めていた。独禁法がなかったから民間で談合があっても別に問題にならなかったが、 1947年、独禁法が成立したことによって金利の談合はできなくなるという不都合が生じた。かといって敗戦の混乱のなかで自由金利を導入すれば経済がめ ちゃくちゃにある恐れがあった。 

  そこで政府が決めれば、独禁法と関わりなく市中金利を統制できることを思いつき、くだんの臨時金利調整法が導入された。「当分の間は公 定歩合の変動に基づいて日銀が決める」ことになった。あくまでも「当分の間」の措置だったはずだ。当時、焼け跡の日本経済そのものが統制下にあったからや むを得ない措置だった。 

  ●自由化のいまも廃止されない臨時金利調整法 
 まさに緊急的措置として「臨時」的法律が作られた。臨時的措置が認められたのはまさに戦争終了後も経済的には国民はまだ統制下、つまり戦時下と 同じ状態に置かれていたからである。ところがその臨時措置が50年間も続いてきた。その後、1960年代に銀行金利を自由化しようとする動きがあったが、 実現しなかった。 

  護送船団方式と日本の銀行が揶揄されるようになったのはそのころからだが、それでも1985年の円ドル委員会でアメリカから指摘される まで日本政府は臨時的措置を続けた。金利の自由化は米国の圧力がなければ実現できなかった。いや実態をみるかぎり、まだ実現できていないとみる方が正し い。 

  倒産した木津信用金庫など危ない金融機関が高い預金金利で資金を集めたことは話題になったが、どこの金融機関へいっても金利は横並びである。不思議なことに、臨時金利調整法は金利が自由化されたはずのいまも現存している。 

  日本の法律が難解なのは、臨時、暫定、特定など国民にとって馴染みがなく意味不明の表現が多いからだ。官僚の世界では一般の国民の理解を超えた多くの法解釈があるようだ。 

  臨時法の概念について有斐閣の「新法律用語辞典」を引いた。 

  「特定の事態に応ずるため制定され、その存続が恒久的でない法令」とあり、その期限について「法令自体に存続期限を明示してあるものを 臨時法と呼ぶ説もあるが、臨時金利調整法のように有効期限を定めていないものを臨時法というのが普通である」とわざわざ説明がついている。なんたること か。大学の法律専門家に聞くと「臨時といっても最大で10年でしょう」といっていた。法曹界もまた普通人の理解を超えた判断を示してるのだろうか。 

  半世紀を迎えてもまだ臨時という解釈が成り立つ日本語ってなんなんだろう。まさか英語の「provisional」という概念まで半永久ではないだろう。 


1998年04月08日(水) 萬晩報主宰 伴 武澄


 為替は3年前の1ドル=80円台から130円台へと40%以上も円安に振れている。にも関わらず物価は上がらない。年間40兆円もの輸入があるのにどう もおかしい。一部のブランドは値上げしているが、国内価格の値上げの動きは鈍い。値上げすべきだといっているわけではない。日本の経済は変なのだ。

  ●日本車より安く売れるチャンスを逃した輸入ディーラー 

 1995年7月、輸入車の欧米での現地価格と日本での販売価格を比較して「円高差益還元が少ない」という記事を書いたことがある。メルセデスベ ンツやボルボなど人気輸入車を10数台比べた。100万円、200万円といった内外価格差はざらだった。もちろん装備の違いはあったが、すべて無視したわ けでない。

  お決まりの抗議がいくつかあった。メルセデスの長野県のあるディーラーは「共同通信社を告訴する」と息巻いた。当時、欧米車の並行輸入 が流行っていた。ボルボなどの並行輸入車は日本の代理店価格より150-200万円安かった。それでももうかっていたのだから、筆者の記事は正しいという 自信はあった。

  日本フォードの鈴木弘然社長が唯一「いい記事だ」と間接的に誉めてくれたそうだ。ただ「フォード車以外は正しい」との注釈付きだった。 誉めてもらったが「マスタングを249万円に値下げしたっていうが、アメリカではオートマとエアコン付きで2万ドル((当時の1ドル=90円換算で180 万円)しかしないじゃない」と反論した。

  ●輸入車は高すぎるという"情報広告"を掲載したフォード
 半年後、その鈴木社長にインタビューした。日本フォードとして、フォルクスワーゲンのゴルフが日本でいかに高く販売しているかを具体的価格入りで紹介する広告を大々的に打ったばかりで、そのユニークな広告の真意を問うた。以下はその内容である。

  「ゴルフ3ドアはアメリカで1万3150ドル(当時の1ドル=90円換算で120万円)で売っている。日本では5ドアだが264万円 だ。オートマ、エアコン、カセット、ABSなどを装備しても1万6445ドル(どう150万円)にしかならないのにですよ。約100万円の使途不明金があ るんです。欧州の大衆車の日米価格差はみんな100万円もある」

  「あまりにも日本人をばかにした売り方です。いくら日本人が輸入車は高くないとありがたがらない人種だからといってもひどい。企業の価 格政策は別にあるべきでしょう。輸入大衆車は年間10万台を超えているから、日本人は価格差分の1000億円を搾取されている勘定になる」

  「ゴルフの価格をフォードの」広告に載せたのは"情報広告"というんですか。輸入車ディーラーももっと真面目に日本で売る努力をしなけ ればならないのに、日本のマスコミはその役割を果たしていない。日本人ユーザーに考えるきっかけをつくりたかった。マスコミに視点がないからわれわれがあ えてやっただけです」

  当然ながら筆者が書いたインタビュー記事では鈴木社長の明快な主張に拍手を送った。鈴木社長は、アメリカでカローラより安く売っても年間に「1万6800台」しか売れていないゴルフが日本でカローラより100万円も高いことに我慢ができなかったのである。

  ●円高時に法外の利ざやを取った欧米企業
 ここまで書けば賢明な萬晩報の読者は筆者が何をいわんとしているか分かっていただけたと思う。1ドル=130円台になっても輸入車の価格がほと んど変わらないのは円高時に法外の利ざやを取っていた証拠でもある。為替が1ドル=100円以上だった時代に内外価格差がなかったとすれば、いまどき 3-5割の値上げなしに販売できるはずがない。

  このことは乗用車に限った話ではない。輸入商社または欧米のメーカーは当時、日本市場で暴利をむさぼっていたことになる。いま、輸入車 が売れないのは不景気だけのせいではない。もちろん円安のせいでもない。日本車より安く売れるチャンスに市場シェアを取っておかなかったつけが巡り巡って いるのだ。

  当時、輸入品が正当な価格で売っていれば、輸入が急増して1ドル=80円台という超円高はなかっただろうし、その反動の円安もなかったかもしれない。日本の不幸は、消費者もマスコミも騙されたことまだ気付いていないことだ。


1998年04月07日(火)  萬晩報主宰 伴 武澄 


 ●ガソリン税は二重課税

 02月11日付萬晩報「租税特別措置法で2倍払わされているガソリン税」に対して「ガソリン税には消費税が5%上乗せされている。TAX ON TAXはけしからん」というメールをいくつかもらった。実はたばこ税も酒税も税金に2%の消費税がかかっている。

  細かいことだと考えてはいけない。ガソリン税は計3兆円。酒税とたばこ税も計3兆円だ。前者の税金は1500億円で、後者は600億円にもなる。決して小さい金額ではない。税金にかかる消費税などは本来、支払わなくていい税金といえよう。 

  なぜこうなったか。たばこと酒税は1989年の3%消費税導入時に3%分減税した。道理にあった措置だった。しかし、ガソリン税の場 合、本体1リットル28円の税率を臨時的措置(20年以上)として53円にしているから、たばこ税などと同様に調整するには臨時措置をいったんやめてから 減税する必要があった。いったん本来に税率に戻せば20年以上も臨時的措置であることが明らかになる。大蔵省としてはなんとしてもそれだけは避けたかっ た。簡単に言えば国民を騙し続けてきたからくりがばれる恐れがあったのだ。 

  昨年の3%から5%への消費税率アップではガソリンもたばこも酒も一切減税せずにそのまま2%を上乗せした。国会でも追及されたが、大蔵省は「諸外国でもやっている」と説明、TAX ON TAXはそのままお蔵入りとなった。 

  諸外国と同様に論じられないのは、酒税の大半を占める日本のビール税やガソリン税の税率が極めて高いからである。税率が小売価格の10%とか20%ならばTAX ON TAXはやむを得ないとして退けることが可能だが、ガソリン税などは小売価格の半分以上が税金だ。 

  その高い税金にさらに消費税がかかる点を見逃してはならない。すでに5%のガソリン税増税と同じ効果をもたらしているからだ。消費税が 3%や5%ならまだしも、これが10%、20%になった時を考えて欲しい。諸外国でもやっている」などと簡単に処理できる問題ではなくなるはずだ。 

  ●払っていいと考える税率は15% 
 一昨年、フィリピン国会で所得税の増税が論議されたとき、ある下院議員が香港の税制を持ち出した。 

  「人間には支払っていいと考える税率がある。香港の所得税は15-16%であり、このあたりの税率が納税者にとって気持ちのいい水準ではないか。それ以上に税率を上げれば、納税者は所得隠しを始める。結果的に徴収できる税額は変わらないのではないか」 

  そんな問題提起を香港の経済誌で読んで「なるほど」と思った。「結果的に徴収できる税額」というのは税制を考える上で非常に重要は哲学なのではないかと考えた。日本の中小業者の納税行動を考えれば、なおさら説得力ある議論ではないだろうか。 

  戦前のある時期まで、日本に法人税という概念はなかった。欧米にあったかどうかは知らない。法人が上げる収益は株主のもので、収益は配 当という形で個人に還元されるから法人税を取らなくとも平等負担の原則が貫ける。そもそも税収全体に占める所得税の割合も極めて小さかったからそんな片意 地張った哲学があったかどうか分からない。 

 ●法人税以前に必要な所得税改革 
 1980年代のレーガン税制改革は、所得税の大規模減税が眼目だった。金持ち優遇との批判もあるが、お金を持っている人々の消費を喚起して国全体の経済を活性化しようとした。20年近く経ってみるとレーガン税制は一定の経済効果をもたらしたといえよう。 

 一方で、レーガン税制は法人税率を所得税率に近づけるという理念もあった。故松下幸之助翁は「日本の所得税は地方税を合わせると85%に も達する。自分の所得で自由に使えるのはたった15%しかない」と嘆いた。1980年代までの日本はそんな状況だった。消費税の導入でそこらの事情は大幅 に緩和され、地方税を合わせた最高税率は65%まで下がっている。問題は、国際的に個人所得税の税率がどんどん下がり法人税に近づいている現状がありなが ら、日本ではその後そうした議論が起きないことだ。 

  役員からサラリーマンまでが企業のカネで飲み食いし、ゴルフをするように飼い慣らされているのは根元的に税制に問題があると思ってい る。サラリーマンの所得に必要経費が認められないという税制上の不公平が一番大きな要素だ。しかし、所得税が法人税と比べて高いという側面も否定できな い。サラリーマンにとって給与の中から飲み食いするより、会社の経費で飲み食いした方が税金の負担が小さいという矛盾に突き当たるからだ。 

  日本の21世紀の税制では所得税を法人税に限りなく近づけなければならない。日本の財界は、毎年のように「法人税を国際的水準にまで下げるよう」政府に要求しているが、所得税の在り方の論議こそが経済活性化の基本であることを知るべきである。 

  ●レシートに込めた台湾の知恵 
 台湾を旅行したときにもらうレシートをよく見たことがあるだろうか。中国語で「収銀機統一發票」と呼ぶ。レジスターでの共通伝票といった意味で ある。この「収銀機統一發票」の上部に何桁もの番号がふってある。実は「宝くじ」の番号なのである。月に一回抽選があるため、消費者はどんな買い物をして もレシートを要求する。

 テレビのクイズ番組でも紹介されたから多くの人が知っているだろう。 一時期、コストがかかりすぎるため「中止すべき」との論議もあったが、まだ現在でも続いている。

  台湾のレジはみんな共通の様式になっており、宝くじ番号のないレシートはない。付加価値税(消費税)の脱税を防止するため考案されたみごとなアイデアである。 


1998年04月06日(月) 萬晩報主宰 伴 武澄


 ●「栄光ある衰退」を覆したサッチャー政権

 「サッチャー回顧録」を読むと、当時の保守党は「政権についたらまず何をなすべきか、分かっていた」という。英国の競争力回復のための論議は 1979年5月の政権獲得をさかのぼる5年前から始まっていた。労組のと対決や国営企業の民営化、税制改革のスケジュールは出来上がっていた。そして満を 持しての組閣が始まった。

  1970年代の英国の蔓延していたのは「栄光ある衰退」という一言に尽きる。サッチャーは回顧する。「知識人も官僚もだれも英国経済を 復活させるのは不可能だと考えていた」と。当時サッチャー以外だれも英国の明るい将来を展望していなかった。1990年代、日本のグランドデザインを描い たのは「普通の国」を掲げた小沢一郎氏と「道州制」を提唱する大前研一氏のふたりだけだ。好き嫌いは別として、日本の不幸はこの二人とも政権から遠いとこ ろにいることだ。

  ●政府保有の株式は100%民間に完全放出
 サッチャー政権の改革は実に広範な分野におよんだ。国営事業はすべて民営化に成功し、公益事業も民営化を徹底させた。英国経済の衰退を加速させた労組とは徹底的に闘い、炭労の相次ぐストにもひるまなかった。サッチャーの強権ぶりに対して国民的支持があった。

  中曽根さんの民営化は国鉄と日本電信電話公社、日本専売公社の三つの国営企業にとどまり、しかも株式の売却は13年を経たいまも終わっ ていない。英国は鉄鋼、自動車、港湾、航空、通信、ガス、電力など政府保有の株式を100%民間に放出。ブリテッシュ・テレコムや英国航空などは世界有数 の優良企業に変身した。 

 日本では法律でNTTの株式放出を3分の2、JTは3分の1に限定した。にもかかわらずNTTは1988年以降、株式放出が止まってお り、日本のJRは28兆円の累積赤字を抱えたままである。高い価格での売却を狙うあまり売却時期を逸してきたのが真相である。株式の売却益で国債の返済に 充てるという当初のもくろみは完全に破綻している。そのへんの事情は1月15日付萬晩報「大蔵大臣が3分の2を所有していても民営NTT」で書いた。

  サッチャーは「ゆりかごから墓場まで」という福祉制度にも大胆にメスを入れた。医療費は無料でなくなったし、年金も民間への移行を促し た。ファンドマネージャーによる年金運用が始まり、その投資収益によっていまでは引退後の年金生活者の方が現役で働く人々より生活水準が高いといわれる。

  ●活性化導いた市場原理と税制改革
 サッチャーはこうした改革を市場原理への移行という哲学と税制改革による優遇の両面で行った。現在の日本の改革論議での「市場原理の導入」はよ うやく定着しているが、税制改革についてはだれも言及していない。消費者はただ「減税」を叫び、財界が要求しているのは「先進国並みの法人税率」。大蔵省 はきっと「先進国並みの消費税率」を考えているに違いない。

  減税にしても増税にしても我田引水ばかりで「哲学」がない。保守党の最後の蔵相となったケネス・クラーク氏によれば、英国の年金改革が成功したのは「税制の恩典と法律上の義務との組み合わせによって年金受給権をなるべく小さなものに変えた」ためだ。

  1989年に3%の消費税を導入したときは、3%に見合う所得税や法人税減税を併せて実施した。景気がよかったこともあるが、一応道理 にかなっていた。しかし、昨年の消費税3%から5%へのアップでは、暫定措置だったとはいえ2年続いた減税をやめた。これでは国民は納得しない。景気に水 を差すのも当然のことである。

  筆者が考える税制改革の理念は明日の萬晩報でお届けする。


1998年04月05日(日) 萬晩報主宰 伴 武澄


 ●3000戸程度しか残っていない養蚕農家 

 福井県農業共済組合連合会の小野寺さんに「さよなら養蚕-福井から養蚕が消えるまで」という本を送ってもらった。羽二重王国といわれた福井県で最後の養繭の出荷があったのは1995年10月のことである。養蚕業がなくなってはやくも2年半を経た。

  養蚕がなくなった県は福井だけではない。ピーク時、日本には80万もの養蚕農家が存在したが、もはや3000戸程度しか残っていない。 農家が300万戸だから1000戸に1戸しか養蚕をしていないことになる。生糸はかつて日本の輸出を支え、日清、日露戦争の戦費を賄った産業だったが、養 蚕はもはや生業とはいえない。

  小野寺さんの「さよなら養蚕」にはそんなノスタルジアが行間ににじみ出ていて、祖父の時代の日本人の労苦がしのばれる。しかし、養蚕業 はここ数年で産業として成り立たなくなったわけでなない。筆者が農水省を担当していた95年には2万家まで減少していて、産業としての保護をやめる論議が 盛んだった。

  日本は伝統的産業としての養蚕を、長く蚕糸の価格面から保護してきた。農産物の自由な輸入を制限して高値維持を図る方法は、コメ市場開放後のコメ価格でも行われている。価格安定事業は競争力回復のための政策としては最悪の部類に属する。延命策でしかないからだ。

  価格維持政策が生糸の価格を押し上げ、結果として和服の価格をべらぼうなものにした。農水省は農家保護の名の下に延命策のみにきゅう きゅうとし、日本人の衣服である着物を日常から遠い存在にした。養蚕が残ってもだれも着物を着れないような高価格にしたのでは本末転倒だ。

  ●群馬県の業界団体からは取材拒否にあった
 価格維持は早くやめなければいけなかったのに、誰もメスを入れようとしなかった。メスが入ったのは皮肉にも1994年末の行政改革論議の最中だった。

  1994年末、共同通信社は「蚕糸価格安定事業を廃止へ」という記事を出稿した。上毛新聞や信濃毎日新聞など養蚕農家が比較的多く残っ ている地方紙は一面トップで掲載した。そもそもこの事業を実施していた「蚕糸価格安定事業団」という特殊法人が廃止の矢面に立たされていた。
 
 予想通り、農水省から「事実無根」という抗議文を受け、所管の農水園芸局長が否定会見まで行った。当時としてはちょっとだけ勇み足だったかもしれないが、2年後に蚕糸価格安定事業は廃止となった。

  一番ヒステリックに反応したのが養蚕農協連合会だった。群馬県の業界団体からは取材拒否にあった。「共同通信の伴さんですか。あんたの ことは聞いている。声も聞きたくない」。養蚕農家を愚弄しているというのだ。だが、この事業団はそもそも8年間も価格安定機能を果たさず、生糸価格の暴落 を座視していたのだった。どちらが愚弄していたかは歴然としていたが、だれも知らなかった。

  群馬県の山村での養蚕の実態については、2月10日の萬晩報「公共事業/国会議員-土建屋-農村雇用-自然破壊の連鎖」で一部述べた。実際に取材した農家は、養蚕などやめたくて仕方がないというのが真相だった。

  ●農水省と業界団体が「農家代表」
 長期間にわたる価格安定などは業界の体質を弱めるだけで「百害あって一利なし」というのが筆者の立場だが、百歩譲って「一利」を認めても「8年 間も仕事をしないのでは存在価値はない」と考えた。日本の養蚕を存続させるためには「所得保障」しかない。コスト的にもそれが最も安い。養蚕とは関係ない 事務員を多く抱えていた事業団は自らの存続しか考えていなかった。

  農業問題で実際の農家の話というのは意外と伝わらない。日本では、土を耕しているわけでもない農水省の官僚や農協を代表とする業界団体が「農家代表」なのだ。そして選挙の時は土建屋が農家代表となる。

  養蚕はいずれ日本からなくなる産業だろう。だが和服はなくしてはならない。京都の街を歩いていると、カタンカタンという反物を織る音がいまも聞こえる。  
1998年04月04日(土)  萬晩報主宰 伴 武澄 


 「国民の目が日本にフォーカスされていた時代」に多くの感想や意見をいただきました。重要な指摘も多く、うならせる部分が少なくありません。以下、読者の参考に掲載します。

 ●仲間うちで日本の大学に失望感 
 留学生10万人計画、ある大学でのことですが、アジア留学生の話では、仲間うちでは日本の大学について失望感が語れており、それが本国の後輩た ちに伝わっているとのことでした。準備もないのに、むりやり数だけ受け入れる大学のあり方、未熟な教授陣、当然私学三流大学にこの傾向が強い。。驚異的な 経済復興を果たした日本へのあこがれは、円高の生活苦ともに、ひややかな現実となり、間違ったと思っている。これはわたしが直接聞いた氷山の一角なので しょうか。 とりとめありませんが、なことを思い出しました。(関口) 

  ●これからどうしたいといった議論が必要 
 お札に刷られている人物の顔は(物は)誰が決めているんでしょうか?記念切手を発行しているのは誰なんでしょうか?それが政府だということに対して異議がなければ、国民がその象徴としたくなるような人物は、政府(役人)が決めることになると思います。 

  そんなに目くじらをたてて主張するような話じゃなく、ただのその場の会話だよ、といわれれば、それはそのとおりで私もそう思うのですが、私たちは今まで役人に頼り切った生活をしてきたんじゃないでしょうか。 

  基本的に役人の仕事って何でしょうか?私たちの指針を示し、国の目標を決めてくれる、何か親みたいなものでしょうか?役人っていうのは法律で決まったことを、法律で決まった方法で、実行するだけの存在であって、何かそんなに偉い仕事をしているわけなんでしょうか。 

  日本が注目されなくなってきたといっても、何か日本は特別な国なんでしょうか?日本は何になりたいんでしょう? 特別視されたい? 特別な役割を果たしたい? 尊敬される国になりたい? 何かこういう、これからどうしたいといった議論を日本は避けてきたような気がします。 

  これからどうしたい? 日本人はどこへ行きたい? 日本人は何になりたい? そしてそれは誰が決めるの? こんな問いを常に持ち続けることは大切なんじゃないでしょうか。(山田) 

  ●日本はAsia人に魅力のある国なのか 
 拝見したご意見、全く残念でなりません。視点をかえて、果たして日本はそのようにAsia人にとって魅力のある国なんでしょうか。むしろ自分の 足元をみる時期にさし掛かって居るのではないでしょうか。過大評価されるされるのでは無く、それを望むのでもなく、今蔓延している官僚Systemと政治 の堕落こそが糾弾されるべき三流の国家であることを世界に知らしめる好機なのではないでしょうか。意識の低い国民には同様の支配者のみが君臨します。これ は歴史の必然で有り、それを変えようとしても徒労に終わるのがめに見えている状態と言えます。 

  打ち出の小槌を振って世界の機嫌を伺うのでなく、むしろ西欧型ごり押し主義に押し抗いつつ独自の道を歩むことを推し進める絶好の機会といえるのではと考えます。(井上) 

 ●日本人が差別するとアジアの怒りは数倍 
 当地では何人かの韓国人や中国系(国籍はいろいろ)の人達と交流を持ちましたが、みな日本に関心を持っているが腹を割って話せる日本人の友人が いない事に私は落胆しています。香港の女の子が、10年も英国に居ながら日本人の仲の良い友達がいないから、私に広東語(趣味でやっているのです)を教え ることにしたと言う発言には少し驚きました。

 みなとても日本のことをよく知っており、関心があり、しかも日本の学生と知り合える機会が多いのになぜこんな事になるのか。日本人達は、欧米人はアジアを蔑視していると言いながら、本音では自分達日本人が白人になることしか考えていないような気がいたします。

 でもそれだけではないだろう。日本に留学した経験を持つ先輩らから伝わる日本のイメージが決してよくないことにもそもそもの 遠因であるような気がしてならない。欧米社会では留学先での就職に対して寛容であるのに対して、日本では大学を卒業しても日本企業の門戸は非常に狭い。さ らに日本での住宅事情の悪さを考えれば、仮に日本留学を体験したアジア人がいたとしても「好意」を抱いて帰国するケースは"についてはまったく同感です、 台湾人の知り合いがなぜ彼が 日本へ留学して日本企業に就職した後、英国で博士をとる事にしたいきさつを話してくれましたが(もちろん彼は尊敬する複数の日本人の存在をあげました が)、あなたの言うことが当てはまります。

 はっきりいって欧米の大学はアジア人の学生を金ずるくらいにしか思っていないところが多々ありますが、それでも彼らは欧米へ いきます。この理由は何なのか。欧米人から受けるちょっとした差別的な発言を(同じ有色人種である)日本人がすると、アジア人の怒りは数倍となることをわ れわれは認識するべきでしょう。(英国への留学生)

  ●「日本がワン・ノブ・ゼム」は喜ばしい 
 アジアの人々が仰ぎ見る日本がワン・ノブ・ゼムとなったとすれば、それは喜ばしいことであると思いました。アジアの経済発展の一つの現われであるとも考えられます。 

  「国民の目が日本にフォーカスされていた時代」の記事は、基本的に賛成です。しかし、留学生に関する議論がややステレオタイプなものであると感じ、残念に思いました。 

  例えば、将来、経済発展したフィリピンでもっと留学生を受け入れるべきだといった議論が起こるでしょうか。確かに多くの留 学生が日本やってきて、好意を持って帰国してもらうのは理想的ですが、将来のことは別として、高コストで単一民族指向の現在の日本の社会では、現実的な限 界があります。もちろん現状を賛定するものではありませんが、欧米と比較するだけではなく、日本は日本の現状にあった道を考えるべき時がきているような気 がします。 

  学問の分野でのアジアへの貢献では、留学生の受け入れにもまして、アジア各国に世界的に一流とみなせるような大学を建設す る、日本語等の分野に限らず各種最先端の学者を講師として派遣するといったことも考えられます。今、日本を出て、アジアで働きたいあるいは働ける人、活躍 できる人は、結構多いと思われますが、日本に帰ること、帰ってからのことを考えて実行できないのが大多数でしょう。制度として外国で働け、また帰国しても ハンディがない制度とすれば、案外外国に出ていき働く人は多いのではないでしょうか。(情けない面もありますが) 

  私は、日本民族が、外国で働く日本人によって、まだまだ尊敬を勝ち得ることの可能な民族であると思っています。かって、明治の初め、日本にきた多くの外国人によって、多大な恩恵を受けたように、今度は日本がその役割を果たすべきときであると。 

  影は薄いが、よく知っている人には尊敬されるといった日本、あるいは日本人というのがもしかするとこれからの戦略とすべきことかもしれません。(浦山) 


1998年04月03日(金)萬晩報主宰 伴 武澄


 東銀は20年前からサインでOK

 数年前、東京・赤坂にあるさくら銀行支店でサインだけで銀行口座を開設した。支店がある赤坂ツインタワービルには外資系企業が多く入っており、外国人向 けサービスとして始めたが、日本人社員が「なんで日本人だけサインではいけないんだ」と迫ったことから日本人でもOKになった。

 本当かどうか確かめたくて支店に赴き窓口で申し込んだ。

 「口座を開設したいんですが。サインだけでできると聞いたのですが」
 「あれは外国人向けでして」
 「日本人だってサインで口座をつくったと聞いていますが」
 「ご存じでしたか。でも当支店だけでのご利用になりますがよろしいですか」
 「はい。けっこうです」

 実際の会話は、こんなものではなかった。支店長代理なる人物が出てきてなんとか印鑑を使わせようとした。OKまで30分もかかった。当支店だけの使用に限定するといったが、カードが発行されてどこの支店でも利用が可能だった。

 東京銀行(当時)の知り合いにこの話をしたら、東銀ではサインだけの口座開設は20年前から始まっていた。印鑑ってなんなんだろうという疑問はその時から持ち続けている

 ●生きていたはんこ社会を規定した100年前の法律
 最近になって、おもしろい本と出会った。大巧社の「日本を知る」シリーズの『はんこと日本人』(門田誠一著)である。日本がはんこ社会になったのは、明 治時代になってからだという。1871年、太政官布告で、あらかじめ庄屋や年寄りなどに印鑑を届け出て「印鑑帳」を作成して、いつでも印鑑を照合、確認で きるようにしなければならなくなった。

 サインよりもはんこを重視するようになったのは、1873年の太政官布告で「証書の類に爪印・花押などを用いる事を禁じ、実印のない証書は法律上、証拠 にならない」と定めた。それ以降、土地取引や商業取引のはんこが必要な文化になった。ただ77年の布告では「証書に中に本人が自著し、かつ実印を押すこと が必要」となった。サインも併用されたと考えればいい。実印は偽造や盗用の弊害があり、サインに切り替えた方がいいが、庶民はまだサインに慣れていないの ではんこを併用するのがいいという方向に考え方が微調整された。

 その後、条約改正や商法典の改正などに際してサインに切り替えようという動きもあったが、1899年の「商法中署名スヘキ場合ニ関スル法律」の「自書す ることの能ワザル場合ニハ、記名捺印ヲ以テ之ニ代フルコトヲ得」という法律がはんこ社会を決定付けた。たった2行の法律はいまでも生きている。六法全書に も記載されている。法案は衆院議員、木村格之輔による議員立法で当時の明治政府はこの法案にまっこうから反対したという。

 なぜはんこにこだわるようになったかといえば、外国人が増えて不都合なことが増えるだろうことに加え、コンピューター文書にははんこは押せないという疑 問が湧いたからだ。1980年代前半まで香港ははんこ社会だったが、全面的にサインに切り替えた。香港が変えたのは後になって知ったが、さて日本ははんこ 社会をどう変えようとしているのだろうか。法務省とかどこかで考えている人がいれば日本は救われる。


1998年04月02日(木)萬晩報主宰 伴 武澄


 大いに流行った「かみさんがね」

 5年前のことを思い起こしている。日本新党が旗揚げし、小沢一郎が自民党を離脱して総選挙に突入した。なにかが変わるのではないかと国民全体がわくわくしていた。

 知り合いの紙パ企業の役員が「うちのかみさんがね。東京駅前でいそいそとビラ配りしているんですよ。私は立場上、自民党を割って出たような人たちを支援 するわけにいかないんですよ。かみさんはそんなこと一切関知していないんですよ」と嬉しげだった。当時「かみさんがね」というのが流行った。新しい政党出 現の動きを喜んだのでは男の沽券にかかわるとばかりに「かみさん」に自分の意見を代弁させていた。男たちは本音では喜んでいた。

 そのころ多くのかみさんたちは、テレビ朝日で久米宏の「ニュースステーション」に釘付けとなり、終わるとチャンエルをTBSに変えて筑紫哲也の 「NEWS23」に見入っていた。ほろ酔い気分の亭主をつかまえて「あなた、きょう久米宏さんは・・・・っていっていたけどホントなの」なんて毎晩のよう に追及していた。だからサラリーマンの朝の会話も「うちのかみさん」で始まった。

 その結果かどうか知らない。1955年の保守合同以来続いた自民党単独政権が1993年8月、終焉を終えた。保守合同に反対して「単独政権は腐敗し崩壊 する」と公言したのは民主党幹部だった松村謙三だった。三木武吉は「10年持てば」と言ったが、松村は「30年後に崩壊する」と言った。それが38年か かった。

 ●大蔵省こそが自民党を支配する遺伝子
 その新党ブームが1年しか続かなかった。細川政権が福祉消費税7%容認で政権を降り、羽田政権はたった2カ月で崩壊した。社会党と組んだ自民党が村山さ んを首班に担ぎ上げ、再び自民党が与党に戻った。福祉消費税は1994年1月細川首相が突然言い出したことになっているが、これは大蔵官僚が仕掛けた策謀 だと考えている。裏に自民党がいたかどうかは知らない。だが自民党は細川氏のNTT株疑惑と佐川急便との癒着問題で揺さぶりをかけていた。

 自民党は2年ちょっとで橋本政権を成立させ、1996年秋の総選挙でも圧勝した。5年ぐらい野に下っていれば体質改善が進んだかもしれないのに、自民党 は腐敗体質が直る前に復活してしまった。その自民党政権下で金融危機が起き、大蔵省幹部による金融機関との癒着構造が明らかになった。竹内久美子流に考え ると、大蔵省こそが自民党を支配してきた遺伝子ではないかという気がしてきた。

 その遺伝子が狂い初めて久しい。企業からの飲食接待やゴルフ接待に抗する機能を失っていた。もはや遺伝子が免疫不全症候群症状にかかっているといってもいい。エイズやエボラ熱は恐いのは病気そのものでなく、病原ウイルスが体内にある抗体を破壊するからである。

 いま政府・自民党が検討している16兆円の史上最大の景気対策は大蔵省が国債発行の大盤振る舞いを決めたところから始まる。1992年からの60兆円を超える経済対策が効果がなかったことが免疫不全の兆候であり、学習効果もなく繰り返すところが症候群である。

 だったらどうすればいいのか。簡単だ。遺伝子が支配する個体をわれわれの手で変えればいいのだ。民主主義体制では、手法は選挙しかない。5年前、選挙で自民党支配が終わった。しかし国民は2年前、再び自民党を復活させた。

 まずは7月の参院選である。いま日本が必要としているのは「変化」だ。いまの野党になにができるという見方も当たっているが、少なくとも大蔵省遺伝子が 活躍できる余地は少ない。免疫不全だけは防げるかもしれない。もっっともわれわれが必要としているのは新しい久米宏と筑紫哲也かもしれない。国民がわくわ くすれば景気もよくなる。


1998年04月01日(水)萬晩報主宰 伴 武澄


 萬晩報は独自の素材と独自の視点をモットーにしてきた。だから既存のマスコミの記事とは一線を画してきた。しかし今日は違う。日経新聞夕刊5面で月曜日から続いている「人間発見」『車椅子で起こす改革の風』はどうしても紹介せずに入られない。

 ●リハビリ病院で提供される様々な情報と選択肢
 1979年、アメリカでの高校留学時代に寮の窓から階下に転落し、下半身不随になった山崎泰広氏が、ベンチャー企業を興して成功した話だ。アメリカの車椅子の輸入販売から手掛けて、いま障害者向けコンピューターの開発に力を入れている。

 2月27日付萬晩報に「職務に忠実なアメリカの高校カウンセラー」を報告した。『車椅子で起こす改革の風』はその障害者版ともいえるもので、支援システムやカウンセリングの在り方など様々な日本とアメリカの違いを浮き彫りにしている。

 「下半身不随を告知されてもまったく落ち込みませんでした。リハビリ病院では様々な情報をきちんと提供してくれたからです。渡された雑誌には障害を持ち ながら水泳や、テニスなどの競技選手として活躍している人や、政治やビジネス、学問などの分野で実績を上げている人たちの生き方が克明に紹介されていた。 スタッフは現在、こんな道具やテクノロジーがあり、それを利用すれば目的も夢も変える必要はないとアドバイスしてくれた」

 帰国後、入院したときに知った医療加護の彼我の違いを思い知らされる。日本では「できないことばかりをあげつらう。何ができるかは伝えない」「身障者に 対して日本の病院は、限界の網だけをかぶせ目標を持たせるための情報や生活への選択肢を与えない」。筆者は病院とは無縁の生活を40年以上続けてきたが山 崎氏が語る彼我の違いは容易に想像できる。

 ●窮屈な日本に風穴を開けたかった
 その彼我の違いから山崎氏は1990年、車椅子の輸入会社の設立を決意する。アメリカでは車椅子でもさまざまなカタログや雑誌があって気に入ったものが 選べるのに、日本の病院には指定業者制度があって特定の企業のものしか買えない。しかも欲しい機能は少ないのに価格は法外だ。そんな窮屈な日本の車椅子の 世界に風穴を開けたかったのだ。

 記事を読んでいて、1990年にサンフランシスコで知り合った日系人の障害者であるカツヒコ・オカ氏の通勤風景を思い出した。オカ氏の職場は市役所だ が、車中心社会のカリフォルニアのなかを車椅子で自由自在に歩き回るのだ。朝、着替えと洗面を済ませ、コーヒーを沸かしトーストを食べると出勤だ。電動の ガレージの扉を開けて車椅子でそのまま歩道に出る。大道路まで出て手を上げるとバスが止まり後部に設けられたリフトが下がる。

 自分で「上昇ボタンを」押すとリフトが上がりオカ氏はもはやバスの乗客だ。家の中だけでなく、街のインフラまで障害者対応になっているのには驚いた。歩 道の段差をなくして障害者にやさしいなんていっているどこかの自治体とは次元が違う。市役所やもちろん飛行場でもどこでも人の手助けをほとんど必要としな いという。

 母親は「小児まひの後遺症で子どものころから歩けません。でも成人してからの彼はすべてを一人でやっている。親が助けたのは、家への出入りがしやすいよ うにガレージの西側に部屋をつくってやったぐらいですか」と事もなげにいう。自立しなければ社会人としてやっていけない。アメリカには努力する人々に報い る社会的インフラが確かにあった。

 ●テクノロジーの革命を日本でも
 山崎氏の目指すものは、あのホーキング博士がコンピューターを使って話したりするようなテクノロジーの革命を日本でも起こすことだ。テクノロジーを駆使すれば重度の障害者も障害に関係なく社会で活躍できることをアメリカで学んだからだ。

 長野オリンピックに引き続いて開かれたパラリンピックで日本選手勢は多くのメダルを獲得し、日本中に感動を巻き起こした。並大抵の努力でないと思う。だ が身障者を特別視してはいけない。日常生活に"異なるもの"を受け入れる度量さえあればいい。外国人がじょうずに日本語をしゃべると「おじょうずですね」 の褒め言葉を連発するようではいけない。


このアーカイブについて

このページには、1998年4月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは1998年3月です。

次のアーカイブは1998年5月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

月別 アーカイブ

ウェブページ