1998年3月アーカイブ

 明石大橋を渋滞させてみよう

 明石大橋が4月6日開通する。関西のマスコミは明石大橋の企画記事で持ちきりだ。大和銀総研が1500億円経済効果があるとはやし、まるで開通で関西経済が新たなエポックに入るかのようなはしゃぎぶりだ。

 そんな議論に水を差すつもりはないが、1兆円近くを建設費につぎ込んだこの橋を本気で起爆剤にしたいならば、1カ月程度は通行料を無料にするぐらいの大盤振る舞いをすべきだと考えた。どうせ50年間もの長い時間をかけて建設費を償還するなら1カ月ぐらいただにしても経営に影響はあるまい。

 明石大橋の通行料は垂水-淡路間が2600円。垂水-鳴門間は5800円である。本四公団が推定する1日の通行量は1万7000台だから5800円をだ だにするコストは1日当たりざっと1億円である。30日でたった30億円でしかない。春の行楽シーズンに通行料をただにすれば、明石大橋が渋滞すること受 け合いである。

 明石大橋を渋滞にするほどの車の通行量は知らないが、家族連れのマイカーならば淡路島や徳島に最低でも1万円程度の消費をして帰るだろう。四国の人々は 日帰りで神戸のハーバーサーカスにいくかもしれない。彼らはもっとお金を落としていくだろうと考えれば、橋の双方の経済に与える効果は、30億円では効かないはずだ。

 都会のデパートの駐車場料金は2000円程度の買い物をすれば基本的にただである。ただでなければだれも自家用車で乗り付けることはない。駐車料金をた だにすることでデパートで買い物をしてもらおうというのが魂胆である。明石大橋も同じ発想にたてば、通行量が1日1万7000台程度では終わらなくなるだ ろうと考えている。

 リピーターに期待しよう

 通行料をただにする効果はそれだけでない。関西の人々にとって徳島はそんなになじみのある場所ではない。だが一度面白いことが分かれば、必ずリピーター が出る。ディズニーランドと同じである。「祖谷のかずら橋」や吉野川流域の「大歩危小歩危」も実にいいところだし、阿南海岸でのサーフィンやウミガメの出産風景も悪くない。ただいままで多くの人の目に触れることがなかっただけである。

 もしリピーター現象が起きなければ、それは徳島が悪いし、香川が悪いということになる。努力しないで人が来ると考える方が甘い。関西の人が二度と明石大橋を渡ろうと考えなくなることはないと思うが、それはそれで自業自得としかいいようがない。机上の空論で観光客に期待しても仕方がないことでなないだろう か。

 瀬戸大橋の下を今も10分おきに運航されるフェリー

 瀬戸大橋が開通したのは、ちょうど10年前の1988年である。当初から採算が合うか疑問視されていた巨大構築物である。どうして採算が合わないか考え ると通行料金を建築費から逆算したからだ。シミュレーションした通行量でわり算した金額が通行料金になった。明石大橋も実は同じ轍を踏もうとしている。

 マスコミはどこも報道しないが、高松と宇野間には瀬戸大橋開通10年後も、カーフェリー3社が開通前と同じ間隔で運航している。宇高国道フェリーと四国 フェリーはそれぞれ30分に1本、本四フェリーは45分に1本だ。いってみれば10分ごとにフェリーが運航されている勘定だ。

 どうして生き残っているのか、理由は簡単である。乗用車の運賃が4000円強と瀬戸大橋の通行料の3分の2と格安だからだ。

 明石大橋に夢がない理由をもうひとつ挙げたい。香港で昨年4月、開通した青馬大橋は1377メートル。世界最長の鉄道併用橋である。この橋の開通を前に した「青馬大橋ウオーキング」では、歩く人々からお金を取った。強要したのではない。寄付金を募った。ユニークなのは寄付金が多い順に新聞に名前を掲載す ることを予告したことだ。集まった金は障害者施設と老人施設に寄贈された。実に豊かな発想ではないか。(伴 武澄)


1998年03月30日(月)
萬晩報主宰 伴 武澄


 日本はいつの間にかワン・オブ・ゼム

 日本とアジアを語るうえでこの10年間の最大の変化は、アジアの人々がもはや日本を仰ぎ見る存在として見なくなったことである。フィリピンのJETRO(日本貿易振興会)に当たるフィリピンの国際貿易公社(PITC)の日本支社長のクリスチン・クナナンさんは語る。

 「かつてフィリピンにとって資金や技術で協力してくれるのは日本以外になかったのです。国民の目が日本にフォーカスされていたといっていいでしょう。と ころがフィリピン経済がアジアの成長トレンドに乗るようになって多くの国から投資が来るようになりました。協力相手はシンガポールであり、香港もある。中 国だってベトナムだって相手になってくれる。日本はいつの間にかワン・オブ・ゼムになってしまったのです」

 この十数年の変化は恐ろしく速い。そもそもアジアのエリート層はみな、欧米の一流大学や大学院を卒業し、英語での生活が日常化している。もしかしたら意 識の半分はアジア人でないのかもしれない。そうしたアジアの若いエリート層が日本を見る目は欧米人のそれと極めて近い。昨年来の通貨暴落でアジア経済は疲 弊しているが、日本は助ける力を失っている。経済力だけが日本とアジアをつなぐ絆だったのだとしたら寂しいことだ。

 毎年迎える10万人留学生が財産

 アジアの学生が希望する留学先はアメリカのほか英国など旧植民地の宗主国の比率が極めて高い。日本は二番手、三番手である。第一の理由は言語だろう。日 本語だと一から勉強する必要があり、仮にマスターしても現地の日本法人で取り立てられるのが関の山。しかし、英語ならば全世界を相手にビジネスチャンスが 広がる。

 でもそれだけではないだろう。日本に留学した経験を持つ先輩らから伝わる日本のイメージが決してよくないことにもそもそもの遠因であるような気がしてな らない。欧米社会では留学先での就職に対して寛容であるのに対して、日本では大学を卒業しても日本企業の門戸は非常に狭い。さらに日本での住宅事情の悪さ を考えれば、仮に日本留学を体験したアジア人がいたとしても「好意」を抱いて帰国するケースは稀だ。

 これは日本がアジア人を日本列島から排除し続けてきた結果である。中曽根首相は1980年代半ばに訪中し、胡耀邦総書記との間で「留学生10万人プロ ジェクト」を華々しく打ち上げた。日本への留学生が1万人程度しかいなかった時代である。若者の交流こそが将来の二国関係を築くという発想は非常に前向き だったが、政策がついてこなかった。

 あるアメリカの外交官が語った自慢話を思い起こした。「アメリカは毎年10万人を超える留学生を迎えている。20年ならば200万人だ。アメリカに好意を抱いてくれる外国人が全世界に数百万人いると考えられている。これこそがアメリカ外交の神髄だ」

 外国人に対する寛容の精神の不足

 アジアの日本離れは決して言葉だけの問題ではない。過去の歴史でもない。外国人に対する寛容の精神が不足し、外国人の才能を日本社会に取り込もうとする 意欲が決定的に欠如しているからだ。平均すれば、アジア諸国の経済は日本より遅れているかもしれないが、新卒の日本の学生がアジアの新卒生より優れている といえる要素は一つもない。社会人一年生というレベルではまったく変わらないはずだ。アメリカ帰りの留学生がアジア経済の中枢を支えているという現実を振 り返るだけで日本社会がアジア人を取り込まない不条理を理解できるはずだ。

 今週ロンドンで開く予定のアジア欧州会議(ASEM)で英国が提唱している「ASEM基金」がアジア人ジャーナリストの関心 を呼んでおり、日本の影がますます薄くなっているという。日本が経済運営に四苦八苦していて有効なアジア支援策を打ち出せないでいるからだと30日付日経 新聞夕刊は報告している。アジアを重視していたはずの日本はお金でも影の薄い存在になるのだろうか。


1998年03月29日(日)
萬晩報主宰 伴 武澄


 ビール業界の序列を変えたスーパードライ

 1990年代の産業界での最大の出来事は、アサヒビールのスーパードライがキリンのラガーのシェアを抜いてトップに立ったことだと思う。戦後の日本で トップシェアが入れ替わったのはほとんど初めてといっていい。特に酒販という古い商慣行を色濃く残す業界では起きたことに驚かざるをえない。

 流通食品業界を担当していたときに聞いた。「アサヒビールのシェアが7%を切ったときほど悲しかったことはなかった。北海道なんて卸がアサヒを取り扱ってくれないんですよ」。このままアサヒビールが歴史から消え去ってしまうのではないかと思ったという。

 10年経ってみると状況は一変した。スーパードライが歴史を変えたと思っている人が多いと思うが、筆者はディスカウンターの登場が酒販の形態を一変させ、アルミ缶が消費者の購買行動を変え、スーパードライ快進撃の追い風となったと考えてきた。

 かつてどこで買っても価格が変わらなかったし、ビンは重たかったから買い物かごに入りきらなかった。だからビールは町の酒屋が配達してくれる商品と相場 が決まっていた。ところが容器がガラスからアルミ缶に変わって流通そのものが変わった。他の食料品同様、持ち帰りが可能な商品に生まれ変わった。スーパー ドライは業務用ではなく、缶ビールが売り物だったことを思い出して欲しい。

 ビールも水もジュースも同じ

 ディスカウンターが目玉商品としてビールを取り扱った。安くなった背景には輸入ビールの存在が欠かせない。1993年当時、河内屋の樋口社長に聞いたこ とがある。350ml、24本入りの輸入価格はいくらなのか。答えは明快だった。「1箱7ドル」。3年後、ファミリーマートに聞いた話では「カナダ産ビー ルは1箱4ドル」だった。24本入りだ。1本20セント足らずだったことに驚いた。

 日本の缶ビールの工場出荷価格はだいたい60円弱が相場となっている。アメリカとかカナダのビールのコストは日本の3分の1なのだ。ダイエーがかつてベ ルギーから「ベルゲンブロイ」というビールを輸入、店頭価格128円で販売したことがある。中内功社長は「128円でも利益がある」と主張したが、ビール 各社は「80数円のビール税を負担したら赤字販売だ」とダイエーの真意を疑った。本当に国際的なビールの価格を知らなかったのだとするとビール業界はなべ て井戸の中の蛙だ。

 所詮、ビールなんてものはそんなものだ。缶入りの清涼飲料が110円しているが、だれでも不思議に思うことは「なんで水とオレンジジュースが同じ価格な の」という実態である。コーヒーであろうとジュースであろうと中味は5円もしない。ビールも同じである。一番高いのは小売店の手取りで、次はアルミ缶代で ある。アルミ缶は表面にいろいろ印刷すると20円弱のコストがかかっている。中味の5倍から6倍のコストである。日本の消費者は便利さを買う代償として、 多大なコストを容器に支払っていることを明記すべきである。

 アルミ缶は一過性の使用でしかない

 ガラス瓶は回収を前提としていたが、アルミ缶は使い捨てである。アルミ缶が環境問題として浮上した。化粧品のコストで一番高いのは容器だということはだ いぶ前からいわれてきた。だか化粧品は何ヶ月も使う。清涼飲料とかビールの容器は一過性である。アサヒビールの躍進は日本が変わった数少ないひとつの象徴 として肯定したいのだが、アルミ缶は問題である。アメリカは別として、欧州ではアルミ缶のビールは輸出用が中心である。国内消費の多くはいまだにガラス瓶 だ。

 アルミ缶は環境問題であると同時に日本ではコストの問題でもある。
1998年03月28日(土)
萬晩報主宰 伴 武澄


 03月24日付 「5月から耳の不自由な人も漫才が楽しめる!」に は実にいいコメントをいただきました。台湾や香港では同じ中国語でも台湾語、広東語といった言語がいろいろあるため映画だけでなくテレビでも必ず字幕が入 るんですよ。多くの国に映画やテレビ番組を輸出するアメリカでも基本的に字幕が入っているのだということを知らされました。日本語だけでやってきた日本だ けが特殊だったわけです。

 台湾では身体障害者に対する差別がほとんどない

 わたしは台湾に留学していますが、こちらには「五燈奨」という勝ち抜き歌番組がありますが、この中で普通の歌、外国人による中国語の歌とともに手話ダンス+歌も正式な種目となっています。その表現力は見事というほかありません。
 こちらの人は日本の人と違って、身体障害者に対する差別がほとんどないといってもいいくらいです。私自身は障害者ではないのですが、生活していてとても気持ちのいい場所です。【台湾への留学生】

 アメリカではキャプションは当たり前

 1.日本でなぜCC(クローズドキャプション)が普及しないのか
 字幕入りビデオが珍しいこととしてニュースになっているわけですが、アメリカではビデオやLDなどのソフトにCC信号を入れること、そして映像を再生す る機器にはそれらをデコードして表示する機能を内蔵することが法律で義務づけられていたと思います。同じようなシステムが日本ではなぜ導入されないので しょうか。機会がありましたら,今後取り上げていただけるとありがたいです。
 2.障害者団体の日頃の活動の取材と紹介を
 「日本の障害者問題は、ひょっとしたら障害者団体の人たちに内在しているのではないかとも考えた。」との表現がありました。確かに、ある種の団体は、立 の本当の趣旨を忘れていることもあるかもしれません。しかしながら、日頃の地味な活動には見向きもしないで、時々話題性のあることだけを断片的に取り上げ るマスコミの姿勢にも多いに問題があるはずです。先のような批判をするのでしたら、そういう団体の日常活動もきちっと取材・紹介した上で批判をするのが フェアだと思います。【大阪市在住】

 祖父の世代以降は「古典落語」で落語や漫才を楽しんでいた

 小5で突然聞えなくなり、以来20年以上、音とは無縁の世界で過ごしています。記事のスタンスには、全面的に賛成です。ただ、いくつか誤解を招きそうな所もあるので、ちょっとだけ嘴を突っ込ませて下さい。
 「耳の不自由な人たちは寄席とか漫才とは無縁と考えていたんですよ。われわれは。目からうろこというんでっしゃろか。これ」とありましたが、無縁どころ か、少なくとも私の祖父の世代以降は、落語や漫才を楽しんでいる聴覚障害者がたくさん居ます。「古典落語」をはじめとした、本の形になったものがありまし たから。
 こういう本を読む理由の1つは、もちろん、純粋に「読んで楽しい」からですが、もう一点、「口語をできるだけ厳密に文字に起こした本」というと、このよ うなものしかなかった、ということも挙げられます。聞こえないと、おしゃべりの微妙な言葉づかいや「間」というものは、意識的に学ばないと身に付きませ ん。聾学校などでも、嫌というほと教えられるのですが、それでも足らない部分を、こういった本からも吸収しようとしたのです。このような「本」しかなかっ たものが、VTR になるというのは、たいへん楽しみなことです。聾協がどう言おうと、私なら即、買います。
 「ところが地元の聾唖協会が文句をいった。『あんなものは聾唖者を愚弄している』と言ったらしい。どうも、一生懸命やっている> 協会が注目を浴びないのに、市役所の若者のパートタイムボランティアが脚光を浴びたことが気に食わなかったらしかった」。これは、もう少し複雑な背景があ ります。手話には「日本語を手指で表現する」ものと「日本語とは異なる、手指での表現に適した言語」との2種類があるとされていて、聾唖協会は(地域や協 会の成り立ち方などによって千差万別ですが、基本的に)後者を「聾唖者の文化的な背景」として強力に支持している、ことになっています。
 市役所の若者が、もし前者を大々的にアピールしたとしたら、聾唖協会は立場上、反発しない訳には行かないのです。しかし、若い聾者の間では、「とにかく 通じれば良い」というラジカルな考えを持つ者が多いので、「楽しければ楽しむ」のでしょう。ちなみに、聾唖協会とは別に「中途失聴者・難聴者協会」という ところもあって、こちらの方がこと字幕に関しては、積極的です。
 結局のところ、吉本の「目からウロコ」な考え方が一般的になると、私たち聴覚障害者のためにも良いこと、と思っています。 吉本取材の続編を含め、今後の記事を楽しみにしています。【補聴器メーカー勤務】




1998年03月27日(金)
萬晩報主宰 伴 武澄


 角栄さんだけはお札にしてはならない

 かつて日銀記者クラブを担当していたとき、お札の顔が話題になった。
 「将来、お札の顔を変えるときに戦後のどんな政治家や文化人が候補に上がるのだろう」。
 そんな問題提起があって、みんな「うーん」とうなってしまった。

 「顔だけで言えば、吉田茂や佐藤栄作は絵になるかもしれない」
 「田中角栄はどうだ。将来の歴史家は負の遺産だけを書くのかな」
 「それだけはだめよ。角栄はお札そのものだから」
 「角栄さんが歴史に残るかどうか、分からないぜ」
 「文化人はどうだ。ノーベル賞の湯川秀樹とか川端康成とか」
 「そんなこといえばアーロンの本塁打記録を塗り替えた王貞治だって候補者だ」

 結論は「100年たっても価値が変わらないという意味では、候補者にさえ上らないだろう」というものだった。現在の1万円は福沢諭吉、5000円は新渡 戸稲造、1000円が夏目漱石である。みんな明治の文化人である。その前は聖徳太子が1万円と5000円、伊藤博文1000円、岩倉具視500円、板垣退 助100円。聖徳太子を除くと明治の政治家だった。みんな歴史をつくった人たちだ。

 アメリカのドルはワシントンやジェファーソンら独立の英雄たち。英国はエリザベス女王だ。香港返還で硬貨からエリザベス女王の顔が消えて香港の"国花" に変わった。EUの通貨であるユーロには顔がない。通貨は国家の顔である。王国では君主の肖像が紙幣に印刷され、それ以外では国民が認めるような歴史上の 人物が選ばれるケースが多い。

 ●平成の切手は漫画と芸能人
 一昔前、記念切手で「文化人シリーズ」があった。正岡子規とか夏目漱石、森鴎外といった文人が多かったように記憶している。悲しいことに最近の人気切手 シリーズは芸能人と漫画だ。美空ひばりや鉄腕アトムが切手になってはいけないというのではない。単なる切手の話だが、この切手の売り出したときの東京の経 済部デスクに座っていた。郵政省担当が短い紹介原稿を書いてきたとき悲しい思いがした。

 もっと他に国民が肖像にしたいという人物がいないのだろうか自問した。いまの日本には誰でもが尊敬できるような政治家や文化人がいなくなったのだろう。 それにそうした人物論を真面目に語る国民がいなくなってしまったのだろう。それともそんな論議を見出すのさえ"野暮"な時代になってしまったのだろうか。

 以前の萬晩報で日本人が貧相になった話を書いた。狭い住宅や教育が豊かさを失わせ、日常生活の中に"異なるもの"を受け入れる土壌を失った。かつて日本 人の子供たちは「誰々さんが見ているじゃない。恥ずかしいから辞めなさい」といって親に怒られた。これもあまりにも日本的な怒り方なのだが、最近ではそん な怒り方さえなくなってしまった。神を恐れるどころか他人の目さえ気にしなくなった。

 ということは他人を見る目も養われていないことになる。だからこそ切手に肖像化されるのはスクリーンやテレビを通じた芸能人か漫画の主人公だけという珍現象が起きるのだ。

 ●消えた骨太の個性

 一昨年、月刊文芸春秋で21世紀を担うニューリーダー論を特集し、新聞記者にアンケート調査した。政治家は忘れたが、経済人では稲盛和夫氏、諸井虔氏、 牛尾治朗氏とかが上位に上がっていて「なにがニューだ」とけなし合った。若手といえたのは孫正義ぐらいのもので「本当に日本の産業界は大丈夫だろうか」と 仲間内で真剣に未来を憂えた。筆者にもアンケート用紙が送付されたが、思いつかなかったから答えなかった。本当にいないのである。

 今週号の「日経ビジネス」を読んでいたら、日経新聞の吉野源太郎論説委員が「規制下に消えた骨太の個性」というタイトルでコラムを書いていた。流通業界 の専門家で中内功ダイエー会長や岡田茂三越社長、小菅丹治伊勢丹社長らの1970年代に異彩を放った経営を語っている。「成功者はみんなアウトローだっ た」というのが結論である。混迷の時代だから異端者に未来を託すしかないという主張には大いに賛成だ。

 人間40にもなれば自分の顔に責任がある

 リンカーンは閣僚の人選を顔で決めたという有名な話がある。ある人物を閣僚に推薦したとき「あの男は顔が気に入らないから用いない」といった。推薦者は 「それはアンフェアだ。顔は当人の責任ではない」といったら、リンカーンは「そうではない。人間40にもなれば自分の顔に責任がある」とやり返した。

 顔はその「内なる人」を現しているといったのは、現天皇の御教育参与だった小泉信三氏だ。一事を成し遂げた人、一芸に達した人には実際何物かが現れている。学識か、知恵か、威厳か、魅力か、親切か、実際の顔は顔の奥の何物かを語るそうだ。
1998年03月26日(木)
萬晩報主宰 伴 武澄


 景気対策は政府の仕事なのに、自民党がいま景気対策を練っている。分かりにくさを解説したい。きょう、自民党が16兆円を超える総合景気対策を決めた。きのう10兆円だったものが夜が明けると12兆円となり、夕には16兆円となった

 1998年度予算が国会で成立すると、政府はただちに景気対策のための補正予算編成に入ることになる。いま自民党の対策しか出てこないのは、予算成立以 前に補正予算を考えれば「補正しなければいけないことが分かっているのになぜ本予算を修正しないのか」という"正論"に対抗しきれないからだ。ただそれだ けのことである。

 建設公債は後々の資産になるのウソ

 問題は中味である。03月12日付萬晩報「ビッグバンで必ず金利が上がる」で 日本は、92年から95年まで66兆5700億円の景気対策を実施したことを報告した。日本の景気対策はいつだって公共事業が柱だった。減税だと赤字国債 を発行しなければならない。だから政府は「減税は単なる借金」とし、公共事業なら同じ借金でも「ダムや道路など後々に国民の財産として残る」から公共事業 の方がいいという理屈だった。

 だが必要もないダムは環境を破壊するばかりで財産とはいえないし、年に何回も道路をはがして埋めるような工事も財産にはならない。かえって交通渋滞を招くだけである。港湾設備など維持費がかかって将来に渡って地方財政の負担だけになる施設も少なくない。

 大蔵省の役人の頭のなかでは建設国債と赤字国債とは異次元のものかもしれないが、国民からみればどちらであっても返済しなければならない借金でしかない。それが常識感覚である。マスコミも小利口に建設国債と赤字国債の違いを論じるのを辞める時期にきているといえよう。

 公債発行増が円安を招き金利が上がる

 昨年来のアジアの通貨危機に対してIMFやアメリカは、各国に緊縮財政を求めた。簡単に言うと「近代化を急ぎすぎて借金をしすぎだ」というのが先進国側 のアジアに対する姿勢だ。国の経済力以上の借金をしたから通貨価値が下落し、為替を維持するために金利を上げざるをえなかったとも批判した。借金ー通貨下 落ー金利高ー景気悪化ーという悪循環に陥った。そこにさらに緊縮財政を求められているのだから、アジア諸国は立つ瀬がない。

 日本の場合も「景気悪化ー借金増」だけで終わるのか心配である。国の力以上に借金すると通貨価値が下がることは昨年来、アジアで目の当たりにした。政府 は4月の外為法の規制緩和でも国民のお金が国内から逃げ出さないということを前提にまた大きな借金をしようとしている。ここが怖い。国民のお金がどんどん ドル預金に置き換わった場合、金利が安い円資金はなくなる。国民の金融資産が1200兆円あったとしてもそのうちドル建て国債を発行するか、金利を上げて 外国に逃避した資産を呼び戻さざるをえなくなるだろう。

 やっぱり、金利は上がらざるを得ない。国債増発が金利上昇を招くと考える方が常識に合っている。

 参院選しか視野にない自民党

 そもそも、まじめな多くのサラリーマンは景気対策など求めていない。仮にやるなら無駄な公共事業よりも減税の方が効果があると思っている。税金を支払っ ていない人はともかく、減税の方が国民に平等に効果が行き渡るというものだ。自民党が16兆円を持ち出したのは7月の参院選を意識したものでしかない。そ して公共事業を柱にしたのは農村票を期待しているからだ。

 わが郷里の高知県では23日に県会議員補選があり、共産党と無所属の候補が二つの議席を確保した。自民党は全滅した。高知県 は典型的な地方型選挙が展開されるところである。投票率が29%と低かったことも影響したが、その高知県で自民党が一つも議席を取れなかったことは、何を 意味するのだろうか。

1998年03月25日(水)
萬晩報主宰 伴 武澄


 筆者は京都に住んで大阪に通っている。通勤時間は1時間は優に超える。近くに住めないからではなく、贅沢を味わうためわざわざ京都に居を構えた。時間に 余裕ができると京都企業を訪問するようにしている。一口に関西と言っても神戸と大阪と京都はまったく違う。02月17日に 「バブル時に一人ファイナンスを我慢した名門企業」と題して村田製作所という京都の企業を紹介した。こんどは堀場製作所だ。

 京都企業の特徴は、京セラや任天堂、ロームを見るまでもなく他に追随を許さない独自製品やユニークな経営方針を持つことだ。規模を追求せず、シェアを取る。結果として高い収益力が身に着いた。日本企業が得意とする横並び的発想はない。

 アメリカで認知された環境関連技術はいま追い風

 堀場製作所の主力製品のひとつは自動車の排ガス測定器。昨年12月、京都で世界環境会議が開催され、マスコミの取材攻勢を受けた。40年前から培ってきた測定器の技術がいま世界的な環境問題への関心の高まりを追い風にしている。

 堀場が世界に認められるきっかけとなったのはまたまたアメリカだった。カリフォルニア州の大気汚染が社会問題化し、たまたま堀場が得意としていた「比較 法」という大気の測定方法が、1970年代に環境保護庁(EPA)に認められた。アメリカでの評価が「日本に逆輸入された」というケースはなにも堀場に 限ったことではない。

 堀場は戦後まもなく、京都市内で「堀場無線研究所」として産声を上げた。多くのベンチャー企業と同様、たった4人でのスタートだった。創業者の堀場雅夫 現会長は終戦後、京都大学で原子核融合を研究していた。やがてやってきた進駐軍が「日本にこんな研究はいらない」と設備をそっくり取り上げた。食い扶持を 失ったのが起業のきっかけとなった。悔しさをバネにした。

 堀場もまた、京都的経営を貫く。国産初のガラス電極phメーター、赤外線分析計などを次々と開発する。日本が貧困にあえいでいた時期である。赤外線分析 計は、人間が呼吸するときに排出する二酸化炭素の量を測る機械である。赤外線を応用した「比較法」は世界で堀場のほか、米国のもう1社しか手掛けていな かった。主流だったガスクロマト法に迎合しなかったところに、現在の発展の原点がある。

 1964年、自動車排ガス測定装置を開発し、翌年、販売を開始した。自動車車検場への納入はまだ先のことである。相次いで排ガス測定器の新製品を生み出 すが、日本でまだ「公害」という言葉がマスコミに認知されていなかったころである。1970年に米国で合弁会社を立ち上げ、矢継ぎ早にドイツにも販売拠点 を確保した。

 「気体」の測定から始まり「液体」「固体」へとその測定分野を広げた。時代が堀場を追いかけたといっても過言でない。現在の課題は昨年、買収したフラン スの医療関連のインストルメント社を軌道に乗せることと、アジアでの事業拡大である。アジアは自動車向けだけでなく、昨年夏から秋にかけて浮上した「煙 害」への対応もある。豊かさを増したアジア諸国にとって、国民の健康問題は避けて通れない課題となっている。

 地域で育つアカウンタビリティー

 世界に根ざした地方企業に共通していることは、オーナー経営が続いていることである。オーナー経営に関しては、ダイエーや松下電器産業など「経営の世 襲」が問題視される傾向が強い中で、オムロンや村田、堀場が注目されるのは一方で求められている「アカウンタビリティー」をしっかり保っているからであろ う。

 サラリ-マン社長になくてオーナー経営にあるメリットは、トップダウンによる迅速な意思決定とこのアカウンタビリティーである。社員だけでなく、常に株主への配慮も欠かさず、経営に目を光らす。これは地域に根ざしていることにも起因している。

 独自の製品を持ち、独自の経営方針を貫けば、横並び的世界である東京に本拠を持つ必要はない。逆に地方に拠点を持つ最大の利点は「トップが業界団体の会 合や官僚とのつき合いに煩わされることなく経営に専念できる」ことである。従業員にも長時間の通勤などよけいな負担をもたらすことがないし、生活にゆとり を取り戻すことができる。

 堀場は「おもしろおかしく」を社是としている。「人生の半分を過ごす会社での時間が"おいしく"、有意義でなければ、人生が楽しくない」と説明する。言うは易しであるが、実践は難しい。そういえば、堀場は月1回だが週休3日制をいち早く導入した企業でもあった。


1998年03月24日(火)
萬晩報主宰 伴 武澄


 家に帰って家族と一緒に笑いたい

 昨年、お笑いの吉本興業が耳が不自由な人たちに楽しんでもらおうと「字幕漫才」を興行した。漫才の語りに合わせた日本語の字幕が舞台のそでで表示される から、健常者と一緒に笑いを楽しめる。あほを売り物にしてきた吉本として「社会貢献のひとつぐらいやったろやんか」という軽いノリだった。どっこい、これ が好評だった。こんどはVTRテープになる。同社の企画開発部の田中宏幸氏の話である。

 「これをVTRテープにして。家に帰って家族と一緒に笑いたいから」
 ある女性の声が吉本を動かした。というより企画開発部が感動した。
 「耳の不自由な人たちは寄席とか漫才とは無縁と考えていたんですよ。われわれは。目からうろこというんでっしゃろか。これ」
 5月にもこの字幕漫才のVTRテープができあがる。これからが吉本である。関西の大手家電の労組の人と話をしていて、1500円ぐらいで販売すれば売れるかもしれない。1万本も売れば元も取れると考えた。

 さっそく日本聾唖協会に推薦文をかいてくれるよう頼んだら、みごと断られた。「聾唖を売り物にしてはいけない」といったらしい。

 吉本は、耳の不自由な人々を餌食にしようなんて考えているのではない。だれでもがお金を出して楽しむ漫才だ。身障者に対価を求めてなにが悪い。言葉は乱 暴だが、そんなごく自然な発想から1500円で販売しようということになったらしい。筆者は発想の奥深さを感じた。そもそも、ただのものは面白くないし、 貰い物は一生懸命に読んだり見たりしないのがふつうだ。健常者だって障害者だって同じだ。

 「字幕漫才VTR」が本当に商売ベースに乗ればすばらしい。売れるから次々に新作も生まれるだろうし、障害者はもっともっと笑いに接するチャンスに恵まれる。これこそ目からうろこというものだ。

 手話ダンスは聾唖者を愚弄するものだ

 吉本の字幕漫才の話を聞いて、かつて高松支局に勤務していた時代を思い起こした。市役所の若者が「手話ダンス」なるものを考案して、休みごとに公演した。ダンスの振り付けに手話を加えて、歌詞を理解してもらいながら音楽が持つ「リズム」を体全体で表現した。

 このボランティア活動を記事にした。地元の四国新聞にも大きく載った。ところが地元の聾唖協会が文句をいった。「あんなものは聾唖者を愚弄している」と 言ったらしい。どうも、一生懸命やっている協会が注目を浴びないのに、市役所の若者のパートタイムボランティアが脚光を浴びたことが気に食わなかったらし かった。

 公演を"聞いていた"耳の不自由な若者たちは、体を揺らして楽しそうにみえた。協会の人はどうして「よかったね」と一緒に喜んであげられないのだろうかと考え込んだ。日本の障害者問題は、ひょっとしたら障害者団体の人たちに内在しているのではないかとも考えた。

 ただものでない吉本という集団

 とにかく吉本は常に新しい笑いの世界を作り出そうとしてきた。その先に、字幕漫才もあった。でも苦労が多いらしい。漫才では「耳よりな話だ」など、ほか の言葉で言い換えられない慣用句がどうもたくさんあって、これを字幕にするのに四苦八苦しているらしい。聾唖協会には「禁句」が多くてと嘆いていた。田中 さんの話を聞いてから吉本という集団はただものではないと感じ始めている。

 島田伸助は「元暴走族」で売り出して成功した。本当にそうだったのだが、当時、漫才家養成講座を開設したら「受講者は暴走族ばっかりになった。落ちこぼ れが真剣に俺も伸助みたいになりたいといって、これにはまいった」そうだ。でも吉本に現在の教育が忘れているなにかがあるような気がしてならない。機会が あったらもうすこし取材してみたい対象だ。
1998年03月23日(月)
萬晩報主宰 伴 武澄


 SGマークという亡霊が生きていたことが分かった。日本の製造業がまだ粗悪品を製造していた時代に生活者の安全を守るために国による安全基準がたくさん 生まれた。SGマークはその一つである。日用品や運動用具を対象にいまから24年前に導入し、通産省の外郭団体である製品安全協会が決めた基準をクリアし た製品にSGマーク入りのシールを貼って品質保証した。

 PL(製造物責任)制度が導入されて3年にもなる。消費者は製品事故に対して直接メーカーを訴えられるようになり、政府の庇護はもはや必要ない。だから SGマークなどはよもや存在しないのかと思ったら、どっこい生きていた。しかも対象の製品は5年前の99から110に増えていた。ベビーベッドや老人用杖 などどこに"安全基準"が必要なのか分からない製品からシール代を取って天下り役員を受け入れ続けている。

 なんでいまさら品質保証マークにコスト

 1993年秋、円高が進み内外価格差がどんどん拡大していた。背景に日本の基準認証を中心とした許認可に対する批判が高まり、1万数千件に及ぶ許認可の 整理が政府の課題となった。当流通担当だった。知り合いのメーカーの人から聞いた「SGマーク」の在り方を問うべく取材に入った。

 プレー中にゴルフ・クラブが折れて、怪我をするケースがあった。さっそく通産相が「消費生活用製品安全法」に基づく「特定製品」にゴルフクラブとシャフトを認定した。寸前のところでゴルフクラブもSGマークの歯牙にかかりそうだった

 スポルディング・ジャパンに電話取材すると担当者の怒りの声が伝わってきた。

 「ゴルフ・クラブがSGマークの対象に認定されたから、協力してほしいと業界団体から話があって、頭にきているんです。なんで今ごろなんでしょうか。製 造工場で安全性試験をしたうえで出荷する商品になんでいまさら品質保証マークのためにコストをかけなければならないんですか。小売価格の0.5%を支払っ てSGマークのシールを買ってくれというのですよ」

 業界団体の日本ゴルフ協会に電話を入れると「業界ではクラブの折れやひねりなど強度に安全基準をつくることに異論はないはずです」とすでに業界は了解済 みのように話した。通産省が無料でやってくれるのならともかく、スポルディングなど外国メーカーが強硬に反対し、ゴルフ・クラブへのSGマーク導入は失敗 に終わった。

 だれもスキー板に付けなくなったSGマーク

 SGマークは1986年には貿易問題にまで発展したいわく付きの制度だ。スキー板に導入しようとしたとき、ロシニョールなど欧州メーカーが非関税障壁で あると反発した。これに対して通産官僚が「日本の雪質はアルプスと違う」と抗弁して失笑を買った。欧州側はスキー先進国が加盟する国際基準(ISO)の基 準をクリアしていれば十分だ、と主張したため、通産省はSGマークの安全基準を大幅に緩和した。当初は通産省に従った国産メーカーでさえ数年経つとだれも SGマークなど付けなくなった。

 規制緩和は20年にもわたる官と民との闘いだった。これまでどれだけ政府が規制緩和策を打ち出したかしれない。しかし、日本社会はどうもなにも変わって いないのではないか。そんな気がしてならない。過去十年間ぐらいのレンジで政府が約束した規制緩和がどこまで実施に移されたか、われわれは検証しなければ ならない。民が独り立ちしなければならないのに、だれも独り立ちしようとしない。忘れっぽい民族性こそを打破する必要がある。


1998年03月22日(日)
萬晩報主宰 伴 武澄


 20万円以上はすべて"公開入札"

 「アメリカの監査役と日本のそれとの最大の違いは、監査役がみんな会長直属だということです。監査の結果は会長だけに報告し、ほかのだれにも報告する義務を負いません。もうひとつ違いは、取引先も監査対象となっていることです」

 フィリップモリスの日本法人の監査役に話を聞いたことがある。オーストラリアから年に何回かやってきて社内を調査する。アメリカの監査役が会長直属であ ることは驚きではない。監査報告が社内で歪められるのを防止するためだ。だが、取引先が監査対象というのは理解できなかった。

 「どうして、取引先まで対象となるのですか。よく相手がそれを許しますね」
 「相手企業のすべてをのぞこうというのではありません。うちの社員が取引先からリベートを取るなど不正取引の疑いがある場合に協力が必要だからです」
 「それって、日本でもやっているのですか」
 「当然です。契約書に一項目盛り込みます。フィリップモリスの日本法人は、製造、販売をやってませんので大きな取引先はほとんどが広告関係ですが、たい ていの日本企業は契約書に盛り込まれているのに気付かないのですよ。さすがなのは電通さんです。はじめに気が付いて『うちは監査を認めません』と言ってき ました。だから電通との契約書だけはこの項目を抜いてあります」

 この話は数年前に聞いた。だから状況は変わっているかもしれない。相手企業の監査はアメリカではほぼ常識化しているとも言った。この会社では、20万円 以上の物品やサービスを購入する場合、必ず複数の相手に見積書を出させ、価格が高いものを買う時にはそれなりに説得力を持つ理由を添付しなければならない という。"公開入札制度"である。ここまで話を聞いて「ウーン」とうなった。

 企業内でここまで透明性が必要か大いに議論があろう。アングロサクソンはこういう手法で、社内倫理の確立を図ってきたのである。いつから導入されている のか聞きそびれた。社員同士でもお互いがチェックできる仕組みをつくっておいて、なにかあった場合に備えているのだ。日本では到底、受け入れられないだろ う。

 二日酔いが検出されると即、クビ


 世界最大の石油会社であるエクソンの役員には、ドラッグと酒に対して抜き打ち検査がある。全世界が対象だから日本法人であるエッソ・ジャパンも同じである。日本法人役員から聞いた話である。

 「ドラッグまたは酒が検出されると即、クビです」
 「えっ。じゃあ、二日酔いのときはどうするんですか。検査が抜き打ちなので休暇を取って休みますよ。怖いですから」
 「なんでそんな厳しいことになったのですか」
 「アラスカ沖でエクソンのタンカーが座礁して環境汚染したときからの反省です。そのときから船員に対してドラッグと酒の抜き打ち監査を実施するように なったのですが、船員に対してだけ厳しい検査をするわけにはいかないということで、少なくとも役員も同じ検査をして綱紀粛正を図ろうとしたのです。そ りゃ、厳しいです」

 役員の言葉には実感があった。

 10年前なら「アメリカは自分の企業の社員を信用しない、なんとも寂しい社会だ」と思ったに違いない。だがここ数年、相次いで明らかにされた日本の金融機関の不祥事を振り返ると、日本はよっぽどぬるま湯にひたってきたのではないか思えてくる。


1998年03月21日(土 )
萬晩報主宰 伴武澄


 1998年03月11日付萬晩報 「プリウスの衝撃-電気自動車普及への近道」に も多くの感想やご意見をいただきました。路上で二酸化炭素を出さなくとも発電所で出せば、一緒だという意見が多かったが、ガソリンのエネルギー交換率が 35%程度といわれるのに対して、モーターは90%以上です。発電所での90%を超す交換率から5%程度の送電ロスを差し引いても電気自動車は二酸化炭素 抑制に効果があると思います。以下、読者の声を掲載します。

 電気自動車に二酸化炭素抑制効果はない

 「電気自動車普及への近道について」の件は少し意見をします。まず電気自動車ですが、二酸化炭素の排出に関しての効果は見込めないのじゃないですか?走 行中は二酸化炭素を出しませんが、電気を起こす時に二酸化炭素を出します。発電がすべて原子力にならば別ですが、火力発電で電気を起こし、それで走行する 電気自動車は途中のパワーロスが大きい分、一説によると通常のガソリン車より二酸化炭素の排出が多いのです。だから電気自動車が増えれば良いと言う物では ないのです。

 プリウスですが、これは見事にイメージ付けに成功している商品ですね。ハイブリットで50%も効率を稼ぐのは、少し無理だと思いませんか、発電ロスは 60%、モーターが70%ぐらいしか力量が出せませんので、電気で補助できる力は28%になりますね。外部からのエネルギーの供給が無いので、アイドリン グの分を割り引いたとしてもせいぜい40%オフが良い所でしょう。どこかで数字のマジックが使われていますね。証拠に燃費が公表でリッター28キロで しょ、本田のCVCCや三菱のGDIとそんなに変わらないじゃないですか。

 燃費、イコール炭酸ガス排出量と考えると、特筆するほどの効果はないはずですね。その上5年後にはバッテリーがゴミとなりますね。5年後にゴミが出る分 環境に悪いのじゃないですか?本当に環境の事を考えるなら、低エネルギーのCVCCやGDIの軽自動車が現時点の技術ではもっとも環境にやさしいはずです が、儲からないから出ませんね。環境より経済を優先しているのでは環境問題は解決しません。

 トヨタのエコプロジェクトの目玉として出したプリウス、しかし大排気量のデーゼルを平気で販売している事を考えると、本気で環境問題に取り組むつもりは なく、企業のイメージのアップの為のみにやってるしか思えませんね。本当に環境を考えるなら大排気量エンジン車は全廃するぐらいの気概が欲しいですね。
 (中略)  環境問題は本当に始めなければ人類の生存に関わる所まできています。経済よりも人類の生存の方が大切だと思うのですがね。
 欧米よりゆるい大気基準、ガソリン車は国際基準で規制をかけるのに、野放しのディーゼル、都市部での販売を自粛させたのは環境庁で悪影響がある事を認識 したのでしょうに、何故地方ではそのままで販売を許可するのか理解に苦しみます。まぁ自動車協会やトラック協会あたりに環境庁のOBがいてるのでしょう、 深夜のトラック便が取り締まれないのもそのせいですね。
 本当に、二酸化炭酸の排出をへらすつもりはあるのでしょうか?自分らの利権や利益供与、天下りで本当に規制すべき所を見逃して、一般国民に「エネルギーを使わないようにみんなで努力しましょう」じゃ環境問題は良くなりませんね。【匿名】

 自動車評論家ほど理解していない重要性

 プリウスの重要性は、いわゆる自動車評論家なる凡人俗人ほど、理解していないようだ。評論家は未だに燃費や乗り心地、加速性などと通常のクルマに対して のみの通り一辺倒の評価しか下していない。この革命的乗物プリウスの重要性は、むしろ一般消費者の認識が高く、次にメーカー、そして国などの公共機関、最 後に評論家だ。私はトヨタとはなんの関係もないが、この車を語るにふさわしい言葉をいくら自動車雑誌などで探しても、みつからないでいる。【東】

 自分の町だけがきれいになるのでは都合が良すぎる

 電気自動車の「電気」のもとをお考えになったことがありますか?貴殿は効率(スタートには高トルクのモーターがいい)とお考えのようですが、ほとんどの人の感想は自分の住む町の空気がきれいならばそれでいい、というのはちょっと都合が良すぎると思うのですが。【匿名】

 ディーゼル車を優先しなければ無意味

 今回は記事としての情報が皆無である。感想意見を羅列します。
 1.電気自動車の普及を阻害する最大の要因は、充電時間がかかることである。いったん燃料切れした場合、次の走行まで何時間もかかるのでは、安心して車に乗れない。次に蓄電池の性能、価格である。
 2.量産が軌道に乗れば、価格が下がるのは誰もが知っている。モーターショーに展示されるコンセプトカーでも億単位のものは、ざらである。
 3,.充電時間の解決策として、水素を利用する燃料電池による電気自動車が最有力視されている。(水の電気分解の逆を利用する)開発に力を入れ進んでいる会社として、トヨタとメルセデスが有名である。
 4.自動車の環境問題を考える場合、その支配的原因であるトラック等ディーゼルエンジン車を優先して考えなければ無意味である。(例えていえば、原因の 10%のものを90%減らしたところで9%の改善にしかならないが、90%が50%の改善を行えば、45%の改善になる)この意味で、ディーゼルエンジン 車を後回しにし、自家用車の規制を優先する、通産省の新たな排ガス規制に反対する。環境対策ではなく、アジア産自家用車への非関税障壁の意図が伺える。
 5.NOxの削減効果は評価する。CO2はエネルギー問題を環境問題にすりかえる情報操作と考えている。エネルギー問題解決の第一歩として評価する。
 6.プリウスが電気自動車用蓄電池量産の道を開いた意味が大きい。電気自動車実用化のスケジュールの第一歩として有効なことは言うまでも無い。
 7.静粛性、振動の少なさも、もっと評価してよいのではないか。騒音問題も大きな問題である。ロードノイズの改善。このための道路自体の問題も、考えるべき時にきている。【匿名】

 ハイブリッドこそ環境配慮車

 電気自動車であればなんでもよいのではないと思っています。環境に配慮した電気自動車というのはプリウスのようなハイブリッドである必要があるのです。 第1に電気を作る大発電所または原子力発電所の建設にコストがかかる。安全性に、送電にコストがかかる。また大量の地下資源を消費するわけでです。次にエ ネルギーの利用からみれば一次エネルギーを電気に変えて、その上動力にするというのは、効率の面からみれば全くどうしようもない。まるでどっかのお役所仕 事と同じなのです。第3に電気自動車が普及すると消費電力総量がますます増加して、さらなる発電設備を必要とする。そのための住民の合意が必要になったり する。新たな発電所が環境問題などを引き起こす。電気自動車の普及は一見クリーンにするようですが、そのためのエネルギーを得るのに地球にどれほどの損害 を与えていることになるかはかりしれません。その点、プリウスのすごいところはガソリンを使って動いたことによって得られたエネルギーを電気に変えるので す。少なくとも一次エネルギーの消費量は格段に減り、その上電力を消費することもない。この点がすごいのです。【匿名】


1998年03月20日(金)
萬晩報主宰 伴武澄


 日本市場に風穴を開ける

 台湾資本のポリエステル加工糸工場が2月、石川県高松町の工業団地で操業を開始した。日本の繊維業界が「斜陽」といわれて久しい。その斜陽市場に台湾企 業が進出した。筆者はニュースだと思う。だが、筆者が籍を置く共同通信社を含めて大手メディアはあくまで県版ニュースに押し込めている。

 企業名は「山越」。日本名だが台湾合繊大手の一角である「華隆」が出資した。社長の山中友希氏は繊維機械の村田機械からスカウトされた。ポリエステル加工糸は年産700万トンからスタートし、9月には2000トンに能力アップする。

 日本のポリエステル加工糸の国内消費量はほぼ1万トン。その2割を生産する工場が国内最大産地の一角に忽然と現れるのだから、東レだとか帝人は心中、穏 やかでない。しかも国内の加工糸は海外市況の2割高である。台湾企業が国際価格で加工糸のユーザーに売り込めば、こちらも複雑な心境になる。

 合繊は、栄光ある撤退を決め込み、事業廃棄に当たっては通産省から手厚い加護(補助金)を受けてきた業界だ。ボクシングでいえば、相手に致命傷を与えないようプロテクターをたくさん着けてリングに立ち続けてきた。北陸ではそんな試合が2月から突然、裸のルールになった。

 一度、取材に行きたいのだが時間がない。業界紙が伝える事情によると北陸産地は「昨年秋まで好況だった加工糸市況は年明けから一変した」「9月の"台風 の目"が本格稼働する前に市況はすでに暴風雨圏に入った」と報じている。山中社長は「自家発電などで徹底的にコストを下げる。その上に適正利潤を乗せて販 売する」と強気だ。2月13日付繊維ニュースは「山中社長には、国際市況から2割程度高いとされる日本の市場に十分風穴を開けられるとの読みがある」と判 断している。

 台湾企業に感謝すべき北陸産地

 1980年代からどこの自治体でも「国際化」と「文化」を掲げた。結果、多くのきらびやかな国際会議場や美術館の建設が相次いだ。美術館には展示するも のはない。学術員や研究員が不足しているから何をしていいいのか分からない。国際会議場でお年寄りのカラオケ大会が開かれるなどという笑えない話が続出し た。

 アメリカでは1960年代以降、多くの欧州企業が上陸した。80年代には日本企業が、90年代にはアジア企業が既存企業の買収などを通じてアメリカに新 境地を開いた。台湾繊維最大手の南亜はアメリカでの企業買収で成功し世界の五指に入った。ブリヂストンはFireStone社の買収で単なる国内メーカー から世界有数のタイヤ企業に成長した。

 日本では、国際化が叫ばれながら企業どころか、土地も売り渡さなかった。海外勢の新規参入にはあらゆる手段で待ったをかけた。その結果、カネもヒトも 入ってこなかった。80年代後半からは円高でドル建て価格が上がり、日本の土地や企業はさらに手の届かないものとなった。マスコミは日本パッシングと騒い だ。

 そんな日本に台湾企業がやってきたのだから本来、日本は諸手を挙げて歓迎しなければならない。誰も買ってくれなかった日本に買い手がついたことを喜ばなければならない。国内でも製造業が成り立つことが実証されれば、この台湾企業に感謝しなければならない。

 先週、大阪で英国ウェールズ州開発庁主催の「St. David's Day を祝う会」が開かれた。州選出の上院議員まで来日、日本企業の投資に感謝した。炭坑しか産業を持たなかったウェールズが復活したのは外資のおかげであるこ とを何度も強調した。投資額ではアメリカに次いで日本が二番目に多い。

 日本企業は松下、シャープ、日産自動車など電子、自動車、化学と広範囲な分野で成功を収めている。日本企業が繁栄し、ウェールズ州の経済も復活したこの手法に経済企画庁が密かに関心を高めている事実がある。いま自治体が考えるべきことは外資の誘致だ。

 国際会議場の完成で酔っている場合ではない。東京で陳情合戦を繰り返す時間とカネがあるのならば、知事自らアジアを中心に海外を回って頭を下げるべきで ある。海外から新聞記者を招いて県内を案内して回るべきである。体力をなくした日本の大企業がやってくる可能性はもはやないと覚悟したほうがいい。 


1998年03月19日(木 )
萬晩報主宰 伴武澄


 住宅不況だという。年間150万戸あった住宅着工件数が1997年度には120万戸に落ちるからだ。150万戸という数字は、人口が二倍のアメリカの住 宅着工件数を上回る水準だ。前々からアメリカ並みなら日本の住宅着工は70万戸が適性水準だと思っている。いったい誰が150万戸などという常識外れの水 準を日本に定着させたのだろうか。

 今回は、日本の国民が払っている住宅ローンについて考えた。一昨日、大和銀総研のアナリストと飲んだ。若い頃は銀行員だった。

 10数年前は20年までしか貸してくれなかった

 「住宅ローンの35年っていくらなんでも長すぎるんじゃない」
 「そういえばそうです。僕が支店にいたころは最長20年だったですよ」
 「そうだろう。俺は住宅金融公庫が1980年代後半に始めたのを知っている。俺が89年にマンションを買ったとき、すでに35年だった。マンション業者 は公的融資を目一杯借りてしかも35年で返済する条件で月々の支払額を計算してくれたから、そのまま契約したんだ。まだ疑うことを知らなかったんだ。でも 入居してから毎晩、帰宅する度に目にする小さな光の空間に35年間も払い続けるのか自問した。当時、36歳だったから71歳という年齢を想像したんだ」
 「それってすごい発想ですよ。だれもそんなことは考えない」
 「まあ、黙って聞いてよ。すぐに借金地獄から出ようと考えたんだ。妻は老後どこに住むのよ、なんて言い出すから悩んだ。でも道理の合わないことはいやだとう生来の気性がだからしかたない。ままよと売却に出した」
 「当時だったら、それってキャピタルゲインになったんでしょう」
 「だから銀行マンはいやなんだ。道理の話をしているんだ。売った後で住宅金融公庫は詐欺だって考え出したんだ。だってそうだろ。バブルで住宅価格が高騰 して買えなくなったから、融資金額は増やすは返済期間は長くするはで、もう売らんかな一色だった。そうそうステップローンなんて詐欺の上塗りもした。元利 均等払いというのも大きな問題だ。新規売り出し物件の倍率は天文学的で、国民ももう買えなくなると思って焦った。これ焦らせたんだな」
 「それほどの意図が政府にあったかどうか」

 広大な港北ニュータウンを即売しなかった公団

 「まあ、意図はあったかどうか知らんが、結果的に焦った。前に賃貸で住んでいた鷺沼の南方には住宅公団の港北ニュータウンがあった。広大な空き地だっ た。本当にタヌキが住んでいた。多摩ニュータウンと同じでマンションなら何十万人も住める空間だ。なんで一挙に売り出さないのだろうと思った。一挙に売れ ばあの時、地価高騰は絶対に防げたのだと思うぜ。政府も値上がりを待っていたんだ」
 「いやー。知らなかった」
 「そのときもう銀行員だったんでしょ。知らなかったではすまされないよ。1988年だったと記憶しているが、政府は地価対策で何したか覚えている?中央 官庁の組織の一部地方移転だ。北区にあった母校の東京外大も対象になったのはいいが、調布に引っ越すってんだ。那須高原とか富士の裾野なら分かるけど、東 京のサラリーマンは川越だとか土浦だとかでようやく買えるかどうか議論していたんだ。それでもさっさと引っ越していればまだしも外大は今年ようやく移転す るんだ」
 「ローンの35年の話はどうなったのですか」
 「そうだった。政府が国民に借りる長期国債は10年。アメリカでも30年だ。それより長い貸し出し期間って民間で考えられますか。定年までに払い終える には25歳で購入しないと間に合わない。あのとき、住宅金融公庫が35年を言い出さなければ、結局だれもマンションを買えなくなって地価高騰は自律的に止 まったはずだと思う」

 2、3年住宅を買うのをがまんしよう

 「お言葉ですが、地価高騰に火を付けたのは東京が国際金融センターになるって急激にビル需要が増えたからじゃないですか」
 「前向きの議論をしているのに。火付け役はそうであってもサラリーマンの悲劇はそうでないんだ。1990年代にサラリーマンが暗くなったのはほとんど住宅問題に起因している。最近の女性問題も少年犯罪もひょっとしたら遠因は住宅かもしれない」
 「35年ローンはどうすればいいんですか」
 「うん。それでだ。少なくとも公的なローンを1日も早く最長20年、できれば15年にすればいい。乱暴かもしれないが、2、3年国民が住宅を買うのをが まんすればいい。売れなければ地価は下がり、不動産会社も住宅メーカーも買える価格帯の住宅を供給しはじめる。景気はどうなるかって。そんなことは知らな い。年間150万戸なんてめちゃくちゃな水準の着工件数を早く常識的な水準に下げなくては不幸が続く」

 議論は延々と続くので今回はこれでおしまい。


1998年03月18日(水)
経済ジャーナリスト 伴武澄


 都村長生氏の著書「なんしょんな香川」を読んでいて1994年の暑かった夏を思い出している。農水省の記者クラブで毎夜、遅くまで仕事をしていると事務次官がよくやってきて農業談義をした。ある夜のこと、話題が香川県の水不足に及んだ。

 「俺は讃岐の丸亀の出身で、親戚が多く水不足で悩んでいる。さっきもペットボトルの水をたくさん宅急便で送ったところだ」

 1日の給水が5時間で夜間は完全ストップ。官公庁は冷房をストップし、家庭ではバケツでトイレに水を運んだ。ペットボトルで間に合うはずもなかったが、 事務次官でなくとも香川にペットボトルの水を送った人は多かったはずだ。香川はもともと降雨量が少ないところに、水源の四国山脈でも雨が足りなかった。天 災である。だれもがそう思って同情した。

 香川砂漠は人災だった

 だが、都村氏は「香川砂漠は人災だった」と主張した。香川県が命の綱とする香川用水は徳島県の阿波池田市付近で吉野川から引いている。香川県の市民は水 不足に約半年苦しんだ。この間、徳島県側ではただの一度の給水制限もなく何事もなかったかのように過ごした。ともに吉野川を水源にしている。調べていくう ちに真相が分かってきた。

 実は1976年、吉野川上流に早明浦ダムを建設したとき、香川県と徳島県のとの間で給水の配分が決まった。吉野川の既存の年間水流7.72億トンは徳島 県のもので、早明浦ダムの完成によって増えた6.57億トンについて徳島4.1億トン、香川2.47億トンとなった。結果、徳島は計11.82億トン、香 川は2.47億トンとなった。

 5対1である。配分の理由は分からない。とにかく県が違うだけで分け前が違っていた。この不平等に配分された水はさらに生活用水(厚生省所管)、工業用水(通産省所管)、農業用水(農水省所管)の三つに細分化されていた。

 都村氏によると、香川は年間6億トンの水を使い、徳島は5億トンが必要とされる。そもそも配分としてはあまりに不公平だった。だから香川県知事は徳島県 に余っている水を分けて欲しいと懇願した。徳島県は水利権を盾に「ノー」と言った。自治体のお役所にとって水の配分は神聖不可侵らしい。

 徳島県側の水が涸れていたのではない。そういえば早明浦ダムの水位が日々下がっていった様は、テレビニュースで全国に放映されたが、吉野川が干上がった 映像はなかったと記憶している。都村氏は「極論すれば、吉野川のアユを助けるために高松市民30万人は毎晩バケツで水汲みしたことになる」と結んでいる。

 香川県にない地元の話題

 都村氏は「なんしょんな香川」で、水の問題から行政の在り方を問いただした。「余っているのに飲めぬ水、車の走らぬ高速道路、人の渡らぬ大橋、誰にも買 えぬ土地、人の泳げぬ海。いったい行政は何をしてきたのでしょうか」と。マッキンゼー・ジャパンと経て、1991年からコーポレート・メタモルフォシス・ アソシエイツを主宰。中堅企業のリストラを事業化してきた目から地方行政にイエローカードをたたきつけた。憤懣は行政から一切、レスポンスがないことだ。

 最近は故郷の香川県に戻り、四国新聞の客員論説委員として精力的に県の意識改革のために筆を執っている。「なんしょんな香川」はパートⅡ(教育編)、 パートⅢ(福祉・医療編)と続いている。きっと「香川」をほかの県名に直せば、どこの自治体にでも共通した問題だ。都村氏のような人がほかの自治体でもど んどん出現することを期待するしかない。

 ちなみに出版元は高松市本町9-29、ホットカプセル。田尾和俊社長があとがきを書いているが、これもおもしろいので最後に紹介する。

 「最近私が巷の雑談でよく聞いた社会派の話題をいくつか挙げてみます。
 住専、オウム、震災、トンネル事故、エイズ訴訟、TBS、沖縄、野茂・・・・・
 フランス核実験、台湾選挙、竹島、大和銀行
 1行目は全国的な話題。2行目は世界的な話題。3行目に地元香川県の話題がくるはずなのに、ないのである。何人かが集まって雑談している時、香川県の話がほとんど出ないのである」

 この嘆きもわたしたちのどこの都道府県の住民にも当てはまる。筆者は「なんしょんな香川」を読み終えて、ひょっとしたら何もしなかったのは農水省だったのではないかと考えた。農業用水を香川の生活用水に回すことができたのではないかと。
1998年03月17日(火)
萬晩報主宰 伴武澄


 輸入鋼材を取り扱わない暗黙の合意

 世界的に批判される日本企業の横並び体質は1950年代に鉄鋼業で芽生えた。独禁法の導入以降、企業同士で生産量や価格を調整することが禁止された。だ が、戦後日本では通産省による「指導」という形で生き延びた。「需要のパイが年々膨れる成長期にはある程度シェアを守りながら、それぞれが規模拡大する発 展形態は産業の秩序を守る上で重要だった」というのが政府や鉄鋼側の言い分である。

 通産省が四半期ごとに発表する「需給見通し」は、大手鉄鋼メーカーへの事実上の「生産調整指導」である。業界がやれば独禁法違反だが、通産省がやれば問 題ない。だが3カ月ごとの発表風景はどうも通産省の影が薄い。発表場所は東京・大手町の経団連会館内の日本鉄鋼連盟の会議室だ。発表者は通産省の鉄鋼業務 課長だが、その脇に鉄鋼連盟の幹部が居並ぶのだ。

 官製カルテルは流通にも及ぶ。三菱商事や三井物産など大手商社は成長の過程で自動車、家電などそれぞれの分野向けの鋼材流通シェアを確定していった。流 通シェア確保は何よりも鋼材価格の安定をもたらした。秩序を重んじる鉄鋼業界にとってシェアの確定は願ってもないことだった。だから鉄鋼メーカーは鋼材を 生産するだけで流通の大部分を商社に依存してきた。

 商社にとって3%の流通マージンはおいしかった。いまでも収益減の柱は鉄鋼流通である。産業界からみれば、鋼材を安定的な供給を受ける半面、「競争的価 格」を失った。大手商社が一定の販売シェアを得たのは、鉄鋼メーカーとの「輸入鋼材を扱わない」という暗黙の合意の見返りにほかならない。

 廃墟から世界トップの1億トン生産へ

 1945年、産業のコメといわれる鉄鋼生産は戦前の3分の1の水準にまで落ち込んでいた。空襲で製鉄所が焼失しただけではない、中国東北地方(旧満州) を失い、鉄鉱石や石炭など原料の供給源も断たれた。鋼材を多用する機械産業も根底から崩壊していたから、仮に生産が順調であったとしても需要はほとんどな かった。

 こうした中で政府は鉄鋼と石炭に「傾斜生産方式」を導入、重点的にヒトとカネを注ぎ込んだ。重化学工業の復活が政府の大きな課題だった。日本の製鉄業は 八幡製鉄、富士製鉄、川崎製鉄、神戸製鋼所、日本鋼管(NKK)、住友金属工業らが担ったが、連合軍による財閥解体の結果、企業は競争力を削がれた。

 成長を支えたのは政府資金と政府による需給調整である。日本開発銀行が発足、資金面での傾斜配分が始まり、通産省が四半期だとに発表する需給見通しが半 ば、官製の"カルテル役"を果たした。日本の鉄鋼業の出発は明治時代の官製八幡製鉄所だ。いまでも利潤追求よりも協調を大切にする「お役所体質」を色濃く 残している。

 年産300万トンまで落ち込んだ鉄鋼生産は、公共事業による政府買上げや1950年代に再開した造船業など鋼材を多用する産業の復興で倍々ゲームで成長 した。欧米への輸出がさらに生産意欲をかきたてた。1960年代に英国、ドイツの生産量を追い抜き、1970年代には年産一億トンを達成、米国を抜いて生 産量、技術力ともに世界のトップに立った。再建に取り組んでたった20数年である。

 ひびが入っても国産品愛用

 戦後日本の成功は、原材料を輸入、製品を輸出する体制を官民一体で守り抜いたところにある。鉄鉱石と石炭は輸入するが鋼材の輸入はほとんどなかった。造 船だけでなく、電機や自動車業界もすべて日本の鋼材で製品を仕上げた。鉄鋼は厚板からパイプ、クギにいたるまであらゆる産業に不可欠な素材であり、自動車 や電機、エンジニアリングなど他産業の発展に鋼材の品質改善が欠かせない。競争力があり、高品質の鉄鋼が生まれるところに良質の工業製品が生まれてきた。 それは浦項総合製鉄を生んだ韓国の最近の成長ぶりをみるまでもないことである。

 1950年代の日本の自動車業界は「日本の薄板ではプレス工程でひびが入る」という苦しみに悩まされた。「米国産の薄板は簡単にプレスできるのに、なぜ 日本の薄板ではできないのか」という恨み節も聞かれたが、不思議なことに日本の自動車業界は米国から鋼材を輸入しようとはしなかった。鉄鋼業界は自動車ボ ディーの微妙な曲線にも耐えうる薄板の開発に取り組んでいた。政府から「国産鋼材使用」の圧力もあったが、がまんを重ね一緒に成長する道を選んだのであ る。日本の産業界の相互扶助が世界に冠たる日本の鋼材を生んだともいえる。

 すべてが順風満帆だったわけではない。1960年代には高炉建設ラッシュが訪れた。川崎製鉄が通産省の指導に反して千葉製鉄所を建設するときには、当時の 一万田尚豊日銀総裁に「ペンペン草を生やしてやる」とまで言わせた。住友金属工業も和歌山に大規模な生産を開始した。当然、資金不足に陥ったが、米国の金融機関が日本の鉄鋼業界の将来性を買って融資に応じた。ここらの事情は年01月20日付萬晩報(火) 「住金事件『日向方斉・私の履歴書』より 」で書いた。

 構造問題と解くカギは鉄鋼業界にあり

いずれにせよ戦後日本の産業界も護送船団だった。産業界の相互扶助でも誤算があった。皆で成長する時代には「がまん」が美学だった。国際的なメガコンペ ティションの時代に突入するとその虚弱体質が一挙に吹き出た。円高が進み、韓国浦項製鉄が日本を上回る競争力の鋼材を輸出し始めた1990年代に入っても 輸入鋼材は一向に増える気配をみせない。

日本の戦後産業史を見る上で鉄鋼業界の果たしてきた役割は計り知れない。成長や発展の秘訣、あるいは日本の構造問題を解くカギはほとんどこの業界の中にあるといっても過言ではない。


1998年03月15日(日)
共同通信社経済部 伴武澄


 給与所得しかないサラリーマンに3月15日は関心がない日かもしれない。サラリーマンでも原稿料収入があったり、家賃収入などがある人には重たい気分に させられる特別の日だ。筆者は1989年に「追跡NIES経済」(教育社)を上梓して以来、まじめに確定申告をしている。10年目の今日も領収書のたばと 格闘した。

 確定申告で源泉徴収税を取り戻そう

 自分の所得を合計して支払うべき税金を計算するのは繁雑だが、慣れてしまえば1日もかからない。自分が支払う税金と社会保険料の金額を再認識する作業は 有益だ。年度末に全国いたるところで道路工事が繰り返される時期と重なるのでなおさら税金の使い道に関心を持たざるをえないからだ。

 20万円以下の雑所得は申告しなくていいことになっているため、税務署に行かない人が多いが、あなたはすでに源泉徴収で10%の所得税を支払っているこ とを忘れているようだ。20万円の所得ならば2万円だ。雑所得には必要経費が認められているから、15万円の経費をたてれば課税所得は5万円となり、ふつ うのサラリーマンなら1万円から1万5000円の税金を取り戻せる(還付)はずだ。

 20万円ぐらいの領収書はどこの家にもある。医療費が10万円を超せば税金の還付を受けられる。萬晩報の読者でいままで確定申告をしていなかった人がい れば、来年から申告することをお薦めする。課税所得5万円には翌年度、地方税がかかるがぜったいにマイナスになることはない。特に何十万円ものアルバイト 収入がある学生さんには確定申告が絶対に有利だ。

 シャウプ勧告も求めた確定申告への切り替え

 給与所得の源泉徴収は、1940年に始まった。食糧管理法、日本銀行法と並んで太平洋戦争遂行を目的に導入されたいわば戦時立法である。そもそのその 10年前にサラリーマンはほとんど税金を払っていなかった。大正時代には法人税と個人所得税の区別さえなかった。満州事変以降に税収増を図るため所得税の 課税水準がどんどん高くなって、ほとんどのサラリーマンの所得が補足されるようになった。

 さらに戦後1947年の税制改正で雇用主による年末調整の仕組みが取り入れられ、必要経費を認めない現在の源泉徴収が成立した。GHQは当初、日本の源 泉徴収制度をやめさそうとし、シャウプ勧告の際も「確定申告制への早急な切り替えを求める」ことが盛り込まれていた。アメリカとしては「国民の通税感」や 「タックスペイヤーとしての自覚」を促すのが租税民主主義の根幹であると考えていた。いまも考えているはずだ。いうまでもないことだが、先進各国は確定申 告がふつうである。

 大蔵省は消費税導入に当たって「先進国型税制の導入」をしきりに強調したが、徴税法にはまったく言及しなかった。情報開示としてはウソの部類に入る。付 け加えると戦時立法の食管法は1995年廃止され、日銀法は今年4月から生まれ変わる、源泉徴収でだけが戦時のままである。

 憲法違反を問うたレストラン主

 これは、聞いた話だが、東京のレストラン主が従業員の給与から源泉徴収をしなかったことから所得税法違反に問われた事件が1952年起きた。レストラン 主の主張は「企業経営者が強制される源泉徴収の経済的負担や苦役が憲法の財産権の侵害や法の下の平等などに抵触する」というものだった。つまり戦前の一時 期まで企業に対して徴税の手数料が支払われていたが、そのうち企業側の無料奉仕となった。レストラン主は10年後の最高裁判決で有罪となる。

 その後も、サラリーマンの必要経費の面から同志社大学の教授が源泉徴収の違法性を問うなど一部で源泉徴収に対して問題提起がなされてきたが、孤立無援の闘いだったようだ。現在、年間の税収60兆円の約4分の1がサラリーマンの支払う源泉徴収によって賄われている。 4月になると自民党による経済対策が政府による経済対策として登場する。またしても10兆円を超える金額が所得減税ではなく、農村部や山間地にばらまかれる。

 レストラン主が10年闘ったようにわれわれサラリーマンも闘わなくればならない季節がきたようだ。7月に参院選挙がある。
1998年03月14日(土)
共同通信社経済部 伴武澄


 1998年03月04日付萬晩報 「コンピューター化されたフォードのグローバル人事」に対する感想を掲載します。

 メルセデス本社の話はすごい

 とても興味深い記事だと思います。企業内においてだけでなく、社会的に「国際化」という言葉に対する認識が日本と欧米では異なっているように私自身感じ ています。ただ、海外旅行することが国際化でもないのと同じようなものでしょうか。また、メルセデス本社での話は本当ですか。初耳です。すごい試みです ね、日本国内ではまだ外国人の雇用に対する免疫がないので、同じようなことが身近になるのはいつのことか。【長野市在住】

 具体的事例が欲しかった

 (1)面白かったです。私は今就職活動中の大学生ですが、企業の中には採用試験でTOIECを受けさせるところもあり、これからは本当に英語ができなく ては企業の中でエリートとして残っていけないのだろうと思っていました。でも、実際は英語でコミュニケーションがとれる人材を日本企業は活用できてないの ですね。記事ではむしろ昇進の邪魔になるとありましたけど、具体的に事例が上げられていたわけではなかったので、こちらが国際感覚が昇進の邪魔になる理由 を想像するしかなかったのが残念でした。【大学生】

 (2)「海外で意識改革に目覚めた社員は『帰ったら本社を変えてやる』と意気込んだが、帰任して半年もすると挫折した。目ざといエリート社員は『上を目 指すには、海外での経験を捨て去ることが一番の早道である』ことをまもなく悟ることになる」「現在、約50万人の企業戦士が海外で働いている。そこそこの エリートである。だが、培われた国際感覚は昇進の邪魔でしかない。日本企業の国際化はその程度でしかない」の理由について何ら説明がされていないので、筆 者の私的感情の域を脱していない。ニュース記事としては妥当性を欠く。たしかにそうなのかもしれないが、根拠を実例をあげて説明して欲しかった。【無名】

 筆者より:1998年02月12日(木) 「フェアな競争に待ったをかけた松下本社」に具体例を挙げていますので読んで下さい。

 ●経験を捨てきれずに変化を待つ
 「海外での経験を捨て去ることが出世の早道」とはよく言った。おっしゃる通りです。私は外資系の石油会社に勤めていますが、外資系といえども、日本法人 は都合のいい時だけ外資系面するが、本質的には日本企業です。ただ、石油業界に吹き荒れる激しい環境変化の中で、当社も一気にアメリカナイズされそうなの で、私自身は海外での経験を捨て切れずに変化を待っています。でも、やっぱりぜんぜん出世はしていません。【外資系企業勤務】

 単なる嫉妬の対象でしかないのか

 どうしてこと日本においては、海外から帰った社員は「昇進するためには、海外での経験を捨てなければいけない」と思うのでしょうか。海外で生活した経験 は、海外に赴任したことのないものにとっては、単なる嫉妬の対象でしかないからでしょうか。私の周りにも、大学を卒業してから海外へ行く友人が何人かいま す。そのほとんどが、正規留学でも就職でもなく、語学留学やワーキングホリデイの類です。実際、今多くの若者が海外に流出していますよね。でも、そんな人 たちの中の何人が、真の国際感覚を養って帰国するのでしょうか。ただのモラトリアムの延長か、あるいは「海外生活の経験あり」という肩書きのかっこよさに あこがれているだけのようにしか思えないのです。私のこの考えは、彼らの対する嫉妬なだけなのでしょうか?私のような考えの人間が大勢いるから、今の日本 企業では国際感覚は昇進の妨げになっているのでしょうか。【無名】

 経験の場と機会が足りない

 私は東南アジアのマレーシア工場へ1年半、生産管理のアシスタントマネージャーとしていっていました。マレー人、華僑、印僑、その他の多言語国家ですの で、私の所属していた生産管理部門もマネージャーが現地のインド系、購買管理のオフィサーが中国系、輸出入ロジスティクス管理がマレー人、計画・進捗管理 の私が日本人ということで、母国語がタミール語、北京語、マレー語、日本語で、会議は英語とマレー語のごっちゃで行われていました。

 私が思うには、日本人に限らず、人は内々にこもって同じ人種しか信用していないのが通常だと思います。日本人は日本人しか信用せず、現地の人たちを見下 した態度を取りがちですし、中国人は中国人しか信用せず、自分達のライフスタイルを変更する気はないようです。「マレー人でマレーの国から外国人は早く出 て行けと思っている人は結構多い」とマレー人の親友は言っていました。

 外国人・他民族が日常として存在するマレーシアでもそうだったのに、外国人がまだまだ非日常で、総称して「外人」などと呼んでいる日本人が、そのような アレルギー的反応を無くすには、経験の場と機会が足りないと思います。いままで1人で車を運転した事の無い人が、運転が下手なのは当たり前で、みんなで考 えていくのはもっと車を運転しよう、または道で初心者にはどう対応するかだと思います。

今、既得権益を持っている40歳代~50歳代がそれが良い・悪いは別として、新しい考え方の存在を認める事は、引退するまでしないんじゃないかと今は私は思っています。【元マレーシア勤務】

 問われる国籍を離れた職場での仕事の能力

 米国出向していた前後のことを思い出しました。私は1982年秋から1987年春まで一時期を除いてニューヨーク州にある現地法人に出向していました。 会社は約20人の日本人を含む400人の規模で事務機器の販売会社で、会計を中心に受注・出荷・市場機器の補捉等を担当しました。事業計画の収支を米国人 同僚と二人で始めたのを振り出しに、一時は合計30名強の部門を管理していました。私の会社だけでなく、当時、グループの米国本社には700人ほどの日本 人が働いていました。これらの日本人を見て、当時次のように分類していました。

 6割くらいの出向者は、ほぼまったく日本のままでした。彼らの仕事のほとんどは日本との調整、あるいは日本人のための仕事で、昼食も日本人同士でほとん ど日本飯屋へ行っていました。彼らは帰国後ほとんど問題なく短期間で復帰できます。しかし、他国において他国の文化の土壌の上で仕事をしたり、あるいは日 本企業の風土を現地の人々共有することに概ね熱心ではありませんでした。また仕事以外の場に純日本人型が混じるとほかの参加者の居心地が悪くなります。彼 らには、それぞれ個人としてのアイデンティティーが弱いように見受けられました。

 次の3割の日本人は、現地の人々と共に仕事をし、相当程度異なった文化的風土を理解していました。かれらは、場合によっては受け入れにくい本社による決 定をできるだけ合理的に説明しようとします。同時に、オフィスだけでなく、昼食、アフターフアイブあるいは週末のバーベキューなどをいっしょに楽しんでい ました。不思議なことに、これらのひとびとの大部分は、帰国後まもなく日本型のタイプに復帰できるようでした。少なくとも数年の内には、まったく米国経験 を感じさせないようになってゆきました。おそらく、彼らはとても器用で、それぞれの環境に対応できるのでしょう。

 最後の1割は、おそらく元々日本的でなく、正に水を得た魚のように現地に溶け込みます。多くの場合、彼らはそのまま現地に溶け込むことを望み、帰国復帰 をするかわりに、現地での就職をさがします。しかしながら、米国の過半はきわめて内国的風土で、日本関連以外の場での活躍は困難です。彼らの多くは、日本 企業に残った場合の仕事の大きさと、生活面でのメリットをトレードオフした形になるようです。

 私自身は二番目のタイプで、且つ復帰できなかった少数派だった様です。米国で、一人一人の値段がすべて異なる流動性のある雇用市場をみて、日本の制度 (若年層の過剰人員と低賃金による高生産性が、高年齢層の低生産性を補完する)は企業成長の維持を必須の条件にしており、会社と一体の利害の形成で、流動 性を著しく阻害していたように思われました。帰国当時(80年代後半)、私には終身雇用と年功賃金が2000年までもたないように感じられ、日本企業以外 での仕事を求めることにしました。私の世代が、最終的に持ち出しに終わるのではないかと、考えたのです。

 その後10年を経て仕事の国際化を思うときに、真の国際化とは日本企業の海外進出でもなく、あるいは米国企業の企業運営方法 の国際的認知ではない様に思われます。個人レベルでの国際化あるいは国際的意味での価値の増加は、国籍を離れた場所における仕事の遂行能力であるでしょ う。日本人女性がフォードのためにタイで日本企業取引以外のために働くという記述は、まさに個人の国際化でしょう。アジアでは極めて多くの英国人とオース トラリア人がそれぞれの出身国とは関係のない分野で働いています。英語を話すという絶対的優位性はあるものの、それ以上に高い環境対応能力があるようで す。同じように英語を母国語とする米国人にはこれの対応能力がすくないようで、実際米国企業以外で働く米国人は少ないようです。現在私の部下として働いて いルメンバーも英国人、インド系オーストラリア人、香港系カナダ人等国際化した人々です。但し、これら有能な人々が就職することにしたのはもっとも国際化 した米国企業ではあります。【元アメリカ勤務】


1998年03月13日(金)
共同通信社経済部 伴武澄


「おー。香港の携帯電話が深センでほんとに使えるぞ」

 昨年7月の香港返還で日本から出張したカメラマンがうめいた。彼は午前0時に始まった中国人民解放軍の香港進駐の光景を朝刊に掲載すべくデジタルカメラ を抱え、携帯電話を借りて前日から国境を越えていた。日本の新聞の締め切り時間が午前2時だから、現像などしている暇はない。デジタルカメラによる電送が 不可欠だったが、携帯電話の電波がはたして国境を越えるか不安だった。正確にいうと電波が国境を越えたのではない。深センの基地局を通じて映像が日本にま で到達したのだ。国境を越えたのはGSM方式のローミングだった。欧州で始まったGSM方式の携帯電話機を持てば、いま100カ国以上で使える。日本とア メリカは例外だ

 政策的価格体系だったPHSの安さ

 携帯電話の市場が拡大している中で、PHSが苦戦している。そりゃそうだ。使い道が同じならば、便利がいい方のシェアが拡大するのは理屈である。そもそ もNTTドコモが携帯を売り、NTTパーソナルがPHSを売っていること自体が矛盾している。各社ともPHSは大きな累積赤字を抱えたまま、まもなく"歴 史的使命"を終えることになる。

 世界の携帯電話市場については1997年07月28日付「日本を映す三面鏡」 「GSM独断場にCDMAが追撃/激化する携帯電話シェア競争」で書いたが、煮え切らないレポートだったと反省している。

 PHSが生まれた背景について振り返ってみたい。1980年代後半、アメリカで携帯電話の需要が急速に伸びた。90年以降はアジアと欧州で伸びた。日本 の携帯電話は一向に伸びなかった。理由は簡単だった。通話料が高すぎた。これ以外に理由はない。PHSは通話料が安いことがうたい文句だったから若者が飛 びついた。日本の携帯電話市場はPHSが切り開いたも同然である。だが、どうしてPHSの通話料が安くて携帯電話が高かったのかは、いまもって不明であ る。筆者は政策的価格体系だったと信じている。

 PHSの最初の発想は、家庭内で普及したコードレスフォンを街に持ち出すことにあった。だから簡易型携帯電話と呼ばれた。各家庭にすでにコードレスフォ ンの小さな発信器があるのだから「すごい」発想だと思った。しかし、開発された製品はコードレスフォンと無縁の単なる簡易型だった。なんのことはない一か ら基地局を設置した。「パソコンにつなげる」とも宣伝されたが当初、パソコンにつなげるために購入した人は稀だった。安いから飛びついただけだった。やが て簡易型の欠陥が分かってきた。

 微弱な電力の基地局を500メートルごとに設置したものの、みんなが使うアフターファイブにつながりにくいという苦情が出てきた。同じ時にひとつの基地 局につながる数が限られていたからだ。特に繁華街ではまったくつながらないことが分かった。やがて端末がただでも誰も見向きもしなくなった。電話会社側に とっても繁華街はともかく、利用頻度が低い農村部での基地局の設置は大きな負担となった。一方で、携帯電話の通話料も段階的に安くなった。携帯電話普及の 壁が取り除かれると需要はPHSから携帯電話に雪崩をうった。PHSは実は1980年代に英国で実験された方式だったが、実用化が断念された経緯があるこ とを付け加えておく。

 うちは絶対PHSなどやりませんと言っていたノキア社

 そんなことなら、初めから携帯電話の通話料を下げればむだな二重投資は避けられたはずだ。それなのになぜPHSが登場したのだろうか。ここからは萬晩報 の推量である。1990年代はじめは世界的に携帯電話がアナログ方式からデジタル方式に移行していた時期でもある。アメリカではアナログ方式がかなり普及 していたからあえてデジタルに切り替える顧客は少なかった。欧州とアジアでは導入時からデジタル方式が主流となった。日本も事情が同じだった。

 当時、勢いがあったのがイギリスで生まれたGSM方式だった。欧州で統一規格となり、アジアにシェアを伸ばしつつあった。実は郵政省とNTTが一番阻止 したかったのがこのGMS方式の日本進出だった。GSM方式が入ってくるとまず、NTTの開発してきた技術が無駄になる。もう一つはGSM方式を導入する と日本での携帯電話料金が高い理由が説明できなくなる。郵政省は携帯電話の開発費を賄うため国際的に高い通話料金を設定していた。もうひとつ香港あたりで 購入したGSM方式の端末を日本に持ち込まれるような事態になれば、郵政省による電気通信事業の体系が崩壊する。日本の電気通信事業はこの三つの困難を抱 えていた。

 デジタル携帯電話の普及には通話料金の引き下げが不可欠だったが、ただちに引き下げればGSMが参入する可能性が強かった。この二律背反への答えとし て、携帯電話とまったく異なるハンディーフォンの"規格"をつくり、新規格の携帯電話で価格引き下げを図ることになった。だからPHSは携帯電話の異種で あるのに携帯電話とは名乗らせなかった。ジャンルが違えば価格体系が違っても不思議ではない。だから膨大な初期投資が必要であったにも関わらず、PHSは 当初から格安の政策的料金体系でスタートできた。重ねていう電話料金は日本では認可制である。

 こうしてPHSは、みごとにGSM方式の日本上陸を波打ち際でうち砕いた。だがうまい話は長続きしない。結局、損をしたのはPHSへの設備投資で赤字の山をつくった電話会社と国境を越えたローミングの利便性を知らされていない国民である。

 以上の推論はかなり的を得ているはずだ。推論だが、1996年春、NTTドコモの広報に「GSMの世界での普及度」について電話で取材した折り、「知りません。うちとして説明する責任はありません」とむげにされたことを記憶している。これが国営電話会社の対応である。

 1995年当時、すでに世界70カ国で利用されている携帯電話システムを本当に知らなかったのだとしたら、NTTドコモに携帯電話事業を続ける資格はな い。筆者がGSMの全貌を知ったのは世界有数の携帯電話会社として成長したフィンランドのノキア日本法人のおかげである。当時から「うちは絶対にPHSな どやりません」といっていた。

 最後に、NTTの名誉のために紹介しておくが、携帯電話を世界で初めて自動車電話として導入したのは日本である。また、PHSは一つのチップに収まるコ ンパクト設計であるため、携帯用パソコンのモデムに組み込める可能性があり、電話機が一人一台からパソコンごとに必要になる時代には新たな技術の水平線が みえてくるかもしれない技術であることは確かだ。

1998年03月12日(木)
共同通信社経済部 伴武澄


 ここ数年、金利について考えてきた。1980年代後半、アメリカが国際収支と財政の双子の赤字に悩んでいたころ、米政府が財政赤字の穴埋めに発行する国債利率が13%などという時代があった。大蔵省の金融専門家に「なんでそんなに高いののか」聞いた。

 「需給関係が悪いんだよ。国債発行額が大きくなって引き受け手がいない。人気がないから金利を上げる。悪循環でどんどん金利が上がった」という説明を受けた。だから財政赤字が増えると金利は自動的に上がるものだと信じていた。

 1990年代になってバブルが崩壊、日本は構造的な不況期に入った。すでに7年間である。下の表をみてほしい。年間70兆円前後の年間予算に加えて66 兆円もの景気対策を実施してきた。80年代、先進国の中で最も良好だった日本の財政は10年足らずで最悪の財政状況に陥っている。GDPに対する国債発行 残高や年間予算に占める国債依存度は最も高くなった。アメリカで国債増発が金利上昇要因になったのなら、日本でも金利が上がっても不思議ではない。景気対 策で日銀がいくら公定歩合を下げても、これだけ国債を増発すれば、金利が上がるのが経済の道理である。

1992年8月 総合経済対策10兆7000億円  公共用地先行取得を含む
  公共投資8兆6000億円
1993年4月新総合経済対策 13兆2000億円  公共投資10兆6200億円、
  中小企業対策1兆9100億円
1993年9月緊急経済対策06兆2000億円  中小企業対策1兆9100億円、
  94項目の規制緩和
1994年2月総合経済対策15兆2500億円  公共投資7兆2000億円、
  減税5兆8500億円
1995年4月緊急・円高経済対策  07兆0000億円  阪神復興3兆8000億円、
  緊急防災対策1兆3000億円
1995年9月経済対策14兆2200億円  公共投資12兆8100億円
合計
66兆5700億円
しかし、90年代の日本では、金利はいっこうに上がる気配がない。またしても疑問に突き当たり同僚の金融担当記者に聞いた。

 「こんなに国債を増発してなんで金利が上がらないのか」

 「1980年代のアメリカと違うところは、需給関係だ。銀行は優良な融資先がない。預金はあるのだが、運用先がない。だからみんな国債を買っている。政府がいくら国債を増発しても金利が上がらないのはそうした特殊事情があるからだ」

 非常に分かりやすい説明だったが、どうも合点がいかない。預金を集めて企業の設備投資や運転資金として供給するのが金融機関の社会的役割と教えられてきた。その銀行がお金を貸さないでせっせと国の借金の肩代わりをしている姿はやはりおかしい。

 金利が上がらない理由も分かったようで分からない。国債発行は入札制である。金融機関が買いたい価格で入札し、大蔵省は一番有利な価格を提示した銀行に売り渡す。アメリカでは誰も入札しなかった時期があったが、日本で国債が売れ残ったという話はあまり聞かない。

 萬晩報は公共事業と同様、国債の入札での談合が行われているのではないかとの疑いを持っている。大蔵省は国債を消化しなければならない。特に大量発行が 続いた90年代には金利を上げないで発行する必要があった。金融機関の資金はより高い利回りを求めるのが経済原則だが、数々の不祥事をもみ消してもらった 恩義がある手前、大蔵省が提示するままの金利で唯諾々と国債を買ってきたに違いない。

 だからビッグバンが始まると、国債消化は非常な困難に突き当たると考えてきた。外為法が解禁となる4月以降は相当量の預金が海外に流れる。金融機関に金 が集まらなくなると銀行はこれまでのように大蔵省のいうがままに国債を購入することができなくなる。そうなると売れ残る。それでも大蔵省が売りたければ利 回りを上げざるを得ない。

 ここから先が重要だ。国債金利が預金金利を大幅に上回ることになれば、国民が貯蓄として国債を購入し出すだろう。この場合、国債は消化できて大蔵省はい いだろうが、お金が引き出される金融機関はたまったものではない。預金の引き出しは経営の根幹を揺るがす。そうなると金融機関はお金を集めるために金利を 上げざるを得なくなる。

 いずれにせよ、金利は上がらざるを得ない。経済アナリストは数年前まで「日本は円高だから低金利でいいんだ。実質金利はむしろアメリカよりも高い」と訳 知り顔だった。とまれ円安が始まってもう3年になる。金利のマーケットメカニズムを無視した報いは不良債権問題より大きいはずだ。なにしろ1200兆円の 国民の金融資産が5、6%で回っていれば毎年60-70兆円の金利が生まれていたはずなのだ。金融安定化のための公的資金30兆円の2倍である。 60-70兆円の金利は毎年ですぞ。

1998年03月11日(水)
共同通信社経済部 伴武澄


 変わりばえがしなくなった自動車

 久々にに欲しい車が登場した。トヨタ自動車のプリウスだ。エンジンとモーターを組み合わせたハイブリッド車である。燃費は普通のガソリン車のほぼ2倍ま で伸びる。場合によっては軽乗用車より燃費がいい。排気ガスに占める二酸化炭素や窒素酸化物の量もガソリン車の半分以下。昨年12月、京都市で開かれた環 境会議の最中の新発売だった。価格は215万円。ファミリーカーとしては少し高いが輸入車よりは安く許容範囲である。

 筆者は、車好きだった。日産自動車の長いこと昔々のスカイラインGTに乗っていた。スカイラインの前部を長くして6気筒エンジンを積み、ほかの車と馬力 が違っていた。高速道路でも抜かれることがなかった。やがてパワー競争の時代となったが、マツダのロータリーエンジンはまた格別だった。ファッションとし ての車は速いことが一番だった時代である。

 ロータリーエンジンは主張を持っていた。ホンダのCVCCエンジンに次いで「AP車」という低公害車の認定を取ったものの、燃費が悪すぎた。ロータリー エンジンへの過信がその後のマツダの経営危機を招く引き金になったが、ドイツで開発され実用化できなかった技術を日本で実用化できたことは技術立国日本の 誇りだった。その後、セリカだとかプレリュードといったかっこのいい車が流行したが、いま車が高性能化し、どれに乗っても変わりばえがしなくなった。

 電気自動車はファッションで買おう

 筆者はがちがちの環境論者ではない。だが、ガソリン価格が法外に高い上、1日に何百キロも走行しない日本の事情に電気自動車はぴったりだと考えていた。1997年07月04日付で 「Discovery Bayで考えた電気自動車」をレポートしたら、自動車会社から「勉強不足」とのメールをいただいた。プリウスはその会社が発売した。

 これまでのEV(Electrorical Viecle)の難点は、価格が高いことだった。2000ccクラスの乗用車で400万円も500万円もした。環境のためとはいえ、500万円も出費する 消費者はいなかった。だから旧来の電気自動車の需要は、電力会社や官公庁に限られていた。プリウスは純粋な電気自動車ではないが、EVを初めて消費者の手 に届く価格帯で発売した点でひとつの快挙である。

 これまでも燃費は自動車購入の選択肢のひとつだったが、プリウスは燃費の良さで買われているのではない。「地球温暖化への配慮」というコンセプトが乗用 車購入の際のひとつのファッションとなりつつある。「速さ」「かっこ良さ」というファッションに「環境」が新たに加わった。環境への配慮がファッションで あってはいけないという考えもある。だがファッションでなぜ悪いのか。そう思っていいる。

 量産でいくらでも安くなる

 マスコミは、電気自動車が高いのは高性能電池が高価だとか、開発費がかかるからだとか理由を挙げている。しかし、筆者はそうは思わない。メーカーが真面 目に取り組んでいないからだと考えている。個々の技術者のことをいっているのではない。メーカーの中枢の発想のことである。京セラが試作した電気自動車に 試乗したことがある。これは商品以前だと思ったが、1台の制作費を聞いて驚いた。1億円だという。

 ふつうの記者なら「そうか。電気自動車の時代はまだまだだ」と考えるだろう。しかし「萬晩報」はそう単純ではない。この1億円のほとんどが研究者の人件 費なのだ。電気自動車はエンジンもトランスミッションもいらない。ラジエターからクラッチ、燃料噴射用のキャブレターも不要だ。単純にいえば、エンジン ルームにあるのは、モーターと動力を車軸のつなぐジョイントだけである。部品で一番高いのがエンジンである。産業用の高性能モーターはそこらにごろごろし ている。あとは電池だけだ。一つだけ高価なのはインバーターといって周波数変換で電圧を上げる装置であるが、これは量産でいくらでも安くなる。構造が簡単 で部品点数が圧倒的に少ない。だから手作り電気自動車の会があちこちで生まれている。

 発想を変えれば世の中変わる

 メーカーに売る気さえあれば、近距離用の電気自動車などはいますぐにできるはずである。クロネコ大和の宅急便車、金融機関の営業用車両、商店の配達用車 両など用途はいくらでもある。ダスキンから食材まで宅配サービスの配送車は1日100キロも走るわけではない。1日数キロしか走らないフォークリフトはす でに電気車両がガソリン車同様の価格で売っている。充電スタンドが足りないと危惧する人もいるだろうが、いまどき電力会社に頼めば、220Vの三相交流電 源は家庭にでも簡単に付く。事業所では当たり前の電源だ。

 2台、3台車を保有している家庭も増えてきた。2台目以降は確実に買い物や通勤向けだ。1日走っても50キロが限度だ。しかも1回の走行は数キロから 10キロ程度と推測できる。家の車庫に入っている間を充電時間とすれば、1回の充電で最大100キロも走れれば電気自動車は"実用レベル"とはいえないだ ろうか。

 バイクの走行距離をうんぬんする人はいない。日本の軽自動車の用途はバイクとほとんどだぶっている。だからこそ、自動車メーカーはいますぐにでも電気自 動車をつくって売るべきなのだ。ちなみに1リットル100円のガソリンには53円の税金がかかっているが、電力会社生み出す電気には輸入原油に関税がか かっているでけである。軽自動車タイプの電気車両を売り出せば必ず大ヒット間違いなしである。発想を変えれば世の中変わる。そのうち業界にコペルニクスが 出現するはずだ。


1998年03月10日(火)
共同通信社経済部 伴武澄


 ごみ=ダイオキシン=ごみ箱なしの短絡的思考

 今年1月、京都で学校の教室からごみ箱が消え始めた。きっかけは焼却炉から発生する猛毒ダイオキシンだ。京都市の京都教育大付属中学では「先生のごみは 業者が回収、生徒のごみは持ち帰る」ことになった。だから「ごみ箱なし」。あまりに短絡的な思考に驚いた。この動きはすでに全国に広がり、埼玉県羽生市で も4月から「ごみ持ち帰り運動」が始まるという。

 どちらも「環境教育の一環」と説明されている。これが教育なら、ねらいは「厄介モノはとにかく排除」という発想なのだ。何を隠そう。京都教育大付属は筆 者の子供が通っている学校である。気が付いたときには遅かった。もう教室からごみ箱が消えていた。子供の話では公立でもなくなるらしい。

 いつも話題作りに頭を痛めている四国新聞(高松市)の論説委員に話したら、さっそく3月7日付朝刊の「一日一言」で取り上げてくれた。この友人によると 「香川の学校にはまだごみ箱がある」らしい。逆に「分別収集の習慣を身に付けさせようとごみ箱の種類を増やした学校がある」との話だ。

 短絡的発想が全国的に広がっているのではないかと心配したが、まだ大丈夫のようだ。筆者はここらの問題には詳しくないので以下、「一日一言」の説明を引用させてもらう。

 一緒に分別に取り組む先生に教育を任せたい

 「『学校の焼却炉が危ない』と関西の消費者グループが指摘したのは二年前だ。その毒が強い催奇性、発がん性で知られるダイオキシンだったからパニックに なった。子供と史上最悪の毒では確かにショックな取り合わせだ。焼却炉廃止の声はまたたく間に広がった。文部省も慌てて調査に乗り出し、昨年夏、学校での ごみ焼却の抑制・廃止を通達。反応が鈍いため、再度10月に各県教委、大学も含めて全廃方針を伝えた。ここから妙な話になる」

 「日本最初のごみ"箱撤去通知"を京都から取り寄せた。『文部省通達で焼却炉廃止』『生徒のごみは持ち帰り』の原則が書いてある。しかし子供の健康への心配や学校としての環境問題への取り組み、そしてごみ箱撤去の話は一切なかった」

 「しかしごみ箱は消えた。いま日本中の学校は二極分化しつつある。ごみ箱の消える学校と増える学校。できるなら、ごみ袋をさげて登下校させる先生より、一緒に分別に取り組む先生に教育を任せたい。今、全国で文部省通達に真っ向反対するのは久留米市長ら二人だという」

 切れがいい「一日一言」

 「一日一言」はなかなか切れがいい。「萬晩報」と同じで四国新聞一面下のコラムをほとんど一人で書き続けている。違うのは「萬晩報」がまだ2カ月である のに対して5年にわたって続いていることだ。昨年「一日一言」が一冊の本になった。香川県だけで売っているのだが、7000部が数ヶ月で売れた。人口 105万人の県であるから1億2000万人の日本全国で売っていれば80万部の実力であろう。

 香川県の人はあまり四国新聞を評価しない。しかし「一日一言」は別のようだ。一地方から日本を考え、世界を見るのがこの論説委員の口癖だ。紹介が遅れ た。この論説委員は明石安哲氏という。ここのもうひとりの都村長生という客員論説委員については日をあらためて紹介したい。この人も香川から日本を変えよ うと考えている。

1998年03月09日(月)
共同通信社経済部 伴武澄


 自転車業界を取材しておもしろいことに気付いた。自動車業界は、トヨタやホンダといった組立企業が傘下の部品メーカーを支配するピラミッド型構造になっているのに対して、自転車業界の主導権は部品メーカーが握っている。

 大阪府堺市に本社を置く上場企業、シマノはマウンテンバイクなど高級自転車部品が主力。変速機やブレーキでは世界市場の7、8割のシェアを持つ。インテ ルのMPUなくしてパソコンとはいえないように、シマノの部品なくして世界の自転車市場は成り立たない。パソコンの「インテル・インサイド」ならぬ「シマ ノ・インサイド」が品質保証のメルクマールとさえいえる。

 世界の自転車業界のモデルチェンジは春。シマノが2月発表する部品の新製品発表を待って、組立メーカーが相次いで新車を発表する。自動車部品産業が毎年 のように部品の値下げ圧力を受けているのと対照的に、シマノが価格決定権すら持つ。高いシェアゆえである。派手な広告を打つわけでもないが、世界の自転車 産業の目は堺市に向けられている。

 中国工場の立ち上がりはシンガポールが指導

 シンガポールを中心に、マレーシアのジョホールバルー、バタム(インドネシア)、中国で製品の3分の1をアジアで生産。1997年11月期の売上高は前 期比13.1%増の1483億円。海外で比率は年々アップしている。コストダウンが目的で進出したシンガポールは、いまや日本に近いレベルのオペレーショ ンが可能となっている。

 シンガポールは、すでに海外生産のテクニカル・センター的機能を果たしており、1992年に進出した中国の江蘇省昆山の工場は立ち上がりから総務・経理部門の要員をシンガポールから連れていった。雇用した中国人の研修もシンガポールが中心だった。

 開発途上の中国への技術移転は「先進開発地域」のシンガポールが重要な役割を担うこととなった。東南アジアから中国への技術移転は一昨年来、ベアリングのミネベアでも開始しているが、シマノはそうした傾向の先駆者ともいえよう。

 丁稚からのアントロプレナー

 シマノの歴史は大正時代に遡る。創業者の島野庄三郎は丁稚から苦労を重ね、1921年、大阪府堺市に島野鉄工所を創設する。自転車のペダルを逆に回せる フリーホイールの生産が部品屋としての始まりだった。自動車の時代ではない。自転車が主力の輸送手段だった時代である。シマノのフリーホイールは1939 年には月産10万個に達し、国内シェア60%を占めていた。

 第二の転機は1960年代の戦後の対米輸出である。日本にはほとんど競合する部品メーカーはなかった。すでにシマノの主力製品は変速機になっていた。自 動車王国アメリカでちょうど健康指向によるレジャー用自転車がブームとなり始めていた。知名度の低いしかも日本の部品メーカーの進出には障害も多かった が、時代にも恵まれた。米国での余勢を駆って、欧州にも進出するころには国内工場の生産能力にも限界が出てきた。

 一般的に日本製品がまだ価格で勝負していたころである。人件費が高騰した国内生産では欧米の価格要求に耐えられなくなっていた事情はシマノにも当ては まっていた。シンガポール進出は1973年に決まった。政治の安定と良質で安価な労働力が魅力に映った。いまでこそ部品メーカーは世界各国に進出している が、当時の海外進出は「アセンブル」が主力。日本から部品を持ち込んで組み立てるのが一般的だった。部品メーカーの海外進出こそが、現地の技術レベルの向 上になることは1980年代後半にようやく見えてくる。堺市のシマノは10年、20年と時代を先取りしてきた。

 為替変動に強い「国内円建て、海外ドル建て」

 現在、シマノのグローバルな従業員5500人のうち、シンガポール・グループが3200人を超え、6割を占める。一大拠点である。シマノの輸出戦略でユ ニークなのは、早い段階から国内生産は円建て、海外生産はドル建てとし、為替変動に極めて強い企業体質を持つ点である。角谷取締役は「価格交渉力があるか らできることです。最近の円安による為替差益メリットはないが、円高時には急激な手取り収入の減少はなかった」と経営の安定に貢献してきた状況を話す。ト ヨタ自動車や松下電器産業といえども、はるかに及ばない。

 これまで東南アジアは欧州や米国向け輸出拠点だったが、中国はちょっと違う意味合いを持つことになりそうだ。というのも世界最大の自転車組立会社である 台湾のジャイアント社が巨大な生産拠点を設けているからである。1980年代には台湾が自転車輸出国だったが、いまやその役割は中国が担っている。シマ ノ・インサイドの中国産マウンテンバイクが世界を制覇する日は間近い。


1998年03月08日(日)
共同通信社経済部 伴武澄


 日朝中英の4カ国語を駆使する趙利済氏の夢

 1992年4月末から5月初旬にかけてピョンヤンで北東アジア開発会議(豆満江開発会議)が開催され、130人の参加者とともに列車で豆満江のロシア国境まで旅した。豆満江にかかる鉄橋の上立ち、感極まったハワイ大学東西センター副理事長の趙利済氏が演説した。

 「いまわれわれの立っている豆満江は、数年前までここは軍事境界線だった。しかし今、東西冷戦の長いトンネルを抜け、この地で民族を超えた経済開発がは じまろうとしている。そんな歴史的地点にいまわれわれはいる。そしてわれわれは日本海を対立の海から開発の海にしなければならない」

 忘れもしない。英語でしゃべり、一人で日本語、朝鮮語。中国語に翻訳した。4月とはいえまだ寒風吹きすさぶ川面にミスター趙の声が響き、終わると大きな 歓声がわき起こった。その場にはロシア、アメリカ人、ドイツ人もいた。歓声は参加者それぞれの感慨を意味していた。筆者はどういうわけか「五族共和」とい う死語を思い出していた。趙氏は京都市生まれの元在日韓国人、アメリカ国籍を取った。中国での研究生活も長かった。まさに豆満江開発の申し子のような人 だった。

 1990年代に入って、豆満江開発が急浮上した時期があった。日本、韓国、北朝鮮、中国吉林省、極東ロシア。それにハワイ大学のシンクタンクが加わり、 ロシアと中国、北朝鮮の三カ国の国境地帯に流れる豆満江流域に多国籍による経済開発区を創設しようとする構想だった。新潟の民間組織である日本海圏経済研 究所の故藤間丈夫代表とハワイ大の趙利済氏が旗振り役となって各国に参加を呼びかけ、国連開発計画(UNDP)も強力な支援体制を組んだ。300億ドルの 巨大プロジェクトがスタートしようとした

 北朝鮮はその前年、先鋒と羅津を含む東北部を自由貿易経済特区に指定し、孤立主義から外資導入へと大きな政策転換を始めていた。豆満江会議で一番はしゃ いでいたのは韓国からの民間人だった。豆満江への投資は単なるビジネスを超えて南北統一の悲願への大きな前進になるはずだった。しかし、まもなく北朝鮮に よる核兵器開発疑惑問題が持ち上がり、豆満江開発計画は急速にトーンダウンした。

 特定国の利権が存在しない「新五族共和構想」

 筆者が興奮したのは、ひょっとしたら「五族共和」がこの地で実現するかもしれないという期待からだった。日本と韓国の技術と資金、北朝鮮と中国の労働力 で北朝鮮、中国、ロシアにまたがるあらゆる資源を開発するという構想にはかつてないロマンがあった。もちろん日米韓の巨大資本の姿も見え隠れしていた。

 この「新五族共和構想」にはかつての満州国のように特定国の利権は存在しない。それぞれに夢があった。北朝鮮と極東ロシアにとっては経済開発と外資導入 が目的だった。中国吉林省は日本海へのアクセス確保が至上命題、韓国は南北統一、日本海岸の日本の自治体には新たなフロンティアに映った。この地に「新五 族共和」による繁栄がうち立てられれば、歴史上稀に見る多民族互恵開発が進められる可能性があった。

 興奮気味で帰国した筆者は上下2回の企画記事を書き「新五族共和構想」というタイトルをつけた。しかし豆満江開発同様、このタイトルはお蔵入りとなっ た。当時の経済部デスクは、満州国を連想させる「五族共和」の四文字は前向きの開発計画には似つかわしくないという判断をした。南北朝鮮、日本、中国、ロ シアの5カ国でいいネーミングだったといまでも考えている。

 実は筆者らによる北海道独立論の素地としてこの豆満江開発があり、「新五族共和」はこれからの極東アジアの在り方を考えるうえで欠かせない重要な理念のひとつだと考えている。独立北海道のフロンティアは環日本海とオホーツク海であることはまぎれもない。

 豆満江開発は、「北東アジア開発会議」として趙利済氏を中心に地道な意見交換が続いている。独立北海道は外国人にも住みやすい国家を目指すことは以前レ ポートした。当然ながら南北朝鮮、中国、ロシアが優先される。地域国家として北海道はこの海域での交流がもっともっと必要で、理解をますます深めなければ ならない。

 1998年03月01日 豊かな北海道に義務教育は似合わない 【人気レポート】
 1995年02月28日 北海道が独立したら 【ぜひ読んで欲しい】
 1995年06月06日 北海道独立論(2)-財政はOK
 1997年09月21日 榎本武揚が北海道に託した新国家の夢(1)
 1997年10月13日 松浦武四郎が明治2年、エゾ地を北海道と命名した
 1997年11月10日 「燃えよ剣」司馬遼太郎が描く榎本武揚の函館新政府構想
 1998年01月16日 続・北海道が独立したら
 1998年02月22日 再び北海道独立を考える/民営化国家の旅立ち

1998年03月07日(土)
共同通信社経済部 伴武澄


 02月27日(金) 「職務に忠実なアメリカの高校カウンセラー」に多くの反響いただきました。すべては掲載できませんでしたが、読者の声として紹介します。偏った見方だという考え方も少なくありませんでしたが、特に海外からたくさん反響をいただいたのには驚きました。インターネットの世界のすごさを見せつけられました。
1998年03月06日(金)
共同通信社経済部 伴武澄


 業界紙だからうちは書けないんです

 流通クラブ担当だった1994年10月初め、食品業界紙の知り合いの女性記者から電話がかかった。相談したいことがあるというので、翌日、同僚記者と近くの喫茶店に出かけた。

 「ひどいんです。国税庁は未成年飲酒防止を名目に、お酒に価格破壊に水を掛けようとしているのですよ。この報告書をみて下さい」

 差し出された分厚い報告書には中央酒類審議会・新産業行政部会の名が記され、「アルコール飲料の販売の在り方」と題されていた。当時、酒のディスカウン トショップが日本全国に広がって「酒を定価で買う」長年の習慣が崩れつつあり、業界は既得権益の崩壊に危機感を高めていた。

 「週明けに発表になるんですけど、批判的な立場から書いてもらえませんか。うちは業界紙だからあまり批判めいた記事は書けないんです」。彼女の目は真剣 だった。ぱらぱらめくると確かに「未成年の飲酒防止策」がたくさん並んでいた。「対面販売」「自販機の撤廃」「前払いカード自販機の開発」「容器への注意 喚起表示の義務化」など酒を自由に買えないよう策がめぐらされていた。

 圧巻は「安く大量に手軽に販売すればよいとする在り方は問題が多い」とし、価格破壊を進めていたディスカウントショップやスーパー店頭での「分別陳列」と「レジの分別」を求めた点だった。明らかに新興勢力への嫌がらせである。

 彼女が経済部記者であるわれわれにこの報告書を持ってきたのにはもうひとつの理由があった。国税庁記者クラブは社会部記者が中心になっている記者クラブ で、ふだんは企業の脱税事犯を追う立場にある。社会部記者は常々社会正義を追う使命に立たされているため、「未成年飲酒防止」などの枕詞がつけば、どうし ても「正しい規制」ではないかと考えがちだなのだ。彼女としては「規制緩和に逆行」といった見出しが欲しかったのだ。

 当時、多くの経済部記者は、規制でがんじがらめの日本経済に危機感を抱いていた。再生には価格破壊を含めあらゆる規制を撤廃する必要があるとの認識で一 致していた。われわれも社会的規制で価格破壊の流れを逆行させてはいけないと判断した。この記事は筆者らの独自ダネとして翌朝、多くの地方紙の一面を飾っ た。

 背後に業界団体と族議員、国税庁のトライアングル

 「アルコール飲料の販売の在り方」という名の報告書をまとめた背後には、酒類販売店の業界組織やそこを支持基盤とする自民党族議員の影があった。幸い、 審議会報告はまとまったものの、酒の自販機が街からなくなる事態にはなっていないが、業界組織と族議員そして安定的な酒税収入を確保したい国税庁との「癒 着の三角構造」が仕掛けた策だった。

 「未成年への酒類販売防止」という誰もが反対できない社会的規制を持ち出して、酒類販売店の既得権を守ろうとする姿勢はあまりにも卑劣だと考えた。彼女 の考えもそうだった。「レジを分別せよ」という項目は明らかにスーパーにコストアップを要求したに等しく、「容器への注意喚起表示の義務づけ」は輸入ビー ルに対する嫌がらせだった。

 この社会的規制がうやむやになった理由は、担当が変わったせいもあり追及していない。大蔵省が管轄している業界は金融、証券、保険のほか、酒類とたば こ、塩がある。酒類もたばこも税収は大きい。製品値上げと税率アップを交互に繰り返し、製品に占める税率を一定に保ってきた。両方とも従量制だから安売り しても税収は減らない構造になっているが、製品価格のアップがあって始めて税率をアップできる。ディスカウントショップのおかげで当分の間、酒税は上げら れないということだ。 

【定期読者1000人突破記念号】

1998年03月05日(木)
共同通信社経済部 伴武澄


 米は「基準が甘すぎる」vs日本は「基準が厳しすぎる」

 国際会計基準を知っているだろうか。世界的に企業会計のルールを統一しようとロンドンに本拠を置く世界的会計士団体であるIASAC(国際会計基準委員会)が策定を急いでいる新しい会計基準である。日本は新しい会計基準でも取り残されようとしている。

 実は国際会計基準に対して、EUもアジア諸国も採用の方向なのに、日本とアメリカだけが反対している。日本とアメリカが共闘を組んでいるのではない。ア メリカは現行のSEC基準(証券取引委員会)に比べて「基準が甘すぎる」と反対し、日本は「厳しすぎる」と反対している。

 日本が反対している最大の理由は、国際会計基準が企業の保有する有価証券や不動産を「時価」で評価するよう求めている点だ。日本の商法では企業のバラン ス・シートは購入時の「簿価」で評価することになっており、「時価」との差額である「含み資産」を十二分に活用して好不況を乗り越えてきた日本の企業社会 の長い歴史が背景にある。このほか連結決算も求められているがこの場では言及しない。

 「簿価」方式は、企業会計が単純だった時代の遺物である。確かに決算期ごとに資産を「時価」で再評価すると本体の業績が株式市場の乱高下や不動産市場の 相場に左右されやすい。しかし、時価評価のもとでは住友商事が犯した商品先物取引のように巨額の損失を隠すことは難しくなる。企業会計は単にモノをつくっ て売る時代から、余裕資金をデリバティブなどで日常的に運用するようになっており、資産運用を透明化する上でも「時価」による評価が不可欠な時代に突入し た。こうした認識は1980年代後半から世界的な常識となっている。

 EUは、株式の店頭市場であるEASDAQがすでに先行的に導入し、アジアでも香港、シンガポール、マレーシアが新しい国際会計基準を下地にした国内基準を策定、韓国もまた1996年に会計基準を全面改定して「時価」方式を導入している。

 グローバルスタンダードにさらに逆行しようとする日本

 日本が致命的な過ちを犯していると思うのは、世界的な趨勢に反対しているからではない。反対だけならまだしも、もはやグローバルスタンダード化しようとしている新しい会計基準にさらに逆行するような会計基準を策定しようとしているからだ。

 政府が現在策定中なのは、企業が所有する不動産の含み益の自己資本への計上である。加えて所有株式の時価が帳簿価格を下回った場合、含み損を計上しなけ ればならない「簿価法」から含み損に目をつぶる「原価法」にも変えようとしている。企業会計の実態はなにも変わらないのにあたかもバランスシートが改善し たように見せる「政府公認粉飾決算」の道を開こうとしているのだ。

 不動産の含み益の自己資本への組み入れには繊維のユニチカがすでに名乗りを上げている。見掛け上の自己資本をかさ上げしたところで世界の格付け機関が格 付けを上げるとは思えない。こんなことで株を買う投資家がいたとすれば、笑いものである。地価が依然として右肩下がりの状況で、いったん時価で評価した不 動産は含み損を待つばかりの運命でしかない。

 政府は金融機関への30兆円投入だけでは、金融システムは"安定"しないと考えているのである。それほど金融破綻への危機感が高いということなのだろう か。ソニーやコマツなどニューヨーク証券取引所に上場しているグローバル企業は、すでに新しい会計基準よりも厳しいアメリカのSEC基準をクリアしている。 日本企業が選択すべき会計基準はもはやジャパン・スタンダードではない。ユニチカに続く日本企業が出現しないことを望む。

 もはや政府部内でも国会でもまったく議論になっていないことには目をつぶろう。しかし、経団連でや日本商工会議所など財界から一切批判の声が上がらないことは不思議である。世界に目を開こうとしない企業に明日はない。


1998年03月04日(水)
共同通信社経済部 伴武澄


 レバノン人が次期社長の有力候補

 人材の国際的な登用で一番進んでいるのがアメリカのフォードモーターズである。日本法人社長の鈴木弘然氏に聞いた話である。

 「フォードのトロットマン会長兼社長は英国の現地法人からのし上がった人なのを知っていますか。英国といっても、子会社の人材がトップに上り詰めたんで 話題になった。今度はレバノン人が社長になりそうなんだ。オーストラリアで学んで豪州フォードに就職した人なんだが、ジャック・ナッサーといって、デトロ イト本社に抜擢されて今、副社長だ」
 「技術系の人なんだが、コスト削減ですごい力量を発揮したことがトロットマンに高く評価されている。フォードでは年齢はもちろんだが、国籍すら問われない。どこの現地法人の採用でも力のある人がどんどん抜擢される会社になっている」
 「日本人でもこの間、フォードの日本の販売会社であるオートラマの女性の経理部長が突然、新設したタイの工場への転勤を命じられた。本人もびっくりしたが、結局チャンスだと考えて転勤した。日本の会社で考えられますか。こんなこと」
 「フォードのコンピューターには全世界のフォードの課長職以上の職歴と評価がすべてインプットされているんですよ。欲しい経歴や適性で検索すると国境を越えた人材リストが出てくる。そんな人材登用が大分前から始まっているんですよ」

 英語が日常語化した独ベンツ本社

 欧米の大企業の経営の国際化はとんでもないスピードで進んでいる。ドイツのメルセデス・ベンツ社の本社では、一人でも外国人がいたら英語で会話をしなけ ればならないことになっているそうだ。外国人社員が増え、意思疎通を図るための方便として始まった制度だ。いまではほとんどの場所に外国人がいるので社内 の日常語はすべて英語になってしまった。

 この二つの話は2年前に聞いた。さすがにびっくりした。日本が「日本独特の商慣行」などといっている間にグローバル企業は次々と旧来の殻を破って効率経 営に進んでいる。もはやいい悪いの話ではない。企業経営の国際化が進むと共通の言語が必要になり、一番大きな市場の言語がその企業の"国語"になる時代に 突入したといえる。

 1960年代、アメリカで多国籍企業という言葉が生まれた。需要のある国や地域で次々と現地生産を始めた。日本の有力企業もまたアジアや欧米に生産拠点 にを構築していった。貿易摩擦という負の要因もあったが、日本だけで生産して輸出でドルを稼ぐという企業経営は姿を潜め、我も我もと海外生産に傾斜して いった。日本の国際企業は本社を頂点とした国境を越えた生産や営業のピラミッドを形成した。そこまでは欧米企業の跡を追った。

 海外での経験を捨て去ることが出世の早道

 ただ多くの経営者は、1980年代後半から起きていたグローバル経営の"コペルニクス的転回"に気が付いていなかった。アメリカでは1990年前半には 株主が経営トップをすげ替えるという異変が起きた。まったく違う業界の人材すらスカウトされた。子会社の経営者が本社のトップに代わることなどは日常的に 起きた。トップが変わると社内文化は一変した。

 繁栄にあぐらをかいた日本の経営者は、企業の「国際化」を「海外生産」と錯覚した。海外拠点は増えても、国内の国際化はほとんど進まなかった。海外で意 識改革に目覚めた社員は「帰ったら本社を変えてやる」と意気込んだが、帰任して半年もすると挫折した。目ざといエリート社員は「上を目指すには海外での経 験を捨て去ることが一番の早道である」ことをまもなく悟ることになる。

 現在、約50万人の企業戦士が海外で働いている。そこそこのエリートである。培われた国際感覚は昇進の邪魔でしかない。日本企業の国際化はその程度でしかない。


1998年03月03日(火)
共同通信社経済部 伴武澄


 日本の円が上がり続けた1990年代前半、銀行の為替交換手数料が横並びの上、高すぎるのではないという議論があった。この問題をかなり突っ込んで追及 したマスコミもあり、共同通信としても取材を始めた。そして筆者と取材記者との実際にあったやりとりを再現する。騙されないようよく読んで欲しい。

 1ドルで360円渡すのも100円渡すのも手間は同じ?


 筆者「おまえなぁ。1ドルが100円以下になっているのに為替手数料が高いと思わないか。ちょっと取材してきたらどうだ」

 記者「僕も高すぎると思っていました。それに自由化されているはずなのにとこでも手数料が同じなことはおかしいと感じていました。でもそれってニュースになるんですか。」
 筆者「当たり前だ。早く取材してこい」

 翌日、くだんの記者は顔を紅潮させて報告した。

 記者「いくつかの銀行で聞きましたが、どこでも交換手数料は2円80銭でした。1ドル=360円の時代から変わっていないのです。横並びの意識はない。結果的に同じになっているだけと言っていました」
 筆者「360円も時代の2円80銭はパーセントに直すと1%以下だが、今では3%だぞ。今どき、銀行に1年お金を預けても1%か2%にしかならない。たかが1回の手数料に3%も取るのかちゃんときいたか」
 記者「はい。銀行は1ドル紙幣を持ってきて360円渡すのも、100円渡すのも手間が同じだからといっていました」
 筆者「それで納得したのか。あほやなぁ。1泊2万円のホテルに泊まるのに1ドル=200円の時代なら100ドル交換すればよかったのが、今では200ド ルいるんだぞ。銀行には手数料が2倍入るじゃないか。騙されるなよ。銀行の言い分が正しければ、2万円を手渡すのに100ドル受け取るのと200ドル受け 取るのと同じ手数だから、手数料も同じでいいはずだ。なんでそうやって聞き返さないんだ。それで何で横並びなのか突っ込むんだのか」
 「広報ではらちが明かないので、店頭の女性に今日のレートの決め方を聞きました。彼女の説明では、朝10時に東京銀行(当時)がレートを決めて各行にファックスするそうで、それに右へならえしているからみんな同じになるといっていました」

 消えた「金融なぜなぜシリーズ」

 そんなことで1991年夏、「金融なぜなぜシリーズ」をやろうということになった。消費者の素朴な疑問を解明しようする試みは後輩記者にやる気を出させ た。しかし、この企画はいっぺんにつぶれる運命にあった。証券会社による損失補填事件が発覚、金融機関による闇社会との癒着などが切れ目なく続き、やがて 担当も変わった。

 その後も不祥事が次から次へ発覚、住専問題、ビッグバン、金融破綻などと金融担当記者は息つく暇もなかった。結果的にマスコミに日本の金融機関の本質的問題を取材させる時間を与えなかった。おかげで割高な為替交換手数料ひとつでさえ、なにも変わらずに7年を経過した。

 しかし当時の問題提起はまだ生きている。取材される側が故意にマスコミ誘導をしたとは考えないが。取材する側もされる側も「1ドル=何円」に慣れきっているからで、「1円=何ドル」の発想がないからこうなっただけだと信じている。

 ただし、今回は違う。4月からの外国為替管理法の改正で、コンビニでも街のチケット屋でもだれでも為替の交換ができるようになる。金融機関の牙城の一角 が確実に崩れる。個々の金融機関は窓口での為替交換手数料収入まで明らかにしていないものの、為替交換手数料は法外な振替手数料とともに金融機関の大きな 収入源となっている。

 為替交換規模は数兆円の巨大市場である。規制緩和の波はすぐそこまで来ている。
1998年02月02日(月)
共同通信社経済部 伴武澄


 
日本経済の妥当な株価平均は8000円


  東証株価平均が"日本経済の危機ライン"である1万5000円を最初に切ったのは1992年8月である。次は1995年6月。3回目が昨年末から今年1 月にかけてである。最初に1万4000円台に急落したとき、流通業界の論客の一人だったライフ・コーポレーションの清水信次社長に聞いた。

 「日本経済の実力から東証ダウはいくらぐらいが妥当だと思いますか」
 「8000円ぐらいかな」
 「じゃあ、まだまだ下がるということですか」
 「そうじゃない。PKO、つまり公的資金が入っているからそうはならない。妥当な水準をいっているのだ」
 「どういうことですか」
 「日本の企業の配当率からいって8000円ぐらいが上限だという意味だ」

 投資家はキャピタルゲインとともに配当率も考える。株価に対して0.5%ではあまりにも低すぎる。8000円にまで下がれば、ようやく1%を超える。そんな話だった。  配当が低すぎるという論議がバブル崩壊2年にして出始めた時期だった。日本生命など機関投資家は 企業に対して公然と増配を求めた。経団連としても株価を維持するために増配の必要性を率直に認め、日本証券業協会も国内でファイナンスした企業に対して、決算時における「配当性目標」の発表を義務付けた。配当に関するまっとうな議論がようやく出てきたなと感じた。

 JTが新しい流れをつくって下さい

 日本たばこ産業(JT)が上場を果たしたのは1994年10月だった。3年超しの懸案だった。毎年のように政府の当初予算でJTの株式売却が計上されたが、株式市場の低迷を理由に見送られた。94年は流通業界を担当し、上場を控えた当時の水野社長に配当の話を訴えた。

 「水野さん。日本の株式市場が低迷しているのは株価に対する配当率があまりにも低すぎるからといわれています」
 「僕もそう思います」
 「アメリカでもアジアでも株価配当率は2%を超しています。JTの場合、1株配当が5000円ですから 配当率を2%として逆算すると、妥当な売り出し株価は25万円となります。どうでしょうか」
 「アナリストは50万円とか60万円とかいっていますがね」
 「それでは高すぎます。JTは大きな会社です。上場時にJTぐらいまっとうな売り出し価格を示してはどうですか。市場でその後、上がるのは株主の責任です。低い株価でスタートすれば長い目で必ず、株主の信任を得られます。JTが新しい流れをつくって下さい」
 「君の意見には同感だ。JT株は配当で持ってもらえるようにしたい。ただJT株は大蔵省の持ち物だから、われわれだけでは決められないのですよ」

 というようなやりとりが3時間続いた。根気強く聞いてくれたものだと思う。ほかの役員にも同じように訴えたが一笑に付された。結局、売出価格は入札の結 果90万円台と法外に高くなった。大蔵省は株価が高くなった瞬間を逃さなかった。半年経つと日本経済は二度目の"1万5000円割れの危機ライン"に達し ていた。

 護送船団で企業に配当を強要してもいい

 そして3回目の危機ラインが訪れた。気が付くと、あれほど配当に固執していた生命保険は自社の投資利回り確保に躍起となっており、事業会社に対して配当 を云々する余裕をなくしていた。証券業界でルール化されていたはずの「配当性向目標の公表の義務付け」も1996年4月にはなくなっていた。配当率が上 がったわけではない。なにも変わらないまま、みんなが黙りこくり、そしてルールもなくなった。

 東洋経済新報社が四半期ごとに出している「四季報」は配当性向目標をアンケートのかたちで集計しているが、日本を代表する優良企業は集計リストにほとんど顔を見せていない。

 かつてトヨタ自動車は経団連会長企業だったこともあって40%に配当性向目標を掲げていた。この企業の場合、円安で巨額の為替差益を手にしている。40%の配当性向を実現すると22円だった97年3月期配当金を40円近くまで引き上げなければなくなる計算だ。

 確かに業績の下方修正を余儀なくされている企業も多いが、利益を上げている企業は株主に応分の配当をするべきだ。公的資金の導入や景気対策は一時的に株 価を押し上げる効果はあるが、あくまで応急措置でしかない。日本という国家は究極の護送船団を復活させるのだから、配当政策でも企業に利益吐き出しを強要 してもいい。アメとムチはこうして使うのが最も有効である。


1998年03月01日(日)
共同通信社経済部 伴武澄


 日本国憲法は、国民に「その能力に応じて等しく教育を受ける権利」と「子女に普通教育を受けさせる義務」を有することを規定している。さらに「義務教育は無償とする」考えを示している。

 登校拒否は、厳密には「親による違憲行為」となる。だから悪いといおうとしているのではない。教育を受けたくても受けられないほど貧しかった時代の憲法を無理矢理続ける方が人間社会をねじまげるから、憲法の方を直したい。

 公立教育の質低下の根元は「義務」と「無償」

 教育を考えるにあたってに原点は、塾にある。昼間に学校へいって夕方や夜間に塾に通う児童はもはや日本の普通の風景である。同じようなことを二度も勉強 しているのではない。学校には義務でいって、塾でまじめに勉強しているのである。塾を学校法人として認可すれば、ことは簡単である。半数以上の小中学校は 存廃の危機に立たされる。

 いまの公立学校を無料だと考えている人がいたら、その人は相当におめでたい。教員の給与は税金でまかなわれている。国と自治体が負担を折半している。学 校の施設の建設費や維持費もかかる。その費用は年間6兆円におよぶ。国民一人当たりで5万円程度だが、対象となっているのは7歳から15歳の学童である。 学童一人当たり年間50万円を超える負担となっている。

 本格的塾に子供をやっている家庭の年間負担とほぼ見合っていると思う。そう考えると日本という国は壮大な無駄をやっているとしかいいようがない。子供た ちがいやいやながら学校へ行き、塾で真面目に勉強しているのは学校が「ただ」だと考えているからだ。私立の小中学校で凶悪犯罪が起きたという話は聞いたこ とがない。きっと「ただ」でないからだ。

 公立学校の質低下をもたらしている根元は「義務」と「無償」という憲法の規定にあるのではないかと考え始めている。

 塾は学校法人として認可して私学となる

 独立北海道では、教育を受ける権利はあっても「受ける義務」までは規定しない。公立の学校までは否定しないが、無料にする必要はない。私立と公立が競争 できる環境が必要だ。塾は学校法人として認可するからその日から私立学校となる。公立学校は自治体経営とし、国立は廃止だ。たしかアメリカには州立はあっ ても国立大学はなかったと思う。

 日本で、大正時代に多くの中学校が設立された。筆者の郷土の「土佐中」は高知県の財閥オーナー3者が「有為の人材輩出」を目的に出資した。生徒数が1学 年30人の少数精鋭だったが、授業料は公立中学よりも安かった。神戸市の「灘中」もまた同様に酒造会社の有志がお金を出し合った。京都の私学のほとんどは 宗教団体が経営している。江戸時代の学問の支援者は大名だった。村では庄屋がお金を出し、町では商人が塾を経営した。教育が義務でも権利でもなかった時代 は有能な人材が必要な人々が自ら費用を負担した。

 中央集権的国家が成立すると、その負担が国家のものになった。国家全体が貧しかった。社会主義思想の影響もあってどこの国でも「教育の権利」という考え 方が導入された。コンピューターが、ホストコンピューターの時代からパソコン時代へと大きく質的変化を遂げたように国家の在り方もいま、世界的に分権の方 向にある。教育もまた国家が規定する時代ではない。

 私立の学資負担は所得税・法人税の控除対象

 独立北海道では、このほかいくつかの独自性がある。いまの日本では私学に対する補助金があるが、これは廃止する。子弟を私学に通わせている世帯に対し て、年間の学資を所得税の控除対象とするか、公立分の一部を返還する。また、企業など法人が人材育成のため学校経営をする場合も、法人税を税額控除する。 昔の律令制時代の租庸調にならい、現物納税制も一部導入するからである。国の代わりに学校経営をしてくれるのだから当然である。

 また、高等教育ではサッチャー元英首相が導入した「学籍補助制度」を導入する。私立学校に国が一定の学籍を確保し、優秀だが経済的余裕にない家庭の子弟 を進学させる制度である。サッチャー氏が1979年首相に就任して最初に打ち出した改革の柱の一つである。貧しい家庭の子供にも私立学校へ行けるチャンス を設けたのである。

 それから公立学校では、民間企業や定年退職した人材を積極投入する。教育界は世間知らずの教育者があまりにも多い。実学の比率を高めるためにも社会で貢 献してきた人材の登用は不可欠である。定年退職者の採用は、年金負担を減らすだけでなく高齢者の社会参加に大きな効果をもたらすはずだ。

1995年02月28日 北海道が独立したら
1995年06月06日 北海道独立論(2)-財政はOK
1997年09月21日 榎本武揚が北海道に託した新国家の夢(1)
1997年10月13日 松浦武四郎が明治2年、エゾ地を北海道と命名した
1997年11月10日 「燃えよ剣」司馬遼太郎が描く榎本武揚の函館新政府構想
1998年01月16日 続・北海道が独立したら
1998年02月22日 再び北海道独立を考える/民営化国家の旅立ち


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