1998年2月アーカイブ

1998年02月28日(土)
共同通信社経済部 伴武澄


 2月16日付レポート 「『ご説明』-議員やマスコミを籠絡する官僚の手口」を読んだ感想やご批判を多くいただいた。多くの読者に共通した意見もあると思われるので、匿名で掲載させていただいた。

1998年02月27日(金)
共同通信社経済部 伴武澄


 ニューヨークに赴任したことのある資生堂の八木さんの、初めの半年の悩みは当時高校2年生だった娘さんのことだった。公立高校に通わせていたが、いつま で経ってもアメリカの学園生活に慣れなかった。ある日、高校のカウンセラーに「これ以上この学校にいても娘は慣れることはないだろうから、近くの日本人学 校に転校させたい」と打ち明けた。

 カウンセラーからの返事は八木さんを驚かせた。「あと一週間下さい。自分なりに最後の努力をしてみたい」。日本語では平凡な言い回しにしかできないが、 英語ではまるでその娘さんを立ち直らせることが自分の義務であり、一週間の時間が与えられることが担当者としての権利のような言い方に聞こえた。一週間 後、カウンセラーの努力のかいがあって娘さんは見事に立ち直った。

 たった11ドルで得る手厚い教育システム

 アメリカの公立学校の外国人対策は州によって異なるが、八木さんが住んでいたコネチカット州では、英語を第二外国語とする外国人に対する特別の英語クラ スがあり、児童や学生に少しでも早くアメリカに慣れてもらうシステムが定着している。文化や生活習慣の激変で悩む子供たちには専門のカウンセラーも常駐し ている。

 八木さんは言う。「われわれは年間の授業料として体育のウエア代金などたったの11ドルしか払っていないんですよ。なのに外国人に対するこの手厚い教育システム」。ただただ感動した。
 人種差別が横行し、凶悪犯罪が絶えないのが多国籍国家アメリカの一断面だとすると、外国人の定住への公的支援が活発なのももう一つの側面なのだ。在留邦人で、アメリカの行き届いた教育システムに驚きや尊敬の念を抱く人は少なくない。

 ひるがえって自治体を含め長年、国際化を標榜してきたわが日本はどうだろう。日本語が出来ない外国人に対する特別クラスどころか、制度以前の日本人生徒 によるいじめや村八分が待ち受けている。アメリカ社会でうらやましく思うことは、外国人だけでなくマイノリティーや障害者を社会に受け入れていこうとする モーメントが常に存在することである。

 アメリカに差別がないわけでない。アメリカを無批判に礼賛しようというのでもない。1960年代前半までは、それこそ白人と黒人とが別々の学校に通うア パルトヘイトが存在する州が多くあった。しかし、差別をなくそうとする運動は、弱者や有色人種を擁護するアファーマティブ法として結実した。社会の効率を 多少犠牲にしても「正義」を優先したのだ。1990年代に入ってこの法律が逆差別だとする批判もでているが、お蔵入りになるような勢いがあるわけではな い。

 ●求められる"異なるもの"を受け入れる度量
 凶悪犯罪の低年齢化や登校拒否児の増加など、日本の教育現場では深刻な問題を抱えている。「外国人対策どころではない」。そんな声が先生方から聞こえそ うだ。しかし、アメリカだって同じ問題を抱えている。少年犯罪は日本より進んでいるし、スラム地区でも学校の荒廃は日本の比ではない。

 問題は、外国人子弟のアメリカへの定着が、犯罪増加や登校拒否と同じ土俵で論議されているのに対して、日本ではまったく異次元の問題としか捉えられてい ないことである。真の国際化とは、日本人が外国へ行ったり、外国語を使うようになることではない。誤解があってはいけない。日本の中で外国人が不都合なく 暮らせたり、法律的にも日本人と同様の取り扱いを受けられるようになることである。

 日本の教育現場が、外国人子弟がすんなり順応できるような環境になれば、きっと日本人の子供だって気持ちよく学校に行けるようになる。いま、大人にも子供にも日常生活に"異なるもの"を受け入れる度量が求められている。
1998年02月26日(木)
共同通信社経済部 伴武澄


 台湾のベンチャーの旗手の一人である「老台北」(ラオタイペイ)が最近よく京都に来る。なにやら京都のハイテク企業との提携話に忙しいようだ。知り合って4年になる。「義」を重んじる人である。

 その「老台北」の口癖は「最近の日本人はどうなっているんですか」

 「われわれの知る日本には清貧というまれにみる資質がありました。貧しいということは恥ずかしくない。いさぎよさです。あなた若いから知っていますか。清貧な日本人はどこへいったんですか」。元日本人としてはずかしいとも言う。

 ベレー帽姿で現れた「老台北」

 1994年11月末、台北にいた。
 「伴さんはラッキーだ、明日、案内してくれるのは蔡さんですよ。司馬遼太郎の『台湾紀行』に出てくる『老台北』は知っているでしょう」。
 新聞局の朱文清さんが言った。翌日、台湾のハイテクランドである新竹科学工業区を取材することになっていた。日本の空港で『台湾紀行』買って読み始めたばかりだったから、「老台北」には親しみを感じていた。司馬遼太郎を通じて日本人に有名になった蔡さんは、半導体設計会社、Weltrendの会長だが、もともとは日本へウナギの稚魚を輸出する仕事で富を築いた。

 翌日、ベレー帽姿の「老台北」が黒塗りのベンツでホテルに現れた。本名は蔡焜燦。蔡という姓は福建省や台湾に多い。失礼ながら日本の田舎にいけばどこにでもいそうな顔付きのおじさんだった。

 「この車は伴さんのために借りてきました。会長車なんてめんどくさいから持たない主義なんですよ」
 なにも聞かないうちからしゃべりはじめた。日本人に会うと話が止まらないとは聞いていた。新竹工業区までの1時間しゃべり続けた。

 国民党にも裏切られた台湾人

 「わたしね。昔、日本人だったんですよ。戦争中、京都の山奥で炭を焼いていました。京都の学校に行っていたのですが、炭焼きに動員されていたのです。や がて終戦が告げられ、進駐軍から台湾人は佐世保に集結するよう命じられました。台湾が自分の国になると思って涙が出るほど嬉しかったです。佐世保には2ヶ 月いましたが、米軍を相手に英語もうまくなしました」

 「蒋介石政権が接収した駆逐艦『雪風』に乗って、忘れもしない1月2日に基隆に着岸しました。市民が爆竹を鳴らして歓迎してくれました。その時も涙が出 ました。ただ軍楽隊が音楽を奏でましたが、国民党の軍人のみすぼらしさに少し落胆しました。陳義総督が歓迎会で演説して台湾人に三つの約束をしました」

 「国民党はうそをつかない。国民党は賄賂を取らない。そんな内容でした。日本時代には台湾に賄賂など存在しなかったので、みんなでびっくりしました。現 実の国民党や軍による支配は略奪やたかりの連続ばかりでした。国民党に対する期待が大きかっただけに、台湾人の落胆は大きかったのです」

 「わたしは故郷の台中市で教職に就きました。体育の先生でした。卒業式に生徒が日本語で別れの言葉を書いて欲しいというものですから『心に太陽を持て』 と書きました。しかし、この文言が後で騒動を起こしたのです。『心に太陽を持て』という意味が分かりますか。国民党は『太陽』を『日本』の意味に取ったの です。たちまち蔡はけしからんということになりました」

 「こんなところで先生など続けられないと思って、すぐ教職を辞めました。当時は一事が万事そんなことでした。だから基隆に着いて日本人の復員船に乗って そのまま日本に帰って行ってしまった仲間が3人もいました。その騒動がなかったら今頃は校長先生かなにかやって悠々自適ですよ」

 台中市では食べていけなかったため、台北に出て三輪車を引いた。自転車にリヤカーが付いた車両である。以来、ビジネスで運をつかんだ。50年前まで台湾 人は日本人だった。蔡さんももちろんそうだった。蔡さんがほかの台湾人と違うのは、50年前の"日本人"のDNAがそのまま心の中で生きる続けているとこ ろだ。日本人の心などと書くと仰々しいが、そばにいていつも「清貧」を感じさせる人だ。
1998年02月25日(水)
共同通信社経済部 伴武澄


  「臨時・暫定・特定国家論」を続けたい。

 ガソリン価格が下がっている。筆者が住む京都市では1リットル=80円台のスタンドも登場して話題を巻き起こしてる。1995年まで、ガソリン価格の低 下は円高によると説明されてきた。この3年で為替は1ドル=80円から125円まで安くなっている。実は円は50%以上も暴落している。円は暴落している のに輸入インフレは一切起きていない。これも日本経済の7不思議だ。

 ガソリンに限って言えば、価格下落が始まったのは皮肉にも円安に転じた後の1996年からである。通産省が4月からの「特石法」廃止を決めてからだ。マ スコミは、海外の安いガソリンが輸入されれば国内でガソリン価格も破壊されると書き立てた。さっそく大手商社やJA農協が韓国から輸入を始め、本当に価格 が下がり続けた。

 ライオンズ石油のガソリン輸入を阻止した通産省

 ガソリンが安くなることにけちをつけるのではない。「特石法」を輸入解禁のための法律だと喧伝した通産省に異議がある。「特石法」の正式名称は「特定石 油製品輸入暫定措置法」という。1986年から施行されている。法律名を素直に読むと「特別の石油製品(ガソリン)を暫定的に(当分の間)輸入していい法 律」としか理解できない。それがなぜ「輸入解禁」つながったのか。そこが問題なのである。

 実は「特石法」成立の背景には生臭い物語が横たわっていた。神奈川県のライオンズ石油というガソリンスタンド業者が海外から安いガソリンを輸入しようとしたことが引き金となった。当時の石油業法では「石油製品の輸入には通産省への届け出が必要」と書いてあった。 ガソリンを輸入しようとする業者が書類を提出すれば「輸入は可能」だった。たまたまライオンズ石油の佐藤社長がガソリン輸入の手続きを取ったことが通産省を揺さぶる大事件に発展することとなった。

 日本の石油精製業を育ててきた通産省は、それまでガソリンの輸入は事実上、認めてこなかった。護送船団に乗ってきた石油業界が通産省の虎の尾を踏むはず もなかったし、地域の小さなスタンド業者がガソリンを輸入するノウハウがあろうはずがない。通産省はそう高をくくっていた。だから法律であえて輸入を禁止 する必要がなかったが、時代は確実に変わっていた。ただ官僚に変化を読む目がなかった。

 曲折はあったものの佐藤社長はシンガポールからタンカー一杯分のガソリンを調達した。1986年1月、タンカーが大阪の堺港に着岸し、ガソリンは保税タ ンクに入った。戦後初のガソリン輸入が実現する瞬間が待たれた。しかし、そのとき佐藤社長の電話にかかってきたのは城南信金からの突然の「融資差し止め通 告」だった。輸入代金は城南信金からの融資が前提だった。この間、なにが起きたか大方の読者は想像ができただろう。

 黒を白と言いくるめた「特石法」

 結局、保税倉庫に入っていた大量のガソリンは石油化学製品の原料であるナフサとして日本石油が引き取り、輸入ガソリンは"一滴たりとも"日本に上陸しな かった。そこで緊急に生まれたのがくだんの「特石法」なのである。これほど早く法律が出来てただちに施行された例はほとんど例を見ない。

 当時の日本は先進国の中で最も経済のパフォーマンスが好かった。そんな先進国日本が石油製品といえども「禁輸法」を制定するわけにはいかなかった。そこ で「特定石油製品輸入暫定措置法」という素人には輸入を促進する法律と錯覚させるような法律名がうまれた。条文には苦肉の表現が考えられた。つまり「石油 の備蓄、精製、品質調整の各設備を備えた事業者のみがガソリンや灯油、軽油など石油製品を輸入できる」ことを盛り込んだ。これまでだれでも自由に輸入でき た石油製品が特定業者がけの特権となった。通産省は「小さなスタンド業者に安いガソリンを安定供給する能力はない」とうそぶいた。辻褄はあっているが、ど う考えてもへりくつである。黒を白と言いくるめるのに等しい。

 輸入ガソリンで市況を乱してほしくない大手石油会社が、ガソリンを輸入するとは到底考えられない。こうして偽りの法律が一つ、通産省の手で作られた。 作ったのは素人ではない。内閣総理大臣を交えた閣議で国会への上程を決定し、国民の代表である国会議員が決めた。当時この法律名に異議を唱えた閣僚や議員 がいたという話は聞いていない。

 話を戻すと「特石法」による暫定期間は10年だった。1996年4月からガソリンの輸入が"解禁"したのは解禁という前向きの立法行為ではない。「特石 法」がただ単に法律上、期限切れとなっただけである。規制緩和という市場命題を与えられていた政府が世論の手前、もはやガソリンの禁輸(特石法の暫定期間 の延長)を続けられる環境ではなくなっていただけのことである。

 02月11日のレポート 「租税特別措置法で2倍払わされているガソリン税」で「臨時・暫定・特定国家」について言及した。「特石法」には「暫定」と「特定」の二つの要素が入っていたことに着目してほしい。


1998年02月24日(火)
共同通信社経済部 伴武澄


  金融安定化策がいよいよ動き出す。金融機関の破綻を先送りする巨大なプロジェクトが、将来の国民負担をどれだけ大きくするのか、優良な金融機関をどれほど痛めつけるのかまったく見当が付かない。

 金融安定化策は2000年までの時限措置だが、今後3年間で経営難の金融機関が蘇生する可能性はゼロである。30兆円という金額は大蔵省が公表している 金融機関の不良債権総額72兆円の半分である。不良債権をただちに国民に半値で売れる勘定だ。5000万円のマンションが60万戸も購入できる金額でもあ る。

 30兆円はきっと、3年後にはブラックボックスに消える運命にある。国民の犠牲の上に成り立っている低金利経済がこれだけ続き、金融機関が毎年、巨額の償却額を計上してもなお、不良債権が増え続けてきたのである。

 金融安定化策をおさらいすると、
(1)預金保険機構に公的資金30兆円を投入して、破綻した銀行の預金者保護に17兆円、銀行の自己資本増強のために13兆円使う
(2)銀行が保有する株式の評価法を現在の低価法か原価法か選択できるようにする
(3)4月1日に予定していた早期是正措置の発動を1年延長する
(4)銀行が保有する土地についても簿価から時価に再評価する
の3つに集約できる。

 たこ足経営にすぎない金融安定化策

 公的資金30兆円は、政府が保有するNTTやJT株を担保にした借り入れと新型国債が主な資金源である。ではだれがNTT株を担保にお金を貸し、だれが 新型国債を購入するのだろうか。数年前ならば「ザ・セイホ」が潤沢な資金源だった。いまや生保といえども保険金を割の合わないポートフォリオに組み入れる ことはできない。そうなると不思議なことに金融機関が資金源とならざるをえない。

 昔、国債購入は国民の貯蓄の一形態だった。お年寄りなど金利生活者にとって"安心"な国債を持つことは老後生活の安心感だった。しかし、マル優の適用が なくなってから誰も国債など買わなくなった。1980年代後半以降は国債は金融機関が市場で売買して利ざやを稼ぐ道具になった。

 金融機関につぎ込む公的資金を金融機関が供給するというおかしなことが、これからの日本で始まる。金融機関が不足する自己資本を増強するために金を貸す という行為は卑近な例えで言えば「たこ足経営」という。日本の金融機関全体で考えれば、手数料と金利負担が金融機関の負担として増えるだけである。預金者 の金を直接、自己資本に取り入れることができないから、優先株や劣後債の導入というバイパスを取っているだけにすぎない。

 ●株主訴訟におびえる東京三菱銀行
 もう一つの疑問がある。東京三菱や住友、三和のように自己資本の増強が不必要な銀行まで公的資金の取り入れを強要されることである。優先株は株主総会で の議決権がない代わりに普通株より配当が高い。劣後債もまた返済順位が"劣後"な分金利が高い。さくら銀行が96年10月取り入れた優先株は2000円の 売出価格に対して45円の配当をしている。大和銀行は500円で配当は24.75円だ。導入した金融機関は自己資本の増強の見返りにすでに普通株の5倍以 上の配当を負担している。

 市場原理はすべてのことがトレード・オフの関係にある。メリットとデメリットは共存する。経営が立ち行かない金融機関が公的資金で自己資本を増強するの はやむを得ないとしても、優良行まで巻き添えにする権利は国家にはない。もし不必要な自己資本増強を強行するようなことが起これば、株主訴訟は免れない。 東京三菱や住友などの経営者が、大蔵省の豪腕に屈することになれば、すぐさま株主訴訟におびえる日々が待っていることになる。

1998年02月23日(月)
共同通信社経済部 伴武澄


 日本の消費者の多くは「輸入野菜は怖い」「農薬にまみれている」「やっぱり国産は安全」などと国産品に対して信仰に近いものを持っている。2月15日、「消費者団体って誰の味方なの/ワシントン・アップル事件」で必ずしも日本の農業は安全でないことを指摘した。

 オーストラリアの米作は懐かしい輪作

 日本にはほとんど知られていないが、オーストラリア産のコメはほとんどが農薬や無機肥料を使用していない。1993-94年のコメ不足時に輸入された オーストラリア米にポストハーベストの農薬処理が施されたことがあるが、日本の消費者の不満が高まりただちに中止した。理由は簡単だった。ポストハーベス トは、病害虫の危険がないにもかかわらず、日本の農水省が求めたものだったからだ。

 同国のコメの主産地はビクトリア州。乾燥地帯だが、オーストラリア・アルプスの豊富な水量を利用した稲作が行われている。明治時代に愛媛県から移住した高須賀穣氏が日本から種もみを持ち込んだのがきっかけだ。だから伝統的にオーストラリア米はジャポニカなのだ。

 多くのコメ生産者は稲作に「輪作」を導入している。農地が狭い日本ではほとんど見かけない農法である。中学か高校の授業で習ったはずだ。1年目にはヒツ ジを放牧、2年目にはマメ類を植えて空気中から窒素を回収し、3年目にようやく田植えが始まる。ヒツジの放牧とマメ類の栽培で土は十分に肥えており、驚く ほど肥料がいらない。輪作などというぜいたくな農業は広大な耕地があるオーストラリアならでは農法である。

 さらにこの地方が乾燥地帯であることのメリットは、害虫や病気が少ないことである。オーストラリア米輸出組合によると、肥料がいらないうえに、農薬の散布も最小限で済む。日本での有機栽培は、田んぼの管理に細心の注意が必要だが、オーストラリアでは自然環境が有機栽培を促す環境にある。恵まれていると言 わざるをえない。

 日本人が広めた乾燥地・冷寒地でのコメ栽培

 コメは高温多湿のアジアが発祥の地とされるが、現在では品種改良により、寒冷地や乾燥地帯での栽培も可能となっている。もちろんタイやミャンマー、ベト ナムなど東南アジア諸国では年に3回も作付けが行われ、高温多湿の地域が世界の主要な産地であることに変わりはない。しかし、アメリカのコメ産地は温暖だ が比較的乾燥しているカリフォルニアやアーカンソーが主産地。イタリアやスペインも同様に乾燥地帯である。実はナイル川下流のエジプトも日本の技術援助に よってコメを多く生産できるようになった。

 日本でも亜寒帯にも属する北海道が最大の産地となっており、おいしいコメの産地は新潟県の中山間地である魚沼郡や宮城県だ。決して高温多湿が稲作の必要 条件ではなくなってきている。コメは水と夏期の強い日差しがあれば、どこでも栽培可能なのである。病害虫被害の観点からみれば、いまではむしろ多湿である ことがマイナス要因になっている。

 中国の内蒙古や東北地方など冷寒地でのコメ栽培は戦前、日本の開拓農民が始めたものである。遡って、テキサス州にライスという地名が残っている。ブッ シュ前大統領時代にサミット(先進国首脳会議)を開催した地として有名になった。明治時代に高知県出身の西原清東(さいばる・きよとう)が入植してジャポ ニカを栽培し、いまでは地域産業となっている。

 西原氏は、筆者の故郷、高知県の偉人でもある。余談だが坂本竜馬の遠縁に当たる。クリスチャンで、京都の同志社大学の学長や衆院議員も務めた。最後はアマゾンに桃源郷をつくろうとしてそこで終生を終えた。

 評論家の石川好氏は青年時代、カリフォルニア州の農園で働いた。戦後の日本は、多くの農村青年を研修生としてカリフォルニア州に送り込んだ。アメリカで はメキシコ人同様、単なる外国人労働者だった。明治の日本人は海外に雄飛して、コメ作り文化を残した。重要なことは彼らは灌漑という土木事業までこなした ことである。いまも乾燥地帯でコメが栽培できるのはその灌漑用水のおかげである。

 1990年代半ばにコメ不足に窮した日本人たちは、そんな明治の先達の苦労を知ってか知らずか「まずいコメ」と評して拒否しようとした。

1998年02月22日(日)
共同通信社経済部 伴武澄


 素人が国家の枠組みを考えていけないはずはない。というより考えなければいけない時期にきている。天下国家論との出会いは1995年2月に始まる。改革 の必要性を議論しながら自ら何も変えようとしない政治家や官僚、そして企業経営者を見続けてきた。もはや既存の政治家や霞ヶ関の官僚だけにまかせるわけに はいかない。もはやこの日本はもたないと考えた。真面目に国造りを考えようと考えた。

 1995年の寒い時期、若き農水官僚とビールを傾けながら語り続け「北海道独立論」にたどりついた。二人の議論は1995年02月28日 【北海道が独立したら】として農水省の部内報「AFF」に掲載された。その後、1995年06月06日 【北海道独立論(2)-財政はOK】を書いた。読んでいない方は萬晩報の旧バージョン「日本を映す三面鏡」で書いた二つの論文を読んで欲しい。

 その若き官僚は、職を辞し、念願の北海道に住みついた。3000坪の敷地を購入し、スウェーデン住宅を建て家族5人で豊かに暮らしている。一つの生き方だ。これからは一人で北海道を考えなければならなくなった。いずれまた、仲間も生まれてくるだろうと期待している。

 独立の基本財産は民営化から

 台湾経済の基盤は、旧日本企業の資産売却によって形成された事実を知っているだろうか。戦後、台湾に進駐した国民党政府は、まず農地改革に着手した。中 国大陸でできなかった改革を新天地で試行した。戦前、台湾で経営していた日本企業はすべて国民党に接収された。接収した日本企業の株券の存在は、台湾の農 地改革に大きな役割を果たした。国民党は株券を代償として地主から農地を買収した。

 電力や石油、鉄鋼など大型企業は国営となったが、多くの企業は土地放出の代わりに経営権を入手した地主層によって再スタートを切った。台湾の幸運は経営に値する企業群を日本が残したことだった。 そして、台湾の英知は、その企業群を自ら経営せずに民間の手に委ねたことだった。

 国営企業を売却して財政を潤わす発想は、まさに1979年に発足した英国のサッチャー政権のアイデアのように思われているが、それをさかのぼること30 年前の台湾で実施されていたことは、驚くべきことである。サッチャー政権の場合は、売却資金で財政赤字を埋めたが、台湾では農地改革という前向きの資金に 活用した。

 郵便事業はクロネコ大和に?

 わが北海道連邦でもこのアイデアを取り入れないわけにはいかない。ただ独立後の北海道は、旧日本企業を接収するようなことはしない。安いピリカで外国資本の導入を狙うのが建国のひとつの考え方なのだから、そんな野蛮なことはできないし、各国の理解を得られるはずもない。

 北海道連邦が売却する資産は、民営化する公的機関である。空港、港湾、高速道路といった運輸交通インフラは当然対象になる。日本政府が経営していた郵便 貯金事業も、郵便と金融、保険に分離して、それぞれ民間に売却する。クロネコ大和やフェデラル・エクスプレスが郵便配達をするかもしれない。

 学校も高等教育は国立とはしない。自治体による高等教育の経営まで禁止するわけではないが、北海道大学や帯広畜産大学などは売却する。一般的に赤字の公 営事業を買収する民間企業などいるはずがないと考えるのは間違いである。公営企業は人件費のかたまりだから採算が合わないのであって、人員を2分の1、3 分の1にすればコストが合うはずである。

 現在の日本の公営企業のコストのかなりの部分が監督官庁の天下り役員の給与や交際費のつけ回し、タクシーチケット代などで消えている。規制緩和で監督官庁との癒着を解消すれば採算がとれる。

 どれだけの資産価値があるのかまだ試算したわけではないが、2-3兆円規模の年間予算を大幅に上回ることは確実である。そして、資産売却は透明性を確保するため、公開入札制を基本とする。外国勢の参入もかなり認める方針である。



1998年02月21日(土)
共同通信社経済部 伴武澄


 韓国商社が加速させたウオン安

 韓国を担当する友人の商社マンからおもしろい話を聞いた。筆者が「なんでアジアの通貨はあんなに乱高下するんだ。1日に2割も3割もどうして動くんだ」という質問の答えである。

 「韓国では為替市場にウオンの買い物がほとんど出ないんだ。売りばっかりで気配値がずるずる下がる。少額の買いが出たところでパッと値が付く。もはやアジア通貨は売り買い交錯の中で付くはずの市場価格ではなくなっているのだ」

 「韓国だって巨額の輸出をしているし、輸出で稼いだ外貨で労働者に賃金を支払わなければいけない。大手商社の輸入代金は為替市場でウオン買いの要素ではないのか」

 「いい質問だ。韓国の大手商社は昨年末までは輸出代金の振込先をソウルではなく、東京支店やニューヨーク支店に変更していた。だから輸出で稼いだドルが 一切、韓国に環流しなかった時期があるんだ。為替の動きをよく調べてみてごらん。韓国ウオンが急落したのは10月から12月でしょ。あの時、韓国の大手商 社がちゃんと国内に環流させていたら、あんなめちゃくちゃなウオン安は起こらなかったはずだよ」

 事実、韓国通貨は昨年12月は朝方、1ドル=1400ウオンだったのが昼過ぎに1900ウオンになり、夕方再び1500ウオンに戻る乱高下が続いてい た。筆者はアジア通貨下落の引き金は国際通貨マフィアだったと信じている。しかしその後の展開は通貨マフィアといえども予想できなかったのではないかと思 う。

 アジアから逃避する華僑資本

 国際通貨マフィアといえば、端的にいえばロンドンやニューヨークに拠点を置くユダヤ系金融資本となる。ルービン財務長官などアメリカの歴代の財務長官は いつも、いくつかの金融資本のトップ経営者から選ばれている。この事実は日本では意外なほどに忘れ去られている。アメリカの支配下にある国際通貨基金 (IMF)の動きが速かったのは記憶に新しい。500億ドル超の韓国支援策はあっという間に決まった。さすがに「行きすぎた」と考えたのだろう。日欧米は 巨額の資金を韓国に貸し込んでいたから、回収不能になっては元も子もない。

 ここらの分析については回を改めたい。話を戻そう。通貨下落の引き金は通貨マフィアだったとしても、その後の下落は国内的要因に負うところが少なくな かった。韓国の場合は特にそうである。稼いだ外貨が環流しなかった。一番被害が大きいインドネシアも経済的強者である華僑社会を痛めすぎたつけが回ってき た。そもそもインドネシアで政治的弱者だった華僑財閥は1996年から資本を安全なシンガポールや香港に移し始めていた。これは資本逃避であり、資金流出 である。メキシコの通貨危機は毎回、国内財閥の資本逃避が悲劇を大きくした。インネシア華僑のそうした経営手法はきのう、今日に始まったものではない。い つの時代も資金の運用先として香港を重視していた。

 橋本首相はアジア首脳と苦悩を共有すべきだ

 きっと日本企業の現地法人だけが律儀に輸出で稼いだ外貨を為替市場に持ち込んでいるのではないかと想像している。皮肉にもグローバル・スタンダードであ る「資本の論理」が欠如している上、通貨変動に対するクイック・デシジョンができないからだ。日本の現地法人は現地雇用の大規模解雇を断行したわけではな い。逆になんとか部品の現地調達比率を上げられないか考えている。日本企業の後進性が現在のアジア経済を救っている側面は否定できない。

 いまは、日本がアジアを救う戦後最大のチャンスである。国内に不良債権問題に端を発した金融不安を抱えていることは確かだ。しかし、昨年後半来、アジア 各国首脳が緊密に取り合っており、台湾の李登輝政権は行政院長(首相)自らが「南向政策」の一環としてインドネシアやフィリピンを訪問し、金融支援の手を 差し伸べている。台湾は外交関係がない国々に対して関係強化を目指す絶好のチャンスととらえている。日本はすでにIMFを通じた支援に加えて多額の個別支 援策も表明しているが、せっかくのチャンスに「face to face」の関係を築こうとしない。こういう時勢にこそ橋本首相自らがアジアを歴訪して、アジア首脳の苦悩を共有すべきだと思う。

1998年02月20日(金)
共同通信社経済部 伴武澄
【事実誤認がありました。20日午後11時半に記事を差し替えました】

 総務庁の物価統計への疑問から生まれた西友物価指数

 1993年から94年にかけて流通業界を担当したとき「生活感覚で下がっているはずの消費者物価が総務庁統計ではなぜマイナスにならないのか」という疑 問を持ち続けた。流通記者クラブでもよく議論になった。西友の決算発表の場でその疑問を坂本春生専務(当時)にぶつけた。

 「われわれも同じ問題意識を持っている。何万という生活物資を扱っているスーパーでみても商品の販売単価は年に6%も7%も下がっている。そういうことなら西友物価指数をつくってみましょうか」

 思わぬ展開になった。半年度に約束通り「西友物価指数」が生まれた。坂本専務の英断である。半年に一度の発表だったが、われわれはかなりの力点を置いて この新しい試みを報道した。サラリーマンは百貨店で背広を買うのをやめて真新しいロードサイド紳士服店に向かった。ビールやウイスキーは量販店で購入する 習慣ができた。既存飲食店のシェアを奪ったはずのレストランチェーンはコンビニの「お弁当」に価格で挑まれていた。物価動向はどうみても総務庁統計より 「西友指数」に正確さがあった。

 ここから先は、われわれの業界の怠慢である。1年、2年で担当が代わり新しい流通担当記者は「民間の新しい試み」にあまり興味を示さなくなった。記事化 されない情報は発表側としても「無駄な労力」と映り始めたに違いない。3年で「西友物価指数」は姿を消した。マスコミにとっての関心は、いつの間にかイン ターコンチネンタル・ホテルチェーンやファミリーマートの売却を迫られた西友の経営危機に移っていた。もはや流通業の第一線で総務庁の消費者物価統計のお かしさを問う記者はいなくなった。総務庁の統計は調査方法を変えることもなく「一級品の統計」として生き延びている。

 実現できなかった物価下落による経済成長

 政府統計には必ず、使用する目的がある。国土庁が毎年発表する路線価は相続税支払いの根拠にする数字。日銀は毎月卸売物価指数を発表して市場金利操作の 材料にする。消費者物価は経企庁がGDPを算出する際の重要な要素のひとつとなる。簡単にいえば、名目の経済成長率から消費者物価上昇率を差し引くと実質 成長率となる。日頃の経済動向は実質成長率で語られるため、消費者物価の動向は大変重要な経済指標なのだ。

 1993年から95年まで円高が大きく進んだ時期は、消費者物価指数が大きなマイナスだと、場合によっては実質成長率が名目成長率を上回る可能性があっ た。経済学者や評論家は「デフレ経済」を語り始めた。円高は輸入物価を下げただけでない。競合する国産商品の価格にも大きな影響を与え始めた。物価下落が 成長率を押し上げるという消費者にとって、初めて円高のメリットを十二分に享受できそうな予感があった。

 日本企業にとって1980年代の円高は輸出競争力の喪失を招いただけだったが、90年代の1ドル=100円を超える円高は国内市場の喪失を意味した。鉄 鋼業界を頂点としたカルテル体質は素材産業から消費物資まで外国製品を締め出す便利なツールだったが、価格破壊を目指す流通業者が相次いで登場し、マスコ ミも新興勢力の進出を歓迎した。三菱グループが日本の鉄鋼価格の高さに音を上げ、韓国製鋼材輸入を宣言するや、さすがの強靱な日本的カルテルも崩壊の危機 に瀕した。

 しかし、消費者にはこうした動きは正しく伝わらなかった。総務庁の調査項目に輸入コカコーラや並行輸入化粧品の小売価格はなかったからだ。政府がより正しい消費者物価指数を計算しようとしていれば、当時の消費者物価指数は「西友物価指数」並みの大幅下落となったはずだ。

 消費者物価指数がマイナスになっていれば、実質経済成長率が名目成長率を上回り、低い名目成長率でも実質成長率を押し上げるという近代経済学にとっても 非常に興味ある研究素材となったはずである。消費者は常に勤労者でもあり、勤める企業の国内売上高が減少するのは困る。だが、それを上回って物価が下がれ ば生活には困らないはずだ。変化を認めようとしないお役所のおかげで"物価下落による成長率押し上げ効果"はまぼろしに終わった。そして気が付くと世界経 済はドルが復活、円の時代が終わっていた。

1998年02月19日(水)
共同通信社経済部 伴武澄


 フィランソロピーはアフリカの水場のようなもの

 「私はフィランソロピーについて『アフリカの水場の動物みたいなもの』と社内に説明している。野ネズミは水場のどこでどれくらい水を飲もうと自由だが、ゾウはそうはいかない。どこに立って飲むかさえ気を付けなければいけない。他の動物に迷惑をかけてはいけないからだ。ゾウは責任ある態度で示すだけでな く、他者から見て責任ある立場で行動していることを理解させる必要がある。それが社会貢献の原点だ」

 フィリップモリスの文化スポンサーシップ担当役員に企業の文化社会貢献について聞いた事がある。この会社はいまでこそタバコと食品の世界的コングロマ リットだが、1960年代、バージニア州の小さなタバコ会社にすぎなかった。そんな時代からモダンアートのなかのポッブアートという分野を育ててきた。ア メリカでの企業フィランソロピーの草分け的存在だった。売上高が10兆円に近づいているいまも文化創造の"旦那衆"的存在である。 ニューズウィークはフィレンツェのメジチ家にあやかって同社を「コーポレート・メジチ」と称したことがある。

 アメリカでは,1960年代後半、多国籍企業に対する批判への高まりから「社会的責任論」として企業によるフィランソロピー活動が台頭した。アメリカで はもともと民間が経済や文化の発展の担い手として発展してきた経緯がある。強者として、あるいは富む者としての義務が問われ続けた社会でもある。権利だけ を追い求めた戦後の日本社会との成り立ちの違いがある。

 バブルの絶頂期の1990年3月、日本でも財界を中心に「企業メセナ協議会」が設立された。アメリカにはそのような企業団体はないが、英国に ABSA(芸術助成企業協議会)が生まれたのが1976年。フランスのADAMACAL(商工メセナ推進協議会)の設立は79年だった。戦後、どこの国で も産業が高度化し、富が企業に集中するようになった。フィランソロピーの担い手は個人から企業に変わりつつあった。

 日本の企業メセナ協議会は参加企業に対して売上高の1%相当の社会貢献事業を提言した。大蔵省は金融機関の接待攻勢には積極的に応じていたが、文化や社 会貢献には関心を持たなかった。経団連が求めた法人税の軽減には一切耳を貸さなかった。アメリカでは企業所得の10%まで非課税で社会貢献できるし、フラ ンスでも売上高の0.1-0.3%の非課税枠がある。日本は資本金や利益額で換算するややこしい仕組みだが、アメリカやフランスに比べて3分に1から8分 の1規模の資金しか非課税で社会貢献に使えない。

 日本にも欲しい「コーポレート・メジチ」

 どう考えても日本の方が欧米より企業中心の社会である。アメリカなどでは法人税の最高税率と個人所得税のそれはほとんど同じである。日本の企業役員の給 与が欧米と比べて格段に低いのはこの税制によるところが大きい。役員専用車を使う場合でも、外部との接待費の支出でも会社経費にすれば税制上有利になるか ら、会社経費で落とし役員報酬は低いほうがその役員にとっても有利なのだ。余談だが、税制こそが社会を変える根元となる証左がここにある。日本が企業中心 ならば、社会貢献もより多く企業に依存するのが道理でなないだろうか。

 日本の企業による「交際費」は年間3兆円を優に超えている。誤解があるかもしれない。大企業の交際費は税制上、非課税でない。非課税なのは中小企業だけ である。対して政府の文教予算は年間4兆円である。これは教職員の給与も含めた額である。企業社会は課税ベースの「交際費」のほかに企業は会議費や販売促 進費など非課税の項目でさらに多くの接待費を浪費している。これはほとんど把握が不可能である。筆者の勘では10兆円や20兆円はあるのではないかと見て いる。

  日本の企業税制がフィランソロピーに不利に働いていることは確かである。税制は政府の問題であるが、企業の巨額の接待費支出を考えれば、その10分の1でも、20分の1でも社会貢献活動に支出できないはずがない。01月21日(水)に書いた 「震災地で子供たちの心をいやす元プリマドンナ」の浮島智子さんも言っていた。「プリマドンナ自らが公演の度に切符売りまでしなければならない状況で日本ではバレエが育たない。人材はみんな海外に流出している」と。日本にも「コーポレート・メジチ」が欲しい。
1998年02月18日(水)
共同通信社経済部 伴武澄


 以下と以上の議論を知っているか

 これは、最近まで大蔵省の事務次官を務めていた小川是氏が課長だったころの会話である。

 「君は以下と以上の議論を知っているかね」
 夜回り先での会話である。住宅問題を議論していた。
 「知りません。何ですか。それ」
 「つまり、戦後の日本の住宅が貧困な理由なんだが、私がまだ駆け出しの事務官だったころ主計局であった論議だ。住宅金融公庫をつくって国民の住宅取得に安い金利の資金を提供しようということになった。そのとき、融資対象を45平方メートル以下にするか、以上にするかで議論があった。私は以下にしたら貧相な家ばかりになると以上に賛成したんですが、金持ち優遇になるとかで以下になった経緯があるんです。現実も発想も貧しかったんですね」

 45平方メートルは当時の一般的な公団住宅の2DKの広さである。日本はいったん規格や基準が決まると基本路線をなかなか変られない。住宅金融公庫のこ の融資基準も30年来、ほとんどいじくられていない。融資対象物件の上限価格だけは天井知らずに上がった。日本は有数の金持ち国である。国土が狭いから多 少は地価が高くても仕方ない。しかし、狭すぎる。いま首都圏で販売される新築マンションの平均的居住空間は60-70平方メートルである。子供が一人の家 庭ならまだしらず、二人、三人ともなれば窮屈だ。恥ずかしくて人も呼べない。

 そんな空間に35年間ものローンを組むのである。昭和40年代に東京都内で建設されたマンションはそんなに狭くない。少なくとも一回りは広い。役人の発 想が貧困だから国民に対する住宅政策まで貧困になる。実は多くの公務員住宅も狭かった。ほとんどが公団規格だからである。狭い公務員住宅に住んでいた公務 員が「われわれでさえ、こんなところに甘んじているのだから」と以下の発想になったに違いない。またちなみに小川氏は世田谷に、外国人を呼んでも恥ずかしくない一戸建てに住んでいた。「以上の発想」が出てきたのはそういうことである

 足軽長屋に見た公団2DKのプロトタイプ

 新潟県新発田市へ行くと新発田城址に近くに「足軽長屋」が残っていて観光地の一つになっている。つい最近までどこの城下町にもあった長屋だそうだが、老 朽化してみんななくなった。新発田市だけは頑丈だったのか現在に残ったから観光地になった。歴史的遺物ではなく、ここでもつい15年ほど前まで庶民が住ん でいたそうだ。案内を頼んだタクシー運転手が「僕が生まれて住んでいたところ」とガイドしてくれた。少なくとも明治になって100年以上たっているから相 当に古い。

 中をのぞくと、6畳の土間があって、奥に6畳の囲炉裏の間、居間は6畳と4.5畳。一間半の押し入れがついている。つまり6畳間を四つくっつけただけの造りである。「これはまさに究極の2DKだ」とひらめいた。囲炉裏の間はダイニングキッチンそのものだ。煮炊きしながら食べる場でもある。個別に風呂とトイ レを付けた分だけ少々面積が広い。平屋で木造の足軽長屋を鉄筋コンクリート建ての5階にして現代に再現すると公団住宅となる。公団の2DKを設計した人はこんな長屋に住んでいたに違いないと直感した。

 それがどうしたといわれるかもしれない。おっとどっこい。江戸時代の足軽だった人には申し訳ないが、お金持ち国の住宅の基準がいつまでも足軽長屋でいいはずがない。

1998年02月17日(火)
共同通信社経済部 伴武澄

 村田製作所は京都府長岡京市の本社を持つ隠れた優良企業である。セラミックスコンデンサーなど多くの電子部品で世界シェアを席巻している。長年、地道な 製品開発と品質追求を重ねた結果「振り返ると世界中の競合部品メーカーが淘汰されていた」という。「うちの部品はブラックボックスだから、まねもできない し、コストも分からない」。村田の社員、誰もが自慢するノウハウである。

 1980年代以降、日本企業が収益力を失う中で10%を超える売上高経常利益比率を上げ続けている。収益力の高さは、外国人株主の比率の高さが実証して いる。しかし、村田製作所に対する外国人株主の評価は業績だけにあるのではない。同社のファイナンスの姿勢にこそその神髄がある。

 世界に名を高めた"時価発行中止事件"

 日本中がバブルに酔いしれた1980年代後半、村田製作所の経営陣は市場からの資金調達を断固として拒否した。理由は明白だった。「株価が高すぎる。異 常な水準で時価発行すれば後々、株主に迷惑がかかる」。多くの名門企業が「錬金術」に励んでいた時、村田はジッと我慢した。まもなくバブルが崩壊した。時 価発行に応じた株主は株価暴落に天を仰ぎ、転換社債やワラント債を発行した企業はその後始末に苦しむことになる。多くの企業は「転換社債でただの資金を調 達した」つもりだったが、ほどなく株式への転換がほとんど進んでいないことに気付く。ヤオハンは返済期限が来て"単なる社債"と化した転換社債の償還資金 を持っていなかったため倒産した。

 創世記のシンガポール市場で初の時価発行を実施した外国企業が村田製作所だった。いまでこそシンガポールはアジアの金融市場としての地位を勝ち得ている が、当時のシンガポールで起債するような先進国企業はなかった。村田の場合、国内での知名度の低さがアジアでの起債の道を開くことになる。日本では誰も村 田の時価発行は応じなかった。

 シンガポールでは村田の名を世界的に高める事件が待っていた。1974年夏、発行条件まで決まっていた時価発行を突然、中止した。前年のオイルショック で世界経済はじわじわ不況色を強めていた。「株主への損害を回避するため」というのが同社の言い分だった。結果的に同社は創業以来初めての赤字決算とな る。翌々年から業績が回復、予定通り時価発行増資にこぎ着けたが、「時価発行増資の中止」という英断がその後、アジア市場での信頼を勝ち取り、世界の証券 市場での地位を築いたという。その教訓がバブル時にも生かされた。

 現在、村田製作所は、シンガポールはじめ、アジアで7カ所、欧米に4カ所、計11カ所に海外生産拠点を持つ。村田のモットーは「消費地での生産」であ る。単なる輸出企業でないところにグローバル経営がある。1997年3月期の連結売上高3306億円のうち海外比率は57%に上り、654億円の当期利益 も半分以上を海外が稼ぎ出している。村田にとっての課題は、1994年から北京と江蘇省無錫市で相次いでスタートした中国オペレーション。「近い将来、連 結ベースでの売り上げを10%にまで持っていく」考えだ。シンガポールに次ぐアジアでの第二の生産拠点に位置づけられている。

 日本企業はバブルの時にも配当しなかった

 筆者の大阪勤務が始まって10カ月になる。昨年5月の97年3月期決算と11月の9月中間決算をみてきて、関西には高い収益力を誇る中堅企業が意外に多 いことが分かった。収益力のある企業はほとんど例外なく株主重視の経営をしている。配当金額が高い京セラと任天堂。一株利益が上場企業トップの400円を 超えるキーエンス。村田製作所、堀場製作所、シマノ。まだまだ多くある。配当で株主還元していない企業は度重なる無償増資や株式分割といった手法で投資に 対して報いている。

 日本の株式市場が低迷をはじめて、すでに8年の年月が経過した。かつて香港証券取引所の幹部に取材した時の言葉が忘れられない。1993年の春だった。 香港市場は前年の高値の半分近い水準に暴落していた。パッテン総督(当時)と中国との返還をめぐる緊張が高まったことが背景にあった。

「香港もバブル崩壊 ですか」と聞いたら「香港株式は企業業績に連動して配当も上がっている。株価のピーク時でも株価配当率は2%を超えていた。日本企業はバブルの時にちゃんと配当しなかった。その違いは大きい」ときっぱり語った。

 1992年以降、日本の株式市場は公的資金を導入した。100円割れの銘柄が続出した昨年12月は、減税をしないと言っていた橋本政権が突如、2兆円減税を言い出し、30兆円の金融安定化策も打ち出した。株価を一時的に支えることはできるが長続きしないことは過去の株価策が示している。株価を維持するに は究極的には「投資に対する価値」を上げるしかない。先進国企業で配当性向(利益の還元率)が20%とか30%と極端に低いのは日本だけである。

1998年02月16日(月)
共同通信社経済部 伴武澄


 官僚からかかる突然の電話

 突然、郵政省の某課長補佐から電話がかかってきた。郵政省など担当をしたことはない。面識があろうはずがない。「日本の携帯電話市場についてご説明した い」というのだ。ある雑誌に「世界の携帯電話市場は欧州規格のGSMが席巻している。GSMは欧州、アジアとアフリカのほとんどの国でローミングできるの に、日本のNTT方式は国外に出たとたん使えない」と書いたことがお気に召さなかったようだ。署名入りだったから電話番号を調べてきたようだ。

 来ていただいても自説は曲げないことを何回も電話口で説明したが、相手は「とにかく一回伺いたい」と言う。あまりのしつこさに「じゃあ。1時間だけ話を 聞きましょう」と会う日時を決めた。「近くだから出向きます」といっても相手は固辞して、どうしても自分が出向くという。翌日、汚い共同通信の一室でその 課長補佐と会った。

 正直言って、東大出身の官僚からわざわざ電話をもらうのは悪い気はしない。相手を持ち上げて、いつのまにか自分の土俵に相手を取り込む。これこそが官僚 の人心掌握術なのだ。彼は自分で筆者の名前を見つけたのではない。上司が雑誌で見つけて、彼に「説明」に行くように命じた。ご説明は2時間にわたっても終 わらなかったが、取材予定が入っていたので切り上げてもらった。課長補佐は「近々また来ます」と言って帰ったが、筆者が大阪に転勤してしまった。そして、 課長補佐が置いていった膨大な資料はのどから手が出るほどおいしいものだった。

 確実にインプットされる大蔵の論理

 かなり昔の話だが、消費税導入前夜、参院議員だった野末陳平氏を議員会館に訪ねた。先客がいたため待っていると、大蔵省の薄井税制二課長が出てきた。顔 見知りの記者と場違いのところで出会ったことに一瞬うろたえた様子をみせたが「やあ、どうも」といって去った。野末さんに「お知り合いなんですか」と聞く と「あの人のご説明には閉口している。ようく来るんだ」とまんざらでもなさそうだった。野末陳平氏は二院クラブに属していて税金に関してはかなりの専門家 だった。

 当時、駆け出しの大蔵担当だった筆者は「なるほど。こういう仕組みになっているのか」とひらめいた。大蔵省だけではない。官僚が新しい政策を導入しよう とするときは、局を挙げて課長補佐クラス以上が毎日「ご説明」に奔走する。自民党の幹部はもちろんだ。野党からはてはマスコミまで説明する範囲は想像を超 える。知らない相手であろうが躊躇しない。新聞記者の夜討ち朝駆けと同じである。

 自民党の最高幹部は別として、大蔵官僚がわざわざ自分のところに出向いて「ご説明させていただきたい」と電話がかかってきたら、それこそ悪い気がしない し、断れるものではない。警察や検察の事情聴取は強圧的に相手を呼びつけるから拒否できないが、官僚は自ら出向くという手法を取り、相手のプライドをくす ぐる。こういうときの官僚は実に腰が低い。

 初対面でも心を開いているよう相手に感じさせる術も心得ている。もちろん与党議員と野党議員とでは打ち明ける内容に濃淡がある。しかし、「官僚の論理」 はこうした「ご説明」を経て、相手の脳裏に確実にインプットされる。日本の行政は法律を読んだだけでは分からない。政省令や各種通達に精通した人たちだけ のものとなっている。官僚の「ご説明」を聞くと「なるほどそういうことになっているのか」とその分野の玄人になった気分にもさせられる。一度「ご説明」を 受けた人は政府統計など貴重な資料を定期的に手にすることができるし、気軽に電話での質問も可能になる。政策に通じていない国会議員やマスコミには絶大な るメリットをもたらす。コンピューター用語でいえば、彼らは官僚フォーマットが終わったことになる。


1998年02月15日(日)
共同通信社経済部 伴武澄

 日本が農薬王国であることは、2月3日の「偽りのリアリティー(1)コメ・ブレンド事件」で 一部述べた。「日本の農民はそんなに農薬を撒くほど暇でない」という抗議のメールももらった。農水省は発表していないが、OECD(経済協力開発機構)の レポートに「日本の農水省報告」として先進各国との比較が出ている。3年前、なぜ日本で公表しないのか聞いた。「義務付けられていないからです」と簡単に あしらわれた。 当時、輸入米、輸入野菜、輸入リンゴの急増で、世論があまりにも「国産農産物への無害信仰」に毒されていていたから、積極的に記事化しなかった経緯があ る。

 アメリカ産リンゴの日本撤退を誘発した告発のウソ

 1995年1月、一部マスコミは、輸入がはじまったばかりの米国のワシントン・アップルに「TBZ」という防かび剤が付着していたと騒いだ。告発したの は「日本子孫基金」という任意団体だった。農協系の日本農業新聞が1面で取り上げ、北海道新聞も独自ダネとして報道した。しばらくして毎日新聞はコンベア の上でリンゴに液体を散布している写真を掲載した。単なる水洗いの工程なのに「TBZ散布の工程」と説明を付けた。見るからにおどろおどろしい写真だっ た。札幌生協がいち早く販売を停止した。子孫基金は鬼の首をとったようだった。

 しかし、肝心の農水省は「検出されたのは事実だが規制値のはるかに下の水準で、ためにする議論だ」と取り合わなかった。子孫基金が「日本で認められてい ない農薬」と言った「TBZ」は、プレハーベスト(収穫前)での使用は認められていたからだ。農水省の説明では「収穫後農薬として使用申請がないだけ。申 請があればいつでも認められる製品だ」という。基本的に、ポストハーベストの農薬散布は輸入国側が輸出国側の業者に要求する性格のもの。国内の農産物に収 穫後の農薬散布などはしないから使用申請などあるはずがない。農産物の安全性議論は確かに重要だが、これでは片手落ちだ。というより「ウソ」を告発したに 等しい。

 なぜ農水省が取り合わなかったのか。背景はすぐに分かった。青森県のリンゴも少量ではあるが、アメリカに輸出していて、アメリカ側が青森県のリンゴ農園の農薬散布状況を克明に調査していたからだ。これはワシントン・アップル協会の人から聞いた。

 輸入品は微量な農薬が検出されればすぐさまニュースになる。しかし国産は基準値を上回らないかぎり絶対といってよいほどニュースにならない。これでは輸 入業者はたまらない。内外の機会均等の原則に反する。20年もの長い年月をかけて日本市場をこじ開けたつもりのワシントンアップル協会は、アメリカ産リン ゴの売れ行きが悪かったせいで、ほとんど日本市場から撤退した。彼らにとって農薬問題は撤退の理由の一部でしかない。安く売れるはずだったワシントンアッ プルが日本の農産物の複雑な流通経路を経ると日本のリンゴと競争できる価格ではなくなってしまったのが一番の理由だった。当時の日本担当者は 「incredible」を連発して香港に去った。

 国内にはない農薬使用状況のチェック体制

 東京卸売市場で、農薬問題を取材したことがある。輸入野菜は日本の検疫官(厚生省)や農水省の担当者が輸出国の農園にまで出向き、病害虫の有無から農薬 の使用まで栽培段階から徹底的に検査し、空港や港湾の水際でもあらためてチェックされる。消費者団体も輸入品だけには異常な執念で目を光らす。まるでなん とか輸入を阻止したい農協の下部組織のようである。

 では、国産の野菜や果物は大丈夫なのだろうか。実は、卸売市場で取り扱う農産物は、年に何回かの抜き打ち検査があるだけ。ほとんど「ノーチェック」で小 売店に届くとのだという。だから危険だといっているわけではない。輸入物を論議する際には、チェックしていないという事実だけは知って置くべきだ。市場関 係者によると「そもそも野菜の表面に付着している農薬なんてものは、水洗いすればほとんど落ちてしまう」のだそうだ。心配なのは土壌汚染から植物の細胞内 に取り込まれる農薬だ。消費者団体は輸入野菜に目を光らす暇があるのならここらの詳細な研究をしてもらいたい。

 野菜の輸入業者に聞くと最近急増しているアジアからの農産物のほとんどが有機栽培に近いという。中国やベトナムで日本向け野菜を栽培している業者に聞く と「農薬の方が農民の人件費より高い」からだけのようだ。アジアは別として、日本のように高温多湿な気候は病害虫の生存にぴったりなのだそうだ。オースト ラリアやカリフォルニアには、害虫そのものが少ないのだ。比べたことはないが北海道と本州の単位面積当たりの農薬散布量はかなり違うはすだ。

 有機栽培の農産物が最近人気だ。ただ露地栽培の場合、農薬をかけないと収量は3分の1に落ちる。自分の庭で栽培してみれば、すぐに分かる事実だ。
 最後に最近きいた小話をひとつ。鹿児島県のある農婦が「胃を洗浄してくれ」と病院に駆け込んだ。医者が「どうしたのか」問うと「商売用の野菜を間違えて食べてしまった」のだそうだ。消費者団体がこうした事実を告発したという話はまだ耳にしていない。


1998年02月14日(土)
共同通信社経済部 伴武澄


 消費者をあおり続けた不動産業者

 「地価が下げ止まらない」という言い分は不動産業界の嘆きである。土地やマンションを持っている人は資産価値が上がることが楽しみだからおもしろくない に違いない。土地なき民は「もっと下がれ」と心の中で喝采を送っている。不動産を取得しようとしている人は「今が底値かもしれない」と不安な気持ちでい る。物価は国民だれもが「上げってほしくない。できれば下がってほしい」と思っているが、地価だけはまったく違う。

 事実は1990年のピークを経て数年後から、不動産業者が「底値だ。金利が低い」と消費者心理をあおり続けたことである。そして結果はその後も地価が下 がり続けた。振り返れば不動産業者は長年にわたって消費者に「うそ」をついてきたことになる。第一生命経済研究所が12日発表した試算では「バブル期以降 に取得した住宅の含み損が33兆円に達した」そうだ。

 筆者は、マンションを保有したこともあるが、バブルの後に売却した。含み損を抱えている方々には申し訳ないが、少々のキャピタルゲインも懐にした。売っ たのはキャピタルゲイン狙いではない。毎晩、帰宅するときにマンションの小さな空間に灯る明かりを見ながら「なんでこんなものに35年もローンを払い続け なければならないのか」と自問したからである。

 支払っている負担と得る幸せ度が釣り合わないのだ。頭金払いといろいろな手数料で貯金は底をつき、月々のローンで家計は余裕をなくした。マンションを 持った嬉しさはつかの間で、妻は苛立った。夫婦間はぎくしゃくした。すべてはマンションを買ったことから始まった。何回もいがみ合った結果、マンションを 手放すことで合意した。以来、借家住まいが8年目に入った。家なき子として将来に不安はあるが、マンションを持ち続けていたらきっと「多大な含み損」を嘆 いていたに違いない。

 DNAに組み込まれた日本人の住宅購買行動

 マンションを売却して実感したことは「地価は下がる」という真実である。支払いに対するコストパフォーマンスが合う水準までまだ下るだろうという確信も 得た。日本のような土地インフレしか経験したことのないいびつな不動産市場を持つ国では、地価を冷静に判断する目は育たない。戦後一貫して土地の絶対的な 供給量が不足していたから、消費者には「いま買わないと買えなくなる」という脅迫観念が植えつけられている。ほとんどの日本人のDNAに組み込まれてし まっているかのようである。

 問題なのは、国民に安くて良質な住宅を提供する義務のある政府が「地価を下げたくない、できれば上げたい」と考えていることである。それでなくとも国民 に隠しきれないほどの不良債権を抱えているところに、これ以上地価が下がったらさらに不良債権が増えるからである。住宅がほしい国民と政府の利害は完全に 不一致しているといっていい。不良債権問題はもはや一金融界が支えられるような状況ではないほど危機的様相を呈している。金融安定化策のため用意した30 兆円という途方もない金額は、そのまま政府部内の危機感を映したものである。

 16日には金融2法案が参院を通り、不良債権の財政負担=国民負担が決まる。国のお金をつぎ込むことが決まると、地価下落は住宅がほしい国民にも不幸を もたらす。不良債権が増加し、その結果として国民の借金が増えるからだ。家なき子は地価が下がって「住宅を買えても大規模増税の負担する」か、地価が下げ 止まって「住宅が買えないまま、増税の負担」の二者択一を迫られる。増税がまぬがれないのなら、地価は下がった方がいい。


1998年02月13日(金)
共同通信社経済部 伴武澄

 
 住宅を除けばぜいたく過ぎる日本

 マレーシアの大学で日本語を教えている友人から遅れた年賀状が来た。

 「私が教鞭を取っているクアラルンプールから離れたマレーシアはまだまだ宗教を中心とした古い社会です。人々の生活は質素で、アラーの神のもとで時間が 止まったような生活が続いています。成長するアジアではなく、停滞するアジアそのものです。年賀状に『日本が駄目』と書いてありましたが、私にはそうは見 えません。昨年秋、一時帰国した際、デパートにはモノがあふれ、みんなおいしいものをたくさん食べていたような気がします」。

 「アジア経済も大変のようですが、日本はいま、底が抜けそうです」と書いた筆者の年賀状にカチンときたらしい。彼女は常々「でもマレーシアの人たちって楽天的で親切で心が広いのよね」と言っていた。

 いま日本を覆っている閉塞感はどこからくるのだろう。改革の理念と実行力が伴う宰相に恵まれないことへの不満だろうか。底無し沼のように暴かれるな官僚 と企業との癒着にあるのだろうか。それとも不良金融機関の破綻を発火点とした大量失業時代の幕開けにおびえているのだろうか。答えはすべてイエスであろう し、まだまだ理由は多くあるだろう。住宅を除けば、日本にはぜいたく過ぎるほどモノがあふれ、自由がある。

 ファン・ウォルフレン氏ではないが、日本人が自ら幸せと感じられない何かに問題があるのだと思う。生活や社会が思いのままにならないのではなく、そこそ この幸せを幸せと感じられない個々の生きざまの集合体が日本列島の上で日々、うごめいている。筆者がアイヌの梟の神様だったら、そんな情景が空から見える のだろうと思う。「昔の貧乏人がお金持ちになって、金持ちが貧乏人になって」というそれぞれの栄枯盛衰を認めがたいほど、幸せ度が低いのだろうと思う。

 かつて公務員は安月給で身を粉にして働いた

 この1カ月、萬晩報でさまざまなテーマでレポートを書き続けてきた。メールで反論も多くきた。日本社会の"恥部"を明らかにし、日本では見られないアメ リカ社会の断面も紹介してきた。日本社会をこき下ろし、アメリカ社会を礼賛するのが目的でない。筆者が体験してきた記者生活の中から「日本人がどうして幸せになれないか」という設問の答えとして、日本とかアメリカを語ってきたつもりである。

 公務員の過剰接待事件も突き詰めれば、公務員自身が幸せでないのだろう。「俺は身を粉にして国家のために働いているのに、安い給料で、しかも狭い汚い官 舎に住み続けなければいけないのか。それに比べて民間企業に就職した同僚はけっこう豊かな生活をしているようだ。会社の金でたまに俺を接待してもらって何 がいけないのだ」。そんな声がどこからか聞こえてきそうだ。キャリア組といわれる東大卒のある国家公務員OBから10年以上も前に実際に聞いた話である。

 かつては「逆玉」で社長令嬢を妻にしたキャリアでなければ、公務員は在職中にマイホームなどを持たないのが常識だった。現実に給料も安かった。みんな生 き甲斐は「天下国家」だった。天下国家とは「欧米に追いつけ追い越せだった」。生活水準や産業の競争力が一歩一歩、欧米に近づくことが、彼らの「幸せ」 だった。給料は安くとも国家に貢献している実感が、彼らの生き甲斐を支えていた。

 「幸せを測る座標軸」を失った公務員

 1980年代に入って、キャリア公務員をめぐる環境がすべて変わった。オイルショック以降、給与の伸びが止まった民間企業に対して、公務員の給与の伸び は止まらなかった。給与格差はどんどん縮まっていった。しかし、公務員は相変わらず官民格差が大きいと信じた。いまでも信じている。地価が急上昇して民間 サラリーマンがマンションさえ買えなくなった時、民間のサラリーマンは「公務員は都内に官舎があっていいな」とうらやんだ。しかし、当の公務員は「相変わ らず狭くて汚い」としか思っていなかった。

 何よりも、日本経済が「ジャパン・アズ・ナンバーワン」になり、キャリア公務員は「依るべき目標」を失った。「欧米に追いつくこと」だけが「国家への貢 献」であり「仕事への生き甲斐」だったから、「幸せを測る座標軸」を失ったともいえる。「国民を幸せにする」という座標軸があれば、まだ彼らは生き甲斐を 持ち続けることができたであろうに、彼らは、企業社会を支えることだけにその優秀な頭脳を使った。そして不幸にも残った意識が「自分たちが支えている民間 に比べて給料が安い」という歪んだ不満だけだった。

 ふつうのサラリーマンにとって「ノーパンしゃぶしゃぶ」などは曲がりなりにも自腹で行くべきところである。金融機関に「おねだり」するような場所ではな い。いま日本で一番、幸せを感じていないのはキャリア公務員である。


1998年02月12日(木)
共同通信社経済部 伴武澄

 1980年代後半、米国松下は取締役に多くの米国人を採用した。それぞれ、反トラスト法(独禁法)、特許法、PL法、アファーマティブ・アクションを専 門とした弁護士だった。反トラスト法は今世紀はじめにアメリカで初めて法制化され、それこそ100年近い歴史を持つ。遠くは鉄鋼業やたばこ産業が独占を理由に分割され、1980年代にはAT&Tが競争力強化のため独占排除命令を受け分割した。

 自由経済を標榜するアメリカの産業社会の最大の道徳的規範は「アンチ・トラスト」にあるといって過言でない。独占は自由競争を阻害するだけでなく、なに よりも「アンフェアだ」という信念が強い。日米間の経済摩擦での日本たたきの常套句は「アンフェア」であった。「フェアネス」は国民に最も理解され、信奉されている理念でもある。

 PL法は、企業に対して損害賠償を求めるときに、消費者側は損害が発生した因果関係を立証する責任を負わされず、企業側に因果関係がないことを立証する 責任を求める仕組みだ。アファーマティブ・アクションは入学や企業の採用に際し、社会的弱者や少数民族に一定の枠を強いる制度だ。PL法もアファーマティ ブ・アクションも反トラスト法と同様に、自由競争の中で弱者が強者に対抗する手段として導入された。アファーマティブ・アクションは1990年代に入って 自由競争を求める勢力から悪平等と批判にさらされている。だがまだ廃止する気配はない。

 1980年代後半、日米経済摩擦が高まった折り、日系企業はこぞってこれらの措置への対応策を取った。米国松下が多くのアメリカ人弁護士を採用したのも 当然の対応だった。しかし、問題はそれまで「シャンシャン」で終わっていた取締役会が「議論の場」になったことだった。大阪府門真市の本社から来る指令は 「なんとかしろ」。根回し社会の日本本社にとっては取締役会での議論は「やっかい」以外の何物でもなかった。アメリカ法人の日本人幹部にとって「どちらを 向いて仕事をするか」判断に迷う場面もあったが、彼らは明確に「アメリカ」を選んだ。

 当時、アメリカ法人の幹部だったある松下マンは嘆いた。

「本社はアメリカで何が起きているかまったく分かっていなかった。税金にしても特許法にしても日系企業は外国人としてお目こぼしを頂いていただけだった。 やっと一人前の企業として取り扱うようになっただけなのに。アメリカが当時、余裕がなくなっていたのは確かだったが、外国企業への課税強化などはなかっ た。外国企業に少数民族をちゃんと雇用しているか調査もあったが、それまで日系企業がアメリカの義務を果たしていなかっただけだった。アメリカ人を採用しておいて議論するなという方が無理だ。日本も形骸化した役員会などやめて、そろそろアメリカに習った方がいい」

 米国松下は、アメリカで1万人以上を雇用する大企業。もはや外国からきた"弱者"ではなくなっていた。アメリカは脱法行為をもっとも嫌う国民性がある。アメリカの多くの企業と同じように日系企業も多くの法律の専門家を雇用することは理にかなっていた。

 米国企業の役員も兼ね、毎月のように渡米している大手鉄鋼の役員から、興味あることを聞いたことがある。上場企業の役員会の議事録はほとんどがニュー ヨークのSEC(証券監視委員会)で閲覧できるし、案件ごとの個々の役員の賛否も分かる。給与やボーナスの金額もまた個々に公開されているという。PL法 で有罪になるかどうかは役員会での発言次第だから、論議が真剣勝負となるのは当然。会議で明確な「反対」の意思表示がなければ、その案件について「異論がなかった」と認定される。特に反対の際には速記者に「テイク・ノートしてください」と確認することも重要だ。

 ソニーが、昨年からアメリカ型の役員会の導入を決断した。連結ベースでの海外の売上高や利益が半分以上になれば、当然のことかもしれない。日本では、異 質のものが入ってくる度に、国民性がどうのこうのという議論をする。世界に雄飛するにはそれなりの覚悟が必要である。外国語ができるできないなどといった ことで右往左往するのはレベルが低すぎる。松下電器産業は、社長の世襲制の是非を議論しているような時期ではないと思う。


1998年02月11日(水)
共同通信社経済部 伴武澄


  本当のガソリン税は半分の28円

 日本の税制の根幹の問題として、租税特別措置法(租特法)の在り方を考えてきた。なじみのない税法だろうと思う。景気対策として「2兆円減税」が国会で 決まった。日本政府としては珍しく早い"支給"となる。サラリーマンはこの2月の給与で恩恵にあずかれる。所得税と地方税を減税するのだが、1年限りの措 置である。こういった臨時的な増減税では本則である「所得税法」などには一切手を付けず、租特法という別個の法改正で処理される。所得税や地方税法を改正 するとまた1年後に同じ法律をもとに戻す手続きが必要になる。租特法で「所得税法を1年間・・・・する」という条項を付け加えると、手続きは1回で済む。 「当分の間」の措置ための便利な法律なのだ。

 これだけでは租特法のどこが問題なのか分からない。しかし「本来1リットル28円であるはずのガソリン税が租特法のおかげで53円になっている。しかも 24年間にもわたって暫定的な増税が続いている」ことを知れば、黙っていられないはずだ。いまの日本には、「暫定的」に導入され、そのままになっている制 度があまりにも多い。多いだけではない。実は2、3年で延長を繰り返す租特法というシステムの中に永田町にも霞ヶ関にもおいしい利権構造が隠されている。

 法人税法を読んでも分からない法人税

 石油業界は毎年のようにこの「ガソリン税の暫定税率を本則の1リットル28円に戻す」よう政府・自民党に陳情している。しかし、聞き入れられた試しはな い。それどころか逆に、ガソリン税は増税に次ぐ増税を繰り返してきた。一般にガソリン税というのは「揮発油税」と「地方道路税」を合わせたものをいう。や やこしいのでガソリン税で通す。

 ガソリン税増税の姿を変えたのはオイルショックであった。1974年のことである。財源不足を補う目的で租特法によって「2年間の暫定措置として」増税 された。2年後、増税は撤廃されなかった。さらに2年間の延長となった。次は増税となった。延長と増税を繰り返し、暫定税率は1リットル当たり53円にま で高くなった。商品の最終価格に占める税金の割合が50%を超えているのはガソリンをおいてほかにない。ガソリン価格がリットル100円を切る昨今では6 割にもなっている場合がある。

 租特法の創設は1957年。景気や財政状況などに即応するための時限的な税制だ。第1条には「当分の間、所得税、法人税・・・(ほとんどの税法が列 挙)・・・・を減免するための措置」と記されている。減免措置は省エネや公害防止、不況対策など法人税に関する項目が多い。所得税関連でも住宅買換特例や 老人マル優制度など国民生活に身近な項目もある。六法全書を紐解くと、法人税のページ数より、租特法の法人税に関するページの方が多いことに気付くはず だ。法人税を読んでも現在の法人税の体系などは分からないほどに法人税法が租特法によって歪められている。

 本来は税金を「軽減」するための法律であるにもかかわらず「増税」にも多く使われている。もっと問題なのは「軽減」の方はちゃんと「当分の間」で終わっ ているのに、「増税」の方はほとんどが長期化しているということだ。ガソリン税のほかに、軽油取引税、自動車重量税、自動車取得税などなぜか自動車と石油 関連が多い。税金が足りない時には「取りやすいところから」というのが政府の常套手段で、最初は「当面の間」のつもりがいつのまにか「税収に不可欠な税 率」と化しているのである。

 政治・官僚用語の「当分の間」は「未来永劫」

 この租特法の矛盾を解明しようと調べたことがある。まず大蔵省の主税局に「租特法を勉強するにはどんな本を読んだらいいか」聞いた。いままさにノーパン しゃぶしゃぶ接待疑惑の渦中にある偉い人たちが課長クラスで並んでいた。当時は、消費税導入前夜で大蔵省は人材の主税局シフトを行っていた。ある課長補佐 は「そんな本あるわけないでしょ。法人税イコール租特なんだよ」と教えてくれたが、大学で租特法の意味など教えてもらっていない身の上としては言っている ことが分からない。

 仕方がないので、知り合いの大学の先生に租特法の専門家を紹介してくれるよう頼み回った。筑波大とか東海大で取材した教授は、確かに租特法の意味を詳し く教えてくれたが、たどり着いた租特の専門家はみんな国税庁OBだった。租特法の仕組みはともかく、意味合いが衝撃的だった。まず「当分の間」の意味につ いて聞いた。だれに聞いても学問的定義は「5年、長くて10年が定説」だった。また「ガソリン税や自動車重量税など道路建設の特定財源として定着している ものは、本則のガソリン税法などを改正するのが本来の税制のあり方」との説明もあった。にもかかわらず自民党では「当分の間は未来永劫」という認識だっ た。永田町と国民のギャップは政治資金だけではないようだ。

 年度ごとの税制改正は12月、永田町の自民党本部ビルが主戦場となる。党税制調査会では業界の要請や各省庁の意向を代弁する族議員が激突、最終的には党 三役がそれぞれの利害を調整して一気に決着する。その際"電話帳"と呼ばれる改正候補項目を羅列した分厚い冊子が存在し、中身は8割、9割が租特法の新 設・改正なのだ。この時期は、国民にとって無関心な租特法が政治家にとって最も意味のある季節となる。そして、「当分の間」が実は政治家にとっても官僚に とってもうまみのある制度となっているのだ。

 法人税関連では、業界ごとに特例措置や軽減措置が星のかずほどあり、その軽減措置が2、3年の暫定期限となっていることが多い。このため、産業界は軽減 措置の期限が近づくたびに「延長を求めて」永田町への陳情を繰り返さざるをえない。自民党への業界の"貢献度"が試される先生方にとっておいしい季節なの だ。業界が、減税措置の延長を求めるたびに「そのたびごとにあいさつが必要」(石油業界幹部)となる。大蔵省の若手官僚でさえ「"電話帳"は族議員の小遣 い帳みたいなものだ」と漏らす。租特法の多用が政治と業界の癒着の温床になりやすいとの指摘は根拠がないものではない。

 アメとムチがひとつの法案に

  自動車と石油関連の税収総額のうち暫定上乗せ分は約5兆円にも達している。暫定とはいえこれだけの税収があるだけに、ただちに本則に戻せという議論はあま りにも乱暴だが「税務当局は暫定のままでいることをおかしいとは思っていないようだ」(大手自動車役員)という不満は根強い。暫定が長いのも問題だが、暫 定措置があまりにも多く、その暫定措置が法人税や所得税の本則を読んでも分からないよう税制が複雑化しているところに本当の問題がある。必要な法人税は法 人税法に書き、必要なガソリン税は揮発油税法と地方道路税法に盛り込むのが正道だ。税務当局と業界と政治家にした分からないような税制は一度、ご破算にす る必要がある。

 財源を確保するのが目的の官僚にとって、租特法の強みはアメ(減税)とムチ(増税)がひとつの法案で国会に提出される点だ。ガソリン税増税も環境対策への減税も同時に議論されるため、どうしても増税反対の矛先が鈍りがちになる。

 日本の戦後税制で長期化する租特法の特例・暫定措置を本則に組み込んだ例はない。「1989年の税制改革はレーガン改革にならって日本の税体系を整理す る絶好のチャンスだった」はずだ。租特法による本則と実際の税負担のかい離は税体系を複雑化、形骸化するだけでなく、簡素化を目指した税制改革に逆行す る。 臨時・暫定・特定国家の断面がここにもある。


1998年02日10(水)
共同通信社経済部 伴武澄

 公共事業の配分見直しが叫ばれて久しい。一向に変わらないのはなぜか。みんな分かっている。自民党だけでない、共産党以外の野党もまた土建屋を選挙基盤 にしているからだ。「ふつうの国」を政治理念に掲げて自民党を飛び出た小沢一郎氏もまた選挙では土建屋をバックにしている。

 選挙資金の捻出は、地方行政で公共事業の入札で談合に協力すればたやすい。談合がなくなれば市場価格により近い形で落札するのだが、入札を透明化すれば 選挙資金の捻出は難しくなる。議員も土建屋も行政もどっぷりと鉄のトライアングルに浸っている。票を持ってくるのも地域の末端の土建屋だ。かつて土木工事 はどういうわけか農閑期に偏っていた。父ちゃん母ちゃんが二人で働けば日銭2万円になる。100日働けば200万円という収入は決して小遣い稼ぎのレベル ではない。農家の平均農業収入が200万円前後だからだ。その農家の収入源、つまり雇用を握っているのがこれまた地域の土建屋だから雇用と票とが交換にな る。

 こんな構造の社会に正論で立候補してもどうにもならない。ひと言「明日から雇わないぞ」と恫喝されれば生活できなくなる。平坦部の農村ならばまだしも山村にいけば、収入源のほとんどが「土木」ということになる。収入の100%が土木という村落は決して珍しくない。

 生業の95%が土木という群馬県の町

 かつて生糸生産の取材で群馬県のある山村を訪れたことがある。町長にインタビューし「町の生業(なりわい)は何ですか」と質問した。 主な生産品目を聞いたつもりだった。「養蚕とコンニャクイモ栽培」という答えを期待していたが、「土木です」という意外な答が返ってきた。「何割ですか」 とたたみかけると「そうですね。95%くらいですかね」と言う。町長によれば「職業はと聞けば、みんな農業とか山林業とか答えるでしょうが、95%の人が 公共事業で食べていて、残りの5%の人も主たる収入源は土木です」ということだった。

 筆者は養蚕の取材ではるばる車を飛ばしてきたのだが、山村の生業の方に興味が湧いてきた。一応「そうすると養蚕はこの町にとって何なのですか」とも聞い たが、町長は明治時代の繁栄していた時代の町の歴史を語り始めるだけだった。農水省や東京の蚕糸生産組合で取材した時は「養蚕がなくなると地域がなくな る」ということだった。そんな時代はとっくの昔に通り過ぎていた

 事前に取材を申し入れていた町の有力養蚕農家の老人にも会った。「いつでもやめたい」という。理由は簡単だった。夫婦で年に2度、カイコを飼って売り上 げは40万円足らず。経費を差し引いたら小遣いにもならないからだ。そして「でも、うちは天皇陛下から表彰状までもらっているからやめられない。養蚕をや めるのは町で最後になる」と語った。最盛期に80万世帯を数えた日本の養蚕農家は1995年当時、2万を切っていた。その2万世帯も養蚕を「主たる収入 源」にしているのはほとんどいない。公共事業がなければ、町を離れるしかないのだ。

 その老人が何件か養蚕農家に連れていってくれた。その途中でコンクリートで固まった山の岩肌を指して言った。

「あの砂防工事はな。地滑り防止な んだが、山裾の2件の農家が『何億円もかけるのはもったいない。費用をくれたら川向こうに引っ越す』と言ったんだが、村の人たちが『おれたちの仕事はどう してくれる』って言い出したんでできたんだ。仕事といっても道路とかだったらいいんだが、立派なトンネルもできたしな」

 ただで金をもらうわけにいかない

 この生糸の取材で、公共事業に対する考え方が180度変わった。帰社してから同僚に、群馬県の山村の話をしたところ、その同僚もまた福井県で同じ体験を したと言う。同じ砂防工事だったが、昭和37年に日本海岸を襲った豪雪で村そのものがなくなり、だれもいない山肌をコンクリートで覆う工事をしていたらし い。その後、同僚が建設省で聞いた話は「ダムとか砂防工事とか公共事業のほとんどは昭和30年代前半に作製した工事予定地図をもとにひとつずつ工事をこな している」という驚くべき実体だった。ここでは公共事業を生業とする人すらいなかった。

 前段の公共事業と選挙の関連は、だれでに知っていることである。しかし、いま山村で何が起きているかまではそう多くの人が知っているわけではない。群馬 県の町長は「公共事業費は町にとって生活保護費のようなもの。ただ住民にだってプライドがある。ただでカネをもらうわけにはいかないのだ」と漏らした。

 問題はこのプライドなのだ。生活保護費として直接、税金を渡せば、直ちに公共事業-国会議員-土建屋の悪しき連鎖を断ち切ることができるのに、もらう方 がプライドを持ち出すものだからややこしくなり、見えるものがみえなくなる。いつまでも土建屋と国会議員の思うがままの世界が続くだけでない。この連鎖が 不必要な自然破壊にまでつながる。「こんな選挙はいやだ」と思い、公共事業のあり方を抜本的に改革する必要があると考えている議員は少なくないはずだ。ケ インズ流に景気対策のため穴を掘って埋めているだけならともかく、いまや公共事業は不必要なダムや砂防工事で自然を壊しているのだ。


【創刊1カ月記念号】

1998年02月09日(月)
共同通信社経済部 伴武澄

 「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりにという歌をを歌いながら、流れに沿って下り, 人間の村を上を通りながら下を眺めると、昔の貧乏人がお金持ちになっていて、昔の金持ちが貧乏人になっているようです」という書き出しの「アイヌの民謡」 の響きのよさに心を打たれた。「銀の滴が降る」という情景は現実的ではないが、きっとだれにでも想像できる情景ではないかと思う。梟の神様はそうやって人 間の世界に舞い降りてくるのだ。

   天真爛漫な稚児に向けた童話でもあり、自由な自然を失った現代人が忘れた心優しい梟の神様を信じる人間たちの物語でもあった。そんな謡を歌いながら大自然に溶け込んで暮らしていた民族があったのだとしたら、さぞ幸せな人々だったに違いない。

 アイヌにとっては、自然のすべてに神が宿る。なかでも一番崇高なのが梟の神様だ。時には獰猛性も発揮するが、ふだんはおとなしく目立たない森の鳥が一番 偉い神様だということろがいかにもアイヌの民族性を表している。そして、その神様はいつも銀や金の滴の歌を歌いながら人間たちに福音をもたらすのだ。

 消え行く民族としてのアイヌに対して可愛そうだとかいう感情が湧いたわけではない。単にきれいな響きの謡だなと感じ、そんな世界があったら羨ましいなと 思っただけのことだ。数年前、北海道を初めてレンタカーで旅し、旅先で購入した藤本英夫著の『銀の滴降る降るまわりに』(草風社)を読んだ。知里幸恵とい う19歳で生涯を終えたアイヌの少女の生涯記である。

 知里幸恵は日本の言語学の碩学である金田一京助博士のアイヌ研究の協力者だった。この少女はアイヌ民族であることに誇りを持ち続け、金田一博士のもとでアイヌ伝承文学に目覚めていく。「大正時代に、こんなアイヌの少女が生きていたのか」と感動したことを覚えている。

 北海道の地名はなぜ漢字表記か

 現在、博物館になっている札幌の旧道庁跡も訪れた。江戸時代の探検をもとにした北海道地図が展示してあった。地名はすべてカタカナ表記で、文字を持たないアイヌの人々がつけた地名であるからカタカナ読みは自然な感じがした。

 北海道を旅行していて一番苦労するのが地名の読み方ではないだろうか。初めて訪れた人は地元の人に場所を聞くにも、読み方が分からない。読み方が分から ないと聞きようがない。北海道の212市町村のうち「カタカナとひらがな表記はニセコ町」と「えりも町」だけだ(町名や字にはカタカナ表記がたくさんあ る)。仕方なく、地図を広げて「ここ」と指差して聞くしかない。不便であるだけでない。読めなくて当然なのに地名が読めないということで恥ずかしめを受け なければならない。

 不便なのになぜ北海道の地名は漢字の表記のままなのだろうか。きっと、明治の役人は、北海道の地図を作るとき、アイヌの発音に苦労して漢字の当て字を考 えたのだろう。明治の役人に苦言を呈しているのではない。古来、日本では中国にならって西洋の地名までも漢字で表記していたから、当然のことだった。だ が、大正時代の役人は南洋群島が日本の委託統治になった時、いちいち漢字の地名などつけなかった。ちなみに第二次大戦では、シンガポールを昭南と改名し た。滋賀県の湖西地方にマキノ町という地名がある。日本では唯一の片仮名の町である。片仮名の地名が北海道にたくさんあってもなんらおかしくない。他意は ない。ただ自然だと考えた。

 アイヌから名字を考えた

 それから名字についても考えさせられた。アイヌはもともと名字を持たない。名字を持つようになったのは明治以降のことだ。戸籍を作るうえで名字がないことが障害となり、明治の役人たちが名字をつけるよう指導した。

 日本人だってもともと名字を持っていたのは貴族か武士と一部の商人だけで多くの農民たちは『何々村の何々兵衛』で判り合えた世界だった。明治になって初め て名字を許された。具体的名前を出すと語弊があるが、旭川市でアイヌ民俗館を経営する川村謙一さんに聞いたら「うちは川のそばに住んでいたから川村になっ た」といっていた。日本だって同じようなのもだったろう。

 ただ、アイヌが名字を強制されたのと、日本人たちが名字を許されたのではちょっとばかり意味合いが違う。アイヌへの差別がなくなったら、いずれアイヌらしい名字が考え出されるのではないかと期待している。

 初めて接するアイヌの文化は物見遊山の気分で見て回ったが、多くのアイヌ博物館を訪れながらアイヌの過去を考えた。アイヌは文字を持たなかったこと、名字 がなかったこと、よくもこんな山のなかで暮らしていたなど当たり前のことを知った。文字を持たない民族は世界でも多くある。イスラム圏では父親の名前を子 供の名前のお尻に付けるだけで名字という概念はない。この間知り合ったビルマの留学生もビルマに名字がないことを教えてくれた。アウンサン・スーチーは父 親のアウンサンの子であるスーチーという意味だそうだ。

 欧米流のグローバル・スタンダードでは名字は一般的だが、21世紀には名字がない民族でも生き残れる日本であってほしい。

1998年02月08日(日)
共同通信社経済部 伴武澄

 1998年1月28日(水)「特金・ファントラから始まった金融証券疑獄(1)/株式市場のターボエンジン」の内容に一部誤りがありましたので2月5日、レポートを差し替えました。

 知床峠からクナシリ島を眺めると、地図でみる島よりよほど大きな島であることが分かる。日本人は終戦後に復員したのだから島にはほとんど日本人はいない。復員が強制されたものかどうかは、既に50年の歴史を経過しているから分からない。

 橋本首相とエリツィン大統領との昨年のシベリア首脳会談で、2000年までの平和条約締結へ向けた協議が決まった。当然、北方領土のいくつかの島の返還 も議題に上るはずだ。島の返還が現実味を帯びれば、いまそこに住んでいる人々が返還後どうなるのか考えざるをえない。単一民族という国家の概念さえ崩れて しまうのではないか。

 第二次大戦の前だったら文句なくロシア人を追い出して日本人が入植することになったかもしれない。しかし、いまの世界でそんな人権を無視したことはでき ない。島の住人たちは日本への帰属を選ぶか、ロシアへの「帰国」の選択が迫られる。ロシアへの帰属をそのままに日本への永住権だけが認められるというケー スも考えられる。いまの日本政府だったら、島の住人を在日朝鮮・韓国人や中国人のような地位に置くことになるのかもしれない。

 どちらにせよ、島の住人たちの土地の所有権や子弟の教育が課題になる。政府部内で、そこまで考えているかどうか実に不安である。仮に日本のなかでロシア 人という"少数民族"が住むことになれば、当然ながら新たな国民としての生存権が発生する。日本という国は、外国人が日本の国籍を取得することを想定して いない珍しい国家である。法務省に外国人の帰化について取材したことがある。驚いたのは「外国人は国籍を取得する権利などない。帰化が認められるだけだ」 と語ったある事務官の発言だった。この国の政府には「国籍取得」という概念がないのである。

 1992年の官報が手元にある。「帰化を認められた」新しい"日本人"の約100人ほどのリストが掲載されている。朝鮮・韓国人と中国人がほとんどだ が、「創氏改名」をしていないのは、1家族だけだった。みんな田中だとか鈴木姓を名乗った。Windmillさんは「風間さん」に変えていた。驚くほどの ことではない。前の総選挙で神奈川県・湯河原町から立候補して落選したツルゲンさんの日本名は「弦玄」だった。帰化したハワイからの関取もほとんどが奥さ んの名字を名乗っている。筆者の中国人の友人も最近、帰化して「許」から「松村」と改姓したことを報告してきた。

 法務省によれば、強制しているわけではない。それはそうだろう。しかし、自治体の窓口では「外国人と分かるような名前でお子さんがいじめに遭ったら可哀 想でしょう」と行政指導するらしい。「日本が好き」で帰化するぐらいだから、当然と考えるのはどうだろうかと思う。この国で生活することを余儀なくされて いる人も少なくないはずだ。

 帰化というのは「日本人になりきる」ことで、日本語をしゃべり日本的名前をつけることにつながる。日本人だって先祖からもらった名字を変えたりするのは 辛い。韓国で"帰化"すると、金とか朴の姓を付けなければならないのかは知らない。だか、アメリカの国籍を取得するときに英語的姓に変更するよう行政指導 されるなど聞いたことがない。

 後輩の記者と話していたら「小笠原にはアメリカ系の日本人が多くいて名前もそのままである」という。村役場の住民課に電話したら「シボレーです」と言う んで、「どんな漢字を書くのですか」と問うたら「片仮名で、シ・ボ・レー」と答えたのでびっくりしたらしい。片仮名の名字があったところで取り立てて驚く ことはないはずなのだが、やはりこの日本という国では驚嘆すべきことに違いない。

 北方領土が返還されたら、元のロシア的姓が残るようなことになってほしい。


1998年02月07日(土)
共同通信社経済部 伴武澄

 日本産ホタテ貝柱のEU禁輸騒動/衛生管理で責任回避

 「日本の食品加工場の衛生状態は韓国やマレーシア以下だ」-欧州連合(EU)は日本産のホタテ貝柱に貝毒が検出されたとして、日本産の水産食品を全面禁 輸にした。日EU間に新たな貿易の火種が浮上したかにみえた。しかし"事件"の解明に従い、事態は逆に日本政府や自治体の衛生管理能力が問われる様相に変 わってきた。

 これはいったい何だ

 EUの調査団3人による青森,宮城、神奈川の6カ所の加工場の査察日程は3月27日から31日だった。事件は28日、青森県内のホタテ工場で起きた。工 場責任者が施設の概要や原料の仕入れ先など説明を一通り終えた後、調査団は3班に分かれて工場に入った。EU査察官の指示で、従業員が冷凍貯蔵庫の奥から 運び出した段ボール箱を開くと、フランス語で「1990年4月10日冷凍、賞味期限92年4月10日」と書かれた袋が出てきた。中には1キロのホタテ貝柱 が入っていた。釈明の余地はなかった。

 「これはどういうことだ」。厳しく迫るEU査察官の声に工場内に緊張が走った。他の場所を調べていたチームも集まってきた。工場の専務は「余った袋がたくさんあってもったいないので、借りの容器として使った。中身は古くない」と釈明したが、査察官は納得しなかった。

 それだけでは納まらなかった。従業員が鍵をかけた別の冷蔵庫について「国内向けの製品しか入っていない」と開閉を拒否したため、EU側の心証はさらに悪くなった。査察官はその場で査察を打ち切って帰国した。

 始まった責任のなすり合い

 EUが日本産水産食品の禁輸措置を決めたのは10日後の4月7日だった。あまりに早い決断だった。不意打ちを食らった水産庁など日本側は「事前に知らされなかった」と反発した。

 数日後にEUの官報に公表された査察結果は「施設、設備、衛生管理すべての面でEUの基準を満たす工場はひとつもなく、落胆した」との内容だった。欠陥 工場の烙印を押されたも同様だった。報告書はさらに「厚生省を含め衛生状態を保証した当局の監督責任体制のずさんさ」も厳しく指弾した。

 政府は当初「衛生管理上、問題があったとは思っていない」(鶴岡農水事務次官)と強く反発したが、しばらく経つと「こちらも改善しなければならない点が多々あるようだ」(井出厚相)と急速にトーンダウンした。

 しばらくすると厚生省内から「韓国などは輸出を念頭にEUの基準をきちんと守っているのに、日本の中小業者はそうした意識がない。恥ずかしいよ」などという発言が飛び出した。

 青森県も査察前に二度にわたり認定工場の立ち入り検査を実施したにも関わらず「水揚げから加工まですべてに立ち会うわけにはいかず、業者のデータを信頼せざるを得ない」(県生活衛生課)と早くも責任回避に走りだした。

 検査とは「書類を調べる」こと?

 1990年までフランスにホタテ貝を輸出していた青森市の水産会社社長は「自治体の指導を遵守してきたのに」と経緯を説明し、「青森の工場が不衛生とい うなら、他の日本やフランスの工場のホタテ貝工場は全部だめだ」と怒りを露わにした。青森県は業者に「査察に備えて書類をそろえろ」と指導したが、査察官 は書類などには見向きもしなかった。代わりに消毒を怠った水洗場の井戸水の水質を検査し、冷蔵庫の中味を調べたのだった。

 査察の経過や日EU双方の言い分を取材するうちに疑問点として浮上してきたのは「法令などによる基準は厳しくても曖昧な運用」をしてきた日本的衛生管理だった。

 そして明らかになったことは、業者にとっての「検査」とは「書類をそろえる」ことであり、県生活衛生課にとっては「書類を調べる」ことだったのだ。 つまり書類に不備がなければ、ほとんどの場合「合格」となる。これこそが「偽りのリアリティー」ではないだろうか。  日本側の方を持つわけではないが、輸出市場での検査はどこの国でも「内国向け検査」とは桁違いの厳しい基準を設けている。「衛生」を理由とした輸入制限 はWTO(世界貿易機関)違反とはならないからだ。日本も、米国の食肉業者に「工場内の壁と床の境目は直角だと掃除がしにくい」など子供じみたいちゃもん を付けたことがあるそうだ。だからこそ、輸出国は、輸出商品の衛生管理に異常なまでに気を使っている。「マレーシア以下だ」というのはそういう意味であ る。

 地下鉄サリン事件を契機に日本の安全神話が崩壊したが、衛生神話も崩れた事件であった。


1998年02月06日(金)
共同通信社経済部 伴武澄

 オランダ人のジャーナリストであるはファン・ウォルフレンは「人間を幸福にしない日本というシステム」という著書で「知性に恵まれた人は権力者を監視し、権力のもたらす危険を人々に告げ知らせる無償の責務がある」と日本の知識人の無責任体質を批判した。  返す刀で「権力者集団間の関係とか庶民の生活にかかわる制度だとかの研究に首をつっこむのは、学界に地位を占める者の威厳にかかわる、などと考えさせてはいけない」と空理空論に食む学界に自己批判を求める。

 有権者は投票を通じた「行動」を

 この本がベストセラーとなったのは単に硬直的な日本の政治や経済のあり方を批判しているからだけではない。多くの国民的課題の解決を日本の知識人に代 わって提起しているからではないだろうか。知識人に対しては、国民のための学問を勧め、有権者には投票を通じた「行動」を提起している。ウォルフレン氏が 一番批判したいのは、「政治は汚いもの」と決して手を汚そうとしない学者や評論家、マスコミの姿勢だ。「第三者的な議論」では何も変わらないという事実を 日本人に突きつけている。

 日本の政治に横行しているのは「偽りのリアリティー」であり、政治理論が最も頻繁に見出してきた真理は「権力が他の一切の人間性を圧倒した時、必ず腐敗 と破壊に到るという真理だ」と極めて明快に日本社会を切った。そのことがまさに、昨年来これでもかと明らかにされる金融機関と大蔵官僚との癒着構造の実体 を予見していた。

 「事実」を語る大蔵VS「真実」を語る山一

 政治家や官僚が言っていることは「うそ」ではない。しかし「真実」ではない場合が多い。銀行や証券を指導・監督していたはずの大蔵省は1991年8月の 損失補填事件以来どのような指導・監督をしてきたのだろうか。2月4日の衆院大蔵委員会で、大蔵省の松野允彦元証券局長は損失事件があった当時、山一証券 から「飛ばし取引に関する相談があった」ことを認めた。

 日本経済新聞が先週1月30日金曜日の朝刊1面で「山一の損失簿外処理は大蔵省が指導」とスクープしたことが国会証言の背景にある。記事では「指導は 91年12月と92年1月に松野証券局長(当時)から三木淳夫副社長にあった」としている。松野氏は「相談があった」とし、日経の記事は「指導があった」 と書いた。密室での会話は水掛け論に終わりかねない。百歩譲って「相談」があって、「止めろ」と言われなければ、山一側が「お墨付きを得た」と考えるのは 当然である。大蔵省の指導は「言葉」に表現されないことも多い。次のエピソードはそうした大蔵省と証券会社との暗黙の関係を物語っている。国会証言では、 大蔵省は「事実」を語り、山一側は「真実」を語っているのだ。

 大蔵省の"ささやき"は絶対命令である

 1987年10月19日、ニューヨーク株式市場の暴落に端を発したブラックマンデーは、日本市場にも深刻な影響をもたらした。ダウ工業30種は1日で 508ドル安の1738ドルまで売られた。翌20日の東京市場は3836円安の2万1910円まで下げた。この時、NTTの株価がおかしな動きをした。日 本経済新聞の10月21日付朝刊の株価欄では次のように伝えた。

 「NTTの株価はめまぐるしかった。前場約2万株の売り物を残したが、後場は前日比22万円安の269万円を付けた後、一転買い気配に。証券会社の自己売買部門と事業法人とみられる買いが5000株入った。 」。半数以上の株に値が付かず、値が付いた753銘柄のうち569銘柄までがストップ安になっていた時、NTTにはなぞの買い注文が入っていたのだ。

 翌21日にNTTの株価は24万円高となり、1日でブラックマンデー前の株価を回復した。NTTは1カ月先に1株255万円での第2次売り出しを控えて いた。株価を255万円以下にするわけにはいかなかった。第1次は119万円だったが、瞬く間に株価が急騰、一時300万円台をつけたこともあった。ここ まで書けば、何が起きたのか、賢明な萬晩報の読者は分かっていただけたと思う。

 後から聞こえてきた話は、ブラックマンデーの日本では20日の昼時、大蔵省から野村証券の役員に電話が入り『NTTの株価はどうなの』と言ってきたとい うことである。大蔵省幹部のささやきは万能である。「何をどうしろ」とは決して言わない。しかし、証券会社のMOF担(大蔵省担当)役員は、大蔵省からの 電話で意味するところが分かった。ただちに自己売買部門に「NTTへの買い」を指令した。

 金融・証券の幹部の遺伝子DNAには「大蔵省のささやきは絶対命令である」との回路がたたき込まれているのだ。たとえブラックマンデーのような市場の底が抜けようとする事態にもである。


1998年02月05日(木)
共同通信社経済部 伴武澄

 東証株価平均が1万7000円台を回復した。為替も1ドル=125円近辺に戻った。金融安定化策に続き、追加的景気対策が打ち出されるとの期待感から株 も円も買われているという。東京から日本版ビッグバンや行財政改革への熱情はもはや伝わらない。金融不安を前にして改革は棚上げとなったようだ。「特金・ファントラから始まった金融証券疑獄 株式市場のターボエンジン」に続いて再び特金・ファントラに戻る。

 特金・ファントラ制度の拡充の経緯をたどっていくうちに、巨人の星の主人公、星飛雄馬を思い出す。体力のなさを大リーグボールギブスで強化、次々と大リー グボールを編み出すが、ことごとく正攻法の打者だった花形満や土門豊作にうち砕かれる。金融だけでなく日本経済全体は正攻法の改革を避けて、場当たり的な アイデアでその場を凌いできた。一時的には威力を発するが、すぐに通用しなくなり、ただちに次の方策が求められてきた。筆者はこれを「臨時・暫定・特定国 家」と名付けている。

 新聞に出てくる法律の名前を注意して見てほしい。「臨時」「暫定」「特定」の文字がいかに多いか分かろうというものだ。昨年一度、「特定という名の不特定-臨時暫定特定国家」で書いた。「臨時・暫定・特定」については改めてレポートする。

 個人株主の減少を嘆きながら法人優遇

 特金・ファントラは損失補填の温床となっただけではない。株式市場に数々の弊害をもたらした。そしてその弊害は、もはや修復しがたいほどの構造的欠陥として日本の株式市場の改革の前に立ちはだかっている。

 まず、個人株主が市場から撤退する傾向が加速した。法人持ち株比率が80%前後にまで増えたことは前回すでに説明した。流動株の減少は売買の出会う機会 が減ることを意味し、公正な株価形成を阻害する。だれが考えても分かることだ。だが大蔵省は健全な個人株主育成の道を取らなかった。法人持ち株比率が増え ても一時的な株価対策を優先した。もちろん株価対策への経済的要請もあった。

 同じ時、東京証券取引所や証券業協会は何をしたのだろうか。「上位10人までの大株主(特定株主)比率は70%まで」と規定していた証券取引所の上場ルールを「当分の間、80%に緩和する」と改めた。「当分の間」は臨時的暫定措置であるが、今も続いている。

 この上場ルールは、そもそも特定株主への株式集中を防止し、流動株を増やして株価が公正に決まるための最低限のルールだった。これで大株主は株を買いや すくなった。大蔵省も証券業協会も「個人株主の減少を嘆き」ながら、法人持ち株比率を上げやすいよう「株価対策」を打ったのだ。

 1980年代後半の株式急上昇時は、この70%上場ルールを元に戻す格好のチャンスだったが、大蔵省は何もしなかった。株が下がり始めると、もとに戻す どころか次の「株価対策」が必要となった。ところが大蔵省が1987年11月のブラックマンデーで手掛たのは特金・ファントラのさらなる優遇策だった。

 始まった企業の配当無視

 企業同士の株式持ち合いが進むとどうなるか。個人株主は配当と株式の値上がりを目的に株を買う。上場していない株式は配当だけが目当てである。多少のリ スクを負っても預貯金するより有利な投資と考えるのは当然である。企業にとって配当政策こそが株主への最大のディスクロージャーである。

 その配当額が株価に対してあまりにも低く、利回りが合わなかったらどうだろう。株価が下がるのは当然である。業績が悪いのは問題外として、稼いだ利益の数%しか配当に回さないのは株主への背信行為に等しい。

 ところが、持ち合いが進むにつれて、企業は配当を無視するようになった。1970年代まで日本の上場企業は株価に対して3-5%の配当利回りを保証していた。う そではない。古い「四季報」をめくってみれば一目瞭然である。それが1980年代に入って著しく低下し、80年代後半には株価急上昇がこの傾向を助長し、 利回りは1%を切り、さらに0.5%近辺まで低下した。ちなみに欧米の配当利回りは2-3%を維持している。香港などアジア株も同様である。それまでふつ うだった日本市場が、世界で最も利回りが低い、変則的な証券市場に変貌した。後は知っての通り、上がれば売るだけ。完全なキャピタルゲイン稼ぎのギャンブ ル市場と化した。

 企業業績が上がり、利益が増えれば配当金が上積みされる。企業業績に応じて株価が上下するのは配当への期待があるからだ。かつての米デジタルイクイップ メント社のように利益をすべて投資に回し、株主への利益還元はすべて株価上昇(キャピタルゲイン)で行ってきた企業もないわけではない。しかし、これは例 外だ。

 なぜ配当利回りが低下したのだろうか。答えは簡単である。企業の持ち合い比率が増したからだ。AとBがお互いに1000株ずつ持ち合いしている場合、1 株当たり配当を5円にしようが、100円にしようが、「行って来い」だから同じこととなった。持ち合い比率が低い時には多くもっている方が「あんまいだ」 と増配を要求するのが当然だが、持ち合い比率が80%となっては法人株主が配当を求めなくなってもなんら不思議でない。問題は生命保険だけだった。なんと なればほとんどの生保が株式会社でなく、持ち合いのメリットを生かせなかった。生保が抱えた矛盾は後で述べる。

 野村総研のリチャード・クー氏がおもしろいことを言っていた。彼は法人持ち株を70%と想定し「仮に法人持ち合い株をすべて解消すると、株価に対する配当利回りは欧米並みの2%を上回る」という試算である。「目からうろこ」とはこのことである。


1998年02月04日(水)
共同通信社経済部 伴武澄

 早く本社に帰してあげなさい

 日本の金融業界トップが名を連ねてトルコを訪問した時、住友銀行の磯田元頭取が北海道拓殖銀行の頭取に「香港の山代君は香港駐在が長いね。あんまりだ。 早く本社に帰してあげなさい」と言った話が業界で話題になったことがある。1990年代初めのことである。  山代元圀(もとくに)氏は拓銀の香港法人代表である。磯田氏の言葉をまともに受け止めた人はいなかった。アジアでの営業基盤強化を狙っていた住友銀行に とって「山代氏はじゃまだった」のである。当時、山代氏は香港、南部中国、台湾での案件にほとんどすべて関与していた。「山代氏を通さないと仕事が取れな い」ともいわれた。

 華僑は人脈で動く。企業の大きさは問わない。つき合った長さや深さが肝心のビジネスがものをいう。大企業のトップといえども「一見の客には冷たい」。そもそも2、3年でころころ変わる日本の金融機関の現地社長に華僑とビジネスを語る資格はない。

 筆者もアジアで多くの企業や政府高官を取材した経験があるが、大手企業の現地法人はあまり頼りにならなかった。台北、マニラ、深セン、福州、煙台など多くの都市で意外な(といっては失礼だが)人物が現地社会に食い込んでいた。そんな一人に山代氏がいた。

 山代氏は1942年生まれ。慶応大を卒業して1967年に拓銀に入った。77年には香港駐在を命じられ、以来20年以上、香港にいる。北京語を学び、広 東語や台湾語にも挑戦した。中国がようやく文化大革命の混乱から脱しようとしていた。故トウ小平は2度目の失脚で失意にあった次期である。そんな時に山代 氏は、すでにアジアに実直に取り組み始めていた。

 月曜日に張会長の秘書に電話しなさい


 1988年11月、台北でどうしてもエバグリーンの張栄發会長に会わなければならなかった。世界最大のコンテナ海運会社で、近く航空会社を設立するとい う話を記事化したかった。現在の「Eva Air」である。米国では航空業界の規制緩和で多くの新規参入者が航空分野に進出、パンナムなどエスタブリッシュメントが市場から蹴落とされようとしてい た。アジアでは、韓国にアシアナ航空が生まれ、香港にドラゴン航空が産声を上げていた。日本では日本航空のジャンボ機が御巣鷹山で悲惨な事故を起こした数 年後ではあったが、台湾でエバグリーンが参入すれば、いずれ日本にもという思いがあった。

 エバグリーンには、日本からも香港からもアプローチしたが、ナシのつぶてだった。香港に駐在していた日本長期信用銀行の友人に「会えないものか」と食事 の際、問うたところ、山代氏の名が出てきた。それまで山代氏の名前すら知らなかった。拓銀がアジアで何をしているのかとも思った。

 「すぐ来い」という返事をもらって、オフィスに駆けつけると「ちょっと待ってて」と台北に電話を入れた。受話器を片手に右手で「OK」のサイン。ものの 5分である。「月曜日に張会長の秘書のアイリーンに電話しなさい。それまでに会長の時間をつくっておくといっている。後は大丈夫」といってアジア経済を語 り出した。金曜日の午後の話である。

 相手の求めているところを瞬時に察し、すばやく行動に移すだけでない。ただちに結果も出す。山代氏のそのスピードにアジアを感じた。「この人は日本では やっていけないな」とも直感した。その後、拓銀は1990年代に入って急激に経営基盤を崩し、昨年ついに破綻した。筆者の知る限り山代氏が融資を決めた ホープウェルやエバエアーなど華僑系企業はいずれも昨年来のアジア通貨下落にも耐えている。

 不良債権を出していないのが私の誇り

 1997年1月、山代氏は取締役で拓銀を去り、香港にユニ・アジア・コーポレーションを設立した。 その3カ月後、拓銀は北海道銀行との合併を発表し、半年後にはその合併交渉も破綻し海外からの撤退を余儀なくされる。香港での拓銀の地位は日本では知るこ とができないほど強力だった。1992年のアジア地区での協調融資案件で拓銀が手掛けたのは9億ドル。並み居る国際的金融機関の中で6位である。邦銀では もちろんトップだ。中国の深セン経済特区に初めて支店を開設したのは拓銀だった。19983年のことである。東京銀行は後れを取った。すべて山代氏の仕事 だった。住銀の磯田氏が山代氏の存在を煙たがった理由はここにあった。

 山代が古巣を去ったのは拓銀が疲弊していったからではない。「日経ビジネス」誌へのインタビューでも明言している。「日本がバブルで沸き立っていても、 私は香港で実直にやってきた。不良債権を出していないのが誇り」と語る。ユニ・アジアは日本とアジアをつなぐコンサルティングが主業務だ。エバグリーンな どアジアの主力企業も大株主として連なる。この新会社が通貨危機後のいまどうなっているか心配だ。アジアを知り、深く愛する数少ないビジネスマンにもう一 度会いたい。


(MSNの NEWS&JOURNALに掲載されました)

1998年02月03日(火)
共同通信社経済部 伴武澄

 新聞記者は多くの「うそ」をみてきた。正確にいえば「うそ」ではない。オランダのジャーナリストのファン・ウォルフレン流にいうと「偽りのリアリティー」に手を貸してきたともいえる。

 1993年産米が不作で94年はコメ騒動に明け暮れた。まず輸入米と国産米のブレンドが問題になったことは記憶に新しいだろう。筆者は94年から95年 にかけて農水省担当だった。農水省担当になる前はふつうの主婦と同様「そんなバカな」と考えた。しかしことの真相を知ると、なぜ農水省が簡単に輸入米のブ レンド販売を強行したかだんだん分かるようになった。

 業界の常識は消費者の非常識

 この1年に分かったことは単純なことである。コメの販売は「ブレンドする」という意味なのである。ふつうの人にはこの意味がぴんとこないかもしれない。 筆者も担当するまでは分からなかった。農家、集荷業者(農協)、系統組織(県経済連)、卸売り業者、小売店。だれに聞いてもコメを混ぜている売ることに後 ろめたさがなかった。「コメ販売のノウハウを」と問えば、だれもが「品質の違うコメをブレンドしてどのように味を保ちながらコストを下げるかだ」と答え た。コメの関係者は、輸入米が入ってきたときも同じことを考えた。タイ米が長粒米でジャポニカとはまったく異なるコメであることはどうでもいいことだっ た。

 だから、農水省が穀物検定で一生懸命、等級を付けても、工業品のようにそのまま消費者の手元に届くわけではない。農家すべてが出荷前にブレンドするとは 信じたくない。だが一般的なのだ。集荷時には60キロ入りの袋に入れ、その袋に等級が刻印される。しかし、その袋は流通段階でただちに破かれ、第2段階の ブレンドが行われる。今度はふつう高い方の等級が新たな袋に刻印される。小売りでも同じことが繰り返される。もはや農水省が決めたややこしい「類別区分」 や「品質区分」などはまったく意味を持たなくなる。

 秋田で直接、消費者にコメを販売している農家に取材したときは開いた口が塞がらなかった。「うちは良心的だから10%しか混ぜていない」と自慢したのだ。一番おいしい「あきたこまち」でも一番安い滋賀の「日本晴れ」が10%ブレンドされていたのである。

 近畿の中堅卸売り業者に入社したばかりの友人が打ち明けた話はもっとすごかった。「同じコメが違う表示の袋に詰められ、その逆もあるんだ。びっくりしたけど、びっくりしたことに会社の人が驚いていた」という。これではあんまりだ。

 東京の卸売業者の言い分はこうだ。「消費者にコメを売るには3種類の袋が必要なんだ。中身は同じでもいい。2種類のコメを一度に買っていく人は絶対いな い。特に一番安いのはほとんど売れない。真ん中のが一番売れる。それが日本の消費者心理だ」。当時、コメには新米記者だった筆者が取材するだけでも「偽り のリアリティー」がぼろぼろ出てきた。

 あんたは誰の代表なの

 1995年は食糧管理法の廃止が決まった記念すべき年であった。「つくる自由と売る自由」が与えられたはずなのに11月、農水省は新しいコメ流通に移行 することに対応した「検査・表示制度に関する研究会」報告を発表した。自由の引き替えに検査の強化が必要なのは金融機関でも同じである。しかし、農水省が 相変わらず、コメがブレンドされないことを前提に議論していたのが可笑しかった。

 もっと首をひねったのは、日本生活協同組合連合会(生協)が農水省の正式発表を待たずにマスコミ各社に「報告書への見解」なるものをファックスしてきた ことだった。内容が漏れたのは研究会に委員を送り込んでいた結果で仕方のないことではあるが、あまりにも出来過ぎていた。

 そのファックスには報告書が「消費者ニーズの多様化に的確に対応する必要性」を盛り込んだことを高く評価していたが、なんのことだか分からない。コメ販 売の透明性を確保するため、流通段階での「コメのブレンド操作の禁止」ぐらいは要求すべきだった。また「輸入米の安全性確保の万全化」をうたったことも評 価したが、諸外国の何十倍もの農薬を農地に散布している日本の農業に目をつぶって輸入米攻撃に終始する姿勢はいただけない。

 経済協力開発機構(OECD)の報告書では、日本の単位面積当たりの農薬散布量は欧米の30倍なのである。「あんたは誰の代表なの」と叫びたくなる。(続)

1998年02月02日(月)
共同通信社経済部 伴武澄

 「いますぐこの敷地内から出ていけ。さもないとシェリフを呼ぶぞ」-8年前、日米構造協議の取材でワシントン郊外のワレントン市にいた。日米の秘密会議 が開催されているという情報を追いかけて東京からようやくたどり着いた会場はエアリーハウスという広大な敷地内にある財務省の研修施設だった。数分後に本 当にカウンティー(郡)のシェリフが登場、胸のピストルをちらつかせた。まるで映画の中での出来事のようだった。

 選挙で選ぶ検事と裁判官

 アメリカの郡部には住民に選ばれたシェリフ制度がまだ残っている。1月30日付萬晩報で報告した 「55年前まで日本に存在した陪審制度」を書きながら思い出した。アメリカの民主主義を象徴するのは大統領でも上院議員でもない。まさしく地域の治安維持に当たるシェリフや検事、そして裁判官を自らの手で選ぶという制度の中にある。

 大統領選挙や中間選挙で伝えられるアメリカの民主主義は本当の姿ではない。2年ごとの選挙では知事、州の上下院議員、自治体の首長や議員のほか、シェリ フ、検事なども選ぶ。同時に行政の大きな懸案は住民投票にかけられることもあり、選挙民が投票しなければならない項目は多岐に及ぶ。衆院選挙の際、最高裁 判事の適否に○×をつける日本国の事情とはレベルが違うのだ。アメリカには多くの日本人ビジネスマンが住んでいるが、選挙権がないからこうした事情に疎 い。大使館に勤務する官僚もマスコミの記者も同じだ。

 映画「JFK」でケビン・コスナー扮する○○○検事はマスコミを通じて伝えられる自分の虚像と闘いながらケネディ元大統領暗殺の真犯人を追い求めるのだ が、彼が唯一頼りにしたのが、自分を選んでくれた選挙民からの支持なのだ。賢明な読者は、アメリカの新聞、テレビの事件報道には必ず、検事や刑事が実名で 登場することに気付いているはずだ。アメリカでは世論の支持がなければ、検事総長といえども安易な捜査に着手はできない。日本のように「捜査令状さえとれ ばあとはなんとでもできる」といった発想は生まれない。いまの流行り言葉でいえば「検事も裁判官も市場原理にさらされている」という訳だ。

 西部劇に登場する裁判は陪審員の心証に左右されやすく、大衆裁判にも似た側面を持っている。映画では無罪の罪で絞首刑になるストーリーも少なくない。ア メリカという国家には1930年代の禁酒法のように過激に走る傾向がないとはいえない。しかし、最終的には国家に誇りを感じる民衆の英知を信じてきた。

 日本でも住民投票の制度があり、原発建設や廃棄物処理場建設の是非を問うケースが増えてきている。だが、なぜか行政改革や税制改革が焦点となった試しは ない。地方自治といっても大きな枠組みはすべて霞ヶ関で決められるからである。地方にもっと裁量があれば、自治体ごとにいろいろな問題が住民投票にかけら れるようになるはずだ。

 保険料や税金を下げさせたカリフォルニア州住民投票

 1988年、米カリフォルニア州は住民投票で「提案103号」を可決した。自動車保険など保険の掛け金を一律20%引き下げ、1991年に選挙で選ばれ る「保険コミッショナー」が検討するまで据え置くとともに、住民が保険の掛け金を管理するという内容である。一言でいえば、保険の負担が大きすぎたことに 対して、州法の改正を求めた。

 「提案103号」は消費者運動家のラルフ・ネーダー氏が中心となった。保険会社は7000万ドル以上の資金を使い、反対活動を展開、反対提案も行ったが 住民投票の結果は否決だった。保険会社は州最高裁に差止めを請求したが敗訴した。その後1991年、カリフォルニア州保険庁は同州で営業する損害保険会社 に対して、自動車保険などの保険料を総額25億ドル以上払い戻すよう命じた。

 アメリカでの住民投票は否決しても何度でも繰り返し投票にかけられる例が少なくない。同じカリフォルニア州で1978年6月、住民が勝ち取った「提案 13号」は「行政の歳出削減」を呼びかけたものだった。趣旨は「減税が行えるのなら従来の行政サービスはいらない」。同じ提案が1968年、1972年と 住民投票にかけられたが、2度とも否決された経緯がある。この間に行政サービスはともかく住民負担が増えていったことが78年の住民側勝利につながった。

 地方自治体は、ただちに主要財源だった財産税を1%軽減した。新税創設に大きな歯止めをかけただけでなく、議決に必要な定足数を厳しくするなど行政の効率化も求められた。

 アメリカ合衆国独立のきっかけが、ニューイングランドの輸入紅茶に課税しようとした英国に反抗したボストン・ティーパーティーだったように国民の税金に対する意識は非常に高い。


1998年02月01日(日)
共同通信社経済部 伴武澄

 風力発電のコストが高いというのはうそである。いま日本に風力発電を普及させようと努力している人たちの話を紹介しようと思う。素人計算で電卓をたたくと、風力発電はけっこうコスト的にも合う発電設備なのでないかと思えるようになってきた。

 風力発電の普及を狙う小島剛さん

 「1村1万キロワット運動を起こしたい。今年は20基が目標」。風力発電の建設を手掛けて4年余り。すでに国内に16基をつくった。

 風力発電との出会いは1991年、コンサルティング業の仕事で出張したデンマークの産業博覧会。農家が畑の中に建て、電気を売って収入も得ているとい う。当時で,3000本近い実績があった。「日本でもビジネスになる。そんな、においがした」半年後、風力発電機を輸入する会社「エコロジー・コーポレーション」を設立。が、「日本は強風地が少ない。研究用か観光用がせいぜい」と国内の反応は冷たかった。

 1号機の納入は2年後。石川県松任市が、海浜公園のシンボルにする目的で発注した。納入に時間がかかったのは、当時、規制の壁が厚かったためでもある。 中部通産局は「外国製品を使った風力発電は、国内には前例がない」と膨大な資料の提出を求めてきた。「デンマークから技術者も呼んだ。ファックスのやりと りを数百回はしただろうか」。 その後は地方自治体やゴルフ場、学校に納入が進む。1基の建設費はざっと1億5000万円。約130戸の家庭の電気をまか なえる発電能力がある。

 15歳の時、石油危機のあおりで父親が経営する会社が倒産、一家が離散した苦い経験がある。「エネルギー危機への不安は人一倍ある」。電力会社は原発な ど大型発電所の建設に力を注いでいる。一方、風力発電所についてはきわめて小規模で、「コストが高いなど課題が多い」と普及には及び腰だ。「これからは、 環境を汚さない風力発電機を複数集めた発電所をつくるべきだ。発電コストは、電力会社の試算の半分くらいでできるだろう。(1997年1月9日付朝日新聞 「ひと」山本晴美)

 デンマークに風力発電所の研修施設をつくったケンジ・スズキさん

 かすかな風を切る音とともに、直径10メートルの羽が回る。その下で羊たちがのんびりと草をはむ。デンマークの風景の一部になっている風力発電をもっと 日本に広めようとデンマーク国籍を持つケンジ・スズキさん(52)が近く「風の学校」を開校する。風力発電の導入を考えている自治体や企業関係者に風車の ノウハウを学んでもらうための研修施設で「風力発電だけでなく、福祉や環境の綿で教科書のないところから教科書をつくってきたデンマークの勇気とオリジナ リティーも学んでほしい」と意欲をみせる。

 コペンハーゲンから飛行機と車を乗り継いで2時間ほど。スズキさんは3月にユトランド半島の西北部の6ヘクタールの土地と建物を買った。人も車もめった に通らない畑の中で、6月の開校を目指す。「日本でもここ数年、風力発電に関心が高まっているが、背景を知らずに視察だけで帰る人が多い。デンマークの環 境やエネルギーについても知ってもらう必要がある」と動機を語る。

 デンマークの風力発電施設は4300基。昨年の発電量は約14億キロワット時で、同国全体の発電量の5%を占めるまでになった。日本は現在76基、1基当たりの出力が小さいため、1995年の発電量は100万キロワットだった。  岩手県東山町出身のスズキさんは1967年、コペンハーゲン大に留学した。卒業後、日本大使館勤務や農場経営を経て1990年に環境関連のコンサルタント会社を設立した。デンマーク人と結婚して国籍を取得した。

 デンマークに風力発電が広がったきっかけは、二度の石油危機からだった。ほかのエネルギーへの転換に迫られた時、デンマークは放射性廃棄物などの問題か ら原子力発電を選ばなかった。国会は1985年、「原発を導入しない」と決議した。デンマークは世界の風車の60%を製造する最大の生産地で、農産物、医 薬品に次ぐ輸出製品でもある。日本にある風車の3分の1もデンマーク製だ。

 風力部門の責任者、ペアーダナマン・アナスンさんは「風力にシフトしたために絶えず改良が進められ、発電コストも石炭や石油と並ぶようになった。2030年にはいまの半額になるだろう」と予測する。(1997年4月14日付朝日新聞夕刊、石井徹記者)

 町営風力発電会社での経営で公共事業依存から脱却?

 小島さんの話では風力発電の建設コストは、400キロワットの発電機が1億5000万円だ。100万キロワットの能力に直すと2500基必要だから建設 コストは3750億円だ。同規模の火力発電所の建設費は分からないが、原子力だと数千億円。風力は初期コストは高いが燃料代がただだという点にこそメリッ トがあるはずだ。

 ここから先の計算は専門家にまかせるとして、現在の価格でも決して火力発電には負けていないはずだ。しかも町内で消費する限りにおいては送電コストがか からない(電力会社の説明では遠隔地からの送電コストは発電コストと同等)。それなのに電力会社はなぜ「コストが高い」というのか分からない。通産省の 「手続き面でも嫌がらせ」も含めて、発電業への新規参入を阻もうとしているとしか考えられない。

 風力発電を観光の名所としている山形県小国町では町費で風力発電システムを購入したため、コストは運用のための管理費だけである。つまり町民はほとんど ただで電力を使用できる考えである。そうなると、電力を販売したらどうなるのか発想が広がる。計算はこうだ。400キロワットの風力発電所を24時間、 365日フル運転すると発電量は約340万キロワット時。かけ算である。一昨年から始まった卸電力の販売価格は1キロワット時当たり8円前後とされるから 年間2700万円の収入となる。

 過疎の市町村では公共事業が実質的に「地場産業」になっている。ちょっとした町村でも年間数十億円の事業費を支出している。100基の風車を備えた町営 風力発電会社を経営すれば、年収27億円である。初期経費は150億円かかる計算だが、10年計画で実施すれば公共事業依存の体質から逃れられる。風車の 需要が増えれば、価格は必ず半値になる。

 通産省の外郭団体であるNEDOでは1991年から、発電単価の低減と土地有効利用を図るため大型風力発電システムの開発を行っている。500kW大型 風力発電システムの開発(青森県竜飛崎)、集合型風力発電システムの制御技術の開発(沖縄県宮古島=250kW×2基、400/100kW×3基)等を 行っている。1997年度はたった4.6億円の予算である。

 トーメンがこのほど、米国オレゴン州ユージン市の公営電力会社から受注した風力発電プラント(69基)は1基当たり出力600キロワットで総事業費が約 70億円である。大量発注ですでに3分の2の水準までコストが下がっている。米国では公営企業が本格的プラントの導入に乗り出しているのである。


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