1997年10月アーカイブ

1997年10月17日
KYODO NEWS DEPUTY EDITOR 伴 武澄

日本の金融機関が「史上最強」の時代を謳歌していた1980年代後半、欧米の金融機関は中南米に対する不良債権問題で大規模なリストラを余儀なくされた。 スイス、バーゼルの国際決裁銀行(BIS)は、国際的に営業する金融機関に対して「BIS基準」を設けた。国際的経営を展開する金融機関に対して、経営リ スクを回避するために「総資産に対する自己資本比率を8%以上に保つ」ことを求めた。金融機関の体力を無視した無謀な貸し出しを防ぐのが目的だった。

天に唾した日本の株式含み金融経営


その時、論議が対立したのは、保有株式の含み益を自己資本として認めるかどうかだった。米国の経営では、自社株以外の株式保有という概念はそもそもなく、 含み益が生じるはずはない。株価が下落して含み益がなくなれば、自己資本比率が急速に低下するとの懸念から、当然のことながら反対した。

含み益の自己資本への計上は、日本側が要求した。自信に満ちた日本の金融機関からすれば、「失礼千万。日本の株式市場はそんなに脆弱ではない」と反論し、要求を貫徹した。

結果、何が起きたかは承知の通りである。1989年12月にピークをつ<けた東証ダウは1990年に入って「つるべ落とし」、3万9000円から瞬く間に半減、7年後の現在でも半値のままである。

BIS基準の8%割れが相次いだ1992年、大蔵省は「劣後ローン」の導入という緊急非難措置を編み出した。金融機関に調達した劣後ローンの自己資本への組み入れを許した。金融機関同士で貸し借りしたのでは意味がないから生損保に劣後ローンの引き受けを強要した。

普通、ローンはあくまでの借金だから、どんなことがあっても貸借対照表の「資本の部」に組み入れることはない。資本は万が一、倒産した場合、ちゃらにな る。つまり株式はただの紙切れになるのが、資本主義の鉄則だ。借金と資本金はまったく性格の異なる概念である。だが大蔵省はこの鉄則を無視、「返済順位が 一番最後だから、資本金に近い」という理由で資本に組み入れることを認めた。

1980年代に英国の金融機関が「永久劣後債」を資本に組み入れたことがあった。大蔵省は英国に習ったとしているが、期間が5年間の「劣後ローン」と「永 久劣後債」とでは名前が似ていても性格がまったく違う。永久劣後債は元金を永久に返さない債券だから、ほとんど資本金そのものだが、劣後ローンは3年とか 5年の期限が来たら返済が必要で、その時点で再度資金調達が必要になる可能性が高い。

新たな"出資"を無理強いされた生損保業界も情けない。粒ぞろいの専門家をそろえておきながら、大蔵省の豪腕を受け入れた。劣後ローンは返済順位は最後だが、金利が高い。金融機関にとっても将来のコスト増につながることは承知だったのだろうか。

反則行為を続ける大蔵省


大蔵省は、資本主義の本則からすれば「反則行為」をした。もちろん、当時の大蔵省は1行たりとも金融機関を潰すつもりはなかったし、5年もすれば、株価や地下が上昇して「劣後ローン」の返済もたやすいことと高をくくっていたに違いない。 ところが、大蔵省の目論見はみごとに外れた。株価も地下も回復どころか、下落する一方、いまだに底を売っていない。

「劣後ローン」の返済を控えた金融機関は、膨大なローンの一括返済の恐怖におびえた。ムビュウ性を誇る大蔵省にあってはならないことが起きたのだ。金庫に金がないのだ。

しかし、ここで慌てないの大蔵省たる所以である。再度、大蔵省は頭をひねって「優先株」発行を発案した。欠点は普通株と比べてとんでもなく配当が高いことだが、背に腹は換えられない。次なる「反則行為」である。

配当が高いといっても株価の2%程度。欧米の株式市場では普通の配当である。 日本の株式市場の異常性は、株価配当率がこの10年1%を上回ったことがないことである。欧米で普通のことが日本では異常になる、われわれはそのことにもっと目を光らせる必要があった。

それならば、なぜ普通株で最初から増資しないのかという疑問がわくはずだが、そもそもBIS基準にも達しない金融機関のしかも利回りが1%を切るような金融商品に投資する人がいないだけのことである。だから素人にはなじみのない優先株の登場となった。

大和銀行を皮切りに、さくら銀行、北海道拓殖銀行、日本債券信用銀行などが優先株を発行した。ちなみにさくら銀行の普通株の配当は8.5円で、優先株のそ れは45円(株価は約2000円)である。利回りは約2%。現在の1年ものの定期預金は0.5%前後である。「BIS基準」を守るために、国民が預ける金 利の4倍の金利を支払っている勘定だ。これも単に「BIS基準」がゆえである。これが逆ざやでなくてなんと言おう。もはや、これは経営ではない。

北海道銀行と拓銀の合併は独禁法違反!
金融機関の危機が叫ばれてからすでに5年を経過する。劣後ローンと優先株でもまだ足りない金融機関が出てきた。出てきたというより初めからそうだったに違 いない。金融機関が粉飾決算に近い操作をして株主をごまかしてきたにすぎない。「近い操作」といったのは大蔵省がそれを認めてきたからだ。この極東の異質 の国ではお上が黙認すれば、すべてが正義なのだ。

北海道拓殖銀行の場合は、1997年4月に北海道銀行との合併で危機を乗り切ろうとした。北海道で東京三菱銀行などほかの金融機関の出店はほとんどないか ら、これは本来、独禁法に抵触する行為のはずだ。にもかかわらず、大蔵省は独禁当局に有無をも言わさなかった。公正取引委員会の小粥委員長は元大蔵事務次 官である。

その合併も9月に無期延期が発表された。事実上の白紙撤回である。万事休すであるが、大蔵省は諦めない。北海道拓殖銀行への1500億円の増資を都銀や生 損保に求めているのである。資本金1237億円の銀行に1500億円の増資である。劣後ローンの転換社債への振り替えも要求している。

つぶれる寸前の銀行が発行する株式や転換社債の利回りは相当高くなるはずだ。1500億円を1996年9月に発行した優先株並みの株価(500円)で調達 すれば約3億株となる。現在の発行株数の9億株を加えた12億株に対して同じ優先株並みの配当10円(配当利回り2%)を約束すると、配当原資は120億 円にも上る。法人税を考えると250億円近い経常利益が必要となる。

この超低金利時代でも300億円の経常利益を上げるのが精一杯の銀行にこれでは不良債権の処理どころではなくなる。

500円の発行株価は高く見積もっての話。普通株ですら100円(配当2.5円)程度まで株価が下落しており、1年前の「優先」のメリットは消え失せている。もろもろの周辺事情を考慮すれば到底無理な話だということが分かろう。

投資する側からいっても、金融機関とはいえ、初めから配当のない株式を上場企業が買えるはずもない。株主訴訟の格好の餌食になるだけだからだ。 付言すると日本債券信用銀行は、優先株の配当すら0円である。さくら銀行は45円を22.5円に下げようとしている。出資した企業は配当が高いことを条件 に「協力した」のではなかったのか。


1997年10月13日 KYODO NEWS DEPUTY EDITOR 伴 武澄

 本州の北のエゾ地を「北海道」と呼ぶようになったのはそう昔のことではない。明治以降、正式に日本の版図に加えることになり、新たな名称が必要になっ た。1869年(明治2年)、古来からある南海道、東海道という地域名にならって「北」の「海道」だから「北海道」と呼ぶことに決めた。日本人にとって、 それまではあの広大な地域を総称する呼称がなかったことは驚くに当たらない。

名付けの親は松浦武四郎である。江戸末期にエゾ地の探検家として名を馳せた。明治政府の役人としての最初の仕事が後世に「北海道」という名をのこ したのだから大変な名誉である。武四郎が選定した呼称に「日高見道」「北加伊道」「海北道」などがあったとされるが、このうち「北加伊道」が採用され、 「加伊」(かい)が「海」に代わった。カイとはアイヌが自らの地を呼んだ呼称である。  

古来、「北海道」はエゾ地とか、北州、十州島などと呼ばれていた。旧10国が置かれ、渡島(おしま)、後志(しりべし)、胆振(いぶ り)、石狩、天塩、日高、十勝、釧路、根室、北見の地名はあった。室町時代以降、本州の商人がアイヌとの貿易のため移り住んだが、藩が置かれたのは江戸時 代。ロシア人がエゾ地にやって来て日本に通商を求めるまでの歴史は数行で書くこともできる。あくまで日本人の関心の程度はそんな程度だったはずだ。  

漠然とした概念では日本だったものの、箱館周辺の松前藩の外側は、中国風にいえば「化外の地」だったのである。アイヌが居住する地は征服するには自然が厳しく、江戸時代までの日本人にとって興味の対象であっても損得勘定がはたらく空間ではなかった。  

当時、国境線がさだかでない「化外の地」は世界にいくらでもあった。 極東では樺太や千島列島、中国にとっての台湾も似たようなものであった。アラスカなどはロシア帝国が探検していったん獲得した版図を「化外の地」として米 国に売却した話はだれもが知っていることであろう。いまさら、100年以上も前の話をしても仕方がないかもしれない。しかし、19世紀の帝国主義時代に突 入する以前の世界の国境の概念には現在では考えられないほどの無邪気さがあった。  

話を戻す。明治維新後、政府はエゾ地に新たな呼称を必要とした。新政府が、広大な未開拓地を新行政区に加えたからだ。正式に北海道とされたのは1869年(明治2年)である。  

開拓のための役所を設置しようとしたとき、いい呼称がなかった。とにかく「北海道開拓使庁」という役所がこの年、設置された。そして旧佐賀鍋島藩主の鍋島直正(閑そう)が初代長官に就任した。  
続いて1886年、政府直属の行政機関、北海道庁が置かれた。 

驚くなかれ、北海道には開拓使庁は置かれたものの、実は知事がいなかった。それも戦後、地方自治法が施行されるまで、中央政府の長官が北海道を 監督した。戦前の知事はいまのように選挙で選ばれることなく、政府が任命したから実体はそんなに変わるものではないが、どちらかといえば総督府が置かれた 植民地の台湾や朝鮮と似たような地位に置かれ続けた。1948年、北海道はようやくほかの都府県並みの自治体となった。  

長々と、「化外の地」について述べた。北海道が歴史的に他の日本の地域と違う扱いを受けてきたことを強調しておきたかったからだ。

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