1998年1月アーカイブ

1998年1月31日(土)
共同通信社経済部 伴武澄

 戦前の日本人は、マリアナ諸島を中心とした西太平洋の島々を総称して「南洋群島」を呼んだ。日本が中心としたのはパラオとサイパンだった。特にパラオは 日本の真南に当たり、ニューギニアとのちょうど中間点に位置する。フィリピン南部やいまの東部インドネシアにあたるスラウェシなどへの航路の格好の中継地 となった。これらの地域の重要性はいまの日本人にも米国人にも分からない。チビクロサンボの漫画に出てくる「椰子の木のまわりをぐるぐる回っているうちに トラがバターになる」風景は、南洋群島が舞台なのだ。主人公の黒人はアフリカだが、トラはアフリカにはいない。東南アジアかインドである。つじつまの合わ ない設定だが、当時の子供たちの人気者になったのは、日本による長年の南洋群島支配が時代背景としてあったはずだ。

  戦前の南洋群島にいた日本人3万人


 スラウェシにはマカッサルという海洋マレー人たちの交易の一大拠点があり、その東のアンボン島はオランダが香料貿易の中心とした土地である。ここはシロ チョウガイの宝庫でもある。プラスチックが発明される前の高級ボタンはシロチョウガイで作られ、戦前は日本がその貿易をほぼ独占していた。日本人は西洋人 がだれも手を付けていなかったミンダナオのダバオにも着目、麻のプランテーションを展開した。

 名著「マナコの眼」(筑摩書房)を著した故鶴見良行氏によると、1920年に5万2000人だった南洋群島の人口は1933年には8万1000人にまで 増えたという。56%の増加である。増加分の2万9000人のうち2万7000人が外国人、つまり朝鮮人を含む日本人だった。あくまで増加分の話である。 それまでに進出していた日本人は前者の5万2000人に含まれているのである。

 いまグアムを中心に数十万人の日本人観光客が、この地域を訪れているが航空路もない貧しい時代に13年間に2万数千人の日本人が南洋群島に押し掛けてい たのだから、すざましいと言わざるを得ない。ちなみに現在、ニューヨークやロンドン、香港など世界の主要都市に在住する日本人はそれぞれ2万人程度であ る。当時の南洋群島の人口の半数近くが日本人だったと考えれば分かりやすい。

 台湾経営の最大の難関はマラリアや特有の風土病との闘いだった。多くの歴史書に、19世紀の終わりまで中国人が台湾を見向きもしなかった理由のひとつに この風土病があったと記されている。国土の狭かった日本人は明治以降、農地や漁場を求めて南下した。西洋人が恐れた風土病もものともしなかった。当時は 「殖産振興」といった。「侵略」などという言葉で片づければそれまでだが、当時の日本人のバイタリティーはどこからきたのか考えると不思議である。

 サトウキビ栽培とシロチョウガイ採取

 南洋群島に日本人が進出したのは1920年に、国際連盟の委託統治領になったのがきっかけではない。1916年には「西村拓殖会社」がすでにサトウキビ 農園を開設していた。台湾で精糖会社が成功して原料調達が南洋群島にも求められた。渋沢栄一の娘婿の会社だった「南洋殖産」もまた同時期にサトウキビ農園 のため進出した。現地で足らなかった労働者は朝鮮や沖縄から連れて来られた。いや貧しさゆえ出稼ぎに出た。南洋殖産はダバオで麻栽培も展開していた。戦前 ダバオはアジアで最大の日本人コロニーだったという。多くの日本人経営者が麻の栽培で資産を形成した。

 それよりも前から南洋群島に進出したのは実は、シロチョウガイとナマコ漁のためだった。どういうわけか沖縄の糸満と紀伊の漁民が多かった。彼らは、パラ オを基地として、インドネシアのスラウェシからオーストラリア北部のアラフラ海の海域で活動した。史書によると、紀伊の漁民は幕末の時期からすでにオース トラリアでシロチョウガイを採取し始めていたというから驚きである。  1936年の世界のシロチョウガイ漁の漁船の3分の1の86隻がパラオを基地としていたという記録もある。1920年からは日本からパラオへの航路は 「国内航路」となったから、渡航もたやすくなったに違いない。

 男の後を追ったのは女である。1930年代初頭は、パラオのシロチョウガイについて"アラフラ景気"などという言葉も生まれた。鶴見氏の引用によれば、 当時の雑誌に「ダイバーに非れば料亭の門戸を潜る資格はない」「ダイバーが上陸した。カフェー、料理もたちまちダイバーに全娯楽機関を占領されてしまう」 「彼らが休漁期にパラオで歓楽地帯で費消する額は30万円と云わる。この額は漁獲高の約一割五分に相当す」と書かれた。歓楽街には相当数のからゆきさんが いたはずである。

 政府は学校を建て、日本語を教えた。そして企業が農園を展開し、多くの日本人が住み着いた。彼らが島の生活に溶け込んでいただろうことは、戦後、朝鮮半 島や中国で起きたような反日感情が幸いにも残っていないことから想像できる。そんな日本時代の南洋群島の生活や民俗は、戦後の50年にわたる国支配でほと んど忘れ去られようとしている。


1998年01月30日(金)
共同通信社経済部 伴武澄

 大蔵官僚が、二人逮捕され、三塚蔵相と小村事務次官が辞任した。またしても日本の官僚を中心として制度疲労が表面化した。制度疲労が起きているのはは 霞ヶ関の官僚だけではない。国会はもとより、三権分立の一角を担う司法界でも同じだ。裁判の長期化、警察や検察調べに偏重した判決、特にハイテクや生命工 学などに関する裁判での裁判官の専門性の欠如はもはやおおいがたいものがある。

 西部劇で見る乱暴な裁判や報道が伝える米国での陪審裁判は必ずしも万全ではない。しかし、選挙人登録した米国人は企業の社長であれ、家庭の専業主婦であ れ、裁判所の要請があれば、すべからく陪審員としての「義務」から逃れることはできない。普通の人による普通の感覚を司法の場に導入することが重要なだけ ではない。「人を裁く」という難しい判断をあえて国民に委ねることを通じて、国民に試練の場を提供しているという側面も見逃せない。

 ステレオタイプでみてはいけない歴史

 陪審裁判制度が昭和初期に導入され、15年間も施行されていたことは案外知られていない。もともと明治憲法制定に際して参考としたドイツ憲法に 「Jury」制度があり、憲法草案の策定では熱心に導入が議論された経緯もあったが、「日本人にはあわぬ」とする井上毅ら政府高官の猛烈な反対に遇い、導 入に到らなかった。

 それが大正デモクラシーの護憲運動と連動、民主主義の基本として普通選挙と併せて国民の司法参加を求める声が高まった。政友会の原敬は第26回帝国議会に「陪審制度設立に関する建議書」を提出、陪審制度導入のきっかけとなった。

 明治憲法下の日本は絶対君主下のもとに国民の政治参加がまれで本当の民主主義は存在しなかったように思われているが、実はこれも戦前の社会に対するステレオタイプの見方でしかない。

 日本は対外的にはシベリア出兵や中国進出など確かに軍国主義の様相を強め、国内的にも米騒動や労働争議など社会不安が頻発していた。社会的にも政治的に も安定を欠いていたが、思想面では大正デモクラシーに代表される自由な雰囲気があり、社会制度の不備や不公正に対して国民側から多くの意見が出され、政治 に反映されたといってよいだろう。少なくとも自由と豊かさのなかで政治的無関心が蔓延している現在と比べても当時の方が政治に対して正面から取り組む姿勢 があったように思う。

 陪審制度導入もそうした国民的世論の高まりの代表例のひとつとして位置づけることができよう。

 普及に徹底した啓蒙/全国で3339回のも講演会

 陪審法の本格的整備は原内閣(1918年9月から1921年11月)に始まる。法律の制定は1923年4月で、施行は28年からだった。もちろん内容的 には陪審で取り扱う事件を限定するなど欧米の陪審制度から比べるとお粗末なものだったが、法律制定から施行までの5年間の準備作業と宣伝・啓蒙活動は驚く べき内容で、陪審制度導入にかけた当時の日本政府の熱意が伝わってくる。逆に慎重の上にも慎重を期した結果、5年間もかかったのかもしれない。

 判事と検事を欧米に派遣するとともに、関連法令の制定を急いだのは当然として、陪審制度の運用のため各市町村と綿密な事務協議を繰り返した。また、新制 度の徹底のための宣伝、普及活動も同時に進められ、全国で延べ3339回もの講演会を開き124万人もの聴衆を集めた。さらに啓蒙パンフレット類284万 枚を作成、ほかに宣伝用映画11巻(うち日本映画7巻)も作成している。

 日本の陪審制度は1943年、「戦時」を理由に「陪審法ノ停止ニ関スル法律」が交付され、停止した。あくまで廃止されたのでなく、停止したのだ。付則に 「大東亜戦争終了後再施行スルモノトシ其ノ期日ハ各条ニ付勅令ヲ以テ定ム」と規定しており、多くの法律学者に陪審法は現在でも「眠っている状態」と考えら れている。

 国民性成熟にも求められる陪審制度

 戦後の憲法制定過程で、陪審制度に関する議論もあり、占領軍内部には「日本の民主化政策の一環として陪審制度の導入が不可欠」との考えが強かったようだが、日本側は「時期尚早」を理由に新憲法への明文化を阻止したという。

 その際、「日本での民主主義の未成熟」や「日本人の国民性に合わない」ということも大きな理由となったようだ。未成熟だったり、国民性に合わないものが どうして明治憲法制定に当たって議論されたり、大正時代に制度として導入されたのか疑問だ。また政府が外国から制度改革を求められたときになぜいつもこの 「国民性論」が持ち出されるのか疑問も残る。

 確かに日本人のなかには義理人情があり、素人が隣人を裁くなどということは得意でないのかもしれない。自ら勝ち取った民主主義を持たないため、お上の権 威に対して弱く、専門家である裁判官に裁いてもらいたいという気風が残っていることも否定できない。しかし、それだけで国民性の問題にすり替えられてはた まらない。

 われわれも経験を通じて素人が隣人を裁くという欧米の制度を試してみる権利はあろうかと思う。いままでの傍観者から当事者になることにより、経験を通じ て「人を裁く」ことの難しさや責任を体得することができるようになる。そう考えるのは決して間違いではない。自ら民主主義を勝ち取った歴史がないのなら 「未成熟な国民」にとってなおさらそうした経験や体験が必要なのではないだろうか。

 丸田隆「陪審裁判を考える」(中央公論社、1990)を読んだ。
1998年01月29日(木)
共同通信社経済部 伴武澄

 2年前、欧州出張の帰りに休暇をとってギニアを旅した。神田の印刷屋をやっていた友人の斉藤清さんが突然、店をたたんでギニアに赴いたのは5年前。青年 時代のギニアに対する思いが中年の心を揺さぶり、今では砂金掘りの"山師"になった。誰も遊びにきてくれない。インマルサット(衛星電話)で「来てくれ」 との催促が何回もあった。

 いつかは行こうと思っても日本からだと現場のキャンプまでは最低、片道3日かかる。現地に3日滞在すると10日間の旅になるから、やはりおっくうにな る。それにアフリカに行くとなると黄熱病やらコレラやらたくさん予防注射も必要で、第一どこでマラリアの予防薬、キニーネを入手していいかも見当がつかな い。ままよ、とブリュッセルからセベナ航空に乗った。

 かつてのアジ東南アジアと同じく、ギニアがアフリカのどこにあるかを知っている日本人にまずいない。筆者自身もそうだった。北は、パリ-ダカ-ル・ラ リーの終点国セネガルに接し、南はシエラレオネ、リベリア、コートジボアール(象牙海岸)。東北には砂漠の大国マリーが控える。

 そのキャンプはマリー国境に近いギレンベという村にあった。ジャングルではない。かといって草原でもない。たおやかな丘陵が続く緑の高原地帯で、近くを 西アフリカ随一の大河、ニジェール川が滔々と流れる。雨期には水浸しになった平地に背丈ほどの葦が一面に生え、乾期にはその葦も枯れてまっ茶色の世界に一 変する。

 砂金堀りが農閑期の最大の仕事

 ギレンベへは、首都コナクリからカンカンという地方都市まで飛行機で約一時間飛び、さらにサファリ・ロードを北に200km、7時間の旅。川を渡り、泥 濘をいく度か越えるとたどり着く。スコールが降るとラテライト色の道路は川に変身する。四輪駆動車でも何度か立ち往生した。

 住民はマリー系のマリンケ族といい、アラブの血が混ざる回教徒だ。トウモロコシを主食にいまだに焼畑農法を伝える。ギレンベには干乾しレンガでできた茅 葺きの円形住宅が点在する。最近、フランスの業者による綿花の栽培が始まり、ようやく換金作物の存在を知った。ボイバイジャン村長に村の人口を問うたが、 首をひねった。「50戸、300人程度じゃないか」とこちらから誘導すると「そんなもんだろう」という。戸籍などないから誰も正確な人口を知らないし、興 味もない。キャンプにはディーゼルエンジンの自家発電装置と通信用のパラボラ・アンテナがあるが、村には電気もガスもない。

 さて砂金の話に移る。ニジェール川の洪績台地はどこでも10mも掘ると上流の金鉱山から流出した砂金の層に突き当たる。マリンケ族の農閑期の最大の仕事 は砂金掘りだ。男たちは直径1mほどの穴を縦に掘り、さらに横に金脈に沿って掘り進む。女子供はその土砂を川で洗う。やがてゴマ粒より小さな輝きが現れ る。集めた砂金は中央銀行で換金してくれる。

 品位の高い金脈が発見されると数週間であたりに数千人規模の集落が生まれ、砂金が掘り尽くされるとその集落は跡形もなくなる。殺気だった殺傷事件も起き る。どうも有史以来続いてきた風景らしいが、ブラジルの砂金騒動のようには報道されてこなかった。1000年ほど前にこのあたりに成立したマリー王国は現 在のギニア中央銀行の役割を果たして繁栄したという。

 寄生虫と闘いながら大規模な砂金堀り

 斉藤さんの狙いは、そこに大型のパワーシャベルと洗浄機械を導入した採掘手法を取り入れることだった。「ギレンベの金の品位は南アフリカの金鉱の数分の1だが、2000mも3000mも掘る必要がないため十分コストが合うはずだ」という。

 事業化の前、1990年から1991年にかけてギレンベ周辺で1000本の試掘井を実施した。結果、1トン当たり数gの金が出た。南アフリカの金鉱山は 1トン当たり2g程度だから、品位はほぼ同等とみていい。掘る深さを考えれば大変に有望な金鉱脈ということができる。ちなみに世界最高品位の鹿児島県菱刈 山鉱山は1トン当たり20-30gというとてつもない金鉱脈なのだ。

 エンジニアや労働者約100人を集めて、2年前から本格的な操業を始めた。まだ試行錯誤が続いているが、近代装備がフル稼働すると年間1トンの金が採掘 できる計算だ。金の伸べ棒にして100本。金額で10億円になる。運がいいと10gの金のかたまりを発見したり、ダイヤモンドなど宝石類が見つかることも ある。

 日本人は斉藤さんと25歳になる刀沢と名乗る青年の二人きりだった。現在は幹部用の宿舎もできたため、衛生的な衣食住には困らなくなっているが、去年の 春まではギレンベ村の円形住宅に住み、泥水を沸かして飲んだ。マラリアには何度か冒され、名前も知れないの寄生虫の恐怖に苛まれた。世界一のGDP国に 育ったこの青年は何度か「逃げ出そう」と考えたが、まさか歩いて逃げ出すわけにもいかず、何カ月かいるうちに「こんなものかな」と思い出した。斉藤さんは 青年時代にこの国で過ごした経験があるだけに、そんな生活もまったく意に介していない。

 ギニア第二の開眼

 斉藤さんがギニアと関わりを持つのは20年前の鉄道敷設のための測量調査だった。技師だったわけではないが、得意のフランス語が買われて12人の仲間と ともに2年間、ギニア各地を転々とした。現在のギニアは当時とほとんど変わっていない。1980年代に火が付いた東アジア的経済発展のうねりは西アフリカ には届かない。

 帰国後に始めた神田での印刷業はそれなりにうまく回転していたが、斉藤さんの胸のうちには何ともいえぬ空虚さがあった。当時の仲間とギニアの写真集を編 集する話が持ち上がり、ギニア大使館を訪ねた。政府も企業もだれも相手にしなかったギニア大使館への"賓客"をもてなしたのはベンガリ・ダボ大使(当 時)。母国の経済的窮状を訴える大使の熱情に打たれて斉藤さんは「ギニア第二の開眼」を果たす。

 直ちに、別会社「ボンサンテ・ジャパン」を設立してギニアの健康茶「ケンケレバ」の輸入販売やギニア・ツアーの企画などを手がけるが、あまりうまくいか なかった。砂金の機械掘りはダボ大使が帰国後に持ちかけたものだった。400平方km、東京都ほどの面積の採掘権を譲るというのだ。10億円の資金が要 る。「ちょっとずるかったけれど、マスコミを使ってギニア大使が資金協力を訴えているという記事を書いてもらった」。効果は抜群だったが、興味を示した人 たちは「みんなギラギラしすぎていた」。やがて10億円を出資するという上場企業の社長が現れて斉藤さんのプロジェクトは本格推進することになる。

 ギレンベに入植してまずやったことは村のための井戸掘りだった。井戸が3本できて、村民はきれいな水をふんだんに使えるようになった。現在、診療所を建 設中。医者はいないが、セオギ・キャンプには獣医がいる。キャンプで働く労働者の多くはギレンベの男たちだ。村始まって以来の現金収入の道が開かれたわけ だ。キャンプの電灯の下では夜遅くまで子供たちがサッカーに興じていた。

 斉藤さんとともにギレンベ入りのは8月の初めだった。斉藤さんにとって3カ月ぶりの帰宅だった。車のエンジン音を遠くから聞いたのか、子供たちが集まっ てきて「ニケ、サイトー」と手を振った。ギレンベに足を踏み入れて足かけ5年、数100km四方でこの東洋人の名前と顔を知らないものはいない。

 雨期に入り、8月に操業は一時ストップしていた。激しい雨の合間に見せるアフリカのすずやかな緑を眺めながら「別に砂金でな くともよかった。ただここにいると一番落ち着くのですよ」と笑う。砂金掘りを採算ラインに乗せるにはまだまだ課題が多いが、ここギレンベは団塊の世代が 40歳後半にしてたどりついた桃源郷なのだ。

1998年1月28日(水)
共同通信社経済部 伴武澄

 大蔵省の検査汚職で27日、二人の大蔵官僚が逮捕された。1991年7月の証券会社による特金・ファントラ損失補填事件以来、金融証券業界は何人の逮捕 者を出したのだろうか。改めて6年半前の出来事を思い出した。バブル経済の崩壊後の金融事犯は特金・ファントラに始まった。その特金・ファントラとは何 だったのか。取材ノートをめくった。

 法人税を優遇するから株式市場を支えろ

 株式市場は、1978年のオイルショックから2年たって1980年になっても立ち直らなかった。そんな12月の暮れ、大蔵省からある通達文書が主要企業 に配られた。表題に「法人税基本通達(6-3-3の2)」とあった。「企業決算で金銭信託中の有価証券を税法上、簿価から分離することが可能になる」とい う内容である。素人には何のことかさっぱり分からなかったが、企業の財務担当者にはすぐに意味するところが分かった。

 損失補填の温床となった特金・ファントラの解禁を示すサインだった。ふつうの日本語に翻訳すると「税制で優遇するか ら特金・ファントラを利用して市場から株を買え」という指令である。日頃、護送船団にお世話になっている企業社会は「株式市場を支えろ」という意味でも あった。「問わず語り」が大蔵省の得意とする行政指導の手法である。

 特金は、それまでも債権運用の手段として存在していたが、ファントラは住友信託銀行が編み出した「商品」だ。特金とファント ラの違いは専門的になるので説明しない。日本の企業風土と米国のそれとではあまりにも違う。米国の企業はM&Aを目的としない限り他社の株式などを保有す ることはないが、日本の企業は株式を持ち合うことによって、取引の安定を図ろうとした。つい最近まで持ち合い株の売却は日本的企業社会では自殺行為に等し かった。

 他社の株式取得はまた、利益を含みという形でバランスシート上、隠蔽できる効果ももたらした。しかし、それらのメリットはすべて株価の右肩上がりを前提として成り立っていた。

 株式持ち合いが唯一不都合だったのは、同一株式を買い増した時に起こる「評価替え」だった。簿記では「払出単価の低下」という。売却時に払出単価との間 に利益が出ると法人税の課税対象になったからである。1980年12月の大蔵省通達は、信託財産として株式を持てば保有株式を買い増しても「簿価が分離」 されるため、「払出単価が低下」することがないといういわば法律の盲点をついたアイデアだった。

 ちょっと難しいので説明すると、1株のみ100円で保有していたA株をもう1株500円で買い増すと平均の簿価は300円となる。ここで、買い増した1 株を500円近辺の価格で売却すると,払出単価は平均簿価の300円となる。この結果、保有していた100円のA株の含み利益400円(時価500円、簿 価100円)のうち、200円の利益を吐き出した勘定となり、この200円が課税対象となってしまう。特金・ファントラを利用すると500円で買ったA株 は信託銀行の信託口座にあるため課税対象にはならない。株式の買い増しが容易になる仕組みである。

 特金・ファントラが起こした巨大な地殻変動

 特金ファントラの残高は、84年3月末には2兆5789億円にまで増え、翌85年3月末は倍の5兆3038億円になった。以降、86年11兆3769億 円、87年25兆0684億円、88年32兆2529億円、89年38兆9114億円、そしてピークの89年9月末には46兆7737億円もの残高を計上 する。当時の東証の時価発行総額のほぼ10分の1である。

 1980年当時、法人持ち株比率はすでに70%に達していたから、残りの30%の個人持ち株の3分の1が10年足らずで法人に移動したことになる。おお ざっぱに言えば、日本の上場企業の10年間の税引き利益に匹敵する金額が、特金ファントラにつぎ込まれた可能性がある。たった一通の通達からすざましい地 殻変動が1980年代の株式市場で起きていたのだ。このことは誰も気づいていない。筆者も特金・ファントラの残高を調べて昨日初めて、株式市場のターボエ ンジンだったことが分かった。

 ブラックマンデー後を支えた生損保

 実は特金・ファントラ残高の膨張を後押しした事件が後に二つ起きる。株式市場の活性効果が大きいと自認した大蔵省は、日本株が次に低迷した84年9月に は、今度は生損保にも株式による特金の運用を解禁した。一片の通達だったかは知らない。たぶんそうだろうと思う。大蔵省の意味ある政策変更はほとんど一般 の目に触れることのない通達によって行われてきた。

 ここで生損保に与えられたアメは「信託財産による運用ならば株式のキャピタルゲインを契約者配当に振り向けることが可能」としたことだった。これも説明 が要る。生損保は契約者から預かった保険料の30%までを株式で運用していいことになっていたが、契約者への配当に充てられるのは「配当金」だけで、 「キャピタルゲイン」は認められていなかった。生損保は株式の「買い」は認められてはいたが「売る」ことは禁じられていたに等しい。これは特金・ファント ラとは関係ないが、当時の生保幹部から「われわれにとっての売買とは買買と書くんですよ」と聞いたことがある。

 この株式運用枠の30%に新たに自由に売買できる3%枠が設けられた。たった3%ではない。3%もである。生損保の商品はすべて大蔵省の認可を得てどこ もまったく同じだったから、生保は契約者獲得のため配当率で競争していた。3%の自由な株式運用が商品力の違いとしてアピールできるようになったから業界 は諸手をあげて歓迎した。 生損保は初年度から3%枠一杯の運用を開始した。

 二度目の事件は、1987年11月のブラックマンデーへの対応策として起きた。翌88年1月、大蔵省は生損保の特金・ファントラ枠を3%から5%に拡大 した。もはや打ち出の小づちである。ニューヨーク市場の暴落に端を発したブラックマンデーは経済回復の手だてを模索していた欧米経済に壊滅的打撃を与えか ねなかった。「ニューヨークのそこが抜けた」と評され、当時の危機感は昨年来のアジアの通貨暴落の比ではなかった。

 大蔵省の通達は、単なる連絡簿ではない。このときは「生損保ニューマネーの再出動命令」に近かった。大量の生損保資金の投入を背景に1月から日本の株式 市場は再び、右肩上がりの急カーブを演じることになる。特金・ファントラとはいえ、「買買」的体質の生保マネーである。(続)


1998年1月26日(月)
共同通信社経済部 伴武澄


 1992年11月、クラレの臼倉嘉男さん( 現クラレインテリア社長) と北陸から東京へ向かう列車で同席、企業のフィランソロピーについて話し込んだ。またまた古い話だが、取材ノートに赤丸が付いている。当時は株価や地価の 下落は始まっていたが、多くの企業はまだまだ余裕があり、経団連などでも社会貢献委員会が設立されるなど「企業フィランソロピー論」が華やかだった。何か の企画記事で使えると思っていたが、日本経済は1ドル=100円を超える円高で尻に火がつき、やがて金融不安で屋台骨が揺らぎ始めた。結局、この話は出番 を失った。

 クラレは他の企業のやらないことを愚直にまでやってきてようやくここまで来た企業だ。1980年代に抗ガン剤を世に出して株価が4桁になった。フローの実 力でなかったのは、その後の株価が示している。もはや競争力を失ったとされる繊維業界のなかで唯一、経常利益が営業利益を上回っている。増益基調は何年続 いていつか知らない。一株利益は1997年3月期で33.7円。東レや旭化成をはるかに凌ぐ。業界でもダントツである。

 臼倉さんは行田市の足袋屋のせがれだった。京都大学を出て、本当は家業を継ぐつもりだったが、クラレに入社して総務本部長まで出世し、ついぞ行田に帰るチャンスを逃した。クラレという会社が相に合っていたのだろう。

 列車での会話は大原一族の偉業に及んだ。「倉敷に大原美術館を建てただけではない。大原孫三郎は病院も建設した」。いまでは公立の倉敷中央病院になってい るらしい。この病院は規模として当時、東洋一だった。孫三郎は私財も多く投じた。「女工さんたちが病気になったときの面倒も見る必要がある。患者もたまに は音楽でも聞くぐらいの余裕が必要だ」と考えた。病院の真ん中に「音楽ホール」を作ることを命じた。これは究極のフィランソロピーだ。いまでこそ企業が病 院を持つことは珍しくない。大正時代のことである。

 病院経営のきっかけは明治末期に岡山で孤児院を経営していた宮崎出身の石井十次との出会いだった。熱心なキリスト教徒だった石井は医学の道を目指して岡山 医学校を卒業したが、道すがら預かった子供を引き受けたのがきっかけで医学の道を断念、孤児のために一生を捧げることになる。

孫三郎は石井の生き様に心服して自身の歩むべき道を定めたという。岡山孤児院は最盛期には1200人の孤児を抱えた。孫三郎の「無条件、無制限の援助」があったとされる。いま大阪市にある愛染橋病院は石井の業績を引き継いでいる。

 法政大の大原社会問題研究所、日本学術振興会の労働科学研究所、白桃やマスカットを生んだ大原農業研究所、柳宗悦ら民芸運動家の夢を実現した日本民芸館。「皆、孫三郎が世に送り出したんですよ。あまり知られていないけれど」。

 そんな話を聞きながら東京駅についた。石井十次を紹介したテレビ番組を見た直後だっただけに、臼倉さんとの出会いもひとつの一期一会だと思った。

 クラレという会社はナンバーワンを目指しているわけではない。そういえば「人のやらないことをやってきた会社」(中村尚夫会長)だけに社員もあまり人間がすれていない。

(Kyodo Weekly 1月26日号掲載) 1998年1月27日(火)
共同通信社経済部 伴武澄

  昨年7月の中国への返還をはさんで盛り上がった香港経済は、東南アジア通貨危機の影響で揺らぎ始めた。株価と不動産はピーク時比で20%下落、米ドルとのペッグを維持しようとする香港政庁と市場との綱引きがかつてなく強まっている。

12日には東南アジア最大の証券会社であるペレグリン・インベストメントが事実上倒産、大手不動産の一角のサイノランドは経営危機の噂を背景に証券市場で 大きく売られた。好決算を誇っていたキャセイ・パシフック航空も730人にも及ぶ大リストラ策を発表、観光業にもようやくアジア通貨危機が波及し始めた。

 バブル精算に向かうサイノランド

 1月の第3週、香港の不動産大手の一角であるサイノランドの株価が倒産の噂を背景に45%下落し、香港株全体の足を引っ張った。15日、会見した同社役員のマイケル・チャン氏は「経営状態は良好である。倒産などは根も葉もない噂である」と経営不安をきっぱり否定した。

 チャン氏は「旧正月後のマンション販売で20億香港ドルの売り上げが見込まれ、数億ドルの短期借入金の返済には十分対応できる」との展望も示したが、親会社のチムサツイ・ペロパティーズ株は34%下がるなど売りはグループ全体に広がった。

 サイノは、シンガポールの華僑一族が経営する香港拠点の不動産会社、チムサツイ・ペロパティーズの子会社。80年代の不動産不況時に仕掛けた大量の土地 取得が、その後の経営基盤を形成したが、93年からの地価高騰後の積極的な土地取得がその後の経営を圧迫、96年から赤字経営に陥っていた。

 香港の不動産市場は昨年11月以降、サイノランドを含めヘンダーソンランドや長江実業など大手デベロッパーは相次いでマンションの大幅値下げを実施、高級 物件を中心に投売り的様相を呈している。しかし、サイノランド以外にはまだ大手の経営難は伝えられていない。長江実業などは過去の蓄積である内部留保の厚 さに支えられており、金融関係者も「香港はこれまで何度も似たような不動産不況を経験してきた。これくらいの価格下落ではびくともしない」との強気の見方 が多い。

 しかし、香港資本は旧来から東南アジア市場と金融面で密接なつながりを持っており、アジアの資金調達の場としての機能を果たしてきただけに、いつまでも長引くアジア通貨危機の埒外にいられるはずがない。

  そうした中で注目を集めたのが、ホープウェルによる「不動産開発への復帰」を宣言だ。この10年間、不動産取り引きから手を引き東南アジアや中国での高速 道路や鉄道事業などのインフラ投資を進めてきた。今や底値と判断した華僑資本らしい機敏な動きとの受け止め方もあるが、不動産をめぐる香港での思惑はさま ざまだ。

 リンケージ懸念させるペレグリン倒産

 大手証券のペレグリン・インベストメントは1月12日、清算に向けて法的措置を開始したと発表した。日本を除くアジア最大の証券会社で、昨年末まで倒産を予想したものはほとんどなかった。

 プレグリンの倒産の直接的な引き金は、インドネシアの運輸会社ステディーセーフ社への2億6000万ドルに及ぶ貸し付けの焦げつきだった。東南アジアで の金融破たんが香港に波及した初めてのケースで通貨危機の中で香港だけが安泰ではいられないことを世界の金融関係者に知らしめた。また、同社は中国企業の 香港上場で中心的な役割を果たしてきただけに中国でも大きなショックとして伝えられた。

 同社の危機は突然やってきた、これまで有力な後ろ盾だった米ファースト・シカゴ・インターナショナル・フィナンスとスイスのチューリッヒ・センター・イ ンベストメントがペレグリンへの融資を突如、中止した。インドネシア通貨であるルピー下落が泥沼的様相を呈してきたことが背景にあるというのがもっぱらの 見方である。

 1月9日、香港政庁は同社に対して営業停止を命じた。今後、東南アジア発の香港企業倒産に注意を払う必要が出てきたということが言えそうだ。

 加速する外国人の香港観光離れ

 香港を訪れる外国人観光客は昨年5月までは前年同月比10%前後の勢いで増えつづけてきたが、7月は前年同月比35%、8月以降も20%を超える減少が続いている。

 香港には毎年1200万人の観光客が訪れ、135億香港ドルを稼ぎだしてきた。その収入はGDPの8%を占め、雇用の12%を支えてきた。返還前の香港を見ようと外国人が押し掛けた96年の反動に加え、アジア通貨危機後のアジア諸国の外国旅行自粛が大きく影響している。

 経済危機に瀕している韓国からの旅行客が激減し、一番お金を落としてきた日本人観光客はホテルなどによる日本人への割増料金が発覚して香港にそっぽを向いた。

 キャセイ航空は昨年11月、海外からの航空運賃をほぼ半額にする大キャンペーンを張ったが、運悪くにわとりの新型インヘルエンザ騒動に巻き込まれてキャ ンセルの山を作った。香港観光業協会によると、香港政庁に認可された1260の観光業者のうち、400社が経営難に陥っている。

 人口630人で製造業をほとんど持たない香港は金融や観光などサービス業で生計を立てており、アジア通貨の下落で相対的に高くなった香港ドルはサービス 業の成長に大きな障害となってきたようだ。特に返還以後は植民地的なエギゾチズムは失われ、ショッピングやグルメの楽しみの場としての香港は急速に魅力を 失っている。

 いつまで続く米ドルペッグ制

 香港のもう一つの懸案は、香港ドルの対米ドルペッグがいつまで続けられるかという問題である。ドルペッグ制は、1983年に起きた通貨危機を教訓に、同 年10月から1米ドル=7.8香港ドルに固定した制度。香港上海銀行など3行が香港ドル紙幣を発行しているが、これらの銀行が紙幣を発行する際に同価値の 米ドルを香港金融管理局に拠出しなければならない。

 つまり、香港では流通している紙幣と同じ量の米ドルの備えがあるということ。香港は、800億ドルを超える外貨準備を保有する有数の米ドル保有国。現在流通している香港ドルは百数十億米ドル。流通量の7倍以上の外貨準備をもっていることが、香港の強みとなっている。

 これに中国の1300億ドルの外貨準備を加えれば「どんな香港ドル売りにも対応できる」というのが金融当局の自信となっている。

 香港の米ドルペッグ制は、通貨安定を図れる大きなメリットがある半面、自由に市場金利を操作できないという不具合があるだけでなく、大幅に下落したアジア通貨との不整合も問題となる。

 いまのところ、通貨当局は「ペッグ制を維持するコストより放棄するコストが上回る」ことを再三にわたり表明している。しかし、市場では返還の一周年を前後に香港も変動相場制への移行が余儀なくされるとの見方は消えていない。(了)


1998年1月25日(日)
共同通信社経済部 伴武澄


 説教は島民には分からない英語だった

 前回では、タイトル倒れの内容だったかもしれない。最近出版されたヘレン・ミラーズ著「アメリカの鏡・日本」(Mirror for Americans:JAPAN)に沿って、終戦直後の西太平洋諸島の生活を再現する。

 アジアや日本の専門家として米陸軍やシカゴ大学で教鞭をとっていたヘレン・ミラーズ女史は1946年2月、GHQの労働局諮問委員会のメンバーの一人と して来日した。1948年この本を著したが、日本語への翻訳にダグラス・マッカーサーが「占領が終わらなければ、日本人はこの本を日本語で読むことはでき ない」と書簡に書いた。

 当時の米国から日本への空路は太平洋の島伝いに飛行機を乗り継ぐものだった。カリフォルニアからまずハワイへ、そしてジョンストン島、マーシャル群島のクワジャリン環礁にやってくる。そこで見た光景をこう記している。

 「太陽が島を照りつけている。椰子の木は爆撃でぼろぼろになっている。私たちは教会へ行った。島民が百人ほど座っていた。最近ボストンからやってきた宣教師が改宗させたばかりという。説教は島民には分からない英語だった」

 「クワジャリンは、激しい戦闘の末、始めて私たちの支配下に入った日本領土である。わずか2年前、1944年1月、ミニッツ提督が軍政を敷いた。海兵隊 の書いた記事によるとジャップと現地住民の関係はまずくはなかった。怨みは買っていたが、全体として住民の扱いはよかった。子供たちを8時から11時まで 学校へ行くことを義務づけた以外は、現地の生活習慣に介入しようとはしなかった」

 いまからは到底、想像もつかないが、かつて日本人は太平洋のど真ん中にまで生活の場を求めて定住していた移住していったのはハワイやカリフォルニアだけ ではなかった。第一次大戦で戦勝国の権利として西太平洋の島々を日本が領有したからではない。そのずっと以前、スペイン人が領有していた19世紀から日本 人は島伝いに生活の場を太平洋に広げていたのである。

 クワジャリンの子供たちは学校で何語で勉強していたのか興味ある。英語やドイツ語であろうはずがない。戦後、この地を訪れた米国人が日本時代の"義務教育"に特に言及しているくらいだから、日本語だったはずだ。日本支配が24年間続いた土地である。

 日本人は商人や漁師としてやってきた

 ミラーズ女史はさらに、マリアナ諸島のグアムへ飛ぶ。原住民のチャモロ族について、16世紀以来、スペイン、米国、日本、そして米国と「4回も外国の支 配者を変えた」ことに言及する。島民は直接、戦争して負けたわけではない。他の土地での日欧米の戦争の結果で為政者が変わった。最初の近代戦争は1944 年に経験する"米国からの反攻"である。

 日本人との関係について「19世紀の後半になると、日本人が商人や漁師としてやってくるようになった」と書いている。スペイン人は島の交易には興味がな かったが、日本人は島と島の交易、日本との貿易を発展させていった。米国がスペインからグアムを獲得した1899年当時、数百人の日本人が定住し、チャモ ロ人と結婚していた。島の貿易はほとんど日本とのもので日本船で行われていたらしい。

 グアムは米国にとって海軍の戦力的拠点としての地位は高かったが、貿易には関心がなかった。日本との貿易を閉め出す法律が次々とできて、1937年には 実質的に対日貿易は閉ざされた状況になった。ミラーズ女史によれば、グアムはマリアナ諸島で最も大きな島で、開発次第では農業や漁業などこの地域の生活を 支える力があったが、米国はそうはしなかった。

 グアム以外のマリアナの島々は日本がドイツから獲得してからある程度発達したとする。チャロモ人と結婚して定住した日本人は1938年には7万人に達し た。いまでも10万人程度の人口規模である。当時は、人口の半分近くが日本人だった。半数が農民で残りが漁民だった日本とあまり生活様式がかわらなかった から、島の生活に障害はなかったようだ。日本領マリアナでは、日本人が砂糖産業を開発した。魚の養殖技術も持ってきたようだ。資源のなかった日本は小さな 島といえども産業資源として貴重だったはずだ。

 敗戦で価値を失った日本語と日本円

 1945年にこのマリアナ間諸島を訪れた米国の人類学者であるジョン・エンプリーは戦後の島の移り変わりを次のように報告している。
 「20年にわたって日本の教育を受けてきた人々は、ある日突然、日本語と日本円が、英語と米ドルの前に価値を失ったことに気づいた。日本人と朝鮮人は、 島で生まれ、現地人と結婚した日本人まで一人残らずいなくなり、経済活動に空白ができた。米国はこの地域の経済にそれほど関心を持っていないから、いまま での収入源のかなりが消えてしまった。サイパンとテニアンでは砂糖の店が消えた。アンガウルもリン鉱山は廃墟のまま放置された。コプラ(ヤシ油)集荷の船 は出たり出なかったり。輸出先がないのだ。いまや島民は米軍施設での日雇いか、軍人相手の土産物屋しかない」

 ミラーズ女史もこんなことを考えながら島伝いに日本に近づいていった。

 台湾は1895年から50年、朝鮮半島は1910年の日韓併合から敗戦まで35年間の日本が支配した。樺太(サハリン)は1905年の日露講和からだか ら40年、それ以前は混住の地とされ、領有権はなかった。そう考えると西太平洋諸島の領有の年は決して短い期間ではない。以前からの関心事ではあるが、 戦後、海外領土からの帰国者は350万人を超えた。復員者は別にして多くは、戦争のずっと前から現地で生業を起こし、日本人町を形成して定着していたはず だ。なぜみんな帰ってきたのか。いやなぜ生活の基盤を奪われて帰国を強要されたのか不思議である。彼らが現地に残っていれば、日本語が現在の華僑の中国語 のようにアジアや太平洋諸国でもっと広範囲に使われていたはずである。

 西太平洋での標準語だった日本語について語るつもりが、日本そのものになった。ただ55年前の雰囲気は伝えられたと思う。

 フィリピンにほど近いパラオには日本に関したもっとおもしろい話がある。来週末、報告する。


1998年1月24日(土)
共同通信社経済部 伴武澄

 英国人が偉いのは英語を国際語として残したことである。最大の植民地だったアメリカ合衆国が第一次大戦後、債務国から債権国になり、第二次大戦後は唯 一、戦争被害を受けなかった国家として戦後世界経済のリード役となったことにも起因している。独立した合衆国が仏領ミシシッピーを併合、スペイン領のテキ サス、カリフォルニアをも飲み込みそれぞれの文化に染まりながらも、英語という言語だけは残した。

 数年前、アフリカの西端のギニアを訪れた時、フ ランス語を解しない筆者は本当に困った。アジアでは英語と中国語でなんとか用は済ませるが、西アフリカではフランス語圏が確固として存在していることにあ る種の感動を覚えた。コートジボアールやマリなど西アフリカは英語はまったく通じない。多くの部族が国家的、言語的統合を迎える前にフランス語が流通した から、彼らの共通語となり、いまでは国語になっている。そういう意味でフランスも偉いことになるが、フランスの場合は旧植民地がその後、国際的に政治的、 経済的地位を高めることはなかった。

 植民地を経済的に「開放」した英国

 英国植民地の場合は、領有というよりも通商拠点の確保が当初の目的だった。ジブラルタル、スエズ、ケープタウン、コロンボ、シンガ ポール、香港は今でも貿易・海運の拠点として栄えている。同じ植民地から収奪しても英国は町を作り、都市を多くの商人に開放した。スペイン人はカトリック 教を押しつけ、フランス人はフランス文化を植え付けようとした。植民地の人々にフランス語を強要できても、周辺国の人々には使ってもらえなかった。その 点、英国は植民地を列強に「開放」した。植民都市での共通語としての英語はこうして外国人にも親しまれた。

 香港の繁栄は「レッセ・フェー ル」にあった。場を提供し、外国人にもビジネスの機会を与えた。シンガポールも同様である。だから戦前から日本人もアメリカ人もやってきた。それぞれの商 人たちは自国同士で集まって住んだが、お互いには「英語」を使った。英国は"後発"の植民地国だったため、自らが確保した通商拠点を「開放する見返り」と して、先進植民地国に対しても通商拠点の開放を求めた。半ば余儀なくされた政策が、結果的に閉鎖的な支配を退けたのではないどろうかと思う。

 第一次大戦前の世界地図

 インド、マレー半島のアジア植民地はもとより、ケニヤやタンザニアなど東アフリカ諸国、南アフリカ共和国も英語圏である。インド は、まずポルトガルがゴアに拠点を築き、フランスも中部インド領有を目指したが、ポンディチェリの戦いで英国に敗れた。マレー半島の貿易の拠点だったマ ラッカはもともマレー人のムルッカ王国の首都。ポルトガルが陥落し、その後オランダの手に渡り、1825年の英蘭協定で英国のものになった。

  インド進出は、東南アジアの香料諸島がオランダの支配下にあったためやむなく出たものだが、「綿」と「茶」を得た。19世紀に東南アジアのペナン、マラッ カ、シンガポール、香港という点を確保、「ゴム」「パーム油」「ボーキサイト」を獲得、最後に「アヘン」を見いだした。

 インド全体を版図 に納めたのは19世紀後半のエリザベス朝の絶頂期である。インドで得たのは「シーク兵」と「グルカ兵」である。傭兵である。近代的徴兵制度はナポレオンが 導入した制度だが、英国は無尽蔵の人材の宝庫だったインドに傭兵の供給源を見いだした点で「天才」である。19世紀後半のセポイの乱以降、英国に絶対服従 したインド人は英印軍兵士として、多くの戦場で英国のために戦った。傭兵だから、狩り出されたのではない。

 英国は20世紀に入ってアフリ カに地歩を固めた。南アフリカでは、ケープ植民地を奪取した勢いを駆ってオランダ系ボーア人と戦い(ボーア戦争)、オレンジ自由国とトランスバール共和国 を手にし、英連邦に組み込んだ。ここでは「金」と「ダイアモンド」が戦利品だった。そこには世界最大の鉱脈があった。いまでもオッペンハイマー一族が率い るデビアス社が世界のダイアモンドの流通の9割を握る王国の地歩が形成された。英国は南アからさらに北上し、ローデシア(現ジンバブエ)、ザンビアにたど り着いた。ここは「銅」の宝庫だった。

 東アフリカのタンザニアはもともとはドイツ領だったが、第一次大戦で英国の委任統治領となった。ここは何もなかったが、保護領化したケニヤ、ウガンダと併せて南アから東アフリカにかけての英国の覇権は確立した。

 太平洋諸島で共通語になりかけた日本語

 話題が英国の世界制覇にずれすぎた。言語に戻す。では明治維新以降の日本は何をしていたのだろうか。いまでも台湾のお年寄りの共通 言語は日本語である。韓国でも年輩者は日本語を解する。善悪をいっているのではない。事実を語っているのである。そして、忘れられているがマーシャル諸島 など太平洋のことである。

 第一次大戦の戦勝国となった日本は、ドイツが太平洋に領有していた島々を国際連盟の委託統治として実質的に支配 下に置くことになった。現在の西からパラオ共和国、北マリアナ諸島連邦、ミクロネシア連邦(旧南洋諸島)、ナウル共和国、核実験場となったビキニを含む マーシャル諸島共和国。東西5000キロ、南北4000キロはゆうに及ぶ広大な空間は1920年から1945年の敗戦まで25年間にわたり日本領だった。 早くから学校制度が敷かれて日本語が教えられた(ここらの詳細や今後の課題)。

 共同通信社が発行する「世界年鑑」によると、住民に「カナ カ族、カナカ族と米国人、ドイツ人、日本人との混血」と書かれている。これらの委任統治領は戦後、国連の信託統治領と名を変え、米国の配下に入った。ミク ロネシアの初代大統領は、日系のトシオ・ナカヤマ氏(1979-87年)だった。最後の信託統治領となったパラオでは1992年、大統領選挙で日系人のク ニオ・ナカムラ氏が当選した。現在2期目である。すべての人口を加えても数十万人でしかないが、日本人と日本企業はこうした太平洋諸島に夢を馳せ、進出し た。

 日本人の海外観光ツアーのメッカ、グアム島は北マリアナ諸島の南にあるが、米国が1898年の米西戦争でスペインから割譲を受けたも ので、「日本領太平洋諸島」のど真ん中に確保した米国の橋頭堡だった。第二次大戦中に一時的に日本が占領したものの、一貫してアジアと西太平洋をにらんだ 米軍基地として維持され、今も独立を許されていない。

 植民地フィリピンと委任統治下のあった北太平洋諸島もまた英語圏に入った。(続)


1998年1月23日(金)
共同通信社経済部 伴武澄

 古い話だが「各紙1面に『アジア発、世界株安』の見出しが踊った」との走り書きが昨年10月28日のメモ が残っている。「香港株式が暴落して、ニューヨークや東京の株式市場が『香港安を理由』に大幅に下落した。はからずも悪材料だが、アジア経済は通貨の下落 が先進国経済を動かすほどの存在感を示した」とある。

 米国紙は知らないが、中国を除いてアジアを主語とした経済記事が日本の新聞の一面トップを 飾ったのはおそらく初めてだ。マネーマーケットがグローバル化している証左でもあるが、「アジア通貨や株価の動揺が、日本の企業社会に大きな影響与えかね ない」とのマスコミの認識の変化がアジア経済関連の記事の段数を高めていると言わざるを得ない。

通貨下落による経済活動の停滞が、単にアジア地域の景気減速を引き起こすだけではなく、アジアでの生産や販売を旧拡大してきた先進国企業の業績ダウンをも誘引することが今回の一連のパニックで立証された。

 特にアジア危機が日本経済に与える影響は米国経済への影響よりも断然大きい。アジア経済の動向は国内景気を左右する大きな要因ともなっており、アジア経済のチェックは旧来のような片手間の作業では済まされなくなっている。

 アジアを理由に松下がレートダウン

 大手証券の発行する投資家向け情報では、アジアへの言及が増大しており、最近、大和証券「DIYアナリスト情報」は松下電器産業の株式レーティングを「A」から「B」に格下げした。理由は「アジア消費の落ち込みで収益への影響が家電メーカーで最も大きい」としている。

  11月の同社の9月中間決算の発表では、通貨下落による輸入部品の値上がりに対応、タイとインドネシアでの製品販売価格を5-15%値上げしたことを明ら かにした。通貨下落は、その後も続いており「需要の落ち込みもあり、下半期の東南アジア向け輸出は苦戦する」と予想している。

 DIYによると、松下グループのアジア地域での連結ベースの売上高は1兆5600億円にも上り、全売上高の20%を占めている。アジアでの強みが今回の通貨下落で逆に収益圧迫要因となる可能性が強いのである。

 素材産業は市況下落に戦々恐々

 組立産業よりも、アジアの動向に神経をとがらせているのは鉄鋼などの素材産業だ。新日鐵など大手鉄鋼は1990年代前半に韓国勢と 国内電炉からの攻勢を受け、大規模リストラを敢行し数年前からようやく回復基調を見せていた。当時の大手鉄鋼の合い言葉は「世界最強の浦項総合製鉄並みの コスト競争力」だった。

 その浦項製鉄が大幅なウオン安を背景に輸出市場で攻勢に出ており、日本市場への輸出にも拍車がかかりそうな勢いである。国内の公共事業はじり貧な上、アジア向け輸出が減少しており、さらに韓国勢とのコスト競争をも余儀なくされることは必至の情勢だ。

 石油化学の分野は、すでに1980年代後半から、東南アジアの需給が化学製品の国内市況をも左右するボーダーレス経営に入っており、1995年からの円安で一度は競争力を回復したはずの日本の素材産業は再び大規模リストラの必要性を迫られている。

 アジアのGDP総額では、日本が全体の90%を占めているのが現状だが、輸出規模では数年前から、日本を除くアジアが日本を上回っている。素材産業ではア ジア諸国はまだまだ日本の「お客様」だが、汎用性の高い素材部門の価格は市場が支配しており、メーカー側の価格支配力はもはやない。アジア経済の失速はい まや他人事ではない。
1998年1月22日(木)
共同通信社経済部 伴武澄

 税金で退職金割り増しに離職手当て

 和歌山市に本店を置く阪和銀行の従業員の退職金の上乗せ額が86億円にも上ることが分かった。うち85億円は預金保険機構が負担する。ほとんど全額であ る。名目は「地域の雇用安定」だろう。一昨年11月、1900億円の不良債権を計上、大蔵省から戦後初の業務停止処分を受けて破綻、1月26日に正式に清 算が終了する銀行である。

 これまでの労使交渉で解雇の条件として、規定の退職金の1.5-4.5倍を支払ったうえで、離職手当てとして基本給の1-20倍支給する協約を結んでいた。失業する従業員に対して追い打ちをかけようというのではない。

 昨年11月に自己廃業を発表した山一証券はこの3月31日までに廃業に向けた清算事務を終える予定であるが、阪和銀行は15カ月のも長い期間がかかった。 銀行業務は昨年3月末で終わっているが、この間、400人以上の従業員に給料とボーナスを払い続けた。あげくに退職金の上乗せである。しかも預金保険機構 の負担で支払うことが決まっていた。

 金融機関でなかったらこんな手厚い解雇条件は引き出せなかったはずである。製造業やサービス業には業界の保険など存在しない。会社がつぶれたら、債権者に 借金を支払って、残った資産を株主と従業員とで分けてそれでおしまいである。阪和銀行は1900億円を超える不良債権を抱えて倒産した。清算に当たって は、預金保険機構がその不良債権を買い取った上で、さらに従業員の解雇対策として85億円が上乗せされたのである。素人考えでも理不尽ではないか。

 預金保険機構は、個別の銀行が倒産したときの負債を穴埋めするため、銀行業界が毎年度末の預金残高に応じて積み立てている保険だ。任意の保険ではない。政 府・日銀が義務づけている制度だ。大型金融金の破綻が相次いだ昨年以降は、預金保険機構自体のお金が底をつき、日銀が巨額の融資を続けている。もはや預金 保険機構のお金はイコール国民の税金を言っていい。

 阪和銀行員は救済できても阪神大震災はだめ

 国民の税金で、倒産した阪和銀行の従業員の解雇対策費まで賄われていることになる。3年前の住専破綻で、国費が6750億円つぎ込まれた時、国民的反発が 起こった。百歩譲って「日本の金融システムの安定」のための出費だったと考えよう。だが、今回の85億円はまったく性格が違う。政府は、いまでも阪神大震 災で被災した人々に「国費による個人資産の救済はできない」と言い張ってきた。

 阪和銀行の預金保険機構による1900億円の救済はまさに「日本の金融システムの安定」のためにという理由になるかもしれないが、85億円といえども退職金上乗せや離職手当ては、まったく救済の対象にならないはずだ。

 この理屈がまかり通るのだったら、製造業やサービス業の倒産にも当てはめるべきだ。今回の措置はまさに「国家による倒産銀行員への損失補てん」にほかならない。金融機関と名が付けば政府は倒産の時まで優遇するのである。

 政府は、昨年12月23日、「金融安定化策」を発表した。「金融システム安定」の美名のもとに金融機関に最大30兆円もの資金を準備する法案が間もなく国会に上程される。高水準の給与と週末のゴルフが保証されたまま。
1998年1月21日(水)
共同通信社経済部 伴武澄

 神戸で元プリマドンナに会った。浮島智子さん。被災した子供たちにミュージカルやバレエを教えている。バレリーナーを捨てた理由を聞いた。

 香港での公演が終わった夜、米国人夫妻が楽屋を訪ねてきたんです。夫が言うには

「僕 たちは今日、離婚をすることを決めて、最期のデイトに浮島さんの舞台を選びました。浮島さんの舞台を見て彼女が言い出したんです。『私たちもあのように最 初はお互いを必要として一緒になったのよね』『そうだったな』。こんな会話をした後、もう一度やり直すことにしました。ありがとう。おかげで勇気が湧いて きました」。

 私、それを聞いて「私のやるべきことは終わった」と急に思ったんです。すぐにバレエ団に辞職願いを届けました。翌日、マンショ ンを出ると玄関にカメラを持ったマスコミの人がたくさんいました。なにかあったのかと思い振り返りましたが、私のほかにはだれもいませんでした。「あーそ うだ。私辞めたんだ」。その時、実感しました。「なんで辞めるのか」って聞かれましたが、何も言いませんでした。

 いつも、とっくりのセーターに黒のパンタロンを着る。地味だが、話を始めると黒い大きな眼差しがまばたきをやめて、訴える。「いま子供たちといる瞬間が一番楽しい」。壺井栄の「二十四の瞳」の大石先生はこんな人だったのではなっかたかと考えた。

 神戸に来たのは2年前の1996年。神戸に来て、ここに「私の仕事がある」と直観した。たまたま、香港時代に知り合ったパソナ香港社長の弟が人材派遣会社パソナ代表の南部靖之氏だった。南部氏のもとで子供たちの心をいやす仕事が与えられた。

 南部氏もまた、大震災を見て居てもたってもいられなくなり、ニューヨークから神戸に居を移した。大手スーパーから買い取った神戸ハーバーランドのビルをハー バー・サーカスと名付けて、復興活動の拠点とした。神戸に人を集め、神戸に雇用を生み出すことに腐心している。神戸から逃げ出す企業が多い中で、南部氏は 逆に神戸に多額の投資をした。南部氏のプロジェクトには被災地支援という語感につきまとう暗さはみじんもない。明るさを取り戻し、勇気がわく。そんな人々 がまた集まっている。

 浮島さんにまた聞いた。というより自然に語り出す。感動をたくさん詰め込んだ人だから、話を始めるとよどみがない。

 「バレエを教えているでしょ。私、本気で怒るんです。でも怒った後、その子がどんな気持ちでいるか気になるのです。怒った翌日は、その子がどんな顔をして練習に来るか気になるの。」
「ある日、前の日に怒った子が心配で翌日、戸口を見ていたら、その子が入ってきて目が合ったんです。その子は駆け寄ってきて『先生、わたしの目を見てくれたでしょ。うれしかった。学校の先生は、わたしから目をそらすのよ』って言うんです。ジーンと来ちゃった」

 ジー ンと来たのはこっちの方だった。経済部の記者をやっていて目頭が熱くなることなど忘れていた自分に驚いた。チャップリンは生前、人生の目的について 「Love, Courage, and some Money」といっていたそうです。浮島さん、お金も稼いでください。
 神戸のハーバーランドに行けば、浮島さんに会えるかもしれませんよ。

浮島智子さんのプロフィール1963年2月1日生まれ。東京都出身。2歳からバレエを始め、高校時代からテレビ出演などプロに。19歳でプロバレエ団に入団、香港へ。プリマドンナとしてアジアや米国で活躍。現在神戸市在住。
1998年1月20日(火)
共同通信社経済部 伴武澄

 官僚と企業との贈収賄事件が多発する癒着の背景には、官僚に弱みを握られる経営者の姿勢にも問題がある。むかしから日本の経営者が官僚の言いなりになっていたわけではない。昭和30年代から40年代にかけては気骨ある経営者がいた。18日のコラム「一人じゃないよ。俺もやめるよ」で紹介した本田宗一郎氏はホンダの乗用車進出を認めようとしなかった通産省首脳と大論争を起こした。

 大和銀行は都銀からの信託業務分離を強行しようとする大蔵省を相手に国会で大論陣を張った。旧三光汽船の河本敏郎氏は運輸省の反対を押し切って保有船舶の大 規模怪獣を図った。監督官庁に抵抗することはその後の許認可にとって大きな不利があることを知りながら、あえて自説を曲げなかった。

 住友金属工業の日向方斉氏もまた、カルテル指向を強める通産省と1970年に新日鐵として合併した富士、八幡両製鉄を向こうに回して正論を貫いた。日本経済新聞に掲載された「私の履歴書」からそのやりとりを抜粋した。
 --------------------------------------------------------------------------------------------------

 大臣が承知したことを次官が覆すのはどういうことか


  いわゆる『住金事件』起きたのは、住金が高炉建設を軸に、業容の急展開を進めていた、そのさ中であった。和歌山に高炉2基体制ができたのは昭和38年4月。さらに2年後には3号高炉が完成した。そのころから業界の雲行きが怪しくなってきた。

 事件の発端は40年11月15日、同年度第3四半期(10-12月)の粗鋼減産について住金が、通産省の指示に異を唱えたことにあった。当時の状況下で、一民間企業が監督官庁の指導にあからさまに逆らったのは、異例の出来事といえた。

 粗鋼の減産が始まったのは、その前の第2四半期からである。わが国の鉄鋼業界は31年から競って合理化拡大の道を進み、総額5000億円を上回る大型設備 投資を実施した。39年には米ソの次ぐ世界第3位の鉄鋼生産国にのし上がった。さらに将来の需要増に対応すべく生産力の増強に取り組んだが、おりからの不 景気で国内市況は悪化した。

 第2四半期の場合は業界の自主減産だったこともあり、住金はその期限りの緊急措置として同調した。ただ、各社別生産枠の決め方には問題がある、と繰り返し 主張はしていた。ところがその案にはわれわれの考えがほとんど取り入れられていなかった。私は「これでは企業の自主性が損なわれ、従うわけには行かない。 当社独自の減産案で臨む」と宣言した。

 減産枠を決める基準時のとり方、新設備の生産枠など問題はいくつかあったが、最も容認できなかったのは,輸出の取扱いだった。当時わが国の外貨準備高は 20億ドルが天井で、輸出振興が至上命令になっていた。それなのに、生産枠は国内と輸出をひっくるめた総枠で抑ええ込まれたのである。「国内の市況対策と して国内の制限するのは止むを得ない。しかし輸出は別枠にすべきである」とわれわれは主張した。輸出比率が高い住金にとって、死活問題となるという現実的 を事情もあった。

 11月18日夕刻、三木武夫通産相に会見を申し入れ、とえあえずの妥協案を出した。「基本論を話し合うには時間が足りない。問題を第3四半期に限り、輸出 の取り扱いをやや弾力的に運用してもらいたい」。三木さんも「そうだな」とうなずいてくれた。事務レベルで数字を詰めることにし、私はその旨記者会見で発 表、新幹線で帰阪しようとした。

 東京駅で待っていると、岡崎道夫常務が駆けつけてきた。「通産省が第3四半期に限り、という条件つきでは受け入れられないと言っている」という。「そんな バカな。担当局長も"最悪の自体を先に延ばそうということですね"と一時休戦を確認していたではないか」-私は新幹線の中から三木さんに電話をかけた。三 木さんの答えは「そういう強い主張は聞いたが、私は了承していない」という、はなはだ意外なものだった。

 翌19日、今度は三木さんの方から電話があり、「第3、第4四半期を通じて通産省の指示案を受け入れてほしい」と言ってきた。通産省はその日の午後1時ま でに最終回答せよという。もう話し合いの余地はないと判断、「お断りする」と回答したところ、次官声明の形で「(住金に対し)粗鋼生産用原料炭の輸入割り 当てを削減することもやむを得ない」と通告してきた。

 フェアな理論闘争をしている間はない。しかも原料炭割当制度を定めた石炭業法は、国内炭を保護するのが目的で鉄鋼生産の調整に適用されるいわれはない。私 は佐橋滋通産事務次官のところに赴き「そもそも大臣が承知したことを次官が覆すのはどういうことか。国会で石炭業法の目的を改めて聞きたい」と迫った。そ のころになってようやく、事件の主役が三木さんでなく、八幡、富士製鉄など先発各社と佐橋次官であることが見えてきた。

 「稲山・協調哲学」と「日向・自由競争哲学」

「住金事件」の根はもっと深い所にあった。粗鋼生産のシェア争いである。八幡、富士製鉄など先発会社は、住金、川崎製鉄、神戸製鋼所の関西3社の追い上げ を阻むため、ここで一気にシェアを固めておきたい意向をもっていたようだ。しかしそれでは後発メーカーは立つ瀬がなし、そもそも自由競争原理に反する。特 に住金は35年度から5年間に粗鋼生産シェアを5.8%から10.1%へと伸ばしていた。もっともこれは子供から青年になる過程で、急激に成長するのと同 じようなものだった。

 事件の序曲として、昭和41年1月の設備調整問題があったと思う。故永野重雄日本鉄鋼連盟会長(富士製鉄)の提唱で設置された鉄鋼設備投資調整研究委員会 で、高炉などの1年間着工中止が提案され紛糾した。住金は和歌山4号高炉の建設に取りかかっており、工事を引き延ばされるのは耐えられないと反対した。こ の問題は永野さんの後に就任した稲山嘉寛鉄連会長(八幡製鉄社長)が、高・転炉の新設は各社の判断に任せるとの裁定を下し一応収まった。一方で設備調整と 別に、第2四半期からの生産調整を提案してきたのである。

 こうした経緯を経て、問題は行政指導の扱いをめぐる対立に移行、住金と通産省が正面から対決する事態となった。佐橋次官の言い分は先発メーカーのそれは全 く同じだった。しかも「住金が言うことを聞かないのなら、原料炭割り当てを減らす」というのだ。不当な行政指導を強制したのでは、それは官僚統制になると 思った。11月26日、大阪で開いた株主総会で、それまでの経過と私の考え方を説明、支持を得た。誘導組合も全面的に応援してくれた。

 事件を通じて世間で対比されたのが、「稲山・協調哲学」と「日向・自由競争哲学」である。稲山さんの考えはシェアを固定しようとする一種のカルテル論であったが、これも先発メーカーの既得権益を守ろうとする立場から出たのかもしれない。

 そうこうしているうちに、騒ぎはますます大きくなる。住金以外の鉄鋼メーカーはこぞってこちらを批判するし、東京の財界も協調主義的空気が強い。そのうち公正取引委員会が「原料炭割り当て削減は問題がある」と公式見解を出すまでになった。

 財界人も動きだし、ある日、中山素平興業銀行頭取の仲介で、永野さん、稲山さんに合った。必ずしも議論がかみ合ったわけではなかったが、結局私が矛を収めることになった。一つには住金の主張を世論が支持してくれたこと、一方で市況が一段と悪化していたからである。

 12月27日、三木通産相を訪ね、「41年度第1四半期以降は根本的に再点検する」との言質を得て、通産省の指導を受け入れた。

 結果的には第4四半期の住金の生産枠から、第3四半期の超過生産分8万7000トンが削られたが、第3、第4を通じて、約12万トンの輸出得認を得た。問題の生産シェアについては不満が残ったが、設備調整の理論について住金の意見も尊重され一歩前進した。

 それ以来、鉄鋼業界はかえってまとまりがよくなり、八幡、富士合併の時も、私は「日鉄の分離自体が、財閥解体、集中排除に伴う不自然なことだったし、両者が望むならいいではないか」と今回で証言した。そのころには住金は先発各社と十分競争していける自信がついていた。


1998年1月19日(月)
共同通信社経済部 伴武澄

 昨年12月のある深夜のことである。朝日新聞が社会面で「中島義雄氏が京セラ入社」を報じていることが分かり、共同通信社もそのニュースを追いかけた。中島氏といえば、元大蔵相の主計局次長。金融機関からの過剰接待が問題となって辞任した人物である。いつも正論居士として発言してきた稲盛和夫氏の京セラが 「どうして」「なぜだ」。デスクとしての義憤があった。「京セラよおまえもか」という思いが頭をよぎった。

 一般の新聞読者には分からないことだろうが、大手マスコミは翌日の「早版」朝刊を深夜の街角で交換する習慣がある。東京都内や大阪市内には「最終版」と いう紙面が配達される。各紙が特ダネで勝負するのはこの「最終版」であり、早い時間にニュースの掲載を打ち切り印刷された「早版」交換で各社は落とした ニュースがないかチェックするのだ。

 「中島義雄氏が京セラ入社」のニュースはいわば、朝日新聞の独自ダネであった。翌々日、京セラの伊藤社長は要望のあったメディアに対して、釈明インター ビューを受け入れた。取材した記者は夕方興奮した声で「中島が同席したんですよ」と伝えてきた。なんら動じることなく、過去を恥じるようでもなかった。実 に堂々とした様子に記者の方が圧倒されたという。

 伊藤社長は「一般の途中入社の募集に中島氏が応じてきた。過去の経歴や個人の力量を考えて採用した。過ちを悔いるものを受け入れて悪いはずがない」というような内容の発言をした。

 町のチンピラが、長い刑期を終えて過去を悔いたのとは訳が違う。捜査当局の判断次第では刑事被告人になっていたかもしれない人物である。大蔵省の大幹部 だったからこそ、刑事訴追を免れたのは明白である。中島氏が「過去を悔いた」といっても「刑に服した」わけではない。「償い」は終わっていない。

 筆者も1987-88年の間、大蔵省の記者クラブである「財政研究会」に属したこともある。当時、中島氏は主計局の厚生・労働担当主計官だった。向かい の部屋に運輸担当の主計官として田谷氏がいた。この二人はつっけんどんで愛想のない大蔵官僚のなかで新聞記者の人気者だった。いつでも気さくにわれわれの 取材に応じてくれた。田谷氏は自民党が整備新幹線の建設再開を決めたことに対して「昭和の三バカ大査定」と評してマスコミの寵児となった。

 金融機関から過剰接待を受けていたのはこの二人だけではない。ほとんどの官僚の日常生活に接待飲食とゴルフが溶け込んでいた。たまたま名前が浮かんだの は、度が過ぎていたのかもしれなし、運が悪かったのかもしてない。だからといって、京セラが中島氏を中途採用する理由にはならない。

 リクルートの未公開株の譲渡で労働省の事務次官らが逮捕された事件が起きたとき、ある大蔵官僚が「あいつらは脇が甘いんだ。接待慣れしていないんでない か」と言っていたのを思い出す。通産省では「課長にもなって夜の予定が入っていないようでは将来はないな」と豪語する課長もいた。月曜日の午前中、建設省で取材していた時に大手ゼネコン風の人が入ってきて「きのうはどうも」と大声を上げていた光景に出くわしたこともある。

 高度成長時、民間企業に接待費があふれ返っていた。安月給だった官僚がそのおこぼれに預かってなにが悪いという時代もあった。しかし時代は変わったのである。

 われわれ新聞記者の特性は「忘れやすい」ということである。国民も同様だ。昨夜、神戸に出かけて大震災3周年の記念行事に出席して「4年前に国民の目が この阪神・淡路地区に釘付けにされた」ことを思い出した。ゲストの加山雄三氏が「実はいてもたってもいられなくなって家族全員を引き連れて東京駅の街頭に 立って募金活動をした。みんなそうだったでしょう」と打ち明けた。

 官僚の犯罪も風化させてはならない。18日、東京地検特捜部は野村証券にからむ外債発行をめぐる汚職事件で大蔵省OBの日本道路公団理事を逮捕した。


1998年1月18日(日)
共同通信社経済部 伴武澄

「松明は自分の手で」と題した、少々黄ばみが目立つ古い本を最近読んだ。本田宗一郎とともに世界のホンダの基礎を築いた藤沢武夫氏が退職後に自ら執筆した思いでの記である。

昭和48年の春。藤沢氏が「俺やめるよ」といった。

本田宗一郎は「うん、そうか。一人じゃないよ。俺もやめるよ」といった。

短いやりとりだが胸を熱くさせるシーンだ。事を成し遂げた男の清涼感を漂わせる。そして25年間ホンダを育て上げてきた社長と副社長のこの最後の会話ほど二人の友情の絆を示す言葉はない。

大阪の機械クラブに常駐していた時、本田技研工業の広報部の人にもらい、そのまま本棚に押し込んであった。 その後、何回か転居したが捨てられずにあった。代わりに外側が変色していた。

その黄ばみが歴史を感じさせた。ホンダとソニーは戦後の日本が生んだ数少ない世界ブランドである。筆者が1960年代を過ごした南アフリカ共和国では、少 年同士の会話でも「お前はソニー持っているか」とか「ホンダに乗れるか」とか言っていた。ソニーはトランジタラジオの、そしてホンダはモーターバイクの代 名詞だったのである。

ホンダの世界への挑戦は自転車に小さなエンジンをつける発想から始まった。作業服を着て油まみれでエンジンに向かう本田宗一郎はいつも新しいものに挑戦し た。ホンダが世界的なモーターレースの頂点に立つにはそんなに時間はかからなかった。常勝チームの名前はしっかりと米国の若者の脳裏に刻み込まれた。ホン ダが世界の若者にモーターバイク・ブームを巻き起こしたのである。

日本がまだ貧しかった時のことである。今では世界的な企業も多く生まれ、製造技術では世界の頂点にあると信じられているが、1960年代前半の日本は今の 日本ではない。ちょうど今のアジア諸国のようだった。安く作ることが最大の売り物だった。そんなわけで日本製のクルマは故障続きだったし、松下といえども 米国家電の下請け企業にすぎなかった。いわゆるOEMのはしりである。

 本田宗一郎と藤沢武夫はそんな時代にすごいブランドを作った。今でいえば、マイクロソフトのビル・ゲイツである。二人はすごい会社を作ったが、驕りはな かった。人生の潮時を知り、「辞める」時までぴたりと呼吸を合わせた。思い起こせば当時の日本には、肩書きがなくとも男気を漂わせる日本人が身の回りにた くさんいた。自分自身で日本人に生まれた誇りを持つようになったのもそんな周りの日本人の影響だったような気がする。

80年代後半のバブル期やバブル崩壊後の経営者に、そんな日本人像を求めるのは無理なのだろうか。
最近の話である。昨年11月末、人材派遣会社パソナの南部靖之代表と「ストロベリーロード」の著者である石川好氏が神戸で「伝習塾」を結成した。毎月1 回、南部氏が所有するクルーザー「Concherto」で塾が開催されている。南部さんは阪神大震災が起きてから神戸に移り住み、神戸復興に日夜、奮闘し ている。

「伝習塾」は、勝海舟が神戸に開いた海軍伝習所にあやかって命名した。石川好氏は塾頭だった坂本龍馬が瀬戸内海の船の中で「舟中八策」を練ったことを挙げ て「ともに平成八策を考えよう」と提案している。この塾に集まるのは阪神地区の人々だけではない。九州からも北陸からもやって来る。おっさんもおばちゃん もいる。「金儲けだけではない価値観を求めて」というとほめすぎになる。

本田宗一郎が社長を辞めてもう25年が経つ。


1998年1月17日(土)
KYODO NEWS 伴武澄

 アジア諸国は通貨について深刻に考えているに違いない。日本は1985年9月の1ドル=240円から1995年5月の同80円まで対ドルの価値が3倍に上 がり、その後たった2年半で半分に下がった。歴史上こんなに乱高下を余儀なくされた通貨はない。にもかかわらずこの12年間、国民は真剣に通貨について考 えて来なかった。

 3倍の円高になっても輸入品の価格が破壊的に下がることはなかったし、この2年間の円安でもまだインフレになっていない。円高時に海外旅行が安くなるぐらいしか恩恵がなければ、仕方ないかもしれないが、日本人はそんな為替オンチの不思議な国民だ。

 しかし、明治維新の黎明期はそうではなかった。新政府は徳川幕府が残した巨額の対外債務で苦しんだ。国家の為政者が徳川家から天皇に変わっても外国から見 れば「日本は日本」なのである。明治政府と英国東洋銀行」(立脇和夫著、中公新書)を読むとそんな明治政府の苦労がよく分かる。そして通貨の持つ意味を考 えさせられる。

 関税収入を担保に取られていた明治政府

 日本が国立第一銀行を設立する10年も前から横浜には外銀が多く支店を構え、通貨まで発行していた。このことはあまり知られていない。そのなかでも約20年にもわたり帝国政府の造幣所設立や鉄道敷設に深く関与していたのが英国東洋銀行(オリエンタルバンク)であった。

 明治政府の最初の対外交渉は、条約改正でもなんでもない。借金の付け替え交渉だった。幕府が建設した横須賀製鉄所の借款をフランスが求めてきた。借りたのはフランス政府ではない。ソシエテ・ジェネラル銀行である。

 幕府が崩壊してフランス側は資産差し押さえに出ようとした。アジア諸国は同じ時期に、同じ手口で国を乗っ取られた。まさに契約不履行という民間の争いに国 が出てくるのは現代においても同様である。直近の例では、米コダックが富士写真フィルムに対して「富士写真フィルムによる流通支配でコダック製品が日本市 場から締め出されている」として訴えた。

 明治政府が頼ったのが、オリエンタルバンク。というより当時の在日公使のパークスだ。政府は急きょ、オリエンタルバンクから50万ドルの巨額の借金をする ことになった。しかし、利息は年15%、元金は2年据え置きの10年返済と厳しいものだった。政府は横浜港の関税収入を担保として差し入れた。英国側から 要求されたとしたほうが正しい。外国に門戸を開いたばかりの明治政府に担保に差し出す資産らしいものはほかになかった。

 15%の金利が高いか安いかは判断材料がない。しかし当時、ロンドンでの起債で7%前後が相場だったというからやはり、新興国に対する信用度は相当低かったとみるのが妥当といえそうだ。

明治政府が偉いと思うのはこの巨額の借金をきちんとしかも前倒しで返済していることである。アジア諸国のなかには返済の遅れで借金が雪だるま式に増えたり、そのまま関税収入を外国企業に乗っ取らたケースは枚挙にいとまがない。

 早期返済で植民地化を免れた日本

著者の立脇氏は、明治政府の「金融事始め」に対してオリエンタルバンクが親身になって支えてくれたという論旨で終始しているが、どうもそこのことろの認識 が甘いような気がする。確かに結果的に明治政府が近代国家への脱皮に成功、西欧の植民地にならなかったからオリエンタルバンクの「協力」が大きくクローズ アップされることになるが、逆にアジアの植民地化のプロセスは皆、現地政府へ親身な協力から始まったといっても過言でない。

 西欧社会は契約社会だから、その契約通りに物事を進めたら問題は起きない。ちょっとした契約履行のミスにつけこまれ長い時間のなかで徐々に植民地化が進められたというのが歴史の実態なのだ。

「明治政府と英国東洋銀行」では、明治初期の日本で銀行券と手形や小切手の区別がつかない人が多かったというエピソードが紹介されている。当時の官僚の金 融知識は相当低かったようだ。これも考えてみればそんなにおかしいことではない。現在は国の信用によって銀行券が発行されているが当時は日本に中央銀行す らなく、外銀が国内で堂々と紙幣(洋銀)を発行していた。銀行預金を担保に個人や商社が発行する手形や小切手と銀行券との違いはそんなになかったのかもし れない。

 香港などではいまだに香港上海銀行、スタンダード・チャータード銀行、中國銀行の3つの商業銀行が銀行券を発行している。100年前の日本とそんなに違わ ない。現在の日本を基準にして考えるといろいろなことがおかしくみえてくるのかもしれない。現在の日本を絶対基準として歴史を判断してはいけない。

 オリエンタルバンクは19世紀後半のアジアで最大の商業銀行だった。英国の当時の銀行の自己資本比率の高さには驚かされる。現在、BIS基準が8%で高すぎるなどという議論をしているが、19世紀の銀行の自己資本比率は20%とか30%とか現在とは較べようもない。そして不動産担保の融資が 禁止されていた点もバブル経済の後始末に苦しむ日本の金融機関の状況からすれば特筆すべき事項なのかもしれない。オリエンタルバンクの場合、配当率は1863年になんと19%にも及んでいる。


1998年1月16日(金)
共同通信社経済部 伴武澄

 古いファイルを整理していたら、農水省の広報誌AFF95年4月号に掲載された「北海道が独立したら」への東京新聞・板垣政樹記者の反論が出てきた。同誌 5月号に「続・北海道が独立したら」と題して掲載された後、板垣記者は米国のデンバーのソフトウエア会社に移った。あざやかな転身だった。記者クラブで数 少ないインターネットの意味を知り尽くしていた記者だった。新しい発想を持つ人々は東京を去り、日本を去る。


 絶句するほどの暴論だ

「1ドル=500ピリカにして北海道が独立すりゃいいんだよ・・・」
 3 月半ば、記者クラブで5、6人の記者と地域経済のあり方について酒飲み話をしていたところ、共同通信社の伴記者が、こう切り出した。聞いてみるとすざまじ い構想で誰が聞いても絶句するだけの暴論だ。ところが、"酒の肴"に議論してみると、日本の農業政策の問題点と今後のあり方を議論する格好の材料であるこ とが分かった。この場を借りて、"もう一つの暴論"を展開してみる。

 伴記者が先月のAFFで展開した「北海道独立論」を簡単に紹介すると、北海道が独立国家となり、通貨を「ピリカ」とする。そこで、為替レートを1ド ル=500ピリカに設定し、日本の農産物に大変な競争力を与えれば、乳製品でも畑作産品でも輸出が可能となる。鉱工業製品も企業をどんどん誘致し、自給体 制を整えればよい、というものだ。農業でも製造業でも、生産拠点となる土地が豊富にある北海道だから可能となる構想で、独立の魅力に駆られて、強力な労働 力となる若者も集まるという。

 経済的に成り立つかどうかを考えれば、実現性はゼロ。伴記者によると、1ドル=500ピリカにするというのは、現在の円にしてみれば、大変な円安状況を作 り出すということ。通貨均衡を無視して、仮に実現したとしても、ただでさえ大幅な移入超過にある道内経済は、開国(?)当初数カ月で超ド級のインフレに見 舞われ、あっという間に経済が破綻するのは明白。問題点は星の数ほどあるので、ここでは敢えてゴチャゴチャ説明しない。説明しなくとも、ともかく無理だ。

 マルクスも一杯くれ

 しかし、酒の勢いは恐ろしい。素面なら間違いなくここでやめるものを、単なる酔っぱらいと化した輩はここから佳境に入る。

「では、経済的に成り立たない、といいのは無視して考えよう」-酩酊した記者連中の歓談に、酒の弱いマルクスが参加していたら、「ちょ、ちょっと私にも一杯くれ」と言って焦り出したに違いない。とにかく、強引に独立を考えた。

 まず、独立直後に何から手を付けるべきか。インフレが生じる輸入を避けるためにも自給しないといけない。自給のためには生産増大が不可欠、そうなると、労働力確保が第一歩。とどのつまりは若者のUターン促進だ。

 黙っていても若者は北海道に足を踏み入れない。しかし、雄大さを武器に景観ビジネスでも本気で進めれば、観光客は間違いなく増大する。何といっても1ドル=500ピリカ。絶品のイクラ丼が300円程度で食べられるのだ。これで相当な円通過を獲得する。

 そこで、生産増大計画を進める。この段階では、300円のイクラ丼に魅せられた若者は、働き口があればUターンしようと考えるだろう。農業をやろうとはまだ考えまい。まずは製造業とサービス業で人を集める。幸いにして手に入れた円がある。これで道外にいる生産技術者を大量にヘッドハントし、道内産業・企業 の育成に猛進する。

 若者が増え、人口は増大する。そうなれば、食料自給のための農産物生産拡大も進めなければいけない。牛乳、じゃがいも、ビートなど既存の産物はいい。魚だって豊富にある。しかし、これまで道外の供給力に頼っていた農産物はすべて自己生産を始めないとだめだ。広大な土地はある。しかし、条件不利地などな い。べらぼうに安い通貨のおかげで、作れるだけ作って、余った分は輸出すればよい。大変な額の外貨獲得で、作れば作るほどもうかる農業が実現する。(黒字増大でピリカ高になる?人は酒が入るとその意味すら分からなくなる)

 魅力ある農業作りは、魅力ある地域作りから

こんなばかげた話をここまで読んでいただいた方に感謝します。読者の8割の方はすでに次のページに進まれたでしょう。残りの2割の方に、これから結論を申し上げます。

 まずはみなさんも大いに酔っぱらい、真剣に"北海道の独立方法"を考えてみて下さい。聡明な読者のみなさんであれば、さまざまな、かつユニークなアイデア が浮かぶのではないでしょうか。何といっても、独立するわけですから、「過疎化ー国の滅亡」です。高齢化が進んで大変だなどとのんきに構えていられませ ん。何が何でも魅力あるビジネスやプロジェクトをまずスタートさせ、定住する人を集め、さらにあらゆる産業で生産を拡大しなければ生き残れないわけです。 まさに、地域の確立に向けた死闘が繰り広げられるのではないでしょうか。

 さて、みなさんの頭の中にさまざまな政策がよぎったはずです。その中で農業政策というのは、どのような位置づけだったでしょうか。

 どこかで農業政策を考えたでしょう。独立すれば食料も自給が不可欠なのは明白。農業政策なくして食料自給は成り立ちません。しかし、「始めに農業ありき」 という独立構想にはならないはずです。作る"人"がいないと農業は成り立ちません。 現実の世界でも、農業の悩みは農業に人が集まらないこと。いくら北海道の広大な農地で効率的な大規模生産が可能であっても、それだけでは人は集まらない。 ばかばしいほどに当然な主張ではありますが、地域の確立は、魅力ある農業作りではなく、魅力ある地域作りにほかならないことになります。

 酔った勢いで練った北海道独立論を頭の中で残像化させつつ、現実に立ち戻って考えてみる。農水省だけではもう、農業のことは考えられない状況になっている のではないでしょうか。極論すれば、農業政策だけを考えることが愚かしいということだ。短いながらも1年間の農水省担当経験で、たどりついた結論がどうも これだ。

 今年から農業基本法の大改正作業が始まるが、発想だけは間違ってほしくない。農業のために何をどうするべきかではなく、地域のためにどうするかが根幹となるはずだ。ふざけたように聞こえるかもしれないが、いっそのこと北海道独立論を土台に基本法のあり方を議論してもいい。

 北海道の人は焦るだろう。自らの地域が自立不可能などと結論づけられてはたまったものではない。だから彼らだって黙ってはいない。さまざまなアイデアを練って、北海道という地域の可能性を模索し、主張するに違いない。主役の"地方"が本当に真剣に動き出す。そうなれば、「農業基本法をどう見直すか」などというテーマは吹き飛んでしまうはずだ。それが本当の地域政策論議であり、今後の農業政策の"考え方"だと思う。

1998年1月15日(木)
共同通信社経済部 伴武澄

 日本の国営企業の民営化は比較的早い段階に始まった。中曾根民活で国鉄、日本電信電話公社、日本専売公社の三つの巨大組織の解体が始まり、1985年にそれぞれJR、NTT、JTの株式会社に組織替え、国鉄は五つの旅客会社と貨物会社に分割された。


 筆頭株主は大蔵大臣

 1985年はプラザ合意で円高が進み、日本全体がバブル経済に染まっていくきっかけとなった年である。NTTの株式放出をめぐる議論をたどると、それ以降の日本経済がどのように肥大化し、どのように歪曲されていったかを鮮明に描くことができる。

 株式の放出の第一弾はNTTだった。日本電信電話会社法では、NTT(資本金7800億円)の株式上場に当たって全1560万株の3分の2の1040万株 の放出を義務づけていた。1987年2月10日、第1回目として195万株が119.7万円(額面=5万円)で放出された。株価は瞬く間に上昇、4月には 300万円を超える水準にまで達し、証券会社やアナリストは「1000万円説」をはやしたてた。

 第2回目の放出は同年10月10日。世界的な株価暴落をもたらしたブラックマンデーの直後だったが、株価は255.0万円と第一回目の倍以上の高値。まさ に「法外」といってもいい水準だ。第3回目は翌1988年10月20日は株価がいくらか鎮静化していたが、190.0万円という放出株価を維持できた。

 119万円でNTT株式を購入した人は「NTT成り金」としてもてはやされ、あるいは妬まれた。逆に255万円で買った人は、その後に大きな損失を被った。

 期待された第4回目の放出は1989年9月13日に予定されていたが、大蔵省の突然の発表で見送られることになった。NTTの株価が第三回目の放出価格の 190万円を大幅に下回っていたからである。橋本竜太郎蔵相(当時)は「株価が低迷しており、NTT分割など同社の将来をめぐる議論の先行きが不透明だか ら。国民の大切な財産であり、慎重に売却したい」と説明した。ほかの株価は東証ダウが3万9000円の史上高値をつけた同年12月を目指してまだ上昇の途 上にあったのにNTT株だけは独歩安だったのである。

 株式投資は誰がどのような価格で購入しようが自由だ。投資にリスクが伴うのは誰もが知っていることである。しかし本質的に株価が上場するのは「業績が上が り配当が増える」との期待があるからだ。ところが当時の日本では「1株当たり資産」が株式投資の判断材料となっていた。

 全国に膨大な資産を保有するNTTの想定株価が1000万円といわれても誰も不思議に思わなかった。将来的に飛躍的な業績上昇の見込みがない鉄鋼業界や紙パルプ業界の株式も保有土地が大きいというだけで1000円前後の株価をつけていたのだから当然だ。

 119万円で上場を果たした1987年以前にマスコミや証券会社はNTTの業績や資産状況などをもとに株価を試算した。その結果、100万円以上の評価をしさ試算はひとつもなく、80-60万円というのが妥当な相場だとされた。

 しかし、不思議なことに株式放出は3回の540万株だけで、放出すべき1040万株の半分を残してNTT株式の放出は終わっている。大蔵大臣つまり政府保有 は65%のままだ。株式の3分の2を政府が保有したまま、民営企業と呼ばれ、そして東証に一部上場している怪がここにある。許認可権限や社長の任命権が法 律で定められなくとも株主総会の議決権は一般株主にはまったくないままだ。
1998年1月15日(木)
共同通信社経済部 伴武澄

 香港の経済週刊誌「Asiaweek」の昨年11月21日号で「アジア企業ランキング1000社」を掲載した。 アジアの通貨危機が始まる前の年の企業業績は決して悪くない。タイなどの不動産バブル的要因はさておき、アジア全体に波及している通貨不安の引き金は実は 国内経済とは別の次元で起きた可能性を示しているのではないだろうか。


 アジア企業トップ1000の売上高は前年比7%減の5兆8000億ドル。日本 企業が80%を占めており、3月末の円ドル相場が前年の1ドル=105円から122円へと円安になったのが大きく響いた。トップ1000の純利益は10% ダウンの1124億ドルだった。このうち日本企業は50%しか占めていない。売上高で1%しかない香港が10%(113億ドル)を稼ぎだし、同4%のオー ストラリアが8%(9億ドル)を上げた。4位はシンガポール、5位はマレーシアである。

 アジア企業の売上高トップ1000のうち、709社を日本企業が占めた。前年より16社減り、売上高も5790億ドル減少して、4兆6000億ドルとなった。純利益では円安にもかかわらず前年水準を維持した。

中国は25社から23社へとランキング企業数を減らしたが、売上高は1277億ドルと若干伸ばした。しかし純利益は国営企業の大幅減益によって大きく後退し た。北京政府は、国営企業の民営化を促す方針だが、輸出市場では通貨下落で競争力を増した東南アジア勢の攻勢にあい、苦しい展開が続きそうだ。

 東南アジア諸国連合(ASEAN)企業は健闘している。純利益のトップ30には7社も入った。シンガポールは34社が売上高ランキング入りし、売上高は12%増の974億ドル、純利益は14%増の63億ドルである。マレーシア、フィリピンの企業も大幅に収益を向上させた。

 香港企業にとって1996年は最高の年だった。純利益は14%増の113億ドルにも達した。ただ韓国企業の純利益は33億ドルと70%もダウンさせた。

 以下は1996年度の純利益のトップ30企業のランキングである。

順位企業名国名純利益100万ドル
1トヨタ自動車日本3,547.7
2Petroliam NasionalMalaysia2,892.0
3Australia Wheat BooardAustralia2,389.4
4NTT日本2,311.6
5本田技研工業日本2,033.2
6中華テレコム台湾1,998.3
7サンフンカイ不動産香港1,815.4
8長江実業香港1,570.6
9Hongkong Telecom香港1,433.0
10ソニー日本1,282.0
11松下電器産業日本1,267.3
12TelstraAustralia1,266.0
13台湾電力台湾1,247.9
14Henderson Land Devt.香港1,232.8
15Singapore TelecomSingapore1,176.2
16三菱重工業日本1,136.3
17Rio TintoAustralia1,098.4
18Electric Generating AuthorityThailand1,069.1
19Hewlett-Packard SingaporeSingapore1,040.7
20Hucthson Whanpoa香港1,015.4
21Swire Pacific香港0,981.3
22キヤノン日本0,865.8
23日本電気日本0,841.9
24Telephone OrganizationThailand0,830.4
25日立製作所日本0,812.0
26Seagate TechnologySingapore0,797.2
27日本たばこ産業日本0,794.7
28富士写真フィルム日本0,784.6
29東京電力日本0,750.2
30Telekom MalaysiaMalaysia0,747.8

 注目すべきは、香港企業の収益力で、サンフンカイ不動産、長江実業、香港テレコム、ヘンダーソンランド、ハチソン・ワンポアの5社が10億ドル以上 の純利益をあげて、上位にランクされたほかチャイナ・ライト&パワー、ニューワールド、ジャーディン・マセソン、CITICパシフィックなどが5 億ドルを超える高水準の利益を確保した。香港上海銀行はロンドンに持ち株会社を移したため、ランク入りしていないが、実は影のアジアナンバーワン企業であ る。

 ASEAN企業の収益で特徴的なのは、電力や電気通信など民営化された元国営企業が高い収益を維持していることである。半面、現地で上 場していない外資系企業の業績がトップ1000に反映されていないのは残念である。シンガポールを基地とするヒューレート・パッカード社とシーゲート社以 外にも、シンガポールに多くの製造拠点を持つ松下グループ、タイとシンガポールでの売上高ではランキング入りするはずのミネベアなど多くの高収益企業が存 在しているからである

 ただ、1997年度はバーツはじめ多くの通貨危機で多くアジア企業が打撃を受けるのは確実である。トップ1000の売 上高の80%を占める日本の円が10%近く下落、ASEAN各国は7月以降、ドルに対して50%前後も下がっており、ドルベースの売上高が下がるだけでな く、国内経済の混乱に伴う消費の冷え込みや為替市場での損失など巨額の損失を計上、97年度のランキングは相当の変動が予想されそうだ
1998年01月14日(水)
共同通信社経済部 伴武澄

 優先株の発行は発行銀行にとって配当負担が大きいものであることは13日の「ルール違反の優先株発行」で述べた。当座の配当負担の増加よりも自己資本比率の維持の方が課題の金融機関は、苦しまぎれに優先株を発行したとしてもある程度は仕方がないかもしれない。しかし、破綻の心配のない東京三菱銀行までがどうして、配当負担増という危険まで冒さなければならないのか。

 http://www.yorozubp.com/2011/1998/01/post-34.html

 橋本首相は、一昨年末に「フリー、フェア、グローバル」のビッグバン宣言を高らかに世界に宣言した。三塚蔵相も「金融機関といえども倒産する」時代の到来を 明らかにした。世界の金融市場は橋本首相や三塚蔵相の「言葉」を「日本もついに護送船団方式」を放棄して世界の仲間入りをする覚悟と信じた。しかし、彼らの胸中に山一証券の破綻まで入っていたかどうかは疑問である。まして、富士銀行や安田信託銀行が破綻の瀬戸際に立たされるとは考えなかったはずである。

 政府や自民党の大方の予想を裏切って、昨年秋以来、大型の金融破綻が続いた。そしてビッグバン宣言からたった1年で現れたのが「究極の護送船団」である。昨 年のクリスマス・イブに発表された「金融安定化策」である。政府や自民党が「安定」という言葉を言い出したときは気をつけた方がいい。

 戦後 しばらく、GHQの下で混乱期の日本の経済政策を牛耳った官庁の名称は「経済安定本部」だった。俗称「安本」として知られ、戦後統制の総元締め役を担い、 1952年7月まで約6年間、日本経済の全権を掌握した。オイルショック後の1978年、素材産業の生産カルテルや販売カルテルを認める法律を打ち出し た。その特に法律の名前は「特定不況産業安定臨時措置法」だった。俗称「特安法」である。5年の時限立法だったが、「臨時産業構造改善臨時措置法」(産構 法)に衣替えして、結局、バブル経済の最中まで15年間続いた。

  安本の場合は、戦後の混乱期を乗り切るためにある程度しかたのない措置だった。安本が成功したのは、戦前からの人事が一新され、民間人が多く登用されたからだ。戦前の財閥経営者や財閥解体はすべてGHQによる戦後パージで経営の座を追われたからだ。

  特安法の問題は、日本がひとり19世紀の遺物であるカルテルを主要産業に持ち込んだ点である。加えて人事の刷新はまったくなかった。司令官はおろか船長すら変わらなかった。先進各国がオイルショックの痛手の中で疲弊し、サッチャー元首相やレーガン政権は規制緩和と民営化という新たな手法で経済の活路を模索 していた。90年代に批判された「日本的経営の指導力の欠如」はまさに15年間のカルテル経営の落とし子であったはずだ。

 今度はその統制が、金融危機の名の下でまた始まろうとしている。しかもバブル経済を担ったその人たちの手で。バブル期の内閣総理大臣は宮沢喜一氏であり、大蔵大臣は橋本竜太郎現首相、さらに通産大臣は三塚博現蔵相だったことを思い出してほしい。


KYODO NEWS Deputy Editor 伴 武澄
HAB Reserch 1998年1月13日(火)

14日、東京三菱銀行は、大蔵省による金融機関への優先株発行の受け入れを明らかにした。強要である。強要はルール違反である。1980年代後半から大蔵省は数々のルール違反を犯してきたことは1997年10月17日の「劣後ローン、優先株、まだ足りぬか金融救済」ですでに指摘した。
 http://www.yorozubp.com//95-97/971017.htm

 まず、企業が市場から資金調達するにはそれなりに経営が安定していることが前提。市場が経営破綻寸前の企業の株式を受け入れるはずがないからである。経 営難に陥った企業が唯一頼れるのが「第三者割当増資」である。大株主や取引先がその企業の存続を望む場合、採算を度外視して増資に応じる仕組みである。

 優先株は、ふつう株主総会での議決権がない代わりに普通株より高い配当をする株式を言う。資金は欲しいが、株主権の行使を嫌がる場合にのみ発行される。 数年前、自己資本比率の国際基準(BIS)達成が困難になったさくら銀行や日本債券信用銀行などが発行した。国民や預金者はもとより、政府も金融業界もま だ「破綻の到来」を実感してはいなかった。さくら銀行は96年10月に1株2000円で7500万株発行した。普通株の配当8.5円に対して優先株の配当 は45円だった。そして、さくら銀行は1500億円を手にした。

 大和銀行は95年7月、1000円で5000万株、総額500億円である。配当は24.75円(普通株4.6-6円)。さくら銀行も大和銀行も優先株の 配当額は普通株の5-6倍。配当利回りはなんと2.5%にもなった。公定歩合が0.5%の時である。優先株の発行は、これくらいの高額配当がなければ機関 投資家が応札しない。これは市場原理である。

 ちなみに、配当原資はさくら銀行の場合で年間33億7500万円の負担増となった。95年3月期の当期利益は244億円でしかない、大和銀行は12億2500万円の負担増で、同当期利益139億円だった。優先株はコストがかかるのである。

 破綻した北海道拓殖銀行の優先株は詐欺に近い。96年9月、500円で5600万株、280億円を調達、配当は普通株2.5円に対して10円だった。 97年3月期には10円配当したが、高配当は1度で終わった。優先株の株主は発言の機会も与えられないまま、北洋銀行への営業譲渡が決まった。現在、普通 株の株価は1円である。280億円を優先株につぎ込んだ生保などは279億4400万円をどぶに捨てた勘定である。北洋銀行に吸収された後、優先株の取り 扱いはどうなるのだろうか。

 日本債券信用銀行は97年7月に320円で3億8600株、総額1235億2000万円を調達した。配当はゼロである。"投資"したのは生損保である。 みんな国民の保険金だ。老後の心配から加入している生命保険の金が、「金融機関の安定」の美名の元でこんなところに"投資"されているのである。こんなば かな話があるだろうか。


1998年01月12日(月)
共同通信社経済部 伴武澄

 香港を代表する週刊誌である「Far Eastern Ecconmic Review」の新年号(Jan/8)は韓国新大統領に就任する金大中氏の特集「Now,Rule」を組んだ。経済欄ではピーター・ランダース記者が「Same Old Story-Japan flip-flops on measures to rescue economy」で、金融破綻をめぐる日本政府の矛盾を鋭く突いている。

 「Same Old Story-Japan」というタイトルは、78歳の宮沢元首相が経営難に陥った金融機関へ の救済策で再び登板、10兆円の金融支援策を打ち出したことを皮肉ったものだ。NTT株など政府保有株を担保にしたこの政策は宮沢氏が蔵相だった1987 年に打ち出した「NTT株式を活用した公共事業」とそっくりなので筆者も笑った経緯がある。以下は記事の要約である。

「1992年、首相だった時、10兆円(当時は800億ドル)の財政支出の投入を明らかにし、これで景気は大丈夫と強い自信を示した。しかし日本経済はい まだに回復していない。回復どころか7年前のバブル経済以降、最悪期に入っている。だが宮沢首相はギブアップしていない。その宮沢元首相が自民党の緊急金 融対策部会に呼ばれ、金融破綻の防止のための"金融改革凍結策"を打ち出した」

「クリスマスイブに発表された自民党の金融支援策は13兆円(1000億ドル)で経営難の金融機関を救済するもので、大蔵省は自民党の圧力でバランスシー トをドレスアップする新たな決算対策(アカウンティング・トリックス)を導入。地方銀行には4月1日からの早期是正措置の1年延期を決めた」

「宮沢氏が首尾一貫しているとすれば、それは痛みが来るのをなるだけ遅くさせようとする考え方だけだ。5年前、雇用を守ることが至上命令だった。今回は不 良金融機関の自己資本をかさ上げするためにお金が使われる。問題は新たなプランが橋本竜太郎首相のビッグバンに矛盾することだ。その矛盾が証券市場を混乱 に陥れ、それでなくとも暗い1998年の経済展望をさらに暗くしている」

「経済的停滞には確固たる政治的主導力が求められるのに、不幸にも橋本政権は二つの政策の間でまた割き状態にある。橋本首相のビッグバンは、まさに山一証 券の倒産で結実したように財務内容の悪い金融機関を破綻させることだった。しかし、宮沢氏は弱い金融機関をつぶれないように支援しようとしている。ビッグ バンはそもそも「官僚の裁量権」を取り上げることだったが、宮沢構想では預金者保護の名のもとに、17兆円の使途を再び大蔵行政の手に委ねることになる」

 次の表は日本政府が現在、陥っているまた割き状態を如実に示している。

ON one handOn the other hand
弱い金融機関を破綻させる
(橋本首相のビッグバン)
13兆円の金融機関救済策
(宮沢構想)
2兆円減税
(12月17日の橋本演説)
緊縮財政
(12月25日閣議決定)
経営内容の悪い銀行は破綻させるべきだ
(12月26日梶山静六発言)
金融機関はもうつぶさない
(榊原英介大蔵省財務官)
KYODO NEWS Deputy Editor 伴 武澄
HAB Reserch 1998年1月112日
 欧米が注目する安いアジア

 フィリピンのBOI(投資委員会)ではナンバー3のアキノ氏(Governer=日本語で何と訳すのか)が休日にも関わらず対応してくれた。アポイントなしです。受け付けで「日本から来たジャーナリストだ」というだけで執務室に通してくれた。

 インタビューの前日、フィリピン政府が発表した経済統計では「1-9月のGNPが6%、GDPは5.2%伸びた」と発表。「投資と個人消費に支えられた結 果、予想外の伸びを維持した」とコメントしていた。24.1%伸びた輸入は6.6%増に抑えられ、半面、輸出も5.5%増にとどまった。

 アキノ氏は「フィリピン経済はタイと違い、パニックにはない」ことを強調したうえで、財政の黒字基調と低いインフレ率(数字は挙げなかった)を背景としたフィリピン経済のファンダメンタルズの良さを再認識してほしいと述べた。

 さらに「アジアの通貨危機の影響を受けていないとは言えないし、経済が安定しているともいわない。しかし、ビル建築は続いている。部品輸入が不可欠な自動 車関連はスローダウンしているが、輸出が中心の電子部品がまだ堅調で、消費はいまのところ非常に強いものがある」と消費の強さをことさら強調した。特に消 費の背景には100億ドル超の海外送金があることを繰り返した。

 アジア通貨の下落以降の投資動向については「最近は、フランスとか英国とか欧州の国のミッションがフィリピンを訪れている。安い投資国として再認識しはじめた証拠だ」と注目すべき発言をした。

 出稼ぎ家庭も保有するドル預金


予備知識もあまりなく、しかも短期間の滞在でフィリピン経済を語るのはおこがましいが、この国の経済はまだ本格的バブル期に到らないうちに通貨危機のあおり を食ったというのが正直な印象だ。先週に報告した通り、フィリピンの一部は、海外送金というそれこそドル経済そのものが存在し、基地跡のスービックやク ラークもまたペソと切り離された経済だということもできる。金持ちはもちろん、出稼ぎをするような家庭にも多くのドル預金口座がある。

 フィリピンの一部の現象で、すべてを語る訳にはいかないが、とにかく人口の5%以上にあたる420万人が海外で働き、毎月せっせと故郷に送金している事実 には注目せざるをえない。この国の民間ドル保有額は、政府による外貨準備以上だといえよう。 香港ドルの強さは、単なるドルペッグ制ではなく、発行する紙幣そのものがドルに担保されているからだ。香港金融庁には発行済み香港ドルと同価値のドルがリ ザーブされている。ドルリンク紙幣の強みは一方で、景気変動に合わせた独自の金利調節を不可能にする デメリットも内在している。

 ところが、フィリピンの場合、国内通貨のペソとは別個に、ドルそのものが国内で流通したり、預金されていす。米国に51番目の州を望んだこともあるフィリ ピンにはペソ経済とドル経済がなんの不思議もなく並立しているのかもしれない。いい、悪いと言っているのではなく現実なのだ。

 2極化するアジア-華僑の経済支配度合いがカギ

 7月2日以降のアジアの通貨危機を振り返ると、ASEAN各国、NIESそれぞれの経済は通貨の下落と株式市場の下げの両面から打撃を受けている。しか し、いまのところIMFの緊急融資を受けたのは、タイとインドネシア、韓国だけだ。なぜ、マレーシアやフィリピン、台湾、シンガポールが極端な外貨不足に なっていないのか。

 もちろん、外貨準備に比較的余裕があったのは事実だが、バブル経済の深刻度が違っていたのだろうか。金融市場の開放度合いが高かったからだろうか。それだ けだったのだろうか。ここで、アジア経済の担い手は誰だったのかを思い出すとひとつの結論に突き当たるような気がする。

 これはまだ推論段階で、拙著「日本がアジアで敗れる日」(文芸春秋社)でも説明したことだが、アジア経済の中心となった華僑ネットワークの存在にカギがあ るような気がした。特に大財閥の総帥には福建系華僑が多いが、自国経済に占める華僑の割合と福建系の割合を検証することが重要ではないか。

 華僑企業は従来から、資産を分散する傾向が強く、利益を国内に貯蓄することなく、主に香港で運用してきており、いまでは欧米への投資も盛ん。華僑資本に とって資産のすべてを国内に置かなかったことが、通貨下落の影響をまともに食らわなかった背景にある。華僑のポートフォリオのあり方がいまのところ壊滅的 な危機を救っているのではないだろうか。

 結論的にいえば、アジアのなかで華僑経済のシェアが高い国ほど被害が小さく、華僑経済がほとんど存在しない韓国がもろに通貨下落の風あたりをまともに食 らっているということだ。シンガポールとマレーシア、そしてフィリピンの経済の中枢を担っているのはほとんどが福建系華僑。台湾は福建省からの移民が国民 の大半を占め、福建省そのものだ。 半面、インドネシアではプルタミナなど政府系の企業やスハルト大統領一族が支配する財閥が経済のかなりの部分を支配しており、タイでも華僑系が牛耳ってい るが、潮州系が多いうえにタイ社会への土着の度合いが強いのが特徴だ。

 もしこの推論が正しければ、ボーダーレス時代に生きる華僑の強みをさらに補強するものになるかもしれない。(異論反論があればぜひ、メール下さい)

 考えてもみて下さい。日本でその日の円ドルの為替レートを正確に言える国民がどれほどいますか。香港普通の商売人は複数の為替レートから金相場まで毎日、頭にインプットされている。そんな国民性が欧米の投機筋に簡単に敗れるとは思えない。

 もはやフィリピンレポートを逸脱した。日本で100億ドルと聞いても1兆円ちょっとだと考えるだろうが、800億ドル程度のGDPのフィリピンで100億ドルの海外送金があるという現実を直視すると、こんな発想がでてくる。

 大体が、アジア好きで訪れる先々で楽しい思いをすると、どうしてもアジア寄りの発想になってしまう失礼をお許し下さい。(了)

KYODO NEWS Deputy Editor 伴 武澄
HAB Reserch 1998年1月10日
 1997年11月の末、フィリピンに3泊4日で出掛けてきた。フィリピンでバナバ茶を栽培している京都府福知山市の松山太氏の案内でマニラ、アンヘレス (クラーク)、オロンガポ(スービック)を回った。肝心のスービックには夕方に着いて、写真も撮れなかった。以下は印象記です。

 米軍基地跡は高級住宅地

 クラークもスービックも延々と続く芝生の中にある。南洋の大きな木々が繁る杜のなかに、基地跡を利用した事務所群と美しい住宅地が点在している。文句のつ けようのない滑走路と港湾に恵まれ、基地内では強力な発電所にバックアップされた電源と、蛇口から飲める水道施設が完備している。
旧将校用のクラブはそのまま、5星クラスのリゾート・ホテルに生まれ変わっている。クラークで泊まったホリディ・インは台湾人多く泊まっていた。ちょうどマニラで世界のライオンズクラブの大会が開かれる直前で、台湾人は夫婦連れでゴルフとカジノを楽しんでいた。

 旧基地内は植民地、つまりコロニアル・ライフの風情が漂っており、一方で米軍が持ち込んだアメリカン・ウエイ・オブ・ライフも楽しめる。マニラの喧騒とは 別世界だ。経済特区では、当然ながら支払いは米ドル。ホリディ・インも料金払いはドルで、残念ながらペソ安を十分に楽しむわけにはいかない。
経団連の外郭団体であるJAIDOが完成させたスービック工業団地を管理している原田事務局長によれば「アジアの都市を転々としてきましたが、スービック が住み心地では群を抜いている」。「アジアで、水道の蛇口から水が飲めるのは日本とスービックだけだ」。南部アメリカをそのままアジアに持ち込んだようで もある。

 特にスービックは、海に巨大なヨットハーバーも併設(これは米軍が残したものか聞き忘れた)、もはや「いうことがない」リゾート型工業団地といっていい。

 スービック開発庁は大統領直轄の省庁で、関税(もちろんゼロ)から警察権にいたるまでその他のフィリピン政府機関とは別組織になっている。投資の許認可も 政府の投資委員会(BOI)とは別の権限です。治外法権というよりも「国家内国家」そのものだ。戦前の北海道が似たような組織だったのではないかと思う。 違うのはスービックがリチャード・ゴードン長官の利権の地であることでしょう。来年の大統領選挙にゴードン氏も出馬を予定していますが、ほとんど勝つ見込 みはないといわれている。

 スービック開発はラモス大統領のの肝入りで始まったため、ラモス政権退陣の後を心配する向きもあるが、どうやらスービックの利権確保が出馬の動機のよう で、最大の投資者であるフェデラル・エクスプレスとエイサーの後ろに米国政府と台湾の国民党があり、大丈夫との印象を受けた。

 ドルショップという名の巨大商店街

旧基地内にはドルショップという名の巨大なショッピングセンターが多くある。ドルショップというから空港の免税店に毛の生えた店舗を想像していたが、現実 のドルショップは全然違う。酒。たばこからポテトチップやマヨネーズといった食品、テレビ、冷蔵庫、スポーツグッズまでなんでも売っている。

 クラークが栄えてきた背景には、このドルショップがある。フィリピン国民はこれまで1カ月に100ドルまでクラーク内での買い物が許されていた。経済特区 のゲートがほとんどフリーパスという状態であるため、「ドルショップでの買い物」を名目に多くの卸売業者がクラークに殺到していた。

 国内にそんなにドルがあるのかという疑問はすぐに解けた。海外で働く420万人のフィリピン人が年間100億ドル以上の外貨を送金してくるのでこの国には 多くのドル紙幣が氾濫している。フィリピンの財政は黒字で、貿易収支は200億ドルの輸出に対して300億ドルの輸入で約100億ドルのマイナスだがが、 海外からの送金が赤字をほぼ埋めるという特殊な構造を持っている。外貨準備があまりなくとも経常収支が均衡する特殊構造を持っている。

 ところが、現実は7月以降のペソ安でこうしたドルショップが次々と廃業している。ここ3年栄えたクラークの経済は沈滞気味だった。(了)

1997年12月22日
共同通信社経済部 伴武澄

 究極の規制緩和の話が毎日新聞12月22日大阪夕刊に出ていた。統合版地域や東京では読めないでしょうから参考までに紹介する。

 自治会が高速船を自ら運航した話。4カ月で6万8500人が利用したというから、年間では約21万人。800円の運賃でかけると1億6800万円。高速船がたった1年で減価償却されるわけです。これまでの運賃って何だったのか考えさせられる。

 瀬戸内海を中心に孤立化していく島の経済が問題となっていますが、こんなことならベンチャーで船会社を始める若者も出てくるのではないでしょうか。
もし行政や運輸省がこの自主運行を止めさせるようなこともあるでしょう。しっかり監視していく必要があるような気がします。

以下は記事全文です。

「瀬戸内海の家島の生活変えた自治会高速船」
  姫路まで1時間が20分に/単身赴任は過去の話

 【毎日新聞12月22日大阪夕刊】兵庫県姫路市の沖合にある家島の自治会が、約1億6000万円の高速船(92人乗り、30ノット)を自前で購入、今夏 から自主運行を始めている。長年の増便要請に応じない在来の船会社に見切りをつけての措置。運輸省は「運行は違法の可能性が強い」との見解を示すなど問題 はあるが、高速船の就航で、従来なら単身赴任を余儀なくされていたサラリーマンが通勤可能になるなど、島人の暮らしは大きく変わった。利用客が半減した在 来の船会社は「このままでは経営が成り立たない」と苦悩をにじませているが、自治会の航路には来春、2隻目の高速船が就航する。
 高速船を就航させたのは、地元自治会の真浦区会(安積隆夫会長、約300人)。

 家島-姫路港は定期旅客船の家島汽船(本社、姫路市)が"独占"。1日5往復の便があるものの、運行時間が1時間近くかかるうえ、姫路発の最終便も午後 6時35分と早いため、町や自治会は長年にわたって増便を要請してきた。しかし、同社は経費の問題などを理由に、受け入れなかった。このため、真浦区会は 所有地の土砂売却費などの積立金で、約1億6000万円の高速船を購入。船長らも雇い入れた。島には高速船用の桟橋も建設した。

 真浦区会は定期航路免許を申請したが、運輸省は「この航路で、複数が定期運行すれば採算面などで問題が生じる」として許可しなかった。このため真浦区会 は年間30日以内の不定期航路なら届け出だけで済むことから、不定期航路として申請、7月から1日6往復の運行を開始。その後は区会役員が順番に代表とな り、個人が運行させる形をとって、30日ごとに不定期航路の届け出を繰り返している。

 高速船は、外洋航路でも運行可能な最新鋭船。家島-姫路間をわずか20分で結び、姫路発の最終便も午後8時半と家島汽船よりの約2時間遅いうえ運賃も 180円安い800円。年間10万人の利用が採算ベースとされるが、乗船率は60-70%と高く、わずか4カ月で6万8500人が利用した。

 高速船の就航に伴い島民の生活も一変。姫路、加古川市周辺への通勤、通学が可能になり、単身赴任や下宿が解消された。逆に島内での宿泊客が減少するなど デメリットはあるものの、主婦らも日帰りで神戸市などへ買い物に行けるようになるなど島民の暮らしが活気づいているという。

 運輸省神戸海運監理部輸送課は「高速船は、実質的に運行ダイヤが決まっているなど、不定期航路とは認められず違法の疑いが濃い。家島汽船との話し合いによる解決を指導している」としている。

 一方、真浦区会は「運輸省や船会社はこれまで、島民の交通手段が船しかないことを、真剣に考えて来なかった。島民のためにも、高速船の運行は今後も続け る」といい、40ノットで走る1億7000万円の高速船を、先月新たに注文した。鍬方志郎・家島町長も「そもそも、規制緩和の時代に1社しか運行を認めな いのがおかしい」と話している。【斉藤貞三郎】


KYODO NEWS Deputy Editor 伴 武澄
HAB Reserch 1997年1月09日
  新年明けましておめでとう。


 日本が「大変な時」を迎えて7年目を迎える。中学に入学した児童ならば、大学に入学するだけの「時」を過ごしたことになる。この「時」をわれわれはどう見 る必要があるのだろうか。「バブル経済」ということばはアジアはもとより、欧米のマスコミにも通用する日本発の「国際的な造語」となった。

 日本経済は7年間、株価や不動産価値の下落の危機にさらされ続け、官僚や評論家は「ここが底値」と言い続けた。そうした大方に楽観論をあざ笑うかのように 地価はとどまることを知らず、下げ続けている。そして金融機関が倒産しはじめて、天下はようやく「まだその下落の過程にある」ことを認識しはじめた。

 日本が「まだ大丈夫」と言っていたころ、欧米のマスコミはバブル経済の病巣をえぐり出す多くの分析記事を書いていたが、日本の政治家も官僚もその一切を黙 殺した。日本がようやく危機感を抱きはじめると逆に欧米勢は「日本経済を過小評価してはならない」とエールを送って来た。

 在日米国商工会議所のグレン・フクシマ会頭は毎日新聞の1月9日の「新年に聞く・語る」で「80年代の終わりごろは日本は世界で一番、強い経済だと過剰評 価しいていたが、今はその逆だ。しかし、いわれているほど深刻とは見ていない。中長期的にみたら景気は回復してまた健全な強い経済になる」と日本経済への 過小評価を戒めている。

 フクシマ氏は元米通商代表部(USTR)の日本担当の代表補代理。かつて日米構造協議(SII)で日本市場の閉鎖性 をこれでもかとたたいたヒルズUSTR代表の懐刀だった。その後、AT&Tに移り現在、AT&T日本法人の副社長。その対日強硬派が「日 本は大丈夫」と言ったとしても、1989年から90年の日米構造協議の取材の最前線に立ち会った身としては素直には受け取れない。逆に「去勢された日本は もはや恐くない」といっているようにしか聞こえない。

 日本の行革や政治について「あまり根本的な改革はないだろう。外から見ていると、日本の指導層や国民に切迫間や危機感がないように見える。変えなければな らないという必要性をあまり感じてないのかもしれない」と客体視する。USTR時代のフクシマ氏はヒルズ女史とともに日本の病巣をえぐり出し続けた。米国 政府全体に「日本を変えてみせる」「変えなければ米国経済が迷惑する」といった切迫感があった。

 日本脅威論が米国内を吹き荒れていた時期でもある。たった9年前である。日本が巨大な貿易黒字を稼いでいただけではない。ソニーがコロンビア・ピクチャー ズを買収し、三菱地所がロックフェラーセンターを取得した。大幅な財政赤字を抱える米国政府が発行する国債の3割、4割を日本の金融機関が購入しいてい た。日本の政治家が「米国経済が弱い原因は教育レベルの低い黒人にある」などと発言してひんしゅくも買った。日本経済には米国をも飲み込む勢いがあった。

 米国側にも相当の危機感があった。民主主義国家として「国家や業界を背景としたカルテル経済」をのさばらせるわけにはいかないという国家的威信を感じた。 だがいまの米国にはそれがない。円ドルの為替レートが1ドル=130円になっても為替レートを騒ぎ立てるのは一部の自動車大手だけである。強い米国にとっ て日本の貿易収支の黒字が増加しようが減少しようが大した問題ではなくなっているのである。

 ジャパン・バッシングの後にやってきたジャパン・パッシングは、たたかれてもたたかれても変わらない日本に対する強烈なメッセージだった。それでも米国は 日本企業の輸出競争力を弱めるべく円高誘導をやめたわけではない。1ドル=100円を上回る円高でも米国は円高を求め、1995年には瞬間的ではあるがつ いに80円の大台を突破した。

 しかし、1995年4月の先進7カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G7)以降、通貨をめぐる環境は一変した。円安に転じた日本円は下落を続けた。ドルから見た日本は2年半前の3分の2の価値でしかない。

 ジャパン・パッシングはまだまだ続くだろう。そして、われわれは1ドル=80円台のジャパン・パッシングと1ドル=130円台のそれとでは大きく意味が違うことを知るべきだろう。(了)


このアーカイブについて

このページには、1998年1月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは1997年11月です。

次のアーカイブは1998年2月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

月別 アーカイブ

ウェブページ